司馬遼太郎 Part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。
Part8からは「ひとびとの跫音」が始まります。
前スレ
司馬遼太郎 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/ 以上は、林屋辰三郎の説である。
室町時代「好き」は身を滅ぼす怖いものと恐れられつつ、「好き」をする者を周囲はうらやんだ。
江戸時代になると、その「好き」という心は「道楽」という言い方になり戒められたという。
…… 司馬遼太郎 / ドナルド・キーン『世界のなかの日本 / 十六世紀まで遡って見る』 「リズムは人間を解放する」(タカジ)
「音楽は世界と人間をその抑圧から解放する力だ!」(ミルフォード・グレイヴス)
……『ジャズ・マガジン』77年8月号 タカジは共産党を除名されてからは、旋律に傾斜した。
タカジがリズム論を説き続けていた時期に、「自分は演歌が好きである」という人に何人も出くわしたからである。 『街道をゆく』「豊後・日田街道」に、このイベントが登場するよね。
1 名前:ばーど ★[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 18:00:55.34 ID:CAP_USER9
「牛喰い絶叫大会」で叫ぶ女性=9日午後、大分県由布市湯布院町
http://www.chunichi.co.jp/s/article/images/2017100901001458.jpg
「結婚4年目、うちは旦那ファーストから子どもファースト」。大分県産の高級牛肉を食べた後、日ごろの思いを叫んで声の大きさと内容のユニークさを競う恒例イベント「牛喰い絶叫大会」が9日、同県由布市湯布院町の牧草地で開かれた。県内外から約700人が集まり、会場は終始笑いに包まれた。
秋晴れの下、参加者は「豊後ゆふいん牛」のバーベキューを堪能し、うち100人がススキで飾り付けられた特設ステージに次々と登壇。「お母さん、もうちょっと優しくして」「パートの時給上げて」などとマイクに向かって声を張り上げ、会場を沸かせた。 ▽バラモン聖者
古代インドに限らず、現代インドにもサドゥーと呼ばれているヒンドゥーのバラモン聖者は掃いて捨てるほどいます。
バラモン聖者の中には、日々苦行を続けておられる方もいます。
無言の行は軽いほうで、
立ったままで死ぬまで過ごす、
頭を土の中に埋める、
片手を頭上に差し上げて死ぬまでその手を下ろさない、
おチンチンに銀串を貫通させている、などなど、思いもよらない苦行を続け、
そのテージャス(パワーの根源)が神々に届いて、魔族がこの世で暗躍しないようになっているのです。
http://1kara.tulip-k.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/12/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3.jpg ▽梵(ブラフマン)
ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。
もしくは、その原理を神格化した創造神。
ブラフマンは宇宙の源である。外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。
※梵我一如:自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと等価であるとされる。 多くの無償の行為者にしばしば見出せるのは屈折したナルシシズムでる。
画像君のことだねw ▽ウパニシャッド
サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物。「奥義書」と訳される。
後期ヴェーダ時代時代(前1,000〜前500年)の文献の一つである『ウパニシャッド』にもとづく哲学をウパニシャッド哲学という。
ウパニシャッドとは「傍らに座る」という意味であり、バラモンの師から弟子に伝承された奥義を意味する。 バラモン教が形式的になり、バラモンが単に祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる動きが出てきた。
それがウパニシャッド哲学であり、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した。
ウパニシャッド哲学によると、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であるとする。
その真理を知覚することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えている。
後期ヴェーダ時代に現れたこの内面的思索の重視と、業・輪廻の死生観は、次の時代にバラモン教に対する二つの宗教 −仏教とジャイナ教− を誕生させる。 ▽普遍性と民族文化−文化相対主義(Cultural Relativism)
世界にはたくさんの「文化」があって、それぞれが価値観を異にし、習慣・生き方を異にする。
どれが優れていてどれが劣っているかを決めるような絶対的な基準は存在しない。
だからすべての「文化」は等価であり対等である。
だから、私たちは、ほかの人たちの「文化」を尊重すべきであり、安易に「変だ、間違っている・・」などと判定すべきではない。
仮にある「文化」が「変で間違っている」ように思われたとしたら、その「文化」を理解するように努力すべきである。
また仮に努力しても理解できなかったとしても、その「文化」の存在を認めなくてはならない。
こういう考え方を文化相対主義と呼びます。 ▽マルクス主義における民族の問題
〈エンゲルスの「「歴史なき民族」理論〉
民族自決権を認められるのは、あくまでもヨーロッパの歴史的大国民のみであり、「歴史なき民族」や「諸民族の残片」は、これらの生命力ある大国民の中に吸収されてしまうのが歴史の必然である。
マルクス、エンゲルスが民族自決権を唱えていたとは言いがたい。
マルクス主義は国際主義の立場にたち、階級闘争を中心に歴史の動きを見てきたため、国際主義と民族主義が両立するのは難しく、民族的利害の強調がプロレタリアートによる階級利害のさまたげになると考えていた。 〈 レーニンにおける民族自決権〉
民族自決権とは「各民族が自分の運命を自分で決定する権利」であり、抑圧民族は被抑圧民族に対して無条件に民族自決権を認めなければならない。
かつ、被抑圧民族内部でのプロレタリアートの自決を促進しなければならない。 〈 スターリンにおける民族自決権〉
自決権とは、民族の運命を決める権利を持つものは民族自身だけであるということ、
民族の生活に強制的に干渉し、民族の学校その他の施設を破壊し、その風習や慣習をうちやぶり、その言語を圧迫し、その諸権利を制限する権利を持つものはだれひとりいないということである。
だが、民族の問題とプロレタリアートの利益が敵対しあった場合は、プロレタリアートの利害を優先する。 レーニンもスターリンも、辺境の非ロシア諸民族がロシアに見習ってそれぞれの民族内部での革命を遂行すること、また分離の権利を与えたのちも社会主義諸国の自由連合のメンバーとして自発的にもう一度ロシアと結びつくことを期待していた。
しかし、現実にはそのように展開しなかった。 ▽美空ひばり
美空ひばりがうたう歌が世界中の民族に通用するわけではないという特殊性。
日本人という民族の感性がもつ際立った感受性。
ただし、その感受性は司馬遼太郎にはない〔>>262〕。
http://prt.iza.ne.jp/kiji/entertainments/images/170327/ent17032708010006-m1.jpg ▽日本の演歌の源流は韓国であるという説
1970年代に韓国の李成愛(イ・ソンエ)が日本で「カスマプゲ」という演歌を出して、大ヒットしたことがありました。
この時に発売されていたレコードには「演歌の源流」というタイトルが付けられていたのです。
http://www.fanfan1.com/upload/save_image/11051441_5097519cc375a.jpg
これを機に、演歌の源流は韓国だと主張する在日が多くなりました。
その一人の梁泰昊さんに、何故なのかとお聞きしましたら、演歌の始祖である古賀政男は朝鮮で育っており、朝鮮の影響を受けているから、という答えでした。
古賀は朝鮮で育ちましたが、朝鮮人との付き合いは特にはなく、本格的な音楽活動は東京の明治大学に入学してからのことです。
したがって、古賀が朝鮮から影響を受けたというのは、かなり無理がある説だと思います。 ▽中山晋平
明治20年 - 昭和27年。日本の作曲家。
長調の曲はほとんどが日本固有のヨナ抜き音階で書かれている。
長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。
童謡:『シャボン玉』『てるてる坊主』
流行歌:『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』
新民謡:『東京音頭』『大島おけさ』
https://movie.walkerplus.com/movie/title/image_contents/l/mv43628-l.jpg ラッキョの皮を剥いても剥いても皮ばかり
芯がないから 新民謡 へえ〜〜ッ。 ▽古賀政男
明治37年福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。
明治大学在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担う。在学中に音楽家を目指す。
明治大学マンドリン倶楽部演奏会にて『影を慕いて』を発表。
丘を越えて(1931年) 歌:藤山一郎
酒は涙か溜息か(1931年) 歌:藤山一郎
影を慕いて(1932年) 歌:藤山一郎
悲しい酒(1966年) 歌:美空ひばり
https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/cfc-co/cabinet/shohin01/iditem/d6160-02.jpg ▽森彰英
大正元年〜大正11年:古賀政男、7歳の時に母親と一緒に朝鮮へ。善隣商業を卒業し、18歳で大阪へ。まもなく上京、明治大学予科に入学。
京城にいたころ、日本から艶歌師がやって来て、「金色夜叉の唄」や「千葉心中」や「さすらいの唄」をうたって聞かせた。
なけなしの小遣いをはたいて楽譜を買い、自分で演奏してみたそうだ。
大正初期には、ソウルの市街は日本人街と外国人街に分かれていたという。
現在の市街図でいえば、静渓路を境界線として、それよりも南山寄りが日本人街。
北寄りの鐘路を中心としていた地域が朝鮮人の街になっていた。
……「日本の演歌の元祖は韓国のトロット」ではないということを論証しようとしている。 ▽矢沢保
この方も、「日本の演歌の元祖は韓国のトロット」ではないということを論証しようとされているが、詳細不明。
矢沢さんの人生は、うたごえを中心とした音楽文化活動にその情熱を注ぎ込んだ壮絶なものでした。
http://www.utagoekissa.com/image/yazawa001.jpg >>910
>>911
マルクスは民族自決を否定し、反対にレーニンは民族自決を肯定していた。
にもかかわらず、司馬さんは「マルクス・レーニニズムの普遍性」なんている問題の立て方をするものだから、
この章の叙述が理解しにくいものになっている。
読者の皆様も、タカジが何について悩んでいるのか、さっぱり理解できなかったでしょう? 「この家には、テレビもない」
いわれてみてそれを買ったが、私も家内も見ることはほとんどなかった。 ▼テレビ放送開始
テレビ放送開始(昭和28年)の数年後に生まれた筆者は、いわゆる“テレビっ子”世代であるが、
ここ10数年ばかり、ほとんどテレビを観なくなった。
あまりにも面白くないからだ。
いまでも観る人の方が多数なのだろうが、あんなつまらないものをよく観るなと不思議に思う。
変人にしか思えない。 ▽大阪のホテルのマッサージの女性
三十すぎの全盲の女性 カセット・デッキについては、司馬遼太郎は名前を聞くことさえ初めてだった。
……こいつも変人よ。 ▽手伝いの娘〔>>245〕
カセット・デッキを保有していた。
マサミは、まともだ。 司馬遼太郎は、音楽を話題にすべきではないと思う。
自宅にステレオもテレコもないなんて原始人か? ★佐久
▽食道癌〔>>295〕
ちなみに、福田是定氏の死因も、食道や気管にできた癌であった〔>>847〕。 ▽となりの病室の農村のボス
村の女房たちが13人も看病にきて、夜は廊下で寝ていた。 ▽9月12日
忠三郎の葬儀。大阪カテドラル聖マリア大聖堂〔>>26〕。
第1章に葬儀の話が出ていたが、このときはユスティチア・たへが登場していなかったので、
なぜに教会で葬儀?と不思議に思ったものだ。 ▽玉造口
大阪城搦手口の一つで玉造方面に向かって口を開いていることからこの名がある。
https://osaka-castle.net/wp-content/uploads/2016/12/osakajokoen-bairin-map.png
本章では大阪カテドラル聖マリア大聖堂の敷地になっている細川越中守忠興の屋敷の位置を示すために記されている。 ▽細川越中守忠興の屋敷跡
細川忠興の屋敷の台所があったと伝わる場所で、細川ガラシャ〔>>27〕最後の地とされています。
石造りの井戸や地蔵堂と石碑があり、石碑の側面にガラシャの辞世の句「散りぬべき 時し知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が刻まれています。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/97/64dc8f5fe06babb621213b74b46db67e.jpg
小笠原少斎の最期に地であるとは誰も言ってくれないので、俺が言っておきます。
ここが小笠原少斎最期の地と言ったのは、おそらく俺が世界で最初で最後です。 ▽誄詩〈るいし〉
死者の生前の功徳をたたえ、その死を弔う詩。
「誄」は訓読みだと、「しのびごと」。故人を偲ぶことである。
ちなみに、筆者はこの漢字が読めなかった。 ▽黒いスーツを着た娘
教会の職員かもしれない。長く細い腕をもつ。
タカジの誄詩を朗誦した。 筆者はスケ兵衛ではございません。
筆者になりすまさないでください。 ▽土方与志
命日は昭和34年6月4日〔>>671〕。
非合法時代のタカジのシンパである〔>>740〕。 谷沢永一『清冽で温柔な感情移入の極致』(全集第50巻)
【一】忠三郎
正岡忠三郎さんが「自分の存在をひと迷惑だと感ずる感覚のおかしみは、この人の器量と哲学そのものといっていい」と喝破する司馬遼太郎の胸奥には、人間社会の角突き合う雑踏への練りあげられた感慨が底流している。 谷沢永一の文章は、読みづらい。
形容句と副詞句がやたらと長く、かつ見慣れない漢字熟語がたくさん出てくる。 ▽磊塊
〔多くの石が積み重なっている意〕 胸中に積み重なった不平。 ▽二宮敬作
文化元年(1804年) - 文久2年(1862年)。江戸時代の蘭学者・医学者。
日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。
伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれる。
http://morinokakera.jp/blog/wp-content/uploads/2012/02/20120218%E3%80%801.jpg
本章では、村田蔵六に禁酒を勧められたエピソードが出てくる。 ※シーボルト・イネ
http://morinokakera.jp/blog/wp-content/uploads/2012/02/20120218%E3%80%803.jpg
「銀河鉄道999」などで有名な漫画家の松本零士さんがシーボルト・イネについて述懐されています。
理想の女性としてメーテルやスターシアなど切れ長の目で顎の細い女性を描き続けたが、自分でもイメージがはっきりとは分からなかったそうです。
ところが、楠本高子(シーボルト・イネ)の写真を見て「この女性だ」と思い当たったそうです。
なお、イネは宇和島藩主伊達宗城により改名を指示され「高子」と名乗るようになった。 【二】子規
「子規の文章は、維新でいったんこわれた文章日本語がふたたび共有のものとして再構成されるための見本の一つになったかと思われる」と、司馬遼太郎は例によって極く控え目に余談として記すが、この評価は蓋し鉄案として特記せねばならぬであろう。 ▽鉄案
動かしがたい決定案。確固とした意見。断案。 「鉄案」なんて初めて見る熟語だ。
こういう言葉を使うから、谷沢永一の文章は、頭に入らず、心に沁みない。 ▽断案
ある事柄について最終的に決定された考え・方法・態度。
▽截然〈せつぜん〉
サイゼンの慣用読みがセツゼン。
物事の区別がはっきりしているさま。 ▽偏僻〈へんぺき〉
かたよること。心がひねくれていること。
▽犀利〔>>404〕 ▽貨幣経済史観
司馬遼太郎/講演『司馬遼太郎が語る 第五集 日本人と合理主義』(新潮社)
思想・宗教・イデオロギーなど特定のドグマにとらわれない日本人の合理主義的な気質はどのような経緯で形成されたか。
室町以降の貨幣経済の発達と、論理より実証を重んじてきた思想史を背景に、独自の文化風土を醸成してきた日本型リアリズムの特長を語る。(1977年静岡公会堂にて収録) ▽高橋亀吉
明治24年 - 昭和52年。経済評論家・経済史研究者。
石橋湛山と並ぶ日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。
山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。
家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。
日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。
http://corp.toyokeizai.net/wp-content/themes/toyokeizai2014/press-room/award/index/images/takahashi_image.jpg 【三】タカジ
タカジは、司馬遼太郎の総体的評価によれば、「この人の思想の本質は、個人の解放ということにあったのではないか」と見通される。 ▽『恋愛論』(昭和24年/日本出版株式会社)
詳細不明 ▽マックス・ウェーバー『社会主義』(講談社学術文庫)
1918年6月に行われたウェーバーの講演。
当時は第一次大戦末期であり、前年ロシア革命が勃発、東部戦線ではブレスト・リトフスク条約で休戦が成立、ドイツ軍は西部戦線で最後の攻勢に出るが、この半年後に敗北する。
官僚制化という近代社会の趨勢は社会主義革命によっても変えることはできないし、革命後はかえって国家官僚への国民の隷属が一層酷くなるであろう、というのが論旨。
他に、教条的マルクス主義の資本主義崩壊論の誤りを指摘したりしてますが、はっきり言ってあんまり面白くないです。 ▽ノーメンクラツーラ(ロシア語)
ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉。
転じて社会主義国におけるエリート層・支配的階級や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。
後者の場合は「赤い貴族」とも呼ばれる。 【四】モラリスト
近い将来にもし日本人の知性の歴史が謙虚に素描される時、そのなかに司馬遼太郎は比肩する者のない傑出した存在として、知性の代表者として特記されるに違いない。
我が国びとは司馬遼太郎の抑制された構想と筆致により、まず日本人とは何であるか、さらには人間とその社会とは何であるかを熟考するための、限りなく幅広く温柔で安らかな深い示唆を与えられたのである。 「深い示唆を与えられたのである」でわかると思うけどね。
示唆を形容するに「限りなく幅広く温柔で安らかな」と書くから、わけがわからなくなる。
書き直せ、へたくそ。 ▽『イソップ寓話集』
ヘロドトスの『歴史』によると、紀元前6世紀にアイソーポスという奴隷がいて寓話を使いその名声をえたとされている。
現在のイソップ寓話集と呼ばれるものには、アイソーポスのものだけではなく、それ以前から伝承されてきた古代メソポタミアのもの、後世の寓話、アイソーポスの出身地とされる小アジアの民話を基にしたものも含まれている。
考古学的には、彼の歴史的な存在を確認するものはなく、ホメロスと同じような過程で、ギリシャにおいて、いつの頃からか、この名が多くの寓話を語る者たちや寓話そのものの総称となっていったと考えられている。 目から鱗。イソップは紀元前6世紀の人でしたか。
幼児の頃「イソップ童話」の大ファンでした。
アンデルセン童話・グリム童話なんて、イソップに比べたら実につまんなかった。 ▽「北風と太陽」
あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。
まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。しかし寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。
次に、太陽が燦燦と照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。
これで、勝負は太陽の勝ちとなった。 〔北風と太陽から学ぶ教訓〕
手っ取り早く乱暴に物事を片付けてしまおうとするよりも、ゆっくり着実に行う方が、最終的に大きな効果を得ることができる。
また、冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑なになるが、暖かく優しい言葉を掛けたり、態度を示すことによって初めて人は自分から行動してくれるという組織行動学的な視点もうかがえる。 ∧_∧
<ヽ`∀´> しかし太陽政策は役に立たなかった二ダー
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〈_フ__フ ▽ラ・ロシュフコー
1613年 - 1680年。フランスの貴族、モラリスト文学者。
名門貴族の生まれであり、多くの戦いに参加した後、いわゆる『箴言集』を執筆した。
彼の作品に見られる辛辣な人間観察には、リシュリューと対立して2年間の謹慎処分を受けたことや、フロンドの乱でジュール・マザランと対立したことなどで味わった苦難が反映されているともいわれる。
http://kakugen.biz/wp-content/uploads/2015/08/Fran%C3%A7ois.png
http://ec2.images-amazon.com/images/I/41RDl0p0hcL.jpg われわれは人生のどの年齢にも、まったくの新人として到達する。
だからいくら年を取っても、その年齢においては、とかく経験不足ということになってしまう。
〔吉川弘:訳〕 ▽ポール・ヴァレリー
1871年 - 1945年。フランスの作家、詩人、小説家、評論家。
多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。
1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表。
http://meigen.keiziban-jp.com/wp-content/uploads/2016/10/va.jpg ▽ミシェル・ド・モンテーニュ
1533年 - 1592年。16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。
現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。
http://wp.production.patheos.com/blogs/imortal/files/2014/08/Montaigne1.jpg ▽丸山真男
大正3年 - 平成8年。日本の政治学者、思想史家。
大阪の生まれ。東大教授。昭和21年、「超国家主義の論理と心理」を発表し、日本の超国家主義を分析。
その後も日本型ファシズムと天皇制国家などを論じ、第二次大戦後の民主主義思想を主導した。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/cangael/20140805/20140805082443.jpg ▽温柔
漢字熟語なので意味は即座に理解できる。
しかし、肌で感じられる言葉ではない。
「温かくて柔らかい」と言えばよいではないか? 司馬遼太郎全集の〔第一期〕は、代表作がズラリの文句なしの編集。
〔第三期〕は晩年の作品ばかりだが、司馬さんの死後に編集されたため、司馬さんの余計な口出しがなく、編集者が思う存分能力を発揮できている。各巻のページ数も多かったので買って損をした気はしない。
面白くないのが〔第二期〕。各巻のページ数が少なく、内容を見ても娯楽小説が皆無の時期の編集。
しかも、解説が谷沢の糞解説。 まあまあ、この時期、谷沢永一も体調を崩していたようだし。
谷沢の他の文章は、司馬全集の第二期ほどには酷くないよ。 『ひとびとの跫音』は終了されたようですね。
先生、お次の作品は何になさいますか? 了解いたしました。
その次は、「歴史と視点―私の雑記帖―」と続くわけですね? 「歴史と視点―私の雑記帖―」は単行本化され、いまでも書店で文庫本が買えます。
ところが、全集50巻の残りの評論随筆集は、単行本がなく、全集だけの特別な編集ですよね。
それでも、このスレでやるのですか? 文庫本しか持っていない貧乏な読者には、興味がわかないスレッドになってしまうのではないですか? もともと興味をもっている方が非常に少ないスレッドなので気になりません。 会話中に割り込んでスマン。
スレ立てできなかった( ´Д⊂ヽウェェェン
誰か頼む。 『古往今来』『歴史の舞台』等に分載されているから、それで読め。 初出は記そうと思っておりますから、『司馬遼太郎が考えたこと』で探すのが早いと思いますよ。 しかし、全集の全巻を終了させるには、何年かかるのだろうな? 画像君はかなりの年配者らしいが、死ぬまでに完結するのかな。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。