邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501461665/l50 A三国志東夷伝高句麗伝
>高句麗 在遼東之東千里 南與朝鮮濊貃東與沃沮北與夫餘接 都於丸都之下方
>可二千里 戸三萬
>多大山深谷 無原澤 随山谷以為居食澗水 無良田 雖力佃作 不足以實口腹
高句麗は遼東の東千里にある。
南は朝鮮と接している(朝鮮半島の北部に収まる)
二千里四方
朝鮮半島北部の横幅180kmに限定するなら
180000÷3000=60m
鴨緑江を起点としたら
270000÷3000=90m
追記:
・首都を置くことを都で示している=「伊都」は首都であることを補強する材料
・耕作不適地であることが強調された2千里四方に3万戸も居住 B-1三国志東夷伝東沃沮条
>東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 濱大海而居
>其地形東北狭西南長 可千里 南與濊貃接 戸五千
東沃沮は高句麗の東にあって、日本海に港を持っている。
千里の細長い領土で、南の陸境は濊と接している。
朝鮮半島の北東端から、日本海沿岸に沿って千里。
>又使大加統責租税 貃布魚塩海中食物千里担負致之
(東沃沮を支配する高句麗は)大加を使って東沃沮から租税を取り立てて、
貃布や、「魚」や、塩や、「海産物」を、千里を担いで運ばせた。
腐りやすい「魚や海産物」を租税として「陸路かつ徒歩で」千里運ばせた。
東京〜大阪 400km
東京〜箱根 75km
・・・後者でなければ腐る・・・ B-2
>北沃沮 去南沃沮八百餘里
北沃沮は南沃沮から八百余里
>夏月恒在山峻深穴中為守備 冬月氷凍船道不通乃下居村落
北沃沮は(さらに北方からの海賊を恐れて)夏は深山にこもって防備し、
冬になって海が凍り、船が来なくなってから村落へと山を下りてくる。
冬に海が凍ることから、北沃沮はナホトカやウラジオストク以北を領土に含む。
東沃沮=南沃沮であれば、
朝鮮半島北東端からウラジオストクまで千八百余里
東沃沮の次に南沃沮があって、さらにそこから八百余里で北沃沮であれば、
朝鮮半島北東端からウラジオストクまで千八百里をかなり超える
朝鮮半島北東端からウラジオストクまでが440kmなので、
ここでの1里は、
440000÷1800=244mをなるべく下回る計算となる C三国志東夷伝夫餘条
>夫餘在長城之北去玄菟千里
>南與高句麗 東與挹婁西與鮮卑接 北有弱水方
>可二千里 戸八萬
夫餘は玄菟郡(遼東郡の東、楽浪郡の北にあった郡)から北に千里。
南は高句麗と接し、北部に松花江がある。
二千里四方で、(北方の寒冷地なのに)八万戸も居住する。
玄菟郡の北限は諸説あるが、鴨緑江を起点とする。
鴨緑江から北に千里+南北幅二千里=三千里
鴨緑江〜松花江が450kmなので、
450000÷3000=150m D三国志東夷伝挹婁条
>挹婁在夫餘東北千餘里 濱大海 南與北沃沮接未知其北所極
挹婁は夫餘の東北千余里にあって、日本海に港がある。
南は北沃沮に接しており、北限は不明である。
東沃沮条において、挹婁は海賊として北沃沮沿岸を荒らしており、
だから北沃沮の人々は夏は深山にこもって防備している。
鴨緑江から150km千里が高句麗
そこから松花江までの300kmが夫餘で、だいたい300km四方。
高句麗と夫餘の東に、日本海沿岸に南西から北東へ向かって、
東沃沮(半島北東端)(〜南沃沮)〜北沃沮(ウラジオストク)〜挹婁が配列。
指標が少なく、距離判定は不明。 E三国志東夷伝倭人条
>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航海して韓国を通り過ぎ、
倭の北岸の狗邪韓國に到着するまでが七千余里
ソウル〜半島南西端〜対馬対岸が、620km
620000÷7000=88m
>始度一海 千余里 至対馬國
60000÷1000=60m
>至対馬國 方可四百余里
南北82000÷400=205
東西18000÷400=45
>又南渡一海 千余里 名日瀚海 至一大國
50000÷1000=50m
>至一大國 方可三百里
南北17000÷300=57m
東西14000÷300=47m 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)に対する反論は全く無くなったなw 邪馬壹國は筑紫平野東部(筑後平野・北野地域)にある内陸国で、
唐津(末盧國)から陸行1月(陸行1000里)、伊都國から陸行500里。
伊都國は、帥升王統の倭の首都である倭都國(倭奴國)の新呼称。 >>627
対馬海流に流されて、唐津(末盧國)は有り得ない。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから、世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 奈良湖っていつ頃まであったの?
滋賀県みたいだったんだよね >>628
対馬海流に流されて、唐津(末盧國)は有り得ない
朝から@阿波の妄想か。 >>627
女王国の東には海がある
内陸ではないね。 >>631
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 >>633
沖ノ島が重要なので世界文化遺産になっただけで宗像はおまけだよ
宗像だけではで世界遺産になんかなることはないよ。 >>634
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 世界遺産登録に当たって宗像を外すように勧告を受けていたのを知らんのか
結局は宗像をごり押しして登録成功したんだよ。 >>636
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 @阿波は「卑弥呼は阿波にいた」とかに改名したらどうかね 「目の上のたん瘤」でごめんね。
早く覚醒してね。 @阿波 @阿波とか気にしてませんから
建設的意見じゃなくて妄想だからな。 三社揃っての沖ノ島だと思うけどね。
もちろん、一番重要なのは沖津宮だとは思うけど。
あの祭祀は、結局のところ、何を祭っているんだ? >>642
>あの祭祀は、結局のところ、何を祭っているんだ?
結局のところ、忌部にまつわる神様を祀っているんですよ。 @阿波 >>642
>>567
応神直々の命令で呉まで行って連れてきた縫工女4人の1人を
応神に断りもなく宗像に譲るなんて通常なら切腹ものだよね。 沖ノ島がアマテラスの都である高天原だと思うけど、根拠はない。 >>645
>沖ノ島がアマテラスの都である高天原だと思うけど、根拠はない。
沖ノ島は筑紫忌部によって、忌部にまつわる神様を祀っているんですよ。 @阿波 沖ノ島の神は女神様だから忌部にまつわる神様じゃない。 ☆☆☆ @阿波は単なる荒らしです ☆☆☆
反応を釣りだすのを楽しんでいるだけで、
理をもって説き伏せても同じ内容を何度も書きこんで煽ってくるクズです。
@阿波には根拠もないし、真面目に議論する気もありません。
他説が反応しやすいコピペをひたすら繰り返すだけです。
スレ汚しになるから相手しないように。
どうしても反論したいなら、四国説スレに吐き出せば@阿波は必ず目を通します。 >>648
>理をもって説き伏せても
理があるのは倭国(阿波)だけ。 理をもって説き伏せているのは倭国(阿波)だけ。
相当、意識過剰になっていますね。 目の上のたん瘤でごめんね。 @阿波 >>644
宗像の協力のもと呉に行けたのだとしたら、分け前を渡すのは当然だろう
航海の技術や地理的な知識、大陸側との顔繋ぎに宗像をはじめ沿岸の海洋民の協力を必要としてたのが倭王権なわけだから ここでの呉は海南の意味で中国南部を表す、というのが定説。
丁度我々が、魏や帯方郡、楽浪郡という言葉で当時の場所を示しているのと同じ。 島に上陸していない
→ 島の形状には沿わず、沖合を通過しただけの可能性あり=1辺のみ
島に上陸している(島についての記載があるから)
→ 島に近接して接触しているので、島の形状に沿って移動した=2辺を通過
船で渡海してきて、島を通過して、船で渡海していく。
島に上陸したのだから、船は島を迂回するわけだ。
正方形を書いてごらん。
例えば左上の頂点に到着して、右下の頂点へ抜けるなら、
左上→右上、右上→右下、と抜けるから、1辺×2で2辺。
上の辺の中央に到着して、下の辺の中央から去っていくなら、
時計回り(もしくは反時計回り)で、
上の辺の中央→右上(左上) 1/2辺
右上(左上)→右下(左下) 1辺
右下(左下)→下の辺の中央 1/2辺
で、合計2辺。
陳寿倭人伝の計算はこれ。 >>650
宗像時代的にもっと後世だから関係ない。 >>650
>航海の技術や地理的な知識、大陸側との顔繋ぎに宗像をはじめ沿岸の海洋民の協力を必要としてたのが倭王権なわけだから
「宗像をはじめ沿岸の海洋民」とは、倭国(阿波)から進出した「筑紫忌部」なんですね。 @阿波 >>656
宗方は地理的に当初から重要な経由地だったろう。
祭祀が盛んだったのは5世紀とかだったかもしれないけどね。
3世紀でも重要だったはず。
ただ、魏志倭人伝では経由していないので、別の勢力の支配下だったかもしれない。
卑弥呼の倭国は領土的にはかなり狭く、筑紫と肥前だけだったのではないか。
肥後は狗奴国として反抗していたし。
宗方は豊国だから、敵対はしなくても直轄地ではなかったのだろう。
畿内?
知らない子ですね。 >>658
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし @阿波 >>658
>卑弥呼の倭国は領土的にはかなり狭く、筑紫と肥前だけだったのではないか。
投馬国のほうが広かったりして >>660
投馬国の人口からすると、あり得なくもない。
宮崎県なら広さも十分にあっただろう。 投馬国は朝鮮半島南岸の地域だな
けして宮崎や鹿児島では有りえない
行程を説明するのに突然、行程と無関係な場所が出てくるはずがない
日(時間)での説明は里(距離)で説明した行程を再度説明し直したものに過ぎない
この辺の説明は古田はおかしい。 基本的に、中国人にとって「北九州」はわかりやすい位置にある。
実際に北九州の不弥国まではけっこう正確に書かれている。
仮に邪馬台国が北九州にあったとしたら魏志倭人伝にもっとわかりやすく正確に書かれているはずだよ。
だって中国人にとって北九州はわかりやすい場所にあるのだから。 もう一回言うけど
中国人や朝鮮人が北九州にある国の位置を間違うはずがないんだよ。
伊都国、奴国、不弥国、北九州にある国は正確に書かれている。
邪馬台国は北九州になかったから不正確な記述になったんだよ >>663
韓伝によると韓には馬韓が十万戸、弁韓、辰韓が四〜五万戸の計十四〜十五万戸しかいない。
それに対して倭には邪馬壹国だけで七万戸、更に別に狗奴国もある。
投馬国五万戸は容易に朝鮮半島の南岸に収まるな。 >>663
帯方郡の南に韓人がいて方可四千里。東西は海、南は倭と接する。
方可四千里のうち西半分の馬韓だけで、十余万戸もある。
東半分の弁辰韓が四五万戸。
倭人伝にある通り南ほど温暖で作物が育ちやすいから人口を支えやすい。 >>664
>>665
>実際に北九州の不弥国まではけっこう正確に書かれている。
邪馬壹国の記述も正確に書かれてるよ
不正確な記述なと思えるのは誤読してるから。 >>664-665
結論ありきの駄文の代表例。
倭人伝には北部九州のことだけが正確に記述されている。
あとは東方倭種として日本海沿岸の存在が触れられているくらい。
逆に、瀬戸内海のことや、
湖だらけだった畿内のことなどは一言も書かれていない。
つまり、里程+日程+総里程として、
北部九州邪馬台国のことが多重的に詳述されているわけだね。 >>669
阿波丹山だけで十分証明されているが、以下は補足。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海で、山や島に人が居住し、国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、往古より践祚大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>671
>日本なら何処でも当てはまるな。
こういう事実を示せるのは、何故か倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>672
阿波だけじゃないよw西日本なら何処でも当てはまる。 >>673
>阿波だけじゃないよw西日本なら何処でも当てはまる。
こういう事実を示しているのは、何故か倭国(阿波)だけ。 @阿波 女王国が九州北部であったから、魏志倭人伝には九州北部のことが詳しく紹介されている。
これが単純明快な事実だよ。 >>675
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 >>676
丹山馬鹿、四国説で一人で妄想をたれてろよ。
ここに来るなよ、鬱陶しい。 >>677
目の上のたん瘤でごめんね。
カリカリせずに、楽しませて。 @阿波 自分の妄想を繰り返し述べるだけで阿波の意見は全く参考にならないし
成程と同意出来る点も無い
独りで淋しいの? >>679
そんなにカリカリしなくてもw
阿波説に対し、意識過剰。 分からんでもないが。 @阿波 あれだけ栄えていた全国の炭鉱が
豪の安いのが輸入できるようになって一気に閉鎖されただろ。
だからこその北部九州なんだよ。 ・比喩を理解できない。
・議論ができないから壊れたロボットのように同じコピペを繰り返すだけ。
連打していた@阿波が比喩で完全反論否定されても何も言い返してこないのが証拠www
狂人を相手にしても時間の無駄。
比喩攻撃で排除しようぜw あーあー河の流れのようーにー
皮の主流はますぐ流れても周囲のでは淀みで乱流するわけだ。
ナルトの大渦とかそう。
對馬のではイキのいいのと九州との間が乱流してるのが
科学的データで証明されてる。
だから海龍の流れを読むと加羅津に到着。
考古学的のもあぴょー糸巻き巻きまでで終着点。終了だよ。 当て字しただけで沈黙の艦隊なのな。
セガールは大阪にいたんだぞw
なんも井伊かえせな井出やんのw
明日屁なんだな重しれーwww 倭寇と倭人の活動範囲は同じなんだよ
ただ活動の順序が逆なだけ
前期倭寇と後期倭寇の順序が倭人倭国では逆なんだよ
共通点はピーク時の拠点は北九州での活動で
これが倭人倭寇と言われる人達が主導権を握ってた
所謂、本物の連中で
後はコピーキャット 楽浪は漢からあるから楽浪周囲の地形は古くから認識されていたわけだから
>>617
>>618
は確度の高い実測値である可能性が高いから中国王統支配外の東夷での里=65-75mで陳寿を初めとする史家は記載していると家えるね。 >>686
>共通点はピーク時の拠点は北九州での活動で
倭寇が倭国による半島への侵攻なら、倭国の都の所在地は九州であったことになるね。 甕棺墓は倭国大乱の頃に消滅する=敗者なのだから
甕棺墓が天孫族というのはありえないだろ。
前方後円墳のように、天孫族が「一時期採用」していた、ならありうるが。 敗者だから筑紫を出て、先に東征した饒速日を頼って東征したのだろう。
大乱は王統の交代を示唆する語だから、卑弥呼は別の王統から共立して、伊都と倭国の王権を継承したのだろう。
神武は畿内に行ってからは、文化的には居候先の饒速日の政権に飲み込まれてしまったのだろう。 >>690
>神武は畿内に行ってからは
神武はなんで湿地で不便な畿内へ行ったの? @阿波 >>690
おいおい・・・
それだと
筑紫は卑弥呼が継承
畿内は饒速日の政権
日本はどうなっちまうんだw >>691
そりゃ、主流派争いに負けたりして
九州に住めなくなって新天地を探していたけど
瀬戸内沿岸は既に先住民がいるから
そこにお世話になりながらも
不便だけど先住民がいないところを見つけたんだろ。
それでも相当戦わなければならなかったし。 >>694
なんか子供の言い訳に聞こえるんだけど。
もうちょっと、アカデミックな説明できないの? @阿波 >>695
放浪する理由としては
一番ありふれた理由だと思うよ。 ローマの建国神話もトロイの遺臣だから
ありがちではある >>696
そんな落ち武者みたいに湿地で不便で先住民がいないところへ行かなくても
ど田舎の阿波に来れば良かったのに。
丹もあるし、温暖で豊かな海に面し、豊富な森林資源もあって、住みやすいのに。 @阿波 >>694
先住民がいないところを探して
饒速日のところに居候
先住民がいるほうがいいのかいないほうがいいのかw >>698
あのへんは当時はそれなりに人口は多いだろ。
よそ者数十人、あるいは数百人に
ただで土地やるとも思えんが。 >>701
そんな湿地で、不便で、人も住まないようなところで、
一体、なにをするつもり? @阿波 >>703
神武さん、落ち武者みたいに、人のいないところを探すような非力だったの?
人の大勢いる良地を奪い取れなかったの? @阿波 よそ者数十人、あるいは数百人が、九州くんだりから畿内までよく無事で来られたもんだ。
たいがい、身ぐるみ略奪されて、殺されるか生口だろう。 @阿波 >>706
そうだねえ。
記紀読んでも苦労してたからねえ 人の大勢いる良地を奪い取れなかった非力の神武さんが
湿地で、不便で、人も住まないようなところで、どうして力をつけたんだろう? @阿波 >>714
そんなこと言わずに東遷説を探究しようよ。 @阿波 だいたい一人で複数レスに嫌味レス返ししてるのが居る時は流れは変わらんよ 私のレスが嫌みか・・・
嫌みなんだろうな・・・
ごめんね。疑問点をぶつけてしまって @阿波 だいたい阿波糞なんて関係ないじゃん
揚げ足を取りなだけでさ まじレスすると、ちゃんと親戚の饒速日を頼って畿内に向かったと記紀に書いてある。
塩土爺とやらに教えてもらったんだったかな。
饒速日が先住民の上に君臨していたのが畿内だから、そこにしか厄介になれなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています