伊都国東遷スレ 3
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の繁栄であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 北條芳隆
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
(中略) 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」(歴史REAL抜粋)
寺澤薫
「平原一号墓の鏡はそれまでの弥生時代の王墓の副葬鏡とは大きく性格が違う。(中略)首長霊継承の秘儀には本来、
太陽の力によって首長霊を鼓舞する女性最高祭司と内行花文鏡が欠かせない存在だったという考えもある。
比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」
(王権誕生 p249抜粋 連弧文鏡は、内行花文鏡と表記を改めました。) アマゾンの電子書籍「継続としての日本古代史」を出しましたので、
岡上説として纏まったものは、そちらを参照いただけると幸甚です。
ちょっとした広告用ポスターを自作しましたので、ご笑覧ください。
A3版 ttp://fast-uploader.com/file/7079819167188/
A1版 ttp://fast-uploader.com/file/7079819231809/
A1版は結構大きいので、ご注意ください。
私は、A0に引き伸ばして印刷しました。なかなかの迫力です。
リング切れの際は、ブログ( http://aroomofwisdom.blogspot.jp/ )の方からでも落とせます。 魏略との一致状況の点数表です。
平原王墓に減点要素ゼロですね。
【平原一号墓】
被葬者が女性 : ◎(2点)
王墓である : ◎(2点)
鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
年代.... : ○(1点)
漢との交流 : ◎(2点)
万二千里におさまるか? : ◎(2点)
-----------------------------------------------------------
合計 12点
【箸墓】
被葬者が女 : ○(1点) *モモソヒメ伝承から
王墓である : ☆(3点) *古墳時代への画期を成す
鏡が出土 : ?
年代.... : X (0点)
漢との交流 : ?
万二千里におさまるか? : X X(-1点)
-----------------------------------------------------------
合計 3点 + α 日向峠からの10月20日からの日の出が平原王墓では意識されているんですよね。
まぁ読みはヒナタみたいですけど。 箸墓主体部と三輪山山頂が直線上に並ぶのも10月20日みたいですよ
三輪山と箸墓の関係はこちら。
http://fast-uploader.com/file/7081777783490/
平原と日向峠の関係はこちら
http://fast-uploader.com/file/7081778079020/
平原が10月20日と言っているのは、私ではなくて、柳田も言っている話ですから。
実際現地では、10月20日に朝日が登ってくるんでしょう。 地球は丸いから
地球上の直線と地図上の直線にはズレが生じてくるよ。目安130kmまでならほぼ大丈夫だけど。 >>998
本当に真性の短慮ですね。
日向峠、大柱、主体部、この3点が真っ直ぐになるのが重要なんですよ。
三点じゃない。
そして三点が並ぶのが10月20日。この時点では、10月20日は三点の延長線上ということに意味がある。(収穫の季節であれば他の日でも良かったということ。)
対して箸墓は、箸墓、三輪山、10月20日の3点が重要。
すでに10月20日が合わせる対象として、意識されているということです。 前スレ>>998
>一号墓ではなく五号墓にこだわるなんて、重箱の隅をつつくようなものだ。
遺跡は全体像で捉えないと意味がないだろ?
平原遺跡は、5号墓、1号墓・2号墓、3号墓、4号墓の順で作られたと考えられており、
いわゆる特定家系の家族墓と目される遺跡だ
前スレ>>995
今度は見りゃ分かる、ですか?
さすが実証思考からは離れた仮説思考を旨とするだけのことはあるね!
つまり「一号墓と大柱の位置関係」が大事なのであって、
「日向峠はどうでもいい」という主張だね?
平原遺跡の立地から見て10月20日(実際には10月23,24日)に日向峠の方から日が昇るのは、
1号墓が作られる前の5号墓が作られたときに「すでに決まっていた」のだから、
ただの偶然だね?
そして、それをただの偶然だというなら、箸中山古墳うんぬんはまったく意味のない主張だね?
理解できるかい? 整理しときましょう。
朝から短慮の人に絡まれてしまった。
それじゃあ本当にいってきます。
>>10
本当に真性の短慮ですね。
日向峠、大柱、主体部、この3点が真っ直ぐになるのが重要なんですよ。
2点じゃない。
そして三点が並ぶのが10月20日。この時点では、10月20日は三点の延長線上ということに意味がある。(収穫の季節であれば他の日でも良かったということ。)
対して箸墓は、箸墓、三輪山、10月20日の3点が重要。
すでに10月20日が合わせる対象として、意識されているということです。 >>9
>(収穫の季節であれば他の日でも良かったということ。)
あれほど10月20日が−って言ってたのに、
今度は「10月20日は偶然」ですか?
本当に都合の良いことですわね! >>10
>いわゆる特定家系の家族墓と目される遺跡だ
何か困るのか?
倭国大乱で共立されたから、先代の王家ではないんだろう。
魏志倭人伝と矛盾するわけではない。 んで、結局
魏略で伊都国王が王女の部下という不合理の指摘は
華麗にスルーですか 其國王皆属女王也のこと?
其の国は倭国のことだろ。
それ以前は倭国では皆が王を自称していたんだろ。
でも魏の時には皆が卑弥呼に属していたということだ。 >>19
>其の国は倭国のことだろ。
それでもいいね。 むしろ、そのほうがいいかも。 伊都国の王に限定するよりもね。 @阿波 >>19
実際に書かれている文章に沿って
きちんと訳さなかったら
ただの妄想だよね >>22
直前で文脈が切れているんだよ。
漢文は句読点がないから、切る場所を間違えてしまったんだね。 >>25
>前は伊都国王が代々と言ってなかったか?
だから、「それでもいいね。 むしろ、そのほうがいいかも。 伊都国の王に限定するよりもね。」
伊都国以外の王も代々、女王国に従属していたという、意味かも。 @阿波 >>31
という理由が言えないのは
漢文が読めない人>>31 >>32
トンデモ説の意味が通じないのは
理の当然なんだが >>34
つまり、其國王皆属女王也が伊都国の説明だと思うのはトンデモ解釈だということ。 >>35は理由を言わないの?
それはトンデモ説な証拠だね 王墓かどうかの判断に
副葬品で判断するのと
墓の大きさで判断する両方の見解があるようだね。
安易に王墓王墓と断定する論は感心しない。 あちこちの首長が弔問に集まるスタイルは出雲に始まりヤマトにも伝わったが、糸島には無い 魏略だと伊都国については「東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也」としかなく
伊都国に代々の王の記述はく伊都国に複数の王は存在しないから「其國王皆」の皆は伊都国の王ではなく複数の王がいる倭国の国々の王のことを指していることになる。
魏略の皆が倭の国々の王なら魏志倭人伝の「皆統屬女王國」の皆も同じ様に伊都国の代々の王ではなく倭の国々を指しているはずで
「倭の国々は皆女王国に統属していた」が正しい訳である。
魏略だと時間的に今しか指してないの伊都国の王は一人だけ
伊都国の王だけじゃ皆にならないのでその臣下・住人一同をふく含めて「皆」ですか
でも「其國王皆」と王が複数いるとありますから、やはり倭の国々の王のことですね
皆は対島国の王や一支国の王のことですね。 >>41
>伊都国の代々の王ではなく倭の国々を指しているはずで
その国王は伊都国王も含むから、伊都国説終了ね 伊都國
×世有 王皆統屬女王國
:文法上、意味が通らない
〇世有王 皆統属女王國
:伊都国には魏代に王(つまり女王卑弥呼)がいる。
伊都国の皆は(敵対する狗奴国ではなく)女王国=邪馬台国に統属している。 ×世世有王 皆統属女王國
これなら、伊都国には代々王がいた。
それらの伊都国王は皆、女王国=邪馬台国に統属している。
と言えるが、
倭人伝に書かれているのは、
「世有王」だから、魏代にいる王一人、つまり女王卑弥呼のことだけを指している。 >>42
>史書の信頼度を無視したバカ屁理屈
あの史書もこの史書も信用ならないと叫び続け、妄想の中にのみ活路を見出す畿内説 >>45
なんらの有効な反論ができない畿内説に決まってるだろ。
読みで勝てないから罵倒してるだけ(笑) >>51
は?
「其国王皆」は伊都国王を含むので伊都国説は不成立って反論がありますけど?
トンデモ伊都さん反論ありませんよね?
つまり伊都説は負けて終了しました 魏志 : 世(世)有王、皆統属女王國
魏略 : 其國王皆属女王也
魏志なら伊都国に世世王ありと無理読みして、皆 がそれを指示するとまだ強弁が通りそうだが、
魏略では、皆が代々の伊都国王を指すというのは流石に無理だな。
もしそうなら、下のように書いてなければ不自然だ
其國王世世統属女王也
ただ、実際はそうではないが(笑) >>53
?
成り立つからむしろ
伊都国説大勝利なんじゃないの?
あれ
伊都国説ってなんだっけ? >>53
魏略の伊都国にはニギがいるだけ。
神官が女王に属すのは当たり前だろ。
伊都国説の完全勝利だよ トンデモ畿内さん反論ありませんよね?
つまり畿内説は負けて終了しました >>55
成り立つという理由は?
九州説おわってるな >>59
「その国王皆」に伊都国王が含まれるので
伊都説不成立
反論はありませんが? 九州勢は目の前にある明白な事実を見えないフリすることで延命を図っている
愚かなことだ >>63
じゃあ、まずはこれに反論すれば?
魏志 : 世(世)有王、皆統属女王國
魏略 : 其國王皆属女王也
魏志なら伊都国に世世王ありと無理読みして、皆 がそれを指示するとまだ強弁が通りそうだが、
魏略では、皆が代々の伊都国王を指すというのは流石に無理だな。
もしそうなら、下のように書いてなければ不自然だ
其國王世世統属女王也
ただ、実際はそうではないが(笑) まさしく罵倒しか出来ない畿内説
説として完全敗北
www >>62
伊都国王なんて書いてないし名前も書かれていない。 >>65
それ・・・
「その国王皆」に伊都国王が含まれるので
伊都説不成立
の反論じゃないから、さきに反する必要なくね?
関係ない話だわ 魏使は伊都国に滞在してるんだから
伊都国に王が居れば王の名前ぐらいは報告するよな。 >>72
卑弥呼ってちゃんと報告されてるじゃん。
あほじゃね? 官はいても
女王はいても?
王がいなくて?
一大卒がいる??
王ってなんだっけ?王=官or? >>74
それは邪馬台国に都してる王だからべつじん >>75
そうだね、だから偉大な女王として卑弥呼って報告されてるね。
www 要するに「世有王」の解釈で完敗したトンデモ説が
「世有王」と書いてない文献
ということで再挑戦したら
もっと負けたって
ナサケナイ話でしょ >>78
それは邪馬台国に都してる王だ。
伊都国王ではない。 >>79
そう思うなら、反論してみ?
www
魏志 : 世(世)有王、皆統属女王國
魏略 : 其國王皆属女王也
魏志なら伊都国に世世王ありと無理読みして、皆 がそれを指示するとまだ強弁が通りそうだが、
魏略では、皆が代々の伊都国王を指すというのは流石に無理だな。
もしそうなら、下のように書いてなければ不自然だ
其國王世世統属女王也
ただ、実際はそうではないが(笑) >>72
ですよね。
遥か南の狗奴国の王の名前は書いてあるわけですからね。 >>81
なんだ
トンデモ説は思考停止して連呼か
みじめだな もしかして
ここで言う伊都説は伊都=邪馬台国説ってことか?
もしそうならそれはスレ違いですね。 >>81
その魏略に伊都説が完全否定されてるわけだが >>87
シャードーボクシング専門の方ですか??
www >>77
邪馬台国は北部九州一帯で
邪馬台国の首都が伊都国なんだよ。 狗奴国に対比しての邪馬台国だからね。
狗奴国に男王がいると説明があって、
一方の卑弥呼は邪馬台国に都しているわけだ。 「その国王皆」に伊都国王が含まれるので
伊都説は最初から不成立
反論はありませんが? 伊都國
×世有 王皆統屬女王國
:文法上、意味が通らない
〇世有王 皆統属女王國
:伊都国には魏代に王(つまり女王卑弥呼)がいる。
伊都国の皆は(敵対する狗奴国ではなく)女王国=邪馬台国に統属している。 畿内説の人は一言しか書き込まないので何が言いたいのさっぱり分からないな。 >>100
罵倒以外のことを書くと、ボロが出るからね。 世有王 皆統属女王國
魏の世に王がいた、(倭の国々は)皆(伊都国を都とする)女王国に統属されていた >>100
言いたい中身が無いから書きようが無いんでしょうね。 畿内説は罵倒専門
学問板には、害毒以外の何者でもないな 魏略には共立の「き」の字も、卑弥呼の「ひ」の字もないのに、
魏志倭人伝の共立女王の卑弥呼を持って来て、
「魏略の女王は共立女王の卑弥呼=共立された女王がただ一人」(キリ)
「魏志倭人伝の卑弥呼は「日巫女」という称号で固有名詞ではない」(キリ)
「魏志倭人伝の卑弥呼は、共立女王と親魏倭王の二人で別人」(キリ)
「卑弥呼はブチョウで、壹與はタケシだ」(キリ)
「理由はお鏡の書いた論考を読んでね」(ミャハ)
「読んで分かってくれた人(匿名)もいるから、分からない方がバカ」(エへ)
これが通ると思ってるんだな、、、
すごいや。。。 議論に負けたので、脈絡なく岡上批判のコピペを始める畿内説
www 卑弥呼の邪馬台国と戦っているのが、南の男王狗奴国。
卑弥呼の邪馬台国は、以前は70,80年男王。
同じ行程を描いた世界の中に、女王が何人も入る余地が無いだろうが。 106 名前:日本@名無史さん 2018/05/14(月) 21:31:15.98
これが通ると思ってるんだな、、、
すごいや。。。
730日本@名無史さん2018/05/14(月) 10:23:37.13>>736
キナイコシが論破されてしまっている話題が、使用フォントのことのようだね。。。
731日本@名無史さん2018/05/14(月) 10:28:15.33>>732
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
畿内厨が自らスレを荒らすというのは本当らしいな
www >>9
>日向峠、大柱、主体部、この3点が真っ直ぐになるのが重要なんですよ。
>三点じゃない。
二点か三点かはっきりしてよw
頭に血が昇りすぎw
でもこれ、単に「柱をどこに立てたか」だけだって分かるか
「主体部と日向峠」は二点だから、必ず直線が引ける
その直線上に柱を立てるという点には、意図が認められる
だが、その方向から日が昇る日というのは年に2回あるし、特別な日でもないし
倭国にはまだ十分な暦がない
しっかりした暦がある社会では、太陽は暦を決める上位者に従って運行することになるので、太陽神が最高神になることはない
暦が十分ではない社会で、夏至、冬至、春分(秋分)以外の日を特別視するのは困難
神嘗祭がその頃とか言っているが、それ畿内の皇室行事だろ?
九州で神嘗祭を3世紀にやっていたと考えるべき十分な理由はあるか?
それに、畿内と九州の収穫時期の違いは意識してるか?
気温が高いところの方が稲刈りは遅いんだよ >>111
>気温が高いところの方が稲刈りは遅いんだよ
九州の方が収穫が早いと思ったが? >>111
>しっかりした暦がある社会では、太陽は暦を決める上位者に従って運行することになるので、太陽神が最高神になることはない
しっかりした暦がないから、倭国では太陽神を拝む内行花文鏡をシンボルとする神道が成立したんだよね。 >>107
>議論に負けたので、脈絡なく岡上批判のコピペを始める畿内説
いやこの>>106、前スレのお鏡さんの主張そのものだろう?
主張をまとめられるとそれだけで、批判になっちゃうのか?w >>113
平原から見て、日の出の位置から暦を読んでいたという説もあるな >>111
>神嘗祭がその頃とか言っているが、それ畿内の皇室行事だろ?
>九州で神嘗祭を3世紀にやっていたと考えるべき十分な理由はあるか?
そもそも新嘗祭は稲作の収穫の祭りだ。
筑紫伊都が都になるよりも前、出雲の頃から神無月の祭りはやっていた。 >>116
古すぎてわからないが、稲作をやっていた以上は何かの基準があったはず。 >>113は、「しっかりした暦がないから」を認めてくれるんだね
だとすると、新暦の10月20日に合わせて墓を作るなんていうのは、考える意味がないだろ? >>119
筑紫の日向の伊都国が倭国の都であり、その一帯が卑弥呼がいた邪馬台国でもあるという説。 >>120
墓を目印にすれば恒久的に暦の代わりになって良いではないか。 >>121
九州王一派の説かな、じゃあどうでもいいや >>14
>何か困るのか?
>倭国大乱で共立されたから、先代の王家ではないんだろう。
>魏志倭人伝と矛盾するわけではない。
築造順に
5号墓 王墓ではない
1号墓 王墓(?)
2号墓 王墓ではない(1号墓と同時築成)
3号墓 王墓ではない
4号墓 王墓ではない
という構成の家族墓地に、王墓があると考えるのは難しいだろう? >>126
畿内説の妄想はよくわからん。
学歴コンプでもあんのか? 学歴コンプは、自分は理系だから〜とか言い出す方にこそあると思ふ >>9
それに、平原遺跡の立地は1号墓が作られる前、5号墓が作られた時点で決まっている
これに対する回答はないぞ
実は、三雲南小路遺跡からでも、井原鑓溝遺跡からでも、それほどずれない時期に日向峠から日が昇る
井原鑓溝遺跡では10月12日
三雲南小路遺跡では10月14日
>(収穫の季節であれば他の日でも良かったということ。)
というのであれば、平原遺跡の立地は特に意味のあるものではないということだ
特別な場所に特別な人物が特別な儀式で葬られているから、
「女王だ」という論法にしたいのだと思うが、「特別な場所」はこれで否定されるな?
特別な人物だ、の根拠の大部分は鏡だろ?
それが皇室の八咫鏡とは関係ないのはすでにもう示されている そして、特別な儀式に対する疑問をこれから書く
お鏡さんが言うのは大柱の存在だが、その他にも平原1号墓の埋葬主体部の周りからは多くの柱穴が検出されている
埋葬主体部のすぐ周りに配置されているものは、方形に並べられ、また軸線上に少し離れて両側に1本ずつ柱穴があるため、棟持ち柱のある喪屋が想定されていたが、柱を立てるには穴が細すぎるということで、今は「杭(くい)列」跡とされているようだ
また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
二つの「鳥居」は平行に立っていない
「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
大事な女王を送る葬送施設の作りとしては杜撰だ
平原1号墓の平面図としてはこれが見やすいんじゃないかな
http://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Y23E5B9B3E58E9FEFBC91E58FB7E5A2B3E585A8E4BD93E59BB3.jpg
そして、お鏡さんが大事にしている大柱と日向峠を結ぶ線と、埋葬主体部の軸線はずれている
本当にこのラインに重要な意味はあるんだろうか?
>対して箸墓は、箸墓、三輪山、10月20日の3点が重要。
>すでに10月20日が合わせる対象として、意識されているということです
箸中山古墳の方は、墳丘の主軸がまっすぐ夏至の日の出の向きに向けられているし、そのライン上に神社も置かれている
三輪山山頂を意識しているのは、三輪山をご神体とする大神神社だよ
こちらも大神神社から見た夏至の太陽がきっちり三輪山山頂から昇る
太陽神を祀る卑弥呼(日巫女なんだっけ?)が、特別視する日として、日が一番長くなる夏至を考えるには分かるが、10月20日がなぜ出てくるのか、本当に不思議 >>117
>そもそも新嘗祭は稲作の収穫の祭りだ。
新嘗祭なら旧暦の11月だから、お鏡さんが主張する10月20日とは関係なくなるよ
お鏡さんは神嘗祭の方だと言ってるよ
ただそれが、どこまで昔からあるものだと言えるか?
また、畿内の宮中祭祀と九州とで稲の収穫時期の違いとか考えてあるのか?
とも訊いている >>122
>墓を目印にすれば恒久的に暦の代わりになって良いではないか。
それで分かる日付が「10月20日」っていうのをどう思う?
農事暦的に重要な日でもない
田植えの目安にもならないし、収穫の目安にもならない
祭の日はむしろ収穫後の満月などが選ばれるだろう
お月見ってのはそういうものだ
「10月20日」には何の意味もないと思うがね >「10月20日」には何の意味もないと思うがね
二分二至でもないのにイミフだよなw
ちなみに縄文時代の環状列石でも冬至のラインが見て取れる
そもそも日向峠ってなんだよ?って話で山頂ならまだしも
そりゃ日本の地形なら東西南北見渡せば山々の稜線があるわな
さぞ意味がありそうにこじつけただけの与太話 >>131
箸中山古墳の方は、墳丘の主軸がまっすぐ夏至の日の出の向きに向けられているし、
そのライン上に神社も置かれている
嘘はダメだろ、嘘は。 >>1 八咫バカ
><ポイント>
>・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の繁栄であることが視野に入ってくる
繁栄であることを前提としたこじつけ妄想
>・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
そもそも銅鐸や銅剣と言った青銅器(を使った)祭祀から巨大首長墓へのシフトは
大和より先に出雲でも起きてる
こと大和だけ切り離して与太話を挟み込む必要がない
「銅鐸祭祀」と言うが銅鐸そのものが崇められたという話ではなく
それは舌の摩耗等に見られるように打ち鳴らされ「豊穣祈願」や「穀霊信仰」
あるいは埋納されてる場所から「境界祭祀」と見られてるものであり
銅鏡にしても銅鏡を副葬するならあんな巨大な墓は要らない
ウェイトをどれ位に置くかは別にしてもあくまで構成要素の一つ >>125
それが王墓でない根拠となる思考は理解しがたい。 >>131
>ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
>二つの「鳥居」は平行に立っていない
>「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
神社の鳥居なんてこの程度の精度だろ。
弥生時代だし。
うちの近所の神社の鳥居だって、きっちりとした方角ではないなあ。 鳥居が弥生時代まで遡るという考古学的な根拠も歴史学的な根拠も全く存在しない >>132
>また、畿内の宮中祭祀と九州とで稲の収穫時期の違いとか考えてあるのか?
九州の方が稲の収穫は早いから、旧暦の神無月でもいいな。
ただ、そもそもは九州以前に出雲で行なっていたはずなので、それも考慮すると時期は変動的だったのだろうね。
太陰暦だと太陽暦との対比は流動的にならざるを得ない。 >>139
>鳥居が弥生時代まで遡るという考古学的な根拠も歴史学的な根拠も全く存在しない
遺跡として見つかっているのに。
現実から目を背けるなよ。
じゃあ、あなたは鳥居がいつ頃できたと思うの?その根拠は? >>141
遺構として見つかっているのは柱穴だけだ
妄想を勝手に断定するな >>141
やはり現実が全く見えていない伊都クズであった… 考古学者にダメ出ししときながら都合が良ければつまみ食いする八咫バカ 柱の跡が二本だけなら、鳥居以外の何を想定するんだよ。
墓所なんだから、神聖な領域を区切るための構築物だよね。
日本では鳥居を立てるんだよ。 三種の神器、八咫の鏡と来たら、神道の施設なんだから、入り口に日本の柱の跡があったら、それは鳥居だろう。 柱穴だけだと上部構造が
柱2本だけなのか
柱2本の上に横木1本なのか
柱2本の途中に横木1本なのか
柱2本の上と途中で横木2本なのか
はわからない
これを鳥居と断定した時点でトンデモ >>145
冠木門て知ってる?
冠木門の門部分がないものだって十分想定できる >>147
弥生時代から神道が成立してたって主張もトンデモ >>147
>三種の神器、八咫の鏡と来たら
かぶってますw
そして歴史学的・考古学的に成立が困難な仮説であることが立証されているため、
根拠にはなりえません 結局伊都クズって文献を信じているんじゃなくて
自分の妄想を盲信してるだけだし
歴史の事実を解明しようとしてるんじゃなくて
自分の妄想をごり押ししたいだけっていうね… それで理系は論理的だから〜とかほざくという…
まじでパーソナル障害を疑うわ 理系も文系も関係なく論理的思考能力が無い人は存在する 既存の学問の方法論を全く無視して
「俺様一番!」って悦に浸っているのだから
ある意味幸せな人生かもしれない
周囲にとっては迷惑この上ないが・・・ かつての邪馬台国ブームはメディアがそれを囃し立てたからね またキナイコシがここでも自己紹介か
自己愛が深すぎてドン引き。 というか
>>6
が最新の方法論だけどね。
畿内説の人は、頭が硬すぎて理解できてないようだけど。
日本国内にしか目を向けてないんだろうきっと。 >>135
>箸中山古墳の方は、墳丘の主軸がまっすぐ夏至の日の出の向きに向けられているし、
>そのライン上に神社も置かれている
>嘘はダメだろ、嘘は。
嘘じゃないよ
何でも条件反射で「嘘だ」って言えばいいってもんじゃないw
「箸墓古墳と夏至の太陽(古墳の方位・続論)」
http://www.geocities.jp/watsns/gesi1.html
お鏡さんの与太話と違って、GPS計測をしてきちんと天体軌道の計算もしている
お鏡さんの与太話のように、だいたい合ってるからいいだろうじゃなくて、
穴 山の山頂からずれる理由もきちんと考察されてる
「嘘はダメだろ、嘘は」の方が確認もせずに書かれた、大ウソww >>160の脱字の訂正
× 穴 山の山頂からずれる理由も
○ 穴師山の山頂からずれる理由も 突合の意味ったって、突き合わせる、ていう意味だろ、本質的には
で、出所の違うデータを突合してクロスチェックするならともかく、
自分の妄想と事実を突き合わせて恣意的な点数を付けて悦に入る
なんてのは意味ないだろ?w >>163
えっ
他説とかどうでもいいよ
畿内説がまともに自説の評価をしてればいいよ >>137
平原遺跡には1号墓から5号墓まで周溝墓があって、うち4つはどうやっても王墓ではない
つまり、累代的に作られた家族墓地であるが、その家族が王家だとは認められない
前に5号墓が王墓ではないのは、卑弥呼が共立女王で、前の王家とは家系が違うと
主張する者(>>14)もいたが、1号墓のあとも王家の墓にはとても見えない
伊都国の王墓は、古いもの(三雲南小路、井原鑓溝)も、古墳時代に入ってから
(端山古墳、築山古墳)も、三雲遺跡群に作られている
平原1号墓は厚葬墓なのは間違いないが、伊都国王墓としても疑問が残る
ましてや倭国王墓としては、格が足りない >>164さんは>>135で大ウソを書いた人ですか? 主軸の取り方で如何様にもなりそうですが、夏至の方向を向いてるんですかね。
仮にそうなら、夏至を起点として110日後という私の推測に箸墓自身から物理的な証拠がつきますね。
ご紹介ありがとうございます。
つまり、「箸墓主軸は夏至の方向を向いており、10月20日ごろ三輪山から朝日が昇る」ということですね。 >>169
>主軸の取り方で如何様にもなりそうですが、夏至の方向を向いてるんですかね。
箸中山古墳の地図はどこにでもあるんだから、自分で確認できるだろ?
そういう確認すら自分ではしない人なのか? できない人なのか?
>仮にそうなら、夏至を起点として110日後という私の推測に箸墓自身から物理的な証拠がつきますね。
こういう「ほぼ嘘」のごまかしが本当に嫌い
「夏至を起点として『110日後』」の「物理的な証拠」なんて『あり得ない』ぞ
そして『110日後』ってなんだよ?
太陽暦的に特定の日にちが必要であっても、10月半ばなら秋分から数えた方が正確
きちんとした暦のない倭国で、110日も数えると仮定するのが相当に頭悪い
110日も数えられるなら、365日だって数えられるぞ >>160
これ、いいね。
行燈山も崇神陵として疑問なのは
地元の人から指摘があってるのだな。 主軸はある程度(1ー2度ぐらいなら)に任意に動かせるでしょ。
というか、そうならざるを得ないし。
110日後はモモソヒメの名前からの類推ですよ。
「古代人は110日を数えれない」というのはナンセンスそのものでしょ。
それに秋分・春分より、太陽運行が一番偏る夏至・当時の方が起点にしやすいですね。
では行ってきます 岡上さんの仮説は
二点を結んだ直線っていう仮説だったけれども
二点が実は必要ではなく、
箸墓単体で夏至が意識されていた。ってことに対する追加コメントでしょう。 >>169
>つまり、「箸墓主軸は夏至の方向を向いており、10月20日ごろ三輪山から朝日が昇る」ということですね。
これには何の意味もないよな?
平原1号墓の出土鏡の円周が、「周代の尺度の咫で『8.63咫』」っていうのと同じで、
だからどうしたってことにしかならない 岡山の方の古墳の主軸は三輪山の方に向いてるんでしたっけ?
向いてたら面白い。相当、おもしろい。 >>176
>「古代人は110日を数えれない」というのはナンセンスそのものでしょ。
また、ごまかしてる
>>171の批判の主眼は
「夏至を起点として『110日後』」の「物理的な証拠」なんて『あり得ない』ぞ
こういうごまかしのご都合主義が本当に嫌い
科学する態度ではない >>176
>110日後はモモソヒメの名前からの類推ですよ。
ねえ、お鏡さんて『頭いい』の?
モモソヒメの「もも」はたくさんという意味だぞ
と思ったらウィキペディアか!
『「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、』
もうがっかりだよ
ねえ、お鏡さんて本当に『頭いい』の? >>182
ウィキの記載と頭の良さって関係あるの?
畿内説の考えることはわからん >>176
>主軸はある程度(1ー2度ぐらいなら)に任意に動かせるでしょ。
>というか、そうならざるを得ないし。
箸中山古墳は赤色立体地図も公開されてるし、なにより墳長が280メートルもあるから、
かなり正確に取れるぞ
お鏡さんの与太話とは違う
平原1号墓の主体部ははっきり日向峠ではない方向を向いているけれどな >>184
280mしかない、だろ。
二点の距離を取るには短すぎ >>168
じゃあ、平原にあるのは鳥居かその原型で間違いなさそうですね。 >>167-168
鳥居の研究史も知らないんだね
恥の上塗りだなw >>185
>280mしかない、だろ。
>二点の距離を取るには短すぎ
墓穴の東端からほんの14.8m離れた位置の大柱でどこかの方角を
示しているとか言っている人がいるのですが?
箸中山古墳の、後円部の中心の台から夏至の日の出の方向の直線を引けば、
穴師山山頂脇と穴師大兵主神社をきっちり通って、反対側は前方部の中軸線を
きっちり通るよ
自分で線を引いてみればいい >>187
神道? 鳥居? 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。 @阿波
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg >>189
その前方部の中軸線が曲者。
http://www.geocities.jp/watsns/gesi1.html
このページには「何故か」ないが、別ページの図を見ると箸墓古墳の中軸線はこう見たいだぞ。
http://www.geocities.jp/watsns/img/gpsz3l.jpg
この線以外に中軸線が引けないと言えるのか?
この線が中軸線であるという証明は?? >>191
それがなにを意味するの? 邪馬台国に関係あるの?
そんなお遊びより、もっと探求すべきものがあるだろ? @阿波 110日という中途半端な数字だけだとご都合主義だよ。たまたま、偶然と区別がつかない。
お話としてはおもしろいけど、学術的にどうこうとなるとね。
ただ、偶然も二つ重なるとそれは偶然なのか?と思えてくる。
今日の、箸墓は夏至を意識したものだ、これはこの二つ目になりうる。
さらに、三つ四つと続く可能性も? >>193
それがなにを意味するの? 邪馬台国に関係あるの?
そんなお遊びより、もっと探求すべきものがあるだろ? @阿波 >>190
玉造は忌部の専業ってほんと?スレチだけど。
いわゆる蘇我氏は北陸が拠点で玉造やってて
それがいわゆる蘇我氏の経済力の源泉って話があるんだわ。
北陸からヤマトに移ってもヤマトでの玉造も蘇我氏が管掌したらしいよ。 >>189
>穴師山山頂脇と穴師大兵主神社をきっちり通って、反対側は前方部の中軸線を
山頂脇ということは、きっちり山頂ではないということ。
そもそも知らない山だし。
そりゃ、周りが山だらけなんだから、どこかの山の山頂付近は通るだろう。
それが何かの根拠になるのか? >>194
まあまあ、このスレは邪馬台国論をちょっと端に見て、
日本の古代史を地道に模索してる感があるから
ちょっと遊んでるように見えても
何か新しい発見があるかもしれないじゃない。 邪馬台国や卑弥呼を考えるということは、古代の倭国について考えることなんだよ。
倭国とはそもそもどのような国でどこにあったのか。
日本との関わりはどうなっているのか。 >>176
>それに秋分・春分より、太陽運行が一番偏る夏至・当時の方が起点にしやすいですね。
サインカーブって知ってるかな?
夏至と冬至は、数日間では太陽の位置があまり動かないから、
夏至(冬至)の日の出の方角というのはそれなりに正確に測れても、
夏至の「日」っていうのは分かりにくいんだよ
それに対して、春分、秋分は真東から日が昇る日であり、この辺は一日での
日の出の位置の移動が一番早い時期なので、方位さえ正確に測れれば
春分の「日」は特定しやすい
ということもあって、古代の太陽暦の暦は春分基準が多いんだよ
こういう「常識」も、「夏至から110日はおかしい」の傍証
ちなみに、夏至は一番夜明けが早い日でも一番日暮れが遅い日でもない
それぞれ前後に一週間ずつくらいずれてる
まあ、正確な時計がなければこういう細かいことは計れないけれど >山頂脇ということは、きっちり山頂ではないということ。
>>160に挙げておいたURLの記事を読んでごらん
その山頂脇が、ライン上にある里宮の穴師大兵主神社の奥宮である
本宮があったと目される場所で、「ゲシノオオダイラ」と呼ばれる場所だ
おそらく漢字は「夏至の大平」
山頂よりむしろわざわざここを通るように作られたようだ >>191
>この線以外に中軸線が引けないと言えるのか?
普通に幾何学的な中心線になってるだろ?
何が言いたいんだ?
ただケチを付けたいだけだろ?
>>191さんは>>135で大嘘を書いた人ですか? 日本書紀の倭迹迹日百襲姫命をヤマトトトヒ「モモソ」ヒメと読むのは、
古事記の夜麻登登「母母曽」毘売に合わせてそう読まれているのだが、
古事記の万葉仮名表記はいわゆる「オ段甲類、乙類」を区別している
「母母」は乙類だが、古事記で百をももと読むときには「毛毛」と
いう甲類の表記をとっている
この辺も、ちょっと意識しておいてよい >>201
>>普通に幾何学的な中心線になってるだろ?
なってないな >>203さんは>>135で大嘘を書いた人ですか? 前方部はその一本の中心線しか引けないのか?
参拝する場所からずれてるけどそれでいいのか? >>205
>参拝する場所からずれてるけどそれでいいのか?
参拝する場所、じゃなくて、遥拝所って書こうな で、ずれてるけど? それはいいのか?
ずれてけるけど、中心線www >>202
甲類乙類の分類は絶対的なものではないというだけだろ。 >>195
>玉造は忌部の専業ってほんと?スレチだけど。
もちろん本当ですよ。勾玉だけじゃなく、軽量薄型土器(庄内式の原型)、前方後円墳もね。 @阿波
>いわゆる蘇我氏は北陸が拠点で玉造やってて
その蘇我氏も倭国(阿波)の名方郡が本願地。 北陸忌部は蘇我氏だったのかも。 @阿波 前方部の中央にある遥拝所からずれてる中心線が、夏至の方向にピッタリ(笑) >>208
絶対的ではないが、積極的に否定すべき根拠がないケースでは重視すべきだろ 北陸忌部は後に言う、蘇我氏だったのかも。
その北陸の墳墓が方墳だったらその可能性が高い。 @阿波 >>197
>ちょっと遊んでるように見えても
>何か新しい発見があるかもしれないじゃない。
それは時間の無駄 もう、とっくに決着ついてるでしょ? 一番簡単明瞭に「其山有丹」で。 @阿波 >>207、>>210
>で、ずれてるけど? それはいいのか?
>ずれてけるけど、中心線www
自分で>>191で引用している図をよく見ればいいじゃないか
http://www.geocities.jp/watsns/img/gpsz3l.jpg
遥拝所が作られたのがいつだと思っている?
箸中山古墳が作られてからかれこれ1750年以上経っていて、前方部の角は
既に削られてしまっている
引用されてる図では、右下隅の部分が、左下と比べて削れているのが見て分かるだろ
現在の遥拝所は、その「削れた前方部の両端」を結んだ線分の中央に位置しているんだよ
右端が削れている分、左に寄っている
作ったときの軸線は、この図の軸線で正しい
ちゃんと図を見る能力も足りないんだな >>215
>右端が削られたって証拠は?
適当な画像処理ソフトで左右反転画像を作ってみれば確認できるだろ
墳丘の裾をめぐる道がかなり古くからあって、この道のために削られてるんだよ モモソではなくホソだと思うけどなぁ
五百木でホ
百をモモと音写した古事記が
日本書紀より後の成立という前提があるけど。 >>216
削られた証拠にはなってないな
単なる憶測だ 春分秋分と夏至冬至は
どっちが測量しやすいんだろうね? >>199
>>方位さえ正確に測れれば 春分の「日」は特定しやすい
方位を正確に測るのと、夏至から110日、(10月20日の場合は120日)
数えるのとどちらが簡単ですかね?
箸墓が夏至の方向を向いているのでしたら、太陽運行を見てるのは
間違いないのですから、そこから110日で分かりやすいと思いますどね。 ちなみ例のHPでは、卑弥呼=日巫女が結論ですね。
もちろん、私と全く同じ見解です。 >>212
いわゆる継体大王の婿入り先の
ことなんですけどね。北陸の蘇我氏。
元は出雲の玉造工房の別れのようです。
したがっておそらく方墳でしょう。 >>222
>元は出雲の玉造工房の別れのようです。
>したがっておそらく方墳でしょう。
それなら出雲も方墳でしょうね。
出雲忌部も後に言う蘇我氏だったということです。
日本海へ進出していった忌部一族に、後にいう蘇我氏も入っていたんでしょう。 @阿波 太平洋側の各地にも方墳があるとすれば、特に古墳時代後期に力をつけた蘇我氏一族の墳墓の可能性が高まる。 @阿波 倭国(阿波)では他に、忌部の里旧麻植郡に「忌部山型石室」古墳群
「倭大国魂神社」のある旧美馬郡に「段の塚穴型石室」古墳群などがあり、
どうも、地域部族により、墳墓形式があったようだ。 @阿波 >>218
>削られた証拠にはなってないな
>単なる憶測だ
ごめんなぁ
がんばってケチ付けようとしているけれど、墳丘端は確認されているんだ
桜井市立埋蔵文化財センターの各種ダウンロードから、
「講座 入門箸墓古墳 第2回(PDF形式・3.46MB)」っていうのを
ダウンロードしてもらって見てもらえば分かるけれど、
纏向遺跡118次発掘調査(箸中山古墳周辺12次)の発掘範囲に墳丘端がかかってるだろ
http://www.sakurai-maibun.nara.jp/_src/sc4790/h25.kouza2.pdf 出たな、黒幕の桜井市。
町おこしのために邪馬台国の歴史を歪めようとしている。 >>221
>ちなみ例のHPでは、卑弥呼=日巫女が結論ですね。
>もちろん、私と全く同じ見解です。
こういうのが悪質な印象操作だよなぁ
お鏡さんのいうのは、
「卑弥呼=日巫女」だから『複数いても構わない』
『複数いても構わないから』『魏略の卑弥呼と親魏倭王は別人』
だろ?
最初の「卑弥呼=日巫女」は多くの人が推論としていっている部分
推論であって、結論でもなんでもない
『複数いても構わない』から『魏略の卑弥呼と親魏倭王は別人』の部分は
お鏡さん以外、「誰も賛同してない」ぞ! >>227
話をそらすな!
前方部の墳丘端が削られてるのは確認できたな?
遥拝所がずれてると言っているのは、この削れた後の墳丘端を基準に
中央を取っているからだよ これも確認できるな?
事実は事実なんだから、素直に認めな >>228
あー揚げ足取られる前に訂正
×『複数いても構わない』から『魏略の卑弥呼と親魏倭王は別人』の部分は
○『複数いても構わない』から『魏略の女王と親魏倭王は別人』の部分は お返事ないから、再掲
そして、特別な儀式に対する疑問をこれから書く
お鏡さんが言うのは大柱の存在だが、その他にも平原1号墓の埋葬主体部の周りからは多くの柱穴が検出されている
埋葬主体部のすぐ周りに配置されているものは、方形に並べられ、また軸線上に少し離れて両側に1本ずつ柱穴があるため、棟持ち柱のある喪屋が想定されていたが、柱を立てるには穴が細すぎるということで、今は「杭(くい)列」跡とされているようだ
また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
二つの「鳥居」は平行に立っていない
「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
大事な女王を送る葬送施設の作りとしては杜撰だ
平原1号墓の平面図としてはこれが見やすいんじゃないかな
http://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Y23E5B9B3E58E9FEFBC91E58FB7E5A2B3E585A8E4BD93E59BB3.jpg
そして、お鏡さんが大事にしている大柱と日向峠を結ぶ線と、埋葬主体部の軸線はずれている >>231
>また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
これが鳥居の原型。 忌部山の青石だよ。 木製などずっと後の代物。 @阿波
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg >>232
>現代的な感覚で杜撰といってもな
その頃、纏向遺跡では、きちんと軸線をあわせた建物が建てられているのであった
この建物の話をすると、倉庫だといいたがる人が湧いたりするけれど、
倉庫程度(実際は中心施設)でもきちんと四辺を整えた建物が作れる訳だ
3世紀当時、きちんと杭列を整えるだけの技術は十分にあるんだよ
それが、倭国にただ一人の倭王の葬送のための、一世一代の儀式の場が、
適当に杭を打ったような「雑さ」っていうのは日本人の感性では許しがたいと思うんだが? 考古学完全否定しないとスタートラインにも立てない九州説ってww 何をどう否定した?
古代人は方角や大きさがわりとラフだったというだけだろ。 >>242
>古代人は方角や大きさがわりとラフだったというだけだろ。
でも、平原1号墓出土鏡は、直径を二尺丁度に合わせたって、誰かが言ってたよ?
漢尺は伝わっていても、漢の度量衡に咫はないんだけどさ
そして、漢尺は伝わっていても、漢の歩や里は伝わってなくて、
高々12メートルくらいの墳丘墓が径百歩らしいよ?
そして、漢尺は伝わっていても、漢の里が伝わっていないから、
末慮国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で3〜4倍も長さが変化する「謎の里」を
使ってたらしいよ
本当にラフでいい加減だよね! >>235
>蘇我の古墳は六呂瀬山のようです。
方墳もあるようですね。
葺石墓でもあり、忌部一族を祀った古墳ですね。 @阿波 >>239
>纒向は崇神の宮だろ。
>記紀くらい読めよ。
だから、纏向遺跡が邪馬台国の時代なら、崇神も同じ時代になるだろ? >>243
だから魏志倭人伝で文句が書かれているんだよな。
まさに邪馬台国だよ。 おかしくないよ。
邪馬台国じゃないから何にも無いだけで同時代。 >>247
>だから魏志倭人伝で文句が書かれているんだよな。
文句って何だよ?
具体的に書いてみ?
魏志倭人伝に書いてあるのは
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」という、王(首長)の死に際して
巨大な冢=墳丘を作る倭国の風習で、それがそのまま古墳時代につながる >>249
>邪馬台国じゃないから何にも無いだけで同時代。
そうだね
(北部九州は)邪馬台国じゃないから
(北部九州には整った建物も、儀式に使った祭祀土坑も、大きな墓も)
何にも無いだけで同時代。 >>251
北部九州には無い、邪馬台国時代の大きな墓って、
具体的にはどの墓のこと? >>253
>北部九州には無い、邪馬台国時代の大きな墓って、
>具体的にはどの墓のこと?
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
纒向矢塚古墳も96メートル
纒向勝山古墳が110メートル
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これらすべて、弥生時代末期の邪馬台国時代かそれよりも古いものだよ
この、各地で首長層が成長し隔絶した地位を持つようになった時期に、
北部九州は主張個人への権力集中の点で出遅れている 他にも四隅突出墓の地域には、鳥取市・西桂見墳丘墓という一辺が60m以上にもなる
最大級の墳丘墓があるし、丹波の王墓級としては他にも大風呂南墳丘墓という
27×18メートルの厚葬墓があり、鏡以外の副葬品では平原1号墓より豪華だよ
たくさんあるだろ? >>254の訂正
× 北部九州は主張個人への権力集中
○ 北部九州は首長個人への権力集中 >>254
ふむふむ。
畿内には邪馬台国時代に大きな古墳があったんだね。
邪馬台国時代の女王墓はないのかい? 整った建物に何も無くてプラス要素からマイナス要素になってしまったことに気づいていないようだな。 >>257
>畿内には邪馬台国時代に大きな古墳があったんだね。
畿内に限らず、西日本の複数の地域でただ一人の首長のために膨大な労力を
つぎ込んだ巨大墳丘墓の時代が古墳時代に入る直前にあるんだよ
そして、定型化した前方後円墳は各地の墳丘墓の特徴を総花的に取り込むことで完成している
その巨大墳丘墓の時代に取り残されているのが北部九州
>邪馬台国時代の女王墓はないのかい?
その時代の列島の最大の墳丘墓が、倭王墓の第一候補になるのだが、>>254にに示したように
纒向古墳群のものはどれも築造時に列島最大なので、条件をクリアしている
あとは編年次第で、卑弥呼の没年前後のものが特定できれば、それが卑弥呼の墓で
ある可能性が高い
ただ、埋葬主体部が発掘された墳墓がないので、今のところ決め手がないというところだよ
この畿内の王墓級で埋葬主体部が「発掘された墳墓」がない、というのを
畿内では「副葬品がない」、とわざとすり替えてグダグダ言ってるのが九州説のヤカラ 九州倭国は、2世紀半ばから倭国乱やってましたからなあ。
倭人伝によると、
3世紀半ばまで邪馬台国と狗奴国で激しく戦ってましたからなあ。
>>259が考古学的に明示している通り、
巨大墳丘墓なんて作っていなかった
北部九州に邪馬台国で確定ですなあ。 伊都クズの言う「考古学的に」は考古学者が誰も主張していない >>258
>整った建物に何も無くてプラス要素からマイナス要素になってしまったことに気づいていないようだな。
平原1号墓では、柱穴二つで地上部はまったく分からないにもかかわらず
「これは鳥居だ」「古代神道の証拠だ」と吹きまくるのにww
しかも二対のうち一つは、方形周溝墓の「周溝の中」に立ってるし
どうも鳥居じゃなさそうだぞw
建物のすぐ近くから大型祭祀土壙も出ているし、柵列で囲まれている
建物そのものに十分な価値があるし >>260
>巨大墳丘墓なんて作っていなかった
>北部九州に邪馬台国で確定ですなあ。
でも魏志倭人伝には「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」という、
王(首長)の死に際して 巨大な冢=墳丘を作る倭国の風習が
ばっちり書かれていてそれがそのまま古墳時代につながる
北部九州では無理じゃね? >大型祭祀土壙も出ているし、柵列で囲まれている
これが畿内説の反論か〜(棒読み 三国志東夷伝には、
三国志東夷伝韓条にも「冢」が出てくる。
弥生時代朝鮮半島の住居を冢の如しとしていることから、
せいぜい10〜15メートル以下の、円形もしくは方形の家屋が、「冢」 >>260
>九州倭国は、2世紀半ばから倭国乱やってましたからなあ。
それいつ頃?
卑彌呼が共立されてから、乱は治まってるし各地で実際に巨大墳墓を作ってるよ?
>倭人伝によると、
>3世紀半ばまで邪馬台国と狗奴国で激しく戦ってましたからなあ。
魏志倭人伝には倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼『素不和』と書いてあるんだが?
通常の読み下しでは「もとより和せず」だ
激しく戦っている風でもないぞ?
魏志倭人伝、ちゃんと読んでるか?
誰かの勝手解釈も解説本じゃなくて、原本で読んでるか? 倭王墓と主張する墓に、きちんと整列した杭列すら作ってないのに? 現代の大家である、
コウ・シブサワは何をしているんだろう 整った建物に何も無くてプラス要素からマイナス要素になってしまったことに気づいていないようだな。
え?何か出土したの? >>261
王権の象徴たる八咫の鏡は、そのために副葬したはずだけどね。
これこそが倭国女王の墓であると。 >>273
卑弥呼が本当に倭王であるかどうかを確認しに来た。
そして、伊都国までしか来なかったが、確認はできた。 皇帝が封して金印や贈物を贈ったのに、卑弥呼の手元で開封されるとこまで見届けないと職務怠慢じゃん。 >>277
>王権の象徴たる八咫の鏡は、そのために副葬したはずだけどね。
平原1号墓の破鏡供献の出土鏡の円周長が八咫だという主張には、根拠もないし意味もないことはさんざんやったんだけどな
それに「八咫の鏡」と書いてる時点で、日本の皇統の象徴である伊勢の御神鏡「八咫鏡」とは別物だって分かってるんだろ?w 周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。 定義が混乱していたんだよね。
そして倭人は独自解釈で鏡を作った。 倭人独自なら漢尺である必然性はないな
つまり、平原出土鏡の円周が八咫である根拠もなくなる
お疲れ様w 「八咫の鏡」好きのみなさん。 またまた倭国(阿波)から、はいどうぞ。
第2番札所 徳島市 「金山神社・立岩神社」 「八尺(やあた)の鏡はこの地で作られた」
ご存知のように日本の皇室に代々伝わる『三種の神器』とは、『天叢雲の剣(草薙の剣)』、『八尺の鏡』、『八尺(やさか)にの勾玉』をいうが、その神器のひとつ『八尺の鏡』の製作地はこの神社であるという伝承がある。
その背景には、銅鐸や銅鏡の出土が多く「たたら跡」と見られる史跡もあるこの地区が「日本の治金技術発祥の地」ではないかという説がある。
見渡すと周辺にも「金谷」、「多々羅(古来、精錬所のことを『たたら』という)」、「八田(八尺)」という地名が残り、まさにこの「金山神社・立岩神社」の鎮座地自体も『多家良(たから)』という埋蔵金ミステリーそのまんまの名前。
この精錬伝承の中心となっているのが、『金山神社』と『立岩神社』の両神社である。金山神社は鍛冶の神である金山毘古(かなやまびこ)神を祀り、その境内の中に高さ7m幅4mの日本一の巨大陽石(と掲示されている)をご神体とする『立岩神社』が鎮座する。
この巨石は『天津麻羅(あまつまら)』を祭神とし、素朴に男性を象徴しているが特に通俗的な信仰はない。
古事記には「八尺の鏡は天の金山の鉄をとりて天津麻羅を求ぎて伊斯許理度売命(いしきりどめのみこと)に科せて鏡をつくらしめ」という記述があり、これがこの地が八尺の鏡製造地であることを裏付けている。
なお、ここより直線で13キロ西には神山町の『立岩神社』(第3番札所)があり、ここには高さ20m幅20mの女性器を象徴する巨石があり、古来より「天の岩戸」と称されている。 @阿波 >>228
なんで卑弥呼を日巫女と同じようにように考えていることが、
「悪質な印象操作」になるんですかね?
個人名と役職名で違うから悪質な印象操作である主張しているようですが、
HPの方も私も、太陽祭祀を行うシャーマンという役割を持つ女性として、
「日巫女」と考えているのですから、全く同じですよ。
役割から類推しているのですから、それが役割についた名ということです。
部長の例でいうなら「ブチョウ」のという名称の意味を役割から推論しているのと
全く同じです。
スレで色々主張いただけるは、勉強にもなりますし、有難いですが、
おかしな悪質な印象操作のようなことはやめて頂きたいですね。 >>289
>なんで卑弥呼を日巫女と同じようにように考えていることが、
>「悪質な印象操作」になるんですかね?
まただ
批判のポイントをずらして、批判側が間違っているような印象を付けようとする
ポイントはここ>>228を再掲
最初の「卑弥呼=日巫女」は多くの人が推論としていっている部分
推論であって、結論でもなんでもない
『複数いても構わない』から『魏略の女王と親魏倭王は別人』の部分は
お鏡さん以外、「誰も賛同してない」ぞ!
つまり、一部分の推量が一致しているだけなのを、
全体の結論が一致しているような紹介をしているってこと
論点をずらしてマウントしようとするのが、科学とはほど遠いよな へえ、では「日巫女」を役職名として見ていることが例のHPと
私で全く同じ推論というところは、納得頂けましたかね?
それなら結構ですよ。
>>221 で、私がHPの人も二人の日巫女論だなんて、言っていないことは、
読めばわかりますから、>>228 の話は別にどうでもいいです。 あと、「誰も賛同していない」もあなたの印象操作だったようで。
手を挙げてくださった方、本当にありがとうございます。 あと、お鏡さんは、
平原1号墓の出土鏡の円周は「計ったら漢尺の八咫なのは事実」
畿内でも大型の内行花文鏡が大事にされているのは、平原1号墓の八咫の鏡の伝統
という主張だと思うが、だったらなぜ、畿内の大型内行花文鏡の面径は「2尺じゃない」んだ?
下池山古墳出土鏡も柳本大塚古墳出土鏡も面径が2尺じゃないよな?
他にもそれより小さいが、それでもそれなりに大きな鏡が出ている
この説明としては、
畿内の大型内行花文鏡は、平原1号墓出土鏡とは無関係
円周長が八咫には何の意味もない偶然だから気にしてない
のどちらかだよな
どちらにしても、最初の二つの主張をセットで維持するのは無理だ 匿名の掲示板での名乗りにどれだけの意味があるんだかw >>293
論点ズラしは結構ですから、下記に はい、か いいえ、で答えてくださいね。
>では「日巫女」を役職名として見ていることが例のHPと
>私で全く同じ推論というところは、納得頂けましたかね?
>>294
すくなとも印象操作を行おうとする輩がいることは分かりましたね まあ
「計ったら」 ←円周を測った例が1例も出てこない
「漢尺の八咫」←漢尺の度量衡に咫はない
から最初から意味がないんだがな >>292
>あと、「誰も賛同していない」もあなたの印象操作だったようで。
特定の人物の賛否を問題にしている話題で、「誰も」っていうのは
「この特定の人は」って意味だぞ
賛同してないだろ? >>295
>すくなとも印象操作を行おうとする輩がいることは分かりましたね
はい、お鏡さんのことですね! 分かります! すくなともっていうのは、飛騨の伝説の両面宿儺さんのことですか? >>298
何言っているか、意味不明になってますよ。
はやく、295に はい、 か いいえ、で回答してくださいね。 >>295
それ
「最初の「卑弥呼=日巫女」は多くの人が推論としていっている部分 」
と言ってる人に、意味ある質問? 前も「短慮すぎる」とか書いてたけど、日本語の通常の用法では
「短慮にすぎる」が普通
もうちょっと、日本語の表記に気をつかうべきだろうな、お鏡さんは
このままでは、文章の書き手としてもダメ造だ >>302
はい の答えだから、だから蛇足な質問、という意味でしょうか?
では、そろそろ仕事にいってきますねー たまにだけ出てくることで、答えたくないことには答えないっていう戦略なのかな?
お答えがないから、再掲
お返事ないから、再掲
そして、特別な儀式に対する疑問をこれから書く
お鏡さんが言うのは大柱の存在だが、その他にも平原1号墓の埋葬主体部の周りからは多くの柱穴が検出されている
埋葬主体部のすぐ周りに配置されているものは、方形に並べられ、また軸線上に少し離れて両側に1本ずつ柱穴があるため、棟持ち柱のある喪屋が想定されていたが、柱を立てるには穴が細すぎるということで、今は「杭(くい)列」跡とされているようだ
また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
二つの「鳥居」は平行に立っていない
「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
大事な女王を送る葬送施設の作りとしては杜撰だ
平原1号墓の平面図としてはこれが見やすいんじゃないかな
http://syoki-kaimei....85A8E4BD93E59BB3.jpg
そして、お鏡さんが大事にしている大柱と日向峠を結ぶ線と、埋葬主体部の軸線はずれている >>301
うーん、>>298に言われたことが解らないって
そうとうヤバくね?
もちろん脳がだが 「最初の「卑弥呼=日巫女」は多くの人が推論としていっている部分 」
これは結論でも何でもなくて、多くの人が言っている「推論」
これをわざわざ「結論」という言葉を使うことで、
「論証した結末まで同じだ」という印象になるんだよ
「結論」は同じじゃない
それを、無関係な人も賛同しているように印象づけようという意図が透けて見える >>293
>という主張だと思うが、だったらなぜ、畿内の大型内行花文鏡の面径は「2尺じゃない」んだ?
王権の象徴である八咫の大きさで鏡を作ったら、大乱罪だよ。
アホか。 >>306
>ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
>二つの「鳥居」は平行に立っていない
>「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
何度か立て直したのかもしれないし、千本鳥居だって直線に並べることはほとんどない。 だからずれて複数あるんだろ?
なんでズレて複数あるのかという話をしているのだから、立て直したと言っているのだが? >>314
>>311
>>二つの「鳥居」は平行に立っていない >>316
遺跡に対して、何故そうなっているのか考えるのは当然のこと。
お前は考える頭がないのか? 立て直しかどうかの判断は位置関係で判断する
それが普通の頭の持ち主 >>220
>方位を正確に測るのと、夏至から110日、(10月20日の場合は120日)
>数えるのとどちらが簡単ですかね?
これも、確認を取ってみるとひどい話だってのが分かる
>>169で「夏至を起点として110日後という私の推測」とか言っているが
>>171で
「「夏至を起点として『110日後』」の「物理的な証拠」なんて『あり得ない』ぞ 」
と言われて
>>176で
「110日後はモモソヒメの名前からの類推ですよ。」と言い出して、
それをさらに
>>220で「夏至から110日、(10月20日の場合は120日)」と言い始める
120日だったら、モモソヒメ関係ないじゃん!
類推も何も「モモハタ」ヒメじゃないんだから、根拠にも何にもならない
でもって、実際に今年の暦で夏至から10月20日までの日数を数えると
「122日」だ
前スレで、モモソヒメだから110日を夏至から数える、そうしたら10月10日になる
その日に三輪山から日が昇るのを拝むからモモソヒメとか言い出してたが、
10月10日に三輪山から日は昇らないし、日が昇る日は夏至から数えて122日目
まあ、こっちもすぐに確認しなかったのが悪いといえば悪いが、
最初から最後まで、全然数字が1個も合ってない
「仮説思考と実証思考の差なんでしょうね。」じゃないだろ?
仮説の体すらなしてないぞ? >>311
>何度か立て直したのかもしれないし、千本鳥居だって直線に並べることはほとんどない。
「鳥居と杭列は別」だってのをまず確認してくれ
http://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Y23E5B9B3E58E9FEFBC91E58FB7E5A2B3E585A8E4BD93E59BB3.jpg
その上で、言うが、杭列は葬送儀礼の1回しか使わないだろう
立て直すことなんてないよ
それとあくまで「通称」鳥居だ
前にも議論に少しなっていたが、「地上部なしの柱穴」だけで鳥居と判断するのは
根拠に乏しいというかほぼない
鳥居であろうがなかろうが、王墓(と伊都国説が主張する)の葬送のための施設が
軸線に正対していなくてゆがんでいるというのは、ありえることかね?
たった一回の大事な儀式のための杭列を、特に測量もせずに適当に立てるなんて
いうのが、伊都国にいた倭国王の葬送祭祀のやりかたなのかね? >>334
>独断と偏見だな
はい、いつものですね!(ニッコリ)
根拠なし&言いっぱなしw >>333
文献は信じない!
遺跡から考察することはしない!
鏡の大きさも偶然!
全ては虚無だ!
邪馬台国は何もわからない!
でも畿内についてだけは妄想を膨らませるよ!
これが畿内説。 >>336
その上、粘着質で気持ち悪いしな
延々とテンプレを貼るのが趣味みたいだし >>336
文献を信じると伊都国に倭女王はおらず
遺跡から考察すると、鳥居の建て替えなんて無いわけのだが >>336 いちいち空行を入れると行数制限に触れるから、引用は「 」に入れて空行を節約するよ
>「文献は信じない!」
史料の限界も考慮せずに、何でも正しいって言い張ってたら、それはただの原理主義ですよ?
実際、末慮国と伊都国間の経路は、東南五百里じゃないですしそこまで信じるのは無意味です
>「遺跡から考察することはしない!」
考察してるじゃないですか?
倭王の葬送において、その墓地での杭列はどのようなものが想定されるかを、遺跡の実測図から考察してるのがこちら側で、逃げ回っているのが>>336他の伊都国推しの方でしょ?
>「鏡の大きさも偶然!」
これははっきり偶然でしょう
同笵鏡以外、サイズを意識した「ように見える」ものすら皆無ですし、円形のものの大きさを円周長で示す例は、一切ありません
お鏡さんですらこの件の言及は避けていて「測っても構わないだろう」以上のことは言いませんよ?
>「全ては虚無だ!」
九州説にとってはそうかもしれませんね! 特に伊都国推しは!
最初から邪馬台国とは別の国だと書いてある伊都国を、無理やり倭国の都だと言い張ってる訳ですから
でもそれだと、どうして伊都国に着いたところで、至伊都国女王之所都って書かれていないのか、説明できないんですけどね
>「邪馬台国は何もわからない! 」
ずいぶん、倭国の国家形成については研究が進んでいますよ?
最近も、邪馬台国時代と想定されていた植物試料の14C年代測定の結果が公表されましたし
地域首長への権力の集中、地域王権の伸長と首長墓の高塚化を経て、古墳時代に入っていくという歴史の流れが、かなりはっきり描かれるようになっています
>「でも畿内についてだけは妄想を膨らませるよ! 」
畿内説は、考古学的遺物であと付けられる部分を中心に、魏志倭人伝の記述を確認しながら読む読み方なので、妄想からはかなり遠いですね
「日巫女が二人いる」なんてことは言いませんし、「魏略の女王と親魏倭王が別人」なんていう想像(創造?)もしません
>「これが畿内説。」
誤解だらけですね!
お鏡さんも、お仲間の九州説のレベルが低くて頭痛そうww >>338
二つの鳥居が同時に互いに斜めに建てられたと考える根拠は? >>322
卑弥呼神社とかどこにもないもんな、人名じゃあないということだ >>340
だって葬式は一度だろう?
周溝は再掘削とかされてないし
レイラインに関係あるなら軸がズレて再建されるのはおかしい
同時にあってもおかしい
軸がズレてるのだから
つまりレイラインには関係ない
通路でもない
周溝を跨いでるんだから
現代人がいろいろ想像してるような目的で作られたものじゃないよ >>339
>これははっきり偶然でしょう
八咫鏡という名称の意味がなくなってしまいます。
その大きさの鏡の実在が判明しているのに、畿内説に、都合が悪いから逃げ回っているようにしか見えません。
岡上氏はその価値を認めた上で畿内説を唱えているので、彼の方がフェアな態度ですね。
>最近も、邪馬台国時代と想定されていた植物試料の14C年代測定の結果が公表されましたし
邪馬台国と関係ないものを持ち出されても困ります。
>地域首長への権力の集中、地域王権の伸長と首長墓の高塚化を経て、古墳時代に入っていくという歴史の流れが、かなりはっきり描かれるようになっています
魏志倭人伝では2世紀の倭国大乱の前からも王がいたと言っているのですから、3世紀中頃から権力が集まり始める纒向は、卑弥呼の死後にしか発展できなかったということです。
邪馬台国ではありません。
>畿内説は、考古学的遺物であと付けられる部分を中心に、魏志倭人伝の記述を確認しながら読む読み方なので、妄想からはかなり遠いですね
畿内説は魏志倭人伝の記述をほぼ無視していますよね。 >>342
>つまりレイラインには関係ない
かもしれないですね。
現代の神社でも、鳥居の向きに大きな意味を持たせているとはあまり思えません。
鳥居の場所を動かすのもよくあることです。 >>340
>二つの鳥居が同時に互いに斜めに建てられたと考える根拠は?
じゃあ、お鏡さんお気に入りの大柱が、葬送儀礼のときにあったと考える理由は?
なかったと考える理由でもいいよ?
意味のない質問だと思うよ
まあ、報告書をきちんと読んだ訳ではないから、断定的なことも言えないけれど、
二つの鳥居(仮)が立てられた時期に時間差があるなら、先に立てられた方の
柱穴の跡が、埋まっている様子が観察されたりするんじゃないの?
それに、立て替えたなら、どうして1回目と2回目で「異なる場所に立てたの」?
立てる場所は、それほど重要じゃなかったって言いたいの?
つまり、宗教行事的に重要ではなかったと主張したいの? >>342
>通路でもない
>周溝を跨いでるんだから
これ、何のこと?
「一の鳥居」(仮)は墳丘上にあって、
「二の鳥居」(仮)は「周溝内」に立っているんだが?
周溝を跨いでいる鳥居はないだろ? >>343
>八咫鏡という名称の意味がなくなってしまいます。
だから意味ないんじゃないの?
七、八世紀の文献に出て来る言葉でしょ?
平原王墓と関係なくて全くおかしくない >>347
よく読んでね
通路でもない
↓
周溝を跨いでる んだから 桃からの纏向の実年代は邪馬台国時代というのは
通説、これまでの発掘成果と整合したということで良いでしょう。 >>343
>八咫鏡という名称の意味がなくなってしまいます。
???
平原一号墓出土鏡を八咫鏡と呼びたがっているのは、伊都国推しの人が中心で
そんな名称は後付けであって「意味がない」と最初から主張しているつもりだけど
読み取ってもらえてないかな?
>その大きさの鏡の実在が判明しているのに、畿内説に、都合が悪いから逃げ回っているようにしか見えません。
だから、インチで計れば「57.51インチ」の大きさの鏡は実在しているよ?
それを否定したことは一度もない
それを計るのに、計量単位として実用単位として使われた形跡がない「咫」で
計るのが恣意的で、意味がないと言っているだけ
鏡の実在を論じているのではなく、そこに、後付けで「意味のある名称を付与」
しようとしている、その解釈部分が恣意的で無理筋、というのがこちらの主張
実際、記録にも平原及び伊都国に八咫鏡を埋めたなんて話はないだろう?
>岡上氏はその価値を認めた上で畿内説を唱えているので、彼の方がフェアな態度ですね。
お鏡さんは東遷論者の成れの果てだよ
でも、九州に王が居たって言うのを手放したくないから、二人の日巫女とか言っているだけ >>349
ああ、言いたいことは分かった
鳥居のように、その下を通ることは想定されていないって言いたいんだな
了解
つまり、鳥居ではないってことだ >>353
そうそう
わかってくれた?
ソッテじゃないかとも思う 今度はソッテって何だろうと思ってググって来たよw
鳥のトーテムだと思えばいいのかな?
実は「一の鳥居、二の鳥居」(仮)とは別に、墳丘墓の横向きにもう一つ、
対になる柱穴(三の鳥居、仮)があるんだよね
>>333で示した図では、上側の周溝のすぐ外に3号鳥居として書かれている
これなんかは完全に「レイライン」とかとは無関係だし、
何らかの装飾用のポールって見方もありだよね
ソッテかどうかは分からないけれど
ソッテには、二本ずつ対で立てるっていう風習とかはあるの? 土壙墓が埋まった周溝の中に作られてるんだし、
鳥居も埋まった周溝の中に作られてるんだから、
鳥居を作る時には周溝なんてなかったわけだ。 >>350
有った証拠じゃなくって、無かった証拠になっていることに気づいていないようだな >>351
>鏡の実在を論じているのではなく、そこに、後付けで「意味のある名称を付与」
>しようとしている、その解釈部分が恣意的で無理筋、というのがこちらの主張
後付けでそんなことをいう意味もないし、後付けだという根拠もない。
>実際、記録にも平原及び伊都国に八咫鏡を埋めたなんて話はないだろう?
記録が失われただけだろう。
そのような鏡が実在する以上、かつてそのような記憶があったのだろう。 鳥居は神域と俗界を区画する門ですから、別に人が出入りする必要はないのですが。
一般人が人権を持つ現代の神社は、一般人が拝殿の中まで出入りしますが、
古代であれば、神域に人が立ち入りのは不敬にあたるでしょう。
むしろ周溝がある程度は境界線として残っていて、
鳥居があって、その中が卑弥呼の眠る神域。
鳥居の前で祭事を行うわけでしょう。 >>351
>お鏡さんは東遷論者の成れの果てだよ
勝手にあなたの病的な岡上像を広めないでもらえますか?
私はもともとは漠然と畿内 にて自生したと思ってましたよ(笑)。
ここに来る遥か以前の話ですが。
それに、>>332 も全く見当はずれですよ。
批判するのは大いに結構ですが、私の論をまともに知ろうとしていないので、
なんの意味もない駄レスになってますね。 >>357
いやいや、まだ発掘されてない、
重要なところが発掘されてないから! >>360
>>351の分はまあいいや、意見の相違としか言いようがない
でも、>>332は、お鏡さんの書き込み分もきちんと引用してあるし、
どこがどう見当はずれなのか、きちんと指摘してもらえるかな?
九州説の人はいつも、「そうじゃない」というだけで、理由も根拠も言わない
こういうと、また「九州説じゃなくて私は畿内説ですよ」とか言い出しそうだけれど、
そこは気にしなくていいからな
日付や日数を重視した論立てなのに、その日付も日数も不正確では話にならない >>358
>後付けでそんなことをいう意味もないし、後付けだという根拠もない。
「後付けでそんなことをいう意味もない」という部分には完全に同意
「後付けだという根拠もない」という部分は、私の言いたいことを理解していないな
後付けどころか、「最初から最後までそう呼ばれていたと考える理由がない」だよ
今も昔も、八咫鏡と呼ばれたと思っていないし、呼ばれる理由がない
>記録が失われただけだろう。
>そのような鏡が実在する以上、かつてそのような記憶があったのだろう。
現実にないものを、あったはずというのは捏造だよ
鏡はあるけれど、それが「八咫」であるという理由はないし
「そのような記憶」があったと考えるのも「捏造」 >>359
>むしろ周溝がある程度は境界線として残っていて、
>鳥居があって、その中が卑弥呼の眠る神域。
>鳥居の前で祭事を行うわけでしょう。
>>333で示している発掘平面図をよく見て!
その境界線であるべき周溝が埋まった土を掘って、土坑墓がいくつも作られている
あまつさえ、墳丘上にも土坑墓が穿たれているんだよ
土坑墓と墳丘主体の埋葬時間差がどれくらいあるかは判断が難しいけれど、
土坑墓が作られる頃には、埋葬主体への敬意は既になかったように見受けられる 卑弥呼が畿内にいたと主張するなら、それは畿内説です。
岡上氏は平原遺跡の価値を認めた上で、あえて畿内説を主張されている様子。
平原遺跡を無視して桃の種とやらに執着しているよりはずっとマシ。
ちなみに私も、昔は宮崎に天尊降臨?奈良県と関係ないじゃん、あんな田舎は信用ならん、と思っていました。
ところがですね、福岡にははるか紀元前から王墓があり、稲作も福岡に上陸して、弥生時代は九州北部からスタートしたと。
しかも筑紫の日向は宮崎県ではなく、もともと福岡県の筑紫だというではありませんか。
その視点に立つと、記紀も祝詞も後漢書も、全ては一貫して倭国とは九州北部、福岡県の筑紫であるらしいと。 >>365は
鳥居(仮)が周溝が埋まった土に立てられていたとすると、
土坑墓と同じ時期ということになるってことだよ >>363
そうですね、面白いのでほっときましょうか。
>>362
そういうわけで、何が的外れだったか、ご自分で考えてください。 >>364
>今も昔も、八咫鏡と呼ばれたと思っていないし、呼ばれる理由がない
では、何を八咫鏡と呼ぶのか?
