壇ノ浦の戦いで平家はなぜ退却しなかったの? [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
宋へ逃げればいいんじゃね
平家は宋と貿易してたじゃん 当分大丈夫という逃げ場所が無かったし、もう疲れてしまったんだよ。
時代が下って、三浦氏だって(宝治合戦)、鎌倉北条氏だって(元弘の乱)、
集団自決する必然性なんてどこにも無かったしね。
対照的に、さらに時代が下って、
足利直冬、懐良親王、古河公方のような粘り腰なら、いくらでも粘れる。 三種の神器渡してごめんなさいすれば良かったのでは? 本土には平知盛の前衛軍だけを残し、平宗盛の本軍と、安徳天皇の御座船は
沖縄へ移動させておくべきだった。
源氏の大軍が押し寄せて本土を失陥すれば、平知盛は奄美大島まで撤退して
守備を固めればよかった。 >>4
> 三種の神器渡してごめんなさいすれば良かったのでは?
それで許されるという保証なんてどこにもないでしょ。
藤原泰衡は、言われた通り、
義経を殺して首を鎌倉に届けたけど、滅ぼされたよ。
後白河法皇から出された三種の神器の交換条件が、平家の赦免ではなく、
重衡の身柄の返還だったこともポイントだね。 ぶっちゃけ北条氏・安達氏が、鎌倉を捨てて、
地盤の陸奥(+蝦夷地)へ逃げていたら、建武政権はお手上げだったでしょ。
その後の建武政権の崩壊を見たら、5年陸奥で耐えたら、勝ってたかもね。 残存は出来るけど不満をまき散らした北条氏が政権を再び獲得するほど巻き返せるかというと無理。 >>7
そもそも鎌倉を落とした新田勢には奥州軍も加わっていたぞ
奥州は関東の御家人らの飛び地が多いんだから >>9
北条得宗の御内人の安東氏(蝦夷管領)は、大名として明治維新を迎えましたが? 源義仲と和睦して同盟を結んで京都を奪還するのがよかった。
そうすれば、平家・義仲・頼朝がそれぞれの勢力を保持した状態で
並び立ったのではないか。 院が義仲に平家追討をけしかけているのだから無理。
義仲は、倶利伽羅峠の戦いの前に、すでに嫡男の義高を鎌倉に人質として送っているので無理。
平家追討は、自分の力を誇示する、正統性を示す、わかりやすい目標でもある。
それに義仲というのは、本当にポッと出て、すぐに消えた勢力なので、
平家に限らず、義仲がまともな(交渉)相手として認識されていた期間は
非常に限られるので、その点でも実現性に乏しい。
すなわち義仲の勢力が認知された横田河原の戦い(1181年7月)から、
倶利伽羅峠の戦い(1183年6月)まで2年しかない。
義高を鎌倉に送った後、倶利伽羅峠の戦いの後では、ノーチャンス。
平家からは自力でどうこうできる相手じゃない。 北陸は平家の虎の子の地盤、兵糧の補給地だったので無理。
北陸・越後は仏教勢力の強い土地で、
すでに平家と延暦寺(の末寺末社の白山神社)がモメており(白山事件)、
白山神社が義仲に加勢したので無理。 結局、平家滅亡の直接の原因になったのは、
平家が(頼朝と義仲が争っている間に)自力で勢力を盛り返した後に
致命的な大敗北を喫した一ノ谷の戦い、「一ノ谷の騙し討ち」(※)だよ。
(※)後白河法皇が院宣で和議の提案をした、休戦・武装解除を命じたという。 平重盛
∧,,∧
r( ´n 平清宗
./ > ,/ ∧,,∧
関東武士だあーーーーっ > 〜'oー、_) r( n)
.> `/ く_
逃げろーーーーーーっ! .> 〜'し -一┘
.> ∧,,∧
/∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨\ ( ´・ω)
〜、/ っっ
∧,,∧ └ー-、ぅ
r、´・ω・)) 平宗盛
∧ ,,∧ > _/´
n__n (´・ω・`) 〜'し-一┘
∧,, ∧ノ c' っ 平盛嗣
c('・ω・`)っ 〜(_,'ーo'
平維盛 伊藤景清 源義仲は、源頼朝・義経に攻撃され、都を防衛しきれず、粟津の松原で
滅ぼされてしまうが、この間、義仲のほうから平家側に和睦の打診があった。
この和睦の打診に平家側が乗っておけばよかったと思う。
確かに息子の義高を鎌倉に人質に取られているが、義仲自身が鎌倉勢に
討ち取られてしまっては元も子もない。だから、義仲は平家との和睦さえ
模索したのだろう。
平家は鎌倉政権を主敵とみなし、これを防御するため、源義仲・源行家など
源氏の諸流を自軍に編入しておくべきだった。都を奪還した後、公卿の
官位を与えるなどの破格の条件で懐柔すればよいだろう。
長期的には、頼朝と義経が不和になる可能性もあるのだから、義経も
切り崩して陣営に加えれば、かなり補強される。 >>20
義仲「(対頼朝・義経に集中したいので)和睦しようよ。」
平家「じゃあ北陸の知行国、国衙領返してよ。」
義仲「それは無理。」
糸冬 了
この結果が、平家の盛り返し、福原奪還、瀬戸内海制圧なので、
ここまでは平家にとって何も問題がない。 後白河法皇は平家を滅ぼす気マンマン、二度と平家の連中の顔も見たくなかったんだろうね。
常に平家追討に一番積極的、義仲も、頼朝も、義経も煽りに煽り、
一ノ谷で自分自身が手を汚してまで、平家を騙し討ちにもしてるわけ。
> この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、
> かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。
> 平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、
> 数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。
> 平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
>
> 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った
> 三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。
> 平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。
> 平氏敗北の要因について、後白河法皇が平氏へ講和の提案を行い、
> 大幅に武装解除させる一方で、鎌倉政権軍と連携して
> 対平氏攻撃を着々と準備した計略であるという説が有力である。
>
> この説では、合戦直前の2月6日の後白河法皇の休戦命令と、
> 合戦後の宗盛の「休戦命令を信じていたら、源氏に襲われて一門の多くが殺された、
> (平氏を陥れる)奇謀ではないのか」という法皇への抗議の書状を重視して、
> 法皇を信頼して和解に向け展望を開いていた平氏にとって、
> 鎌倉方の突然の攻撃は想定できるものではなく、鎌倉側の勝利は
> 必ずしも源義経の将としての能力などだけに起因しているのではないとしている。
(その2)
義仲「(対頼朝・義経に集中したいので)和睦してください。」
平家「お前の跡取り息子、鎌倉で頼朝の娘の婿になってるじゃんか。」
(意訳:鎌倉で跡取り息子が人質になってるじゃん)
義仲「……。」
糸冬 了 京都では後鳥羽天皇がすでに即位していたので、
今さら平家と安徳天皇に神器を持ってノコノコ戻ってこられては困るんよ。 >>21
平家が木曽義仲に対して冷淡に接した結果、義仲も平家も鎌倉方に
各個撃破された。だから、義仲が鎌倉方の攻撃を受けて窮地に
立ったとき、平家は義仲を支えて鎌倉方の京都制圧を阻止して
おけばよかったと思う。 >>25
一ノ谷の合戦前までは、平家にとってほぼ理想的、何も問題がない情勢。
院を信じた平家が間抜けだっただけ。
一ノ谷直前の情勢で、源平で頼朝と宗盛を入れ替えていたら、
平家が勝っていただろう。
・義仲は平家を京都から追い出した張本人であること
・それが原因で、平家の面々は解官されていること
・鎌倉に義高を人質に出していること
・義仲には、北陸・越後しか残されていないが、元々、平家から奪ったものであること
・北陸に強い影響力がある延暦寺傘下の白山神社が義仲に加勢していること
・義仲もまた源氏で、平家ではないこと
非現実的な仮定は無意味、
超人的な博愛主義を前提とすることは無意味だよ。 史実では、鎌倉政権が圧倒的優勢となり、鎌倉政権は平家だけではなく、
奥州藤原氏も滅ぼしてゆく。したがって、平家が滅亡を免れるには、
「鎌倉政権といかに対峙するか」を考えねばならない。
それには、鎌倉政権と敵対したり、離反することになる人物を平家方に
引き入れることが大切だ。
源義仲 源行家 源義広(志太先生) 源義経 上総介広常
上記の人物の何人かを早期に平家方に引き入れておくのが効果的だ。
さもなくば、やはり史実通り、平家は壇ノ浦で滅亡してしまう。 あのさぁ、そんなこと言い出したら、頼朝を処刑しておけばよかったとか、
維盛の言う通り、一日も早く関東へ出陣しておけばよかったとか、そういう話になるんだよ。
挙げている名前もメチャクチャw
上総介広常?
上総氏の家督を争った広常の弟(印東常茂)が平家方なんだけど?(笑)
広常は平家方の藤原(伊藤)景清が上総介として赴任してきたときに、徹底的に苛め抜かれたんだけど?
義経?
義経は、父親を殺され(殺したのは長田忠致だが、獄門にかけられている)
産みの母親(常盤御前)が清盛の妾にされて、娘も産んでるんだが。
後白河法皇が平家追討の院宣も(頼朝宛に)出してるし。
行家?
以仁王の令旨を全国にバラ撒いた張本人なんだけど?(笑) 合理的に考えていけば、平家は史実通りに滅亡するだろう。 そんなことはない。
都落ち前に頼朝側から持ちかけた和議、手打ちのタイミングもあったし、
粘り腰ならいくらでも粘れる(>>3)。 万一壇ノ浦に勝ったとしても
それだけじゃもう情勢は引っくり返らんところまで行っちゃってるからなあ 海戦で勝っても陸の三方塞がりをなんとかしないと状況は変わらない >>28
× 藤原(伊藤)景清
○ 藤原(伊藤)忠清 >>33
勝ち抜き戦でこんな感じだった
__ 源氏 − 平家
先鋒 義経 − 宗盛 大将
次鋒 範頼
三番 梶原
四番 畠山
五番 土肥
六番 三浦
七番 和田
八番 北条
副将 比企
大将 頼朝
つまり源氏は一度にど負けても余裕だが平家にはあとがなかったということ 兵力の問題を考慮しないから分からないんだよ
当時の日本の総人口700万人程度
ここからさらに近畿と関東の田舎の動員を考慮すると
平氏源氏合わせて最大で1万動員するのが限界
源平合戦は両軍合わせて5千程度だろう
つまり兵力の差がなくて小規模の戦争だから戦略や士気でいくらでも戦局を動かせて、とんずらという選択枠はなかった
さらに平氏はいざとなったら西の豪族も味方にできた。
結局、平氏に隙を与えて戦局を立て直す暇を与えなかった源氏の戦略が上手かったってことでしょう あと武将個人の武勇で戦況を動かせたから
平氏には滅亡する間際まで危機感がなかったと思われる 壇ノ浦の時点で、日本全土中、平家側の支配圏ってどこ残ってたの? >>38 つ平清経 平維盛
壇ノ浦開戦前から二位尼はじめ女性も含めて一門は皆覚悟してただろう 壇ノ浦の合戦の時点では、九州を源氏側に押さえられてしまっているので、
平家はこれ以上逃げる場所がなくなっている。
壇ノ浦の合戦以前に、逃げるルートを確保しておかねばならなかった。 本州から離れた流刑地に行って、罪人を接収しながら勢力を大きくするんじゃ >>42
最後の拠点だった屋島を奪われたから彦島しか残らなくなったんでしょ >>43
壇ノ浦の合戦で敗北したときには、すでに瀬戸内海の制海権を源氏側に
奪われているので、九州北部の海域を通って対馬海峡沿いに逃れるしか
あるまい。その後、九州西部の海域を南下すれば、鬼界ヶ島に逃れる
ことができるだろう。
壇ノ浦の合戦の前に、先遣隊を鬼界ヶ島に派遣し、安徳天皇と女院が
お住まいになる御座所を建設しておくことが必要だ。 鬼界ヶ島まで来るのなら、内裏や平宗盛の本軍は奄美大島に置いたほうが
よさそうだ。奄美大島なら彦島より面積も広いから、食糧の生産もできて
持久戦ができそうだ 鬼界ヶ島に流された鹿の陰謀人、壇ノ浦の時点で生きてたっけ? 俊寛なら平家物語では有王が会いに行って顔を合わせたとたんに力尽きて死んでるね。
康頼と成親は知らん。 俊寛僧都・平判官康頼・藤原成経たちが流されてきたときは、鬼界ヶ島は
住民は野卑で、都とはまったく違った環境だった。
平家が来れば、内裏・女院御所・平家一門の公達たちの邸宅が並ぶ小京都と
なり、夜ごとに笛の音色が聞こえる雅びな環境に一変したことだろう。
そのころまで俊寛僧都が生きていたら、どう思っただろうか? >>53
硫黄が出たみたいだからな。
あの時代中国では火薬が実用化されたから、
硫黄の需要はうなぎのぼりだったから。 物々交換で生活してたのかね?
農作物は作れなさそうだし。
普段何食ってたんだって話。 >>55
このころだったら、貨幣経済の波が鬼界ヶ島まで押し寄せていたので
ないの?
米とか麦は取れなくても、硫黄をとることで必要物資は
何とかなったのでないの?
じっさい俊覚の使用人が訪ねてこれたのだから、それなりに通商路は
開拓されていただろうし。 平家は硫黄貿易で稼いだ金で、米などの食料や布・武具などを本土から入手
するのだろう。やがて唐船が硫黄を求めて鬼界ヶ島に入港し、港町は唐人で
にぎわうようになる。
赤いランタンの下がった唐人街に平家の公達も訪れるようになり、すっかり
成人した安徳天皇もお目当ての姑娘を訪ねて行幸されるようになる。
この南国の別天地に、平家の栄華が再び訪れるのだろう。 >>57
それどころか、火薬兵器を手に入れて、逆転の目もありうるかもしれない。
貨幣経済を浸透させて、源氏の将兵を買収するかもしれない。 それ以前に硫黄島で生活基盤を築くまで衣食住を確保するのがどれほど大変か理解できないのか。
いきなり無人島でもないけど未開の土地に行ってどうやって生きていく気してるんだw >>59
船で行くから、食料は積んでいるのでないの?
当面は1年分は必要だけど。 どのくらいのサイズの船を想像してる? 何隻?
そして平家の人数はどのくらい?
慶長遣欧使節だって大した人数でもないのに壮大な船が必要だった。
平家にそれほどの船はないだろうしそもそも当時はそんな造船技術なんかないからね。
北海道開拓団みたいな移民の苦労話を少し調べてみては。 鬼界ヶ島の周辺には多くの島嶼があるから、平家は一門を派遣して、島々に
基地を建設するのだろう。それぞれの島で取れた産物を本拠地である鬼界ヶ島
に運んでくるから、物資は次第に豊かになってくるはずだ。
九州南方の島嶼に栄える平家・安徳天皇海洋帝国は、奥州藤原氏の南方版と
なるのではないか? 壇ノ浦の戦いでは、平家がよもや宋に逃亡ということがないように、
緒方一族が逃亡海路を制圧していた。
もう平家は逃げ場がなかったとしか思えない。 それはでっち上げだよw
摂関家が平家残党狩りに横やり入れている記録が寺かどっかの
記録にこっちの方が気になる 四国だけではなく、南九州にも拠点を作っておけばよかった。
そうすれば、本土を失陥した後でも、容易に南方の島嶼に逃げることができる。 >>69
薩摩守ただのり
現在の慣用句にもなっているぐらい薩摩にも平家の拠点はあったよ
ただ平家は京に腰を据え、西国・九州の武士団も
「京都の中央政界を牛耳る平家」を慕って従っていたから、
都落ちした平家につくメリットが急減した
この辺りが鎌倉に腰をすえて、日頃から在地の武士団と
接していた頼朝と違うところだな そもそも平家が最も強固な地盤を持っていたのが関東だったからね
その関東が敵に回ったらそりゃ負けます >>71
それは違う。
正盛、忠盛、清盛は東国の受領国司になったことは一度も無いし、
やはり平忠常の乱以降は、平家の勢力は東国から大きく後退している。 確かに一門が京都にいて、高い官位を占める貴族だからこそ、地方の武士たちも
平家を支持する意味があった
都落ちして官位を失えば、平家の求心力は低下するから、次第に味方を集める
のも難しくなるね そうは言っても、「一ノ谷の騙し討ち」までは十分に勝負になってたし、
源氏将軍も三代で絶えているので、似たようなものかもしれん。
やはり足利直冬や懐良親王、古河公方、足利義稙のようなハングリーさが無いと、
なかなか厳しいということだろう。 『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」 >>75
後白河法皇が平家方に停戦、和議を提案して、
平家側が油断していた、戦闘態勢を解いていたところを
鎌倉方が急襲して、
平家方の名だたる武将が片っ端から討ち取られたこと。
まあ治天の君が、解官された賊軍、朝敵(※)に対して何をしようが、
(※寿永3年1月26日に頼朝に対して平家追討の宣旨を出している)
誰からも咎められることはないわけだけど。 一の谷の本陣が安泰で、まだ勢力のあるうちに鬼界ヶ島などの島嶼に拠点を
作っておくべきだった。屋島・彦島だけではなく、一門の武将を鬼界ヶ島に
常駐させておき、食糧や武器も貯蔵しておけばよかった。
屋島が陥落した時点で、一門の大半は鬼界ヶ島に合流し、彦島には一部の
武将を残すにとどめておけばよかった。そうしておけば、壇ノ浦で敗れても、
滅亡することはなかった。 そもそも鎌倉幕府の有力御家人の多くが坂東平氏というね。 平家が台湾を開拓すればよかった。
そしたらいまごろあの島は日本領 壇ノ浦の決戦するくらいの兵力残ってるなら四国全力で制圧できるんじゃね?
と思ったんだが。
なぜ海戦を選んだのか。
また、投身自殺を選んだのか。 坂東平氏の有力御家人
・上総介広常
・千葉常胤
・三浦義村
・和田義盛
・大庭景義
・梶原景時
・畠山重忠
・河越重頼
・葛西清重 上総介広常と河越重頼(義経の舅)を除いて、粛清したのは北条氏やし。
千葉、葛西は長く続いた。
・侍所所司→別当
・播磨・備前・美作・備中・備後の守護
・十三人の合議制のメンバー
景時が無官というのも問題じゃないな。
愚管抄にもその名が挙げられ、子供の景季、景茂は任官してるからね。
特に景茂の任官は、頼朝の成功推挙の選に入った景時の権利を譲られたもの。 >>93
?源平合戦時の話だぞ?梶原氏全体を見ても当時は無位無官じゃね? >>94
播磨・備前・美作・備中・備後の守護になったのは、まさに源平合戦の最中ですよ。
長男の景季が、義経に便乗して無断任官したのも源平合戦の最中。
(例外的に頼朝の咎めなし)
そりゃあ梶原氏は、足利・三浦・千葉・小山・宇都宮のような大身じゃあない。
相模平氏の分家筋だからね。 >>93の梶原景時が「有力御家人」でないのなら、
和田義盛や畠山義忠も有力御家人ではないことになるよ。
いずれも、三浦氏や秩父平氏の分家筋で、
頼朝に一本釣りされて引き上げられた人間なのだから。
頼朝生前の北条時政(北条丸さん)・江間義時親子は言うまでもない。 >>83 でも、貞盛の末裔でなく良文の末裔で傍流。 >>86
四国の拠点屋島を奪われて、壇ノ浦で最後の戦いを挑んだんでしょ。 >>101
勝ってもその後の展望がないような。
補給は続かないし陸地は敵だらけ。
降伏するか、沖縄や奄美に新天地を求めるくらいしかなかったんじゃ? この時期は、島津も、大友も、まだ土着してませんよw
たとえば豊後は、まだ緒方惟栄(後に義経に肩入れして流罪となる)が
平家と平家方の宇佐神宮とやりあっていた時代。
島津家初代の島津忠久が、島津荘下司職に任命されたのも、
壇の浦と同じ文治元年(1185年)で、平家滅亡後のこと。 外国と交易してたんだから、倶利伽羅峠辺りで海外から援軍頼めば良かったのでは? 秘密裏に海底基地を作っておくという道もあった。
壇ノ浦で入水して滅亡したと見せかけて、海底基地に逃れて、そこで
平穏に暮らせば、源氏に見つかることはあるまい。
二位の尼が安徳天皇に語った「水底の都」をリアルに実現するという
ことだ。 琉球諸島に接近した平家艦隊が、為朝の矢で撃沈されまくるんですね 源為朝に対して安徳天皇が赦免状を発給し、官位を復することによって、
平家と源為朝が和解できるのではないか?
平家軍に加わった源為朝が琉球から射た矢は、本土の源氏軍にまで届いて、
源氏の軍勢を次々に倒していくことだろう。 いや、為朝は琉球王だから、日本の官位なんて必要としてないから。
とはいえ、「琉球王」としては、平家と無理に争う必要が無いのは確か。
大陸への防波堤として雇ってもらえるかもしれない。 安徳天皇が為朝を琉球王に冊封するというのもありかも知れない。
安徳天皇・平宗盛などの公卿による日本国朝廷と、源為朝による琉球国朝廷の
二重国家になるのだろう。
源為朝に琉球の統治権を認めるかわりに、年貢を上納させることとし、
八重山諸島・奄美大島など周辺の島嶼は安徳天皇の直轄地とすればよい。 人形師だと、清盛が「おまいら鬼界ヶ島行きね」って宣告した瞬間の三人のリアクションが
マジビビリだったからね。 沖縄本島の首里に都を造営し、安徳天皇や建礼門院がお住まいになる御所、
琉球王・源為朝の住む王府を建設する。また、平家の公卿たちの居館がその
周囲にできて、首里はたちまちにぎわうことだろう。
平家の築いた貿易のノウハウで、宋との交易も復活し、経済的にも繁栄する
のは間違いない。沖縄は宋の江南地方と地理的にも近いので、交易には
よい立地だ。 >>121
遣唐使船が沖縄に寄ったというんだが…海が荒れて行っちゃったということだとか 琉球が中継貿易の拠点として栄えるのって、いつぐらいからなんだろ。
日宋が直接貿易してると中継貿易の必要性がないよね。 >>125
鎌倉時代の琉球って原始時代みたいな生活だったんじゃ? 土着の漁民はそうだけど、九州から大量に移民して来た集団がいるから >>126
領主が群雄割拠していたというだけで
それほど文化水準が違っていたわけではないだろう
日本本土でも平安時代まで農民は縄文時代と同じ
竪穴式住居だったからな
ちなみに当時の琉球は台湾辺りまで含んでいた
(台湾も群雄割拠していた) >>130
50年ぐらいしたら蒙古が攻めてくるぜ? 対馬・壱岐方面に逃れていたら、数十年後に蒙古に攻められてしまう。
だから、琉球方面へ逃げておくのがよい。
琉球に逃げておけば、その後、台湾や海南島へ逃げるルートも開ける。 >>132
いや。平家が生き残っていたら義経は高館で死ぬことも成吉思汗になることもなかった 義経は奥州ではなく、沖縄に来るように、平家が呼びかければよい。
為朝に加えて、義経も味方につければ、平家は最強だ。
壇ノ浦で八艘飛びをした義経は、本島から石垣島・与那国島まで
軽々と飛び越えるのではないか。 >>136
琉球語は古い九州方言がもとだから九州の人とは通じたはず 範頼が豊後に上陸して九州への逃避経路を抑えた為退却する事も出来なかったんだよ >>144
東国が飢饉で食糧カツカツの状態でまがりなりにも軍団維持してる時点で少なくとも無能ではない 無能だから頼朝は大嫌いな義経を起用せざるを得なくなったんだけど >>147
最初から嫌いだったわけではないだろう
後白河法皇から直接任官を受けると言う
頼朝の家臣であることを忘れた態度に出るまでは >>149
頼朝の命令で出陣した義経が平家討伐で名前をあげるまでは
後白河法皇は源義経なんて知らないだろ >>144
屋島で逃げられた轍があるから九州の退路を絶ってガチで滅ぼしにかかった。平氏は西国強いので九州に引かれると面倒な事になりかねない 後白河が頼朝と義経を対立させようとわざと煽ったんだろ? 義経っていつ頃から後白河法皇に顔知られるようになったんだろ。
三種の神器奪還失敗して心情は良くないと思うんだけど 木曽義仲と戦う前から九郎義経の名前は朝廷に知られていたし、
義仲を追い払った後で義経が中心になり後白河を護衛していただろうが。
あと三種の神器はさほど問題視されてない。井沢本なんか読むのやめとけ。 三種の神器を重要視していたのは、朝廷や後白河院よりも、むしろ頼朝の方だろ。 平家は一の谷や屋島のような畿内に近いところではなく、九州を拠点にして
本軍は鹿児島あたりに置けばよかった。
源氏が追ってくるには遠いし、仮に攻め込まれても、奄美大島や屋久島に
すぐに逃げることができる。 京都と朝廷の奪還を狙ってたのに、南の果てで持久戦体制に入ってどうするんだよ >>157
へ?
後白河が頼朝に三種の神器取り返せと命令したんでしょ? >>162
まずは、違うという理由を述べてからソースは?と言おう >>163
160=162だ
単純にあんたらの持論の根拠を知りたいのであって163が間違いだとは一つもゆーてないわ 一次史料は不明だが、頼朝が義経に三種の神器の奪還を「厳命」した、とか
義経が草薙の剣の回収に失敗して頼朝が「激怒」したとかはありふれた記述でしょ。
一方で、後白河院が頼朝に対して「激怒」した、義経に対して「激怒」した、
とかいう記述は、以前から無いわね。
朝廷や後白河院が三種の神器をそれほど重要視していなかったことは、
最近は特に指摘されることだ。
頼朝としては、対朝廷交渉のカードにしたかった、
鎌倉方の手柄にしたかったんだろうけどね。 だいたい三種の神器の草薙の剣はレプリカで、本物は熱田神宮にあるわけで。 御霊を分けた存在なので、霊的にはオリジナルと同等の価値がある存在だよ。
無くなってからと言って仕方ない、で済むレベルじゃない。 >一次史料は不明だが
その一次史料がないと語るわけにはいかんでしょ。
司馬遼太郎の小説を真に受けて事実だと誤認してるあほもたくさんいる。
あの戦乱の状況下で回収して来いって方が無理な命令なのであって、
回収できなかったら最初に叩かれるべきは義経になる。
でも義経が朝廷側から寵愛されていたという事実を考えれば三種の神器そのものは大した問題じゃなかったと思う。 そうか?
後鳥羽が水没した剣の捜索を後に命じているぐらいだから >>168
そんなこと言ったら、どっちとも言えない、何も言えないでしょ。 >>169
後白河≠後鳥羽
神器無しで即位したという負い目を抱える後鳥羽が神器に拘るのも、また当たり前のこと。 >>170
一次史料になければ、〜があった、なんて断言するのは無理、それが史学。 >>172
無いとは言ってない。
ありふれた記述、誰もが記述しているが、
一次史料の出典が確認できなかったというだけだ。
吾妻鏡なのか、玉葉なのか、愚管抄なのか、吉記なのかわからない。
あれだけ自然に記述されていれば、根拠となる一次史料があると考えるのは自然なことだ。 >>173
壇浦の、義経が平家の舟の漕ぎ手を狙うよう指示したこともあちこちで見るけど、
あれが一次史料どころか平家物語にもないことくらいわかるよね。 >>1
沖縄に逃げても自活出来ないよ。新田開拓から始めて何年もかかる
>>37
元寇で10万以上動員してるのに1万は過小過ぎる >>176
太平洋の小島に何万人も送り込んで補給の船を沈められて餓死した日本軍になるわ 平家はまだ都で栄えていたうちに準備しておけば、南九州・奄美大島・沖縄への
逃亡ルートを作ることができた。都落ちしてから慌てて逃げて、しかも屋島を
失陥したとき、彦島しか残っておらず、ほとんど粘ることができなくなったのが
いけなかった。 食糧が原因と確かに、昔聞いた。玄米とか、当時食糧事情、栄養が都は足りていなかった。
野山かけまわって鳥や獣とか庶民は食うだろ、内緒にしろさあ、干物、乾物ではビタミンを足りない
庶民の方がよほどうまいものを食う、源氏と平家、その差、聞いたことがあったけれど? 当時は西日本が不作だったらしいね
そのため、平家は武士の動員力が低下し、劣勢になったらしい
富士川の合戦で潰走したのも、臆病だったからではなく、源氏側と
軍勢の人数に差が付き過ぎたためらしい >>181
言い訳だけは一丁前の京都人
京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 退却するより和睦に応じたらよかったのに
一定の勢力を保持したまま次の時代に移れたのに >>184
後白河法皇がそれを許さなかったのでは?
半ば法皇が仕掛けてるから。
保元平治の乱なんてまさにそれだし。 一の谷とか屋島とか、退却した場所が都に近すぎたのがいけなかった。
源氏に追撃されたとき、逃げるのに一苦労だった。
最初から南九州あたりを本拠地にして源氏と戦いながら、奄美大島や
琉球にも拠点を築いていけば、逃げ場所に困らなかった。 平家の求心力は何か?
平家が中央(朝廷)の実権を握り、
西国の声を京都で代表していた(と思われていた)からだ
ここが中央とあえて距離を置き、京都に本拠地を置かなかった
奥州藤原氏や鎌倉と異なる所だな
そんな南九州から奄美まで逃げていたら、
平家の求心力はますます没落するよ >>187
地盤の陸奥へ逃げ込まずに鎌倉で集団自決した北条氏・安達氏もそうだが、
当時はなぜかまだそういう発想が無いんよなぁ。
そういう粘り腰の発想が出てくるのは、南北朝時代に入ってから。
懐良天皇・北畠親房・足利直冬〜古河公方・足利義稙などなど。 >>187
都に帰る気満々だったからだろう
だからこそ安徳天皇や三種の神器も一緒に持ち出したんだし
本当は後白河法皇も一緒に平家が連行する予定だった
(これに失敗したことが平家最大の失敗。
福原遷都の時には後白河法皇や高倉上皇も平家が連れて行った)
安徳天皇や神器を有している限り譲歩を引き出せると思っていた 話を作るなと言っている人がいたでしょ
神器(刀)『七支刀』だと書いてない? 天子というくらいだから
中華思想の影響だよ
いつ頃の時代の話なのか知らないけど、
天子自身、そのような存在が、日本に渡って来たのかな? まだやっているのかな、あの忍者アニメ
この刀で・・・みたいなストーリー
『ボーボボ』画像検索、グーグルが良い 『dead end 真の紛い者』
かなり詳しいと思うんだけど、
教本のようなものがあるのかな、独学?
家の老婆も、かなり詳しいよ むかーしの話
例えば、畿内(何々、誰々の領地。領内。)に住んでいたとは言っても、
殺害されていた側の人々もいるはず
差別されていたとか それと『菅野力夫』
グーグルで検索してみて、画像だよ
かなり詳しくない? wiki ハワイ事件
>ワシントンに上告するかに対して、
>それまですることはないと答え
『ワシントン』
よくわからないけど、凄い話じゃない? この曲の話だよ
という説まであるでしょ
『ボーボボ 田ボ』
youtubeで良いから観てみたほうが良い Whitesnake 白蛇の紋章?
ボーボボと同じようなものだと
言っていたでしょ 平家は勢力が衰え始めてから滅亡までが早かった。
それほどまで急激に負け戦が続き、都落ちし、拠点を次々に失って
滅亡に至るとは予想もできなかっただろう。
退却のための時間が十分にとれなかった。 陸で負ければ海に逃げるというパターンをくり返してきたが、源氏が水軍を組織したので逃げられなくなった。
つまり瀬戸内の水軍に寝返られたのが滅亡の原因。 貿易よりも侵略の道を選べばよかったのに。
当時の朝鮮って強かったのかね? 仮に朝鮮半島南端を侵略したとして、なににするんだ? 済州島あたりに拠点を築いておき、壇ノ浦の合戦で彦島を失陥したら、済州島に
逃れるという手はあった。
蒙古襲来において、済州島に立てこもった平家軍は、三別抄とともに南下する
蒙古軍と戦い、その戦果によって再び都へ凱旋するのではないか? その程度の島なら攻撃すれば簡単に勝てるけど、その後どうする?
まさか敵の軍隊を倒して主要都市を制圧すれば人民みな靡くと思ってる?
拠点をつくるにしても日本人を大量移民しなきゃならないが、
そんなことするくらいなら西国にある未開拓の原野を開墾するほうが先でね? やはりセオリー通り、南九州に拠点を作って、大宰府・本州への反撃を含みながら、
奄美大島・鬼界島、さらには琉球・台湾への逃走ルートを確保するのが、確実に
生き延びる道だっただろう。
おそらく、源氏にことごとく敗れて、本州から都の奪還はできなかった。
中央貴族に戻るのはどこかで諦めて、逃げるほうに梶を切るのだろう。 >>210
確実に生き残りたいなら、屋島の戦い・葦屋浦の戦いで敗北した後に、
彦島を放棄して、みんなで宋まで逃げる アフリカまで逃げても、どこまでも追いかけられるよ、皇室に伝わる神器を持ってるものが逃げたら。 宋の皇帝に20万の援軍でも出してもらって日本奪還 見返りに日本国を大宋の倭州として献上、 平家は倭州の刺史(名誉職)となり、500か所の荘園領主となる これぐらいしかないね 平家が京都に帰れるのは 明の皇帝に冊封を受けて、日本国王となった足利義満は、朝廷から日本国を奪おうとしたのかな。 皇室は王道
幕府は覇道
やりかたが違うから共存可能だ >>216
皇室は俗世の政治から超越した存在であるからこそ、
高い権威を維持し、万人が尊崇するとつくづく思う
皇室が俗世の政治にかかわると、
政争している一方に味方して一方に敵対することになるし、
何か政治上の失態があったり、
「結果」(例えば経済成長\\やGDP向上など)を出せなかった場合は
責任問題が浮上してしまう
ネトウヨが持ち上げている旧宮家出身の竹田氏は、政治発言を繰り返し、
自分で尊皇思想がいかに素晴らしいか(子孫が自分の先祖を自画自賛w)を披露して、皇室の権威を損ねてると思うよ 日清戦争の後に呼び方を「天皇」から「天子」に変えればよかったな >>215
単に両属してるだけだろ。天皇陛下の臣下を辞めたわけでもないから。 >>220
宋が本拠地を捨てて逃げてきた蛮族を受け入れた例があるの? >>217
皇室がやるならともかく、子孫が皇室を褒めたたえるのに違和感なんてないだろ
日本人なんて遡れば大体先祖に皇族いるぞ
それに、天皇や皇子にしたって人間性が優れてる人ばっかりがなってきたわけじゃないから、そもそも近い血統だからと品位を求めるのが間違い 日本人の「先祖をたどれば、皇室に当たる」率の高さは重視すべきと思う。
臣籍降下した元皇族は多く、元皇族である清和源氏の伝播はさらに多い。
奈良時代の人口が500万人程度であることを考えると、元皇族+源氏の
混入率は極めて高いというべきだ。
日本人が皇室を尊重し、親しみを持つのは当然だと思う。 >>223
日本人の糖尿病DNAは藤原摂関家由来という説は説得力がある。 >>222
謙遜こそが日本人の美徳だよ
それから明治天皇の子孫だ旧宮家だと皇室に近いことを世間に宣伝しているんだから、品位を求めるのは当然 藤原氏も栄えた家なので、一族の人数はとても多く、末端の家系が各地に散らばった
ので、その伝播率は高いね
皇族(源氏・平氏含む)、藤原氏の血筋を引く国民はかなり多いはずだ
ポピュラーな苗字として知られる佐藤・工藤・安藤・武藤などは藤原氏出身の
苗字だったのだから 散り散りになって逃げて、執権北条の時代になれば許してもらえるんじゃね? >>226
その辺の苗字のほとんどは明治時代の名乗りだよ 日本人の殆どが農民だったのに、皇室や源氏との繋がりがあるとは思えないんだが
武士だけの話だろう >>230
そりゃあ膨大な数の先祖がいるから
何百年もするうちに傍系は貴族や武士身分にとどまることができずに
零落していくからだろ
明治以前の日本は特権身分の男は一夫多妻だったために
上流階級の男ほど子孫を残しやすかった
大勢の妻たちとの間に20人、30人ずつ残していったら子孫は膨大な数になる
家を継げるのは嫡男一人だけだし
傍系は代を重ねるごとに没落していく 江戸期の大名でも取り潰しで没落したら農民になるしかないんだし。
潰れなくても傍流は本家に仕え、その傍流はさらに……となって末端は足軽。 おう頼むよ。
俊寛は平清盛もいない、戦もない鬼界が島で平和な晩年過ごしたんだよ。 チンギスハンだって膨大な数の子孫を残したからな
1500年以上日本の支配者層だった皇室と藤原氏の子孫は多いだろう
というか男系子孫に限定しなければ近代以降に帰化した日本人以外は全員皇室と藤原氏の血が入っててもおかしくないのでは 日本人の糖尿病遺伝子は、藤原摂関家由来というのは説得力がある。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
4S2CE とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
UYM >>1九州以南を、本土にして盛り返すという気持ちが平家になかったよね
伊勢平氏、やっぱり、日本の中部から近畿中国地方にかけてを本拠としてるという意地があったから 源範頼により九州地方はすでに制圧され、最後の拠点彦島を失えば平氏に失地回復ののぞみはもはやなかった 大陸に渡りモンゴルの若者テムジンに加勢する
その時の見返りにモンゴル軍を味方につけて日本全土を征服する
頼朝ら源氏も後白河法皇ら朝廷も打ち首になり日本はモンゴルの領土になる
平氏だけはチンギス・ハーンの友人として九州のみ管轄を許可される 平家も奥州藤原も船に乗って宋へ逃げればよかったのだ 奥州藤原氏は蝦夷地で十分、
そもそも江戸後期にならないと蝦夷地探検すらしてないとか
この国はおかしすぎる 米作れねえって
一族だけで細々生きてりゃ勝利ってか >>1
シン・平家物語 テーマソング
「KIYOMORI No.1」
♪おたべ喰ったって〜
和菓子喰ったって〜
京都の中では「平家」なの♪
坊主が唸ればぁ〜
公家が弾むわぁ〜
陰陽師 呪詛 アタック!
ワンツー ワンツー祈祷 護摩 !
でも、涙が出ちゃう・・・
だって、「壇ノ浦」なんだモン、、、、orz(涙
♪南無阿弥陀仏も〜 般若心経も〜
青空に高くー叫びーたい〜♪
平家 一門 NO.1
平家 清盛 ナンバー アー ワーン! >>251
現在は二代目のレプリカントであり
熱田神宮にある。
皇居にあるのはそのコピー
鏡や勾玉も何度も平安時代に
災難にあっており、修復されたものだと
言われている。 大事なのはそこに宿ってるものであってガワではないからね
とはいえガワも大事っちゃ大事だし案の定このあと承久の乱で(ry >>248
蝦夷地探検の方は北海道だから蝦夷違いだ ポツンと一軒家 2時間スペシャル 2019年最後の放送!★4 全ては清盛・忠清の東国経営の失敗から。頼朝の誅殺はもちろん上総広常と千葉常胤を懐柔できなかったのが痛い 放射能廃水の大阪湾に垂れ流しで維新信者の民国土人ヒーハー タコが言うのよタコが
日本は熊襲の産地で極めて文明度が低いって おてもやん「成人式のドンチャン騒ぎでアベコロナが大爆発や
お・も・ち」 贅六は無能だす
【幕末の学問】
『コンサイス人名辞典日本編』に採録された文人の出生地(塚本学/信州大教授/福岡県出身)
1801年〜1850年 ※江戸出生の大名は江戸生まれの人数に含まない。
江戸生まれ 73人
京都生まれ 11人
大坂+堺生まれ 5人
長崎生まれ 6人
その他 326人
幕末の大阪府は長崎市以下…
【幕末の武芸】
江戸(東京都区部)出身の幕末剣豪 → 男谷信友、勝子吉、寺田五右衛門、白井亨、高柳又四郎、千葉栄次郎、伊庭八郎、榊原鍵吉、山岡鉄舟…その他多数
埼玉郡(埼玉県東部)出身の幕末剣豪 → 秋山要助、岡田十松、戸賀崎熊太郎、中村万五郎
肥前国(長崎県)出身の幕末剣豪 → 中村一心斎、高尾鉄叟、渡辺昇
五畿内(大阪府+京都府+奈良県+神戸市)出身の幕末剣豪 → なし
幕末の大阪府は久喜市以下… いそじん「早よ宣言解除して
またアベコロナが大拡散や」 奥州藤原泰衡が金塊を袋詰めにして宋へ逃げた方が現実的 九州で体制を立て直すつもりが、平家の味方だった九州の有力武家が源氏方について
しまったので、九州へ行けなくなり、東から源氏が攻めてきているので、
壇ノ浦で最終決戦をせざるを得なくなった。 昨日は文化の日だったこともあり、逗子市の六代御前の墓へお参りしてきたよ。
六代御前(平六代、平高清)が処刑されて平家物語の本筋は終わりになる。
エピローグで後白河法皇が出家した徳子の庵を訪問して涙するのがあるけど。 まあ沖縄方面に脱出路とそのための拠点を
準備しておく周到さがあるくらいなら
後白河法皇に騙されて一の谷で壊滅的損害を
出すということもなかっただろうな。
清盛亡き後の平家ってなんか間が抜けていた。
富士川の戦い(この時は清盛はまだ死んでいないが)も
北陸戦線も間が抜けていた。 平家て貴族丸ごと疎開したわけで。だったら莫大な財宝も持ってたよな。その軍資金でどうにかならなかったかな。
三種の神器も天皇もいるのに宋に泣きつけば20万の援兵でもって、、 壇ノ浦で玉砕するのは目に見えてるのにな。天皇を殺して三種の神器も失わせた極悪人という汚名を源氏に被せたかったのか?そもそも壇ノ浦まできて滅亡させるメリットが源氏に小さい。時間かけて降伏迫ればいいわけだし。 >>275
源氏側は範頼軍に不満が蔓延していたように食糧不足のうえ厭戦気分で士気が低下していたのよ
人間は将棋の駒とは違う
長期戦になれば源氏のほうで軍が空中分解の危険性が高かった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています