邪馬台国畿内説 Part326
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518630290/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 鏡は全部棺外だな
玉類も棺内から出たわけじゃないけど
攪乱した井手さんも記憶がなかったから
棺内にあったことにした >>438
同じ地域の三雲南小路遺跡などから
さらに隣りの福岡市奴国も合わせれば大量の
後漢期の方格規矩鏡があるのだから、
伊都で仿世鏡を作るのならば出来の良いものを見本にするだろう。
少なくとも文字の配列などは特にな。 洛陽晋墓から方格規矩鏡が出土しているのだから、洛陽には晋の時代まで方格規矩鏡が存在していた。
洛陽からの学術出土ゼロで、日本での副葬位置も他の鏡より低位の仿世鏡とは本来比べる事すらおかしいわけだ。 銅鏡で邪馬台国が分かるのか? あほかおまえら いつまでやってんだ 青龍3年の方格規矩鏡が出ているんだから
少なくともその時代以降に
作られていたってことだね。 >>742
>>「1世紀の中頃より繰り下がらない」という事が、そもそもインチキ。<
>これを主張したいのなら、「根拠」をつけてどうぞ
九州説の人間は「インチキ」とかの言葉の勢いだけで「根拠」がない <
21枚もの「尚方作」の方格規矩鏡が一か所から出土した事の考察がない。
>「鏡の考古学」http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmは読んだのか?
ここに書かれていることのどこがおかしいのか、「根拠」をつけて論証できるのなら
その時はじめて「インチキ」って言っていいよ <
洛陽漢墓や洛陽晋墓での21枚もの「尚方作」方格規矩鏡の出土の有無や考察がなされていない。 >>743
>>明帝は、卑弥呼や倭人が鏡をお宝ものにしていた事を知っていたから、
>>造り置きの 「尚方作」鏡や、民間から集めた鏡を集めて、100枚に揃えた。<
>この妄想加減がすごいね!!! 卑弥呼の朝貢は、その前の倭国王・帥升等の朝貢(西暦107年)から130年もあと
その間倭国からの朝貢は一切ないのに、将来朝貢に来る卑弥呼が鏡が好きだと予想して
鏡を造り置きするなんて、少し考えればというか考える前から「論理が破綻」しているのが
分かるだろうに
魏の皇帝の下賜品は、魏の皇帝の権威を示すものだからピカピカの新品を
新しく作って持たせるに決まってるじゃないか <
新しく作るんなら、同じものを100枚揃える事になる筈であるのに、
バラバラであったりチグハグになっているようだから。
難升米らは6月に郡に到着していて、それから洛陽へ送って貰ったのだから、
最も早くて(4か月の)10月頃の以後に洛陽到着であり、
100枚全部を新たに鋳造する事は、困難。
>「?。」って、クエスチョンマークの後ろに句点を打つのも
日本人ならおかしいと思わなきゃいけないし<
変な男。
60歳でPCでの投稿を始めた時に、?が挿入された文を読んで、
文がそこで切れるのか?繋がっているのか?が非常に判り難い、という事が判ったから、
区別が判り易いように、「。」や「、」を付けて区別するようにしただけの事。
三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
ばたばたと新しい鏡を作った様子を反映していると考えると一番整合性が取れる >>744
>魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね<
「東南」は、(目的地方向を示すのではなく)、
出発時点での出発移動方向を示しているんだから、間違っていない。
>魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、
後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね どちらかは間違いだね<
後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
真偽判断が出来ないので、根拠にならない。
>隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね <
これも説明済み。竹島済州島方面から来て、対馬には立ち寄らずに、
その南海上を(対馬の東南方向の)壱岐に向かった事になるから、
(南ではなく)「東」でぴったりであり、間違っていない。 >>443
>青龍3年の方格規矩鏡が出ているんだから
何度も紹介している「鏡の考古学」では、
その青龍3年鏡の考察が一番の読みどころだぞ
鏡の形式からして、青龍3年に大陸で作られた舶載鏡と
いうのはあり得ない、というのが結論
それに龍の字が異体字で、この字体が使われるのは
北魏の時代、つまり卑弥呼の時代よりもあと(この部分は
鏡の考古学にはないけれど)
まあ、何百年も後の倣古鏡ってことだね
これをもって、魏晋代に方格規矩鏡を作っていたと
主張するのは無理 >>409
>何をどう勉強したらいいのか「根拠」とともにはっきり書いて欲しい 。
まず漢文の読み方
高校で習う程度でいいから、高校生向けの参考書を買ってきて勉強しなさい
根拠1 漢文がまったく読めてない
次、論理学
高校数学の範囲の形式論理でいいから、高校生向けの参考書を買ってきて、以下(ry
根拠2 前提を無視した立論しかしていない
次、日本史の基礎
高校の日本史程度でいいから、高校生向けの(ry
根拠3 日本史についての常識がなさ過ぎる
要は高校生にも劣る知識、常識、論理性しかないから
まずまともに話ができるレベルまで勉強して!!
自分で教えてくれ(書いてくれ)って言ったんだから、ちゃんとやれよ!! >>446
>出発時点での出発移動方向を示しているんだから、間違っていない。
その出発方向を含む経路を示せって前スレ389で言われてるのに
「ある」としか言ってないだろ
ごまかすな
通過点を現在の地名等で、5点程度示してみろよ
あり得ない経路を出してくるんだろうなと楽しみにしてる
さあ、レッツ恥さらしプリーズ!!
大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、
起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本
大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を
用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ
例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、
どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ? >>450
>大彦って、東征将軍そのものだろ。
ああ、そうだな
「大和の巻向に都を置いた」「御真木入日子印恵命」が派遣した将軍だな
その「御真木入日子印恵命」の伯父の皇族将軍で、九州とはなんの関係もない将軍
こんなところまで背乗りしようとするから、九州説はたちが悪い >>446
>後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
>真偽判断が出来ないので、根拠にならない。
じゃあ、其山有丹が後漢書で其山有丹土になってるからベンガラが正しいとか
後漢書で大倭王は邪馬台国にいる。 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
と今後一切言うなよwwかを >>446
>これも説明済み。竹島済州島方面から来て、対馬には立ち寄らずに、
>その南海上を(対馬の東南方向の)壱岐に向かった事になるから、
>(南ではなく)「東」でぴったりであり、間違っていない。
これはただの妄想で、なんの論拠にもなっていないって教えただろうが
「經都斯麻國」迥在大海中とはっきり書いてあるんだから、
「対馬に立ち寄らず」とは読めない
漢文の読み方を勉強しろって! マジで!
それに「歴韓國」なのに、水行が海岸じゃないのがおかしいとか、
バカなこと言ってたのにダブスタもすごい! >>445
>三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
景初四年鏡が魏で作られることは100%ないよ
こいつはダメだな >>447
>鏡の形式からして、青龍3年に大陸で作られた舶載鏡と
>いうのはあり得ない、というのが結論
論破済
お勉強が足りません >>447
>これをもって、魏晋代に方格規矩鏡を作っていたと
>主張するのは無理
魏晋代の方格規矩鏡は普通に中国で出土しているのでね >>441
後漢末は帝王陵の盗掘が盛んだったんだよ
多くの宝物が売り払われた
時代のバラバラな鏡が納められている洛陽晋墓の喪主は
市場に出回った古鏡をかき集めたのだろう 「方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡、これらはすべて後漢の鏡ですが、魏晋の時代に入ってもそのまま中国の北方
で流行していました。ただ、様式的にはいくつかの変化が現れます。たとえば方格規矩鏡の文様はより簡略化され、内行花
文鏡の鈕座は多く蝙蝠の形をとるようになり、また獣首鏡の文様も全く獣首らしくなくなりました。」
「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・鳳鏡
・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。 従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いまあげた
一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、
以上の五種類のものである可能性が強いのです。」
(徐苹芳『三角縁神獣鏡の謎』) >>467
三角縁神獣鏡は、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡である可能性は高い 何年位置論争しているんだ?
邪馬台国大和説前提で、掘り下げていったらいいんじゃないかな。
名無しの歴史を語って、面白いか? >>437
倭国大乱後だよな。
その後の倭王は卑弥呼なんだが。 >>443
>青龍3年の方格規矩鏡が出ているんだから
>少なくともその時代以降に
>作られていたってことだね。
つまり平原遺跡の年代は卑弥呼の治世だよね。 >>447
もちろん、そのとおりですね。
しかし、日本では青龍三年以降に
方格規矩鏡が作られていたことを示します。
つまり、方格規矩鏡が出た古墳を
一世紀に比定しなくて良くなるわけですね。 >>447
>それに龍の字が異体字で、この字体が使われるのは
>北魏の時代、つまり卑弥呼の時代よりもあと(この部分は
>鏡の考古学にはないけれど)
つまり、平原遺跡は卑弥呼より後の年代だと言いたいのかな?
畿内説はよくもまあ、平原遺跡が卑弥呼より前だとか後だとか、コロコロと言うことを変えるよね。
平原遺跡が卑弥呼の治世に作られた鏡が副葬されていると認めるのがよほど嫌なんだよな。 日本産の方格規矩鏡でも
青龍三年前後に作られていれば
卑弥呼の時代にかなり近いですね。 >>472
>つまり平原遺跡の年代は卑弥呼の治世だよね。
青龍三年銘鏡に見られる、龍の字は右側の旁が「大」や「犬」という特殊な書体の異体字になっている。
そして、この書体は4・5世紀北朝の北魏、東魏、西魏にならないと出てこない
つまり、青龍三年銘鏡は卑弥呼の時代から100〜200年もあとになって作られたってこと
つまり、仿製鏡の方格規矩鏡の制作年代は、なかなか決めがたいってことだよ >>477
>青龍三年銘鏡に見られる、龍の字は右側の旁が「大」や「犬」という特殊な書体の異体字になっている。
>そして、この書体は4・5世紀北朝の北魏、東魏、西魏にならないと出てこない
これは根拠がない >>445
>新しく作るんなら、同じものを100枚揃える事になる筈であるのに、
>バラバラであったりチグハグになっているようだから。
100枚も作るからばらばらなんだよ
後漢代には、普通に使う鏡は小さな鉄鏡になっていた
面径の大きな銅鏡は、基本的に作ってないんだよ
そこへ、皇帝から倭国へ下賜するから100枚作れと言われて
複数の工房で一斉に作ったと考えるのが妥当
古い鏡を、骨董市で100枚買い揃えるより楽だろ?
王宮に古い鏡をストックしていたはずもないし
論理的に考えるってことができない人だからしょうがないんだろうなww >>445
>100枚全部を新たに鋳造する事は、困難。
自分でも困難って分かってるじゃないか
でも、皇帝の命令だから、作らなきゃいけないんでばたばたしたんだよ
テンプレに書いてある状況そのままじゃないか >744
>旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど 実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ どうしてだろうね?<
勿論、「四至」表現での位置説明文だから「大体」であり、おそらく「東南≒東」。
成都の西南2400里の場所から安南に行くには、東へ向かって2400里通水陸行すれば至れる、
と言っているだけ。
>探せばまだまだいくらでもあると思うよ 大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね
否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww<
勿論、旧唐書は、魏志倭人伝とは違って「使節らが実際に行程した記録」ではないし、
倭人伝の方向間違いを指摘するんなら、
三国志の記載で魏の役人らの実際の行程記録を根拠にすべし。 >>479
>これは根拠がない
「青龍三年」「画像」でググってごらん
いくらでも、出てくるから
例えばこれは九州説(伊都国説)の人のページだけど、青龍三年鏡の書体について詳しいよ
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/himikaj.html >>482
>勿論、「四至」表現での位置説明文だから「大体」であり、おそらく「東南≒東」。
同じ文章中に「東北至成都」って書いてあるだろ?
自分でも引用している範囲内にあるぞ
八方位なのは明確だから『おそらく「東南≒東」』なんていう戯言は通らない
漢文読めないのに、あれは正しい、これは間違いって
自分の都合で恣意的な解釈をしているから、まともな論証ができないんだよ
大陸の史書は、普通に方角を間違う
これだけのことがなぜ分からないんだろうね
まあ、九州説を成り立たせるために
すがるところがそこしかないってことなんだけどな
どんだけ脆弱なんだよ? 九州説の基盤は?ww >>746
>全国に覇を唱えて、大和の大王中心の王権をほぼ確立したのは
雄略天皇大泊瀬幼武尊、大長谷若建命の頃からだろう
万葉集の最初の歌が雄略天皇の御製であることからも、雄略天皇の御代が
大和王権の重要な画期だったことがうかがえる <
大和が盟主になったのは白村江の後の701年だから、×。
>まあ、全国に定型化した前方後円墳が作られ始めた時=纏向遺跡が
崇神天皇の都=邪馬台国の都だった時から、前方後円墳を作る範囲の
「盟主」(支配者ではない)だったのは確かだけどな<
大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国であり、
倭國の東征のお手伝いをしたに過ぎない。
>「根拠」一つ付けられずに、「論理的」な論証もできず、
「詐欺師」とか汚い言葉で論敵をののしることしかできないって、惨めだよなぁww <
史料事実を否定曲解する嘘つき騙しばかりで、
「根拠」一つ付けられずに、「論理的」な論証もできず、
「詐欺師」とか汚い言葉で論敵をののしることしかできない大和説者って、
惨めだよなぁww。 >>484
つまり漢字をあまり知らない工人がまねて造ったということだね
それがたまたま4・5世紀に出てくる書体と整合しただけと >>746
>>問題の前方後円墳も、晋の武帝らから「天円地方」の埋葬を教えられなければ、
那珂八幡付近に突然発生する事もない。<
>前方後円墳が「天円地方」の思想(≠埋葬法)をもとにしているっていうのは、
よく言われることだけれど、誤解の産物なんだよね
正しい「天円地方」の陵墓は、昭和天皇の武蔵野御陵のような、下方上円墳になる
方形の基壇の上に円墳が乗るのが正しい
古代でも、天武・持統合葬墓の頃にはこの形になる
まあ、天武・持統合葬墓の上部は八角墳とも言われているけれど <
武帝らの教えは、南円北方であったし、
筑紫に伝わったのはモンゴル〜高句麗の前方後円墳モデルであった。 >>749
>珍しい九州説だなww
前方後円墳の時代=古墳時代には、倭国の盟主が畿内にいる大和王朝なのは
誰の目にも明らかだから、<
大和は、白村江の後で母国の筑紫倭国を併合吸収継承して盟主になったんだから、×。
>「邪馬台国は弥生時代」って言い張るのが普通の 九州説なんだがww<
前方後円墳から古墳時代とするんなら、那珂八幡などからが古墳時代であり、
だから、卑弥呼は弥生だ。
>その那珂八幡古墳の第一主体部でお宝が見つかるといいね
畿内では纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の初期古墳だけで
那珂八幡古墳より大きいのがいくつあるんだろう
大王どころか畿内の序列10位くらい(適当)でも那珂八幡古墳よりは
でかい古墳を作ってるぞ<
幾ら考えても、
箸墓以前の大和の初期の前方後円墳群は、
大和は、筑紫の倭奴国から別れた別種分家の旧小国であったんだから、
筑紫の那珂八幡などの真似事にしかならない。 平原1号墓が卑弥呼の墓っていうのは
「大作冢徑百餘歩」だけでムリって分かりそうなものだがな
それでもこれだけグダグダいうのは、九州説を成り立たせるために
すがるところがそこしかないってことなんだけどな
どんだけ脆弱なんだよ? 九州説の基盤は?ww >>492
「大作冢」
大いに冢を作った、大きな冢じゃないね
「徑百餘歩」
徑とは歩道のこと、冢に通じる歩道が百餘歩の長さだった
http://www.zdic.net/z/19/sw/5F84.htm >>473
>つまり、方格規矩鏡が出た古墳を
>一世紀に比定しなくて良くなるわけですね。
方格規矩鏡でも、周囲の鋸歯紋等の形式での分類、編年があって
その形式分類でも、青龍三年銘鏡は、ある意味異端なんだよ
規矩の「L」字が逆(裏文字)になってるとか
古噴出土鏡については、舶載鏡の伝製鏡ってこともある
方格規矩鏡といっても、仿製鏡で破鏡されてるっていう点で、
平原1号墓は他と状況が違うし、鏡による編年は難しい
舶載鏡を基準にすれば、前漢鏡(漢鏡3期)、後漢鏡(漢鏡5期)が1枚ずつで
卑弥呼の頃のものがまったくないことから、倭人伝で魏皇帝から
銅鏡100枚を下賜された卑弥呼の墓とするのは難しい
方形周溝墓であること、割竹型木棺であることなど、
墓そのものの形式からすると、あまり新しくはしにくい >>493
>徑とは歩道のこと、冢に通じる歩道が百餘歩の長さだった
前もその愚にもつかない言い訳してたけどさ、
その歩道の「基点」は何処だい?
だいたい墓の様子を記述するのに、「歩道の長さ」を記述する必要性が何処にある?
歩道が長いと、大いに作ったことになるとでも言うのか?
大陸の史書「二十四史」に、墓の歩道の長さを書いてある部分が他にあるなら
出してみてくれ >>491
>別種分家の旧小国であった
なら、なぜ前方後円墳の大きさの階層秩序がいつの時代でも
常に畿内がピークになるピラミッド構造なんだろうね? 割竹型木棺
古墳時代前期、とくに出現期からみられ、さらに弥生墳丘墓からも検出されることがある。
本来は竪穴式石室もしくは竪穴式石槨に納めたものと考えられるが、古墳時代中期中葉以降、
粘土や礫で包んだり(粘土槨・礫槨)、木棺を直葬(直接、墓壙に埋葬)する場合もあった。
なお、竪穴式石室が割竹形木棺を内包する埋葬施設であったことを解明したのは小林行雄であり、
今日でも出現期古墳における「定型化」の一要素として割竹形木棺が掲げられることが多い。 >>482
>勿論、旧唐書は、魏志倭人伝とは違って「使節らが実際に行程した記録」ではないし、
あー、歴史を知らないとこんなにもトンチンカンなことが書けるんだ
唐は、ベトナム北部まで領土かした大帝国
陽苴棟驍ゥら安南までの経路は「唐の国内地理」だぞww
使節が訪ねていく場所じゃなくて、唐の役人が直接治めているところ!
そんなんでも、間違うんだよ >>482
>成都の西南2400里の場所から安南に行くには、東へ向かって2400里通水陸行すれば至れる、
と言っているだけ。
一度、グーグルマップでも何でもいいから、地図で見てごらんよ
現代の比定地もちゃんと書いてあるだろ?
それで地図を見ると、>>482がどれだけバカなことを書いているか
よく分かると思う
ただなぁ、「侏儒國は、エクアドル」とかいうやつだから、
何を言っても通じないんだろうけれど >>495
勅建浄慈寺志
「?丙子十二月初七日世壽五十有二僧臘三十有七坦性慈衷穎才實行惟法是荷惟壽祖是宗自度度世動行
弗懈纓綏逢掖緇素之流無不人人景附禪定餘陝燵E翰墨書畫?入能品所著永明道跡?詠放生詞?山詩遷塔詩
若干卷傳于世法嗣用荼毘法塔于 方墳之左徑百? 依永明也惠?樸質有戒行乞銘諄切因所?爲銘
曰永明正傳粤惟宗鏡惟師明心慧日交映胸羅典册妙義激揚導愚照智發無量光法派燈傳委蛻雲封塔?澄漢?蒭景」 >>475
>日本産の方格規矩鏡でも
>青龍三年前後に作られていれば
>卑弥呼の時代にかなり近いですね。
それより後で次の倭王はもう卑弥呼だからね。
それだけで卑弥呼の所有していた鏡であることが確定かもね。
どこで製作されたかに関わらず。 >>758
>最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、
忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。<
「最終的に後十二月として閏月扱いとなる」としたんなら、
それは「景初三年の後十二月」になるのであって、
「景初四年の後十二月」ではなく、
従って、「景初四年」という年は存在しなかった。
>景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、
景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、<
分裂幻覚の妄想。
>従来より考古学者が推定する所の、
相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作された
という三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。<
当然、明帝生存中の景初二年十二月に詔書が出されたんだから、
その時点で銅鏡100枚は容易されていなければ詔書も出せる筈もなく、
景初三年以後の銘文鏡は、明帝下賜鏡としては、×。 八女古墳群
5世紀から6世紀の古墳が多いが、
厳密には4世紀前半の方形周溝墓から7世紀前半の円墳までが見られる
畿内の影響が届くのが遅かった地域は、4世紀頃まで地域の首長墓が
方形周溝墓のまま4世紀半ばまで残る
平原1号墓という方形周溝墓を、無理やり卑弥呼の墓にあてなければ、
ただのローカル首長墓だと分かるだろうに >>503
>当然、明帝生存中の景初二年十二月に詔書が出されたんだから、
>その時点で銅鏡100枚は容易されていなければ詔書も出せる筈もなく、
それ、なんの根拠もない >>494
>平原1号墓は他と状況が違うし、鏡による編年は難しい
そうは言っても、それをれやらないと。
璫などは魏代の流行とされているね。
でも他との相対的な比較は難しい。
2世紀前半に超大型内行花文鏡は作れないよね?
なら超大型内行花文鏡が作られたのは倭国大乱より後であり、平原遺跡は卑弥呼の墓とするのが妥当だよ。 >>493
>大いに冢を作った、大きな冢じゃないね
大いに作ったものは大きいだろ、常識的に
ここは笑うところだな >>495
後漢書、志第七 祭祀上、光武即位告天
「為周道列望之外,徑九?。卿望亞列望外,徑四十?。壇廣三丈,高二尺。」 >>504
>畿内の影響が届くのが遅かった地域は、4世紀頃まで地域の首長墓が
>方形周溝墓のまま4世紀半ばまで残る
>平原1号墓という方形周溝墓を、無理やり卑弥呼の墓にあてなければ、
>ただのローカル首長墓だと分かるだろうに
九州北部のローカル国が倭国であり邪馬台国なんだよ。
そして4世紀末に神功皇后により攻め滅ぼされ、応神朝へと移行した。
ぴったりだろう。
伊都国は2世紀で衰退したとかボケたことを言う畿内説がいるが、事実に反した主張だということがわかったかな? >>507
>大いに作ったものは大きいだろ、常識的に
笑ったwww
常識を身につけてから書き込めw
goo辞書
「大いに」
[副]《形容動詞「大いなり」の連用形から》非常に。はなはだ。たくさん。「大いに感謝している」「今夜は大いに飲もう」 >>503
>「最終的に後十二月として閏月扱いとなる」としたんなら、
>それは「景初三年の後十二月」になるのであって、
>「景初四年の後十二月」ではなく、
>従って、「景初四年」という年は存在しなかった。
相変わらず論理的思考ができないなぁ
先帝の命日は1月1日なんだよ
後12月を入れても、先帝の命日は1月1日になるし、
新帝即位も1月1日でなければならない
で、論理的に考えれば、一旦「景初四年1月1日」を迎えて、
先帝命日の一周忌を行って、そののちに「最終的に後十二月として閏月扱い」とし、
改めて、即位改元し正始元年になる、という順番でないとおかしい
景初4年1月1日と、正始元年1月1日の「両方が別の日として存在」する
必要があるんだよ
それから、昭和六四年正月は実際にあった訳だが、昭和六四年のお年玉付き
年賀状は昭和六三年の11月1日から売ってたし、その前から印刷している
景初4年がある予定で、その前から作り始めないと間に合わないって事もある
むしろ、倭国で魏の年号を調べて作ったのなら、景初4年がある方が
おかしいことになる
オリジナルの景初4年鏡の存在のみが、踏み返し等による景初4年銘の仿製鏡の
作成を可能にすることになる >>504
八女古墳群は、5〜6世紀の古墳で
いくつか素管頭太刀などが出てますね。 >>509
>4世紀末に神功皇后により攻め滅ぼされ、応神朝へと移行した。
おいおい、九州王朝説による九州説を唱えてるんじゃないのか?
白村江の敗戦までは、九州王朝が存続していることになってるんじゃないのか?
記紀に従う場合は、その前の景行天皇のときに政治的に大和朝廷の傘下に
北部九州も入っているし、いろいろグダグダだなww >>509
>伊都国は2世紀で衰退したとかボケたことを言う畿内説がいるが、
衰退してるから、10メートルちょいのしょぼい方形周溝墓しか作れないんだろうが
それから、三雲遺跡近辺は奴国らしいから、伊都国王墓はないことになってるぞ
ここの九州説の頭の中ではww
三雲遺跡近辺が伊都国ではなく奴国なら、平原1号墓あたりも当然伊都国ではなく
奴国だよな
もう、何処までいっても、グダグダしかないな、九州説は
せめて、邪馬台国の比定地くらいは九州説の中で統一してくれないかな?
何処であっても、論破は簡単だけどさww >>511
>後12月を入れても、先帝の命日は1月1日になるし、
>新帝即位も1月1日でなければならない
笑い話はそこまでだw
明帝が死んだ命日は景初三年元旦のちょうど1年後が一周忌
後十二月をわざわざそのために設けたわけで、景初三年後十二月一日が命日
日付で決まるわけなかろw
皇帝死後の一年の喪明けには年号が改まるのは皇帝が死んだ日に確定するもの
つまり、景初三年正月の段階で景初四年はあり得ないことになったの >>508
>後漢書
>>446
>後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
>真偽判断が出来ないので、根拠にならない。
だそうだよ? ザラコクによれば?www 景行天皇のモデルとなったのが
九州王朝の筑紫勢力の王だね。
邪馬台国は肥後で、筑後の中心となる
久留米高良山を筑紫と奪い合った。
景行天皇のモデルとなる筑紫勢力の王が
高良山を奪取し、筑後の覇権戦争は終わった。
この戦争はかなり古い時代からの戦いで
吉野ヶ里や安永田遺跡の戦死遺体や
多くの鉄器武器の遺物からも推測できる。
高良山を獲ったあとは暫定的に停戦となり
肥前、肥後は筑紫に従属した。
肥前肥後の危険がなくなり
むしろ兵や食料の供給が可能となり
豊前豊後から日向大隅の熊襲に
筑紫、肥の連合軍が侵攻する。
いわゆる熊襲退治である。 >>760
>>九州倭国の官位なんだろうよ。<
>大変に調子がいいことですわねww
日本書紀に卑弥呼が書いてないから大和朝廷ではないと、
日本書紀を頼りにしている癖にww
都合の悪いことは認められない、典型的な九州説ですことww
「九州倭国の冠位」であることを、
「根拠」を示して正しい「論理」で論証してくださいね!
できなければ、ただの脳内妄想ww <
開皇末に小野妹子が隋の文帝に「日本國」を名乗った、という事は、
その時点で独立国を称していた、という事であるから、
大和にも、倭國とは違った冠位を持っていた可能性は確かにあるが、
問題の「俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞」は。
あくまで(日本国ではなく)俀國の話であり、
更に、書紀は、「阿輩臺」と「哥多毘」の名前と類似の名前の人物名を書いているが、、
その書紀の記載は、実際には大業四年には隋使は大和には来ておらず、
12年後の武徳中の「唐使の大和日本国訪問」の話を大業四年に造作した事になる、
という事は、
書紀の「阿輩臺」と「哥多毘」の名前と類似の名前の人物名も、造作の可能性が高い、
という事になる。 聖徳太子の官位十二階は
中国のものを参考にしたはずだが
順番が違ってるそうだから、
中国の知識があまりないところで
作ったんだろうね。 >>761
>>(魏志などでの里数記載)ほぼ全て中心間距離とすると長里でも短里でも矛盾が発生し、<
>つまり、里程はいい加減なんだよ
たったこれだけのことがなぜ認められないんだろうねww<
いや、居住外縁部間の距離や、門や入り口間の距離という計算であれば、
長里では更に合わなくなったが、短里でならほぼ全て合っていたから、
短里説で正しい、という事になった。 なんか最近、神功皇后が卑弥呼+トヨを粉飾して創作したんじゃないかと思い始めてる 伊都国。魏志倭人伝当時1000戸。
神功皇后、応神で畿内に移った可能性はあるな。
紀ノ川の伊都と関係あるのか。
それと後の筑紫の君磐井がどういう勢力かだな。 大いに塚造るの大いにがどっちの意味でも機内を示さないか
そもそも卑弥呼が死んで沢山塚造るってのは意味がわからんけど >>762
>>方格規矩鏡は魏晋時代でもポピュラー<
>これを言いたいなら、
「根拠」をつけて正しい「論理」で論証しろと何度言えばww<
確か、洛陽晋墓からは方格規矩鏡が出ていた。
また、筑紫中心に出土する鏡片にも、「方格規矩鏡の鏡片」が幾つもあった筈。 日本では卑弥呼の時代に
方格規矩鏡がポピュラーだったってことダネ。 >>518
>景行天皇のモデルとなったのが
>九州王朝の筑紫勢力の王だね。
困った時は、困った相手を「九州王朝の〜」にするだけの簡単なお仕事
大変調子がいいことですわねww
倭の五王は、記紀が九州王家の王を大和朝廷の大王にした
隋書に出てくる大和王朝の冠位も、九州王朝の冠位
で、今度は、九州を制覇した景行天皇も、九州王朝の王か
えーとなんだっけ、松野氏姫氏系図とかいう偽書では、
景行天皇は、なんていう名前になってるんだ?ww >>525
>確か、洛陽晋墓からは方格規矩鏡が出ていた。
それが、「なんという墓」から出た「どれ」で、何処を調べれば確認できるか、
まで示して、初めて「根拠」を示したことになるんだぞ
少し努力したな がんばれ!
でも、平原1号墓は仿製鏡だから、大陸の本物の年代が分かっても
参考にしかならないがな >>763
>>中国の天円地方は祭壇のこと、方形と円形ね<
>分かってないな
>>747でも書いたように「天円地方」は「思想」であり、「概念」なんだよ
その形に、祭壇を整えたり、陵墓をその形の具現として作ったりする
近視眼的に、天円地方=祭壇みたいな「即物的な解釈」しかできないから
九州王朝説に基礎をおく九州説なんていうトンデモを信奉してられるんだろうけどさww<
思想は晋朝から教わったとしても、
それを実際に実行するには、
モンゴル〜高句麗にあった前方後円墳を模倣した、
という事だろう。 >>521
>居住外縁部間の距離や、門や入り口間の距離という計算であれば、
それだったら、各里程を足しても総距離にならないだろ?
そんな記述法をするやつがいたら、旅程記事を書く気がないやつだな
>>390
>隙間が出来るとしたら、それは、
>その国の入り口と出口の距離がの問題になるような大きな距離ではなかった場合。
隙間が小さい時は書かないとか、バカな言い訳してたが、九州説では
短里絶対なんだろ? 短里70メートルだと、100里でも7キロだぞ?
7キロに満たない国ってなんだよww >>510
中国語の解釈に日本語の辞書を引く馬鹿発見 >>529
>モンゴル〜高句麗にあった前方後円墳
それ、何処にあるの? 教えて? >>514
>北部九州も入っているし、いろいろグダグダだなww
九州北部の王朝は激しく入れ替わるんだよ。
知らないのか。 >>515
>三雲遺跡近辺が伊都国ではなく奴国なら、平原1号墓あたりも当然伊都国ではなく
>奴国だよな
奴国は高祖山より東側だけだよ。
あと、筑紫倭国は福岡県全域を含むから、王墓が糸島市以外に移動することも不思議ではない。
だから祇園山古墳とかという話もありなんだよ。 >>518
少し違うな。
景行天皇が征伐したのは、むしろ豊前、筑豊だよ。
筑紫全体は神夏磯姫(筑紫梟帥)が掌握して景行天皇と共闘していたからね。
筑前と筑後が戦ったのは、その後の田油津姫の時だよ。
ヤマトタケルの時もそうだね。 >>522
>なんか最近、神功皇后が卑弥呼+トヨを粉飾して創作したんじゃないかと思い始めてる
年代をわざとズラして、誤解を誘導している。
日本書紀の編者わは魏志倭人伝を読んでいるからね(一部引用している)。 >>526
>日本では卑弥呼の時代に
>方格規矩鏡がポピュラーだったってことダネ。
だからこそ、内行花文鏡の編年がより重要なんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています