武士の成立って [無断転載禁止]©2ch.net
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貴族武官か富裕武装農民かのどっちなん?
最近は双方の融合とかばっかりじゃん
"どっちもあり"じゃなくて、はっきりして欲しい 他スレで貴族武官はほぼ戦国の荒波の中に消えたと結論してた。
伝承のある家も証明は難しい 意味が解らん
貴族武官が富裕武装農民になったんじゃないの? 貴族武官が富裕武装農民になったとかそんな滅茶苦茶な理解してる奴っているんだな
そもそも貴族てのは五位以上の官僚のことで精々数十人しかいない
その中で武家の祖になったのはごく一部
武士の公家起源説ってのは武士団の棟梁の起源が武芸を家業とする公家にあるって話
>>1
>貴族武官か富裕武装農民かのどっちなん?
どっちも違う
そもそも武官と武士の区別がついてないんだろ ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 終戦直後の混乱がずっと続いていたら、
山口組が日本の治安に責任をもって、今頃は世襲の
武装集団になっていたかもしれん。 武士=馬牧場と農場の経営者=地方の名士
ヤクザ=部落民と在日朝鮮人=下層社会のゴミ
デビッド・カプラン(en:David_Kaplan_(author))とアレック・デュブロ(en:Alec Dubro)の共著になる『ヤクザニッポン的犯罪地下帝国と右翼』(第三書館。原書名は『Yakuza:The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』)には、
「日本の最大広域暴力団・山口組の構成員2万5千人のうち約70%の者が部落出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人」
という記述がある。ただし、原書のみ。邦訳版では削除。加藤久雄・慶應義塾大学教授が、自身の論文の中でこのデータを引用した。 僦馬の党というのは、今でいうところの運送業者。
その馬の扱いになれた集団の中で腕っ節の強いヤンチャな奴が集まって徒党を組んで、
あっちこっちの農場を乗っ取ったのが武士の始まり、
という学説もある。 >>11
>僦馬の党というのは、今でいうところの運送業者。
>その馬の扱いになれた集団の中で腕っ節の強いヤンチャな奴が集まって徒党を組んで、
武士ができる遠因を作った連中ではあるが武士そのものではない
>あっちこっちの農場を乗っ取ったのが武士の始まり
公領や荘園を横領できるほどの実力者はまだおるまい
精々年貢や公事を拒んだり略奪や焼き討ちをする程度だ
>という学説もある。
ない 武士の前身は富裕武装農民である
中央から来た軍事貴族が地方で大土地所有者(富裕武装農民)として武士団を形成していったのであり
その端緒は承平天慶の乱である >>13 海賊は武士とは違うんですか? 農民本業の海賊いないでしょう。 なぜNHKは海賊にしたのか
生まれながらに平家の御曹司として育った清盛は、保元・平治の乱を除けば、生涯を通じて合戦らしい合戦を経験しなかった。
為朝は「清盛などがヘロヘロ矢」とあざ笑っているが(『保元物語』)、確かに一騎打ちでもすれば坂東育ちの義朝にはかなわないだろう。
(『源平合戦と平家物語』上横手雅敬/京大名誉教授) 源満仲の出自は怪しい
秦氏とか犬養氏とか言われてる 貴族武官ではなく、軍事貴族が武士の起源になった。
源氏・平氏だけではなく、藤原氏(主に秀郷流)・橘氏・文屋氏・伴氏
など、複数の元中央貴族が武士化している。 >>14
海賊って西日本の衛府舎人(えいふとねり)のことだろうか
関東では元国司が土着化した富裕武装農民、西日本では衛府舎人が発祥の海賊系豪族が武士の出自ですけど 藤原氏は利仁流や南家も武士化しているね
南家出身の二階堂氏あたりが出世頭だろう >>1
将門公の末裔
この一言で認められる。江戸時代はその事実を認めて良かったが、明治以降はその事実は無視される 鎧兜と刀もって戦争したことある著名な日本人なら
みんな武士ってことでいいだろ
武士も武官も変わらんよ 難しく考えすぎだわ
聖徳太子も武士 天武天皇も武士 田村麻呂も武士 K-1の武蔵も武士
K-1の武蔵って、いつ鎧兜と刀もって戦争したの?
著名じゃない日本人は、鎧兜と刀もって戦争しても、武士じゃないの?
バカは黙ってていいよ。 >>27
中国の王朝では文武百官というように文官と武官に分かれていたが
日本では鎌倉幕府から江戸幕府まで武士が文官仕事と武官仕事をやって
国を治めた だから定義が難しいのである
個人的には朝廷に依拠しない「私的な兵」を総じて武士と呼んでいいと思われる >>28 バカはお前だ 鎧兜をつけて試合会場へ入場したこともあるし
幾多のイベントショーでも甲冑をまとっているんだぞ 無知なくせに吠えるな
なによりもチビ同士で小競り合いしてただけの源平武士なんかと違って
MUSASHIが相手してたのは190〜200センチもあった黒船外国人だったんだぞ
歴史上の誰よりもサムライらしいだろうが! >>29
だから武家の先祖ももとはといえば天皇に仕える中流貴族の出身であり
平安時代以前は朝廷が文官も武官も従えていた
鎌倉時代以降も武家が天皇の家来だったことに違いはない >>31
農民で皇室や摂関家につかえてた脱税者だけどなw >>30
それのどこが戦争なの?
コスプレすると武士なのか。
著名じゃない日本人については答えないね。
バカだから仕方ないな。 >>33 だからよ〜「武士の発生」という概念自体が誤りであってだな
何で平安時代から先の日本の戦争集団だけ「別物」として扱うのか分からん
鎧兜まとって刀握って戦う輩なんかそれこそ大陸行きゃ紀元前5000年前からいたんだぞ
そいつらも一緒くたにまとめると「武士」も同然だろうが
ようは平安時代から戦争集団を「武士」って呼ぶようになっただけだろ 理由までは分からんが
これで疑問は解決しただろう ハイ このスレ終了! >>34
納税拒否者を武士として軍団編成に加えて
警察任務も与えただけのことだろうにw >>27
主武器弓矢だし
全員弱そうだし
ドヤ顔馬鹿レスの次はこれかい→>>30
今月のワースト書き込みW受賞おめでとう >>36 田村麻呂は滅茶苦茶強くて鬼みたいに恐れられたんだぞ 知らんのか
宮本武蔵も弓矢使わなかったけど? 元祖武蔵も武士じゃないわけか 足軽や牢人を武士に入れたらいかんぜよ
宮本武蔵は士官に失敗したから武士じゃない
野武士は >>34
いつ武蔵が刀握って戦ったの?
「著名な日本人」について、何も弁明が無いね。
結局、バカは自分の主張も矛盾だらけだね。 >>29
まあ中国の文官武官もコヴァみたいなウヨが嬉々として妄想してるほど単純ではなく
省や県の上層部では文官も軍務に関与してたし
当然だが武官でも上層部は教養が求められ試験もあった。
李朝の李舜臣もやっぱ試験を受けての武官なんで、水滸伝の魯智真などと同列に考えてはいけない。
まあ、日本で武士・武家というと、上は天皇をもしのぐ文化人だったりするのに、
下はどこまで武士と扱っていいのか(雑兵は武士か?)の問題が常につきまとう。
とりあえず、幕府将軍は皆教養人だったこと、平安時代も源頼政のような文武両道の士が理想とされたことは銘記してよかろう。 実際の血統ははともかく、武士が文化的ルーツを畿内の貴族に求めたのは重視していいと思う。
ちなみに日本で「武士」の文献上の初出は続日本紀とか(J-TEXTSで検索したら2回登場する)。
>>37
田村麻呂も漢の皇族末裔を称する大男だったっていうんだよなあ。
華北は大柄な人が多いというので、まんざら嘘でもないのかも。
>>38
個人的には、誰かに仕えてるか、誰かの主君であってこそ武士ではないかと思う。
チャンバラに登場する浪人なんか武士としては中途半端でないかと。
浪人と言っても、赤松浪人のように、直近まで大名に仕えていたが、主家没落したような人は十分武士なんだろうけどね。 >>41 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)も武士でいいんじゃね?
「皇族に仕える」「自ら甲冑を身につけて戦う」「絶大な戦功を立てる」
すべて完璧にあてはまってんじゃん
俺は>>27からここまでレスしてきたけど 結局「武人」と「武士」も
呼び方が変わっただけで中身は全く一緒
すべての誤解の源は平安時代中期にたまたま「呼び方」が変わったことだったと思う
変わった理由については不明だが 大した問題ではないだろう 大和飛鳥地域を含む高市郡は、別に今来の郡とも呼ばれた。
宝亀三年(七七二)、坂上苅田麻呂が、
高市郡内には朝鮮渡来の人々がみちみちており、
「他姓の者は、十にして一、二」と述べたくらいである。
大和の飛鳥文化がそれらの人々によって推進されたことは、
まぎれもない事実であった。
河内の飛鳥文化もそうである。
(上田正昭・京都大学教授) 武士が何かなら
公家とは何か農民とは何か卒とは何かも、合わせて考えないといけない 平安の前期までは、官人と農民がいたのではないか?
その後、官人と上層農民の一部が武士になり、官人を続けた
人が公家になったのではないか? そもそも武士とか貴族は中国から来た語。
だから日・中で意味の齟齬が生じるのは仕方ないとも言えて(例:天皇は古代中国の神の名)
あまり神経質になっても詮無しとも言える。
貴賤というけど、中国では物価が高いを貴、安いを賤ともいう。
だから原義は貴族=金持ちだろう。
これが時代により意味範囲が狭められても、さほど神経質になることもない。
公家もまた中国から来た語で、小学館『中日辞典』(中国語では日本を略して日とすることが多い)では、
(←→私人)政府。公(おおやけ)。国家・政府機関・企業・公共団体などをさす。
けっこう昔からある熟語で、水滸伝にも登場する。
貴族を定義すると、「世襲特権を持つ社会的エリート、または一代限りでもそれと同等の権利を付与された人」だろう。
そう考えたら、武士もまた貴族の一種と言える。 武士を小学館『中日辞典』で調べると
1.昔、宮廷を守衛する兵士。衛士。
2.勇士。武人。
とある。2.はやや広義で、実際には武官、特に武芸に抜きんでた人ぐらいの意味かと思う。
三国演義にも武士は登場するが、ここでは貴人を警護する武官ほどの意味だろう。
日本では武士が身分・階級になったので、中国と比べてずいぶん意味が広がったとも、武から遠ざかったとも言える。
鎌倉幕府の御家人には文士と呼ばれた人もいて、これは特に文を以て鎌倉殿に仕えた人と思われる。
この時点でも、その文士は武士も兼ねていた可能性がある。
たとえば大江広元は武勇で知られた人でもなく、むしろ文官の側面があったのでないかと思われるが(大江氏自体がもともと学者なんかの氏族)、
広元の子で毛利氏の元祖となった毛利季光は武勇の人だったという(また別の毛利氏もいる)。
だから、必ずしも文の家が文を以て仕えたでもなく、文官武官の境界はあいまいだった。
問注所で重きをなした三善氏はより文官的性格が強かったと思われるが、彼らも武士と見なされている(武士ではなく文士だと言った学者はいないだろう)。
北畠や上杉ももとをたどると京都朝廷の貴族だが、室町時代は武士と言っていいようになってくる。
ちなみに、中国語でも「武家」というが、これは武士なんかではなく、
単に姓が武の一族や、姓が武の人をリーダーとする集団をいう(武家班)。 知っている人は知っているんだよ
日本の天皇?
なかの人は中国の人ではないから、悪く言うと模倣のような話
正真正銘の本物、本家というのは、渡来系の官人 キュウリの葉 葱の華などの写っている写真
凄い話でしょ、家の先祖なのに
テンノウ(天王??)だと言っている人がいたり 鎌倉時代、幕府将軍を武家と呼ぶようになり、そこから意味が拡張して武士全般もいうようになった。
公家も、>>47のような意味では知らず、今いう特定の貴族集団をさすようになったのは室町時代という。
鎌倉幕府の御家人は「鎌倉殿の家人」の原義が示すように、将軍家=武家に仕える人との考え・意識は強かったと思われるので、
武家の意味拡張もけっして変だとは言えまいし、江戸時代や今の用法は踏襲してよかろう。
公家は逆に、意味の狭隘化が起きたと言える。
武家でも朝廷の高位高官はいたので(足利尊氏が大納言とか、源実朝・織田信長・豊臣秀頼が右大臣とか)、
狭い意味、つまり今いう公家は、特定の官職に任じられてた人から武士などを除外したものだろう(完全に除外する必要があるかは別として)。
鎌倉時代以降の武士は何より幕府との関係が重要だから(公家や寺社に仕え、幕府には仕えてなかった武士もいたが)
公家は天皇を中心とする秩序がメインの支配階級としていいかも知れないね。 wikiだけ見てみると
スサノオ、天王(天皇)ということになるけど >>42
武「士」と言っちゃうと、帝王に仕える(仕って字自体がそんな語感だ)人という感が強くなってしまい、
古代の皇族を「武士」というのはちょっと抵抗がある(個人的な意見とは断っておく)。
まあ、幕府首長が武士としても、とても天皇に仕えていた…とは言えない気もするが。
武士という非常に広大な階級の頂点だから、武士っぽくない気もするが、武士に含めていいやっていう気は。
勇士・勇者は帝王ご自身でもいいかーと個人的には思えるので、神武天皇も勇士であり、周の武王も勇士と呼んでいいのかも知れんが、
士はやっぱ社会の頂点にいる帝王よりは、それに仕えるエリートの語感が強いか。
>>43
そこが重要なんだろうな。
中国や朝鮮では武士は特に階級ってこともなく、少なくとも日本みたいに馬鹿でかい社会集団をいうことはなかった。
いわゆる公家が残存したから、武士は武士たり得たのかも。 出家したか、行き別れたりでもした、
親戚か何なのかな、遠い親戚
アニメ ドラゴンクエストの曲を観てみて >>44
まあ昔は近代よりは民族的出自におおらかだったし、あまり血統を重視するのもね。
ジンギスカンに仕えた耶律楚材は遠くさかのぼれば契丹(遼王朝)の貴族。
金王朝に仕えた詩人元好問は北魏貴族の末裔というから先祖は鮮卑人?
Nation-Stateと前近代国家は分けて考えるほうが適切だろう。
その意味で、よく中国史でいう「異民族国家」(王朝が漢族でない)はどうかと思う。
>>45
社会の一身分である以上、ほかの階級と比べないと意味ないもんな。
>>46
武士は朝廷の官職を持つことも多かったんだよな>大臣・納言・国司・衛門尉・兵衛尉。
だから官職だけじゃ公家と武家を截然と分けられない。
武士の出自に関しては、あんたの見解が当たってると思うけど。 歴史スレを読んだはず
スサノヲ自身、テンノウなんだよ
という書き込みばかり
当時の朝鮮半島の辺りに滞在していたか、
住んでいて〜という話 >>49-50
>>54
日本の天皇の語源が中国の天王の可能性もあると思うんだな。
通説では、天皇は古代中国の神で、そこから借用したというんだが。
五胡十六国のころ、北の王朝の君主が「天王」を称したことがある。
これが日本の天皇の直接の語源の可能性もある。
天皇と書いて、中国の神はテンコー、日本の帝王はテンノーと読むのが通例だが、
もともと天王だったなら発音の疑問は氷解する。
日本書紀などの「皇」の字は原資料で「王」だったのを置き換えた可能性が常に存在する。
まあ音だけだったら、大河ドラマ『平清盛』で話題になったオーケだって、
王家の可能性も皇家の可能性もあると思うのだが。
皇子と王子は同じ発音なのだ。 >>56
スサノオ伝承の舞台が朝鮮じゃねーのって説はある。
まあ神話なんで、そっちから借用・変遷した可能性は常にあるわけで、神経質になる必要はなかろうが。
日本書紀でたいへん興味深いのは、朝鮮の記述はけっこう多いくせに、東日本はおとぎ話レベルの断片的な記載しかない。
書記当時の大和朝廷の国家観が反映されてるのかもね。
おそらく、半島より東日本を見下してたろうねw 気づいている人は気づいている
wiki参照 天皇 大元帥法
悪く言うとカルトという感じがする、
どこかで、そういう方向になってしまったとか ウマヤド、トヨトミミという人物がいたでしょ
ほとんど同じだと思う
トヨトミミの生きていた時代、
その当時の考えとは違う
いろいろと、後から結び付け、話を付け加えたり >>59
日本書紀はとても正直で、百済記・百済本記などから引用と細かく書いている。
原資料自体は散逸したが、おそらく百済などにまとまった資料はあったとの証左になってる。
ただまあ、百済の飲尿に偏ってるので、果たしてどこまで信頼できるかの問題はある。
書紀と朝鮮の史書とで、百済王は高句麗王家から分かれたとの記述が一致するのは、百済王家の主張と思われ、
その意味で信頼していいかの疑問は常に残る。
書紀、続日本紀、三国史記などが全部正しいなら、天皇は高句麗王・百済王の子孫になるんだけどね。 俺の推理だが 武官と武士は別物であるかのような誤解が生まれた原因は
「皇族は武力によってではなく 徳行によって日本を統一した」
という神話が平安時代中期に完成したことにあるんじゃないか
もちろん現実にはヤマトタケルのような武官を使って武力で先住民族を支配していったわけであり
徳行による日本支配など成立しないのだが
神話を護持することが大事になると同時に武官は差別され
他の公家たちに「我々とあいつらを一緒にするな」「連中は゛官゛にあらず あれは゛士゛だ」
などといった価値観がぼんやりながら形成されていった
これが「武士誕生」の謎だったんだと思う 以上 貴族が武士化した 農民が武士化した
では元の身分と武士の違いは何か?を考えないといかん
俺の考えでは朝廷の官兵と対を為す存在、つまり武士とは私兵なり
その後は朝廷に採用された武士も出てくるが 根本は私兵だと思われる
>>63
例えば北畠顕家は武官ではあるが武士ではない おかしな話があるんだけど
なぜ列島の先住民が天皇、皇族になるんだろう
ネットなどを見ていると
「雨降って 地固まる」列島が出来上がり、
その後に日本人の誕生、天皇・・・皇族・・・? 誰が作ったのか、わからない、謎のチェーンソーのゲーム
主人公の台詞
「勘違いヤロー」「既に死んでいる」北斗 南斗 北斗の拳?
敵の台詞「渡来人どもめ〜」 どう考えても
大陸 中国 朝鮮コンプレックスとしか思えない ヤマトタケルの年代比定すると卑弥呼より昔になっちゃうから論外だろう。
神武然りで、複数の人が長い時間をかけてやったこと?を一人に大便させてるということだろう(真偽の問題はさておき)。
日本書紀ではえんえん逃げ回ってたように描かれるがw
>>65
北畠顕家は好例かもな。
鎮守府将軍だから武官で、実態としてやったことは武士と違わない…というか並みの武将より強かったのだが(大河ドラマでは弓の名手と描かれた)
やはり公家・公卿・文官の性格が色濃い人でもあった。
武士と公家の境界なんてあってなかったようなものかと思わせる北畠一族。 >>66
天皇に関してはややスレチになるけど、彼らがもともとどこにいた人たちかは永遠の謎。
ただ、古代中国の高貴な人の末裔ではないんだろう。
天皇その人、及び天皇に比較的近くに位置づけられていた皇族または王族・王氏と呼ばれた人は、
武人・武官とはいえても、武士とは言いにくいのではないかと思う。
後醍醐天皇の皇子数名は武官またはそれ相当の仕事をしていたが、武士とは呼べまい。
天皇から分かれた同族は非常に多いけど、源・平氏などは武士も多い。
どこまでが王族と見なされるかは非常にめんどくさい問題だが、それでも基本的に天皇に近い人は武士ではなかろう。
その意味で、三島由紀夫の武士観は外れたものでしかない。 >>69
公家一統政治を目指す武官貴族の北畠
武家政治を目指す武家の棟梁足利
公家と武士の争いだ >>71
そこだけ取り上げても、南朝に属した武士もいたし。
北畠父子と後醍醐とで政治観・武士観が違ったろうけど。 三国志のほうが武官・武士の違いがはっきりしてるな
黄巾の乱・董卓討伐のとき 曹操や袁紹らは武官
劉備・関羽・張飛らは武士(私兵) と位置づけられる
それに対して平安時代の日本の武士のほうが武官との区別が曖昧だ
やっぱり武士という概念そのものが実体のない虚構だと思う >>65 武士は私兵って論説に大いに異論あるな 武士は最初から官軍だったよ
将門・純友の乱、前九年・後三年の役、保元・天治の乱って
朝廷と何ら関係も命令も無い地方のイザコザだったわけか?
だいたい朝廷の禁裏を警護する武士が私兵っておかしいだろ
あっという間に公家たちはは殺されて
金品かっさらわれてドロンされるわ 曹操の父親のときみたいに そこは朝廷を滅ぼせなかった日本の武士の特徴にもつながるが
武士が最初から官軍なら平将門はどうなる?というのは置いても
武士が武官貴族と異なる所は、
例えば源義朝や為朝や平清盛が坂上田村麻呂と異なるところは、
前者の配下の兵たちは朝廷の命令で与えられた兵ではなく
個人的な主従関係を結んだ私兵ということだ 私兵はなかなか難しいな。
武士が一定の私兵を擁していたのは事実だろう(官庫だけで兵力を維持できたか)。
また、その私兵を擁する人を「武士」と呼ぶのはいいとしても(※そういう人全員が武士と言ってるのではない)、
その私兵自体を武士の一環と見なしてよいか、武士とは見なさないかの問題はある。
田村麻呂はさすがに昔過ぎるので除外するが、前九年・後三年合戦(1051〜86だから平安時代中期以降)の
1)源頼義・義家・義光
2)三浦為通、鎌村景正(権五郎)、頼義・義家に従った佐伯氏・陸奥金氏(コンと読む)など
3)安倍一族、清原氏
たぶん1〜2)はわりと武士と見なされてて、3)はあまり武士と呼ばれないと思う。
平安時代の朝廷尺度で「侍」とは、国司にはならないで、そのやや下で貴人を警護する人のこととか。
となると、1)頼義・義家は国司なので「侍」と呼べず、「最も武士らしい」と言えるのは2)となる。
出羽清原氏は鎮守府将軍などやってるので、武士と見なすならば、武士としては上層に属する人たちと言える。
安倍・清原・奥州藤原氏はいずれも姻戚から見てもけっして下郎ではない。
1〜3)は後の時代尺度だと、大名とかその配下の有力家来ぐらいだろう。
となると、武士としてはけっこう上の方になるので、彼らを武士と呼ぶのはいいとしても、
その下に属した郎党などを武士と見なしてよいかが問題になる。 >>73
虚構…はさすがに言い過ぎじゃないかな。
これこそ日本史の特異性「公家の残存」がなかったら、武士は高僧と並ぶ日本国の頂点だったろう。
つまり、天皇とか摂政・関白・大臣…がいなければ(あるいは完全に取って代わったら)、
自動的に幕府が中央政府だから、首長=将軍=日本国主で、その他の武士は幕府か大きい寺社に属したろうから。 >>76
武士は下郎であってはならないともいえないだろう
一領具足は普段は農作業していたが戦の時は甲冑を着てはせ参じた
江戸時代は郷士となったが武士の一部である >>78
まあ姻戚・養子の関係から、奥六郡の安倍氏(国司の下の郡司ぐらいと)、
出羽清原氏(平貞盛流と)、平泉の藤原氏(中央の藤原氏と)は、そんなに卑賤ではないとね。
真偽は永遠に謎だが、どれも中央貴族の末裔を称してた(少なくとも平泉藤原氏は東夷の子孫ではないと俺は思う)。
武士は、上限より下限が難しいと思う。
たとえば、江戸時代でもけっこう武士の身分を持つ農家はいた。
新選組の土方歳三の実家がそれで、同組の小林の源さんの家もそうだったかな?
そういう家は、まあどっちかというと農家なのだろうけど、武士とも言える。
彼らは武士としては軽輩なのだろうけど、では最下層だったかは何ともで、
実際の合戦ではもっと下にも兵員はいたと思われる(戊申の戦いで土方は大将格だったよね)。
ちょっとスレ住人に質問だが、雑兵は武士とは見なさないって総意? 安倍氏は蝦夷の阿弖流為の子孫と自称
さらにその子孫は森友問題でおなじみの現首相になるがww
だから蝦夷を武士と呼ぶかどうかは別次元の問題
江戸時代は兵農分離が徹底されていて
八王子千人同心ですら幕臣にもかかわらず公務以外で帯刀を許されず
公的な人別帖でも百姓待遇だった
しかし織田信長以前は兵農未分離で中央政府が武士と農民の線引きを明確に制度化しなかった
だから武士であり農民であるあいまい層が多く誕生したことは当たり前だ
江戸時代は武士は城下町に集住したが信長以前は農村に土着して田畑を耕す武士が多かった >>80
アテルイの子孫とはいえなかったか 失礼
ただ安倍氏が俘囚とされている史料はあったようだが 甲冑と刀で戦したことのある人間はすべて武士でいいだろう
アレキサンダー大王はマケドニアの武士 カエサルはローマの武士
曹操は三国志の武士 ジンギスカーンはモンゴルの武士
真田弘行は芸能界の武士 トム・クルーズはハリウッドの武士 >>80-81
安倍ちゃんは安倍宗任(頼時の息子で貞任の弟)の末裔だっていうんだよなあ。
皇国史観だと逆賊なのかね?(すごいイヤミ)
秋田安東氏は安倍貞任の末裔←神武天皇に敗れたナガスネヒコの兄(こういうのからして疑わしいw)の末裔を自称…
「当家は皇室より古いのです」とすごい自負をしてたとか。
余談はさておき、奥六郡の安倍氏の先祖は今も諸説紛々で、
遠い昔に奥羽遠征やった安倍氏(当然、畿内から来た)の末裔か、安倍の氏姓をもらった先住者か謎。
出羽清原氏も似たようなもんだが、こっちはよりハッキリと西国豪族の末裔ということになってて、
『陸奥話記』では「清原真人某」と書かれてる。
真人(まひと)は古代のカバネの1つで、天皇から分かれた氏族に与えられた。
天皇から分かれたとする氏族は蘇我・紀・安倍など非常に多いけど、全てが真人じゃないので、特に血統の近さを強調してると言える。
可能性としては安倍氏も清原氏も天皇の同族なので、としたら「独立国家」なんかほど遠い、いわば朝廷の内紛と言うべきものとなる。
坂上田村麻呂は桓武天皇の時代の人なんで、前九年合戦まで250年もあることとなり、アテルイとの血縁は特に考えなくてよいと思う。
平将門はわりと抵抗も異論もなく武士と思われてるけど、これは後の関東武士と将門が同類とどこか暗黙の了解になってるせいだろう。 ほとんどの日本人は、
神武よりも古い家、続いている家だよ 平清盛は太政大臣 重盛や宗盛の内大臣となって
大半の公家よりも高位高官になった
しかしそれでも公家社会では平家は「公家」として認められず
平家は「武士」のままだった
桓武天皇の子孫で、安徳天皇の外祖父の家であっても公家として認められなかった モモタロウだか何だか知らないけど、
お供のサル?のほうが凄い家だという伝説もあったような これも時空設定のようなものだよ
女帝?天皇?がいて・・・トヨトミミ 謎のwikiを読んでみるとわかる
青文字をクリックすると、
とある時代から一気に明治時代、
現代まで飛んだりすることがあるでしょ
超時空 いちいち読んだりしないけどトヨトミミもそう
ググってみるとわかる「平安時」という文字が見えたり 捏造、偽造、作り話なので
「お前の事なんて知らないよ」となるんだよ、会ったこともないとか トヨトミミ
中国から学んだという解説があるでしょ
「叶真道」の話だよ
『聖化 日神 日霊 津』『伊達の桃太郎』 叶真道
最初に現れた存在、造化なので
日本でいうと縄文?先住民(原住民)でなければならないはず 『仙宸』
アイヌのような衣装を着ている、
イラストが出てきたり。
本当に凄い話になってくる。 今の世の中に、
位や上下は関係ないとしても
とある時代になり、または入ってから、
一番下のほうに落とされたのかな
アイヌ? >>75
貴族でない氏族が武士だと思ふ
源平藤橘の流れを汲む貴種が貴族
浮浪の代を挟んだり,はたまた,系図が自称・あやふやだったりするのは貴族ではない武士
清盛や頼朝は貴族だろう。庶流というか本流ではないが
それ以外は都と縁が切れすぎ 実際に「神殺し」のようなことが起きたんだろう
某スレ参照
金の元、金のなる木という書き込みがあったり >>84
安東家は「由緒がある」と言いたいのだと思う。
もっともアンドウって藤原とか安房と関係あるんじゃないの…安西は安房三浦氏だよね(^^A
俺の祖先は昔どこにいたかわからんもの。
>>85
まあ天皇を1つの氏族と見なして、その家が日本国の帝王を占めてるという話だよね。
足利義教のころともなると、皇族が幕府将軍にへーこら媚びていたようにしか思えんが。
擁護しとくと、後小松・後花園は気骨のある天皇だったとはいう。
もっとも、南朝断絶策に後花園天皇の父後崇光院は「恐るべし」と他人事のように書いてて、
皇族がもはや幕政に逆らえなかった現実を語ってる。
更に擁護しとくと、後崇光院はノータッチだったかも知れんが、北朝派の皇族や公家が提言した可能性はあると思う。
でも、決めるのは幕府だから、日本の国主がどなただったかますます浮き彫りになるだけだが。 >>86
そりゃまあ公家の意味にもよるわなあ。
清盛自身は最後まで武を以て任じてた人だろうし、
武士・武家・武門と自己認識してたろうけど(侍は、当時の意味的にちょっとわからん)。
>>96
頼朝ぐらいになると貴族だったというのは同意だが、
そもそも貴族の概念や現在の用法(どんな人を貴族と見なすか)が国によりバラバラすぎる。
ヨーロッパ貴族の尺度なら、足軽大将ぐらいで貴族なんじゃないかあ?
中国の郷紳、朝鮮の両班(これは朝鮮社会全体ではカナーリ高位の人なんで、そのさらに下ぐらいでも貴族だろう)、
旧日本の豪農・豪商、イングランドのジェントリーは貴族と言えなくもなかろう。
太宰治は田舎貴族を自負していた(彼の父は貴族院議員なんで、確かに貴族なんだろうが、実態は田舎の豪農だろう)。
中国史で貴族と言ったら、帝王のおそば近くにおられたような方々のイメージ(郷紳・士大夫は除外してる?)。
だがまあ、北宋ぐらい?〜清代の中国で社会の本当の実力者は郷紳だったというのもあまり疑問視されることでもなく、
皇帝陛下さまですら郷紳を無視して政治はできなかった。
ヨーロッパだと、スペインのCABALLERO(騎士・紳士)は貴族と見なされるか?
なかなかに貴族の定義は難しい。 朝廷はョ朝に武士の乱暴狼藉の停止を催促している
公武と言う言葉にも現れるように
公家と武家は別個の存在だった
足利将軍は意識的に公家様と武家様で
花押を別々に作った >>96 新田義貞も貴族になるね。無位無官だけど。まあ、平氏の祖の高見王も無位無官だからいいか。
だけど、高見王なにして食うてたんやろ? 無位無官で貴族はねぇわ!!
高見王はよう分からんけど,こんな素性のものを祖にしているから清盛も貴族扱いされんとちゃうか? >>102 清和源氏は貞純親王も源経基も官位あったしな。
話はもとに戻すが、義貞が無位無官で正成が官位官職持っていたの? >>101
うーん血統だけでは実は何ともなんだよな(天皇その他古代豪族の末裔を称した連中が多すぎて)
無官(無職w)でも王族は朝廷からいくらか支給はされたという
>>103
鎌倉末の時点で、正成は多聞兵衛を称してたというね。
兵衛尉は幕府御家人がわりと名乗ってたので、楠木氏が御家人ならさほど奇異ではなかろう。
楠木が御家人かはまだ確定してはいないんだろうが、吾妻鏡(頼朝時代)に楠木四郎が登場すること、
高野山の記録で正成?が幕命で湯浅氏と戦ったこと、静岡市に楠木村?郷?があったことなど、可能性はある。
義貞が無位無官といわれるのは、増鏡だとかで単に新田小太郎と書かれたからで、
たとえば幕府の役職を何も持ってなかったかは何ともわからない。
守護(代)・評定衆など偉い役職にはいなかったろうけど。
楠木・新田も、熊谷などより劣位の御家人だったなら、無位無官でもおかしくはなかろう。 王族(皇族よりは広くとらえたいと思う)ゆえに
無位(位階に叙せられない)・無官(誰にも仕えない)だった可能性もないではないと思う。
宇多天皇は源姓をもらって源定省となった時期があったが、
彼が天皇になれたのは生涯を通じて宮仕えしたことがほとんどなかった=ほとんど誰にも仕えてないから、
天皇になるのに好都合だったのかもと岡野友彦は説く(講談社新書『源氏と日本国王』)。
王族には特に何も仕事してない人がけっこういたらしい。
後嵯峨天皇も、天皇になるちょっと前までは親王(宣下を受けないとなれない)ですらなく、公職には就いてなかったと思われ。
高見・高望ぐらいだと、まだ天皇になる可能性がゼロではなかったから無位無官だったのかも
(桓武天皇なんか、親父が天皇になるまで天皇になる見込みゼロだった)。
その子の代には、鎮守府将軍、常陸大掾、上総介などになったというんで、天皇になる可能性が父の代よりずいぶん下がったんだろう。
平将門の新皇もその辺があったのかもね。
天皇制ってそんぐらいおおざっぱじゃないと続かないんじゃなかろうかとも思う。 武士の成立って、やっぱり職能論が一番妥当じゃないのかなぁ
平安末からの朝廷の機能を個々の貴族の家にアウトソーシングしていく流れの中で、
軍事を担うようになった家(=源平等の軍事貴族)と、
その家の軍事力として編成された各地の連中が最初期の「武士」だっていうやつ
実際ただ武装したり武芸に優れているだけでは「武士」では無いという考え方があったというのは史料に残っているし >>105 じゃ、橘諸兄や源高明は働いていたから天皇になる可能性なかったのね?
文屋浄三・大市兄弟とか。 >>106
武士は原点・原初に近づくほど文字どおり武勇にぬきんでたる人と思えなくはない。
でも、某鈴木のいうように弓馬の人だったかまでは何とも。
武士の源流として名のあげられる
平良文(将門の叔父。秩父平氏、三浦・鎌倉氏、千葉氏)
平貞盛(将門の従兄弟。平清盛など伊勢平氏、鹿島平氏)
源頼光(源頼政など摂津源氏)
源頼義(頼光の弟。河内源氏:源頼朝・義経、足利、新田、佐竹、武田、小笠原、加賀美、南部)
源宛・渡辺綱(渡辺・松浦党)
藤原秀郷(小山、結城、佐野、波多野・大友、糟屋)
藤原利仁(斎藤、加藤、富樫)
藤原隆家(御堂関白道長の甥。菊池氏の祖とされる)
などは、武士は発生時点ですでに血統(中央貴族に連なること)が重視されていたことを示している。
後に世に出る楠木(橘氏)、赤松(村上源氏)、周防大内氏(百済の王)も出自は重視していたと言えるだろう。
平安時代の中頃はまだ「武勇の人が武士となっていた」と言えるかも知れないけど、
武士の家が確立され、職権が拡張して以降は「先祖が武士だった人」と堂々めぐりになってしまう。
また鎌倉時代以降の公家にも武芸・武略に秀でた人は出るが(太平記の北畠顕家、千種忠顕など)、彼らはまず武士とは呼ばれない。
公家にも甲冑で足利将軍の陣に従う人はいた。
室町時代の伊勢・陸奥浪岡の北畠なんかも武士と呼んでいいか微妙な所か。 >>107
岡野友彦は前掲書に『大鏡』の以下を引用してる。
陽成天皇が廃位された後の、源融と藤原基経のやりとり
融のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位につかせ給はむ御心ふかくて、
「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」
と言ひ出で給へるを、このおとどこそ、
「皇胤なれど、姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」
と申し出で給へれ。
まあ、↑やりとりが本当にあったかはわからんから、大鏡著者はそう考えたってだけかも知れんが、
新規に氏姓をもらってしまった人は天皇になりにくかったのは本当じゃなかろうかって気はする。
岡野は「源氏は特に天皇に近い」王族のようなもんとまで言うが…そこまで言っていいか俺は疑問。
源高明は実に絶妙な所だなー。
彼の兄弟兼明は源氏になった後で親王になってるもんね。
あ、王家に関するイヤミでは、百済王家は王号を許されたんで、何も白川伯だけが王家ではない。 諸王、王氏という既存の用語があるのに、紛らわしい王族などという言葉を使うな。
それから、前近代には、皇親はあっても、皇族はない。
岡野のあの新書は全体的に眉唾。
融と基経のやりとりは実際には無かったというのが通説。
陽成院は自分に仕候していた定省の践祚を冷ややかに見ていた。
百済王の王は、諸王の王ではない。
伯家は当主が神祇伯在任中のみ王を称していいだけの源氏であって王氏ではない。 土地支配の視点から見れば
荘園領主が公家
荘園を横領しようとするのが武士
という事象が多くみられる
だから荘園領主は鎌倉に「武士」の乱暴狼藉を止めるように催促した
逆の場合はまずない(武士が荘園領主で、公家が荘園を横領すること)
だから武士の本質は脱朝廷なんだよ 武士はただ武官の呼び名が変わっただけなんだよ その張本人たちが平安中期の公家(文官)
当時の中国・宋王朝が徳知主義をとってしばらく間栄えていたので日本の貴族はそれをパクッただけ
「朝廷は武力ではなく徳によって日本を統一したのだ」という伝説を捏造したわけだが
それには武官が邪魔な存在になった 「あいつらは官じゃなく士だ」とな
実際には武官なくしては日本の統一も維持も不可能であり
禁裏の公家たちの生命財産も武官なしでは維持できない
私兵なんかじゃ何時寝首をかかれるか分からないからな
禁裏を警護していた者たちは確実に武官だった
そのジレンマが「武士」というあたかも「武官とは別物の身分の集団が生まれた」
かのような錯覚を後世へ与える結果となった
ちなみに俺は井沢ファンだけど彼の起源説については矛盾が多すぎる 完全に誤り >>112 武士の本質は脱朝廷←それもどうかと思うな
だったら室町幕府が京都に都を置くはずがない
それどころか鎌倉幕府にしたって目上に朝廷を立てていたし
源氏が絶えた後釜の将軍には代々皇族を任命してるじゃないか
本音は「脱朝廷」のつもりでいる組織がこんなことしてたら矛盾もいいところだろ 岡野友彦の講談社新書『源氏と日本国王』はあくまで彼個人の所説
・多々ある賜姓氏族でも源氏は特に天皇に近い(と思われていたのだろう)
・源氏長者が日本国王だった
を説明するため諸々引用・記述してるだけであって、
今谷明先生の「足利義満の皇位簒奪」と同じ個人の私説。
ついでに書くと、岡野の姓と苗字の説明は雑だと思う(苦笑)。
大鏡、増鏡、平家物語、太平記などは「物語」に過ぎず、個々の発言の真偽はさほど問題ではなく、あくまで参考と考えるべきもの。
まあ実録である、朝廷の六国史も似たようなもんで、太古の発言なんかむしろ後世人の所思と考えるべきものなのと同じ。
「こんな語は(使われてい)なかった」論を言い出すと、中世に「皇室」とか「陛下」なんか誰も言ってなかったろうし、
そもそも論で言えば、日本の「天皇」「皇帝」「天子」、日本で使ってた「王」は全部【僭称】であって、
日本の天皇なんか最も高く見積もってもせいぜい「日本国王」止まりなのは中国通なら常識だろう。
前近代に「大日本帝国」とか「日本国皇帝」と書いた外交文書を中国に送ってた証拠がないなら、全く以て僭称であって、ベトナムと変わらん。
まあ百済「王」家は、天皇を皇帝と見なして特別に王号を許すってことだから、その文脈では正当性を持つものだろう。
神祇伯の白川王も、天皇が宗教性を帯びる性質を考えたら、わりと自然なものだったのだろうと思う。 朝廷と幕府の関係はなかなか難しいなー。
黒田俊雄先生の権門体制論の正否はともかく、
幕朝の職務が重複してる所もあって(守護が国司を代行とか。建武期の楠木正成や足利尊氏兄弟は同じ国で国司と守護を兼ねていたか)、
室町幕府なんか朝廷と混ざっちゃってたような所もあったと思われ。
鎌倉時代の有力御家人はけっこう国司をやってたようだ。
幕府の現役執権が相模国司、北条氏が陸奥・越後国司になってたことはよく知られているが、
島津氏が常陸介、大江広元が安芸国司やってたことあるとか、系図レベルでは何とかの国の前司とか多い。
それだけじゃなく、衛門尉になってた御家人は本当に多かったようで、
大江広元嫡流の長井氏(毛利は庶流)は幕末まで朝廷官人であり続けたらしい。
京都を守護する大番役もあったし(鎌倉警固は鎌倉番役なので、京都が先にあったともわかる)。
並び立つ権力とは言えても、脱朝廷とは言えないと思う。
幕府できる前、だから平安時代の武士なんか体制の下で生きてただろう…奥州藤原氏独立国家論も説得力に欠けるよな。 それと、やたらとマイナスイメージの強い平安時代の公家たちだが
連中には連中なりの「平安貴族版ノブリス・オブリージェ」があった
たとえば「俺たちは高貴だからこそ 食べ物で快楽を得てはいかん、
そのために可愛い動物たちを殺して肉を食ってはいかん」という価値観を
本気で堅守し努力していた 動物性たんぱくは魚介類に頼るしかなかった
その「高貴な文化」をそのまま受け継いだのが戦国大名→江戸幕府→町人
日本が獣の肉を食わなくなったのはこのためだろう
ちなみに藤原道長の大好物に蜂蜜で味付けしたチーズケーキのようなものがあったが
これは作るのに手間がかかりすぎて後世にまでは普及しなかった >>116 鎌倉幕府は朝廷から独立したいなんて気は毛頭無かったと見るべきだろう
源頼朝しかり承久の乱での政子しかり 彼らが反発してたのはあくまで上皇であり
「院政」であり天皇に逆らったことなど一度もない
ちなみに弟の義経が官位を授かったのは天皇からではなくて後白河上皇からだった
なまじ天皇を大切にする頼朝だったからこれに腹を立てたんじゃないか
頼朝「オメーっ、隠居した身の分際でいつまで勝手なことやってんだよ!!」てな
つまり本当に嫌いだったのは義経じゃなくて後白河のほうだった
文献にも頼朝は後白河のことを「アイツは朝廷を操る大天狗だ」
とののしったという記録が残ってるらしいし
しかし政治にうとい義経は自分は嫌われてると誤解し「そんな官位すぐに返上してこい」
という頼朝の命令に従わなかった ここから兄弟の亀裂が深まっていったのではないか? 頼朝は後白河法皇が死ぬほど嫌いだったんだろう
祖父が父の手で処刑されたときも命令したのは天皇時代の後白河だったし
父を追い詰め破滅させ 自分が二十年間も島流しの刑になったのも後白河のせい
あれだけ清盛びいきだったくせに 平家が滅んだとたん源氏になびき
義経を取り込もうと隠居の身にもかかわらず天皇を無視して官位を授けた 公家がマイナスイメージ持たされたとしたら(いや、今でも公家化=ダメ人間だから確実にあったろう)
・新しい支配者たる武士に敗れた(中国でいうと夏・殷のイメージ?)
・日本人の美意識が変わったのに、旧態をとどめた(お歯黒…は別に公家だけじゃないんだが)
武士と対比されて負け犬、のくせにプライドは高いということで、
庶民からもやっかみを持たれたということかも知れない。
でも、これこそ右翼が大喜びしそうだが、完全に武士に屈服していたであろう鎌倉時代の御門も治者道徳は強く持っていた。
天下が巧く治まらねば自分に徳が欠けていると考えた花園院(いや他の公家もそうだったかも知れんが、天皇はよく知られてる)。
後醍醐も意外とまじめな政治姿勢だったことは勅撰和歌集で察せられる。
まあ、今川義元の母は公家、武田信玄の三条夫人も公家(所生の義信は優秀だったという)、
足利将軍家は公家との婚姻が多かったのに武芸に秀でていたり、
何より武勇に秀でた足利一門をすら脅かした北畠顕家(彼が教養人だったことも有名)、
公家を見下した所で別に武士を持ち上げることにならないんだが。 >>114
武士は朝廷の言いなりにならないとして幕府ができた
じゃあ天皇を滅ぼせばいいじゃないかというかもしれないが
それはできなかった
天皇の権威を全否定は出来なかった
この辺りが矛盾だな
あの高師直でさえ、天皇は金か木で作れと放言はしていたが
ちゃんと朝廷の官位を受領し、天皇が任命した征夷大将軍の権威を認めていた 高師直の「生きた天皇など流刑にしてしまえ」も太平記の発言に過ぎず
おそらく彼の立場上実際にはそんなこと言えなかったろうと思うけどね。
高一族自体も、天武天皇・長屋王の末裔の高階氏、または足利の支族すなわち清和源氏だ。
天皇たち公家の政治権威が最も低迷してた江戸時代でも、
天皇は2万石(のち3万石→10万石と加増)、摂関家は各家が数千石、その下でも数百石をもらってて(無論、実収入と支出の問題はあれど)、
武士でも、小藩の家老渡辺崋山は300石、会津藩筆頭家老西郷家でも1,500石、吉良上野介が3,000石(加増で+1,000石)、小栗上野介忠順だって旗本3,000石…
だから、公家は支配階級であり続けた。
庶民とは比較にならない。
公武と言っても、支配階級の内部で栄枯盛衰があっただけ。
平安時代の武士がまだまだ天皇たち最上位の支配階級に及ばなかったとしても、
国司だったり、社会の上層の人たちではあった。 >>122 なんで会津23万石の筆頭家老西郷家で1500石なのに播州赤穂5万3000石の城代家老大石内蔵助が同額なの? 武士=呼び名の変わった武官、なんだからあくまで朝廷を支える柱であり
独立だのといった話とは何の関係もない ましてや朝廷を滅ぼすだなんてありえない
すべての元凶は後白河法皇にあった だだそれだけ
この男の都合に親子三代に渡って運命を翻弄された頼朝は
後白河個人が許せなかったのであって朝廷そのものへの叛意は微塵もない >>123
その辺は藩の成り立ちによるんじゃねえの?
前田藩なんかけっこう大身の家来がいた。
浅野家はもともと濃尾の武士で(浅野が武士なら、姻戚の豊臣秀吉も武士出身の可能性が高いと思うのだが)
大石内蔵助義雄は鎌倉幕府御家人下野大掾小山氏(鎌倉時代に播磨守護だった時がある)の末裔という。
大石家がもともと名門なら、藩総石高のわりに大石が大身でも不思議じゃなかろう。
会津松平家はもともと小藩だったから、1,000石ももらえば大出世だったとは思われ。 >>124
武士は公家を領主とする荘園を横領していったという社会構造がある
ただの武官貴族=武士ではない >>122
清和源氏の土岐頼遠が光厳上皇の牛車に出くわし
「院というか。犬というか。犬ならば射ておけ」
と上皇の乗った牛車を射る狼藉を冒してるし
当時の武家たちに天皇=崇高な主君という意識はなかったと思うがね
土岐頼遠だって足利尊氏には間違ってもそんなことしないわけだから 南北朝のころは特に公家に反発する武士が目立ったんでないかと思う >>125 まあ、上杉景勝の会津は120万石だから直江兼続が30万石貰ってもおかしくないね。
それこそ直江の家臣で1万石もらってるようなのがいてもおかしくないね。 日本は魏晋南北朝のパクリ
魏晋南北朝の律令社会にあった皇帝、名門貴族、下級武官の三竦みが日本の政治 藩主の家が土豪クラスからの成り上がりで周辺の土豪クラスがその家臣団だったような藩は大抵大身の家老家がいくつかあるね
守護代やそのしたの郡奉行クラスだと譜代の手下ばかりなんで大身の家臣はほとんどいない >>127
出自が高貴な連中だと、近世近代のウヨのようには天皇を神聖視してなかったかもね。
源氏というのは平安時代以降に天王から分かれた同族だし。
平将門だって桓武天皇四代の孫だから、天皇になってもおかしくない程度には近い。
継体天皇は応神天皇五代の孫と称した。 ちなみにお相撲さんの貴景勝は貴乃花親方(貴花田)が上杉景勝のファンだから
これ豆な(*^▽^*) 元前頭11枚目の景虎は1969年1月よりNHKにて放送された大河ドラマ『天と地と』の主人公であった上杉謙信の出家(改姓)前の名・長尾景虎に因んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E8%99%8E%E5%92%8C%E5%BD%A6 >>132 平将門が天皇で藤原秀郷が関白。関八州国。 軍師 「北朝鮮軍のミサイルが全弾発射されたら
推定韓国人156万人が死亡すると「軍事専門家たち」が予測している!」
「ノドン・ミサイル」が「300発」が配備!「射程距離1300km!」
「ノドンミサイル」は、同時に50発発射できる!!
日本全域がねらわれている!!
「大陸間弾道ミサイルKNー09」 射程距離300km!!
韓国全土がねらわれている!!韓国全土が射程圏内!!
「専門家の予測」では、北朝鮮の「砲撃」と「ミサイル攻撃」で、
「韓国人156万人」が死亡すると予測している!
安倍総理
「北朝鮮のミサイルは、「サリン」を弾頭につけて、
着弾させる能力をすでに保有している!!」(総理の発言!!)
◎原子力発電所を今すぐ停止して下さい!(センダイ・ゲンカイ原発)
◎「ケイタイ」や「スマート・フォン」が、日本で、なにかおこった場合、
けたたましく鳴るでしょう(アラート・システム)!!
「テレビの情報」を確認して、安全な場所に避難しましょう!!
◎「ケイタイ」や「スマートフォン」は、ベッドの近くに置きましょう!!
〇食料を「3日分」リュックに備蓄しておいて下さい!!
◎ガラスの近くには寝ないで下さい!(ガラスの破片はキケン!)
軍師 >>81
>ただ安倍氏が俘囚とされている史料・・・・・・・・・・
安倍頼良の出自を蝦夷で俘囚としているのは、何という史料なのですか? 将門から武士と呼ばれるようになったのは この時代から武官が差別され始めたからだろう
朝廷を帝国から皇国へと変質させていくために必要なことだったかも知れない >>140 そのへんで活躍した 藤原忠文 小野好古 秀郷 貞盛 みんな昇進しているよ。
橘遠保は除く。 >>141 そうらしいね 歴史テレビ番組で見た ところで
なぜ日本の歴代武士政権は朝廷を滅ぼして自分が名実ともにトップの地位に就かなかったのか?
<↑というよくありがちな疑問を海外に置き換えてみた↓>
なぜ中性〜近世のヨーロッパ諸王国はローマ教皇を滅ぼして自分たちがその地位に就かなかったのか?
こう考えると分かりやすくなると思うのが、どうだろう 確かに天皇とローマ教皇を同列に置く論が散見されるが
ローマ教皇はキリスト教カトリックの宗教指導者が本質だが、
天皇はそもそも日本を統治していた政治家であり軍人という本質がメインであった
中国の皇帝からは古代の天皇は安東大将軍 倭国王に任命されるぐらいだ
むしろローマ教皇に近いのは日本史では
寺社の旧家が近いかもしれない 古代エジプトのファラオも宗教的性格と政治的性格の両方を持っていた 武士政権も欧州の諸王国も「権力の正当性」が必要であることに違いはない
まして武士政権の「武士」たちはもともとは「武官」であり朝廷の重鎮
なおさら欧州諸王国よりも簒奪の意志は抱かないだろう
ただ「俺たちも官なんだから、それにふさわしい待遇を保障してもらわないと困る」
という武士たちの願いが 鎌倉幕府という文官たちとの権力の住み分けをする手段に至った
ということだったのだろう 模倣は模倣だよ
悪く言うと、世間ではパクリというらしい お前の家と結婚していないだろ
という話
むか〜し、古代にあった家の話だと思う、
氏姓? >>148
キリスト教はキリストそのものを拝む
だけど日本の神道はもともと山を拝んだり川を拝んだりアミニズムに近い
明治時代に天皇=神道の親玉になって天皇を拝むようになったけど
もともと天皇も江戸時代までは仏教に帰依して釈迦を拝んでたりしたし
天皇を拝むのが神道でもないしね 朝廷がオオキミ(大王)だった時代は軍事力による支配 それが平安時代に
帝王の座を捨てて教皇となったことで軍事力が邪魔になり当然武官も遠ざけることとなった
律令制度が衰退し荘園が生まれた理由も中央の権限が縮小したためだろう
ただ武官も兵も飯を食っていかなきゃならないからな
こうして官であって官でない「武士」が誕生した >>150 武官とはいえ近衛大中少将とか衛門・兵衛督とか兵部卿とかは影響力を保持しただろう。 帝国が軍事力支配から徳治支配へとシフトし皇国化する現象は何も日本の朝廷に限ったことじゃない
ローマ帝国はローマ教国へ変化し軍事力はヨーロッパ諸侯へ払い下げたし
後漢中華帝国も皇帝は天子と呼び名が変わり、同じく各地の太守が軍閥として独立したし
そして日本では朝廷が教会化し軍事・政治は武官(武士)政権が担うが将軍の任命権は朝廷に委ねる
皇国の財政はわずかな直轄領のほかは各国からの寄進に頼るようになり禁裏の警護も委託する というか、天皇と比較すべきはまず中華の帝王、
あと無論、王が神とされた、一神教がメインになってない国々…だから朝鮮やベトナム・タイなどの王だと思うのだが、
何か知らんがヨーロッパと比較したがる人が多いよな。
どうしても日本ではヨーロッパ・北米・中国・朝鮮に歴史的関心が偏るのだろうが、ヨーロッパなんか日本とすごく遠い≒似てない社会だと思うんだが。
一神教では帝王とて人に過ぎないから、日本がキリシタンに制圧されてたら、天皇の神性も削ぎ落されておったろうな。
もっとも、ヨーロッパの王や、イスラム圏のスルタンは神さまっぽさも引きずっているが。
あと、「カノッサの屈辱」で知られるように、ヨーロッパの皇帝はそんなにはすごくもない感じ。
皇帝と言っても王とあまり違わず、オーストリアの皇帝はボヘミアやハンガリーの王も兼ねていた。
いや、「天皇はエンペラーだからローマ法王より偉い」なんて馬鹿げたこと書くねらーが散見するもんでね。
屁理屈レベルの話になるが、ヨーロッパの文脈で皇帝とはローマ帝国の元首なんで、
東ローマ帝国の皇帝が一番正当で、次点でオーストリアとロシアの皇帝も正当ということになって、
考えようによってはオスマントルコのスルタンこそ最も正当な皇帝とも。
ナポレオンはまだしも、プロイセンの皇帝はさすがに正当性に疑問が。
あと、言語的理由もあって、ブルガリア王を皇帝、国を帝国と呼ぶことも(帝国も王国も同じ語なので)。
もっとも、ヨーロッパで皇帝が王より偉いって感があったのは古代だけじゃなかろうか(それも多分に名目的で)。 埴輪の兵士が装備してるような甲冑から武者鎧へと急激に変化したのは不思議だな
戦乱の時代に入ったから武具が発展・進化した、のではなくてむしろ平和な時代になってからだものな
しかもあの形のまま江戸時代中期まで継承され今でも五月人形や催し物として残されてる >>153
ヨーロッパ史に詳しくないので突っ込んでほしくはないのだが、欧州と日本は社会発展史からみて類似性・共時性があると思うけどね。
上辺だけかもしれんが荘園制とか近世の絶対王政とか、職業的価値観とか。もちろん全く異質なところもある。
中国・朝鮮は漢字文化圏という以外は日本社会とは全く別の異質社会だと思うけどね。 156補足
>>153
言い忘れたけど天皇と比べるのはローマ教皇ではなく中華皇帝というのは同意。
小林ばちのりが「天皇は祭祀王」とかアホ桜満開させているがそれは大間違い。天皇の本質は政治王だ。
誰かも書いているがローマ教皇に比肩するのは宗教貴族、たとえば千家家や大谷家なんだろうね。格は落ちるけど。
>>145
武家の在りようが変わったのは寿永のの宣旨だろうね。あそこで武家(政権)は朝廷を廃止するのではなく、共存路線を選択した。
将門や上総広常の政治路線はこれで消滅。逆に言うと天皇は武家から「ローマ教皇待遇」としてその存在を許されることになった。
後鳥羽院や後醍醐天皇のように「ローマ皇帝」を目指す奴は武家にとっては島流しの対象となる。
こういう理解を俺はしているのだがどうだろうか? 古代文明の世界では、王がもちろん政治やるのだが、祭祀もやってたことが多い。
エジプト、中国は有名だが、アメリカ大陸の帝王もそんなことやってた。
そう考えたら、チベットのラマ政治とか我が日本の道鏡も、けっして変ではない。
むしろ、ローマ法王に擬せられるのはダライラマとか比叡山延暦寺・奈良興福寺じゃなかろうか。
世襲王家と宗教貴族の差とも(ただし、日本の大寺院の最高責任者はわりと貴族の子だったりしたが)。
昔からよく日欧の封建制が比較されるのは、権力の地方への分散を重視してのことだろうと思う。
ただし、帝王の性質を見たら、天皇は明らかにアジア的な君主(いや、アジアだって西半分はイスラムだけど)。
また、天皇…どころか武士も宗教家的性格を持ってたと言っても(鎌倉幕府の将軍が鶴岡八幡宮で行事をやってたのも、藩祖が神社で祭られていたりも、それだろう)、
キリスト・イスラム国家と比較できるもんではないと思う。
天皇にせよ中華帝王にせよ、別に彼らが突出した存在ではなく、古代豪族はたいてい祖先や氏神を拝んでて、多神教の文脈で「帝王は神だ」って話なので。
だからやっぱり日欧は異質な点が目立つ社会かなーとは。 日本にせよ中国にせよ朝鮮にせよ、おそらくは複雑=雑多なルーツで形成されてった国であり文化で、
だから似たような所と似てない所があるのだろう。
たとえば、高句麗と百済は北方ルーツを主張し(というか百済王家が高句麗王家から分かれたと言ってるのだが―高句麗サイドはどう思っていたやら>広開土王碑文)
おそらく両王家は父系が強かったろうと思うが、新羅には女王がいた。
この点だけ見ると、新羅はやや日本寄りと言える。
これなんか、おそらく半島の人・文化のルーツが一元的ではなかったことを示すんだろう。
中国は古くから父系が強かったらしく、周・殷の王は皆父系でつながってるとされている。
中国(式)の氏姓(中国ではこの両者は似たようなもんで、日本の古代史でいうカバネみたいなもんではない)が父系相承なのは周王朝に由来すると思われる。
↑で新羅王家の男女双系の可能性に触れたが、一方で新羅の王位は金・朴・昔の三氏が交代でついていたといい、
これなんかは中国の影響で父系が強くなってから制度化された可能性も示してる(そもそも百済も新羅も、建国神話から数百年は歴史がわからない)。
天皇は父系で継ぐものとされているが、持統天皇などは夫婦間相続の可能性も無くはない。
邪馬台国の王位は卑弥呼→姪と継がれたが、もし「邪馬台国=大和朝廷」ならば、この点で矛盾が生じる(天皇は父系とされるから)。
邪馬台国が大和朝廷と別の政権・国なら別にいいんだけど(手塚治虫の火の鳥は、天皇=騎馬民族説を取り、邪馬台国は天皇に滅ぼされたとする)。
そもそも天皇が父系相続になってったのも中国の影響が考えられる(※一般日本人レベルではそこまで父系偏重ではない。父系尊重の度は武士>庶民か?ならば天皇の影響の可能性)。
だから「日本は大陸と異質の文明だー」ってのも慎重な検証を要すると思うがね。 >>159
源為義は摂関家に仕えていた。
平将門も若いころは藤原忠平に仕えていたという。
お寺に仕える寺侍というのもいた。
奈良興福寺=春日大社(昔は一体化してた)に仕えていた武士も多い。
筒井・越智なんかがそれで、柳生氏ももともとは興福寺か春日大社に仕えてた可能性が高い。
だから、寺社の軍事力=僧兵だったわけでもなく、そこに仕える武士がいた。
侍とは、平安時代に貴人の警護をした六位ぐらいの人を指したというから、もともとけっこう偉い人だった。
武士、武家、侍、もののふは、どれも語源、使われ始めたころの意味が異なる。
武士…日本での初出は続日本紀だが、意味は文官・文士に対置されるものと思われ。
武家…鎌倉幕府将軍家
侍…上述。ただ、文字どおり侍う人のことだから、↑のように意味が狭隘化するのは使用開始後しばらく時間がたってからだろう。
もののふ…古代の物部氏が転じたというんだが、むしろ逆に軍事を司るから物部と呼ばれたのかも。
いずれにせよ、あらゆる意味で野球選手ごときをサムライと呼んでは過去の武士たちに失礼だと思う。
敗戦後に自害してくれるならともかく( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ スレ主旨に戻って、軍事としては、
1、律令時代の軍団
2、平安初期の国府・国衙における軍兵、指揮者は国司・受領
3、平将門や藤原秀郷、郡司・殷富の百姓などの私兵
4、下向井先生理論の傭兵集団=俘囚(エゾ、エミシ)
5、軍事貴族(?)の阿倍比羅夫、坂上田村麻呂、大伴氏や紀氏(エゾ征討時代)
こんなんが、時系列無視で挙げられるが、ガラガラポンやって、源義家時代をみると、
武士の家系やら軍事組織やらが固まってきてピラミッド型の仕組みになってきた。
武士=開発領主だとか、貴種下向、摂関家への勤務等々複雑に重層的に相まって
日本独自の武士が生まれてきた。僧兵や都の警察=検非違使の関係もあるだろう。
定説はこれからだね。楽しみにしている。 >>150
それ、全然理解が違うだろw
ちゃんと高校出てるのか? >>163 藤原純友の武力はどうなの? それと藤原利仁も関東土着の武人と趣が変わる。
関東の国司を歴任したくせに関東に土着せず越前を本拠としている。 平安時代に律令制度が崩壊した、というのは誤りで、実は朝廷自らが放棄しただけ
民に負担を強いる律令制度はに覇王時代の朝廷が日本を統一するためには止むを得なかったが
民の怨嗟の声・アテルイを騙し討ちにした件など統一と引き換えに手を穢しすぎた朝廷が
次に取るべき道は「朝廷の教会化・ローマ教皇化」しかなかった
当時文治政策をとって繁栄していた宋(中国)もお手本となっただろう
平安中期以降の朝廷・公家たちに美食を禁じ質素な食事を潔しとする
「平安貴族版・ノブリス・オブリージェ」が誕生した
事実、衣装・平仮名・文学などは今でも日本の伝統文化として重要だが
料理に関しては ほとんど残っていない 彼らは彼らなりに努力はしていた
収入はわずかな自治領と有力貴族からの寄進に頼るようになり この形式が現代まで続くこととなる
これが日本の朝廷・皇室のスタイル 貴族も天皇家もガンガン荘園を作ってるんですが、それは… >>166
君は一体 どこの惑星の歴史を語っているのかね? ケプラー第3惑星の歴史か? 藤原道長が美食と暴飲のため糖尿病にかかっていたことも知らんようだ >>167
荘園を作ると荘園を横取りする奴から守らなきゃいかんし、
荘園のアガリは傭兵雇うには十分の収入になる
こうして私兵ができてサムライ化したと考えるのが普通だよなw
上皇や法皇にも私兵がいて、そいつらの収入源も荘園からのアガリ >>165
藤原純友は土着だろう?
藤原北家の出自は多分詐称
船を使ってたのが特殊だが、瀬戸内は交易路なので、
勢力作るほどの収入は見込める >>169 美食は大してやっていない むしろそのほうが長生きしただろう
藤原道長は食を楽しめないストレスの反動からか
糖度の高い酒の飲みすぎとチーズケーキの食べすぎで早死にした 藤原保忠(890〜936) 上級貴族
近衛大将だったときの話。馬に不馴れなため落馬し冠を落とし恥をかいた。
(古事談)
清原元輔(908〜990) 中級貴族、三十六歌仙の一人
賀茂祭りの行列では落馬し、冠が飛んで禿頭をさらけ出した。
しかし泰然自若として、「笑ってはいけない」と説いてまわったので、見物人たちは爆笑した。
(今昔物語集、宇治拾遺物語)
藤原信頼(1133〜1160) 上級貴族
乗馬に不慣れで 落馬し、配下の義朝に「日本一の不覚人」と罵られた。
(愚管抄、平治物語) >>172
藤原道長の兄たちは30〜40代で亡くなっているし
(だから五男坊だった道長に政権が回ってきた)
62歳まで生きて孫が天皇になるのを見れた道長は当時としてはまあまあ長生き 1300年前、新羅から天皇がやってきて身分制度を作った
天皇、お寺、神社、武士、農奴
日本の土着民は当然、農奴なわけで
従って日本の歴史に日本の土着民は登場しない
時代劇に出てくる、こ汚い農民が日本の土着民だ
侍に首をスパスパ切られて
家畜やペットのように品種改良されて土着民は従順な性格になった
それを民度が高いんだぜと自慢しているバカ
70年前のGHQの農地改革でようやく自分の田畑を持ててよかった
この身分制度は見えなくなっただけで未だにある
その一端が露呈したのが森友問題だ
あれは同和優遇であり、同和とは天皇種族のことだ
官僚や政治家は同和だらけ
そして気になるのは、彼ら渡来人である上級国民が日本を作った日本人であって
我々を日本人と思ってない感じだな
昔は我々を民草と呼んでいたようだが、日本会議あたりではジャップと呼んでるぽい >>171 でも配下の藤原三辰は山城掾だったんだろう。 オレは単なる歴史好きで専門家じゃないから学説を述べるだけに過ぎないが、
まあ聞いてくれ。
何十年も前、石母田正氏著「中世的世界の形成」を読んだ。理解できたとは思わないが、
(武士になれなかったが故に没落した)長者伝説に武士の成立の鍵をぼんやり感じていた。
少し前、図書館で借りた高橋昌明氏の著書「武士の成立武士像の創出」を読んだが、
なんとなく武芸と理解しただけだった。
最近、下向井龍彦氏著の日本の歴史07「武士の成長と院政」を読んで、ピンときた。
国衙の軍事組織だと。私兵でもあり官兵にもなる軍事訓練を受けた農民とそれを丸抱えする
地元有力者の集合体だと。
wikiを見ると3つの学説があるじゃないか。
どんぴしゃの1)古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)
2)職能に由来するという説(職能論)
3)律令制下での国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)
上記3冊を読んでみてくれ。イメージが大きくわきあがり強固なものに感じると思う。
地方在住だが近くの国府跡、無名ではあるが○△党という武士団の存在で一層そう感じた。
本の紹介しかできないが、いい刺激になる。ここでは常識で何言ってんだとなるだろうが。気にしない。
以上だ。 >>175
いったいどんな勉強をしたら そんな捻じ曲がった歴史観になるんだい?
それを言ったらスターリン独裁にビビって逆らえなかった2億人のロシア人のほうがよほどチキンだろうが
逆らっても従ってもどうせ死刑なら俺だったら逆らうぜ それができなかったのがチキンロシア人
統一までに落とした民心を回復させようと必死になったから朝廷は帝国を捨て教国になったんだよ
ただその過程で文官だけが残り武官への処遇が不十分で曖昧なものとなってしまった
あぶれ者となった武官はやがて武士となやった そういうこと 逆らいまくったから赤軍大粛清で佐官以上の8割が処刑なんて滅茶苦茶な事態に陥ったんだが
むしろゲシュタポやGPUが目を光らして数百万の人々が収容所に送られるなんてこともなかったのに
大戦中やGHQ占領中一回もストすら起こらなかった日本のほうが異常
マッカーサー元帥も日本人は支配者に対しては奴隷のようにへつらうと称している >>180
そんなの大戦中やGHQ占領中の日本にスターリン級の独裁者が居なかったからだろ
何も自国の歴史に誇りを持て、なんて言うつもりはさらさら無い
むしろたとえ自国史でも事実なら どんなに恥ずべきことでもどんどん暴け、
と言いたい 嘘捏造が許せないだけ 大戦中に反戦派やGHQ占領中に反米派による暴動やストが何で起こらなかったの?
ドイツでは全部起きてるけどね 日本人はアメリカからいっぱい配給してもらったからだろ
ドイツ人はソ連から何もしてもらってない <古代〜中世ヨーロッパ> ローマ帝国⇒ローマ教皇+諸侯騎士政権
<古代〜中世日本> 大和政権⇒朝廷+統一武士政権
結局原理的には一緒 >>183
ドイツもアメリカから物資援助や借款を多数受けてるわけだがそんなことも知らんのか
違いはマッカーサーの元には「マッカーサー陛下を新しい天皇」という手紙や「妾になりたい」と希望する便りが数百通も届いたのに対し
ドイツ人はドワイト・D・アイゼンハワーに決し付和雷同するようなものは送らなかったという事だ >>175 >>185 ドイツ人だってナチスヒトラーのすべてをを完全否定する態度を続けてたじゃないか
なぜ日本人だけをチャンバラサムライが暴れまわるだけの誇りの無い愚劣な人種にしたがる? >>181
日本は忖度の文化だからw
今風に言うと「空気読む」ってやち 滝口、北面の武士を務めた源平は律令で保護された名門貴族から転落して、地方で力を手に入れた律令のあぶれ者。 @在地領主的武士論提唱者:石母田正
A国衙軍政論提唱者:石井進
B職能的武士論提唱者:佐藤進一
東大で教鞭をとっていた年代(石母田→佐藤→石井)からいうと、
職能的武士論の方が、国衙軍政論よりも提唱されたの早いんだな。
@ABの順だと思っていたから、これは意外だわ。 東北の狩猟異民族・エミシが武士の母体という有力な論説がこちら↓
一、エミシ消滅と入れ替わるようなタイミングで武士が現れた
一、戦術が武士とエミシは全く同じ(弓騎馬戦術で盾を使わない)
一、どちらも野戦は得意だが築城も攻城も苦手
一、初期の日本刀は俘囚(エミシ)刀と呼ばれた
一、平安初期の官軍武装と武者鎧との間に連続性が見られない
一、農民との差異とは比べ物にならないほどに言葉が公家たちと大きく違う
一、戦国武将たちの多くがエミシ顔(信玄、謙信、信長、家康)
一、後醍醐天皇から「東夷(異民族への蔑称)」と呼ばれた
武士化しなかった残りのエミシが俘囚長だった安部・清原氏で、
これらは前九年・後三年の役で完全に滅ぼされてる
そのほかにも、万葉仮名といわれた奈良時代のしゃべり方が現代とはまるで外国語のように異質だったのが
平安後期以後は格段に現代の日本語に近づいたのもこの論説の正しさを裏付けてると思う
鎌倉初期の「吾妻鏡」「徒然草」原文なんか、 もう半分以上現代日本語だしな 清原は武士化『完了』しているだろう。
桓武平氏から成衡を次期当主に迎えているし、その前代からすでに当主は桓武平氏からの招婿だったという説もある。
一方、安倍氏にしても、まさに桓武平氏、秀郷流藤原氏の両氏から婿を迎えている最中だった。
前九年役が無ければ、このまま両氏とも「源平藤橘」に父系での「表札」の掛け替えをしていったのだろう。
逆にいえば、
前九年役があったおかげで、その一世代前に関東で行われていった「表札」の掛け替えも、このようなものであったのだろう、という想像がつく。
その意味で前九年役(陸奥話記)は貴重と言える。 >>178
下示国衙軍制由来説に賛成ということですか?
385 :日本@名無史さん:2011/06/02(木) 06:24:45.42
・・・・・・・多くは国造などに系譜を持つ郡司・富豪層が健児制のもと世襲軍人化。
王朝期に国衙への大幅な権限移譲がなされ、その両者が結びついたもの(国衙軍制)それが武士。
【つはもの】武士の起源と成立について【もののふ】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292733807/385- >>192
>安倍氏にしても、まさに桓武平氏、秀郷流藤原氏の両氏から婿を迎えて・・・・・・・・・・・・・
>「源平藤橘」に父系での「表札」の掛け替えをしていった・・・・・・・・・・・・・・・
父祖伝来の土地・郎党を女婿に譲って「表札」の掛け替えをしたら、
父祖の資産を継承できぬ息子の貞任や宗任系統は如何なる
扱いになるのですか? 悪源太スレでは、自動的に郎党に降下、と、ある有名なコテさんが言っていたような。 武官の坂上田村麻呂
坂上氏は代々鎮守府将軍や検非違使を歴任する家系になったけど
田村麻呂から七代孫になる坂上頼次も検非違使だったが、源満仲が摂津守になったときに頼次を摂津介にして多田政所の警備をさせた
その時に全国に散らばってた坂上氏をめとめあげて坂上党武家団を組織して、その棟梁となった
武官ではなく源満仲の私兵の武家団だから、この辺りから武士の流れが出来たのかと
清和源氏の裏に坂上氏の武力があった 秦氏を匂わすレスが過去スレや関連スレでは頻発していたが、
東漢氏(坂上氏)もかー! 東漢氏は新羅征討で武器の製造をしてたように、製鉄から軍事まで当時の日本にない最先端の武力を持ってきた氏族
この渡来系氏族の武力に目を付けたのが蘇我氏。武力を持つ物部氏に対抗するために、東漢氏を蘇我氏の下に置いた
宮廷や蘇我氏邸宅の警衛を坂上氏が担っていた中で崇峻天皇暗殺事件が起きる。その実行犯が東漢駒だった
暗殺後に崇峻天皇后で蘇我馬子の娘を拐ったとして、馬子に殺される。これは命令の口封じの可能性が極めて高いとされてる
それでも東漢氏の地位があるのは蘇我氏あってのものだから、乙巳の変では他の渡来系が離れるなか、蘇我蝦夷の邸宅を最後まで守ってたのが東漢氏
最後は巨勢徳陀の説得で武装解除したことで、最後の砦の東漢氏まで離れた蘇我蘇我は自殺する
蘇我氏と距離を置くことになった東漢氏は、壬申の乱で大海人皇子側に味方して、その武力を発揮する
天武天皇から直々に七つの不可(天皇に対する罪)があると言われた上で何故か許される
平城京遷都で、坂上氏の本拠地が宮中から藤原不比等邸宅になってしまうため転居せざるを得なかった
どうやら不比等とはそりが合わなかったらしく、渡来系は外へと追いやら不遇の時代に
ところが聖武天皇の時代に坂上犬養が重用されて運が開ける
犬養の子の坂上苅田麻呂は東漢氏らしくその武力で、鎮守府将軍などをそつなくこなして信任を得る
そして貴族社会に入った犬養の代からたった三代で、大納言まで上り詰める坂上田村麻呂が登場する
これは渡来系史上初の快挙で秀吉並みの出世力
とまあ、間違いも多々あるけど東漢氏という武力を持った渡来系氏族は古代史で重要なのは間違いない
坂上田村麻呂まで表に出ないけど、常に裏にいる この坂上田村麻呂はいかにも武官っぽいけど、実は文官としてもかなり優秀だったりする
文官として優秀すぎたために、子孫が鎮守府将軍なんかになるも明法博士の系統が平安京に残ったりして、軍事貴族から離れた結果、フェードアウトしていく
理由はいくつかあるけど、一番は清和源氏に取り込まれたから
>>196にあるように坂上田村麻呂以後の坂上氏で武力を持った系統はみんな全国に散らばるのよ
戦国時代に伊達政宗の正室を出す田村氏が有名だけど、全国の坂上氏をまとめたのが清和源氏の私兵の山本坂上家
この山本坂上家は清和源氏に武門を継承してしまってる
清和源氏に軍事技術を教授した結果、清和源氏が武力で台頭して来た
その後は、まあご存じの通り清和源氏、とくに河内源氏が大活躍しはじめる
武士の成立はおそらくこの辺りの流れからじゃないかなと思う
坂上田村麻呂が武官らしい武官の最後で、その後は清和源氏で武門に移り変わる
後の軍記物なんかを読むと「坂上田村麻呂、藤原利仁など武門の誉れはいた。今はこの人だ」みたいなのが多いけど
坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と書かれていて遡れない、遡るには古事記やら日本書紀を引っ張り出してこないといけないからね >>198
>製鉄から軍事まで当時の日本にない最先端の武力を・・・・・・・・・・・・・・・・
何という最尖端武器なり軍事技術を持っていたのですか? 製鉄技術も既に有ったんだろうけど、
大陸との通商や、蝦夷との硬軟両面での接触を通して、絶えず断続的に最新の製鉄技術の流入があったってことなんだろうね。 >>200
「東漢氏 製鉄」でググれば色々と出てくるだろうし、触れてる本も幾つかある
東漢氏自体は百済から渡ってきたとされていて、嫡流は坂上氏が握るけど諸氏には金作氏や錦織氏がいて製鉄や機織りを百済から日本にもたらしている
面白いもので言うと、鑑定では奈良末期頃の製作とされてる清水寺の伝田村麻呂の刀は当時の朝廷の佩刀や蝦夷の蕨手刀とも違ってる
武器については丸木弓の時代に坂上氏は著公弓っていう大陸で騎馬民族が使っていた短弓を使っていた
坂上氏本家が坂上田村麻呂を祀った松尾神社で代々坂上氏が著公弓を作って将軍に献上、将軍から神社に金子やらが奉納されてた記録もある
坂上頼泰が坂上氏本家では最後の大名になるから、徳川将軍家だけはこの限りにないんだけど
坂上氏が弓馬に優れてるというのは史料に何度か出てくるけど、これは著公弓あっての弓馬の扱いだったわけ
伊治城から日本唯一の弩も出土してるけど、これは坂上田村麻呂が調達した軍備かわからん
坂上田村麻呂は軍備についてそれまでの征東と違って、出征の一年前から陸奥までの補給路の確保をしたり、東海道の軍備の増強を図っていたり入念に下準備をしてる
鎮守府将軍と陸奥守に任命されてから、征夷大将軍に任命される間の一年間の動きを残ってる史料から読みといてる本も幾つか残ってるけど相当綿密に征東計画を立ててる
軍略については田村麻呂以前と以後で朝廷側の軍事の動きの違いを調べるといいかと
副将軍の時の史料も面白いけど 対夷狄軍団地の関東って魏晋南北朝にあった流民軍団の北府軍、西府軍のモロパクリ。ここの出身武人に腐敗した朝廷と貴族が散々反乱され権力剥奪されるのワロタ 武士の本質は封建領主だよ。天皇・公家・寺社などの古代的勢力に反抗して封建社会を切り開いた革命的新興階級が武士なんだよ。 漫画、アニメ
『ずっとオレのターン』という台詞があるみたいだよ >>119
>隠居の身にもかかわらず天皇を無視して官位を授け・・・・・・・・・・・・・
平安時代の上皇・法皇は、隠居身分などではないぞ。
天皇という不自由な地位でなく天皇の後見役という身軽な
地位で治政を行う「院政」の実権者だ。
頼朝が、義経追捕の名目で諸国への地頭設置認可を
申請したのも天皇でなく院の近臣へだ。
「治天の君」・「院宣」という日本史用語を知らぬのか?
>頼朝は後白河法皇が死ぬほど嫌いだったんだろ・・・・・・・・・・・・・
政治家は、人への好悪で政治を処断しない。
頼朝が後白河を「大天狗」と呼んだのは、義経へ下した頼朝追討の院宣など
自己の政治基盤を揺るがす政敵として警戒してのことだよ。 >>41
>田村麻呂も漢の皇族末裔を称する大男だったっていうんだよなあ。
> 華北は大柄な人が多いというので、まんざら嘘でも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おいおい坂上田村麻呂の本家東漢氏は、その名の通り
朝鮮半島南部の阿耶地方からの渡来人だ。
その上、劉邦の出生地の沛県(現在の江蘇省徐州市豊県)は、
揚子江の河口だから、華北ではないぞ。
学問板で、二重にいい加減なことを言うな。 >>1
武士「アムール川・樺太・北海道ルートで日本進出しました。日本原住民はチビばかりで弱いのでチョロイ」 墾田永年私財法、これが一所懸命の由来となり武士が誕生した 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
GXEHT とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
M9K 武装開拓農民同士の抗争の中で弱いヤツが強いヤツの傘下に入って、いわば杯交わして、
武士団という広域暴力団が形成されていったんだろうな 武装開拓農民はヤクザじゃない。大義名分があるが、
源氏とか抜かす用心棒稼業の輩は完全なヤクザだろ 法も国家も当てにならないのだから
開拓民であろうが自称源氏だろうがヤクザにならざるをえない 開発武装豪農と、用心棒自称源氏は
全く違うですよ
ヤクザレベルが自称源氏
そこにはなにも産み出すかちはない
開発武装豪農は、
在郷を発展にも寄与してるし
自分の財を守るのは義務でもある
ヤクザの片鱗などない 源氏や平氏の家来になった地方の武士なんてヤクザの二次団体や三次団体みたいなもの
荘官や地頭なんてヤクザの組長が警察と税務署を兼ねてるようなもの 武士は半島から天皇が引き連れて来た武装開拓者
日本の原住民を蛮族として狩っていた
しかし各地に散らばった武士は、その土地で権力者となり
お互いが争うようになる
天皇は力を失い、強い武家につくシャーマンになり果て
戦国時代には極貧状態に陥るまで落ちぶれていた ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな 広域暴力団清和会系鎌倉組の若頭、伊豆北条組の義時組長 >>221
まあ、名門とゆわれる島津なんて、
本名は惟宗の半島系軍人だからな。
あながち間違いではない イギリスだってノルマン人やらフランス人やらドイツ人やら王族や貴族は外来系だらけだし島国の宿命だな ・奈良、京都主導の古代日本は朝鮮より下っ端の後進国
日本と朝鮮半島の歴史と文化の交流というものを考えてみますと、長きにわたりまして、日本は朝鮮半島よりも明らかに後進的な国です。
『古代豪族と朝鮮』京都文化博物館編
河内飛鳥(大阪府)の文化は百済につながる人々によって創造された百済色の濃い文化であった。
(『河内飛鳥』山尾幸久・立命館大学教授)
秦氏というのは新羅を母国といたしまして、五世紀の後半に日本列島に渡来してまいります。そしてこの京都に住みつきます。
(「渡来人と平安京」井上満郎・京都産業大学教 そもそも藤原氏のハプロタイプはo2で半島と日本にしか世界で確認されないタイプ
まさに公家上層部から渡来人だらけ 神社の記録見れば各地に根を下ろした源氏平氏もきちんと皇室出身で自称なんてほとんどいねぇよw >>221
武士は日本人ね。源頼朝がシナチョン気質だったら皇室滅ぼす。李成桂みたいなのがチョン君だよ。 武士は日本人というのは、あながち間違いではないが
その場合の「日本人」とは新羅・百済からの渡来人であり
日本の原住民は「名無しさん」ということになる
もしくは日本列島に原生していた草=民草=人間ではない >>226
島国の者は戦わないね
「インディアスの破壊についての簡素な報告」でも良く分かる
カリブの連中は所持品を奪っても怒らない
「それはみんなの物だ」と言う
そして白人に全滅させられた
英国原住民はパンに海苔を塗って質素に暮らしていた
英国の料理が不味いと言われるが、日本の旅館の朝食みたいなものだろうか
英国と日本は本当に良く似ている
縄文人は助け合い信頼し合う共生文化なので殺し合わない
殺し合わないから武器を作らない
武器が無いから渡来人に制圧された
その渡来人というのは、勿論、隣国で定住していた連中ではなく馬賊だ
中東の方でバビロンに襲われたか砂漠化で、シルクロードを通ってきた
集落を襲いながら自然と太陽の昇る方向に進むものなんだろな
菊のご紋は菊ではなく太陽信仰の太陽だ
殺人と強姦がライフスタイルのサイコパスな彼らは朝鮮半島で王族になり
次いで日本に来て天皇を名乗り、手下の武士を使って日本列島の草刈りを行ったというわけだ >>233
お前もサイコパスだわ
日本のハプロタイプに中東の遺伝子はないことが立証されてんのに、お前自体が半島からの渡来遺伝子受け継いでんだろうなあ
願望と現実が区別できない嘘語り
お前もその半島 >>233
さらには縄文が武器持たなかったとか、
無知にも程がある
日本刀の期限も知らない
浮囚の存在も知らない
こんな馬鹿が妄想と願望で歴史語ってんのかよ、、
、、、、 ユダヤがシルクロードを通って日本に達しているのは疑いようがない
シルクロードに沿って定住したユダヤ人の集落が確認できる
秦の始皇帝も日本に神社を広めた秦氏もユダヤだ
これを否定する奴はお話にならない
日本の各地で新羅の剣が発見されている
連中が馬に乗って我が物顔で駆けずり回っていた証拠 チョンには誰がどこで何をしたのか中身の無い歴史ばかり >>236
ハプロタイプの遺伝子レベルにユダヤの遺伝子が一切検出されてないが、
お前の日本にきた秦がユダヤという根拠はなに?
きちんと答えろよ?
願望とかじゃなくて。 >>238
天皇一味の遺伝子にユダ公の遺伝子が無いというなら
ユダ公の遺伝子解析に誤りがあるってことだろう
金色の箱に二本の棒を通して担ぐというのは、日本とエチオピアにしか見られない
エチオピアはアークの箱の避難先だから当然として、
それじゃ日本の神輿はなんなんだという話になる
金色の箱には屋根があって、その上に二羽の金色の鳥が乗っている
神社は古代イスラエルの幕屋を模したものだし
日・ユそれぞれの三種の神器は一見して別もののようでも対応はつく
菊の御紋と、ヘロデ門の太陽信仰のシンボルは16枚の花弁の数まで一致
日本語とヘブライ語の共通点といい
これらを単なる偶然だと切り捨てる奴はお話にならない ツタンカーメンが日本人であることが指摘されていて、日本人の祖先が世界中に文明を築いたんじゃないかと想像する。神大文字で世界に散らばってる石版の解読がおよそできるってのも日本が起源に感じてならない。
日本語がヘブライ語と似てるのも面白いよね。言語の法則性がアジアと日本では全く異なるから、やまとことばは漢字を取り入れる前からあったのは確実だし。 日ユ同祖論とかいう言い方が間違っている
日本の中の神社朝鮮人という一部の劣悪な連中がユダヤなだけで
そんな色々な民族が日本には流入している >>240
妄想酷すぎてもはや歴史のはなしじゃない
ハプロタイプは数臆年単位ででる
絶対にあやまりはない
お前の妄想は日本書記にも古事記にも、
貴族や古代豪族の出自体まとめた新撰姓氏録』に掲載された1182姓にも一切載ってない、
あげくはハプロタイプにも検出されない
だけどいくつかの強引な共通点から、日本人はユダヤ人だと決めつけるという諸行
もはや中二レベルな だな
江戸時代に「理由なく農民を切るな」という御触れが出たということは
それまで、気分次第で農民=日本の原住民を切ったり強姦していたというわけだ
戦国時代に、農民=日本の原住民を捉えて奴隷として海外に売り飛ばすということをやっていたが
江戸時代にも一部のキリシタン大名が火薬欲しさに農民を売り飛ばしていて
徳川「金を出すから農民を取り戻せ」、と争いになったのが島原の乱だという
天皇一味(半島系)は調べれば調べるほどクズであり
江戸時代(華人系)は調べれば調べるほど素晴らしい >>245
日本の大企業の多くが三井・三菱配下だ
例えば東芝やトヨタは三井系列だ
三井の本業部分は三越が受け継いだ
三井系の東芝が技術を与えて育てたサムスンは三星だ
三菱はヒュンダイを育てた
中二レベルのお前にゃこの「三」が何を意味するか死ぬまで分からんだろう >>247
永遠に無理栗共通点編み出して永遠に言ってろ糞引きニート爺 という感じで日本の支配層の素性は必死に隠される
歴史学部を認可させないくらいに強引だ
宗教という観点で考えてみれば
全ての宗教はユダヤ教から派生したものだ
各地に広まって好き勝手にカスタマイズされただけで
明治天皇も神道はユダヤ教だと言っている
江戸時代まで仏教だった天皇は、明治から神道になって
今の皇室はクリスチャンといういい加減さだが、ルーツは同じ いやいやいやいや、何億回も言ってるが、
藤原氏も古代豪族もハプロタイプで証明されてるのに、
お前だけ、科学的根拠は詐欺で、科学的根拠の嘘によりひたかくされているという、
古来よりの池沼妄想幻覚論をひたすら主張してるだけなんだよ
先祖代々日本の底辺出自だと、こうも池沼が遺伝されるのか? 因みに明治天皇は、
先代光明帝までの北朝も偽物だと言ってる
お前がいってることを仮に事実と詐称するため、
かなり明治維新にユダヤ資本とイルミナリティが暗躍していたということでしか説明できない。 間違いないことは、
維新にユダヤ資本やロスチャイルド家が暗躍していた事実は間違いのないこと。
その際、そのように洗脳されたんだろう 意味わかんねえ馬鹿が軽々しくユダヤなんてほざいてんなよ中二病爺 ユダヤ陰謀論をほざいてるてるアフォは武士=ヤクザを認めたくないから荒らしてるのか
そこまでして武士の本質がヤクザ、暴力団だということを認めたくないのか 歴史学部を認可しないくらいに素性を隠し
大仙古墳を仁徳天皇などという実在しないものの墓だと
言い張って調査させない連中が自分たちの遺伝子情報をくそ真面目に明かすと思うか
明治天皇は百済系で、北朝は新羅系なのだから、明治天皇が北朝は正統ではないと言うのは当たり前
百済は高句麗から生まれた国だが、その高句麗に日中朝の秘密がある
つまり満州だ
満州に日中の人々が知るべき秘密がある
安倍の爺さんの岸信介や鮎川儀介らは満州にユダヤ国を作ろうとした
これは福計画と言って、陰謀論ではなく国会でも議論されていたことだ
日本国民はなぜ満州なんかを獲りに行く戦争をさせられ、
国民が飢餓状態になるまで満州に国富を注ぎまくったか疑問に思うべきだ
そして今の満州は中国の一部だが、そこの連中は激しく中国を嫌っている
いつでもクーデターを起こしてやるという状態だ
そこに日本人でも中国人でもない異質な連中がいることだけは知っておこう
そしてそこの連中が日本にもいて日本で保守派をやっている >>256
という風に維新にユダヤ資本の流入とともに洗脳されたわけだ。
ユダヤの定義は血のルーツじゃないからな。 全ては渡来系が大半の長州がユダヤ資本利用したことで洗脳させられたのがすべての原因というわけか。
なるほどな >>256
天皇本体の遺伝なんて関係ない
万世一系なんて誰もしんじていないからなお前が寝言ほざく高句麗渡来系妄想ねように。 南北朝の祖である後嵯峨天皇は百済新羅合体マンなの?どうやって南朝百済系と北朝新羅系に分かれたの? >>260
合体マンでもなければ百済系でも新羅系でもない
ユダヤ陰謀論並みの信憑性しかないので
今はまだ間に受けるべきじゃない 武士が渡来系なら蹄鉄や馬の去勢技術は普及していたのか >>261
マセソンやら伊藤などの成り立ちみればユダヤ資本は疑い用はないのは事実だろ 武士がヤクザなのは、もうわかりきってること。
それに近代幕末においても戦争となれば、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長州征討
>>芸州戦線では被差別民が部隊として組織され長州藩の指揮下に参加しており、
>>幕府側でも弾左衛門の配下の被差別民が参加していた。
>>後に幕府はこの時の功績をたたえ、弾左衛門とその配下を士分に取り立てた。
>>また長州藩としては組織として機能したことに安堵したという記録がある。
近代でこれだ。戦国時代なんて蜂須賀だの秀吉一党はもっとなレベルだ。
それらが近世大名だからな >>264
いや、ユダヤ資本は確実に幕末に流れてるのは事実 ユダヤがどうとかほざいてるキチはおいといて
武士の本質がヤクザであり暴力団なのは紛れもない事実 だから、出自も265のとおりだろ
戦国以降の専業武士は特にそうだ 武士の本質がヤクザというよりは
無政府状態と自力救済の中世社会における日本人の気質だろう >>>269
は?
無政府状態なんて戦国時代以外は実際ない。
自力救済なんてのもそんな意味不明な秩序定義なんて存在すらしない。
戦国以前までは地域秩序がかなり形成されてる。
それは地域開発が大前提での地域秩序の維持が武装化の意義だった。
しかし、戦国時代になり、それが一転
横領が前提となり、暴力を扱う意義はもはや存在せず、もはや正当性を築く努力すら失せてしまう。
しかし、その時代に登場した輩、すなわち893レベルの階層が時代の寵児となり、社会を、暴力という手段自体を正当化したまさに暴力軍団という暴力による秩序支配を成した集団がのちの江戸武士
やつらは戦国以前の出自なんて、リアル非人層だらけだからな 滝口の武士から新皇に成り上がった平小次郎将門公最強 >>272
将門の父親の世代は武士じゃなかったの? 新皇様は自衛武装化しただけの受領、ただ武芸に秀でた普通の武士とは格が違う。
日本刀や騎馬戦法の発明者、関東に武士政権を育てる土壌を築いた真の武士。 >>273 東北狩猟騎馬民族・蝦夷が阿弖流為の首と引き換えにして
大和朝廷に破格の待遇で最強の傭兵・俘囚としてスカウトされた
これは中国大陸における匈奴と漢民族との関係に酷似してる つまり大和朝廷と漢帝国は名を取ったなら蝦夷と匈奴は実を取った形と言える
それでも度々不満をぶつけて反乱を起こす俘囚たちの上に立ち、まとめ上げる神輿となっていったカリスマが
都落ちし地方に土着するようになった大和朝廷元皇族にして軍事貴族・武家となる平将門や源義家だった
つまり将門、義家、清盛、頼朝、義経、尊氏らは
正確には武士そのものではない、貴族だ 武士団の祖先はアンチ大和の蝦夷。新皇将門は幼少期に鎮守府将軍の父に従い蝦夷と交流してたに違いない。 >>276 というより、将門の母方が「エヌカイ→犬養」という蝦夷系だった、という説がある
つまりは皇族と蝦夷のハーフ
それが真実だとすれば、将門の高い武勇も、都で
出世できなかった理由も、自ずと理解できる
どちらも‘’血筋‘’が原因だったんだな、と 阿弖流為(蝦夷) 対 坂上田村麻呂(征夷大将軍)
平将門 対 藤原秀郷、平貞盛
平忠常 対 源頼信
安倍貞任、藤原経清 対 源頼義、源義家
武士勢力を育てたのは蝦夷、俘囚関係者だったか 桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』が反響がいいみたいだな
さっそく重版決定とか、日本人は武士がお好き 平将門には多治経明がいて、血筋を辿れば多治比長野の娘と桓武天皇の間の葛原親王
源満仲には坂上頼次がいて、血筋を辿れば坂上田村麻呂の娘と桓武天皇の間の葛井親王
桓武天皇が力を入れた対蝦夷政策で将軍を輩出してきた多治比氏や坂上氏を平氏や源氏が食ったから、蝦夷が後の武士勢力を育てた 武家政権の時代の歴史家は武士の起源をどう考察してたの? 軍事貴族から発生したのもあれば、武装農民もいるだろうし、国司が子供らが任期を終えても帰らず居着いたのもいたりと、様々だろうけど、
圧倒的に多いのは古代から各地にいた地方豪族から武士に発展していったんだと思う
古代に多大な軍事力を有していた地方豪族たちがある時から武装解除をしてたとも思えないので、朝廷領、有力貴族の荘園、寺社領等々と
様々な中央の権益下に入ることによって自分たちの権益を守っていったんじゃないかな
有力貴族の荘園となると、中央貴族と主従関係も生まれ、表向きはそこの管理人という形態は取るが、実際の面子は変わってないという
だから、全国各地に源平、藤氏が増えたように見かけ上なったんだと思う さすが実戦経験者の元将校・新野先生!
・防人
防人を廃止しようという問題が起こった時に、大宰府の方では、防人が廃止されちゃうと守備力が
弱まるということを非常に強くいっておりますから、簡単にいえば非常に坂東武者が強かったという
ことしかその文章表記の上からはとれないですね。
・蝦夷
エミシの問題といえば、坂東武者はいわゆるエゾ征伐という言葉でいつも動員されているわけです。
ですから日本中でこれだけ熟練された戦闘人はこの段階では現実の問題としていなかったのです。
西日本の方では外国との戦争でもあったら別ですけど、そうでなかったら畿内やその辺では
戦争などないのですから、実戦の形態などもわからなかった。
しかし坂東の住民はしょっちゅう鎮兵として動員されまして、東北の山野を駆け巡って戦闘していた。
ですからそういう経験というものがやっぱり防人を徴集する場合に相当評価されたんじゃないか。
大体鎮兵として動員されるのは東北の人間じゃないんですね。
東北地方にだけ鎮兵という鎮守府将軍の掌握する独立兵団があります。
その鎮兵には誰をするかというと、中部地方まで行く場合もありますけれども、坂東から徴集された
兵隊なんですね。ですから平安時代の中頃になって元慶の乱という反乱が起こりますけれども、
その時でも、東北の兵隊は陸奥からも動員しますが一夜で逃げ帰っちゃいます。
どうにもならなくなって、やはり特別に動員されたのは関東、中部地方の精兵です。
(新野直吉、秋田大学名誉教授、日本古代史、東北地方史) たぶんはkっきりしないのは具体例を知らないからだよ。
鎮西将軍とかになって西日本の地主(家臣)ができたじゃなくて、
武家貴族には地盤になる地元があって奈良時代から一生懸命開墾してた
農民の地主(家臣)がいて、そういう地盤がある人が平安時代になって
反乱が起こると活躍して、鎮西将軍に任命されたりして、
平氏と繋がって源氏に負けて、でもやんごとない身分なので細々と家が続いて、
江戸時代になって元家臣は地元に入ってきた大名に取り立てられました 土佐! 壬申の乱でも周辺の豪族がいて戦った。
当時武士とは言わなくてもそうやって武装してたの。 いまでも労働者はいる。
その疑問ってじゃあどうやってたとえばトヨタはできたの
ホンダはできたのってことで、できた歴史はそれぞれ違うでしょ。
国としての必要が先にあって財閥由来でできた会社もあれば
本当にゼロからできた会社もあるだろうし。 >>288
この新野という東北の田舎者は全然わかってねえな
近代ではあるまいし、そんな大昔では治安維持での武装と軍事における武装とはほぼ同じで両方兼ねてる
それに蝦夷なんてのはそもそも生産力、繁殖能力に乏しく、数自体が少ない
そんなのを相手に大規模な軍事戦闘を軍事スキルが上がるほど日常的にやる機会もほぼない
西日本のほうが人口が圧倒的に多く、当然、地方豪族も多くて兵も多い
東西どちらでも起こりうる実戦と言えば、散発的に起こりうる治安活動よ
防人は白村江で出兵した多くが西の豪族だったので、その軍事力が削がれたので対外防衛目的が生じたのと
それを口実に力が削がれてもなお強大な西の豪族を抑えるために行われたもの 平城上皇も東国で再起して朝廷転覆狙ってたし、東国は朝廷の支配が及ばないパワーがあった。 平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を巧みに操る」
近江の名族京極「西国最強は九州立花」
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」 >>295
公家化した武士だろ
平家や足利家、豊臣家への蔑称 朝廷って天皇がいて、政治家や官僚がいて、
一番偉い政治家や官僚は藤原氏だけど
他にもいっぱいいて、地方の豪族が官僚やってて
地方に基盤があって、武士団とまではなってなくても
ほら墾田永年私財法って身分で持てる田んぼに制限があるから
やんごとない貴族に寄進して管理者になったりして。
だから、平安時代になって武士団ができた時って、
もうそれより前から地元に一族があるの。
ちゃんと平安時代の家臣団の名簿とかもあってね。 逆に言うとそのくらい昔から一生懸命鍬持って開墾しないと
戦で負けた後にやってきた大名に、うむ、おまえは地元に詳しそうだな!
っつって下級武士に取り立てられることもできない。
後から養子とかで下級武士になった人はいるんだろうけどね。
だから下級武士って変なの。
めっちゃ歴史が長い、その家柄が残ってる由緒正しい農民なのね。
たぶん偉い武士よりも、その他の百姓よりも日本に 日本の、
あー日本人!っていう意識? それがね。ストロングスタイル。 下級武士って変なんだよ。
まず誤解があるけど給料、貧しいイメージばかりあるけど
割と農民と同じくらい。むしろ農民よりも給料はいい。
それで仕事がない。これ有名でしょ。1ヶ月に出勤が3〜4日とか。
それで農民よりいい給料もらって、釣りやったり酒飲んだりして。
あんま農民と変わらない。
変なの! 下級武士ってさ、戦で負けた側の人が取り立てられた
地元のことがわかるからね、そういう人も多いと思う。
それで戦で負けて月3〜4日出勤して農民と同じか
それよりいい給料だったりする。
変なの。 まあ下級武士になるにはいつ武士になったかは別にして
かなり昔に頑張って地主になって命も掛けて戦わないとなんだけど、
負けてその生活ってさ。むしろ負けて下級武士目指そうかなって思うよね。 農民扱いだけど、自ら耕す必要ないくらいの地主で、開墾とか用水掘削でリーダーシップ取るようなヤツらが親戚や村の衆を組織して自警団作ったのが始まりなん? >>301
嘘ばっかこいてんじゃねえよ
負けたがわが下級武士選んだケースなんて、地侍クラスにはほとんどいない。
それに、下級武士が仕事なく百姓より金もらえてただ?
その大嘘はなんの目的だ?
幕臣の下級武士たる御家人層ですら、
あまりの困窮に江戸初期の御家人だった家の八割が江戸中後期には御家人株売り払ってんのに、
お前の無知で意図的大嘘はもはやわざとレベルだ。 >>302
なんでそんなに下級武士が恵まれてんなら、
明治になって
大半が屯田兵だの娘の身売りだらけだったのはなぜだ?
土地もない、財産もない、仕事もない、身寄りもない、なんにもなかった下級武士が明治に露呈してんだが。 下級武士が貧しかったってのは一方的な見方だよ。
農家の最低は10石、年貢取られて最低は6石だけど
6石以下の下級武士なんていないと思うよ。 仮に一番貧しい自作農と同じ6石だったとして、
仕事は月3〜4日だよ。そんな恵まれた仕事ないよ。 身売りだらけ?そんなの聞いたことないし、
イメージとしては西南戦争のイメージなんだと思うけど、
あれも嘘だよ。西南戦争はエリート層も参加してる。 >>308
おい、歴史にわかの中二野郎
仕事と呼べる仕事なんか3日すらねえよ下級武士なんか。
あんのは上士からの私的な隷属奴隷仕事だ馬鹿が。
福沢諭吉の自伝読めや
毎日毎日上級武士から犬猫のように扱われる日々。人として扱われず。
屈辱と侮辱の日々だと綴られた日記を。
なめてんのか?
しかも貧困農民と同じレベルの収入が、一家食わしてけるとおもってんのかボケが >>309
だから、知らねーのはお前が無知なだけだからだろ。
知らねーならロムってろ屑が。
明治の女郎やなんて多いし、
分かりやすいとこなら、富岡製糸場
あそこは下級武士の娘が売られた場所 429名無しさん@1周年2019/04/10(水) 00:58:34.61ID:dDe9Z36q0
福沢諭吉は日本人売春婦を世界中に輸出することを礼賛した人物
実際はほとんどの婦女子が騙されて輸出された
こんな人物紙幣にしてるなんて日本はキチガイそもそも 江戸時代の武士が上も下も困窮したのは支出が収入と同等あるいはそれを越えたから。
そこが武士と農民の違い。「じゃあ、支出を抑えればいいじゃん」というマヌケなつっこみには
「それが出来なかったから幕末までずっと貧しかったわけで」としか答えようが無い。
それに、6石の収入がある農民つーと、武士で言うと家禄十五石ないし十五俵。
>>308
足軽なら三両一人扶持がいるから、余裕で家禄15石以下だぞ。 >>313
そんとおりだが、
下級武士ごときに大名や旗本のような対面保つ面子支出なんてねんだよ
そもそも下級武士の意義や意味を理解してんのか?
逆に、なら、庄屋や名主はたかが百姓だが、
村内の事業費はかなり庄屋の財力の担保があっての役回り
たかが下級武士程度の支出より何百倍も要求されるが、それが理由でつぶれましたなんて家は早々ない。
なぜならその支出に見合う歳入がある、すなわちそれくらいプライマリーバランスが高い役宅、すなわち比例した権威や権限があるからだ。
下級武士は、たいした支出もない分際でプライマリーバランスが崩れているのは、
それくらい役としての権威や権限が収入と比例しないからだ。
こんなの基本だぞ >>311
多いって、どこにデータあるの。
それにそれ工場で売られたわけじゃないでしょう。
散々人を罵倒した挙げ句に印象に嘘もあるってなんなの。 福沢諭吉の自伝読めや
毎日毎日上級武士から犬猫のように扱われる日々。人として扱われず。
屈辱と侮辱の日々だと綴られた日記を。
福翁自伝にそんなこと書いてあったっけ。どこさ。 あと足軽は普段は農家だよ。
下級武士も、というか武士が禁止されてたのは商業だけ。
武士が戦争経済やり出したら軍産複合体の問題と一緒で
大変なことになるからだろうけど。
下級武士も農業やっていい。
最低限農民と同じ給料がありながら暇で農業や内職やって
極貧なんてないよ。 福翁自伝なんて下級武士のおおらかさがそのまま出てると思うけどね。
どの辺りでそう思ったの。 あと自作農は貧困農民じゃない。貧困したのは小作農だよ。
2・26事件の原因だって財閥が悪い政府が悪いと印象持たせようとするけど
実際は凶作なのに地主が小作からきっちり年貢取り立てたのが娘を売ることになった
原因だそうだから。全然責任転嫁してるだけ。 1人でやれる限界が10石までで、
年貢4両+小作料1〜2両。年収は4〜5両。
なんとかって感じじゃない。
こういうのもきちんと考えて少なくとも江戸時代は
決められてたから生活できないほど極貧なんてない。
むしろ調べてるとよく考えてたんだなと思うくらいで。 >>310
人を罵倒するほど知ってる風でもないけどどうなの。 >>1
有力農民が土地を守るために武装したのがはじまりだよ History of the Samurai: Outsiders to Legends - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cKyEkgf_Z5A
「サムライの歴史:アウトサイダーから伝説へ」てことで突っ込みどころ多そうなんだけど、
「"Ghost of the Emishi" が "Japanese Sprits" の核心と言われてる」ってそうなの?(2:14)。太刀の原型や戦術の影響受けたりしてるんだろうけど。 いらっしゃいキャンペン観戦で大阪民国の土人ヒーハー ρ(ーoー)♪
あなたも私もアベコロナ
あいつもコイツもアベコロナ〜 ♀_(`O`)♪
なにわ武士だよ
まあそのう〜
よっしゃよっしゃあ そもそも、一般庶民の力では永年私財の対象になるような規模の開墾なんかできない
あれって、用水路引いたり、未開の土地を新規開墾したりしないとダメで、用水路の新設なしだったり荒廃田畑の再開墾だったりしたら短期所有しか認めてもらえないんだよ
国司として赴任した下級貴族か、大規模な寺社か、はたまた郡司の一族のものじゃないと絶対に無理
たぶん、一番メジャーなのが旧郡司系ではないのかな
そういうのが現任国司とかの有力者と結び付くとこから武士が始まるのではないかと >>1
武装農民説はマルクス主義の色眼鏡に起因する幻想 >>332
ナニワ武士っつうと、摂津渡辺の渡辺党とか河内石川の河内源氏あたりか?
頼朝の祖父が河内源氏だよな? たしか父親 源義朝の出身が、河内源氏のはず ◇本朝食鑑
馬は奥州・常州の産が第一で、信州・甲州・上野・下野・上総・下総の産がそれに次ぐ。
関西の産は劣弱であって関東産に及ばない。
近代九州に稍良い馬がある。就中薩洲の産が高大強捷で関東の産に劣らない。
あるいは、古来よりこのようであったともいわれている。
〈`ー─-、_ノ^j
`> <__, ─-、____
/ j / ̄ ̄ ̄Tー‐─┬''⌒ヽー-- 、
r' /、 1 / | 5 | 7 | |9
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V / 4 └──‐──┘ | l |
し个 、 / | ハ〈
| ` ーl─‐┬─----------──┬─イ´ ̄ヽヽヽ
| /ヽ | | ハ 〉 〉 〉
| / | | | / │ / 〈ノ
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(__」 ゙ー-‐' ゙ー-‐'(___」 人
(__)
(__)11
1:肩ロース 6:ヒレ
2:肩 7:ランプ
3:リブロース 8:そともも
4:ばら 9:テール
5:サーロイン 10:すね
11:贅六 >>333
上野国新田荘を開拓した源義康・新田義重親子は
軍事貴族だが国司として赴任した下級貴族でも
郡司の一族でもないよ >>337
自己訂正
源義康・新田義重親子-->源義国・新田義重親子 >>304
そう言う成立もある、そう言うのは大地主も兼ねてたりするから金持ち
寺院や貴族のボディガードみたいなのから始まったり、他の地主への賊軍、ブローカー(商人)の武装組織みたいなのから始まったのもあるのかなと。出現した理由は様々だから難しい。 武士の急な出現は「日本国王府」を知っていなければ・・・・ 関係ねーよ。武士そのものが遼朝すら知らねーもんwwwww 律令貴族の本体公家の始祖は魏の文帝。武家の始祖は公家や位階の影響力を排除した頼朝公だぞ。
しかし武家の本質は律令貴族の一部だから、清盛や義満や秀吉のように朝廷最高職太政大臣になって公家化する場合もある。 橋下摂津守「学力もだめ、体力もだめな大阪の幕末維新、どないなっとんねん」
【幕末の学問】
『コンサイス人名辞典日本編』に採録された文人の出生地(教育社歴史新書84p57/塚本学/信州大教授/福岡県出身)
1801年〜1850年 ※江戸出生の大名は江戸生まれの人数に含まない。
江戸生まれ 73人
京都生まれ 11人
大坂+堺生まれ 5人
長崎生まれ 6人
その他 326人
幕末の大阪府は長崎市以下…
【幕末の武芸】
江戸(東京都区部)出身の幕末剣豪 → 男谷信友、勝子吉、寺田五右衛門、白井亨、高柳又四郎、千葉栄次郎、伊庭八郎、榊原鍵吉、山岡鉄舟…その他多数
埼玉郡(埼玉県東部)出身の幕末剣豪 → 秋山要助、岡田十松、戸賀崎熊太郎、中村万五郎
肥前国(長崎県)出身の幕末剣豪 → 中村一心斎、高尾鉄叟、渡辺昇
五畿内(大阪府+京都府+奈良県+神戸市)出身の幕末剣豪 → なし
幕末の大阪府は久喜市以下… >>334
地方豪族と上層農民が開墾地を護るために
武装したのが武士の起原。 武士の本質は封建領主。朝廷、公家、寺社等の古代的勢力を在地領主制を発展させながら掘り崩していった革命的階級が武士。 ┏━━┓
┃ ● 〜
┃ 天 〜
┃ 誅 〜
∧∧ ┃ 〜
<二━━━O━━━━━ロニニ>
∧,,∧(゚Д ゚ )]ミ
/・ ・ )Oニ)<;;> この槍くらえ!
/ ノ lミliii|(ヾゝ
(o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡エラ張り一族め
ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
/ /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_バババッ
ヽニフ|_| (_/ ヽ ドドド〜
(_ヽ 上層農民ってのは、マルクス主義を前提に想像された架空の存在
ろくな元手もない農民が開墾して荘園を開く可能性などゼロ >>1
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世」
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物足りない
2019年1月2日に日本でレビュー済み
武士が、特に河内源氏や伊勢平氏がどのように生まれてきたのかは系図からも明らかなように皇族と地方の豪族との融合に寄ることはこのような本を手に取る人にとってはよく分かっていることだと思います。この本は極論を言えばそれ以上のことは書かれてません。
もちろん、受領と王臣との力関係や、平氏の血脈の新規点など興味深い点はありますが「武士の起源」に迫るものではありませんでした。 >>352
武士は存在したのか
H郷とかiso田先生によれば大名の家臣団は「士分」と「凡下」に分けられ「士分」にのみ苗字帯刀乗馬が許されていた
「百姓名簿」には村方役人や農家の氏名が記されている
江戸時代の刀屋は身分で販売していたわけではない
地方領の家臣役人名簿は「御家人帳」
農家と御家人の家は三間取り
中央に居間、左右に寝間2つと土間台所
そして例外なく馬小屋が付いている 伝承の中の武士。俵藤太、藤原利仁、源頼光などは、少年漫画や学研の学習などで馴染みのある存在だったな。
桃太郎、金太郎が低学年のアイドルとすれば、彼らは高学年のアイドルだったな。
なんで今の若い奴は、なんも知らんのん? 起源的にはヤマトの軍隊を司った物部氏が武士(もののふ)の初代 >>357
もののべ(物部)→物の部→もののぶ→もののふ
てか? >>361
いや、ゼロだよ
既存の用水路を流用した開墾とか、かつて田畑だったのが荒廃しただけの荒廃田の再開墾とかは本人死後には没収される建前で荘園化できないんだ
用水路の開拓から新田開発して荘園作るには、かなり多くの人を動員する大規模開墾が不可欠
国司か郡司か大寺社でもなければ、ほぼ無理 >>362
なぜ、一代で上層農民が成立する前提なの? (建前上)区分田は世襲できないし、
永年私財の対象となる新開発田じゃないと荘園として認めてもらえないことになってる(から、荘園整理令の対象にされる)じゃん >>364
例えば有力農民がどうやって成り上がっていくかというと
農地経営に長けた者が公有地(名田)の経営を請け負い、
決められた税を納付さえすればあとの収穫は自身の取り分となるという仕組みを利用して富を集積するわけでしょ。
その富を元手として貸付(私出挙)などを通じて労働者を集めさらに開墾地を私有地(荘園)として勢力拡大していくわけだから
荘園を作れないから有力農民になれないというのはちょっと違うかなと。
(もちろん受領や郡司、寺社が開発する荘園もある)
別に荘園として成立させても安泰というわけでもなくて、
国衙との紛争や隣地の荘園主が中央貴族に訴え出て負けたら容易に権利を剥奪されるような時代だったわけで、
だからこそ中央の庇護を求める寄進地系荘園が増大したり自力救済の武力として武士が求められたといえる。 まあ実際には農地経営に長けた者ってのは基本的にはノウハウやコネのある在地豪族の出自であって零細農民が成り上がるケースが少そうというのは同意するけどね >>365
ノウハウだけじゃなくて元手もないと、そもそも雇ってもらえないだろ >>367
生活に窮した農民が逃散することによって公地公民が崩壊したということは
逆に逃散せず自活してる農民は生産性の高い農地経営を実現できている有力農民の素質がある
そういう農民を活用したのが名体制であり
時流に乗った有力農民が開発領主として成長し そもそも古代には、種籾や農機具すら領主(郡司とか)からの貸与品で農民所有じゃないのになその上、年間100日ぐらいの労役に駆り出されるので、農閑期も忙しいんだ
個人で開墾なんてできないよ 個人が開墾した土地(割と小規模)を租税逃れのために貴族や自社に寄進したのが寄進地地系荘園だ そういうのは、何らかの集団の長など、庶民だけど徒手空拳じゃない人だろ >>373
個人の才覚を否定してたら豊臣秀吉なども説明できない 何なら普通に会社の社長でもある
そういった分業が中途半端で属人的(というより属家的)なのが中世の特徴 >>371
身分的には浮浪でも、たいていはその集団の長とか特殊な出自だろ 農地経営に長けてるから公田の経営を任されるわけで純粋な浮浪がいきなり請負契約できるわけではないよ
ただ実際に浮浪出自を含む多様な中間層が公田経営を足がかりに地方武士の母体となっていったので
貴族豪族層のみがその担い手ということではない
浮浪から数代かけて国衙や地域有力者との関係を深め成り上がったり…
そんなストーリーも想像できる もともと、各郡に平均2家の郡司領主の家を配してあって、当初は交代で郡司を出してたんだよ、ただし任期は終身制なので任命されたら死ぬまでだが。
律令の規定では郡司の任命は式部省だが、郡司の家系の人を最優先で選任する規定だったから、ほぼ世襲
過去に郡司をつとめた人から何親等以内は禁止とかで交代させる規定だったっぽいが。
これが、平安時代途中からなしくずし的世襲に変わると、郡司になれなくなる家が半数ほど出るわけだが、公職を持たない豪族となって残るだろ >>382
浮浪って公職についてない以前に戸籍記録の外ってことなんだけど 郡司は決して世襲制では無いということでせうか?
公職に就かない豪族は現代で言うところの一流民間企業勤務ってことでせうか?
この頃の浮浪者が後の『山窩』になるのでせうか? 律令制の崩壊に伴って地方行政権限の大部分が国司に委譲・集中してくると
郡司の権限は次第に縮小して旨味がなくなり旧豪族層は国司に仕える在庁官人になり、同時に名田経営を請け負う田堵になった
浮浪は移住先の土地に土着することもあった 国衙領や荘園が入り乱れ中央からの統制が弱くなる中で
実際に土地を支配する荘官下司郡司郷司保司といった職の重要性が増し
中央から派遣され土着する貴族の子弟と地域有力者が結ばれていったのが武士団形成の始まりといった印象
そしてそれらの職を地頭職として整理して侵食していったのが鎌倉幕府
実はその侵食に最後まで抵抗してたのが寺社だったりする >>384
各郡に郡司の家は平均で二つある
中央による選任が適切に行われなくなれば、片方が世襲して片方はあぶれるから無位無官にならざるを得ない 墾田永年私財法で土地を得た地方豪族と上層農民が土地を守るために武装したのが武士の起源。 >>388
豪族の関係者以外に富裕な農民なんて存在し得たのか
豪族関係だけど無官だから農民と書き記されてただけじゃないのか? 武士は地方から自生的に起こった。「軍事貴族」「貴種」「武家の棟梁」など、天皇・貴族を先祖に持ち、高い官位を有する武士は地方武士に担がれただけで、本来の武士ではない。 土地と農民を直接支配して農業経営に従事するのが本来の武士。 腐敗堕落した王朝貴族を押しのけて質朴剛健の坂東武者が主人公になっていく壮大なロマンが古代末・中世前期の日本史。 武士は自力救済の世相から自然発生的に生まれてきたものだろう。
ネトウヨは否定するかもしれないが、奈良時代から平安初期にかけての関東は韓半島からの渡来人が多く住み着いていた。日本列島の中でもひときわ文化的多様性に富んだ地域だった。製鉄技術は韓半島系の影響が強く軍馬の生産が盛んだったのも渡来人がそれを担っていたためであった。
日本刀の起源は蝦夷の蕨手刀。関東武士団は高句麗系渡来人の武装集団に東北アイヌの俘囚や在地の東国語集団が合流して形成されたものだろう。そして彼らが棟梁にまつりあげたのが皇族末裔の源氏や平氏だった。
中世初期の東国武士団は系図がかなり怪しい。これは当時の有力家系に仮託をしているからであり、実際のところは高句麗系や新羅系の渡来氏族の末裔というところだろう。 王朝貴族が国政を放棄して地方が乱れたから地方の有力者が治安維持のために配下を武装させて自警団を結成したのが武士の起源。 地方の有力者とは、旧国造・旧郡造の子孫だろ
律令制の施行前後の時期には、旧国造領を分割するなどして、国造子孫も郡大領など郡司家系にかえられた
そして、地方豪族2家程度を含むように郡を作り、2家から交代で郡司を任命した
郡司は終身制で解任されないから、前任郡司が生存してることは少ない、必然的に郡司の家系の当主で現役郡司でない方の人は無位無冠、律令の官制では農民だ
そういう立場の人が主に武士の元になったのだろう
だから、平安時代初期の兵士任用制度である健児制(こんでいせい)と武家政権下での大番役の相同性は歴史的必然 郡司が独力で郡郷経営できなくなったからか、旧郡司の人々が国衙に出向いて国司の下請け? の仕事してたことが記録に残ってるだろ、それができる程度の力が残っていた つまり
地方の有力者=旧首長 でなく
地方の有力者⊃旧首長 国司は1期6年の任期が終われば都に戻るからな、基本的には任地の縁は切れるだろ >>403
任期4年な
それに受領は帰京せず現地勢力と婚姻を結ぶなど既得権の保持に血道を上げたので
たびたび禁令が出ている 武士は国家秩序の外で生まれたアウトローの武装勢力。 我々が知っているような有名どころの武士は大体が血統的に皇孫や殿上人の末裔だろう
仮冒は、あったにしろ兄弟関係の捏造とかちょっとしたズラしが多く、ガッツリ嘘つくのはレアケースだったと思う
そういう誤魔化しは大抵バレるし、周囲も認めないから >>409
当時は妻問婚で、産まれた子は母の実家で養育されたので
父が皇孫・殿上人でも気風は地方豪族だったであろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています