邪馬台国畿内説 Part307
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512805088/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定すれば倭地は洛陽以北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。
屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。
赤い丹をその身体に塗る。。。。
中国で粉を用いている様なものだ、、、
食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。
倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。。。
その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である。
倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。
女性は淫らではなく、嫉妬しない。。。
倭人は窃盗せず、訴訟が少ないが、倭国の法律を破ると、軽いレベルならば妻子を水に沈められ、重いレベルならば家族を滅ぼされる。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 九州族には尊い者と卑しい者に格差や序列があり、互いに臣服しあって、満足している。。。
屋敷と高層建築が有る。。。。
国々には市場があって、有るものや無いものを交易している。。
優れた倭人にこれを監督させている、、、
女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。
諸国はこれを恐れて遠慮している。。。
常に伊都国で治めている。
倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。
倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。
文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。
説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。
比べた結果、承諾したようなものだ。。。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 景初二年六月、倭の女王は、周代の役職名と同じ大夫と呼んでいる、難升米らを派遣した。。。
彼らは郡に詣でて、天子に謁見して献上したいと求めた。。。
太守の劉夏は役人を派遣し、京都に詣でるために手を貸して送った。
その年の十二月のことであった。。。
皇帝の意思表示の公文書に倭の女王に報いて以下のように書かれていた。。。。 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 皇帝の命令および意思表示。。。。
魏に親しい倭の王の卑弥呼よ、帯方の太守の劉夏が使いを派遣して、汝の大夫の難升米を送ってきた。。。
次の使いは、都の市場へ、牛利が汝の献じた男の奴隷四人と女の奴隷六人と班布を二匹二丈、奉じるために到着した。
汝のいる場所は遠距離を越えなければたどりつけない、、、
したがって、使いを派遣して貢を献上したことは汝の忠節なる孝心によるものである、、、
我は甚だしく汝を哀しく思う。
今、汝を魏に親しい倭の王と認定するから、紫の帯紐を通してある金の印鑑を利用しなさい、、
包装して封じ目をつけ、帯方太守に持たせておくから、受け取って帯紐(を通してある金の印鑑)を利用しなさい。
汝は倭の人種を安らかになるように鎮め治めて、孝行を示す順序を間違わないように勉めなさいよ。。。。
(其は語気を強めている)
汝の派遣でやって来た使いの難升米牛利は遠く海や道などを横切ってこちら側へ移動するため、道路で勤労してきた。。。。
今、難升米はこれより以降、率善中老将とし、牛利はこれより以降、率善校尉とし、青い帯紐を通してある銀の印鑑を利用させる、、、
(私が自ら)引見して労い、(青い帯紐を通してある銀の印鑑を)贈って、(倭国に)返し、(あなたのもとに)派遣する。
今、絳という地域で作った龍が交わっている柄の錦を五匹、絳という地域で作ったちりめん製で粟色の絨毯を十張、茜色の織物を五十匹、紺青色の織物を五十匹によって、汝の献上した貢に対して直接答える。
又、特に汝に対しては、紺という地域で作った句や文を織り込んだ錦を三匹、白絹を五十匹、金を八両、五尺の長さの刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹を各五十斤を贈る。
全てを包装して封じ目をつけて、難升米牛利に持たせて帰す。
到着したら、記録して受け取り、全てあますことなく、汝の国中の人に示すべきです。。。
(私の)国家が汝を哀しく思っていることを知らせなさい、、、
だから丁重に汝の好きな物を送るのだ。。。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。 又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。 ◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ3を修文 官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。 官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。 官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。 女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【畿内説(主にスレ主)が主張する東遷】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 306の>>837
>東遷説みたいに内容が薄いと出来るかもな しかし・・・ 畿内説だと無理かな<
大和は、倭奴國から別れた別種の旧小国の、倭國の「東征毛人55国」の附庸国の一国であり、
白村江の後でようやく倭國を併合吸収継承したのだから、
大和説も東遷説も✖。 306の>>838
>説明してない、という証拠は? 曲解だ、という根拠は?<
「南→東」であり、「南≠東」だから。 >>124
>>説明してない、という証拠は? 曲解だ、という根拠は?
>「南→東」であり、「南≠東」だから。
史料批判を拒絶? >>124
説明してない、という証拠が無いことは
認めるんだな? 306の>>840
>>大和説者は、
論理的帰結ではなく、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
高慢でタカ派の唯我独尊の排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の、
自惚れだからなぁ。<
>だという証拠は?<
5chで投稿する大和説者の大半が、
あからさまに「排他的嫌韓嫌中」投稿をしているから。 >>127
>5chで投稿する大和説者の大半が、
>あからさまに「排他的嫌韓嫌中」投稿をしているから。
そんな事実があるって証拠は?
?? >>123
>大和は、倭奴國から別れた別種の旧小国の、
そんな史料事実、ないでしょ? 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 >>130
「大和」って書いてないね?
ほら、そんな史料事実は無かった ここが本スレでいいんだよな?
前スレと繋がってるから >>131
なるほど。
今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>130
「古倭奴國也」は
「倭国はいにしえの倭奴国のことである」
って訳していいの?
違うような・・・ >>130
>あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
なら、倭国=日本だよ >>134
>そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
いやコレ、根拠ないだろう 無理があるし、それでは倭国後どこであるか示せていない。 306の>>842
このように、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者らには、
何か主張するとき根拠や証拠を出す習慣がない 。
銀行に行ってカードも通帳も出さずに
金を出せと言う輩と一緒。 306の>>846
>なんで、そんなことが判っているの? 理由は?<
例のサイトの序文を読んだら、
どうやら「247年と天照」とを結びつける話が発端であったようである事と、
安本が、以前にそんな話を書いていたような記憶があったから。 306の>>861
>九州説には、もう反論のネタさえ無いという悲惨<
大和説は、「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘に、
もう反論のネタさえ無く、黙りこくるという悲惨さ。 筑紫(ツクシ)の語源は「澪標、注連標、標森」の標=標木、後に境界だろう(柳田国男)
筑紫野市原田の式内社(名神大社)筑紫神社あたりまでが倭国の境界の極南界の元の委奴国
東南の筑前国夜須郡に熊襲の羽白熊鷲、西南に異人肥人(クマヒト)居留地があり
日本語のアクセント形式が崩壊している 魏志倭人伝の不彌国の次にある南に水行20日〜という記述を
そのまま辿った先にはほぼ何もない
東に水行20日〜とすればその先は邪馬台国の有力候補地畿内
すなわち南に水行〜は東に水行〜とした方が実情に合致する 306の>>862
大和説は、「南≠東」の指摘に反論する事が出来ないから、
自分のトンデモ話を連呼する事だけしか出来ない。 306の>>900
>帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。<
これは✖。
帯方郡から倭に行くには、
海岸沿いに水行(で出発)し、
(途中から)韓国を「南と東の繰り返し反復」(の陸行)で歴訪して、
倭人(の海域)北の岸にある狗邪韓國に到った。 306の>>901
>韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。<
間違い。
方四千里の韓は、「歴韓國乍南乍東」の陸行をした。 306の>>903
>その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。<
間違い。
「二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ」なんて、
書かれていない。 306の>>907
>もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る<
間違い。
「瀚海という名の一つの大国」とは書かれていない。
瀚海は、對海國と一大國の間の渡海した海の名前。 306の>>908
>官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、
一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。<
少し間違い。
「300里あまり」ではなく、「方三百里」。 306の>>915
>東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。<
少し間違い。
東南方向に(出発し)、(途中は)陸行五百里して、伊都国に到着した。 306の>>917
>世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。<
少し間違い。
(以前の)世から王が有り、皆、女王國に統屬されていた。 306の>>919
>東南に100里で奴国に至る。<
少し間違い。
東南100里に奴國がある(が奴國へは行っていない)。 306の>>922
>東に100里で不弥国に至る。<
少し補足。
(伊都國から)東して(出発し)、(途中を)行して、不彌國に至る。 306の>>925
>南に航海すると、二十日で投馬国に至る。<
少し訂正。
(不彌國から)南すれば投馬國があり、水行二十日(の位置)である。 306の>>927
>南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。<
間違い。
(不彌國から)南して邪馬壹國に至る。
(郡からの目的地の)女王之所都であり、(郡から)水行十日陸行一月であった。 306の>>936
>子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。<
「削って」とは書かれていない。 306の>>937
>昔からその方、
倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。<
「自古以來」だから、
「昔からその方」は、「古より以来」でよい。 306の>>938
>中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、
髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。<
「文身」は、「体を削って」という事を意味しない。 『天子神璽』〜『山王宮 山王院』
本人だという話なのかな、そのもの、当事者? wiki
伊達郡霊山?というところに、
同じような名前の人物が載っていたり 306の>>980
>身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。<
ちょっと変。
「見大人所敬、但搏手以當跪拜」は、「但、搏手をして、以當跪拜」と読める。 306の>>981
>その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である<
「その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき」なんて書かれていない。 306の>>982
>倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、
酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。<
「下戸」は「酒を飲めない」という意味ではなく、
「國大人」に対して、「國大人に比べて、身分の低い戸主」という意味。 306の>>994
>倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、
全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。<
ちょっと違う。
「王遣使詣京都帶方郡」は、出国時を意味し、
「諸韓國及郡使倭國」は、入国時を意味する。 306の>>996
>酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、
後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。<
これも「下戸」は、「酒を飲めない」という意味ではなく、
「大人」に比べて「身分の低い戸主」という意味。
また「噫」は、承諾の意味。 >>144
「例のサイトの序文」って何だ?
怪しいマル秘サイトか?
東遷説の考えることはワカラン >>160
>東南100里に奴國がある(が奴國へは行っていない)。
根拠ないし >>172
>>酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。
>「下戸」は「酒を飲めない」という意味ではなく、
うん、久々に心底馬鹿を見た気がする
酒をあまり飲めなくても下戸だろ
一般的に日本人は酒に弱いとか つまり酒によわい下戸の渡来なんですね(沿海州豚はからむでない >>125
>>>説明してない、という証拠は? 曲解だ、という根拠は? <
>>「南→東」であり、「南≠東」だから。<
>史料批判を拒絶?<
説明してない、という証拠は「南→東」。
曲解だ、という根拠は「南≠東」。 >>128
>>5chで投稿する大和説者の大半が、
あからさまに「排他的嫌韓嫌中」投稿をしているから。<
>そんな事実があるって証拠は? ??<
2ch〜5chで、そのような異常な投稿は、その都度出来るだけ指摘しておいたし、
衆知された、と思われたら、放置もせしめた。 >>131
>「大和」って書いてないね?<
新唐書日本伝には、はっきり「大和州」と書いている。
>ほら、そんな史料事実は無かった<
ほら、はっきりそんな史料事実があったから、
この男も嘘つき騙しの・・・・大和説者であった。 『特権階級』
ググると、このような話が出てくるでしょ
>「オレは重要法案を○○本通した」と自分だけの手柄にします。
どこかで聞いたことがあるような話なんだけど、政治? >>133
>なるほど。 今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
なるほど。
この男も、新唐書日本伝の「大和州」の記載を隠した、
嘘つき騙しの・・・・アホの大和説仲間であったのか。
>今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
今度からこの男も、大和日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。 ほとんど公明が案を出して、
自民が何やらと言っている人もいた
公明、または公明の関係者に、
そういう凄い人がいるとか? 老婆談と同じような話なのかな、
創価?何宗?
何か言っていたような気がするんだけど、
公明が案(考え)を出して >>138
>あるいは
「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」
ともいう。<
>なら、倭国=日本だよ <
ならんよ。
その文の前で、先に、
冒頭総括説明で「日本國者、倭國之別種也」として、
倭国≠日本国である事を断っており、
また、倭国が先に日本国を名乗った事は、
釈日本紀の「晋の惠帝への遣使が日本国をなのった」という事を、
ついうっかり証言してしまっているし、
大和が隋の文帝に「日本国」を名乗って叱られた?という話も、
ついうっかり記載してしまっている。 前スレ終盤からこのスレ開始時の岡上をみて慄然とした
こんなガイキチを野放しにしておいて大丈夫なんだろうか >>185
>>>133
>>なるほど。 今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
>
>なるほど。
>この男も、新唐書日本伝の「大和州」の記載を隠した、
>嘘つき騙しの・・・・アホの大和説仲間であったのか。
なんで!
新唐書は日本書紀の影響を受けた半分×だからだよ。
旧唐書に従ったまでだ。
>>今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
>
>今度からこの男も、大和日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。
間違いではないが、大和の名称そのものが九州から畿内政権がパクったものなので、半分×
何かいい呼び方はないものか? 最近、現れなくなったけど、あのコピペ?
>その王の姓は阿・・・?
阿智などの系統の話でしょ ニュー速+見てると日本史板にも新人を呼び込む必要あると感じた
低レベルだけど好き勝手に妄想語ってて面白い
ただしニュー速+名物となってる同一人物が複数回線で荒らすのはウザいけど
学会はゴッドハンドとしつこく書いてた
初心者の新人にはこのスレは厳しいだろうからドンと来いスレあたりが合ってるとは思うが >>195
なに、気取っとんねん
自分は博学と言いたいのかね
バーーーーカかいな >>179
>酒をあまり飲めなくても下戸だろ
それは日本語 >>189
今どきは、全人口の4%くらい
異常者が街を闊歩してるらしいぞ >>139
>>そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
>いやコレ、根拠ないだろう <
いや、十分可能性があるだろう。
「クシ」は当然「クシフル」の「クシ」であり、〈フルは集落)、
峰や半島などの尖った地形が沢山ある事を示し、
「チ」は、「神聖な神」の呼称や、
「千」のような「数が多い」事を示す文言であるんだろう。
だから、「筑紫」は、倭の「山島」の国を支配する」は、
部族集団の居た地域名として、適切。 >>202
>「クシ」は当然「クシフル」の「クシ」であり、〈フルは集落)、
韓国の神話に出てくる「亀旨峰」と同じ語源だよ
つまり神話そのものが輸入品だ
日本国内に該当地を求めるのはナンセンス >>202
>だから、「筑紫」は、倭の「山島」の国を支配する」は、
日本語としてイミフ >>202
そんな語呂合わせでいいなら
日本各地どこでも邪馬台国にできるわい >>183
>新唐書日本伝には、はっきり「大和州」と書いている。
別の史料に書いてあったって意味ないだろ >酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、
>後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
さすがにコレ、ワロタ
岡上バカ過ぎ 竺紫は天竺(インドの古称)、久士布流多気はヒンドゥークシュ山脈で
バーミヤーン仏教文化の輸入 >>203
ザラコク氏がすぐ上で根拠を説明しているのに。 >>148
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者は、
いつも適当であり、いい加減であり、・・・・アホな詐欺師。 >>149
議論に負けた大和説。
もはや、掲示板を荒らすだけ。 1里を約70mとする九州説こそ史料事実を否定曲解してはいまいか 犬鍋半島の亀旨峰に六つの卵が落ちてきた話は記紀より500年後だろ >>150
>魏志倭人伝の不彌国の次にある南に水行20日〜という記述を
そのまま辿った先にはほぼ何もない <
いや、不彌國で、「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ消化されているから、
女王之所都は不彌國の直ぐ南にある事になって、筑紫でぴったり。
「南至投馬國」の文には「途中移動を示す文言や動詞がない」から、
投馬國は側副傍線行程説明であり、(主行程ではなく)魏使らは行っていない。
>東に水行20日〜とすればその先は邪馬台国の有力候補地畿内
すなわち南に水行〜は東に水行〜とした方が実情に合致する<
「南→東」などのように、
ほぼ100%間違えようのない史料事実の「南」を否定曲解する大和説者は、
人間ではなく、・・・・ケダモノサギシ。 >>153
殆ど100%正しい「南」を、
全く「「確率0%の東」に摩り替えて、世間の人々を騙す大和説学者らは、
人間ではない、皇国史観に狂ったケダモノサギシ。 >>217
>不彌國の直ぐ南にある事になって
くだらんw >>176
>「例のサイトの序文」って何だ? 怪しいマル秘サイトか?
東遷説の考えることはワカラン<
執筆者名に「安本」が入っていた論考、があったサイトだ。 >>177
>>東南100里に奴國がある(が奴國へは行っていない)。<
>根拠ないし<
出発方向の「東南」と、到着を示す「至奴國」という説明だけであって、
「途中の移動を示す文言や動詞」が書かれていないので、
魏使らの通った「主行程」の説明文ではなく、
魏使らが通っていない側副傍線行程國の説明文になるから。 >>221
「途中の移動を示す文言や動詞」が書かれていないと
なんで魏使らの通った「主行程」の説明文でない
ことになるんだ?
理由がないだろ >>215
史料を分析すると、魏志倭人伝わそれくらいのスケールで書かれてあることがわかる。畿内説は史料を無視ばかりする。 >>218
>殆ど100%正しい「南」を、
信仰? 宗教? >>225
>史料を分析すると、魏志倭人伝わそれくらいのスケールで書かれてあることがわかる。
分析したらそうなったって証拠は? >>225
魏志倭人伝わそれくらいの・・・って
ワロタ
日本人?
小学生? >>191
>>なるほど。 この男も、新唐書日本伝の「大和州」の記載を隠した、
嘘つき騙しの・・・・アホの大和説仲間であったのか。<
>なんで! 新唐書は日本書紀の影響を受けた半分×だからだよ。旧唐書に従ったまでだ。<
新唐書は、唐代までの中国記録と、大和の僧の「王年代紀」とを合わせ、
また、旧唐書や唐会要のように「倭國伝と日本国伝との書き分け」をしないで、
(倭國の歴史の方を記載せずに)、大和の日本国側からだけの歴史を書いたもの。
また、王年代紀側もまた、日本書紀の記録をもまた全面的に信用踏襲していなかった、
という可能性もある。
>>今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
>今度からこの男も、大和日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
>間違いではないが、大和の名称そのものが九州から畿内政権がパクったものなので、半分×<
おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
>何かいい呼び方はないものか?<
奈良盆地の大倭職の国が梁代には「扶桑國」と名乗った事もあるようですが、
結局は、筑紫倭国の地方の市を監督する「大倭」の呼称を嫌って、
筑紫に対抗して「大和」という文字に変更したんですから、
「大和」でいいんではありませんか?。 >>233
>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
>の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
それ、甲乙違うから >>217
>いや、不彌國で、「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ消化されているから、
どういう計算?
国と国の間の距離はどうなった? >>233
>新唐書は、唐代までの中国記録と、大和の僧の「王年代紀」とを合わせ、
>また、旧唐書や唐会要のように「倭國伝と日本国伝との書き分け」をしないで、
逆だよ
書き分けなんかしたのは後にも先にも
旧唐書と唐会要だけ >>204
>>「クシ」は当然「クシフル」の「クシ」であり、〈フルは集落)、<
>韓国の神話に出てくる「亀旨峰」と同じ語源だよ つまり神話そのものが輸入品だ
日本国内に該当地を求めるのはナンセンス<
いや、問題の始まりは「筑紫=チクシ」の語源問題であったんだよ。 >>205
>だから、「筑紫」は、倭の「山島」の国を支配する」は、<
>日本語としてイミフ<
ごめんね。
いま、PCの調子が悪くて、
打ち込んだ筈の文字が、次に何かの記号や文字を打つと消えてしまったり、
前に打った文字がまた出て来てしまったり、全く別の文字が出て来たりして、
非常に苦労しているの。 >>241
休養しろという神の声だ
二、三年投稿をヤメてみろ 山王でしょ
誰かの、本名なんだよw
と言っている人がいたよ >>206
>そんな語呂合わせでいいなら 日本各地どこでも邪馬台国にできるわい><
勿論「筑紫=チクシ」という文言の語源に関する可能性程度の話。
不可知部分が殆どの自然や歴史において、
可知出来た史料事実を否定曲解する事は許し難いが、
その知り得た可知事実からの「不可知部分への帰納的確率的な推論」は、
科学や学問としての正当な可能性の提示。 >>248
古田説は「不可知部分への帰納的確率的な推論」をしないから問題なわけだが >>249
確率計算をしない「確率的な推論」って何? >>209
>竺紫は天竺(インドの古称)、久士布流多気はでヒンドゥークシュ山脈で
バーミヤーン仏教文化の輸入<
うーん、
クシフルの北の日向峠の西南近くの雷山の千如寺?は、
列島最古(4世紀頃?)のインド僧の渡来の寺?であった筈で、
ヒンドゥークシュの「クシ」なら可能性があるかもね。 >>212
>根拠って、何?<
自然や歴史における「存在確認された事実」の事。
不可知部分への帰納的確率的推論の根拠になる。 >>253
どんな「存在確認された事実」があるのか?
って質問だろ
ごまかしてんの? >>215
>1里を約70mとする九州説こそ史料事実を否定曲解してはいまいか <
1里を約434mとする大和説こそ、魏志などの史料事実を否定曲解してはいまいか?。 >>251
カッコつけて内実の伴わない修飾をしただけだな
駅前商店会の「方から」来ました・・・みたいな >>224
>「途中の移動を示す文言や動詞」が書かれていないと なんで魏使らの通った「主行程」の説明文でない
ことになるんだ? 理由がないだろ<
陳寿の三国志などでの旅程や行程や行軍の説明では、
「人類の常識」的な原則として、
「出発説明+途中移動の説明+到着の説明」の 書き分け説明になっているから。 >>256
会稽東冶の東としているから
陳寿は1里が400m台のつもりで書いている >>259
そんな変な
書き分け説明になっている
って証拠は? >>227
>殆ど100%正しい「南」を、<
>信仰? 宗教?<
「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」。 >>229
>>史料を分析すると、魏志倭人伝わそれくらいのスケールで書かれてあることがわかる。<
>分析したらそうなったって証拠は?<
大和説の「1里≒434m」であれば、
魏志倭人伝がそれくらいのスケールで書かれてある、
という事がわかる、という証拠は?。 >>262
史料事実だと、どうして
殆ど100%正しい
ことになるの? >>262
「史料実態」ってなんだよ?
怪しげだな >>259
素人の独断をなんでも「人類の常識」で押し通す気か 一里が70mくらいとかだったら、倭人の国が揚子江あたりまで南になるわけない
その程度の計算は誰にでも出来るだろう >>233
>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
>の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
古事記では倭をヤマトと読んでいて、日本書紀では日本と書いてヤマトと読ませている。
大和も同じ頃に登場している。
概ね支持する。 >>237
新唐書からは日本書紀の記事に引きずられているから。 >>260
陳寿は郡使からの報告書を写しているだけであり、一里がどれくらいかは考慮していなかった。
しかし実際には東夷で使われていた里は80メートルくらいであった。 >>271
古事記で倭をヤマトと読んでいて、日本書紀では日本と書いてヤマトと読ませていて
大和も同じ頃に登場していると
どうして
欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があった
という話を支持する考えになるの?
思考の脈絡がわからない
古事記では倭をヤマトと読んでいて、日本書紀では日本と書いてヤマトと読ませている。
大和も同じ頃に登場している。 >>274
そんな風に
決めつける理由は
なんだ? >>252
日向峠はクシフル山の南じゃないか?
クシフル山は高祖山のすぐ南の峰で、平原遺跡の目の前。
ここが倭国の都だよ。 >>276
魏志倭人伝と実際の地理を比較してみたまえ。 >>274
>陳寿は郡使からの報告書を写しているだけであり、一里がどれくらいかは考慮していなかった。
なら
「計其道里、當在會稽東冶之東」
って誰が書いたんだ >>279
長里だと思い込んでいたけれど、実は短里だった。 だいたい、「短里」なんてものが存在すると言い張る理由はなんなんだ 九州説の人は、どうしてぜんぜん理由を言わないんだろうね
結論ばかりをゴリ押ししてる 理由がないからさ
九州説が生き残りたいという欲望が有るだけだから 理由を聞かれて答えられないから
誤魔化しただけだよ >>269
>倭人の国が揚子江あたりまで南になるわけない
そもそもこれがでたらめ >>291
「金が欲しい」とか
「女が欲しい」に
理由が要らないからだよ 279
>「計其道里、當在會稽東冶之東」
(倭国までの)道のりを計ってみると、(洛陽から)會稽東冶之東までの距離に相当する
だね >>293
そんな変な訳をデッチあげる理由は?
w
w
w >>293
頑張って捏造しないと九州説は維持できないと >>293
そんな日本語訳を考案した人は
世界でアナタ以外に
誰かいるの? 語学のプロたちの訳
「倭の位置を計算してみると、ちょうど会稽・東冶の東にあたる。」
「その道程や里数を計算すると、ちょうど会稽の東冶の東に位置している( はずだ)。」
「その行路の里数を計算すると、〔 倭国 は〕 とうぜん、会稽や東治( 冶)の東にあることになる。」 >>293
そうやって史料をないがしろにして来たから
九州説はダメになった 洛陽市→紹興市の距離は1069.8km
沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離と整合しているね 畿内説でも九州説でもいいが、
会稽東冶でも会稽東治でもいい
その東に日本列島はあるのか? >>302
奥野正男ってそんなデタラメな説を言ってた人だったのか >>307
つまり>>293が間違いだってことだな >>309
ぜひ一読をすすめるよ
まともな九州説の論者です >>313
グーグルマップでどうやって測ったの?
口先で言うだけでは立証できないよ >>316
箸墓を三世紀半ばだと言ってる
w
w
w googleで
「洛陽市 紹興市 距離」
でどうぞ >>321
おまえgoogleも使えんのか
恥ずかしいヤツw >>307
>沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離と整合しているね
その距離、どうやって出した? 平原が卑弥呼の墓だよな
太宰府の北側の福岡平野の支配拠点が伊都国
太宰府の南側の筑紫平野の支配拠点が女王の都である邪馬台国
倭の案内人は魏の使者だろうと太宰府を通さなかったんだろう
女王の都を隠し、守るために
卑弥呼が死んで、「外国の使者から見えやすい位置(伊都国)に」巨大な墓を作った
巨大な墓というのは国力の大きさや王権の強さを内外に示す一種の威信財だから 箸墓を卑弥呼の墓に比定するために無理矢理時代を50年程度遡らせちゃったわけじゃん
箸墓を50年遡らせたせいで、あらゆる古墳や遺跡もドミノ式に年代が狂ってしまった
真の築造年代は
平原が3世紀前半で、箸墓が3世紀後半でしょ
台与の墓なら可能性あるよ箸墓は >>307
>沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離と整合しているね
ごまかそいて逃げるなよ
沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離って何キロだ? 前もいったけど
1980年生まれの人間が、2040年に60歳で死んだとしてさ
そいつが子供のころ大好きだったファミコンや、宝物のように大事にしてたラムネのビン
そいつの親から受け継いだアンティークのロレックスなんかを墓にいっしょに入れたとするよ
で、その墓を後世の人間が調べて
「お、1990年代のグッズが出てきたぞ。この墓の築造は1990年代に違いない」
って言うのはおかしいよね
こういうことやると50年ずれるわけだ >>334
>箸墓を卑弥呼の墓に比定するために無理矢理時代を50年程度遡らせちゃったわけじゃん
証拠でも有るのか? >>342
ほら出た
自分で言ったことに証拠提出拒否
そして立証義務転嫁
九州説って詐欺そのものだな 畿内説は詐欺ですらないもんな
子供でも引っ掛からないんだから 九州トンデモは
(倭国までの)道のりを計ってみると、(洛陽から)會稽東冶之東までの距離に相当する
って主張してるんだね?
會稽東冶之東って、どこなんだ? >>307
>沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離と整合しているね
沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離って何キロだ?
どうやって出した? >>337
沙里院市→ソウル市 150km
ソウル市→済州島 450km
済州島→釜山市 300km
釜山市→福岡市 210km
合計1110km
洛陽市→紹興市の距離は1069.8kmと整合しているね >>338
親から受け継いだアンティークのロレックスなんかを墓にいっしょに入れないよ >>351
ネット情報+地図からの読み取り
細かい事は気にするなよ >>354
つまり、道路の道のり距離と
地図上の直線距離を比較して
整合したとか
インチキを言ってるわけだね >>354
史料にはちゃんと
「循海岸水行」と書かれているのに
陸上の直線距離を測るという
詐欺をしたわけだな そもそも
「計其道里、當在會稽東冶之東」
を
(倭国までの)道のりを計ってみると、(洛陽から)會稽東冶之東までの距離に相当する
なんて読むことからしてインチキだろう 九州説は自説のために漢文のインチキな読み方を発明し
誤魔化しをしていい加減な数字を出して
それでインチキ読みを正当化しようとするという
詐欺をのものデス >>365
無いから南は東の間違いだと主張しているわけだが >>366
(翻訳しました)
誤差だと言って誤魔化して
整合してると嘘をついてるね >>371
日本列島が会稽東冶の東にないことなら
立証済みだ >>373
>南は東の間違いだと主張
おまえ低脳だなw >>371
紹興市は北緯30度
屋久島付近に相当する
よって陳寿が説明を書いた倭国は会稽東冶の東にない
証明終わり >>375
そういう発言は、お前が論破された証拠だよ。 >>377、378
>南は東の間違いだと主張
早く立証してくれ >>379
会稽東冶は日本列島よりずっと南である
九州島到着まで倭人伝記載の方位には大きな誤りがない
よってそれ以降に書かれた方位には誤りがある
誤りとは南で、東が正しい
立証終わり >>380
方位が間違ってなきゃ、筆者は会稽東冶の東とは書かない >>381
南が謝りだとしてもなぜ「東」が正しいのか立証しないとw >>386
北の間違いではない
戻らないから
西の間違いではない
すぐ海だから
よって東である >>387
自分がアタマ悪いからと言って、他人をけなしちゃダメだよw >>390
反論できないの?
じゃあ、お前は論破された >>391
立証されてもいないことは、明らかとは言わないい、分かるw >>399
九州上位供御1500里で中国には戻れないよ >>400
九州説はいつもすぐ諦めて逃げるよ
そして、ほとぼりを冷ましてから
また同じことを言い張る >>402
平戸上陸
上海まで500km
約1,200里 陳寿は1里約400mの常識で考えてる
それで会稽東冶くらい南だと計算した
つまり九州本島到着後の南水行は東水行が正しい >>409
ごめん、測り間違えたわ
上海まで790km
約1,880里 >>413
洛陽→会稽東冶 1069.8km
長里400mとしても2674.5里
12000里に足りないなあ
おまえのオツムと同じだ >>419
イミフ
洛陽から会稽東冶が12000里なわけがないだろう 論理的に語れるオツムを持ってないから九州説なんだろうさ >>413 は
>陳寿は1里約400mの常識で考えてる
>それで会稽東冶くらい南だと計算した
これを12000里だと言ってるんだろ
倭国の位置だ
違うなら何を言ってるのかね? >>426
「これ」って何?
正しい日本語で他人に通じるように話してね >>413
陳寿が計ったのは出発点はどこだと思ってるの?
まさか帯方郡治とか言わないよな >>427、428
おまえらオツム弱すぎ、今後ムシするわw >>429
陳寿が計った出発点は当然ながら帯方郡治だが、何か? >>429
筆者が計ったのは「その道里」何だから
もちろん起点は帯方郡治だねえ >>437
反論できないという以前に、自分の主張が正常に説明できなくなってるね >>436
地図見りゃすぐ分かるだろうにw
直線距離だとの主張か?
それでも会稽東冶の方が遠いだろ
おまえら、アタマ悪すぎ >>429
>陳寿が計ったのは出発点はどこだと思ってるの?
>まさか帯方郡治とか言わないよな
「計其道里、當在會稽・東冶之東」だね
倭人伝に記載されている道里なら
起点は帯方郡治で終点が邪馬台国だ >>439
>それでも会稽東冶の方が遠いだろ
どこからどこまでの話? >>439
アタマ良いとか悪いとかのレベルではない
誰もエスパーじゃないんだから
ちゃんと話さなきゃ、お前の考えてることは理解できない >>444
罵ってないで答えろよ
どこからどこまでの話をしてるんだ? >>439お前、国籍どこ?
それでも(どこから)会稽東冶の方が(どこからどこまでより)遠いだろ スタートが帯方郡治か洛陽かって話をしてるのに、
どこからの話か
とか突っ込んでくるのはオツムがおかしい証拠 さて、ここまで本質的な反論ゼロ
九州説が立証されたね >>454
とぼけてないで
A、B、Cを具体的地名で埋めよ
話が通じない
それでも(Aから)会稽東冶の方が(BからCまでより)遠いだろ >>453
アンタの日本語が、他人に通じてないんだが >>456
>地図見りゃすぐ分かるだろうにw
>直線距離だとの主張か?
>それでも会稽東冶の方が遠いだろ
>おまえら、アタマ悪すぎ
この日本語が通じてないと指摘されてる >>456
>さて、ここまで本質的な反論ゼロ
>九州説が立証されたね
九州説が
陳寿は1里約400mの常識で考えてる
それで会稽東冶くらい南だと計算した
つまり九州本島到着後の南水行は東水行が正しい
に反論できてないのが実態なんだが >>453
>スタートが帯方郡治か洛陽かって話をしてるのに、
誰がしてる? 12000里は帯方郡治が起点に決まってるじゃないか
九州説は何の話をしてるんだ? 「計其道里」のスタートは当然帯方郡治だろ
倭人伝にはその道里しか書いてない >>355
自分で測った数字を上げればいいのに、人のデータに文句をつけるだけ。
クレーマーだね。 九州爺さん毎度日本語がおかしい
というか、足りない >>467
おかしいデータ出せばクレーム付くのは当然なんだがな >>467
出所不明の数字を出せば出所を聞かれるのが当然
出所を答えて問題があれば、それを指摘されるのも当然
クレームがつくのがイヤなら
何も主張するな >>467
逃げ回ってないで
A、B、Cを具体的地名で埋めよ
誤魔化すな
>それでも(Aから)会稽東冶の方が(BからCまでより)遠いだろ 九州ジイさん負けて逃げて
Gスレに閉じこもったか(笑 >>472
別に代わりのデータで反証する必要はサラサラない
お前の間違いを指摘すれば良いのだ
それでお前は論破される 魏志倭人伝の『南行』について解明できたと思うので報告します!。
対馬、壱岐、と渡って、松浦半島に上陸。
そこから伊都、奴国、不弥国の順に解説。
不弥国の先が問題です。南行の表示です。
東へ100里行くと、不弥国に至る。
長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
南へ水行20日で、投馬国に至る。
副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
不弥国の沖合から舟に乗ると、東へは山口県の陸地にあたってしまって
行けないわけです。北上か南の2択なわけで、
船頭の倭人は「東に行っては駄目。南に行く。ゼッタイ。」
と強調して中国の役人に言ったのでした。まさに魏志倭人伝は正しく記述したわけです。
東の誤りではなく、まさに南です。
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kanmon/user_guide/guide-zu2.png
魏志倭人伝の大きなナゾが解けました! >>479
パナマ運河と似てる。
日本からニューヨークに行くときは、
パナマで「東から西へ」行かねばならない。
正確には北西だが。
西から東には行けない。
パナマ地狭がS字形にくねっているから。
関門海峡も同じ。
九州北部から畿内へ行くには、
関門海峡の入り口にさしかかったとき、
南か北の2択しかない!
東行とは書けないんだよ。陸地だから。
南へ行く。あとは陸沿いに行けば近畿に付く。 古代の倭人の船頭は、南へ行く水路をとるように強調しただろうよ。
関門海峡の入り口は一見狭いので、通り過ぎたら、出雲方面に行ってしまう。
南へ行くゼッタイ!
強調したことだろうよ。それが正しい。魏志倭人伝の記述どうりだ。 俺が日本からニューヨークに行ったときは、パナマ地峡は通らなかった 山地でもそうだが、目的地まで見通せないときは、
出だしの方角を言うものだ。松浦半島でも山沿いにぐるっと回るから
方角がずれるところがある。
見通せないのだから、しょうがない。海を行く場合でも畿内方面は
陸地に遮られて見渡すことができないのだから、関門海峡の入り口である
南に向かって進む、というのが正解ということになる。
これが魏志倭人伝のナゾときだ。 >>464
こんなこと言ってるからオツム弱いと言われるんだよw >>486
もっとも印象の強かった場所のことを書き残したのかもね >>483
関門海峡は手漕ぎ舟では通れない、残念! >>489
罵るだけで反論ぜんぜん出来ない負け犬w >>491 壇ノ浦合戦の船は、帆船でしたか。
手漕ぎでは通れないんですね。ふうーん。 『副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。 』
みみなり という「ミミ」という人名は出雲地方の特色だから
瀬戸内海を通るにしては変かもしれない。
不弥国の外れでから再出航して、
南に行けば畿内につくが、
北へ行けば出雲につく。
関門海峡の入り口あたりは、北上か南かで目的地が大きく違ってしまう。
東行とは書けない。海上からみれば 真東は陸地だから行けない。 東遷じじい、ボコボコにされて
今夜は泣きながら
「畿内説を論破してやった」とか
妄想日記をつけながら寝るんだろな 出航は朝早くだろうから、太陽が登る方向で東か南かは明白にわかる。
松浦に上陸してから、大体、東へと東へと移動してきたが、その外れの不弥国まで
到達して再び出発して(早朝だ)、太陽に向かって東へ行くと
出発してすぐさま長州の陸地に突き当たる。ここで北か南かの判断を迫られることになる。
南行 と書くしかないだろう。東の陸地に上陸すれば10日ほどでつく。
風向きや天候の都合で海路を取れないこともあるし。
関門海峡はV字型におれまがっているから、南行だからといって
また九州に上陸して沖縄方面への南の海に向かうなんてアホはさすがにしない。 >>502 東の陸地に上陸すれば一月ほどでつく
と訂正。勘違いした。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 >>234
>どう分析したら約70mとか出たの?<
古田第1書では、比定地に諸説がある不明な里記載を一旦省いて、
安定した計測の場である韓の方四千里が最も基準になる里記録であるとされ、
それに、周辺島々を含めた一大國の、方三百里を基準に加えて、
更に、比定地が諸説ある里記載を、当時の通説に従って、計算に加えられて、
当初は、1里≒90m〜75mとされた。 >>505
つまり、まったく帰納などしないんだな
ww w ww >>235
>>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。<
>それ、甲乙違うから<
橋本の音韻ルールや、甲音乙音ルールは、
奈良時代の万葉集や古事記などからの「推定」であるに過ぎず、
それよりも400年も前の使用音韻ルールを特定断定出来るものではなく、
また中国の音韻ルールや、大陸や南洋からの渡来の縄文系や毛人の持っていた音韻ルールと、
一致する筈もなく、
文字や音韻の選択の原則は、「類似意味や類似音韻文字」の選択である。 >>510
このように、あらゆる学問を否定しないと
出発点にも立てないのが
九州説 >>236
>いや、不彌國で、「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ消化されているから、<
>どういう計算?<
魏使らの移動距離記載の合計。
>国と国の間の距離はどうなった?<
原則は、居住外縁部間の距離。 >>510
だから「類似音韻文字」じゃないからダメ
と指摘されてるわけだが >>512
つまり、国の中の移動距離を加算してないから
合計はデタラメってことだな 稲作はそもそも中国→日本→朝鮮ルート
なぜ九州がいつの時代も僻地なのかはカルデラ噴火によって文明が断絶したから
つまり南方由来で九州に上陸した日本人は本州へ進出しカルデラ噴火により九州は全滅
だから歴史的に本州が栄えている >>516
そうやって非科学に流れたから
九州説は亡んだ 「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」
全部乙類
中国の音韻ルールは関係ない こうして振り返ると
どうして九州説が衰退したか
よくわかる >>237
>新唐書は、唐代までの中国記録と、大和の僧の「王年代紀」とを合わせ、
また、旧唐書や唐会要のように「倭國伝と日本国伝との書き分け」をしないで、<
>逆だよ 書き分けなんかしたのは後にも先にも 旧唐書と唐会要だけ<
当たり前。
だから、
「旧唐書や唐会要のような倭國伝と日本国伝との書き分け」をしない、
という事を言っている。
そして、これも、釈日本紀紹介の延喜講記には、
大和側の「日本國」という国名を中国が承認したのは、唐初の「武徳中」であった、
という事であり、
古田さんの、「裴世清の大和訪問の書紀の記載は、実は12年後頃であった」という説とピッタリ合った、
という事になり、
旧唐書と唐会要が、倭國伝と日本國伝とを書き分けた事の証拠になっていた。 甲類乙類というのは百済亡命官僚の方言、すぐ廃れたね >>520
関係あるだろ
全ての条件下で、邪馬台国は畿内ヤマトのことだ 倭人の発音を漢字に当てたんだから
百済人の方言じゃない 結局畿内説は関西人
九州説は九州人が言ってんだろ
他説もそう
その時点で説得力なんぞありゃしない勝手解釈身内贔屓
うちの魚が日本一美味いと言ってんのと同じw
精々重箱の隅をお互いつつきあっとけや
マスターベーションしとくのが一番気持ちいいんだからな >>240
>(筑紫の語源問題)語源なんて、どうしてわかるの?<
筑紫という呼称文言の最古の使用例や、その当時の「チ、ク、シ」という音韻の使用痕跡から。 >>242
大和説に対する質問にまったく答えられず、
九州説の「史料事実からの帰納的推論」への「絶対断定要求」という、
頓珍漢な・・・・的な要求で、議論に勝とうとする大和説者。 >>243
>休養しろという神の声だ 二、三年投稿をヤメてみろ<
嫌だよ。
もうそんなに生きる事が出来るのか?も判らないから、
出来る内に、国民のために、
嘘吐きダマシの・・・・大和説のウソダマシを、暴いておかなければならない。 >>246
>結局どう書きたかったんだ?<
もう、何度も書いて来ていた事だから、それを読めばよい。
キミに同じ事の返事を書く事も、面倒。 倭人と百済人とは同じ言語を話していた
賛成する人、手を挙げて >>249
>古田説は「不可知部分への帰納的確率的な推論」をしないから問題なわけだが <
古田さんは、ご自分の本で、
自説は「史料批判をした史料事実からの帰納的推論」だ、
とはっきり書いておられた。 >>250
「南→東」など史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説は、
穴だらけの説だからねえ。 >>251
>確率計算をしない「確率的な推論」って何?<
確率計算出来る史料実態は、確率計算をし、
確率計算が困難な場合は、信頼性や客観性の大小を吟味して、
過半数とか、明らかに確率が高いとか、非常に確率が高いとか、
極めて確率が高いとか、殆んど100%とか、ほぼ100%とかの、
信頼性の「大体の表現」で区別する。
逆に、信頼性や客観性が低い場合も同じ。 >>217
計算すると不彌国までで1万7百里で、女王国までの1万2千里に
1300里足りない
水行は途中移動の動詞
投馬国は行ってないにしろどこになるのか >>522
>古田さんの、「裴世清の大和訪問の書紀の記載は、実は12年後頃であった」という説
なんで中国にいっさい記録がないの? >>255
>>>根拠って、何?<
>>自然や歴史における「存在確認された事実」の事。
不可知部分への帰納的確率的推論の根拠になる。<
>どんな「存在確認された事実」があるのか? って質問だろ ごまかしてんの?<
思想宗教にクルったらしいケダモノからの、
「根拠って、何?」というような曖昧で意味不明な質問には、
何を答えても・・・・は、「違う」、と騒ぐだけだから、
一般論で答えて置くの。 >>544
逃げたわけか
根拠がないんだなw
w
w >>541
>確率計算が困難な場合は、信頼性や客観性の大小を吟味して、
>過半数とか、明らかに確率が高いとか、非常に確率が高いとか、
>極めて確率が高いとか、殆んど100%とか、ほぼ100%とかの、
>信頼性の「大体の表現」で
つまり確率でも何でもないものが
確率の名を騙っているわけだな >>511
キナイセツへの批判を少し書き換えただけで九州説への批判になると思っている? >>258
>カッコつけて内実の伴わない修飾をしただけだな
駅前商店会の「方から」来ました・・・みたいな<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
思想宗教的にクルって、「何でも絶対断定返事を要求する」・・・・ケダモノであり、
史料事実からの帰納的推論が「絶対断定になっていない」と騒ぐだけだから、
原則論で放置して置くの。 >>531
>大和説に対する質問にまったく答えられず、
そんな証拠あるか?
またウソをついてるんだな >>550
いいえ
史料事実からの帰納的推論なんてしてない
見た目繕うだけの虚偽看板だ
と指摘している >>528
筑紫という呼称文言の最古の使用例
ってなに? >>550
>史料事実からの帰納的推論が「絶対断定になっていない」と騒ぐだけだから、
また、ありもしない発言を捏造しているな >>528
「チ、ク、シ」という音韻の使用痕跡
って何のことだ? >>260
>会稽東冶の東としているから <
ウソを付くな。
陳寿は、「会稽東治之東」と書いた。
>陳寿は1里が400m台のつもりで書いている<
誤魔化すな。
「自郡至女王國萬二千餘里」だから、
1里が400m台のつもりなら、4800km以上になり、
それが東南方向でそれがあっても、南北距離は3400kmで、赤道近くまで行ってまい、
「東冶」の東には全くならない。 >>544
>「根拠って、何?」というような曖昧で意味不明な質問には、
>何を答えても・・・・は、「違う」、と騒ぐだけだから、
>一般論で答えて置くの。
つまり九州説の根拠が全部否定されちゃったんだね >>531
「史料事実からの帰納的推論」への「絶対断定要求」
って何のことだ?
言ってて自分で理解してる? >>261
>>陳寿の三国志などでの旅程や行程や行軍の説明では、
「人類の常識」的な原則として、
「出発説明+途中移動の説明+到着の説明」の 書き分け説明になっているから。<
>そんな変な 書き分け説明になっている って証拠は?<
三国志での記載だ、と言っている。 >>544
>「根拠って、何?」というような曖昧で意味不明な質問には、
あんたの特定の主張について
その「根拠って、何?」と聞くことの
どこが曖昧で意味不明なんだ?
根拠がないって自白じゃないか >>562
>> ・・・って証拠は?<
>三国志での記載だ、と言っている。
どの記載?
誤魔化し? >>265
>(南)史料事実だと、どうして 殆ど100%正しい ことになるの?<
これも何度も説明した事。
魏使らは周髀算経や礼記の方向決定法を知っている事や、
三国志の魏の役人らの方向記載には間違いが見られない事や、
裴松之や宋明清の考証校勘学者は誰一人「南」の校勘をしていない、
などの史料批判に拠って。 >>559
残念でした
香港あたりが洛陽から7千里くらい南だって認識なんだから、東冶でピッタリだな >>266
>「史料実態」ってなんだよ? 怪しげだな<
例えば、狗邪韓國〜對海國が千余里、という記載自体が史料事実であり、
それの地図上での測定km数が、史料実態だ。 >>567
>それの地図上での測定km数が、史料実態だ。
具体的に、どこからどこまで何kmなの? >>565
>三国志の魏の役人らの方向記載には間違いが見られない事や、
間違いが見られないって証拠は? >>565
>これも何度も説明した事。
毎回論破された事 >>567
つまり史料実態とは、随分と怪しげなモノなのだね >>565
>裴松之や宋明清の考証校勘学者は誰一人「南」の校勘をしていない、
最初から間違っていたなら校勘をするわけないでしょ >>565
>魏使らは周髀算経や礼記の方向決定法を知っている事や、
知っているって証拠は? >>559
>ウソを付くな。
>陳寿は、「会稽東治之東」と書いた。
東冶と東治は同じ場所です >>268
>実態だと言い張るけど 理由は?<
ついさっき、誰かに説明済み。 >>537
「自分は泥棒してない」と口先で言ったら無罪になるのか?? 中国では17世紀まで地球平面説だから
四角い右下の隅っこに倭がある程度の地理観 >>578
>ついさっき、誰かに説明済み。
こんな感じで、いつも具体性がないんだよねえ >>269
>素人の独断をなんでも「人類の常識」で押し通す気か<
旅程や行程や行軍の説明では、
「出発説明+途中移動の説明+到着の説明」というのような、
順次式の書き分け説明をする事は、人類の常識であり、
滅茶滅茶の順番に書いたり、逆に書いたりする人間は、
人類の常識知らずの、・・・・か詐欺師か、だよ。 >>576
ど素人古賀本人が(江戸時代に書かれた)成務四十八年は信用できないと書いてるのに
他の部分は一切史料批判せずに平均在位年数だけで計算するところが古田信者の特徴 >>586
>「出発説明+途中移動の説明+到着の説明」というのような、
>順次式の書き分け説明をする事は、人類の常識であり、
それが人類の常識だと、あなたはどうやって知ったの? 九州説は質問に、まったくと言っていいほど
答えられない >>589
ごめん、忘れてた
質問に答えるわ
今日の夜食は肉まんを買ってある >>586
>人類の常識知らずの、・・・・か詐欺師か、だよ。
証拠を出さずに常識だと言い張るのが
まさに詐欺師のやる事じゃないのか? >>586
つかぬ事を伺うが
ザラコクは人類なのか? >>270
>一里が70mくらいとかだったら、倭人の国が揚子江あたりまで南になるわけない
その程度の計算は誰にでも出来るだろう<
一里が76mであれば、萬二千余里は912km余り。
郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は8.2度差。
帯方郡は、ほぼ北緯38度線付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯30度付近。
そして、揚子江河口付近も北緯30度位。
ほら、揚子江付近の東になる。 >>595
>一里が76mであれば、萬二千余里は912km余り。
ダメだね
韓は方四千里しか無いんだから
韓国内を七千里も南に行くのは詐欺 >>595
一里が76mであれば、三千里差し引いて九千余里は684km余り。
郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は6.2度差。
帯方郡のあった沙里院は、ほぼ北緯38.5度付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯32.3度付近。
ほら、揚子江河口にはぜんぜん届かない。 >>274
>陳寿は郡使からの報告書を写しているだけであり、一里がどれくらいかは考慮していなかった。
しかし実際には東夷で使われていた里は80メートルくらいであった<
いえ、
陳寿は、「地の文」で、中国側の場所との対応を計算して、
「計其道里、當在會稽東治之東」と書いているんですから、
「自郡至女王國萬二千餘里」で「會稽東治之東」になる事も知っており、
會稽東治の場所は、長里では全く出て来ず、短里でなければ出てきませんから、
魏使らと同じく、
「短里」を知っていて使った、という事になるんですよ。 >>598
會稽東治の場所は、長里で丁度よく、短里では長江も渡れないのですから、
魏使らと同じく、
「長里」だけを知っていて使った、という事になるんですよ。 >>277
>日向峠はクシフル山の南じゃないか?
クシフル山は高祖山のすぐ南の峰で、平原遺跡の目の前。
ここが倭国の都だよ。<
「筑紫=チクシ」の語源を推定していたので、「クシフル」を考えていたんですよ。 >>284
>だいたい、「短里」なんてものが存在すると言い張る理由はなんなんだ<
周代から唐代の文献や、中国周辺の距離記載に、
「長里では全く合わず、短里でほぼ合う記載」が非常に多いから。 >>605
君には食うことを勧めるね
俺はしないが >>607
どうせ「ほぼ合う」とか言っておいて
聞けば「ほぼアウト」なんだろ 街道の整備された中国国内では車輪の回転数で距離が測れるから妥当な数字が記録に残ってて、難路の山岳、沼沢地域などで怪しくなり、辺境ではかなり怪しいってだけだ
単離など無いよ >>285
大和説の人は、どうしてぜんぜん大和説の理由や根拠を言わないんだろうかね ?。
結論ばかりをゴリ押しして、
九州説には、膨大な「全証拠の提示」を要求して、
直ぐに「返事がないから九州説が負けた」と叫び出す出す・・・・詐欺師だから。 >>619
大和説じゃないから関係ありません
ここは畿内説のスレです >>286
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの指摘に対して、
言い訳も反論もないからさ 。
大和説が生き残りたい、という欲望が有るだけだから。 >>619
なんにも証拠を出さないじゃねーか
詐欺師だから >>619
証拠を聞かれると石のように黙っちゃって
返事しないから
九州説は負けたんだよ >>287
>>魏志倭人伝と実際の地理を比較してみたまえ。<
>比較したよ だから、なんなの?<
何故、それを一つでも書き出さないの?。
大和説者は、・・・・詐欺師だから。 オウム返ししたりニセスレたてて嫌がらせしたり
負けた九州説のやることは
みっともないよ >>624
しつこいなぁ
俺の鼻からハナクソが消えたのが証拠だよ
どうだ?これで満足したか? >>291
なんで大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しの理由を言わないのだろう?。 >>293
>「計其道里、當在會稽東冶之東」<
嘘を付くな、大和説者。
「計其道里、當在會稽東治之東 」だよ。
>(倭国までの)道のりを計ってみると、(洛陽から)會稽東冶之東までの距離に相当する
だね <
嘘を付くな、大和説者。
「自郡至女王國萬二千餘里」の事を言ってんだよ。 >>295
大和説者は、頑張って捏造しないと、大和説を維持できないと?。 >>301
大和説の生存の道は、言葉尻への捏造への口先誹謗の騙ししか無いのか?。 >>633
「大和説者」とか頑張って捏造しないと、ザラコクは九州王朝説を維持できないの? >>635
なんかムチャクチャな日本語だな
言いたいことはわかるけどさー
嘘はいけないよ >>304
>語学のプロたちの訳
「倭の位置を計算してみると、ちょうど会稽・東冶の東にあたる。」
「その道程や里数を計算すると、ちょうど会稽の東冶の東に位置している( はずだ)。」
「その行路の里数を計算すると、〔 倭国 は〕 とうぜん、会稽や東治( 冶)の東にあることになる。」<
この大和説のプロたちは、皆「治→冶」という、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・詐欺師ばかりだね。 ちなみに俺の夜食はカレーだから、くれぐれも余計なことは言うなよ >>306
そうやって史料事実をないがしろにして、
「南→東」などのように、嘘つき騙しをして来たから 、
大和説はダメになった。 >>647
史料事実を史料批判するのは歴史学の普通 古田が教職捨てて商売始めた時代は、文献だけじゃなくて
出土品も怪しいものが持ち込まれたんだよな >>308
>畿内説でも九州説でもいいが、<
「畿内説」なんて、「大和→畿内」のすり替え詐欺であり、よくない。
>会稽東冶でも会稽東治でもいい <
会稽東冶は、魏志には存在しない。
>その東に日本列島はあるのか?<
会稽郡の東の治所域の東には、九州はある。 >>652
まあ死者を鞭打つのは何だが、安本もカウントダウンだからな >>651
うーん・・・このぎゅるぎゅる音はやばいかも >>654
「会稽郡の東の治所域」なんてものは存在しないし
会稽郡の最北端の東にも九州はないよ
もっと北だから >>309m
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者って、
そんなデタラメな説を言ってた・・・・ケダモノだったのか?。 >>658
どんなデタラメな説?
どこがデタラメ? >>656
PCの前を離れたくないからって、使うなよ
手近な発泡スチロールの椀とか >>312
南は東の間違いではないから、
この大和説者も、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・ケダモノの仲間です。 >>661
南は東の間違いではないって断定する根拠は? >>319
簡単にバレる嘘をつくのが、大和説の・・・・ケダモノの脳。 >>322
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノの大和説さんは、
地頭が悪いんだね?。 >>325
「南→東」などのウソツキ騙しのでないとケダモノ詐欺師の大和説でないと、
安部自民らやNHKや読売産経やキョクウ戦争狂らが応援する大和説学者には、
なれないんだねw ?。 >>326
大和説学者らは、本当にそんなトンデモ説を唱えてたのか?。 >>668
文献無視して考古学で勝負する?
鉄器ゼロだけどそれも嘘つき騙しで乗り切る?
挙句の果てには国宝金印が偽物?
日本人が騙せるとでも? >>670
そんなトンデモ説って
どんなトンデモ説? >>672
国宝金印が偽物とか、誰が言ってるんだ? >>328
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や、
それを応援する安部自民やNHKや読売産経らや国粋皇国史観戦争狂のキョクウらの、
・・・・ケダモノ詐欺師ぶりには、あきれたわw。 文献無視して
考古学データも無視
キナイコシはほんとうにおもしろいなあ >>677
金印は本物
当たり前のことだ
だよな? >>686
だから
国宝金印が偽物とか、誰が言ってるんだ? 倭奴国が倭国の代表だと困る人たちが偽物だと叫んでいるのだろう。 >>335
>台与の墓なら可能性あるよ箸墓は <
「台予」」なんて存在しないし、
箸墓は、4世紀だから、始めから卑弥呼にも壹與にもかん刑がない。 いい加減に気づいたほうが良い、
頭の病院に行けと言っているんだよ >>698
金印がニセモノと主張するキナイコシにはかないませんて 壹與は国が乱れている最中に伊都で張政に会ってるから
少なくとも前半生は北部九州にいた >>700
九州説、九州説
証拠もないのに言い張るだけ 夜食にカレーってどうなん?
血糖値上がりそうじゃない? >>706
バグがどうした?
お前の脳にあるのか? >>341
大和説者は、相変わらず、 口から出まかせばかりの誹謗ヘイトスピーチを、
言ってるな?。 >>715
悔しいねえw
南→東で文献無視
鉄器ゼロ
金印は本物〜〜〜 誰が作ったのか、
わからないけど、謎のチェーンソーのゲーム
敵:渡来人どもめ〜
と言っていない?
主人公:海賊ごっこは終わり >>343
>(箸墓は卑弥呼の墓か?問題)主に土器編年なんだけどね <
ホケノの「槨」を使わなくて土器を使っても、
285年以後の伽耶人渡来が河内の加美久宝寺が「庄内だけ時期」だから、
(庄内がなく)布留の箸墓は4世紀になってしまうよ。 カレーはルーも食べるからカロリー多くなるかな
ラーメンでスープを飲み干したら塩分が
毎日ならヤバイが
単発なら気にせず豪快に >>719
>285年以後の伽耶人渡来が河内の加美久宝寺が
どう言う意味だ?
通じるように話せ 土器編年で卑弥呼の墓にならんだろ
領内に鉄器ゼロなんだから可能性ゼロ わかった?
まだ、わからない?
それなら頭の病院、または刑務所に行け >>723
土器編年で卑弥呼の墓にならんと言う理由は? >>344
ほら出た。
自分で言ったことに、口先で立証義務転嫁や、自分らの証拠提出拒否 。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って、詐欺そのものだな。 >>725
そのまんま
考古学的に領内に鉄器ゼロ
そうじゃないという証拠は? >>346
大和説のトンデモケダモノ詐欺師は、
(倭国までの)道のりを計ってみると、
自郡至女王國萬二千餘里は、會稽東治之東の東西線の位置までの距離に相当位置しない、
って主張してるんだね?。
會稽東治之東って、どこなんだ?。 >>737
だから考古学的に領内からの鉄器出土ゼロじゃん
これ以上なにを言えとw >>739
なに言ってんだかわからないが
台湾あたりだな >>347
悪口言っても、
大和説学者らの「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソは、
誤魔化せません 。 炭酸水おススメ
ジュースじゃなくてただの炭酸水のやつね 史料事実は否定曲解
考古学で鉄器ゼロ中国学術出土ゼロ
挙句の果てには金印がニセモノだと
説としてはもう大崩壊? 畿内説者って無知なやつばっかだな
無知だから畿内説なんだろうけど >>350
また嘘つき騙しの・・・・ケダモノの大和説学者らが、
論破されたのか?。 史料事実は否定曲解
考古学で鉄器ゼロ中国学術出土ゼロ
挙句の果てには金印がニセモノだと
説としてはもう大崩壊? つか、日本人? >>360
そもそも 「計其道里、當在會稽東冶之東」なんて嘘つき騙しを書くことからして、
大和説者は、・・・・ケダモノのインチキだろうの?。 何の話をしているんだ?
頭のビョーインに行け、または刑務所 >>363
「南→東」などの嘘つき騙しを隠して、
居直る・・・・ケダモノ詐欺師の大和説学者。 史料事実は否定曲解
考古学で鉄器ゼロ中国学術出土ゼロ
挙句の果てには金印がニセモノだと
説としてはもう大崩壊? つか、日本人? まあ壊れもするさ
長年信仰してきた九州説が、よりによって最晩年に崩壊したんだからな あまり怒らせんなよキナイコシ
こっちは事実を羅列するだけでいいんだぞ
そっちは困るんだろw >>771
連呼モードか
こいつは四等ジジイの壊れ方だな まあ壊れもするさ
長年敵対してきた九州説が、よりによって最晩年に確定したんだからな
そしてもう二度と覆らない >>773
別に困りません
九州説が証拠を出せない宗教だって
自分で宣伝してくれてるんだから
九州説の自壊を笑って見てるだけでいい >>776
鉄器ゼロと判明しても認めないその見苦しい姿
こっちからしたらもう別にどうでもいい >>367
大和説学者は、
安部自民や右翼マスコミやキョクウ人種差別の皇国史観戦争狂らのために、
漢文のインチキな読み方を発明し、
誤魔化しをしていい加減な方向や数字を出して、
それでインチキ読みを正当化しようとするという、
、・・・・ケダモノ詐欺そのものデス。 同じことを 何度も 言わせるな と 言っているんだよ >>370
>無いから南は東の間違いだと主張しているわけだが <
ほら、やっぱり大和説学者は、「南→東」などの嘘つき騙しの、
・・・・ケダモノ詐欺師。 なんでキナイコシのためだけに自国の金印をニセモノ扱いしなくちゃいけないんだよw
1世紀の金印とかマジ感動もんだろ これも以前から書いているはず
何の話をしているんだ?
何も知らないのなら、
黙っていたほうが良いんじゃないのか >>784
だから、「南→東」がなぜ嘘つき騙しなの?
理由はないの? >>786
頭が変なのか?
畿内説はべつに、金印が偽物だとか主張してないだろ? >>788
うまくリードしているつもりかもしれんが
古代史に興味を持つ全ての人間がお前をウザいと思っている >>790
だよな
博多湾で出土した金印は本物だもんな スレ消費するたびに無意味な誰も読まないテンプレを張りまくるんだろw
面白いからどんどん行こうぜw >>372
>(翻訳しました) 誤差だと言って誤魔化して 整合してると嘘をついてるね<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、全ての推論には誤差が避けられないのに、
大和説学者は、誤差がある、と言って嘘つき騙しの誹謗をしている・・・・ケダモノ詐欺師だね。 鉄ガー連呼厨は、なぜ鉄がないといけないのか論理的に説明できない
これ、豆な 誤差については弥生時代であることを考えれば
充分に理解できる範囲内
北部九州邪馬台国で確定 >>375
>>南は東の間違いだと主張 <
>おまえ低脳だなw <
お前が大和説者なら、嘘つき騙しの・・・・ケダモノ詐欺師だな。 >なぜ鉄がないといけないのか論理的に説明できない
鉄がないことがわかってはいるようだな >>800
マル九「ぴったりだ」
一般人「ぜんぜん合ってないですけど」
マル九「誤差だァ」「誤差ダァ〜」 九州説にはなにもない
理由もない、証拠もない、論理もない マル畿「ぜんぜん合ってないですけど」
一般人「え?弥生時代に誤差これだけ?ぴったりだ」
マル畿「根拠なし」 >>376
>紹興市は北緯30度 屋久島付近に相当する よって陳寿が説明を書いた倭国は会稽東冶の東にない
証明終わり <
会稽郡の東の治所地域の東はほぼ九州に相当する。
よって陳寿が説明を書いた九州の倭国は、会稽東治之東にある。
証明終わり。 北部九州の邪馬台国を精密に描いた文書ということで
なんの問題もない。
議論はとっくに終わり。 >>813
ニセモノだから、何もないよ
よく中国や朝鮮?のことを
コピー、コピーという話があるみたいだけど
ほとんど逆 >>377
>罵倒しても反論になりません <
大和説者が、いくら史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしても、反論になりません。 証拠ださない、理由言わない
ひたすらひたすら言い張るだけか
九州説ってか、これ痴呆化の進んだ耄碌爺さんの特徴だろ >>825
スレ消費するのはいいけど
なんかおもろいネタないの? 南水行の南は東の間違いだって説明に
おじいちゃんたち、ぜんぜん反論できないの?
最後の拠り所じゃなかったの?
あとがないよ >>381
>会稽東冶は日本列島よりずっと南である <
史料事実は「計其道里、當在會稽東治之東」であるから、
この時点で、この男は・・・・ケダモノ詐欺師である。
>九州島到着まで倭人伝記載の方位には大きな誤りがない
よってそれ以降に書かれた方位には誤りがある <
魏の役人たちの方位記載には、全く誤りがない。
>誤りとは南で、東が正しい <
よって、この男は、二段階にて嘘つき騙しをしている。
立証終わり。 >>834
もう大崩壊しちゃったんだよ
日の光を見ることはもう無い ザラコクも三年以内に死ぬ可能性をひしひしと感じてるようだしね 実際学術レベルでは比定地の議論はもう終ってるけどな 距離の実測には誤差があるだろう
だがそれは3世紀ということを勘案すれば正確
距離の実測に誤差があっても、陳寿の認識は
一万二千余里=邪馬台国=博多
ここで一つの史学的決着
方角の実測は間違えようがない
南と東も書き写し間違えようがない >>838
その前に痴呆化でログインできなくなるな >>384
魏使らの方位が間違っていないから、筆者は会稽東治の東と書いた。 >>845
三国志東夷伝の全ての距離記載が有効数字一桁の誤差範囲内に納まっているから
これは3世紀においては驚異的に正確だと言える >>844
方位が間違っていないと、どうして筆者は会稽東治の東と書くの?
理由は? >>843
「平原遺跡が卑弥呼の墓」説が、もう終了 >>846
実際的には複数の魏使が来倭したのだから
複数の人間が太陽の方角を確認したわけであり
間違えようがない
結論的には
方角記載に従って倭人伝を解釈して
北部九州邪馬台国で綺麗に整合性が取れている >>847
「全ての距離記載が有効数字一桁の誤差範囲内に納まっている」って証拠は? >>388
>北の間違いではない 戻らないから
西の間違いではない すぐ海だから よって東である<
魏の役人たちの東西南北の方向は全く間違えていない。
よって「南≠東」である。
証明終わり。 なぜ、お前のような輩が偉そうにしていたり、語ったり?しているんだ 畿内説はもはや
北部九州邪馬台国平原卑弥呼墓説に
土下座して質問を繰り返すだけwww >>841
陳寿の認識が
一万二千余里=邪馬台国=博多
だって根拠は何なの? >>854
質問にまったく答えられない九州説がみじめです >>394
>水行だからOK<
魏の役人たちは東西南北を間違えていない。
よって、水行だからOK、も×。 >>857
倭人伝が、なんでそんなことの証拠なんだ? >>858
キナイコシのスレだろ?
どんどん自説を開陳してみせろよw
なんで九州説に土下座してレス乞食してばかりなんだ?w
ほれ
金印は本物
否定したければその証拠を見せてみなw >>859
魏の役人たちは東西南北を間違えていない
って理由は? レス乞食を調教しないとな
ホレ
鉄器ゼロだから邪馬台国じゃない
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>863
にしからのぼったおひさまが
ひがしーへしずーむー レス乞食を調教しないとな
ホレ
金印は本物
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>403
「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に、
大和説はいつもすぐ諦めて逃げるよ。
そして、ほとぼりを冷ましてから、
また同じことを言い張る。 >>865
鉄器ゼロだって証拠は?
もし鉄器ゼロだったとして、邪馬台国じゃないと言う理由は? >>870
今まで教えてやってばかりで甘かったわ
たまにはレス乞食を調教しないとな
ホレ
鉄器ゼロだから邪馬台国じゃない
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>868
>否定したければその証拠を見せてみなw
あんたが自分の主張の証拠を出せないことが証拠だよ 平原遺跡が卑弥呼のはーかー
確定!
否定したければその証拠を見せてみなw >>407
今日も大和説学者は、「南≠東」でボコボコだな 。 レス乞食を調教しないとな
ホレ
中国学術出土ゼロの銅鏡は国産鏡
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>874
あんたが自分の主張の証拠を出せないことが証拠だよ レス乞食を調教しないとな
ホレ
平原遺跡の超大型内行花文鏡を頂点として畿内各地を大型内行花文鏡が征服
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>878
その論理が成り立ってないことが、動かぬ証拠だよ レス乞食を調教しないとな
ホレ
金印は本物
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>412
南は東の間違いではない、ってことで、
確定だね。 『本当はクズだった偉人伝』
日本人?のところだけ、読んでみて 理性的に議論できる人材がもういないのが
九州説の悲劇だな 自スレで何も呈示できないキナイコシ、終わってるなあ・・ >>891
たくさん提示されてるけど、見えないのかな >>892
なんぞと泣き言を言う負け犬さんですねえ 九州説はクズ説と読みます
キューシューと読むのは間違いです >>413
>陳寿は1里約400mの常識で考えてる<
嘘を付くな。
魏の役人らも陳寿も、1里≒76m位の短里で記載している。
>それで会稽東冶くらい南だと計算した<
嘘を付くな。
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と総括した。
>つまり九州本島到着後の南水行は東水行が正しい<
嘘を付くな。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、「南水行」なんて存在しない。
従って、「東水行」なんて始めから存在もしない。 >>420
「南→東」などの嘘つき騙しの、
トンデモ・・・・ケダモノ詐欺師の大和説学者は、死滅だね、。 九州説の学者がいなくなった現状では
素人さんは、邪馬壱国福岡説と狗奴国に比定されてる熊本説との
敵対関係で論争して遊ばないとだめなんだよ >>424
論理的に語れるオツムを持ってない上に、
国粋皇国史観の思想宗教に狂った・・・・ケダモノ詐欺師だから、
大和説学者なんだろうさ。 レス乞食を調教しないとな
ホレ
中国学術出土ゼロの銅鏡は国産鏡
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw >>431
大和説学者って奴はって、
倭人伝読んだことない・・・・ケダモノ詐欺師なのか?な。 レス乞食を調教しないとな
ホレ
鉄器ゼロだから邪馬台国じゃない
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw 思考停止繰り言老人二匹か
九州説の末路は惨めなものだったな >>432
「南≠東」から逃亡して罵倒=論破された大和説学者?の人。 >>437
大和説はすぐ反論できなくなって、
罵倒だけになるな。 レス乞食を調教しないとな
ホレ
平原遺跡の超大型内行花文鏡を頂点として畿内各地を大型内行花文鏡が征服
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw 日本(倭)?の都というのは九州にあったの?
それとも畿内にあったの? 九州の伊都だろ
もう九州説にとっては当たり前
畿内説はもう終わり?
根性が足りないんじゃないのか? レス乞食を調教しないとな
ホレ
金印は本物
キミは1000%
否定したければその証拠を見せてみなw 金印は本物だよ
そう言ってる相手に
>アタマのビョーインに行け
はい、今日も安定のキナイコシw 金印は本物だよ
という当たり前のこと
それに対してキナイコシは
>アタマのビョーインに行け
日本人? アタマのビョーインに行け
精神科、精神病院?
そのようなところだよ 成り済まし、騙り、人の家に寄生・・・・など
こういうのは、アタマのビョーキだから、
死なないと治らない、死んでも治らないかもしれない 天理の東大寺山古墳から「中平」の紀年銘を持つ鉄刀が出た。
最近では発掘にも参加した金関恕(ひろし)氏(大阪府立弥生博物館館長、天理大学名誉教授)が、
考古学雑誌第99巻2号(2017年3月)で、
邪馬壹国の女王・卑弥呼がもらった「五尺刀」がこれにあたるのではないかなど見解を述べておられる。
それはそうであろう、刀は卑弥呼しか貰っていないのだから。
※いよいよ邪馬台国論争も最終段階に入った。
しかし>>1君はなぜ天理の東大寺山古墳から鉄刀が出たのかさっぱり分からないだろうし、
どだいチンプンカンプンであろう。
わしは分るぞ。
教えてほしかったら「邪馬台国葛城スレ」に来い。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513281843/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ちなみに東大寺山古墳は久住編年では布留2式・古、
4世紀第2四半期あたりだろうな。 昨日は意味のない罵倒合戦が続いた
罵倒合戦では畿内説が優勢だな >>438
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
反論できないという以前に、自分の主張が正常に説明できなくなってるね。 アタマのビョーインに行け
精神科、精神病院?
そのようなところだよ >>439
>地図見りゃすぐ分かるだろうにw 直線距離だとの主張か?
それでも会稽東冶の方が遠いだろ おまえら、アタマ悪すぎ<
まだ、お前ら大和説者は「東治→東冶」の嘘つき騙しを書いているのか?。
おまえら、アタマ狂い過ぎ。 >>923
議論で負けたお前が罵倒で返してたんじゃないのか? >>440
>「計其道里、當在會稽・東冶之東」だね
倭人伝に記載されている道里なら
起点は帯方郡治で終点が邪馬台国だ<
この大和説者は、未だに、
「東治→東冶」や「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘つき騙しの書き換えをやっている
・・・・ケダモノ。 >>450
>お前、国籍どこ?<
お前と同じ。
>それでも(どこから)会稽東冶の方が(どこからどこまでより)遠いだろ <
「治→冶」の嘘を付いて誤魔化すな。 >>452
つまり、いつもの日本語がおかしい、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノの大和説者か。 >>457
>とぼけてないで A、B、Cを具体的地名で埋めよ 話が通じない
それでも(Aから)会稽東冶の方が(BからCまでより)遠いだろ<
相変わらず、・・・・ケダモノの大和説者は、話が通じない。
「治→冶」という書き換えは、嘘つき騙しになるだろ?。 >>458
「南→東」や「治→冶」などの嘘つき騙しの、
・・・・ケダモノアホウ大和説者が居直る。 >>460
>この日本語が通じてないと指摘されてる <
「南→東」などの嘘つき騙しの、
・・・・ケダモノの大和説者の日本語が通じてないと指摘されてるの。 >>461
九州説では、
陳寿は1里約76mの常識で考えてる。
それで会稽東治くらい南だと計算した。
つまり九州が正しい。
に、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノの大和説詐欺師らが、
反論できてないのが実態なんだが。 >>463
12000里は帯方郡治が起点に決まってるじゃないか。
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノの大和説詐欺師は、
何の話をしてるんだ?。 >>468
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノの大和説者は、
毎度日本語がおかしい。
というか、脳の神経数が足りない。 >>469
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノ大和説者であっても、
おかしいデータ出せばクレーム付くのは当然なんだがな 。 >>470
出所不明の「東」や「冶」を出せば、出所を聞かれるのが当然 。
出所を答えて問題があれば、それを指摘されるのも当然。
クレームがつくのがイヤなら、
大和説者は、始めから、「史料記載を改竄した主張」などするな。 庄内式土器は北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、
近畿地方では大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市にかけての限られた地域にしか分布しないのが特長である。
そのため、近畿の土器に吉備の土器が影響して出来たとする説や、逆に、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。 >>471
逃げ回ってないで、
具体的地名は、史料記載事実で埋めよ。
誤魔化すな、・・・・・ケダモノ大和説者。
「それでも(Aから)会稽東冶の方が(BからCまでより)遠いだろ」
の「会稽東冶」なんて、魏志倭人伝にはないだろ?。 纒向編年(まきむくへんねん)とは、日本の奈良県桜井市に所在する纒向遺跡において、
発掘調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、
豊岡卓之による纒向遺跡出土の弥生土器・土師器を分類・整理して得られた編年である。
1類から5類に区分されるが、暦年代については必ずしも考古学会で定説とは認められていない。 >>473
・・・・ケダモノ詐欺師の大和説者は、負けて逃げて
Gスレに閉じこもったか?(笑?。 >>477
「南→東」などの・・・・ケダモノ大和説者が、
知能の低さをいかんなく発揮しているな?。 宮城県石巻高等学校 偏差値50
関西学院大学 文学部 偏差値55
まあこんな連中 >>482
>関門海峡も同じ。 九州北部から畿内へ行くには、 関門海峡の入り口にさしかかったとき、
南か北の2択しかない! 東行とは書けないんだよ。陸地だから。
南へ行く。あとは陸沿いに行けば近畿に付く。<
この男も、不彌國から「南」にあるのを、「東の大和方向」にする嘘つき騙しをしているから、
・・・・ケダモノ詐欺師の大和説の仲間であり、
価値なし。 あと50で1000か・・・
終わりごろは誰も見ないから
初めの長ーいテンプレも誰も見ないが >>485
>山地でもそうだが、目的地まで見通せないときは、 出だしの方角を言うものだ。
松浦半島でも山沿いにぐるっと回るから 方角がずれるところがある。
見通せないのだから、しょうがない。海を行く場合でも畿内方面は
陸地に遮られて見渡すことができないのだから、関門海峡の入り口である
南に向かって進む、というのが正解ということになる。
これが魏志倭人伝のナゾときだ。<
陳寿は、読者が間違えないように、きちんと、
「出発の説明+途中移動の説明+到着の説明」というように、
書き分けてあるから、間違えない。 まぁ>>1のテンプレが長すぎて誰も納得はできない。
ダルい。
専門的な事をツラツラ並べて突然に卑弥呼の都が纏向であるなどと飛躍。
これじゃぁダメだ。
わしの葛城スレの>1を見倣え。 >>949
全く同意だ。
何が言いたいのかわからないテンプレは役立たず。
スレ主は文章をまとめる能力が欠落している。
はっきり言えば無能。 証拠ださない、理由言わない
ひたすらひたすら言い張るだけか
畿内説ってか、これ痴呆化の進んだ耄碌爺さんの特徴だろ >>488
「南→東」などの嘘吐きダマシのケダモノ大和説の・・・・、
にげたか?。 >>492
罵るだけで、「南≠東」などへの反論が、
ぜんぜん出来ない・・・・ケダモノ大和説学者の負け犬w。 >>495
「南→東」などの嘘吐きダマシの理由もない話に、
納得した大和説者は、・・・・馬鹿。 >>496
つまり、「南→東」などにの嘘吐きダマシの・・・・あんたは、
論破されたアホケダモノ。 >>497
>『副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。 』 みみなり という「ミミ」という人名は出雲地方の特色だから
瀬戸内海を通るにしては変かもしれない<
「みみなり」は九州に多いのだから、あんたの頭も変かもしれない。
>不弥国の外れでから再出航して、 南に行けば畿内につくが、 北へ行けば出雲につく。<
「南≠東」だから、始めから、あんたの頭が✖。
>関門海峡の入り口あたりは、北上か南かで目的地が大きく違ってしまう。
東行とは書けない。海上からみれば 真東は陸地だから行けない。<
「南→東」などの嘘吐きダマシのあんたは、
さっさと海の藻屑に消えてしまった方が、国民のためになる。 >>500
大和説の・・・・ケダモノガキ、ボコボコにされて
今夜は泣きながら
「九州説を論破してやった」とか
妄想日記をつけながら寝るんだろな?。 >>953
味方するわけではないが、このスレを見ていると、畿内説の罵りの方が下品に見える。 >>502
転写するのも、国民に見せるも汚らわしい、
「南→東」の嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの大和説者の投稿。 >>504
>東の陸地に上陸すれば一月ほどでつく
と訂正。勘違いした。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。<
訂正。
「水行十日陸行一月「」は、
その直前の「行程記載の目的地である女王之所都」の説明になるから、
郡から女王之所都までの所要日数説明である事になる。 >>506
つまり、この「南→東」などの嘘吐きダマシの断定ばっかりの大和説の・・・・ケダモノは、
まったく帰納など知らないんだな ばっかり?。
ww w ww >>509
「南≠東」に反論できなきゃ、嘘吐きダマシの・・・・ケダモノ大和説の負の負けだろ?。 >>511
このように、あらゆる史料事実や史料実態を否定しないと、
出発点にも立てないのが、
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの大和説。 >>513
>だから「類似音韻文字」じゃないからダメ
と指摘されてるわけだが <
奈良時代の音韻ルールが、3世紀でも、(類似音韻習慣ではなく)、
100%というのが完全に同じであった、
なんて妄想が通用する筈がない、というのが、
常識なんだが。
というのが 金関さんの言われるように、中平紀年銘の鉄刀は卑弥呼が貰った刀と考える以外にありません。
邪馬台国論も最終局面に入ってきました。
東大寺山古墳のある和邇氏とは何者か。
ここが焦点です。
日本書紀の言う天足彦国押人命(孝昭天皇の子)を祖とするのか、先代旧事本紀の言う阿田賀田須を祖とするのか。
前者は和邇下神社に祀られ、後者は和邇坐赤坂彦神社に祀られてます。
天足彦国押人命なら曲学さんの言うウナビ媛が卑弥呼である可能性が高くなります。
しかし建諸隅の一世代前なので無理です。ましてや台与を建諸隅の子とするのはなおの事無理です。
やはり阿田賀田須でしょう。
スサノオ(帥升) アマテラス 107年
・ オシホミミ
・ ニニギ
・ ホオリ
事代主 フキアエズ
@奇日方(鴨王)※ヒメ踏鞴ー神武 200年頃
A建飯勝 綏靖 220年頃
B建甕尻 安寧 240年頃
C豊御気主 ※トヨ津ー懿徳 孝昭 260年頃
D大御気主 孝安 孝霊 280年頃
E阿田賀田須 孝元 開化 300年頃
崇神(ハツクニシラス) 318年没
太古から続く出雲族のラストエンペラー、最後の大物主、それが阿田賀田須でしょう。
ハツクニシラスこと崇神により倒されました。
クーデターです。 >>514
つまり、国の大きさと、国の中の移動が記載されているから、
その里数を加算してない合計は、デタラメってことだな。 >>515
>稲作はそもそも中国→日本→朝鮮ルート
なぜ九州がいつの時代も僻地なのかはカルデラ噴火によって文明が断絶したから
つまり南方由来で九州に上陸した日本人は本州へ進出しカルデラ噴火により九州は全滅
だから歴史的に本州が栄えている<
何だい?、こりゃ。
稲作渡来時期と、カルデラ噴火時期とを間違えているらしいし、
北部九州はカルデラ噴火の影響は殆どなかったし、
薩摩の上野原遺跡の事も知らないらしいな。 >>519
そうやって「南→東」などの嘘吐きダマシの非科学に流れたから、
思想宗教的な分裂幻覚妄想の・・・・ケダモノの大和説は亡んだ。 はやくアタマのビョーインに行け
お前の家の近所にも
交番や警察署などがあるでしょ、
そこでも良い >>520
>「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等
「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」 全部乙類 <
8世紀の大和の「倭人と毛人蝦夷と半島人らとの混合になった大和の音韻ルールが、
500年の前の倭人らの音韻ルールと100%全く同じだ、なんてことがある筈がない。
原則は、類似音韻がルール。
>中国の音韻ルールは関係ない<
魏使らの伝聞聴取記録も、当然、類似音韻文字での音写。 このような書き込みなど
誰々、いましたか?
いますか?
まだ機織りは、やっていますか? >>521
こうして振り返ると、
どうして、国粋皇国史観という思想宗教的な「結論先にありき」のありき」の、
嘘吐ダマシの・・・・ケダモノの大和説が衰退したのか?が、
よくわかる。 >>524
関係ないだろない?。
全ての条件下で、「邪馬台国」なんて存在せず、
邪馬壹國はヤマトのことではない、という事だ。 『山王院 山王宮』
官職・・・・正式なモノ。
自称、成り済まし、騙り・・・馬の骨から与えられたモノでもない。
伊達郡川俣町という掲示板を読んでみた?
奈良・・・?平安の話をしていたりするから 『聖化 日神 日霊 津』
・天帝より授かった
と書いてない? wiki
『天帝』と同じようなカテゴリー(上古時代の神々)に『河伯』
日本では河童?キュウリ? とあるスレを読んでみた?
・川崎に住んでいるよ
・誰々って川崎に住んでいるんでしょ
このような事を言っている人がいるから、
川崎市川崎区の事だと思う >>530
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
キョクウの唯我独尊の高慢なタカ派の・・・・ケダモノサギシの大和説者は、
大量殺人事件を起こす前に、頭の病院に行けと言っているんだよ。 >>934
1里約76mなんて珍説では邪馬台国が北になりすぎて陳寿の認識と合わないね >>539
大和説学者らは、全員「南→東」の嘘吐きダマシの詐欺師だから、
「学者」の看板に偽りあり。 >>939
安物の珍説は、彼が誰からも相手にされなくなることを促進した >>973
>>520は↓のレスに対して
>>233
>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
>の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
山門(甲類)と「耶馬騰」〜(全部乙類)は同じ記紀の時代
甲類乙類の区別と倭人伝の邪馬壹、後漢書の邪馬臺とは別の話 >>941
もう20年くらいも前の物だからね
現在では、もう少し古い時代だと考える人たちが主流みたいだね >>542
>計算すると不彌国までで1万7百里で、女王国までの1万2千里に
1300里足りない <
對海國と一大國は、国の大きさを書いた上で途中の国内見聞移動を書いたから、
それぞれの国の二辺分が算定され、
奴國へは、途中移動の説明文字がないから、魏使らは通っておらず、省かれ、
だから、不彌國で萬二千余里がほぼ終わった事になる。
>水行は途中移動の動詞<
いや、「出発と到着説明の間に書かれて」いなければ 、途中移動の説明にならない。
>投馬国は行ってないにしろどこになるのか <
南九州。
その中心は、おそらく上野原遺跡。 >>967
類似音韻習慣ってなに?
ザラコク造語? >>989
無理やり別の話と強弁しないと九州説が危ういんもんね 結局、九州説はゴリ押しと罵声だけで中身がまるでないな
これでは邪馬台国論争に負けたのも納得だ >>985
だから九州北部なんだろ。
自分で魏志倭人伝に沿って一里が何メートルか計算すればすぐわかることだろ? >>543
>>古田さんの、「裴世清の大和訪問の書紀の記載は、実は12年後頃であった」という説<
>なんで中国にいっさい記録がないの?<
中国は、本家の筑紫倭國が正式な交渉相手なのであり、
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