邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part10
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1509714142/ 台与の朝貢品(大勾玉)は、平原から出土したソレだろ >>948
張政等の魏使は、帰路のとき台与が
送った一行と一緒に魏へ向かっている。
(台与が即位したとき、勅諭してる)
張政等の魏使が新たに持ち帰った情報にしては
距離が、日数表示だ。陳寿は台与が即位した後のこと
まで記述しているから、それらを魏略の情報に
付け加えたのではないかと。
台与一行は、伊都までやってきて張政等と合流かな。
ともあれ、新たに持ち帰った情報は、倭人が
言ったことが原因。 次スレタイは
「『九州説はなぜ滅んだか』が良くわかるスレ」
を提案したいな >>958
要約すると、
魏志倭人伝には伊都までの見聞録しか記載されていないので、
卑弥呼も台与も伊都もしくはその近所にいた >>959
さらに要約すると
「ぼくちゃん発狂したったぁ。ぷぴょ〜ぉぉぉん」 >>956
日数表示は倭人が言ったことじゃなくて
張政等が掛かった日数を報告したからでしょ
これを古い記録にあった里数の記録に追加した
北部九州の呼び名の邪馬台国や朝鮮半島南岸の呼び名の投馬国も張政等の報告で新たに追加した。 >>959 卑弥呼死んでたろ?
10日行、20日行は時程 経過時間だが
1月行は領土の広さを表す物理的な、ほぼ2千里なんで実際の移動時間ではない。 罵倒で相手を屈服させるやり方になってきました。
こんなことをやるからかえって信頼をなくす。 陳寿は、魏略の元になった資料を参照して、魏志倭人伝を書いた。
魏略はほんの少し前に書かれた本だったが、そのときすでに女王国は
伊南国の南にあることが知られていた。
(このときは邪馬台国とはいわず単に女王国)
卑弥呼の在位期間は大変長かったが、魏と通交がなされたころはすでに高齢
になっていた。(年己長大)
狗奴国との交戦が激しくなり、張政らが派遣されたころ卑弥呼が亡くなり、
倭は大乱に突入する。このあたりの前後の経緯を、陳寿は新たに追記した。
その和平にあたって、
邪馬台国という、かなり遠くにあるが人口の多い国が、和平と新女王擁立に
参加して、再び治まる。魏志倭人伝に追記。
このとき狗奴国も和平に参加して、真珠5000孔を提供して、魏への朝貢品に使われる。
新女王である台与は、卑弥呼の後継者として金印も受け取る。魏の使節も認める。
女王之所都←女王国という表現が慣例だったのに唐突で変である。卑弥呼に
子はないので、台与は卑弥呼の子でもない。
つまり、台与に代替わりしたときに、大乱もあり、大人口のある邪馬台国も関与したので
女王の「都」は邪馬台国(近畿)に遷都してしまった。魏もこのころ滅んでしまうので
詳しくは魏志倭人伝に書けなかったが、魏志倭人伝に追記して、台与を後継として
認め、その後、大和政権として継続される。 >>971 書き直した。↓
陳寿は、魏略の元になった資料を参照して、魏志倭人伝を書いた。
魏略はほんの少し前に書かれた本だったが、そのときすでに女王国は
伊南国の南にあることが知られていた(このときは邪馬台国とはいわず
単に女王国)。卑弥呼の在位期間は大変長かったが、魏と通交がなされ
たころはすでに高齢になっていた。(年己長大)
狗奴国との交戦が激しくなり、張政らが派遣されたころ卑弥呼が亡くなり、
倭は大乱に突入する。このあたりの前後の経緯を、陳寿は特に新たに追記
した。
その和平にあたって、邪馬台国という、かなり遠くにあるが人口の多い国が、
和平と新女王擁立に参加して、再び治まる。このとき女王国の南にあった
狗奴国は真珠5000孔を提供して、魏への朝貢品に使われる。
遠くの邪馬台国(畿内)および、卑弥呼女王国の南にあった狗奴国も和平に
参加して、近畿から南九州まで一気にまとまった新政権が誕生。
新女王である台与は、卑弥呼の後継者として金印も受け取る。魏の使節も認める。
女王之所都←女王国という表現が慣例だったのに唐突で変である。卑弥呼に
子はないので、台与は卑弥呼の子でもない。台与に代替わりしたときに、
大乱もあり、大人口のある邪馬台国も関与したので、女王の「都」は
事実上、邪馬台国(近畿)に遷都してしまった。魏も台与を後継として
認め、陳寿は魏志倭人伝に書いて、その後、大和政権として継続される。
というストーリーで良さそうである。 よくないよ。
壹與の年代とかずれまくっている。
ラノベみたいに創作のレベルだよ。 >>972
つまらん妄想だな
張政等が伊都国までしか来ていないんだから壱与も伊都国在住ですよ。 >>961
里程は東夷伝里で統一されているので、漢代の楽浪郡の役人達が収集した情報なのでしょう。
朝鮮半島の統一は7世紀の新羅が初なので、東夷伝里が改定されるとすれば7世紀以降であり、
だから一万二千里はそれまで各史書で使われ続けたわけです。
対馬海峡の方角がずれている、
持衰の詳細が記されている、
台与が魏使を送ったことが記されている、
などの点からは魏使は倭船で来たと考えるのが自然ですね。
里程は漢代からの東夷伝里データ。
日程と方角(太陽を見た無修正のナマ方角)は魏使が加えた新たなデータでしょう。 >>975
張政等が伊都国までしか来ていなくて
卑弥呼の代にやってきて台与の代に帰国したのだから
卑弥呼の墓も当然伊都で見たわけだな。 >>976
一万二千里の初出は淮南子
>対馬海峡の方角がずれている、
>持衰の詳細が記されている、
>台与が魏使を送ったことが記されている、
なぜこれが倭船を使った理由になるの? >対馬海峡の方角がずれている
魏船で来たのなら、たとえ倭船に先導してもらったとしても
魏の航海士、またせめて遠距離航海に慣れた船乗りが同乗したはずであり、
季節による太陽方角の変化を計算に入れて正確な方角を記録できたはずだから。
同じ行程記録の中で、東、南、南東、を使い分けていることから、
もし方位に詳しいものが魏使一行にいたのであれば、
対馬海峡渡海の部分は、正確に「南東行」と書かれていたはず。 >>981
少しも根拠になってないじゃんw
反論しようもない >送政等還
張政らを送ってるじゃん。
また傍証としては、
難升米(率善中老将=銀印)には、黄幢を授けた上で、檄告喩しているのに、
台与(親魏倭王=金印)には、黄幢なしで、檄告喩のみ。
張政が自分では行き来できなかったから、黄幢を取り寄せることが出来ず、
言葉もしくは書面での檄告喩のみしか行えなかった。 >>982
方角が全部ずれていることが根拠と言っている。
そちらの反論なし。 >>984
まず倭人が季節によって太陽の出る方向が変動するのを知っていたことを立証してね 難升米が洛陽で受け取った下賜品のうち、
親魏倭王金印のみが帯方太守預かりとなっている。
他の全ての下賜品は装封して難升米の預かりとする、と「明記」されている。
魏船で来るのであれば、当然のことながら
下賜品を一括して帯方太守の預かりとして、
一括して倭へ輸送し、現地で一括して卑弥呼へ渡すはず。
だが、帯方太守が派遣した梯儁らは、外交文書と金印のみを奉じて来倭した。
つまり全て倭船による輸送であって、
大量の品々は難升米が託されて輸送。
梯儁らは軽い金印と外交文書のみ持参して、同じく倭船にのって来倭。 >>976は賢い。それに言い掛かりをつけてる奴の
言い分は馬鹿っぽい >>988 そんなこと書いてあったか?。
これも魏志倭人伝の原文みれば判明するはず。
確認してみよう。 自分の意見を言わずに妄想妄想しか言えない=畿内説スレ主だろw >>988
【今以汝為 親魏倭王 假金印紫綬 装封付 帶方太守 假綬】
いま汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮に授けておく。
これは魏皇帝じきじきの言葉を、魏志倭人伝に載せてある箇所だ。
卑弥呼に下賜品をあげたが、まだ輸送途中なので、帶方太守が持っているだけ。
帯方太守が派遣した梯儁らは、外交文書と金印のみを奉じて来倭した
というのは誤訳だな。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >今以汝為親魏倭王 假金印紫綬
>【装封付帶方太守假綬】
>今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤
>【皆装封付難升米牛利】
難升米が洛陽で受け取った下賜品のうち、
親魏倭王金印のみが帯方太守預かりとなっている。
他の全ての下賜品は装封して難升米の預かりとする、と「明記」されている。
魏船で来るのであれば、当然のことながら
下賜品を一括して帯方太守の預かりとして、
一括して倭へ輸送し、現地で一括して卑弥呼へ渡すはず。
だが、帯方太守が派遣した梯儁らは、外交文書と金印のみを奉じて来倭した。
つまり全て倭船による輸送であって、
大量の品々は難升米が託されて輸送。
梯儁らは軽い金印と外交文書のみ持参して、同じく倭船にのって来倭。
>魏皇帝→難升米が帰還するとき:【還到 録受】
難升米は、自らの倭船で帰還するから自力で「到る」
>台与→張政が帰還するとき:【送政等還】
張政は、倭船で帰還するから他力で「送られる」 このスレッドは1000を超えました。
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