邪馬台国畿内説 Part245 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が近畿産であることは鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(3世紀末葉)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例しかなく、品質的にも低い
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された(馬淵WL領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
同様の状況が荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
いづれも古墳時代の倭鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)であるが、諸本とも治と冶の混用が多い
「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしい
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)が、これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と素手の消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」は2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの倭國王帥升等とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要があるが、少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、その都する所が桜井市纒向であることを妨げない
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ18を修文 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている 日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、
陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、
地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、
築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。
今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。
宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 244の>>905
>本来は神、神野、神祖と書くべきところ、崇神がクーデターを起こし「神殺し」をしてしまったので、
朝廷は前王朝を「神」と書けなかった。 だから鴨や熊という字を当てた。 そういう事であろう。<
「・・・神と書けなかった。 だから鴨や熊という字を当てた」なんて、
何の史料事実根拠もない想像であるから、単なる分裂幻覚妄想の類。
そういう事であろう。 244の>>906
>九州説は平原を最後の頼みにしてるけど<
していない。
>あそこから出る鏡ってどんなに時代を見積もっても後漢初期の頃だな <
蝙蝠鈕座の内行花文鏡が、洛陽晋墓から出土し、筑紫からも幾つも見つかる、という事は、
「後漢初期の頃」という事の否定。
>その直後くらいから鏡が激減する 卑弥呼時代にはスカスカになる<
卑弥呼への下賜銅鏡100枚の記録通りに筑紫から鏡片が多く出土するし、
呉系楽浪鏡師の流民的渡来に拠って、スカスカになっていないし、
三角縁神獣鏡や画文帯も出現し、那珂八幡などや、銚子塚の黄金鏡や、日田の金メッキ鉄鏡など出現した。
>弥生中期に最盛期を迎えた北部九州が一気に瓦解していく姿を示すと同時に<
瓦解していない。九州倭国は、白村江で大敗するまで、列島の盟主。
北部九州では、姫氏系の卑弥呼の後、
一旦阿毎氏系の壹與からしばらく阿毎氏系の王が続き、
317年頃にまた姫氏系が王になって、久留米付近に遷宮して「東海姫氏國」になって、
福岡平野部の繁栄や鏡祭祀が衰えた。
そして、阿毎氏系の磐井がまた、東海姫氏國に変わって、阿毎氏王朝を再興した。
>畿内の隆盛を示す事実を証明する道具として鏡は機能してるな<
大和は、粗悪な三角縁しか造れなかった。 244の>>913
>大国主の国づくりとは巻向建設のことだと思う今日この頃・・・<
大国主と巻向とは、年代も場所も全く違う。 244の>>915
安本や右翼マスコミや大和説者らが、和田喜八郎を、
「偽書作者という嘘吐きダマシの宣伝」で商売しようとしたことによって、
津軽の本来の歴史が穢されてしまったな。
筑紫倭国も穢されてしまった。
日本中に穢れを振り撒く穢れた・・・・ガキの、
安本や右翼マスコミや大和説者ら。 244の>>926
>考古学だけで何の説明ができるのだ? 前方後円墳のルーツが東瀬戸内と判明してきた。
淡路島にはない。 まるでイザナギ・イザナミの神話の世界ではないか。<
前方後円墳のルーツは、中国の周髀算経などの天円地方思想と、モンゴル〜高句麗付近の考古。 >>56
>大和は、粗悪な三角縁しか造れなかった。
知らないの?
位至三公鏡ってもっと粗悪なんだよ
しかも小さい 244の>>970
>>神→鴨 神野→熊野 神祖→熊襲 このように変えられたのだろう。<
>変えた動機は賛成できないが、ここは同意できる。<
また、「南→東」の嘘吐きダマシの大和説者の、
「史料事実を曲解する口先ダマシ」の分裂幻覚妄想の詐欺に騙されて、
オーム入信者らのように、入信するアホが、一人出来てしまった。 244の>>972
>いや天津神、国津神というのは後から、おそらく7世紀に創られたのだろう。
アマテラスや高天原自体が九州に設定されてしまった。
ところが九州のどこななのか全く不明。<
高天原は、「燕の南〜海峡」のどこか。
そこから、対馬壱岐沖ノ島付近に天降りした。 >>68
大きさもそんなもんだな
きな粉が付いてるみたいだ 畿内にとって鏡は外国の蕃神。
倭国大乱で擁立された卑弥呼は仕方なく受け入れた。
>『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。
3世紀後半、物部が外威となったことで皇室の三種の神器となったが、
ヤタの鏡は天皇でさえ見ていない。
また伊勢神宮に参拝していない。
崇神が起こしたクーデター(神殺し)の証拠だからだ。
だから見ないし参拝しなかったのだ。 記紀に崇神が起こしたクーデター(神殺し)の事は直接書かれてない。
「国譲り」として柔らかく置き換えている。
しかし崇神が起こしたクーデター(神殺し)の動機だけは書いている。
モモソ姫が尻もち着いたら箸がホトに刺さって云々。
糸をたどっていくと(つまり犯人が)大物主で云々。
事件だと誰も言ってないのに事件の動機だけは書いてるという滑稽なことになっている。 崇神が起こしたクーデター(神殺し)だが、
卑弥呼は殺された神側の人物だ。
つまり前王朝だ。
彼らは今でも神様として崇められている。
信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。
2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。
その王朝の王族たちは神々に変わった。
そして今でも信仰されている。
ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。 >>71
蛇の話?
あの『日本昔話 福島県』
道中、蛇が出てきて、という話に似ていない? >>12
畿内出土庄内式土器の真実
畿内の前期古墳の編年が「邪馬台国」畿内説を「保証」するかのように3世紀前半にまで古くされているのですが、
その編年の根拠の一つとされているのが、弥生時代と古墳時代(布留式土器)の中間に位置するとされている庄内式土器です。
この庄内式土器と纒向型前方後円墳が時代的に重なり、これを「邪馬台国」畿内説の根拠とされているわけです。
そして、この纒向に全国の土器が集まっていることや、纒向の庄内式土器や大和の布留式土器が全国に伝播していることを根拠に、
纒向(大和)が倭国の中心国「邪馬台国」と説明されています。
こうした「邪馬台国」畿内説の「根拠」とされている庄内式土器や布留式土器について、考古学者への聞き取り調査や論文を
精査され、次の驚くべき事実を報告されたのです。
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、
中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で
出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が
移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。 >>12
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を
改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに
全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものが
ほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、
その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と
布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。
以上のように、庄内式土器研究会の研究成果は「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた土器についての決定的反証となっています。 あの辺りに誰か住んでいたのかな
行方不明になった子供を探しに行くという話
確か母親の話 中国の話みたいだなwという説があったり
山奥に入っていき・・・大蛇や白蛇が出てきて・・・退治? >>77
その論文の中で米田は卑弥呼の墓が箸墓で邪馬台奥は畿内って主張してるんだよ >>82
どうして別なんだ?
それに18年も前の論文だから新しくないぞ 客観的資料と主張が同居しているだけ。
畿内説ありきという先入観が著者にある。
しかしデータは畿内説の根拠を崩している。 要するに畿内説には何も根拠がない。
スレ主が無駄に妄想をテンプレと称して貼り付けて嬉々としているが、中身は空っぽ。 >>84
学者なら客観的資料に基づいて結論を出してるんだよ
米田の提出した結論を疑うなら彼が提出した資料も疑えよ 信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。
2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。
その王朝の王族たちは神々に変わった。
そして今でも信仰されている。
ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。
ヒミコ、トヨを含め、その神々のお墓は、
今も日本最古の神社が高天原(御所市高天)でお守りしている。
今日も見ていただきましょう、これがヒミコのお墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ >>85
お前は「要するに」と言うだけでなんの根拠も出さない
つまり中身が空っぽ >>83
84 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 07:49:04.21
客観的資料と主張が同居しているだけ。
畿内説ありきという先入観が著者にある。
しかしデータは畿内説の根拠を崩している。
しかしデータは畿内説の根拠を崩している。
しかしデータは畿内説の根拠を崩している。 >>81
横レスですまんが、
事実考察の説明の後、論者の推測で邪馬台国部分になると、あれ?何でそうなるの?
というのは多い
どの論文も邪馬台国部分はあくまで論者の推測 >>84
どっかの安物脳の持ち主が米田論文の「客観的主張」からつまみ食いして我流の結論を書き加えただけだろ
洛陽晋墓とかのときと同じ >>85
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、三世紀前半と確認できる鉄矛は
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ひとつも出土しておらず、条件は同じである
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という考古学用語は古代中国人のいう槨とは違う
よって否定材料にならない
↑意味わからん
兵用 矛 楯 木弓
↑矛のでてこない畿内はありえない >>91
あるある。
いいこと書いてあるなと思っても、最後になって、畿内の邪馬台国にどう繋がるのか不明とか、畿内の邪馬台国の他に中心があったように見える、とか。
邪馬台国が畿内にあったという前提が誤っているから矛盾があるのに、そこは妄信して疑わないから、謎の邪馬台国のままで終わる。 A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、三世紀前半と確認できる鉄矛は
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ひとつも出土しておらず、条件は同じである
↑当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍であるが、当時の中国で槍という言葉は長柄の武器を指さない
よって、倭人伝いうところの矛は、今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性は高い
↑間違っている 書き換えを要求する
当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍であるが、当時の中国で槍という言葉は長柄の武器を指さない
よって、倭人伝いうところの矛は、今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性は高い
???????????????????????
当時のシナ人が見間違うわけはない
勝手な憶測で、矛をそうでないものにしてる!!!!
↑矛はシナにあったんじゃない? シナ人がみて、それは矛だったんだよ >>96 邪馬台国が畿内にあったという前提が誤っているから矛盾があるのに、
森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
−−6段階北部九州は各地の土器を積極的に受け入れが自らの土器を他地方に出してる気配はない。この点人・産物の動きまで示す
土器の分析から九州の一角に邪馬台国を想定することはかなり難しい相談となるだろうーー
魏志倭人伝に邪馬台国が土器の輸出をしていたと書いてありますか。邪馬台国は九州内部だけで完結した歴史です。狗奴国に
ついてはこんな書き方をしてます。
−−(狗奴国の領域について)纏向では内削りの大和庄内式土器であり(東海は)排他的位置を占めるS字甕地帯で高次元の独創性を
誇示しており他からの影響を拒んでいる(中略)いわゆる狗奴国の実質的範囲を示唆している。−−
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 けっきょくコピペしか出来ない九州説には
論が無い
w >>99
コピペすらできず、年中無休で揚げ足取りの畿内説に未来はない!! 大物主
日本の神話と言っても、神話の時代でしょ
国も何も無かったような状態 土師器は物部土器。
だから纏向や天理の布留、河内、播磨、筑紫という物部の拠点で多く出る。
畿内の弥生土器に内面削りという手法が加わる。
それが土師器だ。
内面削りという手法は吉備の文化。
ニギハヤヒは吉備からやってきた。
播磨、筑紫、讃岐の連中を連れてやってきた。
その吉備を中心とする物部集団は3世紀後半に「女子力」で皇位を実質上簒奪した。
その証拠が崇神陵・行燈山古墳の隣にへばりついてる櫛山古墳(双方中円墳)
吉備の楯築遺跡(双方中円墳)→櫛山古墳(双方中円墳)
見事に結実した。
櫛山古墳被葬者は崇神を産んで皇太后を名乗ったイカガノシコメであろう。 >>101
実在した人物が神話化されて神様になった どこかに詳しい人が、いるのかもしれないよ
神話の時代=国も政府もなかった状態
各地に豪族(小さな国のようなもの)、
国家として統一されていなかった状態 そもそも日本神話の神とは、王族または祖先という意味合いが強い。
超人的な存在を意味するわけではなく、崇拝の対象であるということ。
王家の祖先への祭りは国家的に行われたので、特に神と呼ばれるが、あくまでも実在した祖先のことに過ぎない。 >>106
豪族と王は違う。
東アジアにおいては、中国から冊封を受けた者が王でり、倭国においては筑紫にしか王の記録はない。 >>60
>>大和は、粗悪な三角縁しか造れなかった。<
>知らないの? 位至三公鏡ってもっと粗悪なんだよ しかも小さい<
卑弥呼への下賜の100枚銅鏡は、
当然、鏡片や、卑弥呼からの下賜鏡に使われた内行花文鏡や方格規矩鏡などであり、
余った材料銅が、おそらく平原のホウ製鏡に使われたんだよ。 >>103
>土師器は物部土器。
だから纏向や天理の布留、河内、播磨、筑紫という物部の拠点で多く出る。
纏向も布留も河内も播磨も筑紫もみんな、阿波から進出した、忌部一族なんですよ。
>畿内の弥生土器に内面削りという手法が加わる。
それが土師器だ。
内面削りという手法は吉備の文化。
「内面削りという手法」は東阿波型土器が原型なんですよ。
>ニギハヤヒは吉備からやってきた。
播磨、筑紫、讃岐の連中を連れてやってきた。
播磨、筑紫、讃岐の連中も、阿波から進出した、忌部一族なんですよ。
>吉備の楯築遺跡(双方中円墳)→櫛山古墳(双方中円墳)
見事に結実した。
楯築遺跡(双方中円墳)も櫛山古墳(双方中円墳)も阿波から進出した、忌部一族の墳墓なんですよ。 @阿波
櫛山古墳被葬者は崇神を産んで皇太后を名乗ったイカガノシコメであろう。 >>64
>曲解だって証拠ナシ<
「南→東」は、「史料事実の否定曲解」の全くの証拠。 >>103
>櫛山古墳被葬者は崇神を産んで皇太后を名乗ったイカガノシコメであろう。
その、イカガノシコメ(伊加賀色許賣命)は
@ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること
A 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること
B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること
C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること
などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。
同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 >>66
>>高天原は、「燕の南〜海峡」のどこか。
そこから、対馬壱岐沖ノ島付近に天降りした。<
>根拠ナシ<
「天國」からの「天降り」地は、途中の経由地無しに新羅と出雲の筑紫の3カ所になっているから、
天國は、新羅と出雲の筑紫の間にあって、その3か所へ船て直接行ける所。 畿内説の邪馬台国の所都はテンプレ通り桜井市限定でいいのか。
畿内説はセクト意識が強いのか? >>114
関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、
「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代に
おける列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、
巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、
3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し
(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)
も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。 >>70
>畿内にとって鏡は外国の蕃神。<
筑紫城の倭奴國の中の「阿毎氏の伊都國」から別れた別種の旧小国の、
田舎のご大尽の阿毎氏の大和にとっては、本家の伊都国の阿毎氏が大事にしていた鏡は、
垂涎の的。
>倭国大乱で擁立された<
「倭国大乱」なんてない。
>卑弥呼は仕方なく受け入れた。<
卑弥呼は、筑紫の姫氏 。 >>125
>卑弥呼は、筑紫の姫氏 。
それはだれ?
スーパー松源でレジを打ってるおばはん?
信仰の対象となってない一族、
つまり「神々」ではないのでヒミコとは関係がありません。 >>124
「聖徳太子」はいなかった
藤原不比等によって作り出された架空の人格
古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962
おもしろ歴史話 法隆寺移築説
宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる
尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
高麗尺で作られていて、当時奈良に都がなかった為に他所から移築と
新たな支配者による圧力のもと、転封(移封)という形で、大和の地へ強制的に移転させられた可能性が強いと思います。
今から48年前に、木造建築の専門家が本を出されています。
>>620 時期、伽藍様式が法隆寺に同等なので
大宰府の観世音寺はそんな次元じゃない
法隆寺の心柱の直径と寸法がぴったり合致 ← 法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された
鳳山社 , 1962 ← 長生きしてれば九州王朝に賛同したはず
邪馬台国に対する下賜品が書かれていて
ー鉛丹というのは法隆寺の壁画なんか描くときの原料として、
密陀僧に使われています。
小林行雄先生の「古代の技術」によりますと、これまでのところ
鉛丹・四酸化鉛は法隆寺以前はどうも見つかっていないのですが
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
そういうものを各50斤もらった。 >>71
>記紀に崇神が起こしたクーデター(神殺し)の事は直接書かれてない。<
記紀に書かれていないから、分裂幻覚の妄想。
>「国譲り」として柔らかく置き換えている。<
崇神と国譲りとは、時代が全く違うから、これも分裂幻覚の妄想。 >>125 卑弥呼は、筑紫の姫氏 。
天皇の苗字も、キシ
例の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ
^ 宮崎市定は『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年 ISBN 9784121007032 )124〜126頁で、
「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。
↑明らかに、記(木、喜、鬼、姫)氏、氏族名だよ 無視されてるけど宮崎市定はただしい… >>74
>崇神が起こしたクーデター(神殺し)だが、 卑弥呼は殺された神側の人物だ。
・・・ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。<
これも、史料事実の否定曲解の分裂幻覚の妄想。 >>129
>記紀に書かれていないから、分裂幻覚の妄想。
記紀を×書と言ってたおまえはさらに分裂幻覚。
暑苦しいので梅雨が明けて蝉が鳴きだす前までに氏ねよ。
絶対に時期を逃すな。
75年も日本の気高い空気を吸いやがってこのボケ。
もう思い残すことはないだろ。
これは命令だ。 >>126
古田史学論集「古代に真実を求めて」の編集責任者 服部静尚のこと? >>130
>天皇の苗字も、キシ
はぁ、誰ですか?
スーパーサンエーの青果係のおばはん?
神武天皇の姓は神です。
綏靖天皇も。
神武 神日本磐余彦天皇(カムやまといわれひこのすめらみこと)
長男 神八井耳命(カムやいみみのみこと)
次男 綏靖「神渟名川耳天皇(カムぬなかわみみのすめらみこと)」
つまりカム=カモ王朝。
これは神武が征服者ではなく、カモ・カム王朝に婿入りした男だったという証拠。 証拠ゼロのまま、のようです、とか思われます、とかで
改竄だとか不正だとか言い放っちゃう神経って
アレだよな ヲワケの臣から7世代遡ればオホヒコ
一世代間20年弱でオホヒコは4世紀前半。
やはり崇神は4世紀前半。
この時点で訳60年前に即位したトヨは一人しかいなくなる。
更に卑弥呼も一人しかいない。
2人とも最高位の女性。
■2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前 皇祖神?
日本ではコジキのような扱いにされてしまったとか >>76と>>77
>・・・※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。
以上のように、庄内式土器研究会の研究成果は「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた土器についての決定的反証となっています。<
この米田氏の話は、
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
の佐々木氏の論考にも半分取り入れられていますが、
その米田の話だけでは、筑紫の事を無視して、近畿での庄内と布留だけの話のかたわの論になっており、
筑紫の話は、佐々木氏の方が具体的であり、
しかし、米田氏も佐々木氏も、柳田の「三雲の庄内」を無視しているし、
伽耶の陶質土器の年代根拠性へは避けているように見える。
しかし、大和→筑紫への「土器の直接的搬入がない」とされた点は、評価出来る。 >>142
爺ちゃん、俺だよ俺。
仕事でミスって大至急100万円必要なんだ。
悪いけど振り込んでくれない?
何なら代理の者に取りに行かせるから。
というのは冗談で、
米田氏も佐々木氏も大和説者ですよ。
わしの口座に100万円振り込んでくれるなら、
米田氏も佐々木氏も九州説に変わるかもしれないよ。
思い切ってやってみることが大事だね、うん。 >>142
>しかし、米田氏も佐々木氏も、柳田の「三雲の庄内」を無視しているし、 伽耶の陶質土器の年代根拠性へは避けているように見える。
そらぁザラコクのデッチ上げだもの
誰でも無視するわ >>81
>その論文の中で米田は卑弥呼の墓が箸墓で邪馬台奥は畿内って主張してるんだよ <
そうか。
米田も、始めから、「南→東」の嘘つきダマシの大和説サギシであったのか。 >>84
>客観的資料と主張が同居しているだけ。 畿内説ありきという先入観が著者にある。
しかしデータは畿内説の根拠を崩している。<
成程。
米田は、自己矛盾しているんだから、頭が悪いか?、脳がおかしいか?だな。 >>87
>学者なら客観的資料に基づいて結論を出してるんだよ
米田の提出した結論を疑うなら彼が提出した資料も疑えよ<
いや、ダメだ。
宗教説法師や、街頭詐欺師や、政治家や、
「結論先にありき」の後代史家や、記紀などの半分×書などは、
世間の人々を信用させて先に相手の同意や共感を得易いようにするために、
正確そうな情報を先に語って、信頼出来そうにさせ、
その後で、その情報の解釈や説明で、
口先での詐術的な優しそうな言い方をこっそりして、
世間の人々を騙そうとするもの。
だから、我々庶民は、
彼らの語る事実関係と、その解釈や説明とを、
常に分けて聞いておかなければならないもの。 まぁ九州説こそは倭人伝を無視してるのに等しい。
戸数や丹山、書かれてもない鉄器優位性等
これらは都合よく解釈してるだけだからね。 >>146
爺ちゃん、俺だよ俺。
仕事でミスって大至急150万円必要なんだ。
悪いけど振り込んでくれない?
ATMって分る?
近くのコンビニにもあるよ。
携帯電話で操作の仕方教えるし、
何なら代理の者に取りに行かせるから。
というのは冗談で、
自己矛盾って何? また現在の九州説の一番悪い所は単に論の主張ではなく
畿内説より優位になりたい、その一点のみで成立している点ですね。
畿内説は既に九州説を相手にする必要がない事を
認識出来ない(したくない)という点です。
多くの畿内説の場合は北部九州は伊都であり奴国である、
それで説明終了ですから。 >>149
倭人伝に忠実に末蘆国から伊都国経由で2千里、南だから問題はないな >>142
ザラコクの真っ赤なウソなんて
2ちゃんでザラコク見かけた人しか知らなくて当然 >>152
二千里も行ったら畿内に着いちゃうでしょ >>151
畿内説は歴史の真実を捏造してるのが問題であって、畿内だからということではない >>154
畿内までなら末蘆国から1万里ぐらいあるだろう >>87
>信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。 2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。<
騙してはいけない。「トヨ」なんて、史料事実に存在しない。
>その王朝の王族たちは神々に変わった。<
騙してはいけない。歴代中国史書群の記録では、神々ではなく実在である。
>そして今でも信仰されている。<
信仰されている事と、史料事実とは、別物。
>ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。<
年代も場所も呼称も違うから、別物。
>ヒミコ、トヨを含め、その神々のお墓は、
今も日本最古の神社が高天原(御所市高天)でお守りしている。
今日も見ていただきましょう、これがヒミコのお墓です。・・・<
「南≠東」だから、全くの嘘つきダマシの詐欺。 >>88
>>要するに畿内説には何も根拠がない。
スレ主が無駄に妄想をテンプレと称して貼り付けて嬉々としているが、中身は空っぽ<。
>お前は「要するに」と言うだけでなんの根拠も出さない <
彼は、纏向から筑紫への搬入が殆ど存在しない事と、
布留の列島での南加賀になる事、
などの根拠を出している。
>つまり中身が空っぽ<
この投稿子の頭の中身は、嘘つきダマシの詐欺で一杯。 孝霊厨は久しぶりに徐福の神仙思想の話しをしてくれ(南朝秘話でもいいぞ >>91
>横レスですまんが、
事実考察の説明の後、論者の推測で邪馬台国部分になると、あれ?何でそうなるの?
というのは多い
どの論文も邪馬台国部分はあくまで論者の推測 <
賛成。 >>158
南≠東経
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
チ〜ン♪ >>92
>どっかの安物脳の持ち主が米田論文の「客観的主張」からつまみ食いして我流の結論を書き加えただけだろ
洛陽晋墓とかのときと同じ<
「客観的主張」なんてないよ。
史料事実や史料実態が客観的なのであり、
主張は、常に「主観的」なんだよ。 >>96
>あるある。
いいこと書いてあるなと思っても、最後になって、畿内の邪馬台国にどう繋がるのか不明とか、畿内の邪馬台国の他に中心があったように見える、とか。
邪馬台国が畿内にあったという前提が誤っているから矛盾があるのに、そこは妄信して疑わないから、謎の邪馬台国のままで終わる。<
賛成。 >>166
ザラコクがウソついてる
っていう主張は
客観的事実なんだけど 客観的主張ワロタwwww
zarakokuはホケノ山古墳の布留式土器後世落ち込み説の時も、
「重いから先に落ちる」と言ってて笑った。
本人は何が変なのか今でも気づいてないようだ。 >>102
>>コピペすらできず、年中無休で揚げ足取りの畿内説に未来はない!!<
>そんなことしてるって証拠は?<
この掲示板での大和説者の投稿が証拠。 >>103
>土師器は物部土器。 だから纏向や天理の布留、河内、播磨、筑紫という物部の拠点で多く出る。
畿内の弥生土器に内面削りという手法が加わる。 それが土師器だ。
内面削りという手法は吉備の文化。<
それでは、
柳田氏の「筑紫では、河内や播磨からの搬入土師器よりも三雲の庄内の方が古い」
という事実説明の、説明が付かない。 考古学的な発見を照らし合わせていくと当時の状況は大体見えてくるね
九州は先行して発展して王と呼ばれるような存在が登場するけど、平原を最後に西暦150年くらいから急激に衰退して崩壊していき小規模集落に分裂していく
そして逆に広域化した吉備、畿内を中心とする西日本勢力に呑み込まれていきそのままの形で邪馬台国の時代を迎える
史書を見ても一方的な干渉を受けるだけの九州は一大卒に監視される属国としての倭人伝の姿とピッタリと合致する
どこにも謎なんて無いね >>172
>事実説明の、説明
またワロタwwww
爺さん、かなりアルツってるなw よく九州説が錦の御旗みたいに掲げる鏡等の発掘物も全部卑弥呼の時代から100年以上前の物だからね
それ以降は逆に卑弥呼の時代にかけて急激に減少して衰退を示す証拠となってる
この九州の衰退は倭国大乱の時期にも合致する
史書の記述とも整合性が取れてなにも不思議がる必要がないな >>173
>そして逆に広域化した吉備、畿内を中心とする西日本勢力に呑み込まれていきそのままの形で邪馬台国の時代を迎える
「吉備、畿内を中心」は「阿波を中心」の誤りなんですよ。
吉備も畿内も倭人(忌部一族)が拓殖した地なんですよ。 @阿波 >>127
>>卑弥呼は、筑紫の姫氏 <
>それはだれ? <
松野氏姫氏系図に書かれた刀良であり、風土記に書かれた甕依姫。
>スーパー松源でレジを打ってるおばはん? 信仰の対象となってない一族、
つまり「神々」ではないのでヒミコとは関係がありません。<
卑弥呼は、信頼性や客観性の高い中国史書群などにも書かれた実在の女性であり、「神々」ではない。 >>175
その衰退した筑紫は、阿波から進出した、筑紫忌部が再興したんですよ。 >>172
三雲にやや古い畿内からの搬入土器があったところで
畿内説にとって説明が付かなくなるものは
何も無いが >>173
で、平原は衰退とか言った考古学者は誰? 平原で大量副葬があるのは1号墳
それ以外の弥生後期の墓からはそのような副葬品は出ない
この遺跡群が平原を最後に衰退した姿を見る事が出来る
そしてこの傾向は平原だけでなく九州全体の流れとして現れており九州そのものの衰退と連動している >>183
1号墓への集中だな
それを衰退といった考古学者は誰? >>183
1号墓への集中だな
それを衰退といった考古学者は誰? 天孫降臨自体、1世紀に倭人勢力が伊都国に婿入りした話だからな。
三雲南小路遺跡の方形周溝墓。 >>184
1号以降ショボいのを
集中と言った人はいない 平原の副葬品は50〜150年ごろ
頑張って広く見積もっても180年ごろ
それ以降にそのような副葬品は見つからない
つまりそれ以降の衰退を明確に示している
集中とか訳の分からない事言ってるがそれで何の言い訳してるのか意味不明
九州説は頭が悪すぎて反論さえもできないらしい 要は九州は卑弥呼の時代よりもずっと前にかなりハッキリと衰退してるの
鏡だろうが何を出そうがその衰退を証明してるだけの事でしかない
こんなところに何故邪馬台国があると言い張るのか全く理解できない >>184
柳田みたいな郷土愛の人がいると皆ハッキリ言いにくい 九州は、弥生時代に北部九州が舶載品を独占してるが
畿内に古墳が造られるようになると南部にも行き渡る様になる >>177
>風土記に書かれた甕依姫。
今も信仰されていないような人間は卑弥呼ではない。
今も信仰されてない墓は卑弥呼の墓ではない。
箸墓、勝山、平原、祇園山、信仰対象ではないので卑弥呼の墓ではない。 時代も状況も無視した「古墳からも財宝が出た」とか言い出す九州説のバカぶり 鏡も沢山出たと言い張るが実際は卑弥呼の100年以上前のものばかり
財宝が沢山出たと言い張るがそれは古墳時代の物
これで説とか言ってんだから笑わせてくれる 九州に当の卑弥呼時代の物なんて何もないことが露呈していくだけだな
九州説ってなんでこんなに頭悪いんだろうな
そのサイトも訳も分からず毎度持ち出すしいい迷惑だろうな なんか後漢の衰退と北九州の衰退と混同してるやつがいるな >>127
>信仰の対象となってない一族、
>つまり「神々」ではないのでヒミコとは関係がありません。
論理が破綻している。 >>135
>スーパーサンエーの青果係のおばはん?
どこの田舎? 三雲南小路 舶載大型鏡、中型鏡多数
↓
井原ヤリミゾ 舶載中型多数
↓
平原1号 ほとんど国産
↓
1号以降 なにもなし
衰退 >>204
どうして論理が破綻?
ヒミコやヒミコを生んだ一族(2世紀前〜3世紀後)は今も信仰の対象だと言ってるわけだが? >>151
>多くの畿内説の場合は北部九州は伊都であり奴国である、
それが何?
倭国の都が伊都国や倭奴国であるなら、九州説でいいでしょ? そもそも時代の違う古墳時代なんて言い出したら畿内の中心性が多い隠せないレベルで強まっていくだけだからな
苦し紛れに古墳時代を出してさらに自滅すると言うバカっぷり >>154
>>>152
>二千里も行ったら畿内に着いちゃうでしょ
対馬海峡の幅が三千里なのだから、二千里では福岡県も出るかどうか怪しい。 鏡がー鉄がーとか言ってるけどそれ卑弥呼の100年前でそれ以降はなにも出てませんから―
ざんねん! >>196
>畿内に古墳が造られるようになると南部にも行き渡る様になる
衰退していた筑紫は、阿波から進出した、筑紫忌部が再興したんですよ。 >>171
>>>170
>どの投稿が?
お前ら、小学生かよ。
「いつ言った?
何年何月何日何時何分何十秒?
地球が何回回った時?」 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 ちょうど倭国大乱の頃に平原以降の明確な推戴が明らかになる辺り倭人伝の記述と一致点が多いな
謎とか言ってる奴はなにを見てるんだろうという気がする >>199
平原遺跡からは、3世紀の卑弥呼の治世において伊都に強大な権力が集中したことがうかがわれる。
もちろん、奈良盆地は空っぽの関西一の貧乏地区のままである。 スーパーサンエーとか鴨厨の大野は岸和田あたりに住んでるのか? 戦後、津田史学がのさばったせいで神話の登場人物なんて存在しないという意見が大半になってしまった。
邪馬台国・卑弥呼を考える時、一番大事なのはむしろ神話なのだ。
彼らは神様になっているから。
考古学だけ見てると橿原考古研や>>1のような片輪人間になってしまう。 >>186
>天孫降臨自体、1世紀に倭人勢力が伊都国に婿入りした話だからな。
>
>三雲南小路遺跡の方形周溝墓。
婿入り先も倭人だぞ。
婿入りしたのは天孫族。
倭人の中に天神がいて、その中の神武に繋がる一家が天孫族。 >>183
だから、平原時期は一極集中なんだろ?
問題は平原の時期だよ。
平原の時期は諸説あるが、瑪瑙の管玉は半島産で、韓国では3,4世紀に出土していると報告があるから、検証が必要という事だったが、どうなったのだろう。
これ、かなり重要と思うが。
後、鏡についてだが、
方格規矩鏡の内8面は銘文が下や左側から始まっている。
少なくとも後漢末〜三國時代の鏡や模倣鏡や復古鏡にみられる現象。
類似品が中国にあるとすれば技術的に後漢末以降。
おまけに国産の可能性が強いし、独自発展した大型鏡もある。
どう考えても200年前後から古くはならんだろう。
さらに新しい可能性は十分にあるから、まだまだ検証が必要 土器の分布をみるとちょうど伊都国の小さな範囲だけ在地の古い形のまま取り残されている状況になってるのが分かる
倭人伝の記述通り「たったの千戸」の小規模な領域だけの自治を許されて代官に監視されて怯えてる状況が浮かび上がるな
そしてそこにはかつてのような王墓はもう出てこないで前方後円墳が作られる
九州の中心の象徴だった伊都国が惨めに衰退して畿内勢力の象徴たる前方後円墳を作る墓域にされたという歴史の流れが見えるな
倭人伝の記述通りだな >>189
>平原の副葬品は50〜150年ごろ
>頑張って広く見積もっても180年ごろ
畿内説お得意の年代詐欺前倒し >>228
中国に無いタイプの日本にだけある鏡を良しとするならそれは三角縁神獣鏡も全面的に肯定するという事になるが
そうなるとやはり畿内説を唱えてると同じなんだけど
あなたはそういう事を主張してるんだけどいかがか >>232
粗製濫造の三角縁と、王権の象徴とされた八咫の鏡が等価値に見えるなら、頭の病院に行った方がいい。 >>231
畿内説は副葬品の年代を決めるのに根拠なんて必要ないんですね
自説に都合の良い年代を自由に当てはめるw >>211
それじゃ投馬国や邪馬台国の入る場所がないです。
一月以上もかかる行程も矛盾しますしね。
また北部九州に14万戸以上入れるなんて
倭人伝の戸数記述を完全否定するなら別ですが。 >>227
>問題は平原の時期だよ。
>どう考えても200年前後から古くはならんだろう。
>さらに新しい可能性は十分にあるから、まだまだ検証が必要
そうだね。
平原遺跡が2世紀とか言っているのは、ただの悪質なプロパガンダだね。
少なくとも倭国大乱以降なので、平原遺跡の被葬者は卑弥呼が最有力候補。 >>236
>また北部九州に14万戸以上入れるなんて
7万戸だろ。
しかもそのうち3万戸は奴国。 >>234
中国に無いタイプの日本にだけある鏡だけど中国鏡としてその存在を認めますと
つまり三角縁神獣鏡を否定する理由を自分から放棄しますと言う事だね
畿内説を全面的に支持する事になるな
九州説って畿内説でもあまり見ないような積極的な畿内説支持派の集まりだな >>236
日程は帯方郡からの合計でしょ。
どうして奴国から急に里程ではなく日程になると思うわけ?
しかも一カ月もの間、詳しい記事がないとか、本気で思ってる? >>239
粗製濫造の三角縁と、王権の象徴とされた八咫の鏡が等価値に見えるなら、頭の病院に行った方がいい。 >>236
投馬国を朝鮮半島南岸
邪馬台国を北部九州
狗奴国を南部九州
伊都国、奴国や傍国を邪馬台国内の国邑と考えれば
北部九州に7万戸、南部九州に数万戸で現実的。 八咫の鏡とかもう誰も見た事もない物を根拠と喚き散らすこの姿
もう説ですら何でもないな >>236
帯方郡から水行20日で朝鮮半島南岸の投馬国
朝鮮半島南岸の投馬国から水行10日、陸行1日で邪馬台国(伊都国) 三世紀以前から既に大陸から畿内東海方面へ
中国人は足を延ばしているのは明白ですよ。
その点は素直に認めないと話は進まないのに
多くの九州説はその点目をそらしますよね?
殆どが倭種程度の比定でしょう。
でも考古学的には既に妻木晩田や伊勢遺跡、
東海地方の弥生遺跡等でその時点でパワーバランスが
東へ向いているのは明白です。
遠方にある邪馬台国は畿内方面に比定するべきです。 そういや以前「平原の鏡は八咫烏が描いてある。だから本物の八咫の鏡だ」とかほざいてたバカがいたなぁ
どっかの工場のオッサンが勝手に作ったレプリカをまさか本物と信じて叫んでたな
そもそもどこに八咫の鏡に八咫烏が描いてあるとか言ってる奴がいるんだろうな
もう意味わからん
九州説って本当に脳みそがおかしいんだろうなぁ >>248
もうそれぐらいしか反論のネタがないアワレな畿内厨www >>244
比定するのは自由ですが根拠もないしパズルにすぎないですよ。
投馬国が半島に存在する意味も理解出来ないですね。
まぁ半島南部に投馬国の領土があったという解釈なら、
出雲の国引き神話がありますが、その逆はないですよ。 卑弥呼の時代の物など何もないけど邪馬台国だ
九州説は三角縁神獣鏡を全面的に認める
なにを言ってるのかわからないだろうが、俺も何を言われてるのかわからなかった また丹山と言えば紀伊半島が中心です。
また丹山があり冬も温暖な海人集落といえば
該当するのは四国東南部と紀伊半島南部、
伊勢志摩辺りが一番該当します。
この辺りに中国人は一番関心があったとみるべきですよ。 >>247
>三世紀以前から既に大陸から畿内東海方面へ
>中国人は足を延ばしているのは明白ですよ。
どこが明白?
証拠は?
本気で意味不明。 これはガンダムに登場するキャラクターでしょ
『ワンピース 粉雪』
何か開発しているキャラクター、じおん軍? 縄文時代から、糸魚川の翡翠や
武雄の黒曜石でかなり広域の
交易があることはわかっています。
ただ、それを支配しただの、
支配されただのと言うのは
ちょっと違うと思います。 >>247
>東海地方の弥生遺跡等でその時点でパワーバランスが
>東へ向いているのは明白です。
どの時点のことかわからないが、卑弥呼の時代なら国力は圧倒的な西高東低だよ。
稲の収量を見ると、律令時代でさえこんな感じ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
奈良や京都が沼地であり、奈良盆地に金属製農具がなかった弥生時代なら、なおさらこの差は大きくなる。 ・・・貴族、□爵・・・いろいろあると思うけど、
それと王族とか >>251
>比定するのは自由ですが根拠もないしパズルにすぎないですよ。
畿内説へのブーメランなんだけど。
なんの根拠もなく邪馬台国が畿内で狗奴国が東海?
アホくさ。 >>253
>この辺りに中国人は一番関心があったとみるべきですよ。
魏志を読めば、九州それも福岡県のことばかりで、それ以外の地域はほぼ話題にされていない。 >>256
交易と支配は違うからね。
ただ、倭国王として冊封されたのは博多湾沿岸の国だけで、流通のハブとなっていたのは博多。 >>257
古代には肥後は大国と言われてたらしいが
ホントにこの数字見ると大国だな
肥後一国で畿内の山城と河内と和泉と摂津の四か国を合したよりまだ大きいw >>253 : 孝霊厨
>また丹山と言えば紀伊半島が中心です。
それはまずいでしょう。
畿内古墳の水銀朱はすべて阿波産ですから。 @阿波 卑弥呼の時代なら肥後一国で畿内5か国を完全に凌駕してたな。 >>261
殆どが博多湾沿岸の国の事だけですね
傍国とかは肥後まで入ってるかもですけど。 気づいている人は気づいていると思う
「ずっとオレのターン」と同じキャラ 糸クズは典型的62病患者
自己を客観視できず、絶対視してる >>265
肥後までギリギリ倭国でしょう。
この生産力の高さが、狗奴国が北部九州の邪馬台国連合に対抗できた理由でしょう。
稲がこれだけ取れて、有明海があって、筑紫に頼る必要がない。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 >>257
畿内なんてへぼいただの辺境の地。
特に奈良は沼地ばかりでまともな耕作地がなく、九州には捨てるほどある鉄器もなく、名もない土地で木製の農具で細々と貧しい人たちが暮らしていた。
それのどこが邪馬台国? そもそも3世紀に奈良盆地がなんと呼ばれていたかさえ明らかにされていない。
戸数の問題から、邪馬台国は畿内全体というのが畿内説らしいしw
魏志倭人伝に都の名前が書いていないことになるというとんでも説が畿内説。
九州説なら普通に伊都でいいのに。
魏志倭人伝で一番詳しく行数を割いて説明しているのも伊都国だし。
王権の象徴である八咫の鏡まで出土したら、もう確定でしょ。 そもそも邪馬台国までの里程に福岡県の地名しか出てこない。
不詳の周辺国もせいぜい長崎県と佐賀県。
これで畿内がなんだって? >>232
平原の年代について書いているのだが?
三角はほぼ4世紀以降の墓からしか出土しない。
三角が多く出る所は当時(4世紀以降)はそれなりの力があったであろうね。
しかし、鏡に意味を求めるなら、古墳時代の三角の副葬状態を見れば、内行花文、方格規矩、画文 > 三角なのは明らかなので、三角はまぁそれなりの価値でしかない >>236
2千里を一月というのは2倍暦により実質半月なのである
松浦の旅館で鯛茶漬けとか食べたんだろ、海の幸が豊富なのは知ってるくせに
筑紫平野の広さ知らんのか? >>257
九州と畿内じゃ生産力が余りにも違いすぎるな
これでヤマト朝廷が成立したこと自体が奇跡ですな。 >>247
三世紀以前から既に大陸から九州に次々に渡来し畿内東海方面へも進出
した(孝霊厨も納得であろう >>273
糸島って、何気に鯛の漁獲量日本一なんだよね。
鯛茶漬け食べたい 伊勢遺跡の煉瓦技術なんて誰がもたらした技術なんでしょうか?
銅鐸に墨書文字貨泉、元々倭人の技術ではないでしょう。 >>276
あらかぶ(カサゴ)の味噌汁なんかもいいな >>272
だから「中国に無い日本の鏡だけでその時代を特定してる」と言うんでしょ?
なら景初三年だの正始だの青竜だのも「中国に無いけど当時の鏡」と認めるのと同じになるんだけど
というかもっと酷いよね
年代どころか「その当時の鏡に似た傾向がある」だけで時代100年進めてるんだから
根拠としては余りにも薄弱すぎる 平原の鏡を無理やり100年ズラそうとしてるから意味不明な事になる
それこそ平原の鏡と同じ鏡は中国で比較対象があるんで時代がかなりハッキリわかるんで土器よりも正確な編年が出来るわけで
卑弥呼当時にありえないおかしな遺物になってしまう
平原の鏡は後漢初期の頃の鏡
そしてそれ以後に九州は全体を通して鏡が激減したまま邪馬台国の時代を迎える >>273
>筑紫平野の広さ知らんのか?
孝霊は基本的に畿内しか知らない井の中の蛙。 >>272
無知すぎ
基礎知識からおかしいのが九州説だね >>278
美味そうw
倭国は海の幸も山の幸も豊富だったのだな。
伊都の日向王家2代目が海幸山幸兄弟なのもうなづける。
海のない奈良盆地ではどうしようもない。
ああ、魚の骨は出ているんだっけ? >>253
丹山は九州にいっぱいある
>中国人は一番関心があったとみるべきですよ(徐福やな、ふむ、ふむ >>282
>それこそ平原の鏡と同じ鏡は中国で比較対象があるんで時代がかなりハッキリわかるんで土器よりも正確な編年が出来るわけで
後漢鏡そのものが三雲など国内にもたくさんあるが、平原は明らかにそれよりも後世の墓制と進んだ鏡製作技術が反映されている。
平原遺跡は後漢より後のものだよ。 桜井市にある長谷寺本堂は佐賀の初瀬村から移築された
孝霊厨は佐賀の初瀬村にいって調べたんだろ、誰にも言わないから詳しく教えてくれ 漫画やアニメ、ゲームばかり観ているから、こうなった
と言っている人がいなかった?
実際、
自分では何も作っていないとか? 『ずっとオレのターン』
ググってみたほうがいい、画像 纒向の発掘が進むにつれ、3世紀の奈良県の貧困な状況が判明したわけだが、それでも畿内説にしがみつくのは何故なのか。 そもそも、纒向は魏志になんという名前でのっているの?
その頃の纒向や奈良盆地は、なんと呼ばれていたの? 創作され世界(作中。文字。)だけ。
国でもよい、何か作ったと書いてあるだけで、
実際は何も作っていない
とか、そういう話なのかもしれない >>279
あのね、技術の問題。
順番的に中国の方格規矩鏡の模倣が国産方格規矩鏡なんだよ。
その国産方格規矩鏡に後漢〜三國期に出土する方格規矩鏡の特徴があるわけ。
方格規矩鏡は三角と違い、中国で出土が確実な鏡。
だから、平原の方格規矩鏡は以前は中国鏡と言われていたのだよ。
柳田の細かい銘文検証や、鉛同位体比の研究で国産ではないか?と言われているが、まだ確定ではないのも事実。
楽浪産の鉛が使われている可能性が高いため、楽浪産の可能性もあり。
紀年鏡がその年代に作成されていたか?は別の問題だろう
紀年鏡も新井氏によれば国産の可能性が高いらしいし。
今回の話と同列に語るなら、中国の魏で方格規矩鏡や三角の紀年鏡の類例はまずあるのか?という話になる 伊都国はまさに卑弥呼の時代に絶大な権力を持つ王都であった。
もちろん、そこに葬られていた偉大な女王こそ卑弥呼である。 謎の名字辞典?
何々を採掘をしていた一族(人達)の名前とか、
詳しく書いてあったりするけど
あれは何なんだろう >>286
>丹山は九州にいっぱいある
そんな戯言は、九州説しか通用しないんですよ。 @阿波 >>295
>そもそも、纒向は魏志になんという名前でのっているの?
>その頃の纒向や奈良盆地は、なんと呼ばれていたの?
誰か答えて〜 私の嫁さんの実家は佐賀ですからね。仕事でも頻繁に行き来してます。
でも九州等から畿内へ移設した云々の話は基本比定派です。
ハセとは基本的に大物主を象徴する言葉からきている文言でしょう。 丹山については象徴的な神社が紀伊半島に集中してる以上は
倭人伝の記述もそこを指す、それ以上の解釈は私はしませんけどね。
他の地方を上げる場合は、その点を否定出来る論を
願望ではなく根拠をもって上げてからにするべきですよ。 >>302
今のところ可能性があるのは大倭、ホツマ、サホ、ホト 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。
二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。
芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。
横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。
浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。
足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。
田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。
久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。
大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。
羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。
布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。
二田や田尻は大阪南部、
久米は岡山や大阪南部、
布都留は吉備一宮、
九州にももちろんこの地名があるから、
まぁ早い話、九州〜大阪湾までの瀬戸内勢力。
この連中が纏向遺跡を作った。 詳しいことはわからないけど、
虚勢宗教だと言っている人もいなかった?
何を作ったんだとか
そもそも、その、お金(資金)は、
どこから出ていたんだ?とか >>297
同じ事
方格規矩四神鏡は後漢初期から中期の鏡
内行花文鏡ももっと古いタイプ
模倣したというのなら「当時に無いもの」を模倣したことになる
当時の物の模倣だというのなら言うような文字列の癖のある当時の方格規矩四神鏡が必要になる
で、当時の中国に無い物を模倣したと言うのなら三角縁神獣鏡も当然認めることになるという理屈になる 纏向に直接関わってるのは鳥見物部(とみのもののべ)であろう。
鳥見山もあるしな。
千葉にも鳥見神社が多いが、祭神はニギハヤヒだ。
纏向遺跡とは物部の遺跡だ。 >>308
>内行花文鏡ももっと古いタイプ
あからさまち間違い。
内行花文鏡は長期にわたり作られており、平原遺跡の内行花文鏡は後漢の内行花文鏡を発展させた、つまり後漢より新しい鏡。 >>302
神仙思想の国である扶桑国(魏志にはない 297が言う後漢〜三國期の方格規矩四神鏡が提示できれば297の勝ちだな 二田物部は池上曽根遺跡と関わってるのであろう。
近くの曽祢神社の祭神は二田物部神。
この二田物部は天香久山とともに新潟に渡ったようだ。
新潟の二田から田中角栄元首相が出る。
纏向遺跡に日本海側の土器が多いのもそれが原因であろう。 >>309
ナガスネヒコの本拠地のトビとは関係ある?
前方後円墳が物部の墓というのと符合するのかな。 田中姓は北部九州に密集している。
二田物部絡みかどうかは不明。 ??菱のマークが何やらとか
実際は阿波、四国の話じゃないぞ
と言っている人もいた
数年前の信onというスレ そしてなぜ貰った墓に本物を副葬してないのかという問題が出る
「配った」と言うのなら「同型の」鏡が邪馬台国の勢力圏の「広い範囲」で見つからないといけない
邪馬台国の範囲を最小に見積っても九州全域で
レプリカで良いのだからそれこそ各地で大量に見つかってもおかしくない
が、見つからない
そうなると貰った鏡はどうしたのかという話になる
つまり邪馬台国時代の墓だったとしても鏡なんて貰ってなかったのではないかと言うほかない >>311
つまり魏志にある邪馬台国は纒向ではないね。 >>314
>ナガスネヒコの本拠地のトビ
それはおそらく奈良の富雄という地名に残ってる。
ニギハヤヒほどの実力者なら生駒と磯城と両方に根拠を持っててもおかしくない。
磯城は奥津城であったのだろう。 >>317
全部改鋳して八咫の鏡。
そうでないとどこから材料を持ってきたか説明がつかない。
対外的には魏の権威を尊重していたけれど、国内的にはもう後漢滅亡後は独自の八咫の鏡の権威の方が上だったのだろう。
卑弥呼の時代から、国内の政治のルールが変わったんだよ。 基本的認識はホトからフツ、フツの化身だからホトケでしょう。
ハセとは大物主の事ですよ、多分ね。 >>322
>ハセとは大物主の事ですよ、多分ね。
むしろ箸墓のハシとの類似が気になる。
ハセ寺はハシ寺か。 >>320
トビのナガスネヒコの主であるニギハヤヒから始まる物部の墓が前方後円墳であり、その原型である箸墓がある纒向が物部の拠点の一つということでオケ? >>319
復古鏡には復古かの特徴があるんだよ
平原の鏡には古墳時代の復古鏡にあるような特徴が無いの 箸墓逸話は大物主をコケにする話ですから
当然後年の作為が入ってますよ。
大物主信仰を止めさせたい訳ですから。
フツの化身を崇めさせる意味も分かりますね。 >>297
新井はメチャクチャだろ
専門家でもないし >>325
>ニギハヤヒから始まる物部の墓が前方後円墳であり
ニギハヤヒを2世紀後半と仮定すると前方後円墳はもっと古い。
東瀬戸内の讃岐あたりに突起付の円形墳丘墓ができるのはもっと古い。
ニギハヤヒの墓がどこだと聞かれればずばり楯築遺跡だと思う。
双方中円という形式は前方後円墳より格上だ。
>箸墓がある纒向が物部の拠点
それは間違いはない。
ホケノ山古墳の6世紀末の14mの横穴石室を造ったのは、
あの時代に桜井を領地にしてた物部守屋かその次世代。
これに気が付かない橿原考古研は本当にアホ。 >>328
>大物主信仰を止めさせたい訳ですから。
ならば何で大神神社を建てたんだい? >>132
>>記紀に書かれていないから、分裂幻覚の妄想。<
>記紀を×書と言ってたおまえはさらに分裂幻覚。<
記紀が「×書だ」なんて言っていないよ。
言ったのは「半分×書だ」だよ。 繰り返すが、
ホケノ山古墳の6世紀末の14mの横穴石室を造ったのは、
あの時代に桜井を領地にしてた物部守屋かその次世代。
つまりホケノ山古墳被葬者は物部の祖伸。
わしはウマシマジかヒコユキだと思う。 >>330
>ニギハヤヒを2世紀後半と仮定すると前方後円墳はもっと古い。
>東瀬戸内の讃岐あたりに突起付の円形墳丘墓ができるのはもっと古い。
アマテラスの孫のニギハヤヒと、イワレビコが会ったニギハヤヒと、明らかに世代が違うんだよな。
2世紀後半のニギハヤヒはイワレビコが会った方だろうな。
イワレビコが九州北部の倭国大乱を機に筑紫を出て、その後に卑弥呼が筑紫倭国の王となった。
畿内は畿内で、前方後円墳を持つ物部の王国の歴史が積み重ねられていくわけだ。 >>305
>今のところ可能性があるのは大倭、ホツマ、サホ、ホト
魏志倭人伝の邪馬台国と全く関係がなくてワラタ 畿内の用語と、九州の用語は語感がかなり違うし、使う漢字も違うよね。
なんとなくだけど。
卑弥呼とか狗奴とか、いかにも九州。
登美とかホケノとか、いかにも奈良。 >>135
>神武天皇の姓は神です。 綏靖天皇も。<
新唐書は、
「日本、古倭奴也。・・・其官十有二等。
其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。
次曰綏靖、・・・」
と書いています。 >>337
冶金会社のOBだって鉛同位体比なんて素人だろ 田原本町になるが味間(あじま)という地名がある。
歴史上、唯一この味間という漢字で表記される人物がウマシマジ。
『先代旧事本紀』では「味間見命」だ。
このウマシマジが制したと言われるのが東海。
名古屋の味鋺神社(あじまじんじゃ)の祭神がウマシマジ。
そして纏向遺跡の外来搬入土器の5割が東海土器であることもウマシマジが関わってるのであろう。 神武神話ではヤマト入りした後鳥見山にて皇祖を祀りますが、
その鳥見山とは榛原の方ですからね。
その山の方を向いているのが巻向遺跡です。
その鳥見山には明らかに不自然に人の作為が
入っている勾玉池もありますからね。
まぁこの辺りはかなり何らかの鍵になるとは思いますよ。 >>339
天神の姓は天。
アマの〜とある。
諡の神の文字は王朝の始祖。 >>297
うん、新井説は厳しいと思う所はあるけどね
ただ可能性で考えるなら、という観点では参考にはなる
ただ、鉛同位体比自体が本来の中国出土の魏晋鏡での調査ができてないので、まだまだ検証が必要でしょうね >>295
大和盆地全体がヤマト=邪馬台国なので問題なし。 >>340
じゃあ鉛同位体比のプロなんてどこにもいなくなるじゃない >天神の姓は天
天神などという発想がかなり後の時代であろう。 >>336
邪馬台国との関係なら大有りですよ。
まず大倭ならそのものですしね。
また邪馬台国とは卑弥呼が都する場所です。 >>136
>>>121はただの中傷 <
服部氏や古賀さんは、
米田の、(解釈説明ではなく)「考古史料」の実態の説明内容、
を紹介されただけ。 >>321
テンプレの説明でおk
ためこんでたスクラップだろう >>348
>天神などという発想がかなり後の時代であろう。
根拠がないなあ。
天津神、アマテラスまで含めれば、かなり古くから呼称としてはあったことになる。
神武も天神は太陽を背にして戦うべきだと言っている。
どうやって後から創作するんだ? 『伊達の桃太郎』
むか〜し住んでいたという所の
周辺のような気がするんだけど >>345
当時の大和盆地全体に7万戸も入るかよw
関西全体でも足りないwww
纒向は魏志倭人伝では黒歯国だろw >>351
纒向にはスクラップにする金属片すらなかったくせに。
銅矛や鉄鏃の矢を持った兵士はどこへ行ったんだよ。 >>349
>まず大倭ならそのものですしね。
大倭は畿内と九州が合流した後の呼称でしょう。
もっとはるかに後世のもの。 >>359
魏からもらった鏡をスクラップにして改鋳したという意味ならオケ 古墳の形式にも序列がある。
双方中円墳>前方後円墳>前方後方墳
もちろん大きさにも序列がある。
大>中>小
もう一つ序列がある。
立地場所だ。
高地>丘の上>低地
纏向古墳群は低地だ。
せいぜい行燈山が丘の上。
したがって纏向古墳群は卑弥呼やその王族の墓ではない。
纏向古墳群の時代、本当の王の墓は高地にあったのだ。
そこは高天原(御所市高天)だ。 >>334
>つまりホケノ山古墳被葬者は物部の祖伸。
物部の始祖は「伊加賀色許雄命」
伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。 >>361
それは100%無理
鉛同位体から言って原料が魏鏡ではあり得ない >>358
纒向では鉄器が使われてました
砥石が見つかってます >>368
田舎のおばさんが包丁を研いでいたんだろう。 他の国に行ったほうがいいぞ
と言っている人がいなかった? >>139
>ヲワケの臣から7世代遡ればオホヒコ 一世代間20年弱でオホヒコは4世紀前半。
やはり崇神は4世紀前半。<
稲荷山の鉄剣記載の「上祖名意富比?」の「?」は、「垝」の文字であり、
「意富比垝」の音韻は「イフヒキ」か「オフヒキ」であり、
「大彦」とは読めない。 >>141
>皇祖 天子 天子神璽の話じゃないの?<
皇祖は、天子ではない。 >>373
香春岳から取った銅だったらスクラップじゃないのだけれど、何を根拠にスクラップと?
証拠を示せよ。 >>374
「イフヒキ」か「オフヒキ」が祖先だったなんてヲワケさんは自慢しません。
四道将軍の大彦という自慢ができる祖先だから必死で彫ったのです。
あなたのお孫さんが「僕のお爺ちゃんはzarakokuです」なんて、
とても恥ずかしくて言わないですよね。
石を投げられますからね。
どうか恥ずかしくないお爺ちゃんになってくださいね、もう手遅れでしょうがw 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
兵とは武装のことだが、具体的に何を持っていたのか。
当時の中国人の感覚なら銅矛のはずだけど、畿内には銅矛がない。 謎のチェーンソーのゲーム
「海賊ごっこは終わり」と言っていたり >>143
>米田氏も佐々木氏も大和説者ですよ。
わしの口座に100万円振り込んでくれるなら、
米田氏も佐々木氏も九州説に変わるかもしれないよ。<
米田氏も佐々木氏も、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つきダマシをしたり、
久宝寺や筑紫の伽耶の陶質土器の存在意義をこっそり隠そうとしたり、
三雲の庄内の存在も隠そうとしたり、しているから、
半分×人種の半分インチキ大和説者である事が判っているので、
信用していないよ。 >三雲の庄内の存在も隠そうとしたり、しているから、
してねえわwww
畿内Xが出る事まで言っておられるのにwww >>381
どうして当時の中国人の感覚なら銅矛なんだ?
戦国時代かよ 平原の鏡はそもそも形式がバラバラ
中国に存在しない銘を持つ物までもが含まれていたりもする
貰った鏡を複製するなら同じ形になるのが道理
何故ここまでバラバラなのかという問題がある
そして貰ったならその鏡はどこへ行ったのか
複製でも何でもいいから配って回ったというなら少なくとも平原を中心に大量に発見されてしかるべき
だがそれが無い
平原を卑弥呼の墓とするのは無理があるとしか言いようがない >>144
>>しかし、米田氏も佐々木氏も、柳田の「三雲の庄内」を無視しているし、
伽耶の陶質土器の年代の根拠性の話を避けているように見える。<
>そらぁザラコクのデッチ上げだもの 誰でも無視するわ<
そりゃ、「南→東」などの嘘つきダマシの通説大和説学者であるから、
大和説にとっては都合の悪い史料事実は、当然無視するわ。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
大阪城の下に何かあるのかな。 >>386
じゃあ、畿内にあったという卑弥呼の宮を守っていた兵はどのような武器を持っていたのか? >>387
>平原を卑弥呼の墓とするのは無理があるとしか言いようがない
わけのわからん文句はつけても、畿内説については説明できない畿内厨。 鏡の話にも通じるが「九州=銅矛」と思ってる人が多いけど、邪馬台国の頃には銅矛祭祀は既に消滅してる
武器どころか祭器としても終わってる
九州は150年くらいからその中心性の象徴だった銅矛や甕棺、鏡を急激に減らして程なくして消滅させている
平原にもない
九州説がやたらと言い張る鏡も矛も追っていくと九州の衰退を明確に示す証拠にしかならないという話
ちょうど大乱から卑弥呼の時代にかけてそれが示される事になる >>387
>そして貰ったならその鏡はどこへ行ったのか
改鋳して八咫の鏡になった。 >>147
>>成程。 米田は、自己矛盾しているんだから、頭が悪いか?、脳がおかしいか?だな。<
>矛盾って何よ<
大和(西日本盟主)説を説明しながら、
纏向が、河内以西と断絶的であった、という考古説明をし、
布留が(大和ではなく)南越前で発明された、という解釈を説明したから。 >>353
>天津神、アマテラスまで含めれば、かなり古くから呼称としてはあったことになる。
神武も天神は太陽を背にして戦うべきだと言っている。
どうやって後から創作するんだ?
アマテラスがいたという高天原が九州にはない。
ほぼない。
ニニギの天孫降臨の伝承地は南九州にあるのに高天原がない。
これは葛城の高天原を九州に設定してあげたのだ。
ニニギ以前の謂れがなかったからであろう。 >>395
>鏡の話にも通じるが「九州=銅矛」と思ってる人が多いけど、邪馬台国の頃には銅矛祭祀は既に消滅してる
祭祀の話なんかしてねえw
捏造乙 ちなみに中国人の言う矛は槍の事
日本の考古学者が日本の銅矛を分類上矛と呼んでるだけの事
これ勘違いして「矛がある!」とか言ってる間抜けが沢山いるが
あとこれもいつもの事だが九州の銅矛はもうずっと大昔紀元前の頃から既に祭器化して弥生後期にはバカデカイ団扇みたいになって刃もない祭器になってる
「兵が用いる」と書いてる物に祭器の銅矛を上げるバカもまだいるのかと懐かしさ感じる
そして上でも書いたけど祭器としての銅矛さえも弥生時代の終わりには既に消滅してる
配布してた九州勢力の衰退と連動しているのが分かるな >>395
>九州は150年くらいからその中心性の象徴だった銅矛や甕棺、鏡を急激に減らして程なくして消滅させている
卑弥呼が天孫族ではなかったからだろ。
問題なし。 『聖化 日霊 日神 津』
騙りがいると言っている人がいたり 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、河内や大和。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。 >>395
>ちょうど大乱から卑弥呼の時代にかけてそれが示される事になる
筑紫は卑弥呼の長期政権に入るからだろ。
都合がいい。
何顔を待つ真っ赤にしてディスりまくってるの? >>398
>アマテラスがいたという高天原が九州にはない
持統の創作だから当たり前 >>399
でも九州の兵隊は祭祀用の銅矛で敵を殴って戦うんだろ? >>404
>弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
その拠点集落なんて、どこにあるんだろうねえ。 >>401 なみに中国人の言う矛は槍の事
?????????????????????????????
畿内厨の脳内だけのこと 普遍化するなよ
当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍であるが、当時の中国で槍という言葉は長柄の武器を指さない
よって、倭人伝いうところの矛は、今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性は高い
↑間違っている 書き換えを要求する
当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍であるが、当時の中国で槍という言葉は長柄の武器を指さない
よって、倭人伝いうところの矛は、今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性は高い
???????????????????????
可能性が高い ????????????????????
当時のシナ人が見間違うわけはない
勝手な憶測で、矛をそうでないものにしてる!!!!
290 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 13:17:27.64
陳寿の時代には今日言う槍に当たる武器の名称が存在していない
↑矛はシナにあったんじゃない? シナ人がみて、それは矛だったんだよ >>406
>>>398
>>アマテラスがいたという高天原が九州にはない
>
>持統の創作だから当たり前
アマテラスは海洋王のこと、宗方沖ノ島の王だよ。 >>404
>中国南部の文化である銅鐸。
いや文化というほど発展してないし。
わずかにルーツの痕跡らしきものがある程度だ
だから銅鐸は日本の固有文化と言っていい。
朝鮮小銅鐸でさえ佐原さんの編年では最古ではない。 >>404
>呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
呉の末裔は肥国王家姫氏だよ。
卑弥呼の出自だよ。
だから筑紫の天孫族は筑紫を離れて畿内のニギハヤヒおじさんのところに身を寄せたんだよ。 >>149
>(孝霊)まぁ九州説こそは倭人伝を無視してるのに等しい。
戸数や丹山、書かれてもない鉄器優位性等
これらは都合よく解釈してるだけだからね。<
孝霊が、
「南→東」などの嘘つきダマシである事や、
戸数や丹や鉄鏃の問題にも、説明した事を、
「隠してなかったのような言い方をする嘘つきダマシ」の・・・・人間であったから、
「放置」する事にしておいたので、
そのまま放置しておきましょうね。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承かもしれない。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 >>410
まずは、武器としてだろな
スコップだって立派な武器だからな
ダム建設現場でチョンが暴れると、武器はスコップだった
そして、武器から祭祀具へと「進化」する
崇拝されていくんだな
そのいにしえの時から繋がってるかどうかはわからんが、
高知の神社で祭礼のとき、矛を持ってみんなで歩くんだよ
見に行って感動したけどな
こうやって使うのかと
近畿厨はなにも考えてないんだろ、あいかわらず これも、かなーり前の話になるけど
「左様だ」というレスがあったり >>404
>イザナギの宮があったとされる淡路島。
イザナミの宮は博多住吉だから、ゆめゆめ忘れることのないように。 >>400
>>>393
>銅矛じゃない何か
うわー、ナンダローなー
本当に畿内説って、テキトーだな >>410
刃もない突き刺すのも無理な団扇みたいな銅の塊でお前何すんの?
ちなみにあれ棒突き刺すのも穴が小さくて難しいからな? >>151
>(孝霊)また現在の九州説の一番悪い所は単に論の主張ではなく
畿内説より優位になりたい、その一点のみで成立している点ですね。
畿内説は既に九州説を相手にする必要がない事を 認識出来ない(したくない)という点です。
多くの畿内説の場合は北部九州は伊都であり奴国である、 それで説明終了ですから。<
・・・・アホは「放置」する事にしていましたから、
孝霊もssnのオレオレ詐欺も、放置しておきましょうね。」 タイムマシンで崇神の時代に行ってアマテラスについて聞いたら、
「アマテラスって誰?」になると思うよ。 >>416
>1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
纒向は隔絶されていたけどね。
>面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
伊勢遺跡は、畿内というより日本海の出雲などの影響下。
それは筑紫を頂点とする日本海の倭国の文化圏。
のちの畿内に含まれても、当時は纒向とは交流が薄い。 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 伊勢遺跡なんて、筑紫倭国が辺境の纒向よりはるかに強力だったことを示しているだけだというのに。
近くに大きな勢力がない?
そりゃそうだ。
倭国王は筑紫にだけいたのだから。 >>424
畿内で聞くからだろ。
九州で聞いてみろよ。 九州説が言い張る鏡も銅矛も何もかもが九州の衰退を示す道具にしかならないというトンマな話に憐みしか出てこない
卑弥呼が現れる100年も前に九州は既に崩壊して吉備、畿内、出雲、四国の影響を受け続ける土地となり果てている
これが本当の九州の姿 1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 >>416
>神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承かもしれない。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
筑紫からもアクセスがいいのだけれど。
招かれたのは筑紫の倭国王の使いだよ。 >>432
>1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
倭国王に冊封されたのは博多湾沿岸の王だけだよ。
卑弥呼も含めてね。 どのスレッドだったかな
「左様である」と言っている人がいたよ >>154
>二千里も行ったら畿内に着いちゃうでしょ <
韓の方四千里や、狗邪韓国までの七千余里や、3海峡の各千余里の比率からすると、
二千里は、
韓の半分距離であり、各海峡の2倍でしかなく、
それでは、末盧國から大和には全く行けない。 >>163
>それが何の根拠?<
米田が、自説の「大和=列島盟主」説と、矛盾する史料実態を書いた事の、
根拠。 >>165
また、意味不明な言動をする分裂幻覚妄想の・・・・患者が現れた。 左様の何が凄いのか・・・おそらく『左大臣』の事だと思う
『太傅』
>太傅(たいふ)は中国古代より使われた官職名。天子の師。
その左様は何ていう名前なんだよwwwとなるはず >>429
金沢大学の半沢英一氏の著書「邪馬台国の数学と歴史学」を拝読すると、
当時の中国の数理天文学書や数学書を典拠として魏志倭人伝の行程が
極めて合理的に論証されているので、私には半沢氏の九州説が妥当と思え、
魏志倭人伝の記述の南を東に読み変えねばならない畿内説は分が悪い気がする。
第6章 傍線読法の典拠としての中国古代数学
29 『周髀算経』における先行動詞が無い「至」
30 『九章算術』における先行動詞が無い「至」
31 『九章算術』における先行動詞が有る「至」
32 中国古代数学におけるゼロ「無入」
33 中国古代数学の語法で書かれていた倭人伝行路記事
第12章 邪馬台国大和説批判
55 邪馬台国は日本最強の勢力という思い込み@@@@@@@@@@@@@@@
56 大和説の根拠としての『日本書紀』
57 日本の王は天皇だけという思い込み
58 大和説の根拠としての三角縁神獣鏡
59 下賜鏡ではありえない三角縁神獣鏡
60 卑弥呼の墓になじまない箸中山古墳@@@@@@@@@@@@@@
61 倭人伝そのものが否定する邪馬台国大和説@@@@@@@@@@@@@@
62 前史がなかった大和@@@@@@@@@@@@@@@@@
第13章 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国
63 文献から消えた邪馬台国
64 前方後円墳創出に寄与せず、やがて前方後円墳圏に入った九州@@@@@@@
65 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国@@@@@@@@@@@@@@@@ >>169
>客観的主張ワロタwwww zarakokuはホケノ山古墳の布留式土器後世落ち込み説の時も、
「重いから先に落ちる」と言ってて笑った。
本人は何が変なのか今でも気づいてないようだ。<
ホケノ山古墳での布留式土器の存在なんて、最近初めて聞いた知らん話だから、
「重いから先に落ちる」なんて断定する筈もないねえ。
おそらくssnは、・・・・サギシだから、
単に「可能性の指摘」を「断定した」と曲解捏造して、
また嘘つきダマシ宣伝をしているんだろうねえ。 >>442
鬼道や丹についてスルーしてる時点で既にアウト。
私に言わせれば既に矛盾だらけで今のご時世では通用しませんよ。 >>447
産鉄や絹についてスルーしてる時点で既にアウト。
私に言わせれば既に矛盾だらけで今のご時世では通用しませんよ >>423
相手にしないのなら畿内スレにこなければよいだけですよ。
私は他説スレには出張するつもりもないですからね。 騙りは自殺するか、
刑務所にでも入ったほうがいいぞ 倭人伝には産鉄の事になんて何処にも描いてないですね。
また絹自体は巻向でさえ確認済みですよ。
それに北部九州からいくら出土しても
倭の奴国や伊都ですから畿内説の補充にしかならないですよ。 >>452
絹は北部九州から巻向へ伝わったのである
奴国や伊都国は畿内より出雲との関係が深い 謎のチェーンソーのゲームがあったでしょ、
とあるスレに、そのゲームの動画を貼り付けたとき
「よく、こんなゲーム作れますね」
「このキチガイめ!」
と言っている人達がいたけど、
日本の話だとわかっていたという事なのかな >>173
>考古学的な発見を照らし合わせていくと当時の状況は大体見えてくるね
九州は先行して発展して王と呼ばれるような存在が登場するけど、
平原を最後に西暦150年くらいから急激に衰退して崩壊していき
小規模集落に分裂していく
そして逆に広域化した吉備、畿内を中心とする西日本勢力に呑み込まれていきそのままの形で
邪馬台国の時代を迎える <
これまた、(優しそうな言葉使いの)酷い嘘つきダマシの講釈をする・・・・サギシの登場だねえ。
世間の皆様、騙されないようにしましょうね。
そもそも、筑紫倭国は白村江の後まで列島盟主であったのであり、
筑前地域の繁栄は、弥生銀座やハイテク工業地域や「大道や運河」の存在や、
那珂八幡古墳などや平原や銚子塚などの古墳に見られるように、
4世紀前半までが「阿毎氏系の大繁栄」であったのであり、
317年頃に「姫氏の東海姫氏國」系が王位について、久留米付近に遷宮したから、
繁栄中心が筑後に移った、というだけなんですよ。
そして大和は、倭国の別種の旧小国であり、「広域化した吉備、畿内を中心とする西日本勢力」なんて存在しないんですよ。
>史書を見ても一方的な干渉を受けるだけの九州は
一大卒に監視される属国としての倭人伝の姿とピッタリと合致する どこにも謎なんて無いね <
この狂人も、旧唐書などの、
「日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地」
の記載を全く否定抹殺する嘘吐きダマシの・・・・サギシである、
という事になる。 >>447
>>>442
>鬼道や丹についてスルーしてる時点で既にアウト。
>私に言わせれば既に矛盾だらけで今のご時世では通用しませんよ。
鬼道は平原遺跡に見られるような原始神道だろ。
鳥居や八咫の鏡なら、神道の道具が揃っている。
記紀にあるような榊も用いたであろう。 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>459
これで東濃を抜きにして狗奴国に仕立て上げ、纒向と摂津と近江をまとめて畿内とするなどと、時代背景を無視した暴論だよ。 倭人伝における鬼道には神道に通じる要素が殆どありません。
また中国人の書いた倭人伝ですから当然中国人の
当時の価値観、鬼道=初期段階の道教でしょう。
また丹や鏡といえば神仙思想に他なりませんからね。 >>175
>よく九州説が錦の御旗みたいに掲げる鏡等の発掘物も全部卑弥呼の時代から100年以上前の物だからね<
また、
筑紫倭国は白村江の後まで列島盟主であったのであり、
筑前地域の繁栄は、弥生銀座やハイテク工業地域や「大道や運河」の存在や、
那珂八幡古墳などや平原や銚子塚などの古墳に見られるように、
4世紀前半までが「阿毎氏系の大繁栄」であったのであり、
317年頃に「姫氏の東海姫氏國」系が王位について、久留米付近に遷宮したから、
繁栄中心が筑後に移った、
という史料実態を勝手に否定抹殺する嘘吐きダマシが現れた。
那珂八幡付近や銚子塚などの古墳を、
2世紀前半にまで早めようとするんだから、全くの・・・・。
>それ以降は逆に卑弥呼の時代にかけて急激に減少して衰退を示す証拠となってる<
なっていないし、更に久留米付近の筑後に移って、東海姫氏國の倭の五王らに続いた。
>この九州の衰退は倭国大乱の時期にも合致する<
合致しないし、「倭國大乱」もない。
>史書の記述とも整合性が取れてなにも不思議がる必要がないな<
この嘘つきは、客観性と信頼性の高い歴代中国史書群の記録との、整合性も取れていない。 >>452
絹は北部九州から大量に出土するのに関西では殆ど出土しないのはなぜ? また三世紀における祭祀場、巻向といえば
立地的には神仙思想に憧れていた人物が
如何にも選びそうな場所ですからね。
神獣鏡や桃の種が大量に出る点、背後に丹山を抱える点
なんてそれ以外に何があるのかと。
東方へ川を遡った奥には神仙の国がある、そのままですよね。 >>465
>>861 また三世紀における鬼道=初期道教とすると
豊前からは初期の前方後円墳に伝出土三角縁が6種7面、
3世紀中〜4世紀中の導水施設も出土している
豊前との関係を考えない畿内説のほうが聞いてみたいわ
御所が谷の神籠石にも、明らかに導水施設がある
イザナギノミコトの禊にも似た行為が行われてる
それが宇佐神宮 宇佐信仰につながる >>465
邪馬台国の比定地に神仙思想、神仙の国とか言い始めたら徐福伝承
のあるところは全部邪馬台国になるぞ >>464
絹を扱っている一族が集中していた。
もしくは畿内からも今後出るかもしれない、ですね。
どちらにせよ奴国エリアですから別に何の問題もないですよ。 >>179
>また偽書かよ 古田派には学習効果ないな
>>180
>古田一派は偽書を使う嘘つきダマシ<
また、松野氏姫氏系図や風土記をも、
「偽書」呼ばわりしての否定抹殺するのかい?。
通説大和説の「南→東」などの、「都合の悪い史料を何でも偽書だ」として、
曲解否定抹殺するインチキ悪業には、
・・・・だから、止まる所がないなあ。 >>468
その中でも奈良盆地は後々の歴史や卑弥呼候補者の存在、
数々の遺跡から一番相応しいと思いうだけですね。 466
テンプレに質問
>景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
推定した根拠は?
下池山古墳はテンプレでは3世紀末葉と書いてあるが4世紀初〜中頃が定説のようですが?
下池山古墳の絹が高密度絹織物とは誰の説? >>469
>絹を扱っている一族が集中していた。秦氏やな このようなモノが出てきたんだけど
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
別に商売などの話をしているわけではないと思う 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。
畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。
倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。
長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。 >>444
嘘つけ。
おまえは旧ヤフー掲示板で「重いから先に落ちるのであり」と言ってた。
ごまかすなwww 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。 古墳の形式にも序列がある。
双方中円墳>前方後円墳>前方後方墳
もちろん大きさにも序列がある。
大>中>小
もう一つ序列がある。
立地場所だ。
高地>丘の上>低地
纏向古墳群は低地だ。
せいぜい行燈山が丘の上。
したがって纏向古墳群は卑弥呼やその王族の墓ではない。
纏向古墳群の時代、本当の王の墓は高地にあったのだ。
そこは高天原(御所市高天)だ。 >>181
>三雲にやや古い畿内からの搬入土器があったところで<
いや、三雲の庄内は、河内などからの搬入土器にはなっていないの。
河内などからの搬入は、那珂八幡付近への話であり、
柳田の言っている三雲の庄内は、那珂八幡付近への搬入庄内よりも古い、という話なの。
>畿内説にとって説明が付かなくなるものは 何も無いが<
いや、
三雲の庄内が、(纏向とは殆ど交流のない)河内などから那珂八幡付近への搬入時期よりも古い、
という事は、庄内が纏向で発明された、という大和説が否定される事と、
それと同時に、大和や河内の庄内が那珂八幡付近の3世紀末頃と同じ頃だ、という事になって、
大和での庄内の発生時期が3世紀末になってしまって、
これまでの「大和の庄内が2世紀末〜3世紀初頭に始まった」という編年が、
全く否定されてしまう事になるから。 >>481
日本語になってなくて何言ってるのか解らない >>183
>平原で大量副葬があるのは1号墳 それ以外の弥生後期の墓からはそのような副葬品は出ない<
平原は、「弥生後期」ではない。
洛陽晋墓の内行花文鏡と同種類の内行花文鏡が存在するから、3世紀後半の可能性が高い。
>この遺跡群が平原を最後に衰退した姿を見る事が出来る<
衰退していない。
その後も弥生銀座やハイテク工業地域の那珂八幡付近や、
金メッキ鏡の銚子塚などの糸島古墳群があるし、
317年頃の筑後の久留米付近への遷宮までは、倭國の中心であった。
>そしてこの傾向は平原だけでなく九州全体の流れとして現れており九州そのものの衰退と連動している<
衰退していない。
倭國は、白村江の後まで、西日本や列島の盟主であり続けた。 >>184
>1号墓への集中だな それを衰退といった考古学者は誰?<
大和説学者であれ誰であれ、
「1号墓への集中だな それを衰退といった考古学者」なんていないでしょうね?。
>>183の投稿子なら、誰か?を知っていて、言えるんではありませんかねえ?。 >>186
>天孫降臨自体、1世紀に倭人勢力が伊都国に婿入りした話だからな。
三雲南小路遺跡の方形周溝墓。<
天孫降臨は、紀元前200年頃だろうなあ。 >>187
>1号以降ショボいのを 集中と言った人はいない <
1号以降もショボくないく、集中していた。 >>489
まさか布目ってなんだか知らないのか・・・ >>189
>平原の副葬品は50〜150年ごろ 頑張って広く見積もっても180年ごろ<
平原の内行花文鏡は、当然洛陽晋墓の内行花文鏡の影響を受けており、
だから、3世紀後半ごろ。
>それ以降にそのような副葬品は見つからない<
女王は出なかっただけ。
>つまりそれ以降の衰退を明確に示している <
那珂八幡や、糸島の黄金鏡の銚子塚などの繁栄があるから、衰退していない。
>集中とか訳の分からない事言ってるがそれで何の言い訳してるのか意味不明
九州説は頭が悪すぎて反論さえもできないらしい <
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者は、
口先だけで衰退とか、訳の分からない事言ってるが、それで何の言い訳してるのかも意味不明であり、
大和説者は、頭も悪すぎて反論さえもできないらしい。 >>462
>倭人伝における鬼道には神道に通じる要素が殆どありません。
>また中国人の書いた倭人伝ですから当然中国人の
>当時の価値観、鬼道=初期段階の道教でしょう。
>また丹や鏡といえば神仙思想に他なりませんからね。
鏡なら神道だろう。
神社の宝物はほとんどの場合、鏡だよ。
伊勢神宮の神宝も鏡だよ。 >>469
>もしくは畿内からも今後出るかもしれない、ですね。
出てから言えよ。
出ないうちに想像だけでいいのなら、なんだって言える。 >>190
>要は九州は卑弥呼の時代よりもずっと前にかなりハッキリと衰退してるの<
要は九州は、卑弥呼の時代よりもずっと後の白村江の後になって、
かなりハッキリと衰退したの。
>鏡だろうが何を出そうがその衰退を証明してるだけの事でしかない<
平原の鏡は、繁栄の証明なの。
>こんなところに何故邪馬台国があると言い張るのか全く理解できない <
「邪馬台国」なんて存在しないし、
大和は筑紫倭國の別種分家の旧小国である、という事が何故判らないアホなのか?が、
理解出来ない。 『 えっ、万歳は右足半歩前? ニセ「太政官布告」出回る 』
よくわからないけど、凄い情報だよ、何なんだろう >>467
>イザナギノミコトの禊にも似た行為が行われてる
博多住吉の縁起や全国の神社の祝詞を読んでごらん。
イザナギの禊の場所は、筑紫の日向の小戸の橘、現在の福岡市西区小戸だよ。
邇邇芸が降臨して、磐余彦が東征に旅立った筑紫の日向は、福岡市西区から高祖山周辺にかけての、古くは倭奴国、魏志においては伊都国と書かれた倭国の都だよ。
もちろん、倭国女王の卑弥呼も伊都国にいたよ。 >>465
>神獣鏡や桃の種が大量に出る点、背後に丹山を抱える点
魏志に書いていないことばかりだな。
なぜこれが理由になると思うのかな。 その『ワンピース 粉雪』の話じゃないの?チョッパー? >>471
一番ダメダメな候補だよ。
どこに目が付いているんだ? >>476
>元伊勢の分布は中々興味深い。
伊勢志摩のモデルは伊都志摩だろう。
その証拠に伊都から伊勢に八咫の鏡が伝世している。 >>192
>どこが???
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
その後も繁栄してるよw<
ご紹介有難うございます。
凄いですねえ。
早速「お気に入り」に入れておきました。 >>506
九州北部では佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市に水銀鉱床があり、いくつかの丹生神社(いずれも佐賀県嬉野町)も祀られている。
その他の全国の丹生都比売神を祀る神社一覧、つまり水銀朱の算出する地域の一覧
http://kamnavi.jp/ny/nyuiti.htm >>196
>九州は、弥生時代に北部九州が舶載品を独占してるが
畿内に古墳が造られるようになると南部にも行き渡る様になる<
畿内など関係がない。
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
に拠れば、7世紀まで北部九州が列島の盟主であった事になる。 鉱物資源で九州に勝てるわけないじゃん。
無謀にもほどがある。
この時代の畿内は、九州に何一つ勝てない。
もちろん、偉大なる倭国女王である卑弥呼が、倭国体制下であったかどうかも怪しい辺境の奈良盆地、名のなき土地にいたなんてはずがない。 >>197
史料事実を出せず、悪口オンリーでしか、反論出来ないのが大和説者。 >>509
地図にするとこうなる。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置された。 >>514
九州にないなんていうのは嘘だったな。
畿内説は嘘で塗り固められているな。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は旧志摩(しま、嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(三根)、佐賀県神埼郡三根村にある吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖の安永田遺跡(佐賀県鳥栖市柚比町)
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女の室岡・亀ノ甲遺跡(福岡県八女市)
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫国(後の筑前と筑後)に一致する。
筑紫国は、東に同盟国である豊国、南に時に敵対することがある肥国、北は対馬海峡を挟んで韓国、西は海である。 >>510
確かに九州なら石炭は凄いよね
でも倭人伝には記述ないのだがw >>198
>>(卑弥呼)風土記に書かれた甕依姫。<
>今も信仰されていないような人間は卑弥呼ではない。
今も信仰されてない墓は卑弥呼の墓ではない。<
白村江の後の大和の記紀思想などに拠って、
倭國の存在や歴史の抹殺が行われたから。
>箸墓、勝山、平原、祇園山、信仰対象ではないので卑弥呼の墓ではない。<
白村江の後の大和の記紀思想などに拠って、
倭國の存在や歴史の抹殺がなされ、信仰する事も拒否されたから。 >>199
>その独占が崩れたので没落した <
筑紫の「盟主独占」が崩れたのは、白村江の後。 >>200
>時代も状況も無視した「古墳からも財宝が出た」とか言い出す九州説のバカぶり <
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
には6〜7世紀頃まで書かれている。 倭国の存在なんて消されるどころかがっつり記紀にも残ってるのにww >>522
よそ者の征服者が繁栄しても意味ないだろ >>524
神武東征より後の筑紫倭国の歴史が部分的にしか書かれてないんだよ。 >>525
倭国の覇者は常に入れ替わるんだよ。
それが何だ? >>202
>九州に当の卑弥呼時代の物なんて何もないことが露呈していくだけだな
九州説ってなんでこんなに頭悪いんだろうな
そのサイトも訳も分からず毎度持ち出すしいい迷惑だろうな<
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
をざっと見たが、年代比定などは、通説大和説側の人間が造ったものであったらしい、
という事になるんだよ。 >>526
欠史八代、葛城王朝も書かれてないが。
九州しか目に行ってないから歪な歴史観にしかならないのが九州説。 >>206
>三雲南小路 舶載大型鏡、中型鏡多数
↓
井原ヤリミゾ 舶載中型多数
↓
平原1号 ほとんど国産
↓
1号以降 なにもなし 衰退<
鏡だけでも、那珂八幡や一貴銚子塚が載っていたよ。 >>208
>いつも根拠の出せない九州説<
いつも、口先誹謗ばっかりで、史料事実根拠を出せないのが、大和説。 >>520
>倭國の存在や歴史の抹殺がなされ、信仰する事も拒否されたから
はぁ?それくらいで信仰を止めるの?
さすがはヘタレ九州人。
関西ではエビス信仰なんて普通に残ってるけどね。
やはり九州はクズなんだろうね。 >>529
出雲王朝、飛騨王朝、富士王朝などいっぱいあるぞ >>212
>そもそも時代の違う古墳時代なんて言い出したら畿内の中心性が多い隠せないレベルで強まっていくだけだからな
苦し紛れに古墳時代を出してさらに自滅すると言うバカっぷり<
そもそも時代の違う古墳時代なんて言い出しても、
「大和は、白村江の後まで、倭國の別種の旧小国」の、
「倭国の東征や半島渡来流民のおこぼれ頂戴」レベルでの巨大古墳しかなく、
苦し紛れに古墳時代を出してさらに自滅すると言うバカっぷり。 問題は、倭国が九州北部のことであり、福岡が都であったことを隠していることだよ。
倭国が九州北部のことなら、倭国女王卑弥呼がいたのも、当然九州北部なんだよ。 >>214
>鏡がー鉄がーとか言ってるけどそれ卑弥呼の100年前でそれ以降はなにも出てませんから―
ざんねん!<
ざんねんでした、
日田で「金メッキの鉄鏡」が出ている。 >>532
>関西ではエビス信仰なんて普通に残ってるけどね。
なんで畿内説って、ずっと後世のものしか持ち出さないんだろう。
ああ、畿内には4世紀より前にはろくな遺跡がなかったからか。
歴史が浅い地区は浅ましくて嫌だねえ。 >>531
もう畿内スレで小学生レベルの荒らししか出来ない
連中しかいない、それが九州説の現実だぞ。 >>227
>だから、平原時期は一極集中なんだろ? 問題は平原の時期だよ。
平原の時期は諸説あるが、瑪瑙の管玉は半島産で、韓国では3,4世紀に出土していると報告があるから、検証が必要という事だったが、どうなったのだろう。
これ、かなり重要と思うが。<
成程。
>後、鏡についてだが、 方格規矩鏡の内8面は銘文が下や左側から始まっている。
少なくとも後漢末〜三國時代の鏡や模倣鏡や復古鏡にみられる現象。
類似品が中国にあるとすれば技術的に後漢末以降。<
成程。方格規矩鏡でも後漢末以降か。
>おまけに国産の可能性が強いし、独自発展した大型鏡もある。どう考えても200年前後から古くはならんだろう。
さらに新しい可能性は十分にあるから、まだまだ検証が必要<
ご紹介有難うございます。 畿内は明石原人?からの歴史がある
邪馬台国の歴史とは関係ないが >>539
いえいえ九州と違って立派な高天原があり、
そこには3世紀中頃以前の古い墳墓があり、
今も日本最古の神社がおりしてます。
九州と違ってしっかりした歴史があります。
九州に今も信仰されてる墳墓なんて一つもないよね。 ×今も日本最古の神社がおりしてます。
〇今も日本最古の神社がお守りしてます。 中国で出土した鏡で三角縁神獣鏡みたいに年号が入ってる鏡ってあるの? 高天原のルーツは飛騨である
その他の高天原は飛騨の分家なのである 何度でも言おう。
古墳の形式にも序列がある。
双方中円墳>前方後円墳>前方後方墳
もちろん大きさにも序列がある。
大>中>小
もう一つ序列がある。
立地場所だ。
高地>丘の上>低地
纏向古墳群は低地だ。
せいぜい行燈山が丘の上。
したがって纏向古墳群は卑弥呼やその王族の墓ではない。
纏向古墳群の時代、本当の王の墓は高地にあったのだ。
そこは高天原(御所市高天)だ。 >>228
>土器の分布をみるとちょうど伊都国の小さな範囲だけ在地の古い形のまま取り残されている状況になってるのが分かる<
伊都国は、倭奴國が分裂して奴國と別れて出来た(大和と同じ)阿毎氏の一大率の(共立卑弥呼政権下の)軍事的国家であったから。
>倭人伝の記述通り「たったの千戸」の小規模な領域だけの自治を許されて代官に監視されて怯えてる状況が浮かび上がるな<
逆だな。
阿毎氏の一大率の(共立卑弥呼政権下の)軍事的国家だよ。
>そしてそこにはかつてのような王墓はもう出てこないで前方後円墳が作られる<
嘘を付くな。
那珂八幡は前方後円墳であるし、
糸島には、銚子塚の他にも二つ大きな古墳があった筈。
>九州の中心の象徴だった伊都国が惨めに衰退して畿内勢力の象徴たる前方後円墳を作る墓域にされたという歴史の流れが見えるな
倭人伝の記述通りだな<
伊都国も、その後も書紀や風土記にも記録され、隋代には「竹斯國」と記載されて、存続しており、
倭人伝の記載通りに、一大率の国だよ。 □□力夫氏
かなり詳しいけど、何なんだろう、
検索すると出てくる画像(絵葉書)などは、
オークションのものなのかな?
家にあるのは本物の写真なんだけど、
白い服の『市』というのも家
それと広島県の福山市?に親戚が住んでいる >>232
>中国に無いタイプの日本にだけある鏡を良しとするなら<
何をウソ言ってんだい?。
洛陽晋墓の蝙蝠鈕座内行花文鏡は、列島では筑紫にばかり出土しているんだよ。
>それは三角縁神獣鏡も全面的に肯定するという事になるが
そうなるとやはり畿内説を唱えてると同じなんだけど
あなたはそういう事を主張してるんだけどいかがか <
ならんよ。
三角縁は、卑弥呼への下賜鏡ではなく、
呉系の楽浪鏡師らの渡来に拠って、筑紫で造られ始め、
100枚に下賜銅鏡を見て、筑紫では商売にならんので、地方へ行き、
大和の鏡作り神社で子弟に三角縁を教え、
子弟らが大量の粗悪な副葬用の三角縁を造っただけだよ。 上の方でうやむやになってしまったが、
箸墓=ハセハカという説は十分考えられる話。
それは大物主の嫁さんの墓という意味ですよ。
ハセの意味は長谷=長い谷の様子なんて意味で語られてるが、
これは本来は男性器の意味からきてます。
箸墓伝承では大物主は蛇、しかも小さな蛇だと
恥をかかされたあるように、大物主の権威下げが第一目的です。
それは勿論仏教普及の為には邪魔な存在だったという事です。 謎のキュウリの葉…葱の華の写真とか
川崎区に住んでいるよ
と言っている人がいたり >>557
なに、大物主はモモソ姫にちっちゃいとか言われて恥をかかされた
ということか(ありえるな 味間という地名には実は興味深い地名だと思っています。
場所が場所だけに古い地名でアジマだとアワシマやアワジ、
それは蛇信仰の意味にもなりますからね。
またミマともとれるのも興味深いですが、
奈良ではミーさんも蛇の意味ですから。 なぜ、大震災おめでとう^^^^^
と言っている人達がいたんだろう
それと広島?土砂災害があったり >>560
名古屋の北区に漢字は違うけど味鋺があるぞ
蛇信仰なんやな >>236
これはまた・・・・孝霊の投稿ですが、
全くのアホのようですから、放置しておきましょうね。 >>544
>いえいえ九州と違って立派な高天原があり、
高天原は九州ですよ。
>今も日本最古の神社がおりしてます。
最古の定義は難しい。
博多住吉神社がイザナギゆかりなら、紀元前までさかのぼる。 >>239
>中国に無いタイプの日本にだけある鏡だけど
中国鏡としてその存在を認めますと・・・<
始めから認めていないよ。 あと何の話なのか、わからないけど、
かなり前から言われていない?
ニセの・・・を祀っている >>245
>八咫の鏡とかもう誰も見た事もない物を根拠と喚き散らすこの姿
もう説ですら何でもないな <
巨大内行花文鏡とかまで、誰も見た事もないと喚き散らすこの大和説者の姿、
もう説ですら何でもないな。 ニセを祀っている、ニセの壺、掛け軸・・・など
何の話なんだろう
ちなみに家は『猫稲荷』というのがあって、むかーし、その・・・説明不要 >>247
御覧のとおり、孝霊は「南→東」の・・・・でしょう。
放置しておきましょうね。 >>248
>もう意味わからん 九州説って本当に脳みそがおかしいんだろうなぁ<
平原の巨大内行花文鏡の持つ意味が理解出来ないらしい?。
もう意味わからん。
「南→東」って嘘吐きダマシはしているくせに、
大和説者って、本当に脳みそがおかしいんだろうなぁ。 本当に何の話なのか、わからないけど、
家は四国の出身ではないよ >>252
>卑弥呼の時代の物など何もないけど邪馬台国だ<
「邪馬台国」なんて、存在しないよ。
>九州説は三角縁神獣鏡を全面的に認める<
呉系楽浪鏡師らの指導で造った事は認めても、
魏帝→卑弥呼への下賜鏡だ、なんて嘘は、認めないよ。
>なにを言ってるのかわからないだろうが、俺も何を言われてるのかわからなかった<
「南→東」の嘘吐きダマシをするんなら、投稿を止めた方が世の中のためだよ。 倭国は九州北部であった。
そして卑弥呼はその女王であった。
何か反論は? >>254
>>三世紀以前から既に大陸から畿内東海方面へ 中国人は足を延ばしているのは明白ですよ。<
>どこが明白? 証拠は? 本気で意味不明。<
孝霊も、・・・・ですから、放置しておいた方がいい、と思いますよ。 >>564
>高天原は九州ですよ。
どこ?
高い天の原でないとダメだよ。
パチモン出さないでね。
>博多住吉神社がイザナギゆかりなら、紀元前までさかのぼる。
住吉大神所縁ならそんなに古くはない。 悪くは言いたくないんだけど
新興宗教が関係しているのかな?
創価なのか?と
言っている人がいたり >>282
>平原の鏡を無理やり100年ズラそうとしてるから意味不明な事になる<
それが、大和説者。
>それこそ平原の鏡と同じ鏡は中国で比較対象があるんで時代がかなりハッキリわかるんで土器よりも正確な編年が出来るわけで
卑弥呼当時にありえないおかしな遺物になってしまう<
楽浪晋墓の存在する内行花文鏡と同じ模様の鏡は筑紫にしか出土しない。
>平原の鏡は後漢初期の頃の鏡<
平原の鏡は、3世紀後半。
>そしてそれ以後に九州は全体を通して鏡が激減したまま邪馬台国の時代を迎える<
九州全体でも、三種の神器が継承存続していたんだから、鏡は激減していない。 九州にしっかりした高天原がない。
これは九州説自体が根底から瓦解してしまう。
いったい九州説とは何なのだ。
失せろ。 >>284
>無知すぎ 基礎知識からおかしいのが九州説だね <
「南→東」など、大和説者の嘘吐きダマシは、邪悪すぎ。
史料事実を曲解捏造し過ぎるからおかしいのが、大和説だね 。 >>288
>無知だから九州説なんかやってられるんやで<
「南→東」などの史料事実の否定改竄の嘘吐きダマシの・・・・サギシだから、
大和説なんかやっていられるんやで。 信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。
2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。
その王朝の王族たちは神々に変わった。
そして今でも信仰されている。
ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。
ヒミコ、トヨを含め、その神々のお墓は、
今も日本最古の神社が高天原(御所市高天)でお守りしている。
ここが卑弥呼の墓のある場所だ。
https://goo.gl/nq8fJu 高鴨神社はゴリゴリのニッポン会議みたいだな
鴨厨はニッポン会議のDQNだったりしてな 鴨都波神社の主祭神は積羽八重事代主命
つまり事代主は鴨
しかし大国主を祭る出雲大社には鴨は見当たらない 地上世界に在るのは天孫降臨の地
筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(九州の福岡県の日向の高祖山) だから頭の病院に行けと言っているんだよ
『たまごっち!』
というアニメがやっていたでしょ、観ていなかったの? ↑↓ ←→へ行ったり、
戻ったりしていたでしょ
兄も、モレ(仮。弟)も、同じだという意味
頭が悪いんじゃないのか 他の話(回?)は、あまり観ていないから、わからない なぜか、
□□力夫氏の画像のようなストーリーだったでしょ? 南と東の方角間違い論については既に説明済みですね。
大体マツラ国への方角すら書かれてない時点で
倭人伝の方角の信憑性なんて大した意味はありません。
そもそもマツラは四国松山か松江かもしれないですよ。
はたまた河内の松原かもしれませんね。
実はこれらの地名の共通項はマツ、これは後々マツチを意味する物です。 説明しなくても、わかるはずなんだけど
マジックショー?のようなシーン、
たしかトランプで、首を斬る、斬られるような状態になり・・・とか
自作自演みたいな話 >>594
高天原へは往復が可能だから、天上ではなく地上のことなのだな。
兄アマテラスも弟スサノヲも、同じ倭国王なのだな。 なぜか妹と同名の女の子
トランプを首、喉元にあてられ、
キャ〜何やらと言っていたりw
何の話だと思う 古くは奈良をホツマと呼んだのなら、その歴史を伝えるのがホツマツタエ。
畿内の歴史の真実が書かれている。 むかーし住んでいた家に、
謎の刀が飾ってあったと言っていたり
老婆談 ホツマという意味は普通に考えても保津、保都でしょう。
その中心は田原本の保津を指す可能性は高いと思います。
当然保津川はそこに至る川という事になります。
しかも美保津姫という人物伝承までありますからね。
これはヒ、ミホと解釈するのが普通ですよ。 亀岡にも保津川があるな。
美穂津姫。
出雲大神宮。
亀岡なら山を越えたら、三島。 昨日は畿内説の方、
窮鼠猫を噛む状態で、みっともない。
ここは畿内説のスレでしょ。畿内説は他説排除で成り立っているのでしょうか?
畿内説に矛盾は無いのでしょうか? 九州説に疑問を感ずるなら九州説のスレで議論すればよい。
返り討ちにしてさしあげましょう。
ここは畿内説のスレです。お間違いなく。 しかし、畿内説の方が九州説を学習していただいた事は進歩です。
やはり気になるのでしょう。九州説のスレでお会いしましょう。 畿内説は、籠城戦では敗戦濃厚ゆえ
攻撃に転じたつもりでしょう。
ならば、このズレで他説批判は戦場違い。 >>297
>あのね、技術の問題。
順番的に中国の方格規矩鏡の模倣が国産方格規矩鏡なんだよ。
その国産方格規矩鏡に後漢〜三國期に出土する方格規矩鏡の特徴があるわけ。
方格規矩鏡は三角と違い、中国で出土が確実な鏡。
だから、平原の方格規矩鏡は以前は中国鏡と言われていたのだよ。
柳田の細かい銘文検証や、鉛同位体比の研究で国産ではないか?と言われているが、まだ確定ではないのも事実。
楽浪産の鉛が使われている可能性が高いため、楽浪産の可能性もあり。
紀年鏡がその年代に作成されていたか?は別の問題だろう
紀年鏡も新井氏によれば国産の可能性が高いらしいし。
今回の話と同列に語るなら、中国の魏で方格規矩鏡や三角の紀年鏡の類例はまずあるのか?という話になる<
ふーん?、成程。
凄い内輪話ですね。 >>611
ここで叫ぶのはいいが、
九州説のスレでは論じてください。
時々、荒らしてますね。(笑) >>301
>>丹山は九州にいっぱいある<
>そんな戯言は、九州説しか通用しないんですよ。@阿波<
丹山が、魏使らの通り道の近くにあれば十分なんですよ。
それに、阿波説も、「南→東」の嘘吐きダマシの戯言であり、
嘘つきダマシの大和説ら同士でしか通用しないんですよ。 畿内説の方は
テンプレに従い書きこめば良い
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう 丹でしか盛り上がらないのか畿内説と阿波
阿波は、畿内より物証が多いから丹だけで盛り上がらなくてもいいよ。 テンプレがくだらなすぎて機能していない。
引用する価値がない。 >>308
>同じ事 方格規矩四神鏡は後漢初期から中期の鏡 内行花文鏡ももっと古いタイプ<
ウソだな。
方格規矩鏡は知らんが、内行花文鏡は、洛陽晋墓からも出ているし、それと同じタイプが筑紫からばかりでている。
>模倣したというのなら「当時に無いもの」を模倣したことになる
当時の物の模倣だというのなら言うような文字列の癖のある当時の方格規矩四神鏡が必要になる<
中国でも日本でも、類型や多型例は当然沢山あった訳で、
「当時に無いもの」とか「模倣」とかの決めつけが有り得ない事になる。
>で、当時の中国に無い物を模倣したと言うのなら三角縁神獣鏡も当然認めることになるという理屈になる<
三角縁神獣鏡は、洛陽ではほぼ出土せず、呉系である事もはっきりしており、
だから、魏帝の下賜鏡100枚では有り得ず、
呉系の楽浪鏡師らの渡来があった、という事しか起こり得ない。 >>1
✖纒向が女王の所都
機転をきかせろよ、天理市田部町柳本町あたりも入れないと筋が通らない。
テンプレの記述にも合致する。天理市と桜井市は仲がわるいか。
縄張りを分けているとしか思えない。・・・考古学の風上にもおけん奴ら 黒塚古墳(天理市柳本町・・・・纏向と目と鼻の先)
国指定重要文化財)
銅鏡 34面
鉄製品 210点
土師器 3点
近辺(同じく天理市)
行燈山古墳 (崇神天皇陵)
渋谷向山古墳 (景行天皇陵)
西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵) >>608
あるなら指摘してみれば?
どう言う中庸ばかりじゃ何時迄も畿内説に歯が立たないよ >>317
>そしてなぜ貰った墓に本物を副葬してないのかという問題が出る<
卑弥呼は、地方の王らに分配もし、近親的な部下には鏡片にして下賜もし、
余った物は、一部は祇園山に副葬し(盗掘された)、
更に余ったものは、次の倭王に託した、と思われる。
>そしてなぜ貰った墓に本物を副葬してないのかという問題が出る<
祇園山は盗掘された。
>「配った」と言うのなら「同型の」鏡が邪馬台国の勢力圏の「広い範囲」で見つからないといけない<
当然「同型」とは限らない。
>邪馬台国の範囲を最小に見積っても九州全域で レプリカで良いのだからそれこそ各地で大量に見つかってもおかしくない
が、見つからない<
内行花文鏡も、方格規矩鏡も、鏡片もも、筑紫付近から一杯でる。
>そうなると貰った鏡はどうしたのかという話になる<
上述。
>つまり邪馬台国時代の墓だったとしても鏡なんて貰ってなかったのではないかと言うほかない<
分裂幻覚妄想。
と言うほかない 大阪側から見た高天原(御所市高天)
左が葛城山、右が金剛山。
https://goo.gl/2KWQbe
綺麗な台形状になっている。
この麓から大和朝廷は始まった。 西殿塚古墳・・・3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定
1876年(明治9年)、手白香皇女の陵に治定
モモソの墓は西殿塚古墳
西殿塚古墳は早くから手白香皇女の陵と比定していたので、箸墓をモモソと当てはめるしかなかった。
何の問題も無い説
本古墳の真の被葬者については卑弥呼(箸墓古墳被葬者)後継者の台与(西殿塚古墳)
⤵・・・・・逆も成り立つ
本古墳の真の被葬者については卑弥呼(西殿塚古墳被葬者)後継者の台与(箸墓古墳被葬者) >>622=>>626
別に天理市を所都に入れなくても纏向遺跡で十分。
天理市独自で市内に王都が有ったと主張すればいいだけだ。
到底 纏向には及ばないし、誰も賛同しない。 其国には男王がいて7〜80年続き倭国大乱、そして卑弥呼擁立だから
邪馬台国を考える時、それは2世紀について考えねばならない。
その時点で3世紀から始まる纏向遺跡は関係がない。
3世紀後半から4世紀の畿内の古墳に中国製の小札革綴冑が出るということは、
中国と通交してた主体が畿内であり、
時期的に台与の朝貢時に入手したとしか考えられないので、
邪馬台国論争は畿内で結着なのだ。
では畿内の2世紀を考えねばならない。
それは銅鐸の時代である。
卑弥呼とは銅鐸族である。
おそらく倭国大乱で「仕方なく」鏡祭祀を受け入れたのであろう。
畿内で銅鐸族とは一つしかない。
神族だ。
彼らは後に崇神によって滅ぼされる。
ゆえに朝廷は彼らを神とは呼ばない。
「鴨」という字を当てた。
卑弥呼とは鴨族である。 これが卑弥呼と同族である神族の居住地。
https://goo.gl/C85mDE
ここだけではない。
思いつくまま神(カモ)族と関わる名称(地名・人名)
カモ (鴨・加茂・賀茂) 蒲生「滋賀県・伊勢遺跡」
カミ (神)
カン (神) 神原 蒲原 神門(カンド)
カム (神)
コウ (神) 神於山「岸和田」
クマ (熊・隈)
ミワ (三輪・美和・三和) 上神谷「堺市」(旧名ミワダニ)オオタタネコの出身地か
ミ (三) 三河 三ケ日
オオ (大・太・多) 太田 大田 多田 大野 大谷 大原
タダ (多田) 御所市 川西市
スガ (須賀 阿須賀)須賀神社「茨木市」須賀神社「和歌山太田」
クシ (櫛 串) 櫛羅(御所市・旧名クシウラ〉 久代 >>617
>丹でしか盛り上がらないのか畿内説と阿波
九州は丹さえないですからねwww @阿波
>阿波は、畿内より物証が多いから丹だけで盛り上がらなくてもいいよ。
九州も畿内と同じで物証がないですね。 お裾分けしましょうか? @阿波 >>628
何を言ってるのかワカラナイ。
倭国には男王がいて7〜80年続き倭国大乱で政権崩壊。
そして皆が卑弥呼を擁立したんだから彼女がいる場所はどこ?
どこだっていいよね?
3世紀から始まる纏向遺跡で何の問題があるの? >>622
三角縁神獣鏡 実は、これは倭国(阿波)で作られ、全国へ拡散していったんですよ。
この事実、ほんとうは知ってるんでしょ? @阿波
気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が赤塚古墳(大分)、岡山(鶴山丸山古墳)
京都(内里古墳)、奈良(黒塚古墳)、群馬(天神山古墳)で出土していますね。 >>627
纒向を否定してるわけでない、王都は天理市南部も含むのではないかとい言う意見だ。
これだから、桜井市教委は周りの市町村から嫌われるのだ。
奈良県立橿原考古学研究所も桜井市教委や桜井市纒向学研究センター はスタンドプレーが多いと思ってる。 >>326
>邪馬台国抜きにするとなかなか面白い話になるな。<
「〜部」は、縄文出雲王朝時代からの、家臣が分担する仕事に拠って名付けられた呼称であり、
だから、当然、出雲を中心に広範囲の地域に関わっており、
「国譲り」戦争で、物部の主人は筑紫の天孫族に移ったんだし、
その後の?姫氏の高良大社の神職家にも、物部の名前が入っているから、
物部は、九州倭國王朝内でも、トップクラスの豪族になっていた。
当然 >>631
おまえが分らない。
>どこだっていいよね?
どこでもいいことはない。
台与がいたのは畿内。
3世紀後半から4世紀の畿内の古墳に中国製の小札革綴冑が出る。 神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
※銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
※辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、こことここ。 邪馬台国を考える時、それは2世紀について考えねばならない。
纏向遺跡は3世紀から。
したがって除外。 古墳の形式にも序列がある。
双方中円墳>前方後円墳>前方後方墳
もちろん大きさにも序列がある。
大>中>小
もう一つ強い序列がある。
立地場所だ。
高地>丘の上>低地
纏向古墳群は低地だ。
せいぜい行燈山古墳が丘の上である程度。
したがって纏向古墳群は卑弥呼やその王族の墓ではない。
纏向古墳群の時代、本当の王の墓は高地にあったのだ。
それは高天原(御所市高天)だ。 >>630
何回出てるけど辰砂は関西、四国、九州と鉱脈が続いてるから根拠にならんよ、学習能力がないなw
それよりも卑弥呼は魏から50斤もの水銀朱を貰っている、この中国産の水銀朱が出土が重要。 >>601
>高天原へは往復が可能だから、天上ではなく地上のことなのだな。
地上世界から高天原へ誰か登った??? 桜井市の考古は寺澤に乗っ取られた。
纒向の調査報告も桜井市独自で、何が正しいのか何が間違いなのかさっぱりわからない状況。
第三者機関を入れない。都合のいい奴ばかり集めて調査報告。
ゴッドハンドが出なければと心配している。 >>639
>何回出てるけど辰砂は関西、四国、九州と鉱脈が続いてるから根拠にならんよ、学習能力がないなw
そんな戯言は今の時代、通用しないんですよ。 考古学は残酷ですね。 @阿波 一言主
『古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。
460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、
紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。
一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、
その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これはどういう事だ。
つまり天皇家以前の前王朝の事であろう。
卑弥呼はそこにいた。
其国に7〜80年続いた男王もそこにいた。
葛城王朝なのだ。
分ったかアホども。 >>639
>それよりも卑弥呼は魏から50斤もの水銀朱を貰っている、この中国産の水銀朱が出土が重要。
あ、それ、萩原墳墓群と天河別神社古墳群で使っちゃってますね。 阿波にもいっぱい有るのにね。
流石に魏朝も阿波に丹山が有ることを知らなかったんでしょう。 @阿波 神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
※辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
※魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、こことここ。 >>643
古事記・日本書紀の記述に間違いがないとするのが葛城王朝説ですが、
神話と現実の違いが曖昧です。また物的な証拠や記録はありません。
推理小説の世界で考古学というより文学の範疇でしかありえない現状です。 >>641
中傷にかまけてる限り九州説に未来はない >>633
桜井市教委が周りの市町村から嫌われてるという根拠は? >>649
魏志倭人伝の真朱は真珠の書き間違いですね
初心者以外は皆知ってますw 台与が朝貢した白珠が今の真珠で、魏が下賜した真珠は違うものなんじゃないの? 白珠は真珠じゃありません
白い石に穴を空けたもの。 倭人伝では
出真珠青玉とあるから、
献上した白珠五千孔青大句珠二枚は
この場合、白珠は真珠の可能性が強いかな やっぱ数量の呼び方から考えて、魏の真珠は朱の事で、台与の白珠がパールの事なんだよ。 古代にパールはムチャクチャ貴重品で、それを5000粒も提供するとは台与もやるなあ。
朝貢と下賜は力を見せ付けあう場でもあったんだろうね。 魏が特別に女性の卑弥呼に贈ったのは淡水真珠ではないかな
https://zhongyibaike.com/wiki/%E8%A0%99%E7%8F%A0
倭人は辰砂をおしろいのように使ってるから
真珠は粉にしておしろい、鉛丹はオレンジ系口紅、頬紅あたりだろう
中国の女性はこういう化粧でおしゃれをするあるよと
で台与は倭地には美しい真っ白な真珠が採れるのよ、あははーと >>632
鏡作神社が奈良盆地にある時点でもう答えは出てるよ。 天然パールは真珠貝数万個に一粒しか採れんのよ。
今の百倍の価値があるものなんだよ。
やっぱ、お互いに力を見せ付けあってたんだよ。
魏もけっこう無理している希ガス。 力の見せつけあいという考え方は正しいと思います。
真珠(朱)等の表記は中国側の思考がみてとれますね。
また鉛丹は名のままで水銀朱ではありません。
用途とすればこれは仙薬としてしか使い道はないでしょう。 >>664
それに加え、文脈からしても鉛丹と同列に記載してあるから、真珠は真朱でしょうね また台与の贈った中に丹、丹木?とあるものに関しては
丹塗りの木、もしくは赤珊瑚を加工した物というのが
今のところ結論ですね。 北部九州は輸入と考えられている水銀朱は卑弥呼の遣使よりはるか以前から出るから
輸入辰砂は比定の根拠にはならないね 赤サンゴだろうな。
宝飾品ばっかり。
魏の人もさぞかし喜んだだろうな。 珊瑚は当時の文献資料にも該当する文言が中国側にはありませんからね。
形的には丹木と表現した可能性はあるでしょう。
今後お宝として出土するようなら可能性は高いと思います。
また赤珊瑚自体も神仙思想では付き物でして、
乙姫の玉手箱を始め必ずお宝として出てきます。
また今も高値で取引され中国人の乱獲が問題になってますよね。 >>680
そのために「畿内」説にしてるからwww 日本近海の赤珊瑚は水深100〜300メートルの海底に棲息しているらしいんだが >>677
中国朱が存在する&朱文化が確立しているぶん、九州説が多少有利なだけかな
魏から貰った「真珠」が「真朱」ならば、という条件付きだし
これだけを根拠として扱うには薄弱なのは否めない >>686
魏からもらわなくても手に入るなら有利でもなんでもないし >>685
稀に四国や紀伊半島南岸に流されてくる物はあるそうだよ。
竜宮の乙姫のモデルが台与=百襲の瀬戸内海時代かもね。
音戸姫、オトヨヒメ、ホトヒメとか。 >>663
初心者の方なようなので説明しますと
真珠は養殖技術が確立するまで大変な貴重品で
真珠数粒でエンパイアステートビルが買えるくらい貴重だった
天然真珠を五千もて集めるには何百年もかかっていた
白珠は白い石を珠に加工して孔(穴)を空けたものと考えらえている。 正倉院に4000個以上保管されてるくらいだから
何百年もかかるってことはないだろ 晋帝が一番嬉しかったのは台与が贈った青大勾玉だろうね。
今も中国人にとって一番の宝石はヒスイだし。
晋帝の陵墓の中に台与のヒスイの大勾玉があるかもな。 ヤマトトトヒ、トトヒとは魚を意味するのかもしれないよ。
これは魚を伴って船を進めた神功天皇の逸話とも被る部分ではあるが。 さすがに真珠でエンパイアビルは買えんだろw
一粒、数百万円くらいの値打ちはあったとは思うけど。 >>686
朱を産出してない九州が有利になるわけない 弥生時代の奈良で朱の痕跡のある
遺跡は2つしかない。
福岡は45ヶ所の遺跡に朱の痕跡がある しかも奈良で朱が出た二ヶ所のうち
一か所は棺に粉のまま詰められていた。
使い方がわからなかったっぽい。 北部九州は遼寧式銅剣や粗文鏡、燕の鋳造鉄器片が入ってきてるくらいだから
吉林省あたりでプラスの同位体比の水銀朱が採れたんじゃね >>695
朱の精製跡ならもっと古く縄文時代から吉野方面にありますよ。
また紀伊半島には弥生時代を通して伊勢から
内陸部にかけて点在してます。
また精製跡自体は鍵唐古等にもありますね。
また天神山では水銀朱のみが古墳主だという事は、
それ程の価値だという事に他ありませんから。 それにしても『ヤクザ天狗』と『羽黒』?
確実に繋がっている むかーし住んでいたことがあるんだよ
というところでしょ
伊達郡・・・猫稲荷? >>694
おいおい、どこに朱を産出すると記載がある?
産出するのは、真珠と青玉だよ 刑務所のことが書いてあったり、
おそらく『羽黒刑務所』の事だと思う >>703
「其山有丹」倭の山に丹(水銀朱、鉛丹、ベンガラなど赤色鉱物)があると言ってるだけで
朱を産出するとの記載じゃない、採掘してるとも書かれてない。 >>704
産物を述べた節で有ると書いてあれば
産出してるって意味だよ
こういう非常識な曲芸読みで辛うじて存在してるのが九州説だな 都合よく妙な解釈したところで後々自分の首絞めるだけなのに
九州説の悪しき伝統だね。 >>704
出青玉は硬玉ヒスイだろ
九州のどこで採れるんだ? 記紀の崇神天皇のところを何度も読めば、誰が卑弥呼で誰が台与なのか、
分かるようになってるのな。
二人は分からないように崇神天皇に埋め込んで隠したんだね。 記紀の崇神天皇のところを何度も読めば、誰が卑弥呼で誰が台与なのか、
分かるようになってるのな。
二人は分からないように崇神天皇に埋め込んで隠したんだね。 謎の伊達郡という掲示板
「昔は良かったんだけどねえ」
「裕福な暮らしをしていた」
あのガンダムの話じゃないの? 猫稲荷?
むかーし、そこに住んでいたんだよ
と言っているし
何か知っている人がいるのかな
老婆「むかーし結婚した家があるんだけど、
たしか香野とか言ったよ」 戦争をしているときは、
そっちの家に疎開したんだよと言っていたり 679 : 孝霊厨2017/07/02(日) 10:48:32.45
珊瑚は当時の文献資料にも該当する文言が中国側にはありませんからね。
⤴
あほかいな。当時の日本に文献が無いのは当たり前だろ。 >>631
>そして皆が卑弥呼を擁立したんだから彼女がいる場所はどこ?
>どこだっていいよね?
よくねえよ。
場所が違って王統が違ったら、そんなものはもう倭国ではない。
魏は後漢から冊封された倭国の正統とは認めない。
少なくとも、場所と王統のどちらかは、博多湾沿岸の倭奴国から連続していないと。
そもそも3世紀の畿内なんて、畿内としてのまとまりがない。
特に纒向なんて何にもない田舎。 >>718
>そもそも3世紀の畿内なんて、畿内としてのまとまりがない。
それ、なんか根拠があって言ってるのかな?
それとも、いつもと同じアテズッポ?
????? >>717
バカだな、当時の中国でも珊瑚という文言が存在しないから、
赤珊瑚を丹木と表現したという事だろw >>718
纒向には有りますが?
当時最大の墓
当時最大の大型建物
当時最大の運河 >>723
トンデモ説の年代繰り下げ工作に
根拠皆無
wwwwww 今どき素人じいさん達はまだ
弥生時代を100年繰り下げようと
醜く足掻いてるんだね 魏志倭人伝の方角が45度ずれてる理由を思いついたぞ
当時は地磁気が今と比べて45度ほどズレてたんだ多分 >>726
確かに説文解字には珊瑚の文言がある。
ただ珊瑚にも種類があり、日本産の血赤珊瑚なんて
見た目は丹の木そのものだからね。
真珠と共に日本特有のお宝として検討されてよいはず。
また興味深いのは説文にも珊瑚の説明に海、又は山に生えるともある。
散文の再編集については参考にならない。
あれ仏教、ブッタについての記述まであるしな。 >>722
鉄の空白地域
銅製品も僅か
北部九州の土器も僅か
ホケノ(布留0)より前の3世紀前半は特に厳しい
ホケノ後を語るならまだわかるが、それでも北部九州との関連は希薄としかいい様がない 神代という概念が記紀編纂の7世紀に創られたものですね。
出雲と筑紫で硯が見つかり、弥生時代には文字があったことが確実になりましたから、
その時代からの王統は正しいと言えるでしょう。
スサノオ、大国主、ニギハヤヒと聞くだけで、
「それって神話だし、そんな人物など実在しない」などいう人が多いのでしょうが、
むしろその発想こそ古臭いわけです。
実際は、実在した人物を神話化したのです。 黒塚古墳(天理市柳本町・・・・纏向と目と鼻の先)
国指定重要文化財)
銅鏡 34面
鉄製品 210点
土師器 3点 >>734
邪馬台国や卑弥呼と関係ないけどお宝がいっぱいでてよかったね >>327
>復古鏡には復古かの特徴があるんだよ<
当たり前の事。
新しい鋳型版を造った限り、以前の古い鋳型と100%一致する筈がない。
>平原の鏡には古墳時代の復古鏡にあるような特徴が無いの<
何を言いたいのか?がよく判らんが、
平原の内行花文鏡も方格規矩鏡も、新しく造ったものである限り、
古い内行花文鏡や方格規矩鏡の鋳型と100%一致する筈がない。 >>329
>新井はメチャクチャだろ 専門家でもないし<
自然科学の学者であり、大学の教授であった筈であり、
古代史においての自然科学的な検証では、信頼性があるよ。
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者よりは・・・。 「人の家の話じゃないのか?」と言っている人がいたけど、
我田引水のような事をしていた人がいたのかな?まだいるとか >>639
>それよりも卑弥呼は魏から50斤もの水銀朱を貰っている、この中国産の水銀朱が出土が重要。
平原遺跡じゃん。
大量に使われていた中国産の朱が墓から流れ出ていたので発見された。 >>738
定年まで大阪の冶金会社にいたOBでしょ >>734
これを纒向に含めていたら、畿内説の相当有力な物証だったんでしょうね。 >>330
>ニギハヤヒを2世紀後半と仮定すると前方後円墳はもっと古い。
東瀬戸内の讃岐あたりに突起付の円形墳丘墓ができるのはもっと古い。<
「ニギハヤヒを2世紀後半と仮定する」という事が、始めから✖。
饒速日は神武と同時代になるんだから、紀元前1世紀の初めの人になる。
>ニギハヤヒの墓がどこだと聞かれればずばり楯築遺跡だと思う。
双方中円という形式は前方後円墳より格上だ。<
史料根拠がないから、これも分裂幻覚の妄想レベル。 自殺するか刑務所に入るか
選んだほうがいいぞ
『位置が来る』ググってみて >>743
>「ニギハヤヒを2世紀後半と仮定する」という事が、始めから✖。
>饒速日は神武と同時代になるんだから、紀元前1世紀の初めの人になる。
倭国大乱の前の男王70〜80年が伊都の日向三代であれば、神武は2世紀の倭国大乱中なので、ニギハヤヒがその少し前で良い。 >>334
>繰り返すが、ホケノ山古墳の6世紀末の14mの横穴石室を造ったのは、
あの時代に桜井を領地にしてた物部守屋かその次世代。<
確か、ホケノは、別の古墳と重なっている部分があり、
そして、ホケノは、その重なったうちの古い方であった、という記憶がある。
>つまりホケノ山古墳被葬者は物部の祖伸。
わしはウマシマジかヒコユキだと思う。<
ホケノの被葬者は、楽浪の画文帯の形式との類似があったり、有棺有槨であるから、
楽浪からの渡来部族である、という説があった筈。 『位置が来る』ググると写真の話が出てくるでしょ?
家の先祖と同じような写真を持っている人がいるのかな >>345
>大和盆地全体がヤマト=邪馬台国なので問題なし。<
「邪馬台国」なんて存在しないんだから、問題大有り。 >>354
>>まず大倭ならそのものですしね。<
>大倭は畿内と九州が合流した後の呼称でしょう。 もっとはるかに後世のもの。<
古事記の欠史八代に、
懿コ天皇=大倭日子鉏友命
孝安天皇=大倭帶日子國押人命
孝靈天皇=大倭根子日子賦斗邇命
孝元天皇=大倭根子日子國玖琉命
のように、倭人伝に書かれた「大倭」職の称号が冠せられ、
国生み神話でも、「大倭豊秋津嶋」の「大倭」が冠せられています。 頭の病院に行ってきたほうがいいぞ、
その天皇というのは何のことなんだ 天王も天皇も、日本の話(存在)ではないはず
どういう話なの? >>362
>古墳の形式にも序列がある。 双方中円墳>前方後円墳>前方後方墳 <
前方後円墳と前方後方墳も、モンゴル〜高句麗方面に淵源があった筈。 >>365
>>魏からもらった鏡をスクラップにして改鋳したという意味ならオケ<
>それは100%無理 鉛同位体から言って原料が魏鏡ではあり得ない <
倭國が、銅や鉛などの材料が確保出来ないなら、
それまでに中国からの各種の鏡を溶融するか?、
銅剣た銅矛や銅鐸を壊して溶融するか?、
呉系楽浪鏡師らから材料銅を分けて貰うしかない。 >>366
>九州説は非科学的だな<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者らは、皆、
非科学的で、非論理的だな。 >>368
>纒向では鉄器が使われてました 砥石が見つかってます<
魏使らが目撃出来る位、大量か?の問題。 >>380
>「イフヒキ」か「オフヒキ」が祖先だったなんてヲワケさんは自慢しません。<
稲荷山の鉄剣は、主葬ではなく、主葬の横の陪葬墓から出土したので、
だから、主葬のような盗掘を免れていたから発見されたのであり、
だから、鉄剣の主の乎獲居は、稲荷山の陪臣の身分になるから、
大和王家の目上になるような人物の「大彦」の家系である可能性は、
非常に低い。 >>734
>黒塚古墳(天理市柳本町・・・・纏向と目と鼻の先)
国指定重要文化財)
銅鏡 34面
「宮谷古墳」は徳島市国府町と名西郡石井町の境界をなす気延山の東に延びる気延山古墳群の盟主的な前方後円墳
副葬品では、棺内から重圏文鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄鏃、鉄鉾(軸身系)、板状鉄斧、やり鉋など、
棺外から鉄剣などが出土している。前方部からは「張是作」銘の「三角縁銘帯六神四獣鏡」、「三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片」、「三角縁神獣鏡片」の三面が出土している。
この内、「三角縁銘帯六神四獣鏡」は、「京都府八幡市内里古墳」、32面の三角縁神獣鏡が出土した「奈良県天理市黒塚古墳」などと同笵あるいは同型である。 @阿波 >>762
一方、「三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片」も「大分県宇佐市赤塚古墳」などに同笵あるいは同型とされるものがある。
また、「三角縁神獣鏡片」も「群馬県の天神山古墳の三角縁獣文帯五神四獣鏡」と同笵とされている。 @阿波 >>690
そうか
現存しているものでそれだけなら、
真珠5000孔は妥当だな ほとんど後付けの話
天神とか何やらというのもそう、
頭の病院に行ったほうがいいぞ 天神?
当時からそのような用語、
コトバを使用していたの? テンノウというコトバもそう
先住民(原住民)は使用していたの?
真の紛いもの?
あの曲を聴いてみたほうが良い
それと謎のチェーンソーのゲーム
敵の台詞「渡来人どもめ〜」と言っているから >>753
>古事記の欠史八代に、
欠史八代を根拠にされましても。 >>764
正倉院の宝物真珠は4158個あるとあるな
全て海水産でアコヤガイのもが多い
丸くなくて歪な形で小粒・・・天然真珠の特徴
礼服御冠に3830個だって 倭から魏へは真珠、魏から倭へは朱が送られたと。
そしてその朱は主に九州北部で消費されている。
代表が平原遺跡。 そもそも、どこから拾ってきた話なんだ?
と言っている人がいたでしょ 後付け、背乗りというやり方と同じ
「どこから拾ってきた話なんだ?」
『位置が来る』この台詞を読んでみて >>385
>>(佐々木氏?)三雲の庄内の存在も隠そうとしたり、しているから、
>してねえわwww 畿内Xが出る事まで言っておられるのにwww<
その畿内Xが纏向の庄内のXであれば、ダメだよ。
佐々木氏は、河内と纏向とが断絶的である事を言っていたし、
河内と纏向の庄内の那珂八幡への搬入よりも、三雲の庄内の方が古いんだから、
三雲の庄内が一番古くなる事には変わらない。 記紀で崇神天皇がやった事は実はほとんど卑弥呼と台与がやった事だろう。
崇神天皇の中に二人を織り込んで隠したのである。 ゴーストライターも同じような意味だと思う
コピー、複製も同じ
同じようにしか見えない、
聴こえないと言っている人がいたり >>386
>どうして当時の中国人の感覚なら銅矛なんだ? 戦国時代かよ<
魏の使節らの実地での観察記録であり、鉄の話は、鉄鏃だけを特記しているから。 魏から倭へは真珠、北部九州沿岸だけで5千個の真珠集めるのは無理だな >>387
>平原の鏡はそもそも形式がバラバラ
中国に存在しない銘を持つ物までもが含まれていたりもする
貰った鏡を複製するなら同じ形になるのが道理<
寸法が全く違う鏡があるんだから。複製など、別にしていない筈。
>何故ここまでバラバラなのかという問題がある
そして貰ったならその鏡はどこへ行ったのか
複製でも何でもいいから配って回ったというなら少なくとも平原を中心に大量に発見されてしかるべき
だがそれが無い<
筑紫には大量に出ている。
>平原を卑弥呼の墓とするのは無理があるとしか言いようがない <
平原が、(卑弥呼の墓ではなく)壹與の墓であれば、何ら無理はない。 信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。
2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。
その王朝の王族たちは神々に変わった。
そして今でも信仰されている。
ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。
ヒミコ、トヨを含め、その神々のお墓は、
今も日本最古の神社が高天原(御所市高天)でお守りしている。
今日も見ていただきましょう、これがヒミコのお墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ 『猫神やおよろず』
この作品に登場するキャラクター >>395
>鏡の話にも通じるが「九州=銅矛」と思ってる人が多いけど、邪馬台国の頃には銅矛祭祀は既に消滅してる
武器どころか祭器としても終わってる <
魏志には、鉄材の記載は「鉄鏃」しか書かれていない。
という事は、矛は鉄矛ではなかった。
>九州は150年くらいからその中心性の象徴だった銅矛や甕棺、鏡を急激に減らして程なくして消滅させている<
「150年くらい」という年代設定がそもそもインチキ。
祇園山や平原や那珂八幡や糸島の銚子塚などの古墳もある。
>平原にもない<
筑紫には、楽浪晋墓の内行花文鏡と同様の鏡や鏡片が大量に出ている。
>九州説がやたらと言い張る鏡も矛も追っていくと九州の衰退を明確に示す証拠にしかならないという話
ちょうど大乱から卑弥呼の時代にかけてそれが示される事になる<
なっていない。 >>401
>ちなみに中国人の言う矛は槍の事<
中国人は、矛と槍を区別していた。 >>404
>倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。<
「南→東」の嘘つきダマシのサギシ。 >>407
>でも九州の兵隊は祭祀用の銅矛で敵を殴って戦うんだろ?<
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」で戦い、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」したの。 >>413
>>中国南部の文化である銅鐸。いや文化というほど発展してないし。
わずかにルーツの痕跡らしきものがある程度だ
だから銅鐸は日本の固有文化と言っていい。
朝鮮小銅鐸でさえ佐原さんの編年では最古ではない。<
Yahooの掲示板での「ミハイル」という人が、「鐸」は、
騎馬の馬に付けていたものだから、
ルーツは騎馬民族だ、と言っていたよ。 >>780
魏から倭へは50斤(約11s)ですから真朱(水銀朱)ですね
天然真珠は1粒0.1〜0.5gくらいでしょ
0.5gとしても50斤だと22,000粒以上
正倉院にある宝物に使われてる全真珠の6倍以上の量になります
魏から倭への50斤の真珠は真朱(水銀朱)のことですね。 高天原とは須弥山であり天皇は須弥山から下った仙人であるという設定
三角縁は須弥山を中心としたこの世を俯瞰した世界図であると言うだけ
釈迦を須弥壇に祀るのと同様前方後円墳に天皇を祀ったのだ
前方後円墳の分布は道教を受け入れた地域というに過ぎない >>793
素晴らしい。
地球が丸いと知らなかった時代だしね。 >>791
だから何だ。
祭器、神器にまで発展させたのは日本人だ。 白珠は真珠じゃない
白い石を珠に加工して穴を空けたものが妥当で
天然真珠のクズみたいな真珠を白珠とは言わないでしょうね。 >>429
>九州説が言い張る鏡も銅矛も何もかもが九州の衰退を示す道具にしかならないというトンマな話に憐みしか出てこない<
衰退していない。
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
ですら、まだ一部分でしかない。
>卑弥呼が現れる100年も前に九州は既に崩壊して吉備、畿内、出雲、四国の影響を受け続ける土地となり果てている
これが本当の九州の姿<
卑弥呼の100年後頃まで、福岡平野〜糸島が中心。
その後久留米付付近に遷宮して、東海姫氏國が始まった。
これや、
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
が本当の九州の姿 >>785
>古田武彦
誰ですか、演歌歌手?
演歌歌手が古代史を語らないでほしい。 >>785
いまだに古色蒼然の九州王朝説とは、まったく呆れかえる
典型的な偽書の類だ >>798
もう、そんな戯言が通用する時代じゃないんですよ。 @阿波 古田武彦よりID野球の申し子・古田敦也の古代史が聞きたい。
奥さんがアナウンサーだし。 >>800
和人伝を捻じ曲げて偽書化してるのは畿内説だよ。 筑紫ごとき外国(とつくに)の穢れた蕃神「鏡」を持ち込んだ集団がなんだか偉そうだな。
失せろ。 そうだったのか!武器の特徴を知ると三国志の時代の戦い方が分かる!
https://hajimete-sangokushi.com/2016/02/04/post-9223/
「矛と槍に明確な区別をつけて使用しているのは、中国と日本だけです。」 >>791
>Yahooの掲示板での「ミハイル」という人が、「鐸」は、
騎馬民族が侵入する前の漢の時代から中国にあったらしいですよ。 >>476
>卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。<
この投稿子も、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシ。 >>407
>でも九州の兵隊は祭祀用の銅矛で敵を殴って戦うんだろ?
祭祀用だとか思う根拠を知りたいね。
少なくとも当時の中国人は実用の武器と見ていたみたいだね。 >>401
>ちなみに中国人の言う矛は槍の事
>「兵が用いる」と書いてる物に祭器の銅矛を上げるバカもまだいるのかと懐かしさ感じる
>配布してた九州勢力の衰退と連動しているのが分かるな
こいつは口からデタラメ並べる詐欺師 古墳の形式にも序列がある。
双方中円墳>前方後円墳>前方後方墳
もちろん大きさにも序列がある。
大>中>小
もう一つ強い序列がある。
立地場所だ。
高地>丘の上>低地
纏向古墳群は低地だ。
せいぜい行燈山古墳が丘の上であるくらい。
したがって纏向古墳群は卑弥呼やその王族の墓ではない。
纏向古墳群の時代、本当の王の墓は高地にあったのだ。
そここそは高天原(御所市高天)だ。
https://goo.gl/nq8fJu 我が国の歴史上、
九州島を「九州」と呼ぶようになったのは室町時代以降のことである
記紀以前に「九州」と呼ばれたことはなかった。
それにもかかわらず、その時代に「九州王朝」なる大王朝があったと主張するのは、
一般民間人ならともかく、
学者・研究者のとるべきアカデミックな論理思考ではない。明らかに非歴史的である。
思考回路に、何らかの錯誤錯綜があったのではないか。 >>477
>嘘つけ。 おまえは旧ヤフー掲示板で「重いから先に落ちるのであり」と言ってた。
ごまかすなwww <
嘘つけ。
私は、旧ヤフー掲示板で「重いから先に落ちるのであり」というような「知らない話」を言える筈がない。
ごまかすな「南→東」の嘘つきダマシのssnwww 。 >>804
八咫の鏡は筑紫で作られた皇位の象徴だよ。
何がとつ国だ。
半島へ帰れ。 >>812
>それにもかかわらず、その時代に「九州王朝」なる大王朝があったと主張するのは、
ただの通称だろ?
正式名称は倭国、筑紫だよ。
そもそもこのスレでは九州王朝なんて名前はほとんど出てきていないだろう。
勝手な名前を持ち出して嘘くさいことを言うな。 確かに九州北部で真珠5000粒はキツイわな。
それを可能にしたのは真珠の産地の伊勢志摩が近かったからじゃないの? 畿内説は真珠の代わりに石ころを贈るのか。
さすがは詐欺師の集団だな。 >>817
伊勢志摩が産地として有名になるのは、近代になって養殖が発明されてからだろう。
それまでは福岡の志摩が産地だったのだろう。 >>811
燈山古墳よくぞ言った。
天理市にある古墳だ。纏向学【櫻井市)が排除しようとしてるから畿内説は前に進まない >>785
引用:
他の面から見よう。もし「九州の」という意味で「筑紫」を考えているなら、
他にも「筑紫の豊のーー」「筑紫の熊襲のーー」といった表現があっていいはずだ。
しかし、『記紀」(神代巻)ともにそれはない。
その上、神代紀につぎのような註記が頻出する。
此れ則ち、筑紫の胸肩(むなかた)の君等が祭る所の神、是なり。〈第六段、第一、本文〉
此れ、筑紫の水沼の君等の祭神、是なり。〈第六段、第三、一書〉
これらはすべて後代(「帝王本紀」段階)の註記が『書紀』編者によって本文化されたものだ(一二〇ぺージ参昭)。
ところが、これらすべてまさに福岡県(筑前)の場合しか、「筑紫のーー 」の冠辞はついていないのである。 >>821
テンプレが正しい・・天理市は邪馬台国の範囲には入るが所都には含まれない。
「箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
ここ纒向が女王の所都である」 >>824
テンプレに賛同するから。
逆に、天理市が邪馬台国の所都に含まれると言う根拠を示せ >>823,
>>825
テンプレの所都の根拠読めばおのずと天理市も含まれる。 >>828 テンプレ否定する畿内説はこのスレに来るな。ヨソでやれ 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、のころはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦の可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳墓だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋
|
埴安媛
|
武埴安彦 (崇神時代)
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。 畿内説は崩壊してるよ。
桜井市と天理市ふくめ倭国と違う国の都で手打ちすれば良い
邪馬台国論叢と関係無い。 >>809ってバカじゃね?
銅矛見たことないのか?
博物館とか行ったことないのか?
歴史とか語る資格ないだろ
「少なくとも当時の中国人は実用の武器と見ていたみたいだ」
という理由を言ってみろ 天理市は畿内じゃないのかよ?
いろいろまずい発言じゃないのか? こんなスレ、畿内説でもなんでもない。
ただの一個人の妄想だよ。
チラシの裏で十分だ。 黒塚古墳(天理市柳本町・・・・纏向と目と鼻の先)
国指定重要文化財)
銅鏡 34面
鉄製品 210点
土師器 3点
近辺(同じく天理市)
行燈山古墳 (崇神天皇陵)
渋谷向山古墳 (景行天皇陵)
西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵) 西殿塚古墳・・・3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定
1876年(明治9年)、手白香皇女の陵に治定
モモソの墓は西殿塚古墳
西殿塚古墳は早くから手白香皇女の陵と比定していたので、箸墓をモモソと当てはめるしかなかった。
何の問題も無い説
本古墳の真の被葬者については卑弥呼(箸墓古墳被葬者)後継者の台与(西殿塚古墳)
⤵・・・・・逆も成り立つ
本古墳の真の被葬者については卑弥呼(西殿塚古墳被葬者)後継者の台与(箸墓古墳被葬者) ワロタ
三輪山伝説からいけば、三輪山周辺の古墳はほとんど女性の墓に成っちまう。
平原は女性の墓だけどね。 >>837
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」
矛を実用で使っていたことが明記されているぞ。
纒向から出ないから、矛がなかったことにしたいのだろうが、まったくのトンデモ説だ。
あと、短下長上は現代に伝わる和弓の特徴そのままだな。
魏の使いの目は節穴ではないぞ。 内輪もめはうぜーから
>>1
天理市も所都に入れてやれ。 >>844 テンプレに添った議論
>>1
>勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >
天理市の一部を所都に入れない事については>>1が反論を述べれば良い それよりも神の話だよ
神と人間は違うのだ
と言っている人がいたけど
漫画かアニメの台詞なのかな
神の家というのは、
いわるゆる天皇(皇室)の家ではないのかな だれかが橿原市も所都だと言ってたな(笑)
畿内説は 邪馬台国の所都は畿内全域でいいんじゃないか(笑) >>845
>天理市の一部を所都に入れない事については>>1が反論を述べれば良い
思想信条の問題であり、すでに学問ではない。 >>847
土器などから解明された当時の交易路を見ると、畿内などというまとまりは3世紀の時点ではまだなかった。 スレチだが
邪馬台国の都は吉野ケ里で、卑弥呼の墓は平原 纏向は女王国の所都で邪馬台国は畿内全域という妄想なんだろ 邪馬台国の都は八女で女王国の所都は吉野ヶ里、卑弥呼の墓は祇園山古墳 >>849
テンプレが言ってることと180度逆だが
なんか根拠でもあるのか? 倭国邪馬台国の都は伊都で、卑弥呼の墓は平原遺跡。
ただし卑弥呼の王宮は平塚川添遺跡で、出身は筑後山門。
伊都国にいた天孫族は倭国大乱で東に向かった。 >>857
>>2
>>4
読めば天理市南部も該当する 卑弥呼と卑弥弓呼を擁する狗奴国の争い。
卑弥呼共立前の狗奴国の版図は大和、河内、和泉。
卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。 >>853
祇園山は平原遺跡より新しいだろう。
壹與だと思う。 >>861
>卑弥呼共立前の狗奴国の版図は大和、河内、和泉。
まったく根拠がない。
妄想だな。 >>863
平原遺跡の年代がいまいちわからん
卑弥呼とは関係あるとおもうけど 本当にそうだと思う、
皇女ばかりになってしまう
例えば名前:□子
かなり前の書き込み
「いまは名前だけではわからないぞ」
「名前は、あまり関係ないぞ」と言っている人がいた 他のヤマタイ関連のスレッドの話
何か知っている人がいるのかな >>827
>桜井市や天理市は邪馬台国には関係ないんだよ
そう関係ないよ。
まぁせいぜい卑弥呼を共立した人たちの地盤かな。
卑弥呼は高天原(御所市高天)にいたから。 長髄彦などの旧支配層がいなくなったヤマトの地は、どのように統治されたんだろうか?
ヤマト征伐に参戦した勢力が分割統治した可能性もあるな。
纒向は卑弥呼でいいとして、
神武は橿原〜当麻辺り?
事代主とされる勢力は葛城〜御所辺りになるのかな?
事代主ってなんだろうねぇ。事代主が関わる事象はあやふやなことや混同が多いんだよね。
歴史、系統の捏造の主役な気がするんだな。
北摂〜亀岡とはどういう関係があったのか‥ >>869
>纒向は卑弥呼でいいとして
よくない、あれは瀬戸内集団・物部。
>事代主ってなんだろうねぇ。
卑弥呼のお父さんだよ。
卑弥呼、台与を生んだ、2世紀前半〜3世紀後半の王族は、高天原(御所市高天)にいた。
今でも日本最古の神社がそのお墓を神山としてお守りしている。
箸墓古墳ごとき平地の下人の墓とは地位が違うのだ。
、 トンデモの連中は自分がナニ言ってんのか理由が説明できない脳ウスで困るな >>870
ヒミコやトヨを生んだ神族は、
7世紀の役小角の時代には「使役される神」にまで身を落とし、
20世紀になって住井すゑが「橋のない川」を書く。
怖ろしくディープな歴史なのだ。 >>874
子守唄とかそういう悲哀がこめられているよな、竹田の子守唄とか 法則
自分がその結論に至った思考過程を説明できない人間は
それを理解していない
わかった気になっているだけ
九州に邪馬台国が存在するのはスレ読む限り有り得ないな。 >>529
>九州しか目に行ってないから歪な歴史観にしかならないのが九州説。<
大和しか目に行ってないから、
「南→東」などの嘘吐きダマシの歪な歴史観にしかならないのが大和説。 >>532
>>(白村江大敗の後で、大和に拠って)
倭國の存在や歴史の抹殺がなされ、信仰する事も拒否されたから<
>はぁ?それくらいで信仰を止めるの?<
唐の圧力で、表立っての反抗は出来なかったから。
> さすがはヘタレ九州人。<
さすが狡賢い大和人種。
>関西ではエビス信仰なんて普通に残ってるけどね。<
可哀そうに、筑紫や出雲のエビス信仰を取り込むしかできなかったのか。
>やはり九州はクズなんだろうね。<
やはり大和は「南→東」などの嘘吐きダマシの人間のクズだったんだね。 >>541
>もう畿内スレで小学生レベルの荒らししか出来ない 連中しかいない、それが九州説の現実だぞ。<
もう畿内スレなのに、トピ主もテンプレ人形も「チクショウメ」お兄ちゃんも出て来ず、
小学生レベルの荒らしや貼り付けしか出来ない 。
それが大和説者の現実だぞ。
連中しかいない、それが九州説の現実だぞ。 >>541
>もう畿内スレで小学生レベルの荒らししか出来ない 連中しかいない、それが九州説の現実だぞ。<
もう畿内スレなのに、トピ主もテンプレ人形も「チクショウメ」お兄ちゃんも出て来ず、
小学生レベルの荒らしや貼り付けしか出来ない 。
それが大和説者の現実だぞ。
連中しかいない、それが九州説の現実だぞ。 >>544
いえいえ大和とは違って立派な天國があり、
そこには3世紀中頃以前の古い墳墓もあり、
今も日本最古の三種の神器や水田や、
弥生銀座やハイテク工業地域や大道や運河などもあります。
大和と違ってしっかりした歴史があります。
大和には、今も発掘されてる古い墳墓なんて一つも見つからないよね。 >>547
>九州で今も信仰されてる墳墓ってあるの?<
白村江で大敗して亡国になりそうであった筑紫倭国を、
大和が併合吸収継承して唐に謝ったんだから、
大和は、禁書令うあ記紀のように、
倭国の存在や歴史を抹殺しなければならなかったの。 >>551
>そこは高天原(御所市高天)だ。<
高天原は、燕の南〜海峡の間にあったの。 >>557
分裂幻覚妄想の垂れ流しの孝霊は、「南→東」などの・・・・病人だから、
放置ね。 >>576
>>高天原は九州ですよ。<
>どこ? 高い天の原でないとダメだよ。 パチモン出さないでね。<
「燕の南」にいた、と書かれているから。
>>博多住吉神社がイザナギゆかりなら、紀元前までさかのぼる。<
>住吉大神所縁ならそんなに古くはない。<
住吉大神である底筒男命、中筒男命、表筒男命 は、伊弉諾の子供ですから、天照時代です。 >>580
>九州にしっかりした高天原がない。 これは九州説自体が根底から瓦解してしまう。<
高天原は、燕の南〜海峡の間。
そして、高天原から天降りした天國は、途中の経由地無しに新羅と出雲と筑紫しかないから、
天國は、対馬と壱岐と沖ノ島付近の海峡の島々。
>いったい九州説とは何なのだ。 失せろ<
いったい大和説とは何なのだ。 失せろ。 >>583
また、分裂幻覚妄想の戦争狂の、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説のssnが出てきましたね。
ssnや孝霊や阿波などの・・・・は、
怖いですから、放置しておきましょうね。 >>623
>あるなら指摘してみれば?<
「南≠東」の致命傷を指摘してあるよ。
>どう言う中庸ばかりじゃ何時迄も畿内説に歯が立たないよ<
史料事実の否定の口先でのウソ騙しばかりじゃ、何時までたっても九州説に歯が立たないよ。 >>626
>何の問題も無い説<
「南≠東」で×。 >>628
>3世紀後半から4世紀の畿内の古墳に中国製の小札革綴冑が出るということは、
中国と通交してた主体が畿内であり<
中国の王朝が、夷蛮の大和に「小札革綴冑」という武具を贈る筈がない。
という事は、半島での「小札革綴冑」を見ての模倣か?、倭国し自前の工夫か?という事になる。 >>635
>どこでもいいことはない。 台与がいたのは畿内。<
「南≠東」。
>3世紀後半から4世紀の畿内の古墳に中国製の小札革綴冑が出る。<
中国が、夷蛮の倭国に武具を贈る訳がない。 >>719
>>>718
>場所が同じでしょ
>
>同じ倭国
九州説ならそれでいいけどね。
2世紀の倭奴国と当時は名もなき桜井市とでは、場所がぜんぜん違う。 >>725
>>723
トンデモ説の年代繰り上げ工作に
根拠皆無
wwwwww >>735
>>>734
>邪馬台国や卑弥呼と関係ないけどお宝がいっぱいでてよかったね
魏志には九州の話は里程も含めて細かく記載があるのに、なんで畿内のことはぜんぜんのっていないのかなあ? 畿内地方が中国に初めて使者を送ったのは遣唐使で唐代
これ常識。 >>900
>魏志には九州の話は里程も含めて細かく記載があるのに、
あくまで、倭国(阿波)に至る道中の説明としてね。 @阿波 卑弥呼は糸島市にいた
高天原なんてこの世にはないw >>860
>>>858
>秦氏は天孫族なのか?
秦氏は違うだろ。 >>865
>>>863
>平原遺跡の年代がいまいちわからん
>卑弥呼とは関係あるとおもうけど
倭国大乱より後であることはほぼ確実。
つまり卑弥呼の治世。
魏志に最も詳しく説明されている伊都国にある。 >>904
魏志倭人伝に書かれている事、全てが「四国の阿波」の記載なんですよ。 @阿波 >>869
>長髄彦などの旧支配層がいなくなったヤマトの地は、どのように統治されたんだろうか?
ニギハヤヒは最上位で君臨したままだろ。
物部大連の祖として、物部戦争で負けるまでは畿内の覇者だよ。
そして前方後円墳の主。 >>878
>九州に邪馬台国が存在するのはスレ読む限り有り得ないな。
どこに目が付いているんだ?
ヤラセか? >>576
>>博多住吉神社がイザナギゆかりなら、紀元前までさかのぼる。
>
>住吉大神所縁ならそんなに古くはない。
博多に銅矛を使う倭国の王権が誕生したのは、考古学的に紀元前とされているよ。 >>901
>畿内地方が中国に初めて使者を送ったのは遣唐使で唐代
>これ常識。
そうだね。
隋代の日出処の天子は筑紫城にいたと明記されているからね。 >>903
>高天原なんてこの世にはないw
伊都国王権の前に、おそらく沖ノ島か対馬にでもアマテラス、つまり海を照らす海洋王がいたのだろう。
稲作で繁栄する陸上を妬み、陸地の王である大国主から支配権を奪ったのだ。
そして、大国主を山陰に追いやった後の筑紫に孫を送り込み、糸島の倭奴国の王とした。
倭国大乱の後に倭奴国は伊都国と表記を変え、天孫にかわって伊都の卑弥呼政権が誕生したの。 >>909
目がついてるからこそ
そういう結論が出るんだが >>911
史料の読み間違いが痛々しいな
大和州に移ってからのことだと明記してあるだろう トンデモ九州説爺さん達は自分で史料なんて読んだことないのさ
トンデモ本やトンデモ説サイトの受け売り専門だ
>>920
またデマ中傷かよ
九州説って他に能ないの? 九州説ではなく、むしろ畿内説の中から出てきた話だろう。
呆れて眺めていたけど。 >>922
ウソつけ
お前のナリスマシなのはバレている 九州説≒古田説は、
筑紫と九州の区別さえできていない自己矛盾だらけの迷惑な話、
端からくるっている誇大妄想の異教徒 >>639
>卑弥呼は魏から50斤もの水銀朱を貰っている<
「眞珠鉛丹各五十斤」だから、「鉛丹」で50斤になるね。
「鉛丹」では「水銀丹」にはならないだろうね。 >>928
>筑紫と九州の区別さえできていない自己矛盾だらけの迷惑な話、
ウルトラブーメラン >>927
それを立てるのが嘘つきで有名な東遷自演爺 >>4
>おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
誰が八咫の鏡を供与したの?
九州のアマテラス? >>643
>つまり天皇家以前の前王朝の事であろう。 卑弥呼はそこにいた。其国に7〜80年続いた男王もそこにいた。
葛城王朝なのだ。<
「南≠東」だから、このssnの投稿はまた嘘つきダマシ。 >>930
小学生みたいな言い返しだなw
内容がない >>654
中傷にかまけてる限り大和説に未来はない。 >>936
大和説なんて誰もいないから関係ないね
ここは畿内説のスレ >>657
>魏志倭人伝の真朱は真珠の書き間違いですね 初心者以外は皆知ってますw<
ふーん?、漢籍の書棚の天誅が、
またここでも「真朱→眞珠」の嘘つきダマシをした可能性がある、
という事になるのか?。 関東最古の大社、鷲宮神社は鷲を名乗っているから、古代にそういう文化があったんだろうね。
筑紫の羽白熊鷲とか。 >>944
畿内説では、日本書紀の年代そのままに邪馬台国は仲哀の時代なの? >>945
>>>943
>そんな昔から物部とかいないだろ
後の物部氏になるニギハヤヒ一族だろ。
理解しろよ。 >>947
畿内説では、日本書紀の年代なんて当てはめない >>948
そんなオハナシ理解しようがしまいが現実の歴史と関係ないだろ >>950
オハナシって、葛城王朝のこと?
物部氏のこと?
イミフ >>953
イトデが出てくるなら、仲哀の時代だろ。
確かに日本書紀の年代なら邪馬台国に近くなるはず。
神功皇后を卑弥呼に偽装しているくらいだからね。 >>954
畿内説が持ち出してきた話だろう。
今更だな。 畿内説も少しは互いの意見をまとめろよ。
内輪揉めは相手にしにくい。 >>957
畿内説ならまとまってるよ
東遷説が騒いでるだけ >>953
だいたい、日本書紀で八咫の鏡を持っていたのは神夏磯姫であり、イトデではない。 >>960
つまり日本書紀は八咫の鏡が皇統特有のものなんて考えてない >>695
>弥生時代の奈良で朱の痕跡のある 遺跡は2つしかない。
福岡は45ヶ所の遺跡に朱の痕跡がある<
成程。 だいたい記紀を丸呑みしてるのは東遷説のやつ
畿内説ではない >>697
>北部九州は遼寧式銅剣や粗文鏡、燕の鋳造鉄器片が入ってきてるくらいだから
吉林省あたりでプラスの同位体比の水銀朱が採れたんじゃね <
成程。 >>707
>産物を述べた節で有ると書いてあれば 産出してるって意味だよ<
「丹」という文字だけでは、「丹木」もあるんだから、
「水銀朱」だけの事だ、とはならないんだよ。
>こういう非常識な曲芸読みで辛うじて存在してるのが九州説だな<
こういうような、非常識な曲芸読みで辛うじて存在してるのが、
大和説や孝霊説や阿波説やssn説などだな。 >>708
都合よく妙な解釈したところで後々自分の首絞めるだけなのに・・・。
大和説の悪しき伝統だね。 >>709
>出青玉は硬玉ヒスイだろ 九州のどこで採れるんだ?<
九州のどこで採れるのか?なんて知らんが、
採れなくても、「市」があるから、北陸から回して貰えばいいだろ?。 >>962
>>>960
>つまり日本書紀は八咫の鏡が皇統特有のものなんて考えてない
そのかわり、筑紫の王位の証だけどな。 新スレ立てました
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1499038801/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>946
>関東最古の大社、鷲宮神社は鷲を名乗っているから、古代にそういう文化があったんだろうね。
阿波から黒潮の乗って関東に進出した、忌部一族が「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」を祀ったんですよ。 @阿波 >>711
>記紀の崇神天皇のところを何度も読めば、誰が卑弥呼で誰が台与なのか、
分かるようになってるのな。 二人は分からないように崇神天皇に埋め込んで隠したんだね。<
これも、全く史料事実根拠がないから、分裂幻覚妄想の小説のようなものだね。 >>964
史書を全て無視しないといけない畿内説は大変ですねえ。 >>709
>>>704
>出青玉は硬玉ヒスイだろ
>九州のどこで採れるんだ?
日本海沿岸は筑紫の支配域 >>719
>場所が同じでしょ 同じ倭国<
大和は、倭種であり、倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭国の中心ではない。 >>975
そりゃあ裏が取れない史料はまず眉唾として扱うのが学問の基本だろう >>722
>纒向には有りますが? 当時最大の墓<
箸墓は、4世紀だし、半島勢力や筑紫のおかげ。
>当時最大の大型建物<
(墓と同じく)「市」で儲けた祭祀建築。
>当時最大の運河 <
弥生銀座には、「運河」も「何本もの5m位幅の大道」もある。 >>981
4世紀だって根拠は?
じいさんの願望だけ? >>975
倭人伝を完全否定しないと成立しない九州説よりマシかもよw まだ言ってるの?
例えるなら家の母親の名前:□子 実際にそう
皇女だとか、どこそこの家の〜・・・など言ったこともない >>983
40年前の論文で
いま学界で支持者が本人一人だけ
つまり学説として死亡済みだ >>727
今どき、「南→東」の嘘つきダマシの大和説学者達の・・・・アホ人種はまだ、
弥生時代を100年古くしようと、
醜く足掻いてるんだね。 教養?
当時の中華でも良いけど、
本系とも思われる人たちの名前、□子ではないはず >>978
じゃあ聖徳太子もいなかったということで。
ついでに崇神や天武も確証がないことにする? >>729
>魏志倭人伝の方角が45度ずれてる理由を思いついたぞ
当時は地磁気が今と比べて45度ほどズレてたんだ多分<
棒を立てて、日の入りと日の出での影の先端同士を結んで東西方向を決め、
それに直交する方向で南北を決めていたから、
「方角が45度ずれ」ないの。 古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
中期(4世紀後半〜5世紀末)、
後期(6〜7世紀)
に区分している。
古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。 このスレッドは1000を超えました。
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