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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part10
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0001九州王
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2017/12/09(土) 18:34:02.44
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1509714142/
0002日本@名無史さん
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2017/12/09(土) 18:35:29.59
世有王

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが適当。
0003九州王
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2017/12/09(土) 18:37:10.14
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
0004九州王
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2017/12/09(土) 18:38:34.38
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。

女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
0005日本@名無史さん
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2017/12/09(土) 18:51:47.57
奴国までの行程を合計すると12000里となり女王国までの12000里と同じであるので奴国が女王国の中心国邑である
(古田氏の説に基づき對馬國の方可四百餘里と一大國の方可三百里を距離とし従来の説に1400里加える)
女王国までが12000里と書いてあるので各行程距離を合計したものが12000里に達しない読み方は誤読である
奴国までで女王国に着いているので里数での行程の説明は不弥国で終了する
次の日数の行程は里数の行程と同じ行程を時間で再度説明したもので
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になっていたのである
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記だと判明する。
0006九州王
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2017/12/09(土) 18:52:53.58
「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。
0007九州王
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2017/12/09(土) 19:09:26.64
福岡市の仲島遺跡から、割れていない状態で発掘された銅鏡(同市提供)
http://www.sankei.com/images/news/171209/wst1712090051-p1.jpg

 福岡市博多区の仲島遺跡で、2世紀前半(弥生時代後期)に中国・後漢で製作されたとみられる銅鏡が完全な形で見つかった。市によると、弥生後期の銅鏡が割れていない状態で発掘されるのは珍しく、福岡平野では初めてという。

 銅鏡は直径11・3センチで「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれるタイプ。コウモリのような文様に、子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の4文字が施されている。さびもなく、鏡面に物がかすかに映るほど状態が良かった。

 中国の歴史書「後漢書」には、107年に倭国(日本)が奴隷を献上したとの記述があり、市は銅鏡と時期が重なることから「大陸との交流を考える上で貴重な資料だ」としている。

 今年4月、弥生時代後期の土器と一緒に捨てられたような状態で出土した。

 出土した銅鏡は12日から来年4月1日まで福岡市博物館(同市)で展示される。

産経WEST 2017.12.9 14:54
http://www.sankei.com/west/news/171209/wst1712090051-n1.html
西日本新聞 2017年12月09日 07時46分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/379077
0009日本@名無史さん
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2017/12/09(土) 20:31:13.77
蝙蝠は捨てられるほどの価値しかなかったんですね。
しかも完全形で捨てて、どこかの誰かが拾っても問題ない。

なぜなら
四葉のが既に超大型まで国産発展していたから。

四葉のを誰かが拾うと権威があるから悪用される。
だから破鏡にしておかなくてはいけない。

ますます平原女王墓が卑弥呼墓ですね。
0011日本@名無史さん
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2017/12/09(土) 22:36:37.23
>高祖宮の祭神は彦火火出見だが、これは個人の名前ではない。
>その孫の神武天皇の諡にも彦火火出見の名が含まれている。
>つまり彦火火出見とは伊都の日向王家(天孫族)の称号である。
>伊都の高祖宮は日向峠があるクジフル山の麓にある。
>これこそ筑紫の日向のクジフル岳にある高千穂宮そのものだろう。

いい着眼点ですね。

じつは、ニニギよりもホオリのほうが
広範囲に分布しているんですよね。

鎌倉室町江戸幕府に言えることですが、
創始者よりも、二代三代のほうが、国が栄えて讃えられやすい。

だから、ホオリの分布域が、日向三代の絶頂期なのかもしれませんね。
0012日本@名無史さん
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2017/12/10(日) 01:37:59.54
右手には破邪の鉄剣

左手には太陽の巴型銅器付き盾

背には鉄鏃骨鏃の矢と弓

いざ!征かん!
0013日本@名無史さん
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2017/12/10(日) 09:38:53.89
九州の古代首長は出てくる首長の半分くらいが女性首長で、
なるほど卑弥呼や台与の地元なのだろうと思わせるが、
九州外の地域ではどうなの?
女性「首長」は
0014日本@名無史さん
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2017/12/10(日) 10:13:35.91
>>13
>九州の古代首長は出てくる首長の半分くらいが女性首長で、

根拠無し   @阿波

徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09

「古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、
徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています

徳島では、鶴島山古墳群(徳島市)、犬山天神山古墳群(同)、カンゾウ山古墳群(板野町)から出土した人骨が朱染めであった。
0015日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 15:41:43.72
後漢書
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
ですから
当時の中国人の読み方では「世有王皆統屬女王國」のひと文節であって
世 が魏の時勢=当時 でもいいけど、魏や漢の世に30国の王、30国全部自称王は居ないわけで
「この当時の邪馬台国30国の王は皆すべからく女王国に属する」
という日本語訳で良いかと思います。

この後漢書の課題は
丗丗傳統が(丗丗傳統での自称王)なのか(丗丗傳統で其大倭王居邪馬臺國)
なのかであって、
後者だと、邪馬台国に30国の王の中の大王の王宮が伝統的に有ることになります。
つまり、漢の委奴国王も邪馬台国の王ということになります。

倭国の30国を統括する女王国の王宮の地名が邪馬台国であると首都が伊都というのが怪しくなりますが
村だの郡だの都市だの何でも国で全部に王が居て、それでも、わけわかんなくならないのが中国語かw
まあ、ローマ帝国とかの命名みたいな? 

ただし、統一国としての統治が成熟していないことは間違いないです。
0016日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 18:24:41.45
なれば卑弥呼が共立される前までは
例えば北部九州の広い範囲を統一した大王は存在しなかったということか?
0017日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 18:49:11.82
男王の時代→大いに乱れる→卑弥呼共立

だから男王の時代はまとまってたんじゃないの?
0018日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 18:54:00.72
大王の配下に王がいっぱいいるのと王がいっぱいいる中に持ち回りのボス王がいるのとではだいぶちがうがな
0020日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:07:06.59
伊都の王墓だけが突出していて他に独立した王墓があまりない
甕棺墓の広がりに文化の共有もあるから考古学的には大王がいたっぽいけど
0022日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:22:36.18
邪馬台国は奈良な
卑弥呼の遺体は福岡に移されて埋められた
デカイ墓ってのは外国に国力を示すためのものだからな
そりゃ外国人が上陸してすぐ見える場所にするよ

大阪湾に巨大古墳が多いのと同じ理由だな
0023日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:23:41.05
卑弥呼が亡くなったら
戦乱が始まるような状況だからな。

小国を抑えられるような
中央軍はなかったと考えて良い。

小国領主同士の話し合いレベルだろ。
0024日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:24:42.82
隋書「倭国の首とはヤマト、魏志の言う邪馬台なり」

これだけで九州説は詰んでるんだよなあ

まさか隋の時代にもヤマトは奈良じゃない場所にあったと?w
0025日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:25:50.03
中央軍があれば戦乱が起きないのなら一度国が統一されたら戦乱が起きないだろが
遅くとも107年に倭国王が出現している
0026日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:27:05.41
×ヤマトは奈良じゃない場所にあった
〇ヤマトは奈良じゃない場所にもあった
0027日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:30:23.42
帥升等が朝貢に行ってて
「等」も名前の可能性もあるが、
複数の小国領主の御一行様が
物見遊山に言ったように見える。
0028日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:32:38.74
>>27
107年に漢へ物見遊山に行けるほど倭国の海運力はすさまじかったのか
てことは東征なんて物見遊山のついでくらい朝飯前なのかな?
0029日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:32:42.99
律令ができる前は「先代の王様の言うことなら聞くけど、代替わりしたのなら聞かない」
ってことが普通にあったんだろうよ

逆に言えば、それを防ぐために「律令」という概念が出来たわけで

だから古代史の流れが「小国分裂→だんだん統一」という一方通行的な流れだとは思わないほうがいいよ

律令がない以上、各小国の王様が替わる度に分裂したりまとまったりの繰り返しにならざるを得ない
0031日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:35:26.58
古代においては律令の代わりに「神話体系」を構築することでヒエラルキーの固定化(秩序の安定化)を図ったんだろうけどな
0032日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:36:28.81
>>30
「芝遺跡」
古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。
 おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、
弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。
 この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。   @阿波
0033日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:36:49.80
>>29
律令が導入されたのは7世紀だろ
それに7世紀まで各小国の王様しかいなかったのなら邪馬台国はますます北部九州
0034日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:37:42.91
>>31
そいや卑弥呼も鬼道やってたな
0035日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:38:34.96
「ホケノ山古墳」
昨年徳島県海陽町で開催された「古代阿波の海洋民と大和」と題した石野博信氏(ホケノ山古墳発掘に携わった)の講演時の資料を見てみると、
この中にwikipediaには記されていない鉄製品の「ヤス」がある。
 
やす【 簎 ・ 矠 】
長い柄の先に数本に分かれた尖った鉄の金具を付けた漁具。魚介類を刺して捕らえる。銛(もり)に比べて小形で,普通,手に持って刺して捕らえる。(Weblio 辞書 歴史民俗用語)

 簎/矠 ヤス
漁具の一。長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄をつけ、魚介を突いて捕らえるもの。(コトバンク)

要するに、奈良県の山に囲まれた所の古墳から、海人の遺物が出土したということ。
皆さんもご存知の通り、奈良県には海がない。
これは「海人」の入植を意味示すと捉えた方が自然ではないだろうか?
他の出土物から見ても、先進技術を持った祭祀集団であったことがわかる。

これは、海を駆け巡った長國の海人族を通じて、阿波から畿内域(この場合丹波・奈良)へと進出した痕跡を標すものではないだろうか。
そして更には、阿波から大陸に、阿波から全国にと進出したのであろう。   @阿波
0036日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:38:42.46
>>33
いや、だから三世紀において広範囲にまとまってたけど
5世紀には分裂してる、

なんてことは普通にありえるっていってるわけ
0037日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 19:40:22.28
>>36
なるほど
王の力量に左右されやすいわけですな
0038日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/11(月) 19:41:27.97
さすが九州説は深いな
朝貢が代々じゃなくて飛び飛びだったことが初めて腑に落ちた
0039日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/11(月) 19:53:43.76
朝貢といえばイヨさんは親魏倭王なん?
五王は各自が毎回任命されてたみたいだが
0040日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 20:17:20.94
かなり後世になるが
白村江で48000人の兵士を輸送できたんだから
玄界灘周辺の小国なら
かなりの航海術は持ってただろうな。

帥升等も160人連れて行ったわけだし。むしろ漕ぎ手要員だったのかも。
0041日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 20:28:02.81
たとえばチンギス・ハンみたいな強大な征服王が、西日本を一代でガーっと征服していったとして

自分は福岡で政務を執り、長男には奈良を支配させ、次男には出雲を統治させ、三男を宮崎に派遣し、

そうやって父である大王が息子たちに指示を出して西日本全域を治めたとして

父が死んだらどうなるかって話だよ
0042日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 20:46:41.48
漕ぎ手要因を献じたら帰れないだろwそう考えると大規模な船団だったのだな
0043日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 21:56:53.44
王権成立は古墳時代と見て良いと思うが
倭人伝の当時の邪馬台国は
帯方郡役人に熊本との紛争を委ねる
チンカス地方国家だぞ。

それ以前に帯方郡の魏自体が
無力の公孫氏だったろ?
こんなの倭人が中原の皇帝になるぜwww
邪馬台国はカス杉
0044日本@名無史さん
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2017/12/11(月) 22:18:44.50
行程論が北部九州説論者のものとちがうようだが
(月を日、は入れてるから知っててずらしとるなあ
0045日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/11(月) 22:52:53.26
まだ謎のまま、じゃねえよ。
平原遺跡で決まりだよ。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/11(月) 23:24:36.02
>>45
周溝でつながった2号はやっぱ唯有男子一人の人なん?
0049日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/11(月) 23:45:31.54
だろうね。
0050日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/11(月) 23:49:35.38
王権の象徴である八咫の鏡が出たからな。
伊都国が倭国の都である証拠だろ。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 06:30:36.41
倭人伝には殉葬についても書かれているんだから大きさはその全体のこと
1号+2号+殉葬者たちの土壙墓で周溝が楕円形に囲んでおり
方可では表現できず径で表すしかないな
0056日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 08:24:13.16
古墳から出ているのだから
埋葬するのが当たり前。

天皇家が代々伝えるのはむしろ特殊例。

容易に入手できなくなる時代があったのでは?
0057日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 09:09:21.19
卑弥呼に大量に副葬しちゃったからだろ。
0058日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 09:24:45.15
王権の象徴を埋めるってのは王権の終焉を意味することになると思うんだが
0060日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 09:25:44.32
アキヒトの墓には三種の神器が埋められて天皇家もおしまいだろ
0061日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 09:32:01.61
平原の主卑弥呼の鏡の一枚を形見としてもらったのが現皇室なんじゃないの

福岡でも奈良でも、1世紀の銅鏡が3世紀の墓から出てくる、なんて例はたくさんあるわけで
つまり200年は銅鏡を王権の象徴として代々受け継いでたけど、王権が断絶したときに最後の王とともに埋められた、ということだと思う
0063日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 12:00:07.43
>>58
その前の三雲南小路遺跡も須玖岡本遺跡も、王権の象徴を大量に副葬している。
そういうものなんだよ。
いちゃもんつけている奴は倭国の伝統を理解していない。
0064日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 12:01:12.92
>>59
九州時代にたくさん埋めて手元に少ししか残っていなくなったので、火事で焼けて燃えかすになっても大事に保管して継承しているんだろ。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 12:03:46.73
奈良の天皇家は筑紫のお下がりしかなかったから、鏡を副葬できずに伝世した。
0067日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 12:12:50.70
>>61
断絶したら、次の王は王権の象徴を奪うだろうね。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 12:12:58.14
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。

伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。
0069日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 15:13:32.30
>>63
違うよ。 魏使を返した後、実際に九州系王族は大和朝廷に平定された。
王権の象徴が王の副葬品になっているのはその王家が滅びているから。
なぜ、朝廷が三種の神器なのかは不明だが、この時世(漢〜魏)の皇帝に配慮したのかもね。

漢の倭奴国は魏の邪馬台国と同じで王宮は領土の南限の倭奴国または邪馬台国だ。
漢以降、卑弥呼の時世で帯方郡は公孫氏による半独立国。朝貢は止まり、印綬もない。

238年になって、魏がやっと遼東から四郡の公孫氏を倒した。
たまたま帯方郡を訪れた邪馬台国使を公孫戦勝祝いとして喜んで洛陽に案内した。
ただし、曹魏ではなくすでに司馬氏の治世。
きわめて不安定で倭国は取り込んでおきたかった。
卑弥呼が倭王としての力量を付けて朝貢に及んだから印綬を受けたわけではない。

邪馬台国もカスなら魏もカス。
魏使は皇帝のメンツの為、倭奴国を買いかぶってる。
帯方郡太守は百済を直接統治しようとして反乱で殺された。
250〜400年の東アジア情勢の中で台頭したのは九州や半島を抑えた畿内朝廷だ。
0070日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 18:12:55.33
>>69
文章がカスならおつむもカス
0071日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 18:15:31.47
王家が滅びたなら王墓も残らんだろう
お宝は全部奪われて見世物にされるか改鋳されるか

後世の国産銅鏡が景初三年を称えている
八咫鏡が7世紀の書に登場する
そもそも三種の神器セットが同じなのだから王家が滅びていない
0072日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 18:17:04.19
>たまたま帯方郡を訪れた邪馬台国使を公孫戦勝祝いとして喜んで洛陽に案内した

硯が出土しまくって
いよいよ後が無くなったキナイコシ乙w

国書でやり取りしてたんだよ
それくらいじゃなくちゃ「金印」は貰えない
0073日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 19:20:32.52
国書には公印が必要で、漢委奴国王印が使われただろう。
魏は漢の外交関係を禅譲により継承しているので、倭としては漢委奴国王印を対外的に用いることが可能である。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 19:33:37.95
根拠:魏の皇帝が国書で返書している
0076日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 19:42:10.96
>>74
それしか言えない能無し。
反論になってないよ。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 19:43:01.14
>>74
根拠を説明している文章にその返しをするということは、私は日本語が理解できませんと言っているようなものだ。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 20:12:38.74
弥生時代の硯

島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ

福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ

福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着


2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ?
0081日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 20:39:20.16
だからなに?
0086日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 20:58:49.84
筑前町は都置くにはいい場所だよな

海沿いは外敵の侵略を受けやすいけど筑前町なら太宰府通りすぎた山の奥側だから
0087日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:09:56.82
伊都は都置くにはいい場所だよな

街道がなくて海上交通メインの弥生時代、伊都なら東西にも北へも自由自在
0088日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:10:32.97
弥生時代の硯

島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ

福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ

福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着


2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ?
0089日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:16:33.05
>>87
海沿いは外敵に弱いからNG

一回Googleマップで「地形」のボタンを押して福岡を見てみるといいよ

太宰府の両側が山で、天然の関所みたいになってる

太宰府の奥側に都を置けば、太宰府両側の山に弓矢兵を置くことで都を容易に守ることができる
0090日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:18:21.34
>>89
そりゃお前らキナイコシは攻め込まれる弱小国だから
そういう思考だろうけど

伊都倭国邪馬台国は攻撃する側だからな
海に面してるのが楽ジャン 出撃
0091日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:19:25.93
武器型祭祀品である銅矛も銅戈も海に面した場所に集積しておるな
0092日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:23:57.10
>>90
なぜ俺が畿内説派に見えたんだ?

俺は筑前町が都に適してるって言ってるんだぞ?

統合失調症かよ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:24:53.73
>>91
それは外敵を威嚇するためだから海沿いでいいんだよ

王が前線基地にいたらおかしいだろ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:26:12.89
アラスカに対ロシアミサイルを配備してるアメリカの首都はアラスカか?

違うだろ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:31:14.33
>>94
現代のしかもアメリカを持ち出しても意味がない
0096日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:32:52.90
>>92
で、倭人伝に書かれたどの勢力が邪馬台国の首都に攻めてくるんだ?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:32:57.63
筑前町で政務を執り、死後は平原に埋められたんだよ

墓は「見せびらかすもの」だから海沿いのほうが適してる

倭人は海沿いに墓を作る文化なんだよ

日本最大の前方後円墳があるのも奈良じゃなくて大阪湾沿岸だから
0098日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:34:45.19
>>96
あらゆる勢力だよ

中国、朝鮮半島含めて

邪馬台国連合の構成国だって下克上狙って来るだろうし
0099日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/12(火) 21:35:48.36
>>97
敵が攻めてくる場所を避けて都をおくんだろ?

王墓だけ危険な場所に作るのか?

王墓を最前線に作るのか?

銅矛だけに九州説は矛盾だらけwww
0100日本@名無史さん
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2017/12/12(火) 21:38:01.05
>>98
あらゆる勢力が攻めてくるんなら
どこにいようが危険だ

倭人伝で最低限卑弥呼の勢力圏なのは
壱岐対馬〜伊都〜奴国不弥国だから

ど真ん中の伊都が一番安全じゃないのかね
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