木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
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木曽義仲は宮中に突入して公家をぶっ殺してるんだっけ 義仲はどう考えても悪役だろ
義仲にしても義経にしても統治能力が無さ過ぎる 反目していた時政や牧の方に責任を追及する意味合いもあったんだろうけど、北条義時は畠山を擁護してたんだっけ 源平討魔伝の義経のキョケーはどう思う?あのゲームは源氏が悪みたいな感じにされちゃってるけど。 源平討魔伝は義経、弁慶、琵琶法師が中ボスとして登場しラスボスの頼朝を倒す事が目的のゲーム。 いったい松尾芭蕉と芥川龍之介は木曽義仲の何が気に入ったのだろうか? 義経に限らず源範頼とか悲劇的な顛末を辿る源氏兄弟は多い
希義は土佐で戦死してるし 生き残った阿野全成も源頼家によって殺されているね
勝者である源氏も悲劇的だ 志田義広、新宮行家も頼朝にころされて為義系は全滅。 自殺予備軍の精神病さん…まあ論破されすぎて苦しいのはわかるけど
おまけにずっと俺からソースを求められてるのに何にも貼れないという不自然な負けっぷりで苦しいもんなあ…
それで無数のソースに遺伝子の詳細も載ってるわけんだんけどさ…
あれ?また苦しいから求め返して自分が聞いてる立場なんだと捏造かなあ??
お前がソースを貼れずに逃げまわって問い詰められてる立場なのに笑
ほら朝鮮の縄文遺伝子が全て違う人種で別の場所から来たソースも早く早く 武田は同盟者だったわけだし、協調的だったのかな
頼朝は武田を鎌倉まで召喚して神前で誓約させて牽制した様だけど いやいや、露骨に嫌がらせしてるじゃん
傍系筋の小笠原や加賀美の方を優遇してるし
足利を優遇し、新田を没落させたのも頼朝 一条、安田を討ち取る一方で、加賀美遠光は御門葉だからな
山名義範を厚遇したのは新田に対する当てつけだろうな >>33
武田一族は信義の長男は暗殺だし次男もいいがかりで破滅だもんな。
石和信光の謀略だとも言われてるが。 武田には鎌倉方と同格の源氏の棟梁という自負があったから、頼朝にとっては最も扱いづらい存在。板垣兼信は源氏一門にも関わらず、一家臣団の土肥よりも格下にされているし 今井兼平との最期は悲壮美に満ちているからな
判官贔屓なのでは しかし頼朝の政治力はずば抜けてるな
武田、木曽、義経、範頼、奥州藤原、おまけに承久の乱後の西国
順当に拡大してる
北条をうまく抑えられてさえいれば神扱いだったろうな 甲斐源氏は一枚岩ではないから。
分裂の芽を見つけてつけこんだのが巧妙だよな。 源範頼は軍事でも政治でもかなり優秀なイメージがある
立場的に衝突は不可避だっただろう 頼朝は前半期にえらい苦労してるから根回しの重要性が身についたんだろう。 >>40
梶原と比企が上手く立ち回っていれば
北条は御台所の実家というアドバンテージがあるからな 貴公子然とした頼朝とは正反対だよね
浅からぬ因縁があるし 頼朝以外で政治力が高いのは源範頼と阿野全成ぐらいか
新宮行家はトラブルメーカーだし 政治力をカリスマという意味でとらえるなら範頼も全成もアカンな。
二人は行政官としては優秀だろうけど総大将になる器とは違うよね。
治安を維持する能力なら意外にも義経は優秀だったが将の将になる人ではなかった。 処世術に長けていたんだろうけど、範頼は敢えて法皇の護衛任務を辞退したり頼朝の顔色を伺っていたような感じ 範頼は結局頼朝に配流され現地で死亡(暗殺とも)
顔色伺った甲斐もなく処世にたけてもいない 院や甲斐源氏とも近い微妙な立場
頼朝にとっては可愛い頼家を脅かす存在に見えかねないからな
兄弟は反目しあう運命 源氏一門は優遇されている様に見えて鎌倉から睨まれ遠ざけられていたから
信頼を得ていたのは坂東平氏から成る武士団たち それも、保元・平治の乱に原因があるとよく言われるね
うざったいくらい言われる 源頼家も平宗盛も親からカリスマ性を受け継げなかったからな 源氏は昔から共食いするからなあ
平家は仲良く滅びましたw 武田や小笠原の祖となる源義光とか相当な謀略家だったからな 源氏は親子兄弟、叔父甥で合戦ばかりしてるからなぁ。
名門意識が極めて強い上に、当主・棟梁への権威が集約されておらず、それぞれが領地持ってるから、
争うのも仕方ないのかね。 木曾義仲はもちろんのこと、武田信義も頼朝と肩を並べる源氏の棟梁としての自負があったから
頼朝もそれらを牽制する為に冷徹に為らざるを得ない >>28
夫、子供たちが殺されたり流されたりしてるよね 梶原追放のキーとなった阿波局とか息子がクーデターを起こそうとしたからな でも違和感がある
兄仲家は木曽にいなかったし頼政に育てられたから源としか呼べんな 頼朝が武功を上げたって話は聞かないけど。
鳥の羽音に慌てて愚かな敵兵たちが散り散りになって、それでやっと勝てたくらい。 頼朝の兄弟、親族、近臣たちだけじゃなく、息子や孫もほぼ皆殺しにされてるよね。 頼朝の息子たちを除けば頼朝の死後も生きていたのは全成くらいか。
範頼の息子、全成の息子は辛うじて生き残ったんかな。 義経は一の谷の戦いの時、地元の豪族の娘に一人子を残してる。
父親にすれば、有望株の青田買いwだったんだろうけど、間もなく鎌倉と義経の関係が悪化
しはじめると、彼は産まれた男子をすぐに自分の跡取りにするよう幕府に申請し、姓を変えさせた。
なお、その子は長じて畠山重忠の娘を娶り、家を継いだ。その後も、家は続いている。
父親(幼児の祖父)が頭の良い対応の素早い人で、助かった例。
畠山の姫が来たのは、恐らく監視がてらかも知れないが、平家を滅ぼすために一緒に戦ってきた
両雄の子同士が夫婦になったことになる。この後、畠山も、ほどなく滅ぼされるが、
子供同士は遠い兵庫の地でひっそりと脚光を浴びることなく、血を繋いでゆく。
当時、姓を変えると全く論外扱いになり、 敵からも命を狙われなかったらしい。
現に、結城朝光は頼朝の庶子であるが生き延びている。割と長命。戦死しなければ、本来健康な家系かと。
たまに、朝廷への使いに刀を持たせたりする名誉職をやらせたりして、頼朝は地味に可愛がっていた模様。 昨日、木曽谷を電車で通って来たが、現代でもあの状態なのに、平安末期以前によくあんなとこに人が住んだものだなとつくづく感心するw
いくら分け入っても山と谷と木々だらけ… >>84
だよなあ。
サルでもなきゃ、あんなとこに住まないよねw
俺だったら一生あの樹海から出られないと思っちゃうよw ただ木曽の景気は日本最高級の絶景
交通網が整備されてる21世紀の今だから浮かれた事を言えるのかもしれないが あの時代の山中の教育とかどうなっていたのか本当に気になる
縄文時代とさほどから変わらないんじゃないかと
京の都の人から見たら宇宙人が侵略してきたような感覚かもしれない 昭和の頃でさえ都会と田舎では落差が激しかったからね。
戦時中の東京っ子が疎開先で見る世界は未開の地だし、
近世以前ともなれば異境というより異界、
下手すれば地球外惑星ほどの感覚なんだろうな。 >>88
たしかに木曽義仲が京都入りした時に朝廷の貴族連中は宇宙人と交渉する感覚だったかもよ。
いくら平家が横暴でも貴族のしきたりは理解してる。 それに比べると中国は三国時代から辺境の出身者でも大活躍してたり日本とは違うんだよな。 基本的に中国は覇道だからな。日本の天皇に相当するものがない。
王道に対する礼儀がないと武力だけではどうにもならんのが日本だったということだ。 >>89
>>91
しかし日本より地域差が激しい国はそうないんじゃないかと。 >>94
激しすぎると中原に鹿を追うことすら出来んからね
田舎に引っ込んでるしかない 基本的に今も800年前と民族性は変わってないかもしれない。 京育ちの義経や貴公子然とした頼朝と比べたらかなり異質に見えるかも知れない 義経も褒められたものじゃないぞ。
頼朝も伊豆で幽閉生活が長すぎて貴公子とは呼び難い。 義経は京育ちでもないだろ
鞍馬山にいたんだから
そのあとは放浪生活で平泉での時代が一番マトモ 近藤好和
義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。 頼朝にとっては伊豆での幽閉生活自体は平穏そのもので、ある意味幸せなひと時だったのかも知れん 伊東によって実子をコロされたり悲惨なこともたくさんあったけどね。 >>103
平治物語の義経奥州くだりは史実ではないけど、
近藤氏はどこまであれを本気にしてるんかな。 頼朝息子は川に、義経息子は海にそれぞれ沈められ、義仲息子は首チョンパ。子供にもエグい時代だなぁ。 なまじっか情けをかけると後々「頼朝」や「義経」となって牙をむくんだから仕方ない
とはいえ現代の感覚からするとそこまでせんでも・・・と思ってしまうわな 頼朝の実子はそれとは違う理由で沈め、それが原因で頼朝によって復讐されたな。 平家方の伊東にとっては平家の目を恐れるとともに、頼朝を庇護しようとする北条家と確執があったから
頼朝を貴種として担ぎ上げる勇気はない >>106
平家物語はともかく史実ではどうなってるの? 軟弱貴族は戦争に興味なし、文字嫌いの武士は記録を残さず >>112
貴族が書き残した「玉葉」が源平合戦の一級史料なのを知らない人かな
通ぶってる手合いに限ってこの有様だから困る 山槐記の戦争部分の記述なんて雀の涙だもんなあ
ほとんど興味がない >>111
『平家』ではなく『平治』な。
義経が鞍馬から奥州に行くところの史実なんて文献がない以上「不明」としか言いようがない。 文献史学の限界あるよねえ
すべてを否定してたらな〜んもなくなるこの時代 >>116
じゃあ義経は新幹線で平泉に行った、否定するなよ。 >>116
あなたは勘違いしてる
限界があるのは文献がない時代の研究であって、文献による研究が限界があるのではない。
『平治物語』みたいに後代に創作された小説を一次史料と同列に扱うのは間違いなんだよ。
近藤は一の谷での逆落としも結論ありきで考察してるあたり研究家として二流だね。 井沢みたいに文献もないところに勝手な話を捏造して、
否定されると「史料至上主義だ!」とわめく馬鹿が増えた。 前九年の役が終わった後に京都に連行された安倍宗任に、
京都の馬鹿が桜の花を見せて「これが何かわかるか?」とからかった。
宗任「京都の奴らは桜の花も知らんのかw」と返して馬鹿を黙らせた。
田舎もんだね。だから何?って話。 頼朝が嫡流とはいえ、義平が亡くなったのは頼朝にとって結果的に幸運だったのかも知れん 巴御前も信憑性があやふやだからな
女子が出陣するのはよくある土地だったらしいけど 脳筋義平生きてても、戦場で酷使されて最後に頼朝に謀殺される最期しか想像できない。嫁は負け組新田からだから、後ろ楯は期待出来ないし。 新田が負け組になったのは頼朝が勝ち組になったからだね。
義平がいたら義経って活躍の場を失っていたのでは。
あるいは義経はおとなしく行政担当になって生きながらえていたとも。 義平さんは義経並みの軍略家なのだろうか。どっちがいうと義仲とイメージかぶる。 義仲よりも視野が狭くて、合戦の最前線で太刀ブン回してるイメージしかないw アクの強い人が多いから
頼朝があまりにも優秀過ぎる その山猿がいなかったら頼朝も勢力拡大させる前に平家に潰されていたかも知れん 木曽義仲が暴れてくれたおかげで朝廷と平家を弱体化させて源氏の天下になった 関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」 芥川龍之介と松尾芭蕉と楠正成は木曽義仲の大ファン
源義経が大衆好みなら木曽義仲は玄人好み 日本だけでなく世界的にもそうだろ
キリストなんか代表例 二人とも政治力の無能さを叩かれてる。
信長と龍馬はスーパーマンにされてる。 義経が目立つけど、源氏の兄弟は全員悲劇的な顛末を歩んでるし 似た者同士の義経と義仲は直接対決したが、義仲の父を殺した義平もまたこの二人と似ている。
さらにいうと三人にとって叔父にあたる為朝も性格的に似ている。
為朝と義平は同世代だけど絡みがなかった。二人が共闘していたら面白かっただろうなぁ。 松尾芭蕉
「死後は義仲のそばで眠りたい」
こう言わせる何かが木曽義仲にはある
木曽義仲=玄人好み
源義経=大衆好み 奥州藤原秀衡は名君だって言われてるけど義経を迎え入れた事で攻め込まれる口実を作ってしまったのが皮肉 >>160
範頼が総大将だったからな
軍事面でも政でも優秀だったと言うのに >>162
最近評価があがってきてるね
前までは凡将としか言われてなかった 範頼は法皇の警護を敢えて辞退したり、かなり頼朝に対しては配慮してたな でも義経追討を命令された時はゴモゴモってなったんだよな そういや木曽義仲軍の兵士の大半が義経軍の登場で逃走したとか。
木曽義仲からしたら義経とやらざるを得なかったが いや後白河法皇から通遇されるぐらい有名だったから木曽義仲軍から逃亡者が相次いだ 木曽義仲が覚明の進言を受け入れてそのまま起用してれば信州幕府は誕生していた。 せっかく征夷大将軍に任命されたんだから。
生まれ故郷の信濃に幕府を擁立して天下三分の計にすべきだったのに
自信過剰になり覚明を追い出したのが痛すぎたね その頃の征夷大将軍は武家の棟梁の意味ではなかったし。
武家政権という発想もなかっただろう。 >>178
むしろ、「征夷大将軍は武家の棟梁」というイメージ戦略は、頼朝政権がプロデュースしたものでは? 武家の棟梁では無いのなら
義仲が征夷大将軍の座に拘り続けてたのは何故かな? >>180
頼朝を倒すための大義名分
頼朝が征夷大将軍になったのも藤原氏を倒すため
ただし後白河が断固拒否したため頼朝は主君と家臣の問題だという理屈で強行した
のちに大将軍になったのは事後承諾みたいなもん >>180
藤原でなくても就ける数少ない高官では? >木曽義仲が覚明の進言を受け入れてそのまま起用してれば信州幕府は誕生していた。
>自信過剰になり覚明を追い出したのが痛すぎたね
まるで木曽義仲はカイ通の天下三分計の進言を聞かずに追放した韓信みたいだ。 韓信とも違う気はする。
東西に敵を迎えてるから天下三分してもどのみち両面攻撃を受けるんだし。 細長い日本で中国みたいな三分の計は無理だけど義仲が京都に入る前の
頼朝…関東東海
義仲…北信越
平家…西日本
だと近江あたりが三つ巴で鼎立か 義仲は征夷大将軍将軍任命後に京都から去り覚明を最高顧問のままにして信州幕府を樹立すればよかった 幕府という発想はないだろうから、北陸宮を擁した信州王朝樹立が現実的かな。 権威とか肩書きを無官にしてしまうのが木曽義仲の強さ
わりと伝統的権威を重んじたのは源義経 源義経→ナポレオン
木曽義仲→ガリバルティ
源頼朝→ビスマルク
19世紀欧州に置き換えるとこういう感じだな。 >>181
頼朝は藤原氏と戦ったことはないんだが。
それどころか、源頼朝の同母妹・坊門姫は藤原氏の一条能保に嫁ぎ、
その娘(頼朝の姪)も藤原氏に嫁いでいる(九条道家、西園寺公経)。
そこで生まれた九条頼経が鎌倉幕府4代将軍(摂家将軍)。 もしかして奥州合戦のことを知らないとか…
文脈や時系列から奥州藤原氏であることくらい猿でもわかりそうなもんだが 皇族に攻撃し殺害なんて奈良平安時代からありましたぜ 法住寺合戦で円恵法親王を殺してると何度書けば分かるんだ? >>215
「南→東」などみたいなウソを、
良心の呵責を毛ほども覚えることなく、
呼吸でもするように自然につけるのが 、
史料事実をを否定曲解する大和説者。 >>200
流れ矢に当たっただけ
打ち首にもなっていない >>203
宮中への攻撃を命令したのは木曽義仲だよな? >>203
ようするに木曽義仲を尊王家にしたいのか?
反天皇制ではないが尊王家でもないから
見方によっちゃ政治から皇族を追放しなかった平家こそ源氏より尊王家 皇族をぶっ殺してくれた木曽義仲公は俺の中では神だよ 征夷大将軍を宣下しなかったら後白河法皇も殺されてた可能性が高い ハンニバル カリクラ峠で火牛の計
木曽義仲 倶利伽羅峠で火牛の計 木曽義仲の火牛はなかった
あんな山奥まで五百頭の牛連れて行けるわけない
それに当時そんなに牛がいたはずもないし いや火牛の話が出てきたよ。
ただ500頭の水牛をコントロールすることが可能なのかと疑問がある。 >>214
日本古典文庫13 平家物語 (河出書房) p211
南北からまわった源氏の搦手の軍勢一万余騎は、倶利伽羅の堂のあたりで一つになり、
箙の箱をたたいてどっと鬨の声をあげた。平家が後ろをふりかえって見ると、
白旗を雲のようにさしあげている。この山は、四方が絶壁であるから、
搦手へはよもまわるまいと思っていたので、これはとばかり、うち騒いだ。
そのうちに大手から、木曽殿の一万余騎が鬨の声を合わせた。
砺波山の麓の松長の柳原や、茱萸木林にかくしておいた一万余騎、
日宮林に待機していた今井四郎の六千余騎も同じく鬨の声を合わせた。
前後四万余騎が、わめきあげた声は、山も川も一度にくずれるかと思われるばかり。
火牛のことは出てきませんよ。 >>214
あなたが読んだのは吉川英治の新平家物語じゃない? >>217
『平家物語』諸本の中で最古態本とされる延慶本の当該部部分には
猿程ニ日モクレカタニナリヌレハ、今井四郎兼平、楯六郎親忠、八嶋四郎、
落合五郎ヲ先トシテ、一万余騎ノ勢ニテ、平家ノ陣ノ後、
西ノ山ノ上ヨリサシマハシテ、時ヲトツトツクリタリケレハ、
黒坂口、柳原ニヒカヘタル大手三万余騎、同時ニ時ヲ作ル。
前後五万余騎カヲメク声一、谷ニヒヒキミネニヒ引テ、
ヲヒタタシクソ聞ヘケル。
とあって、火牛の記述は全くありません。この件が記述されているのは増補本の集大成の『源平盛衰記』に、
木曾は、追手に寄けるが、牛四五百疋取集て、角に続松結付て、
夜の深るをぞ相待ける。
のみです。これは史実とは認めておらず、中国の古書からの模倣です。 火牛の計はあっても数十頭かな?
もちろん北条早雲のも 火牛とともにフィクションなのが義経の壇ノ浦水主狙い 小矢部にはそんくらいいただろうが倶利伽羅には連れて行かない 史実は30頭が300頭に誇張されるのは良くある話。 畠山が馬をかついで断崖を降りたのは本当か?
馬といってもポニーみたいなもんだろうが。 逆落としというと断崖をイメージするけど、実際は走行可能な程度の傾斜らしいね
操作は難しいんだろうけど >>234
だから平家物語に書いてないんだっつーの 平家物語が100%真実だと思い込んでる方がバカだわ。
平家物語こそ三国志演義と同じ物語だろバカ。 >>238
火牛を出した盛衰記のほうがずっとあとの創作なんだよ >>238
では火牛のことが書かれている源平当時の文献を出してください では火牛の計は誰が何のために言い出したのかな?
平家物語とは違うラインで伝承されてきたのが真実であろう 盛衰記は脚色が誇大らしいからな
範頼が愚将扱いされてるんだっけ >>239
>>畠山重忠は将門の子孫なんだな
直系じゃない、祖母系が将門の弟の系統だと思う
父系は秩父国造家(秩父郡家)、祖母系が丹田郷家(吉田館家)だと思われるけど
双方とも平氏の婿が入ってる 新井白石が言うとおり木曽義仲がいなかったら平家も朝廷も我が物顔でのさばっていた!
ある意味で木曽義仲は不幸な大英雄なり 北条義時は畠山に対してかなり同情的だったからな
畠山を死に追いやった平賀朝雅や牧の方の責任を追及する意味でも 畠山重忠の妻は足利の一族と再婚して、南北朝から戦国まで活躍する源姓畠山誕生だったな。 畠山の乱の発端は重忠の息子重保が最初に殺されたんだよ。 比企の残党の児玉党を匿っていたり、武蔵国を巡って北条時政と確執が生じていたんだよな 結局北条時政も平賀朝雅も畠山重忠も排除して武蔵国は義時のものとなる 武蔵国どころか朝廷も排除して日本の支配者になったよ 日本史上最大の大物かもしれんな北条義時
地味だけどw 雑魚でも有名なのが戦国時代
英雄でも無名なのが鎌倉室町時代 北条時政と北条義時は英雄というより天皇を超えた超実力者。 承久の乱以降も摂家将軍や親王将軍が
形の上だろうが北条よりも上にいただろう そんなの形式上だけだ
なんの権限があったというのだ
今の象徴天皇制より醜い状況に置かれてた >>261
鎌倉幕府は後醍醐天皇が出した北条追討の綸旨によって終焉する
北条が天皇を超える超実力者ならば後醍醐天皇の綸旨が有効なわけがないだろ >>262
別に綸旨で滅んだわけじゃない
他の武家が北条を滅ぼしたから滅んだだけだ
その証拠に後醍醐はすぐに武家に追われたじゃないか .
天皇を超越した唯一人の日本人。
その名は北条義時 木曽義仲が法住寺合戦で皇族殺した前例を作ったのが北条義時の助けになったはず。 >>263
綸旨には武家を従わせる効力があるということだよ
北条が日本のトップで天皇を超越した存在ならば
綸旨に従う者などいるはずもない >>265
また基地外が来たなw
円恵法親王は法衣を脱いでしまったために誰も法親王だと気付かず
人違いで殺されたと史料に書かれてあるのに
史料を提示されても史料が読めず
木曽義仲は円恵法親王の打ち首をさらしたといってる基地外w >>265は他スレで暴れている基地外
121日本@名無史さん2017/12/10(日) 23:28:34.56>>127
そもそも前代未聞である宮中に攻撃命令を出したのは木曽義仲だからw
別に殺しても仕方ないという感じだったんだろ
だから円恵法親王の打ち首をさらした
↑
この書き込みにたいして愚管抄を提示して
円恵法親王は法衣を脱いだために法親王だと気付かれず人違いで攻撃された
打ち首をさらした事実はないと指摘した
「八條宮〔円慧法親王〕ハ具シタリケル人アシク。衣袈裟ナンドヲヌガセ申テ。
紺ノ帷子ヲキセ奉リタリケレバ。走リカカリテ武者ノキラントシケルニ。
ウシロニ少将房トテチカクツカハレケル僧ハ。院ノ御所ニ候源馬助俊光ト云ガ兄也。
ソノ僧ノ兄ト云テ手ヲヒロゲタリケル。カイナヲ打落スマデハ見キト申者有ケリ。(愚管抄)」
この基地外は愚管抄を提示されても尚、
木曽義仲は皇族を意図的に殺し打ち首を晒して皇族殺しの前例を作ったと
愚管抄の内容を真っ向否定して暴れ回っている
さっさと必ず「一次史料引用の上で」反論しろ 井沢のせいだと思うが一次史料否定するバカ増えたよな >>267-268
おきキチガイ!
どこにトンズラしてたんだ?
俺に指摘されるまで円恵法親王の存在自体を知らなかったキチガイがwwww >>267-268
おいキチガイ!
どこにトンズラしてたんだ?
俺に指摘されるまで円恵法親王の存在自体を知らなかったキチガイがwwww
俺に指摘されてからネット検索してやっと気づいたんだろキチガイwwww >鎌倉時代に殺された皇族って誰?
>木曽義仲が殺した皇族って誰?
↑
このレスだけで>>267-268がどんだけニワカキチガイか分かるわw
こいつは法住寺合戦で円恵法親王が木曽義仲の兵士に殺された歴史的事実を知らないで鎌倉時代を語るニワカキチガイwwww
どうせ俺に指摘されるまで円恵法親王の存在自体を知らなかったんだろ?
こいつは話を逸らすことで己の無知さを隠そうと必死www >鎌倉時代に殺された皇族って誰?
>木曽義仲が殺した皇族って誰?
↑
キチガイの北条義時スレのキチガイレスだけで>>267-268がどんだけニワカキチガイか分かるわw
こいつは法住寺合戦で円恵法親王が木曽義仲の兵士に殺された歴史的事実を知らないで鎌倉時代を語るニワカキチガイwwww
どうせ俺に指摘されるまで円恵法親王の存在自体を知らなかったんだろ?
こいつは話を逸らすことで己の無知さを隠そうと必死www >鎌倉時代に殺された皇族って誰?
>木曽義仲が殺した皇族って誰?
↑
キチガイの北条義時スレのキチガイレスだけで>>267-268がどんだけニワカキチガイか分かるわw
こいつは法住寺合戦で円恵法親王が木曽義仲の兵士に殺された歴史的事実を知らないで鎌倉時代を語るニワカキチガイwwww
どうせ俺に指摘されるまで円恵法親王の存在自体を知らなかったんだろ?
こいつは話を逸らすことでニワカである己の無知さを隠そうと必死www >鎌倉時代に殺された皇族って誰?
↑
キチガイのキチガイレスだけで鎌倉史を何も知らないバカでアホでゴミで無能だと一目瞭然! またまた鎌倉時代に皇族は殺されていた事実を俺に指摘されて話を逸らしてトンズラ逃亡かな?
だって、こんなバカなんだぜwwwwwwwwww
↓
>鎌倉時代に殺された皇族って誰? とりあえず新スレ立てて、そこで二人とも思う存分やってくれないかね
今の状態はみんなの迷惑 >>280
おお、ずいぶんと皇族は源氏にも平家にも殺されてんじゃねかよ これで鎌倉時代に殺された皇族って誰?なんて馬鹿げた口きく知恵遅れもいたもんだぜ。 >>281
平家が以仁王を殺したのは木曽義仲より前だぞw 皇族殺しどころか天皇殺しは前例があるけど。
宮中を正面から攻撃したのは木曽義仲が史上初じゃないか? 義仲に相当する戦国武将は信長だが義仲のほうが数段格上。 >>269
自分の解釈だけが正しくて、自分に都合の悪い史料は曲解していくスタイルなのだろう 源義平、木曾義仲、源義経は好きかな・・・
という俺の先祖は攝津源氏系だけど・・・
でも、頼政のおっちゃんを襲った悪源太義平は何か憎めない・・・
多分、河内源氏、八幡太郎義家以来の源氏の棟梁のしかも長男としての”想い”は純粋だったのではないかなぁ・・・
俺も長男だから何か感慨深いものがある・・・ 鎮西八郎為朝はどうよ
義平が義経なら為朝は義仲ってイメージがある >>290
頼政?義賢じゃないの?
既出だろうけど
大蔵館のあれは義平が主犯とされているけど
すべて畠山重能の陰謀 >>292
頼政襲撃ってのは平治の乱のことではなかろうか 平治物語だと頼政は見限ったが平家にも荷担せず中立でいたところ、
義平が暴走して攻撃を仕掛けたため義朝に敵対したことになってる。
その意味ではアホな奴だなと思わないでもないが、でも憎めないと言う意味に俺は理解した。
とうの本人が出てこないと話にならんな。 ちなみに俺は291だ
為朝に関するコメントも待ってるぜぇ 当時の武士道では考えられない(今でも国際法違反だと非難轟々浴びるのは間違い)
どんな卑怯な戦術も厭わなかったのが源義経の強さ。 でも所謂卑怯な戦術とされている壇ノ浦の漕ぎ手狙いは嘘だという事実 京都にべったりな義経が鎌倉を拠点とする頼朝や東国武士団と相容れるわけがない 後白河院は義経と結託しようとしていたし、義経も天下取りの野心があったと言われている 木曽義仲の野人ぶりに比べたら
いくらか源義経が貴人に見えてしまう >>302
近年 そういう見方が出てきたね。歴史番組でもやってたな。頼朝の義経への非情な仕打ちは、この文脈なら納得が出来る。
義経の驕慢な性格の故に頼朝の不興を買ったわけではなく、義経の頼朝への対抗心が原因だと。
義経には人望も政治手腕もないから、「第二の源義仲」に終わるのは目に見えてんだがねえ。
まあ、 都知事さんと同じく 自己過信と超勘違いがあったんだろうか? >>305
頼朝は苦労を知っているからね
鎌倉の頼朝と甲斐の武田と木曽義仲が源氏の棟梁として並立する危うい情勢が続いていたから 「寿永の宣旨」で鎌倉政権は朝廷に公認された、というわけで鎌倉幕府創設の時期をこの1183年に求める見解が以前からある。
しかし、あれ(寿永の宣旨)を先入観なしで平読みするとそんなこと書いてないんだね。 「そういう風に読めなくもない」程度だ。
で、何が言いたいかというと、これも近年の解釈では 義仲の入京に危機感を感じた頼朝が朝廷に「頭下げた」のが寿永の宣旨だという見方が出てきた。
とりあえず「反乱軍」指定から解除されたわけだし。(同時に「東国独立路線」は消えちまった。←上総広常の路線の否定)
甲斐の武田も形式的には頼朝の御家人だが、実際は客将・同盟国みたいなもんだ。
義仲上洛軍にも参加しているし。 頼朝の焦りが寿永の宣旨を奏請させたという見方は俺も支持している。 義経には自分も正統だという自負と後白河院に対する過信があったらしいからな 話は変わるが木曽義仲を大河ドラマにしようとする運動があるみたいだが。
大河ドラマ「源義経」だけでも1年を引き伸ばすのには精一杯で無理があったのに。
もし「木曽義経」だけで大河ドラマを構成しようとすると半年で放送が終わってしまう。 「木曽義経」でなく「木曽義仲」だった。
「悲劇の源氏 木曽義仲と源義経」みたいなタイトルで大河ドラマにすればいい 源義経一代だけの構成でも無理があった。
木曽義仲一代だけの構成ならもっと無理がある。
そこで本来は2人セットで〜キングオブKY 転落の勝利者の人生〜として構成すべきだったのだ。 新田義貞と木曽義仲が被るな
登場の仕方と言い死に様と言い 2人とも一度は栄光を掴んだのに、結局 ライバルの頼朝 尊氏の引き立て役に終わった。
これじゃあ死んでも死にきれん。やっぱり2人とも大河の主役にしてやらんとな。
>>309
「源義経」観てないから知らないが、「北条時宗」や「徳川吉宗」で一年引っ張ったこともあったんだぜ。
平将門や山本勘助 武蔵坊弁慶(大河ちゃうけど)でも1年やり切った。
ようは脚本家の腕次第。 >>脚本家の腕次第
木曽義仲って大蔵館の事件と旗挙げ後しか史実としては知られてないから
その間、脚色は思うがままだよな
それはさておき、語りは松尾芭蕉でいいかな? 『松尾芭蕉 奥の細道』で大河ドラマにして木曽義仲をふんだんに登場させるべき。 「元禄繚乱」だったかな? 近松門左衛門が語りだったな。もう松尾がナレーションで、
前半は義仲、後半は義経、終盤は日蓮と蒙古大襲来というスペクタクル大河でいいや。 第1回めは何故か薬子の変から、とか。 木曽義仲はホウエツ(漢字変換できず)こそ似てるよ。 >>319
近松門左衛門が語りだったのは「八代将軍吉宗」 董卓だな
覇権を握るもすぐに没
覇権崩壊の原因も似てる 董卓の部分は分からんでもないが
木曽義仲が諏訪大社や木曽御嶽山を信仰してた点が戦国武将なら武田信玄や武田勝頼との繋がりがあると思うわ
しかも木曽義仲の部下の海野氏は真田幸隆の先祖。
ここも俺が木曽義仲に甲州武田軍団の匂いを感じる点である。 覇権を握ったのはいいが、それを維持する方策がなかった
武力重視杉で、経済官僚がいなかったからかね
半面、光秀は周到でその点の策略もあったが
時間を与えてもらえず、裏切りと秀吉にしてやられた感じかな >>326
木曽義仲の家来の子孫の多くが武田信玄の家臣になってる。
その一人が木曽義仲直系子孫の木曽義昌。 あらためて木曽義仲の人生を見ると
木曽の山奥から現れた日本史の中の超異常人物だろ。
同時代のアンチヒーロー的な平清盛やダークヒーロー的な源頼朝とも違う
また似てはいるが源義経とも違う木曽義仲は超異常人物 大本を中心とした明治の教派神道の間で源義経が日本国の魂のごとく崇められてた。
江戸時代は徳川家康が好む源頼朝がエコ贔屓されてたが。 義経は判官贔屓で人気が出たんだよね
義経記が誕生したのは室町時代のことだが、
すでに源平盛衰記あたりから義経の物語が出来はじめてる。
江戸時代には腰越状が習字のテキストに使われたり、
芝居でも義経が意味もなく出てきてお客さん大喝采とかだった。 そう考えると源義経は日本の象徴みたいになってしまってる。
ただ俺が依怙贔屓してるのは木曽義仲だが 義経も義仲同様に野心家で後白河を後ろ盾にして天下取りを狙っていたという
頼朝が警戒するのも無理はない 武家の政治を作ったのが頼朝で美学を作ったのが義経だってNHKで言ってたな 江戸時代は徳川家康が崇拝してた源頼朝が依怙贔屓されておった。 織田信長の平清盛愛は異常
徳川家康の源頼朝愛は異常
松尾芭蕉の木曽義仲愛は異常
出口王仁三郎の源義経愛は異常 >松尾芭蕉の木曽義仲愛は異常
新井白石とか芥川龍之介とか何故か文豪に木曽義仲好きは多い。 >>344
芥川は芭蕉好きだから何かしらの影響はあるだろうな 木曽義仲は董卓だと考える人が多いな
最初はいい人だが暴君に変貌したあたりは平清盛が董卓だと思っていたが ヒット&アウェイのほうえつと突進型の義仲は似てないと思う 彭越はゲリラ戦法の正統派だな
こんなんに補給路を脅かされたらたまらんわ
そら劉邦も韓信クラスの評価するわな 彭越に似たような武将は源平時代にいないと思う。
近江源氏がこれに近いことしていたかもだけど。 義仲の戦術が猪突猛進
確かに性格はそうかもしれないが兵法には謀を多用してるだろ
火牛の計に赤旗で平氏に近づいてから白旗に変えて奇襲する欺瞞作戦など いまだ信州の山賊焼きを超える鶏肉を食ったことがない >>357
楠正成いわく兵法の謀りにおいて木曽義仲の右に出るものはいないと。 彭越は項羽の主力と正面からぶつかるような戦い方をしていないんだが。
義仲は平家の大軍を真正面から撃破してるんだから彭越とは全然違う。 彭越の戦い方って実は最強だよね
相手の主力と正面からはぶつからず、相手の補給部隊を襲ってごっそり兵站をいただいてしまう
もっとも相手に別の敵がいないとできない戦い方でもあるけどな >>362
ぜんぜん正面じゃないだろw
不意打ちの奇襲ゲリラ戦術ばかりだろ >>363
そうホウエツ最強。
そして正面突破ではなくてホウエツばりの奇襲ゲリラ戦術を駆使できた木曽義仲最強。 義経の方がホウエツっぽいんだが
義仲は敵の本体相手に戦闘を挑むタイプ
義経は背後や側面からの攻撃が主体 そんなことより火牛の計の真実を知りたい。
500頭の牛を完全にコントロールすることができたなら恐ろしいことだ 『平家物語』にすら書いてないんだから嘘に決まってる。
火牛が書かれたのはずっと後代に脚色された『源平盛衰記』から。 一次史料に火牛のことが書かれているものを見たことがない
あるんだったら教えてほしい そしたら誰がいいだしたのか?
こないだ富山の埴生と倶梨伽羅に行ってきたが火牛の計は完全に歴史の事実として町おこしの材料にされてるぞ。
まあ木曽義仲ファンの俺としては事実認定されたほうが有り難いんだがw >>347
>自分に無いものを持っているから
これが事実である。
そして確信は無いが芭蕉も芥川も実際に木曽義仲に出会えば大嫌いになるかもしれないぞ。
なにしろ同じ文筆家で占められる京の貴族連中が解放者と迎え入れた木曽義仲と実際に面談したとたんに手のひら返しで毛嫌いしはじめた。
現代でいえば木曽義仲みたいのは米国トランプ大統領同様にワープアや底辺労働者などのB層からは絶大な人気を得るだろうが
文系が多い上級国民からは忌み嫌われるだろう。 道の駅にも火牛の像があるけどあれを事実だと信じてる人はいないでしょ 唯一の『頭脳』であった覚明が去って行ったのはそれなのである。 長篠の三段射撃と同じで創作がやたらと有名になった例 >>372
チョンやネトウヨは織田信長好きだけど知識階級の日本人はアンチ信長が多いようなものか 畠山重忠は猪突猛進型とは違うし、なによりも怪力だから非力の義経には似てなさそう。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
G0WDE >>363
日中戦争時の八路軍が彭越流戦術を受け継いでる。 貴乃花は所詮小粒の大将にすぎないから新宮十郎行家が似合ってる 貴乃花の絶大なカリスマ性は源義経に匹敵する
そしてカリスマだからこそ組織から嫌われる
そこは鎌倉幕府から追放された源義経や木曽義仲と同じ 貴乃花=源義経
御嶽海=木曽義仲
勝手にイメージしてみた 圧倒的な戦術的強さを誇りながらも汚れきった腐敗組織の前に敗れ果てた貴乃花と源義経。
だが世論は判官贔屓で貴乃花親方を圧倒的に支持している
世論調査では貴乃花親方の圧勝
まさに貴乃花親方は源義経だ >>391
今回のヤフコメやTV局の世論調査の絶大な貴乃花支持率は源義経に匹敵してる判官贔屓。
空気が読めないから村組織から追いだされるところも同じく源義経。 もはや平家のごとく伏魔伝である大相撲協会崩壊の露払いになったのは木曽義仲にも通じる
いや義仲も最期は2人だけになったし・・ 木曽義仲が平家打倒の露払いであると歴史の定説になってるが源頼政じゃないか? 義経は軍事貴族として平清盛の様になりたかったらしいが、義仲はどういう構想を思い描いていたんだろう >>394
いつの世も露払いになる人物は嫌われる宿命。 >>398
藤原氏に保護されてあのままいけば奥州王になれそうだったのにな。 >>394
貴乃花親方=木曾義仲
今井兼平=陣幕親方 平家=糞相撲協会
木曾義仲=貴乃花親方
今井兼平=陣幕親方 義経は政宗に転生して念願だった奥州王になれました。
二人と憎めないDQNだったでしょ 義経は戦術家で政宗は謀略家
まっすぐな義経と腹黒い政宗
タイプは違いすぎると思うけど 戦争で何でもありを体現したのは今でも源義経を超える人物はいないと。 京都の公家には木曽義仲は犬が去って豚が来たようなもの 京都の磁場をメチャクチャに掻き乱した木曽義仲かっこすよぎるぜ
やはり貴乃花親方に通じ合う >>363
敵の龍を他の巨龍に退治させるという毛沢東は彭越である 間違えた。
政治力を身につけた木曽義仲が董卓だった 義経合戦履歴
宇治川(木曽義仲)
一ノ谷(平家)
屋島(平家)
壇ノ浦(平家)
六条堀川(土佐坊)
大物浦(源行綱)
衣川(藤原泰衡) 覚明がいる間は連戦連勝だったのに覚明が消えたとたんに滅びた
そんな覚明は何者? 政治力を発揮する参謀ってのは組織をまとめるのに必要なんだよね。
頼朝でいうと大江広元がこれに当たる。戦闘に参加しない行政官。
義経には参謀がいなかったから義仲のような一大勢力を築くことが出来なかった。 誰かの下で働いてこそ無類の強さを発揮するんだろうね 源行家は令旨を全国の源氏に伝えたところまでで使命を果たした >>423
行家は改名せず義盛のままだったほうがよかったかもしれんな なんとなく 『平家物語』どころか『源平盛衰記』にも八艘飛びの話が出ていない。 あれは義経の八艘跳び自体よりもその後能登守が襲い掛かってきた源氏の武者2人を道連れに飛び込むのが好き
敵役として最高に格好いい最後だった
そしてそれらを全て見届だ知盛の「見るべきものは見つ」がいいんだよねえ 義経と教経の対決は屋島・壇ノ浦における名勝負だね。
なお、このライバル同士は太平記で仲良く怨霊になって登場している。 平家物語や源平盛衰記の平家の最期がその後の日本の武者の美学を決めたよね
というか当時確立した武者の美学を表現したのがこれらの作品だったのだろう 同情と憧れが混在しているんだと思う
散る桜や欠落するものに美を見出すのは日本人特有の感性だと思う 知盛の最期の心境は、北斗でいえばラオウみたいな感じだったのかもなw
見るべきものは見つって、わが生涯に一片の悔いなしと似てる感じw 平重盛が長生きしていたらだいぶ状況は変わったのかも知れない 盛っていると言えば、
畠山重忠の鵯越の逆落しでのエピだよなぁ。
馬背負って崖下るとか、どんなファンタジーかと。 >>443
ところがそれはややこしい論争があって
「馬で急坂を降りられるわけないだろ」派が
「馬の前足を担いで降りるほうがまだ現実性がある」と主張。
「物理的には降りられますが何か?」派が
「馬をいたわってそのような行動に出たのだろう」と主張。
「降りられるけど実際はあんな急坂じゃないよ」派は
「つまり馬をいたわることも可能だった」と主張。
つまり畠山さんのしたことは嘘じゃないかもと言われている。 そもそも一の谷の崖を駆け降りたこと自体がなかったとされているから、
馬を担ぐこともなかったというのが結論だと思うけどね。 >>442
重盛って、いわれてるほどの人格者でもなかったって説もあるな・・ >>447
自分の無力感に苛まれていたらしいね
調停役として清盛の暴走を止めていたらしいけど 清盛はラオウ、重盛はトキみたいな性格だったのかな?w 義経記を読んだわけではないが、大河ドラマの義経は面白かった。
奇想天外な話ばかりで。 ドラマで必ずと言って良いほど見せ場となる「安宅関の勧進帳」は義経記にその場面がないという事実 大河義経結構面白かったよね
丹波哲郎の遺作ともいえる源三位頼政が良かった 破格の待遇を受けつつも、勇気を振り絞って挙兵に踏み切ったのは最後に武士として花を咲かせたかったか、余程物思う部分があったんだろう 幕府と言う発想がそもそもないだろうし、
樹立しても周りが従うとは思えないが。 リオ・平昌五輪2016−2018個人種目獲得メダル数
北信越5県 金=4 銀=3 銅=3 計=10
関西6府県 金=0 銀=1 銅=0 計=1 >>459
信濃よりはもう少し平野の広い越後幕府でもよかったかも
てか義仲軍って、上洛後に酷くなったのであって、城長茂(資職)を破って越後国府にいたころは
頼朝軍と大差ないまともな軍隊だったんじゃなかったのか?
一万騎はあったみたいだし 関東と言う辺境に基盤を築いた頼朝は凄いよ
逆に京都や平泉みたいな主要都市で育った義経には東国武士の気持ちは分からなかったと思う 秀衡が抗戦しても同じでしょ
阿津賀志山に大防塁を築いた国力は侮れないけど
結局は鎌倉のケタ違いの動員力に負ける 吾妻鏡読んでると、範頼も義経と似たような性格っぽい
義経のほうが早く挙兵に参加しただけ
頼朝との関係は最初は良好だったかも >>470
範頼の方が政治感覚が研ぎ澄まされていて慎重さがある様に感じるけど、性格的には別の面があったのか? 範頼って宗盛の源氏版って感じじゃない? 義経や教経よりデブで凡庸なおっさんって感じw 範頼は軍事でも政でもバランス良く有能だったと思うけど、頼朝や義経に比べると器用貧乏だと思う >>471
乱暴者だった模様
吾妻鏡 寿永3年2月1日条
蒲の冠者範頼主御気色を蒙る。これ去年冬、木曽を征せんが為上洛するの時、
尾張の国墨俣の渡に於いて、先陣を相争うに依って、御家人等と闘乱するが故なり。
その事、今日すでに聞こし食すの間、朝敵追討の以前、私の合戦を好み、
太だ穏便ならざるの由仰せらると。 >>474
義平は義経とともに先陣切って戦う突進型の猛将、朝長は頼朝にとって政治顧問みたいな役割だろうか。
義経が京武者で関東の荒くれものとソリが合わなかったのに対し義平は生粋の坂東武者だから、
似た者同士の義平と義経が対立するという構図がありえたかも。 朝長は官位的に頼朝が嫡子に据えられるまで後継候補だった
頼朝が嫡子化したことで波多野氏が義朝陣営から離脱した
ライバルだよ
源氏ってちょっと目を離すとすぐこれだからね 源義光の頃から血みどろの殺し合いをし続けるのが源氏 >>476
正体とかキャラクター性が掴みにくい人だけど、立場的にかなり危険人物として見られいたのは確か
鉈切丸って言う舞台では範頼が主役にして悪役だったな 義平って敗戦後に平清盛を暗殺しようとして失敗したんだっけ
仮に生き永らえても不幸な末路を迎えそう 範頼って建久4年に何かやらかしてるよね
建久4年て8月に範頼自害、岡崎大庭出家、12月に安田粛清でしょ 甲斐源氏や帝と接点があったんでしょ
義経と同様に野望があったのかも知れない >>468
いつごろから?
秀衡の代からあるとしたらそれはそれで凄いけど 南奥州に勢力が伸びたのは基衡の代だけど
防塁築けたのかね >>475
宗盛って清盛の次男じゃなくて三男なんだね
重盛と宗盛のあいだに基盛って人が居たって最近気付いた 宗盛が酷い酷いっていうけど、
都落ちのときに後白河が逃亡するなんて予想できなくても無理はない。
本土決戦のときに天皇が厚木に逃げてアメリカ軍に投降してました
みたいな話だからな あるけど証明しようがないし盛り上がる話ではないなあ >>486
重盛も基盛も病気で若死にで、棚ぼた式に宗盛が惣領になったのか
あんまり兄弟仲は良くなさそう 重盛は42まで生きたが、基盛はもっと前だな
吉川の新平家物語でも、中盤以降はほとんど出てこない >>492
源為朝は初代琉球王になったという伝説があるね
平家落人伝説では平維盛は同じく沖縄まで逃げたそうだ >>493
宗盛は中宮・平徳子の同母兄だったから
弟ではあるがゆくゆくは棟梁になるはずだった
平安時代は母后の力が強かったため
兄弟順に関わらず后の同母兄弟が出世するのが鉄則
実際に重盛の子よりも宗盛の子のほうが出世が早かった >>496
重盛は立場的には危うい部分があったようだね
重盛の嫡男の維盛は富士川での大敗で清盛の逆鱗を買ってるし、どんどん不遇になっていく 清盛が生きてる限りは安泰のはずだったのだが、
鹿ケ谷で重盛の失脚が確定的になり維盛も非嫡流転落
だから富士川の前線に出させられたのだよ
富士川で負けた後は知盛や重衡が派遣されている
重盛はその数年前から健康を害していたから、
鹿ケ谷がなくても微妙ではあったが >>496
棟梁はいちおう重盛だと思うよ。
伊勢、伊賀の家人も重盛に付属しているし、重盛自身も高倉の乳父の地位にある
清盛がその辺はバランスを取ってたのだよ >>496
清宗のほうが維盛より早かったんだっけか? 逆転したのは治承4年5月に清宗が従三位になってからじゃないかな
維盛との年齢差が10歳あるから、昇進ペースはともかく明確な逆転はそのころのはず >>500
たぶん>>496が言うのは「昇進のペース」じゃないかと
維盛は任官してから公卿になるまで14年かかってるけど
清宗は8年
四位から三位まで維盛は8年かかってるけど清宗はわずか1年 >>482
富士の巻き狩りで曽我兄弟の仇討ちがあった年だろ
工藤祐経が討ち取られて頼朝が襲われた
頼朝暗殺も含めた御家人どうしの内紛があったんだろ
それに絡んで範頼、岡崎、大庭は粛清されたんだろ 曽我兄弟の黒幕を時政だと主張する人もいるみたいだが、
この時点で北条が頼朝の命を狙うのは早すぎる気はする。 曽我兄弟の面倒みてたのが時政で、曽我十郎を討ち取ったのが時政の腹心の仁田忠常だからな
きな臭いわな 物語だと有力武将が幼い曽我兄弟を守ろうと必死なんだよな。
討ち入り前に工藤の陣屋を教えたのは千葉だっけ?
こいつも加担していたという意味だろうか。 曽我兄弟の敵討ちでの混乱の最中、源範頼に不穏な言動有りと密告したのが北条政子だったんだっけ 曽我兄弟の仇討ちは、御家人どうしの潰し合いの嚆矢じゃないかな 北条黒幕説は「頼朝が死んで一番損するのは北条でしょ?」
って反論されてしまうからな
菱沼本では常陸の鎮定に手間取ったことが頼朝の疑念を買った説 遠江を基盤として、御家人の信望を集めていた範頼が死んで北条が動きやすくなったのは確かだと思う
範頼誅殺に関しては当時から無理があると言われていたようだ 当時の時政は駿河に力持っていたよな
祐経が死んで伊豆、範頼が誅殺されて遠江に時政の勢力が伸びたことになるわな 時政が頼朝まで殺そうとしたかは疑問だが、工藤祐経と範頼の排除をはかったのは間違いないんじゃなかろうか
岡崎や大庭も時政からしたら邪魔な存在だったんだろうな 宿老の範頼が死んで、源氏門葉も鎌倉の中枢には関与しなかったから、鎌倉武士団、特に北条が力を伸ばしやすかったんだと思う 北条が遠江に勢力を伸ばしたのは結果論じゃないの?
弱小でしかも身内だから頼朝の準直轄みたいな意味合いなんでしょ
北条ってまだまだ弱小な存在だしね 時政は相当強かな親父だよ
当時既に駿河を支配していたし、曽我兄弟の仇討ちの結果、両翼の伊豆と遠江に支配を伸ばしたのは結果論ではなかろうよ 阿野全成は北条家と共生する道を歩んだけど、この人は北条と反目する源頼家に殺されて可哀想だよな 阿波局の夫で頼朝の実弟が殺されちゃうんだからな
この頃は北条は相当追い詰められてるよね
政子がいるから辛うじて生き延びてる状態
北条家はここから必死の反撃をして比企を打ち倒したんだろうな
結果だけみているとこの時の北条家の必死さはわからないよね 後ろ盾になってくれていた頼朝は既に他界し、頼家の乳父である比企能員が将軍を手玉に取ってたからな
時政は自分の孫と反目することになる 梶原排除の時に比企がうまく守っていたら頼家のその後もまた違っていたかも知れない
有力な味方をむざむざ手離したのは残念だったな 頼家や比企が後鳥羽に対抗できたろうか?
景時が生きていたらなんとかできたろうか?
歴史はifこそ面白いよね 玉葉は、実朝を擁立する陰謀があったので梶原が注進した
と書いてるようだけど、頼家健在中から御家人たちの間でそういう計画があったのだろうか >>525
頼家政権の発足時点で派閥抗争は顕在化していたよ
比企と梶原が頼家派で、北条が実朝擁立派。
北条家はまだまだ力が弱く、三浦家などの頼朝時代を懐かしむ宿老達と手を組んだ 頼家は全成を警戒してこれを処刑にもっていったけど、北条のタマが弟実朝だったとは思いもよらなかった、という説もある。 いや、全成は千幡の乳父なんだからそれはないだろ
最終的な狙いは千幡だよ
ただ、政子が健在だから簡単じゃない
そこで外堀から埋めにいったんだろ 木曽義仲→楠木正成→武田勝頼の生まれ変わりの事実を俺だけが知ってる 梶原の変のときに頼家や比企が黙認したのが後々になって響いた
当時は比企にとっても梶原はウザい存在だったんだろう 頼家が殺害される場面、義朝が平治の乱で殺されるところと酷似していて、
はじめてその場面を鎌倉時代本で読んだ時に混乱した思い出がある。 入浴中は裸になるから襲いやすいんだろうな
おちおち風呂も入ってられない怖ろしい時代 孤立化していった梶原と仲間を見つけて連携を図った北条の違い 東北に風呂家っていう家があって、義経の奥州逃亡の際に風呂に入れたりしてもてなした家らしいな 坂東武者のほうが意外と風呂に入ってそう
相模伊豆房総あたりは温泉地たくさんあるし 壇ノ浦の戦いって早朝開始説(吾妻鏡)と正午開始説(玉葉、有力説)があるけど
今どっちが優勢なんだろうね
どっちにせよ4時間で平家方が全滅。
「入水」とされてる人も九州沿岸に上陸して戦死したのがいるから、
実際は脱出口を求めて決死の突出をしたのかもしれない 能登守教経とか好きな武将だな
教経にしても安徳帝にしても生存説があるけど >>483
いくら金かけたって譜久村を神格化するのは無理だぞw
あれは道重の知名度とトーク力とキャラクターがあったからできたことだ 545 鎌倉@名無しさん 寿永3年1月27日
いくら金かけたって義経を神格化するのは無理だぞw
あれは義仲の知名度とトーク力とキャラクターがあったからできたことだ
546 鎌倉@名無しさん 寿永3年1月27日
梶原乙
547 鎌倉@名無しさん 寿永3年1月27日
また梶原か 義経とか木曾義仲のパッと咲いてパッと散る桜の様な生き方が日本人の美徳だとか死生観に繋がったんだと思う 毛利元就とか徳川家康みたいにgdgd長生きしてじっくり収穫ゲットするのもいいぞおw 豪傑好きと慎重好きに分けられるがスレタイの3人は豪傑 畠山重忠亡き後の、平姓畠山から源姓畠山への乗っ取りもなかなかエグい もともと平家方で三浦義明と交戦して討ち取ってるね
畠山を含めた秩父一族はなかなか信任を得られなかったようだが 梶原は鎌倉を引き払って京で任官しようとしたのだろうな 10月27日に結城朝光が讒言を告げられて、
翌日には66人の御家人が連判して弾劾状を出しました…
こんな筋書きを吾妻鏡の編者ですら信じていたとは思われない 結城朝光に密告したのは阿波局で梶原景時を手討ちにしたのは北条傘下の武士団だから、北条時政の工作活動があったのは明白 生真面目というか、自分から汚れ役を請け負う人だと思う >>550
義仲が、カリクラ峠のハンニバルのことは知ってた可能性はないのか?w 景時は下野した時点でも御家人一、二を争うくらい有力でしょ
城長茂みたいな降人組も与党だし
自分を用いない鎌倉なんか見切ってツテのある京で任官しようとしたので
あわてた鎌倉の追討を受けた >>561
誰がここまで火牛を真実にさせてしまったんだ? 牛かわいそう
戦いの後はステーキになって食べられちゃったんだろうね 景時の讒言というものは何だったのか
実際には義経の方に咎があったようだが 吾妻鏡元暦2年4月21日条に梶原の「讒言」が載ってるけど
要は「自分1人の手柄みたいに思い込んで御家人が困ってる、専断を諌めても聞いてくれない」
という苦情。
そのあとに続けて「範頼は大小となく義盛に相談するけど義経は独走する
人の恨みを買うのも梶原に限らない」と注釈されている。讒言というより実情の報告 範頼も義仲討伐の時は手柄を争って頼朝に怒られてるので、
早く反省したか、大手軍だからうるさい宿老が大勢いておとなしくなったか 一ノ谷に向かうまえ、京都にとどまっていたのは治安維持のため義経の存在が必要だったからなんだよな。 治安の崩壊を責められても義仲は開き直っていたからな 8月の除目で伊予守に推挙してるんだから
ずいぶん後まで気を使ってるね。 なんで伊予なんて平家のまだ版図にあった場所になっちゃったの?
越後とか信濃あたりにすればよかったのに 伊予と播磨は受領最上位だからずいぶん奮発してるよ
平重盛が平治の乱後の恩賞で任官したのも伊予守 北海道まで逃亡したんじゃないか
アイヌと接触した形跡がある 北海道の義経伝説をガチだと思うのは自由だけど歴史学の視点から言うとあれは違うから 恭順するという選択肢もあった筈なのに挙兵に踏み切るあたりが如何にも義経らしいが、軍を用意できるだけの求心力がある筈もなかった 義経像
「軍事的天才だが政治は無能」から
「折衝と根回しが得意な能吏」へとずいぶん変わったな 最初から頼朝とは目指す方向が違かった
厩司の任命や本人の言動からして第二の平清盛を目指していたのだろう
はかなげな悲劇の英雄ではなく、木曽義仲と同様に相当な野心家だ 富士川の陣中にて義経との出会いに頼朝は涙したというが、頼朝が馬を引く事を命じた際に義経が強く不満を抱いていたあたり、この頃からギスギスしてたのかな 頼朝は平家滅亡後しばらくまでむしろ義経を優遇してた
というのが最近の有力説
在地豪族や平氏離反組を組織した義経軍に手柄を取られて
鎌倉御家人たちの憤懣が溜まってたのでああなったと 頼朝と後白河で義経を取り合っていたんでしょ
後白河は安田義定にも官位を与えていたからな 後白河は義経と直接主従関係を結ぼうとした
しかし頼朝にとって義経は自分の家来
朝廷と直接主従関係を結べるのは頼朝だけ
という立場だったんだろ 時代は下るが、幕府の御家人と北面の武士を兼ねてた武士は多い。 頼朝と後白河が取り合ってたというより
鎌倉から締め出されて切れた義経が迫って院宣出させた
というのが真相でしょ
頼朝は院宣出す直前の8月くらいまで宥めようとしてた 北条氏が頼朝と義経の離間を図ったという説もあるらしい
義経(頼朝養子)←→頼家(北条外孫)
河越(義経姻族)←→畠山(北条姻族)
もっとも右側の頼家と畠山も北条によって倒されてしまうわけだが 曽我兄弟の事件では源範頼が伊豆の修善寺に幽閉されるという憂き目にあっている
牧氏事件を見る限り北条時政は強引な手段を執ろうとするからね 義経・行家・有綱ー西国武士ー後白河・反鎌倉派公家・寺社
こういう木曽義仲型「京都幕府」の出現を頼朝は恐れたのであろう 義経が頼朝養子って元木先生の説だけど
かりに生き延びてても平賀朝雅みたいに殺された可能性あるんだよね 源氏は殺し合う運命
北条家と懇意にしていた阿野全成は源頼家に殺されている 頼朝の基盤である東国武士団と源氏御門葉や義経や範頼のような宿老との間では深い溝があって、遠ざけられるだろう 北条平家が清盛の無念(頼朝の首を我が墓前に備えよ)のリベンジを果たしたという見方もできないか 武門平家は一門内内紛って保元の乱の忠正を除いて1回もない
清盛と頼盛とか色々危ない場面はあったけどすべて丸く抑えた
執権北条氏も二月騒動までは一門殺し合いはなかったような
河内源氏は義家のあたりから暇さえあれば互いに殺しあってる 叔父上も平気で殺しちゃうしな
義平→義賢
頼朝→義広、行家 とか そこら辺の因縁が義仲の頼朝に対する複雑な心境に繋がっているのかね 為義系源氏の殺し合い
−−保元の乱あたり−−
義平→義賢(叔父)
義朝→為義(父)、頼賢など(弟)
−−寿永治承あたり−−
義経→義仲(従兄)
頼朝→義高(甥)
頼朝→義広(叔父)
−−鎌倉政権下−−
頼朝→行家(叔父)光家(従弟)義経子(甥)義経(弟)範頼(弟)
頼家→全成(叔父)
参考・平家に殺された人々
・平治の乱 義朝、義平、朝長
・平家政権下 為朝
・源平合戦 仲家(義仲兄)、稀義(頼朝弟)、義円(義経兄)
同族の殺し合いの方が圧倒的に多い為義系である 義光は源義忠を暗殺した上に、義綱に濡れ衣を着せて殺しているね 平家も平将門の乱とかあったよ
平氏政権は実質清盛一代限りだったのであまりにも短いし 将門の乱は所領争いみたいな私闘が原因だけど、
河内源氏の争い(義家、義綱、義光、義親、義忠)
はそう言う単純なものではないからな
しかも義家の代から激化した >>613
そう考えると保元から壇ノ浦までの一連の戦いも、
単純に源平合戦っていう表現をするのは全く不適切な気がするぜよ・・ なにげに武田って立ち回りは良かったと思う 他の有力な亜流と違って滅ぼされることなく信玄まで続いたし 甲斐源氏は複数の分家で割れて、安田義定らと片や加賀美遠光らは対照的な運命を辿る
武田信義は何を思っていたんだろうな 信義は嫡男が理不尽なころされかたしてるから無念でたまらんだろうな >>621
しかし、次代の勝頼で滅亡・・
信玄は最後に咲いたでっかい徒花だった・・・ 武田信義は鶴岡八幡宮にて誓約までさせられたんだっけ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
BPH 範頼の顛末を見る限り、義経も仮に恭順していてもいずれは失脚したでしょう
関東の武士団とは折り合いが悪そうだし 河越重頼の妻って比企尼の娘なんだよね
頼朝にとっては結構な身内で大事にしてたようだから、
義経がおとなしくしてれば何とかなったのでは 源氏門葉平賀氏って優遇されてるのにはどんな理由があるの?
その割にマイナー 平賀義信が義朝の八旗落ちに最後まで随行したんじゃなかったっけ
その義理だと思う 加賀美遠光が御門葉になったのは他の甲斐源氏に対するあてつけも兼ねていたのかと思ったけど、確執の生じた安田義定も御門葉なのか ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな 門葉自体は国元から離れずにあまり鎌倉の中枢には関わらなかったんだね 頼朝は情に厚い
梶原景時に対しても命の恩人として義理を感じていたのだろう
逆に父親を裏切って殺した長田忠致は恭順していても殺している 漫画家の手塚治虫って木曽義仲に仕えた手塚直光の末裔らしいな >>631
安田義資が越後守に推挙されているし延慶本平家物語によると一条忠頼誅殺の直後に武田信義謀反の疑いで甲斐に侵攻したりしてるし元々は安田氏と頼朝の関係は悪くなかったんじゃね 義経ってのは本当に頼朝と兄弟だったのかな?
ふと、思ったけど
なんか、行動が常にガツガツとしてて
もっとチンピラめいた感じがする。
(時によって、バックも転々としてる感じが在って。
ともかく多方面にコネを作ろうと、色んなヤクザ組に
入っては出るを繰り返すチンピラ感というか)
頭数が必要だったんで、
出所もわからない野党ととか盗賊とか
アウトローのリーダーも仲間に加えたけど
建て前として、源氏って事にして
九男坊ぐらいならいいかと
頼朝の兄弟って設定にしちゃってたりして?
だけど、命令ろくに聞かないわ、単独で勝手に動くわ
「やっぱ、やべぇわ…こいつ」と思ったんじゃないかと 源義経は平家一門を容赦なく滅ぼした後、家臣たちと
いっしょに、入水自殺に失敗した建礼門院徳子や平家方
の若い女房たちをレイプしたんだよな。義仲の家臣たち
も京で同じことをやってるか。高貴な女性とのセックスは
気持ちよかったか?この下衆な賊どもめ。 源義経の最期を見て主君の劉邦のために項羽倒しに
尽くしたのに、項羽が死んだ後謀反の疑いをかけられ
領地を減らされ最期は謀反を起こそうして失敗し処刑
された韓信の姿が思い浮かぶ。 >>641
義定と信義双方同時に敵に回したら敵わないから片方ずつというのは一つの考え方のような気もするが
その一方で甲斐源氏は軍事的には頼朝の主力部隊だしある程度政権が確立するまでは必要だったしな
甲斐源氏棟梁の信義に比べて傍流の義定の方がコントロールがしやすかったのかもしれない
ただ頼朝に次ぐ有力者にまでなってしまったのがよくない
義定は人が良いというか政治的な部分では無防備というか鈍感だったんだろう
そこが義定の魅力でもあるんだが 義仲ってあの時代の源氏で唯一血縁の団結を重んじた情に熱い男だと思ってる 畠山重忠の子孫って東北各地に多い。東北各地の重忠の子孫は様々な系譜を持っている。重忠の子の浄法寺重慶の子孫や、浄法寺氏とは別系統の豊島重村などがいる。東北には重忠の舎弟の畠山六郎重宗もいるが、重宗は越後国に移住して戦国時代には本庄繁長を輩出している。 宮城の気仙沼にも畠山氏がいる。気仙沼は鎌倉御家人の子孫が北条氏から追われて逃げて来た人らが多い地域だ。
梶原景時の本家子孫も気仙沼の早馬神社という神主となってこの地域にいる。庶流はこの神主家から全国各地に行き武将化していった。
この梶原氏の集落の隣の集落に、鎌倉御家人の畠山氏の子孫の集落がある。 仙台藩士に気仙沼の畠山氏がいる。俺の先祖の事なんだけど、畠山庄司次郎平朝臣重忠の子孫と言われている。
幕末期には畠山治右衛門の子の畠山随安と、畠山随安の子の畠山淳吉と、畠山随安の養子の畠山忠一がいる。
畠山忠一(維新後士族)は畠山随安の養子となり後に気仙沼市の助役となる。畠山淳吉(維新後士族)は陶芸家を目指して家を出る。
東北では古い伝統を持つ相馬焼の技法を学び、子孫は福島の相馬に移る。戸籍上は畠山淳吉(ジュンキチ)ではなく畠山住吉(ジュウキチ)となった。 そのあたりに重忠と双璧の日本一の勇士、直実の子孫居なかった?
三陸は熊谷姓が多い 頼朝や義仲が打倒平家の旗頭になれて新田義重や武田信義がなれなかった
その違いは結局一度でも平家の家人になったかどうかではないか スウィフトの小説 「ガリバー旅行記」に日本の御伽草子が影響か
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191107-00000080-kyodonews-cul
https://lpt.c.yimg.jp/im_siggC_RJGkvksJmOdw1GsSBJ2A---x900-y648-q90-exp3h-pril/amd/20191107-00000080-kyodonews-000-view.jpg
「ガリバー旅行記」と、日本の「御曹司島渡」「蓬莱山」との共通点を示す説が発表される。
具体的な作品を挙げて類似性を指摘する発表は初めてで、慶応大の石川教授と
原田範行教授が新説を導いた。
「御曹司島渡」は源義経が兵法書を求めてさまざまな島を訪れる物語。
小人の島、巨人の島、馬人の島は旅行記と共通する。「蓬莱山」の絵巻には、
空中に浮かぶような島や宮殿が表現されている。 あの時代の木曽の人間は毎日の夕食は何を食べてたんだろう 当時の山人は獣肉を殺してガンガン食いまくってたから丈夫だったような。
江戸時代は全国一斉に肉食禁止令が出されたが >>662
なるほどね〜
1000年前の木曽の生活に興味が尽きない
街はあったのか、飯は、恋愛は
知りたいけど適当な本もない 平安時代あたりの木曽の生活は弥生時代あたりと本当に変わらないと思うよ。 また3人とも大河ドラマに出れるな!
とくに畠山重忠は北条時政、義時の親子とは仇敵だから入念に放送される _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
>ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_| 〜 プーン
了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ ^ ,,, ^ヽ 〜
"7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ ) 〜
'| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴) 〜
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` ー--- /|` + \ ⌒ ノ
ヽ  ̄ / |__ \_____/
平敦盛 源義経
今日けふは九郎大夫判官義経、先陣に供奉ぐぶす。これは木曽などには似ず、
もつてのほかに京慣れたりしかども、平家の中の選えり屑よりもなほ劣れり。
面長くして身短く、色白くして、歯出たり
平家物語より 桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー平高望ー平良文ー平忠頼ー平将恒ー平武基ー平武綱ー秩父重綱ー秩父重弘ー畠山重能ー畠山重忠 畠山重忠は平家の一門であるため源平合戦当初は、頼朝方だったあの三浦義明を討ちとる
義経の逆落としの一ノ谷の戦いで、馬を背負って断崖絶壁を下る
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称され
藤原氏は滅びた。
奥州合戦の戦後処理で梶原景時が泰衡の郎党の由利八郎を取り調べたが、景時が傲慢不遜な態度であったために八郎は頑としてこれに応じなかった
頼朝は重忠に取り調べに当たるよう命じ、重忠は礼を尽くして接し、これに感じ入った八郎は取り調べに素直に応じ、「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いである」と言った 頼朝が上洛した際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした
『愚管抄』によると、重忠はどんなに暑い時でも、傍らの者があぐらを組むことができないほど謹直な人物であったと評されている 身内内ゲバ好きの河内源氏の中で唯一使えない叔父を見捨てずに子供を人質に出してまで協力路線を取りつつ守った義仲はある意味いいやつだったのかもしれない >>681
>平家の一門
ではないだろう 平氏で平家方ではあるけど、平家が坂東平氏を一門扱いはしないはず
父の畠山重能は義朝方について、義仲の父である義賢を討っている
この時に幼少だった義仲を逃がすのに手を貸したとか(このスレっぽい)
とはいっても保元の乱はともかく、平治の乱では平家方につく 義仲はなぜ行家を「叔父上」と呼んでいるのでしょうか?
義高も義経を「叔父上」と呼んでるのはなぜでしょうか? 源頼朝の先随兵の先頭から
畠山重忠
千葉胤正
三浦義澄
佐貫広綱
葛西清重
八田朝重
榛谷重朝
加藤景廉
安達盛長
大井実春
山名重国
武田信光
北条義時
小山朝政
小山宗政
佐々木高綱 >>686
行家は義仲の親父の弟だから叔父で間違いないだろ 一方義高にとって義経は父の兄弟ではなく「イトコ」だから叔父とはちょっと違う。
まぁ父とは同じ一族だし同世代だから広義の意味で叔父でもいいんじゃね。 義高は頼朝の娘大姫と夫婦になることになっていたから、
頼朝は義父、となれば義経も義理の叔父ということになるな。 義仲って、育ての親の中原兼遠をなんて呼んでたんだろう
「親父殿」とか敬語とか使ってたのかな >>706
育ての父親でも「父上」って呼ぶもんかね >>700
兼遠は義仲の乳父だし義仲の親父ではないだろ
兼遠の娘が義仲の妻になっているから舅ではあるが >>711
いやそんなのは百も承知なんだけどさ
小さい時からなんて呼んでたのかなと
まさか「兼遠!」って呼び捨てしてたわけでもないだろうし 義経って軍事の凡才なんだよね
過大評価されてただけだよね
司馬遼太郎の所為?
一の谷の功績もないし
屋久島も範頼が知盛を引き付けたからだし
壇ノ浦も数的優位と彦島が死に体になってただけじゃんね >>713
乳母のことを「お袋様」と呼んだりしないように
乳父のことも「親父殿」なんて呼ばないだろうに >>714
対義仲…大多数による数の暴力で囲んだだけ
一ノ谷…後白河法皇の謀略で武装解除して安心し切ってた平家を不意打ちしただけ しかも海に逃げられるという凡ミス
屋島…敵の罠に自ら嵐の中を飛び込み危ないところで勝手に宗盛が逃亡しただけ 知盛が総大将だったら負けてた
壇ノ浦…海上生活で弓矢含めた物資も少ないところに相次ぐ裏切りが重なった上での数の暴力 初めから勝敗が見えてたのに安徳天皇と三種の神器を奪還できない
ただ突っ込んだだけのマグレ勝ちとも見える >>716
そうじゃなくて自分の家臣筋である乳父に
敬称である「殿」は付けんだろ >>718
育ての「親」を呼び捨てするかというとそれも微妙じゃないの >>719
どうも話が通じない奴だが義仲は中原兼遠の養子ではなく兼遠は家来で乳父だぞ
兼遠の息子たちは義仲が挙兵するとその家来として出陣している
源頼家が家来で乳父の比企能員を「親父殿」呼びしたらおかしいだろうに まぁ木曽で物心ついて、ある程度成長して自分の素性を知らされるまでは普通に「父上」と呼んでたんじゃないの?
その後の事はともかくさ。 新平家物語では「中三殿」呼びだったな
義仲これにありでは「親父殿」「義父殿」 >>714
凡才かどうかは別として、義経はその時代における常識や教養が低かったから、既成概念にとらわれなかった。
だからこそ、当時の武将から見ればルール違反と思われる行為が普通にできたから名将となったんだと思う。
同じ事は信長にも言える。 ただあまりにやり方が型破り過ぎた事が自身の首を絞めたとも言える訳だが。
義経が頼朝から離反した時、義経は『頼朝に不満のある者はついて来い』と言ったが、
義経につく者はほとんどいなかったのを見ても彼が多くの武士達からは支持されていなかった事を示している。
あの当時の戦ってのはただ勝てばいいのではなく、「勝ち方」も重要な要素だった。
特に壇ノ浦で船の漕ぎ手を狙わせたのは、当時の戦のルールからすれば到底容認し難いものだし。 産湯相承事 日興之を記す
御名乗りの事、始めは是生・実名は蓮長と申し奉る・後には日蓮と御名乗り有る御事は悲母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云 日女御前御返事
例せば畠山重忠は日本第一の大力の大将なりしかども多勢には終にほろびぬ。 巴御前のパワフルでありながら巧みで繊細なフェラチオくらいてえ(ライン工:46) >>724
頼朝の恩賞政策が破綻しての義経造反じゃないから、他の武士集団が離反する理由がないよね。 木曽義仲のキチガイぶりに比べると源義経は幾分かまとも そもそも神輿としての価値が頼朝と義経では雲泥の差。
尊氏と義貞、家康と三成を比較してそれぞれ後者を二流以下呼ばわりする傾向があるけど、
ナンバーワンに勝てなかったからって二流ってことはないんだわ。
むしろ大差があるのに互角に戦えるほど頑張ったとみるべきだろ。 >>730
史実では義仲はかなりまともだし、戦も義経より上手い それでも京都では軍をまとめることもできず西国では大敗し
挙句の果てに義経に倒されてしまうけどな
義経は色々といわれるけど京都の治安維持において一流の統率力を発揮してるんだよね 鎌倉の影響があっても義経自身の才能がなければ何もできないんだが
義経がいなければ頼朝だって鎌倉政権を樹立するのは難しかったんだぜ 鎌倉側が義経をそこまで嫌っていたら義経は京都の治安維持どころか更迭されるか殺されるかだろ
そこまで破綻しなかったってことは頼朝は義経を信頼していたし義経も決して嫌われていなかったということ
破綻した後に挙兵した義経に軍が集まらんのは人望や能力で頼朝に劣るだけで
決して最低最悪の武将だったからではない
もし「頼朝に負けた義経は三流以下」という論が成り立つなら
「ヤクルトに負けたオリックスは史上最低の球団」も成り立つのである 義経は史上最強の戦術家という称号を手に入れたが
義仲はドキュンすぎてな 木曽義仲は露払いの人だろ?
それ以外の何物でもない 清盛は前政権なんだから戦国でいえば足利氏でしょ
清盛→義仲→頼朝→義時
足利→信長→秀吉→家康 信長が好きな奴って、三国志では曹操で源平では清盛にしたがるけど、
信長自体は源平合戦時代の義仲よりも劣る人物なんだよね。 その鎌倉の信任を得ていた義経は破局するまでは有能な武将ってこと のちに天下を治めることとなる北条義時も鎌倉あっての人だから義経同様に無能ってことでいい? 義仲が嫡男を鎌倉に差し出したあと鎌倉の影響下にあったら名将ってことですね チーム鎌倉は頼朝の指揮のもとに全員が力を発揮してこそなんだから、
義経に限らず誰でも鎌倉の影響下になかったら無能に決まってる。
その頼朝だって義経などが協力しなかったら無能なんだし。 そりゃ頼朝は西郷みたいにカリスマとしての象徴だから 西郷なくして討幕は無理だった
頼朝なくして平家打倒は無理だった シバリョーは読まないほうがいい
義経アゲはともかくあいつの書くことは史実の捏造に他ならない 「役不足」を誤用している人間が多いので、別の言葉で言い直してくれない? 源義経ほど大将にふさわしすぎる武将もいないよ
まず名前からして超別格 「梶原では役不足」っていうと「梶原は義経ごときを相手にするような小物ではない」って意味になるからね
間違わないように 梶原景時は副将にもなれんよ
あれは監視員の政治将校みたいなもん 由利八郎が梶原景時の調べを拒否したのに畠山重忠の調べだけは容認したらしい
武士の鑑である 梶原抜きで屋島から平家を追い払い日和っていた豪族衆が源氏につく要因を作ったのが義経だからね 義経ほどスーパーヒーローにふさわしい日本人もいないよ 殿上人にとって庶民は踏んじゃいけない道端の糞
武士にとってはいつ屠ってもいい畜生
検非違使時代の義経はエタ非人にまで情けをかけ、賊達からも慕われてたという
絶対的血カーストな時代に奥州人の佐藤兄弟を従え、家人も武士に拘らずバラエティー豊か
義経伝説は人は皆同じと言ってる 義経と佐藤の姓が東日本で突出して最多なのと無関係ではないよね 義平 1141~1160 六位左衛門少尉
朝長 1143~1160 従五位下中宮大夫
頼朝 1147~1199 正二位右近衛大将
義門 不明 ~不明 従六位下宮内丞
希義 1152~1180 無官
範頼 1150~1193 従五位下三河守
全成 1153~1203
義円 1155~1181
義経 1159~1189 従五位下伊予守 うちのご先祖は畠山重忠の郎党だったけど個人的には木曽義仲が日本史で一番好き >>786
河内源氏で唯一身内愛に溢れる男らしい人って感じ 木曾義仲、7歳でオオカミ退治、とは凄い武勇だな
木曾義仲の興亡と越中国の伝説
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≫ ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています