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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001九州王
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2017/09/23(土) 22:50:54.37
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501461665/l50
0720日本@名無史さん
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2017/10/18(水) 06:34:20.21
饒速日が君臨していたのなら
長髄彦が勝手に攻撃してこないっしょ。
最後まで言い争ってるし。
0721日本@名無史さん
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2017/10/18(水) 06:45:18.35
>>719
>まじレスすると、ちゃんと親戚の饒速日を頼って畿内に向かったと記紀に書いてある。

まじレスしなさい。  親戚の饒速日を頼って「畿内」に向かったと記紀に書いてない。    @阿波
0722日本@名無史さん
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2017/10/18(水) 06:47:20.56
>>720

長髄彦は、阿波国鳴門市萩原周辺が拠点。   @阿波
0723日本@名無史さん
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2017/10/18(水) 07:16:01.38
>>720
だから戦闘終了を指示して、指示に従わなかった長髄彦を最後は殺してしまった。
0724日本@名無史さん
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2017/10/18(水) 09:58:18.44
>>720

東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。

何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」を祀るはずがない。   

こんな事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。   @阿波
0725日本@名無史さん
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2017/10/18(水) 22:50:55.36
神武を佐けた霊剣・建布都神は、全国唯一、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。

「建布都神社」 御祭神 武甕槌神

こういう事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。   @阿波
0726日本@名無史さん
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2017/10/19(木) 21:27:15.34
神武の神剣はフツノミタマノ剣、実物は石上神宮にある。
0727日本@名無史さん
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2017/10/19(木) 22:29:49.60
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」

2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅矛圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」

2世紀後半
倭国大乱→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」

3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)

3世紀後半
吉備と畿内が和睦、前方後円墳体制スタート

4世紀前半
崇神らによる出雲征伐

4世紀後半
景行、神功、武内宿禰による九州・朝鮮遠征
0728日本@名無史さん
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2017/10/19(木) 22:45:09.59
4世紀中〜後半
九州・朝鮮遠征
メンバー:景行、神功、武内宿禰
(遠征の間、大和には大王が不在であるはずはなく、当然別の大王が在位し政治を行っていた)

4世紀後半
神功、武内宿禰、応神畿内帰国
応神の出生の秘密により大和からは腫れ物扱い、河内に王朝を立てる
河内大和二朝分裂(幕府と朝廷のように二重の権力が並立)

歴代河内王朝の王
初代 倭王禰=武内宿禰
倭王武の上奏文「祖禰は・・・」禰を祖と認識

二代目 倭王旨=ウマシウチ宿禰=武内宿禰の弟
百済から贈られた七支刀に「倭王旨に贈る」と記される

三代目 倭王讚=応神=ホムタワケほか諸説
四代目 倭王珍=仁徳ほか諸説
五代目 倭王済=反正ほか諸説
六代目 倭王興=允恭ほか諸説

七代目 倭王武=雄略
熊本と埼玉からワカタケルの鉄剣
「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。」

八代目 清寧天皇→滅亡

6世紀前半
継体天皇が即位し二朝統合
地方を武力で押さえ付けていた河内王朝の滅亡により、中央集権が弱まり九州が半独立
→筑紫君磐井の乱
0729日本@名無史さん
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2017/10/19(木) 23:40:07.06
6世紀中盤
磐井の乱鎮圧により九州は独自の外交権を失う
三韓の争いにより朝鮮からの難民が増加
→仏教が伝来し皇族・豪族の一部が信仰を始める
蘇我氏が物部氏を滅ぼす

6世紀後半
仏教徒である聖徳太子が台頭
高い知能と行動力を有し尊敬を集める
聖徳太子派閥(推古天皇・聖徳太子・蘇我氏・秦氏)を作り次々と改革を行う
聖徳太子派閥の蘇我馬子が崇峻天皇をころしてしまう
(→再び二朝分裂)

7世紀前半
遣隋使のスタート(倭国が中国と結びたがるのは国内が内戦状態のとき)
新唐書「用明(アマタリシヒコ)初めて中国と通じる」
=河内王朝と聖徳太子王朝は継続した王朝ではない
蘇我馬子死亡、聖徳太子死亡

7世紀中盤
聖徳太子王朝はツートップの死亡により勢力を失う
→大化の改新によりとどめ、蘇我氏滅亡(秦氏も没落)

7世紀後半
蘇我氏、秦氏の没落により九州が再度半独立(蘇我氏は九州を支配し、阿蘇ピンク石を畿内輸入)
筑紫君サチヤマが白村江出兵→敗戦し捕虜にされる
九州、唐に占領される
天智、百済残党とともに唐軍引き上げ後の九州を支配
近江王朝を立て「日本国」を名乗る
0730日本@名無史さん
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2017/10/20(金) 00:46:09.51
7世紀後半
天智の近江王朝樹立(再び二朝分裂「倭国」と「日本国」)
天智死亡、壬申の乱勃発
天武が二朝(および九州)を統一し、改めて「日本国」を国号とする
旧唐書「日本は倭の別種 小国ながら倭を併合した」
新唐書「倭が日本を併合し、その名前を取り日本を名乗った」

8世紀前半
大宝律令制定
古事記、日本書紀の作成
「天皇」号成立
0731日本@名無史さん
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2017/10/20(金) 17:40:07.36
>>727-730
気持ちは分かる

が、鉄器が無いから4世紀まで北部九州と接続していない

以上。
0732日本@名無史さん
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2017/10/20(金) 22:59:26.44
一か所を月→日だけで、全て説明可能になるのですね。

もはや反論もなく、
考古学的にも確定でしょう。
0733日本@名無史さん
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2017/10/20(金) 23:13:49.53
月→日に変える必要は全く無い。かえって説明がおかしくなっている。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 00:00:17.53
九州説でも畿内説でも、陸行一月は陸行1日の誤りだとするのが一般的だね。
0735日本@名無史さん
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2017/10/21(土) 00:14:32.14
そりゃあ弥生時代の日本に一月歩ける土地なんてないし

20日 10日 とくりゃ 1日だろ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 00:44:15.46
食料とか下賜品とか荷物持ってるから、1日15kmくらいでしょ
30日で450kmですよ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 00:47:20.48
そもそも外国から招いた使者が通れるような道があったのか?
0738日本@名無史さん
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2017/10/21(土) 00:49:18.51
ねーよ
陸行一日もほんの数時間か数十分歩いただけだろ

議論する価値すらない
伊都糸島首都で決定だろボケうぜえ
0739日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 08:12:40.17
>>736
邪馬台国を長野県にでも置くつもりかよ。
ボケ。
0741日本@名無史さん
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2017/10/21(土) 09:05:54.58
>>740
船で行くよ。
そもそも関門海峡を歩いて渡る気かよ。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 09:13:16.91
>>741
水行なら10日、陸行なら30日でしょ
倭人伝は読んだほうがいいよ
当時関門海峡はつながってたのよ
0743日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 09:16:22.59
全行程12000里を水行に換算すれば十日、陸行に換算すれば一月
と言う解釈も一般的ですよ。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 10:23:40.35
『計其道里 當在會稽東治之東』 は、
邪馬台国への『道里』の説明であり場所の特定ではない。

楽浪帯方から邪馬台国の『道里』は洛陽から會稽東治への『道里』を東に移動したものに等しい
であり
その特定される道里行程の場所にある 『儋耳』=海南島 のような島
である、と言っている。 九州の説明として充分であり、
南水行十日=対馬海峡域三千里、陸行一月行=九州北部2千里、と同様に間違いではない。

中国人が知らなかった当時日本の首都は奈良だったはずだという、歴史学説のご都合主義で、
中国正史が定める方位道里を勝手に読み替えることがおかしい。
考古学的にも糸島を起点に5百里辺りの遺跡が該当していくだろう。

250年当時、大和朝廷は九州平定を終えていないし、九州の中国外交を知らない。
記紀は九州が古代から日本固有の領土と主張するが、捏造である。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 11:37:20.16
>>742
>当時関門海峡はつながってたのよ

煽りか冗談ですね。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 11:57:33.13
>>746
本居宣長が古事記伝で書いてるよ
「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」
0748日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 12:17:23.51
関門海峡は岩場が続いていて船で通過はできなかった

岩を取り除いて整備したのが4世紀の神功たちだろ?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 12:18:28.63
だから関門海峡の上に陸地があって陸路で往来できたというわけではない
0751日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 15:09:10.68
>>747
それって地学的な根拠は無いだろ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 15:24:26.18
>>751
関門海峡の最深部は45m
氷河期には深度120mくらいまでは陸地だったので、1万年前に陸続きだったのは確実
弥生時代の海進の進行度合いがどの程度だったかは不明
0753日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 15:34:10.75
たぶん海進が進んでも、穴門と言われていたことからすると、海峡の狭いところの上部は続いたままだったんだろう
それを船が通れるように後の世に工事したと
0754日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 15:59:24.10
4世紀の仲哀天皇の事績ですね。

あと、神功皇后は本当の皇后ではないでしょう。
仲哀の和風諡号は足仲彦ですが、神功皇后より前に足仲姫と結婚しています。
二人は景行天皇こと大足彦の孫であり、皇子も二人いました。

神功皇后は天皇家の血筋が非常に薄く、仲哀の存命中は皇子もいませんでした。
それが仲哀の死後、10ヶ月してから応神が産まれたのです。
また、神功皇后は仲哀の皇子二人を殺害しています。

天皇の諡号で神の文字が含まれるのは、新しい王朝の祖先神の意味だという説があります。
応神は、仲哀とは血縁ではないのでしょう。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 18:26:07.82
那珂の女首長を嫁にだから 足仲姫ではなくて大中津比賣命, 大中姫な
0757日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 20:28:27.19
もうそれでいいよ
王墓もあったし、女性の装身具もあるんだから
0758日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/23(月) 01:25:50.97
自然淘汰
0759日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 18:30:31.49
>>28
庄内式土器の分布や移動から、当時の権力の所在が分かる。

・畿内には河内と大和に局在
・九州は広範囲に分布、南限は熊本
・河内式は西方との交流が強く、九州にも分布
・大和式は東方との交流が強く、大和に局在

>>116-118
銅戈将軍は唐古鍵首長と結婚同盟して大阪湾上陸を果たした。
大阪湾に高地性集落が上陸=大阪湾の森林を伐採して
淡路島鉄工房へ燃料供給。

完成した鉄器ならびに、畿内からの租庸調=河内式の動きは、
北部九州内で同じように動いている。

瀬戸内海の輸送船で一緒に運ばれたのだから、
それを献上する地域も似てくるわけだ。

ここで注意が必要なのは、
北部九州で河内式が行き渡る地域とは、倭国権力者のいた地域。
よって、倭国そのものの領域はもっと広く、
それ以外の九州地域については、倭国に編入はされていたものの、
河内式を受け取る側ではなく、倭国権力者に納税する側だった、ということになる。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 18:31:22.07
一方の大和式は動いていない。

>>28の原則を当てはめるなら、
大和には銅戈将軍とは「別の権力者」がいたことになる。

銅戈将軍が、唐古鍵と同盟して大阪湾上陸を果たしたのとおあいこに、
唐古鍵の首長も、銅戈将軍の援軍を利用して、周辺集落を従えたことになる。

銅戈将軍は、倭国のために、
>>283
黒歯国(河内式)や朱儒国(淡路島阿波紀伊)を運営した。
倭人なので、倭人伝に記載される。

唐古鍵の首長は内陸を支配し、周囲から徴税したのが大和式。
大型倉庫を作り、占領民を動員して古墳を作り、
つまりは大物主として一定期間君臨した。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 18:41:49.02
黒歯国といえば河内から出土した弥生時代唯一のお歯黒は保存されてるのかな。
稲部遺跡の大型建物みたいなことになってなければよいのだが。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 23:13:01.08
>>761
>稲部遺跡の大型建物みたいなことになってなければよいのだが。

Kwsk
0763日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/24(火) 23:42:30.85
そういや銅鐸って一番作られてたのはどこなのかな
青銅器なら生産中心が権威の中心だよね
0764日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 01:33:05.68
銅鐸が熊除けの鐘だとしたら銅鐸が多い地域は単に熊が多い地域に過ぎないのかもしれない

銅鐸単体で考えても意味はない
青銅器全体で考えないと
0766日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 06:06:13.89
鋳型の出土地は各地にある
一番多いのはどこかね
0767日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 07:40:56.69
九州北部だろ。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 08:02:24.22
九州はあるにはあるし鋳型も出ているが
古墳から出ているわけでもなく
数も少ないのであまり興味はなさそう。

他の銅器も多いからね。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 08:11:20.14
材料となる銅が九州北部を経由しないと入手できないのだから、畿内の青銅器は全て九州北部産か、九州北部を経由した輸入品、それを鋳直したもの。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 09:53:55.73
材料となる銅が九州北部を経由しないと入手できないし
銅鐸の鋳型も九州北部で出土してるから九州北部で販売用に作られたんだな。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 10:14:09.21
九州の銅鐸は小さめで舌がついている
のもあるようだから、
音を出すのに使用された実用品で、
基本形というか原始形的な物だろう。

九州ではあるにはあったが、
重要視されることもなく
出雲から畿内にかけて伝わってから
祭祀具になり、大型化していった、
というところではなかろうか。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 11:59:16.23
>>771
その通り

九州と近畿は仲の良い交易相手

九州と兄弟国の出雲は、近畿と領地を接していて仲が悪い

出雲と近畿の戦争を治めるために奈良で女王になったのが九州の卑弥呼
0775日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 14:09:31.74
>>771
出雲、隠岐は古代海洋国家。 出雲が後の大和政権でないならば、
奈良遷都建国以前の大和政権が出雲調略以前には九州の対馬交易を知らなかった。

糸魚川翡翠の流通は見えているので、
出雲は半島東部、まあ金海としても、直接交易可能だった可能性は高い。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 14:22:34.57
>>775
出雲を倒して日本海側の交易権を独占して成立したのが筑紫伊都の倭国なんだけど。
わかっているのかな?
0778日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 14:50:27.35
出雲が九州の傘下に入っても、結果的には同じように見えるはず。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 14:57:10.29
いや銅矛圏から弥生後期に抜けてるんだよ出雲は
そのまま出雲抜きで前方後円墳時代に突入してる
0780日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 15:00:42.93
四隅突出型墳が、大国主を倒した後の出雲国造家の墓だと思っているんだけど。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 15:51:39.19
いや四隅始めたときは銅矛圏にも銅鐸圏にも属さない独立勢力になってるから
国造みたいな他国の任命を受けた人間ではないでしょ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 15:57:43.89
大国主ってそもそも但馬だろ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 16:07:11.17
大国主ってそもそも福岡だろ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 16:07:16.18
平原の王の弟が出雲王で、平原王の娘が卑弥呼

卑弥呼からしたら出雲王は叔父

つまり長男筋の平原が本家で、出雲が分家だが、
出雲の王のほうが年上で長老的に振る舞ってたんだろう
0785日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 16:11:13.83
>>778
倭人伝が伝える250年の九州の状況で東征や半島進出は無理だ。
魏使を返した後、邪馬台国が存続可能だった可能性はほぼ無い。

九州王朝東遷説というのは畿内説のデタラメの上塗り的に異常。
倭の五王がわざわざ半島利権交渉で南朝に出向く理由も無くなる。
百済や高句麗との関係は物証が残るわけで高句麗馬の移入は北方馬賊の侵入じゃないよ
0786日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 16:24:00.18
>>784
平原遺跡の被葬者は女性だから、根本的に間違えている。
卑弥呼の前の王は倭国大乱より前になるし。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 22:44:08.61
甕棺墓が広域に分布して甕棺墓王が伊都にだけ存在=中央集権
鉄器入手ルート独占
硯=文字使用

むしろ東征しないほうが説明を要する
0788日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/25(水) 23:07:53.91
というか、はじめから西日本全域が筑紫倭国の支配下で、たまにうるさいのがいると叩いて、あとは全部植民地だったんじゃないかというくらい、九州北部と他の地域に格差がありすぎるんだけど。
鉄器も青銅器も外交も貿易も全て筑紫倭国が独占できるもんな。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 10:25:11.37
倭人伝、後漢書の女王国は世襲制ですらなく九州北部三分の一の領土に二十数国
王位継承に二十数国の王が干渉し殺し合い隣の狗奴国と紛争の絶えない小国である。
この紛争に帯方郡の小役人に介入させる?どんだけ日本の概念の倭国王と程遠いか。

これが統一国と言えるか? ただの糞田舎の首長国の共立リーダーだろ。
卑弥呼の朝貢に対して倭王を任せた魏がアホであり滅びて当然である。

100年後には東国も九州も半島も平定して、百済から楽浪に道を開き
高句麗とも戦争して高句麗馬の移入を完了してるのが、畿内中国関東勢力だよ。
倭人伝の紛争絶えない250年の小国邪馬台国には東遷なんてしてる時間はない。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 17:07:31.85
>>788
九州北部から日本各地に植民して行ったんだろうね
この植民行動に対抗した跡が畿内や瀬戸内海の高地性集落だな。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 18:28:03.13
九州北部は狭いけれども、富というか利権が膨大だったんだよ。
博多湾岸を征したものが倭国王だったんだろ。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 18:28:55.88
>>789
東遷じゃなくて九州北部からの東方植民だな。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 19:44:10.30
それなら東征でいいんだよ。
そして、記紀に書いてあるのは東遷ではなく東征なんだよ。
記紀は虚々実々がギリギリのバランスで書かれていて、神武が大和に行ったことは書いてあるけど、都を移したとは書いてなく、あくまでも東征としているんだ。
当時の人から突っ込まれた時の逃げ道だったのかもしれない。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 20:26:11.18
神武が大和に行った時には既に別の入植者が居たんだよな
次々と何回も入植が行われていたんだ。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 22:09:40.55
気の農具しかない時代は水路も掘れなかっただろう。
まともに土地改良が進んだのが7〜8世紀だったんじゃないか?
0800日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 22:53:55.66
上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、難波の堀江は人工的に掘削されたものではない。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 23:24:27.00
誰か邪馬台国大阪説なんて唱えていたか?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 23:51:33.23
>>797
全国各地の平野が3世紀末から4世紀に一斉に作られてるみたいなんだよね。
平野に限ると、日本の国土は江戸徳川を除いてほとんどが
天孫族など北部九州海人族によって作られた気がする。
何らかの技術革新があったんだろうと思うけど、検討中。
知ってたら教えて。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 10:49:58.78
農耕具として鉄器が使用され
弥生中期までは福岡、佐賀、大分で多く出土するが熊本では少ない
弥生後期になると熊本で急激に出土数が増える。
古墳時代に奈良で急に出土するようになるが、他の畿内ではほとんど発見されない。
農地の開発は弥生中期までには福岡、佐賀、大分地域で進み、弥生後期になると熊本で開発が進んだ。
更に遅れて古墳時代に奈良地域の開発が進み、その後に畿内も開発された。
古墳時代に九州北部の鉄器出土数が減少するのは朝鮮半島での戦闘に多くの鉄製の武器が消費されたことによる。
畿内の土地改良が進んだのが7〜8世紀だな。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 12:07:29.14
神武東征は、武装難民船団による東方植民。

@安藝広島では入植失敗
A児島岡山でも入植失敗
B阿波徳島では阿波の敵である河内に侵攻を紹介され追払われる
C神武戦闘船団は、河内の外れ日下生駒山麓で敗戦し、河内湾から阿波傘下の和泉方面に敗走
E紀ノ川河口にて、阿波に残した女老子船団と再合流。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 12:53:51.39
>>803
>農地の開発は弥生中期までには福岡、佐賀、大分地域で進み、弥生後期になると熊本で開発が進んだ。

倭国が筑紫を中心に成立し、豊国、肥国の順に拡大した。
卑弥呼が女王となる頃までに肥国は倭国の一部となり、4世紀以降はむしろ肥国よりも発展している。
卑弥呼が肥国出身と想定することは不可能ではない。
墓制から見ると、卑弥呼が筑紫の天孫族とするのは無理がある。
もちろん、倭国の都が伊都であり、平原遺跡が卑弥呼の墓であるという前提での話だけれど。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 17:57:54.37
>>805
相変わらず「根拠となるデータがゼロ」の文章ですね。

墓制から見たら筑紫しかありえないでしょ。
肥国王家は無いね。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:01:57.16
じゃあなんで平原遺跡は甕棺ではなく木棺なのさ。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:13:24.67
107年の時点で倭国が存在している。
ということは、倭国の王墓は甕棺墓だった。

で、平原卑弥呼が木棺墓だから、倭国を滅ぼしたのかと思いきや
魏志倭人伝でも卑弥呼の国を倭国と表現している。

つまり、倭国は倭国のまま、甕棺から木棺へ様式が変わっただけ。
ということはだ、筑紫王家ないでの系統争いに過ぎないってことだ。

肥国王家なるものが別にあるのなら、
倭国が消えて肥国なりなんなりに変わってるはずだろ。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:14:48.33
てか、肥国王家の証拠が皆無なのによく粘るね。
野ヶ里関係者か地元の人なの?
0810日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:41:50.96
筑紫から肥国に王家が移っても、都が伊都のままなら倭国だろう。
卑弥呼の直前に王統を揺るがす大乱があったことは魏志倭人伝にあるし、古事記では九州北部の国として筑紫、肥国、豊国などを明記している。
墓制の変更は考古学的な状況証拠になると思うけどね。
4世紀以降も筑後や肥国にそれなりの勢力が存続しているし。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:48:20.35
>>810
ほらね。
何の根拠もない。


>卑弥呼の直前に王統を揺るがす大乱があったことは魏志倭人伝にあるし
倭国乱だね。
筑紫倭国王家での争いだね。

肥国なんて出てこないし存在しない。


>古事記では九州北部の国として筑紫、肥国、豊国などを明記している。
それがなに?
根拠になっていないことをわかっていないんだね。


>墓制の変更は考古学的な状況証拠になると思うけどね。
なんの?
じゃあ前方後円墳が終了したら天皇家はどうなったというの?


>4世紀以降も筑後や肥国にそれなりの勢力が存続しているし。
存続ではないね。
ようやく豪族が登場し始めただけ。

存続と言いたいのなら、3世紀以前の肥国勢力の考古学的証拠を示してね。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:50:34.22
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
少なくとも肥後は豊前より優勢に見える。
筑紫が倭国の始まりだが、数百年かけて倭国は拡大した。
佐賀熊本に入植した分家が力を蓄えるには十分な時間だと思うけどね。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:53:57.55
>>812
何度も指摘されてきたでしょ?
その分布地図は5世紀6世紀の副葬品も入ってるって。

その地図の元データを見ると、熊本に威信材が副葬されるのは、4世紀以降。

それにもかかわらずその図を何度も呈示しては
3世紀の論争に使うのは、詐欺行為じゃない?
0814日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:55:45.46
簡単に言えば、3世紀まで熊本には何らの宝物も副葬されていない。
王はいなかった。

>>812
繰り返すけど、その図を持ってきて3世紀のことを論ずるのは、
詐欺行為じゃないの?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 18:56:45.43
被告だけに詐欺ってか
0816日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 19:08:08.45
>>812
その図のデータを3世紀以前と以後に分けて正しく解釈するとこうなるよ。

×狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、
〇熊本には何の威信材も無かったのだから、伊都卑弥呼とは全く別の文化圏だった。

×上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
〇上記の地図は邪馬台国と狗奴国それぞれの王となりうるのは筑紫王家しかありえないことを示している。
〇北部九州の国、倭国の3世紀における中枢は、当然ながら、図の中で3世紀以前の副葬品が集中する筑紫であった。

×少なくとも肥後は豊前より優勢に見える。
〇3世紀まで肥後は何もない。
〇5世紀6世紀は肥後は豊前より優勢だったかに見える。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 19:20:57.04
4世紀には筑後も筑豊もそれぞれの勢力がいたことが記紀から分かる。
しかも景行天皇や神功皇后など、王統の交代を示唆する話に事欠かない。
それよりも荒れていた2〜3世紀に王統の交代がなかった保証はないだろう?
4世紀の政変だって考古学的には証明が困難なんだから。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 19:25:20.83
あと、地域としての筑紫への富と権益の集中を否定しているわけではないから。
肥国出身であっても、卑弥呼が伊都国にいれば、考古学的には筑紫でカウントされるのだろう?
天孫族が何かチョンボをやらかして権威が失墜して、遠縁の肥国の、久留米あたりの巫女首長が担ぎ出されたら、考古学的には証拠なんて残らない。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 19:38:50.31
それは筑紫王家でしょ
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