邪馬台国畿内説 Part316
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516296222/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46−1
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。 ◆FAQ 46−2
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。 ◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更点】◆なし 新スレ立ったし、久々にコピペ
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、
実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw ◆CSZ6G0yP9Q ◆QkRJTXcpFI
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることもある。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻る卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違ったことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 畿内説の人にもう一度聞くけど
畿内で邪馬台国が起こりそのまま大和王権へつながる仮説だと
・記紀はなぜ九州発祥なの?
・記紀はなぜ天皇を九州出身としてるの?
・記紀はなぜ正直みっともない恥ずかしい話がおおいの?
うちは
伝わってきたことを素直に書いたから。
古すぎておぼろげになって伝わった部分は神話とした。
と思うよ。 >>70
記紀が九州発祥なんて何処にも書いてない。
勝手な思い込みで質問するなよw うちの大和朝廷成立までの仮説
古代より九州は大陸と交流をもち日本国内で高い文化レベルを持っていた。
稲作も武具も必然的に高い文化レベルがあった。
稲作が大規模化するにしたがって新たな土地をもとめて何度も東へ移動があった。
その移動の中で定住する集団もあり各地(特に出雲や吉備)で特色をもった文化が生まれた。
移動は畿内も含め広範囲におよんだ。
時は流れて東夷伝の時代になり、倭国大乱記録された大乱があった。
倭国大乱は村づくりに防衛の要素が見られた範囲と考え九州とそこから遠くない範囲。
邪馬台国が倭国大乱を治める。
大陸とさらなる交流を通してその文明レベルの高さ武力に脅威を持つ。
九州北部は防衛の前線とし勢力を残しつつも勢力の主体は東へ移動。
移動する中で過去に分かれた勢力と平和的また武力で合流。
九州北部の勢力は鉄器の武装や最新の戦術で抵抗勢力を倒す。
最終的に防衛に優れた内陸の畿内を治め落ち着く。
統治する正当性を国内外へ示すため記紀が編纂された。 >>71
記紀を読んで神話も天皇の歴史も九州発祥と読み取れないの?
不思議ちゃんやね。 >>72
人が移動すれば生活習慣や文化も一緒に移動する
それが考古学的に確認できないので妄想レベル >>73
>>70では記紀の発祥と天皇の発祥は別項目になっている
天皇家の発祥が九州であることは記紀に書かれている事実だが
記紀が九州発祥だとはどこにも書かれていない >>73
なぜ国生みの順番も中途半端な九州が
発祥なんですか?
頭おかしいとしか思えません。
しかもヤマトは神武天皇も治めるに
相応しい国と言ってます。
最初に治めるには九州ではダメだという事です。 >>72
現代の考古学を殆ど反映していないからダメ。
全部却下だな。 >>74
まさにそれが、畿内で急速に鉄が使われるように変化してる所だよ。
それまで石器メインで農耕だよ。
土人が急激に近代化したくらいビックリ進歩だよ。
移動により文化がもたらされたってのにぴったりだよ。
生活に便利な道具とかは急激に変化して、生活習慣はのんびり変化かもよ。
ローマの勢いの良い時の戦略のように、降伏して一定の治める物をちゃんと治め
ローマの法も守るのであれば、現地の細かいこたー尊重するぞってスタンスかもよ。
石器・青銅器メイン文化と、鉄器文化の差を軽く考えすぎてないかなー畿内説の人たち。
古くから高い文明があった地中海地域ででで、ヒッタイトが急激に強くなって支配を拡げたは鉄のおかげだよ。
鉄って、それまでの勢力図をひっくり返す力をもってるよ。 水田稲作なんて紀元前の時点で既に各地で
広がってるだろ。 >>79
それは陸地ができた順番でしょ。
人格をもった者があらわれた、天孫降臨は九州だよ。
神武天皇が生まれたのも九州じゃない。
そう無理くり拒絶するのは変だよ。 >>80
人類の移動の移動のきっかけのメインどころだよ。
気候の変化、食料、外敵の脅威。
これより上の理由ってなかなかないよ。 >>82
その現代の考古学とやらで作られた畿内説に説得力がないからだよ。 >>84
人口の増加がかれば規模の拡大が必要だよ。 >>86
神武以前にも天孫降臨した人物がヤマトにいたのだがw
おまえ本当に実際読んでないだろ。
どうせムック本の類いだなw >>88
最新の考古学を勉強してからの話だな。
九州説なんて殆どいないだろ。 >>90
当時、畿内に住んでいた中華の話でしょ、
なぜか蝦夷だと言っている人たちがいるけど ニニギは筑紫の日向を、治めるのに良い国だと言っていますね。 記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。 先に天孫降臨は丹後でもあった事になってるからな。
先にヤマトで国を作ったのはこっち。
神武は迎え入れられた天皇で、隼人懐柔策として
神武神話が加えられただけだよ。
少なくともあの進軍経路はあり得ないw うーん、揚げ足取りばっかりになるなー。
大事なところは、どの説が好きでも
神武が九州から旅立って畿内を治めたって部分だよ。
これをわざわざ畿内の人が語り継いで記紀となっている。
まぁ言うまでもなく自然な流れで考えれば、畿内の大和政権を作った人たちは九州から来た人たちってことでしょ。 >>99
国産みで九州北部ばかりが小さい島まで取り上げて天津国の名前を冠していたのか、説明してよ。 >>98
それ間違いです、神武伝承を畿内に広めたのは明治維新移行だから。
それまで実はあまり馴染みがない。
堺、奈良県知事の薩摩人がまた評判良くないしね。
古墳荒らしばっかりしてたからな。 >>97
饒速日が関西に、邇邇芸が九州に降臨したけれど、邇邇芸の末裔はなぜか九州を捨てて、先に関西に降臨した饒速日のところへ行こうと決心する。
王家の一員のはずの神武らが国を捨てて(追われて?)筑紫を出た理由は? 国譲り、神話なども捏造のような事ばかりしているんだよ、
昔から有名な話だ・・・とか
どのサイト?を読んでみても、
そのように書いてある
サイトの主による自説、
他から引用(本、書)含めて >>101
奈良時代から、日本書紀の勉強会とかしていたんでしょ? >>100
何言ってるか意味不明だぞw
別に九州北部九州の事なんて取り上げてもない、
勝手に思いこんでるだけだろ。 >>101
なじみが無かったら記紀に載らなかったよ。 >>101
>堺、奈良県知事の薩摩人が
明治維新って、薩長が天下を取った内乱だったんだな。
明治天皇は若くて実権がないから傀儡だったろう。 >>102
丹山があるからな。丹波も丹に所縁の名前だし。
だから神武も宇陀に行った、簡単な話。 中華、皇帝・・などの裔という人々がいるでしょ、
国を譲った側や蝦夷になっていたり >>97
>神武は迎え入れられた天皇で、隼人懐柔策として
神武神話が加えられただけだよ。<
それ古事記に関しては時系列無理やろ?
反乱勃発前に執筆おわっとるしなによりも古事記は天皇家の私的記録やぞ?
>少なくともあの進軍経路はあり得ないw<
知らんのか?
神武さんはなあイツセ兄ちゃん亡くなったあと吉備のスポンサーに教えてもらってた熊野の次のスポンサーのところ目指したんや
つれてた兵隊さんも数十人やろうしな
劉備みたいなひとやぞ 明治以前は恵比寿さんやスサノオの方が遥かに人気だろう。
神武天皇が前面に出たのはやはり明治以降だな。 >>102
物語は物語。
大陸の脅威が一番人類の移動の基準にもあってる。
記紀の九州から移動し畿内を治める流れを、まるっと無視する畿内説はありえないけど
物語の細部まで歴史にぴったりと考えるのもおかしいよ。
歴史を残そうと考えて記紀を作った人たちも、脚色はするさ。
それでも、大筋は変えちゃ意味がない。
九州から始まり畿内を治め大和政権となった。
この大筋はきっと間違ってないんだよ。
畿内発祥で継続した政権なら、畿内中心の話になるさ。
実際は周辺に大きく遅れた文化の地域だったのが、急速に日本を治める勢力になる。
そんなのは何段も上の文明レベルの勢力が来たからと考えるのが自然だよ。 >>102
普通に開拓やろ?
東征なんて大げさなかんじぜんぜんせーへんが 秦氏、王氏・・・、
なども蝦夷のような書かれ方をしているでしょ
機織りなどをしているところに、
英雄(日本神話に出てくる)が現れて・・・退治されたとか >>104
勉強会の結果、高天ヶ原かや葛城や高野山辺り、
邪馬台国とはヤマトで当時は問題がなかったんだよ。 >>113
思いこみも甚だしい。
そもそも神武神話は紀元前の話で邪馬台国は三世紀の話。
勝手に東征話を邪馬台国の位置論に結び付けるから
バカな話になるんだよ。だから考古学の裏付けもとれない。 >>118
皇紀2600年を持ち出す方がおかしい。
それで考古学の裏付けが取れないだなんて、マッチポンプだろ。 >>113
神武さんが来たからってより素地はその前からあったやろなー
畿内ゆーより中央日本のがいーか
対馬海域とつながってた敦賀彦根ラインを中心に 31代用明天皇元年585年〜60代元正天皇没930年
930−585=345年
345÷30は11.5年
用明天皇から30代の平均在位は11.5年。
では用明天皇から神武まで遡る。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、31代遡る。
11.5×31=356.5
用明元年587年−356年=231年
30代として計算した神武元年は231年、つまり卑弥呼の時代。 とあるスレを見ていたとき、
ワニさんが〜と言っている人もいた
王仁 和邇?さんを
殺したとか、殺さないとか
そういう話になっていたり >>125
風来坊みたいに家来を集めて転戦したのは劉邦のイメージが強い。 >>118
それもまだまだ確定しないよ。
例え紀元前でも九州北部からは何度も何度も開拓団が東に向かってるだろうから問題ないよ。
そもそも現段階で確実に裏付けがとれてることなんとほとんどないよ。
日本の古代史は、まだパズルの端っこピースすら埋まってないよ。
>>120
畿内説は記録無視の無理くり都合で語るけど
九州説には細事まで違いを指摘するスタイルだよ。
だから畿内説は説得力がない。 >>120
神武と卑弥呼に文献上何の接点もないぞ。
それを同列に語るのは根本的におかしいだろ。 >>123
その間に終身制から譲位ありに変わってるし重祚もいる
参照するのには不適当な例 >>123
記紀の伝える天皇の代数が事実であると論証してからどうぞ >>129
細部まで違いを指摘する?
九州説はそれ笑うとこですねw
むしろ肝心な部分さえとぼけるの間違いだわ。
記録というなら邪馬台国は卑弥呼が都とする七万戸の国。
遠方で南にある位しか情報はない。 いまになって、
話を良い方向(友好的な話だったとか)、
大団円に向かわせようとしたり
後悔しても無駄な話
実際、そうなっている、
泥棒に入られたとか・・・ 神武東征には考古学的な痕跡は皆無だからな
歴史的な事実とは考えられない
まぁどうしてもと言うなら稲作伝来の神話とするくらいだが
その頃にまで戻らないと九州の影響が西日本に及んでる時期が無いからな
なんも知らないパーが「偉大な九州は西日本に影響力を拡大したに違いない!」とか思い込んでるらしいが
九州はその最盛期ですら北部九州と四国西北部より先に影響を及ぼせてない
西日本地域は弥生時代の中期くらいから明確にその拡大を阻止する動きを見せて、逆に九州東部は山陰、瀬戸内海、四国の強い影響を一方的に受けている
何を妄想してんだか知らんが
まぁバカはなんにも知らないから仕方ないけどな 九州説がやる事なんて未だにパズル遊びの域だろ。
それと箸墓や巻向につまらん年代いちゃもんつける事だけ。
いまだに三角鏡が国産だった、畿内説崩れたとか言ってる奴もいるしなw
九州説は年配者が多いのか情報が古すぎなんだよ。 九州説のバカは毎度毎度ありもしない「偉大な大九州帝国」みたいなものを脳内で作ってバカネタを喚いてるから笑い死ぬわ
まぁ九州の事さえも何も知らないんだから九州説なんて恥ずかしくて表も歩けないようなアホな話を盲信できるんだろけどよ 養老年間の古地図の尾張国は完全に海の中だった
一宮市や岩倉市が最も大きな島で、清須の朝日遺跡はその脇の小さな島? 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
ミミとは何なんだろう。
耳成山、字はミミが成す山なのに、
読みはミミ無し山。
どういう謎があるのか? 陰謀スレ
すべて芝居、演劇でした
では済まされないぞ
と言っている人もいた >>129
おまえの言葉、具体的な指摘が何もないので
説得力がない。 邪馬台国の時代も、色々争いがあったんじゃないかな。
倭国大乱だからね。
狗奴国とも度々戦闘があると魏志倭人伝にあるしね。
そういう事実を無視するテンプレは糞。 本当にバカは何でバカなのにバカ面晒して話に入ってくるんだろうな
バカで何一つ知らんくせに何を言いに来てるのやら
あ-バカだからそれも分からないのか Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格
差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、
一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡
では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メク
リ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀
川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、
和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下
層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺
跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都
は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められ
ず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で
創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則
性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を
提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 それと
なぜ浦島太郎なのか?なんだよ、髪の色が白(銀)くなったり
『ザ・モモタロウ』という作品では
「僕、どざえもん」(ドラえもん)と言っていたり ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が
特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれ
た後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混
乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片
付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識でき
ること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書
編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生して
いるばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を
見ない杜撰が複数件発生している。 バカが荒らしを始めたな
バカの行動は分かりやすい
バカなのにプライドだけが異常に高くてすぐにこうやってバカの本性を現して見苦しい行動をとる
バカだから仕方ないけどな 『日本昔話』姥清水
歳とって、老け込み・・・と言っていたり、
ヤマビコの爺さんとか
『松傾』? >>135
「鏡」副葬文化の普及はどうする?
あれはあきらかに北部九州の文化だが?
人々に交流があれば文化の流入や受容が見られる
逆にないのであれば、その時期は人々の交流さえなかった相手だという事
「鏡」副葬文化は間接的に流行しただけかもしれないし、それを元に支配した等は言えないが、北部九州の鏡文化の影響は各地に及ぶ
少なくとも有力者同士の関連性は伺えるな 有名な話なのかな
おずぼーんの曲「バカだモン、バカだモン」と言っていたり テンプレのQはやたらと!が多いけど前からだったか? 畿内の鏡配布のシステムは三角縁神獣鏡を伴う
三角縁神獣鏡は九州では鏡を副葬し始めてから500年一度も用いられなかった鏡式
つまり鏡の配布という見た目は同じだが、九州の鏡配布は弥生時代で断絶してるのがわかる
畿内の鏡配布は全く新しい秩序として畿内が「意図的」に、「明確」に作り出した新構造
そもそもそれ以前の弥生末期には畿内は独自の小型?製鏡を作成し配布を始めている
三角縁に入る前から既に畿内は独自の秩序を打ち立てている
鏡の話をすれば九州は主体を奪われただけの存在なのがむしろ明確となる
そしてこれは鏡のみならず、古墳、埴輪、土器と言う「九州に無かったもの」が同様に九州全土に広まっている
どこに主体があったかなどサルでも理解できる
これをただの偶然だの、流行だの言うようだから九州説は脳みそが腐ってるんだろうよ 明日名古屋の東建ホールで卑弥呼の国を探るの講演があるそうだが、誰かいくのか
まあ、卑弥呼とは関係ないが バカの九州説は一部でも自分に都合がいいと思い込んだら全体を見もしないで
「鏡だ!鏡だからきっと九州の物だ!九州が王様だ!」
とかバカ丸出しの事を言い出す
笑わせてくれる
500年間存在もしなかったものに、邪馬台国の前から急激に覆い隠されて独自文化失う土地のどこが王なんだか
まぁ何も知らないバカだから仕方ないね 何の話だったんだろう
『広瀬座』というのがあって、
その当時、住んでいた家には、本や書なんかが沢山あって
芝居などを、よく観に行っていた
と
老婆は言っていた、
その当時の、家の職業は、わからないとか 山の上のほうに住んでいて・・・
とも言っていた
その日本昔話、漫画が描かれるよりも前の話 かつて大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したとある。
天皇の即位の儀式、八十島祭に重要な神社だし、生國魂神社の謂れは間違いないんじゃないかな。
神武東征、ヤマト征伐の際に難波の勢力は殺されたんだろうな。 『松傾』
その画の話なのかな、
かなり詳しい
馬に乗って、腰に刀を差していて >>139
畿内説も10年くらい前まではあちこちに比定地があったな
それがネットでの情報などもあってほぼマキムクに集約された
九州説は未だに有力な候補地無しか >>147
チベット。
宗教の力でまとまった国であっても、武力の後ろ盾がなければ侵略虐殺ですよ。
今もその条件でチベットは徐々にジェノサイドされて行ってますよ。
覇権的じゃない政権であろうと、武力の後ろ盾は必須。
9条馬鹿どもと同じ発想で歴史みるとかないですよー。 >>166
文明レベルの低い場所に否定しちゃった畿内説はどうしても無理くり解釈になりますよー。 >>168
九州説にはもう、そういう妄想しか残ってない 日本昔話で言っている
『ヤマビコ』の爺さん
もしかして、稲の話なのかな >>1
日本書紀には、古墳を造った記録が殆どないんだよな。あんな大事業なのに。
これって明らかに、古墳を作った勢力と、後の大和朝廷は別勢力ってことでしょ。 あちこちの板のスレでコピペ荒らしとか
九州説は本当に頭狂ってるな
これであいつらの中では邪馬台国が九州に現れるんだろうな
異常者の考えることは分からんわ >>158
まーとりあえず長文乙
つーかわかってるやん
軍事徴税に関わってないから流行やん
流行に主体も糞もあるかいな
海上交通が盛んになっただけやろ 国中定まったあと二つの交易集団は折り合いつけたんやろ(女王国と男王国 テンプレの貼り直しとか、畿内説は本当に狂っている。 古墳って、弥生時代以降の水田開発で余った土を集めたものでしょ? >>177
畿内説の者がやってるという証拠でも
あるのか? 畿内厨が想像する卑弥呼像は?
@小保方晴子
A豊田真由子
Bマツコデラックス
Cその他、お好きにどうぞ >>181
記録の有無を問題にしてたのに
史実か否かを問う狂人イター >>179
周囲の溝が主役か
緊急時の砦というのも読んだなー
>>178
そやね
つうかさすがに前方こうえんはヤマト王権やろな >>168
10年間畿内説と比べて
九州説は何も成長していないってのが良くわかるよ
ただひたすら畿内説叩きに必死だったんろうね
ご苦労様 >>182
さーはったはった役の岩下志麻さん(あくまで個人のいめーじです >>187
まーおたがいえーしょーぶや(はしはかamsもたいがいトンでもやぞ さーぺんとしるばー・・・、
この曲も、かなり詳しいんだけど、どこで習ったんだろう
教本のようなものがあったとか?
このような本や書があると、公言しなければ良いだけだしな >>179
あ-お前ここ数日ニュー速とかでも同じこと言い続けてる馬鹿だろ?w
何十万人も使って
何十年もかけて
何万トンもの土をわざわざ特別な方法で付き固めて
何万と言う石を敷きつけて
何万と言う埴輪を並べて
何の意味もない残土を古墳にしてんだ?
400年の間中央の構造と規模に従う秩序を維持して?
こんなバカ丸出しな奴が九州説だからな
みんなよく見ておけよw 宮のなか、宮内?
日本の神話でいうと・・・
なぎ・なみ夫妻がいて 分かりやすいよな九州説のバカって
都合が悪いものが出来ると「何でもないただの流行だ!」とか言い出すw
しまいには「庄内土器も古墳も埴輪も三角縁神獣鏡も九州の物だ!」とか言い出すわけよww
朝鮮人かwww 400年物間の明確な法則性のある古墳を持ち出して
何の意味もない流行だ!
ただ残土を盛っただけの無意味なオブジェだ!
とか笑い死ぬわwwwww
流石は低能九州説wwwww ほら、低能
もっと笑わせろよ
つぎはどんなあほ丸出しの珍説を叫んでくれるんだ >>189
なんで奈良県が8位なのに、畿内説のテンプレは奈良に女王国があったと言い張るんだ? そろそろまたコピペ荒らしでもするか?バカ九州説よ?
ほらほら
早くやれ >>197
誰も言っていないことを捏造して叩くのが畿内説のスタイルなのか? >>186
10年間で畿内は証拠を見つけられなかったのも事実ですよー。
普段使いの鉄器もね。 10年間で加速度的に退化したのが九州説なんだよな。
本も売れないしお爺さんばっかりだし。 >>188
うーん渋い、さいころを振って占いをしてたのかも 鉄とかまだ言ってんだw
畿内はそれこそ邪馬台国の時代を境に急激に鉄の出土量が増える
今までなかった事がむしろその変化を際立たせる
畿内がこの時期に画期的な発展を遂げたことを意味しているわけだ
鉄流通のルートを手に入れたことが分かる
九州が妨害してたルートが開けたと言うわけだな
庄内式土器と古墳と三角縁だらけになった九州の状態を見るとよく理解できるな
鉄を言えば言うほど九州は不利になるだけだとまだ理解できないおサルさん さーぺんとしるばー
セイントセイヤの話なのかな
教皇がいて・・・中身は空?、
教皇の本体は別にいて・・・謎の兄弟、サガとカノンが出てきて
・・・・・・・・・詳しい人に聞いたほうが良い そもそも鉄で有利だとか言うなら邪馬台国なんて3世紀どころかもっと早く出てくるはずだがそれはない
九州の最盛期の弥生時代中期末くらいでさえも九州を出ない
しかも邪馬台国前後の時期に九州は500年も続いてた独自の勢力が崩壊し中心地も喪失した状態
その後はその勢力の復活も無いし、新たな中心さえも表れない
鉄だ鉄だ言うが九州どころか旧勢力の復活さえもみないまま終わるこの時代の九州に何を見出してるのか全く理解できない
お得意の鉄とやらで地元くらいまとめてからほざけと言いたい
まぁバカだから仕方ないか >>208
卜が統治の基本でしょーなー(
司法も行政も
立法はしらん(そのほうをおかすものはさいしをなんたらかんたらー
りっぽーむずかしーぞな(マジレス 庄内土器=500年間ありませんでした
大型墳墓文化=500年間ありませんでした
埴輪文化=500年間ありませんでした
三角縁神獣鏡=500年間ありませんでした
これが邪馬台国の前に畿内から急激に流入してきます
でも九州が邪馬台国でした
はははははははははははははははははは ひたちふしぎはっけんは古もんごろいどの話ちごたな(いま確認してがっかり まだ畿内説の奴ウダウダ言うてんのか
常識的に考えて畿内は無いよ
倭人伝を読み直せよ
倭人伝が無いと邪馬台国も卑弥呼も存在しないんだよ それにしても
スサノヲというのは何者なんだろう、
アマテラスが実在しているとするなら、
天皇の兄弟でしょ
テラスというのは普通の🌞だよ、
このように考えると・・・スサノヲこそが天皇
スサノヲ=神武だと言ってる人がいたり 誰が考えたんだろう
聖闘士星矢でいうと教皇というのがいて・・・、
教皇と言うのは中身の無い、張りぼてのような存在
本体は別にいて・・・写輪眼を使用したり? >>213
>そもそも鉄で有利だとか言うなら邪馬台国なんて3世紀どころかもっと早く出てくるはずだがそれはない
>しかも邪馬台国前後の時期に九州は500年も続いてた独自の勢力が崩壊し中心地も喪失した状態
1レスの中で派手に矛盾するなあw
九州は鉄のおかげで卑弥呼の500年も前から倭国として列島を代表していたんだよねw
しかも4世紀も5世紀も沖ノ島の祭祀や彩色古墳など、独自に文化を築き上げたよねw
日本史をやっていて知らないなんて言わないよねw >>217
魏志倭人伝によれば邪馬台国に行くには
九州北部の国々を素通りしてそっからさらに船出するんだぞ 314の>>809
>そこで倭人に邪馬台国はここから南ですよと嘘を教えられた <
嘘を付いてはいけない。
魏使らは、邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南だ、と確認出来た。 まあ学者は畿内か九州かなんてレベルはとっくに卒業して
三角縁神獣鏡の編年とかそういった話をしてるわけなんだが >>223
不彌國の南何里とか魏志倭人伝に書いてるの
書いてないならそれ嘘だね 314の>>811
>会稽東冶の東だと思ってるんだぞ 台湾あたりだぞ<
いや、「会稽東治之東」であり、ほぼ九州だ。
>南は東の認識誤りさ<
お前のいう「台湾」なら、
大和からますます遠くなって、大和説は始めから×。 314の>>813
>水行とかあと邪馬台国に向かう途中に出てくる投馬国は <
投馬國は、不彌國からの側副傍線行程であり、
「邪馬壹國ヘ向かう途中「」ではない。 >>228
不弥国から水行20日で投馬国そこから水行10日陸行1月で邪馬台国と
魏志倭人伝に書かれているけれども >>222
帯方郡から一万二千里で邪馬台国。
九州上陸までで一万里をすでに費やしているから、九州北部、それもおそらく福岡県内。 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 親族(遠い親戚を含む)で、
国を経営していたのかな
力夫氏ではないけど、
天下(あめのした)一家と書いてあったり 314の>>838の訂正
「邪馬台国」なんて存在しないし、
後漢書で、唐の李賢が「案:今名邪摩惟、音之訛也」という注を書いたが、
この情報は、当然太宰府に来た郭務ソウからの情報である事になり、
という事は、
倭国では7世紀後半になっても、太宰府の地が「ヤマイ」と呼ばれていた、
という事になる。 >>232
九州端っこの不弥国までで1万7百里なんだが?
邪馬台国まであと1300里足りない ザラコク邪馬壱国邪馬壱国うるさいけど
全く浸透してないね九州説の連中にすらも 314の>>855
>九州の西に六十六国もない<
「西服衆夷六十六國」の「服」の動詞としての本来の意味は、
「す」を付けて、「服す=服属する」であるから、
「既に服属している」という意味になる。 老婆の話から言っても、そのような気がする
なぜなのか、わからないけど、凄い土地を持っていた・・・、
『天下』=『あめのした』 314の>>862
まあ邪馬壹國女王之所都はやっぱり筑紫だな。
大和は、「無理があり過ぎる」というよりも「全く合わない」。 >>233
そのバカコピペ毎回張るけどそれで何か誤魔化せてると思ってるんだろうなぁ
畿内に成立した政権は吉備や周辺域の連合によって成り立っている
だから庄内式は吉備との密接な関係で生まれ、布留式も同様に周辺地域との関係によって成立した
だがそれは畿内勢力の成立の過程を改めて確認するものでしかない
むしろ「共立」と言う邪馬台国の状況をよく表している
そしてどう転ぼうが九州はこの畿内で成立して発展していく庄内土器が全域に広まり在地土器を塗りつぶしていくと言う影響は何も変わらない
はい、残念でしたおバカさん
バカだから何を勘違いしたのかそんなコピペで何か有利になると思い込んでたんだろうな 畿内説は皇国史観がどうたらという独りよがりな考えに取り付かれ
誰も説得できないようなデタラメを一日中掲示板に書き連ねるザラコク 314の>>865
>州胡も船で馬韓を往来してるから大型船の必要は無い<
州胡は、海岸沿いや島伝い。
狗邪韓國から郡への半島南岸西岸の大回りは、大型洋上航海船が必要。 314の>>879
>筑後平野説だけどな。
台与が死んだあとは、畿内の大和朝廷が 九州をも席巻して、邪馬台国も滅んだと思うよ。<
壹與の後も、
「大和は、倭国の別種の旧小国」のままであったし、
大和が倭国を併合吸収継承出来たのは、701年。
畿内の方が人口も大きくて、国としての組織作りもうまい。 314の>>889
>同じ文献で、倭奴国王と、倭国の師升とが、区別して記載されていますものね<
松野氏の姫氏系図では、
倭奴國王も、帥升らしき人物も、どちらも姫氏系人物であったように書かれている。 314の>>907
なにも証拠を出さずに、
「南→東」などの嘘つき騙しをするのが、
大和説者の特徴だ。 314の>>916
>九州北部、住吉三神は宮崎や遠賀川の石神、西瀬戸内海の海賊にやられたんだな。
畿内は出雲や尾張、阿波の縄文系勢力に征伐された。 九州北部も畿内も征伐された側だ。
後に手を結んでやり返す仲間だよ。 なか良く行こう。 敵は出雲、尾張、阿波にありだ。<
倭王武の頃までは、「自昔・・・東征毛人五十五國」だ。 >>242
妄想が酷すぎて、どこから突っ込めば良いのやら 平和裏に邪馬台国、女王国ができたなんて何の根拠もない。
倭国大乱で負けた側の存在を一切無視している。
こんな非道な主張はない。
存在すら認められないんだからな。
ここのスレ主の主張は糞。 そもそも倭人伝記述の地理像が正確だと信じる事自体に疑問を感じる
そこに惑わされて論争しているから
いつまで経っても終わらない、真実に辿り着けない >>255
女王国側の30ヶ国が卑弥呼を共立しただけだろう。
女王国以外の国はないのか?
クナ国は?
女王国の傍国は?
俺は邪馬台国ヤマト説だよ。
倭国大乱で負けた側の存在を無視する最低な奴だな。
日本列島に女王国しかないと思っているのか? 争いの存在を隠蔽する奴は同じ過ちを繰り返す。歴史を捏造する奴も同じ。
明治政府も歴史を隠蔽し神武を持ち上げあの結果。 >>255
君は奈良住まいか?
勝ち続けないといけないのか?
記紀のヤマト征伐も一切なかったことにするんだね。
歪んだ郷土愛だな。 実際に邪馬台国を訪れた魏使が書いたものではなく
その紀行録を元にして数十年後に別の者が編纂
つまりまた聞きみたいなもんでしょ
どこまで信ぴょう性あるのかね
しかも我が国の史書ではないときた
特に方角や距離の記述は意外とテキトーな気がしてならない 奈良や大阪の人にとって、大和朝廷の圧政から救ってくれたのは、応神さん仁徳さん住吉さん鹿島の鹿さんだろ。
奈良の人は鹿を大切にしている。 邪馬台国畿内説はヤマト以外の畿内の人々にとって迷惑なんですよ。
巻き込むなと言いたい。
うちらは女王国にやられた側なんですよ。 支配者は得てして
被支配者にとって迷惑な者である
勝者は得てして
敗者にとって迷惑な者である
知者は時に
愚者にとって迷惑な者である なんだそりゃ
卑弥呼の都が纒向だろうが葛城だろうが磯城だろうが交野だろうが何も問題は無いんだが
とにかく研究成果を出せと 問題あるよ。
昨今のネットやTVの畿内叩きやネガティヴキャンペーン。
多くの人が畿内の人々が全国を征伐したと思っていることも原因の一つ。
畿内の人々も大和朝廷の主体となる勢力に征伐された側ということを明らかにする必要がある。
大和朝廷は畿内を征伐した征服王朝だとはっきりさせないといけない。
謂れのない罪を被せられるのは真っ平御免だね。 何を意味不明な?
大和王朝の前身は伊都国の連中が全国に広がったものだろうし
頼朝以降は東国から広がった連中
家康以降は東海から広がった連中だろ 大阪や奈良は負けた側なのに、現代ではまるで加害者扱い。
こんなテンプレを見たら、そう誤解されても仕方がない。
大和朝廷を作り、加害者である筈の尾張や出雲など山陰、九州の宮崎や遠賀川の石神がまるで被害者みたいな扱いになっている。四道将軍で各地を征伐したのはお前らだろうと。
おかしな話だな。 教科書を読んだら大和朝廷は渡来人が作ったみたいな誤解を与える。
実際は渡来人勢力は征伐された側で、大和朝廷の中心は縄文系の勢力なのに。
おかしな話だよ。 大和朝廷は、徳川幕府を作ったのは江戸の漁師だみたいな話になっているんだよ。
おかし過ぎる。 314の>>950
>ほかに可能性の高い所もないし畿内でいいんじゃない <
「南≠東」だから、大和は×。 314の>>951
>九州説に対して狗奴国の位置が無理くりね。<
肥後の熊襲でいい、と思うよ。 >そこで倭人に邪馬台国はここから南ですよと嘘を教えられた <
⇧
方位を知る航海術ぐらい知って無いと九州にも到達しない
嘘なら、国交断絶だね >>1
>博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期<
? 314の>>961
成程。
しかし、実務的に、見聞計測記録を書かなければならなかった魏使らの記録は、
おそらく「又」なんて書かれていなかった、と思うよ。
「又」は、おそらく、後代史書の高慢な書きたし。 314の>>983
>中央寄りのやや右下に「至於投馬国」とあるね。<
いずれにしても、後代での「内容説明的な書き換えが多い太平御覧」では、
証拠価値は激減であるし、
写本版本系の証拠力には、全く敵わない。 畿内説=倭人伝の ここは本当ここは誤りと仕分けし邪馬台国を比定
九州説=倭人伝を忠実に読み解き邪馬台国を比定
ってとこかな
何れが正しいかは知らないが ふと思った 314の>>998
デマと中傷では、
大和説が、九州説に歯が立たないのは当然だ。 >>279
教科書ってどこの?
大和朝廷は倭人+渡来人の朝廷なのはわかるが
教科書??????????? 315の>>70
>畿内説は万全だからな、
大和説は、「南≠東」だけで×。 315の>>78
引退状態になった「大和説の高名学者ら」が、次々と九州説に転向表明をしている、
という事は、ある意味、
大和説は、開発の終わったソフトと同じだな。 邪馬台国がヤマト政権の前身としたら
空白の4世紀に何が起こったのか?
古墳づくりに没頭していただけなのか?
