邪馬台国畿内説 Part323

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1◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:41:27.08
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517932645/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:44:17.01
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:45:05.34
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:45:37.07
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:46:47.76
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:47:31.97
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

7◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:48:11.79
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:48:42.07
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

9◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:49:14.01
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:49:47.16
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

11◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:50:12.82
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

12◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:51:15.65
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

13◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:51:48.16
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

14◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:52:19.82
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

15◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:52:52.03
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

16◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:53:29.33
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

17◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:54:04.18
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

18◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:56:33.10
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

19◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:57:09.61
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

20◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:58:11.72
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
 
 
 
 

21◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 04:59:07.29
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
 
 

22◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:02:39.15
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
  
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
  
 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。

 
 


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
   
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国これを畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
 
 
 
 
 

23◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:03:47.53
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
 
 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
 
 
 
 

24◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:05:52.07
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。 
 
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
 


 
 
 
 

25◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:06:20.64
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

26◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:07:50.35
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
 魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

27◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:08:28.26
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
 
 

28◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:10:17.11
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

 

29◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:11:14.10
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等

30◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:12:03.66
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

31◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:13:04.86
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

32◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:14:33.13
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

33◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:16:01.48
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

34◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:16:57.28
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
 
 
 
 

35◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:22:54.72
◆FAQ 31−1
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 

  
 

36日本@名無史さん2018/02/09(金) 05:23:41.04
◆FAQ 31−2  
 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
   
 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
   
 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
 

37◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:26:07.61
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

38◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:27:19.48
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

39◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:28:37.44
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

40◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:29:31.00
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

41◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:31:08.83
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
 
 

42◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:32:17.73
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

43◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:33:05.27
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。

44邪馬台国畿内説 Part3232018/02/09(金) 05:34:55.21
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

45◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:35:55.29
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

46◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:37:06.91
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

47◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:38:19.75
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

48◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:39:51.66
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

49◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:41:11.07
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

50◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:42:40.43
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
   
 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
   
 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
  
 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
   

51◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:43:56.50
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

52◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:44:58.41
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

53◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:46:07.12
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

54◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:47:16.85
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

55◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:48:30.66
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

56◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:49:24.81
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

57◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:50:07.60
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

58日本@名無史さん2018/02/09(金) 05:51:23.12
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

59◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:54:41.20
◆FAQ 57−1
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
  
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

60◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:55:19.37
◆FAQ 57−2
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
 
 
 

61◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:55:52.49
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

62◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:56:33.00
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

63◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:57:04.20
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。


(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

64◆UiepmfCeDJqf 2018/02/09(金) 05:57:52.83
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし

65日本@名無史さん2018/02/09(金) 07:19:46.65
>以北に対馬国、一大国、以北に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国等があって
東の海を渡れば倭種の国邑がひろがってて
南には仲の悪い狗奴國がある
海に潜って魚介を採ったり
武器は矛・盾・木弓 鏃は鉄や骨

ちなみに女王国まで萬二千里のうち6分の5を末盧までで消費している
残り6分の1の距離、群から末盧までの5分の1の距離で畿内まではどう解釈しても無理
2,3世紀に九州で7万戸が無理なら過疎った湿地の奈良盆地は問題外 話にもならない
三角縁だって分布を見れば畿内に在庫が多過ぎ
景初四年じゃありがたみが無くて貰う相手が無かったんじゃない
香典替わりに墓に埋めたのが何百枚って寂しい話だ

66日本@名無史さん2018/02/09(金) 07:24:54.43
>以北に対馬国、一大国、以北に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国等があって
東の海を渡れば倭種の国邑がひろがってて
南には仲の悪い狗奴國がある
海に潜って魚介を採ったり
武器は矛・盾・木弓 鏃は鉄や骨
まだまだあるがすべて当てはまらないのが畿内だよ
南を東に変えた位じゃどうにもならない

ちなみに女王国まで萬二千里のうち6分の5を末盧までで消費している
残り6分の1の距離、群から末盧までの5分の1の距離で畿内まではどう解釈しても無理
2,3世紀に九州で7万戸が無理なら過疎った湿地の奈良盆地は問題外 話にもならない
三角縁だって分布を見れば畿内に在庫が多過ぎ
景初四年じゃありがたみが無くて貰う相手が無かったんじゃない
香典替わりに墓に埋めたのが何百枚って寂しい話だ

67日本@名無史さん2018/02/09(金) 08:04:40.51
>>66
三角縁、、、は、元々の平縁鏡を元に大型化したら強度が足らずにマトモな品物が出来なかった為に
補強の為に三角縁とした。と言います。

要するに、中国へ朝貢に随伴した連中が記念に自分たちで大量に作って身内や同盟国へ贈与した代物。
それを真似て各地で類似の物が作られ、ばら蒔かれたと言います。

鏡を造った職人たちは、元々は呉国の職工で

呉国が遼東に盤拠して 魏から離反、独立の動きの有った燕国の太守、公孫氏を抱き込ん(その莫大な贈答品の一つが件の青銅職人たち)で挟み撃ちにする作戦 だったのが
魏側に漏洩して、燕国を攻め滅ぼすかとおもいきや、
慰留を勧め、身、地位領土の保全並びに莫大な恩賞(見返り)を示した事から
燕国は魏側に付いてしまい、挟み撃ちする計画は泡と消え失せ、
それにより件の使節団は行き場を失い、活きる為に海に浮かび日本に渡来。豪族等に取り入り、、、
権力者の要請により平縁鏡を参考に三角縁鏡を造った。

68日本@名無史さん2018/02/09(金) 08:27:07.18
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

69日本@名無史さん2018/02/09(金) 08:47:49.66
>>726
説の根拠を、国民のアンケート結果からも否認された大和説。
哀れだね 。

70日本@名無史さん2018/02/09(金) 08:50:55.31
>>728
皆さま、子供や孫が大和説になりたい、とでも言われたら、
ひっぱたいてザラコクのレスをみせ、
こんな嘘つき騙しの大和説人間になりたいの?、
と言った方が、よいでしょうね。

71日本@名無史さん2018/02/09(金) 08:55:21.60
>>735
>不弥国が卑弥呼の王宮でいいんじゃない?<

ダメなの。
不彌國の記載の後に、「南至邪馬壹國女王之所都」と書かれているの。

72日本@名無史さん2018/02/09(金) 08:59:32.40
>>743
大和説者には、史料事実を根拠にした論を言う習慣がない。

学問じゃないから。

73日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:07:09.97
>>1
間違えて重複させたのなら削除依頼出しとけよ

74日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:10:13.31
邪馬台国はヤマト国。
大阪など他の畿内は関係ありません。むしろ畿内は卑弥呼を共立した勢力に征伐されました。

邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。

女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。


倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、

彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。

75日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:18:16.28
邪馬台国の怪は半島の工作機関だな

76日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:39:18.94
>>743
「南→東」などのような史料事実の否定曲解ばかりで、証拠の出せない大和説は、
追及を受けると いつもこのようにトボケて誤魔化そうとする。

つける薬がない 。

77日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:45:24.29
>>750
>邪馬台国に行くには投馬国を経過しなければならないのであり、
それが南九州にあったら邪馬台国は沖縄辺りにある事になる
あと魏志倭人伝にない距離を勝手に創設してはいけない <

投馬國の説明は、「南至投馬國」であるから、
「南と至の間の途中移動の説明がない」から、
魏使らは、行っておらず、不彌國からの側副傍線行程の説明であることになり、
「投馬國を経過」していない。

78日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:47:10.04
>>751
こんなふうに、 直ぐに悪口雑言専門になる大和説は、
みじめな敗者な証拠。

79日本@名無史さん2018/02/09(金) 09:55:52.26
>>754
>1万2千里はあてにならない適当な数字
当時使われてた単位1里約400mで計算すれば 赤道越えてニュージーランド
そんなの頼りにしようとする方が間違っている<

郡役人の韓の方四千里や、
魏使らの郡〜狗邪韓國の七千余里や、三海峡のそれぞれの千余里の比率は、
ほぼ一致しており、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の推定位置とも一致しているんだから、
魏の役人や陳寿は、(漢代の里距離ではなく)、
別の同じ「里」単位を使っていた、という事は明らかである。

80日本@名無史さん2018/02/09(金) 10:09:37.64
>>756
大和説学者が、
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
いたずらに話を複雑にして小難しいイメージ植えつけたからだな。
「南=南」のように、
事実なんざ単純だし・・・。

81日本@名無史さん2018/02/09(金) 10:38:34.08
>>258
>>物証から見ても、弥生銀座付近が邪馬壹國女王之所都であった事は、もう決まり。<

>そこは奴国だろ <

奴國は、伊都国の東南百里に入り口があって二万戸だから、
三雲や平原付近から日向峠を越えて室見川流域の吉竹高木などの早良平野部。

82日本@名無史さん2018/02/09(金) 10:59:51.20
>>762
>魏の時代の距離測定が正確なものじゃないと成り立たない理屈<

魏の役人たちも魏使らも陳寿も、同じような里を使っており、ほぼ正確。

>今もう誰も魏志倭人伝の距離の記述が正確だと思ってないから <

魏志の記載が大和説に都合が悪い大和説者だけが、
正確だと思っていない・・・・集団。

>どんな尺度使ってようがそれを元に邪馬台国の位置特定しようとするのはトンマのやる事<

史料事実を否定曲解してまでも大和説に執着するのは、トンマのやる事。

83日本@名無史さん2018/02/09(金) 11:22:49.56
>>766
>不弥国までで1万700里で消化してないし
そこから水行30日陸行1月しないと邪馬台国に着かない
>そこで、島巡り詐欺ですよ <

對海國も一大國も里数の大きさを記載された上で、国内見聞移動が記録されているから、
総里程に算入されており、
投馬國が側副傍線行程説明であり、
水行十日陸行一月も、「郡から邪馬壹國女王之所都」の所要日数である事も、
史料事実であり史料実態である。

84日本@名無史さん2018/02/09(金) 11:29:00.66
>>767
>1里70mだかで書いてないよ 1里400mの単位しか当時存在した証拠がないから
単に距離の記述が不正確だっただけ <

陳寿自身も、「計其道里、當在會稽東治之東」のように、
魏志の殆どの里記載を、短里で記載していた、という事が史料事実。

85日本@名無史さん2018/02/09(金) 11:45:32.45
>>771
>1里50mもあれば100mの所もある
倍は違うのに有効数字1ケタで正確とな <

三国志での、(合計里数計算記載以外は)、
ものの見事に「有効数字1桁概数」で揃えて記載されているから、
それが、魏の役人たちや陳寿の「里数計測に関する思想であり、考え方」。

86日本@名無史さん2018/02/09(金) 11:53:13.06
>>772
>不弥国が邪馬台国ね 九州説はそれでいいんだね<

よくない。
不彌國から「南至邪馬壹國女王之所都」であるから、違う国。

87日本@名無史さん2018/02/09(金) 11:55:16.51
>>777
大和説を、あてにする方がどうかしてる。
邪馬壹國を大和にしたいがための、「結論先にありき」の循環論法的解釈。

88日本@名無史さん2018/02/09(金) 11:57:30.22
>>86
不彌國からから水行陸行が二ヶ月あるわけだが

89日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:00:48.92
>>780
>魏が日数表記を使って距離を現したと新たなトンデモ説が飛び出しました<

また「魏が日数表記を使って距離を現した」という曲解捏造の、
嘘つき騙しをする大和説者が飛び出した。
日数表記は、所要日数。

>魏志倭人伝には倭人が日数表記で距離を表したと書いてるのに<

書いていない。
日数表記は、魏使らも記録したし、倭人も所要日数表記が出来た。

90日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:03:04.83
>>782
>それだとどうして魏志倭人伝に邪馬台国は不弥国の南OO里と書かれてないの <

おそらく、
陳寿が見た魏使らの記録には、里数が記載されていなかったから。

91日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:06:24.80
>>785
>魏使らの記録であろうとも大元の情報が間違っていたらそのまま記載される
何の反論でもない <

魏使らは、「大元の情報」とは関係なく、
仕事だから、個々の里数や方向を計測しただけ。

92日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:09:00.19
>>90
じゃ、陳寿は何を見て倭人伝に里数を書いたんだ?

93日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:10:26.85
 >>90>>91が自己矛盾している件について

94日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:35:58.65
南、南、女王以北つまり九州は大方おさえてるが、九州南端まで1ヶ月もある
と帝国の勢力圏を誇張している
東南アジアでも一年もかからない
つまり岩戸後の邪馬台高千穂勢力が九州の豪族を束ねて岡山に向かったに過ぎない

95日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:41:30.84
南行とは陸地沿いに水行

渡ると書かれているのは隔絶の地

つまりワシュは四国で、コビトは種子島


五千里は琉球諸島

96日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:45:10.98
高千穂 つまり台国まで登るのに一月もある
これも誇張

97日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:47:11.62
>>88
>>86
>不彌國からから水行陸行が二ヶ月あるわけだが

ないよ。
読み間違い。

98日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:48:02.47
>>90
>>782
>>それだとどうして魏志倭人伝に邪馬台国は不弥国の南OO里と書かれてないの <

>おそらく、
>陳寿が見た魏使らの記録には、里数が記載されていなかったから。

伊都国〜不弥国が女王国の中心部だよ。

99日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:48:06.62
温野菜 温暖 海があるのは日向

ナコクの南がトーマつまり佐賀か

100日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:48:35.00
>>92
不弥国までで終わり。
もしかすると不弥国が卑弥呼の王宮かもね。

101日本@名無史さん2018/02/09(金) 12:49:43.43
トーマは宮崎か

クナが佐賀

高千穂は霧島山

102日本@名無史さん2018/02/09(金) 13:28:39.11
畿内説は、矛盾の宝庫

103日本@名無史さん2018/02/09(金) 13:34:27.41
>>790
>旧唐書を持ち出して来たのは九州説狂信者なんだぜ。 笑っちゃうだろw <

旧唐書の「大和日本国は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国」なんて、
2chに引っ越した時から、紹介説明して来た事であり、
大和説者は、「南≠東」の時と同じように、
何も返事が出来ずに逃げていた事なんだよ。
笑っちゃうねえ。

104日本@名無史さん2018/02/09(金) 13:40:39.82
>>801
>州説狂信者は畿内はあり得なかったから邪馬台国は九州に違いないと言う。
畿内説狂信者は九州はあり得なかったから邪馬台国は畿内に違いないと言う。
しかしちょと待て。
九州でも畿内でもあり得ないのなら、何故他の場所に有ったんだと考えない?
九州説も畿内もとんでもない阿呆の集まりだなwww<

九州説は、99%位、間違いはない。
大和説は、0.5%位で、その他も0.5%位しか確率がない。
それだけの事。

105日本@名無史さん2018/02/09(金) 13:51:38.58
>>815
>会稽東治は、大体会稽と同緯度だ。<

>根拠まったく無し というか、インチキすぎ 会稽と会稽東治の北緯が同じなら<

「大体」だと書いておいただろう。

>会稽之東と書けばいいだけ <

当然、東の「治」地域は、会稽郡の郡治よりも広いのだ。

>そう書かなかったのは 東治が会稽よりずっと南だからだ<

ずっと南に「東治」はないよ。
宮内庁書陵部の紹煕本の「王朗の東治」は、
明治以降に「東冶→東治」と加筆されて書き換えらえたものである、
といういう事は、もう議論が終わっているんだよ。

106日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:01:12.00
>>822
>じゃ、なぜ文献学者も考古学者も 畿内説ばかりなの?<

学会教育界の上層部の学者は、安部自民や文部省や右翼マスコミと同じく、
国粋皇国史観の・・・・であり、
それに支配された下っ端の研究員や学芸員は、
上層部の意向通りに従順しか考えられない、精神病的な脆弱な・・・・アホだから。

107日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:07:42.08
>>823
>九州は、会稽東治の「東〜東北東」方向だから<

>証拠でも、あるのか? ??? <

会稽の東海岸から九州南端は700q位で、九州は南北300km位だから、
九州が南北700km位であれば、それならようやく北端が「東北」方向になる。

108日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:15:33.43
>>834
>会稽東治之東のひとことは、倭人伝の行程をたどると倭国がどれほど南にあるか判る
ーそれは中国でいえば、どのあたりか、という文脈で書かれている <

「会稽東治」は、
会稽の東方の「治」地域だ、、
という事以上の意味はない。
どこににも、更に「南方だ」という意味などない。

109日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:18:00.11
>>105
>明治以降に「東冶→東治」と加筆されて書き換えらえたものである、
>といういう事は、もう議論が終わっているんだよ。


その話
ザラコクのデッチ上げ
ということで終わってるよね、九州説


 

110日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:20:03.03
こっちはザラコク隔離スレ

111日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:23:27.44
>>108
東だったら、「会稽之東」と書くでしょ?

会稽郡治が会稽東治と違うのは
わかるよね?

会稽郡治は会稽の最北端
筆者は倭がもっと南の地の東だと思ってるから
「会稽東治之東」と書いた

 

112日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:26:37.88
>>110
岡上、荒らすなよ

113日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:27:50.23
ザラコクはこっちに任せとけ

114日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:31:13.33
岡上、まいにち発狂するなよ

115日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:33:21.83
ザラコクは畿内説の広告塔
九州説がどれほど恥ずかしい存在か、鋭意広報中

116日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:42:34.54
魏志倭人伝では、魏から邪馬台国に何度来たの?
その都度、東を南と誤認したはのかな?

117日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:45:42.66
>>116
誤認で無く誤写または誤記としか考えられない
無理があるが

118日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:45:54.72
間違いは、一度あったら終わりだよ
あんたの人生振り返ってみろ
 
 
 

119日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:46:37.83
>>117
考えられない理由は、バカだから

120日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:47:52.64
>>117
根拠は

121日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:52:07.97
>>120
中国の正史には申し訳ないが
誤認、誤記、誤写としないと畿内説が成立しないから

122日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:54:16.77
>>121
畿内説で中国の学者と方位について
議論した学者いるのですか

123日本@名無史さん2018/02/09(金) 14:59:37.06
いない
馬鹿にされるから
三角も中国の物で無いと否定された

124日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:02:10.84
>>123
サンキュー
畿内説は井の中の蛙
国内向けに妄想を垂れ流しているのだな

125日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:09:48.98
畿内説、別に否定しないが、スレ立て過ぎだろう
それと、ここが本スレなら、本スレらしく、畿内説全てをカバーできるように、箸墓古墳に特化したテンプレート外しなよ

126日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:11:11.96
都市規模も負け
遺物も負け
行程も負け
文明も負け

年代不詳の前方後円墳と時代錯誤の大和朝廷だよりの畿内説

127日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:14:03.51
>>125
箸墓は調査不足だから、議論にならない、また各論の議論では畿内説は不利

128日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:14:49.94
>>125
どうして?

129日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:15:22.83
>>126
理由は?

130日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:15:23.20
纒向も吉野ヶ里という巨大都市には勝てない

131日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:16:14.38
>>130
あれ、都市じゃないだろ

ただのムラ

132日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:17:59.96
>>129
初心者か
過去スレ読め、
それに反論があれば書き込め

133日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:19:24.13
>>131
根拠は

134日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:20:15.30
>>131
纒向は葬儀場

135日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:27:13.61
>>836
>古代にそんな長距離正確に計る技術ないよ<

南北距離なら、一寸千里の法があるし、
どの方向であっても、歩測や日数測もあるし、
視認出来れば、簡易三角測量を組み合わせればよい。

>一致したならほぼそこは間違いと思っていい<

この男も、要するに、都合の悪い情報を何でも全て口先で抹殺して、
世間の人々を騙す犯罪者的な詐欺師であった訳で。

136日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:29:02.07
>>837
もう大和説者には、口先で中傷する事しか残っていないからな。

137日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:32:05.61
>>840
>距離の平均求めたって意味ない数値しか出ないし <

情報量が多いほど、論理の確率が上がるんだし。

138日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:32:44.49
>>127
だったら、畿内説は他の古墳も候補にしたらいいのではないのか
別に、他の説も否定はしませんが
>>128
日本史板の掲示板のホーム画面、見たことないのか
明らかに、類似スレだらけだぞ

139日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:33:52.19
>>841
ほら、大和説は、中傷しか出来ないし、批判中傷されるような事しか言えないし。

140日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:36:46.45
>>843
トンデモ大和説者の脳の根源は、
・古今東西の誰よりも俺さまは一番偉いから、皆俺に服従せよ
・俺さまは誰も知らないせよ、口に出せない真実を知っている
という思い上がり。

141日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:46:47.41
>>846
>当時そんなに正解に計測できるなら東アジアの地図位残ってるのにな。<

周髀算経が、天地の大まかな地理を造ろうとしていた。

>現実は中世ですらまともな地図はない。<

皇帝や施政者が必要とせず、
宗教のような分裂幻覚の妄想が支配する社会になってしまえば、
中世ヨーロッパや中世日本などのように、暗黒社会になってしまって、
学問や科学は、当然知的退化を起してしまう。 

>そんな常識すら理解できないのが九州説。<

そんな常識すら理解できないのが、国粋皇国史観狂の大和説宗教。

142日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:49:28.38
>>850
今更、魏使らの行程説明内容を否定抹殺する大和説者らは、
頭悪そうな・・・・アホに見えるだけだぞ。

143日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:51:32.73
>>853
「南→東」などのような、そういうウソばかりついているから、
大和説は地に墜ちた。

144日本@名無史さん2018/02/09(金) 15:56:20.18
>>856
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘に対して、
間違いである事の立証や反論ができないくせに、
何を言い張っても、
大和説の・・・・アホ性がはっきりするだけで、
九州説は何も困らないよ。

145日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:01:17.55
>>857
>騙したのは陳寿な訳で、、、<

陳寿は、倭地に渡来して来ていなかったんだから、
魏使らの記録を元に魏志倭人伝を書いて、説明しただけな訳で・・・。

それを、陳寿が騙した、と言い募る大和説者の脳は?・・・・。

146日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:01:33.74
九州には

径100歩の墓もない
丹もない
質の高い絹もない
入れ墨もない
骨占もない
宮殿もない
大きな祭祀の遺跡もない
多くの国をまとめ上げた中心もない
多くの国をまとめ上げたような影響力もない

見つかるのは畿内の土器、墓制、祭祀、宝物ばかり
自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない

おお、哀れ哀れ

147日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:09:55.23
>>858
>いや本当 A〜Bの間が10km B〜Cの間が30kmでこれまでの平均20km
ではC〜D間はいくら?っても今までの平均からじゃ出せないから<

Dの位置情報などがなければ、推論も出来ず、
出せなくて当たり前。

魏使らや陳寿が報告した事は、
A〜Bの間が10kmで B〜Cの間が30kmで、合計のA〜Cは40km、
という事まで。
何も(・・・・大和説者らに)非難される事ではない。

148日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:11:48.18
>>860
いつもどおり、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者は、
なにも反論できず、
騙しと悪口ばかりになったな。

149日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:12:33.10
>>146
宮殿あったっけ

150日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:23:25.73
>>862
>じゃ日数間違いとか、戸数が北部九州に14万戸以上なんて
有り得ないのに都合のいい解釈もするなよw、<

「戸数が北部九州に14万戸以上」は、馬韓伝の記録からでも、有り得ない事ではない、
と立証して上げたぞ。

>それに地図が残ってない理由にはならないぞ。<

周髀算経は、天地の地図を造っていた、という事を説明してあるぞ。
それに、文章でなら、幾らでも地図説明がされている。
おそらく、現在のような地図は、ある程度印刷技術が発達した宋明清の頃以後だろうなあ。

>そもそも当時距離でも海を渡る計測は無理だから。<

目視出来れば簡易三角測量での計測は可能であるし、
「水行日数」が計測出来れば、概算出来るし、
一寸千里と大体の方向が判れば、直角三角形を造って、斜辺長が計算出来る。

151日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:28:24.48
>>863
>邪馬台国は投馬国の次に出てくる国だから<

投馬國は、不彌國からの側副傍線行程説明であり、本行程ではない。

>記述の通りだと宮崎から水行10日陸行1月しないとダメなんじゃないの<

記述の通りだと、不彌國で「萬二千余里」がほぼ消化されていて、
「南至邪馬壹國女王之所都」は、移動距離無しに、着いた事になるから、
邪馬壹國は、不彌國のすぐ南にある事になる。

152日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:28:53.92
>>149
あったのは倉庫

153日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:30:13.17
>>866
大和説の「南→東」などの嘘吐きバカは、
死ぬまでパズルしてんだろうな。
それしか生き甲斐がないのだから、ある意味可哀想な連中だよ。

154日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:41:04.89
なにひとつない九州の無様な姿よ

155日本@名無史さん2018/02/09(金) 16:58:14.13
>>868
大和説者は、
皇国史観という思想宗教的な「結論先にありき」だから、
「南→東」などのようなトンでもハップンな分裂幻覚の妄想をする人種であり、
学問的科学的な論理的思考が苦手なんですねw。

156日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:01:34.78
>>872
「南→東」などのような勝手な嘘つき騙しを混ぜて、
滅茶苦茶な解釈する方が論外だな。
だから大和説なんて有り得ない話になる。

157日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:05:52.34
>>878
大和説者はまず、自然や歴史における不可知部分への論理的思考の意味を勉強すれば?。
「南→東」などの史料事実の否定曲解のご都合主義は、
論理的ではないぞw 。

158日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:17:42.17
>>157
どうして論理的じゃないと断定するの?

???

159日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:21:27.22
何一つない上に畿内の影響をモロ受けして独自の文化を失う九州に邪馬台国とか言ってるアホに論理などあるわけがない

160日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:25:12.35
>>151
のこり0里になっても
到着したと書かない
という非論理に
全国が笑った
 

161日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:29:27.70
会稽東治は明らかに台湾の近くだからね
日中両国の歴史を歪曲する九州説に
なんの未来がないのも当然だ

162日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:43:38.14
>>880
>昔から日中両国の通説ですが? <

専制君主時代が続いた中国ではどうか?知らんが、
現在日本では、大和説は国民の3割しか支持者がおらず、
だから大和説は、通説ではなく、
国民の過半数の支持を受けている九州説の方が通説なんだよ。

163日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:44:48.20
>>149
あったな。
あれで決まった。

164日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:45:32.58
>>162
証拠は?

165日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:53:15.66
>>903
>数字はアテにならない
1万2千里は1里400mで換算すると赤道付近になる
そんな数値が指す場所は確実に邪馬台国じゃなし <

「1里400m」という換算数字がアテにならない。

166日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:56:06.57
九州説は、こんなにも左前で気絶えだえなのに
自分たちの現状が見えてないという
哀れな姿が涙すら誘うわ

167日本@名無史さん2018/02/09(金) 17:57:50.23
>>165
それ、換算数字というか、歴史的実態だから

168日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:00:19.08
>>165
あらゆる分野で通説と戦わねばならない九州説の悲哀

169日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:02:06.35
説もなにも九州には何もないからな
見つかるものと言えば畿内の文化に押し流されて消える田舎の姿ばかり

妄想を喚くしかやる事がない

170日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:25:13.82
>>908
>大倭王は邪馬台国にいる、<

後漢書の范曄は誇張な曲解改竄をする半分×人間であり、証拠にならない。

>大倭はヤマトなんだから 答えなんてとっくに出てるよな。<

魏志では、「大倭」は、倭國の地方の「市」を監督する単なる役人。
それを大和が勝手に「大和」と読み替えただけ。

>ヤマトは古の邪馬台国、そう倭国伝に書いてあるじゃん、<

書いてないよ。
魏徴らの「注」なら、魏徴らの勝手な解釈であり、根拠にならない。
文献無視するなよw。

171日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:26:35.11
九州からは沢山の漢鏡が出てくるんだ!凄いんだ!

古墳出土品
三角縁神獣鏡同伴

禿ワラwwwwww
流石は梅干し以下の脳みそしかない九州説だな

172日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:27:38.34
>>911
>つまり女王国が山口県辺りからで問題ないな。<

「南≠東」で×。

173日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:30:06.44
>>172
もうそれしか言うことのない妄想九州説

174日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:31:54.37
>>918
>倭国の都までは一万四千里って書いてあることはなぜ無視するの?
自説に都合が悪いからなの? <

「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里」だろ?。
なぜ「去京師」を無視するの?。

175日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:32:48.36
>>170
史料にそう書いてある、という事実は
ザラコクにはねじ曲げられないよ
文献無視するなよ

176日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:37:49.52
>>170
>魏徴らの「注」なら、魏徴らの勝手な解釈であり、>根拠にならない。
>文献無視するなよw。

いま、あんたのやったことが
文献無視だ

177日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:41:14.50
>>924
>長安から九州説単位系で一万四千里だと大陸内で完結してしまうでしょ、バカなの? <

旧唐書は、漢書の如惇注の萬里記載と、
洛陽〜遼東の3600里の記録を勘案して、長安〜「元の帯方の地」を4千里と推定して、
合計萬四千里、と記載したの。

178日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:44:31.18
>>928
>畿内説は既にモモソという候補もいて、箸墓という王に相応しい規模を
誇る古墳も比定済みだからな。
またモモソは畿内から讃岐辺りまでを活動範囲にしてるから、 女王国までの距離も問題無し。
また補佐する吉備津彦という弟も確定済み。 また巻向背後には正真正銘の丹山鉱山も確認済み。
この状態で九州説とか精神的にドMとしかw<

「南≠東」だから、×。
この状態で大和説とかは、精神的にドMとしかw。

179日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:47:04.19
これこそが偉大な九州の大邪馬台国の証だ!

とか喚きちらすものが悉く畿内の影響下にどっぷり浸かってる物だらけなのが大爆笑
アホの九州説芸人は安定した面白さだなぁ

180日本@名無史さん2018/02/09(金) 18:51:18.39
邪馬台国の会とかがアホ面で晒してる

「九州からはこんなに沢山の鏡が出てきてる!凄い!」

みたいなバカ表をそのまま信じ込んでるおバカさん達なんだろうなぁ
それがどこからどんな風に何と一緒に出てきてるかも知らないでw
都合よく抽出したものだけ見て大はしゃぎ

笑い過ぎて死にそうだ

181日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:00:49.37
>>159
毎度毎度、根拠のないことを喚くだけ?

182日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:01:32.83
>>166
>九州説は、こんなにも左前で気絶えだえなのに
>自分たちの現状が見えてないという
>哀れな姿が涙すら誘うわ

滅びゆく畿内説の現実逃避かな?

183日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:04:11.06
>>181
考古学の常識なんだが

184日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:06:12.66
>>182
学界は畿内説一色だというのに、

185日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:06:54.42
九州説が持ち出してくるものがどれもこれも畿内の手垢でベットリの物ばかりで笑える

まぁバカはバカサイトのバカな都合のいいバカな表をそのまま盲信して浮かれてるだけだからバカなんだろうな
バカだから仕方ないね

186日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:07:57.28
>>183
証拠は?

187日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:08:35.46
畿内説が持ち出してくるものがどれもこれも九州の手垢でベットリの物ばかりで笑える

まぁバカはバカテンプレのバカな都合のいいバカな表をそのまま盲信して浮かれてるだけだからバカなんだろうな
バカだから仕方ないね

188日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:09:59.33
絹は最盛期でもとても献上品に出来ない粗悪品
鏡はどれもこれもまさに畿内の影響にどっぷり浸かってる物ばかり

見つかるのは遅れた田舎の属国の証拠ばかりだな

189日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:12:12.57
>>186
テンプレに出典付きで詳しく解説があるよ

190日本@名無史さん2018/02/09(金) 19:36:38.16
古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
 中期(4世紀後半〜5世紀末)、
 後期(6〜7世紀)
に区分している。

古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。

出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。

191日本@名無史さん2018/02/09(金) 20:43:20.35
264 | 神武
284 | 綏靖
292 | 安寧
302 | 懿徳
311 | 孝昭
332 | 孝安
358 | 孝霊
377 | 孝元
391 | 開化
407 | 崇神
424 | 垂仁
449 | 景行
464 | 成務
480 | 仲哀
500 | 応神
511 | 仁徳
533 | 履中
535 | 反正
537 | 允恭
548 | 安康
549 | 雄略
555 | 清寧
557 | 顯宗
558 | 仁賢
561 | 武烈
564 | 継体
570 | 安閑
571 | 宣化
572 | 欽明
581 | 敏達
585 | 用明

192日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:04:42.34
>>190
九州から来た卑弥呼の軍に占領されたんだろ。

193日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:05:13.12
>>190
>出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。

嘘松

194日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:05:41.35
>>191
九州の卑弥呼が送り込んだ東征将軍

195日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:05:59.83
>>188
さて?
畿内に絹はあったかな?

196日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:06:20.08
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

197日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:06:41.63
【墳丘墓の分布】
弥生時代の墳丘墓、古墳のある遺跡数
一つの遺跡に複数の古墳あり
奈良は関西の中でも特に少ない

筑紫国
 福岡県 1945件
肥国
 佐賀県 415件
 長崎県 224件
 熊本県 166件
豊国
 大分県 310件
熊襲国
 宮崎県 145件
 鹿児島県 109件

大和国
 奈良県 198件
山城国
 京都府 616件
摂津国他
 兵庫県 638件

198日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:08:25.86
九州には

径100歩の墓もない
丹もない
質の高い絹もない
入れ墨もない
骨占もない
宮殿もない
大きな祭祀の遺跡もない
多くの国をまとめ上げた中心もない
多くの国をまとめ上げたような影響力もない
鏡も古墳から見つかり、三角縁と同伴

見つかるのは畿内の土器、墓制、祭祀、宝物ばかり
自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない

おお、哀れ哀れ

199日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:14:56.90
>>197
弥生時代に古墳があると書いてる時点で無知低能確定

200日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:16:50.24
バカ九州説の毎度のバカ晒し

「弥生時代を通じて」

201日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:24:04.43
邪馬台国は宮崎県にあった。

宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。

なぜか?

邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。

そこで、大和朝廷は、卑弥呼と壱与の事績を天照大御神一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
天照大御神は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だからそれは女性である必要があった。

そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向と呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。

卑弥呼や壱与が天照大御神であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。

このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。

202日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:25:36.19
応神は伊都国王家の血の可能性はあるからな。
魏志倭人伝当時も伊都国は細々と存続している。
漢に冊封され、各国の使者の目もあり、滅亡させられずに済んだのかもしれない。

203日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:29:15.19
>>192
そんなもん来た形跡ないわ

w

204日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:29:36.91
何一つ見つからない九州説は妄想を垂れ流すしかやる事がない

205日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:33:22.97
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。

206日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:36:39.81
はい、九州説毎度の旧唐書と筑紫城が入りました

バカの古田信者はいつまでもいつまでも同じバカ話を平気で繰り返す

どうせ旧唐書なんて見たこともないんだからな
バカだから仕方ないね

207日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:37:33.30
>>205
怪しげで使えない情報ってことだね

208日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:37:43.72
>>205
怪しげで使えない情報ってことだね

209日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:41:02.10
新唐書には
筑紫にいたころは王じゃなかったと
書いてあるわけだが

210日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:41:05.77
131 | 神武 | 初代
151 | 綏靖 | 2代
159 | 安寧 | 3代
169 | 懿徳 | 4代
178 | 孝昭 | 5代
199 | 孝安 | 6代
225 | 孝霊 | 7代
244 | 孝元 | 8代
258 | 開化 | 9代
274 | 崇神 | 10代
291 | 垂仁 | 11代
316 | 景行 | 12代
331 | 成務 | 13代
347 | 仲哀 | 14代
367 | 応神 | 15代
378 | 仁徳 | 16代
400 | 履中 | 17代

211日本@名無史さん2018/02/09(金) 21:47:05.71
旧唐書も新唐書もどうせ見たことないでバカサイトの書き込み見て毎度こうやって浮かれて突撃してきてるんだろ

何百回指摘されても同じことを言い続ける低能だから九州説なんて信仰できるんだろうよ

212日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:00:56.89
新唐書のは入宋した東大寺の坊さんが持って来た本のコピペだからね
当然ながら筑紫日向高千穂宮というのは宮崎県の高千穂であって倭奴国とは関係ない

九州説の人って、無学だよね

213日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:02:16.23
魏志倭人伝に描かれ邪馬台国への行程記事は、倭国を訪れた事のない人物が、報告書あるいは紀行紀を基に地理像を描いたのである。そのため極めて不正確な地理像となっている。
この不正確な地理像をたよりに、邪馬台国の場所を確定しようとしても、所詮無理な試みなのである。
これが邪馬台国の場所探しが混乱した理由である。
もうそろそろ、このような不正確な地理像に基づく立論の馬鹿らしさに、気付いても良さそうなものである。

私はまったく異なる観点から、邪馬台国の王都の場所を突き止めた。
それは系図の研究からである。系図の研究から卑弥呼を補佐した男弟が、六代孝安天皇であることを知った。
記紀によれば孝安の宮は秋津島宮であり、秋津島宮の伝承地は、現在の奈良県御所市室である。
邪馬台国の王都はここと考えている。
そしてそのことを立証するのが、秋津島宮伝承地から、北東1.5kmの玉手山に、卑弥呼の墓とおぼしき、径百余歩の円墳を見ることである。
またここ玉手山は、孝安が葬られたとする伝承の場所でもある。

http://livedoor.blogimg.jp/buccyake_kojiki/imgs/c/1/c1b050bd.jpg

214日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:02:45.11
>>202
伊都国は肥国姫氏の卑弥呼に乗っ取られたんだよ。

215日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:04:16.40
>>209
王は代々筑紫にいたと明記されているよ。
唐の時代には大和に移っていたみたいだけど。

216日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:04:38.36
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

217日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:06:13.03
>>212
>当然ながら筑紫日向高千穂宮というのは宮崎県の高千穂であって倭奴国とは関係ない

宮崎県が日向国が命名されたのは景行天皇のとき。
当然、それよりはるかに早い邇邇芸や神武の時代は、筑紫とあるから福岡県。

218日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:06:57.57
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。

219日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:11:44.26
>>217
いくら言い張っても
東大寺の坊さんが持ってた記紀ダイジェスト本には、筑紫日向高千穂宮は宮崎県としてしか書かれてないよ

220日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:12:59.50
>>216
使えない情報ってことだね

221日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:13:23.01
>>219
妄想?

222日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:14:04.04
>>217
アホウ

北京まだ無くても北京原人って言うだろ。

223日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:16:13.16
それとは別だろ。

224日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:20:34.87
>>223
同じことさ

225日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:22:31.95
平原方形周溝墓出土品>福岡県前原市大字曽根
 伊都国王の墳墓とされる。

北東が東南になるのは、地図が南を向いているのを置いて書いたからなのだ

226日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:23:19.26
平安中期の日本文献に
神武天皇は福岡出身でーす、とか
書いてあったと思ってる人は
たいへんおめでたい

227日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:32:45.59
神武は宮崎の人物がモデル。
イワレ系、天武も同じ。九州南部の石神。岩割。
海人隼人を討伐した勢力。
天武の時に隼人の乱が起こったのは必然。

応神仁徳は伊都国系倭人だろうな。

228日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:43:44.96
>>952
>陳寿の勘違い <

「南→東」などの嘘吐き騙しと同じように、
都合の悪い話は、「何でも間違いだ」とする大和説詐欺師の捏造。

229日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:50:14.33
>>227
磐余は大和の地名だ。
畿内説はどこまで無知なんだ。

230日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:51:52.45
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。

倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。

倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。

231日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:53:15.28
宇那比も天豊姫も丹波の系譜に登場するが、その父親は葛城すなわち現在の奈良県御所市を本拠地とする、尾張氏の当主である。したがって生まれは奈良県御所市であろう。

232日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:55:57.20
建諸隅命のまたの名が、由碁理で、丹波(旦波)の大縣主なのである。そしてこの建諸隅命の子、竹野媛(竹野比賣)が開化の妃である。この竹野媛の本来の名は天豊姫である。

建諸隅命は、私が卑弥呼とする宇那比姫の甥(おい)である。したがって、天豊姫命と呼ばれるこの人は卑弥呼を出した一族の女、すなわち宗女である。

233日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:56:11.13
その内に、肥前名護屋城も九州のが本家で尾張のは肥前から行った人が作ったものだとか言い出しそう

234日本@名無史さん2018/02/09(金) 22:58:19.11
>>232
卑弥呼からどれだけ後の人物を持ち出すんだよ。

235日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:00:59.88
宮崎の石神神社。高千穂。
国常立神。牛神大明神。

236日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:04:33.31
博多伊都国の倭人系vs九州南部遠賀川の石神縄文系

畿内も同じ構図
倭人系vs縄文系

237日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:05:17.21
『後漢書』倭伝は「安帝永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見」として西暦107年に倭国の朝貢が在った事を伝える。
この倭国朝貢の年次あたりが倭国の始まりである。私はこの倭国王こそ、大和朝廷成立直後の王、すなわち神武であろうと考える。倭国すなわち後の大和朝廷は西暦107年の直前に成立したと考える。

238日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:07:13.65
>>236
伊都国は博多じゃないから見当外れもいいとこ

239日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:08:48.86
神武は卑弥呼と同世代。
2世紀末以前に九州の勢力が畿内で主導権をとった形跡はない。

240日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:11:10.82
大和朝廷の首謀者は尾張と出雲などの山陰の縄文系勢力。

まぁこんな縁起悪いものになりたいなら、好きにしたらいいが。

241日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:12:07.59
266年西晋に朝貢した倭国女王は台与で、台与を尾張氏の天豊姫とする。天豊姫は開化の妃竹野媛でもある。したがって開化の実年代を266年頃とする。
したがって崇神の没年干支戌寅は318年である。
更に尾張氏の宇那比姫を卑弥呼として、卑弥呼の政治を補佐した男弟は、義理の弟である孝安とした。したがって孝安の活躍した年代は、卑弥呼の年代でおおよそ三世紀前半である。
そして宇那比姫の三世代前が神武の時代である。それはおおよそ二世紀初頭となろう。したがって後漢書倭伝が伝える107年に朝貢した倭国王とは神武に他ならないと考える。大和朝廷はこの107年の直前に成立したのである。

242日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:12:34.18
石に関するところは、牛だらけだな。
牛鬼伝説は真実かもしれない。

243日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:12:51.63
オルドス→出雲→青谷上寺地→上御殿という経路での侵攻は有ったけど九州は関係ないしな

244日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:34:00.89
うすうす感じていたのだが

ザ ラ コ ク は な ぜ 

テ ン プ レ へ の 攻 撃 は し な い の だ ろ う か

245日本@名無史さん2018/02/09(金) 23:35:59.81
新唐書の記述はそのまんま日本書紀の丸写しだ
アホか
神代から日向三代の事だって見てわからないとかどんだけバカなんだろうな九州説って

まぁバカだから仕方ないが
死んでも治らないだろうな
お前の墓碑銘に「筑紫城」って書いておいてやるよ

246孝霊厨2018/02/10(土) 00:43:54.70
倭国王師升が誰に該当するのか、というのは
卑弥呼と同様長く謎のままですが、
まあ私は綏靖天皇説をとりますね。

葛城を本拠地にしていますし、スイゼイなら
大体読みも近い。また師木(磯城)関係の人物も周辺に多く存在する。

247日本@名無史さん2018/02/10(土) 00:48:05.20
平原王墓からナ国、つまり博多も東南と言ってるんだよな

これも混一図通り

248日本@名無史さん2018/02/10(土) 01:16:16.82
ヤマトは磯城県、答えは出てるね。
倭国王は一世紀にはヤマトにいて北部九州には
既に支配権を確保していたという事だな。

249日本@名無史さん2018/02/10(土) 05:38:38.45
>>244
俺も
ザラコクは畿内説じゃないか

250日本@名無史さん2018/02/10(土) 06:54:48.41
前やってたで一人で

251日本@名無史さん2018/02/10(土) 06:56:34.49
>>69
説の根拠が国民のアンケート結果の九州説

252日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:19:12.89
>>74
>邪馬台国はヤマト国。葛城山系以東の奈良盆地一帯です。
邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。・・・<

いくら講釈しても、
出発点で、
「邪馬壹國→邪馬台国」や「南→東」や「市を監督する大倭職→朝廷」などの、
嘘吐き騙しをしてしまっていては、
キミの話は、全て信頼性がありません。

253日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:24:38.31
>>237
根拠なし

254日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:24:39.07
>>75
>邪馬台国の怪は半島の工作機関だな<

大和説者は、
安部自民公明政府や、人種差別殺し合い戦争狂マスコミや、皇国史観学会教育界の、
工作機関だな?。

255日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:25:25.38
>>239
神武は九州生まれで畿内に東征したんだけど?

256日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:27:21.31
>>244
めちゃくちゃ批判しているよ。
スレ主が批判を無視して厚顔無恥を晒しているだけ。
ザラコクがそれを始めると数十レスはあっという間に消費する。
テンプレ一つ一つに反論するからね。

257日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:27:40.05
奴国は遠賀川流域一帯、飯塚市辺り

258日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:28:07.66
>>246
妄想

259日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:29:03.64
ただし、倭奴国は伊都国。
奴国から倭奴国に巧妙なすり替えをしているんだよ。

260日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:29:06.06
猪塚

261日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:35:53.27
>>88
>不彌國からから水行陸行が二ヶ月あるわけだが <

ない。
不彌國で萬二千余里はほぼ消化されてしまっており、
投馬國説明は移動した説明がないから、側副傍線行程であり、
主線行程の「南至邪馬壹國」は、途中移動の動詞がないから、
移動せずに邪馬壹國に至った事になり、
不彌國の南の外縁部に邪馬壹國の外縁部の入り口の門があった事なり、
ほぼ接していた、という事になる。

262日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:38:15.47
>>92
>じゃ、陳寿は何を見て倭人伝に里数を書いたんだ?<

魏使らの記録。

263日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:41:25.98
ザラコクは皇国史観がどうとか意うけど結局単に嫌がらせしたいだけだ

264日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:42:49.47
>>93
>>90>>91が自己矛盾している件について<

>>90>>91は、
あくまで、史料事実や史料実態を根拠にして、それからの帰納的推論であるから、
自己矛盾していない件について。

265日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:44:37.54
>>261
不弥国までで1万700里であと1300里残ってるぞ

266日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:50:43.00
>>94
>南、南、女王以北つまり九州は大方おさえてるが、九州南端まで1ヶ月もある
と帝国の勢力圏を誇張している <

また、「帝国」なんて、書かれてもいない変な文言を使う、
分裂幻覚妄想の、変な男。
投馬國は、不彌國から南方向に、水行二十日の位置にある、と説明されているのが、
史料事実。

>東南アジアでも一年もかからない
つまり岩戸後の邪馬台高千穂勢力が九州の豪族を束ねて岡山に向かったに過ぎない<

神武らの東征は、邪馬壹國時代ではない。

267日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:52:57.35
>>265
途中に余りの記述があるよ。

268日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:56:53.21
投馬国は多磨(東京)、狗奴国は桑名市多度(三重)
http://zenyamaren.org/im/20-013-1.jpg

269日本@名無史さん2018/02/10(土) 07:59:20.74
>>268
畿内説は長里を主張するならこれくらい書いて欲しいね。

270日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:00:31.19
方角については混一図参照
http://livedoor.blogimg.jp/kyofunoekusodasu-narukissosunotasogare/imgs/b/7/b778040b.jpg

伊都国(平原王墓)も奴国(博多)も東南へとなっている

北海道が描かれていないので、東にまた国があった、という言い方になっており、倭種なりとされている

271日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:01:16.95
>>267
それならますます1万2千里で邪馬台国の位置を判別するのが難しくなるな
いっそ1万2千里は邪馬台国を正確に示してるという考えは改めるべきじゃ

272日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:02:17.09
>>95
>南行とは陸地沿いに水行<

不彌國→投馬國なら、陸地沿い水行や、循海岸水行になる。

>渡ると書かれているのは隔絶の地<

いや、沖合洋上航行でも使っている。

>つまりワシュは四国で、<

倭種は、出雲文身國や足摺付近の侏儒國が梁代まで残っていた記録があるから、
倭国の東征の中心地域や倭種は、瀬戸内沿岸方面。

>コビトは種子島<

江戸時代まで足摺西方沖の沖之島に低身長部族がいた、という記録があったから、
足摺付近。

>五千里は琉球諸島<

郡からの里数の「比率」が合わないし、
おそらく東テイ人の地域。

273日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:03:28.82
>>269
畿内説は正確かどうか怪しい魏志倭人伝記載の距離は根拠にしないよ

274日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:04:45.53
>>271
伊都国〜不弥国でほぼ一万二千里が尽きるんだよ。
ザラコクは間違い。
倭女王卑弥呼の都は伊都。

275日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:05:09.42
>>273
都合が悪いからだろw

276日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:08:04.09
>>254
こんな事言ってるからザラコクは左翼的思想の持ち主で
畿内説に嫌がらせするためだけに出鱈目並べてるとバレる

277日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:11:22.92
>>275
畿内説と九州説は伊都や奴国まで同じだぞw
単に日数表記の解釈が違うだけで。
プラス戸数も考慮すると北部九州なんて絶対不可能、無理だから。

278日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:12:45.58
>>275
もしろ九州説の方に都合悪いと思うけど
ありもしない短里とか創設してるとバレたとき一気に信頼無くすぞ

279日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:12:48.54
狗奴国とは陸(くが)国である。玖賀国とも表記される。その親玉は陸耳御笠(くがみみのみかさ)である。
陸国とは現在の北陸にあった国で、古くは北陸地方の事を、陸(くが)と呼んだ。

280日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:14:07.71
>>274
伊都は千戸
邪馬台国は7万戸

281日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:17:29.54
綏靖天皇が師升は正解、生口160人を調達する人物

282日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:20:25.54
投馬国は吉備であろう

出雲だと九州寄り過ぎる

283日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:22:15.80
神武天皇の東征にあたっては、九州から安芸を経て、吉備・高島宮で3年滞在し、船舶・兵器・食糧を蓄えた後、畿内へ向かったと書かれている。吉備の国が東征に大きな役割を果たしたことを物語っている。

284日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:23:30.40
畿内説は1万2千里を当時魏で使われていた事が確実にはっきりしてる
1里400mで換算し、それが赤道付近になるという事が判明したら
1万2千里は邪馬台国を指してる数字とは判断しない

一方九州説はどこにも史料なしの短里を創作し
無理やり九州に当てはめた

285日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:29:36.40
史料事実に則する畿内説
デタラメばかりの九州説

286日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:35:48.76
>>1
何度 言ったらわかるの 「深酒は止めなさい」と
併存するスレの一つを閉めなさい

287日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:38:26.83
>>277
戸数は畿内説が勝手に重複して加算している。

288日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:38:38.72
妄想偽スレ立て>>1晒し上げ

289日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:39:06.57
>>256
嘘つけ 
なんも無いよテンプレ以外の畿内説の奴らにイチャモンつけてるだけ
2人ザラコクが居て、一人は>>1

290日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:39:50.10
?投馬国は玉野市玉と考えられる

?吉備国の戸数などを遠望して確認した可能性がある
玉の北側の丘陵地からであれば、吉備の様子が一望できるかもしれません。
そうすれば吉備の戸数を(概算ですが伝聞でなく実測で)記すことも可能です。

?吉備国中心部はこの時代の直前まで邪馬台国の首都だった可能性があるほどの主要な土地

291日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:39:58.19
基地外による乱立スレ晒し上げ

292日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:40:14.05
>>278
魏志倭人伝と地図を付き合わせるだけで簡単に計算できる。

293日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:40:41.56
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

294日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:42:04.55
九州の中心地は伊都国だろ、昔は奴国だった

本州の中心も吉備(神武東征時も滞在)から大和(邪馬台)に移動した

295日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:42:05.50
>>289
正解
ザラコク1=九州説支持
ザラコク2=>>1で嫉妬深いから、自分と違う畿内説に嫉妬

296日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:42:18.93
もしソウルから朝鮮半島南端まで7000余里を認めるとすれば、あとの5000里で行き着ける場所は九州をでないことになる。

朝鮮半島下端から対馬が100km、対馬から壱岐が85km、壱岐から唐津が70kmなので平均85km、

これが1000里に等しいとすると1里は約0.085km(85m)ということになる。

一里が0.085kmとすると12000余里が1020kmとなり、ソウル−宮崎間経路の長さとほぼ一致した。

またソウルから朝鮮半島南端まで7000余里も経路実測625kmだったので、625÷0.085=7353里でほぼ一致した。

297日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:43:07.84
列島の覇者は出雲から筑紫に移動した。

298日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:44:15.58
>>1
テメーの責任で片方のスレのカキコミをすべて張り付けるべきだ

299日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:46:02.70
>>292
その計算多分間違ってるよ
史料から魏で使われた里は1里400mとはっきりしてるんだから

300日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:47:09.39
>>299
東夷伝については一里が100メートル以下であったことがわかっている。

301日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:47:55.45
勝手に仕切っていたスレ主への反感が吹き出しそうw

302日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:48:22.00
>>298
5ちゃんなのだ なんでもいいのだ
解決策は主が両方とも今日中に埋めて次スレをたてればよいのだ

303日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:48:25.34
>>299
対馬海峡が三千里なんだけど。
一里はどれくらい?

304日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:49:16.60
>>293
また九州説の都合のいいように数字を創設しているな
斯馬国〜-烏奴国の20国は遠すぎてよくわからないと
魏志倭人伝にそう書かれているのに
史料事実にちゃんとのっとらないと

305日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:50:14.89
>>300
どうやって「判った」の?

306日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:51:15.98
年貢米の量とかで、倭人は自分の国を把握していた。
たが、傍国には魏の使いは行かなかったから、距離などは分からない。

307日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:52:21.54
>>300
不正確な計測だったんだねってだけだよ
なら1万2千里は邪馬台国を指しているか怪しいね

>>303
律歴史や正始弩尺から当時の魏の1里は400mと判明している

308日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:54:55.27
>>296
距離の平均なんて出したってしょうもないから
とっくに論破済み

309日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:57:31.16
>>96
>高千穂 つまり台国まで登るのに一月もある これも誇張<

魏志には「高千穂」も「台国」もない。
という事は、この男も、自分から勝手に「高千穂や台国」を設定して、
それで、自分にとっては都合の悪い倭人伝を「誇張だ」と誹謗して、
抹殺しようとしている事になるから、
この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者。

310日本@名無史さん2018/02/10(土) 08:59:04.71
そもそも帯方郡はソウルじゃないから
>>296の計算が
根本的に間違いなのだな
 

311日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:06:23.60
>>303
当時は海峡の幅が測れない
三千里を計算根拠にするのはナンセンス

312日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:10:27.28
>>264
>あくまで、史料事実や史料実態を根拠にして、それからの帰納的推論であるから、
自己矛盾していない件について。

何が根拠だって、推論が間違ってりゃ自己矛盾こくぞ

313日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:12:34.49
>>288
>>291
畿内説スレは九州説にとってよほど都合が悪いようだな

314日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:16:57.00
>>278
実際もうバレてるし

315日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:20:31.48
>>313
都合が悪いってより、そいつアンチ1の病的ストーカーだろ

316日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:21:54.93
>>65
残り6分の1の距離も解釈次第では畿内になるぞ
邪馬台国まで1万2千里
里数が記されてる不弥国まで1万700里
残り1300里を1里400mで換算すれば520km
北九州から畿内までちょうどいい感じ
まあ畿内説はこれを根拠にしないけど

317日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:26:13.76
島廻りがサギなだけ

318日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:26:20.82
>>299
倭人伝ですべて1里400mを解説願う

319日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:27:25.95
>>67
呉もしくは遼東から三角縁神獣鏡は1面も見つかってないぞ
むしろ魏の都だった洛陽で1面見つかってるから
三角縁神獣鏡は魏鏡でほぼ決まり

320日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:30:15.15
>>318
テンプレにあるやん

321日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:30:55.87
>>100
>不弥国までで終わり。 もしかすると不弥国が卑弥呼の王宮かもね。<

やはり違うね。
不彌國の後の本行程が「南至邪馬壹國女王之所都」であり、区別されている。
そして、不彌國には藤崎西新町もあるし、(戸ではなく)家での記載であるから、
女王之所都の「半島などとの交易や流民の受け入れ」や「東方の倭種との交易」の、
「外港的な役割の独立的な国」。

伊都国のような一大率を持って、女王國の軍事的支配担当の国とは、明らかに違う。

322日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:31:50.90
>>319
あんなもの日本国内で出来たらおかしいし

323日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:32:49.90
>>318
魏志倭人伝は魏の時代に書かれたもの
魏で使われていた里は現在に換算すると1里400m
なんで魏志倭人伝に出てくる里は1里400mのつもりで書いてある
当時は距離を正確に測れなかったから記述は不正確

324日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:35:29.83
>>70
ザラコクのレスを子供に見せたがる親なんて居ないだろ

325日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:38:08.13
>>323
まあ晋だけどな
元ネタは確実に魏
短里など昭和の発明

326日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:38:26.84
倭人伝の距離は、実距離の5倍で書かれているからね。
1/5すると矛盾せずに説明できるね。

327日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:39:45.08
>>324
醜いモノを見せる教育もアリ

328日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:40:32.35
>>77
水行20日、と出てくるのは途中移動の説明ではないのだろうか

329日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:43:10.57
>>326
1万2千里を1/5すると北九州になるから矛盾せずに説明できるってのは
循環論法だよ

330日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:49:51.36
>>328
途中移動の説明そのものだな

331日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:50:52.31
>>329
実際矛盾してるし

332日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:53:42.82
>>326
そう書くやつは山ほどいるが
立証した奴は一人もいない

333日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:54:26.39
基地外による乱立スレ晒し上げ

334日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:55:50.14
岡上、荒らすなよ

335日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:56:37.42
申し訳ないが
ここと連動して書き込んでくれないか
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118699/l50
同じスレが2つはややこしい
同時期に終わりにして、次スレで一本化しよう
スレ主も人の子間違いもある

336日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:58:23.95
会稽東冶が台湾あたりなんだから
議論は終わってるだろ
方位は間違い
短里も無い

337日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:58:43.45
>>335
知るかボケ
主がやれば良いことだよ

338日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:00:34.24
>>335
そこは落とせばいいだけだ
荒らしが上げてるけど無視

339日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:04:03.87
>>335
向こうに書き込むなと言うワーニングと
こっちへの誘導を無視してる奴は
敢えてあっちを上げてるから
乱立荒らしの犯人でしょ
 

340日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:06:30.03
邪馬台国の会も手段を選ばねーな

341日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:08:29.66
鬼畜っすよ

342日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:10:09.96
みんなであっちに1の「書き込むな」メッセージをコピペすれば良い
悪用防止だ

343日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:15:06.00
「南」が信用ならないことは、もう常識でしょ

344日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:18:41.74
>>79
ならそんな里の使われていた証拠持ってくれば話は一発で済む
1里400mの普通の里は律歴史、正始弩尺で存在がはっきりしている
魏にそれ以外の里があったなんて証拠は今のところ全く見つかってない

345日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:20:17.10
邪馬台国の怪が必死すぎてドン引きw

それだけ畿内で決まっては困るんだろう。

346日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:21:20.93
>>344
律暦志な

347日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:22:37.66
せやった

348日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:24:26.93
つい変換を機械任せにするとトンボでも無いことになる

349日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:30:31.93
>>109
>>(宮内庁書陵部の紹煕本の王朗のところの「東治」)
明治以降に「東冶→東治」と加筆されて書き換えらえたものである、
といういう事は、もう議論が終わっているんだよ。<

>その話 ザラコクのデッチ上げ ということで終わってるよね、九州説<

張元済が確認した範囲の中国における紹煕本が全て「東冶」であり、
日本で伝来され、書陵部の齎された紹煕本に墨筆で加筆訂正が施された事が記録され、
張元済が写真に撮ったものが「東冶」であって、
現在は「東治」になっているんなら、
張元済が写真を撮った後で、宮内庁関係の学者が「冶→治」の「点の加筆」をした、
という事にしかならんよ。

350日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:32:30.34
>>349
>張元済が写真に撮ったものが「東冶」であって、

それは張元済が「修正」したんだよ。


 

351日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:34:37.44
後漢書倭伝が伝える107年に朝貢した倭国王とは神武に他ならない。大和朝廷はこの107年に成立したのである。

352日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:37:36.86
いまいち

353日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:40:03.02
>>270
まだこの地図持ってくるの?
他にも写し(島原等)が発見されて、それには日本が東西で描かれてるから、根拠にできなくなったのに
昔よりこの地図を話題にする人少なくなったでしょ

354日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:40:04.59
>>80
南=南だと投馬国はどうなる
邪馬台国行くにはまず船で帯方郡から狗邪韓国行って対馬、壱岐…と書いてる

水行20日で投馬国、次に水行10日陸行1月で邪馬台国…の
日程部分が帯方郡からのスタートだとすると
狗邪韓国=投馬国となってしまうし
投馬国が九州南部というなら邪馬台国を通り過ぎて投馬国に行ってから
逆戻りして邪馬台国に向かうというルートで書かれている事になり不自然

355日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:46:19.80
>>270
こんなアバウトな地図しか書けないなら
古代中国は三角測量とかで距離を正確に測れたなんてウソだわ

356日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:51:59.01
>>82
1里=400mの史料事実を否定曲解してまでも九州説に執着するのは、トンマのやる事。

357日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:54:24.99
伊香具神社の祭神、伊香津臣は『皇孫に侍従久しく宝器を守る』とする。この氏族は古くから大和王権に臣従していた重臣である。そして、この人物が『田園未だ開けず』とする、この辺境の地の守りに就いたのである。
何のためかといえば、この木之本は、北陸に対する軍事上の要衝の地である。すなわち北陸地方にあった、敵対国から守る為にである。

私は、その敵対国こそ、『魏志倭人伝』が邪馬台国と戦っていた狗奴国と考える。それは陸(くが・玖賀)、あるいは、北陸(くぬが)と呼ばれた国であろう。木之本の北、すなわち現在の北陸地方に在った国である。

『古事記』は崇神の時代に『日子坐王者を旦波国に遣わし、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺すを命ず。』とする。『丹後風土記残欠』では、陸耳御笠(くがみみのみかさ)と表記する。
古く福井県や石川県、富山県あたりの北陸地方は、陸(くが)と称されていた。玖賀耳之御笠の玖賀とは陸(くが)で、この北陸地方に在った国の名前ではないかと想像する。

伊香津臣は陸(くが)国すなわち、句奴国と対峙するために、ここ木之本に赴いたのである。
そしてここで生まれたのが梨迹臣や伊世理で、梨迹臣たちは『尚この地に止まり永く属類を守るべし』とする父の遺訓を守り、狗奴国と戦ったのである。

この狗奴国との戦いは、崇神の時代に、日子坐(彦坐)と日本得魂命(やまとえたまのみこと)が、玖賀耳之御笠を討ち、終結を見る。

358日本@名無史さん2018/02/10(土) 10:55:15.72
>>83
島を巡った分の距離なんて魏志倭人伝のどこにも書かれてないのが
史料事実であり史料実態である

359日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:00:41.92
100歳まで生きるとか、東南アジアまで一年とか数字はいい加減だぞ

360日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:00:47.26
>>110
>こっちはザラコク隔離スレ <

こっちは、国民の害虫になる嘘つき騙しのスレ主や大和説者を隔離して、
国民を害虫から守る隔離スレ。

361日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:03:00.89
>>84
魏で使われていた里は律暦志、正始弩尺から1里400m
1里は75mじゃなかった、という事が史料事実

362日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:12:06.77
>>85
それ単に100里500里とかキリのいい数字しか出てこないって事なんじゃないの

363日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:13:26.21
>>111
>東だったら、「会稽之東」と書くでしょ?<

陳寿は、会稽の首都に当たる郡治という「地点を特定」したくないから、
わざわざ「会稽の東方の「治」地域」という文言を選択した。

>会稽郡治が会稽東治と違うのは わかるよね?<

そんなことは始めから書いていた。

>会稽郡治は会稽の最北端 <

ダメだ。
陳寿の地の文を書いた執筆時点は、南部を建安郡に分郡したの後であるから、
会稽郡治は会稽の中心部。

>筆者は倭がもっと南の地の東だと思ってるから 「会稽東治之東」と書いた <

陳寿は、倭が、(もっと南の地の東ではなく)、「会稽東治之東」の位置にある、と推定出来たから、
「会稽東治之東」と書いた。

364日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:16:10.56
>>86
不弥国と邪馬台国の間には水行20日で投馬国
次に水行10日陸行1月の記述がはさまってるぞ

365日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:16:49.47
>>115
スレ主は「嘘つき騙しの大和説」の広告塔。
大和説学者らが、どれほどの悪質な嘘つき騙しをする恥ずかしい存在か?を、
鋭意広報中。

366日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:26:28.50
>>353
だが方角や位置関係が滅茶苦茶なのはこれだけではないからな。

367日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:28:43.77
>>351
二代目の綏靖だろう、朝貢とみられるから消されたんだよ。

368日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:33:29.36
何れにしても大和朝廷(現在の皇朝)の成立は107年

57年の奴国王(博多)は無関係というのが結論

神代三代は九州東南部だからね、奴国とは全然違う

369日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:35:24.05
>>90
それなら邪馬台国が不弥国のすぐ南なんて言えない事になるな

>>91
それが間違ってたんだろ

370日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:38:46.04
>>98
邪馬台国は7万戸
九州北部が連合して邪馬台国と言うなら国々の戸数の合計が合わない

371日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:41:59.71
不弥国、津屋崎説(現在の福津市)を最初に唱えたのは、大正から昭和にかけて、徳島県の脇町中学校漢文教師であった笠井新也である。

372日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:43:57.26
>>117
>誤認で無く誤写または誤記としか考えられない
無理があるが <

梯儁等が記録した後、長期滞在の張政が来て確認しているんだから、
誤認も誤記もあり得ない。

373日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:46:50.34
>>103
倭国について書かれた書なんて
後漢書隋書北史梁書…と山ほどあってその中で
大和日本国は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国、
なんて書かれてるのは旧唐書だけ
それを持ち出して周りを騙くらかそうとする悪質な詐欺集団九州説

374日本@名無史さん2018/02/10(土) 11:56:47.26
>>270
こういう地図を出してくる人はどう思ってるんだろう
実際の列島の形とは違うわけだし
地図のとおり南に行ったと言いたいんだろうか

375日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:01:28.55
古い地図だと九州しかかかれてないよね。

376日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:11:46.37
そら訪れた人は伊都国で留められたからな

377日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:18:17.76
>>138
>だったら、畿内説は他の古墳も候補にしたらいいのではないのか
別に、他の説も否定はしませんが <

「南≠東」などに拠って、「畿内」自体が確率が殆ど0に近くて、×。

378日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:23:26.56
>>361
机上での感覚の違いだね
わざとかもしれんが実質の距離は1/3〜1/5なだけ

とすると1万2千里はどこを指すか?

現状では日程記述部分は別文献参照の可能性が高いだろうから、直線的に読む説には賛成しないかな

379日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:24:57.01
>>146
九州には
径100歩の墓もある、
丹もある、
質の高い絹もある、
入れ墨もある、
骨占もある、
宮殿もある、
大きな祭祀の遺跡もある、
多くの国をまとめ上げた中心もある、
多くの国をまとめ上げたような影響力もある、
近畿からの搬入上納の土器、墓制の始まりも、祭祀、宝物もある。

大和は、自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う、
別種分家の旧小国の属国の姿しか見つからない 。
おお、哀れ哀れ。

380日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:34:59.79
>>149
>宮殿あったっけ<

筑紫には、吉竹高木の頃からあった。

381日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:49:16.97
>>378
1/3〜1/5にすれば北九州辺りになるんだろ
それが何か

382日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:50:21.17
史料歪曲はいかんということ
 
 
 

383日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:52:17.06
>>380
伊都国や弥生銀座にないんだよな

384日本@名無史さん2018/02/10(土) 12:53:05.88
北部九州に持っていきたいだけで何の根拠もないからな。

385日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:00:59.93
>>381
好きな倍率をかければ
世界のどこでも邪馬台国にできる

386日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:02:52.01
かけた瞬間トンデモ説の出来上がり

387日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:14:01.43
だいたい北部九州は奴国でいっぱいだろ

388日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:29:47.03
>>379
これ・・・


ぜんぶ事実の逆を書いてるだろ
なに考えてるんだ九州説

389日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:36:35.23
後漢時代(25〜220)を対象とした歴史書『後漢書』がまとめられたのは、432年で、三国志の編纂(280〜290)より後になってからである。
倭国についての記述の多くは魏志と共通するので、魏志の記述をそのまま利用したと思われる。
魏志にない、後漢時代のできごとの記録は、次の2文だけである。
(1) 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
(倭の奴国が貢品を奉じ、天子の前に一同が会して祝意を述べる儀式に参加した。使者は自ら大夫と称した。倭国が南の境界まで平定したとき、光武帝は印綬をもって恩恵を賜った。)
(2) 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
「倭國の南境を極むや」つまり「倭国が南の境界まで(支配範囲または軍勢を)極めたとき」となる。
なお、魏志ごろの中国からの地理観では、倭国は北から南に向かって伸びていた。
従って「南界」は、実質的に倭国の勢力圏の東の境界であると考えられる。

390日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:36:56.98
もうやる気がないのさザラコクは
自分でも九州説なんざ信じてないし本心じゃどうでもいいんだろ

391日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:41:08.36
やる気はあるが、能力がないんだろ

392日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:45:30.75
>>389
あほ

「倭國之極南界也」は
「倭國の極南界なり」だ

倭奴国は倭国のいちばん南だって言ってるだけ

393日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:47:06.79
一つ一つレスを返す位なんだから、普通に
興味津々でスレに来てるのバレてるしな。

394日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:48:50.07
耄碌すると、意味もないことが日課になっちゃうんだよ

395日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:51:13.81
暇だから一番風呂に行って
うめようとする若者を怒鳴る・・・

みたいな

396日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:52:22.29
政治思想的な理由だよたぶん左翼的な
九州説を唱える連中の正体が透けて見えるってもんだ

397日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:58:59.70
ザラコクのあとやりそうな事と言えばみんな寝静まった頃に
南≠東だの嘘つきダマシだのの罵倒

398日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:00:56.68
左翼じゃなくて、スターリニストだな
戦前に生まれてたら絶対
報国ナントカ会か特高だわ

399日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:04:36.21
思想統制をやりたい人だよね

400日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:06:48.06
どっかから金貰ってんじゃねーかって思うわ

401日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:14:00.34
金とかもらわないでも
アカの野郎の家族が住む家にまいにち石を投げるのが正義だから実行してるぜ
みたいな歪んだ正義感に囚われる人というのは
いるもんだ


笑えないが

402日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:21:26.94
現状はザラコクと邪馬台国の会が石投げ込んでるようなもんだけどな

403日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:27:49.07
【真実の男】  東南海 広島 長崎  ≪第33代トルーマン大統領≫  阪神 東日本  【猿は家畜】
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1518235571/l50

404日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:30:17.57
>>154
なにひとつない大和の無様な姿よ。

405日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:31:42.02
九州には

径100歩の墓もない
丹もない
質の高い絹もない
入れ墨もない
骨占もない
宮殿もない
大きな祭祀の遺跡もない
多くの国をまとめ上げた中心もない
多くの国をまとめ上げたような影響力もない
鏡も古墳から見つかり、三角縁と同伴

見つかるのは畿内の土器、墓制、祭祀、宝物ばかり
自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない
あるある喚くが何一つ提示されない

おお、哀れ哀れ

406日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:33:24.50
>>405
全部九州にあって畿内にないものだよ。
嘘はやめようね

407日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:35:10.35
そして何も出てこない九州説だった

408日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:36:08.13
>>158
>>大和説者はまず、自然や歴史における不可知部分への論理的思考の意味を勉強すれば?。
「南→東」などの史料事実の否定曲解のご都合主義は、 論理的ではないぞw 。<

>どうして論理的じゃないと断定するの???? <

「断定」などしないの。
「確率が高いか?低いか?」を推定するの。

409日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:39:32.87
>>159
大和は、何一つない上に、
筑紫の影響をモロ受けして独自の文化を失う大和に邪馬壹國女王之所都だ、
とか言ってるアホに、論理などあるわけがない 。

410日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:42:08.25
何一つ提示せずにあるあると喚き散らし
畿内に見当違いのケチをつけ続けると九州に邪馬台国が現れると言うカルト宗教だから仕方ないね

異常者のカルト教団に何言っても無駄だよな
バカだから仕方ないね

411日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:42:57.49
>>160
>のこり0里になっても 到着したと書かない という非論理に 全国が笑った<

「南至邪馬壹國女王之所都」というように、
到着した、と書かれている事を隠した大和説のアホに、
全国が笑った。

412日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:44:33.18
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国

水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2

413日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:45:18.26
>>161
会稽東治は明らかに九州の西方の近くだからね。

日中両国の地理や歴史を歪曲する大和説に、なんの未来がないのも当然だ。

414日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:47:40.38
バカの「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」とかはチラシの裏にでも書いてろ

そんなもんは九州スレに書け

サルが

415日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:49:19.67
>>392
九州の南界なら薩摩や熊襲なる集団は平安時代も大和に属さなかったぐらいなんだが
神代王朝が逃亡したぐらいの地だぞ
あり得ない
あんな小さな島極めたぐらいでなんで中国が褒めるんだよ

416日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:49:43.22
>>167
>それ、換算数字というか、歴史的実態だから<

魏志や陳寿が、「1里≒76.5m」位の単位で書いている、という事は、
歴史的実態だから。

417日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:50:07.08
九州説は行程を語れるが
畿内説は行程を語れない。

それだけのこと。

418日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:50:14.66
>>411
九州の不弥国から水行30日陸行1月で到着な

419日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:51:44.23
>>168
あらゆる分野で、国民の通説である九州説と戦わねばならない、
という大和説者らのら、悲哀。

420日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:52:55.70
>>412
なら俺は2倍誇張説で1里200mぐらいにして万二千里を畿内に持っていくわ

421日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:53:27.14
>>169
説もなにも、、大和には何もないからな 。
見つかるものと言えば、、九州の文化に押し流されて消える田舎の姿ばかり。

大和説者らは、妄想を喚くしかやる事がない。

422日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:56:05.91
>>416
その歴史的実態を示してもらおうじゃないの
律暦志と正始弩尺によって魏の1里は400mこそ歴史的実態なんだが

423日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:59:16.54
倭人伝はどう解釈しても魏の里を
使っていないことは明白なんで、
誇張したか東夷の里があったかの
どちらかだねえ。

424日本@名無史さん2018/02/10(土) 14:59:52.50
>>171
>九州からは沢山の漢鏡が出てくるんだ!凄いんだ!

古墳出土品 三角縁神獣鏡同伴 <

大和やその近辺の古墳出土品:
三角縁神獣鏡は4世紀以後の大和などの古墳内では、
脇役的な位置に同伴 。

禿ワラwwwwww。
流石は梅干し以下の脳みそしかない大和説だな 。

425日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:02:40.88
九州説の行程バカは九州スレでやれ

おまえらの低能な妄想の汚物をまき散らす場所じゃない
汚物を捨てる場所でやれ
お前ら経歴詐称爺の小便本とか大好きだろ?
ふさわしい肥溜めに行け

汚物処理スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/

426日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:03:07.58
>>422
そう言い張りたいのは分からんでもないんだが、
じゃあ万二千里の女王国はジャワだと言うんだね

427日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:09:20.84
機内説の言うように通常の魏の里を使った場合、
パプアニューギニアかマリアナ諸島が比定地となります。

九州説の言うように短里や誇張説を使うと
九州内に収まります。

どちらにしても畿内へは行きません。

428日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:11:51.60
>>426
>>427
邪馬台国まで万二千里が間違いってだけだろ

429日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:13:23.94
>>423
東夷の里を証明するものが何も無いならそれは存在してないのと同じ事だ

430日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:15:11.47
>>428
じゃあそう言えばいい

431日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:16:58.14
何回も要っとりますがな

432日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:16:59.15
>>419
九州説=通説ではなく痛い説の間違いだな。

433日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:18:25.16
>>429
証明するものは倭人伝自身だね。
他にも百済伝など、短里相当の記録は
いくつかあるよ

434日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:20:18.40
九州説なんてもう終わった説だからな。
結局壮大な時間の無駄遣いでした。

435日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:20:49.73
>>311
大まかな目測ならできるよ。

436日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:21:26.80
九州説の行程バカは九州スレでやれ

バカの妄想なんて誰も聞いてない
ふさわしい肥溜めに行け

汚物処理スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/

437日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:21:43.02
畿内説では行程記事が間違ってると言うが
九州ならそのまま行けるからね。

438日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:21:45.66
中華思想の地理的世界観で描かれた>>270の混一図では
九州は済州島とあまり変わらないくらいの大きさだね

439日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:22:08.74
>>433
短里で書かれてるという書自体で短里の存在証明をする
これは九州説の皆さんの大好きな循環論法ですね

440日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:22:09.47
>>323
陳寿はそのつもりで書いたかもしれないが、原資料の作成者にとってはそうではなかったんだよ。
地図と比較するとすぐにわかる。

441日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:22:28.38
>>322
なんでおかしいの?

442日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:22:35.23
>>431
ならいいんだけどね
ひたすら400mが正しいと言い張ってんのは思考停止してるだけだろ

443日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:23:11.92
>>328
すでに里程で説明された部分をもう一度説明している。

444日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:23:18.18
短里であろうかなかろうが、北部九州は伊都に奴国で、
邪馬台国が存在出来る場所じゃない。

445日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:23:33.39
>>437
そのまま行ったらパプアニューギニアに着くぞ

446日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:23:36.62
>>329
地図と比較しているから循環論法ではない。

447日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:24:35.00
>>443
そんなバカな事誰もしませんw

448日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:24:39.67
>>348
本当だw

449日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:25:01.79
万二千里は古代からある辺境までの観念的距離
陳寿はそれを女王国までの距離として当てはめただけ

450日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:25:41.13
北部九州に丹山はない、ボタ山ならあるが。

451日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:25:53.68
>>356
自分で里程と地図上の距離を比較してみなよ。
小学生でもできることだよ。

452日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:26:41.18
>>370
あうだろ

453日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:27:00.44
>>440
なら余計に魏志倭人伝に出てくる里はあてには出来ないな

>>442
律暦志と正始弩尺で換算すると1里は400mになるんだから
それ以外に主張しようがないもの

454日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:27:04.70
>>449
それ正解。

455日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:27:18.57
>>376
つまり伊都国が最終目的地、邪馬台国の中心地。

456日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:29:10.15
結局九州バカはパズルしか出来ない事がよくわかるな。
しかもパズルは白紙、そこに後から絵を描いて遊んでるだけというw

457日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:30:21.83
>>428
畿内説にとって都合が悪いだけ。
畿内説を示唆する情報は魏志倭人伝のどこにもない。

458日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:30:24.15
>>453
>律暦志と正始弩尺で換算すると1里は400mになるんだから
>それ以外に主張しようがないもの

その先を考えろよ

459日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:30:28.61
>>455
伊都は畿内邪馬台国の出張管理委託事務所だから。

460日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:31:16.29
>>443
日程部分には里程部分で出てこない
投馬国が出てくるんだけど

>>446
地図じゃなくて1里何々メートルだったと
はっきりわかる史料で比較しんさい
律暦志と正始弩尺で換算すると魏の1里は400m

>>451
そんな事して何の意味があるのか

461日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:31:39.61
「ぼくちゃんがそうおもった」

以外の根拠など何一つないのに喚き続ける異常者
それが九州説

何一つなく、畿内の影響に埋め尽くされて独自文化を失う属国という現実は一切見えない
バカの目には巨大な大九州大邪馬台大帝国が広がっているのであった

脳の病気だから仕方ないね
可愛そうに

462日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:31:46.93
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。

463日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:32:12.57
>>459
>>455
>伊都は畿内邪馬台国の出張管理委託事務所だから。

根拠ない妄想。

464日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:32:29.56
>>457
お前は倭人伝を読んでないか、
読んだ倭人伝が邪馬台国の怪編纂の捏造品だろう。

465日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:33:17.91
>>460
>地図じゃなくて1里何々メートルだったと
>はっきりわかる史料で比較しんさい

自分の手でやった計算も信用できないのか
小学生並みの頭脳もないのか

466日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:34:15.07
>>452
対馬〜投馬国の戸数の合計8万戸
邪馬台国は7万戸

467日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:34:20.87
>>463
根拠は倭人伝だから。

468日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:35:46.92
>>464
では、お前の魏志倭人伝から、畿内説を支持する部分を抜き出して書いてみろよ。
畿内説の主張は、魏志倭人伝と関係ないものばかりだよ。
畿内に大きな国があったからこれが邪馬台国だ!とね。
それが関東でも北海道でもハワイでもブラジルでも構わないかのようだ。

469日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:36:13.43
>>467
どこの部分が根拠?

470日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:36:32.97
>>455
伊都は千戸
邪馬台国は7万戸

>>457
九州説の方にも都合悪い
万二千里は赤道付近

>>458
何で考えなきゃいかんのよ

471日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:37:05.93
魏里400mだと赤道まで行っちゃうんだから、
・万二千里が間違いか
・400mがと別の基準があったか
しかないわけだ

472日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:37:13.94
>>466
北部九州に15万戸を押し込めるなよw
可能だとする考古学者は誰もいないよ。
それに関しては完全否定だから。

473日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:41:24.97
>>465
計算ならしたよ
律暦志により1里=300歩=1800尺
1尺の基準正始弩尺は約24cm
24×1800=43200cm=432m
小学生でも出来る計算だからアンタもやってみ

474日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:41:55.72
倭人伝が九州なら、何故、大国である宗像国や薩摩国、大隅国、日向国についてどこにも記述が無いのか

475日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:42:54.67
>>468
まず邪馬台国伝ではなく倭人伝だから。

邪馬台国に関する情報なんて卑弥呼が都とする七万戸の国、
それに伊都や投馬国より遥か南方で里数ではなく日数表記の遠い国。
また伊都は途中必ず立ち寄る、女王に従属した国とあるだけだからな。
北部九州は絶対ないのはこれだけでわかるな。

476日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:43:58.97
>>475
卑弥呼の都とは書いてないよ

477日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:45:52.44
根拠もなく喚いてるだけの九州説行程バカにイチイチ付き合うな
スレが汚れる

478日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:46:33.03
>>472
これも簡単な足し算やで
対馬1千戸
壱岐島3千戸
末羅4千戸
伊都1千戸
奴国2万戸
不弥国1千戸
投馬国5万戸
計8万戸
邪馬台国は7万戸だから九州北部連合ではないという事に

479日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:47:27.55
>>476
どちらにしても九州説は終了

480日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:54:00.90
投馬国は九州北部ではないし、邪馬台国とは別に日程が表記されているから含まないよ。

481日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:55:38.06
含まなかったら3万戸
ますます邪馬台国の7万戸から遠ざかるな

482日本@名無史さん2018/02/10(土) 15:58:09.59
別の史料では伊都国が1万戸なんてあったりする
そっちの方が正しいんだろうけど
そうなると九州北部の国々は合計約9万戸という事だな

483日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:05:25.80
傍国20カ国があるから、合計で7万戸になるのだろう。
陳寿は計算が細かいんだよ。

484日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:06:13.61
九州北部の投馬国5万戸はどこにする?

485日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:08:05.04
九州バカはそもそもスレ違い。
居座るのは日本語読めない人だからか?

486日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:09:23.43
投馬国は宮崎都万だから九州北部ではない。
写本によっては投馬国は注の扱いだ。

487日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:09:53.96
>>471
そして別の基準を証明する物が何もない

488日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:10:54.60
>>487
魏志倭人伝と実際の地理を比較してみな。

489日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:11:46.87
>>483
傍国20カ国は遠すぎてよくわからないと書いてある
戸数も当然わからない

490日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:12:49.00
>>173
もう「南→東」などの嘘吐き騙ししか言うことのない、妄想大和説。

491日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:15:32.68
>>488
それは魏志倭人伝の里を魏志倭人伝で証明する行為だよ
循環論法に相当する

492日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:19:21.46
本当に九州説ってアホしかいないんだな
現実の九州に何一つない上に、畿内の影響に塗りつぶされてる現実も見ないでアホな妄想行程叫んで九州とか言ってんだから
北部九州なんて一番畿内の影響が色濃くどっぷり出てるところだろうが
アホが

異常者の集団はこれだから

493日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:20:23.43
>>175
いくら史料に書かれていると言っても、
史料批判に拠って、個々の記載に客観性や信頼性が否定されれば、
半分×記載になるので、根拠にはつかえない、
という事実は、 文部省や右翼マスコミや学会教育界の大和説学者であっても、
ねじ曲げられないのよ。
文献曲解するなよ。

494日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:23:21.04
>>176
>>魏徴らの「注」なら、魏徴らの勝手な解釈であり、根拠にならない。
文献無視するなよw。<

>いま、あんたのやったことが文献無視だ<

魏徴らやあんたら大和説者らがやった事が、魏志という史料事実の無視だ。

495日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:27:04.97
>>491
頭悪い?

496日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:27:45.71
魏志倭人伝を無視して邪馬台国をこじつけようとする畿内説。

497日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:29:43.58
>>179
これこそが「偉大な大和の大邪馬台国の証だ!」という嘘を喚きちらすが、
悉く九州倭國の影響下にどっぷり浸かってる物だらけなのが、
大爆笑 。
アホの大和説芸人は安定した悲惨さだなぁ。

498日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:32:49.62
>>180
学会教育界や右翼マスコミとかが、またアホ面で晒してる。
「大和からはこんなに沢山の鏡が出てきてる!凄い!」
みたいなバカ表を、
そのまま信じ込んでるおバカさん達なんだろうなぁ。
それがどこからどんな風に何と一緒に出てきてるかも知らないでw。
都合よく抽出したものだけ見て大はしゃぎ。

笑い過ぎて死にそうだ。

499日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:35:56.31
>>183
>考古学の常識なんだが <

「南→東」などの嘘吐き騙しを前提にした結論先にありきの大和説考古学なんて、
何の信頼性も客観性もない半分×考古学なんだが。

500日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:38:07.40
>>184
>学界は畿内説一色だというのに<

国民は、7割が「大和説否定」一色だというのに。

501日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:39:06.17
>>499
考古学の世界で九州説なんて既に皆無状態だぞ。

今後お前は一切考古学関連の資料を利用しない事だな。

502日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:39:52.82
>>185
大和説が持ち出してくるものが、
どれもこれも九州の手垢でベットリの物ばかりで笑える。

まぁバカは、バカサイトのバカな都合のいいバカな表を、
そのまま盲信して浮かれてるだけだからバカなんだろうな。
バカだから仕方ないね。

503日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:40:01.51
>>498
さっさと逝けばいいと思いますw

504日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:40:19.36
>>495
言ってる事わかんなかったの?

505日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:41:34.88
祇園山だ!これが卑弥呼の墓だ!

三角縁
庄内土器
大型の葺石墳墓

内行花文鏡だ!これが卑弥呼の鏡だ!

三角縁同伴
古墳出土

九州説の低能ぶりは毎度笑わせてくれる

506日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:42:06.26
おっ答えに困ったザラコクのオウム返しが始まったぞ

507日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:43:00.47
ザラコクがバカな事書けば書くほど畿内説が増えるというからな。

508日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:43:16.42
>>500
国民のアンケート結果だけが頼りなのか九州説は
可愛そうになあ

509日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:44:55.39
>>188
>絹は最盛期でもとても献上品に出来ない粗悪品<

九州倭國の魏への献上品は、
「上獻生口、倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布、丹木、hu、短弓矢」や 、
「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」。
鏡はどれもこれもまさに畿内の影響にどっぷり浸かってる物ばかり

大和から見つかるのは、遅れた田舎の属国の証拠ばかりだな 。

510日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:45:27.03
九州の絹は凄いんだ!これが邪馬台国の証だ!

最盛期ですら献上品に出来ない粗悪品
畿内から畿内独自の精密な織技術を用いた絹織物出土

鉄だ!大量の鉄を持つ九州が邪馬台国だ!

最盛期ですら大量の鉄器とやらがあっても九州から外に出られない雑魚ナメクジ九州
邪馬台国の時代を境に一気に畿内の鉄器が増えまくり畿内がこの時代に大きく躍進したことを示す証拠にしかなってない

九州の田舎猿のバカ話は毎度笑える

511日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:48:02.03
>>189
>テンプレに出典付きで詳しく解説があるよ<

スレ主に、テンプレの再掲と、再説明をして貰えよ。
一々嘘つき騙しの・・・・のテンプレなんか、探す気も起きないから。

512日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:49:48.43
再掲って、上の方にあるじゃん

513日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:52:27.35
>>508
国民のアンケートって
なんだソレ

514日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:53:49.47
>>190
>古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、<

列島の前方後円墳の始まりは、那珂八幡などで、3世紀第4四半世紀。

>これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
 中期(4世紀後半〜5世紀末)、
 後期(6〜7世紀)
に区分している。 古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。<

那珂八幡などの模倣。

>出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。<

筑紫倭國の別種の旧小国の、地方の市を監督する「田舎のご大尽」。

515日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:55:45.94
>列島の前方後円墳の始まりは、那珂八幡などで、3世紀第4四半世紀。

考古学者の言ってることと違うね



誰の説?

516日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:57:42.31
>>514
あんた
結論しか言わないけど
理由はなんだ?

517日本@名無史さん2018/02/10(土) 16:59:59.47
九州には

径100歩の墓もない
丹もない
質の高い絹もない
入れ墨もない
骨占もない
宮殿もない
大きな祭祀の遺跡もない
多くの国をまとめ上げた中心もない
多くの国をまとめ上げたような影響力もない
鏡も古墳から見つかり、三角縁と同伴

見つかるのは畿内の土器、墓制、祭祀、宝物ばかり
自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない
あるある喚くが何一つ提示されない

おお、哀れ哀れ

518日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:00:54.85
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。

519日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:01:12.34
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

520日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:02:27.72
>>518
邪馬台国と関係のないことを持ち出すなよ。
しかも年代不詳で後年のものかもしれないものばかり。

521日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:02:40.98
>>482
いや、それは怪しい史料だろ

522日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:03:07.70
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

523日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:03:25.46
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

524日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:03:55.68
>>520
年代なら明確に書いてあるが?

525日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:04:37.38
>>524
でっち上げでしょ。

526日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:05:32.77
年代不詳?
じゃあ九州が毎度持ち出す『古墳から出た』内行花文鏡だのは全部年代不詳だなw

毎度九州説が喚いてる理論で行けば「同伴した一番新しいもので判断する」んだよなぁ?

じゃあお前らの鏡は全部5世紀以降に貰ったもんだわw
ますます何もなくなるなwww

527日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:05:35.55
>>522
ほら、怪しい史料

528日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:07:30.77
>>513
国民の7割が邪馬台国は九州にあると思うってアンケート結果があったんだと
ザラコクはそれを邪馬台国が九州にあった根拠に使ってる

529日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:08:13.41
鉄とか笑わせてくれるw

最盛期ですら九州から出られない雑魚が「鉄器があるから邪馬台国」とか
寝ぼけてんのか?
邪馬台国を境に一気に出土量が増える明確な畿内の画期がむしろ際立つだけ

で、毎度「古墳から出る鉄なんてカウントしない!」と喚いてるよなぁ?

じゃあお前らの鏡も全滅だわwwwww
九州の鏡も古墳から出てる後漢鏡をこれは都合よく「邪馬台国の時代に手に入った!」とか言い張ってんだからなwww

お前らから出たものなんて何一つないなwwwww

530日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:08:33.27
>>525
でっち上げ呼ばわりする理由は?

???

531日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:10:03.14
九州説は何か喋れば全部自滅というお笑い集団

まぁ脳みそが無いから仕方ないね

532日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:11:20.62
>>529
邪馬台国に征服されただけだろ。

533日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:11:33.57
【平原遺跡】

福岡県糸島市にある平原遺跡は大量の中国朱が外に流れ出したことで発見された。
1号墓は東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓。
割竹形木棺は長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。槨なし。
出土物は瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚、虺龍紋鏡(きりゅうもんきょう)1枚(舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)。
耳璫(じとう)片3個。
長さ5尺(80.6cm)の素環頭大刀1本(卑弥呼が魏からもらった5尺刀か)。
隣接する2号墓と周溝を共有し、周溝の一部からは10名の土壙墓が見つかり、全体では約100名の殉葬があったと推定されている。
周囲に18本の柱穴があり、うち2本は日向峠に向かう鳥居と推定されている。

超大型内行花文鏡が後漢との交流が途絶えた後に独自進化したものであることから、平原遺跡が作られたのは倭国大乱後と考えられ、卑弥呼の治世である。
超大型内行花文鏡は直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)であることから、王権の象徴である八咫の鏡(やたのかがみ)と考えられる。
伊都が文字通り倭国の都であったであったことがわかる。
女性用の耳璫があったので、被葬者は女王である。
つまり、平原遺跡は卑弥呼の墓であると考えられる。

・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」

・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」

534日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:12:00.56
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

535日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:13:34.66
>>521
いや北史とかのちゃんとした史料だった何かはド忘れしたけど
伊都が1千戸はやっぱ少なすぎだよなと納得した覚えがある

536日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:14:16.53
平原とか2世紀の?製鏡だらけの後に続かない、周りになんの影響も及ぼさない個人墓を持ち出して邪馬台国とか

脳みそ腐ってるな
流石は九州説だ

537日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:14:53.59
>>533
岡上、それ柳田が平原遺跡の調査する前に書いた古い論文なの知ってて書いてるよな
それってサギだよ

538日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:16:04.81
>>535
ちゃんとしてませんでした

笑)

539日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:17:41.07
なにもない九州

出てくるのは生活も、宗教も、宝物も何もかも畿内の影響に塗りつぶされた属国の姿ばかり

必死になって持ち出すものがことごとく畿内の手垢まみれ

でも何も知らない、何も考えない九州説は「タンリガー」「インボウガー」「クトウジョガー」「チクシジョウガー」と毎日同じことを叫び続ける

異常者の無様な姿をただただ憐れむばかりである

540日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:17:59.66
>>538
それ言うなら今俺らが見る魏志倭人伝の方がちゃんとしてないんだぞ?
原本から1000年くらい後になって作られた写本なんだから

541日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:19:31.65
>>535
博多奴国がニューヨーク、伊都国がワシントンD.C.と考えると、別に伊都国の人口が少なくてもいい。
卑弥呼の下女千人と一致するし。
纒向^_^都と言いながら、下女千人の家がなく閑散とした奈良盆地よりマシ。

542日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:20:49.08
>>539
九州北部の銅鏡文化に塗りつぶされたのは畿内だよ。
九州北部の三種の神器を今でも祭っているくらいにね。

543日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:21:27.25
>>533
柳田の修正
調査前「三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければ」
    ↓
調査後「製造技術が164年以後、以前に見られる鋳造・研磨技術である」
 結論は、西暦200年頃の墓
 

544日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:22:06.71
三角縁や古墳と同伴だらけの九州が笑わせてくれる

545日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:22:10.77
>>542
根拠なし

546日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:22:44.33
>>541
まあ別にそこ突っ張られてもな
九州の国々の戸数の合計が8万戸になるのは変わりがないし

547日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:26:21.62
平原の鏡については最新の研究で、非常に興味深い見解が示されているよ

548日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:26:38.52
>>541
下女千人居るというのは1万戸でも別に問題なくないか
10戸だったらどうかと思うけど

549日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:27:16.15
>>198
大和には
径100歩の墓もない
丹もない
質の高い絹もない
入れ墨もない
骨占もない
宮殿もない
大きな祭祀の遺跡もない
多くの国をまとめ上げた中心もない
多くの国をまとめ上げたような影響力もない
卑弥呼の時代の鏡も古墳もない、
見つかった三角縁は、4世紀の粗悪な副葬品。
見つかるのは筑紫の土器、墓制、祭祀、宝物ばかり、
自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない
おお、哀れ哀れ。

550日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:28:08.90
>>547
中身なしかよ

551日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:28:24.04
>>549
なんかの歌詞みてーだな

552日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:29:37.90
伊都国周辺の土器の出土状況を見ると大変面白いことが分かる
その狭い範囲だけ庄内土器が出ない
で、その周りをぐるりと取り囲むように庄内土器だらけになってる

倭人伝にある「千戸」だけで「一大卒に監視されてる」伊都国の姿をかなり克明に示しているのが分かる

こんなところに一万戸の邪馬台国?
バカも休み休み言え
アホが
何にも知らないバカは笑わせてくれるわ

553日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:30:02.61
世代がわかるわ

554日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:30:26.23
>>550
古代学研究の最新号だ
中身は自分で確認しな

555日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:31:41.52
>>199
>弥生時代に古墳があると書いてる時点で無知低能確定<

大和の墳丘墓は、3世紀後半以後。
九州には吉野ケ里の墳丘墓や、高冢の嚆矢となった祇園山がある。

556日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:34:43.41
>>555
あんた無知すぎ

557日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:34:46.20
>>200
>バカ九州説の毎度のバカ晒し 「弥生時代を通じて」<

バカ大和説の毎度のバカ晒し。

大和の墳丘墓開始は庄内だから、3世紀の第4四半世紀頃以後。

558日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:35:52.46
考古学を知らないザラコクの咆哮w

559日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:36:36.22
平原なんぞで何が見つかろうが今更何にもならんのが分からない辺り

周りを取り囲まれるように孤立した小さな地域で、周辺に何の影響も及ぼしてない
こんなところが邪馬台国?

流石はゴキブリ以下の知能しかない九州説だな
何を夢見てんだか

560日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:39:07.94
>>546
だから、投馬国は邪馬台国と併記してあるから別だよ。

561日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:40:19.77
>>559
世俗から隔絶した聖なる王都だからだろ。

562日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:40:48.97
>>204
何一つ見つからない大和説は、妄想を垂れ流すしかやる事がない。

563日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:44:20.99
>>206
はい、また九州説応援の、毎度の旧唐書と筑紫城が入りました。

バカの大和説信者は、いつまでもいつまでも、
同じ「旧唐書や新唐書などの否定曲解抹殺」のバカ話を平気で繰り返す。

どうせ旧唐書なんて見たこともないんだからな。
バカだから仕方ないね。

564日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:45:21.56
>>560
5万戸の投馬国別なら九州北部の国々は計3万戸
邪馬台国は7万戸

565日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:46:33.43
>>563
ザラコクは旧唐書なんて見たこともないんだろ?

566日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:48:49.11
>>207
漢書や魏志から旧唐書や唐会要や新唐書などの歴代中国史書群は、
大和天皇家一元列島支配教の大和説にとっては、
自説の否定になるから、怪しげで使えない情報ってことで否定抹殺する、
って事だね。

567日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:50:09.76
>>561
名前だけのかつての九州王が閉じ込められてるだけだな
邪馬台国の役人に監視されて怯えてる聖なる王とか笑わせんな
倭人伝の記載通り

568日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:51:47.61
>>211
大和説者は、
旧唐書も新唐書もどうせ見たことないで、バカサイトの書き込み見て、
毎度こうやって浮かれて突撃してきてるんだろ?。

何百回指摘されても同じことを言い続ける低能だから、
大和説なんて信仰できるんだろうよ。

569日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:53:10.85
猿真似鸚鵡

570日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:58:27.35
>>564
傍国20カ国が残り。

571日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:58:55.00
>>567
妄想乙

572日本@名無史さん2018/02/10(土) 17:59:59.47
>>212
>新唐書のは入宋した東大寺の坊さんが持って来た本のコピペだからね <

違うね。
新唐書は、「王年代紀」を丸写しにするのではなく、
記紀の記載を否定するような情報を幾つも含む貴重な情報本。

>当然ながら筑紫日向高千穂宮というのは宮崎県の高千穂であって倭奴国とは関係ない<

王年代紀は、筑紫日向高千穂宮としていたが、
新唐書は「筑紫城」と書き換え、倭奴國であった事を主張している。

大和説の人って、無学であり、・・・・詐欺師なんだよね。

573日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:00:08.49
猿真似と言えば、蘇我氏だな。
ヤマトの地にアスカなんか作って。

鳥真似もしてたかな。
日本書紀かな。

蘇我氏が鳥の格好をして祭祀を行い、それを見ていた物部氏が笑うという記述があるな。
蘇我氏が鈴が鳴れば、もっと上手くできるんだがみたいな返事をする。

鳥の真似事をしていたのが、滑稽だったんだろう。
日本書紀は天武の時代に書かれたんだな。
勝利を確信し驕りがあったんだろうな。

574日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:00:31.72
九州説のバカはいまだにわかってないから笑える

生活、宗教、宝物等のあらゆる文化の基軸が畿内から全国に拡散してる
その中心が纏向でありここには全国から人が集まる双方向の拠点として機能している
そのような全国規模の中心は畿内以外にどこにもない

当然九州もその影響下にある
しかも北部九州なんてかなり色濃くな

どこにどんな遺跡が今更出てこようが、平原で何が出てこようが最早何の影響もない
畿内しか当時の全国の中心なんて存在しないんだよ
もうとっくに「確定」してんだよw
アホはいまだにちょっと何か見つかればごまかせるとか思ってる程度の認識だからアホとしか言いようがない

575日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:02:58.09
>>574
妄想乙

576日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:03:11.57
纒向が邪馬台国の中心でいいよ。

どの勢力が邪馬台国を作ったかだな。

577日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:07:15.74
九州がまさに邪馬台国の時代に纏向を中心とする影響力の拡大に飲み込まれてると言う現実をミエナイキコエナイでありもしない妄想を続ける異常者
それが九州説

ただのカルト宗教だから仕方ないね

578日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:07:44.19
スレ主=仮想ザラコクで大半埋めんなよ

579日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:09:49.87
全1病

580日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:12:36.57
>>576
逆。
邪馬台国が纒向を作って遷都してきた。

581日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:12:59.48
九州のどこに邪馬台国があるの?
と聞いても全員違うことを言う

行程は絶対確実なの?
と聞いても全員違うことを言う

何が確定してんだよサルが

582日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:17:30.24
>>570
傍国20カ国は遠すぎてよくわからないと書いてある
邪馬台国が九州北部連合で計7万個になるはずだから
傍国20カ国は合計4万戸になるはずだというのは
這い出ましたね
九州説お得意の循環論法ですね

583ザラコク回避のスレ2018/02/10(土) 18:20:37.56
ここにはザラコク来ないから畿内説語ろう
スレ主は同じだから相手してくれる
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118699/l50

584日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:22:17.22
九州は最盛期ですらも北部九州と四国西北部から外に出てない
肝心の邪馬台国の時代となればその勢力さえも崩壊して中心もなくなってる

ご自慢の鉄とやらがそんなに凄いならとっくのとうに日本征服してんじゃねぇのか?
弥生時代の400年くらいを九州から出ることも出来ずに逆に東部は出雲や四国や瀬戸内海の影響を受けまくってる
アホが

こんな基本も知らんで「支配した!」「東征だ!」とかバカ丸出しのことを喚いて思考停止する九州説

585日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:23:57.41
鉄器は畿内の古墳からも大量に出てるで

586日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:25:11.83
>>213
>魏志倭人伝に描かれ邪馬台国への行程記事は、
倭国を訪れた事のない人物が、報告書あるいは紀行紀を基に地理像を描いたのである。
そのため極めて不正確な地理像となっている。 <

いや、陳寿は、
梯儁等と張政等の二つの魏使集団の記録を見ており、
十分に正確である。

587日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:27:39.88
>>585
アホの九州説に言わせると古墳の鉄はカウントしないんだとさ
でも九州がいつも喚き散らしてる鏡も古墳から出てんだけどな

あいつらの都合のいいダブルスタンダードぶりは笑えるわ

588日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:32:21.58
>>219
>いくら言い張っても 東大寺の坊さんが持ってた記紀ダイジェスト本には、
筑紫日向高千穂宮は宮崎県としてしか書かれてないよ<

筑紫日向高千穂宮情報が、宮崎の事であるとは限らず、
新唐書は、それにも関わらず、倭奴國の筑紫城の事だ、と断定して書き換えている。」

589日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:32:30.28
そんなん負けを認めるようなもんだ

590日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:34:31.38
最初から九州説なんて何一つ根拠も証拠もないただのバカ話だから
誰も相手してない
アホを相手に笑いものにするのが面白いから遊んでるだけ

591日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:35:51.14
>>220
>使えない情報ってことだね <

「南→東」などの嘘つき騙しの前科のある大和説者らの、
「旧唐書などや新唐書」の全面的否定情報は、
信用ならない、って事だな。」

592日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:41:32.80
>>583
うそこくな

593日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:43:00.63
>>225
>北東が東南になるのは、地図が南を向いているのを置いて書いたからなのだ <

陳寿は、地図を作ったのか?は不明であり、
地図がなくても、
梯儁等の記録と、
梯儁等の記録に拠って女王國之所都へ行った張政等の記録の、
二つの魏使集団の記録を見ており、
方向を間違える筈がない。

594日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:43:58.09
>>591
それも一種の循環論法だなぁ

w

595日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:44:43.30
焦るスレ主 
追い打ち岡上

596日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:46:45.73
>>226
>平安中期の日本文献に 神武天皇は福岡出身でーす、とか 書いてあったと思ってる人は
たいへんおめでたい <

新唐書が、王年代紀を100%信用して丸写しした、
と思っている人は、大変おめでたい。

597日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:48:38.23
狂いまくりの岡上
まったく相手にしていない>>1

598日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:52:19.80
>>233
建諸隅命のまたの名が、由碁理で、丹波(旦波)の大縣主なのである。
そしてこの建諸隅命の子、竹野媛(竹野比賣)が開化の妃である。
この竹野媛の本来の名は天豊姫である。
建諸隅命は、私が卑弥呼とする宇那比姫の甥(おい)である。
したがって、天豊姫命と呼ばれるこの人は卑弥呼を出した一族の女、すなわち宗女である。<

後半は、 「南≠東」に拠って、×ね。

599日本@名無史さん2018/02/10(土) 18:56:28.86
>>237
>『後漢書』倭伝は
「安帝永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見」
として西暦107年に倭国の朝貢が在った事を伝える。
この倭国朝貢の年次あたりが倭国の始まりである。
私はこの倭国王こそ、大和朝廷成立直後の王、すなわち神武であろうと考える。
倭国すなわち後の大和朝廷は西暦107年の直前に成立したと考える。<

これも「私は〜」以下の部分が、「南≠東」に拠って×。

600孝霊厨2018/02/10(土) 18:56:46.46
>>586
三世紀の地勢感で正確かどうかなんて
判断出来る状況ではないですよ。

ましてや地球が球体とも、地動説でもありませんから。当時の基本認識は神仙思想です。

601日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:02:05.94
>>239
>神武は卑弥呼と同世代。<

二中歴の二倍年歴記載に拠って神武測位元年は、紀元前91年頃になるから、×。

>2世紀末以前に九州の勢力が畿内で主導権をとった形跡はない。<

神武以前の国生み神話時代に、筑紫が淡路島に東征植民した、という可能性があるし、
神武東征も紀元前1世紀頃であるから、×ね。

602日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:05:54.00
>>241
>・・・したがって後漢書倭伝が伝える107年に朝貢した倭国王とは神武に他ならないと考える。
大和朝廷はこの107年の直前に成立したのである。<

神武測位元年は、ニ中歴に拠って、紀元前91年頃になるから、×ね。

603孝霊厨2018/02/10(土) 19:10:21.98
神武東征的な話なら紀元前か一世紀辺りだな。
師升を葛城に本拠をもつ綏靖天皇辺りに比定するならね。

604日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:14:28.12
梁書に「漢の霊帝の光和年間(178〜183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た」とある
これが神武東征かも知れないね

605日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:16:12.52
バカに何度言っても無駄だろうが

弥生時代の前期の稲作の伝播以外に九州から西日本に広がる影響など何もない
東征も東遷もあり得ない

バカに何度言っても理解できないだろうが

606日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:16:40.11
>>598
俺に意味不明なレスするな、アホ

607日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:19:01.09
>>244
>うすうす感じていたのだが ザ ラ コ ク は な ぜ 
テ ン プ レ へ の 攻 撃 は し な い の だ ろ う か <

2chから5chで、3回も「全部反論」を投稿したが、
ちょっと議論があっただけで、スレ主は引っ込んで逃げてしまい、
だから、現在は、
スレ主は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの件や、
「伽耶の「有槨」墓が何故発生したのか」の理由説明が出来ていない事の指摘や、
平原の21枚の「尚方作」鏡の存在を全く触れない事や、
「景初4年」が「景初3年の後十二月であって、景初四年としたのではなかった」という事の指摘などでの、
返事待ちの状態であり、
正直、・・・・は議論しても無駄であるから、放置もしている状態。

608日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:23:06.67
>>607
なに言ってんだかワガンネ

609日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:23:10.19
俺は畿内説だけど東征あったかも知れない派だ
西暦60年頃は九州が中心だったのは金印やら鏡やら後漢書の記述で確からしいからな
そこから100年後にその勢力が東に向けて出軍し
記紀にあるように苦しい戦いを経て畿内に連合国家を打ち立てたと
そう考えてる

610日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:29:41.88
>>607
尚方作鏡には景初3年とか入ってないからなあ
三角縁神獣鏡に比べたらどうしても格が落ちる

611日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:31:21.21
>>609
ま、それはそれでいいんじゃね?

612日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:33:02.82
>>609
畿内に侵攻した勢力は有ったが、それは九州勢力ではなくて、畿内勢力の要塞、青谷上寺地を撃ち破って上御殿にオルドス式を持ち込んだ出雲勢力だ。

613日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:33:22.39
尚方作鏡なんてニセモノは腐るほどあるしなあ
そんな銘文、なんの根拠でもないよなー

614日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:34:11.32
年代の見当つくと記紀が具体的になったみたいに感じて面白いぞ

615日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:35:32.84
>>612
根拠ねぇなぁ


 

616日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:36:19.68
>>612
出雲勢力も含んでたかもね
まあその辺りの事はよくわからんけど

617日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:38:10.81
>>614
世の中には時系列の概念を理解できない奴らもいるんだよ。
朝鮮民族なんてのはその典型な訳で。

618日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:40:21.81
出雲の遠征なんてものも起こってない

アホはどうしてこう事実も何も知らないままバカ丸出しの妄想して平気なんだろうな
己の無知さを少しは恥じろよ基地外

619日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:40:53.51
本当よな
九州説とくにザラコクはどうにもそんな人物に思えてならない

620日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:41:17.38
>>618
ないな

621日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:44:30.81
2世紀のこともっと具体的にわかるようにならんかな
神話の宝庫なのに皇国史観がどうちゃらでうるさく言ってくる連中がいるんだろうな

622日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:45:38.92
弥生時代後期に入って出雲の勢力が拡大するに応じて吉備、大和から出雲への祭祀の参加がみられる
ただ両地域とも自分達の文化を維持したままで同盟国として出雲の祭祀に参加してる物と思われる
その後に大和、吉備ともに出雲とは別の文化を更に進化させて後の邪馬台国、大和朝廷へとつながる体制を確立する
出雲との関係は見受けられるが遠征だのなんだのを示すようなものはない

623日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:46:04.09
>>245
>新唐書の記述はそのまんま日本書紀の丸写しだ アホか<

アホか。
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」などというような、
書紀の記載を全く否定した事になる情報も書かれているのが判らないの?。

624孝霊厨2018/02/10(土) 19:47:23.63
>>604
霊帝の諱はそのまま孝霊天皇に充てたと
思われるけどな。意味は滅びはしないが
国が乱れる等の意味がある。
欠史の名前は大体同時代、大陸との関連性のある諱が付いている。

625日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:47:31.96
>>623
誤読でトンデモ書いてるよね
ある意味、海外史料の限界

626日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:48:29.64
>>621
文字資料はないけど大きな流れみたいなのは大体見えてる
言うほど謎だらけでも何でもない

627日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:50:05.63
>>246
>倭国王師升が誰に該当するのか、というのは 卑弥呼と同様長く謎のままですが、
まあ私は綏靖天皇説をとりますね。<

何だ?、まだ、
「南→東」の嘘つき騙しの分裂幻覚の妄想患者の孝霊が生きていたのか?。
「南≠東」だから、×だよ。

628日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:52:36.12
>>626
まあ一見謎だらけに見えるのは学校で詳しく教えないからだろうね

629日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:52:37.38
>>621
簡単に説明してあげるね。

まず、方形周溝墓を墓制とし絵画土器を威信財とした勢力が有り、日本の広範囲を勢力下に治めてた。

そこへ大陸・半島から金属器が入って来てパワーバランスが崩れて。

これが倭国大乱の始まり。

630日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:55:46.34
>>629
いつぐらいの出来事になるんスかね

631日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:56:03.16
>>623
また何も知らないパーが現れた
記紀の記述と自分達の資料を合わせて書いてるのも理解できないアホだな
どうせお前アホサイトの記事読んだだけだろ?w

そのタリシヒコは用明天皇の事だとして記紀の記載を採用してる
そしてその時代に遣隋使が来た中国側の記録と双方の記事を合わせて中国は記事を書いてる

日本書紀の遣隋使の最初の部分が不自然なのは以前から指摘されてる
日本側が意図的に(おそらく中国皇帝から叱責されたことなどの屈辱を隠すため)削除したと考えられている

そしてアホの九州説は「用明天皇とその後の桓武天皇まで」を同一の系統と中国が理解してることをよく見ておけw
「日本が倭滅ぼした別の国」だとか言うボケた話が成り立たない事がこれで分かる
そして隋書の「ヤマト=邪馬台国」の記事もその系譜の確認で「確定」すんだよw

バカが
ドヤ顔して盛大に自滅してんだよ
能無し猿が

632日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:56:12.87
>>247
>平原王墓からナ国、つまり博多も東南と言ってるんだよな <

「東南陸行五百里、到伊都國」の「東南」は、
末盧國からの出発の説明であり、出発方向記載。

>これも混一図通り<

はるか後代の、
「実際にに倭地に来て実見」していない「知的退化」をした人間の書いた地図など、
信頼性が全くなく、
何の根拠にもならない。

633日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:58:08.66
>>630
平原の時代まではまだ、方形周溝墓だった。

634日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:58:46.99
>>248
>ヤマトは磯城県、答えは出てるね。
倭国王は一世紀にはヤマトにいて
北部九州には 既に支配権を確保していたという事だな。<

「大和日本国は、倭國から別れた別種の旧小国」であったんだから、×。

635孝霊厨2018/02/10(土) 20:00:43.61
具体的に出雲において海を渡ってきた月支国の
船団と戦ったり、半島と山比べしたなんて
伝承を持っているのは
孝霊天皇だけだからな。勿論瀬戸内海や吉備
でも成敗伝承が多く、倭国乱れたとするなら
具体的な内容を伴う唯一の存在。

636日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:01:46.93
>>633
というと1世紀の辺りは平和だったと

637日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:03:25.65
方形周溝墓の拡大に政治的な背景など見られない
土器も祭器も祭祀も在地の物を維持している事から文化的な伝播でしかない

638日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:03:42.90
>>636
一世紀なの?
俺にはわからない。
根拠が有るならヨロシク。

639日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:06:25.93
>>265
>不弥国までで1万700里であと1300里残ってるぞ <

方可四百余里の對海國と、方可三百里の一大國の、
国内見聞移動があった事が書かれているから、そこで700〜1400里を使っており、
だから、それだけでも、後は殆ど残っていない。

640日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:06:34.18
記録に残るのは57年の奴国王、107年の倭国王

故に建国は107年と考える
建国と言ってもどこか別の国に知られなければ意味が無い

641日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:06:37.79
平原一号は二世紀末

642日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:06:59.29
方形周溝墓は単なる文化として拡大したのち、各地域で独自の発展を見せている
それが各地で別物の独自性を持つようになる
この伝播に中心的な勢力による意図などは見いだせない

643日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:07:40.54
>>638
平原の時代とは九州の平原が栄えてた時代?なら
後漢書に倭の奴国が建武中元二年(57)に使いを遣したとあるからね

644日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:08:47.15
>>268
>投馬国は多磨(東京)、狗奴国は桑名市多度(三重)<

「南≠東」だから、×。

645日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:08:50.97
邪馬台国の時代をもってしても独自に中国に使節を送る国が30くらいはいたと言う
だからまだまだ集権的な勢力など成立してないのがわかる
緩やかな連合体とみるのが自然
「建国」と呼べるような状態にはない

646日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:09:21.49
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。

古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。

久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。

647日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:10:44.27
中国が最初認識していた倭国と言うのは北部九州の福岡を中心とした勢力だろう

奴国の金印や、師升の遣使などを行ったのはここと考えるのが自然
このころから畿内にそのような勢力を見出すのは困難

648日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:10:57.05
鳥取に孝霊の伝承があるし、山陰に赴いていた可能性はあるな。

649日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:11:04.10
九州が出ると、とたんにレベルが下がるぜ

650日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:11:10.80
>>639
方300里とか書かれてるだけで行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないけどいいの

651日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:12:26.64
>>647
最初じゃないから、おk

652日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:13:53.00
>>650
そういうチェリピクが古田説の特徴

653日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:14:06.78
>>645
日本は江戸時代まで小国家の集合体だが

654孝霊厨2018/02/10(土) 20:14:29.88
方形周溝墓は弥生前期北部九州発祥して
中期にはすでに東海や畿内中心に多くなって
いるからな。
銅鐸も同じ動きなので、東征的な動きは
弥生中期に既に終わっている。
なので弥生後期の平原の物は東国勢力から
派遣された人物の物。

655日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:15:27.47
>>642
お前は死んだら風葬にされろ。
それでも全く不満は無いだろ。

656日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:15:48.67
黒塚古墳は、かなり重要な古墳と思うんだが。

誰の墓なんだろう。

安達ヶ原の黒塚伝説と関係あるのかな。
イワテという鬼婆の話。
生駒の助の嫁を殺すが、自分の娘だったという悲しい話。

なぜ東北の話に生駒が出てくるのか?

657日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:19:25.80
書いてる内容見てるとザラコクは古田史学会のメンバーなのかもな

658日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:20:07.51
方形周溝墓は在地の文化を変化させていない
むしろ各土地で独自の発展を遂げている

東征などは起こってない
ただの文化的な移動

659日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:21:33.16
>>270
>方角については混一図参照・・・
伊都国(平原王墓)も奴国(博多)も東南へとなっている
北海道が描かれていないので、東にまた国があった、という言い方になっており、
倭種なりとされている <

後代に、実地に倭地を見聞しに来ていない人物の描いた地図は、当然「知的退化」をしている可能性が非常に高く、
信頼性が全くなく、根拠にならない。

660日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:23:37.16
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。

ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

661日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:24:17.41
>>270
しかし、おかしいねえ。
「混一図」に対する反論は、ついさっき書いた筈なので、探したが、見つからなかった。

ひょっとしたら、(5chに?)削除された?。

662日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:25:22.42
銅鐸も最初は10以上の系統があって各地で独自の発展を遂げてる

勘違いしてる人が多いが何かの主体的な勢力が広めているわけじゃない
これも文化的な移動によって成立した文化とみるのが自然
むしろ弥生時代の後期くらいから中心地が統合されて独自性が出てくる

663日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:29:50.09
飛騨の口碑。
飛騨辺りの勢力が出雲を作り、大和朝廷を作ったとある。

日本書紀の飛騨の顔が二つ、胴が一つの怪物を討つ話。
畿内の政権交代の話じゃないかな。

5世紀の、若草山山頂の古墳。
かつて牛塚と呼ばれていた。
山頂の目立つ位置最高の立地。何か関係あるのか?

664日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:31:35.57
>>658
前方後方墳は在地の文化を変化させていない
むしろ各土地で独自の発展を遂げている

東征などは起こってない
ただの文化的な移動

665日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:32:18.63
円ね

666日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:33:14.76
>>271
>それならますます1万2千里で邪馬台国の位置を判別するのが難しくなるな<

途中移動の里数の合計が大体「萬二千余里」になるから、
そのまま受け止めればよいのであり、
難しくならない。

>いっそ1万2千里は邪馬台国を正確に示してるという考えは改めるべきじゃ<

この男も、二組の魏使団の大体の記録や、陳寿の大体の説明に「絶対断定」を要求し、
「絶対でないから駄目だ」と勝手に決めて、
それで、(大和説にとっては)都合の悪い)記載を否定抹殺しようとする、
犯罪者的な・・・・大和説者であった、という事になる。

667日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:33:15.55
別に不思議でも何でもない
弥生時代末ごろに畿内と吉備を中心とした地域に全国的な影響力を持つ邪馬台国が誕生する
そしてその勢力がそのまま大和朝廷になるだけの話

668日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:37:54.49
>>273
>畿内説は正確かどうか怪しい魏志倭人伝記載の距離は根拠にしないよ <

この男も、二組の魏使らが確認した「大体」の記録や、それに拠って陳寿が説明した大体の説明を、
「100%絶対ではない」といういう事で、全部間違いだ、という嘘つき騙しの犯罪者であった訳で。

669日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:38:30.32
>>667
吉備は温羅、即ち出雲の配下。

670日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:39:28.83
>>666
>そのまま受け止めればよいのであり、

史料批判拒否
前近代
 

671日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:40:01.76
>>664
弥生前期の稲作などの移動と、邪馬台国の全国的な文化の拡大は全く違う物

弥生時代後期になると各地域にかなり強い独自の王権や文化の個性の確立が起こる
しかし、弥生時代末期の邪馬台国時代前後になると、その確立した文化の壁を突き破って畿内の文化が広まりそれ一色に変わる

各地の変化は中心の動きと連動していて独自性は限定的で明らかな中心点が存在しているのが分かる
その動きはどんどん強くなり各地の個性を完全に塗りつぶしていく

これらの動きから弥生時代末期の変化は政治的で中心の存在する意図的なものであるのが分かる

672日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:43:11.70
>>671
ご都合主義ワロス

673日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:44:52.45
ザラコクが書けば書くほど畿内説が増えるw

674日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:44:53.07
バカはバカだから何も理解できない

675日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:46:19.16
>>276
>こんな事言ってるからザラコクは左翼的思想の持ち主で
畿内説に嫌がらせするためだけに出鱈目並べてるとバレる<

私は、憲法の精神に従った平和共存の中道であり、
左右のどちらであっても、
組織化が、個人の自由や基本的人権を否定して、
極論化して殺し合い戦争をもたらす事になるから、嫌いであり、
特に、現在日本政府らが、憲法を否定して殺し合い戦争への突き進んでいる事が、
黙過し難いだけ。

676日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:46:29.51
もはやザラコクは畿内説の飼い猫だな

677日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:47:47.28
吉備津彦。
温羅の鬼退治伝説。

かつては仲間だった海神を討つ話じゃないかな。
石神が海神を乗っ取る話。

丹波道主命の丹後半島派遣。
これも同じ。石神がかつては仲間だった丹後半島の海神を乗っ取る話。征伐され、丹後半島で古墳作りをさせられたんだろうな。

678日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:50:39.29
>>277
>畿内説と九州説は伊都や奴国まで同じだぞw 単に日数表記の解釈が違うだけで。<

大和説は、「南→東」の嘘つき騙しをしているから、×。

>プラス戸数も考慮すると北部九州なんて絶対不可能、無理だから。<

馬韓と九州が同じ位の広さ同士であるから、戸数も十分可能。

679日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:53:37.14
>>278
>もしろ九州説の方に都合悪いと思うけど
ありもしない短里とか創設してるとバレたとき一気に信頼無くすぞ<

もしろ、「里数」でも大和説の方に都合悪いと思うけど、
ありもしない「南→東」とか創設してるとバレたとき、
一気に信頼無くすぞ 。

680日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:54:20.43
>>675
少なくともお前の事を中道なんて思うやつは誰もいない

681日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:55:02.98
尾張出雲の火神石神の荒ぶり方は、度を超えてエゲツない。かつての仲間も関係なし。

殉葬の習慣、生贄。泣き叫ぶ犠牲者が日本書紀にリアルに描写されている。

尾張なんか江戸時代まで旅人拐い、人身御供の習慣があった。

682日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:55:11.20
>>279
>狗奴国とは陸(くが)国である。玖賀国とも表記される。その親玉は陸耳御笠(くがみみのみかさ)である。
陸国とは現在の北陸にあった国で、古くは北陸地方の事を、陸(くが)と呼んだ。 <

「南≠東」で×。

683日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:55:36.60
基本的に方形周溝墓も前方後円墳も
文化の伝搬の結果であって
支配がどうとかというものではない。

五世紀に各地に定形型前方後円墳が作られるが
その近所に近い時代の大型円墳や
バチ型、手鏡型古墳があったりして
型式を強制されたようなものではないからね。

684日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:56:30.16
古代史の流れを見てると基本的に「対九州」という図式が見えるな

先行して王権と国と呼べる領域を確立した北部九州に対して周辺地域がその拡大を阻止する形で発展してる
その流れの中で九州を上回るほどの大勢力となった出雲が登場する

685日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:56:32.05
>>281
>綏靖天皇が師升は正解、生口160人を調達する人物<

「南≠東」で×。

686日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:57:25.68
>>683
バカはそう思い込んでいればいい

687日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:58:04.13
>>282
>投馬国は吉備であろう 出雲だと九州寄り過ぎる <

「南≠東」で、どちらも×。

688日本@名無史さん2018/02/10(土) 20:59:50.87
>>666
1万2千里をそのまま受け止めるなら
邪馬台国はパプアニューギニアにある事になるんだが

>>668
1%もありもしない事をわめくお前こそ嘘つき騙しだろ

689日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:00:49.01
>>283
>神武天皇の東征にあたっては、
九州から安芸を経て、吉備・高島宮で3年滞在し、
船舶・兵器・食糧を蓄えた後、畿内へ向かったと書かれている。
吉備の国が東征に大きな役割を果たしたことを物語っている。 <

国生み神話時代に、吉備にも植民洲を造っていたから。

690日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:01:06.43
考古学だけでは、歴史は語れない。
方形周溝墓も文化の伝播のエリアもあるし、征伐の結果のもある。

天孫降臨でも従わないナマコの口を切ったとある。
生口にされたのか、征伐されたのか。

691日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:02:57.86
九州vs畿内などない。

あるのは先住民系vs弥生時代前期末以降の渡来人系

692日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:03:21.55
弥生中期から後期にかけて世襲の権力者と呼べるような存在が現れ独自の権力基盤のシンボルである祭祀や墓制を確立する
この動きは強い個性と排他性を見せて独自の勢力の基盤としているのが分かる

ところがそれが弥生時代末期になると一気に畿内の方式に塗り替えられる
変化は常に中心の動きと連動しており独自性は殆どなくなる

世襲権力や広域連合の象徴として機能していた祭祀、墓制、祭器のシステムの一本化は、
かなり明確な政治的な意図によるものであると考えるのが自然

「前時代に確立した各地の勢力の基盤がある特定の地域の方式にいきなり塗り替えられた」
と言う点が全時代の文化のみの移動とは大きく違う
これを「何の意味もない流行」などと言う事は相当無理がある

693日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:03:23.27
邪馬壱・・・山陰〜丹波

女王・・・天橋立

邪馬・・・奈良

狗奴・・・桃太郎 の話が示しているように敵対していたのは当時の大勢力「吉備」

裸国などは能登半島と一年も離れていると、さげすんでいる

http://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/2013/12/12/image.jpg

籠神社(宮津市)の極秘伝によると、この「海部氏勘注系図」に登場する二人の日女命はそれぞれ卑弥呼与台与であるという。彼女たちはともに海部氏だったのである。

 海部氏の祖神は天火明命である。正式名は「天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギ速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)」と言い、ニギ速日尊(にぎはやしのみこと)は物部氏の祖神ニギハヤヒ命の事である。

694日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:03:42.77
>>679
へー短里ってあるんだ
証拠となる律暦史とかの史料は

695日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:04:40.05
>>691
稲作などの弥生文化の拡大は縄文人自身が主体となって広めているのが分かっている
その後も大陸にも半島jにもない独自の文化を発展させ維持している

外国人による侵略など起こっていない

696日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:06:51.56
古墳を過小評価すれば九州説が成り立つとか思ってる馬鹿には毎度笑える
言い出すことがいつもいつも間抜けで笑いしか出ない

いわく「ただの開発の残土だ」
いわく「何の意味もない流行だ」
いわく「ただの偶然だ」

呆れるばかりだな

697日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:08:20.44
国譲りで出雲も大和となったはず

698日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:09:03.03
>>284
>畿内説は1万2千里を当時魏で使われていた事が確実にはっきりしてる
1里400mで換算し、それが赤道付近になるという事が判明したら
1万2千里は邪馬台国を指してる数字とは判断しない
一方九州説はどこにも史料なしの短里を創作し 無理やり九州に当てはめた<

二組の魏使らが確認しており、
韓の「方四千里」や、
「郡〜狗邪韓國」の七千余里や、
三海峡の各幅の千余里などの、比率がほぼ合っており、
それを使って「計其道里、當在會稽東治之東」と推定した陳寿の解釈もほぼ一致しており、
これらは、
魏朝は、(長里ではなく)短里を使っていた、という証拠になる。

699日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:10:01.51
広める中心もなく
各地域で勝手に変化し
独自性を維持したまま

広がるものと

広める中心があり
各地域のそれまでの強い個性はほとんどなくなり
独自性を失う

つつ広まるものが

「同じ」だとかどこに見つけてんだろうな
まぁケチつけたいだけのバカだから仕方ないか

700日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:10:21.51
>>285
史料事実に則する九州説。
デタラメばかりの大和説。

701日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:10:39.85
纒向から大分辺りの外来系土器も出てるからな。文献に照らし合わせても、
大和朝廷に九州の勢力も噛んでいるのは間違いない。
首謀者は尾張出雲阿波だが、九州の勢力の責任も明確にしないといけないあ

702日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:12:58.01
神武東征は、大和に属さなかった地域との抗争を神話的に描いたものである

だから、日向や筑紫(境界つきるところの先)や吉備や難波が出てくる

703日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:13:20.96
纏向の主体はあくまでも大和と吉備

704日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:13:30.53
>>290
>?投馬国は玉野市玉と考えられる
?吉備国の戸数などを遠望して確認した可能性がある
玉の北側の丘陵地からであれば、吉備の様子が一望できるかもしれません。
そうすれば吉備の戸数を(概算ですが伝聞でなく実測で)記すことも可能です。
?吉備国中心部はこの時代の直前まで邪馬台国の首都だった可能性があるほどの主要な土地<

「南≠東」だから、×。

705日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:14:34.48
神武東征の宇佐も大和に属していない

宇佐は渡来人のムラだとされる

応神、神功の時代になって平定した

706日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:15:27.04
>>294
>九州の中心地は伊都国だろ、昔は奴国だった
本州の中心も吉備(神武東征時も滞在)から大和(邪馬台)に移動した<

「大和(邪馬台)」は、「南≠東」だから、×。

707日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:15:36.03
>>702
纒向には吉備も大分の外来系土器も出てるからな。
吉備も神武のモデルもヤマト征伐に加担している。
奈良盆地南部、紀ノ川沿いは神武東征の逸話だらけ

708日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:16:22.50
>>700
そういう寝言は史料事実に則してから言え

709日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:16:58.33
出雲の四隅突出型
九州の財宝を埋納した地下式の小規模墳
東海の前方後方墳

これらの独自の墓制がいきなりそれまでと全く違う形式に変化している
しかも墓形、規模、副葬品にかなり明確な規格と中央と地方の差が現れている

独自性を失い、「中央」に従う方に主体などあるわけがない

710日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:17:11.29
纒向の初期の外来系土器、尾張>出雲など山陰>吉備じゃなかったかな。

711日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:18:49.54
>>299
>その計算多分間違ってるよ
史料から魏で使われた里は1里400mとはっきりしてるんだから <

郡役人や二組の魏使らも陳寿も「短里」を使っている事になるから、×。

712日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:19:10.55
墓制だけでは語れんよ。
畿内も前方後円墳だけじゃないからな。

出雲は、大和朝廷の首謀者の一つ。

713日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:21:25.68
石、火、牛、鬼、黒。
大和朝廷の首謀者の尾張出雲系のキーワードか。

714日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:22:12.81
>>502
>5ちゃんなのだ なんでもいいのだ
解決策は主が両方とも今日中に埋めて次スレをたてればよいのだ<

5chからも、これまでに何度も何度も「投稿拒否」をされて来たから、
5chも信用して出来ないのだ。

715日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:23:05.85
むしろ出雲を語るなら墓制を欠かせない

出雲こそが「大型墳墓による地位と同盟のシンボル化」という方式を作り出した
そしてそれを広範囲に広める中心だった
ところがそのオリジナルの方法を全く違う方式に「変更させられ」「新たな中央に従う」ことになっている

神話ではないが、かなりハッキリとした畿内勢力への屈伏の表れとみることができる

716日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:23:35.10
>>698
何組の魏使らが確認してようとも
比率がほぼ合っていようとも
1万2千里を魏で使われていた事が確実にわかってる1里400mに当てはめると
赤道を越えた場所になる事実だけで全て台無し
1里400m以外の単位があったと主張するならきちんと確認できる資料を出せば
それで解決するのにしない
なぜならそんな物は存在しないからだ

717日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:26:16.34
>>711
1里400mは律暦志、正始弩尺の史料事実で証明できる
短里はそういう史料事実があんの

718日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:29:54.68
>>306
>年貢米の量とかで、倭人は自分の国を把握していた。
たが、傍国には魏の使いは行かなかったから、距離などは分からない。<

「其餘旁國遠絶、不可得詳」と「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とを、
完全に書き分けている事と、
「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」
として、狗奴國以北が女王の支配地であることを示しているから、

大体、狗奴國以北の中北部九州である、という事は判る。

719日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:30:23.73
九州バカはいつまで経っても「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」を喚くだけだな

お前らみたいなゴミは邪魔だから汚物スレに行け
そこでクソ同士思う存分汚物を擦り付けあってろ


汚物処理スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/

720日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:33:42.47
>>307
>不正確な計測だったんだねってだけだよ
なら1万2千里は邪馬台国を指しているか怪しいね<

二組の魏使らが確認した事であり、
張政らは、梯儁等の記録に拠ってやって来れた事になるから、
かなり正確な計測。

721日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:40:05.32
魏の里で合わないのは明白なんだから
魏の里は使っていないってことだよ。

短里は倭人伝の里の記載とい根拠から導き出したものだからね。
しかも隋書や漢伝にも、短里らしい記述が見られるし
周髀算経でも実際の距離を計算してみれば
短里だったんだから。

722日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:40:31.01
>>720
案内されて来たんだろうから距離が正確とか関係ないだろうよ
アメリカまでの距離知らなくても飛行機乗ってりゃ着くだろ

723日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:41:09.37
また邪馬台国の会の基地外か

724日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:41:34.48
>>721
間違ってるってほうがより明白

725日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:44:14.20
>>309
>律歴史や正始弩尺から当時の魏の1里は400mと判明している <

「尺」定規そのものの寸法は変わっておらず、
「里歩」系の寸法が、
文帝の即位の詔書での度量衡の統一指示と、
重心たちの「周制への復古」の上表で、周髀算経の度量衡が採用され、
一寸千里の法の使用や、「1歩≒1尺」に変わったのであり、
二組の魏使らの記録や、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の推定の正しさに拠って、
魏西晋朝が「短里を使用した」という事は確実である。

726日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:44:44.44
出雲まで水行十日、天橋立まで陸行一月

ご存知の通り数字は誇張が入っている

727日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:46:39.03
>>308
>距離の平均なんて出したってしょうもないから とっくに論破済み<

「比率のほぼ一致」で、短里の使用が確認されて、とっくに論破済み。

728日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:48:05.94
尾張なども東海系のS字土器や前方後方墳を失う立場

ただこの土地は少し関係が特殊で弥生時代を通じて畿内と密接な交流を見せている
後にも前方後円墳と前方後方墳が同時期の同じ場所に存在しているなど、独自性の消滅の対象とはなってない
土器の移動などを見ても敵対と言うよりも関係の近い同盟国と言う図式が想定される

ただ文化主体となるのが畿内であることと、墓の規模が常に前方後円墳が上回ることなどから主体は畿内にあると思われる
邪馬台国の前後くらいに合併吸収されていく事になる

729日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:48:23.70
>>721
岸倭人伝に短里が使われてるという事を
魏志倭人伝を使って証明するのは循環論法

730日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:51:53.60
>>725
そんなごたくを並べんでも
短里の存在を明確に示す短律暦志と短正始度尺でも持ってくればそれで解決する話
まあそんな物存在しないけど

731日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:53:21.31
>>310
>そもそも帯方郡はソウルじゃないから >>296の計算が 根本的に間違いなのだな<

そもそも、三国志や東夷伝でも、
国や地域間距離記載には、双方の最短「居住外縁部」間 の距離で記録する、
という事が確認されているから、
郡治からではなく出発外縁部からの距離であった可能性があり、
ソウルを起点にしても、否定抹殺するほどの間違いにはならない。

732日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:54:38.72
帯方郡は朝鮮半島東岸の付け根付近。

733日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:55:04.93
>>727
比率なんぞ一致してないな
ある所では50m別の所では100m
比率が一致?嘘をつくな

734日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:55:21.84
>>311
>当時は海峡の幅が測れない
三千里を計算根拠にするのはナンセンス <

一寸千里の法で簡単に近似計測できるから、
ナンセンスではない。」

735日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:55:44.43
タンリとかほざいて無理やり九州のどこに持ってこようと邪馬台国などどこにもない

九州には何もない
あるのは400年の独自文化を失い畿内の文化に塗りつぶされる属国の姿だけ

行程を屁理屈こねてどこにしようが結果は同じ

能無しの九州説はそもそも何も知らないアホだからタンリとか喚いてれば九州に邪馬台国が出てくると思ってる低能

736日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:58:07.11
全くその通り

737日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:58:20.89
投馬を玉(たま) とよむと、「玉」は山口県の山陰側の地名である。 田万川町、玉江川(萩市)、矢玉、湯玉 。
「馬」の字より、野生馬がいたのは下関市山陰側の吉母の御崎だから、投馬国は厚母 (あつも)・室津・湯玉・矢玉だろう。吉母の御崎は古くは室津の内だった。

738日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:58:43.98
>>312
>>あくまで、史料事実や史料実態を根拠にして、それからの帰納的推論であるから、
自己矛盾していない件について。<

>何が根拠だって、推論が間違ってりゃ自己矛盾こくぞ <

推論が間違っておらず、
計測値も有効数字1桁程度の概数であるから、矛盾は発生しない。

739日本@名無史さん2018/02/10(土) 21:59:59.51
>>313
この畿内説スレは、大和説にとってよほど都合が悪いようだな。

740日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:00:56.92
わざわざ論破されに来て
九州説のボロを出しまくるザラコク

741日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:01:31.35
>>314
実際もう、大和説のいろんな嘘つき騙しの詐欺は、バレてるし。

742日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:05:28.60
>>316
>残り6分の1の距離も解釈次第では畿内になるぞ
邪馬台国まで1万2千里
里数が記されてる不弥国まで1万700里
残り1300里を1里400mで換算すれば520km
北九州から畿内までちょうどいい感じ
まあ畿内説はこれを根拠にしないけど <

勿論「南≠東」だから×だし、
「残り1300里を1里400mで換算すれば520km」も、
半島や海峡の里記載との「比率」が6倍位も合わないから、×。

743日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:07:36.37
>>739
何でもオウム返しすりゃいいってモンじゃねーぞ

744日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:13:46.03
魏史倭人伝に記されてる邪馬台国は濃尾。
その後倭国の都は大和盆地に遷都され、前方後方墳は前方後円墳へと変化した。
その理由は奴国の前方後方墳文化と伊都国の円墳文化を融合させるため。

745日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:16:10.58
伊都国の円墳?

何言ってんだ゙この馬鹿

746日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:16:51.15
>>742
九州説が主張する短里自体普通の里と5倍も違ってるのに何を言うか

747日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:17:12.84
あと奴国の前方後方墳?

基地外は毎度意味不明なこと言いだす

古墳を過小評価でごまかせないとわかったら今度はウリナラ起源説か

まいど九州説の低能ぶりは笑いしか出ない

748日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:21:05.18
山口県萩市から室津半島を結んだ線上には点々と足跡のごとく神社群が連なっています。
 その連なりは明らかに他所の連なりとは趣きを異にしており、圧倒的に数が多いのが特徴です。
 それを神武東征(通称)の物語や、土井ヶ浜遺跡などの出土品とを合わせて考えますと、
 この点々と連なる神社群は古代(神代)の侵攻の記録として置いたのではないかと推察します。
 敵国の侵攻経路を神社によって大地に記録したものです。

投馬国も女王に属しているわけではなかったな

749日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:22:32.02
バカは何回言ったら理解するんだろうな

九州でも出雲でも東征なんてねーよ

750日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:23:19.44
邪馬台国の会の連中はどうやら傍観してるだけのようだな

751日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:24:06.50
>>576
>纒向が邪馬台国の中心でいいよ。

>どの勢力が邪馬台国を作ったかだな。

畿内を開発したのは九州。

752日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:26:58.76
九州は弥生時代前期から400年の間ずっと地下式の小規模墳墓の文化だった
円墳もその多くは吉備や畿内に集中していて九州の墓制ではない
当然前方後方墳なども存在しない

大型墳墓も葺石の文化もない土地だった
そこに唐突に畿内で成立発展した前方後円墳文化が流入し飲み込まれていく
こんなところに起源などない

753日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:27:00.77
>>609
平原を見れば、3世紀も九州北部が中心だったことがわかるよ。

754日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:27:56.88
>>609
畿内に移動した直後に、九州筑紫の頭越しに魏と交渉することは不可能。

755日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:29:15.62
>>616
出雲は含まないよ。
あくまでも筑紫からの東征だと記紀に明記されている。
出雲が滅んで筑紫の属州になってから100年くらいあとだからね。

756日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:29:28.44
スクナビコナは常陸から出発して因幡から亀の背中に乗って朝鮮半島へ渡り、天乃羅摩船に乗って大和へ参上した。

757日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:29:39.78
>>617
畿内説こそその典型。

758日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:31:02.69
>>753
畿内を見れば3世紀はもっと畿内が中心だった事がわかるよ

759日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:32:02.07
>>756
誰かさんとそっくりな経歴だよね

760日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:32:03.13
平原なんて2世紀の?製鏡だらけのどこにも影響を広げられずにそのまま後に続かないで終わった田舎の個人墓をいつまでも崇めてるんだか

九州のアホどもは毎度どうしようもない低能だな

761日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:32:50.65
天磐船

762日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:33:00.12
>>317
>島廻りがサギなだけ <

国内見聞移動記録は、史料事実であり、
この男が、サギなだけ。

763日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:33:08.63
>>633
倭国大乱の前も後も方形周溝墓のまま。
九州北部は、卑弥呼の前も後も墓制は変わらない。
その前後に弥生時代と古墳時代の区切りを置くこと自体、畿内中心歴史観にとらわれている。

764日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:34:48.43
>>754
直後じゃねぇんだよ
景最3年(238年)に卑弥呼が遣いを寄越したとあるから
倭国大乱(178年ごろ)から60年は経ってる

765日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:34:54.01
>>641
卑弥呼の治世ということだよ。
つまり、卑弥呼の持ち物を副葬したので、3世紀中頃に作られたけれども、中身は2世紀末の卑弥呼婆さんのもの。
年代の問題は解決。

766日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:36:11.45
>>645
独自に使いを送っていたのは後漢の頃まで。
卑弥呼の頃は九州北部が統一され始めていて、卑弥呼だけが使いを送っていた。

767日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:36:27.22
別に平原を卑弥呼の時代にしてやったって何にも変わらんがな

その頃の伊都国は周囲を庄内式土器の勢力に取り囲まれてごく狭い領域に閉じ込められた土地に過ぎない
大切にしまい込んだ鏡も殆ど?製鏡
周りに何の影響も及ぼせずにそこで完結してそこで終わる個人墓なのは変わらない
そして九州をはじめとした当時のほぼ日本全国は畿内の文化の拡大の下にある
全国の中心は纏向のある畿内

で?3世紀に墓が移動するとこれがどうして邪馬台国になるんだ?
なぁ九州のサルよ

768日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:37:19.28
>>654
>なので弥生後期の平原の物は東国勢力から
>派遣された人物の物。

はあ?
平原の副葬品リストの中のどれが東国産だって?

769日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:38:15.35
>>667
そんなものがあったという根拠がないよ。

770日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:38:57.69
近畿に強大な国家ヤマトがあっただとか、何を寝ぼけているんだ?

771日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:39:16.56
>>319
>呉もしくは遼東から三角縁神獣鏡は1面も見つかってないぞ <

誰も見つかった、なんて言っていない。
「海東」へ来たのは、戦乱を逃れた呉系楽浪鏡師たちだ、と言っている。

>むしろ魏の都だった洛陽で1面見つかってるから三角縁神獣鏡は魏鏡でほぼ決まり<

1面しか見つかっていないのなら、列島の500枚以上の出土の根拠にならないから、✖。

772日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:39:32.59
>>755
出雲勢力を支配下に置いて畿内に行った可能性も十分考えられるから
そうやって断定は出来ない

773日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:39:53.64
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

774日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:40:05.93
>>766
何寝言言ってんだお前?

九州は200年ごろには王墓も消滅して、弥生前期から400年続いた福岡を中心とする勢力も崩壊してる
鏡も小型?製鏡ばかりになり、それも王墓じゃなくて集落などで見つかるようになり秩序の崩壊がみられる
そのまま状態で「現代にいたるまで」一度も独自勢力の統合など見られない

そのような流れの中で畿内の土器、墓制、祭祀、祭器が雪崩れ込んできて独自文化を消失させていく

お前の脳内の大九州帝国なんて言う妄想はチラシの裏でにも書いとけ
アホが

775日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:40:25.99
>>684
妄想

776日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:41:44.88
>>770
お前こそ、何を寝ぼけてるんだ?

777日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:42:29.09
>>697
国譲りを受けて、筑紫が成立したよ。
記紀をよく読もうね。

778日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:43:31.30
>>702
違うだろ。
神武の伝記は、筑紫の勢力の一部が東征したんだろ。

779日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:43:56.79
>>707
邪馬台国と関係ないな。

780日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:44:13.52
>>771
三角縁神獣鏡は洛陽と日本にしか見つかっていないんだぞ
これがどういう事を意味するかわかってないようだな

781日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:45:42.24
>>715
出雲が屈服して、邇邇芸が筑紫に、饒速日が畿内に降臨したんだろ。

782日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:45:50.62
国譲り。
いつの時代か。
4世紀末〜5世紀じゃないか。

783日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:46:09.68
>>717
魏志倭人伝だろ。
東夷伝は一貫して短里。

784日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:47:24.51
>>728
年代比定がデタラメ。

785日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:47:41.95
>>733
誤差の範囲

786日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:47:55.90
>>732
根拠は?

787日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:48:30.02
>>323
>魏志倭人伝は魏の時代に書かれたもの 魏で使われていた里は現在に換算すると1里400m
なんで魏志倭人伝に出てくる里は1里400mのつもりで書いてある<

文帝が即位の詔書の「受命改制」で、度量衡の統一を指示し、重臣たちが「周制への復古」の上表をしたから、
魏朝は、一寸千里の法の短里を採用した。

>当時は距離を正確に測れなかったから記述は不正確<

一寸千里や、簡易三角測量や、記里車や、歩測や、日数からの換算で、
有効数字1桁程度の概数は、十分計測出来た。

788日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:48:56.05
>>748
>投馬国も女王に属しているわけではなかったな

その通り。

789日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:50:16.60
>>783
魏志倭人伝が短里で書かれてる事を
魏志倭人伝が証明すると言ったな?
はい循環論法でございます

790日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:50:53.08
>>325
>まあ晋だけどな 元ネタは確実に魏 短里など昭和の発明<

二組の魏使らや陳寿も「短里」を使っている。

791日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:50:59.08
>>785
2倍も違うのにどこが誤差じゃボケ

792日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:51:13.11
>>767
平原の副葬品を見ろよ。
大陸からの財宝はほぼ全て伊都にあったんだ。
間違いなく女王に届けられると書かれた財宝がね。
纒向にはこれっぽっちも届かなかった。
卑弥呼がどこにいたかわかるよな?
少しは考古学的事実と向き合おうぜ。

793日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:51:51.17
>>772
出雲は経由していない。

794日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:52:17.08
>>774
福岡から糸島に移動しただろ?

795日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:54:22.93
>>326
>倭人伝の距離は、実距離の5倍で書かれているからね。
1/5すると矛盾せずに説明できるね。<

倭人伝の距離は、計測された実距離で書かれている。
長里では、6倍位の過大な間違いになる。

796日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:55:20.80
邪馬壱 出雲〜丹波まで細長い漢数字の「一」に近い形だからか

大和 男弟が補佐して政治をおこなっている。 これが為政者、つまり天皇

797日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:56:33.30
男王が立つと国が乱れたと書いてあるだろ。
畿内説はどうして魏志倭人伝を読まずに妄想するんだ?

798日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:57:14.02
>>787
周は1里何々メートルで…と周制の里体系を示せなければ
何の証明にもならない単なるイチャモン

距離が正確に計れたら正確な地図も存在してるはずだが
そんな物見たことないや

799日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:58:10.16
>>793
八岐大蛇とかあれ出雲の話だろ

800日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:58:49.14
女王擁立後も実際に為政者だったのは弟だよ

女王は姿も見せないと言っている

801日本@名無史さん2018/02/10(土) 22:59:22.76
出雲から大和に伝承されたわけではないよ。
筑紫を経由しているんだよ。

802日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:00:08.94
>>800
弟は言葉を伝えるだけ。
名前さえ伝わっていない。

803日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:00:51.15
>>798
点と線で移動するから地図は書けないが、通過した道のりの距離はかけるよ。

804日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:01:22.47
弟=天皇
卑弥呼=祭王

805日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:01:30.32
>>328
>水行20日、と出てくるのは途中移動の説明ではないのだろうか 、<

「途中移動の説明」は、始めと到着説明の間に書かれるものであり、
「南至投馬國」の場合は、「南」と「至」の間に書かれる事になるが、
それは存在しないから、実際の移動がなかった事になり、
「水行20日」は、所要日数の説明であることになるだけ。

806日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:02:56.82
>>804
天皇制は500年も後だよ。

807日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:04:28.16
六代孝安「室秋津島宮」(御所市室)に御所があったとされるが、出雲は国譲りを受けたので、女王の行宮だったとも言える

808日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:04:55.07
>>803
書けてねえから
邪馬台国行こうと思ったらパプアニューギニアに着く事になるから

809日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:05:02.50
>>329
>1万2千里を1/5すると北九州になるから矛盾せずに説明できるってのは
循環論法だよ<

これも✖。
短里使用は、方四千里や、七千余里や、3海峡の各千余里の、
「比率」の大体の一致が根拠。

810日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:05:59.97
>>805
意味わかんない

811日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:07:40.18
>>806
初代神武天皇が6世紀ごろとな?
あらゆる史料に矛盾する

812日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:09:14.43
能登半島の能登島が黒歯国、東南にあって一年かかる、小人の国や裸の国もある

倭種は出雲の北にある隠岐の島

813日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:10:15.30
>>792
別に問題なし、平原は畿内勢力が掌握してるからな。

814日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:11:19.81
>>336
>会稽東冶が台湾あたりなんだから 議論は終わってるだろ<

会稽東冶が✖。
会稽東治で、短里である事で、議論が終わっている。

>方位は間違い<

これも✖。
ほぼ正しい。

>短里も無い<

これも✖。
長里もない。

815日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:11:22.70
中国が日本を南に傾けて描いてるのは蔑んでいるという事も言えるな

卑とか邪とか当て字が酷いもの

816日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:12:27.42
>>799
実は畿内に伝承が多いけどな。

817日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:12:30.91
>>809
魏志倭人伝に使われているだろう短里を
魏志倭人伝の比率が一致してるから使われていたとするのは
これは全く持っての循環論法

818日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:13:22.17
>>814
根拠が何もないから論外。

819日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:14:07.88
>>343
>「南」が信用ならないことは、もう常識でしょ<

これも✖。
「南≠東」は、もう常識。

820日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:15:32.07
九州説なんて妄想願望以外何の根拠もないからな。
話にもならんわ。

821日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:18:59.37
そもそもマツラへは方位すら書かれてないからな。 

方位絶対説はこの時点でアウトだからw
極論すれば向かったのは松江や出雲かもしれないんだぞ。

822日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:19:25.70
>>344
>ならそんな里の使われていた証拠持ってくれば話は一発で済む
1里400mの普通の里は律歴史、正始弩尺で存在がはっきりしている <

「尺寸」系は関係なし。
「里歩系単位と尺寸系単位」の換算の問題。

>魏にそれ以外の里があったなんて証拠は今のところ全く見つかってない<

一寸千里の使用例や、魏志の殆どの「里」記載などが証拠。

823日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:21:22.91
>>345
>それだけ畿内で決まっては困るんだろう。<

大和説は、「南≠東」などに拠って、
始めから、✖と決まっている。

824日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:22:06.03
神武東征は岡田宮で筑紫とは言えない北九州
不弥国も女王に属していないし、女王と対立していた地域という可能性が高い
何れにしても神武東征経路は全部大和の管轄外の平定物語を初代天皇の事績としたもの
日向・薩摩の熊襲・隼人なんて最たる例

825日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:24:02.29
東征とか言う考古学的根拠ゼロの伝説に頼るのか

まぁ別にいいよ
記紀をそのまま信用するってんだろ?
九州説は

じゃあ卑弥呼は神功皇后だな

良かったな
サルども
お前ら生粋の畿内論者だわ

826日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:24:37.04
奴国で境界が尽きるとは、その向こう側は隼人・熊襲だよ
大和に属しているはずも無い

827日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:28:52.03
>>816
元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。

828日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:29:12.05
>>350
>張元済が写真に撮ったものが「東冶」であって、<

>それは張元済が「修正」したんだよ。<

張元済の「校勘」の著書群には、「王朗の東治」に関する校勘の記録がない。

829日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:29:22.50
>>827
畿内で→畿内に

830日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:31:33.20
>>351
>後漢書倭伝が伝える107年に朝貢した倭国王とは神武に他ならない。
大和朝廷はこの107年に成立したのである。<

二中歴が証言する「神武即位元年≒紀元前109年」に合わないから、✖。

831日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:31:34.30
>>822
>「尺寸」系は関係なし。
>「里歩系単位と尺寸系単位」の換算の問題。


1里は1,800尺だよ。
日中の史学が確定してる。
 
 

832日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:32:35.11
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命

しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

833日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:33:01.75
九州説は脳みそのないバカしかいないな

言うことすべてが自爆テロにしかなってない
ミンシントウかお前ら

834日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:33:09.72
>>353
>まだこの地図持ってくるの?
他にも写し(島原等)が発見されて、それには日本が東西で描かれてるから、根拠にできなくなったのに
昔よりこの地図を話題にする人少なくなったでしょ<

成程。

835日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:36:14.80
>>354
>南=南だと投馬国はどうなる<

不彌國からの「側副傍線行程」の説明であった、
という事で、何ら問題は無い。

836日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:37:02.47
南向きの地図は故意に間違えてる可能性もあるけどな

黒歯国、小人の国、裸の国まで一年、百歳まで生きる、冬も裸足・・・で察しろ

837日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:37:20.67
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた倭人に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。

838日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:39:04.99
倭国は百余国あったって北九州だけで百国以上あったはずも無い

南はクマだから違うしな

839日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:39:05.53
>>355
>こんなアバウトな地図しか書けないなら
古代中国は三角測量とかで距離を正確に測れたなんてウソだわ <

「混一」作者は、実際に倭地に来ていないから、
「混一」の方が、半分×地図。

840日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:39:30.97
伊吹山の神と鹿島の鹿様(鹿島の縄文系勢力)は、倭人の恩人だよ。

841日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:41:53.99
倭国一周五千里って能登半島一周の事だろ

能登半島をとにかく馬鹿にしたかったようだ

842日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:42:28.92
>>835

インチキな発明すな

843日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:44:00.15
弟が補佐って天皇の事だと分かっていて故意に蔑んでる可能性も高いぞ

内陸(大和)まで行きたくないから出雲(邪馬壱)の女王にだけ会いに行った

844日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:45:20.91
男王を立てたが乱れて・・・中国による天皇下げの可能性高い

845日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:47:27.74
怪しげな鬼道・・・これも真実味が無い

846日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:48:09.61
邪馬台国に男王足り得る血統がなかっただけでは?
倭国大乱前の男王の血統が邪馬台国側にはいなかったということだろう。

847日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:48:18.55
卑弥呼は女王じゃなくて出雲にいる天皇の姉だった可能性もある

848日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:50:19.62
この出雲バカもいい加減しつこいな

こうやって何の根拠もない妄想を喚くバカは本当に後を絶たないな

なんて言うか頭おかしいんだろうな

849日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:55:17.98
九州説は普通そうだ

850日本@名無史さん2018/02/10(土) 23:58:58.32
双方の前線の主将は伊和大神(狗奴国・吉備国)と天日槍命(卑弥呼)ではなかったか。

おそらく天日槍命は軍務の経験はなかったであろうが、張政をはじめ中国(魏)サイドと意思の疎通が図れると言うことで任命されたものであろう。

「播磨国風土記」では伊和大神が天日槍命を但馬国へ追いやったようなことを言っている。

これが宮津市の海部系図につながる

851孝霊厨2018/02/11(日) 00:03:40.97
出雲と大和の共通項は色々あるが、忘れてはいけないのは百襲は三穂津姫の別名の可能性が高い事だね。ちなみに百襲の生誕地はヤマトの
保津辺り。またどちらも大物主に嫁ぐ天孫側の姫だからな。
そうなると孝霊天皇は高皇産霊尊になってしまう。確かに皇霊と読めない事もないが。

852日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:04:26.68
海部氏の氏神はワタツミだからな。

火明命系とは、本来関係ないからね。

神功皇后応神の時に、火明命系は倒され、海部氏が引き継いだんだろう。

853日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:10:21.94
卑弥呼が記紀に載っていない理由は天皇の単なる姉と考えれば納得がいく

854日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:12:12.67
対立しているはずの狗奴国の男王名が何故かヒミヒコ

名前聞いてないだろ

855ザラコクに告ぐ2018/02/11(日) 00:14:24.41
テンプレをよく読め
テメーの南≠東は99.9%正しいと言い張るが
それは誤写の自論

テンプレ読め 誰も誤写と言っていない

誤認なんだよ 誤認

856日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:19:51.47
くだらんなぁーー
俺去る
>>1の一人芝居だと
ようやくわかったよ
爺さん長生きしろよ

857日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:23:31.99
奈良県天理市にある石上神社に伝来している鉄剣です。その銘文の解釈については諸説あるものの、
"369年に百済王が倭王に七支刀を贈った"
との説が有力です。

一方、日本書紀神功皇后摂政52年条に、
”百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上された”
との記述があり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められています。

このことから
神功皇后摂政52年=西暦369年
が確定します。

神武天皇即位から、神功皇后の前の仲哀天皇までの在位期間846年になるので、これをたすと神武天皇即位から七支刀献上までは、「二倍年歴」では、
846年+52年=898年
となります。これを「一倍年歴」に直すと、
898年÷2=449 年
となります。

ここから、神武天皇即位年は、
369年-449 年=-80 年=紀元前80年
となります。

858日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:39:06.12
神功皇后摂政52年=史実369年=伝承252年

369-[{252-1-(-660)}/2]=-86.5

神武即位は紀元前87年ではないか

859日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:40:58.32
>>856
キウスは二度と来るなよ

860日本@名無史さん2018/02/11(日) 00:47:37.25
倭人伝
369-[{252-1-x}/2]=240  x=-7 垂仁天皇時代

倭王朝見
369-[{252-1-x}/2]=107  x=-273 孝霊天皇時代

861日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:00:24.04
記紀によると垂仁天皇と後妻皇后の「ひばすひめ」の娘である「やまとひめ」は伊勢神宮を興したことになっていて、伊勢神宮の初代の斎宮とされている。しかも、「ヤマト」という国名を名に付している。
このことは「やまとひめ」が巫女王であることを想起させる。
魏志倭人伝に「卑弥呼は鬼道に仕え衆を惑わすことができる」とある。そして、卑弥呼は中国が認めた初代の倭王である。
記紀によると垂仁天皇が兄弟に対してそれぞれが欲するものを尋ね、兄の「いにしきいりひこ」は弓矢を欲し、弟の「おほたらしひこ」は皇位を望み、弟が垂仁天皇の後継者に決まったとされる。

つまり、卑弥呼がアマテラスなのではなく、卑弥呼が伊勢に祀ったのがアマテラスだから卑弥呼をモデルにしているのだ

862日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:13:37.47
>>824
呆れて物も言えん。
畿内説は適当に妄想を吐くんだな。

863日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:14:57.35
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は筑紫が盟主となった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

864日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:16:25.97
元々ヤマトにいたカグツチ、火の神ホアカリ系。

ヤマタノオロチ退治という派手な舞台でスサノオに変わります。
その後倭人の王イザナギに切られ、尾張に追放されます。

次は舞台が暗転し、天岩戸の向こう側にいたホアカリ系のスサノオ。岩戸が開くと、アマテラスとして登場。

神功皇后〜仁徳。派手なストーリーの裏では、
ホアカリ系アマテラスが飛騨の顔が二つ、胴が一つの怪物に変身。

二つの顔は倒した相手から奪った仮面、スサノオとアマテラス。
胴は天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の神、鬼門に封じられた神、国常立神。

865日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:20:35.32
崇神天皇生誕 開化天皇10年

卑弥呼生誕 369-[{252-1-x}/2]=170  x=-147 開化天皇12年


崇神妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命) - 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)

これが臭うな

866日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:22:34.80
倭人伝は出雲の人間にしか会ってないんじゃないか
ヤマトまで行ってない可能性が高いわ
出雲の官に詔を渡したんじゃないの
日本海側しか行ってない感じだ

867日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:34:10.87
神武天皇は平定記を神話にしたもので、第二代天皇が実は初代天皇ではないかという話もあるな

紀元前660が辛酉革命説だしな

868日本@名無史さん2018/02/11(日) 01:38:41.09
綏靖即位
369-[{252-1-(-581)}/2]=-47

紀元前47年

869日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:05:04.82
神武天皇
-47 綏靖天皇
-31 安寧天皇
-11.5 懿徳天皇
6 孝昭天皇
47.5 孝安天皇
98.5 孝霊天皇
136.5 孝元天皇
164.5 開化天皇
195 崇神天皇
229 垂仁天皇
278.5 景行天皇
308.5 成務天皇
339 仲哀天皇
369 神功52年

870日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:33:17.39
安物買いの銭失い

871日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:36:10.35
>>854
いや、称号なんだって

872日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:37:03.53
>>862
畿内説じゃないだろ

873日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:48:08.02
史実の神武天皇を抹殺した津田“記紀罵り史学”の弟子達
──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、赤い古代史を粉砕しよう
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/08/133547

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

津田史学の継承者は全員、津田と異なって、共産党員や狂信的なコミュニストばかりで例外はゼロ
津田“記紀罵り史学”の嫡流的な直系弟子は、具に調査すると十名をはるかに超える。
後世への悪影響が大きかった者に限定すると、井上光貞、直木孝次郎、水野祐、上田正昭の四名が、その筆頭
津田史学を活用して天皇制廃止運動とカネ稼ぎに没頭した江上波夫は、津田史学の直系弟子ではなく、津田史学の便乗組。

今では一笑に付されて誰も信じない荒唐無稽な三文小説扱いになった、江上波夫の“お笑い狂説”「騎馬民族征服王朝説」をとりあげる。

だが、ここで一つだけ喚起しておきたい事柄がある。
江上波夫は、北朝鮮の金日成に四回も直接会いに行ったように、金日成崇拝の“北朝鮮の犬”であった。

874日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:48:54.56
>>863
ラノベ書くなよ

875日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:57:32.28
>>873
糞をいくら非難しても自分の衛生が向上するわけじゃない

876日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:58:53.44
>>839
>「混一」作者は、実際に倭地に来ていないから、
>「混一」の方が、半分×地図。

実際に倭地に来ていない陳寿の著書は?

877日本@名無史さん2018/02/11(日) 02:59:10.70
纒向遺跡の見える化事業で柱を立ててる
https://pbs.twimg.com/media/DVrY-WxUMAAj08r.jpg

878日本@名無史さん2018/02/11(日) 03:07:45.89
九州説は津田史学が大嫌いだな

879日本@名無史さん2018/02/11(日) 03:19:51.57
四角い柱のところは四角い柱にしてもらいたい

880日本@名無史さん2018/02/11(日) 03:34:53.78
御真津比売命(170?〜) 崇神天皇(169?〜)の妹。異母兄弟に彦坐王がいる。

倭姫命 景行天皇(237?〜)の妹。天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、垂仁天皇25年3月(241)、伊勢の地に祀った(現・伊勢神宮)

881日本@名無史さん2018/02/11(日) 05:48:43.33
>>356
1里≒76.5mや「南」の史料事実を否定曲解してまでも大和説に執着するのは、
トンマのやる事。

882日本@名無史さん2018/02/11(日) 05:53:24.62
>>356
>この木之本は、北陸に対する軍事上の要衝の地である。
すなわち北陸地方にあった、敵対国から守る為にである。
私は、その敵対国こそ、『魏志倭人伝』が邪馬台国と戦っていた狗奴国と考える。<

せっかく面白い情報を書いていたのに、
「南→東」の嘘つきを書いてしまったら、✖ね。

883日本@名無史さん2018/02/11(日) 05:58:33.74
>>358
「方可四百余里」や「方三百里」という国の大きさを書いた上で、
国を巡った事が書かれているのが、
魏志倭人伝の 史料事実であり史料実態である。

884日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:04:04.93
>>359
>100歳まで生きるとか、<

「魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」。

>東南アジアまで一年とか数字はいい加減だぞ <

東南アジアではなく、太平洋を渡って、縄文土器があった南米。
一年は、二倍年歴でであるから、半年。

885◆UiepmfCeDJqf 2018/02/11(日) 06:08:33.29
少々早いですが、また
一両日留守をしますので
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

重複スレは削除申請が出ていますので、使用はお控えください

886日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:08:36.61
>>361
>魏で使われていた里は律暦志、<

魏朝が実際に使った里ではなく、単なる後代史家の考えでは根拠にならない。

>正始弩尺から1里400m <

尺寸系の寸法は、殆ど変わっていない。
1里≒75mという事が史料事実。

887日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:11:01.85
>>362
>それ単に100里500里とかキリのいい数字しか出てこないって事なんじゃないの <

魏使らは、当然「計測値が大体の概数」である事を知っていた。

888日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:13:02.30
>>886
それ、史料事実じゃないだろ

889日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:14:12.19
>>364
>不弥国と邪馬台国の間には水行20日で投馬国<

側副傍線行程の説明。

>次に水行10日陸行1月の記述がはさまってるぞ <

はさまっていない。「(郡から)女王之所都」への所要日数説明。

890日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:15:37.25
>>364
>不弥国と邪馬台国の間には水行20日で投馬国<

側副傍線行程の説明。

>次に水行10日陸行1月の記述がはさまってるぞ <

はさまっていない。「(郡から)女王之所都」への所要日数説明。

891日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:18:09.84
>>366
>だが方角や位置関係が滅茶苦茶なのはこれだけではないからな。<

後代の・・・・アホは知らんが、
魏使らや陳寿は、大体正確。

892日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:20:05.40
>>367
>二代目の綏靖だろう、朝貢とみられるから消されたんだよ。<

大和は、「南≠東」に拠って、✖。

893日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:23:28.29
>>368
>何れにしても大和朝廷(現在の皇朝)の成立は107年<

何れにしても、大和は倭國の別種の旧小国であり、
「朝廷」でもなく「皇朝」でもなかった。

>57年の奴国王(博多)は無関係というのが結論
神代三代は九州東南部だからね、奴国とは全然違う<

大和自体が、「南≠東」で✖。

894日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:25:59.98
>>369
>それなら邪馬台国が不弥国のすぐ南なんて言えない事になるな<

途中の移動がなかった、という記載だから、「すぐ南」という意味。

895日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:28:13.37
>>370
>邪馬台国は7万戸
九州北部が連合して邪馬台国と言うなら国々の戸数の合計が合わない<

邪馬壹國だけの戸数。

896日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:31:47.34
>>371
>不弥国、津屋崎説(現在の福津市)を最初に唱えたのは、大正から昭和にかけて、
徳島県の脇町中学校漢文教師であった笠井新也である。<

伊都国の東百里になって、記載された「里の比率」と合わないから、
笠井もアホの✖人種ね。

897日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:39:19.06
>>373
>倭国について書かれた書なんて
後漢書隋書北史梁書…と山ほどあってその中で
大和日本国は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国、
なんて書かれてるのは旧唐書だけ <

「使節が渡来して来てきちんと計測記録した」情報よりも、
それをきちんと渡来確認せずに、後代に勝手な解釈をした高慢な史書は、
当然論拠にはならない半分×史書。
旧唐書や唐会要や新唐書は、裴清や郭務ソウらの情報や遣唐使らの説明の記録を知っている。


それを持ち出して周りを騙くらかそうとする悪質な詐欺集団九州説

898日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:42:00.63
>>897
肝心なとこミスってるぞ

899日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:43:44.33
>>382
>史料歪曲はいかんということ<

史料の客観性や信頼性の確認の、史料批判無しには、
史料歪曲はいかんということ。

900日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:50:13.41
>>383
>伊都国や弥生銀座にないんだよな<

吉武高木は、伊都国と弥生銀座の真ん中だよ。
また、天誅は、伊都国の宮殿を発掘中、と言っていたし、
弥生銀座には「大道」が数本以上あったから、当然「都としての建築物」はあったんだろうし、
安徳台も、もっと発掘されたら、おそらく宮殿が見つかる。

901日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:52:12.76
>>384
大和説者は、大和に持っていきたいだけで何の根拠もないからな。

902日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:52:35.97
何を言ってるんだ

903日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:55:45.52
>>386
>かけた瞬間トンデモ説の出来上がり<

賛成です。
計測区間の距離を、5〜6倍の巨大距離に解釈した瞬間に、トンデモ説の出来上がり。

904日本@名無史さん2018/02/11(日) 06:59:05.06
>>389
>「倭國の南境を極むや」つまり「倭国が南の境界まで(支配範囲または軍勢を)極めたとき」となる。
なお、魏志ごろの中国からの地理観では、倭国は北から南に向かって伸びていた。
従って「南界」は、実質的に倭国の勢力圏の東の境界であると考えられる。<

「南→東」の嘘つき騙しをした瞬間に、この投稿も、✖。

905日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:21:27.54
>>881
1里≒76.5mのどこが史料事実だ?このトンマが

906日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:24:16.08
>>905
史料事実ってコトバだけ知ってて
意味は知らないで喋ってるんだよ
ザラコクはな

907日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:24:48.14
>>883
島を巡ったなんてどこにも書かれてない
九州説の言う所じゃ行とか至の途中移動の動詞がないから
これが史料事実であり史料実態である

908日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:25:49.18
度量衡で定義された丈尺寸分は固定だが
それ以外は各地の定義を尊重する。
魏の里は435m
東夷には東夷の里があり、
倭人伝によると70〜90mと推測される。
倭は日を持って量るということで
不弥国以降は里ではなく日で書かれている。
日本の奈良時代で1里は533m
戦国時代から約4km

中国と大幅に違うが、現地の慣習に従い
中国からも日本国内からも
中国に合わせろという議論は聞いた事がない。

里とは、そんなもん、だったということである。

909日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:27:32.61
>>903
5〜6倍が正しいんでしょ?

910日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:30:21.24
>>908
中国がそんな単位使うかよ
皇帝権威の否定だろ

911日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:33:19.01
東夷倭国、及び日本国では、
使用する里の定義において、

過去から一度も
中国里に合わせたことがない
といってよいだろう。

912日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:33:55.60
>>908
>倭人伝によると70〜90mと推測される。

誰が、どうやって推測したんだ?

w

913日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:40:55.84
現在の中国では1里が500mとなったが、
いろいろと不便だったのか、
公里1里が1km、
欧里1里が1マイル。

要は里というのは距離の単位を表している以外は
時代や地域に合わせて変わるものなのである。

914日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:44:28.98
>>911
根拠は?

915日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:44:37.51
>>886
律暦志と正始弩尺から換算して魏の時代の1里は400m
これが文字通りの史料事実
1里≒75mは何の史料もないがな

916日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:45:33.54
>>913
単位の役目を果たせないな、それ

917日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:46:31.23
>>913
1里≒75mが使われていた音を示す史料は何も無いけどね

918日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:48:39.82
>>913
そんな里数を魏晋の宮廷で聞いて、誰が理解できるんだ?

919日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:48:54.21
>>889
魏志倭人伝見れば不弥国と邪馬台国の間に水行20日…と出てくるよ

920日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:49:44.37
>>894
水行20日陸行1月

921日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:50:10.93
要するに、九州説は邪馬台国の位置を
いいかげんな方法で決める
ということですな

922日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:53:12.47
日本では中国里を使ったことがないというのは面白い

923日本@名無史さん2018/02/11(日) 07:58:08.37
倭人伝では一里400mを使っていないのは明白だからねえ

924日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:09:09.75
>>923
根拠なし

925日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:10:57.91
>>923
使ってるだろ

926日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:27:18.67
倭人伝の数値が不正確って事は明白だからねぇ

927日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:29:25.78
数値が不正確なのを、未知の単位があるんだって考えるのが
逆転の発想

九州説は逆転しすぎで根拠レス

928日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:39:19.90
伊都国から奴国の100里って、たぶん1里=約400m使ってるよな

929日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:57:24.92
初代天皇である神武天皇は、紀元前660年2月11日に即位され、
前585年4月3日に享年127歳で亡くなられた.

「前660年2月11日」は、日本書紀に記されている即位年月日の太陰暦「辛酉年春正月庚辰朔」(前660年1月1日)を太陽暦に換算したものである.

神武天皇の即位月日「2月11日」が祝日法で規定された祝日「建国記念の日」であり、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日である.

930日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:06:32.70
神武天皇は邪馬台国で即位したんかな

931日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:14:49.20
【鬼道と神道】

伊都国にあたる平原遺跡からは最大の銅鏡である八咫の鏡5枚を含む史上最多の40枚の銅鏡と、太刀と約2000個の玉、鉄器などが出土しており、三種の神器に相当する副葬品(鏡、剣、玉)が揃って出土している。
3世紀で最大の倭国の王位を象徴する八咫の鏡を用いた国家規模の祭祀に倭国の女王である卑弥呼が関わらなかったわけはない。
周囲には鳥居や御柱の跡も残っており、古代神道の形式が整っていたことがわかる。
これは3世紀においてすでに倭国には神道があったことを意味している。
ならば卑弥呼の用いた鬼道とは、中国人から見た神道そのものだったはず。
邪馬壹国は鬼道などの言葉の印象が強いため後進国のように思われがちだが、中国人から見た鬼道とは、神道の儀式を指していたと考えられる。
そして、その祭祀は畿内ではなく伊都で行われていた。

平原遺跡から出土した八咫の鏡の形式である内行花文鏡は、もともと紀元前から博多湾岸では多く出土し、漢の皇帝から王侯に冊封された証である威信材として用いられていたと考えられる。
内行花文鏡の文様は太陽を形取っていることから、天つ神としての太陽信仰の象徴として最適であったと考えられる。
漢の滅亡後に作られた平原遺跡では八咫の鏡を含めほとんどが国産の鏡となっており、漢から下賜された鏡よりも大きな内行花文鏡を完成させることで王権の象徴となったと考えられる。
後世においては、八咫の鏡を継承することが天皇位の証とされ、今日でも伊勢神宮と皇居で1枚ずつ祭られている。

932日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:15:52.74
>>928
東夷伝全体で一里は100メートル未満。

933日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:16:43.87
>>918
だから気になって日程を併記したんだろう。

934日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:16:58.54
また八咫バカが阿呆コピペ貼りか

935日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:17:56.84
>>912
自分で地図と見比べて計算しろ。
小学生でもできる。

936日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:19:26.68
>>933
中国人はトンデモ読みしません。

937日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:21:10.18
奴国の南の狗奴国って明らかに宇佐とかあのへんの渡来人の村だよな

938日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:21:15.21
>>935
ほら、説明できない


無能者のホラが露見した

939日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:25:44.14
宋版「大平御覧」の「倭人伝」では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。 今日、出雲の人は出雲を「エヅモ」となまって言うから、 この時代もそうで、中国人はそれを聞き取ったのかもしれない。

また、投馬国の官名が異彩をはなっているのも注目だ。彌彌(ミミ)と彌彌那利(ミミナリ)である。実は、この「ミミ」がつく名称は、記紀では、出雲系や神代系に多く登場する名前である。

これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる。

出雲神話は、日本神話の中での比重が高かったりし、古代から日本海航路の重要な港として栄えた地である。人口が5万余戸や、中世以降の諸侯の勢力範囲から想像して、
魏志倭人伝の時代の出雲の勢力は、出雲、石見、伯耆、因幡などの山陰地方の大半を勢力圏としていたのかもしれない。

940日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:46:25.24
改めてみても九州説なんて支離滅裂な解釈しかしてないよな。
理屈も自画自賛的なもので根拠が皆無だし。

941日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:55:39.27
>>937
また南を東と読み替えるのか。

942日本@名無史さん2018/02/11(日) 09:57:18.78
>>941
読み替えないとテンプレにある

943日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:00:31.80
>>940
あらゆる分野の少数説を集めて
我流解釈を加えたのが
九州説

944日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:14:54.80
>>941
読み替えられた瞬間終了する九州説
読み替えなくても平気の畿内説
勝負あったな

945日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:16:08.49
会稽東治之東なんだから
南は東の間違いで確定だよ

946日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:21:59.89
>>895
前は邪馬台国は九州北部の国々の連合で
伊都国が中心だなんて言ってたのにコロコロ変わるんだな

947日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:25:42.90
>>903
魏志倭人伝の里は実際存在した里より5分の一の根拠が
魏志倭人伝がそう書かれてるからというのは
循環論法に当たります

948日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:28:09.37
>>908
里とはそんなもんだっただろうけど
記録を残したのは魏だから書いたものは当然魏の里で書かれてる

949日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:50:38.42
>>948

魏の里で一致するところが無いよ

950日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:52:16.50
>>949
という証拠は?

951日本@名無史さん2018/02/11(日) 10:56:58.78
>>946
多分
邪馬台国(北部九州連合)=7万戸の意味でしょ
その中での京が伊都国
投馬国5万戸は別国(別連合?)

自分的には邪馬台国は北部九州で、投馬国は日本海側の出雲連合説に一票

952日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:01:21.51
>>951
二重帳簿かよ

953日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:05:18.91
漢文読めない奴が九州説になるのよ

954日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:05:52.13
山台・・・御所南PA

955日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:10:57.00
>>953
原文を読んでない奴が畿内説
いい加減な訳本しか読んでない。

956日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:14:54.04
>>939
神武系もミミ。
投馬国は、宮崎鹿児島。

日本海ルート、瀬戸内海ルートは、敵対勢力の攻撃を受けずに安全に移動できた根拠がない。

957日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:15:35.86
出雲も尾張も九州南部も縄文系はミミ

958日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:16:39.23
>>955
証拠は?

???

959日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:16:48.79
中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」

古代からミミとミミ無しの争い。
縄文系vs渡来人系

960日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:18:21.78
>>955
漢文のプロが訳した本に準拠したら
九州説なりたちません

笑)

961日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:22:23.16
>>949
それがどうかしたのか
当時の計測は不正確だったという事実が明らかになるのみ

962日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:26:29.75
大和朝廷はミミ系縄文系の政権。
関東東北を含め全国を征伐して回ったのは彼らですよ。

963日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:28:15.96
>>951
九州北部連合だと戸数の合計が8万戸になるよ
投馬国抜きなら3万戸
不明な国々の合計が4万戸なんて都合のいい数字創設するなよ

964日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:28:43.45
>>955
お前達の原文は邪馬台国の怪編纂本じゃないの?

965日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:31:13.51
>>951
典型的なご都合主義、呆れて物が言えないぞ。
行程パズルにも程があるなw

966日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:33:56.37
邪馬台国が九州北部連合なら
邪馬台国は7万戸なんてわざわざ書かん

967日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:43:53.15
>>961
魏の里使ってる根拠がなくなるよ。
実際、文献では日本が魏の里を使ったことはないし。

968日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:47:44.95
倭女王の都がある国が邪馬台国なのだと
倭人伝に書いてあるのにね
九州説の史料無視ぶりは
実にひどいな

969日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:48:52.37
>>967
別になくならんが

970日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:50:47.25
>>967
どうして根拠がなくなるの?

魏の時代に魏の人が行った場所のことを
晋の人が書いているのに

971日本@名無史さん2018/02/11(日) 11:59:06.16
くもにそびゆるたかちほのろっこーおろしにくさもきもーなびきふしけんなんたらかんたらーたのしけれ♪(うろおぼえ
じじいども今日くらいは旭日昇天の旗かかげれ(ひのまるでも可
んで邪馬壱の場所きまったんかー?

972日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:00:09.05
祝!狗奴建国の日

973日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:05:41.54
>>646
面白そうな話やね?

974日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:07:34.02
>>967
なんで無くなると思うのか
理由が知りたいな
九州説の人は、いつも理由を言わないから

975日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:08:11.90
孝霊さんの奥さんに大倭ゆーひといましたな
鳥取で知りおうたんやろな?
おおやまとちごてタニハやろな

976日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:11:47.21
お?
東夷伝里のことでもめてるんやな?
周旋5千里は400m
それ以外は100m弱
当然測量精度で多大な誤差はある(解決

977日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:13:26.57
九州説は滅んだ

978日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:14:21.66
どちらかと言えば、
祝!クナ改め日本建国記念日。

979日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:14:29.75
まー100m弱の資料を陳寿君が丸写ししたんやろ?
但し陳寿君はその資料が1里400mと思てた

980日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:14:31.18
九州説は脳死した

981日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:15:14.11
>>965
正解なんてわからないのが現状
方位+目的地+距離の部分を放射的に読めばいいだけ。

日程記述の部分は直線的に読む根拠が乏しい
岩元正昭説では不弥国の「行」の字で行程終了を示す

その後はまた郡からの説明になる、を事実無

982日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:16:00.77
>>978
神武さんが乗っ取った派ですな?(わえはそこは保留します

983日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:17:33.51
神武天皇は大和で即位したんじゃなかったっけ

984日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:18:06.64
神武は単なる天武系の謂れ。

桓武天皇〜関係ない。

985日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:18:50.03
>>979
そんな史料が見つかったらいいけどな
見つかってない以上は根拠にできないな

986日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:19:06.73
>>981
誰、それ

987日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:19:57.87
>>981
事実無根

988日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:20:35.98
981だが、すまん間違え

>>965
正解なんてわからないのが現状
方位+目的地+距離の部分を放射的に読めばいいだけ。

日程記述の部分は直線的に読む根拠が乏しい
岩元正昭説では不弥国の「行」の字で行程終了を示す

その後の日程記述はまた郡からの説明になる

これも一説に過ぎんが

989日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:20:59.67
>>981
根拠が乏しいって言い換えれば九州説に都合が悪いって事だろう

990日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:21:14.92
九州説は妄想で出来ています

991日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:21:39.48
>>660
出雲説が現実味を増してきましたな(マジで

992日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:23:33.32
日程記述はまた郡からの説明だとすると
里程部分に出てこなかった投馬国が急に出てくる事になるなるんだけど

993日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:23:39.48
福岡の卑弥呼さんの親戚に山陰の壱与ちゃんがいた(解決

994日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:26:33.74
倭国は日本海交易集団!
狗奴は彦根の陸運会社!

995日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:28:46.35
旭日昇天の旗は五輪では不可(やばいらしー

996日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:29:16.96
九州説では投馬国の説明がどうやっても不自然
投馬国様様やでぇ

997日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:29:38.85
次スレURLぷりーず^^

998日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:31:49.72

999日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:32:01.08
おかやまの親戚に連隊旗あったのー

1000日本@名無史さん2018/02/11(日) 12:32:05.84
>>988
東西南北列挙でない放射式なんて
類例あるのか?

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