それは何故なのか? >>365
卑弥呼はお上=神様ですから神域内に埋葬しますが、
殉葬の奴婢たちは一般人ですから、境界線上に埋葬されるのは当たり前でしょう。
境界線上で卑弥呼を護るわけです。
2号墓被葬者や、墳丘上の土壙墓被葬者は、身分の高い殉死家臣だったのでしょう。
自然な構造だと思われますが。 >>364
>現実にないものを、あったはずというのは捏造だよ
漢尺に対して、円周をもとに咫を定義したと仮定しましょう。
すると、それに見合った鏡が存在し、すべてが矛盾なく説明できるのです。
そのような仮定を棄却する必要はありません。 おいおい。
九州王の次は伊都国女王かいな。
どうなってんだ?w 九州王さんのHNを見て、区別のためというか、羨ましくなったというか。 都合が悪くなると急にレスをしなくなる分かり易すぎる畿内説 >>372
すべてが矛盾なく説明できるって証明が
原理的に出来ないから
棄却でしょ >>372
漢尺に対して咫が設定されていたという事例が確認されないので矛盾が生じます >>370
現物を見た人がいないので
何を八咫鏡と呼ぶのかは不明
理由と解らない
八咫烏と同じ 伊都クズが論理的思考能力ゼロなのは最初からわかってることだからなぁ >>378
中婦人手長と矛盾するので棄却せざるを得ない 分からないことが自慢の畿内説www
適当に罵倒してお茶を濁すの図www わからないことはわからないとするのが学問的に正しい姿勢
根拠のない当て嵌めパズルをごり押しするのは学問ごっこ 畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、畿内王権は自然発生したのであり、筑紫から流入した勢力などありません
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです
九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が使え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました 本当に畿内説だと何にも分からなくなるなあ。
それは間違った説だからだろうなあ。 わかった気になってるみたいけど学問的にはゴミだなぁ >>384
分からないことは分からないとするのが
学問なのに・・・ >>386
このように
反論の代わりに
捏造と罵倒で答えるのが
九州勢 >>376
>都合が悪くなると急にレスをしなくなる分かり易すぎる畿内説
んで、何が畿内説に都合が悪いって?
具体的に教えて♪ 都合が悪くなると急にレスをしなくなる分かり易すぎる九州説 って
これマジ笑える 畿内説は困ると鸚鵡返しをする。
わかりやすいなあ。 基地が暴れて板全体に迷惑かけてることに困ってるといやぁ困ってるなぁ
基地の書き込み内容はただの妄想だから学術的な面では全く困っていない 鳥居で敗北したのがよほどこたえたようだな キナイコシ 古代神道の成立過程を知る上で、鳥居と八咫の鏡が登場する平原遺跡は重要だよ。
しかもその被葬者が倭国大乱の後の女王なんだよね。
畿内説ではこの女王が誰だか皆目説明できないが、九州説なら説明できるのです。
卑弥呼であると。 キナイコシ
シャドーボクシングしていたら鳥居に引っかかって
一人でノックダウン 乙www >>377
>>386
>>400
もう決まりだな。
適用に矛盾が出ないってことは、仮説として合理的ということだ。
仮説の合理性の判定って、他にあるのか? 根拠が妥当なものかどうか
根拠からの立論過程に飛躍がないかどうか
お前、大学で研究方法学んでないだろ 根拠が妥当なものかどうか
根拠からの立論過程に飛躍がないかどうか
お前、大学で研究方法学んでないだろ
畿内説の根拠は桃の種だ(キリッ)
あ、紅花か
wwww 根拠を出せない九州説の決め台詞は「説明できるんだ!」wwwww >>407
モモの種も紅花も根拠ではないんだが
マジに伊都クズって論理構造とか理解できてないんだな >>371
>墳丘上の土壙墓被葬者は、身分の高い殉死家臣だったのでしょう。
ただ一人に首長のための神聖な墓域に、穴をあけるっていう感覚が分からん
身分が高くても家臣は家臣であって、首長のための聖域に葬るってのは日本の墓制では異端だぞ
その身分が高い家臣がどうして棺なしの土坑墓なんだ?
言ってることが矛盾だらけだぞ! >>369
了解です
お鏡さんは誰にでも分かることを簡単に説明することすらできない無能、という自己申告ですね!
お鏡さんによると、箸中山古墳から見て、夏至(なぜなら日巫女だから夏至が基準)から
110日後(なぜならモモソヒメだから)の10月10日に、三輪山から日が昇るんだって
でも、実際に日が昇るのは10月20日で、夏至から数えて122日目なんだよ
これに何の意味があるんだ?
>>363の人でもいいや、これから何が分かるんだい?
「お鏡さんは思いつきを適当に並べるだけの論理性に欠ける人」ってこと以外には
分かることはないと思うが >>409
畿内説のいう根拠って、あっちのテンプレで長々と述べられている妄想みたいなもの? 畿内説は百襲姫説を捨てたのか?
あっちのスレで長々と百襲姫について書いてあったのは撤回するのか?
百襲姫と明言したことはないとか、そう言った記録はないとか、畿内説が百襲姫が卑弥呼だと主張したという根拠は、とか聞いてくるかもしれないな。
本当にクズだわ。 >>370
>では、何を八咫鏡と呼ぶのか?
固有名詞としての八咫鏡は伊勢の御神鏡と、宮中にある御神鏡の形代のみ
平原1号墓出土鏡を八咫鏡と呼びたがるのはその権威に仮冒したいという気持ちがあるからだろう
皇統のレガリア以外の鏡が八咫鏡と呼ばれている例もあり、その場合は単に祭祀目的の
大鏡を指すようだ
日本書紀
巻第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇
神夏磯媛の景行天皇への服属の場面
「則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊」
巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
>それは何故なのか?
八咫鏡という呼称の「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるという通説に従う、ということだ
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った
つまり、神夏磯媛と小鹿火宿禰の鏡は、伊勢の神鏡=八咫鏡とは無関係ってことだ
つまり、天照大神とも無関係だな
卑弥呼ともつながらない >>414
>畿内説は百襲姫説を捨てたのか?
本当に思いつきしか書かないなぁ
>>411は、お鏡さんの書いた「モモソヒメだから110日後」っていうのが
まるで意味も根拠もないって話だぞ! >>403
えっ
大学で学ぶ研究方法がこれ?
そんな大学は潰した方が良い。
詐欺師を養成する大学は有害だから潰せ。 >>411
>お鏡さんは誰にでも分かることを簡単に説明することすらできない無能、という自己申告ですね!
印象操作はやめようね、事実と違うからね。
あなたが自分で分からないのを棚に上げて、
自分に理解できるよう説明しない相手が悪いは世の中、通用しないよ。 >>417
根拠なんて関係ない 説明つけられりゃいいんだよ
って言いたいの? 高校すら卒業してないのか? >>359
>むしろ周溝がある程度は境界線として残っていて、
>鳥居があって、その中が卑弥呼の眠る神域。
>鳥居の前で祭事を行うわけでしょう。
一生懸命に屁理屈を考えてくれたんだろうが、それだと埋葬主体部周りの杭列が
まったく説明できないんだ
祭祀の本体は埋葬主体部に対して墳丘上で行っていたことを杭列が示しており、
周溝と鳥居が境界線で中に入れないとか、鳥居の前で祭事とかいうのは単なる思いつきだな
鳥居じゃなさそうだよ
そして、元々のお鏡さんの主張の10月24日の日の出方向ってのはどうなったんだ? >>418
>あなたが自分で分からないのを棚に上げて、
>自分に理解できるよう説明しない相手が悪いは世の中、通用しないよ。
いや、自分の主張を理解してもらう努力をしない説を唱えるってのに何の意味があるんだ?
まあいいや、>>418は理解できているようだから、>>418が説明してくれてもいいんだよ?
まさか>>418も理解できていないのにえらそうなことを書いてたとは言わないよね?
お鏡さんによると、箸中山古墳から見て、夏至(なぜなら日巫女だから夏至が基準)から
110日後(なぜならモモソヒメだから)の10月10日に、三輪山から日が昇るんだって
でも、実際に日が昇るのは10月20日で、夏至から数えて122日目なんだよ
これに何の意味があるのか、教えてくれよw >>399
>鳥居で敗北したのがよほどこたえたようだな
はて、このスレでの結論は「鳥居と見なす根拠はない」なんだが?
>>342、>>353、>>354を読んでおいて >>424
根拠を提示できゃ周囲の理解は得られない >>426
存在しない事実は根拠にならないよね?
円周の単位だとか漢代の咫とかねw 時代が違うものは〜とかいいながら現代の復元数値で立論する池沼 >>379
>>>372
>漢尺に対して咫が設定されていたという事例が確認されないので矛盾が生じます
これ、矛盾は生じていないよね? >>429
お前には理解不能なんだろうな
この時代には咫という単位がある、という主張なのに
その実例が論証対象となっている1例しか提示できないのであれば
咫という単位の存在を疑うには十分だ
矛盾してるよ >>427
ほれ、それが詐欺の手口よ
言ってもいない仮定の話を始める。 事実と解釈の違いを分かってないとか
歴史を語るには時間軸を無視できないことを理解してないとか
この仮説なら説明できるとかいいながら芋蔓式に仮説を量産してることに気がつかないとか
現実みないでウソをつきまくるとか
およそ研究には向いていないな シャドーボクシングって言われてる意味がわかってないんだよ。 >>431
都合が悪い事実は無視ですか?
じゃ、咫って何?
1咫の長さはどう決めたの? 自分だけの論理で突っ走っている誰かさんは独り相撲といわれてましたねw >>435
八咫鏡だー説は矛盾を指摘されてだんまり
なんだから、仮説の棄却は必至でしょ
違う? >>436
八咫鏡だ→だから卑弥呼の墓だ
という論理を論破してやる
という議論にすり替えて暴れているようだが、
倭人伝の行程論が解明された&平原は弥生女王墓で卑弥呼が貰った下賜品がある
→だから卑弥呼の墓だ
→そういえば八咫鏡だよね
という話なのだよ?
戦うポイントを間違ってるんじゃないかい? >>438
そのポイントとやら
破綻がもう確定してるから、その他論点が掃討されてるわけだが
??? >>438
その「もう邪馬台国は九州で決定済み」みたいな論調って、このスレの趣旨と違くないか? >>347
>周溝を跨いでいる鳥居はないだろ?
ないという根拠は?
海の中に立っている鳥居すら珍しくはないというのに。 >>430
>その実例が論証対象となっている1例しか提示できないのであれば
例が提示できたのだから認めろよ。 >>441
じゃ、墓道と無関係に立ってる鳥居の機能は何だ?
レイラインはもう否定されてたよね? >>422
説明書を読まずに動かないと騒ぐクレーマーみたい しかしなあ
八咫鏡説は矛盾が露呈
レイラインは疑問符がつき
伊都国王=倭国女王説は魏略に否定された
伊都説死亡だろ 時々、スレチな内容があるね、、、
伊都説とはなんだろうか、、、 >>446
4方向に鳥居がある神社を見たことがない。 >>449
何がどう矛盾?
そう言い張っているだけだろ。 >>451
確定事項だろ
伊都説側は反論不能なんだから >>452
じゃあ聖域の明示では説明がつかないなあ 伊都国東遷とか妄想もたいがいにせーや。気持ち悪い。 >>458
まあ、死んだ東遷説のゾンビみたいなもんだからな >>441
>ないという根拠は?
>海の中に立っている鳥居すら珍しくはないというのに。
頭悪すぎ
今話題になっているのは、>>333で図まで丁寧に示していただいている、
平原1号墓周辺の柱穴のこと
平原1号墓の対になった柱穴で、鳥居ではないかといわれている3対の柱穴の
ことしか話題にしていない
>>333から確認してきてごらん
周溝を跨ぐ鳥居(?)なんて、一つもないだろ?
3つしかないんだからすぐ確認できる
平原1号墓に海の中に立つ鳥居があったらびっくりだよ >>443他のおバカさんへ
実例があるから正しい、というのはそれだけでは意味がないだろう
実際九州説の筋立ては、結論ありきでそうなるための前提を「仮説」と
いっているだけだから明示的ではないけれど、実はただの循環論法なんだよ
Aだと仮定すれば、Bだと言える
Aは、Bが存在しているから正しい
循環論法だろ?
単にAは、Bだと言うための条件でしかない
Aの正しさがBと関わりなく示せない限り、AだからBの前提としては意味がない
Aが様々な事柄と齟齬がなく、合理的な根拠があることが示せなければ、
Aという前提を置くことに意味はない >>462
道路が濡れてるのは雨が降ったからだと盲信する人は
ホースを握ったおばさんが散水してるのを見ても
意見を変えない >>438
>倭人伝の行程論が解明された
解明されてないよ?
九州説の行程論は、>>462で示したような結論ありきの循環論法でしかない
「短里」しかり、「島巡り仮説」しかり、「水行の起点は帯方郡」しかり
>&平原は弥生女王墓で
女性が被葬者の厚葬墓、までは言えるだろうが、王墓かと言われるとかなり厳しい
貧弱で、王家ではなくて、王墓の立地でもないし、王墓ではないとする方が尤もらしい
>卑弥呼が貰った下賜品がある
どれのこと? まさか、無名の五尺刀1本のこと?
魏晋代の舶載鏡が一枚も出ないのに?
>→だから卑弥呼の墓だ
そう言えるだけの根拠はないよね?
反論したければどうぞ!
そんな訳ないとか一言で逃げるのは、反論じゃないよ?ww
>→そういえば八咫鏡だよね
これも既に否定されたよね?
>という話なのだよ?
どういう話?
「そういえば八咫」鏡程度なら、原田大六氏のミスリードに釣られましたって、言えば済むことだよ
原田大六氏は、当時の知識でのきちんとした考察をしているけれど、今の知見からすれば、結果的には的外れだった訳だ >>434
>じゃ、咫って何?
>1咫の長さはどう決めたの?
周代には、身体尺の実用単位として使われていた
身体尺だから、人によって長さが異なる=「咫」の決まった長さはない
秦の始皇帝の度量衡の統一以後、長さの単位は公定尺となったが、その体系に
「咫」は入っていないし、使われていない
その「使われていない」「長さの決まっていない」「既に実用の点では忘れられた」
単位である「咫」を使って計るとぴったり八咫だっていうのが、
「平原1号墓出土鏡を八咫の鏡と呼びたい仮説」だよ >>448
>説明書を読まずに動かないと騒ぐクレーマーみたい
いや?
説明書を読んで、説明書の矛盾箇所を丁寧に指摘した上で
「おかしい」
って言ってるんだが?
>>448さんは、お鏡さん理論(笑)の理解者らしいけれど、
>>448さんが説明してくれてもいいんだよ?
でもできないんでしょ? 論として成り立ってないから? 伊都説はね、文献学も考古学もあらかた無視したトンデモ説だよ このスレを邪馬台国九州説を論じるスレだと思ってるならスレチだぞ。 >>452
>4方向に鳥居がある神社を見たことがない。
熱田神宮は、東と西と南の3方に、鳥居があるよ
http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/keidai/
東門、西門、正門(南門)に鳥居がある
街中にある神社で、四方からアクセスできるところなら、
4方向にあるところも探せばあるんじゃないかな? 2方向しかないからおかしいということにはならないよ。 >>473に自己レス
京都の八坂神社は、南、東、北に鳥居があって、西楼門を鳥居のバージョンアップと見れば、
四方向に鳥居のある神社と言えると思う >>474
おかしいんだよ
門の機能が無い
墓道入り口は東南角にあって、そこには鳥居?が無い >>476
安心して(?)
私は、「鳥居(仮)は鳥居ではない説」だよ
その上で、いろんな柱穴の配置が、幾何学的に整列してなくて
「倭王の葬祭施設としてあまりに杜撰」という立場
平原1号墓を倭王の墓というのは、現実を見るときついだろ?
「卑弥呼の墓」でも「卑弥呼の前代の女王(だけど日巫女)の墓」でも、
どちらでもいいけどさ、どちらの主張も、倭王墓として見られなければ、
無意味な主張だよな >>474
>2方向しかないからおかしいということにはならないよ。
「2方向にしかないからおかしい」かどうかの前に、
「このスレを立てたお鏡さんの考え」では、
「鳥居(仮)1号、鳥居(仮)2号も、大柱と合わせて」
『日向峠から10月20日{(実際は10月23,4日)という、
夏至から数えて110日じゃなくて120日目(実際は125,6日目)}に
昇る朝日を迎えるラインにあるっていう説』では、
鳥居(仮)3号はどういう位置づけになるのか? っていうのが疑問なんだけれど? >>477
>鳥居には門の機能が要るって証拠は?
>>477は鳥居って、何だと思ってるんだい?
ウィキペディアが正しいとは言わないが、
「神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、
神域への入口を示すもの。一種の「門」である。」
というのが、普通の理解だろう >>477
人や神の通路に設けられ聖域内外の境界を表しているから >>131の
「箸中山古墳の方は、墳丘の主軸がまっすぐ夏至の日の出の向きに向けられているし、
そのライン上に神社も置かれている
三輪山山頂を意識しているのは、三輪山をご神体とする大神神社だよ
こちらも大神神社から見た夏至の太陽がきっちり三輪山山頂から昇る 」
の追加
纏向古墳群の、東田大塚古墳の主軸も、夏至の日の出の方角に合わされていて、
そのライン上に竜王山の山頂があり、その途中に渋谷向山古墳があるね
GPS考古学の人ほど厳密な測定じゃないし、渋谷向山古墳の主軸も
はっきりしないけれど、ほぼ重なっていると言ってよいと思う >>483
ちょっと興味が出てきた
>門でなければ鳥居ではないの?
門じゃない鳥居の例を、知っているなら教えて欲しい! 京都太秦の蚕の社にあるオカルト好きには超有名な三角鳥居は
中になにもなかった記憶してるんで門とは言えないと思う >>489
あれは三角の中が結界で、三面の門があるんじゃないの? その結界の中にご神体や依り代めいたものがあったっけ? >>482
私自身のことは別にいいどうでもいいですが、
平原の日の出の10月20日の話は、早く訂正して、お詫びされたほうがいいんじゃないですか?
峠という地形の特徴も考えずに、地図上の地点で考えてますよね??
柳田先生も含めて、現地で観測している人を舐めすぎじゃないですかね。
https://ameblo.jp/itokoku-hirabaruoubo/entry-12089890824.html
地域の大切なお祭りにもなっているみたいですよ。
平原を認めないのは勝手ですが、明らかにやりすぎですね。
個人的にもこの件は正直、憤りを感じます。 >>475
八坂神社がすごく特別な神社であることはわかった。
でもそれは特殊な事例だと思う。 >>492
現地写真は論より証拠、わかりやすかった! >>489->>491
三角鳥居は、内側が結界ってことでいいみたいだね
「これは柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式」
中心に神座があるみたいだよ >>493
檜原神社の三ツ鳥居は、通れないですよ。
後ろは御神体の三輪山ですから。
日本最古と言われる神社の鳥居が通れない、ということです。
特殊な例というよりは、その原初的な姿を現しているとも言えそうですが。。。 >>493
>八坂神社がすごく特別な神社であることはわかった。
そうでもないみたいだよ
多くの神社では、拝殿の後背地に神域があるから、そっち向きには門がいらないだけで、
街中の神社で、境内へのアクセスが四方からある神社なら、
アクセス経路分だけ鳥居があるのが普通でいいみたい
熱田神宮もそうだし 文献史料上で確認される、鳥居に関するとされる最も古い記事には、門と明記されている >>492で紹介されたブログの中の台詞より
「 「 古事記には 伊都国の史実が書かれたのです。」
と 原田大六氏著「実在した神話」を語ります。」
つまり、原田大六氏が、この話の起源だってことじゃないか
太陽の直径が、1度くらいあるのは知ってるかい?
こうやって、光が飛んでる写真だと、太陽の中心がどこにあるか分からないだろ?
この時期、1日に日の出の方向は0.3度弱動くから、正確には10月23,4日頃に、
太陽の中心が平原遺跡(1号墓を必ずしも意味しない)から見た日向峠から昇るというのは
やはり正しいぞ
平原1号墓と大柱の設計が緻密であると主張するなら、正確な日付を上げるべきだろう
10月20日にも、昇る太陽は「その辺」から昇るから、
「肉眼で見ると日向峠にかかって」昇ってくるってことだ
それに、「王墓の真ん中を 一直線に貫きます。」というキャプションのついた
写真が掲載されているが、王墓から10メートル右にずれても左にずれても、
日向峠から同じように日が昇っているのは分かるかい?
大柱がなければ、王墓の真ん中に寄っていって写真を撮れば、別の日でも
別の場所から昇る日の出が「王墓の真ん中を 一直線に貫きます。」になる
逆に言えば、別の日に別の場所から昇る日に合わせて、大柱を立てることも
可能な訳だ 「午前11時より 那珂川町の照富神社さん による
みあれ祭がおこなわれます。」
このお祭りは、夜明けに合わせて、という訳ではないんだね
そして、『那珂川町の照富神社さん』は伊都国の中ではなく、
仮称早良国と奴国の境の丘陵にある神社さんだ
「本来の地元」のお祭りではないね
まあ、町おこし的なものなのだと思う
『那珂川町の照富神社さん』のご尽力には敬意を表するけれど、
それをカサに着て、「批判する方が悪い、謝れ」と
マウントを取ろうとするのはどうかと思うぞ!
そして、夏至から110日にも、120日にも、125,6日にも、意味が見出せないって
のはいいかな?
日向峠に合わせたにせよ、平原5号墓が作られたときにその日付は決まっていたのだから、
日巫女だからこの日に合わせたってのは意味がないぞ? 実際に10月20日に日向峠から朝日が上がって見えているでしょ。
見苦しいだけですよ。 それから、たまにしかお鏡さん名義で書き込まないことで、いろんなことに答えずに済ませているが、
この件については、ぜひ回答してほしい
再掲
そして、特別な儀式に対する疑問をこれから書く
お鏡さんが言うのは大柱の存在だが、その他にも平原1号墓の埋葬主体部の周りからは多くの柱穴が検出されている
埋葬主体部のすぐ周りに配置されているものは、方形に並べられ、また軸線上に少し離れて両側に1本ずつ柱穴があるため、棟持ち柱のある喪屋が想定されていたが、柱を立てるには穴が細すぎるということで、今は「杭(くい)列」跡とされているようだ
また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
二つの「鳥居」は平行に立っていない
「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
大事な女王を送る葬送施設の作りとしては杜撰だ
平原1号墓の平面図としてはこれが見やすいんじゃないかな
http://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Y23E5B9B3E58E9FEFBC91E58FB7E5A2B3E585A8E4BD93E59BB3.jpg
そして、お鏡さんが大事にしている大柱と日向峠を結ぶ線と、埋葬主体部の軸線はずれている
埋葬主体部の軸線が、お鏡さん主張のレイラインとずれていること、
杭列、鳥居(?)の立て方が、幾何学的に整えられていないこと
の2点について、見解を聞かせて欲しい >>505
>実際に10月20日に日向峠から朝日が上がって見えているでしょ。
>見苦しいだけですよ。
逆だ、逆!
10月20日くらいから、10月30日くらいまで、肉眼では
「大体日向峠から日が昇る」ように見えるんだよ
その中で「10月20日」というのは、
最初に柳田先生が「たまたまその日に確認した」ってだけだ
「10月20日」を前提とした立論には意味がない、っていうのは分かるか?
結局「八咫の鏡」も原田大六氏の思いつきだし、お鏡さんは柳田先生や
原田氏の書いたことに、チェリーピッキング的に乗っかっているだけだろ?
だから、個別の批判には十分に答えられずに、
「見苦しいだけですよ。」というような情緒的な批判で、印象操作に走る
もうちょっとがんばれよ
ということで、>>506にはしっかり答えてね! >>506
図々しすぎでしょ?
自分は簡単な「はい、いいえ」も答えずに、
人のことを中傷、罵倒して誤魔化すくせに。 <論点おさらい>
1. 夏至と秋分、古代人にとってどちらが特定しやすいか。
2. 古代人は110日も数えれないぐらいアホなのかどうか。
3. 卑弥呼を日巫女と解することは、事実上、役職名を類推しているということで良いか。
私と例のHPは、その意味で同じ「日巫女」との考えを持っていることで良いか。
4. 平原一号墓からみて、10月20日の朝に日向峠から登るか?
どれも簡単に選択するだけですよ。
はい、どうぞ。 >>509
>図々しすぎでしょ?
>自分は簡単な「はい、いいえ」も答えずに、
>人のことを中傷、罵倒して誤魔化すくせに。
>>308を再掲
「最初の「卑弥呼=日巫女」は多くの人が推論としていっている部分 」
これは結論でも何でもなくて、多くの人が言っている「推論」
これをわざわざ「結論」という言葉を使うことで、
「論証した結末まで同じだ」という印象になるんだよ
「結論」は同じじゃない
それを、無関係な人も賛同しているように印象づけようという意図が透けて見える
これが回答だよ!
「はい、いいえ」以上に丁寧に答えてるだろ?
たまにしかお鏡さん名義で書き込まないことで、答えることを避けているんでしょ? 仕事ありますから、朝と夜だけですよ。
これでもだいぶと嫁からはパソコン見過ぎとかなり文句言われてますよ。
御託はいいから、 >>510 に答えてね。 結局、自分の言いたいことしか言わないんだよなぁ
しかも基本的に一方的に言うだけ
はぁ
>>510
>1. 夏至と秋分、古代人にとってどちらが特定しやすいか。
>>199を再掲
サインカーブって知ってるかな?
夏至と冬至は、数日間では太陽の位置があまり動かないから、
夏至(冬至)の日の出の方角というのはそれなりに正確に測れても、
夏至の「日」っていうのは分かりにくいんだよ
それに対して、春分、秋分は真東から日が昇る日であり、この辺は一日での
日の出の位置の移動が一番早い時期なので、方位さえ正確に測れれば
春分の「日」は特定しやすい
南の方角は、日の出と日の入りを、同じ場所から観察して垂直二等分線を
引くことでかなり正確に求められる
そこから90度も、同じように求められる
東西南北の軸線は、古代でも相当な制度で計れるんだよ
ということもあって、古代の太陽暦の暦は春分基準が多いんだよ
こういう「常識」も、「夏至から110日はおかしい」の傍証 >>510
>2. 古代人は110日も数えれないぐらいアホなのかどうか。
また「アホなのか」とかいう情緒的言辞でごまかしている
こちらの論点は、「110日を数える妥当性がない」だ
110という数字にも、110日後(10月8日前後)にも、
意味を付与する理由がない
そして、平原1号墓と日向峠の話から始まっているのであれば、
「10月20日」を言うならともかく、10月8日の110日目を持ち出すのは、
話が破綻しているとしか言いようがない
数えられるかどうかを問題にしているのではない
それに数えるにしても、秋分を跨いで夏至から数える
110日がどこから出てきたのか不詳
(モモソ姫だからといっていたのは知ってる) 御託は不要ですよ。
二択を選ぶだけでいいんですよ。 >>510
>3. 卑弥呼を日巫女と解することは、事実上、役職名を類推しているということで良いか。
>私と例のHPは、その意味で同じ「日巫女」との考えを持っていることで良いか。
また話を逸らしている
こちらが最初に書いたのは、
「例のHPでは「結論」として、日巫女=卑弥呼としている訳ではない」だ
推論として、卑弥呼=日巫女としている人は少なからずいる
例のHPでも、推論として「卑弥呼=日巫女」という立場をとっている
ただ、それが「固有名詞」か、「役職名であって個人名は別にある」、
とするかは人によって異なる >>510
>4. 平原一号墓からみて、10月20日の朝に日向峠から登るか?
10月20日にも、昇る日の端が日向峠にかかる、が正しい
>>507を再掲
10月20日くらいから、10月30日くらいまで、肉眼では
「大体日向峠から日が昇る」ように見えるんだよ
その中で「10月20日」というのは、
最初に柳田先生が「たまたまその日に確認した」ってだけだ
「10月20日」を前提とした立論には意味がない、っていうのは分かるか? >>513
>御託はいいから、 >>510 に答えてね。
全部答えたぞ!
では、今はパソコンの前にいるんだから、>>506に答えてみそ?
自説に都合の悪いことは、答えたくない、ですか? もう一度描きますよ。
御託は不要です。二択を選ぶだけでいいんですよ。 選択するだけなんで簡単なんだから、もう一問足しておこう。
一番ホットな質問を忘れていました。
<論点おさらい>
1. 夏至と秋分、古代人にとってどちらが特定しやすいか。
2. 古代人は110日も数えれないぐらいアホなのかどうか。
3. 卑弥呼を日巫女と解することは、事実上、役職名を類推しているということで良いか。
私と例のHPは、その意味で同じ「日巫女」との考えを持っていることで良いか。
4. 平原一号墓からみて、10月20日の朝は日向峠から登るか?
5. 平原の大鏡の円周長は、漢尺を基準にして八咫に換算できるか。 >>523
日向等がって、なんか特別なの?
意味あるの? 質問に答えれないアホの子のために、回答例も入れておこう。
(括弧は岡上回答)
<論点おさらい>
1. 夏至と秋分、古代人にとってどちらが特定しやすいか。
(夏至)
2. 古代人は110日も数えれないぐらいアホなのかどうか。
(アホではない)
3. 卑弥呼を日巫女と解することは、事実上、役職名を類推しているということで良いか。
私と例のHPは、その意味で同じ「日巫女」との考えを持っていることで良いか。
(役職名を類推しているということでよい、岡上の考えとHPの考えはその意味で同じ。)
4. 平原一号墓からみて、10月20日の朝は日向峠から登るか?
(登る)
5. 平原の大鏡の円周長は、漢尺を基準にして八咫に換算できるか。
(できる) >>525
>5. 平原の大鏡の円周長は、漢尺を基準にして八咫に換算できるか。
無理
矛盾が指摘されてて反論なし 岡上のこのしつこい繰り返し…
八咫バカにくりそつだよなぁ >>525
>1. 夏至と秋分、古代人にとってどちらが特定しやすいか。
当然ながら春分秋分だよね
言うまでもない >>530
サインカーブって知ってるかな?
夏至と冬至は、数日間では太陽の位置があまり動かないから、
夏至(冬至)の日の出の方角というのはそれなりに正確に測れても、
夏至の「日」っていうのは分かりにくいんだよ >>525を見れば、お鏡さんは議論がしたいんじゃなく
「自分が正しいんだー」って言いたいだけなのが分かる
>>506には答えられない程度の論なんだよなww
平原1号墓が卑弥呼の墓(倭王の墓)ってのは、机上の空論
現実の墓の発掘平面図が出てくると、語る言葉を失う 日の出の位置がうごなくなったら夏至ですね。
運行を見るだけで、計測というほどもなく、わかりますね。
簡単だなぁ。
で、春分・秋分はどうでしたっけ??? 自分の主張についての議論さえできないなら、スレ立てなんてしなければいいのにねぇ どこかのスレで、テンプレ貼る時だけコテハンという猛者を見ましたけど?? >>535
「夏至の頃が分かる」というのと
「夏至の日が分かる」ってのは別物だぞ
常にこういう「話のすり替え」に走るのが、お鏡さんの限界であり、
説得力のある論を展開できない理由
本質が誠実じゃないんだよな
日本人はそういうのを本当に嫌う >>538
個人中傷は無意味ですよ。
で、「秋分の頃」 は、どうやったら、簡単にわかるんです? >>538
なんで同じことを何度も書かせるかなぁ?
自分は、「既に書いてあるのに分からないんですか?」
「理解力のない人のために何度も書いたりはしませんよ」で済ますくせに
>>199を再掲
それに対して、春分、秋分は真東から日が昇る日であり、この辺は一日での
日の出の位置の移動が一番早い時期なので、方位さえ正確に測れれば
春分の「日」は特定しやすい
ということもあって、古代の太陽暦の暦は春分基準が多いんだよ
こういう「常識」も、「夏至から110日はおかしい」の傍証
東の測定方法もすでに既出
>>515を再掲
南の方角は、日の出と日の入りを、同じ場所から観察して垂直二等分線を
引くことでかなり正確に求められる
そこから90度も、同じように求められる
東西南北の軸線は、古代でも相当な制度で計れるんだよ 同じ質問を何度もして、相手が答えずに流したら、それで勝ち誇る気なのかねぇ
こっちがきちんと答えてるのに、「はい、いいえ」じゃないから答えてないとか言い出す御仁だし >>539
>個人中傷は無意味ですよ。
だというなら、話のすり替えじゃないところを見せればいいのにw
そういう「根拠」に当たる部分はすっ飛ばして、相手の書き込みを
「一方的に」「個人中傷」だと決めつける
問われたことには話の論点をずらしてそらして基本的に答えずに、
自分の言いたいことだけを垂れ流すのが「お鏡さんスタイル」だな >>535
>日の出の位置がうごなくなったら夏至ですね。
>運行を見るだけで、計測というほどもなく
日の出の位置が動かなくなったかどうかは、
計測しないと分からないだろ?
何を言ってるんだ?
運行を見る、って言うのがすでに計測を含んでるんだぞ?
望遠鏡のない時代の計測をどんなものだと思ってるんだ? >>514
>みあれ祭は宗像大社
ありがとう、知らなかった
照富神社とみあれ祭の組合せってのも、妙と言えば妙だよね
照富神社のご祭神は天照大神で宗像三神じゃないし、山の中の神社だし
照富神社はこんな神社らしい
http://s.webry.info/sp/ponpoko.at.webry.info/201501/article_5.html >>541
お鏡さんは相手が答えずに流したらそれで勝ち誇る人
そして自分はいつもきちんと答えずに流す人 深夜まで一人で粘着お疲れ様です。
夏至と秋分の測定方法、どちらが簡単ですか?
夏至:日の出の移動が止まる地点を調べるだけ。3日間停止なら中日が夏至の日。
箸墓自体という夏至の方向を認識していた考古学的証拠あり。
秋分: 1.南の正確な方向を測定し、2. そこから正確に90度測
3.そしてその角度を正確に山側にまで延長して日の出地点を割り出す。
<<東の測定方法>>
南の方角は、日の出と日の入りを、同じ場所から観察して垂直二等分線を
引くことでかなり正確に求められる 。そこから90度も、同じように求められる
東西南北の軸線は、古代でも相当な制度で計れるんだよ >>546岡上
そんな的外れな論争、いい加減にやめれば? 時間の無駄。 @阿波 古代において、垂直二等分線を引いたり、そこから直角をとったりするのは、
簡単なことなんですかね? 机の上で定規とコンパスでやるような話じゃないですよ。
実際に地面の上でやらなきゃならない。
それ以前に日の出、日の入りのから垂直二等分線をとっても、
奈良は盆地なのですから、うまくぴったりと南にならないと思いますが。 阿波さん おはようございます。
私も飽き飽きですけど、10月10日の話は、私の大切な論点の一つですから。
放置しても勝手に論破扱いにされるし、個人中傷もされていますので、反論しておきたいというところです。
一日中5ちゃんを見ているようですし、粘着質に勝利宣言を挙げられ続けるのも迷惑ですので。 >>548
お鏡さんは古代人バカにしすぎww
>机の上で定規とコンパスでやるような話じゃないですよ。
>実際に地面の上でやらなきゃならない。
定規とコンパスとか行っているのが失笑もの
円は、ある点から一定の距離の点の集合
グラウンドで大きな円を描いた経験がないのかな?
棒と紐で、十分な精度の円弧が、地面の上に書けるんだよ
弥生時代には棒と紐もないという主張なのかな?
山があるからとか言うのは、適当な高さの台を使えばいいだけ
個人中傷って「ことにしたい」ようだけど、お鏡さんのやっていること、
実際の具体的な書き込みの内容に対する批判だよ
自分でスレ立てして、議論・質問から逃げ続けるお鏡さんw >>546
>3日間停止なら中日が夏至の日。
まるで理解していないな
3日停止どころじゃないぞ
一度きちんと調べてみたらどうだ
机上の空論であっても、もうちょっと正確な情報を入れてから論立てしなよ >>549
>10月10日の話は、私の大切な論点の一つ
それが大切だと言えるためには、
「平原1号墓が倭王の墓『でなければならない』」んだろ?
なのに、大事な大事な平原1号墓の杭列の話からは逃げ続ける
それに、「10月10日は大切」と言いながら、その論点を補強するために
出してくるのが10月「20」日の祭りの様子の「個人ブログ」
で、地元でもない照富神社が、宗像神社のみあれ祭を平原遺跡でやる理由は分かったかい?
普通に支離滅裂だと思うが?
でもこれが「大切な論点」なんだろ?
お鏡さんの言ってることはこの程度 粘着お疲れ様です。
>>551
じゃあなんで、箸墓は正確に夏至の方向を向いてんるんですか?
ご自身が正確に夏至の方向を向いていると主張されて、私も同意したわけですから。
停止する期間が5日でも7日でも一緒ですよ。中日を取るだけの簡単な作業ですから。
夏至は、日の出を見るだけの一工程。
秋分は、単純にしても三工程以上の複数の工程を正確にこなさないといけない。
どちらが簡単か、それこそ簡単な話です。 >>546
>粘着お疲れ様です。
粘着とか言って印象操作している暇があったら、
ぐうの音が出ないほどきっちり論証して見せてくれればいいんだよ?
正しく論破できたら、たいていのバカは消えるだろ? >>553
>箸墓は正確に夏至の方向を向いてんるんですか?
ほら、また話をずらすw
>>538を再掲
「夏至の頃が分かる」というのと
「夏至の日が分かる」ってのは別物だぞ
>>199から4回目かな?の四掲
サインカーブって知ってるかな?
夏至と冬至は、数日間では太陽の位置があまり動かないから、
夏至(冬至)の日の出の方角というのはそれなりに正確に測れても、
夏至の「日」っていうのは分かりにくいんだよ
何度も書いているのにどうして分からないフリをするんだ? 夏至の方角は、比較的簡単にそれなりに正確に分かる
夏至の日付は決めがたい
何度も書いているのに、なぜ理解しないで、何度もムダな同じ質問をするんだ? 垂直二等分線で真ん中を取るのは、数学的な一つの技術知識だから、難しそうな気はする
できたかもしれないできなかったかもしれない
できた集団が重宝されたのかもね。
地面で直角は3:4:5の長さの紐を用意すればできるよ。 >>556
中日を取ると書きましたが。
日本語読んで下さいね。
岡上@通勤中 >>519
>その中で「10月20日」というのは、
>最初に柳田先生が「たまたまその日に確認した」ってだけだ
「たまたま」がよほど好きなんだなw
その日を狙って確認したに決まってる。
そして予測の通りであり、おそらくは弥生人も日の出の方向を意識していた。 >>553
どちらが簡単かって?
東が海なら日の出が、西が海なら日の入りが
日時計と一直線になった日が春分秋分だよ その一直線がわかるなら夏至の日を観測した方がいいんじゃないですかね。 >>559
>「たまたま」がよほど好きなんだなw
>その日を狙って確認したに決まってる。
その日を狙う理由が「ない」 東西どちらかに地平線か水平線が見える場所なら
春分秋分が一番簡単 お鏡理論では、夏至から110日が大切だそうだが、
それなら10月8日なんだよな、太陽暦で
10月10日とか10月20日とかはどこから出てきて、
どうしてその日を狙わなきゃいけないんだ?
その説明があるならしてくれ、と何度聞いても
「粘着されてタイヘ〜ン」としか言わない
印象操作する暇に説明すればいいのに
説明できるなら、だけどさ 宮中の祭祀と同じで、だれも正確な理由は知らないし、太陽暦と太陰暦の換算をした明治以降にも混乱がある。
仕方のないことだ。、 倭人の暦ははっきりせず、曖昧だったんだよ。
魏志倭人伝も、それ示唆している。
おそらく神嘗祭と新嘗祭はもともと同じ祭りだったが、ずれて分裂して別の月になった。
明治の時に太陽暦に固定したが、それもいい加減で、一月ずらしたりしている。
平原遺跡の祭祀がそれよりも高い精度であったとは考えにくいから、数日単位でこだわるのは無意味。 魏略が「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收為年紀」と書いてるからねえ
レイライン説そのものが眉唾ってことだろう まあ、大まかに春秋の日の出の方向になっているという認識だったのだろう。
平原遺跡から見た日向峠の日の出を一年の基準にしたのだろう。
中国人から見たら、ひどく適当でおかしなことのように見えただろうね。
でも倭人にとっては、ヒムカ様がヒムカからの日の出をもとに田植えと稲刈りの時期を決めるのは当然のことだったろうね。 妄想の上に妄想を積み上げたものを当然といわれてもな ってか・・・
日向峠から朝日が上がって見えるという
10月20日って、なんの日なんだ?
話が見えない 死んだ後の墓だから田植えと稲刈りは関係ないだろ
頭も西に向けてるから日向峠は関係ないし 畿内説が見事に粉砕されたので
纏向は伊都国東遷の証と証明されました それより、日向峠ってなんで特別視されてるの?
なんか意味あるの? >>582
>頭も西に向けてるから日向峠は関係ないし
埋葬主体部の軸線が、お鏡さんの主張する日向峠と平原遺跡を結ぶ直線と
はっきりずれているんだよな
主体部の軸線は、日向峠よりも南に向いている
この辺も、お鏡さん自身の見解を聞きたいんだが、
決して答えようとはしないんだよな >>585
>それより、日向峠ってなんで特別視されてるの?
伊都国説の人たちにとっては、記紀にある天孫降臨後の「日向」三代は
伊都国の物語だってことになっていて、筑紫の日向=伊都国
その証拠に「日向峠」に「日向」の地名が残っているって論法なんだよ
伊都国説にとっては、根幹に関わる大事な地名 >>573
>平原遺跡の祭祀がそれよりも高い精度であったとは考えにくいから、数日単位でこだわるのは無意味。
「数日単位でこだわるのが無意味」はいいんだけど、
数日が無意味なところで「110日を積み上げる」っていうのは意味があるのか?
110日にどんな意味があるのかもはっきりしないし
お鏡さんが大事にしているのは、10月20日で122日目
110日とどんな関係があるんだ?
一度モモソヒメからの類推だとお鏡さんが書いていたが、モモソヒメが
親魏倭王の日巫女で、その母親の日巫女が110日に関係するからモモソヒメって
名前にしたって言いたいのかな?
でも、10月20日ならどうやっても110という数字は出てこない
夏至から12日後から数えて、110日目なら10月20日になるけれど
大体、日本の祭りは満月の晩が一つの基準だろ?
まあ、それは太陰暦がしっかりしてからの話なのかもしれないが >>587
>>588
日向峠は伊都王都である三雲遺跡群から東の早良平野に抜ける重要交通路にある峠
北側には「高祖山」あり 日向峠から早良平野に抜け
油山山麓を東進すると那珂・須玖・板付の奴国に至る >>583
東遷したなら三雲遺跡と同レベルの出土品があるはずだろう。 >>590
>伊都王都である三雲遺跡群
末慮国と奴国の国邑の位置も分かったら教えて >>590
高祖山と日向峠の間にある峰をくしふる山と言うらしい。
つまり、筑紫の日向のくしふる山だね。
そこにあったとされるのが高千穂宮だ。
このくしふる山、奈良時代には怡土城という中国式山城があった。
これがもっと古くに起源を持つなら、山上から山麓まで囲む楼閣であり、魏志倭人伝の楼閣高くしてという記述や、記紀の高千穂宮という名称に一致する。 >>593
神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>594
これが難しい。
代々の墓なら三雲だが、行政地区なら前原、王城なら高祖宮が伊都国になる。
郡使が滞在したなら、前原の方だと思うのだが、とにかくそれにより末盧国の解釈が変わる。 >>558
>中日を取ると書きましたが。
>日本語読んで下さいね。
サインカーブと何度も書いてありますが?
日本語読んでくださいね?
サインカーブは日本語じゃない、ですか?
じりじり遅くなって、肉眼観察では動かない程度の日が1週間程度あるが、
いつから動かないとするか、いつから動き出したとするか、決めがたいんだよ
前に、10月20日の日の出の方角だっていって、やたら太い線のアプリの画像を
上げていたが、それを使って夏至の前後の日の出の方角がどう動くか、確認してみたら?
そして、日本の夏至の時期は梅雨にかかったりするし毎日「観測」できる訳でもない
夏至の日の出の方角は、それなりの精度で出すのはたやすいが、
夏至の日を特定するのはお鏡さんが思うよりずっと難しいよ >>596
>神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 >>596
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時
禊をするくらいだから、海辺だよね?
まあ、川でもいいんだけれど、その禊で産まれた神の名前が
底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命であることを思うと、
それなりに深さのある海が想定される
でも日向峠は山の上
峠の一帯が日向だという見方も可能だが、それなら峠以外になぜ日向の地名が
残らなかったのかという疑問が生じる
地名というのは言葉の化石と言われるくらい長く残るものだから、
日向峠以外に日向のない『日向の地』というのは考えにくいのも事実 筑紫の日向に首都(伊都)を作ったんだから(日向峠に作ったわけじゃない)
糸島市の最初期の旧称が日向なんだろうね。
イザナギの頃は糸島市のあたりが日向だった。
そう考えると、イザナギというのは菜畑遺跡など唐津や壱岐の、
日本最初期の発展地域の出身と考えれば合点がいく。
その後しばらくは、早良平野福岡平野が中心地となるから、
日向へ抜ける峠は日向峠。
日向に降臨して首都を作った時に、日向→伊都に名称が変わったわけだ。 なぜ天孫降臨の地が南九州の日向になったか?
筑紫国造磐井の乱があり、筑紫のままだと磐井が正当化されてしまうからだ イザナギの禊の場所、筑紫の日向の小戸は博多湾に面している福岡市西区になる。
禊にちなんだ住吉神社はもともとそこにあったとされる。 つまり記紀でも祝詞でも、筑紫の日向、魏志倭人伝における伊都が倭国王権の発祥の地、代々の王都としているんだよ。
その王宮の名が高千穂宮、3世紀の王は卑弥呼となる。 >>603
筑紫の日向にニニギが降臨(記紀
それが三雲南小路遺跡
というのが伊都説でしょう?
だったら簡単で、筑紫の日向=三雲南小路遺跡のある糸島市(伊都)。
もともとは日向という土地だったのが、都になったから、
伊都に名称変更されて、
その後は怡土とか糸島とかになるわけでしょう。
日向峠という峠の名称だけが残ったわけです。 王宮が高祖宮(高千穂宮)なら、山側になる。
小戸の橘(岬のこと)であれば海側になる。
少なくとも墓所であるという根拠はない。 >>602
>筑紫国造磐井の乱があり、筑紫のままだと磐井が正当化されてしまうからだ
でも、伊都国には怡土県主の家系があるから、
奴国王家の筑紫君は正当化されないんじゃないの? >>604
>筑紫の日向、魏志倭人伝における伊都が
だから筑紫の日向=魏志倭人伝における伊都=糸島市でしょうに。
あなたが自分で言っているw 日向峠はあくまでも、日向=糸島市へ向かう峠だから日向峠であって、
筑紫の日向の名残りであっても、そのものではない。
日本海が日本じゃないのと同じ。 >>601->>606
すごく早口に書き込んでくれた感じだけれど、
日向峠以外に日向のない『日向の地』というのは考えにくいのも事実
改名した、はいいけれど、それでも日向峠に地名が残るなら、他のところにも
残っておかしくないんじゃないの?
どうして他には残らなかったの?
逆にどうして日向峠は、例えば伊都峠とかに改名されなかったの? >>609の理論だと、まさに「伊都に向かう峠」になるわけだから、
真っ先に伊都峠になってもおかしくなさそうなんだけど? >>610
伊都が中心地になったのに改名する必要ないでしょう。
どうしても改名するとしたら、伊都が中心地になってるから、
奴国峠とか早良峠とかになったでしょうけど。 これだか話が流れてしまうと、「照富神社の『みあれ祭』の謎」は
誰も答えてくれないんだろうな >>611
考古学的には、早良区や春日市以南の那珂川流域が栄えて、
その次に三雲です。
ですから、弥生銀座が最強の時代の名前が、日向。
大都市から日向峠を経て離れた周辺地域です。
その日向に遷都して、日向は伊都になった。
峠の名前はそのまま残った。 >>612
>伊都が中心地になったのに改名する必要ないでしょう。
>どうしても改名するとしたら、伊都が中心地になってるから、
>奴国峠とか早良峠とかになったでしょうけど。
中心地に向かう地名の方が優先されるんじゃないの?
と思ってググって見たら、峠の両側の地名と峠の名前は関係なさそうな感じ
峠の名前もそれぞれ固有名詞っぽい
日向に向かうから日向峠ということもなさそう
なんか、ある「地名」に向かう峠だから、その「地名峠」になっているところ、
見つけたら教えて! いや、それもうやめようよ
それの検証をするために、他例を探そうって話なんだから
それに今、峠を降りたところの日向がないんだから、現時点では
日向に向かう日向峠になっていない なんだろう
この件も鏡もどう論じても、出土している事実と墓の様相は否定できない。
当時の文献等皆無なのだから、すべて"〜だっただろう"になり、それはかなり後世の事柄からしか推論できないのでは完全否定はできないんだよな
だから考古学的事実は重い。
鏡も柱もだが、八咫鏡では単位でないなら「咫」の意味合いは何だったのか?の論証が必要となるし、
柱の件では、鳥居ではないなら何のための柱だったのか?も必要となる。
つまり、すべてが推論である以上、できるだけ否定したいなら、代案が必要なんだよ。
単位、鳥居以上の可能性の高い推論が必要となるね。 キナイコシ
日向峠を攻めようと悪だくみして 自爆
八咫鏡に話題変更しようとして失敗
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>618
>糸島峠ってあるぞい。
ありがとう
糸島市と早良区の境だね
これだと、糸島の方が格上かな?
微妙
それと、糸島と言っている時点で、それなりに新しい地名だね
怡土と志摩が合併した後ってことだし
地名は改名される例でもあるね キナイコシはいつも議論に負けてるなあ。
そろそろ罵倒タイム? >>620
>嘉麻峠
ありがとう
これは嘉麻市と朝倉市の間の峠でいいのかな?
これもどっちが格上かは難しいね >>621
>鹿牟田峠
>山鹿市や大牟田が終点
八女の奥から、山鹿市の方へ下りる峠だね
鹿牟田峠という名前から見ると、大牟田も関係しそうだけど、
峠との位置関係では大牟田はあまり関係なさそう
もっと広い牟田郡とかあったのかな? 土器土器
キナイコシがどんな屁理屈をひねり出すのか
土器土器w >>622
>京都峠
ありがとう
でもこれは、峠の前も後ろも京都郡じゃないかな?
京都郡に行くための峠じゃなくて、京都郡にある峠だからって感じがする なかなか、都(とまでは行かなくても中心的な地域)から出るときに、
行き先の地名になるのか、都に向かうときに行き先の地名になるのか、
判断がつかないな >>631
そうだね。
筑紫の日向=糸島市に対して、
日向にある峠だから、日向峠だったのか、
日向に向かう行先だから、日向峠だったのか、
日向から伸びる峠だから、日向だったのか、
判断はつかないね。
いずれにせよ、
筑紫の日向と、日向峠があったのだねえ。 神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>619
>出土している事実と墓の様相は否定できない。
出土している鏡は、破鏡供献の仿製鏡で、墓の様相はいろんな柱穴が、
幾何学的に整えられずに配列されている
この事実と墓の様相からは、魏使から見ても「大作冢徑百餘歩」とされた
親魏倭王の墓とは考えにくい
というか、径百歩ない時点で親魏倭王の墓ではないことは明らかだろう
それで、親魏倭王の前代の日巫女というのが出てきたんだとは思うが、
これを倭王の墓とするのも同じく難しい
>代案が必要なんだよ。
小国・伊都国の特定家系の有力女性の墓、というのが代案だね 菜畑遺跡が原初。
だから日向=糸島市の海岸でイザナギが禊。
その後はしばらく福岡市でいろいろあって、
大国主やらなんらやも福岡市。
その頃に日向=糸島市への日向峠と呼ばれ始めた。
天孫降臨で日向峠を越えて筑紫の日向へ移動して、
伊都建設=三雲南小路遺跡。 >>632
>筑紫の日向=糸島市に対して、
>日向にある峠だから、日向峠だったのか、
>日向に向かう行先だから、日向峠だったのか、
>日向から伸びる峠だから、日向だったのか、
>判断はつかないね。
というところで、最初の疑問に戻るんだが、
日向が伊都に改名されたときに、
伊都にある峠だったら、なぜ伊都峠にならなかったのか?
伊都に向かう行先だったなら、なぜ伊都峠にならなかったのか?
伊都からから伸びる峠であるなら、なぜ伊都峠にならなかったのか?
結局、説明がつかないんだよな
日向を伊都にかえるという意思が、王の側にあるなら、
日向にちなむ峠の名前だいうなら合わせて改名するべきじゃないのか? >>636
>菜畑遺跡が原初。
菜畑遺跡はどうがんばっても、末慮国だと思うが?
そこまで日向・伊都国にしてしまうのかい? >>637
なんで奈良県なの?平城県に改名するべきじゃないのか?
なんで京都府京都市なの?山城国なの?
平安府平安市、平安国に改名するべきじゃないのか? 中立な客観的学術的議論を装っていたsage進行の人が、
キナイコシであることがハッキリしました〜www
キナイコシのスパイwww
キナイコシのスパイwww
キナイコシのスパイwww >>636
>大国主やらなんらやも福岡市。
これは無理だろう
大国主は、出雲風土記で所造天下大神と呼ばれる主神だ
しかし北部九州の風土記その他にはほぼ出てこない
宗像三神との間の子がいるから、交流はあったと思うが 大作冢
三国志当時伝韓伝に、韓人の住居が冢の如しと記述されている。
弥生時代の韓人の住居は、径10〜15メートルの円型もしくは方形の住居。
つまり平原遺跡の1号墓+2号墓は、大いに冢を作る。
徑百餘歩
東夷伝里で、平原遺跡の1号墓+2号墓の長径は百余里ジャスト。 キナイコシ
正体がバレて
液晶画面にグーパン自滅 乙www 神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>639
>なんで奈良県なの?平城県に改名するべきじゃないのか?
奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。
異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。
改名しても、元の地名も残るのが普通
それが、日向峠一つで、他に一切見られないのが不思議、という話 地名が伊都に代わって、日向峠だけ残ったという話だ。
日向も重要な地名。
伊都も重要な地名。
どちらも重要だから絡み合って残っているだけのこと。 >>642
>東夷伝里で、
平原1号墓出土鏡の面径が、正しく漢尺で2尺だと、
漢の度量衡が正しく伝わっていると主張しながら、
里(と歩)は、漢や魏の度量衡が伝わっていなくて、
謎の東夷伝里を使っていたとするご都合主義が笑われているんだよ
>平原遺跡の1号墓+2号墓の長径は百余里ジャスト。
二つの墓の大きさを合わせて径と呼ぶ例は見たことも聞いたこともない
もしあったとするなら、双墓などの書き方がされてなければおかしいと
思わないのかい?
蘇我蝦夷と入鹿の墓は、「今来(いまき)の双(ならびの)墓」と書かれているよ なんや。
結局はキナイコシが普通の人のふりをして紛れ込んでいただけかw >>647
>平原1号墓出土鏡の面径が、正しく漢尺で2尺だと、
>漢の度量衡が正しく伝わっていると主張しながら、
そりゃ後世の日本の記録だ。
魏志倭人伝は魏代の中国の記録。
混同するな。
>二つの墓の大きさを合わせて径と呼ぶ例は見たことも聞いたこともない
>蘇我蝦夷と入鹿の墓は、「今来(いまき)の双(ならびの)墓」と書かれているよ
後世の日本の記録と
魏志倭人伝の魏代の中国の記録<珍しい殉葬墓
混同するな。
キナイコシレベル。 >漢の度量衡が正しく伝わっていると主張しながら、
んなこと誰も主張しとらんw
魏志倭人伝の里や歩は東夷伝里。
倭人伝に書かれている通り、当時の倭人は(公式には)里を使っていない。
後世の日本人が平原1号墓出土鏡の面径を測ってみたら、
正しく漢尺で2尺=円周八咫だった。
別の時代の話だよん。 >>613
謎もなにも、それ、伊都国や平原と何か関係があるのか? キナイコシ
第三者を装って伊都説を論破しようとして 滑落
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>646
>日向も重要な地名。
>伊都も重要な地名。
>どちらも重要だから絡み合って残っているだけのこと。
伊都は、どのように重要だったのかも考えを教えてほしい
読みが大事なのか、文字が大事なのか
後に長く使われた「怡土」の表記は、大和朝廷が「都」の字を嫌って
文字を変えたのか?
しかし、実際には大和朝廷側が、地名にはよい字を使えとむしろ
言っている(諸国郡郷名著好字令)し、伊都都比古では普通に
都の字を使っている
伊都国説の人は、この辺をどう考えるの? 委奴 伊都(首都時代) 怡土 糸島
だから何なん?キナイコシ?www >>648
>山城国は?
京都府 相楽郡 「山城」町(現木津川市) キナイコシ
第三者を装って伊都説を論破しようとして 滑落
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>652
>謎もなにも、それ、伊都国や平原と何か関係があるのか?
「伊都国王墓と伊都国説の人が主張する平原1号墓」のところで、
10月20日に執り行われる祭が、
「照富神社による『みあれ祭』」なんだって
お鏡さんが>>492で紹介してるよ
私は関係ないと思うんだけれど、
お鏡さんによると「10月20日の祭」は地元でも大事にされているらしい、よ?
「10月20日の祭」=「照富神社による『みあれ祭』」 >>651
>後世の日本人が平原1号墓出土鏡の面径を測ってみたら、
>正しく漢尺で2尺=円周八咫だった。
>別の時代の話だよん。
ということは、作った当時の伊都国の弥生時代の人は、
「漢尺を知っていて、それに合わせて面径を二尺にした」んじゃないんだね!
だって、時代が違うんだから!
これでいい? >>652=>>660=キナイコシのタゲ逸らしwww 考古学的には平原遺跡の仿製鏡は途中の習作鏡が無くて
いきなり出現するわけです。
ということは技術的には中国からの何らかの直輸入があったわけで
つまりは107年に中国の鏡職人を勧誘してきたのでしょう。
ということは、当然のことながら、
銅鏡の作成に関しては漢の度量衡で作成していた。
魏志倭人伝の里程記載よりはむしろ、
倭人の中の銅鏡職人だけは漢魏本国の度量衡をいち早く取り入れていたわけです。 漢鏡作る人は漢の尺で作って何も不思議ではない。
それと他の度量衡が伝わってなくても普通。
伝わってたとしても使ってないのは普通。 >>661
後漢末になって後漢初期まで使われてた一尺を使ったんなら、そりゃ偶然だろうな
たまたま一尺鏡だったモデルを二倍サイズにしたとかな >>663
>銅鏡の作成に関しては漢の度量衡で作成していた。
ということは>>651は全否定ってことでいい? >>664
でも、1世紀ころの尺でしょ?
不思議だよ >>664
>漢鏡作る人は漢の尺で作って何も不思議ではない。
>それと他の度量衡が伝わってなくても普通。
>伝わってたとしても使ってないのは普通。
この「漢鏡」を作る人は何人(なに人)?
「倭国の人」? それとも>>663の言う「中国の鏡職人」なの?
どんな人を想定してるの? >>663
それなら23.1cmの漢尺を使うわけがない >>668
>漢鏡作る人は漢の尺で作って何も不思議ではない。
いや、それが案外不思議なんだよ
主要紀年・銘文鏡 一覧っていうウェブページがあって、多くの
紀年・銘文鏡が一覧にしてある
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
ここに、83枚、同笵鏡を除くと57枚の銅鏡の記録があるけれど、
面径を漢尺で計って作られたと考えられる鏡はないんだ
一枚一枚面径が違って、連続分布してる
ということは、鏡つくりの人は漢尺を意識していないということにしかならない 筑紫の日向を否定するのに失敗したんだねえ
キナイコシw >>672
ということは、平原遺跡の世界最大の超大型内行花文鏡は特別に意識して作られたんだねw
筑紫の日向で論破されて
タゲそらしに必死な
キナイコシさんw >>638
>菜畑遺跡はどうがんばっても、末慮国だと思うが?
これは初めて見る説だけど、さすがに時代が違いすぎやしないだろうか。 >>645
>奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。
>異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。
朝鮮語だろ?
「国」という意味だっけ? >>672
平原の鏡は本当に突然すぎて
徐々に大きくなる過程をすっ飛ばして、最大の倭鏡がいきなり現れる
それも5面も
やっぱり特別すぎるね
すると、何を基準としてこの大きさに作ったのか?だよなぁ、やっぱり >>661
>ということは、作った当時の伊都国の弥生時代の人は、
>「漢尺を知っていて、それに合わせて面径を二尺にした」んじゃないんだね!
>だって、時代が違うんだから!
キナイコシは何を言っているんだ?
平原遺跡が2世紀と言い張っていたのはキナイコシだろ?
漢末に漢尺で鏡を作ることの何がおかしいんだ? >>672
>ということは、鏡つくりの人は漢尺を意識していないということにしかならない
だからこそ、平原遺跡の八咫の鏡は特別であり、正統性があるんだろ。
有象無象の鏡と一緒にするなということ。 >漢末に漢尺で鏡を作ることの何がおかしいんだ?
楽浪土器に漢鏡に周の文字
そりゃあ八咫鏡は漢尺で円周八咫の世界最大超大型内行花文鏡ですわな。 日向のことだけど、高祖山の南側の日向峠も、高祖山の北側の小戸も、どちらも日向の範囲なら、高祖山周辺一帯、伊都国と奴国を合わせたくらいがすべて一体となって筑紫の日向と呼ばれたのではないか。
そこが倭国の中心、女王国なのだろう。 筑紫の日向が倭国の王都、伊都であり、クジフル山の高千穂宮が歴代倭王の王城であったと考えると、魏志倭人伝も記紀も祝詞もすべてがピタリと一致する。
様々な修辞句に惑わされすぎて本筋を見失っていたのかもしれない。 もう結論を言っちゃっていい?
日向峠という場所な特別の意味がない
ということは、日向峠の方向にあーたらこーたらは
無意味
単なる偶然
十月十日とか二十日とかに特別な意味がない
ということはレイラインは妄想
全部つまらん都市伝説だ で、日向峠やその他の地名って史料的にいつまで遡ることができるんだい? 少なくとも祝詞が作られた頃まで。
仏教伝来よりは前だろうな。 >>686
歴史学の方法論を理解できていないバカは口出ししないでくれ もう結論を言っちゃっていい?
説文解字を読めば、漢尺八寸が一咫でないことは一目瞭然
平原大鏡は八咫鏡ではない
つまらん俗説だ あ、間違えた
名前が>>686でレスのアンカーは>>687ね >>688
あなたのは、どんな方法論?
歴史学で使う? >>689
あのさあ、敗北キナイコシさん。
だったら、八咫鏡の対抗馬を呈示してから論戦に加わってね もう結論を言っちゃっていい?
魏略を読めば、伊都国王が倭女王でないことは一目瞭然
伊都国に倭女王がいたなんて、文献無視もいいところ
つまらんトンデモ説だ 俺の方が説明できるんだ!
ってのが有効だと勘違いしてるアホなんだろ >>683
日向峠は伊都国への入口
例えば奴国の中心である須玖岡本から伊都国に行く場合油山山麓を経由し日向峠を通ることになる ここに実例があるように、説明なんて妄想でどうにでもなってしまう
問題なのは、その説明を導きだした根拠と立論過程だというのに、
自称理系の非論理的思考しかできないご老人には理解できない 街道の名称は、大抵はその道がどこに続いているか、で付けられるけど
峠の場合は、その場所の名称や特徴で付けられてることが多いと思う 筑紫の日向
八咫鏡
残念だったねwキナイコシさんw 結局、俺が決めたからこれが正しいんだ!としか言えない伊都クズ >ことが多いと思う
ことが多い 多いけれども、それ以外の例もあるある
思う キナイコシ敗北 キナイコシは祓詞の筑紫の日向をどこだと考えているの? キナイコシさん
議論で敗北したから結果連呼、罵詈雑言とは哀しくないのですか?
虚しくないのですか?
筑紫日向も八咫鏡も古来由緒ある権威ですよ。
3世紀に鉄器ゼロwww うる星やつらで巫女のサクラが「はらったま、きよったま」とお祓いしていたのは、この祓詞だったんだな。 まともな人は歴史学的に通用する根拠を全く提示できないままの妄想レベルの主張をいくら連呼しても論争に勝ったことにはならないということを理解しています >>709
そうだな。
鉄器ゼロだから完全敗北 キナイコシだな。 祝詞も平安時代のもんだしね
時間軸を無視したつまみ食いは相変わらず キナイコシさんは構成の誤謬をまじめにわかってないようだね。
今回のMVPは事例を挙げた上で
>>672
華麗に本質を語った
>>674さんです。おめでとう。 筑紫の日向は確定ということでよろしいでしょうか?
キナイコシさんは漢尺おこして議論放棄したようですし。 >>712
根拠は?
少なくとも筑紫の日向は記紀にも出てくるのだから、平安時代に作られたものではない。 >少なくとも筑紫の日向は記紀にも出てくるのだから、平安時代に作られたものではない。
納得です。
記紀=奈良時代。の中でも古い記事。
撃滅キナイコシ。 >>716
大祓の祝詞は延喜式が出典だ
それくらい調べておけ
>>717
自演で恥を上塗りするとかどこまでもバカだな キナイコシは論点をずらして誤魔化すしかないのだなあ。 冷静な第三者のふりをして議論誘導しようとして失敗
キナイコシw 倭奴國は東遷した。
帥升に滅ぼされた倭奴國の難民は東へ落ち延びた。
帥升に滅ぼされた倭奴國の捕虜百六十人は、生口として漢に送られた。 朝めざめると伊都説が無惨に爆死していた
終わったな >>718
>大祓の祝詞は延喜式が出典だ
延喜式で初めて定められたのではなく、延喜式で改めて確認したと言うだけ。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) >>723
記紀を参照した後代のものであるということは変わらない >>698
ジリジリと動かなくなった期間の中日を取ればいいだけということは変わらないですよ。
夏至の判別には、特別な知識も道具もいらない。太陽の巫女である日巫女が朝日の出る位置を確認するだけ。
で、一方の秋分はどうでしたっけ?
垂直二等分線とか直角とかとかいろいろ数学的な智識とともに、野外でのその厳密な適応が必要でしょう。
「どちらが簡単か」結論はでているのでは? おっと、>>698 は、>>598の間違いですね。
粘着の方は、平原遺跡が王墓でもなく、10月20日に日向峠を向いていないと言いたいなら、
もう私ではなく、柳田先生にクレームするべき案件じゃないですか?
手元で「伊都国を掘る」を見直してみましたが、p163の参考写真を見る限り、私は先生の考えに大賛成ですが。 >>727
10月20日って、なんの日?
日向峠に、何があるの? あと、以前ご紹介頂いた論文コピーですが、国会図書館使えますね。
耳璫についての論文、やっと入手できました。
他にも内行花文鏡に関する論文もいくつか入手しましたので、色々読んでみます。
ヒント下さった方、ありがとうございました! >>729
一の鳥居からみて大柱越しに、日向峠から日の出が上がる日ですよ。
日程的に伊勢神宮や神嘗祭と関係あるのではと、大和岩雄を引用しながら、柳田先生が言っていますね。
そして、これは岡上の指摘ですが、三輪山と箸墓主体部と日の出の方向が(だいたい)一致する日ですね。 そもそも
鳥居(?) → 1号墳 → 大柱
という配列なんだよなw
現代の鳥居をイメージして内外の区切りとするなら
1号墳を聖域とし中からその10月20日という謎の日の
日の出を拝むって配置になってない
そもそも「峠」ってのがあまりにあやふや
山頂ならともかくだ
まあ「太陽信仰ありき」のこじつけだろうな
実際「伊都国を掘る」を読んだ時にそう思ったわw >>734
あなたの鳥居に関する考えが固定的すぎるからでは?
檜原神社の鳥居はくぐることはできませんので、単に境界を表してますね。 >>735
?
何も「くぐれる」「くぐれない」を問題にしていない
埋葬主体・鳥居?・大柱が一直線はともかく
それが10月20日日向峠からの日の出を表せてるなんてなんの根拠もない >現代の鳥居をイメージして内外の区切りとするなら
>1号墳を聖域とし中からその10月20日という謎の日の
>日の出を拝むって配置になってない
鳥居をイメージして内外の区切りとして、
1号墳を聖域とし外からその10月20日の日の出を拝むっていう
配置になっている
―――――
こっちが事実ですよ。
気になる方は、伊都国を掘るをご参照してくださいね。 >>737
>1号墳を聖域とし外からその10月20日の日の出を拝むっていう
>配置になっている
さきに「日の出を拝む」という結論ありきで
10月20日が出てきたんでしょ? >>737 八咫バカ
>1号墳を聖域とし外からその10月20日の日の出を拝むっていう
>配置になっている
でその「10月20日」と限定する根拠は?
1日や2日それ以上ずれたところで
そりゃ何処かの山の稜線上だわな
ちなみにp164には鳥居からじゃなくって別の
>主体部割竹木棺の主軸と「大柱」を結ぶ延長線の彼方にあたる
>王丸山北側稜線裾からの日の出が10月25日になってる
・・・とある
要はどのポイントを選択するかでいろんな結果がある
でその一つをつまみ出して我田引水牽強附会してるのがお前みたいなやつ >>739
結論ありきというか、内行花文鏡への指向が顕著な墓ですから、
当然日の出は検証するべき要素でしょうね。 >>740
当該ページを見てるなら話が早いじゃないですか。
全体としては平原と伊勢つながりを指摘しているのが全体の行論でしょ?
我田引水どころか、柳田先生の結論を全否定している方がいう言葉でしょうかね? >>739
1号墳が聖域とされてるなら、なぜ陸橋部に鳥居がないのか?
説明が首尾一貫しない >>741
検証したら
なんの意味があるか分からない日に
なんの意味があるか分からない場所から
太陽が昇ったわけだ
これは検証に失敗したということでは? >>734
> 鳥居(?) → 1号墳 → 大柱
鳥居の前に集合して一号墓に遥拝すると、その向こうに墳丘と御柱があり、さらにその向こうの日向峠から太陽が昇るわけですね。
>そもそも「峠」ってのがあまりにあやふや
>山頂ならともかくだ
平原遺跡から見て日向峠のすぐ左にクジフル岳が見えるはずなので、そことの位置関係は確認する必要はあるかも。
高祖宮(高千穂宮?)との位置関係も。 >>743 八咫バカ
・・・で?
柳田が言ったからどうかしたのか?
「虎の威を借る狐」ビッグネームに頼るバカw
柳田が伊勢と平原を直結しようというのならそりゃ否定するわ
(まあそこまで断定的な表現ではないと思うが)
もしコケ脅しにビッグネーム出してるなら止めたほうがいい
畿内説の連中なんてかつて京大の大先生の
学会を支配してたような説がひっくり返るのを知ってるので
(むしろひっくり返って今の畿内説がある)
学者の名前で盲信するやつも少ないだろうとw もしかして、春分の日にはクジフル岳から日の出するのではないだろうか。 >>745
意味がわからないのは、あなたがアレなだけすよ。
遺跡の語る意味を読み取ろうとしない態度をこちらにまで強要しないでください。 >>749
じや、意味がわかるのなら説明して貰おうか >>750
甘えてないでまず、「伊都国」を掘るを10回ぐらい読んでみては(笑)?
柳田先生の言いたいことがわかるかもしれませんよ。 >>749
>遺跡の語る意味を読み取ろう
電波ゆんゆんのイタコ芸はやめろwwww
そもそも10月20日日の出という確定してないものに
更に纏向と重ねようとするのだから
精度は下がるのは当たり前な話
(1.0未満に1.0を掛け合わせるようなもの)
だがこの手の連中は俺様ストーリーに手っ取り早く持っていきたいから
さも確定済みのように言う
トンデモのパターン 纒向ってなんですか。
勝手に悪い電波を受信でもしましたか?? まあ
・埋葬主体の主軸 ― 大柱
・鳥居 ― 大柱
の2つが微妙にズレてるし
ある特定の日の日の出とか厳密に意識したものとは思えないし
本に出てる図で見るなら
鳥居の真ん中で両の柱の結んだ線に直角に交わったライン上に大柱があるようには見えない
(柱)
→→→→→→→→→→→→ (大柱)
(柱)
「ざっくり直線状に配置してみました」ってところか?w >>751
自分でなんの説明も出来ないの?
他人のネームバリューだけ借り物競争? >>755
うーん、平原の遺跡状況に関する考えはありますが、
これ以上は独自説になりますからねぇ。
平原遺跡については、柳田先生の考えの範囲内で止まっておきます。
つまり、「二世紀末ごろに伊都国に太陽祭祀を主宰した巫女王がいた」というところです。
日の出の絡みなら、鳥居から神域を挟んで大柱越しに日向峠から登る朝日を10月20日にみていた、というところです。 >>757
そう思うなら私が言ったレスか何かを示してもらえますか?
万一うっかり?言ってしまっているなら訂正の必要がありますから。
私は箸墓との関連は予想しては見ましたが、纒向は全然別ですよ。 >>759
箸墓って、どこにあるか知らないの?
w >>687
>少なくとも祝詞が作られた頃まで。
祝詞の日向が、日向峠を指している訳ではないから、>>686への答えにはなってないよ >>707
>筑紫日向も八咫鏡も古来由緒ある権威ですよ。
由緒ある権威なのは確かだが、筑紫日向は宮崎県、八咫鏡は伊勢と皇居の賢所で、
どちらも糸島や平原1号墓とは関係ない
それを日向峠という小さな地名一つで結びつけ、権威を仮冒しようとするのが伊都国説 >>760
私は纒向は記紀にいう日代宮か珠城宮が第一候補と考えてますので。 >>763
あなたが独り脳内で考えてたって、世間にゃ通用しないでしょ
そんなことも分からないの? >>762
>由緒ある権威なのは確かだが、筑紫日向は宮崎県、八咫鏡は伊勢と皇居の賢所で、
宮崎県では、筑紫の日向の小戸における禊にちなんで住吉神社を立てたのがどこだかわからなくなる。
住吉神社は筑紫の博多湾沿岸にある(かつては現在の場所ではなく福岡市西区小戸にあったとされる)。 宮崎県を日向国と呼ぶのは、景行天皇の命名にちなむのであり、イザナギの時代には該当しない。 自分の説と合わないからって、纏向古墳群に属する古墳に結びつけたことを「纏向に重ね」たと表現したら悪し様に罵るって、どれだけ身勝手で傲慢なの? >>766
神代の章に書かれてるからって
神代の地名じゃないんだよ 岡上が傲慢とおっしゃる >>767 さんが、書き込みしたと思われるお上品なレスは、
こちらです。
>>752
妄想上の「岡上説」に対して罵詈雑言を浴びせてますね(笑) じゃあ、イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸の橘はどこなの? >>746
>鳥居の前に集合して一号墓に遥拝すると、その向こうに墳丘と御柱があり、さらにその向こうの日向峠から太陽が昇るわけですね。
ということは、日の出は大柱の影で見えないんじゃない? >>769
妄想上の「岡上説」だって決めつける証拠は? そうなんですか。それは失礼。
まぁ岡上説では纏向遺跡はあんまり言及しませんから。
とにかく批判は歓迎ですが、的外れなものは困りますね。 >>772
影は細いから、集まった人たちのうち、影で見えない人は一部だろう。
太陽は斜めに上がっていくしね。
それほど問題ではない。 まあ >>754 でも書いたが鳥居の柱跡が描く角度を考えるなら
1号墳の領域を意識してると考えるのが精々
その先の大柱ですら怪しい
いわんや日向峠とか
で10月20日なんて二分二至でもない
全ては
「伊都国と大和は連続してる」
という妄想はじめにありきの
東遷説信者のヨタ 全ては
「伊都国と大和は連続してる」
という大型内行花文鏡への極度の志向性という根拠に基づいた仮説
ですね。 >>766
>宮崎県を日向国と呼ぶのは、景行天皇の命名にちなむのであり、イザナギの時代には該当しない。
じゃあ、イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸の橘はどこなの? >>777 八咫バカ
>という大型内行花文鏡への極度の志向性という根拠に基づいた仮説
残念ながらヤマト王権の萌芽を語るのは神獣鏡なんだな ( 常識 ) >>779
それ、量的に持たないと価値にならない粗製濫造の品ですよ >>746
>平原遺跡から見て日向峠のすぐ左にクジフル岳が見えるはずなので、
そのクシフル岳が「邪馬台国関連の話題」以外で確認できないんだが?
日向峠から高祖山の間に名前を付けたくなるようなピークはないと思うんだ
本当にそんな「山」があるのか?というところから疑問がある
それに多くの「邪馬台国関連の話題」を挙げているページが示すクシフル岳の位置は
高祖山の隣であって、日向峠のすぐ左というような位置ではない
結局、お鏡さんの論は柳田先生の本の内容にただ乗りしてるだけじゃないのか? >>781 八咫バカ
お前の言う「価値」の基準は知らんが
美術品じゃなくて考古資料として
仮に粗製乱造としてなにか問題あるのか?
ヤマト王権の萌芽を物語るのに何の変更もない
芸術品美術品として価値があったとしても
遅れてやってきたなら
それは粗悪品を濫造してた初期ヤマト王権が
あとから一品物で価値のある(笑)鏡を入手したって話にしかならない
本当にこの手のバカは考古資料としての価値と
美術品の価値みたいなのをゴッチャにしてる >>775
>影は細いから、集まった人たちのうち、影で見えない人は一部だろう。
>太陽は斜めに上がっていくしね。
>それほど問題ではない。
ということは、大柱はそれほど大事じゃないってことじゃないのかな?
斜めに上がっていくなら、日向峠もそんなに関係ないことになる
日の出の瞬間が日向峠ってのが大事という説なんだと思ってたよ
こだわらなくていいんだね! >>782
岡上病お疲れ様です。
>>783
はいはい、誰が「美術品としての価値」があると言ったんですか?
脳内岡上説を論破お疲れ様です。
他ならぬ畿内古墳の埋葬状況からして、神獣鏡は、その階層性の下層であり、
物理的にも足元の方に埋葬されていますよね。 >>781
だから原始貨幣説があるんだが
史料としての価値は十分だ >>785 八咫バカ
>他ならぬ畿内古墳の埋葬状況からして、神獣鏡は、その階層性の下層であり
そりゃその時代の鏡の価値の問題だ
で内行花文鏡がヤマト王権の誕生を物語る遺物だってのは誰が言ってるんだ?
大体画文帯神獣鏡とかが西日本を中心に出てくるあたりが
画期とみなすのが常識だろうに
ここまで話が通じないのか・・・
言ってるのは
「ヤマト王権の萌芽云々」
なんだから
お前のシナリオじゃあまず大型内行花文鏡が畿内に出現
それを持ってヤマト王権の誕生って話じゃないのか? >>785
>岡上病お疲れ様です。
捏造はいけないね!
>>782には「岡上」という文字列は一つもないぞ!
きちんと「お鏡さん批判」って書かないと!
お鏡さんが、クシフル岳の位置一つ十分に把握しないまま、
原田大六氏の誤認(周長が八咫)と、柳田先生の説に乗っかってるだけという批判には
一切触れずに逃げるんだよなぁ まあこの八咫バカのような視野狭窄起こしてるやつは
とかく九州と大和しか頭にないんだろうが
例えば吉備の楯築だの出雲の四隅だの
別に銅鏡がなくても成立してる
要するに銅鐸銅剣をいったものから巨大首長墓へのシフト
その直接的原因に銅鏡は関係がない
いわんや内行花文鏡とか限定する必用は微塵もない >>787
>言ってるのは
>「ヤマト王権の萌芽云々」
>なんだから
邪馬台国のスレじゃなかったのかf^_^;
邪馬台国とヤマト王権を混同したアホ
>お前のシナリオじゃあまず大型内行花文鏡が畿内に出現
>それを持ってヤマト王権の誕生って話じゃないのか?
岡上氏ではないが、内行花文鏡の筑紫から畿内への流入によりヤマト王権の基礎が作られるのだろうね
内行花文鏡は紀元前の前漢の頃から王権の象徴として倭に与えられ、しばしば副葬品として出土する
畿内へも、饒速日の神宝として籠神社に内行花文鏡が伝えられてきた >>789
>例えば吉備の楯築だの出雲の四隅だの
>別に銅鏡がなくても成立してる
吉備も出雲も王権としては継承されず、筑紫を起源とする天皇家の支配下に飲み込まれただろ。 >>790
>邪馬台国のスレじゃなかったのかf^_^;
>邪馬台国とヤマト王権を混同したアホ
お鏡さん自身は畿内説を自称していて、卑弥呼は纒向にいたって言ってるよ
つまり邪馬台国がヤマト王権の萌芽
それなのに、ヤマト纒向はほぼ語らないんだがね >>790
>邪馬台国とヤマト王権を混同したアホ
おいゴミ、スレタイ読め
八咫バカがほざくぃてるのは
平原とヤマト王権の連続じゃなかったのかよ
>岡上氏ではないが、内行花文鏡の筑紫から畿内への流入によりヤマト王権の基礎が作られるのだろうね
根拠なし
大和(あるいはもう少し広く畿内)を中心に分布するになるのは神獣鏡が嚆矢
>吉備も出雲も王権としては継承されず
巨大首長簿の文化の発生とその後の王権の覇とは別の話
古墳文化の成立に銅鏡を必須にする必用がないってことだよ >>791
>吉備も出雲も王権としては継承されず、筑紫を起源とする天皇家の支配下に飲み込まれただろ。
それは結果であって、巨大墳丘墓をただ一人の王のために作る人員を動員できるだけの
王権が自立している
そうした地域王権の伸長に乗り遅れて、たかだか12×8メートルの墳墓を王墓だと言い、
さらには倭国全体を統属させる倭王の墓だと信じているのが本当に不思議 >>6 八咫バカ
>鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
そもそも鏡で言えば
これなんか一体意味があるのかと・・・
要は「卑弥呼の墓」としての話だろ?
最大でもむしろそんなバカでかい物は大陸にはない
ひと目で舶載じゃないと分かるって話だし
「最多」も舶載じゃないのに意味があるのか?
なんだろう?
「わーい、大きいぞ、多いぞ」
ではしゃいでるバカにしか見えない >>794
>それは結果であって、巨大墳丘墓をただ一人の王のために作る人員を動員できるだけの
>王権が自立している
それは王ではなく、地域首長だよ。
中華から倭王に叙せられたのは博多湾沿岸の王家だけ。 >>795
>「わーい、大きいぞ、多いぞ」
>ではしゃいでるバカにしか見えない
キナイコシのことですね
わかります >>796
>それは王ではなく、地域首長だよ。
>中華から倭王に叙せられたのは博多湾沿岸の王家だけ。
中華思想の中ではそれが唯一解だが、魏志倭人伝でも狗奴國男王卑彌弓呼が出てくるだろ?
卑彌弓呼が中華から狗奴国王に除せられたりしてないってのはいいな?
そのレベルでも王と呼んでも良かろ? 狗奴国は倭奴国の後裔を自称するだけの根拠が何かあったんだよ。
王の名も卑弥呼とそっくりだし。
正統争いをしたからこそ、卑弥呼と素より不和だったんだろうね。
本州の首長達とは格が違うんだよ。 伊都国説って、根拠がみんなうっすいんだよな
日向峠があるから日向だ、ってのもそうだし
大きな鏡が出たからアマテラスだ、とか で、結局お鏡さんは「なぜ10月20日なのか?」には、
自分の見解は一切述べずに
「柳田先生がそう言ってるじゃないか!
文句があるなら柳田先生に言ってくれ!プンプン」
しか言ってないんだよな >>801
>大きな鏡が出たからアマテラスだ、とか
こんなことは言ってないよね〜 まあ九州説や東遷説は普段アカデミズムに噛み付いちゃいるが
自分の与太に利すること言ってくれると
コロッとまいっちゃう傾向があるよなwww >>804
>>大きな鏡が出たからアマテラスだ、とか
>こんなことは言ってないよね〜
親魏女王の先代の日巫女で倭女王なんじゃなかったっけ?
それで八咫の鏡だから、三種の神器の源流だって言ってるんだろ? >>799
>狗奴国は倭奴国の後裔を自称するだけの根拠が何かあったんだよ。
でも、倭王の除正は受けてないよな?
なら>>796の「中華から倭王に叙せられたのは博多湾沿岸の王家だけ。」
には当たらない訳だ
いちいち前言を翻すのはみっともないぞw >>804
>>大きな鏡が出たからアマテラスだ、とか
>こんなことは言ってないよね〜
よそのスレでこんなん書いてたやつもいるよ
「アマテラス 卑弥呼がモデルです(八咫鏡つながり)」 伊都説は立ち上がりもしてないから転けようがないな
現状のままだとずっと地の底に這いつくばっていて
未来永劫陽の目を見ることはないだろう 弥生のリサイクルシステムとかもっと聞いていたいじゃんwBGMとしてw お鏡さんに朗報!
「アイドル・グループ「嵐」によるJAL日本航空のコマーシャルによって一躍脚光を浴びた宮地嶽神社の参道ですが、一般的にはこの画像の様に正面に浮かぶ相島の積石塚古墳120号墳辺りに向けて、
さながらレーザー・ビームの如く照射する西への投影とその映像が強調されているようです。」
この、宮地嶽神社の参道に夕日が射す日が「10月22日」なんだってさ!
「10月20日」ではないけれど、「10月22日」の方が日向峠から朝日が昇る日としては正確だよ!
北部九州では、この日に何か意味があるのかもしれないね!
でも、宮地嶽神社は神功皇后の三韓征伐のときの故事が、その創建の起源と
されていて、宮地嶽古墳も6世紀後半から7世紀のもの
3世紀まで遡るのは難しいけどね >813
>相島の積石塚古墳120号墳
倭国(阿波)の積石塚工j法だね。 @阿波 相島は往古より、大陸から末盧国(福津市辺り万津浦)到着前の寄港地だから。 @阿波 >>815
やっぱり阿波は半可通
相島がどうこうとか言わなくても、宮地嶽神社があるのが福津市で、
この夕日が当たるあたりが万津浦。くらいに言っとけばいいのにww >>816
>この夕日が当たるあたりが万津浦。くらいに言っとけばいいのにww
なに? 夕日って。 夕日がどうかした? @阿波 >>813に引用してある文章でググって読んでおいで あっ、と思って見直しましたが、纒向の例の建物、直線にはならんでいますが、
ぴったり東西方向=秋分には少しだけ遠いですね。
http://www.makimukugaku.jp/pdf/vol2.pdf
軽く見てみると9月13日ぐらいの日の出方向みたいで、
「真東にしたかったができなかった感」がある少し残念な角度っていう感じでしょうか。 倭人の方角感覚は総じてアバウトですね。
これでよく稲作ができたなと感心します。 >>818
>>>813に引用してある文章でググって読んでおいで
朝日だ夕日だと、気は確かですか? @阿波 >>819
レイライン説の人だけが残念なんじゃないの? >>795
鏡に関してみれば、籠神社の伝世鏡が内行花文鏡だった事が大きいね
関連性がある、ということだからね
で、平原も内行花文鏡だろ?
超大型鏡で最古、5枚もね
現代でも中国産か国産か?は判別が難しいのだから、やはり、鏡の価値は種類が関係あると思う
まぁ、三角の扱われ方みればわかるけど
平原の鏡の価値を必死で下げたいのだろうが、籠神社の鏡がわかった時点で、もうそれは無理だな 平原の超大型は世界最大ですが、無銘です。
モデルは桜馬場の無銘内行花文鏡でしょうね。
同じものが井原鑓溝にもあったのでしょう。
籠神社のは長宜子孫内行花文鏡ですから、平原の通常サイズの鏡と同型ですね。
平原女王が魏から貰ったものを贈ったのでしょう。 長宜子孫内行花文鏡を含む主要な大型内行花文鏡一覧画像
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/yanamotoootuka.html
これで見ると、平原1号墓出土鏡は一番大きいけれど、外側の同心円模様の部分を
ただひたすら大きくしただけで、他の鏡で共通に見られる図像から明らかに外れている
少なくとも、畿内の古墳出土の大鏡、柳本大塚古墳出土鏡や下池山古墳出土鏡の
「お手本にはなっていないのは明白」 >>819
>ぴったり東西方向=秋分には少しだけ遠いですね。
平原1号墓の通称鳥居1号と鳥居2号の柱穴の向きが全然揃っていないことはどう思うの? 卑弥呼は長生きしたから、
40歳頃に墓域指定だけして2号を立てたけど、
全然元気であと100年くらい生きそうだし戦争中で忙しいから
しばらくして一旦撤去。
数十年後に卑弥呼が亡くなった時に再度1号を立てたんだろ。 >>826
時系列
桜馬場=井原鑓溝の無銘内行花文鏡を原本として、
平原遺跡の超大型内行花文鏡を作成。
↓
卑弥呼は長宜子孫内行花文鏡を入手して、
平原遺跡と籠神社へ。
↓
長宜子孫内行花文鏡も取り入れて、
大型内行花文鏡を作成。
↓
柳本大塚古墳出土鏡や下池山古墳出土鏡となった。 舶載の長宜子孫、倭製の大宜子孫の大型内行花文鏡も平原から出てるので、
畿内説側の逃げ道はないな 馬鹿馬鹿しい
同氾同じ型でもなし
平原と籠神社のものが繋がってるなんて
何の根拠もない妄想話
まあこんな妄想に浸って楽しむのが
九州説や東遷説・九州王朝説の類 >>835
痛烈な指摘を受けたら
罵倒だと決めつけて逃げる意図厨 >>824
>籠神社のは長宜子孫内行花文鏡ですから、平原の通常サイズの鏡と同型ですね。
>平原女王が魏から貰ったものを贈ったのでしょう。
残念ながら、籠神社の鏡は一枚が前漢鏡、一枚が後漢鏡です。
アマテラスが王権の象徴として饒速日に与えた十種の神宝の鏡と伝えられています。
卑弥呼よりも古い時代の鏡ですが、前漢の紀元前から内行花文鏡が王権の証として用いられていたことがわかります。 >>830
>時系列
>>826に引用したページのこの台詞は読んだかい?
「前漢鏡の連弧文銘帯鏡から
後漢鏡の雲雷文帯内行花文鏡に継承され
長期使用される高品位特殊聖なるマーク
… 昇る日と鳥でしょうか」
三雲南小路の出土鏡にもある模様だ
平原1号墓出土鏡にはないよな?
それに時系列というが、桜馬場出土鏡も井原鑓溝出土鏡も、平原遺跡の時代の何百年も前に
副葬され埋められていて「平原1号墓の仿世鏡」を作るときには、参考にしようがないのは
分かるかな?
それになにより、平原1号墓出土鏡の16号鏡が
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡(漢鏡5期)
なんだから、お手本にするなら他のどの鏡よりもこの鏡だろう?
本当に、その場その場の思いつきばかりだな >>838
>卑弥呼よりも古い時代の鏡ですが、前漢の紀元前から内行花文鏡が王権の証として用いられていたことがわかります。
日本への伝来の時期は?
その根拠は? >>839
銅鏡というのは本来実用品だぞ。
それを全部埋めてしまって手元に残らないというお前の脳みそにビックリ。 >>838
>アマテラスが王権の象徴として饒速日に与えた十種の神宝の鏡と伝えられています。
正しくない
伝世鏡の名前が、十種神宝と同じ名前で伝わっている、が正しい
「息津鏡」「辺津鏡」は、宗像三神の宮、沖津宮、中津宮、辺津宮との関係も考えられる 三角縁は、実用でもなければ、まともな威信材にもなってない
ゴミだな >>841
>それを全部埋めてしまって手元に残らないというお前の脳みそにビックリ。
桜馬場出土鏡と同じ鏡で、埋められなかった手元の鏡ってどこにあるんでしょうね?
それが300年後に平原1号墓の仿世鏡を作るときには参考にされるんですね?
すごいなぁ!(すっとぼけ) >>846
>それが300年後に平原1号墓の仿世鏡を作るときには参考にされるんですね?
大丈夫ですか?
桜馬場は新代の鏡が出ているから、1世紀以降ですよ。
タイムラグがあるから、個人的には2世紀だと思いますけど。
300年後に平原1号墓とおっしゃるのなら、
平原1号墓は4世紀以降ということになりますが。 >>845
>ゴミだな
だとしても何の問題もないんだがw
長きに渡り広範囲に分布してれば
それらを編年・分析しそこから多くの情報を得られる
一品物として優れていようが
時代・地域に広がりを見せず
出土状況も分からずポンと出てきたようなお宝は
考古資料・データとしての価値はあまりない
こういう基本的なところが分かっていないのが
ゴミクズレベル九州説(東遷説・九州王朝説) 論点ずらしに必死だな
王権の象徴と、ゴミレベル銅鏡という比較の問題。
それに反論して、ゴミでも数量が出れば価値があるって言ってもね。
当時の倭人にゴミ級の粗雑な扱いをされているというところは変わらん。 >ゴミレベル銅鏡
間違っている。
凸面だから銅鏡じゃない、葬儀用の装飾円盤だ。 >>840
>日本への伝来の時期は?
漢の皇帝から各地の王侯に下賜されたのが内行花文鏡です。
それぞれ前漢と後漢から倭王に与えられたのでしょう。 まあ「王権」の定義を大陸からの信任に置いた場合
>>796
>それは王ではなく、地域首長だよ。
>中華から倭王に叙せられたのは博多湾沿岸の王家だけ。
超特大であろうが国産の内行花文鏡はそれに当たらないわなw
舶載の内行花文鏡とイ方製の大型内行花文鏡をゴッチャにして
ともに「王権の証」とか喚いてる馬鹿がゴミクズレベル九州説(東遷説・九州王朝説)の類
例え1円玉だろうがそれを発行できるのは日本政府だけ
幾ら大きな精密なデザインのコイン作っても個人が作ったものは観賞用に過ぎない >>853
>それぞれ前漢と後漢から倭王に与えられたのでしょう。
いつものように根拠なし
勿論倭王を経由したという根拠もない >>844
>伝世鏡の名前が、十種神宝と同じ名前で伝わっている、が正しい
>「息津鏡」「辺津鏡」は、宗像三神の宮、沖津宮、中津宮、辺津宮との関係も考えられる
大和にいた饒速日の王権も、筑紫の分家であることを直接示していると考えられます。 >>849
>王権の象徴
その王権の象徴をバリバリに壊して、壺に入れるでもなく、
他の仿世鏡とごちゃ混ぜに墳丘の土のぶちまけるように
埋めちゃう伊都国の人、ハンパないですね! >>851
>>>849
>王権の象徴という根拠なし
王権の象徴として相続された籠神社の鏡が内行花文鏡であったことが根拠です。
また、中国側でも同じ認識です。
否定するなら中国の歴史学者に文句をつけてください。 >>857
空前絶後の国家的祭祀が伊都で行われたと言うことですね。 >>858
王権の象徴として相続されたって証拠は? >>856
>大和にいた饒速日の王権も、筑紫の分家であることを直接示していると考えられます。
じゃあ、伊都国じゃなくて、宗像に王家が居たってことだね!
本当にその場その場で、いい加減なことを言うなぁw >>858
>否定するなら中国の歴史学者に文句をつけてください。
中国のなんて歴史学者に? >>859
>空前絶後の国家的祭祀
ああ、なるほど!
「絶後」ってことは、後の世に何の影響も与えずに「絶えちゃった」んですね!
伊都国王家は!
確かに平原遺跡の5号墓も3号墓も4号墓も王墓じゃないし、
平原遺跡で王墓(?)級の祭祀が行われたのは、空前絶後ですね! >>855
>勿論倭王を経由したという根拠もない
というよりも、饒速日が倭王なんですよ。
饒速日の末裔の物部氏の歴史書である旧事本紀では、饒速日を天照国照彦火明櫛玉饒速日命と呼んでいます。
天照が大国主を倒し、天津神と国津神のすべてを統べる王となったのが天照の孫の饒速日であると考えられます。
それが天照国照彦の称号の意味するところです。 >>858
>王権の象徴として相続された籠神社の鏡が内行花文鏡であったことが根拠です。
バカ丸出しの循環論法
中々お見事ですねw
そもそも内行花文鏡ってだけで朝廷からの下賜品かどうか分かるはずもなし
仮に大陸で下賜品であったものでも時代が経てば王侯貴族でなくても入手可能 ああ、なるほど。
九州説さんの言ってることがわかった。
十種神宝の鏡が「息津鏡」「辺津鏡」
籠神社の伝世鏡も「息津鏡」「辺津鏡」で内行花文鏡
だから
王権の象徴=「息津鏡」「辺津鏡」=内行花文鏡
ってことね。 >>864
>旧事本紀
偽書と言われてるアレですか?(笑) >>861
畿内と九州は同じ内行花文鏡文化の下にあるということです。
その起源は高天原です。
ちなみに宗像大社の辺津宮の神宝も八咫の鏡だそうです。
おそらく内行花文鏡でしょう。 >>863
>>空前絶後の国家的祭祀
その国家的祭祀では、平行ではない二つの二つの鳥居(仮)と、
特に整列させようと考えない適当に植えた杭列でいいんですね!
王を送る国を挙げての行事でこの「緩さ」!
やっぱり、伊都国の人、ハンパないですね! >>869
>ちなみに宗像大社の辺津宮の神宝も八咫の鏡だそうです。
>おそらく内行花文鏡でしょう。
またいい加減なことを聞きかじりで書いているなw
宗像大社のホームページでも見てきてごらん
宗像大社の神宝の八咫の鏡なんてないよ
さあ、釣れるかな?w >>865
>そもそも内行花文鏡ってだけで朝廷からの下賜品かどうか分かるはずもなし
>仮に大陸で下賜品であったものでも時代が経てば王侯貴族でなくても入手可能
前漢鏡はともかく、後漢鏡はリアルタイムのものでしょう。
籠神社が饒速日の宮でしょう。
逆に、天照や邇邇芸、饒速日らが記紀にあるような超古代ではなく、せいぜい紀元前後の人物であることがわかります。
饒速日の次に筑紫に降臨した弟の邇邇芸も後漢の頃の人物であり、その頃の筑紫の伊都国王家が邇邇芸の王家であると推定できるのです。
日向三代が魏志倭人伝の男王70〜80年であり、倭国大乱で神武が筑紫から大和に移動すると、3世紀から始まる畿内の開発に説明ができます。
その少し前から作られる前方後円墳が饒速日を祖とする物部氏の墓であるという説とも一致します。 まあ古墳時代に入ってもやはり舶載鏡が優先されてる
内行花文鏡であっても舶載より大型イ方制のものが優先されてる事例とかあったっけ?
「内行花文鏡だから(むしろ大型だから)王権の証!」
なんてのは支離滅裂もいいところ 「防人日記」によると、宗像大神が天降り、青い玉を奥津宮に、紫の玉を中津宮に、八咫の鏡を辺津宮に、それぞれ御神体として納め祀ったという。 >>873
>前漢鏡はともかく、後漢鏡はリアルタイムのものでしょう。
>籠神社が饒速日の宮でしょう。
「でしょう」「でしょうで」で根拠がまるでないでしょう
ただの脳内ファンタジー小説 あーあー
ズバッと言っちゃう人が出て北よ。
こりゃもうごまかしきれないんじゃないのw >>875
江戸時代の福岡藩の国学者青柳種信による沖ノ島滞在記録「瀛津島防人日記」に
西海道風土記逸文が引用されて載っていてそこに
「自天降居埼門山之時、以青玉置奧津宮之表、
以八尺紫玉置中津宮之表、以八咫鏡置邊津宮之表、
以此三表成神體之形而納置三宮」
とあるのが全てだよ
風土記逸文に「八咫鏡」という文字があるだけで、現在の宗像大社は
八咫鏡を奉祭しているとも、過去に祀っていたとも一言も言っていない >>882の補足 青玉じゃないよ
文字化けするかもしれないけど
「自天降居埼門山之時、
以「青蕤玉」 置奧津宮之表、
以「八尺紫玉」置中津宮之表、
以「八咫鏡」 置邊津宮之表、
以此三表成神體之形而納置三宮」
天降ったのは、宗像大神
「表」は「みしるし」と読む
九州説の人は、こういう原典を確認せずにファンタジー展開してるから困るんだよなぁ
お鏡さんも「日向峠のすぐ左にクジフル岳が見える(>>746)」とかテキトーなことを
しれっと書いてて訂正一つしないし ttps://blogs.yahoo.co.jp/kwgdr451/GALLERY/show_image.html?id=16858033&no=31 伊都の内行花文鏡、籠神社の内行花文鏡をあわせて考えると、前漢鏡であれ後漢鏡であれ仿製鏡であれ、内行花文鏡であれば王権の象徴となり得たのでしょうね。 鏡が実在する以上、それでは反論になりませんね。
三角縁鏡はいずれも何の謂れもない鏡ばかりです。 「実在してる」と「王権の象徴になった」は別の話
もう少し理論的な物言い(精々中学生レベル?)を勉強しましょう >>885
宗像大社は八咫の鏡を祭る社であると。
その後の話がないので、まだ八咫の鏡は宗像大社にある可能性もありますね。
沖ノ島の祭祀と天照の関係も気になるところです。
宗像三女神そのものが天照ゆかりの人物ですしね。
筑紫にいた倭王家が祖先たる天照を祭ったのでしょう。
八咫の鏡そのものも、複数存在していたと考えた方がいいかもしれません。 >>892
宗像大社がえらくクローズアップされていますね。
やはり、宗像方面が大陸からの玄関口だったんでしょうね。 @阿波 >>884
根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう! >>891
内行花文鏡が王侯に下賜された、つまり権力の所在を示す威信財であることはわかっているのですから、あとは中国にはない超大型鏡がいつどこでどのような経緯で作られたかです。 >>895
>内行花文鏡が王侯に下賜された、つまり権力の所在を示す威信財であることはわかっているのですから
どこで分かってるの?
誰がそんなこと言ってるの? 例えば天理天神山とか舶載の内行花文鏡や方格規矩四神鏡はあっても
そこに舶載の大型内行花文鏡は加えられてない
内行花文鏡でも
舶載>国産
という序列
※もし明らかに違う事例があればソース出してくれ
内行花文鏡だから王権の証とかバカ丸出し イミフ。
そこに加えられてないなら序列はわからないだろ。 >>899
(誤)そこに舶載の大型内行花文鏡は加えられてない
↓
(正)そこに国産のの大型内行花文鏡は加えられてない >>895
>内行花文鏡が王侯に下賜された、つまり権力の所在を示す威信財であることはわかっているのですから
そもそも王に任じた者に下賜したものの中に鏡があったことと
鏡が王として信任されたことの証とは別の話
以前話題になった「全唐文」で唐代に家臣が皇帝に
蛮族への贈り物の効果について説いた時
魏が卑弥呼に下賜した鏡とともに挙げられてたのが
匈奴に贈った犀の角のバックル
しかも鏡については
>銅鏡ノ鉗文ヲ止メ
※超意訳・・・どうせ分からんのだから、ややこしい銘文なんか止めて
なんて書かれてる始末
各地の王に贈った鏡だからそれなりのしつらえではあっただろうが
それが即王位の証とはまた別の話
金印や璧ならともかくだ
ちなみに草々の墓と言われるものの中からは
鏡は実用的な鉄鏡だけだったと思うが
また三国志演義だと孔明が司馬懿をおちょくるのに鏡が出てたりするwww 舶載と国産の区別はそもそも重視されていない。
饒速日の鏡(籠神社の十種の神宝)はどちらも舶載の内行花文鏡であり、国産である必要はない。
そもそも漢による倭王の冊封の証であるため、舶載であるべきだろう。
漢の滅亡後の卑弥呼の在位中に作られたと思われる平原遺跡の超大型鏡内行花文鏡が国産の鏡であることは例外的な存在である。 きないせつはもうじぶんでもなにをいいたいのかよくわかってないようだ ある時は舶載であることを強調して国産を一段以上低くして
ある時は最大であることを強調する
ご都合主義の塊が伊都クズ 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 >>904
三雲のガラス璧だろ?
当然念頭にあるがそれがなにか?
平原1号の時代からすれば
昔日の伊都国の栄光ってだけの話 古代東アジアでは、漢など中国の皇帝が各地の王の正統性を保障した。
倭国も古来より朝貢を重ね、倭王として冊封を受け、その証として金印、銅鏡(内行花文鏡)、璧などを受け取った。
特に金印は国書において国璽として用いられたと考えられる。
いずれも九州北部から出土し、畿内からは後世の遺跡から出土する例を除き出土しない。
・須玖岡本遺跡(奴国)
青銅矛5本
青銅剣2本
青銅戈1本
中国鏡約30面
ガラス璧
ガラス玉
・三雲南小路遺跡(伊都国)
青銅矛2本
青銅剣1本
青銅戈1本
中国鏡35面
ガラス璧8枚
ガラス玉
青銅製棺金具
・平原遺跡(伊都国)
銅鏡40面(うち5面が超大型内行花文八葉鏡)
素環頭大刀1本
ガラス玉
瑪瑙玉
耳璫
倭奴国の王が金印をもらったのは伊都国が反映していた時代であり、後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国と同じである。
古くから発展し大きな人口を抱えていた奴国すなわち福岡博多に対し、伊都国は倭国大乱の前の後漢の頃に作られた政治と外交のための人工の政治都市であり、人口は少なかった。
平原遺跡の豪華な出土品からわかるように、伊都国は3世紀初頭に最盛期を迎える。 >>906
国産で世界最大>>>舶載>>>>>国産量産非鏡
理由:発掘時の副葬配置 >>908
三雲の時代から伊都国の繁栄は平原まで連続しており、魏志倭人伝においても、後漢代から魏代までの間に倭が遷都したなど書いてない。 >>911
「〜と書いてない」は「〜であった」の根拠にならない
馬鹿か? ちなみに伊都国王墓(この場合の王墓は日本の考古学の定義)は
平原1号が後期終末に対しその前はと言うと
井原鑓溝が後期後半
実はこれだけ離れてる
しかも平原は場所的にも三雲や井原から離れており
周りの墓も王墓には及ばない
>三雲の時代から伊都国の繁栄は平原まで連続しており
・・・なんてアホの戯言でしかない 平原遺跡において大型国産鏡が最上位となるのは、権威の基となった漢が滅亡したから。
つまり平原遺跡は卑弥呼の時代の倭国女王墓。 >>913
(誤)井原鑓溝が後期後半
↓
(正)井原鑓溝が後期前半 >>912
倭国が畿内に東遷したというなら、その証拠を示してくれ。 >>916
東遷?
そんなものしとらんだろ?
聞く相手間違えてるぞアホ 大丈夫かジョーカー?
ろれつが回ってないみたいだけど。 >>913
平原も倭王墓であると認めるわけだ。
ではその年代は?
卑弥呼の即位の年代は?
卑弥呼が畿内で倭王に即位したなら、遷都しないとおかしいよな? >>920
>卑弥呼が畿内で倭王に即位したなら、遷都しないとおかしいよな?
何がおかしいんだ?
お前の頭がおかしいのは分かるがwww
こっちはテレパシストやボケ老人の相手してやってるボランティアじゃないんだ
答えてほしいならもう少し他人に分かる努力をしなさい馬鹿者 平原遺跡までは伊都が倭の王都なんだろ?
卑弥呼が畿内で即位したなら、畿内が倭の王都になるんだろ?
東遷しているよな? >>914
>平原遺跡において大型国産鏡が最上位となるのは、権威の基となった漢が滅亡したから。
>つまり平原遺跡は卑弥呼の時代の倭国女王墓。
これも前後が全く繋がらない電波ゆんゆん
前半はまあ漢鏡を入手できなくなった背景としては理解できるが
後段に繋がらない
卑弥呼の時代というのなら魏鏡を入れれば良いって話 漢は紀元前から続いた大国。
魏は単なる新興国。しかも三国の一つに過ぎない。
権威の意味がわかっていないわけですな。 鉄の痕跡と言うけど、
じゃあ鉄の痕跡が北部九州のどの時代に当てはまるかというと、
なんと菜畑遺跡。
そこから弥生銀座まで300年を費やしている。
家康が江戸を開いたわけだが、
全国の大名に普請を分担させて、それこそオール日本で開発して、
ようやく江戸が中心になるのに100年。
説明してくださいよ。
畿内説さん。
自前で発展したんですか? >>924
>平原遺跡までは伊都が倭の王都なんだろ?
>卑弥呼が畿内で即位したなら、畿内が倭の王都になるんだろ?
>東遷しているよな?
詰将棋が詰んだようだ。 >>910
>理由:発掘時の副葬配置
あのお、それだとバリバリに割られた挙げ句、墓壙にも入れられず
甕にも壺にも入れられず、墳丘にそのままつくねて埋められてた鏡が
最下層じゃね? >>910
>国産で世界最大>>>舶載>>>>>国産量産非鏡
あのお、平原1号墓に魏晋代の舶載鏡が1枚もないのはどうして?
魏から下賜された卑弥呼の鏡ってないの? >>892
>筑紫にいた倭王家が祖先たる天照を祭ったのでしょう。
>八咫の鏡そのものも、複数存在していたと考えた方がいいかもしれません。
これの同類だろう?
「八咫鏡=王権の証」なんていう構図はないよ
日本書紀
巻第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇
神夏磯媛の景行天皇への服属の場面
「則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊」
巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」 >>934
>権威がないので改鋳して超大型内行花文鏡の材料に。
で、材料からして権威がないから、鋳直した大型内行花文鏡にも権威がなくて
バリバリに割られて適当に埋められるんですね! 分かります! 必死こいて銅鏡集めたがどれも国産
かつての三雲や井原の栄光には到底届かない
ならば・・・ってんでひたすら面径巨大にしてみました
しかもそこに文様入れるでもなくただ大きくしただけ
(三角縁神獣鏡ですら鋸歯文や副波文という工夫はしてる)
※「それじゃあ寂しいでしょう」と現代の鋳造メーカーが
八咫烏入れちゃったのをドヤ顔で説明に使ったのが
>>1の伊都クズが「八咫バカ」と言われる所以である 見せてないよ。
神武が見せたのは天羽羽矢。
神武は倭王ではなかったから八咫の鏡を持っていなかった。
八咫の鏡は卑弥呼の死後数十年後に筑紫の女王である神夏磯姫の持ち物として日本書紀に登場する。 >>935
>「八咫鏡=王権の証」なんていう構図はないよ
畿内説論者はそこまで全てを否定しないと立場を守れないのか。 九州説のみなさん教えてください
八咫烏って何処のサイズが八咫なんですか? >>940
そうやって、脳内の「伊都クズ」「八咫バカ」の岡上と戦ってくださいね。
>>941
何も悪いことないですよ。
おかしな拝外思考を古代に持ち込まないでほしいですね。
>>944
畿内説の立場ですが、八咫鏡=大きい というところから、
東征というフィクションの中で大きいカラスの形容として使ったんでしょうね。 >>943
>畿内説論者はそこまで全てを否定しないと立場を守れないのか。
巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
小鹿火宿禰は、王権と関わりなく八咫鏡を送ってるだろ
八咫鏡=王権ってことはないだろ? >>945
>東征というフィクションの中で大きいカラスの形容として使ったんでしょうね。
八咫烏は人間だよ?
論功行賞に与っているし、後裔氏族(葛野主殿縣主部)もいる >>899
内行花文は体制を象徴する大切な文様ですし、
大型倭製のものと舶載のものが両方とも埋葬されているケース自体少なく、
その上埋葬位置まで特定できるとなると少数と思いますが。
松林山古墳は、大型倭製内行花文鏡が頭部、舶載のものは足部になってますね。
天神山に大型倭鏡が見当たらないのは、崇神陵の方にあるからじゃなんでしょうかね? >>949
私が畿内説者どうかぐらい、私に決めさせてもらえませんかね?
さぞかし、九州説のレッテルを貼っておきたいのでしょうね。 >>950
ありもしない大規模調査を捏造したり、
学界の主流派説を破綻したと捏造したり、
それらを吹聴するために嘘つきスレを立てたり、
と、こういう行為、およびそれを行う人についての、
岡上氏の評価なり考えを聞かせてください >>948
内内行花文が?
なんで体制を象徴する大切な文様なんだ?
理由は? >>950
古田の島巡り説や短里説を正しいという畿内説がいるわけないだろ 896: 05/20(日)17:04 AAS
>>895
>内行花文鏡が王侯に下賜された、つまり権力の所在を示す威信財であることはわかっているのですから
どこで分かってるの?
誰がそんなこと言ってるの? >>956
例えば、
ttps://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/8320/eajws-p053.pdf
まず古墳時代初頭段階で近畿地方 に大量の完形後漢鏡・魏鏡が流入するが、これらも面径の大小により序列化が行われる(辻田2001)。
そして倭製鏡は、そのうちのより大きなもの、具体的には四葉座で雲雷文帯を伴う内字花文鏡を モデルとして製作した内行花文鏡系を頂点とする形で、面径の大小を基準とした列島独自の序列化・体系化が行われる。
そしてそれらとは異なる変遷を辿る三角縁神獣鏡が、
倭製鏡と別のカテ ゴリーとして設定できる。時期的にみた場合、倭製鏡⇔三角縁神獣鏡という配布時の差異化がより顕在化するのは、
西晋王朝・楽浪郡・帯方郡が滅亡した4世紀代(古墳時代前期後半)で あり、この点が列島内部での鏡の配布戦略にも一定の影響を与えていると考えられる。 >>963
つまり
「内行花文鏡が王侯に下賜された、つまり権力の所在を示す威信財である」
と誰も言わない あら、スレ立て失敗だ。
どなたか気が向けば、「伊都国東遷スレ 4」でよろしくお願いします。
ERROR: Sorry このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。またの機会にどうぞ。 >>966
あんた、いったい最近いくつスレってたの?
パート2、3は消費が早かったですが。。。
どれぐらいで規制かかるんでしょうね? >パート2、3は消費が早かったですが。。。
。。。はお鏡さん ほんとそういうの好きですね。
岡上病患者の扱いは大変だ。 だからさー
あんたはスレ立て規制に引っかかるようなことを
してた人なんだが あー、これは全岡上病患者の発作トリガーを押しちゃったみたいですね。 >>977
>>951に対する返答をよろしくお願いします >>978
荒らしは最悪ですね。
畿内説の人も口が悪すぎるので、刺激しすぎないようにするほうがいいのでは?
匿名といっても気持ちよく議論を楽しめるように配慮するべきと思いますよ。
まぁ、荒れ気味に持っていった方がスレが進んで面白いのかもしれませんけど。
けど、本気で荒廃してしまったら、面白く無くなりますよ 実際、だいぶ人が減っちゃってるのでは?と心配です。 お鏡さんが、議論の流れを無視して、どのコメントに
返信するかってところにまでチェリーピッキングしてるから
つまんなくなるんだよ
自分で立てたスレならちゃんと答えるべきことには答えて、
スレの面倒を見ればいいのに
文句ばっかりww 同じホストの人が直前にスレを立てていると、そのようなメッセージがでます。
他のホストの人がスレをいくつか立てると解除されるので、スレがいくつかたったのを確認してまた試みてください。
スレがあまりたたない板ではなかなか順番がまわってきませんけどね・・・ >>979
つまり
>ありもしない大規模調査を捏造したり、
>学界の主流派説を破綻したと捏造したり、
>それらを吹聴するために嘘つきスレを立てたり、
>と、こういう行為、およびそれを行う人
は最悪な荒らしということですね
ご返答ありがとうございました >>983
わたしに確認する意図がよくわかりませんが、
ご指摘の理解で100%あっております。
>>981
放置してすみませんね。
「伊都国を掘る」が手元になかったらちょっと答えずに置いたのです。
「岡上説」としては致命的に間違ったことはかけませんので、
時間の掛かりそうなレスはちょっと放置しちゃいますね。 で、平原1号墓の二つの鳥居(仮)が揃ってない理由は?
杭列が幾何的にきちんと整列していない理由は?
倭王の葬送祭祀がそんないい加減でいいの?
王権の象徴であるはずの大型内行花文鏡が、破鏡された上
墓壙にも入れられず、甕にも壺にも入れられず、墳丘に
そのままつくねて埋められてたのはどうしてなの? >>963
それ古墳時代前期のことで弥生時代のことじゃないんじゃね? >>985
ご自分は簡単な選択式の質問から逃げまくるのに、
一方的に誠実な対応を求められえてもねぇ。
あなたは、私の「お客さん」じゃないんですよ。 >>987
古墳時代前期と弥生時代末期を混同するのは、むしろ畿内説論者の得意とするところだろう。
ただし内行花文鏡を重用するのは紀元前からだから。 >>988
ホストなら、ガタガタ言わずに回答してやりなさい。
このスレのためにも。 おまけで返事してあげます。
>平原1号墓の二つの鳥居(仮)が揃ってない理由は?
>杭列が幾何的にきちんと整列していない理由は?
>倭王の葬送祭祀がそんないい加減でいいの?
きっちり幾何学な建て付けであるというのが、古墳次代たる纒向遺跡の画期的なところでしょ。
金印を貰っているぐらいですから、弥生時代のも倭王はいましたよ。
終末期とはいえ、弥生時代の遺跡にそれを求めるのは、現代的感覚では?
>王権の象徴であるはずの大型内行花文鏡が、破鏡された上
>墓壙にも入れられず、甕にも壺にも入れられず、墳丘に
>そのままつくねて埋められてたのはどうしてなの?
モガリというのは、死を確認するということでしょ。
「日巫女」としての依り代も破壊しておいたということと思います。
もっと現実的には、八葉鏡は、複数枚(八枚?)作成されたとして、
埋葬されるものが破壊されているところを周知することで、盗掘等を防止し、
残りの鏡を次代の卑弥呼の独占物とする意味もあると思いますよ。
まぁ、破砕されたどうかは、原田と柳田で見解が変わるぐらいなところですから、
この議論は、参考程度ですかね。 >>989
畿内説論者が古墳時代前期と弥生時代末期を混同するって証拠は?
理由のない独断ばかりじゃなくて
たまには証拠のあることを言ってみたいとは思わないの? >>992
金印を貰うぐらいの倭王の遺跡にそれを求めるのは、当然だろう >>989
「弥生時代末期」って言い方で基礎知識欠如のための妄想と判るんだけどね >>992
>金印を貰っているぐらいですから、弥生時代のも倭王はいましたよ。
その何百年も前の王の墳丘墓より小さいのはどうして?
吉野ヶ里の北墳丘墓は王墓ではなく、王家の家族墓とされているけれど、
それでも墳丘面積で平原1号墓の8倍くらいある
平原1号墓を王墓と考えるべき理由より、
王墓ではないとした方が合理的とする理由の方が
説得力がある
>終末期とはいえ、弥生時代の遺跡にそれを求めるのは、現代的感覚では?
要するにうまく説明できないことは、大目に見ないとなり立たない説ってことだねww >>992
>「日巫女」としての依り代も破壊しておいたということと思います。
大型内行花文鏡は
「日巫女」としての依り代なの?
「王権の象徴」なの?
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