中国の文献にも出て来ない4世紀とは? >>284
転向した時点で職を失うから居ないと思う
畿内説の学者は助け合いで成り立っているし 門脇禎二が晩年転向したのは有名
考古学分野は知らん 伊都国王家と狗奴国の王家は親戚。
狗奴国の宮家が伊都国みたいなものだな。
漢に冊封され、各国の使者の目もあり伊都国は滅亡を免れた。魏志倭人伝当時も王がいるからな。
記紀はイワレ系の天武の時の作。だから神武がニニギの子孫に作り変えられている。応神の出生も生物学的にあり得ない話にされているしね。
本当は神功皇后〜応神のエピソード。
伊都国王家の血を奪還する話だよ。スクナヒコナが喜ぶとあるだろう。
応神の系統の桓武からしたら、結局同じことだから黙認したんだろう。
神功皇后〜応神〜仁徳。
狗奴国伊都国の巻き返しだよ。
大和朝廷は残虐過ぎて敵を作り過ぎたんだな。 >>232 同意である。
帯方郡から一万二千里で女王国。
魏略でもそう書いてあるし、さらに詳細に方位や里数を
記載した陳寿も、一万二千里という総距離を採用している。
陳寿は、情報はそのまま書き写しせずに検討して
採用しなおすから(言い回しを代えることもよくあるし、重複は略する)
邪馬台国まで一万二千里というのは、陳寿だけに限らず
ほぼ当時の人の総意だと思われる(中国の文化人含めて)。
奴国あたりですでに一万五百里も使っているから、
また、北に一大率を置いたという記述からみて
奴国の南方千里ほどの土地が女王国だ。 魏略
倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して
拘邪韓国に到る。七千余里
始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、
副いわく卑奴。良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
南また海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
地は三百里四方
また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、
水に浮き沈みすることができるので、これを取る。
東南五百里で、伊都国に到る。万余りの戸数がある。
(官を)置く。いわく爾支で、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。
その国王はみな女王に属す。
帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
女王国の南にまた有って狗奴国。男子を以て王と為す。
その官いわくコウチヒコといい、女王には属さない。 >>293
何を参照したのか知らんが冒頭不要、末尾不足 >>286 お見事
>畿内説の学者は助け合いで成り立っているし < >>197
言い分をすり替えちゃだめよ。
有効利用し、意味のあるものにしたのが古墳っていってるよ。
開拓が行き届いて古墳サイズが小さくなり最終的に古墳時代を終える。
その流れで見ても綺麗に当てはまるんだよ。 >>235
そう、うちも邪馬台国って言葉にこだわらず九州勢力っていってるのは
そもそもヤマトという名で九州勢力が畿内に移り住んだ可能性があるから。 >>245
台与は九州勢力が移動した後の巫女。
卑弥呼は九州で活躍した巫女。
そう考えると平原遺跡の女王墳墓も納得だよ。 江戸時代の朝鮮通信使の記録は、卑弥呼の時代と違うという指摘があるから
日本往還日記の当時の記録を載せてみるよ。
秀吉の朝鮮出兵に伴って、休戦交渉のため、大阪にきた朝鮮使節による記録である。
朝鮮出兵で朝鮮南部は荒れ果てているが、その中を通ったので行路の状態は
よくないし、航路は魏の時代と基本的に同様のはずである。
【日本往還日記】
初四日〔八月四日〕、この日陰(くも)る。夕、正副使一行船に上る。
この夕、絶景島に宿す。島は釜山の越偏に在り。(絶景島は釜山のすぐ傍の島)
注:釜山にて乗船しており、釜山まで陸行でやって来ている。
初五日
この日、乍(たちまち)陰(くも)り、乍(たちまち)晴る。夜明けに船を発し
洋に出る。一行たちまち船酔いを患い、嘔吐し転げまわる。ただ軍官の権克烈と
金蘭瑞は安坐して常の如し。午後、風順ならず、逆戻で還って絶景島の西に泊す。
初六日
この日乍(たちま)ち晴れ乍陰(たちまちくも)る。西風しきりに吹き、船を
発するを得ず。幄(とばり)を絶景島に設け、正史下陸し、一行の人と閑話す。
暮には乃ち船に還る。金善慶、状啓を持し去る。
初七日
この日暁雨ふり晩に晴る。風を阻み留泊す。崔世?(言+甚)、状啓を齎(もたら)
し去る。○夕、絶景島の越偏に宿す。
初八日
平明〔夜明け〕船を発す。風勢極めて順、雨帆を張りて行くに、その疾きこと
飛ぶが如し。夕、対馬島の西浦〔上対馬町〕に至る。倭語の利時都麻婁〔西泊〕
とは是なり。同浦は釜山を去ること五百里と云う。浦中、人の居ることを甚だしく
は多からず。
注:釜山出航して対馬に到着した。 初九日
この日或いは陰り、或いは雨ふる。朝下船し〔船に乗ることを下船。上陸を下陸と
表記する〕纜(ともづな)を解くも、未だ洋に出づるに及ばず。雨に因つて還(また)
泊す。又徐福寺に宿す。
初十日
この日朝陰るも晩に晴る。早朝船を発し、三百里を行き、夕府中〔対馬厳原町〕に到る。
(注:対馬に到着しているが、対馬の中で移動しなおした。)
乃ち島主平義智の居る所。・・・同島は、甚だしくは広からず、四面山険なり。
府中の居民僅かに三、四百戸。その余の八郡、居民倶に百余戸に過ぎず。屋廬残破し
家家窮乏、皆芋糠を以って飯と為す。小輩と雖へども、亦た全く米飯を喫し得ず。
皆言ふ兵興の後、大軍出入し、以って此くの如きを致すと云う。(朝鮮出兵のこと)
十一日
この日晴れ。風勢好からず、因って留る。・・・
十二日
この日晴。・・・
十三日
この日陰る。仍(よ)って町中に留る。
十四日
この日陰り、洒(さい)雨あり。・・・
十五日
この日陰る。・・・
十六日
この日朝晴れ晩は雨ふる。・・・
十七日
この日陰雨。・・・
十八日
この日陰る。朝府中浦を離れ、開船して洋に出づ。風濤甚(はなは)だ緊(きつ)く
已むを得ず、内浦に回り泊す。
此れ府中を距(へだて)る、幾(ほとんど)二十余里に至る。・・・
(注:対馬に到着しているが、対馬の中でまた移動しなおした。) 十九日
この日乍ち陰る。風順ならず。・・・
二十日
この日晴。・・・二十一日
この日晴。・・・李中軍、海を祭り、豚肉(ひもろぎ)を致す。
二十二日
この日晴。・・・
二十三日
この日晴。暁に船を発し、還(また)府中浦に泊す。・・・
二十四日
この日陰雨。夜半始めて晴る。・・・
二十五日 注:ようやく出航したが波の怒濤がすさまじい。
この日晴。朝、船を発し、洋に出ず。風勢過猛、驚浪洶湧す。中洋に到るに帆
索風に勝へず、幾たびか絶へんと欲す。船欹(ふねそばだ)ち幾たび覆る。
檣竿〔帆柱と竿〕の上頭曲りて鉤の如し。竿頭は海濤と相接し、浪沫の噴き
そそいで、船中は雨の如し。
船行奔突し馬の如き有り。船中の人、色を失はざるなし。
正使、乃ち海に誓う文を作り、以って海神に誓ひて曰く、・・・四千里の行役
何ぞ敢えて一毫も憚労せんや・・・
(注:神頼みを始めて、持衰(じさい)が必要か?)
俄かにして風勢偶(たまたま)稍(や)や定り、船行恙無(つつがな)し。
夕、一岐島に到る。此れ対馬を距(へだて)る五百里。
周回比ぶるに対馬の半ばなり。居民を見る所、僅かに三百余戸なり。・・・
二六日
この日晴。大風、船を発するを得ず。・・・
二七日
この日晴。風を阻む。仍つて留る。・・・ >>278
まさにそれだよ。
うちも記紀の物語の詳細な部分までマッチする歴史なんてないと思うけど
大筋はマッチするものだと思ってるよ。
畿内で安定した王朝が、わざわざ起源を遠方にしたりしないと思うからね。
それには先祖の故郷を尊く思う心があったからこそだと考えるよ。 二八日 注:壱岐島を出発して九州北部に到達。
この日晴。朝船を発し、皆先ず去る。而るに風勢の順ならざるを以って、正使の乗る
ところの船、体大にして決行するあたわず。夕、班島〔加唐島あたりか?〕に泊す。
島は名護屋を距る六、七里と云う。
二九日
この日晴。平明船を発し、晩に名護屋〔佐賀県東末浦郡鎮西町〕に至る。
倭に言う浪耶地方(帰路では浪古耶と記す)なり。この処は、関白調兵せし時の館 有り。
山に因り城を為す。甚だ峻にして固。その城を環(めぐ)りて壕を鑿(うが)ち、水を引き
之を貯ふ。城中の四面は石を累(かさ)ねて階と為し、上は五層楼為り。此は一岐
一百三十余里をへ距て、飛蘭島〔平戸〕・五島と相望む。・・・地方頗る広潤、人居極めて
稠盛、その市塵楼店鱗次して村を成す。対馬、一岐の比にあらず。
注:秀吉の朝鮮出兵に伴い、名護屋は大軍事拠点になっていたので偵察記録になっている。
ここより以東は、則(すなわ)ち陸に寄って行船し、更に大洋に渉(わた)らずと云う。
閏八月一日
この日陰る。夕船に上り、五里許りの海店に移泊す。倭は要後口地方〔呼子〕と言う。
二日
この日晴。朝、発船櫓行し、夜深くして唐浦〔福岡市西区宮浦唐泊〕に到る。
倭に言う加羅都麻婁なり。留宿す。
三日
この日晴。朝発船し、午後藍島〔福岡県北九州市藍島〕に到泊す。島に関伯の館宇有り。
倭将 平衛門留守と云う。
四日
この日雨。風勢順ならず。発船するを得ず。夕、遂に馬に乗り、覚海山の禅寿寺に移寓す。
寺傍の民居極めて盛んなり。
初六日
この日晴。風順ならず、仍つて留まる。 初七日
この日晴。朝、禅寿より発し、馬に乗つて船所に到り、遂に発船して赤間の関に到る。
一名下関、関は海路咽喉の地に在り。各処往来の船、必ず皆この処を経由す。形勢極めて
阻隘(そあい)〔せまい〕、民居亦た繁盛なり。海畔両山相対し、中は広野為り。・・・
初八日
この日晴。晩発船す。夜に達し、行くこと一百五十里なり。
初九日
この日晴。暁に発船し、夕に上関〔山口県熊毛郡上関町〕に到る。関、下関と一様に
繁盛し、館舎甚だ広く高い。守倭は毛利、これ大将の位の高き者で、国都に在り。
守倭に代り、接待すこぶる心を尽し、酒饌(しゅぜん)を呈せらるるに甚だ濃厚、他処に
倍す。乃ち毛利の分付せる所と云う。
初十日
この日晴。朝、調信〔対馬の将、宗義智の重臣で日本側案内役〕通信使の乗る所の船の
大に過ぎ、快行に難きを以つて、遂に小船に乗り換える。
午後発船し、夕に倭の言う所の甘夫老地方〔?〕に到り、船に宿す。上軍官 白雲英
状啓を齎(もたら)し去る。
十一日
この日晴。早に発す。昨日、船を乗り換えたが、はなはだ狭くして小、動揺し不安なり。
午に我国の船に乗り換えし、夕に倭の言う所の加亡加里地方〔広島県安芸郡蒲刈町〕に到る。
留つて船上に泊宿す。この処関伯の茶房有り。極めて清潔と云う。守倭酒饌を呈す。
十二日 注:鞆の浦に着く。
この日朝晴。午に陰る。早に船を発せんとし、帆を張って行く。・・・夕、都毛に到る。
未だ二十里許りにも及ばざるに、逆風がすこぶるきつく、にわか雨が交互に起こる。
昏艱に乗じて小島に泊す。址邦浦(ともうら)〔広島県福山市鞆ノ浦〕と名づく。
以下 大阪までの航路は中略。以下、こんどは帰路である。 注:この時点ですでに晩秋になっており、季節風の強い北西風が始まっていたため
長逗留になりがちになっている。
初九日
この日陰り晩雨ふる。午に名護屋浦に到泊し、又、通訳人をして差するを以って報告せん
とし、両天使に稟すも、許されず。
(注:先発隊を出して本国に早く連絡をと申告したが却下されたの意)
初十日
この日雨、仍つて名護屋浦に留る。・・・
十一日
この日晴。朝正成酒一桶、猪二頭、鶏十隻、魚一盤を送る。○甲斐守、已に昨夕ここに到り、
長崎、倭に言う浪加沙、そこに往かんと欲し、軍器を留めりと聞く。
十二日
この日晴。軍官趙徳秀・朴挺豪等を差し、前後の状啓を齎(もた)らし、先発して去る。
十三日
この日晴。朝、名護屋浦を発す。午、一岐島の綿羅〔郷ノ浦町渡良〕、倭に言ふ
臥多羅に到泊す。
十四日
この日晴。綿羅に留る。
十五日
この日晴。朝船を発す。午、一岐島の風本浦に留る。夕、景直橘を送る。調信朝巳に
先ず対馬に往くと聞くと云う。
十六日
この日晴。行長橘を送る。仍つて風本浦に留る。
十七日
この日晴。仍つて留る。
十八日
この日晴。行長梨九顆を餉る。大なること数升の瓢の如し。 >>300
時代錯誤の文献を持ちだすのは良くない
3世紀に近い文献で頼む 遣隋使 遣唐使でもよいが・・・
また、朝鮮通信使が幾度日本にきたのか 古から朝鮮半島と日本の往来は幾度?
稀有な例を持ちださないほど困窮してるのか畿内説は? 一九日
この日晴。仍つて留る。
二々日
この日晴。行長橘を餉る。この島橘多し、銀子一銭、橘一千五百顆に直(あたい)す。
その賤(やす)きこと知るべし。
二一日
この日雨。仍つて留る。
二二日
この日晴大風。仍つて留る。
二三日
この日晴。行長牛を餉す。
二十四日
この日晴仍つて留る。
二五日
この日晴暁に船を発す。午、対馬島に到る。調信、義智等、小船に乗じ、親しく問候に来り、
仍つて上岸に留歇せんと請う。向夕、両天使、倶に下陸し府中〔対馬厳原〕の館舎に寓す。
正使亦た西山寺に下寓す。副使は慶雲寺に寓す。
二十六日
この日陰る。昏に平義智来見し、且つ言ふ、使臣を寓する所に請(まみえ)一に穏話を
倣(な)さんと云う。
二十七日
この日雨。平調信の使人来り言う。明日、島主酌を設けんと欲す。専ら両位の使臣の光臨を
請ひ、早枉を万望すと。通信使答うるに、気の平かならざるを以つて招きに赴くを得ずと。
二十八日
この日雨。・・・
二十九日
この日或は雨ふり或は晴る。仍つて留る。 十一月初一日
この日乍ち雨ふり乍ち晴る。仍つて留る。
初二日
この日陰る。仍つて留る。
初三日
この日陰る。朝発船するも、未だ開洋に及ばず、風順ならず、還た泊す。
初四日
この日晴。大風あり。
初五日
この日陰る。・・・
初六日
この日晴る。・・・○この日船を発し櫓行。夜深く西の浦〔上対馬比田勝港〕
に到る。
初七日
この日晴。昏に雨。朝発船し、午に豊崎郡の大浦〔上対馬町大浦〕に到る。
昏、天使船し亦た到る。
初八日
この日朝晴、暮に陰る。大浦に留り、風を待つ。
初九日
この日晴、昏に雨ふる。留泊して風を待つ。正成、長崎より追い到る。
初十日
この日下雪。仍つて大浦に留る。
十一日
この日陰る。大浦に留る。
十二日
この日陰る。大浦に留る。
十三日
この日晴。大浦に留る。
十四日
この日朝陰り、暮に雨ふる。大浦に留る。 十五日
この日乍ち陰り乍ち雨ふる。大浦に留る。
十六日
この日晴。大浦に留る。
十七日
この日陰る。朝船を発し、未だ出洋に及ばざるに、風順ならず、還(ま)た大浦に泊す。
十八日
この日晴。大浦に留る。
一九日
この日陰。大浦に留る。
二十日
この日晴。大浦に留る。
二一日
この日晴。大浦に留る。
二二日
この日晴。大浦に留り風を待つ。○対馬に回りてより後、風に阻まれ留ること二十六日間。
一行皆帰を思い、悶欝として日を度(は)かる。
盖(けだ・蓋?)し渡海には須(すべか)らく東南風を得べくも、冬月はこの風を得難し。
故に留滞してここに至る。嘆ずべし。
二三日 注:風を待ちきれず、強引に漕いで出航。
この日陰る。朝両天使と同じく発す。未だ二十里許りも至らざるに、風勢便ならず
天使回船して大浦に泊す。唯 通信使一行、乗る所の我が国船四焦は櫓行を止めず。
倭を指路する等、極力諌止し、以為へらく、我輩最も海行に慣る。而れども未だ尚 無風に
して渉洋せず。中洋にとまり、日黒或は逆風に遇い、必ず他処に漂到を得んと。
唯だ都訓導 金得言、今日天気甚だ清、必ず終日無風ならん。
若し力櫓せば、則ち釜山に到るべしと云う。遂にその言に依り、回船を為さず。
しきりに軍に酒飯を饋格(きかく)し、櫓を促して行く。夜深く釜山に艱到す。
注:海行に甚だうんざりしたのか、釜山の港に到着したあと、船はもう使わず、このあと
陸行でソウルに向かっている。 >>294 何を参照したのか知らんが
って、そのセリフはすごく恥ずかしいことだぞ。翰苑だよ 研究者とか学会がーとかいって、畿内説を押すけどさー
そっちの世界って、今力をもってる者の意にそぐわない研究は価値無しってする悪い風潮がある世界じゃない。
そういうのって、本当に結果が出るまでわかんないのに、なぜなのかね。
もっとどの方向性の研究も尊重して支援する仕組みになればいいのに。
お偉いさんの気に入ってくれる研究しか評価されないとか面白くないよ。 >>299 その説は魅力的だが残念ながら
台与は「宗女」ということで、卑弥呼の親戚だし、
張与が勅諭しているから、台与は卑弥呼の
すぐ近くに居たという証拠なんだよ・・・
平原遺跡の女王墳墓は台与かもしれないが。 >>256
>倭国大乱で負けた側の存在を無視する最低な奴だな。
>日本列島に女王国しかないと思っているのか?
負けた側の天孫族が親戚筋を頼って落ち延びた先が大和 なるほど朝鮮通信使は東松浦半島の名護屋に到着しているのだな >>297
>開拓が行き届いて古墳サイズが小さくなり最終的に古墳時代を終える。
おかしいだろ。
弥生時代から墳墓はあって、徐々に大型化したけど、最終的に止めちゃうんだろ。
大きいものがいきなり出来て、その後に全国に小さな前方後円墳が作られるとか言う畿内説はおかしいよ。 >>299
>台与は九州勢力が移動した後の巫女。
どこの史書にも、その時代に移動したなんて書いてないよ。 九州説は現実が辛すぎて空想の世界に逃げ込むしかないんだな 渤海の遣使は能登周辺に上陸して歩いてはるなー
邪馬壹へも陸行1月の起点北陸の可能性あるぞ(オッヅ10倍
ちなみに帯方の東のワイ族は郡に属しとる
あと製造年月日が10日まえのハングルゴミはふつうに能登にながれついとる >>307
太平になった江戸時代の朝鮮通信使では、その往来は豪華すぎると思って
もう少し前で荒れ果てた戦国時代末期の 日本往還日記 を引用してみたが、
>>時代錯誤の文献を持ちだすのは良くない
と文句かよ。
>>3世紀に近い文献で頼む 遣隋使 遣唐使でもよいが・・・
自分で探さずクレクレかよ。
>>また、朝鮮通信使が幾度日本にきたのか
こんなのググればわかるのに、質問かよ。朝鮮通信使は、江戸時代は12回にも及んだ。
>>古から朝鮮半島と日本の往来は幾度?
>>稀有な例を持ちださないほど困窮してるのか畿内説は?
>>307は馬鹿 >>322
ひょっとして、渤海の遣使の情報を
引用してきて、南に二十日で出雲に
到着という情報かもしれないな。日本海を
南に直行して横断というのが考えにくいが。 >>324
時代逆やん(引用ゆーより実地じゃねワイ族の 考えれど
考えれど
わが 比定地に つかざり
じっと 地図を 見る 郡の人がわいぞくにきーた情報つうのがわえのアイデアです >>319 史書には書いてないが、
卑弥呼は多くの国々が共立した代表だから、
再度の大乱をえて再び女子をもって共立したとき、
台与は畿内の大勢力が主体となって共立したと
解釈すると、かなり話がうまく治まるんだよ。
某ブログの説だが。 もはや痛々しいな
北部九州説が倭人伝を解読してしまったから
それに対抗するために求められる完璧さのハードルがさらに高くなったというのに・・・ 魏使の見聞は伊都まで
考古学的にわかっている、工房が密集する大工業地帯である
大都会奴国の描写が全くない
よって戦争中の台与は伊都で張政と会っている
よって台与は北部九州の伊都もしくはその近くにいた ひがしにいめんのひとあり(こんなくだりもなかったかのー(各自調べること! >>317
壱岐から博多湾へ直行するのは
良い季節じゃない限り、無理みたいだね。
東松浦半島に寄ってなるべく距離を短くしないと。 >>323
307ではありませんが、
貴重な引用ありがとうございます。
とても参考になりました。
基本アホが罵倒し合うスレなんで、正体不明の書き込みは各説から条件反射で罵倒が入ります。
わいわい騒ぎたいならここでいいですし、
じっくり議論したいのであれば、進行の穏やかな他スレもおススメですよ。 >>325
そーそー交易の情報
まー陸沿いではなく日本海横断じゃが 風力利用せんほうが早いときもある(縄文人の潮への知恵は中世にまさる
ワイぞくは縄文人と接触してたやろなー(とおいめ 壱岐 → 呼子 → 糸島半島(唐泊) → 関門海峡(藍島) >>338
何を持ってきても結局は北部九州説が正しいわけだなあ 三角縁神獣鏡の銘(景初三年のもの)
<口語訳>魏の景初三年(239)、陳是が鏡を作る(注:陳是は一種のブランド名で
実際に陳是が魏で作ったわけではない。有名人の作にあやかっているコピー品)
ひとりでに行われるさまに、ここに至った経緯(事情)がある。ふるさとを述べると、
私(陳氏の自称)は、古都の杜(前漢の宣帝陵がある長安の郊外の里)の地方の出身で
ある。下級の役人が、この鏡を告げ教えれば、位は太尉・司徒・司空の三大官に
及び、母親である人が、この鏡のことを教え導けば、子供を養い守り、子孫にも
都合が良いであろう。長生きすることは堅い金石のように確実である
景初四年のもの
(一) 景初四年、五月丙午之日
(二) □(=陳)是(=氏)、鏡を作る。吏人、之に[言名]すれば、レ位三公に至り、母人、之に[言名]すれば、子を保ち[糸子](=孫)に宜(よろ)しからむ。
(三) □(=壽)は金石の如し(□=兮(ケイ)=終尾辞)
口語訳
この鏡を使ってくれたら、大変立身出世しますよ」と言う、「女性が、
(女性は母になる人ですから)これを使ってくれたらいいお子さんが生まれますよ、
お孫さんもいいお孫さんができますよ。いい子孫が出来ますよ
三角縁神獣鏡は、卑弥呼への特注品ではない。女王に向かって、出世するとか、
結婚してないのに、子供やよい孫ができるとか、卑弥呼向けの文面ではない。
また鏡の年号は、型を毎年そこだけ彫り直したりして、型がくずれて明瞭でないことが多い。
文面は、量産品としての定型文であり、年号はつまり、製造年月日のこと。
当時の鏡は、倭ではまだ貴重品扱いで祭祀や墓の埋葬に使われたが、
中国ではすでに量産品となっており、そのストックを卑弥呼に与えただけ。
といいたいが、三角縁神獣鏡は日本でしか使ってないから海賊版だな。銘の文面だけは立派だが。 >>321
ほらな
現実を突きつけられて空想の世界へ逃げた 畿内銅鐸が得意だった同范技術を多用してる畿内銅鏡とは? 邪馬台国が畿内なら日本海(出雲・・若狭湾・・)が貿易の中心になっても良いのだが・・・ >女王に向かって、出世するとか、
>結婚してないのに、子供やよい孫ができるとか、卑弥呼向けの文面ではない。
未婚で国を治めている巫女女王と外交するのに
絶対に書いてはいけない文面だなw >>334
どんなに罵倒ばっかりのスレや業界であっても、
できる奴はいる(頭の良い人はいる)
という言葉を思い出した。>>334は良識あるいい奴。 >>340
コラ三角縁神獣鏡には
銅出徐州 師出洛陽(徐州の銅で洛陽の鏡師が作った)
って銘が入ってるのをちゃんと紹介せんかい >>342
銅鐸の同笵は石製鋳型だった前半だけ
土製鋳型に変わった後半はやってない >>344
あ、いわれてみればそのとおりだ。
偉大なる皇帝が女王卑弥呼へ下賜する品として、
三角縁神獣鏡に彫ってある文章は、致命的に失礼だな。
皇帝のメンツがつぶれるほどだ。
結論 三角縁神獣鏡は魏が卑弥呼にあたえた鏡ではない。 九州論者は10年以上前の手法で周りを騙くらかそうとしてるようだな
今じゃあっさり反論や反証あげられて余計九州説が
ウソと印象操作だらけな事が周りに知られていく >>335
日本海横断じゃなく、渤海から
半島の東海岸沿いに航海して
九州北部に到達する、(南に20日)
という情報かもしれないな。帯方郡から
報告されてくる情報のひとつとしてふさわしい。
http://blog-imgs-85.fc2.com/t/o/r/toriton/bokkaitizu.jpg
帯方郡は、半島の東海岸も管轄内だからな。(西海岸はよくわかっているが。) >>348
じゃあ魏の皇帝が卑弥呼にあげた鏡は?
そして三角縁神獣鏡はどうして存在する事になるのだろう >>353
>じゃあ魏の皇帝が卑弥呼にあげた鏡は?
内行花文鏡もしくは方格規矩鏡
>そして三角縁神獣鏡はどうして存在する事になるのだろう
古くから日本では銅鏡が国産されており、
平原遺跡の八葉超巨大内行花文鏡が日本オリジナルで発展したように、
日本オリジナルの神獣鏡を作ってみただけ。 調べてみるとわかる
聖闘士星矢に登場するポセイドン
ザ・モモタロウに出てくる、
ウラシマンと同じような技、渦潮(何やらウェーブ。波。)を使用したり >>339
魏志倭人伝の記載は、半島と北部九州の
ことしか書いてないからな。
どうしても北部九州説になる。
では、南に「投馬国まで水行二十日」と「水行十日陸行一月」は
どうなるんだよ?という疑問になるが、
「投馬国まで水行二十日」は、朝鮮半島の東海岸を水行したルート、
「水行十日陸行一月」は、半島内を陸行したあと釜山から舟で向かったルート、
をそれぞれ並列で記録したと解釈できるわな。
割注などで付記したのを、転記のさいに本文に組み込んでしまったのだろう。 >>346 それは知らんがな。
専門的なデータを読んで、その要点を引用するのは
大変しんどいんだぞ。たとえ5chに書くにしてもな。 >>343
日本海と対馬海峡を交易の舞台とするなら、当然博多がハブですよ。
内陸の纒向なんて論外。 >>350
岡上さんは自分のスレにいるよ。
畿内説はそろそろ全岡上病から脱出しないと、もっと支持を失うよ。 >>353
平原遺跡に中くらいのがたくさんあったじゃん。 倭へ向かう道のり
ルート1 帯方郡から舟にのって西海岸を水行して釜山経由する方法
ルート2 帯方郡から陸路を歩いて、釜山から舟に乗っていく方法
ルート3 楽浪郡(平壌)から東海岸に出て、そこから東海岸を水行していく方法
ルート3を使う頻度は少ないが、日清戦争のとき使っている。年代が離れ過ぎだが。
http://blog-imgs-82.fc2.com/k/h/1/kh16549/img_1.gif なぜ、あのスレで言っていたんだろう
ひどらの市というのが・・・なんだぞ
とか >>362 投馬二十日はルート3のことじゃないか?というカキコだな。 >>331
九州北部の沿岸諸国は、田んぼを作れる平地が
どれも少ない。対馬壱岐島は輸入しないと人口が維持できない
ほどだし、九州北部の沿岸は奴国を除けば山がち。
奴国にしても古代は海が入り込んでいた。
邪馬台国は南の筑後平野だと思うが、そこはコメの生産で耕地も総人口も
多くても広く散らばっていて、奴国や伊都国と比べると田舎なので
コメの供給地にとどまっていて
卑弥呼も台与も魏の使節たちも伊都国に出てきてやっていたんじゃないか?。墓もそこ。 >>365
弾薬や食糧の補給のため、後送として
大量に行き来しているよ。
特に日露の戦争では旅順にロシア艦隊が居たので、
ルート3がメインの大輸送路。
ちんじゅ としては、倭に至るルートがいくつもあることが
わかったとなれば、付記せざるをえないだろうよ。 その複数ルートを併記したつもりが、タテにつなげて読むと、
邪馬台国は南のはるか海上に・・・ >>367
3世紀には既に航空路もあったかもしれんな 日本三大暴れ川
利根川(坂東太郎)
筑後川(筑紫次郎)
吉野川(四国三郎) >>354
三角縁神獣鏡には魏の年号が入ってるよ
これは魏と交流がなければ作れないという事ではないのか >>370
琵琶湖から流れ出る川は、琵琶湖が貯水するおかげで
洪水が比較的起きにくい。
難波は古代から、日本一の土地とされる。
地理的条件が圧倒的にいい。九州を圧倒するのも時の流れ。 >>372
記念銅鏡だから、何年たってもその年号を刻印する。 >>373
博多湾勢力が進出して住吉を立てて支配したじゃん。
開拓したのは筑紫日向から来た三島溝杙だよね。 >>357
そういう事言うとソース付きで証拠を上げるぞ?いいのか?
三角縁の銘文の訳なんていくらでもネットに転がってるからな
私が間違っていましたと一文書くなら勘弁してやるけど
無視したらそっちの嘘を認めたという事で >>375
関係ないだろ
景初、正始など魏の年号の使用そのものが
畿内と魏の繋がりを表しているんだから まぁ少なくとも魏と何らかの交流があるのは事実だろう。
国産ならむしろ畿内説有利といい加減認めないと。 >>377 噓ねえ・・・
三角縁の銘文にも種類があって、そのうち2つを挙げただけだろ。
>>私が間違っていましたと一文書くなら勘弁してやるけど
>>無視したらそっちの嘘を認めたという事で
まともな人が言うセリフじゃないよ。
そんなことを言う前に、そっちが銘文の訳を
すばやく示せば済むことだろ。言えればの話だが。ブラフだろ >>376
年代もバラバラなものをつまみ食いするなよw ブラフ(Bluff)とははったり、こけおどしのことである。
はったり、こけおどしを意味する英単語である。 >>377
あんた下品だね、チンピラの因縁じゃないんだからw なぜ詳しいのか?なんだよ
老婆は漫画やアニメは観ていないし、
馬の話、松の木(モミ??)、機織りが何やら・・・むかーし、どこかの城に通っていた >>376
三島の末裔が鴨一族で、上加茂、下鴨両神社に祭られている。
末裔は奈良に移動して葛城の鴨王、登美の長髄彦、神武皇后のイスケヨリヒメ、オオタタネコらを輩出した。
時代がバラバラなんじゃなく、九州に祖を持つ氏族がずっと畿内を支配していたんだよ。
畿内説はなぜ畿内の伝承とか歴史を無視するのかな。 畿内を支配していたのは、天津神の磐余彦と饒速日、出雲系と天津神の合流した鴨王らだよ。
皆、西から進出してきた。 >>380
大阪府柏原市国分寺町向井山 茶臼山古墳出土
三角縁四神四獣鏡
新作明竟 幽?三剛 銅出徐州 [?市]出洛陽
彫文刻鏤 皆作文章 配徳君子…
(訳)
新たに明鏡を作る、幽律を三剛し(←決まり文句らしい)
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず。(←徐州産の銅で洛陽の鏡師作)
文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
徳ある君子に配すれば…以下略
ググって確かめてくれ
>>380は嘘をついてたわけじゃないなら無知を晒した事になる
ソース上げられさらに九州説のいいかげんさが露呈したな >>384
世間の人間をデタラメで騙そうとしてるわけだから
それ相応の態度を取られるさ
>>387
三角縁の銅は中国産と分析器で分析されたよ どのスレッドだったかな
・自分の家のこと、知らなかったんじゃないの?
・教えてくれなかったんじゃないの
とか
『何者にもなれない お前たち』
これも同じような気がする >>389
ちゃんと訳文を拾ってきて偉いなあと感心していたら、何を九州説叩いてんだよ。
九州説だけど、銘にはなんにも疑問は書いてないぞ。 >>390
三角縁は畿内説風に表現するとスクラップ鏡なわけだ。 >>390
呉の銅と鉛が使われてることが判明したんだよね うちは畿内説九州説で争うのも楽しいけど純粋に追及するためには
今の学会研究者の主流に沿わないと評価しない姿勢を考慮したほうがいいと思うよ。
畿内はは4〜5世紀には鉄をすごく重視してる。
鉄器に関係なく畿内がーっていう人がいるけど、現実はすぐに鉄を重視してる。
というか、申し訳ないけど今も昔も政治でも宗教でも後ろ盾に武力なければ力は持てないよ。
邪馬台国の年代で日常に鉄がなかった畿内は未開地。
吉備やその日本海側まで鉄がけっこう出てるのに畿内は未開地。
そこが急激に進歩するのは、それをできる人たちが移住してきたってことだよ。
古墳だって巨大化するのは、大陸との交流で大陸に負けない威を示すためかもしれない。
去年の古代史ミステリーでやってた、海外から畿内を目指す海外からの客が
海から見えるところ、川をさかのぼる途中に、巨大古墳があり、
見せるための意味もあったのではと言ってたけど、まさにそれかも。 これもモモタロウに登場する、浦島の技
「スーパー・オクトパス・ホールド」 >>392
嘘をつけ
銅出徐州とかないと言ってただろう
それに銘を疑わないなら三角縁は徐州の銅で
洛陽の鏡氏が作った魏鏡と認めるんだな
景初三年とかの記年も >>396
>そこが急激に進歩するのは、それをできる人たちが移住してきたってことだよ。
どこから?
w 記紀にもヤマトの地が征伐されて、大和朝廷が始まるとあるからな。
纒向の外来系土器を見たら、それが尾張や出雲など山陰の勢力というだけで。
実際文献でも尾張や出雲などが4世紀までの大和朝廷では主要な役割を果たしているしね。
魏志倭人伝でも、官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生馬、生駒。火の神。 ヤマトにも出雲地方にも同じ地名がある。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 阿波の勢力。
奴佳鞮は中臣。
大和朝廷の主体は出雲など山陰、尾張などの縄文系勢力でいいんじゃないかな。 伊支馬を活目、弥馬升を観松、弥馬獲支を御間城、奴佳鞮を額田でもよかろう >>398
国内にたくさんあった後漢鏡のスクラップだよ。
鋳造は国内だろう。
銘は記念品。
卑弥呼より後の時代に作られたということがわかるだけ。 卑弥呼より後の時代のものを持ち出して卑弥呼に結びつけるのは畿内説の常套手段。 >>394
>>395
そんな事どうやってわかったのか >>406
当時の中国銅山のサンプルと比較したんだよ 邪馬台国長官 伊支馬(イキマ)=活目(イクメ)→活目入彦五十狭芽
(イクメイリヒコイサチ)=垂仁天皇
その次 弥馬升(ビバス)=日葉酢姫(ヒバスヒメ)=皇后
その次 弥馬獲支(メマクワシ)=遠津年魚目微比売
(トオツアユ・メマクワシヒメ)=崇神天皇の妃
その次 奴佳?(ヌハダイ)=沼羽田入比売(ヌバタニイリヒメ)=妃 >>403
三角縁には景初、正始と魏の年号が入っている
あと漢字で銘文も入っているからそうなると
3世紀の倭人は漢字を使いこなしていた事になる >>407
参考になるわけないね
精製された銅ならなおさら
どうせ金属考古学の新井宏のデータか何かだろうけど だいたい鉄器もロクに出ないような九州なんて邪馬台国じゃないよ >>410
マジで知らないのかw
馬渕久夫「三角縁神獣鏡の原材料産地に関する考察」(考古学雑誌(日本考古学会発行):平成25年11月)
三角縁は呉銅と呉鉛で作成されたでFA >>411
呉の工人が作ろうがどうだろうが
魏の年号が入ってる以上畿内と魏の交流を示す証拠だろう?
それに呉では三角縁神獣鏡が1枚も見つかってなく
むしろ魏の都の洛陽付近で1枚見つかったんだけど >>409
そりゃそうだ。
魏に国書を送るくらいだし。
伊都国で女王への献上物を目録と突き合わせていたとあるしね。
伊都国では硯も発見されている。
まあ、硯も金属器も何もない畿内には関係ない話だろうけど。 >>413
はいはい
それに鉛同位体って単語が1つも出てこなかったら信じてやるわ >>389 景初が入ってない鏡だろ
三角縁の鏡はどれも同じ銘文だと思ってんのか >>415
その割には里数を知らずに日数で距離を表記したりするが?
あと明らか輸入品の鏡や剣以外に漢文が入ってないのは
何を意味しているのだろうか >>414
卑弥呼より後に、卑弥呼の家来が卑弥呼の功績にちなんでスクラップ鏡を作ったんだよ。 >>419
それなら卑弥呼のもらった鏡は三角縁神獣鏡で
それをのちにコピーしたという事にならないか
そうじゃないというならそもそも卑弥呼の貰った鏡は何なのか 魏皇帝が下賜するのは官営工房造のものに決まっておろう 顔さんとか陳さんとか
三角縁の紀年鏡は民間のじいさん造 >>389
新作明竟という銘文がある鏡は、年号が入ってなくて、
卑弥呼の時代であるかどうかすらわからない。
数ある三角縁神獣鏡のうちの1系統にすぎない。年号が入ってないから
オイラが挙げた景初三年、景初四年の鏡よりも
価値はワンランク下だよ。
そんな時代不明の鏡の銘文を見て、噓だとか無知だとか謝れとか
恥をさらしたのはそちらそのもの。謝れよオイラに。
ソースはここ
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html >>420
>>428のリンク先を見て、そこで
新作明竟
で検索なされ とりあえず邪馬台国畿内説はやめてくれ。
他の畿内の人々が迷惑する。
大阪などは大和朝廷に征服された側なんだから。
邪馬台国ヤマト説でいいだろ。
縁起悪いものに近隣を巻き込むな。 >>429は馬鹿。
意味がわからない
ということを言うのは、発達障害者がよく言うセリフだから
言わない方がいいよ。 「魏の紀年」とか「銅出徐州」とか「?市出洛陽」とか市販品の箔付けにすぎないね >>422
コピーじゃなくて、昔から流通していた鏡を改鋳したということ。 >>433
じゃあ言い直すよ
言わんとしてる事の主旨が不明 >>431
邪馬台国の時代が終わって、大和朝廷の時代になってから
作られた鏡の銘文をごちゃごちゃ言っても無駄。
もっと古い鏡を見ていえよ。 前方後円墳から多く見つかるのだから、三角縁は4世紀。 >>436
改鋳にしろ、景初とか正始とか魏の年号が入っている
ならその鏡が多く出土する所は
魏との結びつきが強かったんだなという事になる 正しい理解の仕方は、4世紀の国産鏡が景初を紀念しているのだから邪馬台国が勝利したということ。 九州の邪馬台国の末裔が4世紀には畿内も支配していたんだろ。 >>438
あんたは記年入りの景初3,4年鏡は記年が入ってない鏡より
価値があると>>428で言ったな?
すなわち景初3,4年鏡は実物であると認めた事になる
魏の年号の入った、卑弥呼が魏に使いを送った年(238年)と
同じ年号の鏡をな 鉄剣でも鏡でも、古いものは数あるがその古さは推測でしかない。
でも、年号が入っていれば国宝レベルにまで価値があがるんだよ。
同時に出土したゴミみたいな遺物でさえそれも含めて一括して国宝指定になったりする。
遺物にも当時の流行があるがその年代測定が炭素とかよりも、
格段に精度があがるからな。埼玉の鉄剣でよくわかることだろ。
三角獣の鏡だって同じことだ。何百枚も出土したが、年号が入ったのは数えるほどしかない。
そのうち卑弥呼が生きて魏へ派遣して、魏皇帝が鏡を贈った、というその年そのものの年号が
入った鏡がある。だからその鏡は、邪馬台国研究においては特別な価値があるんだよ。
その銘文もな。
年号が入ってない鏡の銘文をみて、景初3年や4年の年号が入った鏡を銘文を批判するなんて
ちゃんちゃらおかしいわ! 筑紫(または出雲)から畿内に進出した王族級の皆様
饒速日
神武
崇神
事代主
神武
三嶋 三角縁を国産とか言うのは無理筋過ぎるからな
そうでない証拠だらけだからな
そう主張すればするほど九州説はボロが出るぞ 景初4年は中国に存在しない年だから、だからそれを知らずに作った三角獣は
日本で作られた、という説は、定番だよな。
まあ、これを突き詰めると、邪馬台国は畿内じゃなかった、ということにつながるから
研究者があまり言いたくないのはわかる。
それに文面が、母だの孫だの書いてあるのは、ハイミスの女王に渡す鏡じゃない。
結局は、魏の年号をつかっていかにも古くみせかけた模造品。とはいえ
年号がないその他大勢の鏡はもっと価値がないが。 国内で作った踏み返しの鏡が多数あることは事実だろ。
それを無視してそんなデタラメを言うから、畿内説は信用されない。
中国で出たと言う鏡だって、ゴッドハンドではないかと疑われる。 >>445
やっぱりよくわからんな
まあ一つ教えてやろう
三角縁神獣鏡は例え記年鏡ではなくても
模様によってどのくらいの年に作られたのかわかるのだ
1期が238年ごろ
2期が240年ごろ
3期が数値忘れた
4期が260年ごろ
5期以降が国産と
なので記年鏡であってもなくても考古資料上では
そんなに価値に違いはないたぶん 古墳での副葬位置も明らかに低位置とか棺の外とかだからな
一目瞭然 三島辺りは弥生時代前期末からずっと集落が続いているけどね。
九州や出雲などが弥生時代末期以前に進出した形跡はない。 >>410
まぁ、三角の元鏡は呉関連取引で得た鏡?か三國時代より新しいの鏡か?のどちらかだね
流行に乗じて、それを原形に国産化しまくったのか
出土で500枚以上なら実際は何千枚もあっただろうからな >>447
まあな。鉄剣に比べればどうしてもいまいち。
おまけに魏から贈られたわけじゃない、というのが
研究者もうすうす気付いているからな。国宝指定にはできんだろ。 卑弥呼朝貢直前の青竜三年銘の方格規矩四神鏡がありまして、
方格規矩四神鏡は魏で作られていた鏡ですので
これが銅鏡百枚ですね。 古墳での副葬状態でも、三角縁の扱いは二級なんだよ。
内行花文鏡とは差がつけられている。
内行花文鏡(そして方格鏡)こそが王族が持つべき鏡であり、中国の皇帝が各地の王侯に配った鏡であることが知られている。
弥生王墓の大半が、内行花文鏡を三種の神器の一部として副葬されている。 >>452
景初4年鏡がニセモノだとしても
それだからって景初3年鏡、正始元年鏡がニセモノになるわけではないよ
年号入ってない鏡もたくさんあるんだし >>443 実物じゃないと認めたことになるわ。
それが景初4年鏡。このよう年号失敗作はかえって役立つわな。 >>459
記年鏡とそうじゃない鏡に明らかに模様に共通のクセがあるらしいから
専門の学者ならひと目でわかるそうな
というかこんな所で聞くより専門書でも読んだ方がいいぞ >>457
卑弥呼が使いを遣した年の魏の年号が入ってるから
明らかに魏鏡の下賜品だよ 教化の意味もあり辺境の畿内にも九州経由で急速に中国の文物がもたらされたのだろう。
でも本当に直接的な強い結びつきがあれば、ホンダの中古車にトヨタのロゴマークをペイントするようなミスは犯さないだろう。 >>464
だからなんで模様で年代が分かるんだ?
まさかと思うが
記年鏡がその年に作られたことを前提に学問しているのか? >>460
三角縁の方がより貰った100枚の鏡として適当 >>461
魏へは使者を4回ほど送っているから
三角縁はたくさんあった
むしろその頃は昔に貰った漢鏡の方が数が少なくなって貴重品になっていた 漫画でも何でも良いけど、
ゲストキャラというのがいるでしょ
『ゲスト』の意味を調べてみたほうが良い
「スペシャル・ゲスト」とか・・・神殺し? >>468
それぞれの記年鏡とそうでないのの模様に
年代によってt明らかに共通点があるからという事だ
詳しく知りたいなら俺なんかに聞くより専門家の意見を読みな >>471
4回の使者がたくさん持ってきたのなら
もはや特注品では無いな
長年にわたって大量生産された品だ
たくさんあって貴重ではなくなったと言っているのはそちらだからな
で、洛陽にその痕跡はあるのか? >>460 そやな。
年号が入った方格規矩四神鏡と
年号がなくてもその模様や構造が同じようで
同じ時代に作られたと思われる鏡は
特筆物だな。ググると下記
青龍三年銘方格規矩四神鏡
日本最古の神鏡。この神鏡の銘にある「青龍3年」が、中国の魏の年号で
西暦235年に当たり、『魏志倭人伝』で邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣
いを送ったのが景初3年(239年)のことであり、帰国したのが正始元年(240年)
であるので、その中にこの鏡が含まれていた可能性が指摘されている。
とある。さらにぐぐると、
方格規矩四神鏡/京都府大田南5号墳出土 ほうかくきくししんきょう/きょうとふおおだみなみごご
うふんしゅつど. 大きく · 考古資料 / 古墳 / 近畿. 京都府. 古墳. 1面. 宮津市字国分小字天王山611-1.
重文指定年月日:19960627 国宝指定年月日: 登録年月日: 京丹後市. 国宝・重要文化財(美術品).
古墳時代前期の方墳から出土した、紀年銘鏡である。 本鏡は、第一主体部に納
められた、凝灰岩製の組合式石棺の内部から出土した、方格規矩四神鏡である。
作品所在地の地図. 方格規矩四神鏡/京都府大田南5号墳 ..
国宝だし、京都から出土か・・・。畿内説向きだな。 >>456
三島は九州出身で、神武東征を助けて功績を挙げた。
そして加茂、鴨として京都や奈良で豪族になったんだよ。 >>462
三角の紀年鏡が3世紀の墓から出土したならまだ説得力もあるがなぁ
4世紀以降あれだけ国産品の出土がある訳で
当時、文字も理解してただろうから、年号は後年に入れた可能性もある
ほら、実際年号があるだけで価値が違うと感じるだろ? >>474
詐欺
洛陽近郊の畑から農民が掘り出したらしきものを
骨董市で見つけて買った人がいる
という、説の根拠にするにはむしろ恥ずかしいくらいのシロモノ >>463
それが偽物でも
すなわち景初3年鏡と正始元年鏡が偽物という事にはならない >>462
景初四年鏡も景初三年鏡も陳さん作、残念! >>481
農民が畑で見つけたやつ?
畿内説ってそれでいいの? しかし何度も何度も同じ話題を振っては負けて帰る、アホですか? >>478
三世紀の古墳から出土してなかったか?
椿井大塚古墳とか黒塚とか
ちと記憶違いかも知らんが >>485
おう
逆に呉から1枚も湿度してないから三角縁神獣鏡は呉鏡ではない >>488
まあ卑弥呼が死んで台与の時代かも知らんが >>482
だからって景初3年鏡も4年鏡もどっちもニセモノという事にはならないね >>491
お前賢いな
卑弥呼の宗女である台与の時代に畿内で製作開始されたんだな >>483
作られてないという積極的証拠、ようするに根拠もない >>492
ニセモノなんかじゃないだろ
どっちも本当に畿内で作られたオリジナル国産鏡だ >>490
材質は中国製
当時国内で使用されていなかった漢字で文が入っている >>496
そりゃそうだ
材料の青銅は中国から輸入していたんだからな >>462 そやな。
ニセモノの模造品というのは言い過ぎだったわすまん >>493
九州説になんかほめられたってちっとも嬉しくないわ
三角縁神獣鏡は材質の銅が中国製だし、
景初、正始と魏の年号も入っていて
現在の洛陽でも1枚見つかっている
すなわち魏鏡は確実であり、卑弥呼の貰った鏡である可能性が非常に高い >>495
さあわからんよ?
景初3年は本物で4年は偽物、あるいはどっちも本物かも知れない あ〜、搾取されてばかり
と言っている人がいたり
謎のチェーンソーのゲーム
「金返せ」と言っていたり
人の家?をネタにして、
商売をしている人がいるみたいな・・・事を言っている人がいたり
悪く言いたくないんだけど
漫画やアニメ、ゲームというのが・・・問題なんだよな
と言っている人がいたり >>492
どっちも陳さんが作ったのなら、
陳さんは景初が三年までと知らなかったわけだ
洛陽の陳さんなる人は存在しなかったか、
陳さんは洛陽じゃなくて魏の年号もわからないド田舎にいたか >>497
だとしても、景初と魏の年号が入ってるから
国産品だとしても畿内と魏の繋がりを示す証拠である >>504
畿内が北部九州邪馬台国に征服されたことを示す証拠である >>503
景初3年は陳さんが作った本物だけど
景初4年はそれをマネして倭人が作ったニセモノって考え方も出来るだろ >>505
そうだとしてもそれが邪馬台国畿内説を否定する事にはならない >三角縁神獣鏡は材質の銅が中国製だし、
弥生時代の青銅器の材質はほぼ海外からの輸入青銅
>景初、正始と魏の年号も入っていて
その年号ど同時期もしくは、「より後に作られた」可能性がある
景初四年銘がある
>現在の洛陽でも1枚見つかっている
農民が畑で見つけただけで、学術出土ゼロ
これで1枚見つかっていると主張し続ける時点で
学問的な信頼度がゼロに近くなる >>476
その鏡が危ういのは古墳前期の墓から出土という事
つまり、平原の鏡が既に国産ならば…その鏡も国産じゃね?となるんだよね
国産の三角もわらわらとある時代だし
平原の時代さえ国産化が進んでいるならば、この時代以降の鏡は国産の物が当然あるとして考えなくてはならない
しかし、その見分け方が難しい
研究待ちだね >>508
見つかってないと主張する方が
何か必死な感じを受けるぞ >>506
自説の信頼度がガタ落ちすることすらわからずに譲歩するアホ >>510
中国から学術出土ゼロ
という事実を言っているだけ
悔しかったら出土地点を調査してこい 『客 神』
数年前の三角の陰謀スレ
誰々(広告)は死んだようだなと言っている人もいた、
にんてんどー・・・とか >>513
畑だよ畑
農民が掘り出したんだよ
志賀島の金印と同じくな >>517
「学問的」には中国では見つかっていない、ということと同義だな。 >>518
そうだな
現実的には1枚出土してるけどな >>515
伝聞だし、畑で同伴遺物も謎ではどうしようもないだろう
贋作物が山ほど並んでいる市場での発見だし、信頼性はかなり乏しいと言わざる得ない
金印は唯一無二だから比較にならん
三角は大量に現代にあるから贋作も入手も可能
はるかにゴッドハンドしやすいという事 >>519
>「学問的」には中国では見つかっていない、ということと同義だな。
>そうだな
同意が得られたようだ。
つまり国産鏡。 さて、青龍三年が入った方格規矩四神鏡とやらの出土は2枚か。同じ型でつくられたもの。
出土は、京都と大阪。卑弥呼がもらった鏡だとすると、近畿まで配布したのか?
銘文の意味(日本語訳)
新(王莽の帝国・新:西暦8年〜24年) には丹陽(地名)から出た善い銅が有る
銀色の錫とあわせて加工し 清く明るい (☆青銅合金製なので銀は含有しない)
尚方(技術のある国営工場)でつくられた御鏡だから 傷なぞまったくない
左に龍(東の神獣・青龍) 右に虎 (西の神獣・白虎) よくないことを避ける
朱雀(南の神獣) 玄武(北の神獣) この世の陰と陽のバランスをととのえる
(このすばらしい鏡を所有すれば・・・)
(あなたの)子孫は全てを手に入れ (出世して)中央のみやこに居をかまえる
寿命は金や石のように長くなり、(人生は)まるで諸侯や王の如くだ。
卑弥呼に贈る文章としては、そうおかしくはないだろう。
年号の入ってない方格規矩四神鏡なら、九州北部で何枚も出土したらしい。
と、ぐぐっているうちに、
新有善銅出丹陽 和以錫銀清且明
の文字が見えた清と明ね。ああ、このことね。青龍三年の銘入りの方格規矩四神鏡を
挙げてればオイラの完封負けだったのに。 >>521
まあ見つかってるもんは持つかってるんだし仕方ないだろそこは 中国出土ゼロの銅鏡を卑弥呼の銅鏡百枚にしてみたり
国宝金印を偽物扱いしてみたり
フェイクニュースもたいがいにせい >>522
イヤ三角縁神獣鏡は国産鏡にしろ
魏の年号が入ってる以上、たくさん見つかる機内と魏が
関わりを持っていた証拠だって
畿内で三角縁がたくさん見つかってる辞典で
九州説は詰んでるんだよ >>526
九州説が三角縁神獣鏡は学術出土ゼロとか言うから
一枚見つかってるよと訂正してあげてるんだよ >>528
呉の銅も魏の銅もどうやって見分けをつけたのか
鉛同位体という説明抜きにして説明してもらいたい >>529
魏の年号が入っているものはごく数枚に過ぎない
しかも景初四年の間違い入り
北部九州邪馬台国が畿内を征服し、
台与の時代になって
偉大なる北部九州卑弥呼様を称えるために
銅鐸を鋳潰して大量生産して献上しただけのこと
古墳の中で内行花文鏡よりはるかに粗末な扱いをされている時点で
畿内説は詰んでるんだよ >>533
4年鏡だけは国産品なんじゃあないの
あと単于偽物という事にはならないだろう 当時は、鏡をもらって
生まれて始めて自分の顔を見た、という男女が大勢いただろうな。
自分で自分の顔は見えないから。
水面に写った顔で見えないこともないが。 >>536
景初4年鏡だけ存在しない年号だから国産
あとは本物かも知れないよ
反証できないなら三角縁は全部国産とは言えない >>532
>鉛同位体という説明抜きにして説明してもらいたい
なぜ? >>538
明治時代ですら魂を抜かれるからと写真を嫌がった人が多かったのですから
弥生時代だとまさに祭祀崇拝対象だったでしょうね まあ実際は3年鏡、4年鏡とも全部その年代の魏鏡なんだけどね
4年鏡の存在は不思議 >鉛同位体という説明抜きにして説明してもらいたい
農民が見つけた鏡を根拠として主張しながら
科学的検査は拒否
おそるべし畿内説w >>540
オレ調べてみて実際と数値がまるで整合性取れてなかったから >>539
景初4年鏡だけは、国産か。
証拠になるから、この鏡は大事にしないとな。
2枚出土している。同じ型枠のもの。
銘文
景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人銘之 位至三公 母人銘之 保子¢キ 壽如金石兮
陳さんが作ったというのは噓になる。
陳さんは有名人らしい。 >>545
鉛同位体で銅の産地がわかるとか
デタラメもいい所だったからだよ >>548
いや実際と数値がおかしい事になってたんだから
どう考えてもそのコリアン教授がおかしい >>547
徐州は銅の産地として古来から有名だった
サンカクにも銅出徐州と記名されていう >>550
なんでお前の畿内説が成立するために
農民からの又聞きの出土を議論の対象にしたり
疑う余地のない化学分析を拒否したり
阿保踊りにつきあわなくちゃいけないんだよw >>541
弥生時代では鏡はやっぱり驚異的な道具だったろうね。
自分の顔はこうだ、と鏡を見せられて、反論できる奴は居ないだろう。 >>557
じゃなくて皆おそれおののいて逃げ回ったと思うよ >>555
それは漢代の話
しかも三國志時代の徐州の鉱山は南京郊外で呉領
ていうか、これ毎回やってるよな 鏡一枚の値段は下級役人の一月分の給料だった
たいした高級品じゃない >>551
分析っつうか鉛同位体の分析によってこれが同じ産地の銅製品ですって言ってたのが
時代も場所も全く違う物だったり
逆に同じ時代同じ場所でに作られたのがはっきりしてるものが
全く違う場所で作られた事になってたりしてたの見て
そんで鉛同位体は産地じゃなくて製造工程の何かで
違いが出るんじゃないのって話も聞いたし >>559
お疲れ様ですw
だから景初三年鏡も魏鏡ではありえない
それに対する畿内説の反論が、呉に生産依頼したというものでしたが、
年号というのは皇帝の支配を象徴するものであり、
呉が魏の年号が入った銅鏡を作ることはありえない
ということで、
国産鏡と確定したわけです >>552
考古学会で認められた手法なのか?
金属考古学は >>554
鉛同位体のデータ出してるのは新井なんちゃらって韓国の大学教授だぞ >>556
付き合ってjくれなんて頼んだ覚えはまるでないんだが >>565
その先生なら別機関にも追試を依頼してるし
データの信頼性は高いだろうね >>559
おや三国志に出てくる話は
最終的に魏の曹操が柳眉を追い出し徐州を手中に入れた事になっているが >>566
だからつきあうきは無いね
中国から学術出土ゼロだから国産鏡だ >>567
いや
素人のオレにもひと目っていうか
オレが読んだ本書いた人も製造工程の熱量による変化ではとjか言ってたな確か >>569
洛陽から1枚見つかってるし
卑弥呼が魏に使いを送った魏の年号がjは行っているから
魏の皇帝がが卑弥呼に下した銅鏡であり、
またもし国産品だとしても魏の年号が入っているので
畿内と魏の繋がりを示す品という事実には変わらないのである >>572
3世紀魏⇔3世紀前半・北部九州邪馬台国⇔3世紀末・畿内 卑弥呼の時代に国内随一の大きさの前方後円墳があり
魏との交流を示す品の三角縁神獣鏡が多数見つかり
邪馬台に似た地名である大和=畿内こそ邪馬台国に違いありません >卑弥呼の時代に国内随一の大きさの前方後円墳があり
馬具
>魏との交流を示す品の三角縁神獣鏡が多数見つかり
景初四年
4世紀古墳に副葬
>邪馬台に似た地名である大和=畿内こそ邪馬台国に違いありません
原典は邪馬壹國=邪馬一国(ヤバイ国)
話がしやすいように通称の邪馬台国で話しているだけ あるでしょ、このような技も
「デッド・エンド・シンフォニー 」 昔からヤバイとか呼ばれてる地域でもあれば一発で解決だ 何だ一斉に誰も居なくなったのか
まさか邪馬台国の会のメンバーとかが
示し合わせて突撃してるんじゃないだろな? 日本の話なんですよww
と言っている人がいたり、
同祖(日本の話ではなく、他国の話。)のような手法を使っているので、
わからない
とか 「世界はひとつ」でも良いんだけど
日本の話(神話、物語)は日本の話、日本のモノは日本のモノ、
と考えないと、他の国に・・・かすめ取られてしまう
とか
かなり良いことを言っている曲、
そういう業界(音楽など)の人じゃないから、
詳しいことは、わからないけど よっしゃ自説書き放題だぞ
邪馬台国は畿内です
なぜかと言うと古来よりそこは大和と呼ばれてきた土地であり
邪馬台は大和によく似ているからです
魏志倭人伝の地名は対馬国(対馬)、一支国(壱岐島)
また奴国の辺りは昔は難県(なのあがた)と呼ばれており、
古地名と非常によく符号する事が知られており、
これはやはり邪馬台=大和だったのだろうという有力な証拠です
九州にはないです また、畿内には三世紀に入ると他の地域にはない規模の
巨大な前方後円墳が出現し始め大きな政治機構が
出来上がったという事がわかります
卑弥呼が魏に使いを送ったのは魏志倭人伝238年ごろの事と
記されています
つまり、卑弥呼の時代には畿内には国内で最大規模の墓を作るほどの
権力の集中があり、この勢力が国を代表し魏と国交を
持とうとしたと考えるのに何の不自然もありません
これも九州と畿内の大きな違いとなっています 帯方太守は毛人のこと知ってたんやぞ?日本海横断航路決定的やな 前方後円墳は物部氏など天孫系の氏族が西から流入して作ったもの。
その証拠に福岡を中心として普及していた内行花文鏡を最上位に服装していた。
また、箸墓など大型の前方後円墳の年代は、3世紀末から4世紀にかけて以降のもの。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg 邪馬台国までの里程
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
ちなみに帯方郡から投馬国まで水行20日 >>582
3世紀の地名資料は魏志倭人伝しかない
よってその全てが大嘘
>>583
北部九州邪馬台国は狗奴国と戦争中
よって
他の地域にはない規模の巨大な前方後円墳を作っているのは
邪馬台国では無い
これが九州と畿内の大きな違い みらーの話はおわりましたか(ろむるきせん(きょーみわかん
八咫の鏡にユダヤなんたらはおもしろそーじゃが 葬儀で祭壇の横に置いてあるだろ
造花とか模造品
凸鏡の4世紀国産鏡も同じだ
凸面だから本来の鏡じゃない
所詮はよくて足元、あるいは棺の外に置かれる
ただの国産お飾り 凸面だからひおこしにも使えない
小学校からやり直せ 女子の化粧ようか(よけいつまらんのー
だれか測量につこてたゆーひといませんでしたか? 凸面だから女性の化粧にも使えない
現代まで神道の御神体なる
神聖なる銅鏡を測量目的など
去るがいい 内行花文鏡と言うけれど、その文様は太陽そのもの。
最大の内行花文鏡を持っていた卑弥呼が、太陽神アマテラスと習合されたのだろう。
本来のアマテラスは伊都国の祖なので卑弥呼よりかなり前の紀元前後の人物だけれど。 >>561
それはレファレンスがおかしかっただけだろうな >>565
新井は馬淵の実験データを使って分析してるだけだね >>568
その時の徐州には漢代にあった銅鉱山は入ってなかったって(呉の領地になってた)いうお話 >>582
>なぜかと言うと古来よりそこは大和と呼ばれてきた土地であり
根拠ゼロだよね >また、畿内には三世紀に入ると他の地域にはない規模の
>巨大な前方後円墳が出現し始め大きな政治機構が
これまた時代が違う 何だ九州説のお前ら
>>576から約1時間誰も書き込みしないで
>>583から一斉に3人ぐらいで書き込み始めて
統率取れてんな
やっぱり邪馬台国の会のメンバーとかなの めちゃめちゃうさん臭いな
何も引っかかる所がなければシカトしとけばいいのに 大体変だと思ったもの
九州説主張する連中頭おかし過ぎるもの ま言っとくけどここ荒らしてもあんま効果薄いかもよ
ここ来るような畿内説派は何言われても宗旨替えはしないだろうし >>589
機内が無理くり古墳の時代を古くしたがるのはそこだと思う。
実際は、九州勢が争いを平定してか、権威を表すために建造。特にでかいのは4世紀から。
でしょ。 315の>>88
「南→東」に関する十分な説明から一切逃げている現実が、
大和説の敗退の証拠を物語っている。 九州説がおかしな事言ってるの周りに見られる方のマイナスがでかいと思うが
好きにやったらいいさ >>612
邪馬台国という国が存在したかはしらないが、機内ヤマトは九州発祥だけは揺るがないよ。
はっきりしてここが阿鼻叫喚になるのを楽しみにしている。 315の>>95
九州説vsその他説 = 歴史学vs非科学 315の>>107
記紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽して、盗用造作しているから、
半分偽書。 海蛇、海龍・・・牛などは何の話なんだろう、
神話?
神話に登場する人物や存在は、
確実に実在していて、神武や卑弥呼などは不明?
本名(家の名前など)がわからないだけとか 上の名前、名字のようなものがあるはず・・・、
後の時代になり、▢▢という名前になったとか 邪馬台国が畿内なら日本海(出雲・・若狭湾・・)が貿易港の中心になっても良いのだが・・・ 敦賀〜伊吹山は、女王国大和朝廷側じゃないからね。
日本書紀でも伊吹山の荒ぶる神は最後の最後まで抵抗しているからね。
伊吹山の神様は畿内の人々の恩人ですよ。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
国の御柱であり、天の御柱。
息が長い吹子、鉄と関係あるのかな。
伊勢神宮外宮風宮の神様だね。
伊吹山は謎が多いところです。
ヤマタノオロチの神霊がいるとの話も残っていますね。 オロチ族は、謙虚で義理堅い人々だったんでしょうね。
義龍に相応しい。頭が上がりません。 >>622
少なくとも纒向は日本海にアクセスできない。
日本海ルートのハブは博多。
だからこそ奴国や伊都国が倭国の盟主だった。
瀬戸内海では吉備や摂津が有力地域。
纒向は東海とつながっていて、瀬戸内海にもアクセスできなかった。 邪馬台国
オロチに関係している話だしな〜・・・
どういう事なんだろう 実在していたとして
アマテラス=退治された一族だったのかな >>624
越への分岐点やな
越への八街のオロチ(古事記にあったろ 卑弥呼朝貢直前の青竜三年銘の方格規矩四神鏡がありまして、
方格規矩四神鏡は魏で作られていた鏡ですので
これが銅鏡百枚ですね。 ドラえもんの元ネタ?
ジャイアン(ジャイアンツ)が現れて・・・という話 >>634
原料の鉄材料を入手するために
北部九州邪馬台国の平原女王卑弥呼に土下座する必要がある
が、お前ごときは面会させてもらえないだろう
あきらめよ 俺のモノは俺のモノ、お前のモノも俺のモノ。
ジャイアンのセリフ、有名な台詞、少し違った? ヤマタノオロチ(王)は退治されました。
紀元前後の話。
生き残ったオロチ族が、堺に逃れてきたんですよ。
結果、淡路島や池上曽根遺跡で鉄工房が始まります。拠点は、鈴の宮遺跡の勢力の元。
そして倭人達と国造りをしたんです。堺の勢力は、倭国大乱で亡くなります。
級長津彦命 国の御柱。
級長戸辺命は元々伊吹山の国境防衛に派遣されたオロチ族の末裔。最後まで闘った伊吹山の荒ぶる神。
天の御柱。 八衢は国違。
難波、和泉、河内、淡路島への分岐。
堺ですよ。 >>637
原料の鉄材料を入手するために
北部九州邪馬台国の平原女王卑弥呼に土下座する必要がある
だが気をつけろ
三角縁神獣鏡じゃあ通じないぞ
内行花文鏡破片を持って
「あなたの派遣した武将の子供でございます」と
叫びながら
平伏をくり返すんだ 日本海の北端にオロチあり(いまもあり
日本海沿岸把握してた人なり(はなほじ シナツヒコはイザナギの息子で、れっきとした天津神だぞ。
wikiより
龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。
つまり、天津神(男系)のシナツヒコが、国津神(女系)のシナツヒメを娶っている。
これは筑紫で天津神の邇邇芸が国津神の木花咲耶姫を娶ったり、大和で天津神の饒速日が国津神の玉依毘売を娶ったのと全く同じ構図なんだよ。 背乗りが蔓延るわい。
死せる神を蘇らせる神がいたな。
鴨とか言ったかな。 The Ultimate Sin
結果的に日本?の話だと思うんだけど >>641
平原みかん畑オヤジは孤立してたから
筑紫の首狩族に殺されたのかもな まあ条件は7万戸と陸行1月だけやな
大きい墓は関係ないし(邪馬壹はあくまで壹与ちゃんの都 葱の華・・・などの写っている写真があるんだけど、
あれは何なんだろう
蜘蛛の糸? 自説の根拠が骨董市と農民からの又聞きと知ったショックがおおきいんだろw 死んだ神が蘇ることはないんだよ。
征伐した勢力の姫を奪い、誰かの種をつけて背乗りするんだな。
級長津彦は倭国大乱で恐らくサルタヒコ卑弥弓呼と一緒に亡くなりました。台与の時。
伊吹山の級長戸辺命は分家みたいなものです。 卑弥呼の墓は平原遺跡1号だな
魏からもらったものが全て含まれている 一考
邪馬台国が畿内なら
魏から北朝鮮の日本海側から若狭、琵琶湖、淀川がベストなルート? 奈良に都のある大和朝廷は、黄泉みたいなものだ。
あらゆる神々が黄泉返る。
恐ろしいわい。 >>658
邪馬台国は北部九州で確定したから悩む必要もない 315の>>110
>この宮崎優先の姿勢は考古学的な発見とも合致するな
大王家と縁があるのは東部や東南部の勢力 古い大型古墳があるのもこの辺り
北部九州はあくまでも外国系の外様 <
大和は、倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
宮崎は、阿毎氏のウガヤフキアエズの地であり、倭國東征の五瀬命らの出身地であり、
宇佐は、倭國の瀬戸内東征の拠点であり、
いずれも、伊都国の一大率の検察下。 『一本の葱』という作品なのかな?
確か、寺院に通っていたと言っていた 奈良は湿地帯だからこそ
高床式住居や高床式倉庫が必用だが
無い >>665
私も不思議と思う
誰か解説してください 315の>>112
邪馬壹國女王之所都は筑紫であり、
大和は、「南≠東」であるから、×ね。 >>656
追記、伊吹山の級長戸辺命はちゃんとした分家で背乗りじゃないからね。 315の>>117
大和は、倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
宮崎は、阿毎氏のウガヤフキアエズの地であり、倭國東征の五瀬命らの出身地であり、
宇佐は、倭國の瀬戸内東征の拠点であり、
いずれも、(倭奴國が伊都国と奴國に分裂した内の)伊都国の一大率の検察下。 王頎別遣追討宮,盡其東界。
問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。
又言有一國亦在海中,純女無男。
又說得一布衣,從海中浮出,其身如中(國)人衣,其兩袖長三丈。
又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。
其域皆在沃沮東大海中。 いれずみじんながれついたの巻きや(こころして読めや >>667
紀元前から
北部九州の弥生王様から日本海沿岸は鉄器が普及していました
3世紀畿内の王都候補地には生活域からの鉄器出土ゼロ
驚異のゼロです 315の>>150
>分かってないみたいだな
三角縁を配ってると言うことは、過去九州の鏡システムとはもう別もんなんだよ<
配って行ったのは、楽浪の戦火から逃れて筑紫に来て、
筑紫で「明帝→卑弥呼」の鏡を見て、「商売にならない」と分かって、
地方への依頼によって三角縁などを造って上げて回った呉系楽浪鏡師ら。 王頎くんは後の帯方太守やぞ(日本海横断航路に気づいたやろな 7がつのいけにえじょしは素戔嗚尊のくだりやな(いっちしたな それにしても偶然なのかな、
地主の話が出てきたり、凄い土地を持っていると言う意味でしょ
老婆は、そういう本などは持っていないんだけど、
家にも無かったし >>656
>征伐した勢力の姫を奪い、誰かの種をつけて背乗りするんだな。
天津神は男系相続、国津神は女系相続だったから、利害が一致したんだよ。
>級長津彦は倭国大乱で恐らくサルタヒコ卑弥弓呼と一緒に亡くなりました。台与の時。
イザナギの息子なら、1世紀の伊都国建国がニニギなので、その2世代も上なので、紀元前にかかるかもしれない。
壹與は関係ない。
猿田彦は幼いニニギ(三雲南小路遺跡)の筑紫日向への降臨を導いたので、年上で1世紀。
伊都国ができるまで倭国の都であった奴国の中心部、須玖岡本遺跡や猿田彦神社がその所在地で、年代も一致する。 サルタヒコは神庭を追いやられた出雲族の姫幸神と、倭人の王クナトの神の子。
代々同じ。
両勢力の同盟の証だな。 >>660
読みから帰ったイザナギが禊をしてこの世の悪を払ったのが筑紫日向の小戸(福岡県福岡市西区小戸)。
福岡県西部の高祖山(クジフル山)は、その北にイザナギの橘の小戸と住吉三神、その東に猿田彦の春日の奴国、西にニニギの伊都国、卑弥呼の平原遺跡。
これらをまとめる王宮が、高祖山の山頂と山麓を含む山城である怡土城(高祖城)の中心であり、日向峠の麓にある高祖宮、又の名を筑紫の日向の高千穂宮だよ。
ここが古代において一貫して倭国の都だった。 >>663
>宮崎は、阿毎氏のウガヤフキアエズの地であり、倭國東征の五瀬命らの出身地であり、
>宇佐は、倭國の瀬戸内東征の拠点であり、
宮崎がウガヤフキアエズと関連するかどうかは知らないが、五瀬らの出発地は筑紫の日向の高千穂宮、魏志倭人伝にある伊都国だよ。
宇佐が瀬戸内海に出る拠点だったのはその通り。 >>667
纒向には4棟の高床倉庫があったんじゃないの? 『地主 神社』
このような話になるかな、
家は、そんな土地は持っていないと言っているし クナのおーぞくのおはかはまきむくだよーん(ダック風
せごどんは龍馬伝なみの名作になるおかん 猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。難波、和泉、河内、淡路島の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北が浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
そしてサルタヒコはひらぶかいに挟まれて亡くなる。
イシズ川を遡った泉北丘陵に弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井。その間にあるのが鈴の宮遺跡。
浅香にいたサルタヒコは邪馬台国側の勢力に追われ、最後は平井と深井の間で亡くなったんだな。
荒魂は本来の場所と違う場所に祀るのが原則。
伊勢湾は鎮魂の場所。
伊勢湾は大阪湾のコピー。 >>688
こっからやー(かんぞーのびょーきでしんだしんせき0 やちまたはあわみなり(まーかわちもひていしません(あさかはあれか(よーいわん 某などと一緒に土地を開拓したり、
国を造ったりしたんだけど、盗まれた?
みたいな話なのかな
いつの間にか、他の人間のものなっていた
とか クナトの神も面白いな。
たくさんの伝承が集合されているようだけれどね。
北海道は倶知安のアイヌ酋長の話によると、アイヌの古語で「クナト」は「男根」、「アラハバキ」は「女陰」の意味で、本来は一対のものだったということである。
という説明が一番興味深かった。
ただ、この説明だと縄文の神だね。 卑弥呼朝貢直前の青竜三年銘の方格規矩四神鏡がありまして、
方格規矩四神鏡は魏で作られていた鏡ですので
これが銅鏡百枚ですね。 サルタヒコの遺言。
倭国大乱の元凶を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立
国底立神、国常立神、天香山の山頂に祀られている神。
鬼門に封じ込まれた神。
天岩戸の向こう側、尾張に追いやられていた神。
そして
阿波咋。
2世紀半ばの南海トラフ地震で阿波の海人倭人が大ダメージを受け、その後阿波の石神に敗れる。
姫達は奪われ、阿波の石神に乗っ取られる。
阿波咋だな。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) 315の>>297
よくもまぁ、大和説はとっくに論破され済みの説を、
飽きもしないでくり返せるもんだ。 >>584
南行20日で投馬国というのは、
日本海横断のことかもしれない。
くや韓国のことが出てないから、寄港してなく、
直行で日本海横断。 東北には、薬と結びついたにわとり信仰がある。
鳥をトーテムとした勢力で東北まで逃れた人々がいたのかもしれない。
神道は元々一神教という話がある。籠神社の宮司の話かな。
籠神社には隠してある主祭神があるらしい。
出雲大神宮も祭神の中央が空位らしい。
元々クナト神の一神教だったんじゃないかな。
影響力が強すぎて、それを良く思わない蘇我氏が仏教導入を進めたのかもしれないね。 天武天皇の時代、記紀でクナトの神はイザナギに書き換えられたのかもしれないね。 あまつかみくなとかみやおよろずのなんたらかんたらー >>697
イザナギ一派は神産みで各地に男神を残すからね。
アイヌまで影響力があったかもしれない。
現在のアイヌの酋長の話から、縄文の話と断定するのは無理がある。 その土地も、
実際は他人の家の土地なんだと思う、
もれ(仮)の家の土地とは言わないけど
なんでも、
金で買えると思うなよ、
と言っている人がいたり 猿田彦は、邇邇芸が対馬から宗像を経由して伊都に降臨するのを手助けした博多湾勢力。
猿田彦を祭る神社も福岡県春日市に集中する。
猿田毘古の大神は国つ神の中で特別な存在の「高天原や葦原の中つ国に輝く大神」です。
古事記神話の中で大神として語られるのは「天照大御神」とこのサルタビコの二神だけです。
天照は征服者サイドの神として、猿田毘古は被征服者サイドの神として。
猿田彦がいた志摩の海は伊都国の近く、糸島市(怡土郡と志摩郡が合併した)の志摩の海。
二見ヶ浦の夫婦岩が猿田彦と天宇受売の象徴。
和歌山や大阪にあるのはすべてコピー。
なにしろ畿内には猿田彦と邇邇芸の降臨にまつわる筑紫も宗像もないわけだから。 315の>>352
大和説は、「南→東」も嘘つき騙しだから、レベルが低いな。 伊奢沙別命とはなんぞ?
くわしいえろいひとおしえてたもれ(さんざんぐぐったわえいじょーの情報kらさい >>699
新潟県弥彦までは、越の国として倭人の地(ヤマト)になっている。 >>716
おおくにぬしやおおひこのまえやね(3せいきやろ 倭国大乱で倭人の勢力は壊滅。
邪馬台国、大和朝廷側の圧勝だよ。
その後100年以上、倭人は大和朝廷の下僕だよ。
重労働を課されたり、殺されたり、奴隷にされたり。 >>711
まあ、スサノオより前に出雲にいたなら縄文の神でもいいかもね。
スサノオと息子の五十猛、天香山らが筑後に稲作をもたらしたと伝えられている。
それより前の神なら、縄文の神だ。 銅鐸を見ると、淡路島と神庭は弥生時代前期末から交流があるからな。
スサノオより以前からだよ。 弥彦神社の元宮は佐渡島の度津神社(わたつじんじゃ)であり、その祭神である度津神は五十猛(いそたける)神
または大屋毘古(おおやひこ)神とも呼ばれ、弥彦の語源となっている。
五十猛神は父スサノヲとともに新羅の曽尸茂梨に天降った後に出雲斐伊川上の鳥上峯に渡来し林業を伝えたとされ、
ニギハヤヒより前の日本海沿岸の支配者であり、
吉武高木遺跡に近い飯盛神社(福岡県福岡市西区)にイザナミとともに祭られる初期(紀元前後)の倭国王家の一員である。 スサノオは複数の人物が習合されている。
農業の神としてのスサノオは、アマテラスの弟とは別人だろう。
出雲王スサノオから大国主までは実際には数代の間があるという。
アマテラスやニニギが紀元前後なら、スサノオはそれより百年以上前にもいたことになる。 卑弥呼朝貢直前の青竜三年銘の方格規矩四神鏡がありまして、
方格規矩四神鏡は魏で作られていた鏡ですので
これが銅鏡百枚ですね。 315の>>387
>狗奴国は畿内および四国・中国じゃないかな
四国、中国地方が狗奴国の有力候補 <
「南≠東」だから、×。 >>722
東北地方にも稲作は流入したが、東北には根付かず廃れたという。
日本海側では新潟県、太平洋側では福島県あたりが限界だったろう。 イザナギイザナミの話を見ても、途中までは仲良く暮らしてたんだね。住み分けしたりね。大切な水源を奪った形跡もないしね。
お互いに豊かになり何処かで狂い出したんだろう。
空海はよく知っていたんだね。
先住民達の悲哀を。
阿波で慈悲深く犬を弔う話がある。
阿波の選択に同情の念を覚えたのかな。 『地主 神社』
調べてみると スサノオ 大国主 山王
というモノばかり出てくる 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) >>728
わこくのほくげんか(にほんかいがわ(ぬなかわひめ 『山王院 山王宮』
親戚なのかな・・・山の上のほうに住んでいて、凄い土地を持っていた BC1000年頃稲作が伝わる。
調度殷の滅亡した頃だな。
殷と日本列島は同じ緯度なんだよね。
稲作は日本海側から広がり、BC500年頃に畿内に到達かな。
この稲作をもたらした人々は広く広がっていたと思う。
ワタツミ、ヤマツミはこの系統かもしれない。
畿内近傍では、姫の国。木の国。 卑弥呼以前の人物が実在していて、
卑弥呼というのは不明? >>735 それが確定できる証拠品が無くてな。
鏡には年代がひとつも入ってないのが致命的。
卑弥呼の親か姉妹だろうという説さえあるほど。 >>718
文明の差?兵器の差をまるで理解してない。
世界史とかも少しは学んだらどう? 卑弥呼は不明というより、意図的に消されてるよなぁ。
倭国大乱の象徴にされたからね。
卑弥呼の出自は、倭国大乱の元凶と見なされるし。隠蔽するしかなかったんじゃないかな。
卑弥呼の墓なんか一番都合の悪いもの。
100人も殉葬させられて、罪を重ねているからね。
真っ先に壊されているんじゃないかな。
蘇我氏ですらあの有り様だしね。 前漢(紀元前)にはすでに倭は朝貢していた。ただ、まだ国家としては統一されず、皆が王を称していた。
それが後漢(紀元後)になって帥升がまとめて倭国が形成された。
ここまでは中国側の記録。
帥升は博多湾勢力と言われている。
考古学的には伊都国が成立した頃になる。
記紀ではおそらく出雲の国譲りで筑紫が台頭する頃になる。
つまり、卑弥呼よりおよそ二百年くらい前に、博多湾沿岸に倭国が形成された。
魏志倭人伝などによると、男王の時代70〜80年と倭国大乱を経て、190年頃に卑弥呼が即位した。 『水の神』(水神)というのも出てくるはず。。。調べてみると? >>737
卑弥呼より前だと倭国大乱前後、後漢の時代になる。
後漢鏡の編年ははっきりしており、平原遺跡の超大型内行花文鏡が入り込む余地がない。
つまり、平原遺跡の鏡が作られたのは、卑弥呼の治世以後しかない。
そもそも卑弥呼より前は男王の時代だから、卑弥呼の母親が権力者であった事実はない。 機織りをしていた家があって・・・あの写真
キュウリの葉、葱の華・・・。 >>726 まだ証拠不十分。
青竜三年銘の方格規矩四神鏡が平原遺跡から出ていれば
決定的だったが、あいにく出土してない。 315の>>401
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者に、
信頼性も価値もなし。 >>739
倭国大乱で神武らが倭国の王都である伊都を去らなければいけなくなったのであれば、卑弥呼を恨めしく思っていただろう。
記紀に登場しない最大の理由となりうる。
そして、天孫族の歴史書である記紀の舞台は、筑紫から大和に移ってしまう。 >>744
まったく残念な限りだが、八咫の鏡が出土した時点で、伊都が倭国の王都であったことが確定したと言える。 >>742
>後漢鏡の編年ははっきりしており、平原遺跡の超大型内行花文鏡が入り込む余地がない。
なぜこれがおかしいと考えないのか 福岡で猿田彦神社と言ったら唐津街道の藤崎
庚申信仰が複合信仰として民間に広まったのは江戸時代 >>748
どこがおかしいのか。
後漢鏡の編年は中国も含めたもので、動かしようがない。
平原遺跡の鏡は後漢滅亡後、三国時代以降の卑弥呼の時代になる。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) まだやってたんか(わえはべんきょーしてたぞ
邪馬壹はダックのも >>1 のも無理やな(そっからスタートせー >>749
可能性はある。
卑弥呼が天孫族でないのなら、肥国王家の出自の可能性がある。
肥国は有明海沿岸のことであり、筑後川はその中心になる。
だから、肥国姫氏王家の卑弥呼の墓が筑後一宮である高良大社の麓である祇園山ではないかという説を唱える人もいる。
ただし対外的にはあくまでも首都は、魏の使いが滞在する伊都だったのだろう。 >>752
纒向は掘立柱建物と通称言ってる
高床式倉庫とか同住居とは言わないのはまだ不明だからじゃないのかな?
高床式は縄文期からあるから 纏向が高床式でも随分、日本文明から遅れた建物 >>750
須玖岡本遺跡wiki
副葬品に武器類が多い事から、この墓は「男王墓」と推定されている。
時代的には「前漢鏡」や「青銅剣」などの編年から割り出して糸島市三雲の三雲南小路遺跡と同年代の王墓であろう、と云われている。
一方の三雲南小路遺跡(伊都国)はニニギと木花咲耶姫の墓と言われている。
ニニギと同時代の前政権(奴国)の最後の王なら、該当するのは猿田彦となる。
周辺には猿田彦神社がいっぱい。 >>760
素人だが巻向は床部分が特定できないのじゃなかろうか >>754 平原遺跡からの出土品である。
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/1142.pdf
このPDFに鏡の銘文が載っている。
尚方作というのが多い。尚方とは、魏の国営の工房であり、
陳さんが作った鏡よりは、下賜品向きではある。
ただし平原遺跡から出土した鏡は多いのに、どれにも製造年が無い。
尚方作を名乗ったニセモノの可能性はあるが、本当に尚方作だとすると、
魏から下賜された鏡である可能性が高い。 わからないけど他の遺跡出土の絵で
復元したのが吉野ヶ里遺跡 >>757 郡使往來常所駐
帯方郡の使節が伊都国に常駐しているわけではなく、
往来のときに、ここに一時的に滞在するという意味ではあるね。
倭のどこまで行くのかはともかくとして。
邪馬台国まで行くにしては邪馬台国への里数が
はっきりしていないから行ってないともといtれる。
そもそも、卑弥呼も伊都国まで来てしまえば
いいわけだ。死ぬときも伊都国で死んでしまったと
思えば、墓は平原遺跡になる。 卑弥呼の氏や姓というのがあるはず、
わかりやすく言うと名字
消されたのかな これは有名な話、それとも嘘の話、
都市伝説の類なのかな
『天皇 名字 ない』 隋書では倭王の姓はアマ、名はタリシヒコとある。
天足彦または天垂彦とでも書くべきだろうか。
天津神のアマである。
諡号にタリシヒコと付く天皇は歴代に七人ほどいたとされる。 邪馬台国の会がわけわからん事言ってこのスレ荒らしてるのかと思うと
寒気がする 前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓なら
近くの大きな集落遺跡の纒向遺跡が
邪馬台国の都だろうから
邪馬台国畿内説が正しいが
未だ誰の墓かわからないって
ちゃんと調査してるのか
させてもらえないのか、だとしたら何で? 箸墓は陵墓参考地の指定を受けて宮内庁が管理しているもの
皇族の墳墓とされているので調査は許可されていない >>773
テンプレも読んだが
調査が進まないのにヒミコの墓と断定するにはまだまだ材料不足 卑弥呼の墓
九州説
1、平原
2、平原以外でまだ見つかっていない
3、自然災害で消滅(筑後川の氾濫等)
俺は3を押すけど 誰のどんな意見にも>>774のセリフで反論できるなかな
>>1への反論になってないってのは事実 315の>>462
考古学的にも否定されてる。
所詮、大和説は「南→東」の嘘つき騙しの非科学。 >>777
思考回路がおかしい
>>774は
>卑弥呼の墓と断定するにはまだまだ材料不足<
と主張
もし断定出来ていたら論争なんて生じないし、
教科書も卑弥呼の墓=箸墓と断定した記述に成る
箸墓=畿内説では卑弥呼の墓か有力候補ぐらい 315の>>481
出典がないし、
あっても「南→東」などのように誤魔化すのが、
大和説。 >>782
九州説が朝から
オウム返しでウソをついているな >>781
ほんとうは
なんでも問題先送りにして
意味もなく
九州説の延命を図ってる
だけでしょ
笑) お前の95点は満点じゃないから
俺は0点だが負けてない
という
九州説のクズ論法だよ 315の>>482
>様々なルーツの渡来人も縄文系勢力も平和に暮らしていた畿内や北部九州。<
縄文期の西日本の盟主的勢力は、出雲。
>倭国大乱でそれを壊したのは、<
倭国大乱なんてなかった。倭国乱。
>出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、九州南部や遠賀川の石神で、何処が問題なんだ?<
倭国乱は、九州付近。
>彼らがヤマトを征伐し、大和朝廷を作ったで問題ないだろう。<
筑紫倭人が大和に作ったのは、「倭国の別種の旧小国」であって、「朝廷」ではない。
>四道将軍で関東東北を征伐。大和朝廷がした事実だよ。<
筑紫倭国の東征を、筑紫の附庸國もお手伝いした事を、
大和の記紀が、大和の治績でであったかのように、盗用改変したもの。 315の>>483
「南→東」などの嘘つき騙しを、言い張るだけなのが、
大和説。 >>785
畿内説の問題点を指摘しただけなのに変な人 >>785
100点テスト
畿内25
九州22
まだまだ結論にははやい。 315の>>489
大和説は話にならないし、
ここに来ているし大和説の輩はかなりタチが悪い。
大和説を唱えて、歴史を捏造しようとする輩。
大和は、元は毛人蝦夷と出雲の共存で出雲銅鐸部族が中心であったところへ、
九州倭人の東征があって、九州倭国に征服されたんですよ。 >>784
矛盾が多すぎる畿内説が、学会研究者の権力で無理くり優勢ムードを作っている。
日本の伝統を破壊したい勢力がスポンサー。
とかだったりして。
そういえば考古学のスポンサーって調べたことないな。
畿内説のスポンサーが、メデイアの反日見たいに中韓だったりしたら笑えるな。
誰か情報ない?
著名な研究者が所属する大学のイデオロギーも気になる。 315の>>493
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの妄想ばっかりだな。 315の>>500
お前ら大和説者が発明して勝手の決めた「南→東」の嘘つき騙しのルールなんて、
なんの意味もない し、価値もない。 315の>>505
「自郡至女王國萬二千餘里」の位置が、
「計其道里、當在會稽東治之東」の、「東〜東北東」の「ほぼ東」になっていて合うが、
「長里」では、赤道付近になってしまって、ぜんぜん会わないだろ。
だから大和説の長里説は辻褄が合わなくてダメなんだ。 >>794
九州説のいうことは
このようになに一つ証拠がない >>798
>「東〜東北東」の「ほぼ東」になっていて合う
なんて言葉尻の誤魔化しに終始するのが
九州説 >>798
>「長里」では、赤道付近になってしまって、ぜんぜん会わないだろ。
だから南は東の間違いだということで
すべて解決なんだが
なにか問題あるのか? >>802
そんな中傷しか出来ないでいるから
九州説は馬鹿にされている >>801
>>804
同じ口から臆面もなく出てくる畿内厨の異常性 具体的論拠をなにも出さず
印象論だけで進んで来たから
九州説は亡んだ
当然の結果だと 土杭の数が少ないとか、間隔が空きすぎだと高床は支えられない
だから 纏向の5棟は掘立柱建物としたのじゃねーの >>803
吉備までしっかり鉄の文化エリア。
畿内の石器で農耕がメインの日用鉄器なし文化レベルで九州北部に影響できない。 >>808
学会抜けたあと九州説に変わる学者がいるとここで書かれていたな。
学会圧力やスポンサーの意向から解放されるからと見れるな。 >>807
ほらな
九州説は
中傷と印象操作しか出来ない >>815
調べられたくないの?
違うならスポンサー列挙してみて。 >>816
このように
なにも具体的論拠を出さず
中傷と印象操作だけでしのいで来たから
九州説は20世紀の終わり頃に亡んてしまった 大和朝廷の権威を高めるために作られたとするならば、畿内地方の事柄が中心となりそうですが
実際はそうではありません。
畿内説はこれをどうとらえているのでしょうか?
大和朝廷の人たちは遠い祖先が九州にいたという伝承を持っていたということでは? 具体的論拠をなにも出さず
印象論だけで進んで来たから
畿内説は亡んだ
当然の結果だと 独立棟持柱とどう違うんだ?
ただの出来損ないなんじゃないか? >>814
大型建物で高床式なら、床を支えるには多くの大きな土杭が必要
正倉院見ればわかる >>825
誰も纒向の4棟を、高床式と言って無い
掘立柱建物と言っているのだが、、、 315の>>514
「南→東」などのように、
理由も何もなく、 史料事実を否定曲解して、
ただ俺サマ結論を言い張るだけ。
それが大和説。
学問ではない。 >>826
同意
纒向学研究センターでも、高床式建物と言って無い
あくまで、掘立柱建物 >>828
殉葬ないしね、卑弥呼ではまずないでしょ。 >>824
このように
無知丸出しでダダを捏ねるのが
九州説 掘立柱だから掘っ立て小屋だぁとか
アホな印象操作宣伝を
やらかして来たのが
九州説 >>833
恣意的なもの
だからセンターでは高床式と決めているわけでは無い >>837
センターに言うべき
高床式建物と変えろとね 纒向ピンチ!
高床式としても年代比定や、奈良盆地に高床式建物が僅かじゃな
相当遅れてる文明で邪馬台国は無い
鉄も無い >>843
ないと言う証拠は無い、と言うことでOK? >>765
常の意味を調べてみると
つねに、例外なく、だから
>一時的に滞在するという意味ではあるね。
は誤りですね。 >>840
>それ、良く調べた?
>復元案だよ
>案
つまり>>826の
>誰も纒向の4棟を、高床式と言って無い
は、真っ赤な嘘
w >>841みたいなデマを触れ回ってばかりだったから
九州説は亡んだ
>>845
「例外なく一時的に滞在する」
で
問題なし 315の>>516
>大陸の脅威がなかったなんて言えないよ。
馬鹿じゃなきゃ同盟国の状況を調べてそこの性質も見極めるよ。
裏切り上等の大陸を警戒してなんの不思議もないよ。 妄信しちゃだめよ<
古代の列島では、
中国の直接的軍事的脅威なんて、殆ど考えられないし、
半島からも沿岸部の海賊程度であり、
むしろ、大陸や南洋からの逃亡流民の「安全な?避難地」になっていた。 >>848
「一時的に」なんて書いて無いことをねつ造したらいかんよ。 >>812
>学会抜けたあと九州説に変わる学者がいる
晩年チョンボこいた学者もいるからな >>850
「駐」は停留の意味だから「一時的に」という意味を含む >>844
OKよ。
現状皆無にて卑弥呼の墓の可能性は極めて低い。
に修正でいいよ。 >>855
証拠がないなら可能性も低くならないので
ダメ 高床式で復元案を出していたけれど、高床式であった確証すらないと。
ダメじゃん。 >>856
そんな言い訳もだめ。
現状なし。可能性低いでよし。 >>856
あった証拠がないんだろ。
なかった証拠がないというのであれば、北海道からグアム、オーストラリアまでなかった証拠などない。 >>845
郡使が往来する時は、いつもここに留まる。 >>846
すまん
案と彼は言ってるだけだった
調べたら案で間違い無い >>854
箸墓は畿内説では有力候補だよな
ただ、身内の話 >>858
お前
「誰も纒向の4棟を、高床式と言って無い 」
って嘘ついたんだよ
なの誤魔化してんの? >>860
悔しくて、悔しくて
頭も変にはなったか >>860
証拠がないのは畿内も同じ。
現段階で決めつけてるのはどちらの立場でも考えが浅い。
学会の問題については
https://www.youtube.com/watch?v=QAB1uQybuUw
これ見ると日本の抱える考古学研究の問題がわかるよ。
研究者にバイアスがかかるのは仕方がない。
でも日本の考古学はもう少し広く考える力を持ってほしい。
趣味として何を信じるかはそれぞれの自由だが、断定は動かぬ証拠が出てからにするよ。
畿内説の可能性を否定しない。
しかし現状記録物との整合性がとれておらず筋が通らない。
文化レベルから考えても筋が通らない。
だから信じられないってだけで可能性は否定しない。 >>859
なんで可能性が低いんだ?
理由もなく言い張ってもダメだろ >>869
ほら、また具体的なことを何も言わない
中傷ばっかりだから九州説は支持者を失ったのに
まだ分かってないんだな >>869
動かぬ証拠以前にお前考古知識皆無だろ
日本の古代史は日本人研究者がやってるから
お前はお前のファミリーヒストリーを研究すればいい >>871
すでに、殉葬の形跡がないから可能性が低い。
と書いてあるが。 >>867
横からすまん
あんたの理解では、案でいいのかい
それとも確定? >>872
ファミリーヒストリーは平安末期までしかさかのぼれなかったよ。 >>873
殉葬の形跡がないと、どうして可能性が低いんだ?
理由は? >>876
そこ知らないなら、勉強しなおし。
どちてぼうやみたいなまねで、相手がこたえられなくなるまで追及するやり方だな。
自分の考えや説を欠いてみて。 畿内説では
纒向の4棟は高床式建物
テンプレ読めば良い >>775で
>卑弥呼の墓
>九州説
>1、平原
>2、平原以外でまだ見つかっていない
>3、自然災害で消滅(筑後川の氾濫等)
>
>俺は3を押すけど
とか言ってる九州説が
盛大にダブスタこいてて
笑ったわ
w >>875
平安時代は日本の時代区分だ
祖国のファミリーヒストリーを研究しなさい >>877
説明できなくなると相手を誹謗して誤魔化す九州節の悪癖w 畿内説は
https://www.youtube.com/watch?v=QAB1uQybuUw
にあげられる問題を抱えてるのも信用できない理由の一つ。
戦後の自虐史観、天皇家の否定が影響している可能性がある。 >>877
理由を答えられないようなことを主張してる自分自身の
馬鹿さ加減が理解できてない
かわいそうな人だな 束柱があるって説明を受けてるのに
理解できなくて無理押しを頑張っちゃう九州節の情弱ぶり で?
どうして殉葬の形跡がないと、卑弥呼の墓である可能性が低いんだ?
理由がが説明できないのか? さて
「誰も纒向の4棟を、高床式と言って無い 」
とウソをついてたのは
誰でしょう? >>885
重要なポイントなんだよ。
日本は縄文時代の文明がいろいろ発見されてもなぜか大きく報道されない。
6500年前の農業の痕跡、稲を育てていた痕跡が見つかっても騒がれない。
中国はその直後に根拠なく7000前の稲作の痕跡があったと発表するがその後もデータなし。
自虐史観や皇紀の否定が学会の主流に影響を与えていると見れる。
磨製石器についてもそうだ。
世界最古が日本から発見されているがその後中国がさらに古いのを発見。
日本が学術調査を依頼したら、紛失したで一切証拠なし。
それを許しているのが日本の学会。
どうしても文化は大陸から朝鮮半島を通って日本に来たとしたい学会。
そろそろ教科書も、大陸に痕跡のない6500年前より日本は稲作の痕跡があると載せるべき。 遺伝子型の研究からも、日本は独自の人種を保っていることがはっきりしているのに
未だに、弥生期の渡来人によって日本の文明が作られたような文章が教科書に載り続ける。
自分の国を否定するようなことが、学会で主流をとるのが日本。
戦後日本は経済的台復活をとげているが、文化的な日本らしさはまだ取り戻せていない。 >>867
言っていることがよくわからんな。
なんで俺に振るんだ?
自分でちゃんとまとめろよ。 >>870
テンプレみたいに、可能性が高いと思うならその根拠を述べろよ。
南極でも北極でも通用しそうな詐欺まがいのレトリックを使うな。
これだから畿内説は信用されないんだよ。 >>876
魏志倭人伝を読み直せよ。
畿内説は魏志倭人伝を読まずに、卑弥呼と邪馬台国の名前だけ剽窃していることがよくわかるスレだな。 桜井市は寺澤に踊らされているな
卑弥呼の宮殿後を復元するんだって
復元は無理だよ
掘立柱建物の概要も充分に精査されてないのに
何を建てるんだろ
嘘八百の建物かな >>878
>纒向の4棟は高床式建物
学会的にも根拠ないんでしょ? >>882
根拠を示せと毎度言われているのに根拠を示せないのはそっちだろ。 >>887
それで?
高床式なのかそうでないのか、畿内説ははっきりしろよ。
言い逃ればかりだな。 >>883
この動画は弥生期の朝鮮半島からの文化的影響を否定してる内容だろ
縄文文化は畿内以東
九州は縄文文化の影響はほとんど受けてない >>899
畿内説の矛盾の根拠をしめしてほしかったら、まずあなたが畿内説の根拠をしめせばいい。 >>890
魏志倭人伝に、卑弥呼の墓に殉葬ご100名と書いてあるだろ。
畿内説は魏志倭人伝を読んだことないのか? >>901
それは古すぎる。
もう九州でも発見されてる。 卑弥呼の宮殿に相応しい物建てるんだろな
根拠は柱跡しか無いけど 笑笑 >>902
何も証拠を示さず、うじうじ逃げ回っている畿内説は説にもなってない。
で?
纒向の4棟は高床式なのかそうでないのか、はっきりしろよ。 >>906
畿内説は根拠を示せてないよね。
あるなら示してよ。 >>908
束柱があると証拠が示されてるのに
全く理解できないんだろうか >>905
観光目当てのよくある話でいいと思うよ
桜井市の財政赤字が減ればいい >>907
縄文の遺跡くらい検索してみてはどうだ? >>912
纒向学研究センターに言えよ
高床式建物に変更しろと言えよ 畿内説の問題は
記録無視
低い文明レベル
低い武力
これで独自勢力で邪馬台国から大和朝廷まで成り立ったというは信憑性がない。
可能性が無いわけではない、が現状それを認めさせる力がない。 >>916
本州の縄文時代と同時期の遺跡なら九州でも大昔から見つかってるよ 九州はアカホヤの下は貝文土器文化
上は朝鮮半島経由の影響 気に入らない意見を荒らしや中傷で封じ込めようとしてる時点で
九州説はもう駄目なんだよ 『菅野真道 北斗の拳』
本当の継承者だと言っている人がいるけど?
老婆の言う、馬に乗っていたと言う話
うまやど? 『津 真道』
日本の歴史というのがあって、
最古参(神代)のような事を言っている人がいたり 畿内説の問題は
記録無視
低い文明レベル
低い武力
これをクリアーすることができていない。 橿原遺跡からは東北地方系統の土器が数多く出土し
関東・東海地方の影響が見られる土器が出土しているほか、
瀬戸内・山陰・九州地方の土器に類似する文様をもったものも少量ではあるが含まれている
石刀、石剣、石棒など信仰や呪術に関わる石器類が多く出土している
縄文時代晩期にはこの地域を中心に一つの勢力があったことが明らかになり、
発見時は当時の情勢下も相まって大々的に宣伝されたが、
戦後に入ると教育機関を中心に皇国史観を忌避する風潮が生まれ、
上古の天皇が歴史教科書に記載されなくなったこともあり、発掘や研究が下火になっていった >>923
畿内説のスレで詳しく話を聞かせて欲しいと言っているだけなのに。
なんで明確な証拠を出せないの?
今日まで纒向の建物は高床だと思っていたのに、それさえ違うとはね。
纒向って縄文以下のレベル? 何度、考えても
キュウリの葉、葱の華・・・この家の話、
あの写真
寺院に通っていたと言っていたし ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 >>929
で?
邪馬台国とどう関係するの?
縄文遺跡はいずれも広範な交流の痕跡があるのは、全国的に当然の知見なんだけど。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 『ボーボボ 田ボ』
玉葱 葱が何らと言っていたり
『聖』という奥義 真道(不明)の家
なぜ収入がないのですか?
と言っている人もいた
かなり前の話(書き込み) >>936
じゃあ、邪馬台国が関東とか東北でもいいよね。 気づいている人は気づいている
騙りがいるという意味
人の家を騙っている(成り済まし)か、
家系図なども嘘 北部九州説は、朝鮮半島から人がほとんどいなかった北部九州に移住し
日本を征服したという説なんだから
>>883の動画を貼ることがおかしい >>938
寒冷化して植生が変化して、富士山も噴火して南下したんだよ >>940
そんな説、初めて聞いたぞ。
畿内説は捏造が好きだよね。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516586955/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ で?
纒向は、結局のところ、高床式なのかそうではないのか。 それにしても
チェーンソーのゲームだよ
「お前は、もう死んでいる」
と言っているけど、なぜかシンというキャラに見えたり、
髪の毛の色とか 信オンというスレだったかな、
サザエさんの話をしている人がいたり
ほんとはロング(髪)なんだよなとか 315の>>533
>卑弥呼が死んだころは 邪馬台国滅びそうになってるし。<
倭國は、白村江の後になって、大和日本国に併合吸収継承されたのであるから、
倭國は、卑弥呼が死んだ頃には滅んでいなかったんだし、
邪馬壹國も、
郭務ソウの報告を元にしたと考えられる唐朝の李賢の後漢書注の「邪摩惟=ヤマイ」に拠って、
7世紀まで太宰府付近に「ヤマイ=邪馬壹」の呼称が存在していた、ということになる。 >>945
北部九州には縄文遺跡がほんの僅かしかないのが事実
弥生時代に遺物、技術、鉄資源は半島由来
北部九州には輸出する資源はない
朝鮮半島の住居も北部九州に密集
で、その武器で東征したんだろ? セーラームーン
ヴィーナスというキャラがいて、
このような話とか シンというのは、
天界(頂上)から地上に堕ちた・・・ような話?
専門家に聞いたほうが良い 日本の神話でいうと
国譲り
主人公に座を譲った、
かわいそうなので、そういう事にしておこう・・・みたいな話とか
『氷菓』という曲の話をしていたり >>897
吉野ヶ里で国の金つかってトンデモ復元したときに
他の研究者からおかしいという意見が出たから
根拠がないものは建てないだろう 根拠がガッチリ固まってるから
畿内説が定説なわけで >>958
畿内説のスレじゃ無いよ
アンチのスレ化したよ、 テンプレが邪魔で邪魔でしょうがない妄想家が惨めだな 『氷菓』
>すべて過去になる前に
と言っているけど『無に帰す』という意味だと思う
神(シンまたはsin)視点のような感じがする
『saga』というゲーム・・・その他 メタリカと言うバンドの曲が何やらという説(真偽不明)
『灰は灰に』 >>965
乗っ取ろうとしても
能力が無いから
無理 >>969
極端に頭が悪い人は、そんな誤解をするたもね 九州説って、畿内説にぜんぜん反論できてないよな
みじめなもんだ 『日本昔話』〜『君と余だ』
これも同じようなコンセプトなんだけど、
誰が考えたんだろう 北部九州説はなぜか「朝鮮半島」由来であることをひた隠しにし
南北で全然違う「九州」の括りとか、何の遺物もない「姫氏」とかを使う
南九州の日向を誰も知らんような峠にパクったりせず
韓国起源説なら隠さずに堂々と主張すればいいじゃないか
academic畿内説 VS 韓国起源説 VS 夢ロマン九州爺(激減)
明確にしないとだめだ 弥生時代に徐福集団が北部九州にきて古墳時代に騎馬民族がやってきた
基本であるから忘れるでない 邪馬台国は徐福の国で畿内ヤマトは騎馬民族の国なんですね
騎馬民族は他国の歴史をぱくるのが得意です 三國志なんかも、
後世(現代)に託した物語だという説
再び天に上る
とか 不老不死の薬を求めた徐福の末裔が、がばいばあちゃんのわけがなかろうが 日本昔話=Ultimate Sin?
太鼓を持っているキャラクター >>984
なにをいっとんじゃ。
戦後自虐史観バイアス畿内説だろ。 日本は負けたんだよwww
誰でも知っている、有名な話だろ
とか
どこかで見た 315の>>539
>南みなみって何度喚いても反論にならんし<
魏使らやの記録や陳寿の記載であるから、最強の証拠になるし。 戦後日本人全体の自虐史観から開放されたのが
今のacademic畿内説 315の>>542
>魏は高句麗韓濊を討伐してるから
韓濊島である北部九州の奥の本州の女王国を懐柔するのが とても効果がある<
「南≠東」を指摘する事が、
大和説者の「本州の女王国」の嘘つき騙しの指摘に、
とても効果がある。 ググってみて、
文学、映画、音楽、漫画・・・ゲーム。。。。同じ話をしているから
『日本は負けたんだよ』 荒らせば荒らすほど
九州説の負けは
明らかになる
笑止 315の>>587
>伊都国から奴国に移動するのに通過しているはずだが、名前は紹介されていない<
伊都国→奴國は、
出発と到着の間に「途中移動の説明が書かれていない」かあら、
側副傍線行程であって魏使らは通っていない。 このスレッドは1000を超えました。
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