毛利元就と武田信玄
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同時期に出現した東西のそっくり武将。
慎重すぎる性質が似てるんだよな。 散るぞ悲しき〜辞世の唄
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
歴史上の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。
泣けるよ。凄く出来が良い。 〇平尾1名(福岡県) vs 岡っ引き6000名(広島県)●
ミ ⌒ 彡 一度でいいから見てみたい
( ,_`ゝ′) 廣島が九州を負かすとこ、ホモ丸です。
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\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) >>150
小勢で正面の大軍へ激突するんが広島の戦闘法じゃし。
https://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1493122479/163-165
広島神機隊「駒ヶ峰の激戦」じゃが、寡兵の神機隊が、他の官軍諸藩兵がその無暴を
嗤笑する中、 「剣を抜き吶喊して突撃を為し、躍りて駒ヶ峰関門前なる敵の砲台に
登り、縦横斬殺し、賊兵は 死屍を捨て 遁走せり。」 四日後は駒ヶ峰奪回をはかる
奥羽同盟軍が大挙襲来し、「賊兵頗る猛烈なりしが、我も亦寡兵を以て奮戦し、
遂に旗巻嶺下に撃退し、」 …近代郷土部隊でも、
「敵前で橋を渡るなどということは、常識はずれだ。せっかく連隊主力が上流で渡河
したのだから、そのコースを利用するのが常道である。が、本道上に待機していた
一部隊は、本隊が対岸で戦闘を始めると、やにわに橋を突っ走って行ったのである。
どういう考えだったのか、それは判らない。 「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」と、
思ったのだろう。 しかし、この無謀な突撃で、橋梁付近が一大乱戦場になったのは
事実だ。
大戦果には必ず、こういう常識はずれの行動が付随していることが多い。捨て身に
なって奮戦していたグルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、日本軍の姿さえ見れば、
逃散するか、両手を頭上に上げてゴム林から出て来たのは、この最初の一撃がいかに
痛烈であったかの証明であろう。」 これが、広島人の戦闘のやり方よ。 >>150
物量火器の兵器や迂回、後方突くオカマ戦法で敵さんを制圧勝利しても、
敵さんは精神的ダメージが少ないが正面ガチンコの特に原始的な白兵戦なら
勝負付けが出来て、敵さんはガチンコで負けた精神的ダメージから、次の戦闘じゃ
逃げ腰に成る。火力戦の勝ち負けと違い、接近戦闘、つまり白兵戦で負けた方は、
劣等感で負け癖がつくけんのう。
戦闘行動以前に部隊対抗の喧嘩でも同様じゃ。人間の有史以前からの
生物的闘争本能と云うべきか。 白兵戦で勝った方は戦闘主導権を握れる。
広島郷土戦記にも、
「白兵格闘ーそれは敵兵と直接肌を接して刺殺し、組みつき、殴りつけ、瞬間の
動作が、 そのいずれかの生命を奪うことになる。余程の自信と気迫がなければ、
相手に気負けして 討ちとられてしまう。白兵戦は戦闘の最終の場面であり、最も
原始的なものである。 いかに 最新兵器を駆使して、莫大な 物量を叩き込んでも、
所詮は人間の対決である。」 >>157
わしら広島人は、他地域の日本的散り際の潔さの自虐負け犬根性は持ち合わせとらんよ。
勝たにゃあ意味が無あし、負けて玉砕散華しても負け犬となる戦場の勝敗だけが結果として
反映するだけのことに、感情情緒は必要無ぁわ。要するに勝たにゃあ意味が無あし、
如何に善戦して散ろうと、負けたら負け犬に過ぎん弱い日本軍に過ぎん結果しか無ぁわ。
>>158
足軽(同心)下級武士の警官を犯罪者前科の密偵岡っ引きたぁ違うけど、戦闘力なら
岡っ引きよのう。岡っ引き業下請けは、戦闘力も優る被差別系じゃったし。
被差別系の人らは、広島でも定住せん移動民の「山窩」取り締まりも見逃す
人情があったし、同し被差別部落に保護するよう、上意下達の忖度はやらんよ。 武田信玄は守護大名
毛利元就は豪族の親戚筋だっけか 宮島行ったら、毛利元就の周到さ知略の底知れなさを理解出来た。
宮島なんて本来無視して進軍すればいいのに、
厳島神社という地域信仰の中心があり、宮尾城でビクビクしてるなんて情報聞いたら、わざわざ寄って捻り潰したくなる。
しかも挟み撃ちにうってつけの場所。後ろの急な山から攻めて来て前の海からも襲撃されたら、大軍は大混乱、迎え撃つ体制も取れない地形で逃げるにも一方的に追撃受けるしか無い地理。
これを頭の中で策略張り巡らすのはとてつもないよ。
単に挟み撃ちだけではない深謀遠慮を感じた。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
XCI >>1
2人ともソウルメイトかと思うぐらい性格が似てる 時代によって勢力の発達は違う。
元就の時代、日本で頂点を争っていたのは、天下人・大内義興と乱世の梟雄・尼子経久。
元就はその両雄の勢力を孫の世代で飲み込んだ。
信玄の時代、東国は突出した勢力はない。
と言うより、地方勢力が同じように伸張して育ち、割拠した勢力がぶつかり始めた感じ。
勢力差があったのは元就の方だけど、元就は大勢力の世代交代の間隙と混乱に乗じた下克上。
信玄は王道の国家成長。
両者の土俵は似て非なる感じ。 >>172
信玄は甲斐守護だろう。下克上じゃない。 >>174
信玄は守護が普通に成長してますね。
だから王道の国家成長と書いてます。 >>176
信玄の信濃攻略は王道の国家成長ではないだろうw
同盟結んでた今川攻めて同盟破棄に怒った後北条が信玄の娘を送り返してるし 越後佐橋からきた毛利元春は吉田郡山に城を作り安芸を侵略
大内と京極(のち尼子)の間で上手く立ち回り
元就のときに安芸の守護である武田氏を滅ぼした
安国寺は安芸武田の子孫 朝鮮ヒトモドキ伝統の贈答品
アハーンニダ ノ)
∧_,,∧∩ / ノ
< `∀´>ノ' ./
( -、 ~⌒`つ ちんコロ自粛陰謀なんかに屈せず、山梨県博の信玄生誕500年展に行こうぜ! >>187
強さで貧弱な甲州兵が安芸の国衆武士団に勝つんは無理じゃのう。
朝鮮の碧蹄館の戦いでも、最も困難な正面激突でガチンコ勝ちしたんが、小早川隆景が
率いる藝州兵で日本最強よのう。幕末戊辰戦争の浜通りでもチャンバラ白兵戦の
正面攻撃の藝州神機隊が最強じゃったし、近代郷土兵団でも、廣島聯隊は日本最強の
実績と武勲ゆえ、他地域たぁレベルが違うんよ。 セコい
比べるなら武田氏同士、甲斐武田氏と安芸武田氏で >>197
安芸武田氏の将兵の方が、広島の狭い土地柄で、接近戦、正面ガチンコ白兵戦に
慣れとるわいのう。
戦闘の勝負付けは、原始的なチャンバラ白兵戦で決まるけぇ。
負けた方は、劣等感ですぐに逃げる弱兵に成るよ。 安芸武田氏って安芸残留組より長州組の方が世を牛耳ってる印象 >>199
安芸武田氏は、山口県移住たぁ、安芸へ残ったもんが多数派じゃし、わしにもその血が
入っとるけぇのう。世の中牛耳るじゃの、奸物の武田系は、安芸にゃ、安国寺恵瓊さん
くらいしかおるまあ。
山口県は、左翼革命思想ドグマの奸物だらけじゃが。 >>201
安国寺の坊さんも、戦さ知らずで、結局、ピエロ演じたわけじゃし、悪意が
あったわけじゃ無ぁし。 ここでのピエロって、具体的にどういう立ち回りを表してるの? >>203
安国寺恵瓊さんは、石田三成に肩入れして、蔚山独断奇襲の吉川広家さんを軍令違反と
して批判た石田三成の秀吉へのチンコロも止めとらんけぇ、吉川広家さんは家康に
肩入れして騙されたわけで、毛利家が機能戦ように成ったけんのう。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523533562/56-59
[吉川広家さんは、加藤清正さんから感謝として馬印を渡されたけど、広家さんの
独断奇襲に軍令違反と因縁付けたんが、戦さ知らずの石田三成で秀吉に密告まで
しよったんを、広家さんの戦いぶり尤もなことと徳川家康が取りなして、
広家さんは家康に義理を作って仕舞うたけぇ、関ヶ原戦でも動かんかったし、
家康の背後から襲うんは正面激突の中国者として恥じゃし二重に出来んよ。
まあ、吉川広家さんは、お人よしで賢明な方(小早川隆景)を失い、毛利家が
に成ったと愚痴ばっかし云う人じゃったが、逆にお人よしゆえ、部下家臣の
云うこたぁ聞くけぇ、蔚山独断奇襲も歴戦の家臣らが敵さんのわずかな乱れに
今じゃ!云う「時」は、そん通り逃さす断行する指揮官としての徳は持っとった
けぇのう。
指揮官の能力とは「戦利、戦略にあらず、その人徳の識見である」よ。] 甲斐の連中は武田を主人公とした劇
安芸の連中は群像劇としてみると面白い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています