光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 家系図によっては光秀の子は13人いたというものもあり
さすがに一人の女性がすべて産んだとするのは適当ではないかと ガラシャが正室の子じゃないという根拠は何もないということだね
信長の子たちの母親も一次資料に書かれていない。
一次資料に実母が出ている戦国時代の資料は
かなり少ないのではないか?つまりこれを言い出したらきりがないということ
>>269はガラシャには姉がいたと強弁しているが
>>267にはガラシャは第一子とどこにも書かれていないのだが >>273
ガラシャの年齢をもとに光秀妻・妻木氏の年齢を推測するというのが
意味がないと言っている
光秀と妻木氏の年齢比較だけで良い >>270>>273
ガラシャが正室の子だという根拠も何もない >>273
信長の子の母については「勢州軍記」などに
いくつか記述があるんじゃなかったっけ >>272
信用性の低い系図に書かれていることを信用しないように。一次資料で確認できる光秀の子は多くない
>>268
ねねの年については、若くない説もある。そちらを取り上げないのは片手落ち
ペドの前田利家でも夫婦10歳差が限界だった。光秀67歳説の夫婦の年齢差はもっと大きい
黒田長政と加藤清正は、後妻を迎えた事情が関ヶ原前の政治的理由だった。
また、黒田と清正が再婚したときには、彼らは大名でセレブ。
光秀とはそれらのところが違う
それに、黒田と清正には先妻との子もいるので、再婚したことが確認できるが
妻木氏は光秀の後妻という証拠がない。 ガラシャ以外で実在が確認できる光秀の子は光慶と荒木村次室→明智秀満室と津田信澄室くらいか?
>>276
勢州軍記は一次資料ではない 一番有力視されてる天海の生年 天文5年(1536年)
綿考輯録(細川家記)の光秀の生年 大永6年(1526年)
当代記(徳川の史記)の光秀の生年 永正13年 (1516年)
ちょうど10年ごと違うw
状況的には光秀の生年は天文5年が1番妥当なのにね >>278
それと自然かな
>>279
当代記準拠だと、光秀は2歳年上の舅にお義父上と呼ぶのだろうか 第一子とされる長女も推定享年は20代半ばくらいみたいだし
通説通り光秀が55歳没だったとしてもかなり遅くに出来た子ってことになってしまうよな
信長や細川藤孝と同年代くらいだったんではないかと思う 最初から秀吉を仲間に入れてクーデターを起こさなかったのが悪い
秀吉と官兵衛なんて、とんでもない手を使ってくるんだから、大返しを予想できなかった時点で負けだ 明日、古舘伊知郎が本能寺の変を実況中継するらしいぜ! >>280
舅の年齢はあまり関係ないと思うよ
この頃は年の差婚は普通だし
ガラシャが15歳で結婚して10代のうちに子供3人産んでいるのを考えれば
光秀の妻は舅が20代の時の子だという前提は通用せず
この頃は10代のうちに子供量産が多かったし
徳川家康など祖父の松平清康と年齢差が32歳しかない >徳川家康など祖父の松平清康と年齢差が32歳しかない
実の祖父と孫だから、これを持ち出すのは結婚相手がどうこうという問題には意味がない。
>>288の説に従うと、ガラシャの舅の細川藤孝とガラシャは29歳差
彼らが結婚しても可笑しくはないな。だが、ガラシャは藤孝の息子と結婚してしまった。
戦国の謎だなw 戦国時代であろうと、初婚での結婚相手の年齢のつり合いは重要
信長は、独身の柴田勝家を放置して、信長の娘を年齢の近い男に嫁がせているし 結局のところ実際の光秀の身分がどうだったのかによるんじゃない
本当に明智氏の御曹司だったら年齢も家柄も自分と近い妻を迎えてただろうし
そうでなかったならその辺もいい加減だっただろう 一般的には幼い頃に父の光綱が亡くなったため
叔父の光安の後見を受けて家督を継いだということになってる
もちろん確証はないしほとんど伝説みたいな話だけど 土岐系図に根拠を求めると
光秀は本家の子ではないが、子供の頃に当時の当主明智頼明の猶子となり
明智家が滅亡した頃は、当主明智定明の義弟で連枝衆だったようだ 最近やたらと光秀享年67説が押されてるけどなんかそれを立証するような資料でも見つかったのか 何も見つかっていない。当代記の説を使うと知的に見えると考える層がいるだけ 最近の光秀じいじ説が多いのは、明智憲三郎さんが67歳説だからもあるかな?
先祖の光秀がまだ若くて天下をとるために謀反をしたと思いたくないのだと思う
確かに他にも色々理由があって
磯田さんがさっき、言ってたように信長に潰される前に討ち取ったのも大きいだろうし
信長暗殺後は当然、天下をとるつもりだったと思う
謀反ではあるよね、だからこそ光秀が生きてたなら天海説は信憑性が増すのに
正当な大義名分が無い事は光秀も相当困ってたと思うなぁ
細川も同調しなかったし、だから足利義昭を出してきたりした
お家存続の為に最善は尽くしたけど楽観視はしてなかったと思う >>300
光秀は実は67歳(当代記より)で謀略大好きな腹黒(フロイスより)だった
と主張すれば戦国史通を気取れるという風潮があるよね、最近 >>303
前者は明智憲三郎、後者は漫画センゴクの悪影響 昨日の番組良かったけど、、、
光秀が短絡的に信長を殺して天下を取った
じゃなく、どう朝廷に根回しをしてたかとか、どう他の諸将と整合性をつけようとしてたのかを論じてほしかった
柴田や羽柴を敵に回して簡単に勝てるはずないんだから wikiによると、朝廷は光秀を相手にしておらず
顕如と談合していたようだが >>282
というより、なぜ光秀の年齢を詐称したのか?
っていう事だよね
このスレ的には天海=光秀だと悟られないように年齢を詐称したw
67歳なら京都所司代をしてた村井貞勝の少し年上か同年代になる
フロイスは村井の事を老人と明言しているけど
光秀が同じくらいの年齢又は年上なら
本能寺の変の記述で老人だと一言あっても良さそうなのに無い 有名な光秀の肖像画は67歳どころか55歳にも見えないくらい若々しいよね 当代記の67歳部分は、後から付け足したように見える。
気になる人は国会図書館の電子資料参考
ということは、光秀嫌いな奴が写本をしているときに、
光秀を貶めようとして67歳と付け足したのかもしれない。
明智軍記の55歳の辞世の句は、作者が明智軍記を
書いているときに、どこかのご家老のかっこいい辞世の句が発表されたので
それをパクったとか 日光の明智平は天海が命名したというのは、そもそも事実なん? 明智光秀自身は田舎者ぽくないし京で育ったのだろうけど
光秀の親戚が美濃にいたのは兼見卿記にもあるそうだ
光秀はよく美濃柿(干し柿かな?)をお取り寄せしてご進物用にしてたみたい
光秀が家康一行の饗応役だった天正十年安土御献立にもデザートで美濃柿が登場してるよ
あと、古い文献ではカキの「キ」は土岐の「岐」があてがわれているみたい
なんか繋がってて面白いね >>日光の明智平は天海が命名
日光東照宮の明智紋も普通に考えたらあり得ないよね >>290
妻木氏が光秀の最初の妻だったかどうかわからない
光秀が大名や城主の跡取りなどであったのならば15歳前後で元服すると同時に最初の妻を娶る
この場合、幼女というわけにはいかないので同年代~やや年上の妻となる
しかし跡取りでなかったり城主の近親者ですらなかった場合には
嫁取りの時期が遅れ年の差婚になる例も多い
城主の四男坊であった前田利家は初婚が22歳だし(相手は10歳年下のまつ)
経歴がよくわからん木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は初婚が25歳(相手は13歳年下のねね) >>314
それもケースバイケースでは
信長の次女なんかは8歳で14歳の蒲生氏郷に嫁いでる 光秀妻の父親って妻木広忠もしくはその弟妻木範煕説があってはっきりしないんだよね
明智軍記の煕子と言う名だと弟の子っぽい
妻木城主のお姫様は年の差婚などしないといえるほど身分が高いか?
光秀の存在が確定するのは「信長公記」に名前が現れる永禄12年かららしいが
この時点でまだ光秀は城持ちではない
ガラシャはこれより6年前に誕生している(しかも三女)なので
これよりだいぶ前から光秀は妻(一人とは限らない)を持っていたことは明らかだし >>318
快川は土岐氏が建てた崇福寺の住職だったから分からんでもないが
光秀が土岐の出ならなぜ崇福寺との接点が薄いのだろう 快川和尚を焼き討ちにした自分を責めた
石見を切り取れと言われ、佐久間の轍を踏むと考え
ノイローゼに 猪子など子孫は幕臣として存続した
明智の子孫は?
今川さえ召し出した
義理堅い家康、家柄フェチな家柄 快川和尚は武田家に招かれて敵側の身。
土岐氏と関係の深かった妙心寺の指導者と光秀は親しかった。 >>321
江戸幕府が開かれてから、明智家は再興しているよ。
名前は明智氏のままだとショッキングなので土岐という名になったが 江戸時代に再興した明智(土岐)定政は
光秀の子孫ではない >>322
快川和尚は妙心寺の住持でもあったはず
>>324
高家の土岐が本流で、大名の土岐ケースは庶流もどき 妙心寺に明智風呂を建てた密宗宗顕って
光秀の叔父なの? >>328
細川元総理は細川忠興と側室・清田氏との間に生まれた
四男・細川立孝の子孫
ガラシャや光秀の血は引いていない >>324
光秀の子孫の明智家が再興したとは書かれていないのだが。
土岐定政は、もともと明智嫡流で光秀が庶流
明智本家が再興した形。明智家が滅亡していなかったら
光秀は定政の家臣になるはずだったのだから妥当な形 >>330
土岐定政は土岐氏庶流で土岐氏の家臣にすぎないのに
土岐を名乗る厚かましさ 天海に免じて、家康が明智氏の主筋の家名を名乗ることを許してくれたんだよ >>314
異常幼児性愛者の前田利家をサンプルに使われても困るw
あと、ねねの生まれ年は確定していないよ >>330
明智定政は主君の土岐氏が家臣の斎藤氏に下剋上される途上で没落
徳川家康の元へ参じて小田原征討などで軍功を挙げた
豊臣秀吉から没落した主筋に代わって土岐氏を継承することを許され
土岐定政と改名した
家康の名家復興による明智家復興ではない
土岐定政は江戸幕府が開かれる前に死んでいる >>333
ねねの生年は諸説あるが秀吉とはそこそこ年齢差がある
四男坊だった前田利家は元服しても嫁を娶らず
22歳まで独身だったことも事実だし
そもそも20歳超えて独身の女性が少なかった時代なので
20歳超えてから初婚となると当然嫁は若くなる ロリコンだった前田利家は元服しても嫁を娶らず
幼女を見初めたがそのとき妻とすることはできず、
幼女がぎりぎり結婚可能になるまで22歳まで独身だった
このような特殊事例を一般に当てはめることはできないと言ってるんだが >>334
失敬、明智家は開府前に再興されていたっけね
>豊臣秀吉から没落した主筋に代わって土岐氏を継承することを許され土岐定政と改名した
このソースは?
>家康の名家復興による明智家復興ではない
明智家が家康の名家復興策による再興とはどこにも書かれていないが >>336
14歳の前田利家は4歳のまつを見初めて結婚を断りまくった
ロリコンって「利家とまつ」の見すぎw
前田利家ってかぶき者とよばれた色男で美少年だったために織田信長の男色の相手だったんだろ
犬千代の幼名から「犬」「犬」と呼ばれて寵愛をうける寵童だったため結婚が遅れた
20歳過ぎたらさすがに男っぽくなり信長の夜の相手を免除になったために結婚した >>337
家康が関東入府する際に秀吉が家康の家臣たちに官位を与えているが
そのときに定政に従五位下と美濃国守護土岐氏嫡流の名称であった
土岐山城守の名を与えてるんじゃなかったっけ 信長と利家の男色関係は俗説らしいぞ
不寝番を任されるほど信長に信頼されてたという利家の自慢話が
いつの間にか夜伽の相手を務めたという話になってしまったとか >>338
前田利家はロリコンというより犯罪者のほうがいいかもな
前田利家の妻妾
まつ →11歳 利家21歳
聚福院→13歳 利家30歳
隆興院→14歳 利家36歳
金張院→12歳 利家38歳
明混院→13歳 利家50歳
逞正院→15歳 利家56歳 光秀は謀反人の割に私生活の醜聞がないどころか
むしろ煕子絡みの美談が伝えられているというのも不思議かも 春日局が天海に会ったとき
「お久しゅうございます」と挨拶したと、わりとよく話題に出るけど
出典がなんだかわかる奴いる? 高家旗本土岐家直系の土岐家の娘さんがクリスペプラーのおばあちゃんなんだよね
その土岐家は光秀の子孫だと密かに口伝されてきたそうだから
一応光秀子孫は高家旗本になっている人もいるようだけど
なんせ光秀家族はガラシャ以外は坂本城で皆亡くなってる事になってるから
生きてたとしてもよくわからないんだよね… >>343
光秀と会ったことがあって悪口を書いているのはフロイスくらいかな >>343
煕子との美談は「明智軍記」がもとになってるから
書いた人自体、光秀に会ったことすらないだろ
だいたい同時代の記録が公家の日記ぐらいしかないから
公家は信長の家臣の詳しい私生活まで知らないだろ >>341
当然秀吉が推薦して朝廷から貰ってくるんだよ >>350
秀吉の関白就任〜死亡までの間に
秀吉の許可を取らずに武家が任官した例があるとでも?
家康すら秀吉の配下に入っていたのに
その家臣が秀吉にも家康にも許可を取らずに
任官したというのはただのいちゃもん 秀吉が推薦したことが書かれている資料はなしということだな 横から失礼
>>341
むしろ秀吉が決めて朝廷が追認みたいな感じだろうね
真田丸で任官を巡って信之がヘソを曲げるシーンがあった
あれはドラマだが、実際もあんな感じだったんだろうと思う
>>352
常識的に考えて文献どうのこうのより、この件についての状況証拠は動かしがたいよ
秀吉に任官権がなかった証拠となる文献があれば別だけど 秀吉は菅沼定政が明智氏だと知ってたんだね
数ある土岐氏支流の中で明智一族だとわかってて没落してた本家の土岐氏を継がせたんだ
どういう考えからだったんだろうね? 日本ユニシスの大串宏通です。
先日上野の天海僧正遺髪塔に行ってきました。
パワースポットだと聞きましたが、よい場所でした。
南光坊天海=明智光秀はやはりロマンがありますね。
ただ、私は何かの隆慶一郎作品で、
金地院崇伝=明智光秀というのを読んだ記憶が
あるのです。
私の記憶違いかもしれませんが、誰か聞いたことありませんか? 金地院崇伝は光秀の息子・光慶と同じくらいの年代で
一色氏と素性もはっきりしてるから違うと思う
光秀がやりそうな仕事してるし、肖像画の顔は天海より光秀に似てるなぁと思うけとね 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
5I44A 家康の前に現れるまで、光秀はどこでどういうふうに潜伏してたの? 天下分け目の戦いに敗れ、世捨て人となったから
明智光秀ではなく出家して僧天海になったかと
仏教界は信長と対立していたから密かに光秀を英雄視していた古文書もあるし
もし、生きていれば僧侶として受け入れてくれる寺はたくさんあったのではないかと思う
ならば、秀吉の手の届きにくい関東のどこぞの寺の方が都合が良いかもね 僧侶が一番信憑性高いね。
自身が焼き討ちした比叡山というのも捨てきれない。 光秀が仏教に深く関与してたからフロイスに悪口を書かれる >>367
天台座主は甲斐の武田に逃げたし
徳川家光の時代まで本堂である根本中堂すらなかったのに
たいした被害がなかったとか… 延暦寺より多くの建物を燃やされた寺院は多くあるし
政治に介入して失敗した天台座主は失脚しただけ >>368
光秀が逃したとも言える
高僧が逃げられたなら他の人々も逃げたはずなのに
延暦寺焼き討ちの時、光秀は麓の西教寺も焼いてるけど復興させて明智家の菩提寺になってるんだよね
焼き討ちした事自体はあまり関係ない
でも、山崎の戦い当時比叡山に寺あったんだろうか?
家光が再興したなら、天海が再興したと同じような? >>370
天台座主は法親王なので殺せば正親町天皇との関係も劣悪になるから
信長が逃がしたんだろ(光秀に決定権などない)
他の僧侶はたくさん死んでいる
延暦寺の山上は根本中堂ぐらいにしか焼土が残っていないというが
当時山の上にはあまり伽藍はなかったために焼くものがなかったためであり
高僧たちは皆麓の坂本に住んでいてここを焼き討ちにした
坂本には焼き討ち以前の建物は残っていない
光秀は焼き討ちした坂本の地に坂本城を建ててすんだ
尚、光秀が復興した西教寺は天台宗から分派した天台真盛宗であり
延暦寺とは同じ天台宗系でありながらライバル関係にあった
坂本からほど近かったために延暦寺焼き討ちの際に類焼してしまったが
延暦寺焼き討ちの対象になった寺ではもともとない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています