木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
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義経は京育ちでもないだろ
鞍馬山にいたんだから
そのあとは放浪生活で平泉での時代が一番マトモ 近藤好和
義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。 頼朝にとっては伊豆での幽閉生活自体は平穏そのもので、ある意味幸せなひと時だったのかも知れん 伊東によって実子をコロされたり悲惨なこともたくさんあったけどね。 >>103
平治物語の義経奥州くだりは史実ではないけど、
近藤氏はどこまであれを本気にしてるんかな。 頼朝息子は川に、義経息子は海にそれぞれ沈められ、義仲息子は首チョンパ。子供にもエグい時代だなぁ。 なまじっか情けをかけると後々「頼朝」や「義経」となって牙をむくんだから仕方ない
とはいえ現代の感覚からするとそこまでせんでも・・・と思ってしまうわな 頼朝の実子はそれとは違う理由で沈め、それが原因で頼朝によって復讐されたな。 平家方の伊東にとっては平家の目を恐れるとともに、頼朝を庇護しようとする北条家と確執があったから
頼朝を貴種として担ぎ上げる勇気はない >>106
平家物語はともかく史実ではどうなってるの? 軟弱貴族は戦争に興味なし、文字嫌いの武士は記録を残さず >>112
貴族が書き残した「玉葉」が源平合戦の一級史料なのを知らない人かな
通ぶってる手合いに限ってこの有様だから困る 山槐記の戦争部分の記述なんて雀の涙だもんなあ
ほとんど興味がない >>111
『平家』ではなく『平治』な。
義経が鞍馬から奥州に行くところの史実なんて文献がない以上「不明」としか言いようがない。 文献史学の限界あるよねえ
すべてを否定してたらな〜んもなくなるこの時代 >>116
じゃあ義経は新幹線で平泉に行った、否定するなよ。 >>116
あなたは勘違いしてる
限界があるのは文献がない時代の研究であって、文献による研究が限界があるのではない。
『平治物語』みたいに後代に創作された小説を一次史料と同列に扱うのは間違いなんだよ。
近藤は一の谷での逆落としも結論ありきで考察してるあたり研究家として二流だね。 井沢みたいに文献もないところに勝手な話を捏造して、
否定されると「史料至上主義だ!」とわめく馬鹿が増えた。 前九年の役が終わった後に京都に連行された安倍宗任に、
京都の馬鹿が桜の花を見せて「これが何かわかるか?」とからかった。
宗任「京都の奴らは桜の花も知らんのかw」と返して馬鹿を黙らせた。
田舎もんだね。だから何?って話。 頼朝が嫡流とはいえ、義平が亡くなったのは頼朝にとって結果的に幸運だったのかも知れん 巴御前も信憑性があやふやだからな
女子が出陣するのはよくある土地だったらしいけど 脳筋義平生きてても、戦場で酷使されて最後に頼朝に謀殺される最期しか想像できない。嫁は負け組新田からだから、後ろ楯は期待出来ないし。 新田が負け組になったのは頼朝が勝ち組になったからだね。
義平がいたら義経って活躍の場を失っていたのでは。
あるいは義経はおとなしく行政担当になって生きながらえていたとも。 義平さんは義経並みの軍略家なのだろうか。どっちがいうと義仲とイメージかぶる。 義仲よりも視野が狭くて、合戦の最前線で太刀ブン回してるイメージしかないw アクの強い人が多いから
頼朝があまりにも優秀過ぎる その山猿がいなかったら頼朝も勢力拡大させる前に平家に潰されていたかも知れん 木曽義仲が暴れてくれたおかげで朝廷と平家を弱体化させて源氏の天下になった 関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」 芥川龍之介と松尾芭蕉と楠正成は木曽義仲の大ファン
源義経が大衆好みなら木曽義仲は玄人好み 日本だけでなく世界的にもそうだろ
キリストなんか代表例 二人とも政治力の無能さを叩かれてる。
信長と龍馬はスーパーマンにされてる。 義経が目立つけど、源氏の兄弟は全員悲劇的な顛末を歩んでるし 似た者同士の義経と義仲は直接対決したが、義仲の父を殺した義平もまたこの二人と似ている。
さらにいうと三人にとって叔父にあたる為朝も性格的に似ている。
為朝と義平は同世代だけど絡みがなかった。二人が共闘していたら面白かっただろうなぁ。 松尾芭蕉
「死後は義仲のそばで眠りたい」
こう言わせる何かが木曽義仲にはある
木曽義仲=玄人好み
源義経=大衆好み 奥州藤原秀衡は名君だって言われてるけど義経を迎え入れた事で攻め込まれる口実を作ってしまったのが皮肉 >>160
範頼が総大将だったからな
軍事面でも政でも優秀だったと言うのに >>162
最近評価があがってきてるね
前までは凡将としか言われてなかった 範頼は法皇の警護を敢えて辞退したり、かなり頼朝に対しては配慮してたな でも義経追討を命令された時はゴモゴモってなったんだよな そういや木曽義仲軍の兵士の大半が義経軍の登場で逃走したとか。
木曽義仲からしたら義経とやらざるを得なかったが いや後白河法皇から通遇されるぐらい有名だったから木曽義仲軍から逃亡者が相次いだ 木曽義仲が覚明の進言を受け入れてそのまま起用してれば信州幕府は誕生していた。 せっかく征夷大将軍に任命されたんだから。
生まれ故郷の信濃に幕府を擁立して天下三分の計にすべきだったのに
自信過剰になり覚明を追い出したのが痛すぎたね その頃の征夷大将軍は武家の棟梁の意味ではなかったし。
武家政権という発想もなかっただろう。 >>178
むしろ、「征夷大将軍は武家の棟梁」というイメージ戦略は、頼朝政権がプロデュースしたものでは? 武家の棟梁では無いのなら
義仲が征夷大将軍の座に拘り続けてたのは何故かな? >>180
頼朝を倒すための大義名分
頼朝が征夷大将軍になったのも藤原氏を倒すため
ただし後白河が断固拒否したため頼朝は主君と家臣の問題だという理屈で強行した
のちに大将軍になったのは事後承諾みたいなもん >>180
藤原でなくても就ける数少ない高官では? >木曽義仲が覚明の進言を受け入れてそのまま起用してれば信州幕府は誕生していた。
>自信過剰になり覚明を追い出したのが痛すぎたね
まるで木曽義仲はカイ通の天下三分計の進言を聞かずに追放した韓信みたいだ。 韓信とも違う気はする。
東西に敵を迎えてるから天下三分してもどのみち両面攻撃を受けるんだし。 細長い日本で中国みたいな三分の計は無理だけど義仲が京都に入る前の
頼朝…関東東海
義仲…北信越
平家…西日本
だと近江あたりが三つ巴で鼎立か 義仲は征夷大将軍将軍任命後に京都から去り覚明を最高顧問のままにして信州幕府を樹立すればよかった 幕府という発想はないだろうから、北陸宮を擁した信州王朝樹立が現実的かな。 権威とか肩書きを無官にしてしまうのが木曽義仲の強さ
わりと伝統的権威を重んじたのは源義経 源義経→ナポレオン
木曽義仲→ガリバルティ
源頼朝→ビスマルク
19世紀欧州に置き換えるとこういう感じだな。 >>181
頼朝は藤原氏と戦ったことはないんだが。
それどころか、源頼朝の同母妹・坊門姫は藤原氏の一条能保に嫁ぎ、
その娘(頼朝の姪)も藤原氏に嫁いでいる(九条道家、西園寺公経)。
そこで生まれた九条頼経が鎌倉幕府4代将軍(摂家将軍)。 もしかして奥州合戦のことを知らないとか…
文脈や時系列から奥州藤原氏であることくらい猿でもわかりそうなもんだが 皇族に攻撃し殺害なんて奈良平安時代からありましたぜ 法住寺合戦で円恵法親王を殺してると何度書けば分かるんだ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています