邪馬台国畿内説 Part307
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512805088/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>191
>>なるほど。 この男も、新唐書日本伝の「大和州」の記載を隠した、
嘘つき騙しの・・・・アホの大和説仲間であったのか。<
>なんで! 新唐書は日本書紀の影響を受けた半分×だからだよ。旧唐書に従ったまでだ。<
新唐書は、唐代までの中国記録と、大和の僧の「王年代紀」とを合わせ、
また、旧唐書や唐会要のように「倭國伝と日本国伝との書き分け」をしないで、
(倭國の歴史の方を記載せずに)、大和の日本国側からだけの歴史を書いたもの。
また、王年代紀側もまた、日本書紀の記録をもまた全面的に信用踏襲していなかった、
という可能性もある。
>>今度からザラコク氏も、畿内日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
>今度からこの男も、大和日本国は筑紫倭国の別種と、正しく書くように。<
>間違いではないが、大和の名称そのものが九州から畿内政権がパクったものなので、半分×<
おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
>何かいい呼び方はないものか?<
奈良盆地の大倭職の国が梁代には「扶桑國」と名乗った事もあるようですが、
結局は、筑紫倭国の地方の市を監督する「大倭」の呼称を嫌って、
筑紫に対抗して「大和」という文字に変更したんですから、
「大和」でいいんではありませんか?。 >>233
>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
>の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
それ、甲乙違うから >>217
>いや、不彌國で、「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ消化されているから、
どういう計算?
国と国の間の距離はどうなった? >>233
>新唐書は、唐代までの中国記録と、大和の僧の「王年代紀」とを合わせ、
>また、旧唐書や唐会要のように「倭國伝と日本国伝との書き分け」をしないで、
逆だよ
書き分けなんかしたのは後にも先にも
旧唐書と唐会要だけ >>204
>>「クシ」は当然「クシフル」の「クシ」であり、〈フルは集落)、<
>韓国の神話に出てくる「亀旨峰」と同じ語源だよ つまり神話そのものが輸入品だ
日本国内に該当地を求めるのはナンセンス<
いや、問題の始まりは「筑紫=チクシ」の語源問題であったんだよ。 >>205
>だから、「筑紫」は、倭の「山島」の国を支配する」は、<
>日本語としてイミフ<
ごめんね。
いま、PCの調子が悪くて、
打ち込んだ筈の文字が、次に何かの記号や文字を打つと消えてしまったり、
前に打った文字がまた出て来てしまったり、全く別の文字が出て来たりして、
非常に苦労しているの。 >>241
休養しろという神の声だ
二、三年投稿をヤメてみろ 山王でしょ
誰かの、本名なんだよw
と言っている人がいたよ >>206
>そんな語呂合わせでいいなら 日本各地どこでも邪馬台国にできるわい><
勿論「筑紫=チクシ」という文言の語源に関する可能性程度の話。
不可知部分が殆どの自然や歴史において、
可知出来た史料事実を否定曲解する事は許し難いが、
その知り得た可知事実からの「不可知部分への帰納的確率的な推論」は、
科学や学問としての正当な可能性の提示。 >>248
古田説は「不可知部分への帰納的確率的な推論」をしないから問題なわけだが >>249
確率計算をしない「確率的な推論」って何? >>209
>竺紫は天竺(インドの古称)、久士布流多気はでヒンドゥークシュ山脈で
バーミヤーン仏教文化の輸入<
うーん、
クシフルの北の日向峠の西南近くの雷山の千如寺?は、
列島最古(4世紀頃?)のインド僧の渡来の寺?であった筈で、
ヒンドゥークシュの「クシ」なら可能性があるかもね。 >>212
>根拠って、何?<
自然や歴史における「存在確認された事実」の事。
不可知部分への帰納的確率的推論の根拠になる。 >>253
どんな「存在確認された事実」があるのか?
って質問だろ
ごまかしてんの? >>215
>1里を約70mとする九州説こそ史料事実を否定曲解してはいまいか <
1里を約434mとする大和説こそ、魏志などの史料事実を否定曲解してはいまいか?。 >>251
カッコつけて内実の伴わない修飾をしただけだな
駅前商店会の「方から」来ました・・・みたいな >>224
>「途中の移動を示す文言や動詞」が書かれていないと なんで魏使らの通った「主行程」の説明文でない
ことになるんだ? 理由がないだろ<
陳寿の三国志などでの旅程や行程や行軍の説明では、
「人類の常識」的な原則として、
「出発説明+途中移動の説明+到着の説明」の 書き分け説明になっているから。 >>256
会稽東冶の東としているから
陳寿は1里が400m台のつもりで書いている >>259
そんな変な
書き分け説明になっている
って証拠は? >>227
>殆ど100%正しい「南」を、<
>信仰? 宗教?<
「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」。 >>229
>>史料を分析すると、魏志倭人伝わそれくらいのスケールで書かれてあることがわかる。<
>分析したらそうなったって証拠は?<
大和説の「1里≒434m」であれば、
魏志倭人伝がそれくらいのスケールで書かれてある、
という事がわかる、という証拠は?。 >>262
史料事実だと、どうして
殆ど100%正しい
ことになるの? >>262
「史料実態」ってなんだよ?
怪しげだな >>259
素人の独断をなんでも「人類の常識」で押し通す気か 一里が70mくらいとかだったら、倭人の国が揚子江あたりまで南になるわけない
その程度の計算は誰にでも出来るだろう >>233
>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
>の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。
古事記では倭をヤマトと読んでいて、日本書紀では日本と書いてヤマトと読ませている。
大和も同じ頃に登場している。
概ね支持する。 >>237
新唐書からは日本書紀の記事に引きずられているから。 >>260
陳寿は郡使からの報告書を写しているだけであり、一里がどれくらいかは考慮していなかった。
しかし実際には東夷で使われていた里は80メートルくらいであった。 >>271
古事記で倭をヤマトと読んでいて、日本書紀では日本と書いてヤマトと読ませていて
大和も同じ頃に登場していると
どうして
欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があった
という話を支持する考えになるの?
思考の脈絡がわからない
古事記では倭をヤマトと読んでいて、日本書紀では日本と書いてヤマトと読ませている。
大和も同じ頃に登場している。 >>274
そんな風に
決めつける理由は
なんだ? >>252
日向峠はクシフル山の南じゃないか?
クシフル山は高祖山のすぐ南の峰で、平原遺跡の目の前。
ここが倭国の都だよ。 >>276
魏志倭人伝と実際の地理を比較してみたまえ。 >>274
>陳寿は郡使からの報告書を写しているだけであり、一里がどれくらいかは考慮していなかった。
なら
「計其道里、當在會稽東冶之東」
って誰が書いたんだ >>279
長里だと思い込んでいたけれど、実は短里だった。 だいたい、「短里」なんてものが存在すると言い張る理由はなんなんだ 九州説の人は、どうしてぜんぜん理由を言わないんだろうね
結論ばかりをゴリ押ししてる 理由がないからさ
九州説が生き残りたいという欲望が有るだけだから 理由を聞かれて答えられないから
誤魔化しただけだよ >>269
>倭人の国が揚子江あたりまで南になるわけない
そもそもこれがでたらめ >>291
「金が欲しい」とか
「女が欲しい」に
理由が要らないからだよ 279
>「計其道里、當在會稽東冶之東」
(倭国までの)道のりを計ってみると、(洛陽から)會稽東冶之東までの距離に相当する
だね >>293
そんな変な訳をデッチあげる理由は?
w
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w >>293
頑張って捏造しないと九州説は維持できないと >>293
そんな日本語訳を考案した人は
世界でアナタ以外に
誰かいるの? 語学のプロたちの訳
「倭の位置を計算してみると、ちょうど会稽・東冶の東にあたる。」
「その道程や里数を計算すると、ちょうど会稽の東冶の東に位置している( はずだ)。」
「その行路の里数を計算すると、〔 倭国 は〕 とうぜん、会稽や東治( 冶)の東にあることになる。」 >>293
そうやって史料をないがしろにして来たから
九州説はダメになった 洛陽市→紹興市の距離は1069.8km
沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離と整合しているね 畿内説でも九州説でもいいが、
会稽東冶でも会稽東治でもいい
その東に日本列島はあるのか? >>302
奥野正男ってそんなデタラメな説を言ってた人だったのか >>307
つまり>>293が間違いだってことだな >>309
ぜひ一読をすすめるよ
まともな九州説の論者です >>313
グーグルマップでどうやって測ったの?
口先で言うだけでは立証できないよ >>316
箸墓を三世紀半ばだと言ってる
w
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w googleで
「洛陽市 紹興市 距離」
でどうぞ >>321
おまえgoogleも使えんのか
恥ずかしいヤツw >>307
>沙里院市(帯方郡治)→北九州の距離と整合しているね
その距離、どうやって出した? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています