邪馬台国は伊都と平原遺跡だったらしいぜPart6 [無断転載禁止]©2ch.net
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国≠クニ クニ=市町村
例:日本国の中に、山城のクニや、筑前のクニ、吉備のクニ
<里程編(魏・東夷尺)>
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓クニ(倭人投馬国へ入国)
↓海渡千里
對馬クニ(島の大きさ分の1辺四百余里×2を迂回)
↓海渡千里
一大クニ(島の大きさ分の1辺三百里×2を迂回)
↓海渡千里
末盧クニ(邪馬台国九州本土へ入国)
↓陸行五百里
伊都クニ(女王所在地・首都ワシントン)魏使の到達はここまで
↓(東南)百里
奴クニ(邪馬台国中心・ニューヨーク)
↓(東)百里
不彌クニ
<日程編(倭尺)>
帯方郡
↓(南)水行20日
投馬国(朝鮮半島南部に到着)
↓(南)水行10日・陸行1「日」
邪馬台国(中心都市の奴クニへ到着)
イギリスへ行く旅程=ロンドンへ行く旅程、フランスへ行く旅程=パリへ行く旅程
邪馬台国へ行く旅程=奴クニへ行く旅程
<総距離(総計)>
奴クニまで、〆て一万二千里でした 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の奴国が商工業都市として膨張したのとは対象的であり、世俗都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀中旬の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、鳥居とおもわれる痕跡がある。
特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていることから、強大な女王がいたことがわかっている。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
平原遺跡の目の前には高祖宮があり、後世には東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
これが筑紫の日向の高千穂宮の実体であり、高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。 Eテレ邪馬台国・古代史ミステリー
ユーチューブに上がってるな
(後編)
http://www.dailymotion.com/video/x5llel7
「「倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東にあるとと書かれている」 と断言
倭人では「其南有狗奴國」で南
ど素人の番組制作・・・丸投げ????? ニニギは高千穂のクジフル岳に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などがまさにニニギ王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石神社、高祖神社の目の前の平原遺跡から出土した八咫の鏡などが証拠である。
魏志には、卑弥呼の宮城は楼閣高しと書かれているが、単に高い建物があっただけでなく、高祖山やクジフル山の山頂にまで楼閣が配置されていた可能性がある。
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には三種の神器が副葬されていた他、鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあったこともわかっている。
王宮である高祖宮(高千穂宮)は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していたことになる。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
太陽信仰が伊都国における神道(倭人伝における鬼道)の基本形であり、後の伊勢や宮中における祭祀に継承されている。
伊都国は魏志と記紀の貴重な接点であり、記紀の伝承に絶対年代を与えることができる。 【筑紫の日向】
福岡県西部にある高祖山の第二峰はクシフル岳といい、麓には室見川の支流である日向(ひなた)川が流れ、この山を越えて福岡市と糸島市を結ぶ峠は日向峠と呼ばれている。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
ニニギが降臨した地である高千穂としては今日では宮崎県が比定されることが多いが、古事記において天孫降臨の地は「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峰のクシフル岳」とあり、先入観なしに素直に読むならば、筑紫(福岡県)のクシフル岳とするのが合理的である。
日向三代の伝承を南九州に比定するのは記紀の誤読であり、何の根拠もない。
考古学的には、三種の神器を伴う古代墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル岳から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
とあるように、韓国の正面に位置することができる立地条件は宮崎県では矛盾があるが、福岡県の高祖山ならまさに朝鮮半島への玄関口であり、笠沙岬は博多湾の出口に横たわる半島である志賀島のことであると考えられる。
高祖山からは東に倭の奴国に比定される福岡平野、西に伊都国に比定される糸島平野が開けており、どちらも倭国を代表する新旧の王都である。
山麓の高祖神社はその一部であっただろう。
神武もここから東に向かったのである。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、拝殿である細石神社の祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹であることから被葬者はニニギと、その妃でありヤマツミの娘であるサクヤヒメ(木花開耶姫)という説がある。
また、この細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
平原遺跡の1号墓からは直径が漢代の二尺(直径46.5センチメートル)であり、円周はちょうど八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土している。
八咫の鏡(やたのかがみ)はアマテラスが自分の形代として孫のニニギに託した王権の象徴であり、現在は伊勢神宮と皇居に祭られている三種の神器の一つである。 【魏志東夷伝韓条】
<三韓>
韓在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
韓は帯方郡の南にある。東西は海であり、南は倭と接す。およそ四千里である。
(四千里四方の四角形の南に倭) (短里で現代地図と合致)
<辰韓>
國出鐵 韓濊倭皆従取之
国には鉄が出る。韓、濊、倭の人々が皆これを採掘している。
(倭人が出入りして鉄を採掘している)
<弁辰>
其瀆盧国 與倭接界
弁辰の瀆盧国は倭と境界を接している。(倭の投馬国と陸境を接している)
魏志東夷伝韓条=韓人の支配領域を記載
魏志東夷伝倭人条=倭人の支配領域を記載(通称魏志倭人伝)
帯方郡より南の韓のうち、
西半分が馬韓=10余万戸(50余クニ)
東半分が辰韓・弁辰=4,5万戸(24クニ)
その南に倭
投馬国=5万戸(24クニ)
一.今使譯所通三十國
(現在交流のできる倭人のクニは30クニ)
二.自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
(女王国より北は戸数や里距離を記載できるが、それより遠くのクニは詳しくわからない)
列挙された九州内陸の20クニとは交流できていない
30-6(對海一大末盧伊都奴不彌)=24
投馬国=狗邪韓クニなど24クニ <邪馬台国の中央集権体制>
地方行政
對馬クニ 主:卑狗 副:卑奴母離 千戸
一大クニ 主:卑狗 副:卑奴母離 三千戸
奴クニ 主:兕馬觚 副:卑奴母離 (ニューヨーク) 二万戸
不彌クニ 主:多模 副:卑奴母離 千戸
他20クニ 合計七万戸
伊都(ワシントン)
<政府>(内閣大臣)
女王:卑弥呼
大臣:伊支馬(壱岐関係)彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮(奴関係)
<首都知事>(伊都知事・副知事)
主:爾支 副:泄謨觚 副々:柄渠觚
<一大率>軍事・外交・貿易担当省
↓監視
投馬国(半島南部・任那) 主:弥弥 副:弥弥那利
狗邪韓クニ(加羅=伽耶) 投馬国内の宿場港 手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします
魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)
地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7
速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね 東南陸行五百里到伊都國・・・
・・・世有王 皆統屬女王國
(伊都国には)王がいる
(邪馬台国の)皆は、(現在の王である)女王が統べる国に服属している
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」
台湾へ水行
<魏志東夷伝における誤字例>
古代の文書管理は木簡竹簡に墨書で転写していく
『倭人条』>景初二年六月 三→二
『韓条』>不請句麗 匃→句
『高句麗条』 騊→騶
『夫餘条』>抑有似也 以→似
『挹婁条』>善射射人皆入因 目→因
『倭人条』>水行二十日水行十日陸行一月 月→日
<同一行程の説明文における方可の扱い>
韓在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(方可(正方形)の部分は南行+東行)
至対海国 方可四百余里
至一大国 方可三百里
方可(正方形)なのだから、南行+東行で2倍 平原遺跡について
・1号墓(女王墓)と2号墓(陪塚)が周溝を共有しており、
方形周溝墓と円形周溝墓が共通の周溝で囲まれた一体の墓域だった
・出土品は一括して国宝指定
・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)
<1号墓(方形周溝墓、18×14m)>
・水銀朱丹(大量の中国朱が、外に流れ出したことで墓が発見された)
・割竹形木棺(下半身を東南の日向峠へ向ける)
・ガラス製耳璫 3(女性用高級装飾品、国内唯一の出土)
・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900 (ヒスイ無し)
・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)
・大型内行花文鏡5面(日本製、直径46.5センチメートル=八咫、世界最大)
・方格規矩鏡 32面、内行花文鏡 2面、四螭文鏡 1面
(9割以上が仿製鏡で、舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)
<2号墓(円形〜隅丸方形周溝墓、周溝を含んで径10m)>
・丸太木棺
・土器片
・前漢鏡3
<18本の柱穴>
・うち2本は東南の日向峠へ向いている鳥居か 糸島博物館のトランプけ
NHKのいうこつにゃ、
邪馬台国はなかったとよ
つうことは、そんかとこに伊都国もなかとよ 以上を要約すると
平原遺跡は「女王墓」である。
平原遺跡の1号墓と2号墓ならびに柱群は「周溝を共有する複合墓域」である。
その周溝のうち、発掘された部分からは殉葬墓と考えられる土壙墓が10弱見つかっている。
周溝の残り9割を全て発掘すると相当数の土壙墓が見つかる可能性が高い。
また魏志倭人伝に記載された大量の中国朱(魏から真珠五十斤を贈られている)や
五尺刀が副葬されている点も見逃せない。
年代を決めるのは
・1号墓の装飾品と銅鏡
・2号墓の土器
などが決め手となる。
2号墓の土器は西新式つまり庄内期のものであり、210-250年と考えられる。
銅鏡については国内に類を見ない多数の仿製鏡、並びに世界最大の銅鏡を製作していることから、明らかに三角縁神獣鏡の直前期。
そして装飾品については、考古学専門家の鑑定によって、200-220年と推定されている。 内行花文鏡の時系列
後漢前期=焼溝漢墓・第四期(40-75) 長宜子孫銘の四葉内行花文鏡は未登場
後漢中期=焼溝漢墓・第五期(76-146)前半 四葉の雲雷文帯内行花文鏡が出現
後漢中期=焼溝漢墓・第五期(76-146)後半 長宜子孫銘の雲雷文帯内行花文鏡が出現
後漢後期=焼溝漢墓・第六期(146-190) 蝙蝠鈕座の内行花文鏡が出現
<供給源>
黄巾の乱(184)
董卓による洛陽炎上(190)
<供給ルート>
公孫氏の楽浪郡支配開始(189)
公孫氏の帯方郡支配開始(204)
<供給先>
倭国大乱(146-189)
魏建国(220)
公孫氏滅亡(238)
平原遺跡1号墓出土の大量の銅鏡のほとんどは仿製鏡であり、
舶載鏡と判明しているのは、キ龍文鏡と長宜子孫銘内行花文鏡の2鏡のみである。
☆前漢鏡であるキ龍文鏡は、縁がすり減っており、長期間伝世されたものである。
直径16.5センチメートルあり、キ龍文鏡として、国内では最大、中国でも最上位であることから、金印や金銅製四葉飾金具、璧と同じく、漢から倭国王へ贈られたものが伝世した。
☆舶載内行花文鏡については、平原遺跡と籠神社に同型のものが存在する。
平原遺跡1号墓 18.8 長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡・四葉
籠神社・息津鏡 17.5 長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡・四葉
2世紀半ばの東アジア動乱直前にギリギリ日本へもたらされたのが
これらの長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡である。
仿製内行花文鏡の原型であろう。 仿製内行花文鏡の系列
平原(方形1号+円形2号) 27.1 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
大和天神山(前方後円墳) 23.7 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
椿井大塚山(前方後円墳) 27.7 雲雷文帯内行花文鏡・四葉(+三角縁神獣鏡)
柳本大塚(前方後円墳) 39.8 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
下池山(前方後方墳) 37.6 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
平原(方形1号+円形2号) 46.5 雲雷文帯内行花文鏡・八葉
☆前方後円墳は3世紀4世紀以降=蝙蝠鈕座内行花文鏡以降の時代
にも関わらず、平原に続く四葉・雲雷文帯内行花文鏡を副葬している。
→最初期の前方後方墳(3世紀後半)と平原遺跡1号墓の時代は極めて近接。
☆初期四葉の内行花文鏡〜蝙蝠鈕座内行花文鏡〜(魏代)位至三公鏡に至るまで
舶載鏡は全て北部九州に集中。
☆四葉雲雷文帯の仿製内行花文鏡のみ東方倭種へ。 『魏志東夷伝・序文』
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域 委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服。
公孫氏が遼東に進出してからは(189)、東夷世界と漢や魏は遮断されていたが、
陸海の大軍で公孫氏を滅ぼして(238)、東夷は朝貢してくるようになった。
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡の来日を最後に、舶載鏡の来日が途絶えて、
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡をオリジナルとした仿製鏡がガラパゴス発展した。
平原遺跡1号墓出土の大量の中国朱は、189年以前もしくは239年以後。
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡をオリジナルとした八葉鏡が開発されている以上、
後者(239年以後)であって、魏から贈られた中国朱以外にありえない。 徳川将軍家康から家慶までの生母一覧
(西洋医学の入る明治維新前に死去)
於大の方(1528-1602)74歳
西郷局(1552-1589) 37歳
江(1573-1626) 53歳
宝樹院(1621-1653)32歳
桂昌院(1627-1705)78歳
長昌院(1637-1664)27歳
月光院(1685-1752)67歳
浄円院(1655-1726)71歳
深徳院(1688-1713)25歳
25歳で出産として推定
至心院(不詳-1737家治出産-1748)35歳±?
お富の方(不詳-1773家斉出産-1817)44歳±?
香琳院(不詳-1793家慶出産-1810)43歳±?
江戸将軍の生母の平均年齢が
確実な9人で「52歳」
推定の3人も含めると「49歳」
50歳と仮定できる。 一方で、卑弥呼の年齢について考えてみる。
卑弥呼が女王になったのが180-190年と言われているので、
計算しやすいように、即位187年死去247年(在位60年)と仮定してみる。
複数の文献に
卑弥呼はある程度年長となってから女王になったとある。
187年に20歳で即位したと仮定すると
247年に20+60=80歳で亡くなったことになる。
187年に30歳で即位したと仮定すると
247年に30+60=90歳で亡くなったことになる。
弥生時代の女性の平均年齢は20歳を切るとの報告もあるが、
弥生女性の平均年齢29歳、江戸時代女性の平均年齢41歳との説を採って(12歳差)。
江戸時代の王母で平均50歳だから
弥生時代だと平均40歳に設定できる。
考古学の成果を尊重すると
平均40歳で亡くなっていた弥生王母の副葬品と考えた時に、
平原遺跡の被葬者の副葬品は200-220年のものと推定される。
だったら
被葬者が80歳で亡くなった
しかも鬼道を得意とするシャーマンだった場合
(副葬品は呪術用具であり、生涯にわたり大事に使い続ける)
同世代の女性が死亡した平均年代の
約40年後に卑弥呼は死亡したことになる。 考古学の専門家:200-220年
考古学の無視する魏志倭人伝によると 、卑弥呼は長寿なので+40してみる。
「240-260年」 高祖山から三雲などの王墓を日々見下ろしていた卑弥呼であれば、
当時の王女の平均年齢である40歳を超えた時点で
自らの墓について考えることになる。(我々現代人と同じ)
卑弥呼の墓である平原遺跡の建築順序は以下の通り。
@ 周溝ならびに墳丘墓の基礎を建設(200年代)
A 鳥居など祭祀遺跡を建設
B 2号墓を仕上げる
C 土壙墓に殉葬
D 1号墓を仕上げる
周溝から出土する古い土器などは、過去に放棄された土器の混入と考えられるため、
遺跡の年代遡上には使えない。(逆に新しいものであれば、年代更新には使える)
卑弥呼政権誕生時から仕える重臣は、長寿の卑弥呼より先に亡くなる。
そうでなくても卑弥呼死亡時に殉死。
よって、2号墓出土の西新式土器の年代よりも、1号墓は新しい。
殉葬の土壙墓は確実に周溝より後に作成される。 出真珠青玉 其山有丹其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味有獮猴黒雉
@出真珠青玉丹と書くのではなく、わざわざ出るモノと有るだけのモノを区別してある。
Aその山に丹がある、としか書かれていない。
B同じく有るモノである薑橘椒襄荷も、有るだけで、使っていない、とある。
輸入した中国丹を使っており、わざわざ自領の丹を採掘していない様を表している。 魏志東夷伝における「出」と「有」の使い分け
魏志東夷伝韓条
>國出鐵韓濊倭皆従取之
鉄が「産出」して、倭人を含めた皆がこれを採取する。
魏志東夷伝倭人条
>出細紵縑緜
綿絹等を「産出」している
>有薑橘椒蘘荷 不知以爲滋味
しょうがや山椒や胡椒は「有る」だけで、食べられることを知らない
魏志東夷伝において
「出」とは自国で産出して使っているもの
「有」とは自国に有るけれど使っていないか、輸入品で賄っているもの
魏使は各地の情報収集も仕事の一つなので、この2つは厳格に使い分けている。
>出真珠青玉 其山有丹
真珠と翡翠は「産出」するが
丹は山に「有る」だけ
倭国が丹を採っているのなら
出真珠青玉丹
あるいは
出真珠青玉 其山有丹亦取之
出真珠青玉 其國有丹山
などの記載になるはず。 「豊後国風土記」
「丹生郷、都の西にあり。昔時の人、この山の沙をとりて朱沙に該てき。
因りて丹生郷という」」
「伊勢物語集」
「奈良の大仏にも使われた宇陀の水銀の産出が衰えると
豊後丹生水銀や伊勢水銀の生産も増大し」
「続日本紀」
文武二年(698年) 九月乙酉(廿八)○乙酉。
伊勢国朱沙・雄黄。
常陸国。備前。伊予。日向四国朱沙。
安芸・長門二国金青・緑青。
豊後国真朱。
常陸(茨城)備前(岡山)伊予(愛媛)日向(宮崎)から朱沙
豊後(大分)から真朱(辰砂)
がそれぞれ献上されている。
以上の資料からわかることは
・採掘記録が残っているのに、採掘跡については見つかってない所の方が多い。
・弥生時代と奈良時代で鉱山探索の科学技術が飛躍したわけではないので、
豊後や日向などには昔から丹鉱山露頭が知られていたことがわかる。
また、3世紀前半の阿波の萩原2号墳に中国朱が副葬されていることから、
遅くとも2世紀後半には、
北部九州邪馬台国が九州東海岸(宇佐)〜瀬戸内海航路を制圧していたことが
考古学的に確定している。 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) 邪馬台国の中枢(伊都・奴国)
奴国の北は博多湾
平野部の、西に室見川、東に那珂川と御笠川牛頸川
吉武高木(西の室見川上流:高天原)
日本最古の絹出土
唐津(宇木汲田)と副葬品が共通(燕と交流、山海経)
須玖遺跡群〜比恵那珂遺跡群〜博多遺跡群(東の那珂川御笠川流域:葦原那珂津国)
全て連続した巨大な弥生工業地域
青銅器工房、ガラス製品工房、鉄器工房
三雲南小路(邇邇芸)〜井原鑓溝〜平原〜(糸島市)
日向峠を挟んで、奴国室見川と伊都国長野川に絹出土
長野川の最下流に玉造り工房
唐津(桜馬場)と副葬品が共通
奴国(葦原那珂津国)
男性労働者主体の工業地帯
生活排液と産業排液 →織物生産とは水系を分けた
(重要工業地帯なのに倭人伝記載なし)
伊都国(含む高天原早良区):
女工主体の弥生版富岡製糸場(以婢千人自侍)
衣服や玉製装飾品を生産する、女王の都(女王之所都)
高祖山の麓の王墓域に衛兵を配置。墓守と王宮警護の一石二鳥。
(常有人持兵守衛) 九州倭国の東征経路
博多湾→宗像→出雲など東方倭種→丹後若狭湾直轄→越
↓ ↓
宇佐 淀川水系←琵琶湖→前方後方墳王国(朱儒国)
↓
瀬戸内四国→淡路島→阿波吉備紀伊→摂津住吉
倭種=支石墓 倭人=甕棺墓
吉武高木(原伊都・高天原)が東方へ倭種拡散
博多湾東部(奴国オオクニヌシ・銅鐸容認)が縁組を駆使して倭種を統一
博多湾西部(伊都国アマテラス・銅鐸禁止)が上書きして中央集権国家樹立
国家経営
現代の燃料:石油
古代の燃料:木材
スサノオ
ニニギ
オオヤマツミ(林業の神)
オオクニヌシ
スクナヒコナ(木の国)
紀伊 木「伊」
和歌山県伊都郡 丹生都比売神社や小田神社に宗像女神祭祀
邪馬台国の風習である三社参りが、飛び地の和歌山に分布 <骨太の方針・土器>
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
続けて高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内を含む全国から布留式土器が博多湾へ流入
縄文時代から弥生時代への移行期における遠賀式土器移動は、未開墾地域への入植
稲作が普及して、各地の首長が労働力を要求する、弥生中期以降における土器移動は、
生口奴婢年貢(租庸調) <骨太の方針・鉄器>
紀元前1世紀に丹後扇谷遺跡(環濠で防御された大規模鉄工房遺跡)
→北部九州に翡翠勾玉入りの三種の神器
→日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓が分布する頃には扇谷遺跡消失
1世紀中旬に淡路島に垣内遺跡・舟木遺跡(畿内と海で隔絶された大規模鉄工房遺跡)
→同時期に「鉄器」高地性集落が瀬戸内「東進」
→内行花文鏡の古墳が畿内制圧する3世紀後半には淡路島鉄工遺跡消失
2世紀に琵琶湖北部に稲部遺跡(河内や奈良と遠く離れて大規模鉄工房遺跡)
→内行花文鏡が畿内制圧する3世紀後半には鉄工房終了して大型倉庫群となる
当時の鉄原料は全て、朝鮮半島で鉄延べ板に精鉄した状態で海上輸送し、
伊都の一大率が一括管理。
それを各地の倭国運営鉄工房へ分配して、現地では加工していただけ。
<倭人以外の原住民がいる地域への遠征パターン>
@まず少し離れた安全地帯に鉄工遺跡を建設。
A鉄延べ板を持ち込んで現地加工し、周囲を征服していく。
B征服し終わったら、倭国から支配官を派遣。
C支配体制が整ったら、鉄器生産を前進させる。
日本海沿岸に分布する四隅突出型墳丘墓は、丹後若狭湾を越えて富山まで分布する。
なのに、最重要の要衝である丹後若狭湾にだけ四隅突出型墳丘墓が存在せず、
大量の鉄剣(鉄製武器)を保有する支配者が鎮座している。
四隅突出分布域のど真ん中の、農耕に不適な山間部に、鉄工房遺跡や鉄製武器支配者が存在することから、
丹後の王とは、北部九州邪馬台国(倭国)直属の派遣将軍で、
四隅突出型墳丘墓とは、丹後監視下に置かれた倭国派遣の地方行政官であることがわかる。 応援したいが、テンプレはもう張り終わったの?? 微妙な始まりかただなぁ 安定した鉄壁の説ですから。
魏志にも記紀にも矛盾なく、弥生時代からの九州の発展の連続性と後の畿内政権への橋渡しとなる。
ちゃんと前スレの後の鏡の編年までまとめてあって、いいテンプレですね。 ちょっと反論ないの?
ほんと畿内説の論者が減ったなぁ。 対馬と壱岐ならそれぞれ隣の島が見えて、韓国も見えるんじゃなかったっけ? >>34
もしかして、
>>5
>クシフル岳から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に
>「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
>とあるように、韓国の正面に位置することができる立地条件は宮崎県では矛盾があるが、福岡県の高祖山ならまさに朝鮮半島への玄関口であり、笠沙岬は博多湾の出口に横たわる半島である志賀島のことであると考えられる。
へのツッコミ?
韓国が見えると言っているのではなく、韓国への道(ここでは海路)が開けていると言っているだけだよ。
宮崎からだと、陸路と水路をつなげてややこしいルトになるから(関門海峡はまだ通過できない)。 >>42
記紀が書かれた頃の話をするべき
第一天孫降臨自体現実にありえないし >>43
8世紀の話をしてどうするんだ。
卑弥呼は3世紀だぞ。
天孫降臨は、要するに筑紫の支配者に指名された邇邇芸が伊都国に船で赴任する話なんだよ。
すごく現実的な話だよ。 >>44
シェークスピアのジュリアス・シーザーは当時のイギリスの格好そのままで上演され古代ローマの衣装など着ていない
劇中には古代ローマには存在しなかった柱時計が出てくる
記紀が書かれた時やれ当時はどうだったとか時代考証を考えるわけがないだろう
船で赴任とか雇われ店長の人か
書かれていることを自分の考えに無理やり当てはめるのはやめてくれないかな
賛同者がほしいのならそれなりの根拠がいるよ >>49
邇邇芸が宗像を経由して博多湾の西の高祖山に陣取ったのなら、上陸した笠沙の岬は志賀島、天橋立は海ノ中道だろう。
博多湾の陸と海を支配していたという猿田彦が恭順して案内を勤めたので、無事に日向峠を越えて糸島平野に入り、筑紫倭国の王となりました、というのが天孫降臨伝説だよ。
猿田彦を祭る神社は福岡市に、邇邇芸を祭る神社は糸島市にある。
その邇邇芸を祭る細石神社が漢委奴国王印を保管しており、南小路遺跡の祭殿となっている。
南小路遺跡は璧や鏡が副葬された、糸島平野で一番古い倭国王墓。 少なくとも1〜3世紀の倭国の都は考古学的に伊都国な訳だよ。
しかも邇邇芸に与えられたはずの八咫の鏡も伊都国で出土している。
さらに踏み込んで言えば、帥升はアマテラスから筑紫の祭り事を任されて赴任した帥である邇邇芸かもしれない。
倭国女王である卑弥呼も、倭国の都である伊都国にいて当然だし、卑弥呼の下に一大卒、つまり帥がいたことがわかっている。
すべて合理的に当てはまる。 >>50
邇邇芸を祭る神社は四国の霊峰剣山の麓
ニニギノ命神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)
http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/ >>51
それで、邇邇芸の墓は糸島村のどこにあるのけー 奴国まで10600里なんだよ、残りの1400里はどうするんだ >>54
この間の番組でも邪馬台国は無かったという事だし
邪馬台国=連合国でいいんじゃね?
その中の京の宮がある場所が伊都国で中心地は奴国
畿内説じゃ宮が巻向だろうがな >>53
邇邇芸の墓は三雲南小路遺跡。
2号墓は木花咲耶姫。 >>57
いいだろうね。
邪馬台国連合イコール倭国連合だ。 おまえらは佐賀のもんが歩いたあとにはぺんぺん草もはえんとか馬鹿にしとるやろ そりゃ田んぼだらけの邪馬台国よりハイカラな奴国のほうがよかかもしれん 佐賀も邪馬台国連合の重要な一員だよ。
壹與は肥前一宮河上神社の祭神だ。 女王国と呼ばれる邪馬台国連合が
肥前と肥後、久留米以南の筑後
そのうちの邪馬台国本国が肥後
二万戸の奴国が佐賀市周辺の佐賀平野。
五万戸の投馬国が、旧妻国の筑後。 邪馬台国連合は、筑紫、肥国、豊国だと思う。
その下に九州の投馬国、本州の出雲、越、丹波、吉備、阿波。 肥後熊本が狗奴国は揺るがないと思う。
菊池彦がいたからね。 >>59
そりゃめでたいことだ
で、ついでに卑弥呼の墓と、台与の墓と、一大率の墓はどこだい??? >>69
卑弥呼は平原、壹與は祇園山、一大卒は知らない。れ >>25
>対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
>対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
>(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
1里=70mだとすると、
1000里=70km
港から港までの距離だと、島沿いにある程度は迂回することになるから、
朝鮮半島〜対馬や、対馬〜壱岐については、
1000里=70kmでちょうど合ってるね。
で、思うのだけど、倭人伝を否定したい人が、渡海距離をもって、
全部千里だから倭人伝は信用できないと主張するけど、そうじゃなくって、
壱岐の港〜末盧國の港も、1000里=70kmということじゃないのかな。
原の辻遺跡〜呼子着〜東松浦半島から唐津湾をぐるり沿岸航海
〜伊都にかなり近い地点で上陸(例えば筑前深江駅の辺り)
せっかく船で来たんだから、できるだけ伊都に近づいて上陸した方が楽でしょうし。 >>76
対馬海流に流されて、「壱岐〜呼子」は有り得ない。 >>25
たしかに対馬海流に流されると東西南北の全方向に流されうるな。
ということは、最短距離である呼子へ渡るのが一番安全。 流れ着くわけじゃないぞ、
はっきりした目的があって、その目的の港へ入るわけだからな 南北に自由に行き来していることがちゃんと魏志に記されている。
伊都になるべく近くというのはアリかも。 名護屋城もそうだし、
合理的判断で生き抜いてきた戦国武将達も皆、
東松浦半島の「東北端」を出征陣地にしている。
だから、
壱岐・原の辻
→壱岐の南端(8〜10km)
→加部島の西を通過(30km)
→名護屋城の北
(ここまでは最大速度で渡海、以下は沿岸航海なのでスピードを落とす)
→東松浦半島を沿岸航海、東行して南行
→唐津湾西端(43km)
→安全を期して唐津湾内を沿岸航海
→唐津湾東端・串崎(58km)
→沿岸航海で東行
→筑前深江駅の辺りまでで66.8km 朝鮮半島〜対馬や、対馬〜壱岐、壱岐〜呼子といった
渡海部分は、全力で漕いで最大速度で渡り切るけど、
呼子から末盧國の停泊港までは、
沿岸航海だから、ゆっくりでいい。
魏使の体感としては、全て同じ航海時間となって、全て千里。 逆もまた真なり。
1里=70m
100里=7km
魏使の駐する所である伊都
楽浪土器の集中する三雲遺跡
三雲遺跡から逆算すると、
伊都の船越湾に出るまでが、7km
筑前深江駅までが、9km
ピンポイントで三雲に至る必要はないのだから、
筑前深江駅のそばの海岸に上陸したとすれば、
壱岐〜末盧國上陸地点は千里だし、
末盧國上陸地点〜伊都は百里 『三国志東夷伝濊伝』
>作矛長三丈或數人共持之能歩戦
長さ三丈(約7.2m)の矛を作って、数人の歩兵でこれを持って戦う。
>戦国時代研究会の実践報告
長槍はしなるため、目標に突き刺すのは困難であり、
振り下ろして、しなりの遠心力を利用して敵をぶっ叩いて
甲冑を割ったり、脳震盪を起こさせたりして倒していた。
弥生時代の銅矛も、その巨大な質量を利用して、
遠心力でぶっ叩いて敵を倒していた可能性が高い。 『三国志東夷伝倭人条』
>兵用矛盾木弓
青銅器は鋳造直後は黄金色に光り輝き、
その荘厳さは鉄器の比ではない。
ロンドンの儀仗兵と同じく、
伊都高祖宮の守衛兵は、
黄金色の銅矛を掲げて日夜誇り高く警備に当たっていたのであろう。 >>249
>東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。 金印を調べた亀井南冥、その一家はどうも三雲の百姓の出らしいですね。
どうも出世欲が非常に強そうな人物ですし、細石神社の伝承も鑑みると、金印の出所というのは、
やっぱり伊都(委奴)国である可能性はありそうな気がします。
金印発見のタイミングも藩校の開設と時期的にばっちりですし、
その後の展開もどうも南冥の事前研究あってのことじゃないかとかなり疑わしいです。 >>6
>倭人在帯方東南大海之中 旧百余国 漢時有朝見者 今使譯所通三十国
「倭人(倭国より広い範囲)」は昔は100余クニの行政区分であった。
漢の時代に朝貢してくる倭人がいた。(博多湾金印出土)
魏の現在は、交流できるのは(旧100余国の中の)30クニである。(滅亡したともなんとも書いていない)
>倭国乱相攻伐歴年
倭人領のうちの、「北部九州倭国」が乱れて、
「お互いに」攻め合うことが長年に及んだ。
「倭国(大)乱」であって、倭国大戦、倭人大乱などではない。
倭人の領域の行政区分がもともと100余クニ。
魏と交流があるのが30クニ。
投馬国:30-6=24クニ 5万戸
北部九州倭国が、邪馬台国と狗奴国に分かれて倭国王の座を争っている。
邪馬台国:交流できる6+詳細の分からない20=26クニ 7万戸
狗奴国:100-24-26=50余クニ おそらく10余万戸→熊本を含むであろう 鉄器の分布や甕棺墓の分布から、
2世紀倭国の支配域が福岡県〜熊本県北部(佐賀長崎大分含む)だとすると、
邪馬台国と狗奴国の比率が、26対50余=1対2だから、
領域についても南北方向で1対2で考えると、
邪馬台国は福岡県北半分で、狗奴国が福岡県南半分と熊本北半分
つまり神籠石が境界線上の山城だったわけだ。
鉄器輸入ルートを保有している邪馬台国の方が領域としては劣勢であることで、
倭国大乱が長期化したことを説明できる。
吉野ヶ里は滅ぼされているが、鉄器が多数残っているため、
本来は邪馬台国側のクニだったのだが、倭国大乱直後に狗奴国に急襲されて滅亡した。
平塚川添は鉄器が無いことから、狗奴国側のクニとして長らく戦い、
鉄材輸入ルートを邪馬台国に押さえられて、
領内の鉄器を全て武器に転用しつくして滅ぼされたのだろう。 吉野ヶ里の最期は攻め滅ぼされたのではなく、退去だったはず。
戦いのあとはむしろ鉄鏃とか散らばっていそう。 鉄鏃は大事です。
軍隊が組織されて、軍事演習をする。
当然のことながら、一方的に敵に損害を与えることのできる
飛び道具というのは戦闘の基本となります。
「軍隊を教練する際には、必ず鉄鏃の矢での一斉射撃訓練が行われます。」
鉄器は貴重だから、厳密に管理して全部回収する。
という屁理屈をこねる説がありますが、
鉄鏃には通用しません。
世界史上もっとも束縛されている自衛隊でさえも、
薬莢は管理しても、弾丸は打ちっぱなし。
鉄鏃が大量にある=鉄鏃軍隊を保有して教練していた
鉄鏃が少量ある=鉄鏃軍隊と交戦した
鉄鏃の出土分布が示す通り、
邪馬台国(福岡平野)と、狗奴国(筑紫平野熊本平野)が
鉄鏃部隊を保有して、各地へ派遣していたのですね。 吉野ヶ里そのものは9世紀まで続いている。
政権交代とかで中の人が
入れ替わってる可能性はあるけどね 高天ヶ原(記紀・神代)
宮殿がある
神々が出仕している
機織場がある
福岡県早良区・吉武高木遺跡
・日本最古の宮殿跡
・日本最古の三種の神器
・日本最古の絹 >>96
ニニギが船で福岡に到着するんですけど。
笠沙の岬こと志賀島に上陸し、天の架け橋こと海の中道を渡り、クシフル山の高千穂宮こと伊都高祖宮に陣取ったと読める。 >>97
高天ヶ原(日向峠の東側・早良区)から高祖山(日向峠の西・糸島)へ派遣されたわけで、根っこは同意見ですよ。
吉武高木に先行する菜畑遺跡で既に、水路の木板が全て鉄器で作成されていたことがわかっている。
菜畑遺跡の頃の鉄器は、打製石器と同じような、鉄材を打ち欠いて作る鉄片を用いる原始的鉄器。
だが、吉武高木の頃には鍛造鉄器が主流となる。
その製造拠点はどこか?
<神話>高天ヶ原から派遣されたスサノオが戦った相手が八岐大蛇。
<考古学・文献>当時の鉄器は全て朝鮮半島から供給
吉武高木遺跡
・木棺墓に三種の神器
・取り囲む甕棺墓に武器
・甕棺墓の遺体に石剣破片
九頭竜川流域(若狭湾東岸)
・石剣分布
扇谷遺跡(若狭湾西岸・丹後半島)
・環濠で囲まれた大規模鉄器工房集落
吉武高木の木棺墓王が、甕棺墓族の力を借りて、石剣九頭竜川一族に勝利して、
丹後半島に、大規模鉄工房<扇谷遺跡>を建設した。
そのまま進軍して糸魚川まで占領して得たのが、三種の神器の翡翠勾玉
扇谷遺跡(九頭竜川ヤマタノオロチを滅ぼして)で作った至上の逸品が、草薙剣
共に、日本海沿岸を制圧した証です。 舶載鏡にこだわって混乱している説があるが、なんで舶載にこだわっているのか?
本質を何もわかっていない。
卑弥呼以前の倭国王における権威の象徴
・漢委奴国王印 漢の下の伊都国王
・漢鏡 漢が下賜した漢鏡を崇めて祭祀
卑弥呼
・親魏倭王 魏と親しい倭国の王様
・仿製鏡 滅亡した漢とは関係ない、邪馬台国独自の八葉権威鏡
・鬼道 榊でお祓い、鳥居を建立
つまり
聖徳太子が隋の煬帝に喧嘩を売る300年前に
卑弥呼様が日本独立の権威を宣言していた。
その象徴が、平原遺跡の5面の超巨大内行花文鏡。
△が追随。 高祖山に先行する王族が早良王家であることも、スサノオが日本海沿岸を制圧したことも、全くそのままなのだろうが、高天原が早良区というのは早計ではないだろうか?
高天原が最終的に覇権を掌握するのはアマテラスの最期の頃で、それまでは他にも強い勢力がいて、それが早良王家や出雲王家(本当に別のものか心配)である可能性はないだろうか。
高天原のアマテラスと糸島の邇邇芸は直系だが、早良王家と糸島王家は必ずしも直系ではないのではないか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています