応仁の乱とは一体何だったのか [無断転載禁止]©2ch.net
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簡単に言えば全国規模の権力争いでは
将軍家内の将軍後継争いがあって
幕府内での権力争いがあって
武家単位でも惣領争いがあって…
一方が東軍についたらそのライバルは西軍にってね
御輿に対する敬意や忠誠心も特にないから
状況次第で担ぐ御輿を換えもする
もともと支配体制は弱い幕府だったからね
義満や義教くらいじゃないと簡単にタガが外れる この御輿が二つあるっていうのが拙いんだな
Aの御輿を担げば対立するBの御輿を担いでる者を攻める大義名分が立つ
そもそも初代将軍の尊氏の時からして
南朝北朝で戦の泥沼の中から始まってる
つまり何の教訓も得ていなかったと… 余談だが、俺が早くに買って推奨した袖珍本、
『応仁の乱』と『観応の擾乱』が二冊とも
そろってベスト・セラーになったゼッ!
いづれも、中公新書だから、実質的には野球新聞でしかない
読売新聞社の儲けになるんだけど、俺はあんな低俗新聞社の回し者なんかぢやあ
断じて無えのサッ!!!!!
分かったナッ!
! >>7
9/21に語っていたのは、『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書 2016年)の
著者で日本史学者呉座勇一氏ですね。
同氏が「応仁の乱」を講釈した7/27放送の以下番組が、9/17日曜昼に再々放送
されていましたが、近年大河ドラマでも取上げない室町時代が何か注目されて
いるのでしょうか?
『英雄たちの選択』スペシャル 「まさかの応仁の乱!もうどうにも止まらない11年戦争」
NHK-BSプレミアム 2017/07/27 (木) 20:00 - 22:00
磯田道史,渡邊佐和子,井上章一,呉座勇一,小谷賢,中野信子,橋本麻里
http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2017-07-27/10/24549/2473114/ >>8
11年続いた応仁の乱を収拾したのは、日野富子だったと
その番組で呉座氏が述べていた。
幕府組織上は無役の日野富子が、何故終戦を実現できたのか? 日野富子が稀代の悪女で足利義政が無能無気力無責任だったから大乱が起こったんだね。 富子は次期将軍が義視に決まってたにも関わらず我が子を将軍にしたいばかりにごり押しして
大乱を引き起こした。しかも両軍に軍資金を貸して儲けるという銭ゲバ。 >>11
>富子は・・・大乱を引き起こした・・・・・・・・
違う。応仁の乱を起こしたのは、1467年初頭に武力行使した畠山義就。 >>12
富子が義視を押しのけて義尚を将軍にするために山名宗全の助力を求めたんだよ。山名は
ライバルの細川に対抗するために富子と手を結んだ。 富子のゴリ押しと義政の無気力無責任が大乱を引き起こし、長引かせた。 ただ義視が九代将軍になっても、
次の十代将軍を義視の実子の義材にするか、義尚にするかでまた乱が起きそうだなw
つまり足利家の直系としてみるなら義尚になるわけだ
御台所が産んでいるので庶子でもない >>16
義政が生きてる間に義視→義尚へ継承すればよかったんだ。
義政は若かったからそのつもりだったんだろうし、
応仁の乱が起きなかったらすぐに隠居してたに違いない。 応仁の乱(おうにんのらん)とは、足利義政、日野富子、細川勝元、山名宗全、畠山兄弟、斯波兄弟ら、当時の権力者達が一致団結して展開した焦土作戦。
その目的は、偉い地位にある連中が無能揃いになってしまったため、
下賤の身分であるゆえに台頭できず、燻っている逸材が頭角を現しやすく
土壌を作ることにあった。いわば、一種の地ならしであり、日本の戦国時代の幕開けとなった大事件である。
この事件がなければ、下剋上の風潮が日本に急激に浸透することもなく、
日本の発展が遅れて18~9世紀頃には列強の植民地になっていたかも
しれない事を顧慮すると、画期的な出来事であり、偉業と言えるだろう。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1 >>13
応仁の乱の発端は畠山が家督相続争いをしたことだよ
片方は山名と一緒に兵を出し
もう片方は細川のところへ逃げ込んだ
富子が義尚を将軍にするために山名に助力を求めた証拠はない
だいたい途中で細川と山名は将軍に推す人が入れ替わっている
(自分が有利になればどっちが将軍でも構わない) >>17
武力衝突なしに義視が義尚に平和に将軍を譲らないだろう
義尚って9歳で将軍になってるんだよね
つまり義政自身が義尚を将軍に決めていたということだろう
ちなみに義尚は両親の義政・富子より先に25歳で死んでいる >>20
富子が宗全に助力を求めたことは『応仁記』に書いてあるので間違いない。 勝敗は明らかに細川が勝ったよね
山名の落ちぶれっぷりは酷い >>22
「応仁記」に載せられている日野富子が山名宗全に宛てて
足利義尚の後ろ盾を依頼した書状は
同時代の一次史料のどれにも裏付けがなく実物も残っていない
「応仁記」の創作だよ >>25
義視を担いだ時に破棄しちゃったんだよ。そんなもの残すわけないだろ。 応仁記は太平記のような創作じゃなくて真面目な実録だよ。 >>26
それなら応仁記の筆者に手渡すわけないだろw
そんなものは存在しない 1467年、斯波義廉が管領に就任した時、
細川勝元は花の御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して山名宗全に情報を漏らしたため失敗したことがあった
つまり富子と山名のつながりが垣間見えるが、
義尚の後見役かどうかは断定が難しいな 応仁の乱を見ると、今の中東みたいな感覚なんだよな。
今の中東でも、本気でイスラムの教えがどうのこうので戦争を
している奴なんか、ほとんどいないのだろうなww >>32
太平記は南北朝の一級史料
平家物語は源平合戦の一級史料
といってるみたいなもんだな >>34
でも一級資料じゃないか?
て言うか、太平記や平家物語がないとあの時代の研究なんてできないだろう?
壇ノ浦の戦いの公式発表だけだと、
壇ノ浦で平家と戦いました、勝ちましたと言うことくらいしか書いていないからな。 富子は悪女。これ日本人の常識。疑うやつはチョー❍ンジン。 平家物語も太平記も浪曲講談の類の語り物だよ。
応仁記は真面目な歴史書だから信頼できる。 お互いに対して刺客を送らない清廉な泥沼の内戦(白目) >>40
興行になったのは、もう少し時代が下ってからではないのかな?
平家物語だと徒然草に制作の由来が書かれていて、
そんなに不真面目な脚色をした形跡はなさそうだしな。
(事実のほうがおもしろすぎると言うのもあるけど)
太平記にしても、当初は政治的なプロパガンダ文書だったのでは
ないかなぁ?
前文を読むと朱子学的な、歴史観がありありとうかがえるし。
また事実そのものが面白いと言うのもある。 >>35
源平合戦の頃なら九条兼実の「玉葉」や吉田経房の「吉記」
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」が一級史料
玉葉や吾妻鏡に描かれていないことは
平家物語が参考にされることはあるが二次史料
平家物語内の会話などほぼ創作 太平記(たいへいき)とは、14世紀、数十年間に渡って書かれた壮大なリレー小説である。
立場も思想も異なる複数の人間が執筆に携わった為、文体に一貫性がなく、
話に辻褄の合わない部分も散見されるが、
今日ネット上に氾濫しているようなリレー小説とは比べ物にならないほど
優れた構成で、今なおリレー小説の白眉と称賛されている。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98 日野富子は自分の子将軍にしたいあまりに大乱を引き起こして起きながら、両軍に金を貸して
儲けてたんだよ。サイコパスだね。 だから、違うだろ
足利義尚が将軍になった後も
大名たちが勝手に戦を続行してたじゃん 通りすがりですが、『平家物語』っていっても『弘治本』→『源平盛衰記』までいろいろありますが、本当の原作なんて誰も見たことないですからね。
最古の『弘治本』の初版が1467年と記載されていて、応仁の乱と同じだと思ったのが懐かしい思い出 「富子は悪女にあらず」と言うのは歴史修正主義だ。許せない。 >>50
日野富子に応仁の乱の全責任があるとしているのは
「応仁記」くらいだろ
だいたい足利義尚は子供の頃に将軍になってるし
夫の義政は別荘造って逃亡するしで
富子以外政治をとれる人がいなかったのあから >>51
東軍に担がれながら西軍に金を貸して大乱を長引かせたゼニゲバ。 まあ東軍が勝てば細川に足利将軍家の天下を奪われるかもしれない
西軍が勝てば山名に足利将軍家の天下を奪われるかもしれない
ということで東西両軍が「痛み分け」に終わることが、
足利将軍家にとって最善
ただ長引く戦乱で足利将軍の権威が地に落ちて、戦国時代へ突入したことは
想定外だったようだが >>52
幕府財政が傾いていたのだから仕方がない
それで日野富子が豪遊していたならだが
湯水のごとく金を使って別荘建設してたのは
夫の義政だし 室町将軍は守護大名同志を争わせて、その調停で飯を食って
いたから、富子みたいに双方に金を貸すとの発想になるのではないかな? 足利尊氏が御家人たちを味方に引き入れるために
領地を大判振る舞いしすぎた
そのために室町幕府はどの幕府よりも天領が少なく将軍御所も一番小さく
家臣であるはずの守護大名のほうが豊かだった
日野富子の時代に急にそうなったわけではなくて
室町幕府は創立当初から火の車だった
ちなみに義政の父・義教は天領を増やそうと
守護大名を粛清して領地を奪う政策をとったために
粛清を怖れた守護大名に殺された >>57
なるほど 尊氏は源氏の家柄の力を過信しすぎたと思う
尊氏の青年時代は北条得宗家の専制政治だ
得宗家が天下の多くの土地を私物化して自分の懐を温め、
幕政を掌握している姿をみて、尊氏は嫌悪感を抱いたのだろう
そして建武の新政、 後醍醐天皇は自分とその周囲が旧鎌倉幕府領の多くの土地を
私物化して懐を温め、親政する姿を見て尊氏は嫌悪感を抱いたのだろう
そこで尊氏(と直義)はこう思ったわけだ
足利が将軍になって天下の政道を掌握したら、
自分の懐を温めること第一の政治はしない 公平無私な政治を行うのだ
源頼朝公は自分の懐を温めようとしなかった そして天下を治めた
私も同じ源氏の棟梁として同様にすれば、きっと諸国の武士はついてくるはずだと >>57
>>58
頼朝も尊氏も源氏の名門だ
だから極端な話、頼朝や尊氏の私兵が100人程度しかいなくても、
何千何万も私兵を擁する大名や豪族が自主的に頭を下げてくるわけだ
頼朝と上総介広常が好例 とかいう風説を打破するために
将軍維康王を「源惟康」と名乗らせることで、
源氏の棟梁は足利でも新田でも佐竹でも武田でも小笠原でも
ないんだとお茶を濁そうとしたが、
誰も源惟康を源氏の棟梁の将軍とみなさず、結局失敗
惟康は親王位に任ぜられて皇族に籍を戻されたうえで、京都へ強制送還 無気力無責任な義政と悪女富子と佞臣伊勢貞親が応仁の乱を引き起こした責任者。 >>58
>>59
尊氏が名門で黙っていても大名たちが頭を下げて来るなら
領地を大判振る舞いせずとも家来たちがついてくる
ましてや尊氏は血筋だけなら到底かなわない南朝・後醍醐天皇を相手にしていた
血筋だけでは集まらなかったから実利(土地をあげるから味方に付いてくれ)
という必要があったんだよ >>58
尊氏は単独挙兵したわけではなく
後醍醐天皇による鎌倉幕府征討という錦の御旗に乗っかり
他の諸武士たちと合同でやったのであり
(単独で鎌倉幕府を滅ぼしたわけではない)
最初から幕府構想があったわけではないと思う
実際、尊氏が北朝の天皇を立てて将軍になったら
諸国の武士たちが皆「源氏の棟梁」である尊氏のもとへ
ひれ伏して家来にしてほしいとはせ参じたわけでもなく
それでも南朝につく者もいて
尊氏はいちいち土地をちらつかせて南朝勢力と戦う必要があった 中途半端ではあったが
北条&徳川は日本最大の軍事力を擁していたから、武士たちは従った
頼朝&足利は、源氏の名門という家柄の力で、武士たちは従った 土地を与えるにしても、主従関係の成立要因としては、
相手が源氏の名門だからこそ、相手の領地が少なくても主君と仰いで従うわけだ
仮に足利氏が大内氏と同格やそれ以下の家柄だったら、
大内氏が「土地を俺にくれる? 足利さんの領地のほうが俺より少ないだろw」となる 織田信長が天下統一(寸前)までいった過程が、足利尊氏や源頼朝とどこが違うか
信長は家柄が低すぎる
今川や斎藤や浅井や朝倉に「領地を与えるぞ だから俺に従え」といっても却下だろう
だから実力で、次々と敵対大名を滅ぼして地道に勢力を拡大する必要があった 頼朝はともかく尊氏は少し違うだろ
実際、足利なんて鎌倉時代には北条の命令に従ってたわけだし 将軍の頭越しに大名や寺社に命令だしたら反感を買うが、
将軍が都を離れて事実上の幕府解体となれば、大名や寺社も新しい権力者に従いやすくなるだろう。
そういう意味で、織田信長の延暦寺攻撃は早計だったと思うわ。 犬HKでは、畠山の相続争いと山名と細川の勢力争いだとやってた。 >>62
鎌倉・室町時代に武士を統率すべき「源氏の棟梁」と
いう概念が、そもそもあったのかな?
村上源氏が担った「源氏の長者」概念は、公家階層には
あったろうが。
わずか3歳の維康王を征夷大将軍に就けた鎌倉幕府は、
意のままに統制できるお飾りが欲しかっただけだろ? 義満 細川vs土岐 山名 大内
かきつの乱で赤松氏が没落したおかげで山名の力が巨大化した
その上畠山 斯波が分裂 お家騒動も加わり
東軍 vs 西軍の形で復活した 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
PZDKB >>77
戦国になると、略奪暴行するにもある程度のルールがあったみたいだからな。
例えばやる前には話し合いをおこない、ある程度のみかじめ料を払うと免除するとか、 >>70
今川はともかく朝倉とは同じ斯波氏の守護代。浅井も斎藤も成り上がり。 >71
>頼朝はともかく尊氏は少し違うだろ
源氏の格から言えば頼朝が将軍家で
足利、新田は御三家
斯波は御三卿
細川は井伊、畠山は池田 鎌倉公方(または古河公方)はうまく立ち回れば関東、越後を掌握できたはず
戦国期の最大勢力として天下統一も可能になったはず
さすれば後漢のように後室町幕府が江戸幕府にとって代わり、江戸時代はなっかたかもしれない 畠山義就って結局どうなってん
将軍義尚の動向も興味あるのに教科書じゃ全然扱ってない 稀代の悪女日野富子がわが子可愛さで起こした大乱。しかも、両軍に軍資金を貸して
儲けるゼニゲバぶり。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
OAJ 応仁の乱の原因は
1,将軍後継者争い
2,細川勝元と山名宗全の権力闘争
3,畠山氏の家督争い
最大の原因は1。 >>37
こういう所で後南朝の連中が出てくるって言うカオス >>1
壮大な夫婦喧嘩みたいなものだから闇は深いだろうよ… >>86
j順番が全く逆だろ。 3に2が絡んで派閥抗争になり、最後にどうでもいい1がくっついた構図。
足利義視はあっちこっち寝返ってるし >>90
日野富子が義視を押しのけてわが子を次の将軍にしようとして山名宗全の助力を求めた。
宗全はすでに義政と義視を抱き込んでいる細川勝元に対抗するために富子と手を組まな
ければならなかった。これが大乱の始まり。畠山氏の家督争いは結果的に細川・山名の
争いに組み込まれていった。管領家とはいえ、一大名家の家督争いがあれほどの大乱の
根本原因になるはずがない。 義政が無気力で富子の尻に敷かれっぱなしだったのがいけなかった。 ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな >>92
文化面で多大な貢献をした義政は日野富子ごときゼニゲバよりよほど価値があるけどね 頼朝の子孫が絶えた後では新田が清和源氏嫡流の武家の棟梁なんだ。太平記にそう書いてある。 観応の擾乱は天皇の家督
応仁の乱は将軍の家督
家督相続が嫡流単独になって各地の武士が家督と領地争い >>56
応仁の乱後の都は衰微して規模縮小
上京と下京を室町(烏丸?)通り一本のみで繋いだ瓢箪形の町になってたらしいね >>95
鎌倉時代後半の新田氏は、むしろ足利の支流という扱いを受けてたようだけどな
つまり、独立した御家人という扱いを受けてない >>91
義尚を後援してたのは宗全じゃなくて伊勢貞親
宗全と勝元は乱の直前ごろまで親しくて、貞親排斥の時にも勝元に協力してた >>95
鎌倉時代から足利氏は源氏御門葉の家柄で、五位の官位を持つ貴族だった
清和源氏の中で最も地位が高く、所領も広大で一門も多かった
新田氏は義貞が一代で地位が上昇したが、一代で終わってしまい、その後は一門の
山名氏や岩松氏が残っただけだった 義尚の次の将軍として義視の息子を推薦したのも日野富子なんだよなぁ >>91
日野富子アンチってキチガイじみてんな
伊勢貞親が自分とコネクションのない義視を将軍にすることを反対して拗れただけ
富子も義政も義視が将軍になることは反対していない
パヨクの作った教科書を信じる奴はアホ 富子を悪玉にする説は乱から半世紀ぐらいあとに創作されてからずっと定着して言われ続けてきた与太話で、サヨクによる創作じゃない
明治や大正の頃の教科書や歴史書でもたいていはそのように書かれてないか? 応仁の乱は日野富子がわが子かわいさのあまりに起こした大乱だね。
悪い女だねえ。抑えなかった義政も悪いけど。 富子の関与があるのは本当は応仁の乱じゃなく明応の政変だろ
応仁記は嘘が多い 明応のほうはともかく、応仁のほうは富子の関与はないと思う
義尚擁護派だったのは伊勢貞親で、宗全も勝元も貞親排斥の急先鋒だったからな
勝元はもとの約束を破って義視を軽く扱うのに反対して、約束通り義視を将軍にするように求めてるしな
この時点では義尚を将軍に推す勢力はない。富子の影響力は、まだ低かったわけだ >>109
応仁の初期の影響はほぼないのに
明応の政変で富子の大物の印象が強くなったのね /|∧_∧|
||. (・ω・´| 言っておくことがある!
||oと. U|
|| |(__)J|
||/彡 ̄ ガチャ
___
/|∧_∧|
||. (・ω・´| 朝鮮マ○コは最高だ!
||o.|U U|
|| | し-J|
||/ ̄ ̄
___
/|∧_∧|
||. ( | じゃ、そういうことで
||oと. |
|| |(__)J|
||/ ̄ ̄
∧_,,∧ それだけ言いに来たニカ?!
< #>
( U
し―-J >>98
太平記に「源家嫡流の名家」と書いてあるぞ。 悪さばかりしてるからだ!バカチョン!
. . ノ
∧倭∧ / / / / 彡 ノ
⊂(#.・∀・) 、,Jし // パン ノ
(几と ノ ) .て 彡⌒ ミ∩
//'|ヽソ 彡 Y⌒Yヽ<:;`Д´>/ アイゴ!
/ノ / | \ 彡 ノ 韓 /
ヽ/、/ヽ/ ヽ/ (__ ̄) )
レ'レ' 山名家って足利義満のときに勢力を削除された割に
それなりに強かったんだね >>1
享徳の乱の余波。
それ以上でも以下でもない。 それもふくめて義教政治のツケが最悪の形で返ってきた >>114
太平記は歴史書でなくて物語、軍記物だしな
各人物の評価はあんまり当てにならないだろ
後醍醐天皇が崩御の後には転生して魔王になって日本中の妖怪とかを束ねて世の中を乱れさせたとか書いてるような、かなりフィクション色の強い本だぞ @hhasegawa 京の都なる鍵アカウントの悪口雑言より投ぜられたる火種はつひに山河を焼き尽くし、かの応仁の乱を思はぬはなしと云へり。はや許しを乞ひても味方面して煽る者、要らぬ仲介に及ぶ者、なべて火に油を注ぐのみなるを見て、ある男の詠める。「汝や知る都の野火にござかけて消さむとしても上がる煙は」。 応仁の乱とは、相続争い
惣領制だと、争いが絶えない 戦国時代板だってえのに応仁スレが過疎ってんのか。
住人どものレベルが知れる。
>>119
一年半も前の書込にレスを付けるのもどうかと思うが、全面同意。
どこの板に書き込んでいるのかも分かっていないのに「レベルガー」とか言われても… 有力大名って何かあったらすぐ御所巻するような連中だから、将軍家が家督争いに介入できるチャンスを見つけたらすぐにやるのは妥当なことだし、権力構造が一極化してないから揉めだしたらなかなか解決しないのは、鎌倉後期からずっと変わらないし、単発の事件が解決しないまま、なんかダラダラやってた戦争だから、将軍家が主導権をとるも何もないと思う。 乱の前に幕府内で権勢を誇っていた細川・山名の両氏が乱の後には霧散してしまっているのに笑った でも中世の大名家で戦後に内閣総理大臣なったの細川ぐらいじゃね
佐竹で県知事 西日本の人間の特色がよく出ている。よく言えば人情味ある、悪く言えば癒着や馴れ合いが多くてモラルが無い。
小勢力が乱立して、それぞれ灰汁が強い地方勢力が、くだらない面子や欲望丸出しでまとまらない。
だから争いが始まるともう止まらなくなる。
だから合理的な織田信長みたいな巨大勢力が出てくると、まとまりが無いから為す術がなくやられる。
でも、合理的なことは嫌いだから、反発して明智光秀みたいなのが暗殺するんだよな。 >>134
その特徴が、新潟の田中角栄にも共通なことを考えれば、西日本に限らないと分かるだろ 134
アホなんかてめえわ
おまえはしつこいキチガイじみたとこがあるのは分かるけどな >>132
播磨を維持できなかった山名はともかく細川京兆家は応仁の乱での受益者だと思うが。他の管領家がズッコケたおかげもあって棚ボタ的な京兆専制を実現したし。
ただ、結果から見ると負担を一身に背負う羽目になったとも言えるけど。 >>137
乱を利用して斯波家を潰せたのが大きいな
畠山は潰せなくて、明応までのしばらく、のさばらせてしまったが 元々、武衛家は管領に興味をなくしていたようだから、京兆独占でも別に文句無かっただろうけどね。越前喪失が確定したことは大ショックだったろうが。 >>139
乱が始まってからは斯波義廉が西幕府の管領を勤めてたやんけ 義廉個人としては、本宗の義敏への対抗上、西軍全体としては京兆への対抗上、武衛の管領を打ち出したという行き掛り上の問題で、畿内に拠点がなかった武衛家としては旨味がないと認識したのか義淳の時分から出費が嫌で就任を忌避してる。 >>141
管領に初就任した斯波義将の時点ですら、当主高経が就任拒否して、嫡男で若い義将を名代として就任させたぐらいなんだよな
高経いわく、自分は将軍の家臣などという卑賤の身ではない、云々
しかし後には、斯波家と細川の間で派閥争いを引き起こす感じで、どちらの家から管領が出るかで諸大名の浮沈すら左右する大ごとになっていった
今川とか富樫とか、アオリを受けてひどい目に遭った大名も少なくなかったはず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています