なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
慶長の役と比べればわかる
戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき 大元皇帝の印璽を最後は清のホンタイジに差し出しちゃったからパー✋
清帝国成立は蒙古、漢、女真すべてから推戴されて皇帝に着く 日本は中国とは貿易はやらないが通信使を互いに送り込み情報のやり取りくらい ロシアを支配したキプチャク汗国(ジュチウルス)は、人口的にはキプチャク人が大部分だった。
そのキプチャク人の末裔がウズベク人だというのは、最近初めて知った。
中共がウズベク人をいじめるのは元帝国への恨みもあるのかも。 >>441
お前もなぜいつの間にかイスラム教に乗っ取られてるんだと思ったらそれが理由か >>424
戦時に動員できる兵力が12万9000人だよ。
あと、遠征の過程で異民族を糾合して大軍に膨れ上がったモンゴル軍は東欧に侵攻せず、
大部分がモンゴル高原に帰還してる。
1239年秋にオゴデイ・カアンは遠征に参加していた自身の嫡子グユクとトルイ家の
モンケに帰還命令を出してるからね。
オゴデイ・カアンの死後、グユクはいち早く大軍を率いてモンゴル高原に到着し、
東方三王家最大兵力のオッチギンを圧倒して帝位に就いた。
1240年からの東欧侵攻には少数の残りカスしか参加していない。
それと、元史に蒙漢軍が1万5千人と書いてあるのは誤植ね。
元時代に編纂され、元史の史料となった経世大典だと蒙漢軍は2万5千人でこれが実数。
元史は短期間で編纂され雑だから時々間違いがある。
高麗軍も高麗で動員されたのは5000人だけど、忠烈王が元から3000人連れてきたから
合わせて8000人。
文永の役の兵数は、中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と
梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。 >>126
>戦時に動員できる兵力が12万9000人だよ。
だから、その数で十分に大軍ではないかと言っているのだが。
>遠征の過程で異民族を糾合して大軍に膨れ上がったモンゴル軍は東欧に侵攻せず、
大部分がモンゴル高原に帰還してる。
オゴディ軍を膨れ上がらせた異民族というのは殆どがキプチャク人だよ。
キプチャク人がなんでモンゴル高原に「帰還」するのか?
>梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。
実数と言うなら忠烈王は第一次東征の大船の実数も述べている。126隻だ。
4万人が126隻に乗れるのかな?
ちなみに第二次東征の東路軍4万人に対する大船の数は300隻だ。 >>445
>キプチャク人がなんでモンゴル高原に「帰還」するのか?
グユクやモンケに糾合されたキプチャク人は、グユクやモンケがモンゴル高原に帰還すれば、
当然一緒にモンゴル高原に行くだろ。
この時モンゴル高原に行ったから、キプチャク人は後の元朝で最強軍閥として天暦の内乱以降
皇帝を傀儡化させるほどの勢力を誇っていたわけで。
>実数と言うなら忠烈王は第一次東征の大船の実数も述べている。126隻だ。
これは嘘。
忠烈王が第一次東征の大船の数を126隻などと述べた記述は存在しない。
高麗史において第一次東征の大船の数は最初から最後まで一貫して300隻。
そもそも同時代史料の経世大典に「以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」
と書いてあるんだから第一次東征の大船の実数が300隻だったことは絶対だ。 >>446
>これは嘘。忠烈王が第一次東征の大船の数を126隻などと述べた記述は存在しない。
高麗史・世家 忠烈王六年十一月
「兵船は惣(すべ)て九百艘、三百艘の用うべき梢工水主は一万八千。窃(ひそ)かに
念(おも)うに小国の戸口は自来凋弊し、往歳東征の時、大船一百二十六艘の梢工水主
すら猶未敷と為す。況や今三百艘をや。何を以てか数を盡して応副せん。此を以て農民に
至るまで丁壮を徴発すること凡そ一万五千人。その不敷の水主三千は何(いずこ)より
徴発せんや。」
これは忠烈王が、第二次東征の準備が苦しいことをフビライに訴えた文章だ。
第一次東征は大船126隻、第二次東征は300隻と、はっきり書いている。
また梢工水主の数は大船一隻当たり60人で計算しているから、第一次東征の大船126隻の
所要人数は126×60=7560人で、これに対して金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は
かなり不足している。
忠烈王が「猶未敷と為す」と言っているのはこのことだろう。
つまり金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は、忠烈王世家の「大船一百二十六艘」を
裏付けている。 ★【署名のお願い】内モンゴル中国語強制&民族消滅阻止!
内モンゴル中国語教育強制反対オンライン署名〔アメリカ合衆国ホワイトハウスのweb署名”WE THE PEOPLE”〕
https://petitions.whitehouse.gov/peti... (https://petitions.whitehouse.gov/peti...)
オンライン署名の方法
PCの場合:ページ右下側にある スマホの場合:すぐ下にある
・First Name(名前)
・ Last Name(苗字 /姓)
・ Email Address(Eメールアドレス)
この三箇所に記入したらすぐ下ある
・Sign Now
をクリック(送信される)
すぐに上記メイルアドレスにホワイトハウスからメールが来るので
そのメイル内に記された
・Confirm your signature by clicking here
(ここをクリックして署名を確認)
をクリックします。
<署名完了!> 横レスだが、なんでそんな自信満々だったのかは知らんが、
これは、ごめんなさいでは? そんなんやっても無理
中国領とされた時点で終わってるだ
独立するしかねえでよ 神風で元軍退いたんだから恩賞要らんよね?
↓
鎌倉幕府滅亡 【歴史】CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点 なぜ蒙古軍は一夜にして撤退したのか [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600309373/ >>446
第一次東征で高麗が梢工水主を負担した大船の数が126隻だったというだけじゃん。
第一次東征における大船の数は元史、高麗史、経世大典など主要史料全てが300隻で
一致していて、126隻などと述べた史料は存在しない。
>つまり金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は、忠烈王世家の「大船一百二十六艘」を
裏付けている。
金方慶伝の記述は、
「蒙漢軍二万五千、我が軍八千、梢工、引海、水手六千七百、戦艦九百余艘を以て合浦に留め、
女真軍を待つ。」
忠烈王世家の記述が金方慶伝を裏付けてるなら、金方慶伝の記述は実数であり、
戦艦の総数は900余艘、つまり大船の数が300隻であったことも裏付けられたわけだ。
どう屁理屈を並べても、大船の実数は諸史料の一致する300隻であり、その内で
高麗が負担する梢工水主の割り当てが126隻だったとしか考えられんわな。 457
かなり私貿易に近いね〜
北条なんか滅んだのある意味で当たり前なんだわな
てめえらの利益追求しかやってないからよ そういえばクビライは日本と中国の付き合いについて手紙で言及してたけど、
クビライが要求するような付き合いってもう日本してないよね?
遣唐使が廃止されたの平安時代だし鎌倉時代って使者を宋朝に送ってなさそうだけど 461
うん、送ってない
ニセ高麗とも貿易やってないし日本は貴族政治終わって公家武者らが現れた時期
貴族ってのは従三位以上を言う
公家っての従五位以上
貴族以外、朝廷には出仕できないんだよ
周囲の見回りや地方に下向する連中らが増え出した
皇族から外れた連中らも同じ やがてそういった連中らが日本各地で武装して武士団を形成した 宋貿易も日本国王印を使えば貿易できるから必ずしも天皇の署名でなくてもよいだ
かつては天皇=日本国王兼ねていたがな 公家の連中らは京都で公家としてあり続けることにこだわった
やがてそおいった連中らが没落した 9/17
【歴史】CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点 なぜ蒙古軍は一夜にして撤退したのか [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600309373/ つまり蒙古って唐と日本の朝貢関係みたいの目指していたのか
そいから日本が天皇号を使い始めたの608年からな 遣隋使として書を送っているんだが
607年の日出る処の天子って名乗ってるのが摂政、聖徳太子
608年の日本の天皇、隋国皇帝に〜
ってのが推古天皇のこと >>459
>第一次東征で高麗が梢工水主を負担した大船の数が126隻だったというだけじゃん。
>忠烈王世家の記述が金方慶伝を裏付けてるなら
なるほど、金方慶伝の引海梢工水手6700人が大船126隻用の船員数であることを認めるわけだな。
そうすると比例計算で、300隻ー126隻=174隻のための引海梢工水手9250人が別途必要になる。
この人数はどこで徴発されたのか? また忠烈王が連れて来たのか?
また君は>>443で、
>文永の役の兵数は、中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と
>梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。
と言っている。
この他に引海梢工水手9250人が加わるとなると、上記の計算はどうなる? >>471
済州、東寧府、北界の能く水に習れた人は実際に文永の役に投入されてるだろ。
忠烈王六年記事によれば高麗は求められた梢工引海水手の定数である大船126艘分、
つまり、50人×126艘で6300人に満たない人数しか動員できなかった。
ところが女真軍を待つ段階で梢工引海水手は定数より多い6700人。
あきらかに高麗が動員してない梢工引海水手も含まれてるわけで、それが済州、東寧府、
北界で動員された分だな。
で、残り174艘の担当だった女真軍が到着しなかったことで高麗軍8000人も操船に従事し
大船300艘含む900艘の艦隊で遠征した。 『元史』卷八、世祖五、至元十一年三月庚寅条
「敕あり、鳳州経略使忻都、高麗軍民総管洪茶丘等,屯田軍及び女直軍を将い、水軍を并せ,
合して萬五千人,戦船大小合九百艘、日本を征す」
『高麗史』卷二十七、世家二十七、元宗十五年、四月甲子条
「洪茶丘、書を金方慶に移して云う、「船三百隻、梢工水手一萬五千人、預先め備えよ」と」
時期的に考えて洪茶丘が敕を下された「萬五千人」と、洪茶丘が書を移した「一萬五千人」は
明らかに同一だ。
つまり、クビライは最初から水軍である高麗軍に屯田軍と女直軍を合わせて1万5000人の
梢工水手を動員しようと考えていたわけ。
洪茶丘は高麗王朝に悪意を持ってるから1万5000人全員を負担させようとしたが、高麗王朝が
郭汝弼を元に派遣して「其の数甚多く豈に小邦の人のみを用いて足るべきか」と訴えた結果、
126隻分の負担となった。
残り174隻の梢工水手は屯田軍と女直軍が負担することに決まったってこと。
『元史』を編纂した宋れんは世祖本記至元十一年三月庚寅条の数字を兵数だと勘違いして、
経世大典で2万5000人になってる蒙漢軍の兵数を日本伝で1万5000人に書き換えた。
これで諸史料の数字全てを矛盾なく説明できる。 >>456
文永の役も弘安の役もガッツリもらえたんだっけ
もらえた人ともらえなかった人にはどんな違いがあったんだろう? >>473
>時期的に考えて洪茶丘が敕を下された「萬五千人」と、洪茶丘が書を移した「一萬五千人」は
明らかに同一だ。
渡海遠征を命じる皇帝の勅に、ただ一つ現れる人数が船漕ぎ人夫の数だとは、いくらなんでもね。
「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,
戰船大小合九百艘,征日本。」
これの解釈が問題だ。まず「水軍」とは以前に議論したように「渡海遠征軍」の意味だ。
君は「同率水軍」の解釈に反論していないけどね、
次に「并」は接続詞でなく動詞として用いられていると思う。
動詞としての第一義は「合わせて一つにする」ことだ。合併の併の意味だ。
以上から、勅の意味(意訳)は次のようになる。
「忻都および洪茶丘等は屯田軍及び女直軍を将い、(これらを)并せて水軍(と為し)、(その兵数は)
合わせて一万五千人、戦船は大小合わせて九百艘、(これを以て)日本を征せよ。
つまり「水軍」と「屯田軍及び女直軍」は同じものなのだ。
水軍と言う特殊な軍があったのでもないし、水軍=高麗軍でもない。 けっきょく賊でしかないやつが他国の皇帝にまで上りつめちゃったって話でしかないんだわな どおせクビライにしろ文献呼んでその気になったみたいなんだろ
その時代の実際の関わり知らないわけだからな 475
問題だって?
そいつらがそう主張してるだけの話だろ
でたらめ抜かして嘘のことほざいてるキチガイはこの掲示板でも現れたぞ😃
そゆのが成り済ましって言うんだろ
おもしろいからそいつらに対して自分で説明しろって言ってみな
黙るしかねえからよそいつら 事実認められないならてめえが死ぬ目にあっでみるか? 元寇のときに鎌倉幕府軍の総大将として九州に向かった宇都宮貞綱おるやろ😃
この武将は古代の毛野田道将軍の末裔なんよ 督戦で行ったんだわな
他のやつらで武将として残ってるのほとんどおらんで この宇都宮氏の拠点だったとこに家康は東照宮作っただ 学者レベルでそれなんだから、情けない話だな
> ベトナムの陳朝はモンゴルの使者をいきなり投獄して拷問死させてる。
> ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。
> 鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは
> 使者を全員無事に帰国させてるんだからな。
> それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」 >>18
> 辺境の地の海賊対策に高麗が元を引っ張り出すことに
それは北方の間違いだろ
アイヌ(加害者)側から樺太・大陸(元の勢力範囲)を侵略し、怒らせて負け元に服属した
まず北海道に先住民(ウィルタ・擦文・ニヴフ・モヨロら)がいたところ
13世紀ごろ新たにアイヌ文化成立(オホーツク系と交雑)し、先住民を駆逐して勢力拡大
その過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略
→アイヌに害を受けた地元民が元に訴え
〜地元民の訴えを聞き、元軍がアイヌ(侵略者)にたびたび防衛出動→アイヌは負け元に服属
※以降、アイヌは歴代中国王朝に朝貢 (アイヌのサンタン交易:古代中国への朝貢交易)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/
>日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、
>アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。
アイヌの侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で何度も排除+懲罰し、アイヌは服従
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
★>アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
★>大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました <丶`∀´>ウリのことバカと思ったニカ?
衛星を打ち上げたけれど制御用端末を準備していなかった韓国軍 - 朝鮮日報 日本語版 2020/10/20 10:21
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/20/2020102080058.html
韓国は今年、初となる軍専用通信衛星「アナシス2号」を打ち上げたが、肝心の衛星を制御する端末は開発していないことが19日までに分かった。
軍の衛星を軌道に上げても、衛星を活用することもできずにいるのだ。
この先も1年ほどは衛星が空転する可能性が高いと伝えられている。
防衛事業庁(防事庁)が19日、保守系最大野党「国民の力」所属の韓起鎬(ハン・ギホ)議員に提出した資料によると、下朝鮮軍は今年7月、F35ステルス戦闘機を配備する際にロッキード・マーチン社と結んだ折衷交易(Offset。武器購入に伴う反対給付)で提供を受けた通信衛星「アナシス2号」を軌道に乗せた。
だが、衛星を制御する端末機の事業は来年度の予算にも反映されなかった。
端末機事業について、韓国軍は韓国国防研究院(KIDA)に事業妥当性調査を依頼したが、まだ調査が終わっておらず、予算をもらえないのだ。
韓国軍は当初、昨年12月から今年3月まで第1段階の運用試験評価を実施した後、事業妥当性調査を依頼しようとしていたが、スケジュールが1−2カ月ほどずれ込んだ。
これで事業妥当性調査も順延し、来年度予算からも抜け落ちた。
新しい機器を用意しておいて、リモコンがないから使えない、という格好だ。
韓国軍は、来年初めに通信衛星が任務を開始すると期待したが、このままだと1年以上も衛星は「無用の長物」になる。アナシス2号の寿命は12年だ。
韓国軍内外では、通信衛星事業は既に2年前から進んでいたにもかかわらず、端末機すら開発できていないのは非常識的だ−と指摘されている。
ロッキード・マーチンは当初、2018年上半期までに衛星を軌道に乗せると約束していたが、内部事情で計画を延期していた。
韓議員は「韓国軍専用の通信網を構築したいとして巨額の予算を投じ、衛星を上げておいて、結局は使える端末がなく、宇宙のどこかに浮いている衛星をただ眺めていなければならないというのが実情」と語った。
これについて防事庁は「事業妥当性調査の中間結果を根拠とし、国会の段階で予算を反映するため関連機関と協調する予定」と説明した。 <丶`∀´>やっぱりウリナラ自慢のK防疫はバカだと思ったニカ?
インフル予防接種後の死者計32人に(でも因果関係が不明だから継続するニダ) - ソウル聯合ニュース 2020/10/23 10:24
韓国政府は23日、
インフルエンザワクチンの接種後に死亡した人が今月16日から23日午前0時までに全国で32人確認されたと発表した。
22日午前0時時点の12人に比べ、20人増えた。
ソウル郊外の仁川でワクチンを接種した高校生が16日に死亡して以降、高齢者を中心に全国で死亡事例が続出している。
保健当局は予防接種と死亡の関連性を確認中。
因果関係がまだ分かっていないため、接種を継続する方針だ。
因 果 関 係 が ま だ 分 か っ て い な い た め 、 接 種 を 継 続 す る 方 針
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20201023001200882 >>411
北元の最後のハーンが皇帝の印璽をホンタイジに渡した時点を
モンゴルの滅亡とするが
ハルハ部はオイラートと結び尚も後金に抵抗した
降伏するのは清になってから >>475
「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,
戰船大小合九百艘,征日本。」
はそんな読み方しねーよ。
(これらを)(と為し)(その兵数は)(これを以て)なんて原文に無い言葉を勝手に加えて
完全に別の文章にしてるじゃん。
話にならない。
「水軍」は「渡海遠征軍」の意味じゃないという分かりやすい例がある。
元史 卷二百十 外夷三 爪哇 至元三十年三月一日条
「土虎登哥、李忠等領水軍,鄭鎮國、省都鎮撫倫信等領馬步軍水陸並進」
(土虎登哥、李忠らは水軍を領し、鄭鎮國、省都鎮撫倫信らは馬步軍を領し、水陸並進す。)
これはジャワ遠征の記事なんだから、当然ながら全軍が「渡海遠征軍」だ。
その「渡海遠征軍」の中に、兵種として水戦用の「水軍」と陸戦用の「馬步軍」がある。
「渡海遠征軍」を「水軍」と「馬步軍」という用途の違う2つの軍で編成するのが元軍の
基本形なんだよ。
文永の役も同じ。
4万人の「渡海遠征軍」の内、2万人が水戦用の「水軍」だからな。 ヅラスガ「強盗でアベコロナが拡大してきよったな
よっしゃ、よっしゃあ」 >>475
ところで、江南軍10万人は水師だった。
江南軍の任務は海戦であって野戦や攻城戦じゃないとクビライが范文虎に告げてる。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春正月戊戌朔条
「文虎又請馬二千給禿失忽思軍及回回砲匠。帝曰戰船安用此。皆不從」
一方、東路軍4万人も水師だ。
東路軍も江南軍も海戦の軍で、日本の内陸まで侵攻する能力はない。
つまり、日本征圧のための野戦軍が東路軍や江南軍の他に存在したってこと。
それが、これ。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」
東路軍と江南軍が制海権を確保し、博多から40万騎という圧倒的兵数のモンゴル騎兵を
送り込んで日本を征服するってのが、クビライの戦略だったわけ。 >>498
ごめん、壱岐軍議改め今津軍議君が2か月も空けてレスしているのに気が付かなかった。
>原文に無い言葉を勝手に加えて完全に別の文章にしてるじゃん。
( )内は説明のために加えた言葉だが、お気に召さなければ読み下し文も載せよう。
「敕あり、鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等は屯田軍及女直軍を將(ひき)い、
合して萬五千人、戰船大小合して九百艘の水軍に并(あわ)せて、日本を征(う)て。」
注釈すれば「并」は接続詞でなく動詞であり、「水軍」はその補語だ。その「水軍」は
「合萬五千人」と「戦船大小合九百艘」に係っている、と解釈するわけだ。
要するに「忻都と洪茶丘は、屯田軍と女直軍を水軍に編成して日本を攻めよ」と言って
いるわけ。
この場合、「水軍」というのは「軍が船に乗って水上を移動する」という、軍の移動形態を
表した言葉であって、特別な兵種ではない。
「渡海遠征軍」とは上記「水軍」を渡海の場合に限って表した、私の用語だ。
「水軍」が軍の移動形態(水上移動)を表す言葉だから、ジャワ遠征で河を舟で遡った部隊
もまた「水軍」と呼ばれるのだ。
一方で、河の両岸を徒歩や馬で並進した部隊は、その移動形態から「馬歩軍」と呼ばれる。
その「馬歩軍」も渡海する段階では海上を徒歩や馬で行くわけには行かないから船に乗る。
その状態では「馬歩軍」もまた「水軍」の一部なのだ。
上記した、ジャワ侵攻時の「水軍」「馬歩軍」は、君の言うように専門化された「兵種」
であっても良いが、臨時にその目的に用いられた一般の部隊であっても良い。
史弼伝によれば、ジャワ遠征で河を遡った舟は、現地で木を伐って作ったそうだ。
恐らく丸木舟だったのだろうね。
専門的な水上軍に、丸木舟は似合わないな。 >>500
>ところで、江南軍10万人は水師だった。
>一方、東路軍4万人も水師だ。
全くその通り。それが、以前から私が言っていることだ。
「水師」も「水軍」と同じで、この場合は「渡海遠征軍」の意味だ。
君は以前は江南軍の中で張禧軍だけが水師だ、と言っていたのではないか?
今になって江南軍全軍が水師だ、と言い出したのは張禧伝の「同率水師」の問題に反論でき
ない、と観念したからだろう。
で、張禧軍を含む江南軍全軍を水師にするかわりに、水師ではない「野戦軍」として幻の
四十萬蒙古軍を持ち出した、というわけだ。だが、それも無駄な努力だ。
阿剌罕は第二次東征において東路軍と江南軍を併せた征日本軍の総帥だから、彼が率いる
のは征日本軍ぜんたいである。「蒙古軍四十萬」も、そのことを表すべきところが、
間違えて変なことになっているのだ。恐らく「四十万」は十四万の間違いであり、「蒙古軍」
は漠然と元軍を表しているのだろう。
で、阿剌罕は「行次慶元、卒于軍中」で、出航地の慶元(=寧波)まで行って、宿営中に
急死したので、阿塔海が替わって総帥となり、日本まで行った。
阿剌罕も死ななければ日本まで行ったはずなのだ。
東路軍と江南軍を併せた十四万の「水師」を率いてね。
かくして、四十万蒙古軍も幻に終わった。 >>503
訂正;阿塔海は日本まで行かなかったらしい。元史の本紀を見ると:
<元史本紀>
至元十八年二月丙申:行江東道宣慰使阿剌罕為中書左丞相、行中書省事
同六月庚寅:以阿剌罕有疾、詔阿塔海統率軍馬征日本
同七月己亥:阿剌罕卒
同八月庚寅:以阿剌罕既卒、命阿塔海等分戍三海口、令阿塔海就招海中餘寇
同八月壬辰:詔征日本軍回、所在官為給糧。忻都、洪茶丘、範文虎、李庭、
金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利、餘軍回至高麗境、十存一二
となっている。
阿塔海は六月に阿剌罕が病気のときに交代して征日本を担当したが、
江南軍が出発したあとの八月に「三海口」の守備などを命じられている。
また八月に敗れて帰国した将軍たちの中にも阿塔海の名前は無い。
本国にあって征日本に関与する、参謀本部のような職務であったらしい。
そうであれば、阿剌罕もまた、生きていたとしても日本まで行った可能性は無い。
四十万騎馬軍はますます幻だな。 ┏┓┏┓┏┏┓ ∩________∩
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┗━┓┃┗┓┏┛ ┏━━ / (●) (●) , ━━━┓┃ ┃
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┃┃ ┃┃┗┓┃┛彡( )))) |∪| ミ( i))) ┏━┓
┗┛ ┗┛ ┗┛ / ノ ノ ヽノ .ノ ノ ┗━┛ モンゴル人がイングランド人やローマ人と違って学習能力が低かったから
日本が勝ったのは和弓=ロングボウを使っていたから弓の射程が元軍より長かったおかげ
イングランド人やローマ人だったらそういう状況になったら対抗してロングボウを使いはじめるけど
モンゴル人はそういう事が全くなかったから2度目の攻撃も失敗した。
騎兵に重装歩兵を四方八方から袋叩きにされたら騎兵を増強して対抗するのがローマ人
航空戦力に戦艦を撃沈されたら航空戦力を増強して対抗するのがイングランド人
ロングボウで射程外から攻撃されてもロングボウを量産して対抗しないのがモンゴル人 >>506
単なる射程では蒙古弓の方が長いのだが。
鎌倉武士の鎧は大鎧でも胴丸でも矢を効率的に防ぐ構造だから、
モンゴル側の弓の射程内でも防御出来た反面、重くて長くて小刀の様な鏃の
征矢を使う和弓は最大射程は短くとも有効射程内で当たれば
より殺傷力が高く、且つ、皮主体のモンゴルの鎧やキルティングに
鉄鋲打った様なシナ朝鮮の鎧は日本の甲冑より簡単に射抜けたし、
太刀や薙刀での接近戦での斬撃に弱かった。 いそじん「早う解除してアベコロナで強盗ヘヴンやぞ
よっしゃ、よっしゃあ」 ┏┓┏┓┏┏┓ ∩________∩
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┗┛ ┗┛ ┗┛ / ノ ノ ヽノ .ノ ノ ┗━┛ いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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_ノ==-く チョンが悪さしやがって! ヘ、 !
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丁 | Lニ| /、_j i L.|
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┼ヽ -|r‐、. レ |
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ファビョ━ l|l l|l ━ン!!!!!.
∧_,,∧
⊂<# `Д´> まともな思考なんかできたら
/ ノ∪ 朝鮮人なんてやってないニダ!!!!
し―-J |l| |
人ペシッ!!
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 ̄ ̄ ガースー「宣言解除して聖火リレーでドンチャン騒ぎ
アベコロナがまた大拡散や
よっしゃ、よっしゃあ!!」 ここ数年で元寇のモンゴル軍の主力は高麗だってよくみるようになったんだけど高麗兵数少なくねーか。 たぶん先陣を仰せつかってるね
アメリカで言えば海兵隊。カッコイイ ガースー「聖火リレーでばか騒ぎ
五輪コロナが大拡散や
マンボウやで全員集合」 元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か
https://news.nicovideo.jp/watch/nw9506109
高麗船は手抜きだったのか?
台風による元軍の被害が大きかった理由の1つとして、彼らが軍船に使用していた「高麗船(こうらいせん)」が手抜きで造られた
からという説がよく唱えられてきました。
元軍が日本侵攻に使用した軍船の多くは、当時、元朝に服属していた朝鮮半島の高麗朝が元朝に命令されて造船したものでした。
この船が「高麗船」と呼ばれています。
これまで、高麗朝が船を造る際、納期が短かった上、元の支配に対して反感を抱いていたことから手抜きをしたのではないか、
そのため高麗船は強度が不足しており、台風時の被害拡大につながったのではないか、という説が唱えられてきました。
しかし、この説は、現在はほぼ否定されているようです。というのも、実際に当時元軍が使用した軍船そのものが見つかっている
からです。
その軍船とは、鷹島(長崎県松浦市)沖の海底にある「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」の沈没船です。
この沈没船は、元寇で使用された高麗船であると判定されています。調査によると、この船は船底を二重構造にして丁寧に
組み立てられており、同時代の船としては類を見ないほど頑丈な造りだったとのことです。
また中国側の史料にも、台風時に多くの軍船が沈む中、高麗船は沈まずに耐え切った船が多かった、との記録があります。
研究が進むにつれ、「高麗船手抜き説」は今では過去のものとなりつつあるようです。 >>523
江南軍の船が台風に弱かったのは元々長江防衛の河川で使用する喫水の浅い軍船だったから。
造船技術自体は朝鮮戦争お頃までシナ方がチョンよりずっと上。 >権力の座に就いたクビライは、南宋攻略作戦を展開します。実は日本へのいわゆる「元寇」は、その一環としておこなわれたものでした。
>クビライが日本に宛てた国書の写しが残されており、それを読むと日本征服ではなく、日本との交易や外交関係の樹立を求めていることが分かります。
>南宋を孤立させて包囲するための政策だったのです。
>しかし、当時の日本の政治を担当していた鎌倉幕府の執権である北条時宗は、モンゴルからの使者を切り捨ててしまいます。
>これが「文永の役」(蒙古襲来)を引き起こしました。
【歴史】モンゴル帝国の衰退は寒冷化→免疫力の低下→ペスト大流行(パンデミック)→基軸通貨たる銀の不足 [かわる★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626936604/
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206
えっ…
>>186とかこのスレでも前から言われてたけど、
この珍説(説ですらない?)、とうとう日刊ゲンダイに載るほどになったのか
日刊ゲンダイ自体も別に評価が高いわけではないとはいえ… >>186
高麗なんて2回目位でモンゴルの使者を殺害している。
その理由も高麗王府が使者に与えた土産が豪華だったので、
地方長官が横取りするのが目的という恥ずかしい理由。 令和の元寇が近づいてきてるから、日本が間違った判断をした、元は戦争を求めていなかったとしたいんだよ。 モンゴル帝国は隣接した国のほぼ全てと戦争してる。
元は戦争を求めていなかったなんてのは、明らかに非現実的な外交オンチの主張。
鎌倉幕府の方が正しい。 記録ではモンゴル兵40万人に高麗兵1万人だから朝鮮の雑魚兵なんてごく僅か 実際に鎌倉幕府が戦ったのは東路軍の4万ちょいだけだろ。
その後、遅れてやって来た江南軍10万が東路軍の生き残りと合流した時に、
丁度台風が直撃して元軍が壊滅状態になってしまったので指揮官クラスが撤退してしまい、
取り残された元軍の兵が武士によって殺されてしまった。
江南軍の到着がもっと早かったら九州地方は征圧されてたかもしれない。
幕府側が送った増援6万が到着するまで、どれだけ現地の武士が耐えられるかによるが・・・ >>535
江南軍は中国を6月18日に出発して7日の航海で日本到着してるんだから、
6月中には東路軍と合流してる。
7月になってからの壱岐や鷹島の戦いは東路江南合同軍14万と日本水軍の戦いだろ。
元軍は合流しても日本軍に歯が立たなかったから手詰まりになった。 東京教授「日本がモンゴル帝国に攻撃されたのは関東武士が野蛮で馬鹿だったから」
■腕っぷしは強いが、知力や教養は乏しかった
これは日本史ではなく、東洋史のほうの研究者の知見なのですが、いわゆる「元寇」の前段階、モンゴルから送られてきた国書は、別に服属を求めてきたわけではなく、驚くほど丁寧なものだったそうです。
だから、もしももう少し鎌倉の武士たちに教養があって、モンゴルの意図を理解することができていたら。少なくとも挨拶の使者くらいは送ったのではないかと思います。
当時の鎌倉の武士は腕っぷしは強い。しかし知力や教養は乏しかった。
たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。
重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。
彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。
その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。
そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。しかも言われている子どもたちが、箸にも棒にもかからない出来だったのであれば、まだ仕方がないですが、その子どもとは、北条時頼から認められ、初めて北条本家以外から執権になった北条長時(1230―1264)なのです。
戦後の学者連中の平和ボケは困ったもんだな。
ヤクザが丁寧な言葉使いで話しかけてきても、相手にしちゃダメだろ。
世界中で侵略戦争やってるモンゴルが驚くほど丁寧な国書を送って来ても、
挨拶の使者なんか送ったら絶対アウトなんだよ。
鎌倉武士の方がこの教授よりはるかに頭がいい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています