邪馬台国畿内説 Part255 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501423214/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし 寺澤くんに聞いた?
纏向後のヤマト王権の都の変遷。 テンプレはスレ主の妄想を記したものだから、そのつもりでよろしく。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 『位置が来る』
重要な情報が隠されている
イチが来る 『アフラ・マズダ 市来』
寺院に通っていたみたいだよ
と言っていたり
何かの家だったのかな 古代の話だと思うけど、
このようなモノがあったり
『天津罪 国津罪』 もうか、もう、新スレッドでも、テンプレートの嘘が指摘されているね、、、 それがどこだか言えないのは
>>61がウソをついてるから
ブーメランだったな >>62
そもそも1がテンプレ張り逃げ。
証明終わり 254の>>695
>別に北部九州でいいでしょ その王は倭国乱で没落して 入れ替わり畿内邪馬台国に女王が共立される<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「南≠東」だから、大和は×。
倭国の別種の旧小国の大和が、西日本の盟主になったのは、白村江の後。 >>64
それって「言い張るだけ」かどうかと関係なくね?
アホが証明に失敗してら キウスに証明能力なし
証明以前に日本語しゃべれない 254の>>701
>北部九州に居たのは首狩族<
大和の東征侵略した神武らは、
在地の首長たちを仲直りの宴会に誘って騙し討ちに皆殺しにした事を、
自慢するような輩。 254の>>702
追い詰められた大和説は、インチキや嘘ばかりついてるね。
朝鮮通信使の件でも、3世紀の魏使や陳寿とは、全く何の関係のない人物の話なのに、
そんな人間の記載を根拠にして、嘘まみれであり。
柳田の論文も、自分の判断を近畿の権力学者に否定されると、簡単に撤回して、インチキする 。
最低だよね。 >>69
ザラコクはまたウソばかりついてるな
こいつも心を病んでるんだろう >>55
>難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
>古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。
「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」
この歌は、応仁天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。
これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。
ここからは、二並びに淡路島と小豆島がはっきり一望できるのである。 @阿波 254の>>706
>ホラを吹く奴は九州説に多い<
「南→東」などのように、史料事実を否定改竄したり、ホラを吹いたりする奴は、
大和説に多い。 254の>>708
>古来中国では東と南を相兼ねる <
一般人はどうか?は知らんが、
周髀算経を知っている魏の役人たちや陳寿は、東と南とを間違えない。 >>72
史料批判はホラじゃないんだよ
あまたが言ってるのがホラだ >>73
そんなもの知らなかったか、少なくとも使わなかった
これ、証明されてるから 254の>>718
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 254の>>730
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 >>76
古田説に都合の悪い結果の出た鑑定を
汚い言葉で罵れば罵るほど
古田説は不利になるよ 254の>>736
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。
同レベル以下の妄想を垂れ流す小便信者だからな 。
要はお前の脳ミソがその程度だと言われてんだよ 。
言わせんな。 アホは死ななきゃ治らないというのは本当なんだな。
ザラコクをみててつくづく思う。 記紀の国生み神話は二上山、葛城山からの視点ですよ。
雄岳と雌岳を持つ二上山(フタカミ)はその象徴で
何より最初に生む淡路島や四国を見下ろして望める場所ですからね。
また最後に麓の秋津(御所)で国が成立するとあります。 もともと大和説であった新井白石や本居宣長が、
「天皇の朝貢」と言う切実な問題に直面、
窮余の一策として打ち出したのが九州説。
わざと論争を起こし、天皇の朝貢と言う問題を宙に浮かせるのが目的。
それが分からず300年間だまされ続けてるアホが九州説w
ゴキブリホイホイに捕まったゴキブリと変わらない。w
ましてや九州王朝説(大笑い)
大衆演劇「古田武彦一座」www
zarakokuも役者として登場、
役柄は「通りすがりのハゲ」www >>79
筆跡鑑定というのは
筆跡サンプルのAとBが
同じ人の書いたものかどうかを鑑定する
つまりサンプルAを誰が書いたかは
鑑定結果に関係がない
ということは鑑定結果を否定する根拠にならない いい加減方角を間違える訳がない、なんて印象操作的詭弁は止めないとね。
大体倭人伝は三世紀の話で編纂者が測量、見聞した話でもありません。
また地勢観も異なり地動説でも地上球体説でもありません。
方位の感覚なんて遠方になればなる程信憑性は比例して下がりますよ。 記と紀で5世紀の倭の五王時代の没年干支が違う。
わざとそうしてるのだ。
天皇の朝貢を潤色するためだ。
ましてやヒミコや帥升など何をかいわんや。
彼らはヒミコも帥升も誰なのか知っていた。
帥升とはスサノオだ。 254の>>740
>考古学を無視して、伝承だけ追っても答えは出ない 考古学は良くも悪くも出土した事は事実である
それは確定事項なんだよ <
考古は、発掘事実の報告には価値があるが、
それに関する発掘者の「説明や解釈」は、必ずしも適切であるとは限らない。
>古ければ古いほど、伝承は真実性も危ういので、文献や出土事実が第一、伝承は参考程度<
賛成。 倭人伝の記述を最優先して解釈するなら
「鉄が豊富にある場所が邪馬台国」なんて全くの詭弁ですからね。
そんな解釈が出来る文言はどこにもありません。
これは間違いなく安本氏のミスリードです。 >>87
いかにも報告書とか読んだこと無さそうな文章だなw 「間違うはずがない」は論理的に間違いで
「間違いかもしれない」は正しいんだから
どっちを取るべきかは明らかだ >>61
仕方ないよ、、、
テンプレートは嘘だらけなのだから。。。 などと言って一つも嘘とやらを指摘できないってことは
嘘をついてるのが>>93だってことだね つまり根拠もなく「間違うはずがない」って言い張ってて
論破されたら
またも根拠もなく「確率が低い」って言い張るわけだ
これだからトンデモ説って奴は・・・ またジジイの小便着色本を聖典として崇めるカルト狂信者が暴れてるのか
これだから飲尿キュウシュウセツは始末に負えない 間違う例も多いしな。
どっちを取るべきかは明らか。 わかる人にはわかるはず
dead endも言っているでしょ
真の紛いモノ もともと大和説であった新井白石や本居宣長が、
「天皇の朝貢」と言う切実な問題に直面、
窮余の一策として打ち出したのが九州説。
わざと論争を起こし、天皇の朝貢と言う問題を宙に浮かせるのが目的。
それが分からず300年間だまされ続けてるアホが九州説w
ゴキブリホイホイに捕まったゴキブリと変わらない。w
ましてや九州王朝説(大笑い)
大衆演劇「古田武彦一座」www
zarakokuも役者として登場、
役柄は「通りすがりのハゲ」www 254の>>814
>私は阪大です。いろんな方が畿内説唱えてます。<
「南→東」の嘘つきダマシを出した阪大が可哀そうです。 >>85
方角を間違えてるというなんていう印象操作的詭弁はやめたほうがいい
一日単位の方位は遠方とか関係ないな >>88
田んぼが豊富にある場所が邪馬台国である(徐福様に感謝するといい セイントセイヤにも登場するでしょ
イーグルとか、偶然なのかな なんかやけに鴨厨が元気いいな、新しい妄想でも沸いたか 254の>>821
文献考古のどちらでもに無理だ、と判ってる大和説が、
この上いくら新しい珍読を発明したところで、
九州説の圧倒的勝勢は、覆しようがないのにね 。 >>109
こういうウソを平気でつける男
その名はザラコク 問題なのは、あの像だよ
コンドル、イーグル・・・その他、
何なのか?
捨ててから、かなーり経っているから、わからない 少し写っていると思うけど本もあった、
何の本なのか知らないけど
ほとんど老婆が捨てた むかーし住んでいたところには
本や書が沢山あったとは言ってる
何なんだろう、それと謎の刀の話 末羅国は官の名前が載ってないだろ
つまり、官たちと宴会しなかったということになり、主邑の唐津とかには行っていない
末羅国のはずれの呼子にたどり着いて、そのまま海路で伊都に行ったんだね
(魏略は陸路と言ってないので、そのまま海路を継続してることになる)
方角も夏至の太陽のズレを考慮すればまったく問題ない 該当する土地のない東治の東の時点で全て信憑性は消えます。 >>115
九州は東治の南だというのか?南は台湾やフィリピンだろ、そんなとこに九州は
無いと思うぞ >>114
それ、呼子に寄港する意味ないじゃん
岬を目視して唐津湾を横断すれば済む >>114
典型的な「ためにする議論」だな
コジツケそのもの >>118
呼子は末蘆国一の港町である、魏史はアワビやサザエに満足したことであろう 孝霊厨のいいところ
スレ主と違い貼り逃げしないところ 相当ムリしないと倭人伝は方角が正しいとコジツケらんないね 閑話休題
【あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・】
応神天皇の難波大隈宮は、さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。
東讃地方には、応神天皇の信仰の痕跡が色濃く残っている。郡名の寒川(さんがわ)も「讃川」であった可能性がある。
また「誉・譽(ほむ)」の音読みである「ヨ」を冠した地名が目立つ。「誉・譽」は本来「ほむ」と呼ばれていたであろう。
下記の右の( )内が元の呼称であったと推定する。
譽田寺(ほむたじ) 与田山(譽田山) 本宮山(譽宮山ほむつやま) 与治山(譽治山ほむじやま) 与田川(譽田川ほむたがわ) 与田神社(譽田神社ほむたじんじゃ)、応神殿跡など。
ここからは、二並びに淡路島と小豆島がはっきり一望できるのである。 @阿波 >>122
あんた反論してないから1が逃げたとデッチ上げるの無理 松浦半島の先っちょは潟港がないから寄港は無理
大友あたりの浜に漁民の小舟が着けるだけ >>121subo
>呼子は末蘆国一の港町である
魏使はもちろん、朝鮮通信使も呼子・唐津などへは一度も着岸していない。
対馬海流に流されて、末蘆国(呼子)は有り得ない。 >>88
>倭人伝の記述を最優先して解釈するなら
>「鉄が豊富にある場所が邪馬台国」なんて全くの詭弁ですからね。
丹があるからどうこうとか言っている人間がよく言うよ。 『間違えたに違いない。そうでないと畿内説に合わないから』
アホか >>115
>該当する土地のない東治の東の時点で全て信憑性は消えます。
方角を45度くらい反時計回りに間違えていたんだよ。
そうすると九州に着くだろう。 >>129
『正しいに決まってる。そうでないと九州説に合わないから』
アホか 欠史8代と言っても一色ではない。
二色に分類できる。
A:神武から6代孝安まで。
妃がいない。そして宮が葛城。
B:7代孝霊以降
妃が複数、実質の大王。宮は葛城を出る。
つまりAは葛城王朝。
Bは磯城の纏向王朝。
箸墓古墳はBだ。
そしてヒミコとトヨはAにいた。
葛城王朝だ。
よって箸墓古墳はヒミコとは関係がない。 >>128
丹があると明記されてるんだが
どうかしたのか? >>131
文献に従って考えるのだから、どちらがアホか考えてみるといい。 >>133
丹を重視して鉄を無視する理由がわからない。
畿内説は魏志倭人伝をつまみ食いしているだけ。 地名逸話では奈良盆地の広陵町三吉に御所市蛇穴、
これらは共通して讃岐の意味があります。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 >>136
どう転んでも列島広域を倭国とする畿内説が圧倒的有利で
北部九州限定の九州説が敗勢なのさ >>115
「計其道里、當在會稽東冶之東」というのは、
帯方郡から女王国までの距離は、
其の道里を「計る」と、
落陽から「東治の東」までの距離に相当する、ということ、
「東治の東」に女王国があると言っているわけではない 戦国時代版の関が原の真実のスレで電波連発したから覗きにいくといい >>121subo
>呼子は末蘆国一の港町である
魏使はもちろん、朝鮮通信使も呼子・唐津などへは一度も着岸していない。
対馬海流に流されて、末蘆国(呼子)は有り得ない。 >>139
邪馬台国の怪、安物信者ですか?
倭人伝は邪馬台国伝ではないぞ。 飲尿信者が今日も暴れてるのか
カルト教団相手に話すだけ無駄 女王国が日本の事なら會稽東冶之東どころか
沿海州から會稽東冶之東だろ。
北海道と南西諸島はやりすぎ?
樺太と台湾も日本列島だなw
會稽東冶之東なら、大きさでせいぜい九州説だ。
まあ、海図無しで陸見て進む航海で方向判んないのは仕方なくネ?
てか、倭人関連の史書への會稽東冶の登場は
いにしえの倭人が「太白の後」と奏上したが
太白の封じられた会稽と倭は漁労国での刺青は似てても
遠く離れすぎる。 って話だぞ。 これマメな。
倭人伝は故事の引用が雑過ぎ。
段落無いから主語入れ替えれるし。
記紀は嘘が多すぎ。 結局、平原には何の謂れもないし、誰も祀られてはいなかった。
そんな場所に卑弥呼の墓はないってw
あきらめろ、半チョン田舎っぺwww 福岡県警糸島署によると、7月31日午後9時ごろ、福岡県糸島市前原駅南3丁目付近で、頭にパンツを被った男が、帰宅中の女性に「下着を売ってくれないか」などと声をかけた。
同署で捜査中。男は身長170センチぐらい。上下とも黒っぽい服装。
=2017/08/01 西日本新聞=
https://www.nishinippon.co.jp/flash/f_kyushu/article/347471/
現在の伊都国ェ 254の>>833
>いろんな説を許容しながら、邪馬台国は畿内との説を導き出した。 ・・・<
文献考古共に、「邪馬台国は畿内との説」は、嘘つきダマシばかりで、ダメだよ。 >>154
伊都厨はこんなことまでやらかしてるのか 254の>>840
>トンデモ読みで九州説敗勢は止まらない <
「南→東」などの嘘つきダマシのトンデモ読みで、
大和説の敗勢は、止まらない 。 254の>>849
>単位の捏造よくない <
大和説者の、
韓の「方四千里」の単位記載の否定捏造も、方向の捏造も、
よくない。 254の>>851
>九州説まけると出てくる呟やキウス <
大和説 負けると出てくる 人格誹謗や人種差別 254の>>871
>九州説ばかりにそんなに狂人が多いと思いたくない <
大和説ばかりに、「南→東」などの嘘つきダマシの狂人が多いと思いたい。 254の>>892
いやちょっと待て。
大和説は、記紀と同じく、
「倭国の存在や歴史」を抹殺捏造しようとした、偽史や偽説そのものだぞ。 >>142
漢文よめないから九州説とかのアホに染まる典型 254の>>898
大和説は、後代史書や現代権力学者らの怪しい記述に依存するようなリテラシー持ちだから、
偽説にハマりまくった 。 自分は特別で回りの連中とは違うんだと心の奥底で思っているので
陰謀史観の最たるものである九州王朝説なんなきはまりこむ 自分は特別で回りの連中とは違うんだと心の奥底で思っているので
陰謀史観の最たるものである九州王朝説なんかにはまりこむ 「我こそが古代史の全ての謎を解き明かした!」
とか思い込んでるカルト教団の構成員だから仕方ない
小便飲んでるような奴らだから話するだけ無駄無駄 254の>>901
孝霊とssnは、通説大和説の亜流に過ぎず、
まともな議論や推論が出来ない・・・・アホでしかなく、
時間の無駄であるから、できるだけ放置しておきましょうね。 254の>>904
>既に大和日本国の自立独立を知っている唐
だとか妄想ゆんゆんでございます <
新唐書日本伝の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」と、
釈日本紀引用の延喜講記の、
「唐が日本国の呼称を承認したのは武徳中であった」、
という証言が根拠。 朝から張り付いて誰も聞いてない的外れなレスを延々とし続けてるキ〇ガイとかだからな
あーこういう奴がキュウシュウセツなんだなとよく理解できる
何もする事がない変な万能感だけを持ってるアホが陥る思考なんだろうなと
哀れになってくるな >>171
根拠にならんだろ
それ、東大寺の坊主が宋に持ち込んだ記紀亜流本がネタだから唐は関係ないし 254の>>911
>唐代に倭国と日本を別扱いした史料は無し<
通典は、唐代の同時代文書であるから、唐政府や則天の「承認事項」に反対する記載は出来ないので、
証拠にならず、
旧唐書と唐会要と新唐書は、倭国伝と日本伝を別扱いにして書き分けており、
特に、旧唐書は、白村江の対戦相手を「倭國や倭衆や倭賊」と書き、
日本国の名前を一切出さずに、区別している。 254の>>912
>じゃ、磐井の乱も無しな!<
半分×書だから、「ついうっかり」記載などのような、信頼出来る部分もあるな。 254の>>913
>ゆえにサチヤマの話は信頼性がない <
書紀は、半分×書のアホだから、
「ついうっかり」記載などのような、信頼出来る部分もあるな。 >>176
それを恣意的に決めるから古田説はインチキなんだよ >>175
後代の劣化情報からニセ歴史を作るのがふの常套手段だ
だから偽書を使って信用を失った ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術
論戦を逃げている卑怯者 ここらで一旦整理しよう
九州説優勢、東遷説やや勢いあり、大和説劣勢
これでいいかい? 254の>>916
>残念ながら同時代だな <
磐井の岩戸山は寿陵の筈だから、亡くなる前に造られ、
磐井が亡くなった後で継体が亡くなったんだから、
後から造れた継体の墓は、
前に造られた岩戸山を模倣して、大きくしようと思えば、いくらでも大きく造れるもの。 ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術
論戦を逃げている卑怯者 254の>>918
>1.43倍なんて変な割合で拡大しないよ 石井が7割で作ったんだよ だから子分<
後から造った継体の墓は、
磐井に勝ったんだから、
岩戸山の模倣をして、岩戸山よりも大きくしなければ、示しが付かなかった。 ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術
論戦を逃げている卑怯者 >>189
だから言っても肩透かし
ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術
論戦を逃げている卑怯者 畿内のほうがマネしたというトンデモせが笑われるのは
石人山も大仙の縮小コピーだってのが周知の事実だから
しょせん筑紫国造の墓は大和の家来の墓なのよ 254の>>924
>援軍って、誰と誰の戦いに援軍で来たんだ? 支離滅裂だなー<
物部イラカヒは、磐井と半島勢力との戦いの援軍の体であったから、
高良大社の至近距離の三井まで入って来れて、突然反乱をした。 254の>>927
>侮辱すると反論しなくてもいいと考える変な老人 第三者の目には逃げたとしか映らない<
読者や世間の人には、「嘘である事が初めから明らかである」、と判るような、「異常な侮辱」投稿は、
・・・・であるので返事や議論が無駄で無意味であり、時間の無駄であるから、
放置している。 254の>>937
>じゃ古田説ダメじゃん <
古田さんは、記紀の「半分×書」の中での史料批判に拠って、
「ついうっかり」などの根拠になるような「半分〇書」部分で、
「盗まれた神話」を書かれた。 254の>>940
>まさか、それ(旧唐書)が唐代の史料だと思ってんじゃないだろうな w <
まさか、唐政府や則天の承認事項に逆らったら首が飛びかねないような、「唐の同時代史書の通典」が、
客観性のあるまともな史料だ、
と思ってんじゃないだろうな?。
w 254の>>941
>卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではありません。 邪馬台国に都を置いていたというだけです。
日本国総理大臣と東京都知事をごちゃ混ぜにするようなもの。<
「邪馬台国」なんて、史料に存在しません。
インチキです。 古田は史料批判をしない
というか、史料批判で排除される要素を拾い出す手法 ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術
論戦を逃げている卑怯者 寺澤くんに聞いた?
纏向後のヤマト王権の都の変遷。 54の>>946
>弥生時代を定義しないと箸にも棒にもかからないね <
「弥生時代」なんて、庶民の土器使用での時代区分であり、
いくらでも重複使用や伝搬があり得、
国や支配者の歴史の絶対区分根拠にはならんよ。 素人オジンが専門家の作り上げた共通認識を一刀両断
傲慢の固まりですわ 254の>>949
>九州説なんかに今どき引っかかってる老人は 学者の書いたたともな歴史の本とか
読んだことないんだろな <
「南→東」などの明らかない嘘つきダマシの「学者の歴史本」など、
「ついうっかり」の事実記載以外は、人間性からしても全く信頼性がなく、
・・・・の本は、読まないよ。 >>204
じゃあ今後一切おまえ弥生時代と言うなよ >>210
だから言っても肩透かし
ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術
論戦を逃げている卑怯者 >>206
>素人オジンが専門家の作り上げた共通認識を一刀両断
>傲慢の固まりですわ
専門家と称する詐欺師による捏造史観。 閑話休題
【千葉の 葛野を見れば 百千足る(ととりだる)家庭も見ゆ 国の秀(も)も見ゆ】
通説は、現在の滋賀県に向かう途中、京都市宇治市付近から、北西方向の葛野市(右京区の一部、嵐山から高尾山方面)あたりを望んで歌ったとする。
直線距離にして12〜15km離れた集落の家々を、はたして眺めることができるのか。歌からは、家並みが手に取るように見える・・・といった情景を連想させるが、通説は全く地理条件が合わない。
もとよりこの歌は近畿地方(京都の宇治)の歌ではない。
また、滋賀県に向かうのであれば、進む方向は東北から北方向となり、高尾山方面とは左に90度以上開くことになる。その場合、歌には当然、「ふりさけ見れば」の句が用いられることになるが、この鉄則にも合わない。
讃岐説ではこうなる。
徳島県脇町から香川県さぬき市長尾町に向かって、「多和」「葛野」「鹿庭」の地名が現れる。きわめて珍しい子の地名の並びは、応神天皇の葛野の歌を彷彿させるものがある。
鹿庭(かにわ)は家庭(やにわ)が変化したのであろう。鰐氏(わに)の娘矢河姫(やかわひめ)と出逢い、妃とする。式内・鰐河神社は鰐氏の娘矢河姫を祀ったものとみえる。
千葉は多くの葉の茂る意というが、葛野の南が「多和」地名のひろがる旧多和郡で、現在、多和の意味は不明であるが、「多くの葉(千葉)」を言い換えたものであろう。
また、多和地区は、阿讃の峠を境に徳島県美馬郡脇町に接しているが、古代の阿波と「千葉」とは関係があり、応神天皇の時代、阿波の国造に任ぜられたのが「千葉宿禰」である。
応神天皇は、千葉宿禰の分治する阿讃の峠を越え、葛野に向かったので、千葉の葛野を見れば・・・という初句を撰んだとも考えられる。
また、「宇遅野の上に御立して」というのも、出逢った矢河枝比売との間に生まれた皇子が、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)であったことと無関係ではなかろう。 >>213
応神天皇一行は宇佐神宮で打倒ヤマトの必勝祈願をして阿讃の峠を越え、葛野に向かった
ということだな >>78
>古田説に都合の悪い結果の出た鑑定を 汚い言葉で罵れば罵るほど 古田説は不利になるよ<
娘さんの章子さんの清書の「丑寅原稿」の筆跡と、
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/kahitsu_genkou.html
の左側の喜八郎さんの筆跡とを、
偽書説派や偽書説側が雇った筆跡鑑定家が「同じ人物の筆跡だ」と鑑定した事や、
安本やサギシの桐原が、古田さんを騙して得た領収書である事などが、
世間の人々にバレれば、
偽書説側が、 汚い言葉で罵れば罵るほど 偽書説は不利になるよ。 閑話休題
【あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・】
この歌は、応仁天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。
これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 >>79
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 閑話休題
東讃地方には、応神天皇の信仰の痕跡が色濃く残っている。郡名の寒川(さんがわ)も「讃川」であった可能性がある。
また「誉・譽(ほむ)」の音読みである「ヨ」を冠した地名が目立つ。「誉・譽」は本来「ほむ」と呼ばれていたであろう。
下記の右の( )内が元の呼称であったと推定する。
譽田寺(ほむたじ) 与田山(譽田山ほむたやま) 本宮山(譽宮山ほむつやま) 与治山(譽治山ほむじやま) 与田川(譽田川ほむたがわ) 与田神社(譽田神社ほむたじんじゃ)、応神殿跡など。
ここからは、二並びに淡路島と小豆島がはっきり一望できるのである。 @阿波 >>84
>筆跡鑑定というのは 筆跡サンプルのAとBが 同じ人の書いたものかどうかを鑑定する
つまりサンプルAを誰が書いたかは 鑑定結果に関係がない ということは鑑定結果を否定する根拠にならない<
偽書説派の雇われ筆跡鑑定人は、
明治写本の6人の異なる筆跡者の異なる筆跡を「同じ筆跡だ」、という アホ鑑定をした上で、
更に、娘の章子さんの「喜八郎さんの丑寅原稿の清書」筆跡を、喜八郎さんの筆跡だ、と誤認して、
「明治写本と喜八郎さんは同じ筆跡だ」というアホ鑑定をした、
という、恥ずかしい位の無能な鑑定人であった。 >>92
>「間違うはずがない」は論理的に間違いで 「間違いかもしれない」は正しいんだから
どっちを取るべきかは明らかだ<
「東と南を間違える確率」は0.5%よりもはるかに少なく、
「東と南を間違えない確率」は99.5%以上であるんだから、
どっちを取るべきかは明らかだ。 継体って半島から来たんでしょ
墓も半島にあるんじゃないの >>96
>確率的に相当低いって根拠は?<
三国志の写本版本全体で、一つの文字に差異が発生する確率は、
宋明清代での校勘対象になった全ての文字数の割合から、0.5%。
勿論「南」は校勘対象にはなっていないから、0.5%以下。
また、「南と東」は、字形も意味も全く違うから、更に間違える確率は減るので、
確率は、0.5%よりはるかに小さい事になる。 >>98
また大和説の偽書説派の・・・・ガキが、
偽書説派と組んだ和田キヨエのでっち上げの「小便着色瓶」を、「聖典」として崇めて、
カルト狂信者が暴れてるのか 。
これだから、
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・サギシは、始末に負えない。 >>100
>末盧国から伊都国への方角がもう間違ってんだろ<
「東南」は、末盧國からの出発方向であり、
目的地の伊都国方向ではないから、
方角は間違ってはいない。 青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』[6] には、
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、
捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、
現在では公的団体も偽書であることを公表している。 >>114
>方角も夏至の太陽のズレを考慮すればまったく問題ない <
魏使らは、「日の入りと日の出での棒の影端を結んで、まず東西を決めている」から、
「夏至の太陽のズレ」なんて全く関係がない。 >>115
>該当する土地のない東治の東の時点で全て信憑性は消えます。<
「計其道里、當在會稽東治之東」は、「地の文」であるから、
陳寿の執筆時の理解や判断が書かれているのであり、
だから、大体「会稽郡の東の治所の東方にあるんだろう」という事になり、
だから、ほぼ九州に相当する。 東松浦半島から東の糸島半島は見えるから
東南の出発方向を書いたなんてのは苦しいこじつけだな >>118
>それ、呼子に寄港する意味ないじゃん 岬を目視して唐津湾を横断すれば済む<
魏使らは、当然人類の常識通りに「安全最短の原則」であり、
渡海よりは、
島伝いや沖合目視航行を選択するもの。 呼子に着いたら、そのまま船で唐津湾横断して糸島に向かうな
草掻き分けて陸行する意味がない >>122
孝霊厨の悪いところ。
スレ主と同じように、
「南→東」などの嘘つきダマシや、
「会稽郡の東の治所の東方に九州がない」という嘘つきダマシの貼り付けをするところ 。 >>123
相当ムリしないと、
「倭人伝は方角はほぼ正しい」を、否定出来ないねえ。 >>233
45度までの間違いは確かにあるね。
でも90度間違えているという根拠にはならない。 >>141
どう転んでも、「南≠東」や「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」で、
九州を倭国とする九州説が圧倒的有利で、
大和説が敗勢なのさ。 >>142
>「計其道里、當在會稽東冶之東」というのは、 帯方郡から女王国までの距離は、
其の道里を「計る」と、 落陽から「東治の東」までの距離に相当する、ということ、
「東治の東」に女王国があると言っているわけではない <
海岸に近い会稽郡の東の治所では、当然東シナ海の海岸地域になり、
その「東」は、当然「東シナ海」上になり、
その東方だから、ほぼ九州である事になる。
それが、陳寿の計算。 >>150
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 閑話休題
讃岐(倭王讃)
『宋書』や『南斉書』『梁書』などには、西暦413〜502年の間で倭国王(讃・珍・斉・興・武)の朝貢記事がみえる。
倭の五王といわれ、王の名は一字で表されているが、これは、倭の五王のもとにいた中国系渡来人が、中国の王朝に合わせて慎重に吟味して選んだものといわれる。
倭王「讃」は応神天皇の和名「誉田別(ほむたわけ)」の「誉」(ほむ)の意味を採り出し、用いたものとみられている。「讃(さん)」には「ほめる」意味がある。また、讃・誉(譽)は同義といえる。
これは、五世紀の初頭、誉田別大王(応神天皇)が、「倭国の讃王」を名乗って南朝の宋と交渉をもっていたことになる。
この「讃」を国名に冠しているのが「讃岐国」である。偶然の一致ではなく、「倭王讃」が国名の由来となったとみられる。「讃岐国」は倭王「讃が拓いた国」また、讃が拓いた港を「讃岐」と云い伝えたものが国名になったものか。
記紀で誉田別命(応神天皇)は、難波に大隈宮を設けたと伝えているが、『和名抄』の讃岐国寒川郡難波郷から、讃岐が古代の「難波」の地であったことが確かめられる。
一方、通説の摂津国に難波郷はない。郷がなければ否定されるほど単純ではないが、
応神天皇は難波の大隅の宮、仁徳天皇は難波の高津の宮と二代続けて難波に宮を営んでいるのである。 @阿波 >>151
>てか、倭人関連の史書への會稽東冶の登場は いにしえの倭人が「太白の後」と奏上したが
太白の封じられた会稽と倭は漁労国での刺青は似てても
遠く離れすぎる。 って話だぞ。 これマメな。<
陳寿の計算であり、
「遠く離れすぎる」事など、関係がないし、書かれてもいない。 >>163
「天皇家の大和説先にありき」のアホで、漢文もよめないから、
「南→東」などの大和説とかの、
アホが染まる典型。 >>230
>魏使らは、当然人類の常識通りに「安全最短の原則」であり、
>渡海よりは、島伝いや沖合目視航行を選択するもの。
魏使はもちろん、朝鮮通信使も呼子・唐津などへは一度も着岸していない。
対馬海流に流されて、末蘆国(呼子)は有り得ない。 @阿波 秀吉の朝鮮征伐の拠点は呼子近くの名護屋城だった
呼子が日本と朝鮮の往来の地だったて知らない人が多すぎるな。 >>167
>自分は特別で回りの連中とは違うんだと心の奥底で思っているので
陰謀史観の最たるものである九州王朝説なんかにはまりこむ<
自然や歴史においては、確認された事実からの帰納的推論が、確率が最も高い。
思想宗教的な「結論先にありき」での演繹では、それを否定する自然や歴史事実の発見に拠って、簡単にひっくり返ってしまうもの。
だから、古田さんの「文献考古からの帰納的推論」が、確率が最も高い。 >>168
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 和田喜八郎は大分の歴史愛好家の写真も盗用してるしな >>172
>朝から張り付いて誰も聞いてない的外れなレスを延々とし続けてるキ〇ガイとかだからな
あーこういう奴がキュウシュウセツなんだなとよく理解できる
何もする事がない変な万能感だけを持ってるアホが陥る思考なんだろうなと 哀れになってくるな<
始めから「南→東」などのような、都合の悪い史料事実を 否定抹殺する大和説の・・・・サギシなど、
判ろうと判るまいと、全く関心がない。
世間の皆様が、彼らの嘘吐きダマシに、少しでも気付いてくれれば、それで十分。 >>173
>根拠にならんだろ
それ、東大寺の坊主が宋に持ち込んだ記紀亜流本がネタだから唐は関係ないし<
新唐書は、王年代紀をそのまま踏襲せずに取捨選択し、
唐代記録からの情報とミックスした記載を記載説明している。 >>246
>秀吉の朝鮮征伐の拠点は呼子近くの名護屋城だった
どうして文禄・慶長の役で、松浦の肥前名護屋城に集結したのか?
どうして博多辺りに集結しなかったのか?
名護屋以西は朝鮮出航の地だったからなんですよ。 対馬海流に乗ってね。
朝鮮からの到着の地は、相島経由の福津近辺。 対馬海流に乗ってね。
対馬海流に流されて、末蘆国(呼子)は有り得ない。 @阿波 >>249
魏使はもちろん、朝鮮通信使も呼子・唐津などへは一度も着岸していない。
対馬海流に流されて、末蘆国(呼子)は有り得ない。 @阿波 >>255
>どうして博多辺りに集結しなかったのか?
博多に14万の兵を駐屯させたら街が混乱する 博多に14万の兵を駐屯させたら街が繁盛する 黒田藩が潤う >>235
そんな詭弁は20年前で終わった話で今は畿内説以外に選択肢はない。
行程パズルはもう終わったんだよw 博多に兵が駐屯しなくても、物資を博多から供給すれば街は繁盛する 博多に兵が駐屯しなくても、物資を博多から名護屋に供給したので街は繁盛した >>222
このインチキ計算は何度指摘されてもしつこく言い張ってるが
ばかまるだしだ 名護屋城は石垣を築いて城下町もある城だから
佐賀藩も潤ってるだろ >>241
二上山の麓の地名は誉田だし、葛城周辺には
讃岐由来の地名が点在してますよ。
何より百襲に吉備津彦、他でもない桃太郎も
大和から吉備、讃岐を制圧する話なんですけどね。
つまり讃とは元々どこが本来の意味かは要検討だと思いますよ。 >>259
畿内説が破れかぶれで論理性をかなぐり捨てただけだろう。
もはや学問ではなく、カルト。 >>217
娘の字だ!自分の字じゃない!って苦しい言い訳も
鑑定でウソってバレちゃっやんだよね
w >>269
どうやっても、西日本のすべての勢力は、その源流を九州北部に求めざるをえない。
その年代に開きがあるだけ。
微生物じゃあるまいし、青銅文化や稲作文明が自然発生するわけがない。 >>269
残念ながら北部九州には見当たらないですね。
私は讃岐の名は本来ヤマトの勢力が
瀬戸内海を制圧して以降に付けられた名前だと思います。 もともと大和説であった新井白石や本居宣長が、
「天皇の朝貢」と言う切実な問題に直面、
窮余の一策として打ち出したのが九州説。
わざと論争を起こし、天皇の朝貢と言う問題を宙に浮かせるのが目的。
それが分からず300年間だまされ続けてるアホが九州説w
ゴキブリホイホイに捕まったゴキブリと変わらない。w
ましてや九州王朝説(大笑い)
大衆演劇「古田武彦一座」www
zarakokuも役者として登場、
役柄は「通りすがりのハゲ」www >>277
邪馬台国=畿内ヤマト王権と言う妄想からもたらしたものと考えられる。 >>178
>(記紀の半分×書)それを恣意的に決めるから古田説はインチキなんだよ<
金印や、卑弥呼らや、東海姫氏國や、タリシホコの不在や、
厩戸と善光寺との往復書簡などの史料批判証拠を、何度も幾つも紹介して上げたように、
記紀が「倭國の存在や歴史」を隠蔽し、盗用造作した半分偽書であり、
その「倭国の存在や歴史」が古田さんの九州王朝であったんですよね。 >>179
通説大和説学者やその弟子たちは、
後代の大和の記紀などの「思想宗教的な結論先にありき」の劣化情報から、
ニセ歴史を作るのがふの常套手段だった。
だから、偽書説を捏造して、まともな自然科学者からの信用を失った。 >>180
通説大和説学者らやその弟子らやスレ主は、
大量投稿でのタイムラグを利用しての、一方通行宣伝戦術 。
論戦を逃げている卑怯者。 >>281
同意 スレ主は無責任?言いっぱなし?いずれにせよ卑怯な奴だ >>184
>ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術 論戦を逃げている卑怯者<
世間の皆様が、通説大和説者らやその弟子らの、
「南→東」などの嘘吐きダマシの詐欺に、騙されてはいけないので、
黙過し難い嘘吐き投稿に対して、順番に逐一、反論や嘘の指摘の投稿をしている。 一方通行の奴には何を言っても無駄。
右翼の街宣カーに似たり >>188
>どっちも寿陵だ <
磐井は、寿陵の記録があるが、
磐井の後で亡くなった継体には、寿陵の記録がない筈。
だから、継体の墓が磐井の墓を模倣してそれよりも大きくした。 >>266
>二上山の麓の地名は誉田だし、葛城周辺には
>讃岐由来の地名が点在してますよ。
こちらから進出した証拠ですね。
>つまり讃とは元々どこが本来の意味かは要検討だと思いますよ。
地道に研究しているのは阿波だけなんですよ。 また、実際研究できる環境も阿波だけなんですね。 @阿波 >>191
>畿内のほうがマネしたというトンデモせが笑われるのは 石人山も大仙の縮小コピーだってのが周知の事実だから
しょせん筑紫国造の墓は大和の家来の墓なのよ<
記紀は、「倭國の存在や歴史を隠蔽盗用した」嘘吐きダマシの書であり、
河内や摂津や難波は、倭国の「東征毛人五十五國」における倭国の直轄的支配地であった可能性が高く、
だから、応神や仁徳らも、
倭國の「以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟」の、
「弟」という執政的な武将の「大和側の盗用」であった可能性が高く、
だから、箸墓が那珂八幡の模倣拡大であったのと同じように、
応神や仁徳の方が、筑後の墓の模倣拡大をした、
という可能性が十分にある。 >>194
>わたしは畿内説です。<
この投稿子も、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説詐欺者である事を、
白状して宣伝したいそうです。 >>200
通説大和説学者は史料批判をしない 、
というか、「天皇家一元列島支配教」という宗教的な「結論先にありき」の・・・・サギシであるから、
その宗教にとっては都合の悪い史料事実を隠蔽したり、改竄したりする手法。 白いショーケース、
ガラスのケースの中の人形
誰だったかな、
新婚旅行?に行ったときに
買ってきた人形だと言っていたんだけど 寺澤クンが、纏向遺跡は大和王権の最初の王都で大都市と力説してるが
彼は、纒向以降の王都の変遷の比定地には触れないが、明日香までどのように考えているのだろうか。
彼以外の畿内説論者にも聞いてみたいものだ。 >>293
ヤマト王権は明日香からだから、邪馬台国と関係無い
ヤマト王権の前身は九州か出雲か? 所詮、神話がすきなんだろ?
チンドン銅鐸叩いて、墾田開拓でもしてろよ。
史記を記紀神話と比定したら歴史ですらない。 中傷と悪口雑言と根拠ない言い張りだけで出来てるザラコク
今日も朝っぱらからご苦労さん >>296
君は優秀そうだから答えてくれ
纒向から明日香までの王都の変遷は? 詳しいことは知らないけど、
芸能界というのは、
軍人関係の人物が経営してるの?
日本の話だよ narutoという作品に登場するイタチ=デスラーだという説 すさのお 大国主 すくなひこ・・・?
天下、国を経営してしている
と書いてない? >>206
>素人オジンが専門家の作り上げた共通認識を一刀両断 傲慢の固まりですわ<
その「専門家」というのが
、「天皇家一元支配教」という「結論先にありき」の宗教に染まって、
都合の悪い「南」を「東の間違いだ」という インチキをしている・・・・人種であるから、
自然科学者らには、そっぽを向かれているんですからね。 >>210
>じゃあ今後一切おまえ弥生時代と言うなよ <
嫌だ。
(国や王の話ではなく)、庶民の土器生活史の区分に関係する話なら、
いくらでも使うよ。 >>294
>ヤマト王権の前身は九州か出雲か?
前身が九州なら、それが邪馬台国だな。
東遷説か? >>278
>>>277
>邪馬台国=畿内ヤマト王権と言う妄想からもたらしたものと考えられる。
その通り。
今更、新井白石など持ち出して、畿内説は何を証明しようというのか。
畿内説は常に時代錯誤だ。 >>276
>>>269
>残念ながら北部九州には見当たらないですね。
>私は讃岐の名は本来ヤマトの勢力が
>瀬戸内海を制圧して以降に付けられた名前だと思います。
瀬戸の花嫁いただきました。 >>275
その入り口として栄えたのが九州であり、そこを抑えたものが最も有利になり、倭王となる。
後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸の国で、博多奴国が極南界とある。
中国から見た倭国は九州に他ならない。 >>211
>だから言っても肩透かし ザラコクはタイムラグを利用して、一方通行戦術 論戦を逃げている卑怯者<
だから、(オームのような)大和一元支配教の・・・・宗教カルト人間との議論など成立する筈もなく、
殆ど無意味で時間の無駄であり、
かれらは、史料事実論ではなく、言葉尻口先罵倒宣伝の口数で議論に勝とうとする・・・・であり、
それをゆっくり拾い出して、世間の人々に示す事が出来ればよい、
というだけ。 >>226
>青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』[6] には、
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、
捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、
現在では公的団体も偽書であることを公表している。<
青森県教育庁では、
文部省や、権力大学教授らの学会や、右翼マスコミらの意向に忖度して、従順に従うだけであり、
そんな組織の説明や評価など、何の価値もないよ。 まず崇神の前にトヨがいます。世代では約3世代前です。もちろん最高位の女性です。
そしてその少し前のヒメがいますからこれはもう何度も言い続け、信者を増やす以外にないと思ってます。
邪馬台国論争なんて簡単に決着です。
彼女たちが住んだのは高天原、今の金剛山の麓。大和朝廷発祥地の葛城です。
首長とは生きていくために必要な湧き水の第一利用者ですから、
鏡と銅鐸が同時に出た高天原の水源地の名柄遺跡が畿内X期ですから1世紀頃には高天原の水源を支配していたでしょう。
もはや神代も人代もないのです。そんな区別は7世紀に創られた。
彼らは今では鴨族と呼ばれますが、当時は神、神族。
だから高天原に住む神々は実在したというわけです。
その中にアマテラスもスサノオもいます。
原像となったのはシタテルヒメ(高姫)とアジスキタカヒコネ(迦毛大御神(かものおおみかみ))。
古事記で「大御神」とつくのはこのアジスキタカヒコネ(迦毛大御神(かものおおみかみ))と天照大御神とこの人物だけですから、
なぜもっと注目されないのか不思議でなりません。
スサノオとおなじく暴れん坊ですから、この人物こそスサノオで間違いないと思われます。
ただしアジスキタカヒコネが本名ではないことは古事記の中にも書かれてますからスサノオが本名だと思われます。
実際にはシタテルヒメ(高姫)が妹、アジスキタカヒコネが兄で、シタテルヒメ(高姫)にはアメノワカヒコという夫がいましたから、
神話のスサノオとアマテラスは「卑弥呼と男弟」の関係に似せて創作されたことが分かります。
またオオヒルメなど別名をしきりに強調してるのも卑弥呼と間違えて欲しいと編纂者がエサをまいてるのです。
間違えてくれtるうちは帥升=スサノオだとばれませんから。
安本さんや井沢元彦などは見事にエサに食いつきました。
(続く) 時代はヒメから5世代前ですから、帥升と合います。
帥升が九州だろうとはよく聞きますが、具体的にどこなのか、誰一人言ってません。空論です。
また高天原が九州にあったと言われますが、これも具体的にどこにあったか誰も言ってない。空論です。
高天が原は九州にはない。
ついでにタカミムスビも高天が原(御所市高天)にいました。高天彦神社に祀られてます。ここも見事な水源です。
何のことはない、2世紀ころに葛城に住んでたおっさんやおばはんが神様になっただけです。
何も難しい事はなかったのです。 頭の中がユートピアお花畑なスレ主や孝霊と比べると、鴨厨はやや知的な文章を書くが、結論は間違っていると思う。
鴨王朝は邪馬台国とは関係ない。 かなーり前の話
どうした聖人でも殺したのか?
親戚でも殺されたのか?
という謎のレスがあったり >>229
>東松浦半島から東の糸島半島は見えるから 東南の出発方向を書いたなんてのは苦しいこじつけだな<
魏使らは、出発の説明をしておけばよく、
糸島半島から背振山地や雷山や天山などの、九州内のどの方向に伊都国があるのか?など、判断出来る筈もなく、
後は、案内人が案内してくれるのであり、
伊都国方向など知る必要も書く必要もない。 かなり前の話になるけど
探偵eyeというドラマがあったはず >>231
>呼子に着いたら、そのまま船で唐津湾横断して糸島に向かうな 草掻き分けて陸行する意味がない<
皇帝からの大事な金印や詔書や下賜品を運ぶ事後とであるから、
人類の常識の「安全最短の原則」に従って、
唐津湾横断渡海よりも、
出来るだけ沿岸航行や、海岸沿いの陸路を選択するもの。 以前から書いているけど、
家は伊達郡というところの出身だよ >>287
阿波だけを研究してもダメですよ、所詮は九州説と同じ間違いをします。
まず畿内周辺も徹底的に調べてみる事ですね。
畿内説以外の人たちはあまり無知すぎるのは困ったもんです。 以前から書いているけど、
頭の病院に行ったほうがいいぞ 邪馬台国が一定の場所にとどまっている文献が無いのに 頭の病院に行けと言っているんだよ、
かなーり前から気づいていると思うんだけど >>320
移動したという文献もない。
特に、九州から畿内に移動したという記録も魏志倭人伝にはない。
ああ、記紀の神武東征と、旧唐書の日本国による倭国併合はあるね。 以前から書いている、
お前の事なんて知らないんだけど 邪馬台国がポリス都市国家のような過程を成しえていたと考えられない時点でどうなんだろう? 倭人伝には邪馬台国に関する情報は極めて少ない事を認識しないとね。
個人的見解では女王国は瀬戸内海の周辺諸国、
邪馬台国とは信貴山周辺にある、女王が誕生したという場所の事。 豊玉姫、玉依姫の伝説伝説お米の話を考えてみても南方由来の可能性がある。
伊勢の内宮外宮にも近いものがあるよね 未だスレ主
解答が無い
纒向から明日香までの都の変遷
証拠が無いのなら、纒向が初期ヤマト政権なんて妄想。 今日も飲尿カルト信者が意味不明ないことを喚き続けているなぁ
ジジイの小便で脳ミソもイカれるとこうなるんだな
怖い怖い 記紀に書かれてる事を妄想扱いかよw
日本人とは思えん。 『聖化 日神 日霊 津』
『天子神璽』
>天帝より授かり
と書いてあるでしょ、正統(正当) >>310
帥升は北部九州である
高天原は九州にある >>317
畿内だけを研究してもダメですよ、所詮は阿波説と同じ間違いをします。
まず北部九州周辺も徹底的に調べてみる事ですね。
九州説以外の人たちはあまり無知すぎるのは困ったもんです >>327
信貴山周辺にいっぱい田んぼがあったのか dead end??
真の紛いモノと言っていたり
明治頃に作られたものだから・・・・する必要はない
という記事(サイト)もあったでしょ やりたくないからと言って、
わざと逮捕されたりする人が、
いるのかもしれないよ
終身官とか、
そういう家の人の話 >>338
北部九州は調べれば調べる程伊都及び奴国でしかありませんから。
邪馬台国の可能性が一番無いのが北部九州です、これは断言できますね。
また畿内なら葛城地方は弥生時代における一大水田地帯ですよ。
河内湖周辺もそうですし、摂津辺りも広がっていました。 酒を飲んで警察の世話になる、
自転車を盗む・・・とか また信貴山周辺、シキという古地名は河内の柏原から
奈良桜井に及ぶ範囲を指しています。
これはナガスネヒコの移動していた範囲とも重なりますね。 >>342
北部九州が伊都国、奴国の2つだけなわけないだろ
倭人伝にいっぱい国が記述されてるだろ 授かった。
誰々から貰った眼。
抜け忍・・・。
実際は、やりたくないから、
後は、お前に任せた(押し付けて)みたいな話だと思う
老婆も、同じような事を言っていた、
駆け落ちみたいな話が何やら 確か、むかーし伊達郡というところに
住んでいたことがあるんだよ
と言っている
謎の名字辞典にも同じような事が書いてあったり、
駆け落ちが何やら
家と同じ名字? あの謎の名字辞典
サ行だよ、読み方「ス」
何なんだろう もともと大和説であった新井白石や本居宣長が、
「天皇の朝貢」と言う切実な問題に直面、
窮余の一策として打ち出したのが九州説。
わざと論争を起こし、天皇の朝貢と言う事実を宙に浮かせるのが目的。
それが分からず300年間だまされてきたのが九州説者。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 この話だけでも、何かおかしいと思う
むかーし住んでいた家には、
本や書が沢山あった。
謎の刀、凄い刀が飾ってあった。
とか >>354
卑弥呼は天皇じゃないんだよ
国粋主義者の妄想とかどうでもいいんだよ >>354
畿内説はいつまで時代錯誤なことを叫んでいるんだ?
だれも新井白石や本居宣長の説を支持しているわけではない。
九州説という名前は同じでも、中身はまったく違う。
特に、平原遺跡の発見後はまったく伊都国の位置付けが違う。
そんなだから畿内説はますます信用されなくなる。 >>320
>邪馬台国が一定の場所にとどまっている文献が無いのに
畿内東遷説 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【機内説(主にスレ主)が主張する東遷】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された ・日本海沿岸には銅矛がさほど分布しない
・紀元前には丹後扇谷に大規模鉄工房建設
・四隅突出が一斉に建築されるのは、倭国大乱の前中期=狗奴国がまだ元気
以上から、
北部九州倭国が日本海を新潟まで制圧したのは、
オオクニヌシ=銅矛より前、
スサノオが九頭竜川の非倭人勢力=ヤマタノオロチを倒した
紀元前であろう。
四隅突出は、邪馬台国が戦時体制として、
もともとの倭種属国だった日本海沿岸の邪馬台国側地域の
支配体制を強化したのだろう。
水軍にとって要衝である丹後若狭だけは邪馬台国直轄
アマテラス=北部九州倭国の倭国王
スサノオ=東方(=日本海沿岸)担当の王族将軍
ツクヨミ=北方担当の王族将軍
半島領土を失ったので、月読神社は壱岐にしか残っていない
スサノオは日本中で祀られている
オオクニヌシとは一人の英雄で、
既に日本海沿岸に分布していた倭人倭種領主と次々に縁組して、
銅矛を旗印に瀬戸内四国へ倭種属国を拡大した。
出雲に新首都を作り強大になったため、老年に粛清されたのだろう。
(荒神谷や加茂岩倉) >>330
こいつ狂ってるな
纒向から明日香までの都の変遷の証拠が無いと
なんでまた、纒向が初期ヤマト政権なんて妄想だァ! と言うのか意味不明
味の素のフタが赤くないと畿内説は正しくないとか言い張るのと同じレベルの発狂具合だ
根拠を出せといわれてもなぁ。
文献、考古、宗教、地勢各分野別で本10冊位は欲しい。
商業ベースなんてのるわけがないのわかってるから
本出さないかと言われてもOK出さない(出せない)理由なんだよ。 ここまで、徹底的に論破されたのに、畿内説を連呼するのは、狂人のなせる業か、、、、 『川崎区 サメ』
『サイバーパンク special』というのも、この辺りの話でしょ スレを呟き荒らししてるクセに論破したとか、マジもんの凶人だなw 邪馬台国というより東アジア史において神仙思想は
勿論重要な部分ではある。
「大物主を誰が殺したか?」なんてタイトルで仏教史に切り込もうか? >>371
なかなか刺激的なタイトルだこと
孝霊厨が書いたらベストセラーになるだろう >>365
纒向を初期ヤマト王権の都としたことが間違い。
其の後、衰退して突如飛鳥に返り咲いた王権なのかな?
纒向から明日香への変遷が分からなければ、纒向を初期大和王権なんて断定できない >>371
根拠なんていらないから、
その大物主がいつ何処にいたか、教えてもらえないか?
三行で書けるだろ? 天皇を呼ぶのに「〇〇の都に天の下しろしめす・・・」とその天皇の都が書いてあるだろう
天皇が代々都を転々としてるからその都を指してその当該の天皇を呼んでいる
都の移転についてもどこどこに遷されたといちいち書いてある
例えば推古天皇の豊浦宮とか、用明天皇の池辺双槻宮とか
都の移転が書いてないとかなにいってんだか 特に初期の天皇は代々頻繁に都を移してる
で、崇神天皇らからしばらくは纏向周辺を動いてその後にそこから離れて別な所に都を構えている
古墳の分布などとも対応していて初期の権力の動きが見えて興味深い傾向が分かる >>375
理由もなく
纒向から明日香への変遷が分からないと纒向を初期大和王権と断定できないとか
意味のわからないことばかり口走る狂人 この系の連呼バカはバカの脳内では「凄い指摘をしてやった!」と思って得意満面なんだろうなと思うと失笑しか出ない
本なんて一つも読んだことない飲尿信者だから仕方ないけどね >>379
自分打たれてるのに他人が打たれてると妄想してる人には医者が必要 >>377
大物主の実態は海を渡って国作りを助けた人物だから
一番相応しいのはギリシャトート王の教えを持たらした人物。
百襲のヤマトトトヒの名とも一致する。紀元前からだろう。 ウソならまだ良いけどね
アリもしない妄想を喚いてるだけだからな
飲尿読本を聖典として崇めてるカルト教団だから会話するだけ無駄 >>290
反日運動家の古田は高校教員に採用してもらえず各地を渡り歩いて、
ザラコクのような日本人や天皇を心底憎む奴らを集めたんだな
史料批判無し、考古無知の罵声だけの集団が残った それにしても、おかしな話
あの笠の人形でしょ
たしか新婚旅行か、どこかに行ったときに買ってきた
と言ってたよ 纒向に王都が有ったのはいつからいつまで?
明日香まで都が転々としてる?
根拠は?文献は?転々とした場所は?
見苦しい回答だな
WWWWW 天皇のおられるところを首都だとすると,日本の歴史でいったいいくつの都道府県に首都があったことになるのか。
臨時の行在所や賠都などをどう数えるかが難しいところだが、いちおう、広めにとると、東京・福井・滋賀・京都・奈良・兵庫・山口・福岡・広島の9都道府県になる。
福井と山口は、仲哀天皇と神功皇后のおられた敦賀(気比)と豊浦(下関)だ。福岡は仲哀天皇と神功皇后の福岡(香椎)と斉明天皇の朝倉市(広庭宮)。
この朝倉のあたりは、邪馬台国の候補の一つだ。 滋賀県には、大津市に景行・成務・仲哀天皇の穴太(高穴穂)、天智・弘文天皇の大津、淳仁天皇の保良宮、聖武天皇の紫香楽と四箇所もあった。
京都は平安京のほか、継体天皇の長岡京市(弟国)と京田辺市(筒城)、聖武天皇の木津川市(恭仁京)、桓武天皇の長岡京だ。
大阪は、仁徳・孝徳・聖武天皇の難波京のほかに松原市に反正天皇の丹比柴籬宮、八尾市に称コ天皇の八尾市由義宮もあった。
兵庫県は安徳天皇の神戸市福原京だ。広島県は何だと思われるだろうが、日清戦争中には広島市に大本営が置かれ、国会もここで開かれた。 飛鳥の地・・都のような機能を持った地域
↓
難波宮(651年造営)
↓
近江大津宮(667年造営)
↓
飛鳥浄御原宮(671年程度)
↓
藤原京(694年遷都)
↓
平城京(710年遷都)
↓
恭仁京(およそ740年)
↓
難波宮(およそ740年)
↓
紫香楽宮(およそ745年)
↓
平城京(745年遷都)
↓
長岡京(784年遷都)
↓
平安京(794年遷都)
↓
福原京(1180年遷都)
↓
平安京(1180年遷都)
↓
東京(1869年遷都) トト=楽器の開発者とされる、
ピラミッドの建設方法を人間に伝えたのもトトであるとされる。
大物主の象徴ね。
シナイ半島ではトルコ石や銅鉱石を採掘に行ったエジプト人の守護者として、
「遊牧者の主」、「アジア人を征服するもの」と呼ばれている。
トトの主=トキ 未だスレ主
解答が無い
纒向から明日香までの都の変遷
証拠が無いのなら、纒向が初期ヤマト政権なんて妄想。 >>394 そうは思わんが
神功皇后が卑弥呼だとしたら福岡(香椎)が邪馬台国の王都ですな?
>>381くだらんカキコミしたな 畿内説の優秀な論者いないのか?
一発で明日香までの王都の変遷否定されてるじゃん。
勝馬に乗る
>未だスレ主
解答が無い
纒向から明日香までの都の変遷
証拠が無いのなら、纒向が初期ヤマト政権なんて妄想。 > なんか最近新しい発掘の成果はあった?
おしえろください >>377
>その大物主がいつ何処にいたか、教えてもらえないか?
おれが代わりに答えよう。
大物主は4世紀、崇神の頃までいた。
そしてモモソ媛の亭主であった。
名前は建飯賀田須命。
太古から続く古代出雲王朝のラストエンペラーだ。
日本書紀には出てこない。
当たり前だ、朝廷が最も恐れた名前だからだ。
崇神がこの人物を殺し王位についた。
そして形代をとり、その時の血塗られた刀と鏡を放逐した。
一時期この二つをヤマトヒメが預かってた。
コロさねばならなかった理由が尻もちをついてホトに箸が刺さったというモモソヒメの死だ・
もちろんこれは本当かどうか怪しい。
かつて三王朝交代説というのがあった。
これは空論だ、なにも証拠がない。
実際は逆なのだ。
日本で一度だけクーデターがあった。
今の天皇家はそのクーデターをおこした側の末裔だ。
クーデターを起こされたのは高天が原に住んでた神々の末裔なのだ。 @八咫鏡(やたのかがみ)
アマテラスのご神体でも何でもない。
崇神の母系・物部が日本に持ち込んだ外国の蕃神。
行き場がなくて今でも伊勢神宮境内を20年に一度ウロウロ。
A八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
出雲振根事件の際に出雲から奪った物であろう。
B草那芸之大刀(くさなぎのたち)
ヤマタノオロチ云々はもちろん嘘。
スサノオことアジスキタカヒコネ(迦毛大御神(かものおおみかみ))が持ってた神度剣であろう。
この奪った剣で建飯賀田須命を殺したのかもしれない。
つまり三種の神器は崇神によるクーデターの証拠。
気味が悪いから皇室は伊勢神宮に行かなかった。
熱田神宮には行ったっけ?
たぶん行ってないだろう。 いい加減に気づいたほうが良い、
日本の話ではないと書いてあるはず Mariah Carey『All I Want For Christmas Is You』
この曲の話、老婆の話と同じような?
空耳と言っていたり >>381
>で、崇神天皇らからしばらくは纏向周辺を動いてその後にそこから離れて別な所に都を構えている
纒向は崇神以降、4世紀ということでよろしいな。 平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
3世紀の平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 ++++++++++++++++++++++++
日本の民主主義が崩壊するぞ!
安倍は憲法改正で 国民の主権と
基本的人権を奪うつもりだ。
http://www.data-max.co.jp/280503_ymh_1/
マスコミは9条しか報道しないが 自民党案の
真の怖さは 21条など言論の自由を奪うことだ。
https://www.youtube.com/watch?v=h9x2n5CKhn8
上のビデオで 自民党は 日本人に基本的人権
は必要ない と言っている。
http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/31687
都民ファーストも 大日本帝国憲法を復活させ
ようとする 安倍自民の別働隊だから注意。
国政では 売国移民と 小池ファーストには
投票しないように。 民主主義が崩壊する。
万が一の国民投票に備えて 安倍自民の真の
怖さは 9条以外にあることをネットで広めてほしい。
++++++++++++++++++++++++ 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を算出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。 >>414
邪馬台国を侮辱するんじゃない(米食うな 本当にdead endだよ
掠め取られる・・・
と言っている曲があったけど、何かあったのかな
未来日記? >>408
こいつも発狂してるよね
脈絡のない発言ばかりしてる テンプレから初期ヤマト王政を外せばいいだけ、
説としては、まとまりが有ると思う >>420
テンプレは初期ヤマト政権について語っているのに外したら
なにが残るんだ >>416
subo
米食うな? 厚かましいガジンだな 何でテンプレが詐欺のように感じる文章なのかわかった。
推定や仮説に過ぎないことを断定的に書いているからだ。
文系ではどうなのか知らないが、理系の世界ではやってはいけないという書き方のテンプレのように禁忌を踏みまくっている。
まともな科学教育を受けた人間は、決して受け入れることのできない文章だ。
自分のところにこの文章が査読で回った来たら、速攻で落とすだろう。 >>420
つか、外す理由は?
????????
?????
???
? >>423
断定的に書いているって
具体的にはどれのことよ >>423がまともな科学教育を受けた人間でないことは皆が知ってる >>423
自分が査読するような立場みたいに騙ってるとこが笑いのポイント >>425
>>1
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
他、多数。 >>423
に賛意を示します。
テンプレは参考文献の継ぎはぎだから
矛盾が生ずる。スレ主なりの畿内説を確立すべき。
まだ、道半ばだから修正や加筆が入り、よりややこしくなっている >>426
井手ちゃんぽん?もやしの量が多いだけの佐賀のちゃんぽんなんか食うかw
ちゃんぽんの本場は長崎だ スレ主は、規定の文字数でまとめて相手に内容を伝える訓練とかを受けていないと思うよ。
小論文とかで、90分以内で1600字以内にまとめよ、とかできないだろうね。
ゆとり世代の低能力者だよ。 >>438
畿内説の内容が濃いだけだろ
短くする必要なし >>255
全くの嘘を吐く@阿波
名護屋から出撃し名護屋に帰還してます
対馬海流に流されたりしてませんwww
古来より呼子が中継地
倭人伝の方位は30度程度しか間違えていない。 >>425
>>423では無いが
1番の断定は
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >
だから以降の文も断定的と思われたり、
スレ主自身断定口調になるのでは? 結局なにも畿内説に反論できないので
タラタラ悪口だけ言ってる無能なじいさんだろ キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている >>442
じゃ、アホな錯覚してるって恥の告白だな 悪く言うわけではないけど、
山田物語だよ
一連の作品なんかも、そうだと思う、
ヤマダと言っても、どのヤマダなのか・・・なんだよ >>442
無学無能なのでその部分しか読めないのがキウス とある山田氏
wikiを読んでみると・・・という設定と書いてあったり >>442
そこに異常に執着してるいつものアノ人でしょ >>443に回答を委ねますヨロシク
>未だスレ主
解答が無い
纒向から明日香までの都の変遷
証拠が無いのなら、纒向が初期ヤマト政権なんて妄想。 > 畿内説とか遠の昔に破綻してるのに
何時までグダグダ言ってんだかw >>437
野菜増しだともやしでカキ氷みたいになるしな
平戸のあごだしちゃんぽんもいいぞ、かまぼこは川内かまぼこだからな >>442
>スレ主自身断定口調になる
って具体的にどれのこと? >>452
どこが破綻してるのかね?
具体的な話が全くできない無能キウスのファンタ爺 >>451
どうして
纒向から明日香までの都の変遷の証拠が無いと
纒向が初期ヤマト政権なんて妄想だ
ってことになるのかな?
なんども質問されてるのに
あなた逃げ回ってばかりだね >>461
ほら、また具体的な内容がない
これがアンチの特徴 >>441
>名護屋から出撃し名護屋に帰還してます
全くの嘘を吐く糸厨 キウスの特徴
何も読んでいなくても言える内容の「批判」しかしない >>460
質問に質問で言い返すのいただけません
ちゃんと回答してから・・・・・・・・不明であれば不明の回答でも良い
これ議論では常識です
相手の根拠の矛盾点や問題点を指摘して、その主張は成り立たないと主張する
別の根拠を持ち出して、相手の主張は誤りであると主張する
情報や証拠の不足を指摘して、相手の主張は成り立たないと主張する
相手の主張は認めるが、その重要性がとるに足らないと主張する
相手の主張は認めるが、現状の改良で同じ効果が得られると主張する >>467
それが全くできないのが畿内説を批判してるつもりの爺さんね >>467
>質問に質問で言い返すのいただけません
質問の不備が指摘されてるだけ
それが理解できないのは無脳
w >>467
おいおい>>460が質問に見えるって
頭悪すぎない? >>451は
発言の根拠の矛盾点や致命的な問題点が指摘されていて、その主張が成り立たないと立証されてる どのスレだったかな、
このような事を言っている人がいたよ
誰の話なんだろう
「自分のwikiなんて作っちゃってwwwwww」 纒向から明日香までの都の変遷の証拠が無いなら
纒向が初期ヤマト政権なんて妄想だ
って論理が破綻してることは
なんども指摘されてる
>>469 不備はどこに有りますか?
何が言いたいのかが分からないという事ですか?
纏向を邪馬台国の王都と主張するのは自由です。
しかし、初期ヤマト王権の王都とするには明日香までの王都の変遷の肉付けが必用です
王都の変遷でも無くてもいいですが、空白を埋めるヤマト王権の歴史を語るべきです。
空白も埋めきれず、突然初期ヤマト王権と決めつけるのに疑義を感じているのは私だけでは無いでしょう
>>478
「初期ヤマト王権の王都とするには明日香までの王都の変遷の肉付けが必用です」
という主張に根拠がないことが致命的な不備ね >>478
初期ヤマト王権と決めつけるのに疑義を感じる理由は? >>478
質問に質問で返されてるんじゃないこと、理解できた? もういいかも
結論
纒向から明日香までのヤマト王権の都の変遷は分からない、調査中ぐらいで
寺澤が先走ってしまったかも、邪馬台国の王都は纏向まででやめときゃよかったのに
次に進もう いくら演技してもキウスとバレちゃう理由がわかった?
どれもキウス独自で固有の妄想を語ってるからだよ オフトピが正解
邪馬台国を語るスレ ヤマト王権を語るスレでは無い
テンプレもいかん スレタイも邪馬台国畿内説
初期ヤマト王権畿内説ではない >>486
チガウ
ヤマト王権を持ち出さないと畿内説はボロボロになる 二本松、あの周辺・・・、
近所に住んでいたのかな
□□力夫氏とか >>486
なんで
邪馬台国=初期ヤマト王権
でいかんと?
理由ひとことも言わずに、バカじゃね? >>487
初期ヤマト王権=畿内説でない畿内説って
存在しないだろう なんだよ、久し振りに覗いたが、結局、理論的なレス0じゃねえかw
直感的にはやっぱり筑紫平野っぽいwww テンプレから、ヤマトやヤマト王政はずせばいいってこと? >>495
初期ヤマト王権は畿内であるが邪馬台国は北部九州である >>501
いつまでも理由の言えない馬鹿爺が居座る ばっっかだなー
理論を投げ出せるつうか、諦める知恵、つまり、無知の知、わからねーなら、おまえ、バカwww >>497
つまり理由もなく畿内説を取り下げろと
ダダを捏ねる偏執狂じいさん 纒向から明日香までの都の変遷の証拠が無いなら
纒向が初期ヤマト政権なんて妄想だ
と、ひたすら言い張るが
いくら聞かれても
そう主張する理由が答えられない薄馬鹿
それが、キウス東遷厨 ここは、バカががんばるスレかw
せいぜい、ヤマタイコクを楽しめよwwwww >>509
流れをつかめよ
1.テンプレ
↓
2、疑義
↓
3、回答無しで2に言い返す・・・これあんた >>455
>>>442
>>スレ主自身断定口調になる
>
>って具体的にどれのこと?
スレ主、匿名でなくてもいいんだよ。
反省さえしてくれれば。 >>466
>>>465
>明らかに読んでない「批判」しかしない
読む価値のないテンプレ。
文章の質が低いと、内容以前の問題なんだよ。 >>498
間が空き過ぎているから、その間の連続性もないかも、ということだろ。 >>506
イミフ
九州から誰かが東遷しないと、畿内に邪馬台国なんて成立しないだろ >>455
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である
邪馬台国九州説にとって絶望的である
/////////////////////////////////////////////////
いっぱいあるから自分で探せ 畿内説なんて、後々の奈良の都の幻影を500年も遡って投影しただけ。
でも考古学的にはずっと空白。 >>481
根拠が示されていないから疑義があるんだよ。
そうだというなら、証拠を示せよ。 >>540
考古学的に全国的な政権と認識されている事実 >>541
>>1
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
>この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある >>546
テンプレが根拠もなく妄想だらけなこと。 >>529
>理由かないのが、東遷説
畿内説のことですね。
わかります。 どうも気になるが、「東遷」という造語は、王が国ごと引き連れて移住するって
事だよな?
神武記にみる一行の勢力は、せいぜいが大隊クラスで、それも各地を流浪の旅w
客分として屯田でもしながら移動した風情でしかない。如何に長髄彦がエリアの
王として強力であっても、九州勢力を挙げての攻撃なら流石にひとたまりもない。
鉄器の優勢だけでも、圧勝するよ。
それが、実際は兄二人を失い遙か僻遠の熊野まで落ち延びたんだよ。
統一国家で例えばレコンキスタの後カルロスが首都を移すってのとは訳が違う、
弥生の王=大稲作地帯をそのまま残して攻め取りで敵地に遷都するなんて、あり得ない。
当然鉄やその他の資産設備や人口も残していくわけだろ?後は誰が支配するんだい?
実際は、王族の一部か、九州で芽が出ない一族が新天地「うまし国」を求めて出ていった
って程度の話だよ。 >>555
いや、バカは一人しかいない
自演じいさんだ はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ 東遷説に文句があるなら邪馬台国の怪にでも投稿しろよ 結局
纒向から明日香までの都の変遷の証拠が無いなら
纒向が初期ヤマト政権なんて妄想だ
と、ひたすら言い張ってたが
いくら聞かれても
そう主張する理由は答えられない
それがウス馬鹿すぎる痴呆老人、キウス東遷厨 >>548
通説の悪口いうだけでなにも反論できないから
東遷説は滅んだ >>567
通名と似ているな。
中身も似たようなものだな。 力夫氏のwikiも出来すぎている?
>遍歴僧に化け3か月滞在した。
>たびたび馬賊の天鬼将軍と宴会を開いている。
『天鬼将軍』 盗人にも三分の理というが、キウスには一分の理もない テンプレは願望と妄想で根拠がないな
私はこう思うからこうだ、こうに違いないwww
これじゃ全く意味がない。 名無しのスレ主お疲れさん
たまには論戦しろよ、罵声とオーム返しばかり 続き
根拠が無いから疑義がある・・これ銘文
はやく空白埋めることだな 学生をいじめちゃダメ
畿内説の将来を消すばかりか
日本の考古学から離れていく
それでいいのかな >>581
釣り師だろ
ここの漁場は畿内説の雑魚しか釣れないがな これから
あの写真がどうたらこうたらとか○✖力夫とかカキコム奴の時間帯 それにしても『続』シリーズだよ
グーグルなどで調べてみて、画像 ヤマト王政の都の空白ってここ..
纒向(初期ヤマト王政の都)
↓
↓ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・空白
↓
↓
飛鳥の地・・都のような機能を持った地域
難波宮(651年造営)
近江大津宮(667年造営)
飛鳥浄御原宮(671年程度)
藤原京(694年遷都)
平城京(710年遷都)
恭仁京(およそ740年)
難波宮(およそ740年)
紫香楽宮(およそ745年)
平城京(745年遷都)
長岡京(784年遷都)
平安京(794年遷都)
福原京(1180年遷都)
平安京(1180年遷都)
東京(1869年遷都) キウスが他人の振りで連投・多投
既知害は死んでも治らない >>591から
纒向が初期ヤマト王権の都として
徐々に勢力が小さくなっていき、名ばかりのヤマト王権に成り下がった
そこで、勤王の獅子らしきものが
飛鳥で王政復古
妄想だが >>593です。またまた妄想
勤王の獅子=百濟人?
白村江の戦いを見直す必要があるかも
白村江の戦い
天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、
倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。 そうじゃない。
もともと王権なんかじゃなかったんだ。 白村江の戦いで負けるまで、倭国の王都は筑紫にあった。
畿内は小さな分家に過ぎなかった。
白村江で筑紫倭国が滅び、畿内日本国が政権を握り、筑紫も併合したんだよ。 かなり前の話になるけど、
とあるゲームスレ
チートなんじゃないのか?
と言っている人がいたけど、何なんだろう 663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。 もう少し一人であそぼ
初期大和政権は纏向に都があった
↓
古墳づくりで財力を無くし衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・空白の歴史
↓
百濟人(九州倭人と百済人でも可OR九州藩?)の力を借りて王政復古
↓
百濟人の恩に報いるため・・白村江の戦い
妄想は続く…おしまい もう少し
王政復古の時、天皇が九州の王と入れ替わった
古墳づくりが致命傷、政治に力を入れるべきだった >>598
それもありだな、
邪馬台国は九州にあり、邪馬台国が大きくなったか、邪馬台国に代わる九州の国の盟主が天皇
東に勢力を伸ばすため百濟人を活用 九州にあった朝廷が、畿内のバカ国に古墳づくりなんて馬鹿げた政治は止めろと介入
大きな古墳なんて一つや二つでいい。
其の後、畿内のバカ国は朝廷に没収される。そして九州から畿内に遷都。
バカ国の悪態を正すため仏教を活用・・・・バカ国真面目になりなさい
妄想だがね アホ「空飛ぶ円盤の謎が説明できなければ畿内説は成り立たないおー! 説明しろ説明しろ!」
常人「ナニ言ってんだコイツ?」
アホ「説明マダー? 説明マダー?」
常人「空飛ぶ円盤が邪馬台国と何の関係あるんだ?」
アホ「質問に質問を返すな! 論には論を!」
常人「何やこれ?」
アホ「円盤だよ円盤! ほれ畿内説窮地! ヒッホッハ!」
常人「ほっとくか……」
アホ「円盤は金星人だと思うな。円盤は以下略」
(イマココ) >>598
中国側の史書に倭国を占領したとどこにも出てこないのはなぜ? 旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。 >>605
ボディブローが効いてきたようだ
WWWWWWWWWWWWWWW 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 >>607
横からすまん
表現として占領じゃなく駐留が正しい
律令制を学んだと思う 卑弥呼がいた倭国は九州。
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王であることに注意。
邪馬台国は都のあるところ。 663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。 筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>611,>>612
どこから引っ張ってきたのか知らんが、妙に納得 >筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
え?都なんてないのに没落って…www >>608
この人、いつもこういう妄想に溺れてて滑稽なんだよね >>614
賛成だけする投稿は大抵が自演
例外はザラコクくらい 邪馬台国も卑弥呼も中国の文献に一度登場しただけ。日本側の史料には一度も出てこない。
どこにあったのか、魏志倭人伝を読んだって場所すらわかんない。
その時代かそれ以降にはヤマト王権が存在して、まもなく大和朝廷が日本列島のほぼ大部分を平定する、統一王権に発達する手前の時代。
ということは、可能性は二つしかない。
大量の矛盾を全てガン無視して、邪馬台国が大和王権に発達したか、もしくは大和王権が全国を平定する際に邪馬台国を併合ないし滅ぼしたか。
いずれの結論にしても日本史を検証する上ではさして影響のない。 >>617
歪んでるね。>>614だが、彼とは無関係です。
君の心根じゃ、これも自演になるのだろう。
また、自演は悪い事では無い、中身が問題 >>618
そのヤマト王権なるmpのが存在したという根拠は?
中国史書ではずっと筑紫倭国のターンだよ。 >>618
大量の矛盾って何?
????????? >>619
自演狂いのキウス以上に歪んでる人はいないよ、いつものお爺さん >>619
悪いことしてる自覚がないナチュラルボーン犯罪者だな
我らがお前をヒッキーさせてることは大層社会貢献になるだろう >>612
倭国の都に乗り込まれちゃ、倭国はお仕舞になっちゃってるよ。
九州が倭国の都じゃなかった証拠。 >>628
そう。
だから8世紀以降の文献には倭国ではなく日本国として畿内が登場する。 スサノオは別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。
『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。
天照大御神こと高姫(シタテルヒメ)は実際は妹。
2人とも高天原(御所市高天)に実在した。
最高神・迦毛大御神ことスサノオ。
107年洛陽に渡り中華皇帝・安帝に土下座朝貢。
そこから日本神話の創作が始まった。
天照大御神は卑弥呼を意識して「夫がいない、弟がいる、別名、大日孁貴神(おおひるめ)」などと創作された。
後世の人間が卑弥呼と間違えてくれるようにエサを撒いたのだw
実際のヒミコは5世代後。
■2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神 唐の傀儡となった畿内日本国は遣唐使を送り律令制を導入する。
天皇制も天智天武の頃に制度化される。
これらの大きな変革は、筑紫倭国から畿内日本への政権交代の一部と考えるとわかりやすい。 >>629
旧唐書には倭国(阿波)と日本国(大和)が分けて記載され、「倭国(阿波)は8世紀に日本(大和)に遷都し、倭国(阿波)の地を併せたり」とある。 @阿波 >>631
筑紫倭国なんて稚拙なデッチ上げしてバカじゃないの? >>613
筑紫倭国は滅亡していない、源氏の時代は筑紫倭国の時代なのである 筑紫倭国の滅亡が7世紀後半なら、3世紀の倭国女王である卑弥呼の都である邪馬台国は筑紫しかありえない。
そもそも畿内説は倭国というものを理解していない。
後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸の国で、都はその南の端である博多奴国とされている。 筑紫倭国は大宰府から飛鳥、鎌倉、京都(室町時代)、江戸などへ遷都した 赤組・・・狗奴国、畿内ヤマト、百済、平氏、南朝(楠木正成、織田信長、水戸黄門、吉田松陰
白組・・・邪馬台国、出雲、新羅、源氏、北朝(足利尊氏、明智光秀、徳川家康、松平容保 >>639
>筑紫倭国の滅亡が7世紀後半なら
筑紫倭国など、もともと存在しませんから @阿波 三世紀の北部九州に14万戸も詰め込んでどうするw
考古学を完全無視するなら別だが。 何の謂れもない所にヒミコが住み墓もあるなどと言っててむなしいだろ。
九州にはそんな謂れのある場所は一つもないではないか。
翻って箸墓古墳のある纏向はどうか。
謂れのほとんどがニギハヤヒなどの物部に関わるものだ。
しいて言えば日本書紀の取ってつけたような箸墓のモモソ媛伝承があるくらい。
ならばモモソ媛を卑弥呼に出来るのか?
出来ない、時代が違うし一皇女。
どこが女王なのか。
では謂れのある場所は他にないか。
あるではないか。
高天が原(御所市高天)だ。
日本最古の神社が迦毛大御神ことスサノオと、シタテルヒメ(高姫)こと天照大御神を祀ってる。
ヒミコはこの兄妹から5世代後にいた。
高天原にいたのだ。 ヤマト=邪馬台国とは日本の事や、もう畿内説に決まったんだよ。 >>642
源氏物語の舞台は大宰府なのである
つまり源氏の発祥は北部九州である、忌部氏(平氏、南朝)は阿波 筑紫連呼してる連中は頭がファンタジーなんだよな
ただの妄想願望だけじゃん。 >>644
モモソには讃岐や香川、愛媛にも数々の伝承を残している。
つまり海人の女王なのである。
葛城の姫にはそのような話が見当たらないからダメ。 ファンタ爺の発言はゲップに過ぎない
内容がないので 知識が無い奴はすぐ九州王朝やら東遷とかファンタ自慰に走る。
ファンタ自慰は浅くて見てられない。 >>644
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 電波を感知しました。 |
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_ ビビビ
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(__)_) >>618
>邪馬台国も卑弥呼も中国の文献に一度登場しただけ。日本側の史料には一度も出てこない。
いや出てきてるのに気づいてないだけ。
本居宣長なんて速攻で見抜いている。
しかし当時はそれが誰なのか言えなかった。
古代日本の中華への朝貢というプライドに関わるためだ。
だから熊襲の女酋長などと言ってごまかした。 >>650
なんで讃岐や香川、愛媛にも数々の伝承を残さなきゃいけないの?
初代皇后さまで充分だ。
知らない人間がおかしい。 >>649
畿内説こそ、文献も考古学も無視している。 >>661
>なんで讃岐や香川、愛媛にも数々の伝承を残さなきゃいけないの?
徳島で生まれ育ち、香川で活躍したから伝承が残ったんですよ @阿波 >>665
屁理屈言うな。
7世紀に創られた皇后という称号は実際には女王であった人物の格下げだ。
大王ではなかった神武を天皇にするためだ。 >>672
それは九州説の、しかもかなり特殊な一派で考古学には無知な人だけが主張してるトンデモ説だろ >>678
ほら、中傷しかできない
つまり九州説は敗北しました 今日もジジイの小便で色付けた本を聖典として崇めてるカルト信者が教祖様の教えを受信して叫んでるのか >>676
ほら、中傷しかできない
つまり畿内説は敗北しました >200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ
>>674=>>676
説じゃなくて現実結果なのだが。
そちらこそそうでないという証拠は? >>649
>筑紫連呼してる連中は頭がファンタジーなんだよな
>ただの妄想願望だけじゃん。
もうちょつとまともな反論プリーズ >>681
根拠ある事実の指摘は中傷にあたらない、 >>687=>>688
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ
集落部分からの鉄器ゼロ
墓内部からしか鉄器が出ていない
集落部分からは代わりに木器が出土
ホケノが集落部分と同じ時代という証拠なし >>689
ホケノ山が三世紀だというのは通説なんだが >>688
製鋼遺跡や大量の砥石が出てることは
マルッと無視かい
さすがトンデモ >>695
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
かわいそうだが無いものは無い
鉄器はゼロ出土と確定済みね >>697
通説を捏造だと言い張るクレージー老人集団
それが九州説 証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
突然出現して短期間で消えた集落と同じ時代であった証拠を示せ >>698
どうしてそんなウソつくの?
ホケノ山から出てるのに >>696
反論になっていない
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」 >>701
反論になっていない
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」 >>705
反論になっていない
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>704
九州説はひたすら嘘を連呼する
敗北者だからな 九州説は素人無知じいさんだから
墳墓の副葬品以外で鉄器がでることが珍しい
ことなど知らない >>707
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>709
いつもの連呼爺か
思考回路が死んでるな >>699
捏造説を通説だと言い張る畿内のDQN
それが畿内説 脳死済みキウスは同じフレーズを繰り返す能力しかありません >>714
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>719
3世紀には鉄器があるのが当たり前で
鉄器豊富という文がある国がない >>717
紀元前から鉄器が普及している北部九州と文化的にも産業的にも断絶している
という証拠になる 今日も、テンプレートを書いた基地外が論破されているね。。。。 >>721
鉄器に関しては木や骨と同じ扱いの鉄鏃と記述がある。
つまり豊富であろうが何の証拠にもならん、
それに畿内からも普通に出土してるよw
大体邪馬台国に鉄器が豊富なんてどこにも書かれてないしww 閑話休題
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。
そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。 船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、これを「田村大神」と総称する。
阿波の一宮神社の社家、大宮司家を世襲した一宮長宗の流れを汲む一宮氏(分家)が「水主神社」の宮司として祭祀を行っていた時期があり、
この部分についても「大宜都比売命」と「倭迹迹日百襲姫命」に何らかの繋がりがあったと考えられる。 >>724
>それに畿内からも普通に出土してるよw
反論になっていない
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>723
しかたないよ、、、、
2013年のあの大規模調査で決着がついているのだものね。。。。。 >鉄器に関しては木や骨と同じ扱いの鉄鏃と記述がある。
嘘だまし。
倭人伝には、鉄鏃と骨鏃が「武器として」併記されているだけ。
鉄と、骨や木が同等などとはどこにも記載されていない。
>つまり豊富であろうが何の証拠にもならん、
>大体邪馬台国に鉄器が豊富なんてどこにも書かれてないしww
3世紀には鉄器があるのが当たり前で
鉄器豊富とわざわざ書かれている東アジアの国など無い >>729
反論になっていない
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 何をどう反論されても同じ返事を繰り返すって
老人ボケだろ >>732
紀元前から鉄器が普及している北部九州と文化的にも産業的にも断絶している
ということは
北部九州を経由する朝貢ルートにも接続されていない >>734
うそうそ
博多と頻々行き来してますけど >>734
こんなふうに考古学的に完全否定されてることばかり主張してたから九州説は死んだ >>735
献上品を差し出したにもかかわらず
鉄器は恵んでもらえなかったわけだ 鉄器文化を正しく評価できない説など存在価値なし
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>740
反論になっていない。
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>739
三世紀の畿内の古墳から普通に鉄器でてますけど? >>743
反論になっていない。
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 紀元前から鉄器が普及している北部九州と文化的にも産業的にも断絶している
ということは
北部九州を支配しておらず
北部九州を経由する朝貢ルートを確保していない >>745
そのとおり
畿内説に対する反論になってないな
お疲れ >>747
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 >>749
紀元前から鉄器が普及している北部九州と文化的にも産業的にも断絶している
ということは
北部九州を支配しておらず
北部九州を経由する朝貢ルートを確保していない >>752
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 纒向は
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011) 証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 ということは
北部九州を支配しておらず
北部九州を経由する朝貢ルートを確保していない 異常なまでに頻繁にウソをつくとか
致命的なまでの論理性の欠如とか
そんなことより
九州説信者の共通項ナンバーワンは
コミュニケーション能力の破綻だと思うね
他人とまったく会話ができてない 九州で家の中から鉄器が出てくるのって
突然襲撃うけて村ごと拉致られた廃村とかか? 今の皇居に武器はない。
それと同じ。
鉄製武器などは北九州の防人さんたちが持った物。
気高い王室には必要なかったのだよ。 土器の解析からは、纒向は東海と流通の痕跡があるが、その他の地域とは東海を通じてのわずかな物資の交流しかなかったはず。
畿内説は嘘を声高に叫ぶんだな。
怖い怖い。 >>762
首長が鉄器を分配するシステムになっていないということだな >>762
穴が空いた鍋は近くのゴミ捨て場に捨てるだろう?
西日本の他の地域では当たり前のそのようなことが、纒向では見られない。
桃の種や魚の骨が出るから、まあ人はいたのだなという程度。
文化水準が他より低い。
当時の流通は海運が主力であったが、纒向は海がなかったから後進地域、辺境中の辺境であったようだ。 >>763
九州でザクザク出てくる玉や鏡、璧などのお宝もないのだけど。 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 纒向みたいな何もない田舎を都だなんて、どうして思うんだろう。 >>767
各地域で破損したら捨ててたようなそんなに大量の鉄器出土量じゃないな >>765
そんなことを書いた報告書があるなら題名を言ってみろ
誰もお前の妄想には付き合わぬ >>768
九州で玉や鏡、璧などのお宝がザクザク出てくる三世紀の遺跡の名前を言ってみな
www >※『記・紀』編纂を命じた本当の主眼は、時の権力者天武天皇の即位の正当性であって、中国朝貢の隠蔽ではありません。
天武天皇の即位の正当性とやらのために、何で古代天皇が100歳を超える必要があるのか。
武内宿禰にいたっては300歳になってしまった。
子供にも笑われてしまう時点でその「正当性」とやらは権威を失う。
つまり古代天皇が100歳を超えてでも、守るべきプライドというものがあった。
未来の日本人の為にも朝貢の事実は書けなかった。
本居宣長と同じく熊襲の女酋長説の鶴峰戊申は、
邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定してるようです。
これはもう朝貢という部分だけ「九州さんよ、お願いだから引き受けてくれ」という底意が見え見えです。
記紀編纂に携わった人たちから江戸時代の本居や鶴峰まで、
いかに朝貢という国家のプライドにこだわっていたかの証拠です。
先人たちのおかげで今の日本は立派な国です。
今では完全に中国および中国人を見下すことが出来ます。
でも昔はそうではなかった。
だから今の日本人にはこの感覚が分からないのです。 弥生中期から銅鐸を作って絵画土器を作成していた
鍵唐古辺りの技術水準が低い訳ないです。
あまりに考古学の現実を認識していない暴論です。
巻向は神仙思想に影響された人物が祭祀目的で
あの場所に作ったと考えられます。
主な目的は水銀朱をはじめ鉱物資源の分配ですかね。
水田でもなく勿論戦場でもないあの場所に鉄器は特に必要ないですよ。
鉄が多いから邪馬台国、そんな主張は詭弁ですよ。 >>767
妄想漬けの病気か九州説は!
穴の空いた鉄鍋が捨てられていた遺跡があるなら
名前を言ってみろ >>725
全く根拠の薄い話です。
まず生誕伝承と弥生後期遺跡の一致がないとね。
少なくとも奈良盆地百襲生誕伝承地は弥生時代からの
大規模な集落遺跡集積地で、後々も古墳等が集中する場所です。
更に鏡作神社に保津、都という地名からも
この近辺が重要地であることは確認できます。 >水田でもなく勿論戦場でもないあの場所に鉄器は特に必要ないですよ。
>鉄が多いから邪馬台国、そんな主張は詭弁ですよ。
鉄器がない言い訳の詭弁だな。
鉄器が普及していなければ邪馬台国ではない。 >弥生中期から銅鐸を作って絵画土器を作成していた
>鍵唐古辺りの技術水準が低い訳ないです。
ご自慢の銅鐸はどこへ行っちゃったの?
鉄器がないんだから青銅器時代どまり
=鉄器時代の遺跡群に比べると技術水準は低いわけだね
>あまりに考古学の現実を認識していない暴論です。 >>779
倭人伝の記述にない事を主張しても論拠には出来ません。
単なる推測であり妄想です。
また畿内周辺には淡路島、信貴山下、また近江といった場所に
三世紀辺り鉄工房もすでに存在確認済みですよ。 >>781
そうですね。
倭人伝には、邪馬台国に鉄器が無いとは書かれていない。
3世紀の東アジアには鉄器が普及しているのが当たり前ですからね。 >淡路島、信貴山下、また近江といった場所
反論になっていない
証拠
>200回近く発掘して3世紀に鉄器ゼロ集落
鉄器ゼロ「集落」
代わりに木器が出土 魏と外交していたなら、
筆記用具=硯と
消しゴム=鉄製刀子が必須だよな。
北部九州だと副葬されてたりポイポイ捨ててあったりするけど まさか知らない人はいないと思いますが、信貴山下、堅上には
鉄の神である金山彦、金山媛神社の総本山があり、ここが後々
物部を支えたと言える大県製鉄の近所でもあります。
また三世紀以前の鉄工房の痕跡も近所からは確認されてますからね。 硯なんかポイポイ捨ててないぞw
弥生後期は北部九州と出雲で確認されただけ。
つまりここが伊都と投馬国だな。 >>782
そうですね、だから三世紀以降畿内から鉄器や鉄工房が
既に充分確認されていますので
鉄器の数は特に何の論拠にもならないわけです。 畿内信貴山周辺、つまり後々物部と呼ばれる集団が
三世紀邪馬台国を形成していたと思います、
かなり乱暴なまとめ方ですが。 >>788
>鉄器の数は特に何の論拠にもならないわけです。
なるねえ。
なぜなら、鉄器がゼロで
木器を使っているから。 >淡路島、信貴山下、また近江といった場所に
>三世紀辺り鉄工房もすでに存在
鉄器がゼロで
木器が出土するということは、
ありがたい鉄工房で作られた鉄器を使わせてもらえてなかった、
ということだな。
考古学的に。 >>778
>少なくとも奈良盆地百襲生誕伝承地は弥生時代からの
>大規模な集落遺跡集積地で、
おおうそ >倭人伝には、邪馬台国に鉄器が無いとは書かれていない。
>3世紀の東アジアには鉄器が普及しているのが当たり前ですからね。
東夷伝全体で、鉄が出てくるのが3か所しかない。 >>790
使ってると何なの?
あなたは自分の考えをまとめる能力がないね >>791
考古学者が誰も認めてないような考えが
考古学的であるわけなし だが情報では倭人伝に出てくる鉄器は鉄鏃ですからね。
しかも卑弥呼が用いるの鬼道でその宮には巫女ばかりで男子は一人。
兵士が門番でいる位です。およそ鉄器の出番がない。
これではさすがに北部九州に適地を求める事は無理があります。
やはり神社の大元と言われ巫女の聖地でもあり
しかも背後に丹山のある三輪山周辺が一番ふさわしいですよ、卑弥呼の宮。 だいたい鍛冶の遺跡がある土地に住んでる同時代の人々が鉄器を持ってないと言い張るひとが異常 >>785
>また三世紀以前の鉄工房の痕跡も近所からは確認されてますからね。
おおうそ >>792
では田原本の鍵唐古をはじめとする芝、大福等
隣接する弥生集落群はどう評価しますか?
少なくとも同規模の集落を認めないなら
国内の弥生集落もかなり無きものとなりますが。 古老の言い伝えによれば、
最古の王制を敷いた国家は出雲国。
出雲神族が偉大なリーダー、クナト大神(大王/後々イザナギに改竄)に従って、、オリエト、シルクロード、、、、バイカル湖〜北回りで渡来、日本海沿岸を南下して出雲地域に定住化したのが約三千年前。
初代オオナモチ(大国主)布帝身命(約2600年前)から王制を敷き、
6代オオナモチ(大国主)八束水臣津野命(神門臣家当主)の御代に一気に勢力版図を拡大して越の国(北陸)から北九州にいたる日本列島の大半を統治下に置いたという。
その八束水臣津野命の御子のカタアタス命が北九州の統治を委任される形で分家独立したのが
宗像王家。(当初は宇佐に都したらしい。)
このカタアタス命には三人の娘がいて(いわゆる宗像三女神)
長女の多儀理媛命は出雲帝国第7代オオナモチ(大国主)の天冬衣命(出雲 東王家/富/向家)に嫁ぎ、
次女の多伎津媛命は第8代オオナモチ(大国主)の八千矛命に嫁ぎ、味耜高彦と高光媛命を産む。
この第8代オオナモチ(大国主)八千矛命の時に出雲帝国の基盤を揺るがし存亡の瀬戸際に立たされた大事件/事変が起こりました。
(紀元前3世紀)
秦の始皇帝が不老不死を希求して方士の徐福を召し出し不老不死の妙薬の探索を命じ、〜
、、、配下のホヒが出雲帝国の王家らへの周到な根回し工作により石見国五十猛海岸から上陸、渡来した徐福は和名を「ホアカリ」と号し、
王家に上手く取り入って媛命、高光媛命と結婚して王族(神(カモ)族)と成り、
丹波国を下されて妻子と共に移住。(丹波/丹後のイザナギ、天ホアカリの降臨伝説。この初回渡来時点のイザナミ(出雲帝国の象徴)は高光媛命)
御子(長男)に五十猛と徐福の父親の徐猛の名を付け、五十猛は長じると天香語山と号した
(一族の子孫らに猛、竹、建、武、長、、、等々を名付ける端緒か?)
出雲側の渡来人らへの警戒心が緩んだ時を逃さず、かねてより密かに計画していた出雲帝国の簒奪(乗っ取り)をするべく実行に移し
先ずオオナモチ、八千矛命を次にスクナヒコ(副王)の八重波津身命(東王家、富/向家当主)らを相次いで拉致幽閉して殺害。
、、、 >>775
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 電波が強すぎます。. |
|__________|
/
//ビビビビビィィィ!!!
どかーん! _
从";从 /||__|∧,
(( ; ;"、; :(O´Д`)
((;";从.")と )) ))つ
`;Y ;"、 Y ノ ノ ノ
(_ノ、_ノ 平原には何の伝承も謂れもない。
ただのミカン畑だった。
こんな場所にヒミコはいない。
祇園山も無理。
高良某という人物が祀られてるだけ。
しかも神功皇后時代の人物。
卑弥呼とは何も関係はない。
はい九州説は全滅。
さ よ う な ら >>798
金山彦神社の近くには弥生後半といわれる物がありますよ。
ただし山崩れが頻繁に起こった場所故正確な発掘等はされてないですが
鉄滓等は確認されてますね。 >>803
卑弥呼の墓は祇園山古墳である
鴨厨よさようなら >>799
その程度で大規模な集落遺跡集積地www あほか もう九州説には頼るものがウソしか無い
という状況だね
あの程度ではなく鍵唐古も元々は別個の物。実はあの周辺は
どれ位の規模になるかまだ確定出来ないんですよ。
下手すりゃ巻向だって繋がる可能性だって僅かにある。
これは他地区の弥生集落にもいえますが鍵唐古の
西には保津都遺跡も存在します。土地の名前からは
本来こちらが中心と見るべき場所ですよ。 >>808
葛城王朝とみるなら現在の広陵町辺りは最北端となります。 未だスレ主
解答が無い
纒向から明日香までの都の変遷
証拠が無いのなら、纒向が初期ヤマト政権なんて妄想。 畿内説のカキコミ、異常に糞テンプレ擁護
スレ主1人で書き込みして無いか!
畿内説の研究者の説も様々なのだが? 北部九州や瀬戸内に多いこの銅剣の分布は、
彼らが畿内王朝の防人集団であることを意味している。
弥生後期、すでに王権は畿内にあった。
つまりこれは倭国の地図である。
北部九州や瀬戸内に多いこの銅剣の分布と、
天神本紀のニギハヤヒに伴った北部九州や瀬戸内の物部集団の分布が重なる。
ところで大和入りしたニギハヤヒの時代は崇神時代のイカガノシコオから6世代前。
庄内0期だ。
この時代の大和の姫様はだれだ?
1人しかいないだろ。
歴史上、最もヒミコと言う名前に近い姫様。
この姫様が住んだのは纏向ではない葛城だ。
住んだ場所もピンポイントで分る。
御所市名柄の姫の宮(長柄神社)だ。 >>820
何十年前のお話だw
もしかして初めて見たのか? >>824
おまえは情けない人間だ。
もはや新興宗教の信者と変わらない。 >>825
卑弥呼といったら鏡だろ、銅鐸民族なわけないだろ >>817
様々ったって大筋似たようなもんだ
一人一説の九州説とは根本的に違う 人間が生きていくために最も大切な水。
その湧き出る水の第一利用者が神。
山の神だ。
ヒミコも同じ、住んだのは湧水の場所。
したがって山の中腹だ。
食料など下々の人間に運ばせればいい。
高天原の水源は複数あり、ほとんどが神社となっている。
その中に「姫の宮」がある。
祀られてるのはシタテルヒメ(高姫)
ヒミコより先輩で格が高い。
この女性がアマテラスだ。 >>826
中国発祥の鏡を何で中国人が「鬼道」と表現するんだ?
卑弥呼に鏡が贈られた。
それだけ。
それで祭祀を行ったかどうかは別。 >>818
>弥生時代の青銅器の分布
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
「銅剣・銅矛・銅戈の分布」でも「平形銅剣の分布」でも「銅鐸の分布」でも全て倭国(阿波)が含まれている。
「青銅器」も倭国(阿波)から全国に展開していったことが示されています。
それが、王権は「倭国(阿波)」にあった証拠なんですよ。 @阿波 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。 銅鐸祭祀の畿内に女王がいたとして、
宗教的に服属するなら、
銅鐸祭祀が全国へ広まって後世に残る。
現実はその逆。
西の銅鏡祭祀が畿内を制圧していく。
つまり宗教的に平和統合モデルは最初から破綻している。 百襲姫も時代は違うが卑弥呼と役割は同じだな。百襲姫の伝承が残るのは讃岐が中心。
4世紀に吉備津彦が征圧した讃岐。
そこで百襲姫は祭祀を行い、駐屯した兵と徴用した先住民を教化し、溜め池や古墳作りなどの労働をさせたんだよ。
讃岐物部と関係あるのかな‥ >巨大な兵の駐屯地
鉄鏃射撃の演習にて鉄鏃が大量に見つかるはず。九州のように。
>民が住む大集落であり
住居跡がない。
>武器が殆どでない
武器もなければ鉄製工具もなんにもない。 >>835
纒向は計画的に解散した集落。
4世紀の四道将軍の兵力の中心。四道将軍派遣時に武器など利用できるものは全て持ち去ったんだろうね。
貴重な鉄器や武器などが無造作に捨てられた集落は、侵略や天災で衰退した集落だろう。 倭国大乱とは、基本倭国の内乱だからな。
倭国とは倭人の国。
卑弥呼も卑弥弓呼も倭人。 >いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
>長髄彦という先住民がいて
>饒速日も持ち出して
>神武東征まで詳しく記しておいたのに
>なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。 古事記、日本書紀以前にあった口伝や風土記みたいなものが、記紀編纂で捻じ曲げられて公式とされ
捻じ曲げられたものがずっと残されてきたんじゃねえかという気もする 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。 魏志倭人伝に出てくる地名は、九州ばっかりで、歴代天皇の中で、女性天皇は九州にゆかりがあったりするんだよな
これを大和朝廷につなげるのは、結構無理がある。
日本も戦前のナショナリズムの高まりの中で、歴史を学問の分野にだけ置いていたわけではない
天皇家は、万世一系であり、大和朝廷と繋がっていて、さらに中国の史書に記述された、日本で初めての国は、
その大和朝廷か、それにつらなるものでなければならないみたいな、
歴史をクリエイトする動機は多分に存在していた
いま半万年の歴史を作っている韓国を見れば、そういうバイアスは理解できると思う
ジンギスカンは頼朝だったみたいな、トンでも論が、昔は日本の学者から出されてた訳だし 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 頑張っても頑張っても頑張っても
鉄器ゼロだと邪馬台国じゃないから >>845
邪馬台国以降の話しで
大和朝廷が出る前は群雄割拠いろんな勢力がいろんな地域に居た
と考えるのが普通じゃね >>847
記紀に卑弥呼がいないんだからそう考えるのが自然だな 国生みの中心であった大阪湾の勢力。
海洋民族である倭人の勢力。
国造りを行い、全盛期は淡路島、摂津、和泉、河内、大和辺りまで勢力を広げていたと思われる。
クニ=クナ
魏志倭人伝の狗奴国であり、倭国大乱前は倭国の中心勢力だったんだろうね。
結局は倭国大乱で伊勢湾や吉備などの瀬戸内海の倭人勢力(卑弥呼を共立した国々)に負けてしまう。 >全盛期は淡路島、摂津、和泉、河内、大和辺りまで勢力を広げていたと思われる
淡路島=鉄工房遺跡
摂津、和泉、河内、大和=鉄器なし
考古学的に、同一勢力じゃあありませんね。 伊勢湾や吉備などの瀬戸内海の倭人勢力(卑弥呼を共立した国々)
伊勢湾が瀬戸内海の勢力? >いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
>長髄彦という先住民がいて
>饒速日も持ち出して
>神武東征まで詳しく記しておいたのに
>なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。
この倭国の旧体制に謀叛を起こしたのが、伊勢湾と吉備の倭人勢力だな。倭国大乱。 倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。 >>844
>難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
> 古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。
【あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・】
この歌は、応仁天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。
これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。
ここからは、二並びに淡路島と小豆島がはっきり一望できるのである。 @阿波 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。 >淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
高地性集落が九州〜淡路島まで連続しているし、
伊都だな。
伊都の高祖山。 大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。
何れにしても、狗奴国の正統は饒速日(実在も怪しい)ではないんだろうね。 >>851
>伊勢湾が瀬戸内海の勢力?
伊勢地方も阿波から進出した、伊勢忌部なんですよ @阿波 頑張っても頑張っても頑張っても
鉄器ゼロだと邪馬台国じゃないから 邪馬台国へのルートである。
魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。
河内や宇治は当時狗奴国領、琵琶湖北部にも敵対勢力がいたため、大阪湾方面や若狭湾方面から大和盆地入りするには敵対勢力に襲われる危険が高かった。
敵対勢力の支配域に近づく必要がない太平洋ルートが、魏の使者を迎えるルートとして選択されたんだろうね。 >いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
>長髄彦という先住民がいて
>饒速日も持ち出して
>神武東征まで詳しく記しておいたのに
>なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
300里だろ。
いきなり改竄かーい。 末盧国→伊都が300なのに
100しかない伊都国→奴国が
どうやったら、飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯になるん?
ぜーんぶ妄想だねw >>845
>そもそ大和朝廷はどこから発生したんだよ
大和朝廷は、倭国(阿波)から8世紀に遷都して発足した @阿波 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。 北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。 オオナムチは、いつ頃から登場したのか?
オオナムチは、イザナギの子であるスサノオの子孫と言われたり、スサノオの娘を貰ったと書かれている。
イザナギ一派(倭人)の淡路島への渡来は、春秋時代末期のBC5世紀頃。
オオナムチの登場は、当然それ以降になる。
出雲には八百神が元々いたとあるので、集落レベルの首長達が沢山いたのだろう。
それらを纏め山陰を統一したのがオオナムチ。
統一までに何度も殺され、紀国に逃れたり、スサノオの娘を貰ったりと、倭人の後ろ盾を得て、出雲を支配下に置いていったんだろうね。
四隅突出型墳丘墓、BC1世紀頃に備中の三次市で誕生し出雲に広がり、遅れて能登半島辺りにも広がる。
オオナムチの倭人の後ろ盾を得た出雲の統一は、紀元前後の可能性も考えられるね。 >>796
>しかも卑弥呼が用いるの鬼道でその宮には巫女ばかりで男子は一人。
>兵士が門番でいる位です。およそ鉄器の出番がない。
これはひどい。
宮中には下女がいたけれど、外は兵士が守りを固め、楼閣を高くして警備している、緊張状態なんです。
すぐ南には狗奴国があり敵対している。
武器がないわけがない。
おそらく邪馬台国と狗奴国は倭国の中の内紛なので、敵もすぐ近くにいるのです。
武器がいらないなど、馬鹿げたユートピア論ですよ。 卑弥呼がいたのが伊都、卑弥弓呼がいたのが熊本。
前線基地は邪馬台国は基肄城と大野城、狗奴国は菊池城。
主戦場は筑後平野です。
全部、魏志倭人伝に書いてあります。 阿波は倭人の国ではないんじゃないかな。
下戸遺伝子の分布も薄いしね。
纒向の前方後円墳。
円形周溝墓からの発展と言われている。
瀬田遺跡の円形周溝墓もあるしね。
阿波の勢力は、卑弥呼を共立した国々の一つだったんだろうね。
纒向で墓作りの陣頭指揮を吉備の勢力と共に始めたんだろう。
まぁ下っ端の役割だな。
忌部の謂れの始まりだろうね。 >>874
捏造は止めろ。
妄想書くなら九州のスレにどうぞ。
誰も見ないけど。 万行遺跡のほうが大きいし
稲部遺跡には鉄工房があって伊勢遺跡も近い。
あれ? 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>877
紀元前から発展して
紀元前から王墓が存在する
そして朝鮮半島からの鉄輸入ルートの総元締めである
北部九州との関係をうまく説明できないのなら
何も説明していないのと同じだ。 物部も忌部も民を酷使して、巨大古墳を作らせた張本人だろう。
まぁ巨大古墳は元々は、纒向駐屯が長期化した副産物だろうが。(インフラ整備の飽和) 九州北部を征圧し一大率を置いたのは吉備と九州南部の投馬国だからな。
後に畿内からも兵を増強されるが。
基本畿内は関係ないから恨まないでくれ。 >九州北部を征圧し一大率を置いたのは吉備と九州南部の投馬国だからな。
>後に畿内からも兵を増強されるが。
だったらなんで九州北部を楯築墳丘墓が制圧してないのー?
>九州南部の投馬国
国があった痕跡は?
王墓は? 圧倒的有利な九州説を攻撃するためなら、嘘も厭わない。
それが畿内説。
歴史を歪曲しようとする詐欺師たち。 畿内説は根性が曲がっとる。
もういっぺん、先入観なしで魏志倭人伝を読み直せ。 2chに投稿拒否され、Yahooの九州王朝トピに一旦移していたが、
2chの古田史学スレで「テスト」したら、1日半ぶりに投稿が通ったので、
こちらでも、投稿を再開するつもり。
しかし、>>236への反論まではYshooに書いたが、その後のこのスレでの膨大な口先誹謗ばかりの投稿は、
パスする予定。 >>884
バカかな?
吉備も投馬国も卑弥呼を共立した30ヶ国の一つ。
あくまで王は女王卑弥呼。三世紀中頃以降、女王国(初期ヤマト政権)の墓制は前方後円墳。
那珂八幡古墳があるだろう。おそらく一大率の長官の墓だろうね。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>889
吉備に何があるん?
君の主張する投馬国(宮崎かね)に何があるん?
ちなみに大分宇佐までは銅矛銅戈や墳墓副葬品などからも同一文化圏だから。 >>889
前方後円墳なわけないだろ。
径100歩はどうするんだよ。 邪馬台国が福岡に決まるのが嫌で、畿内説が破れかぶれにデタラメを言い始めた。 >>871
その楼閣の絵が鍵唐古にあるというのをどう見るかですね。
また常に緊張状態な場所に女王や多くの巫女を
置くなんて考えられないですね。
だから宮を奥まった場所においたのでしょう。
戦場は北部九州、奴国と狗奴国ですよ。
北部九州が戦場だから鉄も必要なんです。 >>894
なにがデタラメ?
具体的な指摘のできない方がデタラメでしょ 極端な話、卑弥呼の墓がなくても北部九州説は困らない
文化的な差が圧倒的過ぎるし、
矛があって、鉄鏃があって、南の狗奴国と戦って、
魏と外交交渉していたのは北部九州しかありえないから
そんな弥生先進地の海外窓口に
平原遺跡などという中国朱や五尺刀やら大量の国宝副葬品を副葬された
超ド級の女王墓があるんだからもう卑弥呼じゃないと証明するほうが
洛陽復興したばかりの魏の方格が質落ちなのは専門家の認めるところ
平原の方格は質落ちだから国産と言われている
もう勝負はついている >>895
世間がこの言い訳を読んで、どう感じると思う? 魏から使いが来るほど緊迫した狗奴国との戦いをしていた邪馬台国が
巨大な土盛りをする余裕なんてないだろうし
女王は武装兵が護衛してないと危ないだろうな >>900
まじめな少年少女なら、憤りを感じるだろうな 3世紀の倭国の中心は明らかに伊都と奴国で、伊都は王がいるところとされて、実際に王墓もたくさんある。
そして、倭国大乱の後の女王墓といえば、平原遺跡になる。
これで決まりだよ。 北部九州に邪馬台国は100%ありませんよ。
私は安本先生と直接対決したい位ですね。
倭人伝を完全否定しない限りは無理ですから。 >また常に緊張状態な場所に女王や多くの巫女を
>置くなんて考えられないですね。
ほらねチェリーピッキングしてる。
厳重に防備柵に囲まれて
武装兵によって護衛されてるって
明記されてるでしょ。
で、武器は? 大半の北部九州説はそこに伊都があった事を証明してるだけですね。
ここの書き込みを見てるだけでもわかります。
平原は女王国から派遣されていた人物の拠点、それで全て説明可能です。 平原遺跡の周囲からは鉄刀子(木簡竹簡を扱っていた=外交文書でやり取り)も出ているし
鉄鏃も出土している
硯もあちこちから出てきて
ペンダントとか言ってたの誰だよ 誰の事を言ってる知らないけど、
川崎区に住んでいるみたいだよ
と言っている人がいた >>896
楼閣船だって、戦場が北部九州なら倭国大乱は北部九州だよな >>906
>平原は女王国から派遣されていた人物の拠点、それで全て説明可能です。
当然のことながら、派遣元には大量の鉄器があって
平原に下賜したわけだから、大量のさらなる巨大銅鏡があるわけだね。
で、どこ? 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
>長髄彦という先住民がいて
>饒速日も持ち出して
>神武東征まで詳しく記しておいたのに
>なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>904
安本VS孝霊厨か、倭人伝を勝手読みしても勝てんぞ >>909
鍵唐古に大型船は入れないよ。柏原まで。
侵入者は生駒や葛城山を越えないといけない。
それに信貴山、ヒルメ山からは360度展望可能で淡路島先まで見えるからな。 >>916
近くまでは入れたんだろう(天の磐船である >>914
まず倭人伝に丹と鉄の文言が何回登場して、
全文言中何パーセント占めるか聞きたいね。 >>896
邪馬台国に大勢の巫女がいた根拠はない。
いたのは婢つまり下女1000人。
どういう役割だったのかな? >>919
丹では畿内も九州も同レベルで引き分け @阿波 >>919
東夷伝全体で鉄は3回だけ。
産地(戦略的に重要)と、貨幣代わりに使われている(経済的に重要)と、
北部九州倭国の鉄鏃(同盟国の武装として重要)
の3か所だけ。
鉄器が普及しているのは当たり前。
考古学的にも東夷(〜北部九州)は鉄器がすでに普及。
だから、鉄器があるなんてわざわざ記載する必要はなかったわけですね。 >>917
柏原、信貴山周辺が何らかの拠点なのは否定出来ません。
何しろ弥生中期に多細紐文鏡の最大級のものが
この場所にありますからね。誉田神社、最古のものもこの場所です。
宇佐よりも古いのも触れられませんが事実ですよ。 >>920
男子が倭国大乱で戦争に従事するから、
女子が事務方担当(硯出土、鉄刀子出土)
明治時代まで日本の主要交易品だった絹を生産(絹出土)
北部九州ですね。 >>922
つまり鉄は大して意味ないもんなんだよw >>923
北部九州で作られた多細紐文鏡のことかな?
北部九州方形墳の王族同士の戦いに負けた集団が
多細紐文鏡を抱えて都落ちしたんですよね。
ほら、たった2つの多細紐文鏡と、方形周溝墓が証拠です。 >>925
鉄器はあるのが当たり前
鉄器がない=邪馬台国じゃない 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
>長髄彦という先住民がいて
>饒速日も持ち出して
>神武東征まで詳しく記しておいたのに
>なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>906
>平原は女王国から派遣されていた人物の拠点、それで全て説明可能です。
可能かどうかではなく、そう魏志倭人伝に書いてあるかでしょ。
〜でも説明可能、などという言葉で妄想を積み上げてここまで拗らせてしまった。 丹は紀伊半島が最大級の産出地、
勿論水銀朱は道教影響下では
鉄なんか比較にならない価値があります。
中国における歴史的事実を曲解するのはダメですよ。
それに殆ど触れもしない九州説は既に相手ではないですよ。
まぁ阿波は私なりに別の見解を持ってますが。 >>923
〜も否定できません、ではなくて、ちゃんと証拠を出せと。
そんな言い方なら、関東から沖縄までどこでも可能だよ。 >>923
>宇佐よりも古いのも触れられませんが事実ですよ。
うさは九州の中では新しいほうだからね。
住吉とかの方がずっと古い。
だから何? >>931
>其山有丹
倭国の山には丹が有る
あらら日本全国どこの山にも丹がある〜www >>919
まず里程、行程の説明ができないと話にならない >>926
多細紐文鏡のルーツは大陸内陸部ですからね。
北部九州がルーツではありません。つまり中継点にしぎませんよ。
弥生中期に大陸からの目的地が信貴山辺りにあった。
それだけ話が成立出来れば充分ですね。 帯方郡から女王の都まで一万二千里。
そのうち、朝鮮半島の南下と対馬海峡の渡海で一万里。
残り二千里では福岡県を出ないだろう。 >>937
江南あたりから南部九州を経由して信貴山あたりにきたということか >>937
郡使が常にとどまるところだから、伊都は痛切に点ではなく目的地そのもの。 >>936
倭人伝において行程論は戸数とセットですよ。
大半の九州説はそれを無視してる時点で論外です。 >>937
>弥生中期に大陸からの目的地が信貴山辺りにあった。
>それだけ話が成立出来れば充分ですね。
妄想が成立しただけ。
この文章の山の名前をどこの山に代えても、文章そのものは成り立つ。
しかし、真実ではない。 >>937
>>939
捏造。
ルーツはともかく、
多細紐文鏡は燕〜朝鮮半島北部が本場。
多細紐文鏡も日本では北部九州から主に出土。
そして北部九州で多細紐文鏡の鋳型が出土。
2枚だけ飛び地に出てきて
しかも権威の伴わない王墓から出土ということは、つまりはそういうこと。 >>931
>丹は紀伊半島が最大級の産出地
おおうそ >>941
>倭人伝において行程論は戸数とセットですよ。
じゃあ、戸数ゼロの遺跡は除外ですね。 >>941
また九州説の誰も唱えていないおかしな戸数の計算でも持ち出すの?
では畿内ではどう戸数を計算するの?
大阪も京都も奈良も、全部弥生時代には沼地の底だよ。 そもそも信貴山下にある龍田の本来の祭神はシナツヒコですよ。
中国へ向いてる人物が祭られています。
多細紐文鏡といいはっきりと答えはでてますね。 海外から鉄も丹も大量輸入していた北部九州が最強ということか。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>937
その鏡文化が、3世紀まで継続していたか?
が重要
その点でも北部九州の方が有利 >>943
お前が捏造、山口や岡山からも出ていて貨泉とも被る。
はっきり河内を目指したルートが弥生中期にある。 >>946
吉野ヶ里で千戸程度だよ、北部九州に収まるわけないですw >>953
山口は北部九州の勢力範囲内と考えて、
北部九州倭国9
畿内2
さらに、北部九州倭国は鋳型も作っていた。
目的地などというものがあったとしたら、北部九州だな。
>はっきり河内を目指したルートが弥生中期にある。
お前が捏造だなあ。 >>953
東遷論者の妄言。
数を見ろ。
あくまでも中心は九州北部。 >>954
鉄器ゼロ遺跡で0戸だよ、収まるわけないですw >>950
万行遺跡って時代もあとだし、だいいち倉庫じゃん
あほですか 多鈕細文鏡だね。
いつの時代なのか?
倭人による倭国成立前の話ではないか? >>951
卑弥呼が鏡を貰うのは三世紀以降の話ですよ。
それ以前にあるものは邪馬台国以前の権力構図の参考にはなっても
卑弥呼に関しての証拠にはなり得ません。
これも実は九州説の印象操作ですね。
書き逃げで申し訳ないが懇親会に呼ばれているので失礼します。 >>954
7万戸の国は北部九州に限らず、今のところ日本どこでも比定不可能だね >>959
纒向だって倉庫だよ。
宮造りとは区別しようよ。 >>947
>そもそも信貴山下にある龍田の本来の祭神はシナツヒコですよ。
>中国へ向いてる人物が祭られています。
おまえさぁ、そんな昔から「シナ」なんて呼び名があったと思ってるの?
こいつ馬鹿だわwww >>959
>万行遺跡って時代もあとだし、だいいち倉庫じゃん
>あほですか
同じ3世紀。
誤差の範囲内で同一勢力の建築物であろう。
倉庫ときたか。
じゃあ、倉庫とそうでないものとの差はいったい・・・ >>969
逆に言うと、7万戸の国が存在しうるのは北部九州しかない。 >いやーあれほど畿内には国はなくて村があるだけだって念を押して
>長髄彦という先住民がいて
>饒速日も持ち出して
>神武東征まで詳しく記しておいたのに
>なんで首都とか勘違いしてんだこいつら草 >>961
都が卑弥呼の時に東遷したなんて、魏志倭人伝には書いてない。
畿内説はすぐ東遷を持ち出すが、考古学的証拠は九州北部が西日本を圧倒して飲み込む姿だけだ。 弥生中期には既に畿内と往来していた、
もうそれだけで充分畿内説は説明できちゃうw >>970
圧倒的な物量の差があるんだよ。
しかも纒向は東海の影響下だ。 >>961
好物として倭国は貰っていますよ
鏡文化がなければ100枚の鏡を魏が贈る理由がありません 弥生中期には既に畿内と往来していた、
畿内からは土器が献上されてるのに
鉄器は北部九州だけ使いまくり
期限切れの鉄器ぐらい捨てずに送ってあげようよ!
もうそれだけで充分畿内説は論破できちゃうw 逃げ遅れたマンモスに猟犬が嬉々として食いつきまくっている図 稲部遺跡は卑弥呼側ではないだろうな。
南の斗西遺跡が吉備など纒向に似た外来系土器が中心。
卑弥呼側勢力の当時の拠点の一つだろう。
川を挟んで対面する稲部遺跡。在来系の土器が中心。
卑弥呼側と対立する勢力だろう。
記紀にも伊吹山に荒ぶる神がいるとある。
琵琶湖北部は、四道将軍の派遣先の一つ。 卑弥呼は鏡が欲しくてめなかなか手に入れられない。
だから喜んでたんだな。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>975
敵対勢力の記事なんて西日本のすべてにあるよ。 >>976
その時点で、倭国では鏡が既に重要視されていたという事 >>966
卑弥呼を共立した勢力は、30ヶ国。
普通に考えて敵対勢力だらけ。
古墳時代は、全国平定の時代。西日本も例外ではない。
魏の使者を迎えるのに太平洋ルートを選択せざる得ない理由は、そこにある。
九州から大隅半島経由で潮岬までワープだからな。 >>982
多鈕細文鏡なんか日本に広く流行。特異的なものではない。 >>984
そうですね、3世紀まで鏡文化が継続していたか?どうか?が重要
特に中国鏡を特別視している所といえば、中心は北部九州だから、まぁそういう事なんでしょう 他のスレでも言われていたけど
『鳥居 赤』
『橋 赤』
そのままのモノもあるとか、専門家に聞いたほうが良い >>985
三世紀の北部九州に中国鏡とかほとんど無いよね 以前から書いているはず、
頭の病院に行ったほうがいいぞ >>977
あくまでもデマで塗り固める九州説は末期症状だな むかーしから気付いていると思うけど
なぜ家のストーカーがいるのか?
なんだよ あの人形を買ってきた人の名前
『幸子』というんだけど
笠の人形があったでしょ
昔のことはわからないけど、
近所にストーカーがいたのかな、学生時代、仕事場とか >>987
交易が途絶えた時に国産化しただけで、文化としては鏡を継承していますね。
平原遺跡の膨大かつ豪華な鏡は、まさに伊都こそ鏡文化の中心です。 金印、八咫の鏡、璧、まさに九州北部こそ倭国の中心です。
魏志の直前の後漢書も九州北部を倭国としています。
奈良には何にもない。 キュウリの葉、葱の華・・・写真とか
一般人ではなかったのかな >>992
途絶えたから伊都国は没落しちゃったわけだし 植松サトシ?
上の名前は違うけど、川崎区に住んでいる このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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