邪馬台国畿内説 Part294
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1509207046/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、倭人伝の里程も方位も、致命的な誤りを含んでいることに疑問の余地がない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 >>1 乙(てんぷれもーやめとけ(たぶんだれもよんどらん^^ ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 >>7
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 >>7
>>10
あらしたらあきまへんがな(勿論てきとー^^ ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 後で言い訳するため、断定を避けてあやふやな言い回しばかり。
ああ言えばこう言う。
ずる賢くわりには、知性を感じることができないテンプレ。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 >>1
もーおわりましたか?乙どす(かわいい女子ふう 293>>855
「南→東」などの嘘つき騙しの大和正当主義のお前と一緒にしたら、
大和説に人気投票した人にたいしても失礼だぞ。
というか日本国民に失礼だ。
牢屋や病院から出て来るな、皇国史観大和民族。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 >>63
> 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
ひどい妄想だな。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。 (以上、漢書西域上) >>1
> もう確定なのでロマンはありませんが
> 勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
こういうのは、自分のブログでやらないか? ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ3を修文 >>2
> 乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
この、奥歯に物が挟まった言い方は何?
ハズレだった時に、断定はしていないよと言い訳するため? >>3
> 改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
妄想を垂れ流しておいて、後で言い訳する余地を残す姑息さ。
一つ一つの文章が読んでいて気持ちが悪い。 293の>>869
>静岡にあった狗奴国対策だ。<
「南≠東」だから、×。 >>51
ベニバナが出たから邪馬台国
桃の種が出たから邪馬台国
アホか 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆q8leUXpswによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙すことが、発症のトリガーになると考えられている。
>>1◆q8leUXpswが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 >>76-80
反論できない敗者が醜く騒いでるな
レベル違いすぎて藁 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と九州王朝説を信仰し、その深さは、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するレベル
高校生程度の歴史知識も持っておらず、自ら「素人おじん」と称するが、そのわりに「人類の常識」とやらを持ち出すなど、
大上段に構えて専門の研究者を偉そうにこき下ろす
あまりに周囲から相手にされていないので、他人の会話に割り込んで片端から周回遅れのレスを付けまくる
そのため、全レスバカとも呼ばれる
結果、投稿数が異常に多く、コピペ連投と同じくらいスレを荒らし、他人に迷惑をかけている
レスをつけるということ自体に異常に執着しており、他人の発言を長々と全文引用したあげく、
賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという無内容のものも多い
平気で嘘をつき、「超」のつく非常識人物として有名
脳を使用しないオウム返しを多用する
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつだが、本人には自覚がない
理解力も皆無で、自分の主張を否定する情報も正反対に脳内変換することが多い
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
生きる独善75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたとに他人を装う書き込みをすることがあるが、周囲にはバレバレである。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻るというダブスタ、トリスタ上等の卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違っていたことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 293の>>875
>卑弥呼だと、明帝からの下賜の大事な鏡をぶち壊すような事は考えられず、
壹與だと、平気で溶融しちゃうって どういう頭の構造?<
柳田らの「ホウ製鏡」説の証拠や論拠が判らない、と言ってんだよ。
だから、破鏡にしたんなら、ホウ製鏡の方が理解出来る、と推論してんだよ。 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 >>876
>ってことは「尚方作」鏡は国産だよな 「尚方作」鏡こそが魏から贈られた鏡として合致する
って言ってたのは やっぱりウソか<
始めから、明帝の下賜鏡が「元」になった、と言っているよ。 >>87
なんでそんなことを言い出すのか理由が全然わからない。
破鏡はたいてい舶載品なのに。 293の>>878
>中国では伝統的な竪穴木槨墓が後漢期には塼室墓と石室墓に替わった
だから木槨墓はちょっと古いわけだな <
中国では木槨墓は前漢頃に終わって、
それからの流民の筑紫への渡来も消えてしまったが、
東夷方面では、扶余と東沃祖と楽浪?が「有槨」として魏代まで残っていて、
それが晋代に、吉備と大和に伝わった、という事になる。 293の>>879
論破された大和説が、早速、罵倒専門に堕落した。 >>92
それ、もちろん真っ赤なウソで
ザラコクがてきとうに思いついたことを出まかせに言ってるんだよね?
そうでしょ? 293の>>883
陳寿は、倭地を実見した事がないから、
魏使の記録に「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と卑弥呼の墓造りが書かれていたので、
魏代の倭人の埋葬風習が書けた。 293の>>892
あれ?。高裁は「慰藉料」と書いていたのか。
という事は、喜八郎さんの説明失敗は、
高裁が、犯罪とは認定していなかった、という事になる。 >>98
犯罪ってのは刑事罰がある場合を言うんだよ
和田氏の場合は不法行為だと裁かれた 293の>>894
>民事訴訟における訴訟費用は、
最終的には敗訴者が負担するのが原則であるが(民事訴訟法61条)、<
喜八郎さんは、やっぱり「慰藉料」であり、敗訴や罰金や刑ではなかったようだよ。
>一時的には申立人が立替払することになり、本案判決の確定後、
訴訟費用額確定処分を経て、本来支払うべき者が支払うことになる。<
何だ?、裁判所や野村側が丸儲けなのか?。
しかし、「本来支払うべき者 」とは、野村側が自己負担せよ、という事だな。 古代史はいうまでもなく
現代の判決まで捏造するのが
九州トンデモ王朝説 293の>>895
>喜八郎は説明記載不足ではなく 虚偽の説明を記載していることが裁判で認定されている<
「その掲載にかかる写真は昭和三八年頃、
営林署のK氏が届けてくれたスナップである旨の記述があるが、
右記述は前記認定の事実に照らして虚偽というほかなく、」
という事は、この高裁裁判官は、事実確認もせずに、
「営林署のK氏」の行動を「虚偽」だった、
と断定して精神的苦痛を与えた犯罪行為になるアホ裁判官であったから、
弾劾裁判をされるべきだな。 裁判制度まで否定して
反社会勢力にまで堕ちたか九州説 >>897
人種差別殺人戦争の皇国史観の大和民族主義の大和説しゃも、
もうひたすら「南→東」に関わる嘘を、つき続けるだけになったな 。 293の>>902
「南→東」などの嘘つき騙しの、
内容のない投稿ばかりする大和説。 293の>>903
大和説は歴史学じゃなくて、
人種差別殺人戦争の皇国史観、という政治思想だから、
しかたない。 293の>>904
国民の過半数は九州説で、大和説は3割しかいない、
という事は知ってるんだね 。 293の>>910
やっぱり今ドキ、大和説は最低だと思うよ。 明治頃に作られた話(制度)じゃないの?
陛下とか何やらとか、
そういう話も言葉も聞いたことない
ちなみに伊達郡の
山の上のほうに住んでいたと言っている 他のスレにも書いたけど
『松傾』
同じような家?
名前の読み方も「す」のほうだと言っているし 293の>>934
>陸行一月だと大阪湾上陸して関東くらいに着いてしまう
常識的に考えて陸行一月は1日の間違いですね。<
「これも「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺をした上での話だから、×。 293の>>941
>実際見なくても書ける情報ばかり
実際見なければ書けない情報がのってなければ
魏の使いが古墳に卑弥呼が埋葬された所にいたという事にならない <
陳寿は、大和説者らのような空想や妄想ばかりの・・・・でもない。 mike oldfield『let there be light』という曲
『バトシーラー』とか『フェニックス』『イルカ』・・・海底? 293の>>944
>熊野の石垣の写真に津軽中山の耶馬台城跡である旨の説明つけたら傍証にならんだろが<
その説明文を転写してみろ。
>営林署のK氏とやらが昭和三八年頃に喜八郎に津軽中山の石垣の写真を届けたと言ってるなら
連れてきて訴追してみればいいw<
その高裁の裁判官は、「営林署のK氏」を呼んで確認すべきであったのに、やっていないアホ裁判官。
またこの投稿子?らも、
どこかで、「古田説派の人が(野村と喜八郎さんを)仲介した」という話であったのに、
突然「営林署のK氏」という人物にすり替えている。 293の>>946
>>「アイヌ人や沖縄人」を土人と読んだ事を、正統な行為だ、と<
>誰がそんなことを言ったんだ?<
お前は、大阪府警が沖縄人に言った「土人」とは、アイヌの事だ、と書いた大和民族主義者だよ。 『山王 サル』
この画像と、同じような感じで、子供を抱いている写真があるんだけど、
上の名前も『山王院 山王宮』
同じ名前(家)・・・?
写真の左のほうにキュウリのような葉、右のほうに葱の華 >>117
この人の言ってることは支離滅裂だな
被告側の証人なら被告側が申請しなきゃ
話にならんだろう いちいち説明はしないけど
『セイントセイヤ』
『アナザーディメンション』という技 その真道という人物、
このような事も書いてあるでしょ
『左大弁』 謎の311後
「聖人でも殺したのか?」
「親戚でも殺されたのか?」
と言っている人がいたり、どういう意味なんだろう 星のカービィ?
七支刀のようなものを持っているキャラがいたり
どういう事なんだろう >>92
中国で竪穴木槨墓が前漢頃に終わってるのは
王や諸侯クラスの墓
夫餘は棺無し、沃沮は再葬 >>100
写真ドロボウに関しては敗訴した喜八郎負担
棄却された論文盗用に関しては野村負担 >>102
ドロボウ喜八郎の著書内の写真に関する記述は虚偽であると認定された >>117
営林署のK氏はドロボウ喜八郎が書いているだけ
昭和五一年に野村氏がドロボウ喜八郎の求めに応じて送った写真を
昭和三八年に営林署のK氏から届けられたと虚偽の記載をした もしかして、
家の先祖の写真と
同じもの?を持っている人がいるのかな キュウリの葉、葱の華、
中央に何かの??制服のようなものを着ている子供がいる写真
白い制服のようなものを着ている >>130
前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。」
・・・判決、言っちゃってるな、偽書だって。 >>119
>お前は、大阪府警が沖縄人に言った「土人」とは、アイヌの事だ、と書いた大和民族主義者だよ。
そんなことは書いていない
古田の手下の加古川のドロボウ正当主義者が書くことはことごとく事実に反する
勘違い、聞き違いがほとんど
そういう人間の行程解釈が存在しない短里であり筑紫説 293の>>951
>百人が殉葬された跡が見つかったなんてどこも書いてないぞ <
墳裾の外周地域で調査された範囲からは、合計六二基
(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)
にも及ぶ小型埋葬施設が検出されて、
祇園山古墳に殉葬が伴ったとした場合、石蓋土壙や竪穴式石室に複数体の埋葬があれば、百名を超える可能性も出てくる。
「百体ほどの遺体」とみる見解もある。
現に同墳では、外周部の竪穴式石室(H7)に「差し違い二体葬」が確認されており、
ごく近くの祇園山第二号墳墳丘下の石蓋土壙墓でも、同様に差し違い二体葬が見られる。 >>117
>その高裁の裁判官は、「営林署のK氏」を呼んで確認すべきであったのに、やっていないアホ裁判官。
証人尋問は民訴では、
1.当事者が証明すべき事実を表示
2.証人を指定してこれを申し出
3.裁判所がその採用を決定した場合に行なわれる
つまり、裁判官はザラコクが要求してる変なことを
する権利も義務もない >>137
>祇園山古墳に殉葬が伴ったとした場合
仮定は根拠にならない
祇園山は集団墓地 >>137
で、殉葬があったと言ってるのは
現地を調査したわけでもない
アマチュアの古代史ファンだけなんだけど 詐欺師か何かの話?
むかーし泥棒のようなものに入られた事が
あると言っていたけど 『位置が来る』
神父のようなキャラクターが出てくるでしょ?河童? 293の>>958
>原告の弁護士は古文書の真偽の判決を裁判所が下さないことは初めから知ってる<
何だいそりゃ。
それじゃ、その原告弁護士も、「始めから狙いは古田さんであった」、という
嘘吐きダマシの虚偽的策略的な犯罪者弁護士であった事になる。
原告側も、高裁裁判官も、皆、皇国史観思想宗教にクルった一種の犯罪者であったんだなあ。 293の>>960
倭人伝を素直に読めば、邪馬壹國は不彌國の直ぐ「南」にある事になり、
大和ではなくなるよ。 『C-MOON』
白蛇と出てきたり・・・日本の話なのかな、神話? >>144
控訴人野村氏、被控訴人ドロボウ喜八郎の損害賠償請求の民事訴訟
原告弁護士の何が違法行為であると名誉毀損しているのか? 『河童 神父』『河童 宣教師』?
馬に乗り、
腰に刀を差していたと言っているし、
何だったんだろう テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 293の>>967
>大きい墓作って百人殉葬したって聞いただけでも書ける <
皇帝の使節が、
確認出来る事を、確認も取らずにいい加減な事を書いた、
という事を垂れ込まれてバレたら、そりゃ、首が飛んでしまう。 『日本昔話 姥清水』
白蛇(ホワイトスネイク)の曲でしょ? 293の>>979
>村の共同墓地掘ってなにがわかった?<
祇園山のごく近所の祇園山第二号墳の墳丘下の石蓋土壙墓でも、
同様に差し違い二体葬が見られるし、
2km位離れた山川町東端部の字城に所在した七曲山古墳群でも、
祇園山の墳裾群と同じような複数埋葬ばかりが見られるから、
祇園山も、甕棺を除いて殆どは複数埋葬であった、という事が分る。 >>151
倭人伝の文章と皇帝の使節と
どう関係があるんだ? 293の>>989
魏志倭人伝にない事をでっち上げないと成り立たない大和説。 >>156
なにを、でっち上げたと?
ザラコクはまた理由もなくヘイトスピーチか 基本的に方形周溝墓は共同墓地用の
墓で並べるのに都合が良い形になっている。
棺は木棺やカメ棺が多い。
平原の方形周溝墓は王墓だが、
共同墓地の墓制をそのまま拡張したと言って良い。
王墓の原型だね。 >>1
邪馬壹國論の、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説のスレです。
もう嘘吐きダマシが確定なので、ロマンはありませんが、
九州説は、勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 >>159
家族単位の墓である方形周溝墓は共同墓地と違う >>161
おいおい、ここはそんな古田チョンボ説の場所と違うぞ 九州の箱式石棺は複数遺体の埋葬が普遍的に存在している
九州や台湾の石棺墓では、一つの石棺墓が何度も繰り返し利用される事例が知られている 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >1
>◆1(女王所都) 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が
2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、<
初期前方後円墳群は、庄内期であり、それだけでも「2世紀末」ではなく、「3世紀末頃」になり、
ホケノに至っては「庄内〜布留」だから、「3世紀末以後」であり、
年輪年代やAMS法でも、絶対年代の断定は全く困難。
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)<
「南≠東」であるから始めから嘘吐きダマシであるし、
筑紫の弥生銀座やハイテク工業地域には、全く歯が立たない。 >>159
弥生中期の日吉ヶ丘方形貼石墓が特定個人墓で王墓の原形だな
全国最多の碧玉管玉677個、大量の水銀朱 >>170
なんの根拠もない素人おじん75の思いつき年代なんて
いくら連呼したって無意味だろう
誰も信用しないんだから 福岡の金隈遺跡は、方形周溝墓の団地で
方形周溝墓がきれいに大量に並んでいる。 北部九州の方形周溝墓は畿内と違って墳丘が明確ではないから
方形区画墓 >1
>現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、
3世紀前半のものと公式発表されている。<
庄内であるから、3世紀末頃である。
>居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、
大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、
重要な古道として知られる上つ道に接面している。<
始めから、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
に合致していない。
>これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。<
当然、筑紫付近では、吉竹高木や吉野ケ里や、弥生銀座や安徳台や久留米〜大宰府など、広域に存在する。
>以後の大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。<
単なる「地方の市を監督する大倭職」の祭祀建築に過ぎない。
>この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、
三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、<
三輪山は、元々(倭国系ではなく)出雲系の住民の信仰だよ。
死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。 >>177
根拠もないこと結論だけ連呼しても
ダ メ
トポロジーって意味わからずに記述してるの丸わかり。 >1
>箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、<
箸墓は、那珂八幡の学習模倣。
>初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある<
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され
求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。<
出雲系から「倭国の地方の市を監督する大倭職」に支配が移っただけだ。
>その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。<
「南≠東」であるから、卑弥呼や壹與は×だよ。
>この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、
列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、
中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。<
青銅鏡や武具や新たな土木技術や萌芽的馬匹文化や列島に存在しなかった植物の花粉等は、
何れも3世紀末以後であり、
筑紫倭国の魏晋との通交の伝搬以外に、遼東〜半島からの直達的な伝来も十分に考えられる。
>ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。<
はい、「南→東」の嘘吐きダマシのサギね。 >>176
平原女王の墓も方形周溝墓だから、上下の区別なく方形周溝墓だった。
つまり、棺あり槨なしは女王もそれ以外も。
槨ありの畿内の古墳は邪馬台国とは関係ない。 >>183
畿内の古墳に槨があるって言い張る根拠は?
??? 九州説はいつも、な〜んの理由もないことを
ただ言い張るだけだな キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 >>178
位置の学問、、、のことだね
テンプレートを張り付けている老人が、先程、「位置が来る」と呟いていたね。。。
位置が好きなのだろうね、、、 ポストテンプレの時代を迎えた畿内説諸君のがんばりが求められる 岡上は、なぜスレッドに張り付いて荒らし続けているのだろうか。。。。 >>2
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、
後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、
建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。<
筑紫倭国の別種旧小国の大倭職の大和王権の中での遷宮であり、
半島などの部族の渡来との「合同的政権の権威縮小」、と見て十分である。
>したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。<
「南≠東」だし、3世紀末以後だから、×ね。
>また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、
且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、
この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
箸墓も「南≠東」だし、4世紀以後だから、×ね。
>血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は、
次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。
その場で顕示されている各地の葬制は、
いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
葬制は、筑紫倭国の学習模倣と、半島部族渡来に拠ったもの。
>つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、
共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。<
いや、主たる勢力が、「東征毛人55国」の筑紫倭国の別種旧小国の大倭職であっただけ。 >>198
成程。葬制は、筑紫倭国の学習模倣と、半島部族渡来に拠ったものか。腑に落ちた。有難う。 差別の問題は意味が大きいのだ。
なぜなら倭国王帥升の連れた160人の生口、
これは2世紀には王権の近くにかなり大きな俘囚郷があったと推定されるからだ。
九州の差別問題は白村江の移配俘囚や黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとする以上、
弥生時代に大きな王権があったとは言えないのだ。
俘囚郷のあった大きな王権と考えられるのは大和朝廷発祥地の葛城だ。
この地の俘囚郷が20世紀の「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ」の解放運動の聖地になるわけだ。
帥升は葛城にいた。
その後、王権は移動していない。
魏志の2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで王権は葛城にあった。
邪馬台国とは葛城だ。
ヒミコとはヒメである。
後にヒメ踏鞴五十鈴媛と表記される人物である。 >>198
わかってないね
「オレ様の説」をぶちぶち呟くのは
反論じゃないのに >>2
>纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、
箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。<
列島規模になっていない。筑紫倭国の別種の旧小国の大倭職の中での存在にしかなっていない。
>これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、
全国に展開(澤田1999)しているからである。<
新井氏の指摘にあったように、「古韓尺」技術者の渡来があったから。
>築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、
擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。<
築造企画は、個々の部族内では、殆ど共有されるもの。
>この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、
さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。<
単に、筑紫倭国の順次の東征毛人による各地旧小国首長国の統合があっただけ。
>ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、
大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
古韓尺部族の渡来があっただけ。
>その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から
或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう<
大和の庄内は3世紀末頃以後。布留は4世紀以後。 >>3
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた
「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
記紀は、倭国の存在や歴史を抹殺盗用しようとしている半分偽書であるから、
論拠に使っても半分以下の価値しかない。
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、
就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、
紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、
その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。<
大和の大倭職の王として「殆ど同等であった」、というだけ。
>換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって
紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承さだいれていたならば、<
倭国の別種の旧小国の大倭職であった事は、当然記紀は知っており、「帝王」ではなかった、と思っている。
>現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も、
現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである<
半分偽書の記紀は、伝承記憶の改竄など、自由自在。 本居宣長なら名前の似ている帥升がスサノオではないかと仮定してみたでしょう。
ならば卑弥呼も邪馬台国も1分で解けたはず。
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
ところがこれは言えません。
日本の歴史が最高神スサノオの中華皇帝への土下座から始まることになりますから。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
だから「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱しました。
つまり世論誘導です。
新井白石が大和から九州に変えたのも同じ理由でしょう。
つまり邪馬台国論争とは、
たった1分で済んでた話なのに、本居や新井の世論誘導により、
300年も論争してきたという事になります。 >>3
>また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、
後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など
3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。<
記紀共に、半分偽書。
>三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、
改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が
紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。<
半分偽書である記紀の記載は、皇国史観大和論にとっては「都合の悪くなる」
ような記載以外には、信頼性も確率も殆どない。
>女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、
仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など
先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。<
半分偽書である記紀の記載では、どっちも自由自在の書き変えている可能性があって、
始めから信頼性がない。
>紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、
磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、
紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。<
知悉していたんなら、始めからそのまま記載すれば済んだ事。 >>200,207
天才的な謎ときに感激しました
他に御手持ちの資料をご開陳下さい >>4
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、
初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。<
どこの地域だって、終点とも起点とも交通の要衝ともなり得るので、論拠にはならない。
>乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。<
どの山であっても、周望が効けば、関塞の神を祀る地になり得る。
>威信材の流れや墓制の消長から、
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、<
いや、結局、弥生銀座やハイテク工業地域のある筑紫の部族が統一して行った。
>そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで
「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、
最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、
この列島における旧世界の秩序は崩壊した。<
ウソを付くな。倭の五王時点でも、「東征毛人55国」の状態であった。
>代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と
政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、
この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。<
「南≠東」や「白村江で戦ったのは大和ではなく倭国」であった事の、
この男の嘘吐きダマシの・・・・性は、明らか。 テンプレなんぞ子どもでも論破できる、自慢にならない >>208
それはザラコクの政治思想の押し付けだな >>210
どのルートの終点でどのルートの始点かが重要なのに。
何もわかってないね。 >>213
脳が子供だからテンプレが理解できてないね? 魏志倭人伝のルートって、どう見ても九州北部が終点だろ。 >>213
九州説老人は、論破とは何か知らない
だから彼らは誰も論破したことがない
そして、毎日論破されていても危機感がない >>4
>共立とは、各地の葬制を
総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、
当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。<
「共立」は、共立諸国が半独立的状態である事を示し、
大和の「定型化前方後円墳」は、筑紫の那珂八幡の伝搬模倣拡大である。
>おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される
首長間のリンケージの核となっていくのである。<
核になったのは、筑紫の邪馬壹國。
>それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、
次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。<
祖型になったのは那珂八幡であり、半島の槨部族の渡来。
>定型化前方後円墳定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、
北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。<
半島渡来部族の思想の伝搬模倣。 >>4
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
倭国の「地方の市を監督する大倭職」としての纏まり。
>此の環大阪湾文化圏<
摂津河内紀伊淡路播磨と、大和は、別支配地域。
>と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、
現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。<
倭国乱ははるか前に収まっており、倭国の東征毛人55国の結果。
>後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が、
廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、
瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。<
寒冷化による海水準低下は、あったとすれば、当然全国的。瀬戸内は海流の影響が少なかっただけ。
>纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。<
大和は、倭国の別種の「地方の市を監督する大倭職」の旧小国であっただけ。
>初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。<
「南→東」などの嘘吐きダマシのサギシの特徴は、難しそうな言葉で煙に巻いて、
世間の人々を騙そうとする犯罪者的人種であるだけ。 >>5
◆5(倭国の形成と気候変動) 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況<
南播磨は大中遺跡の鏡片に拠って、卑弥呼の時代には、筑紫倭国の支配地。
>2に、河内と吉備の交流の深さ、この2点を併せ鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、
汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。<
倭国の東征毛人55国の結末。
>共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。<
九州〜山口付近に誕生した。
>その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。<
倭国東征と各地の大倭職の誕生が契機。
>2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、
世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった 倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。<
関係なし。寒冷化が起きれば、当然列島全体が同じような変化が起きる。
>弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。<
倭人の弥生社会は、転身していない。 >>6
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、
開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。<
大海中の列島の西日本では、寒冷化があったとしても、影響はすくなかった。
>これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、
吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、
高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や、
地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。<
高塚の嚆矢は祇園山。
また吉備は、「槨」の出現との関連を見逃す事が出来ない・ テンプレは畿内爺さんの独りよがりのオナニーだから理由を求めるのは酷というもの。 ガキになぜオナニーをするか聞いても気持ちいいから以外の理由はないだろう
畿内自慰さんもいっしょだよ、気持ちいいからテンプレを貼るんだ >>230
という理由が書いてない
wwmwwwwwwwxwww >>6
>析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、
本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、
個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。<
吉備は、当初は出雲銅鐸系であったが、倭国の東征で混合地域になり、
更に半島の「槨」部族の(出雲を経由しての)流入に拠って、3者の混合地域になった、と推察される。
>後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、
より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、
その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
筑紫の銅矛は、高塚の嚆矢の祇園山に見られるように、鉄矛に変わって行き、
銅鐸は、倭国の東征で押されるように、摂津〜近江〜東海〜三遠に中心を移して行った。
>やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、
武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、
古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。<
そりゃ単なる妄想だな。
鏡面の金属光沢属性は、当然中国からのものだし、
鏡の画像も(銅鐸というよりは)中国や江南に発発したもの。
>分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。<
余り意味がない話。
要は、筑紫で「青銅→鉄」の変化が起き、それが列島全体に波及していっただけ。 根拠厨は、根拠が書いてあっても読解できていないだけだろ。 テンプレ全部論破するつもりか、またずいぶんと暇なことを テンプレを全部論破したらどうなる?
知らんのか?
またテンプレが始まる。 結局スサノオも天孫降臨と同じカラクリなのかもな。
全ては1世紀頃〜2世紀前半
倭国大乱前の倭国の仕組みに由来するのかもしれない。 てんぷれよくできてるんじゃね(げんしやまとおーけんのせつめーやろ(よくよんでへんけど
ざんねんなんはへんねんのずれ約30ねんとくなとじゃまいかとりちがえてるとこじゃね
30ずれたりゆーはおこげのとーけーしょりやな >>6
>方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、<
当然筑紫の三雲の方形周溝墓部族での発祥であり、倭国の東征に拠って、瀬戸内近畿東海に伝搬した事になる。
>円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、<
当然、岡山の別部族による三雲の方形周溝墓の模倣と円形化。
>その境界である南播磨で両者が共存した。 この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、
後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、<
中国の「天円地方」思想の伝来伝搬と、倭国の東征に拠る変化。
>これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。<
那珂八幡や津古生掛などの模倣。
>二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、<
当初の筑紫の阿毎氏系の東征と、卑弥呼から壹與に引き継がれた姫氏系との階層差であった。 >>6
>これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。<
大和では、「槨」部族の渡来も加わって、被征服民への威圧があったため。
>辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。<
逆。筑紫と渡来部族の葬制が、大和で拡大した。
>この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに、在地以外からの影響を受け
技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。<
庄内の発祥は三雲。 >>8
>高塚化の進行から窺知される社会構造変化は
各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、<
筑紫での祇園山の高塚が契機になり、
倭国の東征に拠る「各地の出雲系の銅鐸祭祀部族の終焉」に繋がった。
>こと畿内とくに大和に関しては例外的に、
銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。<
倭国の倭奴國の阿毎氏の神武らの東征で、大和内の出雲系の銅鐸祭祀が縮小し、
播磨など大和以外の近畿では、むしろ卑弥呼らの時代の東征で、銅鐸祭祀が縮小したから。
>むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、
世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。<
筑紫での、阿毎氏系と姫氏系の東征時期を見極めないと、理解困難なんだよ。 【倭と日本の歴史】
1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民(天津神)による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
近畿に饒速日が基盤を築く
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結したか、肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候
3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
4世紀前半
筑紫倭国の女王神夏磯姫が景行とともに九州北部を制圧し、筑紫倭国の実権を掌握
4世紀後半
神功皇后と武内宿禰が、景行の孫の仲哀一家と羽白熊鷲、田油津姫らを倒して筑紫倭国の王へ 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>9
>巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、
令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。<
巨視的観点なら、大和は倭国の筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
東瀬戸内地域は、出雲銅鐸国系と、倭国の阿毎氏や姫氏の植民地域であり、
半島方面からの部族が、吉備から近畿まで渡来して来た、という事。
>ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、
近代のポピュリズムにも通じるものがある。
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。<
×ね。在地の出雲系銅鐸部族と、倭国の東征と、半島からのいろんな部族の渡来があり、
結局、倭国の東征の支配になった。
>一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、
突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。<
これも✖。高塚化の嚆矢は祇園山であり、白村江で大敗するまで、倭国は盟主を維持し続けた。
>この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、
砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、
気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。<
気候など、殆ど関係なし。倭国の東征は、継体の反乱で一旦頓挫したのみ。
>このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。<
庄内の発祥は三雲。 >>11
>◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向) 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、
卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。<
呼ばない。筑紫の三雲での庄内の発祥は、祇園山から庄内が出ているから、3世紀半ば直前から。
>北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、
土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。<
だから、楽浪土器の激減?は、3世紀半ば直前。
そして、大和からは殆ど出土しないから、楽浪とコンタクトがあったのは北部九州であり、
大和説の否定の根拠にもなっている。
>これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が
再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、
という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、
ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。<
卑弥呼の死の時に庄内があったのだから、筑紫の楽浪土器は、卑弥呼の頃に無くなった。 ありゃりゃ >>1 が沈黙してるやん(なんでやろ?
しゃーない
たぜーにぶぜーひきょであろー
ぎによってすけだちいたす
わえが今夜限定でジャマイカ巻向説を主チョーする
やーやーやーやーわれこそはむさしのじゅーみんきびももたろーじゃ
われとおもわんものはよってこよ
じ ゃ ま い は ま き む く に あ っ た
こんやげんてー てーせーします
じゅーみん×
じゅーにん○
(どーでもえーか お!
犬神先生か
しみじみ飲めばーしみじみとーーーおー
おもいでーだけがーーーー
ゆきすぎるー なぜに >>1 いてへんのですか?
おもろないやん >>11
>庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、
ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。<
布留0は一種の偽作であるから認められないし、「大和の布留0」はホケノからだから3世紀末以後であり、
筑紫の布留はそれよりもずっと(50年位?)古い。
>この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、
3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から
畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。<
その性格は搬入上納。
また春日地域は、「キ鳳鏡」に拠って、200年頃まで、繰り下がる。
>逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、<
明大の佐々木氏は、糸島地域でも搬入上納が多い、というように書き換えたよ。
>その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。<
当然、大和は、邪馬壹國の弥生銀座にも、阿毎氏の母国の伊都国地域にも搬入上納をしていた。
>外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず
中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、
という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。<
関係がない。
庄内は元々三雲で発祥したものであるし、伊都国は一大率の国であるし、
邪馬壹國の弥生銀座地域が都域であるから。 >>269
せんせーのへんねんかんかくは斬新ですてきドスなー(まいこ >>11
>(糸島地域)1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)<
ふーん?。泊地区に、那珂八幡と同じ頃の前方後円墳があったのか。
>がその後の伊都国の終焉過程を表象していること<
終焉していない。
銚子塚もあるし、仲哀の頃の伊都国王伝承もあるし、
何よりもタリシホコは阿毎氏であるから、
タリシホコは伊都国系と思われる磐井や葛子の後裔であった可能性が高い。
>2つに、強権的色彩を帯びた一大率が、
人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。<
いや、(倭奴國の阿毎氏の)伊都国は卑弥呼共立の軍事的支配中心であり、
壹與の時にも一大率であった可能性が高い。 れきはくはっぴょーほーこくしょのさいかそーおこげのへんさあれamsの不完全ろてーしとるだけでっせ
あれからはどんなけっかはっpy−もできん(はじしらずちゃうなら
いしのくんのでええんちゃう(そのうえででなおしなはれ ぎりゃくとさんごくし伊都のじんこーちごてた?(ちごてたらすまん ぎりゃく=ひみこじだい
さんごくし=いよじだい
こーよめばいりいろわかりまっせ(わりとまじ >>12
>◆7−2 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、<
卑弥呼の在位の筑紫の土器編年の絶対的論拠には、祇園山の(布留ではなく)庄内があり、久住TB・UA期。
>博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。<
逆だな。大和などが母国の邪馬壹國の影響を受けている。
>その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。<
いや、大和は、一大率の伊都国から庄内を学び、伊都国へも搬入しているが、女王のいた邪馬壹國の首都圏である弥生銀座への搬入上納の方が多かっただけ。
>糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。<
あれ?、この男は、3世紀中葉の楽浪土器の筑紫の存在を認めてしまっている!。しかも、大和には楽浪土器が殆ど存在しないから、卑弥呼の大和説まで否定してしまっている!。
>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。<
倭種としてなら知っていた可能性は、ある。
>土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。<
「 TB〜UA期」だよ。
>この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の<
奴國は日向峠西付近から油山付近まで。
>土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。<
楽浪土器が殆どない大和は、絶望的である。 テンプレに まだ 海遊録 記述してるね
論破されたのにね >>13
>◆8(結語) 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力をっていたのが前原三雲の王であることが有名である。<
この掲示板においても、三雲の細石神社が委奴国王印を所持していた伝承を持っていた事が有名であり、
卑弥呼の頃には、委奴國は細石神社〜吉竹高木の奴國と、糸島水道付近の伊都国に分裂していたらしい。
>原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。<
弥生銀座やハイテク工業地域を持った共立卑弥呼の邪馬壹國である。
>その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が、
圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる<
ダメだな。
まず、大和ではなく河内というべきであり、
楽浪土器が大和や播磨から殆どでないんだから、彼らは河内や播磨には持ち帰っておらず、
だから、出稼ぎではなく、筑紫への搬入上納移住だ。
>前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。<
いや、一大率として、共立倭国女王の軍事的中心として7世紀の竹斯國まで繁栄した。
>博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、
その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、<
嘘を付くな。「南≠東」であり、瀬戸内方面は「倭種」であるだけだ。
>博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。<
筑紫が倭国中心であり、白村江で大敗するまで、西日本の政体中心であった。 >>13
>遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。<
高地性集落は、倭国の拡大や東征からの「海岸住民の避難」だ。
>この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、
文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。<
倭国乱後の共立諸国の30国と、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」が書き分けられてあるから、
倭国乱は、九州〜山口付近までであり、元の出雲系銅鐸圏や瀬戸内以東を含まない。
>この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、
「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。<
倭国の拡大東征があった事が中心的原因だ。
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。<
「南≠東」であるから、×。
>副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。<
これも、倭国の東征の影響。
>そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、
この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。<
以上の根拠により、筑紫以外にあり得ない。 >>14
>◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説 纒向学研究 第1号(PDF) 纒向学研究 第2号(PDF)
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書 洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書 東潮「邪馬台国の考古学」 等 <
「畿内説」を採った限り、この人種は、
始めから「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」などの嘘つき騙しの、
大和天皇家一元列島支配の宗教カルトによって、史料事実を否定曲解捏造した、
・・・・人種だな。 >>289-289
結局ひとつも根拠が書いてないから
反論になってないな >>15
>◆10 実年代目安の参考 (現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)<
教科書は、皇国史観の宗教思想の政府文部省の検定済みであるから、学問的な論拠にはならない。
>○弥生時代後期 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3) 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃・・・<
近畿の庄内は、3世紀後半。
>○古墳時代前期前半(布留0〜1) 3世紀中頃〜4世紀第1四半期 <
近畿の布留は4世紀以後。
>・・・(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)<
この学者らも、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの詐欺師ね。
>※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002) ※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として・・・ <
布留的土器の出土があれば、それだけで( 庄内ではなく)新しい方の布留期であり、4世紀以後。
>※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010) ・・・<
これもダメだな。
筑紫が中心であり発祥地であるから、河内や大和への庄内や布留の伝搬模倣は、
筑紫から50年位(以上?)遅れる事になる。 >>286
以前、私も投稿しましたが
方位の問題点は瀬戸内ルートを指摘しています
南至投馬國 南至邪馬壹國
海遊録の誤認の間違いは対馬で起きたことです
瀬戸内ルートに当てはめるには無理が有ります
誰かも指摘していますが
瀬戸内では、太陽は四国にあります。北極星は西にあります。
また瀬戸内は穏やかな海です。
もし、スレ主が例として出すなら瀬戸内で方位を間違えた例を出すべきでしょう。
よって海遊録はなんの根拠にもなりません。削除すべきでしょう >>16
>◆11 本文のサマリー 纒向遺跡の発掘状況等から、
ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、<
筑紫の土器や楽浪土器が全くのように見られないから、瀬戸内以東の「市を監督する大倭職」の国である。
>それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。<
大和には殆ど浸透しておらず、影響が出るのは4世紀以後である。
>これらを倭人伝の記事と対照すると、
箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。<
「南≠東」であるから、始めから×であり、できない。
>2世紀の地球規模的寒冷化は、
農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、
弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。<
鉄矛や庄内や三角縁がある祇園山の筑紫で始まった。
>換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、
3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。<
大和での墳丘墓の巨大化は、市での儲けや筑紫倭国の東征のお手伝いでの、
大量の墓守り人の獲得と、半島流民の技術協力と、征服した銅鐸民や毛人蝦夷への「威圧」の必要があったから。 >>16
>倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、
畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、
ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。<
搬入上納であった。
>博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、
西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。<
大和などから、楽浪土器が全くのように出ないから、都のある筑紫への移住居住が顕著になった、と言うべき。
>絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、
この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。<
「南≠東」であるから、始めから×。
この男は、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・である。 >>291
これもなにも理由が書いてない
反論にならないな >>292
だから対馬で北極星は見えないのか?
馬鹿じゃないの? >>297
だとしたら、海遊録の解釈がおかしいのでは?
誤認したのは申 維翰であり航海士ではないのでは?
いずれにせよ
瀬戸内での判例を提示すべきでしょう >>298
どうして瀬戸内での例を提示すべなの?
理由は? スレ主が方位の誤認について解説してます
その誤認は対馬であり瀬戸内ではありません
また、投馬国を吉備あたりに比定しています。
邪馬台国論叢で方位の問題は
南至投馬國 南至邪馬壹國 から生じています >>300
だから何?
君の言ってること、論理性ないよね >>18
>Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。<
筑紫は、白村江の後まで西日本に盟主。
大和は、倭国の別種の旧小国で、倭国の地方の市を監督する大倭職の、「倭国の一部」。
>郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。<
行程論でも、大和は、「南≠東」だから、始めから×。
>逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、
倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。<
九州には、灼骨卜占や、丹の山などが事実存在するから、魏志の記載を十分満たす。
>水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、
宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、
古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。<
大和も、倭国の別種の旧小国の附庸國 の「市」の国であるから、
大和のものも、筑紫倭国のもの。 >>302
何も証拠出さないで言い張っても
反論にはならんよ >>301
あなたがそう思うのは、あなたの勝手ですのでコメントは差し控えます
では 失礼します >>18
>水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、
丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、
ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは
水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。<
倭国の附庸國の大和のものは、倭国のもの。
>北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より
畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。<
という事は、九州には大和の水銀朱以外の朱丹を使った墳墓も沢山あった、という事。
>被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、
東方からの影響と考えられる。<
この掲示板でもどなたかが、平原の朱の話を書いておられた。
>また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)<
九州地方でもいくつも発見されているから、倭人伝の記載に十分合致する。
>倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、
当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。<
地方の「市」から搬入可能。 >>304
何だ、逃げちゃうのか
誰もぜんぜん畿内説に反論できないんだね >>300
理由がないなら
瀬戸内での判例を提示すべき
とかいうクレームは無効だね
よって海遊録はバッチリ根拠になってるってこと
FA >>307
ここがポイント
>よって海遊録はなんの根拠にもなりません。削除すべきでしょう < >>19
>◆FAQ 3 Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。
史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。<
不彌國で萬二千余里がほぼ消化されているのだから、女王之所都は、不彌國の直ぐ南にある事になる。
従って沖縄に持って行くこの男の解釈も、史料実態の否定曲解の嘘つき騙しの解釈である事になる。
>「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、倭人伝の里程も方位も、致命的な誤りを含んでいることに疑問の余地がない。
東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、
角を矯める愚を犯すに等しい。<
高慢な「自己解釈に拠る内容書き換え説明」を記載する半分×人間の范曄の「治→冶」の書き換えは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの詐欺であり、根拠にはならない。
「計其道里、當在會稽、東治之東」は、ほぼ九州を指す。
>実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、<
魏使らや陳寿は、有効数字1桁概数でのであり、その範囲での記載として、比率的にほぼ整合している。
勿論、大和説者のような「長里」解釈では、6倍位の異常な数値である事になり、始めから不適切である。
>倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。<
陳寿の行程記載の「出発+途中移動+到着」の記載原則や、「途中移動の動詞が書かれていない」場合は側副傍線行程の記載である、
という原則に従って読めば、女王之所都は不彌國のすぐ南にある事が明確である。
>このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)<
この男らは、要するに魏志行程記載が読めない‥‥アホ。 いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。 >>308
そんなこと
理由もなく言い張ってもダメでしょ >>312
いつ覗いても、悪あがきしいてるね。。。 おーーーい スレ主
天敵 岡上、ザラコク、キウスの反論に何も答えて無いぞ >>316
あなたですね、匿名スレ主は
評判が悪いようですね >>20
>◆FAQ 5 Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里<
何だ?こりゃ。
釜山から対馬に行くには、一旦海岸沿いに西〜西南に行って、
巨済島付近から海流に乗って東〜東南に行って対馬に着く、という話であったから、
方向は「大体合っている」ではないか。
>小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。<
浅茅湾を東に行って小船越を通り過ぎるんだから、これも「大体合っている」ではないか。
>対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。<
「大阪京都を北、長崎を東」というのも、ちょっとおかしいなあ。
その前後の文を提示してみろ。
>ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、
誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。<
この男は、全くのアホなんだなあ。
18世紀の半島の政治的使節の方向記載が、
3世紀の、周髀算経などを知っていて、方向距離の測定も目的であった魏使らの記録の、
信頼性の根拠になど、なるもんか。 >>20
>Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。<
誤魔化すな。
書紀は、魏志の卑弥呼と壹與の治績を神功の治績であった、のような記載をしているんだから、
それに対する史料批判や説明をしなければ、そりゃ嘘吐きダマシなのであり、
学問にならないんだよ。 >>21
>Q:纒向から九州の土器が出ないではないか! 纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?<
>A:そのような事実はなく、当然交流があった。<
ダメだ。
相互に出たのなら「平等な交流」であり、
大和→筑紫があって、筑紫→大和がなかったのなら、「一方通行」なのであり、
都への搬入上納である可能性が高い。
そんな論理は、(筑紫以外の)西日本各地から纏向に搬入が多い、という話があった時に、
大和説者側が使った論理そのものではないか。
>畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、<
「往来」ではなく、「都への一極集中」や「移住」や「上納搬入」だ。
>畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。<
どっちにしても、田舎から首都圏への一極集中だ。 >>21
>Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 と倭人伝にある。
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?<
>A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。<
逆。
史料記載の「南が東の間違い」である確率は、意味や字形や史料実態から、ほぼ0%であり、
「行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した」と言っても、
特定出来る唯一の親魏倭王の金石文も出ず、
魏志の記載とも全く合わず、考古出土物も全く合わずで、
「特定出来る確率」の方が、ほぼ0%。
>伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり
「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。<
伊勢湾横断を「千餘里」とすれば、その南三千里の侏儒國が、黒潮のど真ん中で存在出来ない、という矛盾になる。
伊豆七島まで「千餘里」とすれば、他の里数記載と6倍前後の比率の差異が発生する、から、
いずれにしても矛盾であり、確率は殆ど0%。
伊豆七島までを「千餘里」 ここまで論破されたら恥ずかしくてテンプレ取り下げるだろうな。 で?
誰がいつ、何と言って論破したんだ?
???????? >>21
>Q:狗奴国はどこだ? 女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら 女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?<
>A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。<
ダメだ。狗奴國は、筑紫にある女王国や、卑弥呼共立の30国群の「南」であり、
その30國も「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の「倭種」と書き分けられているから、
九州内、とするしかなく、「中部から北陸、関東」なんて、確率が全くない。
>中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、
倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。<
何だこりゃ?。問題設定した自問自答で、
狗奴國≒免田式分布域という、九州説の可能性も肯定する言い訳をして、うにゃむにゃにしてしまうつもりなのか?。
>倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ
彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。<
あぁ、ここで、「南」は不分明であった、というダマシをした訳だ。
まるで、街頭詐欺師や宗教説法師らの、「信頼させる擦りこみ」話のテクニックと同じだな。
>王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、
卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。<
皆さん、気を付けましょうね。
この男は、「南」に対する説明を殆どせずに隠して、うにゃむにゃにしてしまうつもりなんですよ。 >>329
結局「南」が正しいと理由もなく言い張ってるだけだから
畿内説に何も反論してないね >>325
伊豆七島とか南関東って伊勢からちょうど千里くらいで
合ってるぞ 改めて引用されているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>332
訳分かってないのは岡上が無知だからだろう。 >>332
畿内説は魏志倭人伝を無視して妄想の邪馬台国を追い求めているからね。 どこを論破したつもりになってるんだろうね?
用語がわからなくてザラコク一人でスベってるようにしか見えないんだが なぜか、僕たちの台本貼り付け係がミスしているようだね。。。
それとも、だれかが台詞を転用しているのだろうか、、、 僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるの光栄なのだけれども、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。 >>340
岡上、わざわざ名乗らなくっても判ってるって テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、 >>335
どうかけ離れてるかは死んでも言えないキウス >>310
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>347
岡上嘘つくな
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。 >>332
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形もなにもかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>22
>Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!<
>A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、
その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、
県の機関から正式の報告書が出ている。 <
で何が根拠で、何時頃のものだ、という結論になっているかね?。
>封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が
工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって
完成直後の時点を示すと判断され、
布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。<
土器なら、上の方にあっても、水を吸って重くなって、下に沈んだ可能性もあるが、
土器が布留、という判定は信用出来そうだな。
>しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、
着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。<
工事に何年かかったのか?は知らんが、推定するんなら、
大雨で墳丘が削られて墳裾にあったものが流れ落ちた事も考えられるから、
余り根拠にならんだろうなあ。 >>260
>>北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、
>>土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
>だから、楽浪土器の激減?は、3世紀半ば直前。
激減が3世紀半ば直前??
なんで? ボキャブラリーが理解できなくて頓珍漢書いてるんだろ >>357は自演か尻馬の二択だな。
内容はまったく理解してない。
賭けてもいいぜ。 楽浪土器は公孫氏時代くらいまでで(博多湾岸の変化から遅れた糸島ではTB期まで出るが)
入れ替わって増加するのは馬韓土器だからな
西新町から楽浪土器は出ない 悲しいけど、ここまでテンプレが論破されてしまったら、畿内説はお手上げだね。
あとは子どもじみた悪口を書くだけの粘着小僧しか残っていないし、
かつていた論客たちは無言の敗北宣言をして去ってしまったから。 >>361
で?
誰が何と言って、テンプレの何を論破したんだい?
何を子供じみた虚勢を張っているんだい?
w でた、畿内説の恥さらし。負けは負け、素直に認めよう。 意味不明なことわめいてハイ勝ったって言ってるだけでいい九州説は楽だよな 畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めているんだな。
残党の悪口派だけが欠陥品のテンプレを崇拝している。 292キウス ◆PyuQX798ps 2017/11/02(木) 05:30:03.64>>297
>>286
以前、私も投稿しましたが
方位の問題点は瀬戸内ルートを指摘しています
南至投馬國 南至邪馬壹國
海遊録の誤認の間違いは対馬で起きたことです
瀬戸内ルートに当てはめるには無理が有ります
誰かも指摘していますが
瀬戸内では、太陽は四国にあります。北極星は西にあります。
また瀬戸内は穏やかな海です。
もし、スレ主が例として出すなら瀬戸内で方位を間違えた例を出すべきでしょう 293キウス ◆PyuQX798ps 2017/11/02(木) 05:33:20.11
失礼
訂正 北極星は北 良識的な人間は九州説の欠陥をきちんと認めているけど キウスと呼ばれたり、岡上と呼ばれたりしたこともあったけれど、それらは他の人の名前でもあった。
我々は個であり全体である。 畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めている
九州説良識派は九州説の欠陥をきちんと認めている
残党の悪口派だけが生きさらばえている 何を言たって色んな物証が邪馬台国は畿内という事を示しているから仕方ないよ 九州説同士は、細かい相互検証を重ねているよ。
まったりとしたものだよ。
畿内説だけが、あのテンプレと匿名のスレ主(根拠厨?)のために炎上しているだけ。 >>372
物証って、なんのこと?
桃の種?
花粉? >>375
魏志倭人伝に登場しないものばかりですね。 >>22
>Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当であ
る。<
反対。
伊都国から「東南至奴國百里」の「百里」は、
半島や海峡の「里」記載からして、周髀算経の一寸千里の法の1里≒76〜77m位の度量衡を使っている事になるから、
百里は7.6〜7.7kmであり、
伊都国を前原付近だとすると、奴國の入り口は三雲や平原付近になり、
奴國は二万戸だから、日向峠を越えて室見川の中上流付近に拡がる事になるが、
同じように伊都国の東百里の海岸沿いに不彌國があってその南に7万戸の邪馬壹國があり、
邪馬壹國と奴國がぶつかってしまう事になり、
その境界は、大体油山付近になる事になり、
須玖岡本などの弥生銀座は邪馬壹國である事になる。
>彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。<
甕棺の玖岡本は、邪馬壹國内。
>使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。<
須玖岡本を奴國と比定するのは不合理である。 >>378
九州説こそどっかに邪馬台国って書いてたの 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 倭人は「兵用矛盾木弓 木弓短下長上」
銅鐸に短下長上の弓が描かれている >>383
倭人は畿内にもいたと書いてある。
でも邪馬台国ではない。 >>365
>畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めているんだな。
>残党の悪口派だけが欠陥品のテンプレを崇拝している。
で?
テンプレの敗北を認めてる畿内説良識派って
どこにいるの?
君の脳内? >>366
瀬戸内で方位を間違えた例を出すべきだという理由を>>299で質問したが
回答がない
理由がないなら、そんな例は出す必要がないよね >>390
だから無駄な抵抗をしに
このスレに来たりしないよね 結局テンプレを論破したとか言ってるのは真っ赤な嘘なんですな
いつもの通りだ
論破されまくったザラコクはついに壁に向かって独り言つぶやくだけになっちまったな >>385
倭人は、「その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、
以って吉凶を占う。先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。」
九州島には元々倭人の風習はない 畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めている
九州説良識派は九州説の欠陥をきちんと認めている
残党の悪口派だけが生きさらばえている >>386
畿内説が負けてるわけじゃない
テンプレは個人の意見だから
5ちゃん以外で論戦しようぜ >>380
有り難う。初めて、疑問だった部分がはっきりした。 366”削除”するかOR判例を変えるかだな2017/11/02(木) 17:42:49.13>>388
292キウス ◆PyuQX798ps 2017/11/02(木) 05:30:03.64>>297
>>286
以前、私も投稿しましたが
方位の問題点は瀬戸内ルートを指摘しています
南至投馬國 南至邪馬壹國
海遊録の誤認の間違いは対馬で起きたことです
瀬戸内ルートに当てはめるには無理が有ります
誰かも指摘していますが
瀬戸内では、太陽は四国にあります。北極星は西にあります。
また瀬戸内は穏やかな海です。
もし、スレ主が例として出すなら瀬戸内で方位を間違えた例を出すべきでしょう
367””削除””するかOR判例を変えるかだな2017/11/02(木) 17:46:22.57
293キウス ◆PyuQX798ps 2017/11/02(木) 05:33:20.11
失礼
訂正 北極星は北 >>395-396
テンプレのどこに反論できたの?
???????
???
? 366”削除”するかOR判例を変えるかだな2017/11/02(木) 17:42:49.13>>388
292キウス ◆PyuQX798ps 2017/11/02(木) 05:30:03.64>>297
>>286
以前、私も投稿しましたが
方位の問題点は瀬戸内ルートを指摘しています
南至投馬國 南至邪馬壹國
海遊録の誤認の間違いは対馬で起きたことです
瀬戸内ルートに当てはめるには無理が有ります
誰かも指摘していますが
瀬戸内では、太陽は四国にあります。北極星は西にあります。
また瀬戸内は穏やかな海です。
もし、スレ主が例として出すなら瀬戸内で方位を間違えた例を出すべきでしょう
367””削除””するかOR判例を変えるかだな2017/11/02(木) 17:46:22.57
293キウス ◆PyuQX798ps 2017/11/02(木) 05:33:20.11
失礼
訂正 北極星は北 >>399
瀬戸内で方位を間違えた例を出すべき
だという理由は何?
それでテンプレのどこを論破したの? >>401はもう自分が畿内説に歯が立たないことを知っている w >>23
>Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている! 畿内説は倭人伝と合わないのではないか?<
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。<
いや、魏使らは、魏使らが「矛」と認識出来るものを実見したから「兵用矛、楯、木弓」と記録した。
>福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。<
いや、祇園山から「鉄矛」が出土していた筈。
だから、魏使らは、祇園山などの鉄矛を見て、「兵用矛」と書いた可能性もある。
>弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、
殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。<
武器が、青銅→鉄に変わっていった。
>以降、古墳時代に入って、
騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した<
おそらく、祇園山以外にも、鉄矛が使われていた、と思うよ。
>理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、
鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を、鉄の鍛造品で作ることが、
経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。<
祇園山の鉄矛の説明が付かない。
>当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、
剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、
使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。<
可能性はあるね。 >>406
魏使らが「矛」と認識出来るもの
って、なに? 凡例だよ、くだらん揚げ足とるなよ
海遊録では瀬戸内の南➡東の根拠にならないってことだろ
海遊録を削除するか瀬戸内で誤認した凡例を出せと言ってるんだよ彼は いや、このスレはバカが必死に荒らしてるだけで
盛り上がってはいない 三角斑が三世紀の鏡だと判明したいま
九州説に何ができるw >>408
海遊録を削除するか瀬戸内で誤認した凡例を出さなきゃいけない理由は
一体何なんだ? >>411
九州説が毎日信用を落として、それなりに盛り上がってるね >>408
テンプレは海遊録が瀬戸内の南➡東の根拠だなんて一言も言ってない件について >>23
>倭人伝に描写された3世紀前半は、矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、<
祇園山の鉄矛がある。
>当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。<
いや、無理。祇園山のものは、現代の日本の考古学者が「鉄矛」と記録したから、「矛」に見えるものであった。
>倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、
乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。<
いや、見ただけで違いが判るんだから、魏使らはおそらく、槍ではなく「矛」を見た。
>当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、
現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人が、これを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、
自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。<
いや、祇園山のものを、日本の考古学者が「矛」と名付けたんだから、やはり(槍ではなく)「矛」の様態をしていた。
祇園山の矛を見れは、魏使らは「兵用矛」と記録してもおかしくない、という事だ。
>なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、
これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。<
常識。
>加えて 「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。
此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、
親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910) の指摘は今日も有効である。
この男も、内藤も、人種差別者だね。 >>421
祇園山のどこから出た何を、日本の何という考古学者が「矛」と名付けたんだ? 昔が懐かしいな
あんた言ってたよな
<私は必ずトリつけてます>
<すべてに目を通してます>
どこで狂ったんか >>24
>Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている! 古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!<
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。<
槨とは、「遺体を入れる棺」や「遺体」を収容する「小部屋的な構造物」である。
>現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは、
粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、
考古学者の間でも批判的意見のあるところである。<
関係がない。ホケノは明確に「木槨」的である。
>古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、
両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。<
棺では、遺体の横に座れないが、槨は棺や遺体の横に座れる。
>畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。<
ホケノは「有棺有槨」に適合している。
>逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。<
箱式石棺の中には、座れない。 >>427
>槨とは、「遺体を入れる棺」や「遺体」を収容する「小部屋的な構造物」である。
それ、だれが決めたの?
素人おじん75歳?
w >>421
それが常識ならテンプレが正しくて
あんたが間違ってることになるよ 距離表S22
陸行1月
紅花染色文化の伝承
の言及は面白かったのに・・いじめるの止めたのかいな いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。 >>431
ウソついてたのがバレたから
続けようがない罠 >>393
スレ主が壁に向かってテンプレを呟いている姿が目に浮かぶようだ。 >>394
>九州島には元々倭人の風習はない
卑弥呼の神道に取って代わられたんだよ。 >>407
>>>406
>魏使らが「矛」と認識出来るもの
>って、なに?
九州の銅矛のことだよ。 >>412
>京都の椿井大山古墳からは鉄矛が出てるんだけどね
内行花文鏡を副葬された、伊都から派遣された筑紫倭国の尖兵たな。 >>381
倭人伝の行程記事と合致するので、邪馬台国だと推定できる
畿内説は邪馬台国と書いたものも出ないし、倭人伝も無視するので存在意義がない >>444
あれで殴って戦うのか?
それは倭人伝に書いてないと変だな
面白すぎる話だから スレ主が詭弁を弄するから、畿内説の評判がガタ落ち。 >>449
じゃ、どうして九州説の人は皆それぞれ違う場所を邪馬台国だと言うの? >>439
論破してねーよ
論破するほどの論じゃねーし
テンプレ馬鹿にしてるだけじゃん
優越感に浸るスレでもいいじゃん >>447
九州から鉄矛は見つかってないんだろ
なら違うじゃんか >>427
賛同する
敢えて「有棺無槨」と記述した倭人伝が正しいと思う >>461
理由もないのに何故賛同するの?
本人?
それとも無思考尻馬爺? >>427
成程。納得した。分かり易い。有り難う。 >>24 >Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?<
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、<
いや、多いのは邪馬壹國の弥生銀座付近や、糸島の伊都国付近。
>奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。<
密接な関係があったのは、同じ阿毎氏の伊都国。
>この人的資源を背景として、<
人的資源は、大和へ土器を持って帰らないから、一方通行であり、都へ搬入上納して都域に居住しただけ。
>伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。<
不可能。勿論「南≠東」であるから、女王之所都は(ヤマトではなく)筑紫にあるのであり、大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。
>伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。<
伊都国は、大和の阿毎氏と同じ阿毎氏であり、大和の本家だから。
>糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。<
一大國は、伊都国地域に天孫降臨した天孫族の阿毎氏の本国であったし、一大率とも関係があったようだから、強いパイプを持っていた。
>北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。<
強権的な監視者がヤマトだ、というんなら、「南≠東」に拠って×ね。
>このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。<
「南≠東」だから×。 >>465
それ、なんも証拠ないよね
反論にならん 【倭と日本の歴史】
1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民(天津神)による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
近畿に饒速日が基盤を築く
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結したか、肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候
3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
4世紀前半
筑紫倭国の女王神夏磯姫が景行とともに九州北部を制圧し、筑紫倭国の実権を掌握
4世紀後半
神功皇后と武内宿禰が、景行の孫の仲哀一家と羽白熊鷲、田油津姫らを倒して筑紫倭国の王へ 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>459
倭人伝のどこかに鉄矛とか出てきてたっけ?
北部九州における銅矛祭祀を見て矛って書いたんじゃないの(鼻ホジ >>466
お前のコメントこそ、ザラコクへの反論になってない。 >>458
いつも楽しませていただきアリガトサン
少しは成長しろよ 飽きられるぞ 白石が在日?
つまり畿内説の考古学者は在日ということか
ここの畿内厨も在日なのか? 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 >>465
「南≠東」だから×だー
と連呼して畿内説への反論になるなら
邪馬台国論争はじめから無い >>26
>Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。<
明確な格差がある、
>準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。<
3世紀末以後の鉄鏃のホケノのような例があるから、年代を書かなくては×。
>遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、
痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、
纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。<
大和は、少な過ぎる。 >>439
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>476
>「南≠東」だから×だー
つまりこれに反論できないのだね、、、、 , -――- 、
/ ヽ
| ⌒ ⌒ | お前もう完全に論破されてるじゃん
| (・) (・) | 未だに必死に捏造してるみたいだけど
| ( |
ヽ ワ 人
>ー-― ´  ̄ ̄\
⊂ニニ ̄ ̄ ̄ヽ / |
くメ) _ノ | | | | |
(/ | | / | | |
| |/ /| | |
| ト / | | |
ヽ__/ | | | >>469
元々九州説が畿内には矛がないから邪馬台国じゃないとかぱっぱら踊りを踊ってたんだよ >>483
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、そろそろ魏志倭人伝を読んでみるべきじゃないだろうか。。。 学術的に頑張らないともう誰も信用してないぞw
敗北確定したから頑張りようもないだろうけどw >>490
魏志倭人伝に邪馬台国が、朝鮮半島の南にあったことが明記されているからじゃないのかな、、、 高齢もいなくなり、
もはや根拠厨一人がのたうち回るだけのスレw >>26
>鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、
淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、
和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、 南条遺跡(向日市,弥生後前)、
小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、
星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、
木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。<
河内や摂津や山城は、筑紫倭国の直接的支配地や、半島渡来民の混合の可能性があり、
大和の鉄の根拠にはならないよ。
≧纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、
その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。<
庄内3では、卑弥呼の時代に全く合わないし、
そんな少なさでは、筑紫に比べたら、全く負けてるよ。
>弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て、
遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に、
俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、
畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。<
大和と弥生銀座などとで、鉄材の遺存状態がそんなに変わる訳もなく、
ホケノ以前には鉄材が殆どなかった、という事も、変わりないよ。 >>495
そんな単純なことだったのか、、、、
やっぱり、僕たちの相手は狂っているのだね。。。 魏志倭人伝だし、まずは倭人について語らないとな。
次に倭国。倭国大乱前に80年程男王の時代があったとあるし、1世紀中頃には倭国はあったんだろう。倭人を中心とした国なのは間違いないが、重要なのはその仕組み。
倭地には100ヶ国あるとの記述からも、倭国は何ヶ国かの連合国だったのかもね。
伊勢遺跡が関係あるなら、30ヶ国の連合だったのかもね。
それから倭国大乱。
仮定として倭国の構成国が卑弥呼派と卑弥弓呼に分かれて争った可能性も考えないといけない。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 >>26
>Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。<
8世紀であっても、記紀が魏志を知らない筈がなく、
だから卑弥呼を知らない筈がなく、
しかも、卑弥呼と壹與の事績を神功紀に挿入しているんだから、
記紀は半分偽書なんだよ。
>ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。<
そりゃ、記紀は、ますます偽書になる。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も大阪湾を中心とした畿内が中心だろうが、何処まで拡がりがあったかだな。 >>478
魏船は鉄を多少使った船だと思う
邪馬台国には鉄が有ったの記述は確かだろう
ホケノの年代比定が問題だが
箸墓とホケノの年代比定を畿内説はいかに考えるのか?
ホケノが最も古い前方後円墳なら???????
径百歩とは????????????????? >>497
ザラコク
根拠のないこと言い張っても反論にならないよ >>504
んだな
完成品のホケノが先にあって
そのすぐ横に同型の箸墓を作っていたなら
箸墓の完成予想図も知っていたわけですな >>500
九州説は考古学的には疑う余地しかないよ 前方後円墳として完成したホケノが先にあった。
そのすぐ横に同型の箸墓を作っていたのだから
箸墓の完成予想図も知っていたわけですな 。
>>31
つまり箸墓の一部分をもって径百余歩とする説は 倭人とは別のもう一つの大きな勢力。
丹後半島など日本海側の勢力についても考えないといけない。
海神、おおわたつみ。
八十島祭でも、海神二座に幣帛を供えられた記録がある。
豊玉と関連づけられることもあるが。
関門海峡辺り、西瀬戸内海の勢力だったのかな?
関門海峡両岸は、陶塤が出土したエリア。
BC1000年頃、中国南部から渡来し、恐らく水稲栽培をもたらした勢力。(BC4〜5世紀、畿内に渡来した倭人より古い。)
陶塤が集中して出土するのは、他に松江と丹後半島周辺。
丹後半島〜豊岡。豊受大神の伝承が残る。
どう関係があるのか‥
丹後半島、弥生時代中期までの扇谷遺跡では砂鉄からの製鉄が行われていたと考えられている。(何故中断?)
弥生時代後期には朝鮮半島から鉄のインゴット
による鉄鍛治が行われ、
丹後半島→播磨東部、摂津西部→淡路島の鉄のルートにより、畿内との結びつきも強まる。 >>511
九州説はスレの1番最初にあるテンプレすら目に入らない 銅鐸文化も大陸との交易の印なのだ
南と東の違いは古代人のみ知る 現代科学で論ずるのは愚の骨頂
箸墓、ホケノが3世紀でないと言うなら根拠を示せ
陸行1月は、其れだけの日数(休み、邪馬台国の所都までいくまで楽しいことが有ったかも)がかかっただけで距離とは関係ない
ほか何か反論あったけ >>517
事実だと入らないんだよ
だから九州説が存在する 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 >>516
>丹後半島、弥生時代中期までの扇谷遺跡では砂鉄からの製鉄が行われていた
>砂鉄からの製鉄
へー、そうなんだ(棒読み >>27
>Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!<
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。<
自分で勝手に「東夷の部分だけ」なんて質問を設定しておいて、
それに対して「不合理である」なんて批判をするのは、インチキである。
実際には、魏志では殆どが短里記載であり、
三国志全体でも大半が短里記載である。
>また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。<
有効数字1桁概数として、有意な規則性がある。
それに引き換え、通説の長里説では、6倍もの有意な「間違いの規則性」がある。
>よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。<
よって長里という単位系を帰納することは不可能であり、
長里では記載されていないと言える。
>このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。<
このことは50年位前から、九州説者や古田さんから、縷々指摘されているが、
有効な反論がない。 1世紀の拠点エリア
大阪湾、伊勢湾、丹後半島、博多
どのように結びついていたのか?王家による婚姻の可能性も考えないといけない。 >>526
はかたいがいのおうけのこんせきはあるの?w >>525
あんまり馬鹿な説だとFAQにならんだろ? 鉄器を作るためには
鉄鉱石や砂鉄から銑鉄を作り出す製鉄。
炭素分の多い銑鉄から適度に炭素を抜いて
必要な成分の鋼鉄を作り出す精錬。
鋼鉄から刃物や工具を作り出す鍛冶、
がある。
多くの異説が出ているが
確実な製鉄が確認された遺構は
5世紀以降である。 解答の性根が腐ってるのがプンプン匂うせいで
FAQを読むと九州説だと思ってしまう件についてw 九州説の敗北という現実が受け入れられず
自分の殻に閉じこもってしまったザラコク >>530
あらら、畿内説の夢を壊しちゃダメじゃないw 短里は分からんでもないが
伊都=邪馬台国の王都でしか成り立たない
九州説で統一されているのか伊都が邪馬台国で >>525
規則性があるというなら計算根拠を書いてみな
w 性根の腐った長文は読む気がしない
読みやすいFAQのQだけを拾い読みすると九州説だと思ってしまう件についてw >>531
悪口いくら言っても反論にならないよ
そっちから強烈な負け犬臭が漂うだけ 海遊録の引用は人は間違いを侵すことが有るということを言っているのだ >>538
それすら解らないのが九州じいさんの知能 東征は記紀神話だ
文明は西から東は当たってるが、大和魂を知らんのか
桶狭間をしらんのか >>533
時々鍛冶遺跡を製鉄遺跡と
わざと混同する人がいるからね。
輸入鉄を鍛冶で鉄器にしていた遺跡を
わざと製鉄遺跡と混同して
製鉄が3世紀から始まるとか言い出すのですね。
それを指摘されると、今度は精錬残渣の
鉄縡を製鉄の痕跡と言い出すこともあります。 おまえはあほか
反論ぐらいしろ すっこんでろ
キウスじゃねーし
俺が相手してんだよ
それで
>>536
長文読んだんだろ ドアホ >>546
こいつは新たな知的障害かな。
まあ、言動がおかしければ相手にしないほうがいいな。 >>27
>Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!<
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。<
周髀算経や礼記や淮南子などに測定実施の記録が記載され、
海上の見えない場所への距離測定は、天測を使わなければ不可能だ。
>万が一にも、そのような測定があったなら
福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、
倭人伝の記事と齟齬する。 したがって測定は存在しない。<
?。何か変な事を言ったな?。
倭人伝の記事とどこが齟齬するんだ?。
>また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、<
海島算経は、始めから魏の短里を拒否して長里で記載している書だから、
魏志の記載と全く合わず、三角測量などの「方法論」以外は参考にならないよ。
>多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、
これ明らかである。<
何を言ってんだい?。
一尺の長さは、周髀算経などや魏志では変わっておらずほぼ同じだよ。 >>548
>周髀算経や礼記や淮南子などに測定実施の記録が記載され、
海上の見えない場所への距離測定は、天測を使わなければ不可能だ。
天測で方位は分かるが距離は直線しかわからんだろ 魏使は直線で進んだとでもいうのか お!あいかわらずののしりあってますな(こーでなきゃここつまらん 畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めている
九州説良識派は九州説の欠陥をきちんと認めている
残党の悪口派だけが生きさらばえている >>284
>あれ?、この男は、3世紀中葉の楽浪土器の筑紫の存在を認めてしまっている!。しかも、大和には楽浪土器が殆ど存在しないから、卑弥呼の大和説まで否定してしまっている!。<
ひみこはんのみやこはゆずってもいよさんのみやこであるジャマイカはゆずらんの決意のあらわれでっせゆだんめさるな >>551
テンプレの敗北を認めている畿内説良識派って
どこにいるの?
お前の脳内? 助け船とかいいつつ満足に浮かぶことすらできないキウス >>294
あかんいんよーとはいえてんぷれよまにゃならんからせんせーのれすはするーじゃ(めーまわる 言動がおかしい奴は相手にしないほうがいいな。
でも九州説全員だな。 >>558
なら、テンプレの敗北を認めているってのウソじゃないか ちょいもっどって
>>286
よふかしはからだにどくでっせー テンプレの敗北を認めて
もう、あほらしくなって去っていったよ >>562
テンプレのどんな敗北を認めて、いつ去ったんだ? >>562
「あほらしくなって去っていった」
というのが本当なら
「テンプレの敗北をきちんと認めている」
というのが嘘だな >>382
ながさがじゅーよーまーまともにのこっとらんやろけど(刀 >>564
解ったよ
あんたがウソツキだということが テンプレを信じていたのにあほらしくなって去っていった >>409
さんごくしのてつほこやったか(そぼくですまん >>423
たいしてちがわん(ぶんなぐるぶきじゃ(まじれす >>450
ボー武器はなぐるもの(がんりゅーじま(おくしたか武蔵(ぎゃー 久しぶりにコワモテのキャラが出てきたな
もっとやれ、たぶん四宮正貴みたいな顔なんだろう >>467
>帥升<
人名や否や
だいじんしょぐんなどなどみたいなもんかもなー(てきとーっす >>476
おおやまととよあきつしまはだいたいどこもたいほーとーなんたいかいのなかじゃ >>27
>Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか! これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。<
「1〜2例から単位系を帰納」していない。周髀算経や歴代中国史書群や日本の文献などの極めて沢山の里記載から帰納している。
>ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。<
海上距離も陸上距離も近似測定容易。
>新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である<
周髀算経などを知らない人の記録は、論拠にならない。
>江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。<
始めから、全く別の資料での距離計算をしても、全くの無駄で無意味でアホなだけ。
>まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。<
始めから信頼性がないとか「南→東」などの嘘つき騙しをする詐欺師の 比定地は、当然ながら信頼性はない。
>逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で、
三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、
正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。<
三雲では、「皆臨津搜露」が出来ないから、その妄想は×である。
>魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、
空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。<
「皆臨津搜露」出来ないところに伊都国を持ってくる、というインチキをする人間の邪馬壹國論の空虚さを物語っていよう。 >>496
亡くなったんか?(おじーちゃんらなかよくせー(菊 >>499
100−30=70国は魏にもたてついたくなじゃな(まじれす >>500
まじめによんでつかれたダックのコピペか >>585
タイムスリップしたとおもった^^(せんせーまじめやなー(ぜったいおいつかれんわ >>29
>Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。<
有効数字1桁概数記載の範囲内で 、整合性が認められる。
>考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。<
ダメだよ。陳寿の「国間距離記載」の原則は、居住外縁部間の距離記載。
>信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、
倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。<
信頼に足る居住外縁部間の実測や、有効数字1桁概数に基づく限り、
倭人伝記載の里程には、有意な規則性が認められる。
>倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる <
倭人伝の里程には、多数の有意な近似値が含まれることになる。
>郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように、机上で創作ないし強引に調整されたものである、
と考える方に妥当性があろう。<
そんな明確な嘘つき騙しをしたら、同伴者にバレて密告されて、直ぐに首が飛ぶ。
>九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して、
里数に有意な規則性が見出せないことを以て、
里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、
既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。<
白鳥よりも古田さんの方が、頭がよかった。 >>551
九州説の欠陥ってなに?
参考にしたいから是非教えて ん?suboてはんねは犬神先生じゃね
きょーのmとめ(><するーするとこのすれなかみすくなっ! >>29
>箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、
布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。<
箸墓は、3世紀末の那珂八幡よりも新しく、ホケノの「庄内〜布留」よりも新しいんだから、
4世紀初頭以後の築造。 >>593
犬神の話に相手してくれるのは鼻ホジだけなんや 3世紀に鉄器ゼロおまけに住居ゼロ
もう誰も騙されねーからwww >>602
詐欺だという証拠は?
なければ中傷だね 邪馬台国がどこかにあったんだろ
あちこちにあったんじゃなくって、どこかにあった
手がかりは倭人伝にあるし
魏と交流して親魏倭王の金印までもらったんだから
考古学的にもある程度の目星がつく
正しい場所は一つしかないんだから、その一つの説だけが正解で
間違った場所を邪馬台国と主張する他説は詐欺になるのかな? >>603
アホだな
ホケノが3世紀という証拠を出してみろ
www ホケノ山は証拠にならんっしょ
墓に鉄器だらけ
領地に鉄器ゼロ
つーことは、鉄器のある地域の将軍が
鉄器ゼロの地域を征服したってことだからね ホケノは鉄器満載の古墳
その周囲に鉄器ゼロ
ホケノ被葬者はどこから来たでしょうか? 鉄器ゼロの倉庫をわざわざ鉄器を持って侵略するかいな >>615
卑弥呼を共立した国人の中で大和の代表者なら地元首長だろうし
共立政府の要人だったらよそから来た人かも知れない 鉄器ゼロの倉庫に
鉄器を一杯持ってる国から支配者が来るとして
共立政府なんて虫のいい話を受諾してくれるのかな?
交換条件は何? >>619
鉄器ゼロ病
都合の悪いものは見えなくなる >>614
鉄器そのものが、九州から来た証拠でしょ。 筑紫の一強体制の証拠じゃん。
倭国の中心は筑紫しかあり得ない。 宮内庁 陵墓出土の考古資料ネット公開
宮内庁は11月から、天皇陵などから出土した考古資料955点の画像をホームページで公開している。
邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)で出土した埴輪(はにわ)の画像もある。
https://mainichi.jp/articles/20171103/k00/00m/040/053000c 遠くから来たおじさんが
自分一人だけ鉄器を隠し持っていても
何一つ役に立つことはない 初歩的な質問ですいません
畿内説では不彌國の比定地はどこですか? 箸墓は日本最古の前方後円墳などと紹介されるが、
箸墓よりも築造が早いとされる出現期の前方後円墳として
ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、
神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳など多数、あり正確では無い。 箸墓は日本最古の前方後円墳とは紹介されない
聞き間違いだろう 5世紀の堂ノ後古墳を削って作られた
3世紀のホケノ山古墳。 >>30
>Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。<
バカじゃねえか?。
「常識を大きく逸脱した一個の異常値」が何故起きたの起きたのか?の、
それに、反復された計測にばらつきがあった場合には、その分布曲線の最高値や中心値が最も確率が高い、という事も常識ではないか。
それを、思想宗教にクルった「結論先にありき」人種は、確率の低い辺縁値で人々を騙そうとする。
>炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである<
別に「待つ」必要もない。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
得られたデータを分析して、確率の高い実態を推論すべきである。 木製品などは樹脂等の薬剤で含浸処理をする、桃核などは溝や河道や井戸での残存が多い
AMS法は非常に微量試料での測定が可能なので
測定の前処理で完全に付着不純物を除去ができているかが影響する
だから試料は多いほうがいい >>30
>逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)
並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、
揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
・・・これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、
後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。<
ダメだと言っている。
どちらも、プラズマ化をした後の計測値であるから、始めから50年位の「古帰り」データであった可能性があるから、
3世紀末になってしまう。
>一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は、
海産物由来のリザーバー効果で説明できる。<
ダメだ。
「海産物由来のリザーバー効果」以前の問題として、プラズマ化が問題になる。
>一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。<
「資料のせい」だけにしてはいけない。 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >>31
>Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、
円墳と特定する根拠はない。<
これは賛成。「径」は、不定形の長径的な表現である。
>また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。<
箸墓であったとした場合でも、余りにも大きいから、
魏使らは確実に「径」を前方後円墳の長径と捉えてしまう。
>箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。<
一体、何時どこに「jun葬者奴婢百餘人」事になるのかね?。
魏使らは確実に殉葬を実見している。
また、円墳部分だけであっても、「冢=尖り状態」にはなっていない。
また、 >>643
>プラズマ化が問題になる
なっていない >>31
>1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、
時代が降るとともに形骸化している。<
卑弥呼の墓であったとすれば、何年もの年月ではダメ。
魏使らは、確実に殉葬まで実見している。
超音波を使ってでも、殉葬墓を確認すべし。
>方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、
前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、
前方部に盛土がないこと等 <
円墳先行は、常識的。
要は、「後方部」が魏使らの実見中に存在していたのか?の問題。 しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、そろそろ魏志倭人伝を読んでみるべきじゃないだろうか。。。 >>32
>Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。<
梁代においても、出雲が文身國と呼ばれているから、元々、出雲縄文系からの習俗であったんだろう。
>黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期に
この習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、
九州ではない。<
倭人の習俗として記録されているんだから、九州にも当然あった。
>両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、<
出雲系と、筑紫の倭人との混合だから、存在して当たり前。
>このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。<
変な男。
「不利」な事なんて、何にもない。 かなり前に、
いたと思うんだけど
満州白石氏は、
どこに行ったの?
名前の欄「満州白石」となっていた人物 むかーし、この辺りに住んでいた事があるんだよ、
とも言っていた
『日本昔話 姥清水』 >>32
>Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、
学問的でない。<
ダメだ。
紀元前頃から倭人との接触や使節の往来を通しての、客観性や信頼性に非常に高い歴代中国史書群の記録を元にし、
唐滅亡後に唐代記録も元にした確率の非常に高い一級史書だ。
>旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。<
いや、混乱していない。筑紫倭国と、大和日本国とを、違うものだとして、はっきり書き分けられている。
>以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。<
いや「別国」ではなく、「大和は筑紫倭国の別種(附庸では旧小国であった」としている。
>・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。<
則天が、「大和日本国が列島盟主になった」事を承認したから、
その後の唐時代内の記載は、政府の意向に逆らえず「倭=日本」での記載をした。
>・唐会要(倭=日本と認識)より、<
唐会要は、旧唐書と同じ意見であり、しかし、列島使節が「倭国使」を名乗れば倭国伝に記載し、
「日本国使」を名乗れば日本国伝に記載しただけ。 >>32の続き
>旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。<
この男の「旧唐書、唐会要、新唐書」を否定しようとするダマシの過程が、時系列的に認識できること。
>・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。<
何をだまそう、としてんだい?。
大和は、事実、同一倭国内の別種分家の異政権であったんだよ。
>後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、
旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、
他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。<
倭国伝と日本国伝とを書き分けた、という実態には何らの不体裁もない。 >>33
>Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、
庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。<
「南≠東」だから×であるし、
各地では、在地毛人蝦夷や、東征倭国や、半島流民の混在になって、
前方後円墳にいろんなタイプが発生した。
>統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。<
統一政権が大和のみに一元的に発生した、というのは分裂幻覚の妄想である。列島は多元であった。
>遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、
網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には、
各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、
世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、
血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、
首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、
上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。<
列島での「多元」は、現在にも存続しているようである。 >>34
>Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、
古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。<
「ヤマト」の音韻の発生は、「山門」「山戸」「山都」「邪馬門」など、幾つも可能性があるが、
「大和」の文字の発生は、「大倭」であった可能性が非常に高い。 654の書き込みはミス
満州白石氏の話ではなくて、
家の話だよ >>34
>Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。<
大和天皇家一元列島支配の皇国史観、という「結論先にありき」の公的調査報告書の記載など、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の前科がある、一種の・・・・サギ本や偽書の類であり、
「ついうっかりの事実記載」以外には信頼性が全くなく、
学問的な論拠にもならない。
>また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」であるから、魏使らは確実に、
「冢、徑百餘歩」の所で殉葬があった事を実見している。
しかも、祇園山からほんの100m位?の所にも、
同時期の「二体埋葬」を含む集団墓の「祇園山2号墳」もある。
>参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。<
祇園山は、墳裾の62個の複数埋葬を含む陪葬墓が認められ、祇園山2号墳にも同じような集合墓が見られる。
>日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように
殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。<
田舎の旧小国の大和では、参考にもならない。
>以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか
否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。<
祇園山での「墳頂に対しての、墳裾での重複を伴わない整然とした同時期陪葬墓群」は、
殉葬であった事の証拠である。 >>617
どういうこと?
銃器をもってない国は銃器で攻められないの? >>648
要するに「径」と書いてあるから前方後円墳じゃないなんて言えないわけだろ >>662
発掘調査で否定されてることばかり主張してるね >>656
何も論拠を出してないから
無意味に言い張ってるだけだな >>668
キナイセツのことですね。
わかります。 >>670
何の根拠がないの?
意味がわからないな。
スレ主ならコテハンつけろよ。 NHK総合1・東京(NHK総合・東京)
2017/11/03(金) 20:00:00 〜 2017/11/03(金) 20:45:00
歴史秘話ヒストリア「沖ノ島〜日本 はじまりの物語〜」[解][字]
世界遺産「沖ノ島」を特別な許可を得て徹底取材。絶海の孤島に眠っていた宝物8万点はすべて国宝!
古代から続いてきた壮大な祈りとは?大海原に広がる悠久の歴史ロマン!
番組内容
今年、世界遺産に登録された沖ノ島は玄界灘の沖合60キロに浮かぶ絶海の孤島。
見つかった宝物8万点は、すべて国宝に指定されている。古墳時代から500年ものあいだ、
国を挙げての祭しの舞台となった沖ノ島。なぜ、この島は祈りの島となったのか?
今回、番組では特別な許可を得て沖ノ島を撮影。さらに、沖ノ島と深いつながりのある朝鮮半島の王墓など古代遺跡を取材。
大海原を舞台に繰り広げられた悠久の古代ロマンに迫る。 >>672
わからないのは馬鹿だから?
>梁代においても、出雲が文身國と呼ばれているから
↑
根拠ないな
>「不利」な事なんて、何にもない。
↑
九州説の根拠が
また一つ消えたよ
>>35
>Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。<
壹與の265年頃には、当然弥生絹よりも弥生銀座などでの技能が発展している。
>高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、<
九州には、中国絹も発見されていたから、壹與の頃は当然学習している、
>奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、
景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。<
別種分家の大和なら、当然市を通したり、搬入上納で獲得もできる。
>九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。<
中国絹は卑弥呼以前には記録がないから、中国絹は、卑弥呼以後の下賜品であり、
この男らの「年代感覚」に異常がある、と思われる。
>一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、
弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。<
筑紫では、久留米などで「金刺繍」に発展している。 >>35
>九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。<
大和は、殆ど全ての点で、筑紫倭国の後を追って、学習模倣をしている。
>「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、
弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)<
大麻では献上品にない。
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、
当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、
単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。<
布目は3世紀末としていた筈だから、壹與時代にはならない。 >>671-673
全1病じいさん連投好きだな w >>656
>大和は、事実、同一倭国内の別種分家の異政権であったんだよ。
天智と天武でおK >>680
>布目は3世紀末としていた筈だから、壹與時代にはならない。
そんなこと言った?
証拠は? >>679
これも何一つ証拠出してないね
ザラコク思想を演説しても意味がない >>35
>以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。<
大和の技術変革は、殆ど皆、筑紫の壹與時代の後の、
285年の争乱での「槨」部族や楽浪鏡師流民や伽耶の陶質土器などの、3世紀末であり、
壹與が学んだ前方後円墳の伝搬模倣も含めて、
大和説にとっては不利な事実ばかりである。 >>660
笑っちゃうね
反論できなくなって連呼連投してる>>399,401の醜態ったら >>686
なんも証拠のないことを言い張るザラコク藁 >>687
この連投はやっぱり白旗だろうね。
北極星くんが論破されたって証拠。 >>680
>大麻では献上品にない。
九州にない高密度織布が献上品にあるね 畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めている
九州説良識派は九州説の欠陥をきちんと認めている
残党の阿保レス派だけが生きさらばえている >>695-696は典型的な
愚にもつかない書き込みなんだが >>662
祇園山第2号墳墳丘下石蓋土壙墓は4世紀末〜5世紀前半の追葬
伸展位の遺骸の頭が逆位に置かれている追葬は西日本で58例(2〜6体)ある
頭の方向を揃えているものは22例(2〜4体) 粘着大和説くんは気に入らない書き込みにすぐつっかかる癖があるよな >>699
粘着九州説くんは何にでもすぐ突っかかって負ける癖があるよな >>699
粘着九州説じいさんは気に入らない書き込でなくても無駄レス書く癖があるよな 粘着大和説くんは脊髄反射で生きているようだな。
だから誰とも深い理解を共有できないし、ネットでも孤立する。 気に入らないレスを、すべて同一人格に変換する粘着くん、終わってるなwww 大和説は頭でも冷やすんだな、冷やせるなら大和説なんてやってないけどなw 粘着大和説くんは「意見が異なる人は自分をいじめる」という強迫観念をもっているね。
そういう人は従属を強いる人間関係しか築けないから友達がいない。 >>708
ここは畿内説スレだから粘着してるのはアンチ畿内説
強迫観念が強いから粘着しているんだね
粘着アンチ畿内説は自己紹介が非常に多い スレ主です、済州島からきました、畿内説は私のライフワークです。
どうぞよろしくおねがいします 大和説は既得権益のためには人道すら否定する独裁志向だな スレ主です、いつもスレッドに貼りついています、テンプレは私のライフワークです。
どうぞよろしくおねがいします 根拠厨と申します、根拠は?理由は?でお馴染みかと思います
浅学ですがよろしくおねがいします コピペ厨です、畿内説が不利になるとコピペしています、たまに長文コピペしますが
許してください
今後もよろしくおねがいします 粘着厨です、テンプレを論破されると湧きます、他説罵倒が毎日の日課です
バカですが末永くよろしくおねがいいたします >>694
>九州にない高密度織布が献上品にあるね
九州にないという根拠は? いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>725
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>649
魏志倭人伝に邪馬台国が、朝鮮半島の南にあったことが明記されているからじゃないのかな、、、 邪馬台国は南だからその時点で畿内説は外れてる。邪馬台国畿内説は日本の歴史学を止めている。 恥ずかしいテンプレがボコボコにされた結果、スレ主が泣いて寝込んでしまった >>36
>A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、<
その「動乱」とは、魏と倭のどちらでの動乱のつもりなんかね?。
魏では半ば動乱状態であったが、倭で動乱があったんなら、倭人伝が記載しない筈がない。
>卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、
寿陵ではないと判断できることと、
卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。 <
ならんよ。
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死・・・」は、
「拜假難升米爲檄告喩之」だから卑弥呼に詔書を渡しておらず、
卑弥呼が体調が悪くなっていた事を示す事になり、
「以」であるから、「卑弥呼が亡くなって事を以って」という事を意図する事になり、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」も、死後に直ぐに起きた事を示す事になる。
晋書は、はるか後代の唐代の書だから、「宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見」のように、
ある程度曖昧な記載をしたりしており、著者の個人的な後代解釈のある半分×書的部分があり、
「其後貢聘不絶、及文帝作相、又數至」という連続文であった可能性もある。
>以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。<
布留0古相は、始めから3世紀末以後だから、×だから >>36
>なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、
通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、
地の文である本例では意味がないため 倭人伝の当該記事の記述順序を
時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。<
これは賛成。
>このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が
直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と
時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、
併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。<
何を言ってんの?。自分から、
「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年」と言ったんではないか。
だから、壹與の初遣使は、「景元4(263)年」以後になるんだよ。
>「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、
「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。<
賛成。何故そのような記載が必要であったのか?を考えながら読みましょうね。
>なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが、明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、<
国交や情報がなかったから。
>張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。<
倭国の国内事情と、魏内の問題は、殆ど関係がない可能性の方が高い。 >>37
>Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。<
大和説は、「南≠東」に拠って、始めから×。
>考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、
及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や
玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、
瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、
整合性の上で有力視されよう。<
始めから「南≠東」であり、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」であったのであり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であるから、吉備瀬戸内も×。
>もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、
強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。<
瀬戸内から近畿は、出雲銅鐸系諸国に倭国の東征で、倭国の支配下になり、
そこへ、半島流民系の流入混在が怒っただけ。 >>737
成程。出雲銅鐸系諸国は半島流民系の流入混在だったか。納得した。有り難う。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆q8leUXpswによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙すことが、発症のトリガーになると考えられている。
>>1◆q8leUXpswが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 そもそも大和には移配俘囚が存在しない。
ならば大和の俘囚は7世紀以前から存在したということだ。
また葛城には土蜘蛛と思われる国栖(くず、くにす)に関わる地名の被差別郷もある。
弥生時代に俘囚郷があり王権があったのは葛城だ。
帥升ことスサノオは葛城にいた。
今も日本最古の高鴨神社に祀られている。
その後、王権は移動していない。
魏志の2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで王権は葛城にあった。
邪馬台国とは葛城だ。
ヒミコとはヒメである。
後にヒメ踏鞴五十鈴媛と表記される人物である。 地名を持ち出すなら奈良湖についても述べるのがスジってもんだ。 もう学問的には畿内で決着ついてるというのに
ご苦労なこったな >>750
事実だからあえて言う必要もないということか >>752
まともな学者なら九州説の相手しないって事だろ
口惜しいのう もう畿内の考古学者は畿内説などから撤退して
纒向学という地元のまっとうな考古学に
転身してるよ。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 放射性炭素とか年輪年代に執拗に文句付けてるのって
九州説を掲げてる人ばかりなんだよねぇ
海外だとキリスト教の原理主義者がそんな感じなんだが
結局九州説も宗教なのだろうな 鉛同位体比とか志賀島出土金印に執拗に文句付けてるのって
畿内説を掲げてる人ばかりなんだよねぇ
海外だとキリスト教の原理主義者がそんな感じなんだが
結局畿内説も宗教なのだろうな 畿内説良識派はテンプレの敗北をきちんと認めている
九州説良識派は九州説の欠陥をきちんと認めている
残党の悪口派だけが生きさらばえている >>754
2013年以来特に増えてしまったね。。。 761日本@名無史さん2017/11/03(金) 21:09:05.99
統一教会は畿内説
765日本@名無史さん2017/11/03(金) 21:14:15.98
解放同盟は畿内説
767日本@名無史さん2017/11/03(金) 21:17:49.95
朝鮮総連も畿内説
769日本@名無史さん2017/11/03(金) 21:21:30.72
犯罪者は畿内説
☝
止めた方が身のためです
たぶん>>1でしょう >>746
畿内のどこだというのかな?
随分と大まかだね。
葛城? >>773
そういうことか、汚い手を使うんだな。
畿内説は。 沖の島に言及していた古代研究家が、朝鮮半島と近畿地方の関係性を強調していたね。。。。
このスレッドとは、なにか関係性があるのかな、、、、 >>37
>当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和
というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。<
「自昔…東征毛人五十五國」に拠る筑紫への搬入上納。
>優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、
吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。<
モンゴル〜高句麗の前方後円墳部族や、「槨」部族や、楽浪人や、伽耶の陶質土器部族の渡来。
>弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、
中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と<
大和色には染まっていない。東瀬戸内からの搬入上納の一方通行と定住があっただけ。
>足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。<
弥生銀座は、中心が久留米付近に移っただけ。
>これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、
博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。<
東瀬戸内は、「南≠東」で×であり、「倭種」でしかない。 >>38
>Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。<
真の理由は、記紀は倭国の存在や歴史を抹殺盗用した半分偽書だから。 >>38
>Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国<
真の理由は、「南≠東」とするのであるから、
「東」は「東→北」としなければならなくなってしまって、
若狭湾から沿海州に行く事になってしまうから。 >>777
その話はタイムリーだね。。。
だって、あの話題の容疑者と同じ名前なのだからね。。。
このスレッドでも登場しているね、
八女のことも紹介されていたね。。。 >>777
筑紫倭國は新羅、畿内ヤマトは百済ということですね もしも、八女がさっき読んだ魏志倭人の日本語訳通りなら邪馬台国は熊本市内だね、、、 京の近くの宇治でお茶を生産したのは京の人が飲む為でしょう
八女でお茶が生産されてるのは近くに都があったからじゃないの? 僕たちも、そろそろ、古代研究家の称号を手に入れたようだね。
だって、延べ何百時間も、歴史ヒストリアをみたもの、、、 なぜ八女はヤマなのに熊本はヤマタイなのだろうか、、、 歴史秘話ヒストリア
ヤマト王権&宗像&百済 vs 磐井&新羅
という関係で解説してたな ツイッター見てると国宝展の金印が卑弥呼が貰った金印だと勘違いしてる人いる
激レアだからぜひ見たいと
一般人の認識なんてそんなもんだろう >>796
ヤマト王権というか継体だろ
継体、物部、大伴、宗像、百済
vs磐井、新羅 >>785
そりゃ一千年も都だったからね。
その前は奈良だろ。
でも、邪馬台国はそれよりさらに五百年前の話だよ。
その頃は中国と交流するほど開けていたのは九州北部だけ。 >>796
>ヤマト王権&宗像&百済 vs 磐井&新羅
その中で宗像だけは天孫降臨の頃からの勢力だから、格段に古い。
弥生時代の邪馬台国の頃に勢力となりえたのは、九州北部だけ。 八女茶は応永13年(1406年)に霊厳寺を創建した周瑞禅師が明から持ち帰ったのが始まり
本堂近くに『八女茶発祥の地』の碑と周瑞禅師の像が置かれている 沖ノ島祭祀は4世紀後半からの国家祭祀
天孫降臨は8世紀初に律令制施行のとき作ったお話 >>39
>Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ! 伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、<
ダメだ。
21個の「尚方作」鏡があった限り、明帝の下賜鏡が元になった事は確実であり、
卑弥呼か壹與の墓にしかならない。
>より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、
弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)<
土器が殆ど出土しない、という事は、土器は大事な副葬品ではなかった、という事であり、
時期判定の目安にはならない、という事だ。
>原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。<
伊都国は、邪馬壹國の弥生銀座の一翼、という存在だ。
>副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば
一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。<
「一世紀ほども前に入手された輸入青銅器」に、21個もの「尚方作」鏡が存在する筈がない。 平原から土器があまり出ないのは墓の表面が削られてるからだろ 本居宣長なら名前の似ている帥升がスサノオではないかと仮定してみたでしょう。
ならば卑弥呼も邪馬台国も1分で解けたはず。
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭國王・帥升 スサノオ
ところがこれは言えません。
日本の歴史が最高神スサノオの中華皇帝への土下座から始まることになりますから。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
だから「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱しました。
つまり世論誘導です。
新井白石が大和から九州に変えたのも同じ理由でしょう。
たった1分で済んでた話を本居や新井の世論誘導により300年も論争してきたという事になります。
というわけで新井白石や本居宣長が仕掛けた九州説という「ごきぶりホイホイ」に捕まって身動きできない九州説の皆さん、こんにちは!
皆さんの中には羽を広げてアピールしてるゴキブリ(九州王朝説)もいますね、こんにちは! >>39
>当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、
舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。<
鏡片は、筑紫付近に非常に多く出土し、半島南岸や大中遺跡などにも出土し、
卑弥呼の祇園山の墳裾の「殉葬の甕棺の成人女性」にも下賜されており、
卑弥呼の下賜品の根拠だ。
>国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、
それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、<
銅などの原料分析では、産地などの推定は出来ても、時期の特定は出来ない筈だよ。
>平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。<
そもそも、平原の大半が仿製鏡だ、と断定?した根拠は、何だったんだい?。
>それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、
原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、
荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)<
そんな事は、「尚方作」であっても起こり得る事だし、
仿製鏡が銅鐸が材料になった可能性も、何度も言って来た事だ。 >そもそも、平原の大半が仿製鏡だ、と断定?した根拠は、何だったんだい?。
形状や文字列が後漢期の漢鏡に比べて不揃いだから。
しかし、董卓による洛陽破壊(191)によって壊滅した洛陽に、
曹丕が数十年ぶりに都を戻したのが220年。
魏で久しぶりに製作を再開した方格規矩四神鏡は
「漢鏡に比べて不出来」であることが判明しており、
つまり平原の大半の不出来な方格規矩四神鏡はまさしく魏鏡。 穿孔された鏡片の破断面は1辺だけ丁寧に研磨したりしてるから
道具として使ってたんじゃないの >そもそも、平原の大半が仿製鏡だ、と断定?した根拠は、何だったんだい?。
加古川のドロボウ正当主義者は何も読んでない いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。 >後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに、
所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、<
それなら、「漢鏡4期及び5期」での「尚方作方格規矩鏡」の大量例や、
それらが筑紫に齎された、という事の証拠を出せよ。
>かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。<
明帝の下賜鏡であれば、倭国王家のお宝であり、筑紫以外への拡散は殆ど起きない。
>後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、
また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、
大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、
という様相を呈していると見ることができるであろう。 <
伊都地域は竹斯國時代まで繁栄していたようで、
「退潮」も「絶域」も「経済的基盤も喪失」もない。
ただ、松野氏姫氏系図では、卑弥呼の後継は書かれているが、壹與の後継は書かれていないから、
壹與の子孫は倭国王にはなっていなかったらしい。 新羅は出雲が作り百済は畿内ヤマトが作った
唐、新羅、出雲、筑紫倭國VS隋、百済、畿内ヤマト(隋というのは藤原氏のことである >>809
トンデモさん、こんにちは!
部落の天気はどうですか >新羅は出雲が作り
考古学的根拠は?
日本式銅鐸は新羅に伝播したの?
四隅突出は新羅に伝播したの?
>百済は畿内ヤマトが作った
考古学的根拠は?
三角縁神獣鏡は百済に伝播したの?
前方後円墳は百済に伝播したの?
根拠が無ければただの電波でしょ >>40
>A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、
墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。<
出雲記紀風土記伝承や梁書などでは、出雲(文身國)と越(大漢國)とは対立の繰り返しであったようだ。
>しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、
墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、
葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。<
大国主少彦名時代に西日本の盟主的であったが、
その後、国譲りや倭国の東征や、新たな墓制部族の渡来などで、縮小分裂気味になった。
>以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として
統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から
草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。<
衰退して?も、梁代まで残っている。
>それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、
独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。<
ヤマトは関係がない。筑紫倭国の東征でも残っていた、という事である。
>>820
国引き神話知らんのか
銅鐸の起源は越であり、北陸や半島にも移住した
百済の前方後円墳は畿内ヤマトから伝播した
三角縁は呉の職人さんが畿内で大量に作った >>40
>国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ<
いや、筑紫倭国系天孫族に国を譲った。
>同盟関係であった地方政権(※)が、<
別に同盟関係でもない。
>5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、
という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。<
出雲系銅鐸部族を殺戮して建国した神武らの大和とは、独立的であったんだろう。
>弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、
記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。<
筑紫倭国の存在や歴史を抹殺盗用した嘘吐きダマシの記紀は、
ついうっかりなどの記載以外は、
出雲を過小評価した記載を採用する事は、非現実的である
>同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
国譲り後も、出雲は梁代まで独立的であった。
>※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が
四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。<
神原神社は当然、筑紫にやって来た呉系楽浪鏡師らが、筑紫で明帝の銅鏡100枚で諦めて、地方へ売り込みに行った、
と評価出来る。 いまどき九州説とか信じてる人の知的水準が低いのは仕方ないけどな
反論って何をすることなのか、くらい知ってないと
恥ずかしいだろう
社会人としてさ TVの影響でコロっと畿内説になる人ほど考古学に向いていない >>828
さんざん過去スレで提出済み
それを無視している一方的なQAは意味なし >西岩野遺跡
>弥生後期の神殿か 大型掘立柱建物跡を発掘
邪馬台国越説浮上 景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土したのは島根県雲南市加茂町の神原神社古墳
すぐ北の加茂町岩倉の加茂岩倉遺跡から39口の銅鐸が出土
そのすぐ西の出雲市斐川町神庭の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6口、銅矛16本が出土
西新町遺跡では、山陰系の土器は各器種が存在する(西新町以外では壺・器台などの選択的受容)で
土器工人の山陰からの移動と恒常的な交流が想定でき、山陰系工人が布留系甕の製作に関与したと考えられる
玉作りは博多にTA期にあるが、TB〜UA期以降は潤地頭給に集中する(久住)
投馬國五萬餘戸は出雲だろう 博多湾岸は新羅、投馬国は百済(宮崎に百済王の伝説がありますね >>831
そんなもの実在するの?
具体的に指摘できなきゃ>>831は嘘つきで確定するよ
w
w >>841
たぶん >>1 は承知のうえで書いてるよ >>841
じゃあ1つだけ
平原の溝でみつかった土器はどこにあるの? 日本の古代史は常に新羅と百済の代理戦争
そもそも支配階級は韓人で原住民の倭人と言葉も違ってただろう
倭人語は抽象概念に乏しく貧困農民の日常生活レベルにしか対応していないし、政治家階級が倭人語なんて使っていた訳ないだろうよ 平原の頃は殉葬だよ。
後に、残酷だから埴輪に変えたんだ。
平原には約100名の殉葬の痕跡があり、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の描写そのものだ。 倭国の支配階級が韓人と同じ言語なら倭人伝に書かれるよ 平原はみかんを作るのにじゃまな墳丘も削られたんだよ >柏崎市は1日、同市山本の「西岩野遺跡」から弥生時代後期(2〜3世紀前半)に
>建てられたとみられる大型の掘立柱(ほったてばしら)建物跡が見つかったと発表した。
>同様の遺構は滋賀県の琵琶湖周辺を中心に多数確認されているものの、
>県内での発見は初めて。国内で最北となり、専門家は西日本の文化の影響を
>示す貴重な事例だとしている。
伊勢遺跡が祭祀の中心だったことは間違いない >>816
>>かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
>いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。<
>
>明帝の下賜鏡であれば、倭国王家のお宝であり、筑紫以外への拡散は殆ど起きない。
ザラコク氏の指摘はもっともなものが多く、スレ主の言いがかりの質の低さが際立っている。
そして、畿内説は誰もザラコク氏にまともに反論できていない。 >>816
>ただ、松野氏姫氏系図では、卑弥呼の後継は書かれているが、壹與の後継は書かれていないから、
>壹與の子孫は倭国王にはなっていなかったらしい。
年代的に筑紫の女王であった神夏磯姫や田油津姫がいる。
筑紫を治めていた彼らが卑弥呼や壹與の後継だろう。 >>850
畿内説にもうまともに議論できるレベルの論客はいない
煽ってところで根拠厨が出てくるだけ >>833
>>西岩野遺跡
>>弥生後期の神殿か 大型掘立柱建物跡を発掘
>
>邪馬台国越説浮上
筑紫を中心とした倭国は日本海沿岸に勢力を拡大していた。
越、近江などにこのような倭国の建物が多く発掘されるのは、そのためである。 >>837
>投馬国は宮崎県南部、鹿児島
投馬国は宮崎県西都市にある日向国総社、都萬神社を中心とする地域である。 >>842
8世紀には百済は滅亡しているだろ。
イミフ まあ床面積が40.5平方メートルだから
池上曽根よりもかなり小さめだけどな >>843
>>>841
>たぶん >>1 は承知のうえで書いてるよ
そうだね。
その上で、>>841みたいなことを匿名で書き込んでいるんだろうね。
彼は愉快犯だよ。
邪馬台国に乗っかって楽しんでいるだけ。
詐欺師の論調で書き込みをして、畿内説に引っかかる人間が出るのを楽しんでいるだけ。
本当は畿内説なんか信じてはいない。
今のところ、彼の論調があまりにも妄想チックなので、誰も引っかからないみたいだけど。 >>849
>伊勢遺跡が祭祀の中心だったことは間違いない
伊勢遺跡には、それをまとめる王のような者がいた痕跡がない。
王は遠く離れた筑紫に居て、伊勢遺跡は地方議会のようなものだったのだろう。 >>857
660年に滅亡してるのに神門神社縁起では天平勝宝八歳(756年)だから
怪しまれてるんだろ >>852
そして、根拠厨とはスレ主の匿名の書き込みだろう? >>803
出雲の伝承では、宗像家は出雲帝国の西王家、神門臣家から分家独立したタカアタス命が初代で
宇佐の地に都したと言います。
近畿の葛城に初めて?移住して分家独立なさったのは
世代でいうとカタアタス命らから三〜四世代後。
出雲帝国の東王家の富家/向家の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主)の御子、天日方奇日方命らが母親の生玉依媛命の実家の摂津の三島(高槻市辺り)に母子共々に移り、
後に葛城に出雲人や三島からの人らを連れて移住して
登美家(富家)を号して盤拠したのが端緒のようです。
妹君には媛踏鞴五十鈴姫命 と五十鈴依媛命がいたと言います。
少し後に、その葛城の登美家を頼り出雲から西王家の神門臣家の多岐津彦(父は高彦/味耜高彦根命)らが葛城の南部に移住してきて
高賀茂家を号して分家独立。
葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)
遡って、宗像家初代のカタアタス命には三人の女御が座して、
長女の多岐理媛命は出雲の東王家、富家の天の冬衣命(第7代オオナモチ(帝王))に嫁ぎ
八重波津身命他を生みます。
また、次女の多岐津媛命/神屋楯媛命/高津媛命は出雲の本家、西王家の神門臣家の八千戈命(第8代オオナモチ)に嫁ぎ(いとこ同士の結婚)
高彦(味耜高彦根)ほかを生みます
八千戈と八重波津身の治世の御代に秦人がやってきて出雲帝国をかき回して乗っ取りを謀り、お二方はほぼ同時期に賊のてにより殺害されてします。
この渡来人等との共住を忌避して出雲人が領有した各地に移住した中の一つが上の近畿の葛城(大和)地方。
時代は紀元前3世紀終わり〜同2世紀頃、中国の秦末から前漢の半ば頃に比定出来るカモです?
ただ、伝承の言うところの世代数と時代にかなり開きがある事が、、、?? >>815
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>863
興味深い。
福岡の西王家、出雲の東王家があり、どちらも渡来した秦人により引っかき回されたと。
その秦人が天孫族なら、話がいろいろ辻褄があう。
そして、畿内のカモ族は東西両方の出雲の国津神の末裔であった。
筑紫においては邇邇芸が、畿内においては饒速日が、天津神として国津神の上に君臨していたのだろう。
その意味では、畿内は混乱を避けてやってきた国津神と天津神が同居しており、倭国の中では中枢(出雲と筑紫)を離れたていのいい植民地であったのだろう。 >>844
あーったくコミュ障はこれだから(笑
証拠はどこにあるって聞かれたら
どこにあるって答えなきゃ会話になんないだろ
質問に質問返すな >>866
ヒントを与えてもらっても、確認する努力をしなければ、豚に真珠だ >>866
調べても分からなかったんだろw
なにしろ見つかったという土器は公表されてないんだからな、びっくりだ >>863
二度渡来した秦人某氏がホアカリでニギハヤヒ(ニギハヤヒを隠蔽するためニニギを捻り出した)。また、スサノオで、、、。
その孫世代には初回渡来した時に出雲王家の媛命との間に設けた長男の家から大和葛城に進出して初代の大王と成った天村雲命(1人目の神武)が現れ大和葛城の鴨族らの神輿に乗って大倭国(丹波葛城連合王国)が成立。
大王家の后には葛城の鴨族、とりわけ登美王家から入台する習わし(取り決め)だったようです。
初代の大王后には、葛城の登美王家より三輪山の初代祭主で有った媛踏鞴五十鈴姫が入台
その大王宮殿は笛吹の地に有ったと言います。
時代は中国の前漢の武帝の頃(前漢の全盛期)になりますか? >>870
土器があったという話も、周溝に落ちていたとのことなので、出土とは言えないかもね。
平原遺跡には資料となりうる土器はなかったということだよ。
日常生活品が一切なく、ひたすら宝飾品と三種の神器で埋め尽くされ、100人の殉葬で囲まれた女王墓が平原遺跡だ。 俺は2世紀末〜3世紀前半の時代の大和に鉄はあったと思うよ。
そりゃ土を耕すのには便利だからね、導入しないわけはない。
しかし出てないというのは出方に問題があると思う。
ホケノ山古墳や椿井大塚山古墳のように石室の中で保護された鉄具として出て来るわけだから、
鉄具を埋葬する習慣を持った集団、この場合は纏向古墳群を造った瀬戸内集団だと思うが、
彼らが2世紀の大和にはいなかった、
これが理由であろう。 >>871
その頃は入内(漢字を間違えているよ)の風習はない。
国津神は女系相続、天津神は男系相続だったので、妻問婚で出来た子供を両家の跡取りと認めることができて、都合が良かったのだよ。 >>873
ホケノも3世紀後半以降だろうね。
少なくとも3世紀前半まで、まともに使える鉄はなかった。
支配者層が宝物のように九州北部から抱えてきたものがわずかにあった程度だろう。 >>878
柳田が知らない?w 久住も知ってるのにか >>863
宗像といえば三女神を最初に思い浮かべるが、どのような位置付けになるのか。
ご教授いただきたい。
個人的には三女神は天孫降臨による伊都国建国と同時期なので、1世紀と考えているのだが、どうだろう。 >>881
柳田が公表されてないって論文に書いてるだろ
で、どこに公表資料はあるの? >>883
>柳田が公表されてないって論文に書いてるだろ
どの論文に?
糸島市教委じゃね >>884
これだろ
「周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」「九州弥生文化の研究(2002)」 >>884
「じゃね」っていうのは、知らないのに言い張ってるだけなわけだねw >>886
どこで保管してるか知る必要はないだろw >>885
そこだけじゃなくて前後の文を引用してみて 公表されてないっていうのはスペックも何も分からないということ
こんなの根拠にできるわけがない >>890
はいはい、前後の文だよー、前だけだけどなー
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。瑪瑙や琥珀の玉類
は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化さ
れ、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下
がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が
出土しているが公表されていない。」 >>892
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、」だから
公表してないのは原田だろ 確実なのは鏡の編年だろ。
それで言えば、平原遺跡は3世紀前半以降ということだ。
卑弥呼の治世ドンピシャだね。 >>892
それ柳田が2000年の調査報告書の前に書いた論文だろ >>898
調査する前により詳しい論文が書けるわけなかろ
いいかげんな事は言うなよ >>899
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178) >>900
正式な調査報告書を最後にまとめたんだろ。 >>899
柳田だろ
岡本編年に噛みついてるわけだ 一世紀中頃に大陸に使者を出せてるのに
大して距離も無い他の地域との交流や
技術力を不当に低く見積もってるから
劇的な何かが立て続けに起こらないと
時代が繋がらないような理論になるんだよ九州説 >>904
あのさ、柳田は平原の築造年代は200年頃だからw >>905
いやいや、漢委奴国王印をもらった三雲南小路の王から一貫して伊都国が倭国の王都だよ。
ちゃんと日本海ルートで関東までの交易も視野に入れているよ。 >>906
>>892
>鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
3世紀前半を勝手に200年と読み替えているだけだろ。
これだから畿内説は油断ならない。 >>908
倭国の都である伊都国の当時の表記だよ。
なにしろ考古学的には、1世紀はすでに福岡奴国ではなく、糸島伊都国の時代だからね。 >>907
倭王武の上表文中にある「渡りて海北を平らぐること、九十五国」の比定地は? 卑弥呼がなくなった247ないし248年は、まさに3世紀前半に含まれる。
畿内説は頭が悪いから知らないようなので、教えてやろう。 >>911
朝鮮半島だな。
畿内だと日本海しかないから破綻する。 >>906
こっちも貼っとこ
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 九州弥生文化の研究学生社(2002/03発売)
目次
序論 伊都国研究序説
第1部 北九州の対外交渉と年代(伊都国の対外交渉のはじまり;二世紀の北部九州)
第2部 土器と鏡と青銅器(三・四世紀の土器と鏡;青銅製鋤先;青銅器の創作と終焉)
第3部 弥生後期土器と土師器(弥生後期土器編年;九州土師器の編年)
伊都国を掘る 柳田
私も当初は「三・四世紀の土器と鏡」という論文で、
周溝から古式土師器と共存する土器(西新式土器)が出土していることから
古墳前期としたことがある。
ところが出土品や図面が整理されていくなかで、
この土器は周溝が埋没した後に掘り込まれた土壙墓に伴なうことが判明してからは、
「平原墳墓の意味」や「平原王墓の性格」などの論考で、鏡を初めとした副葬品の比較検討から
導いた弥生時代終末説を貫いている。
今回の出土銅鏡の研究から、平原王墓の年代が後漢末に対応する紀元二〇〇年頃であること
が認められるとすれば、卑弥呼の墓である根拠は当然のことながら否定されるし、〜
柳田は2000年の調査の前は古墳前期、調査後は200年頃 >>868
結論
具体的に指摘できなかったので>>831は嘘つきで確定した
w
w >>909
こういう嘘が平気で書けるから
九州説は信用を失った このスレでまともな議論が続かないのは >>921 みたいなクズが巣くってるせいだよな >>892
>・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
>(糸島地域p178)
>・・・・鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
それ、出版は2002年だけど
柳田が1982年に書いた論文の再録部分だから。
>>922
あら?
クズって平気でウソつく>>920のことじゃないの? >>914
柳田氏の最新の認識が書かれているようだね >>922
罵るだけでになると議論が続かなくなる
このスレでまともな議論が続かないのは >>920 みたいな
議論の放棄をする輩のせいだろう >>923
再録だけど不都合部分は見直してるでしょ
いずれにせよ柳田の最新認識は >>914 だ >>927
製造技術が164年〜235年のものなんだから
平原1号が紀元200年頃であるという柳田の結論には変更がないってことね >>923
>それ、出版は2002年だけど
>柳田が1982年に書いた論文の再録部分だから。
また畿内説は嘘をついていたのか! >>934
常識的に言えば、証拠を出せない奴がカスだろう >>936
よろ精緻に根拠付きで年代を絞り込んでいるんだから進歩だな >>914
>>916
やはり、畿内説は2013年に破綻していたね。。
だが、なぜ熊本の女王卑弥呼が福岡に埋葬されたのだろうか、、、 柳田の意見
1982年に書いた論文
「周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない」
だから2000年の調査の前は古墳前期
再調査で確認した
だから調査後は200年
時系列で明らかのに 九州説はどうしてこうあっさりバレる嘘つくんだろうな いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>949
君はまだ魏志倭人伝をよんでいないのかな、、、
女王が死んだときは魏の公務員が日本にきていたようだよ。。
それが、関係あるんじゃないのかな、 2016年現在で柳田が
はっきり
平原巫女王墓は「二世紀に所属する墳墓」と言ってるのに
伊都厨はなにを抵抗してるんだ? ちなみに考古学の世界において「公表されてない」ってのは、
報告書が出てない、あるいは報告書に記述や図面がないってことな
研究者だったら未公表でも見せてもらえることはある 柳田が1982年に書いた論文を調査後の2002年の見解に見せかけるってモロ詐欺じゃね? >>41
>文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は 従前より既に列島各地に波及していることから、
その淵源が北部九州であっても、畿内に対して影響力を有したとは評価できない。<
鏡祭祀の中心は筑紫であったんだから、大和もそれの伝搬模倣にしかならない。
>また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、
伊都国の影響ではない。<
そりゃ、大和が鏡造り神社で大量の三角縁を造れるようになった4世紀以降であったからだ。
>吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、<
当然「有槨」部族などが、筑紫を避けて渡来して来たから。
>精製三器種による祭祀は 畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。<
既に何度も指摘したように、土器編年が「同一土器が近畿は筑紫よりも50年位遅れている」
という事を考慮しない、というアホな結果だろうな。
>なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)
仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。<
伊都国と邪馬壹國とは、同じ共立中心であったのであり、伊都国は弥生銀座の一角にある存在だよ。
>那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。<
那珂川流域は、安徳台もあり、弥生銀座の一角であり、奴國ではないよ。
>伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。<
阿毎氏の伊都国は、白村江前まで、倭国の支配体制の王家の一員として存続していた。 >>960
偽情報まで流して暴かれて
ボロ負けしといいて白々しい >>964
偽情報?なんのこと?
>>914で勝負は決したはずだよ。 >>963
ザラコクがまたテンプレに何か反論してるようなポーズだけとってるが
実はなにも反論してない >>967
お前が負けたんだろ?
九州説は醜いなー >>965
かつての論文をまとめて本を出すことくらい普通にあることなのでは? >>969
いや何も説明されてないだろ、
いまのところ最新情報は >>914 だけだ >>973
悪口はイイから、証拠出しなよ?負け犬さん 164年〜235年である。ゆえに3世紀前半である
は 偽
常識 >>975
ふざけて読みにくくするのはやめなよ
議論する気があれば、だけど。 >>974
>・・・・鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
は柳田が1982年に書いた論文
ゆえに2000年の調査以降の柳田の見解を否定売る材料にするのは不可
残念でした 164年〜235年の製造技術で造られた銅鏡が出てくる弥生時代最も豪華な女王墓
柳田は卑弥呼の母親というw
誰じゃそれw 倭国大乱
◎吉備が少しずつ瀬戸内海の支配を進める。
2世紀末までに播磨、淡路島と吉備に落とされていく。
◎九州南東部の投馬国。吉備などの西瀬戸内海の海人と手を組み、九州北部を征圧。
伊都国に一大卒、苅田にも拠点を構える。
◎伊勢尾張の勢力
打倒畿内のクナを目指し、西征。
甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。
大きく分けて、この3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。
出雲は古墳時代まで静穏じゃないかな。
独自の墓制保っているし。 >>980
決定的な反論があったので>>914の負けね 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >>980
2016年現在で柳田が平原巫女王墓を「二世紀に所属する墳墓」と言ってる
ので>>914の負け >>975
>164年〜235年である。
卑弥呼の治世に造られたんだな。
わかりやすい。 >>986
「164年〜235年である。ゆえに3世紀前半である」は、偽
>>975に明記されている 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していた。 >>42
>A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。<
纏向には、「戦争や武具」の発掘はなく、
単に「筑紫の東征支配の結果出来た大倭職の市」の祭祀地、という状態だ。
>ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、<
高塚の嚆矢は祇園山だ。
>畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。<
箸墓は、那珂八幡の伝搬模倣だ。
>古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた
2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、<
ダメだ。
「天円地方」思想の前方後円墳は、モンゴル高句麗付近から筑紫に伝来し、東瀬戸内に波及していったものだ。
>箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。<
倭国の東征のお手伝いで、大量の毛人蝦夷や銅鐸民を獲得して、墓守り人に出来て、
「市」での儲けて、半島渡来の技術者の助けを借りて、
獲得した毛人蝦夷や銅鐸民を「威圧」するために、巨大墓を造った。
>ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなく
この地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。<
筑紫倭国の庇護の下にあったから。 >>993
それは、>>975 が言ったんだろw
あと誰が言ってんの? 柳田は、間接的に平原遺跡の主が卑弥呼だと言っているんだよ。 >>968
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