X



徳川将軍家の後継争いについて語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/25(木) 23:01:28.42
一見順当そうなで、実はいろいろあったよなぁ・・・

秀忠.家光.家綱.綱吉.家宣.家継.吉宗.家治.家慶.家茂・・・のあと「誰っ?」って



世継ぎ争いって、結構奥深いと思うのは俺だけか?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 23:37:05.74
そんなことはわかっている
0496日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 00:25:38.78
>>489宛てと書けばよかったかな そんなにカリカリせんといてえな
0497日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 00:26:55.18
甲陽軍鑑
・三河以東の東国武士はどこも強敵
・特に信濃勢は恐るべき相手
・武蔵武士は個人の戦闘能力が高い
・関東武士は騎馬戦を好む
・東海では三河が最強
・三河武士は戦慣れしている
・三河勢5千で関西勢2万に対抗できる
・家康軍の戦死者を見ると敵に背を向けている者は一人も居ない
・信長軍は数は多いが一兵、一兵は大したことない
・信長軍限定では美濃兵が最強
・尾張から都までの間では一戦ごとに我々と力の差が開いて行く
・尾張>伊勢>近江>山城(最弱)
・五畿内の侍は町人に似ている

・名将は元就、氏康、信玄、謙信、若手では信長、家康
・臆病な大将は大内義隆、上杉憲政、今川氏真
・今川家滅亡の元凶は上方浪人の武藤、のちの三浦右衛門

三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
その証拠は、むくろ此方へ転たるは、うつむきになり、浜松のかたへころびたるは、あふむきになり申候。

家康17,000 vs 秀吉100,000
三河出身の家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(磯田道史・岡山県出身の歴史学者)
0498日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 01:56:01.03
吉宗は、最初は宗尹自身を越前に遣わそうとしていたんだが。
年齢が越前の松平宗矩に近いことを理由に固辞し、
それで嫡男の重昌にお鉢が回った、そうだったんじゃないのけ
0499日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 17:46:50.62
>>494
ごめん、茶目っ気が過ぎたかなぁ。脱線ついでにお赦しあれ。
ちょっと遡る話なんだけど、綱吉治世の元禄末期〜宝永年間、
朝廷は、霊元上皇・敬法門院(東山天皇の母)・一条兼輝元関白と
東山天皇・新崇賢門院(中御門天皇の母)・近衛基熈前関白が
皇位継承を巡って争っていた。
やり手の近衛が幕府を懐柔して第5皇子の長宮(中御門)の対立候補だった
第3皇子の三宮(どうやら典侍の冷泉経子と皇弟京極宮との不倫の子らしい)
を早々に出家させ、円満院を経て寛永寺に飛ばした。
これがのちに寛永寺貫主・輪王寺門跡・天台座主となった公寛法親王。
そしてその附弟には東山天皇皇孫が就いている(公啓法親王)ので、
将軍の子弟が皇族の指定席に割り込む余地はなかったろうね。

長幼の序をひっくり返すと、お家騒動が起きる・・・当然でしょうけど、
ただ、綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が備わっていたと思うんですけどね。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 23:00:52.12
500げっと
>>499
OK牧場。  ちょっち今 BS朝日の「独裁者の妻」観ている途中なんで、またレスすますだ。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/16(土) 17:27:38.25
>>499
>綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が
>備わっていたと思うんですけどね。

綱吉は別に長幼の序を飛び越えたとは思わんし、吉宗も家格を考えれば、これも一概にそうとも言えない。
まあ、ここは当時の価値観と現在の○親等の考え方の差もあるし、枝葉末節な部分なので脇に置いておく。
 それよりも傍系相続である綱吉・吉宗が強いリーダーシップを取れたのは、
彼ら個人の権威というよりも「徳川宗家家督」の絶対的権威がすでに確立していたからだろう。 
これこそ「個人の能力・資質」より「血筋・家柄」が重んじられる社会に到達した証左ではないか?
「戦国時代」は綱吉で完全に終焉したということか。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/27(水) 16:49:20.48
私的にゃ〜だいぶ前に出た「華族の肖像」っていうシリーズものな画集での拝見だったな
最後に現当主の家族写真が乗っていて幸せそうだったんで
後に離婚していたって聞いたときは「?」とは感じた

本当にご愁傷様っす
0504日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/19(木) 23:53:56.23
>>501
>「戦国時代」は綱吉で完全に終焉したということか
てか、家光で終焉なんじゃないのけ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 14:31:53.74
家光は出陣したことないからな
島原の乱は知恵伊豆が出陣しただけだし、相手は大名じゃない
0507日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 00:14:03.39
元和偃武
0508日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 15:45:49.08
家綱、家継、家重〜家定は
江戸から出たことあるのかな?
日光だけは行ったことがあるくらいでしょ
0509日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 17:56:19.77
>>501
秀忠と江がホモ変態の家光ではなく
その弟で美形の忠長を将軍にしようとしたが
家康が出しゃばってきて
「孫の代からは本人の能力・資質ではなく家柄・長幼順」
の家光を将軍指名したはず
0510日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 23:04:52.27
>>509
その頃はまだ、家光が保毛尾田保毛男だとは判明してない。
むしろ最近は、家光は秀忠と春日局の子(シエが千姫婚儀で上洛中に秀忠が手を付けた)という説が有力。もうシエの出産は無理と思って家光を対外的にはシエの子として御披露目したら忠長がデキちゃったらしい。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 23:42:45.84
家康も井伊直政とアッー!の関係だというじゃないか
今回の大河ドラマでやるかどうかはわからんがw
0513日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 11:51:06.31
>>510
家光は子供の頃から化粧をして女ものの着物をかぶって走り回る
女装大好き変態少年だった

それに家光は江の実子だよw
春日局の子なんて全然有力ではない
千姫の婚礼は慶長8年7月28日。家光の誕生は慶長9年7月17日。
家光懐妊時に江は江戸城に戻ってきている。
また、江が千姫の婚礼に同行したとする史料は一部であり、
同行せずに江戸城にいた説もある。

動かぬ証拠としては家光は自分が将軍になる
と外祖父の浅井長政に中納言を追贈している
春日局の子なら斎藤利三が中納言だ
0515日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 12:38:05.64
>>513
最後の件はあくまでも家光は正室腹という前提でないと
忠長に勝てないと思う
0517日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 18:43:22.89
将軍本人が希望した場合もあるが、重臣が政治的功績にして改革の求心力を高めるために日光参詣を計画した場合もある。田沼や水野忠邦など
0518日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 22:18:17.83
春日局は乳母が権力を持ってた時代の最終ランナーという感じの人物だと思うが
振り返ると、乳母が権力を持たなくなる&母親の血筋が問われなくなるのと、長子相続が基本ルールになるのと、ほぼ同時だよね
0519日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 10:00:20.37
>>518
むしろ春日局が大奥を女性官僚制度にしたんだよ
それまでは御台所が奥のトップで取り仕切っていたのだが
春日局以降は女性官僚である御年寄が
今晩将軍の夜伽を勤める中臈の選定から後継ぎ問題まで
裁量を発揮することになった
春日局は乳母の出身ながら御年寄へシフトしたんだね
だから将軍家光の寝所に侍る側室を自在に選択して権力を持ち続けた
0520日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 22:26:10.22
同時代の政治のほうも知恵伊豆の頃からどこか官僚的な感覚になるね
秀忠時代は権力闘争で負けたほうが死んじゃうもんな
流石にこれが続くとヤバいと皆思ったんだろうか
0521日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 13:00:41.01
安定してくるとどこもかしこも
官僚的にはなるわなぁ。
前例とか規則とか。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 09:24:40.39
>>522
逆に戦があったら徳川将軍家が滅ぼされてしまうからね
「俺の子孫が永久に将軍。上に立つ者が人格者でなくても従うのが
家臣の勤めである(儒教)。もうこれで永久固定」
ってことで戦は止めさせたんだよ
0524日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 09:24:40.55
>>522
逆に戦があったら徳川将軍家が滅ぼされてしまうからね
「俺の子孫が永久に将軍。上に立つ者が人格者でなくても従うのが
家臣の勤めである(儒教)。もうこれで永久固定」
ってことで戦は止めさせたんだよ
0526日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/31(火) 15:18:09.22
土屋政直、久世重之、阿部正喬、井上正路、小笠原長重、大久保忠増らは、万一戦が起きた場合、能役者の実質采配に従って諸大名が動くとは思えず、
速やかに紀伊吉宗の擁立を
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/02(火) 21:24:15.84
柳沢吉安が息子を将軍にしていたら結構面白かったかも

吉宗以降は実質紀州幕府だよね
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/02(火) 21:32:16.85
吉保の息子、伊勢守吉里は、家老を斬首にしたりするなど、常軌を逸している。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/03(水) 15:42:28.83
柳沢吉保・吉里といえば、「護国女太平記」や「日光邯鄲枕」
吉里をわが子と信じ、吉保・吉里父子に百万石のお墨付を
与えようとした綱吉を御台所の鷹司信子が諌めるが、
訴えを一蹴されて綱吉を刺殺、前の大老井伊直該に後を託して自害

この結末が荒唐無稽すぎて、俗書の戯言と「とんでも」扱いされているが、
果たして、どうなんだろう?
その過程で出てくる、有力諸侯や大奥、幕閣の動向に関わる逸話には
「ほんまかいな」と疑いを触発され「う〜ん」とうなづいてしまう事柄だって
あるのだが・・・
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 07:12:09.76
>>412
綱吉
家重
家治
慶喜

慶喜は賢すぎて周囲がついていけなかった

綱吉、家重、家治は側近に恵まれたから成果が出たな
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:51:21.76
>>532
牧野や柳沢とか有能無比じゃん
0535日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 23:26:47.43
>>393
>ケンぺルの「江戸参府日記」に書かれているように、
自害したという話は、日本側の史料にないんだよね 。
けど、火の無いところに煙りは発たない。

>>530
『護国女太平記』によれば、
十万両の借財申し入れは、実は甲府家の戸田長門守からだけじゃなく、
館林家の牧野備後守からもあったんだけど、
いずれも大老酒井雅楽頭から拒絶されて、
綱吉は憤りなく仕方なしと受け容れたが、
綱重は、
「我天下の連枝として僅の金子拝借を願うに其儀かなわず…
残念の至りなりと例の短慮を発せられ御無念に思され延宝二年九月十四日に
遂に御生害遊ばされける」と、いう記述がある。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:25:23.59
牧野成貞や柳沢吉保が有能とは・・・
側用人としては・・・
しかし、政治家としては・・・
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:32:22.31
ついでに言えば、対比の念頭に意次がある
水野忠成と比べれば、まだ出来がいいかも ・・・なのか
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:38:00.84
牧野、柳沢、間部、水野・・・意次には遠く及ばないだろう
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:43:05.81
綱重・・・自害したかどうかは別にして、
酒乱粗暴は記録に残っているようで


将軍にならなくて良かった
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:44:32.96
側用人ってのは将軍親政のための道具なんだから、綱吉の意思を忠実に実現した牧野、柳沢は有能だろ
意次は側用人と老中を兼任した人間だから側用人専任の柳沢らと違うのは職務上当然でしょ
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 14:04:18.19
柳沢は文化的教養も深いし、気難しい綱吉に長年辛抱して徴用されたということは
これはもう抜群の官僚政治家だよ。まあ 能吏ってやつかな。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 18:31:18.61
柳澤は軍需工場で強制労働ニカ
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 18:53:54.57
徳川綱吉は、傍系から宗家を嗣いだ将軍として、将軍とはこうあるべきだ、政治とはこうあるべきだ、という経倫を振りかざした者だったから、軋轢が大きかった。
大老酒井忠清は、例えば、御家騒動を起こした越後家や、同じく酒井忠清邸で藩重臣同士が殺しあいまでした伊達家も、取りつぶさなかった。
播磨守綱勝に嗣子がなく、本来であれば改易だった上杉家も、半知にはしたが、存続を許した。
このように、軋轢を起こさず、啼かず飛ばずが政治の極意と心得ていた酒井だったから、綱吉とは合わない。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 13:54:06.45
>>543
将軍家綱の時に起こった「由井正雪の乱」の反省から
江戸幕府は文治政治に舵をとり大名の改易をやめたんだろ
改易すると家来が失業して浪人となり江戸幕府に反逆するという理由から

他家から養子に入った6代家宣、8代吉宗の時にも改易なんか増やしていない
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 14:14:29.72
そんなことは分かっている。問題は、綱吉が、初めから高田藩をとりつぶして新将軍の威厳を見せつけようとしたことだ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 14:16:14.08
本来ならフェートン号事件で佐賀藩36万石を改易にしてもおかしくはない

しかし外様の大身の大名を改易にするのことを1643年の会津藩加藤家改易以来、
150年以上してこなかったから、
幕閣もいつの間にか億劫になってしまい、佐賀藩主の閉門と家老らの切腹だけにとどまった
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 11:46:30.38
佐賀藩潰したら、誰に長崎警備任せるの? 肥前一国天領にして幕府直轄でやるか?
そのころの幕府にはもう大身外様を潰すだけの力がなかったんだろうねえ。
というか、 >>501で少し書いたのだが、 家光の頃までは「戦国時代」であって、
大大名を改易するという発想がそもそも「戦国時代」的発想なんだろう。 文治政治以降、幕府と外様大名は
「刺すか刺されるか」の緊張関係から、「この国を平和に治める仲間」という意識になったんじゃないかな。
支配階級として同族・同門意識の共有ちゅうか。 家綱期もしくは綱吉期に「戦国」は終わったんだろう。

という意味で >>545
綱吉の高田藩改易は異例ではあるね。 秀康流の嫡系である松平光長は「影の徳川宗家」だから、
傍系相続の綱吉としては格好のスケープゴートだったんだろうねえ。 この話も前にさんざんやったね。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 14:20:27.80
綱吉が傍系いうが、先々代の息子、先代の弟だから珍しくもなんともない。吉宗や慶喜みたいに離れてれば別だが。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:00:04.24
傍系だろうが。なぜなら、一度館林25万石を与えられ、家臣の列に下がっている。将軍の子、将軍の弟かより、長子相続が続き、
将軍の子から、一旦は臣下の立場に下がったことを重んじるべきである。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:48:40.15
>>548
勿論、綱吉は宗家の出身であるし、宗家と何親等も離れている吉宗や慶喜と一緒くたに論じるのは
筆の走りすぎかもしれないが、まあ、綱ちゃんは家を出て 別家を構えた身であり宗家継いだのは30代半ばだから、
家綱政権の幕閣連中から見れば、「外の人」のカテゴリかな、と。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 16:34:19.64
宗家の出とはいえ初めての傍系相続だからな
そして結果的に酒井はクビになってるわけだし
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 18:47:23.79
>>547
松平忠直(結城秀康の長男)と勝姫(将軍徳川秀忠の三女)の間に生まれた松平光長は
母親が八百屋の娘だの言われている綱吉よりも血筋が良い
個人的に将軍の座が望めないように排斥した意味もあるのかね
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 19:46:21.72
>>552
松平光長に将軍職の野望はあったとは思わんけどねえ。
>母親が八百屋の娘だの言われている綱吉よりも血筋が良い
綱さんをdisるのはやめてくれえ〜。
と言いつつ、
光長の二人の同母妹は高松宮好仁親王妃と摂政九条道房室。 九条道房の母は豊臣完子(家光異父姉)
とか書いてみるテスト。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:16:13.68
将軍の臣下には違いないが
御三家、御両典、のちの御三卿は将軍家の親族扱い
城中席次、官位が別格
「臣下」というカテゴリ−で、越前・津山・会津等ほかの親藩と一括りにはできない

「徳川実紀」では将軍家とその世継ぎ
そしてこの八家には
徳川である姓を憚って、表記を遠慮している
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:39:02.48
徳川を名乗る家は、皇族で言えば親王家。
親王も天皇の臣下かと問われれば臣下だが、臣籍ではない。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:44:55.81
>>553
松平忠直が改易となった際、正室の勝姫は実家の徳川家に帰ったが
松平光長の2人の同母妹(亀姫と鶴姫)も母親である勝姫についていった
亀姫は2代将軍徳川秀忠の養女として有栖川宮好仁親王に嫁ぎ
鶴姫は3代将軍徳川家光の養女として九条道房に嫁いだ
その待遇をみれば同母兄の光長も秀忠や家光の養子になってもおかしくなく
そうなれば綱吉的には面白くない存在
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 22:17:32.10
>>556
>綱吉的には面白くない存在
先に「影の徳川宗家」と比喩したが、光長は将軍家の養子になろうがなるまいが、
母親 同母妹 その他で「八百屋の孫」より華麗なる一族の本当の御曹司なんだな。
彼奴をまず粛清することで「将軍デビュー」を果たした綱吉はさい先の良い良いスタートを切った。
これは大きかった。 ちょっと大げさに言うと足利義満における山名氏や大内氏の役目を
光長が担わされたんじゃないか。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 23:11:41.38
光圀のような偏屈が秀忠の跡継ぎは兄秀康の越前家に譲るべしと
考えていたようだが、

家康の秀康出生にかかわる疑念と秀忠を後継者にした経緯、
秀忠・家光の越前松平家への敵視と加賀前田家への懐柔、
前田家への備えとして大封を得た越前家の地政学的な価値低下、
前田家の親藩化、
この流れは、綱吉が将軍になる以前から続いている
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 23:18:18.80
全部自演ぽっいw
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 23:38:02.21
547 550 553 557は俺だよ。文体の癖も同じだろ。 あとは知らねえな。
前に越前論争してた片方も俺だよ。
>>559
これで得心したか?
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 00:08:22.56
当時、女子は人格のない、閨閥づくりの「将棋の駒」だよね。
実の子には限りがあるから「養女」を活用したわけだ。
だが、野郎は別。
跡継ぎ…将軍家となればなおさらだけど、越前が臣籍に下っていること以前に、
秀忠血統の幕府が秀康血統の男子を西の丸に迎え入れられることは、
ありえないと思うよ。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 15:21:35.98
>>554
江戸城登城時、御三家は大手門から入ってるから臣下
御三卿は裏からこっそり、こっちは親族
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 00:30:16.24
たしかに御三卿は「将軍の家族」扱い。
御三家の登城は、大手門⇒表玄関⇒大廊下で、将軍との対面は白書院。
御三卿は、平河門⇒御風呂屋玄関⇒御控座敷で、対面は御座の間。

但し、登城経路を詳しく見ると、
大手門⇒下乗橋⇒大手三之門⇒中之門⇒中雀門へ至る過程で、
御三家は中之門まで駕籠に乗ることができたが、他の大名は下乗橋の手前で
駕籠から降りなければならなかった。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 00:41:10.17
綱吉と将軍の座を争った 有栖川宮幸仁親王の忘れ形見である。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 10:35:23.47
外様でありながら、晩年の藤堂高虎だけは奥まで駕籠で入れた
御三家は親藩ではなく、御三家という家格である
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:25:19.20
>>563
綱紀以降の加賀前田家はどこまで輿で行けたのですか?

>>565
それは確か、高虎が高齢で体が効かんのでお勤めご勘弁と申し出たところ、家光がそれを許さず、
「輿に乗ってヨシ」と取り計らった例外規定だったんじゃないけ?
まあ、破格の厚遇には違いないがね。
大体 高虎の出世自体が異例の厚遇だし。 相手が祖父ちゃん子の家光だし。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:53:55.58
田安卿の姻戚だから大丈夫だろうとたかを括って、本来籠を使うべきところ、禁止された上げ輿で登城して処罰を受けた大名もいる
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:49:34.34
藤堂高虎は外様なのに譜代よりも厚遇されたからな
まあ子孫も鳥羽伏見で真っ先に裏切るということで、ご先祖高虎の教えをよく守ったよなww
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 20:08:08.43
うん?
藤堂高虎は誰を裏切ったのかね? 後学のために教えてくれんか>上の3人の誰か
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:43:30.47
表玄関まで乗輿できたのは勅使だけ。
中之門を駕籠に乗ったまま通り、中雀門の手前まで進めたのは、
御三家以外は、寛永寺貫主を兼ねる日光門跡輪王寺宮と増上寺法主のみ、と伝えられている。
ただ、これは原理原則で、大名の格付けがオーソライズされていく以前の政宗、高虎の扱いはともかく、
その時世、時世で例外はいろいろあったみたい。

だから加賀前田家の光高、綱紀、慶寧らがどうだったか?
自分も知りたいです。

増上寺については、
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:19:57.12
>573
前田家について質問した566だけど、質問理由は綱吉の時代に前田家を御三家に準ずる待遇にした。 城中の控室とか謁見の席次とか。だから、それ以降(前田綱紀以降)の前田家の登城待遇は如何かと。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:29:34.97
増上寺については、貞享3年当時の31世法主、流譽故巌が幕府に願い出て、
本丸表玄関まで乗輿せずに、中雀門(で下輿して御玄関まで歩行し、
表向に入ることにしたという記録からすると、
日光門跡と増上寺法主は、表玄関まで乗り付けていたとも解釈される。

ただ、36世顕譽祐天の時、秀忠以後、家光〜綱吉までずっと寛永寺に葬られてきた
将軍の霊柩が家宣に至って増上寺に葬られるとなり、増上寺の役僧らは増長して、
幕府に以前のように寛永寺貫主同様、表玄関までの乗輿を許可しろと強訴した。
困惑する幕閣の中で、間部詮房一人泰然として、祐天大僧正の発意なら祐天を流罪にし、
役僧の企てなら彼らを処刑し、御代替の御威光になると言って寺を踏み潰すべし.と一蹴
したそうだ。
恐懼した増上寺は謝罪して、粛々と法会を行ったという。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:52:30.65
加賀前田家が御三家に準じる扱いを受けたというのは、
「徳川実紀」の元禄2年8月9日の記述で、「松平加賀守綱紀今まで五節には。
表にて拝賀すといへども。 この後白木書院にて拝賀すべしと命ぜらる」
と書かれていることが根拠になっている。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 13:08:35.30
実は、将軍側近の新御番組頭格の中野播磨守清茂(隠居して石翁)が、義理ながら曾孫にあたる加賀の犬千代(前田慶寧)を13代将軍に据えようと画策し、
老中の林肥後守忠英や、大目付の本多越中守を指示し、大塩残党に家慶を襲撃させる計画があった
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 15:46:28.89
光高や綱紀や慶寧
誰にしたって加賀から将軍はありえへんだろうな
もちろん吉里もそやけど
逆に水戸から将軍を出せへんというウソが信じられとんのが不思議だ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 16:38:06.24
今徳川名乗ってる連中の大半が水戸系なのが笑えるwww

家斉の子作りは全く役に立たなかったなw

似たケースが尾張綱誠
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 16:38:12.92
前田慶寧とか将軍の外孫だけど
思いっきり尊王攘夷派で長州寄りだったじゃん
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 16:47:06.86
徳川幕府の失敗は朱子学の採用だな
朱子学採用したら朝廷が正統と見なされるようになるとは想像すらできなかったんだろうな
それくらい室町期以降の朝廷には政治的求心力がなかった
室町期から江戸初期の朝廷って相撲の吉田司家程度の存在だったんだろうな
免状発行元として重宝はするが、別になくても困らない程度の
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 18:47:27.46
>>582
朱子学否定して実力主義だったら
幼将軍だった4代家綱の頃に幕府が潰れてたかもしれん
幼児でも馬鹿でも障碍者でも家康の血筋が主君だと決まっているのだから
将軍として崇めろと言うのに最適だったのが朱子学
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:19:47.66
>>582
家康は外孫の松姫(後の徳川和子)を後水尾天皇に入内させて
徳川家の家格上昇させようと躍起になって朝廷工作してたし
秀忠は後水尾天皇の寵女を追い出してまで和子を中宮に立て
後水尾天皇の二条城行幸のために新御殿まで建造したし
家光は和子の頼みで後水尾天皇の離宮造営費を全額負担したし
朝廷に求心力なかったらそこまでするわけがない
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:11:52.79
求心力てか
ただ外戚となろうとしただけだ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 11:19:27.69
家格アゲではないわな。 あれは足利義満の皇位簒奪論者に対して批判者が
「いや、あれは義満の家格アゲを狙ったもの」と主張し、 一応 そういう流れが大勢になった。
別に義満は家格アゲを狙ったわけでもないし、秀忠もそうなんだろうと思うけどね。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 17:26:09.41
>>585
なくても困らないなら外戚になる必要もない
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 22:42:11.87
朝廷はある種「ハンコ」だった
但し、「めくらハン」
権威の源泉ではあったことは確かだが、
>>582の言うとおり「政治的」求心力はなかったというべき
家康も家光も過去レスにあるとおり、太政大臣への昇進を当初辞退し、
秀吉のように朝廷の伝統的、形式的というか、はっきり言って形骸化したな権威に
寄りかかるスタンスはなく、ただいいように利用しただけって感じ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 14:25:25.28
>>582
朝廷に他の武家と仲良くされちゃ困るから
徳川の娘を嫁がせて莫大な金を貢いだんだろ
求心力がないならそんなことをする必要なし
家光以降の将軍正室は皇族か摂家の息女(養女を含む)に限られたし
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 14:56:09.66
将軍家が大名家から正室もらうと面倒なことになるからな
実際島津が近衛の養女って形とって将軍家に輿入れさせてかなりバランスが崩れて
幕末期の島津家を強大化するきっかけにしてしまっている
その点恰好の嫁の実家が政治的に無力な皇族か摂家なわけでね
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 16:53:19.17
>>591
文盲w

朝廷と仲良くしたいから朝廷の構成員である
皇族・摂家の姫と将軍の縁組をしたんだが?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況