邪馬台国畿内説 Part347
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525836259/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 始めに一つの海を1000里あまり(行き)、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、(二人の)いるところは(船の付いた島とは)途切れた島だ。。。
(対海国は)およそ、一辺400里の正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺およそ300里の正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、(対海国とは)田地がある(ところが違う)が、田を耕しても、まだ、食料が足りず、(対海国と)同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 (帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。
屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。
赤い丹をその身体に塗る。。。。
中国で粉を用いている様なものだ、、、
食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。。。
その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である。
倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。
女性は淫らではなく、嫉妬しない。。。
倭人は窃盗せず、訴訟が少ないが、倭国の法律を破ると、軽いレベルならば妻子を水に沈められ、重いレベルならば家族を滅ぼされる。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 九州族には尊い者と卑しい者に格差や序列があり、互いに臣服しあって、満足している。。。
屋敷と高層建築が有る。。。。
国々には市場があって、有るものや無いものを交易している。。
優れた倭人にこれを監督させている、、、
女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。
諸国はこれを恐れて遠慮している。。。
常に伊都国で治めている。
倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。
倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。
文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。
説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。
比べた結果、承諾したようなものだ。。。 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 皇帝の命令および意思表示。。。。
魏に親しい倭の王の卑弥呼よ、帯方の太守の劉夏が使いを派遣して、汝の大夫の難升米を送ってきた。。。
次の使いは、都の市場へ、牛利が汝の献じた男の奴隷四人と女の奴隷六人と班布を二匹二丈、奉じるために到着した。
汝のいる場所は遠距離を越えなければたどりつけない、、、
したがって、使いを派遣して貢を献上したことは汝の忠節なる孝心によるものである、、、
我は甚だしく汝を哀しく思う。
今、汝を魏に親しい倭の王と認定するから、紫の帯紐を通してある金の印鑑を利用しなさい、、
包装して封じ目をつけ、帯方太守に持たせておくから、受け取って帯紐(を通してある金の印鑑)を利用しなさい。
汝は倭の人種を安らかになるように鎮め治めて、孝行を示す順序を間違わないように勉めなさいよ。。。。
(其は語気を強めている)
汝の派遣でやって来た使いの難升米牛利は遠く海や道などを横切ってこちら側へ移動するため、道路で勤労してきた。。。。
今、難升米はこれより以降、率善中老将とし、牛利はこれより以降、率善校尉とし、青い帯紐を通してある銀の印鑑を利用させる、、、
(私が自ら)引見して労い、(青い帯紐を通してある銀の印鑑を)贈って、(倭国に)返し、(あなたのもとに)派遣する。
今、絳という地域で作った龍が交わっている柄の錦を五匹、絳という地域で作ったちりめん製で粟色の絨毯を十張、茜色の織物を五十匹、紺青色の織物を五十匹によって、汝の献上した貢に対して直接答える。
又、特に汝に対しては、紺という地域で作った句や文を織り込んだ錦を三匹、白い絹を五十匹、金を八両、五尺の長さの刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹を各五十斤を贈る。
全てを包装して封じ目をつけて、難升米牛利に持たせて帰す。
到着したら、記録して受け取り、全てあますことなく、汝の国中の人に示すべきです。。。
(私の)国家が汝を哀しく思っていることを知らせなさい、、、
だから丁重に汝の好きな物を送るのだ。。。 正始元年に太守の弓遵が建中校尉梯儁等を派遣した。。。
皇帝の意思表示の公文書と印鑑と帯紐を献上するために倭国に詣うでた。
仮の倭王を拝み、同時に、皇帝の意思表示の公文書をもたらし、金、白い絹、錦、絨毯、刀、鏡、採掘物を贈った。
倭王は表に(書き)上げ、使いによって、皇帝の意思表示の恩に返答して感謝した。
正始四年、倭王は再び使いに大夫の伊聲耆掖邪拘等の八人を派遣し、奴隷、倭国の錦、深紅と青の絹、綿の衣、白絹の布、丹、木製の短弓、矢を献上してきた。。。
掖邪狗等は同じく率善中郎将の印鑑と帯紐で(その地位に)任命された。
正始六年、皇帝の意思表示があって、倭国の難升米に黄い軍旗が贈られ、郡に持ち込まれ、仮に授けた。
(代わりの者に授けたのか、代わりの物を授けたのかどちらかなのだろうね。。。。) 正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 始めに一つの海を1000里あまり(行き)、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、(二人の)いるところは(船の付いた島とは)途切れた島だ。。。
(対海国は)およそ、一辺400里の正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺およそ300里の正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、(対海国とは)田地がある(ところが違う)が、田を耕しても、まだ、食料が足りず、(対海国と)同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 (帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。
屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。
赤い丹をその身体に塗る。。。。
中国で粉を用いている様なものだ、、、
食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。 倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。。。
その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である。
倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。
女性は淫らではなく、嫉妬しない。。。
倭人は窃盗せず、訴訟が少ないが、倭国の法律を破ると、軽いレベルならば妻子を水に沈められ、重いレベルならば家族を滅ぼされる。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 九州族には尊い者と卑しい者に格差や序列があり、互いに臣服しあって、満足している。。。
屋敷と高層建築が有る。。。。
国々には市場があって、有るものや無いものを交易している。。
優れた倭人にこれを監督させている、、、
女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。
諸国はこれを恐れて遠慮している。。。
常に伊都国で治めている。
倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。
倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。
文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。
説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。
比べた結果、承諾したようなものだ。。。 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 景初二年六月、倭の女王は、周代の役職名と同じ大夫と呼んでいる、難升米らを派遣した。。。
彼らは郡に詣でて、天子に謁見して献上したいと求めた。。。
太守の劉夏は役人を派遣し、京都に詣でるために手を貸して送った。
その年の十二月のことであった。。。
皇帝の意思表示の公文書に倭の女王に報いて以下のように書かれていた。。。。 皇帝の命令および意思表示。。。。
魏に親しい倭の王の卑弥呼よ、帯方の太守の劉夏が使いを派遣して、汝の大夫の難升米を送ってきた。。。
次の使いは、都の市場へ、牛利が汝の献じた男の奴隷四人と女の奴隷六人と班布を二匹二丈、奉じるために到着した。
汝のいる場所は遠距離を越えなければたどりつけない、、、
したがって、使いを派遣して貢を献上したことは汝の忠節なる孝心によるものである、、、
我は甚だしく汝を哀しく思う。
今、汝を魏に親しい倭の王と認定するから、紫の帯紐を通してある金の印鑑を利用しなさい、、
包装して封じ目をつけ、帯方太守に持たせておくから、受け取って帯紐(を通してある金の印鑑)を利用しなさい。
汝は倭の人種を安らかになるように鎮め治めて、孝行を示す順序を間違わないように勉めなさいよ。。。。
(其は語気を強めている)
汝の派遣でやって来た使いの難升米牛利は遠く海や道などを横切ってこちら側へ移動するため、道路で勤労してきた。。。。
今、難升米はこれより以降、率善中老将とし、牛利はこれより以降、率善校尉とし、青い帯紐を通してある銀の印鑑を利用させる、、、
(私が自ら)引見して労い、(青い帯紐を通してある銀の印鑑を)贈って、(倭国に)返し、(あなたのもとに)派遣する。
今、絳という地域で作った龍が交わっている柄の錦を五匹、絳という地域で作ったちりめん製で粟色の絨毯を十張、茜色の織物を五十匹、紺青色の織物を五十匹によって、汝の献上した貢に対して直接答える。
又、特に汝に対しては、紺という地域で作った句や文を織り込んだ錦を三匹、白い絹を五十匹、金を八両、五尺の長さの刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹を各五十斤を贈る。
全てを包装して封じ目をつけて、難升米牛利に持たせて帰す。
到着したら、記録して受け取り、全てあますことなく、汝の国中の人に示すべきです。。。
(私の)国家が汝を哀しく思っていることを知らせなさい、、、
だから丁重に汝の好きな物を送るのだ。。。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 正始元年に太守の弓遵が建中校尉梯儁等を派遣した。。。
皇帝の意思表示の公文書と印鑑と帯紐を献上するために倭国に詣うでた。
仮の倭王を拝み、同時に、皇帝の意思表示の公文書をもたらし、金、白い絹、錦、絨毯、刀、鏡、採掘物を贈った。
倭王は表に(書き)上げ、使いによって、皇帝の意思表示の恩に返答して感謝した。
正始四年、倭王は再び使いに大夫の伊聲耆掖邪拘等の八人を派遣し、奴隷、倭国の錦、深紅と青の絹、綿の衣、白絹の布、丹、木製の短弓、矢を献上してきた。。。
掖邪狗等は同じく率善中郎将の印鑑と帯紐で(その地位に)任命された。
正始六年、皇帝の意思表示があって、倭国の難升米に黄い軍旗が贈られ、郡に持ち込まれ、仮に授けた。
(代わりの者に授けたのか、代わりの物を授けたのかどちらかなのだろうね。。。。) ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 始めに一つの海を1000里あまり(行き)、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、(二人の)いるところは(船の付いた島とは)途切れた島だ。。。
(対海国は)およそ、一辺400里の正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺およそ300里の正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、(対海国とは)田地がある(ところが違う)が、田を耕しても、まだ、食料が足りず、(対海国と)同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 (帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。
屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。
赤い丹をその身体に塗る。。。。
中国で粉を用いている様なものだ、、、
食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。 倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。。。
その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である。
倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。
女性は淫らではなく、嫉妬しない。。。
倭人は窃盗せず、訴訟が少ないが、倭国の法律を破ると、軽いレベルならば妻子を水に沈められ、重いレベルならば家族を滅ぼされる。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 九州族には尊い者と卑しい者に格差や序列があり、互いに臣服しあって、満足している。。。
屋敷と高層建築が有る。。。。
国々には市場があって、有るものや無いものを交易している。。
優れた倭人にこれを監督させている、、、
女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。
諸国はこれを恐れて遠慮している。。。
常に伊都国で治めている。
倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。
倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。
文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。
説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。
比べた結果、承諾したようなものだ。。。 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 皇帝の命令および意思表示。。。。
魏に親しい倭の王の卑弥呼よ、帯方の太守の劉夏が使いを派遣して、汝の大夫の難升米を送ってきた。。。
次の使いは、都の市場へ、牛利が汝の献じた男の奴隷四人と女の奴隷六人と班布を二匹二丈、奉じるために到着した。
汝のいる場所は遠距離を越えなければたどりつけない、、、
したがって、使いを派遣して貢を献上したことは汝の忠節なる孝心によるものである、、、
我は甚だしく汝を哀しく思う。
今、汝を魏に親しい倭の王と認定するから、紫の帯紐を通してある金の印鑑を利用しなさい、、
包装して封じ目をつけ、帯方太守に持たせておくから、受け取って帯紐(を通してある金の印鑑)を利用しなさい。
汝は倭の人種を安らかになるように鎮め治めて、孝行を示す順序を間違わないように勉めなさいよ。。。。
(其は語気を強めている)
汝の派遣でやって来た使いの難升米牛利は遠く海や道などを横切ってこちら側へ移動するため、道路で勤労してきた。。。。
今、難升米はこれより以降、率善中老将とし、牛利はこれより以降、率善校尉とし、青い帯紐を通してある銀の印鑑を利用させる、、、
(私が自ら)引見して労い、(青い帯紐を通してある銀の印鑑を)贈って、(倭国に)返し、(あなたのもとに)派遣する。
今、絳という地域で作った龍が交わっている柄の錦を五匹、絳という地域で作ったちりめん製で粟色の絨毯を十張、茜色の織物を五十匹、紺青色の織物を五十匹によって、汝の献上した貢に対して直接答える。
又、特に汝に対しては、紺という地域で作った句や文を織り込んだ錦を三匹、白い絹を五十匹、金を八両、五尺の長さの刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹を各五十斤を贈る。
全てを包装して封じ目をつけて、難升米牛利に持たせて帰す。
到着したら、記録して受け取り、全てあますことなく、汝の国中の人に示すべきです。。。
(私の)国家が汝を哀しく思っていることを知らせなさい、、、
だから丁重に汝の好きな物を送るのだ。。。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 正始元年に太守の弓遵が建中校尉梯儁等を派遣した。。。
皇帝の意思表示の公文書と印鑑と帯紐を献上するために倭国に詣うでた。
仮の倭王を拝み、同時に、皇帝の意思表示の公文書をもたらし、金、白い絹、錦、絨毯、刀、鏡、採掘物を贈った。
倭王は表に(書き)上げ、使いによって、皇帝の意思表示の恩に返答して感謝した。
正始四年、倭王は再び使いに大夫の伊聲耆掖邪拘等の八人を派遣し、奴隷、倭国の錦、深紅と青の絹、綿の衣、白絹の布、丹、木製の短弓、矢を献上してきた。。。
掖邪狗等は同じく率善中郎将の印鑑と帯紐で(その地位に)任命された。
正始六年、皇帝の意思表示があって、倭国の難升米に黄い軍旗が贈られ、郡に持ち込まれ、仮に授けた。
(代わりの者に授けたのか、代わりの物を授けたのかどちらかなのだろうね。。。。) ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 始めに一つの海を1000里あまり(行き)、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、(二人の)いるところは(船の付いた島とは)途切れた島だ。。。
(対海国は)およそ、一辺400里の正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺およそ300里の正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、(対海国とは)田地がある(ところが違う)が、田を耕しても、まだ、食料が足りず、(対海国と)同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 (帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。
屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。
赤い丹をその身体に塗る。。。。
中国で粉を用いている様なものだ、、、
食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。。。
その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である。
倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。
女性は淫らではなく、嫉妬しない。。。
倭人は窃盗せず、訴訟が少ないが、倭国の法律を破ると、軽いレベルならば妻子を水に沈められ、重いレベルならば家族を滅ぼされる。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 九州族には尊い者と卑しい者に格差や序列があり、互いに臣服しあって、満足している。。。
屋敷と高層建築が有る。。。。
国々には市場があって、有るものや無いものを交易している。。
優れた倭人にこれを監督させている、、、
女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。
諸国はこれを恐れて遠慮している。。。
常に伊都国で治めている。
倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。
倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。
文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。
説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。
比べた結果、承諾したようなものだ。。。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 景初二年六月、倭の女王は、周代の役職名と同じ大夫と呼んでいる、難升米らを派遣した。。。
彼らは郡に詣でて、天子に謁見して献上したいと求めた。。。
太守の劉夏は役人を派遣し、京都に詣でるために手を貸して送った。
その年の十二月のことであった。。。
皇帝の意思表示の公文書に倭の女王に報いて以下のように書かれていた。。。。 皇帝の命令および意思表示。。。。
魏に親しい倭の王の卑弥呼よ、帯方の太守の劉夏が使いを派遣して、汝の大夫の難升米を送ってきた。。。
次の使いは、都の市場へ、牛利が汝の献じた男の奴隷四人と女の奴隷六人と班布を二匹二丈、奉じるために到着した。
汝のいる場所は遠距離を越えなければたどりつけない、、、
したがって、使いを派遣して貢を献上したことは汝の忠節なる孝心によるものである、、、
我は甚だしく汝を哀しく思う。
今、汝を魏に親しい倭の王と認定するから、紫の帯紐を通してある金の印鑑を利用しなさい、、
包装して封じ目をつけ、帯方太守に持たせておくから、受け取って帯紐(を通してある金の印鑑)を利用しなさい。
汝は倭の人種を安らかになるように鎮め治めて、孝行を示す順序を間違わないように勉めなさいよ。。。。
(其は語気を強めている)
汝の派遣でやって来た使いの難升米牛利は遠く海や道などを横切ってこちら側へ移動するため、道路で勤労してきた。。。。
今、難升米はこれより以降、率善中老将とし、牛利はこれより以降、率善校尉とし、青い帯紐を通してある銀の印鑑を利用させる、、、
(私が自ら)引見して労い、(青い帯紐を通してある銀の印鑑を)贈って、(倭国に)返し、(あなたのもとに)派遣する。
今、絳という地域で作った龍が交わっている柄の錦を五匹、絳という地域で作ったちりめん製で粟色の絨毯を十張、茜色の織物を五十匹、紺青色の織物を五十匹によって、汝の献上した貢に対して直接答える。
又、特に汝に対しては、紺という地域で作った句や文を織り込んだ錦を三匹、白い絹を五十匹、金を八両、五尺の長さの刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹を各五十斤を贈る。
全てを包装して封じ目をつけて、難升米牛利に持たせて帰す。
到着したら、記録して受け取り、全てあますことなく、汝の国中の人に示すべきです。。。
(私の)国家が汝を哀しく思っていることを知らせなさい、、、
だから丁重に汝の好きな物を送るのだ。。。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 正始元年に太守の弓遵が建中校尉梯儁等を派遣した。。。
皇帝の意思表示の公文書と印鑑と帯紐を献上するために倭国に詣うでた。
仮の倭王を拝み、同時に、皇帝の意思表示の公文書をもたらし、金、白い絹、錦、絨毯、刀、鏡、採掘物を贈った。
倭王は表に(書き)上げ、使いによって、皇帝の意思表示の恩に返答して感謝した。
正始四年、倭王は再び使いに大夫の伊聲耆掖邪拘等の八人を派遣し、奴隷、倭国の錦、深紅と青の絹、綿の衣、白絹の布、丹、木製の短弓、矢を献上してきた。。。
掖邪狗等は同じく率善中郎将の印鑑と帯紐で(その地位に)任命された。
正始六年、皇帝の意思表示があって、倭国の難升米に黄い軍旗が贈られ、郡に持ち込まれ、仮に授けた。
(代わりの者に授けたのか、代わりの物を授けたのかどちらかなのだろうね。。。。) 正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 以上テンプレ(嫌がらせの書き込み部分を除く)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし >>139
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 論破され尽くされたテンプレートの合間に、魏志倭人伝の素晴らしい翻訳があるな。。。 伊達郡(川俣町)という掲示板
川崎に住んでいる、
亀戸(亀戸天神)に行ってきたと言ってる人がいたり
家の老婆も同じことを言っていたんだけど、
どういうことだと思う、
受験などではないと言ってる 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 >>142
あまり出来栄えの良くないテンプレートに分断されてしまい、残念だね。。。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? >>146
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
魏の使いが滞在して、一大率も置かれた九州のどきがないことから、邪馬台国とは関係ない土地です。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
後になって、ヤマト征伐の出発地は筑紫とされています。 一大率が置かれた博多湾沿岸は3世紀初から
畿内の大和型庄内式(庄内2式期併行)の模倣生産が始まる
5世紀に日向国に九州最大の前方後円墳が造られる >>150
>一大率が置かれた博多湾沿岸は3世紀初から
畿内の大和型庄内式(庄内2式期併行)の模倣生産が始まる
5世紀に日向国に九州最大の前方後円墳が造られる
それは、筑紫忌部の所業。 @阿波 >>141
何があったの
てかそんなのはじめて聞いたわ(まああまり紙面を賑わわせなかったみたいなのでお察しかもしらんが) >>150
なるほど卑弥呼の治世に畿内を占領したのだな。
台与の頃かと思っていたが。 ていうか、筑紫の倭国を追い出された神武が大和に東征したんやで。
それを恨みに思って、記紀には卑弥呼のことを書かなかったんや。 纒向遺跡の桃の種 年代が邪馬台国と重なる
5/16(水) 1:12配信
奈良県桜井市の纒向遺跡は、出土品などから最有力候補地といわれる一方、遺跡のできた時期が異なるとする意見も出ていました。
桜井市纒向学研究センターによりますと、遺跡から出土した桃の種の年代を分析したところ「西暦135年から230年ごろ」と判明しました。
橋本輝彦統括研究員は「科学的根拠がまた一つ加わった。
纒向遺跡の年代を新しくとらえる先生方に対しては一つの反証になったと考えている」と話しました。
邪馬台国があったとされる年代と重なり、「近畿説」に弾みがついた形です。 >>973
また既知害大和説者が暴れだしたな。
荒らせば荒らすほど、大和説の愚かさが明らかになるだけだと言うのに。
九州説に負けた、と認めてるんでしょ。 >>974
畿内説なんていやらしいネーミング誰が言い出したのかな?。
邪馬壹國筑紫説でいいだろ。
勿論、摂津河内和泉山背は、邪馬台国でもヤマト国でもない。
九州倭国の「東征毛人55国」の中の一国ずつ、でよい。
死なば諸共みたいに他の関係ないエリアを巻き込むな。 >>978
そりゃ大和説学者は、オームと同じく、
学問や科学の本質を知らない国粋皇国史観狂の、
アマチュアの・・・・ガキの詐欺ごっこだからな。 >>979
>(九州説と、畿内説ではない大和説との論争)昔っていつから?<
江戸時代から。 >>980
>「正北抵新羅」って混一図の誤解とかと同じなんでは<
そりゃ、
混一図のようなような「方向や里数計測方法」の知らないような、
はるか後代のでアホ使節の記録と、
白村江で倭国と実際に戦争した唐の記録とでは、
信頼性が全く比較にならないよ。 >>982
国粋皇国史観にクルった学会教育界の大和説学者や、右翼マスコミの、
年代測定のニュースが方々で流れて来て、
一般人の間でも「纒向遺跡が当時の王都だ」って」嘘つき騙しが
浸透させられてきたから、
これまで以上に大和説のガキらは、・・・・カルト化するんだろうな?。 >>983
>土器測ったんじゃダメだ〜の、桃のタネを測れ〜の言ってた人が頓首だわな<
土器でも桃の種であっても、どちらでも、
AMS法でプラズマ化をしてしまえば、2割位?古いデータになってしまって、
絶対年代根拠にならない、
という事が、この男も大和説学者らも、全く判っていないようだな。 >>987
>予測範囲内のものしか出ないんだけどなあ<
AMS法に拠って、仮に1割古く出ていたんなら、
「2000年位前だ」という結果であれば、
それだけで「おそらく1800年位前だ」というように、
200位新しくなってしまう可能性が非常に高い。 検索してみて⇒『最初の天皇はなぜ誕生したのか?』
「〇〇院」という話をしている人がいるから、
あと、どこだったかな「天王」「須」「スメラミコト」と言ってる人もいた
天王=スサノオ、仏教由来、古代中国の〜天子とか
いろいろと混ぜ合わせたような、カルトだったのかな
数年前の、とあるスレでは
「キメラ」「つぎはぎ だからな」とか 「」内は、
わかりやすく言うとキャラクター名のようなもの、モンスターの名前でも良い
どう考えても人権侵害のような気がする ゲームなどに登場する
合成獣、モンスターなどがいるでしょ
ドラクエでもFFでも何でも良いけど 見た感じは普通の人間、外見ではわからないけど、
このような存在になっているという意味
『AKIRA』でいうとテツオとか、遺伝子、膨張して何やらとか >>987
>測定は名大 歴博ちがう<
名大であろうと、どこであろうと、
AMS法のプラズマ化を使っての計測であれば、
古い年代が出た、という失敗であった事は避けられない。 わざとらしく書いている人もいるはず
知っていて、そういうことを書いてる >>988は、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説詐欺師の、
いつもの嫌がらせ屋だ。
わざとデマ立ててんだよ。 >>989
大和説の半分は、
「南→東」などの嘘つき騙しのデマで出来ている。 (情報出所非公開w)
残りは妄想である。 (根拠未公開w) 「宇宙ヤバイ」
ラスボスというのは、このようなコンセプトでしょ >>990
>大型建物の年代は、
センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、
九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、
邪馬台国とは無関係との見方もあった。(朝日)
九州説を唱える専門家って、いたんだ??? だれ?<
そりゃ朝日に聞いてみろ。 ほとんど同じコンセプトなんだけど、
問題は誰が考えたのか?なんだよ
最初に考えた人、むかーしの渡来人?
博士のような人物がいたとか >>992
>「九州説を唱える」ことの専門家だろ w <
「大和説を唱える」って事は、
「南→東」などの嘘つき騙しを唱える事であり、
専門家っていう立派な人間ではなく、
国粋皇国史観狂という宗教・・・・だろう、って事だろ?。 >>996
>なんで畿内説という名前まで認めたがらないんだろう<
存在もしなかった宗教的文言を、
存在した、かのような使い方をする事は、
オームなどと同じく嘘つき騙しであり、
世間の人々のためにならず、
黙過し難いから。 「宇宙ヤバイ」
>膨張してるらしい。ヤバイよ、膨張だよ。
>だって普通は地球とか膨張しないじゃん
>寒すぎ。バナナで釘打つ暇もなく死ぬ。怖い。
>なんつっても宇宙は馬力が凄い。 『ワンピース 粉雪』
youtubeで良いから観てみて、同じコンセプト 『AKIRA』
お山(本当は猿山という意味)の大将と言っていたり、 桃の種にしか頼れないなんて、かえって畿内節の惨めさを強調している。 >>1000
>なんかまた政治思想的な色メガネだろ<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、また、
なんかまた「国粋皇国史観国家」狂の、
政治宗教的な色メガネなんだろ。 >>144
>倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。<
「大乱」なんてなかった。
あったのは「倭國亂」。
>結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
「大和朝廷」なんてもなかった。
大和は、「倭国から別れた別種の旧小国」であり、
「倭國の東征毛人五十五國」の中の一国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国。
出雲は、梁代まで存続していたようであり、
東海は、「倭国の東征毛人55国」の一つ。 >>146
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。<
畿内も大和朝廷もなかったから、×。 >>147
>魏志倭人伝 邪馬台国の官・・・<
邪馬台国なんて存在していないから、この男は×。
>伊支馬は生駒。生馬。火の神。・・・<
「南≠東」に拠って、×。
>弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。 弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。<
大和は阿毎氏であり、倭奴國や伊都国系も同じ阿毎氏だから。
>ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。<
大和は、元は出雲銅系銅鐸祭祀部族地域でもあったから。
>邪馬台国の官の筆頭伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。<
この男も、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説の仲間である、
というような気がする。 >>150
>一大率が置かれた博多湾沿岸は
3世紀初から畿内の大和型庄内式(庄内2式期併行)の模倣生産が始まる<
列島の庄内の初元は、(倭奴國の阿毎氏系であった)三雲であり、
倭国の「東征毛人55国」の諸国や(阿毎氏の)大和に伝搬模倣生産が起き、
「市」を介して、筑紫に逆搬入上納が起きたもの。
>5世紀に日向国に九州最大の前方後円墳が造られる<
投馬國地域と思われる日向も、阿毎氏系であったから。 >>153
>なるほど卑弥呼の治世に畿内を占領したのだな。
台与の頃かと思っていたが。<
畿内も台予もないよ。
それに、ニギハヤヒや神武らの東征は、記紀伝承や二中歴に従えば、
紀元前100年前後頃。
かつてはマスコミに取り上げられたこともある古田説も
今では掲示板で反日チョンのソント荒らしだけになった 前スレ>990
>九州説を唱える専門家を
これ、「九州説」を唱える専門家じゃなくて、
「九州説を唱える専門」家じゃないの?
そういうのなら居そうww >>210
>纒向遺跡の桃の種 年代が邪馬台国と重なる 5/16(水) 1:12配信
奈良県桜井市の纒向遺跡は、出土品などから最有力候補地といわれる一方、<
(三雲の庄内ではなく、大和の)庄内だから、筑紫から伝搬模倣後であり、
285年頃以降頃である事になるから、×。
>遺跡のできた時期が異なるとする意見も出ていました。
桜井市纒向学研究センターによりますと、遺跡から出土した桃の種の年代を分析したところ
「西暦135年から230年ごろ」と判明しました。
橋本輝彦統括研究員は「科学的根拠がまた一つ加わった。
纒向遺跡の年代を新しくとらえる先生方に対しては一つの反証になったと考えている」
と話しました。<
橋本も、
AMS法がプラズマ化操作に拠って、年代が1〜2割古く出る、という、
「物理学の場の相互作用の基本的な論理の帰結」が全く理解出来ない、
・・・・アホであった事が判る。
>邪馬台国があったとされる年代と重なり、「近畿説」に弾みがついた形です。<
邪馬台国なんて存在しないし、
「大和説→畿内説→近畿説」という拡大解釈の嘘吐き騙しをしても無駄。
反日チョンなんか国外強制退去させないから
日本人が被害に合う >>226
>AMS法でプラズマ化をしてしまえば、2割位?古いデータになってしまって、
>絶対年代根拠にならない、
あー、こういうバカ信念があっての発言かぁ
なんで、ザラコクがイオン化したら、放射性元素の崩壊確率が変わるとか
いうのにこだわってるのかと思えば、これを言うためなんだな
まあ、論旨としては分かった
でも、この地球上の人類のサイエンスでは、原子核の崩壊確率に核外の
電子のあり方はまったく影響しないんだ
バカがまたバカをさらしてる、以上の意味はないなww >>220
なぜ大和説学者も大和説者も、嘘をつくのだろう?。
こっそり教えますね。
国粋右翼の皇国史観国家主義の文部省の宗教教義に隷従し、
右翼マスコミや、右翼学会教育界や、キョクウの戦争狂のやくざ暴力団の家来になって、
脳や顔がおかしくなった醜い顔に戦争狂のアホだったから。 >>247
>自称専門家ならいっぱいいる<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者なら、
自称専門家とかばっかりであり、いっぱいいる。
工人に紛れて半島から勝手に移住してきた
ウソ連呼と鸚鵡返ししかできない有害な寄生人種が生口だろ >>255
かつては学会に取り上げられたこともある大和説も、
今では掲示板で、
国粋皇国史観国家狂の人種差別的殺し合い戦争・・・・狂の、
・・・・荒らしだけになってしまった。 >>256
これ、「大和説」を唱える専門家、じゃなくて、
「南→東などの嘘吐き騙しの大和説を唱える事が専門」家じゃないの?。
そういうのなら居そうww。 >>253
>列島の庄内の初元は、(倭奴國の阿毎氏系であった)三雲であり、
なんでまた、そんなトンデモを執拗に言い張るかなあ
なんの根拠もないのは、もうバレバレなのに >>258
文部省や右翼マスコミや嘘つき騙しの学会教育界や、
国粋皇国史観殺人戦争狂の・・・・やくざ暴力団なんか、
国外強制退去させないから、
国民の7割の、まともな日本人が、被害に合う。 >>266
この反日朝鮮人は、日本人が拉致されたのは日本が悪いと主張し
日本が北朝鮮に謝罪することを要求している >>259
>AMS法でプラズマ化をしてしまえば、2割位?古いデータになってしまって、
絶対年代根拠にならない、<
>・・・なんで、ザラコクがイオン化したら、放射性元素の崩壊確率が変わるとか
いうのにこだわってるのかと思えば、これを言うためなんだな・・・
>でも、この地球上の人類のサイエンスでは、原子核の崩壊確率に核外の
電子のあり方はまったく影響しないんだ <
アインシュタインの「電磁場と重力場が相互作用をしている」という論理が、
アフリカでの皆既日食での「遠方の恒星からの電磁波(光)が、
太陽重力場のために曲げられる」、という計測に拠って確認され、
素粒子の存在は、
外界場との斥力相互作用の結果、引力的な「場の相互作用として出来た」場、
として発生し
場の相互作用は、その相互作用の影響下内においては、
場全体が「安定化」方向を齎すような方向性を持ち、
だから、プラズマ化に拠って、原子の外周電子を無理やり剥がせば、残
った原子や原子核の場の相互作用が安定化を求める相互作用を起こして、
原子核内の電子部分を放出する(ベータ崩壊)事も起きる事になる。
>バカがまたバカをさらしてる、以上の意味はないなww <
・・・・アホのwwなんぞに話しても、全く無駄であったんだろうなあ。 >>261
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>262
正常生徒学生の中に紛れて、
国粋人種差別戦争狂的右翼の、安部自民公明政府やヤクザ暴力団、という部族が、
wwの本体なんだろうなあ。
ウソ連呼をし、鸚鵡返しされる事しかできない低能の有害な寄生人種が、
wwなんだろう。 >>270
反日朝鮮人社会では鸚鵡返しが知的行動だと考えられていることがわかる >>265
>>列島の庄内の初元は、(倭奴國の阿毎氏系であった)三雲であり、<
>なんでまた、そんなトンデモを執拗に言い張るかなあ
なんの根拠もないのは、もうバレバレなのに<
嘘つき騙しの大和説考古学者の柳田であっても、
(皆には判らないだろうと思って)、
「ついうっかり」、
通説大和説を否定する事になる情報を紹介してしまった、
という史料事実は、信頼性がかなり高いもの。
これは米田の「河内や播磨は、大和とは別の支配組織だ」と言った、
という事に関しても言える事。 >>267
>この反日朝鮮人は、<
これは間違い。私は日本人。
>日本人が拉致されたのは日本が悪いと主張し <
いや、悪いのは実行犯の北朝鮮だ、と言っている。
>日本が北朝鮮に謝罪することを要求している<
いや、日本の自民党の元の吉田らが、
北朝鮮に先の戦争の謝罪をして、平和条約を結ぶ事をせず、
アメリカの「獲の傘」で北朝鮮に敵対して、
戦争状態を継続し続けた事も、
拉致事件の原因だった、と言っている。 >>271
人種差別殺人戦争の国粋皇国史観国家狂の、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説社会では、
その嘘つきのために簡単に鸚鵡返しされる、
という事も判らないような社会であり、
彼らは、世間の人々にも、非知的行動だと考えられている、
ということもわかる。 >>273
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>273
>これは間違い。私は日本人。
反日、工作員は皆そう言う、親日はそういう成りすましをしない
>悪いのは実行犯の北朝鮮だ、と言っている。
お前は、日本人拉致事件が起きたのは、
日本側の北朝鮮への謝罪がなかったからだと主張している
日本人拉致事件が起きたのは、朝鮮人による反日活動に対する警戒感が希薄であったから
二度と日本人が拉致されることがないように法律を整備して取り締まる必要がある
>戦争状態を継続し続けた事も、
お前はそれしか言っていない
「謝罪をして、平和条約を結ぶ」これは実質的に金を要求している
北朝鮮国家による金目当ての同時多発的誘拐事件であり
まだ返還されていない拉致被害者が存在する >>274
日本では痴呆と反日朝鮮人しか鸚鵡返しはしない >>276
ネトウヨの特徴
反日=反安倍だろ
中国や北朝鮮の専制政治を批判しながら、
ヒトラーやプーチンや東条の専制政治は大好き
理想の国は戦時中の日本、つまり北朝鮮の体制(ww >>272
>これは米田の「河内や播磨は、大和とは別の支配組織だ」と言った、
>という事に関しても言える事。
いや、ただの捏造でしょ
柳田の庄内どーたらも捏造だし
実際は誰もそんなこと言ってない
>>276
>反日、工作員は皆そう言う、親日はそういう成りすましをしない<
思想宗教に狂った人間は、・・・・であるから、このように、
幾ら説明したって、曲解捏造否定するだけであるから、放置対象。
>お前は、日本人拉致事件が起きたのは、
日本側の北朝鮮への謝罪がなかったからだと主張している<
これも、拉致事件そのものは、悪いのは北朝鮮だ、と言って来た。
>お前はそれしか言っていない
「謝罪をして、平和条約を結ぶ」これは実質的に金を要求している
北朝鮮国家による金目当ての同時多発的誘拐事件であり
まだ返還されていない拉致被害者が存在する<
wwが、・・・・の分裂幻覚妄想である事は、
普通の国民にも自明であろうから、放置対象。 >>277
>日本では痴呆と反日朝鮮人しか鸚鵡返しはしない<
この・・・・投稿も、おそらくwwなんだろうが、
他の大和説者かも知れない。 >>278
反日チョンは必ず数を水増ししようとして、
全く話題に出てもいない中国まで引き合いに出す
九州王朝というような九州という括りにも表れていて
九州の地理も文化も知らないくせに
九州説を包括しているなどとほざく >>280
>拉致事件そのものは、悪いのは北朝鮮だ、と言って来た。
反日のお前はその拉致犯罪の原因は日本側にあると主張してきた
>普通の国民にも自明であろうから、
普通の日本国民と反日朝鮮人は何の関係もない
Yahooも締め出され、毎日早朝からウソと日本人学者への罵声と
鸚鵡返し連呼してるような日本人はいない
反日チョンのお前だけ ネトウヨ「逆らうやつは反日」
ヒトラー「逆らうやつは反ドイツ」
プーチン「逆らうやつは反ロシア」
習近平「逆らうやつは反中」
思想回路がよう似とるww 後は【しら】が何か分かればいいんだが
しら、おしらさま、しらぬひ、天白、 >>282
>反日チョンは必ず数を水増ししようとして、
全く話題に出てもいない中国まで引き合いに出す
九州王朝というような九州という括りにも表れていて
九州の地理も文化も知らないくせに
九州説を包括しているなどとほざく<
これを見ても、
wwは、史料事実に拠る古代史議論や反論を全くしていないから、
大和説が九州説に議論で全く完敗した、という事を自覚しているようだ、
という事がよく分かる。 >>283
このような・・・・アホのキョクウの怒号誹謗の繰り返しでは、
議論そのものが成立せず、
放置対象。 >>268
久しぶりにちょっと遊んでやるかねぇ
>原子核内の電子部分を放出する(ベータ崩壊)事も起きる事になる。
原子核内に「電子部分」なんてないよ?
クオークと電荷の関係とか、中間子とか知らないんだろうなぁww
そうかぁ、ザラコクの脳内世界では、原子核内にも電子があるんだ?ww
でも、それは地球上の人類のサイエンスが描く原子核の状態とは別物なんだよ? >>281 残念ながら>>271はオレの書き込みじゃないんだww
いい加減、オレは「オウム返し」ってカタカナで書くのを覚えなよ
ザラコクさんの知的能力の水準でも、それくらいは区別できるだろww >>217
畿内説が畿内説のスレ荒す理由がない
九州説にはあるけれど
つまり荒らしは負けがほぼ確定した九州説のしわざ >>286
各九州説には九州王朝などと違って、
他の九州説を包括してるなどというような傲慢な説はない
議論以前に投馬國を縄文遺跡に比定するような無知で
反日九州王朝説には半島系遺物が豊富な筑紫以外の九州の考古に
全く興味がないことが表れている >>288
>原子核内に「電子部分」なんてないよ?<
世間の皆さま、だから、分かりやすいように「部分」という文言を付けてあげたんですよ。
論理的には、
素粒子レベルでは「粒子性と波動性の両方の性質を持つ」という事は、
粒子論だけでは永久に説明が付かず、
アインシュタインの場の相互作用に拠って、
粒子性は、
電磁場と重力場などの場が「引力性と斥力性の両方を持って凝縮された」場合、
にしか存在し得ない、という事なんですよ。 部分w
物理学を知らない朝鮮部落内のジジイの集まりでやれよ >>290
>畿内説が畿内説のスレ荒す理由がない
九州説にはあるけれど
つまり荒らしは負けがほぼ確定した九州説のしわざ<
いや、まず「畿内説」と言った瞬間に、
スレ主やこの男は、
「大和説」では負けるから、改竄しなければならなかった、
という事であり、
その時点から「畿内説」という荒らしをした事になってしまっており、
更に、九州説が指摘して来た、
「南≠東」や、
「正北抵新羅」や、
大和は「(九州)倭國から別れた別種の旧小国」や、
「東征毛人五十五國」や、
米田論考などにまともな反論が全く出来なかった、
という事は、大和説の負けた事を示しており、
だから、その後の大和説側からの九州説者の「罵倒」のみは、
「荒らし」そのものになる。 >>294
何の根拠にもならない独自解釈を連呼しているだけ
しつこいだけの反日朝鮮人の文化 >「南≠東」や、
魏志倭人伝原理主義のカルト以外の人には無意味ですね
>「正北抵新羅」や、
倭国の一部にはそれで確かに到着しますよ?
それが倭国の主要部分ではないというだけで
>大和は「(九州)倭國から別れた別種の旧小国」や、
そんなことは魏志倭人伝には書いてないですね?
後代史書は半分×書なんじゃなかったでしたっけ?
>「東征毛人五十五國」
「西服衆夷六十六國」や「渡平海北九十五國」のことも
たまには思い出してやってくださいね 「渡平海北九十五國」
これで穢いだけの奴隷を連れてきたのがそもそもの間違いの始まり >>294
九州説って、どこまで現実を無視できるんだろう >>292
何度も言ってるんだが、分からないことを知ったかぶりしなくていいんだよ?
ザラコクに、現代物理を理解してもらおうなんて、誰も期待していないし
>アインシュタインの場の相互作用に拠って、
>粒子性は、
>電磁場と重力場などの場が「引力性と斥力性の両方を持って凝縮された」場合、
>にしか存在し得ない、という事なんですよ。
アインシュタインは、波動関数(シュレディンガー方程式)の解が確率分布として
得られるのに納得がいかなくて、「神はサイコロを振らない」と言った人なんですが
量子論とか、量子力学とか、理解していないから、原子核の中の電子部分とかいう
妄言が綴れるんですよ
分かりやすく説明、どころか、分かっている人なら決して思いつかない表現だよね >>297
>>「南≠東」や<
>魏志倭人伝原理主義のカルト以外の人には無意味ですね<
魏使らの渡来に拠る実見記録を元にした同時代見聞計測記録の魏志は、
後代の主観的な記紀や、金石文など以外の考古の主観的解釈よりは、客観性や信頼性が最も高い。
>>「正北抵新羅」や、<
>倭国の一部にはそれで確かに到着しますよ? それが倭国の主要部分ではないというだけで<
唐会要は、白村江の記録を当然みており、対戦相手の倭国の位置は、当然倭国の中心部の表記として記載するもの。
>大和は「(九州)倭國から別れた別種の旧小国」や、<
>そんなことは魏志倭人伝には書いてないですね?後代史書は半分×書なんじゃなかったでしたっけ?<
大和日本国情報は「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」が最初であり、
唐書から見れば、ほぼ同時代情報であり、客観性と信頼性は十分。
>>「東征毛人五十五國」<
>「西服衆夷六十六國」や「渡平海北九十五國」のこともたまには思い出してやってくださいね <
「渡平海北九十五國」という事は、倭王武は、半島を「海北」と見ている事になり、
大和付近からは新羅はほぼ「西」になって合わないから、
九州を示している、って事もたまには思い出してくださいね。 >>303
> 「渡平海北九十五國」という事は、倭王武は、半島を「海北」と見ている事になり、
>大和付近からは新羅はほぼ「西」になって合わないから、
>九州を示している、って事もたまには思い出してくださいね。
ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸 @阿波 >>279
>>これは米田の「河内や播磨は、大和とは別の支配組織だ」と言った、
という事に関しても言える事。<
>いや、ただの捏造でしょ 柳田の庄内どーたらも捏造だし<
柳田も米田も、「ついうっかり」、
通説大和説の否定になる、という事が判らず、
しゃべってしまった事。
実際は誰もそんなこと言ってない >>299
人種差別殺人戦争主義の国粋皇国史観国家狂の、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
頭のおかしい大和説狂徒は、ウソまみれだな。 >>300
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・大和説者って、
どこまで史料や現実を無視できるんだろう。 >>302
>>アインシュタインの場の相互作用に拠って、 粒子性は、
電磁場と重力場などの場が「引力性と斥力性の両方を持って凝縮された」場合、
にしか存在し得ない、という事なんですよ。<
>アインシュタインは、波動関数(シュレディンガー方程式)の解が確率分布として
得られるのに納得がいかなくて、「神はサイコロを振らない」と言った人なんですが<
波動関数(シュレディンガー方程式)には、
アインシュタインの「場の引力的や斥力的な相互作用の存在」、という事が含まれておらず、
また、数学的にも、
「三体問題以上には確定的な解が得られなくて、確率的な解しかない」という事にも、問題があって、
不完全なものです。 >>304
>> 「渡平海北九十五國」という事は、倭王武は、半島を「海北」と見ている事になり、
大和付近からは新羅はほぼ「西」になって合わないから、
九州を示している、って事もたまには思い出してくださいね。<
>ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸 @阿波<
ずばり、阿波では、
「南≠東」や、
「正北抵新羅」や「渡平海北九十五國」は、阿波からも「ほぼ西」になるから、
×。 奴国の場所までは確定してるんだから九州が断然優勢でしょ
方角読み違えとかありえないし
東を南と書かれた明確で万人が納得できる理由がない限り畿内説はまったくのデタラメ 奴国の場所までは確定していてしかも魏使が伊都国までしか来ていないことも確定しているんだから九州で確定
方角読み違えとかありえないし 畿内説論者のいう方角90度読み違えの理由が
回りくどい説明ばっかりでまったく証明になってない
畿内説はもう破綻してることに気づけよ 畿内が目的地なのに、九州に上陸する理由が見当たらない >>310-312
九州説はもう行程パズルしかないから
パズルは愛好者だけでやればいいと思うよ まあ九州に上陸して動き回ってる段階で、目的地は九州以外ないよ >>314
行程パズルしてるのは無理矢理東を南に当てはめてる畿内説
先進文化は北部九州にしかなかったのに鉄も作れない畿内が中心とか笑わせるな >>314
大和説はもう、
文献考古共に史料事実の否定曲解の嘘つき騙しばっかりで、それしか残っていないから、
「嘘つき騙しの愛好」の詐欺師だけで集まって、
刑務所だけでやればいい、と思うよ。 日本人はパズルであっても自説を地道に研究する
客観的思考ができる在日の人は九州と半島の比較を通じて文化の類似性を研究する
反日チョンは特に日本の歴史そのものに興味があるわけじゃないから
畿内説に絡むことで精神的劣等感を晴らそうとする
朝鮮半島にいた時代に辛い目に合った奴隷たちだね 五尺刀中国朱など副葬された女王墓で、70-80年男王墓が続いた後の長期政権。
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓
魏使は伊都で卑弥呼や台与と面会している。
だから、伊都国が邪馬台国の都
三国志東夷伝の里程全てが、弥生時代にしては現代地理と驚くほど相関している。
だから、短里(東夷伝里)で正しいに決まってる
里程と日程を直列させるのではなく、里程は漢代楽浪郡使、日程は魏使、の並列記事。
だから、水行20日の起点は帯方郡
(外交問題に気を遣う人は、日程部分は放射読み)
以上が邪馬台国伊都北部九州説。
以下は、畿内ヤマト政権の成立に関わる後世の別問題。
平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡
長さを言っているだけだから事実ではある。 >>318
この投稿も、国民に、
「韓国への蔑視憎しみを煽る」ようなヘイトスピーチ投稿になっており、
騙されたアホな国民が、
また韓国への侵略戦争を肯定推進する事になって行くんでしょうね。 >>319
伊都説は半島南部と北部九州沿岸が倭地、
反日九州王朝説は半島経由の渡来人(偽華夏族)征服作り話 >>321
>韓国への蔑視憎しみを煽る
韓国?いや日本人を拉致したのは韓国じゃないよ
反日チョンはすぐ矛先をかわそうとする やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる 畿内説の人に聞きたいんだが
鉄も無いのにどうやって大和が倭国の覇者になったというの?
3世紀以前の畿内の遺跡の出土品を見れば九州北部以外しょぼい副葬品しか出てこないのに
3世紀前半にある日突然畿内が西日本統一とか
宇宙人の所業でも無い限りありえないから >>326
倭人伝のどこに共立された卑弥呼が覇者だと書いてある? 先に、鉄がないと駄目だということを立証しなきゃ意味のない設問 当時の鉄資源の産地は朝鮮半島南部
畿内で鉄の生産が始まるのは5世紀以降
どうやって畿内の勢力が九州北部に上回る鉄を入手できるんですか?
2世紀の遺跡で伊都国から見つかる遺跡を上回る文明を持つ遺跡は日本国内に未だ嘗て出ていません
明らかに2世紀までは日本国内で最大の勢力は伊都
なのに3世紀に入っていきなり畿内が中心とか宇宙人が来ない限りありえません >>329
それは朝鮮半島南部を中心に考えているから >>329
鉄がないといけない理由がまったく書かれていないぞ まあ、この内容見ても、思い込みが全てってことが、よくわかる 魏使が鉄鏃を報告してるからな。
貴重な鉄を鏃にできるくらい。 学問的な有効打を何ひとつ受けてないのにヘロヘロにはならないな
いや、実は、相手のあまりのガイキチ振りにはちょっとへなってる >>330
3世紀に畿内で鉄を生産していたというなら証拠を出せ
鉄の入手が出来ない時点で畿内が倭国の覇者という論理は崩壊する
倭国の覇者は伊都 >>339
いや、遺跡もろ出てるし〜?
それが、どう崩壊すんの? >>336
思い込みなのは畿内説論者のほうですよね
きちんとした考古学的に見て伊都国が当時日本で最も技術的にも文化的にも勢力的にも圧倒していたのは遺跡の調査結果から見ても確かですが?
倭人伝にはっきり「伊都国に一大卒を置く」と書いてる
伊都国が国内最強だから警察権力を有した
実際の発掘調査からも文献からも伊都国が国内最強とはっきりしてるのに認めないのはもうただの意固地ですよ >>339
鉄は、北部九州のように捨ててるのは管理されていないから
鉄器使用跡は以前にも加美遺跡報告書から引用してやった さっさと伊都国の三雲・井原・平原を上回る証拠を出せ >>341
伊都国は女王の都がある邪馬台国ではない
弥生終末の糸島は博多にすら影響を与えていない 自信過剰なだけで客観的にはアレなじいさんが
中途半端な知識と強烈な思い込みだけで
学界を引っくり返すんだと鼻息荒く突撃してはみたものの
フルボッコにされたことにすら気がつかない状態 >>334
魏志倭人伝を思い込みと言わないと成り立たない畿内説 >>349
何をひっくり返す必要があるのだ?
三雲南小路遺跡や須久岡本遺跡が王墓というのは元からの学説だし
漢委奴国王金印は国宝。
平原女王墓の副葬品も一括国宝。
200回近く発掘して何も見つからなくて、
慌ててひっくり返そうとしているのはお前さんだろ? >>347
影響を与えるという表現は曖昧で先入観の元だな。
詐欺師の論法。
消防署の方からきました的な? >>352
「影響を与えていない」という表現は曖昧でない
なんの問題もない >>351
漢文の珍読を発明したり方法論無視した妄想を喚き散らしたりしてるじゃんか
もしかして現実が見えていない? 今の日本は中国で作られた製品が溢れているが、中国の影響下にあるのか?
中国の支配下にあるのか? >>351
三雲遺跡や須久岡本、漢委奴国王金印は時代も違うし、金印は糸島出土でも無い >>356
商品生産も物流も情報伝達も何から何まで状況が異なる現代の事例を持ち出すことで歴史学を全くわかってないことがわかる 卑弥呼は漢の時代に共立されているのだがなあ。
もう何と言ってあげたらいいのやらw >>361
>外来の商人
あれ?
大量の国産鏡なんでしょ? >>362
平原の鏡は半分は塗装鏡だし、技術は外来だろう シラ、白澤、白沢、白佐波
豊受大神と何か関係あるのかな
新羅も本来はシラ
白澤、牛妻、
誰か詳しい人いないかな >>363
昔から、外来の技術を取り入れて発展させるのが得意だったんだろうなあ。
内行花文鏡を大型化したんだな。 >>358
金印は実は伊都の細石神社が江戸時代まで保管していたものが、流出して志賀島から見つかったことにしたとかなんとか。 >>358
平原遺跡まで連続する方形周溝墓の王墓群であり、連続した時代ですよ。 >>367
とかなんとか。じゃだめなんだよ
とかなんとかは何時から伝わってるのか物証がないから
>>368
三雲は甕棺屈葬、平原は木棺直葬だから連続してない >>348
伊都国の遺跡を上回るものを示せと言って時代の異なる纏向を出してくる畿内説論者は相当の馬鹿だな
伊都国の三雲・井原・平原遺跡の発掘調査から
紀元前から2世紀まで連続して伊都国が日本最強の勢力だったことは確か
纏向は3世紀以降のもので関係ない
伊都国が倭国であり倭国は伊都国のこと 伊都国の平原遺跡からは鉄器が出てくるが纏向には鉄器は出てこない
鉄も無い野蛮勢力が日本を蹂躙したとか戦国自衛隊の世界かよ 戦国自衛隊は当時のレベルからすれば超テクノロジーの兵器を持ち込んでるんですが・・・
バカですか? 伊都厨は相手の言うことは一切受け入れず
ストーカーのように粘着して同じことを連呼する変質者だな
2年前に熊本の予備校生が相手にしてもらえなかった天草の予備校生を
福岡市で100ヶ所以上刺し殺した事件があったが
あいつと同じ人間性
そのうち器物損壊でもやるような奴 >>358
>>360
三雲からは前漢の鏡、井原・平原からは後漢の鏡が出土してるが
同時期の日本国内の遺跡からは前漢・後漢の鏡は全く出て来ない
紀元前から2世紀まで連続して伊都国が倭国であったことは確か
3世紀以降突如として纏向遺跡が現れるが
巨大勢力のはずなのに軍事力に必要な鉄は全く出てこない
>>369
「後漢書」にある倭国王師升は伊都国の王のことなのだが
つまり前漢から後漢通じて「倭国」とは伊都国のこと ひとつ言いたいのは
魏志倭人伝に「邪馬台国の女王」は卑弥呼とは一言も書かれていない
卑弥呼は「倭国王」であり邪馬台国の女王ではない
前漢の時代から通じて倭国は伊都国のことなのだから
卑弥呼は伊都国から出てきた女王であると考えるのが適当 >>376
>同時期の日本国内の遺跡からは前漢・後漢の鏡は全く出て来ない
あれ?須玖岡本は?
立岩は?
時期違ったっけ?
>「後漢書」にある倭国王師升は伊都国の王のことなのだが
勝手に決めるなよ 卑弥呼は魏に使者を派遣したのは238年
これは魏が公孫氏を滅ぼした直後で、
同時期に蜀の諸葛亮が亡くなり蜀が滅亡寸前の状態の時期で絶妙なタイミングで魏に使者を送っている
卑弥呼兄弟は相当な外交力があるのは確か
畿内にいてこのような大陸の情報は得られない
この外交力を見ても
卑弥呼は漢の時代から通交のある伊都国の女性であることは確か >>371
三種の神器 鏡つるぎ勾玉の揃った遺跡を畿内であったかと問うと、古墳に埋葬されてるからありふれてるという、デタラメな人みたいですね。まるで。 魏志倭人伝
「伊都国に一大卒を置き諸国を検察しており、諸国は恐れている
女王は常に伊都国で治めている」
伊都国に倭国内最強の軍事力がありそれを背景に諸国を黙らせ
女王は伊都国にいるとはっきりと書かれている
平原墳丘墓の被葬者は女性であるから
これが卑弥呼の墓で確定だろう >>378
須久岡本の被葬者は奴国王
井原鑓溝遺跡の被葬者は倭国王師升
確定 桜馬場もあるし三雲地域以外からも漢鏡は出土してる
息を吐くように嘘を吐いて捏造する奴がいるな >>385
劣化したショボい鏡しか出てないけど?
綺麗な形で大量に出土してるのは伊都国の王都だけ 倭国大乱以前の日本の覇者は伊都国であることは
数々の先進的な遺跡があることや倭国王師升が伊都国王であることから確かである
大乱によって諸国が戦ったものの伊都国を上回る勢力は出現せず
諸国は伊都国の女性卑弥呼を倭国の王に共立した
伊都国には一大卒が置かれ強大な軍事力のもと諸国を検察し監視し諸国に恐れられた
これか真相である >>386
自分で書いた内容を後出しで変更ですかw
事実よりチンケなプライドを優先させるという
お前の醜悪な態度には心底あきれるわ 邪馬台国がどこにあったにしろ思うのは、
卑弥呼って何が楽しくて生きてたんだろ?ってこと。 >>388
畿内て出てくる中国の鏡は中古品
割れ物の中古品まで含めて悲しくないの?
新品の中国製の鏡は三雲・井原・平原からしか出てこない
これでいいか?
中古品しか出回らないような畿内 >>358
>>367
金印は「倭奴国」=伊都国に与えられたもの
志賀島は奴国だけでなく伊都国からの玄関でもあるから
伊都国に贈られたものが志賀島にあっても何もおかしくない
その後の倭国王師升も伊都国の王であるし
伊都国を中心とする倭国が西日本に広がっていたもの >>382
>女王は常に伊都国で治めている」
>女王は伊都国にいるとはっきりと書かれている
文献学と考古学も無視して
我流の倭人伝トンデモ山に走る
こらが九州説の末期症状だな
ww >>327
>倭人伝のどこに共立された卑弥呼が覇者だと書いてある?<
倭人伝には、卑弥呼は倭女王とか、倭国の女王とか書いてある。 >>728
>先に、鉄がないと駄目だということを立証しなきゃ意味のない設問<
先に、鉄がなくても倭(國)女王になれる、ということを立証しなきゃ意味のない設問。 >>330
>それは朝鮮半島南部を中心に考えているから<
いや、筑紫が中心だ、と考えているから。 >>331
>鉄がないといけない理由がまったく書かれていないぞ<
鉄がなくても大和が盟主や女王になれる、
という理由が全く書かれていないぞ。 >>332
まあ、この大和説者の投稿内容見ても、
大和説は、口先での騙しであり、思い込みが全て、ってことが、よくわかる。 >>396
そもそも、鉄がないという証明が未到着なんですが。 >>334
>魏使の報告とか、また思い込みかよ<
また口先での誹謗かよ。
魏使らの報告記録がなくっちゃ、陳寿は倭人伝を書けないよ。 >>335
>鉄が豊富なら、骨鏃なんか使わない <
大和は、鉄鏃すらなかった。 >>401
思い込みが強いね
べつに韓人や楽浪商人の伝えた情報でも構わないわけだが >>336
>伊都クズは思い込みが全て<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
根拠が全くなくて、口先での誹謗が全て。 >>405
いや、根拠が全くなくて口先での誹謗が全てなのは、あなたのその投稿だから >>338
大和説者は、学問的な有効打を何ひとつ言えず、口先での誤魔化しばかりなのに、
ヘロヘロにはならないな。
いや、実は、大和説者のあまりのガイキチ振りには、ちょっとへなってる。 >>340
>(卑弥呼の頃の鉄鏃)いや、遺跡もろ出てるし〜?
それが、どう崩壊すんの? <
なぜ、その遺跡名を出さないの?。
4世紀以後だから?。 >>342
大和説者という人種は、
「南→東」などの、
口先での嘘吐き騙しのカタマリ。 >>343
>鉄は、北部九州のように捨ててるのは管理されていないから
鉄器使用跡は以前にも加美遺跡報告書から引用してやった<
米田は、加美も、大和とは別の権力地域だ、と言っているし、
伽耶の陶質土器と共存しているから、3世紀末以後の話だよ。 >>344
>岡上、自分の頭の上の蝿を追え><
大和説者、自分の頭の中の蠅掃除をして貰え。 7月場所では初日に負けて
土俵上で大便を垂らしながら泣く >>348
>纏向<
纏向から鉄鏃が出た、って話は知らんな。
まさか、桃の種を投げっこして戦争したって?。 よく知らないけど
デスラーが好きなだけなんじゃない、
主人公よりも悪役、ライバル?そういうキャラが好きなタイプの人間 >>349
安部文部省や右翼マスコミや人種差別学会教育界やキョクウ戦争狂の応援で、
自信過剰なだけで客観的にはアレな大和説者が、
中途半端な、間違った知識と、「南→東」などの強烈な嘘つき騙しの思い込みだけで、
世間を騙すんだと鼻息荒く突撃してはみたものの、
国民の7割にフルボッコにされたことにすら気がつかない状態。 そのライバル(悪役)というも、物語の途中で仲間になったり、
仲間になったと思ったら、行方を眩ましたり(作中に登場しなくなったり)
そのキャラ(ライバル)がいなくなると、
主人公チームも弱体したり、作品の売り上げ(視聴率)が下がるとか
漫画やアニメ・・・
などの専門家にも聞いてみたほうが良い >>353
お前ら大和説者は、
文献考古の口先での嘘吐き騙しばっかりで、
まともな文献考古の知識は無いんだろん?。 >>354
>「影響を与えていない」という表現は曖昧でない なんの問題もない<
糸島と、博多の弥生銀座は、金印の倭奴國以来仲間同士であり、
影響を与え合っているよ。 >>355
大和説者は、
漢文の珍読の嘘吐き騙しを発明したり、
方法論無視した妄想を喚き散らしたりしてるじゃんか 。
もしかして、脳の病気で現実が見えていない?。 >>356
>今の日本は中国で作られた製品が溢れているが、中国の影響下にあるのか?
中国の支配下にあるのか?<
中国の製品はちょっとだし、中国の影響下でもないし、支配下でもない。 >>357
>八咫バカにまともな考古学知識はない<
「伊勢神宮の八咫の鏡」信仰の大和説バカに、まともな考古学知識はない。 九州説は口数だけは多いけど
悪口雑言と根拠なし言い張りばかりで
内容が無いな
もしそれ以外あるなら、レス番号を言ってみな
言えないだろ? >>358
>三雲遺跡や須久岡本、漢委奴国王金印は時代も違うし、金印は糸島出土でも無い<
筑前地域では、
三雲遺跡や須久岡本や漢委奴国王金印は時代から継続して同じ倭人地域であったし、
金印は糸島の細石神社に伝えられていた、という伝承があった。 >>423
畿内説の者が
「伊勢神宮の八咫の鏡」信仰
なんて持ってる証拠、ある?
またデタラメのデマを流しているのだね? まさか漫画やアニメが、
現実の世界(そこから、ねつ造のようなもの)に影響を与えてしまった?
というわけでもないだろうし >>361
>平原1号は外来の商人程度だろ <
平原1号墳は、魏の薄葬令下での倭國女王クラスの墓だが、
箸墓は、九州倭国の「東征毛人55国」の中の一国の、
地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽程度だろ。 >>363
>平原の鏡は半分は塗装鏡だし、技術は外来だろう<
平原の鏡の半分の近くに「尚方作」と書かれているから、
明帝の銅鏡100枚が元になった、という事になるし、
作者は、おそらく、「海東」に渡来して来た呉系の楽浪鏡師たちだろう。 >>366
>言い訳はそれだけか?<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の、
口先でもイチャモンや言い訳は、それだけか?。 タイムパラドックス、超時空マクロス、ウラシマ(タツノオトシ号)・・・など
モモタロウに登場するウラシマン
「ぼく、どざえもん」(ドラえもん)と言っているし >>369
大和説者の「とかなんとか。」という言葉尻誹謗じゃだめなんだよ。
現実には、金印は、(大和で発見されたんではなく)、
細石神社の糸島半島沖の志賀島で発見されたんんだから。 >>369
>三雲は甕棺屈葬、平原は木棺直葬だから連続してない <
朱塗りの木棺に進化している。 >>374
結局畿内邪馬台国は、
畿内説者の、脳の奥底での分裂幻覚の妄想で健在なんでしょうね。 歳を取って何やら〜〜という話、
家の老婆も同じようなことを言っていたし
そういう話をしているのか、
それとも何でもない、普通の話をしているのか、 >>375
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
相手の言うことは一切受け入れず、
ストーカーのように粘着して同じことを連呼する変質者だな。」
2年前に熊本の予備校生が相手にしてもらえなかった天草の予備校生を、
福岡市で100ヶ所以上刺し殺した事件があったが 、
あいつと同じ人間性。
そのうち器物損壊でもやるような奴 。 >>378
>>同時期の(筑紫以外の)日本国内の遺跡からは前漢・後漢の鏡は全く出て来ないの<
>あれ?須玖岡本は? 立岩は?<
筑紫だろ?。
>時期違ったっけ?<
立岩は、漢文がおかしいから、ホウ製鏡だよ。 >>434
>朱塗りの木棺に進化している。
その朱は、九州説の言うベンガラなんだろ? @阿波 どのスレだったのか覚えていないんだけど、
震災などが起きた後の書き込み
また天皇がやったのか?
みたいなことを言ってる人がいた
AKIRAの話? >>433
「細石神社の糸島半島沖の志賀島」って
なんだソレ?
ww 監視ではないけど、色々と管理、監理している人がいるでしょ
『AKIRA』でいうとドクターのような存在、変換すると官吏(かんり)と出て来たり
本当の話なのかな >>439
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>380
>上野祥史
「日本列島における鏡分配システムの変革と画期」<
目次を見ただけでも、「上野祥史」ってのは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のアホである、と丸わかりであり、
読む価値は全くなし。
必要だと思えば、引用してみな。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 畿内説に反論できず
荒らしと罵倒に終始する九州説は
学説として死亡が確定しました 鏡分配システムは、畿内説を妄信するキナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 畿内説を論破されたキナイコシの呟きが狂気じみているな。。。 >>452
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>453
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 >>454
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 >>455
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 >>388
この大和説男も、
筑紫の鏡の話を書いている事は自明なのに、
「筑紫内の他にもある」と書いて、「後出しで変更だ」と誹謗するんですかw。
事実より、チンケなプライドや口先詐欺を優先させるという、
お前の醜悪な態度には心底あきれるわ。 >>458
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 >>459
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>389
>邪馬台国がどこにあったにしろ思うのは、
卑弥呼って何が楽しくて生きてたんだろ?ってこと。<
邪馬台国なんて、史料事実にはないよ。
卑弥呼がどこにがいたにしろ思うのは、
この大和説男って、「南→東」などの嘘つき騙しをしてまでして、
何が楽しくて生きてたんだろ?ってこと。 >>461
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 >>463
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 >>464
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。 >>466
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 >>446
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 >>392
>文献学と考古学も無視して 我流の倭人伝トンデモ山に走る
こらが九州説の末期症状だな ww<
伊都国が、共立女王の卑弥呼の「軍事的な中心」であった、という事は、史料事実。
そういう文献学と考古学も無視して、 我流の倭人伝トンデモ山に走る。
これが、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のwwの末期症状だな。
ww >>392
>文献学と考古学も無視して 我流の倭人伝トンデモ山に走る
こらが九州説の末期症状だな ww<
伊都国が、共立女王の卑弥呼の「軍事的な中心」であった、という事は、史料事実。
そういう文献学と考古学も無視して、 我流の倭人伝トンデモ山に走る。
これが、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のwwの末期症状だな。
ww >>397
>理由もなく
>なぜ必要?<
「南≠東」に拠って、大和は共立女王の都にはならないから。 >>400
>そもそも、鉄がないという証明が未到着なんですが。<
「鉄」ではなく、大和内に「鉄鏃がない」、
という問題であり、
河内の鉄鏃やホケノの鉄族は、3世紀末以後になるから。 >>404
>思い込みが強いね
べつに韓人や楽浪商人の伝えた情報でも構わないわけだが<
この大和説男も、口先での嘘つき誤魔化しが強いね。
魏使らは、倭地で実見した事を記録し、陳寿は、それを踏襲記載しているだけ。 >>406
いや、
根拠が全くなくて、口先での誹謗が全てなのは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のあなたの、
その投稿だから。 ホケノ山古墳は4世紀前半〜中頃by橿原考古学研究所
歴博と橿原考古研で戦って頂きたいものだ >>410
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
また、史料根拠を言わず、口先での悪口オンリーか。 >>476
橿考研がそんなこと言ったとか
どっから湧いたデマ?
??? >>414
>7月場所では初日に負けて 土俵上で大便を垂らしながら泣く<
これ、誰の何の話?。
また、大和説者の「口先騙し」の匂わせ投稿?。 >>424
大和説は、口数だけは多いけど、
悪口雑言と根拠なし言い張りばかりで、
内容が無いな。 >>480
このように、ザラコクは今日もウソをつく 伊都国東遷スレより転載
九州 畿内
萬二千餘里 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
水行三十日陸行一月 × ○ 九州では収まらない
兵用矛〜鐡鏃或骨鏃 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
倭地温暖 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
有棺無槨 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
父母兄弟卧息異處 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
出真珠青玉 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其山有丹 × ○ 邪馬台国が九州だと仮定すると和種の地でしかないはずの畿内が女王国圏内になってしまう
女王國以北特置一大率 × ○ 伊都国の近くに邪馬台国があれば、わざわざそんなもの置かない
倭國亂相攻伐歴年 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其南有狗奴國 × ○ 九州では存在する土地の余裕がない
東渡海〜復有國皆倭種 ○ ○ 女王国の東(北)に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ ○ 参問できるところの倭地が周旋五千里
五尺刀 × ◯ 東大寺山古墳中平銘大刀
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ▲ ○ 漢鏡7期は畿内優勢
神獣鏡が国産だとしても魏との繋がりがないと作れない
倭錦 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
白珠 青大句珠 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい >>426
>畿内説の者が<
「畿内」なんて、存在していなかったんだよ。
またデタラメのデマを流しているのだね? 。
>「伊勢神宮の八咫の鏡」信仰 なんて持ってる証拠、ある? <
皇国史観の大和説者が信仰する記紀では、
伊勢神宮の八咫の鏡は、三種の神器の一つになっているから。 >>440
>>(平原)朱塗りの木棺に進化している。<
>その朱は、九州説の言うベンガラなんだろ? @阿波<
いや、紹介してくれた九州説者君は、たしか、
中国朱である、という意見だったよ。 >>484
畿内論者が記紀を信仰するとか
どっから沸いてくる妄想なんだ。 >>449
九州説に反論できず、
荒らしと罵倒に終始する大和説は、
学説として死亡が確定しました。 >>482
>九州 畿内<
畿内なんて存在していなかったし、
「南≠東」だから、大和は始めから×。
>萬二千餘里ーー邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい<
この大和説男は、都合の悪い事は「どうでもいい」と言って逃げる。
また、「邪馬台国」なんて、史料に存在しない文言を使って誤魔化す・・・・。 >>487
>畿内論者が記紀を信仰するとか<
「畿内」なんて、存在しないよ。
>どっから沸いてくる妄想なんだ。<
大和説者が「畿内」なんて存在しない文言を使うのは、
半分×書の記紀の大和皇国史観の記述が正しい、
と妄想しているから。 >>489
>反論してるんだが<
史料事実や実態を提示して反論をしないと、反論にならないんだが。 >>493
>もちろん提示があるな<
「テンプレに書いてある」とかでの口先ではなく、
具体的な史料事実で書かなくっちゃダメだし、
「証拠は?」とか「勝手な文言を持ち出して来て誹謗」したり、ではダメだよ。 出土物や風俗その他は九州説有利だと、九州説の人は思っているようだけれど、
基本「倭地」についての情報で「邪馬台国限定のこと」ではないので、わりにどうでもいい
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓、径百歩
・徇葬百人
について述べないと、ほぼ意味がない >>496
>なんで畿内説のスレで九州説の残党が暴れてるん?<
「邪馬台国畿内説」だなんて、
全く存在もしなかった嘘つき騙しの呼称のスレは、
国民のためにならず、
黙過し難かったから。 邪馬台国畿内説は厳然と存在するんだが
狂ったのか? >>442
畿内厨は九州北部の地理すらわからないのに九州説否定してるの?
志賀島は糸島半島の対岸にあることも知らないの? >>497
>基本「倭地」についての情報で「邪馬台国限定のこと」ではないので、わりにどうでもいい
都合のいい読み方をするなよ。
だから畿内説は信用されないんだ。 キナイコシは畿内のことしか目に入らずに畿内はすごいぞと思い込んでいるだけだから。 >>498
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>501
実際、ほとんどの史料事実は畿内説に都合がよく、九州勢に都合が悪い >>504
糸島半島が博多湾に面していることも知らない時点で
史料を読む以前の基本的知識が欠如してるとしか思えないが >>482
畿内説の嘆き定期
お手上げ宣言みたいなもん まだ弥生で「三種の神器ガー!」とか言ってる情弱がいるんだな >>460
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 >>509
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 >>510
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 >>465
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw キナイコシが論破されてしまっている話題が、三足や耳の付いた中国系生活土器のことのようだね。。。 >>513
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>468
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 376(1): 05/17(木)01:52 AAS
>>358
>>360
三雲からは前漢の鏡、井原・平原からは後漢の鏡が出土してるが
同時期の日本国内の遺跡からは前漢・後漢の鏡は全く出て来ない
紀元前から2世紀まで連続して伊都国が倭国であったことは確か
3世紀以降突如として纏向遺跡が現れるが
巨大勢力のはずなのに軍事力に必要な鉄は全く出てこない
>三雲からは前漢の鏡、井原・平原からは後漢の鏡が出土してるが
>同時期の日本国内の遺跡からは前漢・後漢の鏡は全く出て来ない
恥ずかしすぐるwwwww >>519
>紀元前から2世紀まで連続して伊都国が倭国であったことは確か
平原遺跡は2世紀末から3世紀中頃と考えられるが、墓制や副葬品はそれ以前の伊都国の王墓を継承している。
つまり、3世紀においても伊都国が倭の王都であった。
そして平原遺跡の被葬者は女性である。
その時代は卑弥呼の在位期間と重なる。 間違いを間違いと認められないなら、それは嘘つき
嘘つきの言い分を真面目に取り合う奇特な人などいない >>520
>平原遺跡は2世紀末から3世紀中頃と考えられるが
られない
ww >>391
江戸時代まで細石神社にあったものが何の記録もないっていうのはおかしい
口伝しかないということは、三雲を調査してる青柳種信の『後漢金印略考』や
鑑定した魯南冥の『金印弁』でも
細石神社のことは書かれてないってことだから >>412
>米田は、加美も、大和とは別の権力地域だ、と言っているし、
それは服部とかいうおっさんのつまみ食い話だろ
学問とは関係ない
>伽耶の陶質土器と共存しているから、3世紀末以後の話だよ。
これも反日朝鮮人ザラコクのホラ編年 >>420
>糸島と、博多の弥生銀座は、金印の倭奴國以来仲間同士
弥生銀座は春日周辺のこと、弥生終末には博多、比恵那珂のほうが中心地
博多湾、今津湾は畿内、山陰の影響下
糸島三雲は遅れている ほんの数キロしか離れていないのだから、一体で評価すべき。 >>522
平原遺跡の耳璫は魏晋の頃のもの。
平原遺跡は魏代より遡ることはない。
つまり平原遺跡は卑弥呼や壹與の時代の倭国女王墓。 >>527
>平原遺跡の耳璫は魏晋の頃のもの。
それって変質者が柳田の考察を改竄した編年だろ 日本で平原しか出てない、中国出土のものとは同型ではないものを
編年なんかできるわけがない >>532
それは改竄常習変質者が考古無視した一体
博多湾沿岸には糸島の影響はない 畿内論者は伊都国は博多湾に面していないと思っているのか
現在の糸島市のイメージに引っ張られすぎてて福岡市西区まで跨っていることを理解していないのかな
どうりで南を東と言うわけだ
歴史を学ぶなら地理くらい勉強してから来てくれ >>525
魏志倭人伝引用
「女王国以北特置一大率検札諸国畏憚之常治伊都国」
伊都国が日本最強であり諸国が恐れていたとはっきり書いているのだが??? >>535
面していないよ
博多湾側には博多産の庄内式土器を使う人々の遺跡がある
伊都国内部には庄内式はほとんど入らない >>536
それは伊都国を事実上占領してる邪馬台国の官だ 1 漢光武帝が印綬を与えた「倭奴国」は伊都国の事
その金印は糸島半島から博多湾を挟んだ対岸にある志賀島で発見された
2 倭国王師升とは伊都国王の事
すなわち倭国とは伊都国の事
3 三雲・井原・平原を見る限り同時代の日本国内の他の遺跡より圧倒的に先進的な文化があったことは確かである
4 平原墳丘墓の被葬者は女性
伊都国は倭国とイコールであるから被葬者は倭国女王すなわち卑弥呼である
5 伊都国に置かれた一大率
諸国は伊都国を怖れた→伊都国が倭国大乱に勝利した日本最強の国であった確定的な文献証拠 >>537
福岡市周辺の地図も見たことない
小学生にも劣る基礎知識しかないお前に用は無い >>539
伊都国は一大率を恐れてる小国のひとつだよ >>539
倭人伝に書いてないことを色々と妄想してるな
ww >>534-535
伊都や弥生銀座を連呼してるのは福岡の地理をほとんど知らない
兵庫大阪の特殊な集団だからどうも話が通じない
今津湾沿岸は糸島ではなくて福岡市西区今宿、周船寺
今津湾沿岸も山陰、瀬戸内、畿内の影響下だから
博多湾沿岸全体の動きから糸島の三雲は遅れている それよりも、
▢▢力夫氏のような名前の家があるでしょ、
その家と亀戸天神との関係だよ
家も同じような事を言っていたんだけどw
受験などではないと言っていたり >>545
福岡市西区の今宿以西は福岡市に合併する前は糸島郡 むかーし行ったりもしたんだよと言ってる、
それが老婆が生まれるよりも前の話
本当に家の話なんだけど、
舅か姑に、そういう話を聞かされたのかな >>543
女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国 何度書いても同じ、あの写真の家、
キュウリの葉、葱の華・・・などの写っている写真 1941年福岡市編入の今宿に糸島の感覚をもってるっていったら
九州説は戦前生まれとかか? 人口も少ない伊都国が最強軍事国家とか
どんだけトンデモ妄想するやら 「天王宮 山王院」関係の話?
むかーし住んでいたというところも、
そっちのほうなんだけど、どういう話なんだろう 九州説のお爺さんたちには健康でいてもらわないと困るから
ネットなんかやってないで山に登れ
医療費の総額は40兆円を越えている
内36%が75歳以上だ
だから山に登れ >>538
伊都に鎮座する卑弥呼の直属の部隊だよ。 >>549
古代史は律令制の郡名で語るのが普通だろ? 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>558
おいおい
語る対象が律令時代の何百年前だと思ってるんだ? 川俣町という掲示板でも同じ話をしているでしょ、
香野という家の話とか、確実に家の話だと思うんだけど
むかーし結婚した家があるんだけど、
香野という名前の家だよと言ってるし 西海道
筑前国 ちくぜん(筑州)
筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑後国とともに7世紀末までに成立した。7世紀後半のものと見られる太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡に「竺志前國」とある。
延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社16座8社・小社3座3社の計19座10社が記載されている。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。
宗像郡 宗像神社三座 (現 宗像大社、宗像市)
宗像郡 織幡神社 (宗像市)
那珂郡 八幡大菩薩筥埼宮 (現 筥崎宮、福岡市東区)
那珂郡 住吉神社三座 (福岡市博多区)
糟屋郡 志加海神社三座 (現 志賀海神社、福岡市東区)
御笠郡 筑紫神社 (筑紫野市)
御笠郡 竈門神社 (筑紫野市・太宰府市)
下座郡 美奈宜神社三座 – 福岡県朝倉市に論社2社。
他に式外社として香椎宮(福岡市東区)が国史に見える。
一宮 筥崎宮または住吉神社
一宮とされる筥崎宮・住吉神社よりも上位に香椎宮・宗像大社などがあるが、これらは国家的な崇敬の対象であり、筑前国一国のものとは考えられていなかったようである。二宮以下は不詳である。
(続く) 志摩郡(しまぐん)
怡土郡(いとぐん)
早良郡(さわらぐん)
那珂郡(なかぐん)
席田郡(むしろだぐん)
御笠郡(みかさぐん)
糟屋郡(かすやぐん)
宗像郡(むなかたぐん)
遠賀郡(おんがぐん)
鞍手郡(くらてぐん)
穂波郡(ほなみぐん)
嘉麻郡(かまぐん)
夜須郡(やすぐん)
上座郡(じょうざぐん)
下座郡(げざぐん)
安佐久良/朝座郡(あさくらぐん)。延喜式までに上座郡と下座郡に分割。
宗像郡 宗像神社三座 (現 宗像大社、宗像市)
宗像郡 織幡神社 (宗像市)
那珂郡 八幡大菩薩筥埼宮 (現 筥崎宮、福岡市東区)
那珂郡 住吉神社三座 (福岡市博多区)
糟屋郡 志加海神社三座 (現 志賀海神社、福岡市東区)
御笠郡 筑紫神社 (筑紫野市)
御笠郡 竈門神社 (筑紫野市・太宰府市)
下座郡 美奈宜神社三座 – 福岡県朝倉市に論社2社。 有名人だったのかな?としか思えない
漫画、アニメ・・・ゲームなど、
同じような設定ばかりだし
あの写真も出来すぎているような気がする、
誰かに売ったり、配っていたりしていたのかな >>554
現在の福岡都市圏のイメージで語るなよ
当時の福岡平野は早良国、奴国、糟屋国と分かれており
海岸線は博多区の住吉神社あたり
糸島半島全域を支配する伊都国が一番大きな勢力だ 『ボーボボ』
それと山の上のほうに住んでいたという話・・・
『スサノヲ』? 邪馬台国の時代には奴国が最大で、伊都国はかなり落ち目なんだよ 金印についてだか
現在のイメージだと志賀島は博多の玄関という錯覚をしているが
当時は海の中道は無く志賀島はただの博多湾に浮かぶ島である
つまり博多湾は
玄界灘から進入した場合お椀型の湾に玄界島ー志賀島ー能古島が浮かんでいるだけである
糸島半島と玄界島ー志賀島ー能古島を囲む海域が伊都湾であり
日本の玄関は伊都であることははっきりする スサノオというのは神社?の話じゃなかったのかな、
話によると寺院に通っていたと言っているし、どういうことなんだろう
元々、日本の話ではない? >>569
それはない
現在の福岡市中心部は海であり海の中道も海
奴国は比恵から春日にかけてのわずかな平地を支配していただけであり
西に早良国、東に糟屋国があるので
糸島半島全域と玄界島ー志賀島ー能古島の伊都湾を支配する伊都国よりかなり小さい >>572
おいおい
平然と倭人伝を無視したオレ様独自説か?
しかも、根拠も言わないww >>558
思いつきで言うな、戦前生まれ
律令制の郡名に糸島郡なんか無い
怡土郡と志摩郡、三雲郷というのも無い >>573
全て倭人伝に則った論だが?
伊都国の記載に
「代々王がいる」「郡使が往来する時常にとどまる」とわざわざ書いている
奴国の記載には全く無い
王は伊都国におり奴国は属国という文献からも証拠 伊都国 官と副官の名前 王が代々いる 帯方郡からの使者が常に来る
奴国 官と副官の名前のみ記載
奴国には王はおらず伊都国に王がいるとはっきり書いてるのに
奴国>伊都国と言ってる奴は文献無視のトンデモ論だ そういう一族がいるでしょ
反省しなさいと言われて、
仏門(出家でも何でも良いけど)に入ったという話なのかな、
おそらく、そうだと思う
誰が考えたのか、わからないけど
『反省だけならサルでもできる』 >>576
またまた妄想w
王は伊都国におり奴国は属国なんて文献、どこにあるの?
伊都厨さん、捏造はナシよ >>577
奴国の人口は伊都国の20倍なんだが。
倭人伝を完全に無視ですか? >>580
ではなぜ奴国の欄に王の記載がないのか
奴国には王はいない証拠
対海、一大、末盧、早良、奴、糟屋、宗像
すべて伊都国の属国 >>577
>奴国には王はおらず伊都国に王がいるとはっきり書いてるのに
奴国には王はおらずとはっきり書いてあったり
しないよね >>538
>それは伊都国を事実上占領してる邪馬台国の官だ
それは、筑紫忌部のことだ。 @阿波 >>581
首都ワシントンより一地方都市のニューヨークのほうが人口が多いのは無視ですか?
伊都はワシントン
奴はニューヨーク >>586
伊都国が日本最強の国とか言ってたのと矛盾しまくりで支離滅裂デス 倭人伝によると
伊都国には
・代々王がいる
・中国からの郡使は常にとどまる
・一大率があり、諸国は畏れ慄いている
わざわざ書く必要がどこにあるか?
伊都国が倭国の覇者だからである
>>590
対海、一大、末盧、早良、奴、糟屋、宗像、岡、鎌、穂波、田川、朝倉、浮羽、山門、八女、佐賀、神崎
これらは全て伊都国=倭国の範囲内 >>593
前世代の人脈とかあって下請けの接待係でもしてたんだろ >>591
伊都国は鉄を大量に持っているから倭国の覇者となりえた
明治維新でイギリスから大量の近代兵器を買い込んだ薩長が勝者となったのと同じ >>594
倭人伝によると
伊都国には
・代々王がいるが皆んな邪馬台国にいる女王の部下
・郡使はいつも途中にここで泊まる
・女王が派遣した一大率が駐留しており、伊都国も含め諸国は畏れ慄いている
特に厳しく監督されてんだね >>595
畿内説はこんな根拠のないくだらん書き込みしかできないのか。
能なし。 >>598
一大率は駐留ではないね。
そこに置かれていた。
一大率の本拠地が伊都国となる。 >>598
倭人伝によると
伊都国には
・代々王がいるが皆んな邪馬台国にいる女王の部下→そりゃ、倭国(阿波)筑紫支店長だから。
・郡使はいつも途中にここで泊まる→そりゃ、ここは出入国管理局みたいなものだから。
・女王が派遣した一大率が駐留しており、伊都国も含め諸国は畏れ慄いている→そりゃ、筑紫忌部なんだから。 @阿波 >>584
>>>577
>>奴国には王はおらず伊都国に王がいるとはっきり書いてるのに
>
>奴国には王はおらずとはっきり書いてあったり
>しないよね
王や官はいれば必ず書いてある。
奴国には官はいても王はいない。
ついでに言うと、早良や糟屋の王国も邪馬台国の時代にはない。
それら筑前の中を遷都して、卑弥呼の時代には伊都が王都であった。 伊都国が任地の大率は刺史みたいなもんなんだから
邪馬台国にいる女王が任命した地方官だな >>575
>>>558
>
>思いつきで言うな、戦前生まれ
>律令制の郡名に糸島郡なんか無い
>怡土郡と志摩郡、三雲郷というのも無い
だから延喜式をもとに筑前の郡を全て挙げたから、参考にしてね!
怡土郡、志摩郡はあったようだよ。
三雲郷は知らん。 >>603
魏志倭人伝には置くと書かれている。
駐留ではない。 >>605
王都である伊都から出発して各地を検察したから、刺史のようだった。 倭国大乱→伊都国(倭国)による東への侵攻のこと
伊都国による九州北部の制圧は2世紀までで完了
その後東に侵攻し日本の覇者となる
高地性集落が九州北部には無く瀬戸内、近畿、東海、北陸に分布しているが
これは倭国大乱のなか東進する伊都国軍に怖れた諸国が環濠集落を捨て高台に逃げ込んだ証拠
やがて西日本を制圧した伊都国は纏向に前線基地をつくった
これが纏向遺跡 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>606
>怡土郡、志摩郡はあったようだよ。
>三雲郷は知らん。
戦前生まれの変質者が「怡土郡」を使ってるのを見たことが無い
最初に俺が言ったのを忘れてるようだが
「博多湾沿岸には糸島の影響はない」
現在我々畿内説が、論文で読んで使ってるデータというのは
戦前生まれ九州説の爺さんたちがボケ始めた後に
現役の学者が学術調査した成果なので
考古学に関連した内容は、博多湾という呼称も含めて現在の行政区分で会話している >>497
>出土物や風俗その他は九州説有利だと、九州説の人は思っているようだけれど、
基本「倭地」についての情報で「邪馬台国限定のこと」ではないので、わりにどうでもいい
・邪馬台国の発音に近い地名 <
「邪馬台国」なんて存在しないものを設定する事自体がインチキ騙し。
>・戸数7万戸<
九州は、筑紫及びその周辺で十分だが、大和盆地では、全く×。
>・30近くの国々の盟主<
馬韓や弁辰との比較で、九州及びその周辺島々でほぼ十分だが、
大和は、始めから盟主ではなく、九州倭國の「東征毛人55国」の一国であり、
九州倭国から別れた別種の旧小国。
>・宮室、楼観、城柵 <
九州は、吉野ケ里があり、大野付近の安徳台の精査発掘待ちであるが、
大和の纏向には宮室、楼観、城柵が存在せず、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の祭祀建築。
>・卑弥呼の墓、径百歩・徇葬百人について述べないと、ほぼ意味がない <
筑紫には祇園山があるが、大和にはない。 >>604
奴国には王はおらずとはっきり書いてあった
というのがウソ
二行目は根拠ないので妄想 >>499
>邪馬台国畿内説は厳然と存在するんだが 狂ったのか?<
卑弥呼の頃に、「邪馬台国」も「畿内」も存在しないんだよ。
狂ったのか?。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 >>493
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えこのサギブキジジイ! >>608
刺史は地方に置かれるんだよ
都にはいない
基礎を勉強してね >>504
>実際、ほとんどの史料事実は畿内説に都合がよく、九州勢に都合が悪い<
実際、ほとんどの史料事実は九州説に都合がよく、大和説に都合が悪いし、
畿内なんて、存在すらしない。 >>617
墓地に兵団は置かない。
墓を作ったら人夫は他へ移動する。 畿内説は間違っている。
何故ならスレ主がテンプレを書き換えるからだ。 >>508
>まだ弥生で「三種の神器ガー!」とか言ってる情弱がいるんだな<
記紀の記録に拠れば、「三種の神器」は、
天孫族系の部族や阿毎氏らが、「その部族の紋章」のようにして使われていたもの。 >>523
>江戸時代まで細石神社にあったものが何の記録もないっていうのはおかしい
口伝しかないということは、三雲を調査してる青柳種信の『後漢金印略考』や
鑑定した魯南冥の『金印弁』でも
細石神社のことは書かれてないってことだから<
細石神社の神主さん一族は、
金印は天皇家の記紀の記載を否定する可能性が高いので、
当然、1800年位もの間、1800当然秘匿していたのだし、
公にすれば没収されて抹殺される可能性が高いから、
青柳種信にも魯南冥にも言わずに、黙っていた、と思うよ。 >>621
>畿内なんて、存在すらしない。
おまえ故人の特殊な思想・宗教的理由から存在を認めたくないだけだな >>524
>>米田は、加美も、大和とは別の権力地域だ、と言っているし、<
>それは服部とかいうおっさんのつまみ食い話だろ 学問とは関係ない<
米田は、古田史学会の本にも書いていた。
>>伽耶の陶質土器と共存しているから、3世紀末以後の話だよ。<
これも米田が関係していたようだし、新井さんも同じような事を書いておられた。 >>609
高地性集落ってbc200〜ad300まである
倭国大乱による東進だけじゃ説明つかんだろ >>630
ほら、証拠が出せない
また口から出まかせだったんだな
九州説はこれだから信用されないんだ >>629
>米田は、古田史学会の本にも書いていた。
どろぼうと深く関わってる組織の本は読んだことが無い
米田の講演や論文から都合がいいとこだけパクったんだろ? >>631
倭国大乱じゃなくて九州から東への何波もの植民地活動ですね。 >>617
>もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
そんなことは書いてないよ、女王国の北側に一大率を置いたとある。 ザラコクは脳の経年劣化が激しいので意図的にウソをついているとは限らない >>600
一大率は女王国の北側の諸国に置かれlk
伊都国には女王卑弥呼がいて治めている。 >>525
>>糸島と、博多の弥生銀座は、金印の倭奴國以来仲間同士<
>弥生銀座は春日周辺のこと、<
いや、弥生銀座は首都圏であるから、福岡平野から太宰府付近までの広域。
>弥生終末には博多、比恵那珂のほうが中心地<
その付近も首都圏。
>博多湾、今津湾は畿内、山陰の影響下<
畿内なんて存在しないし、
大和は九州倭国の別種の旧小国で、地方の市を監督する大倭職の地。
そして、博多湾、今津湾は、出雲や半島や海峡や瀬戸内などの海上からの搬入港。
>糸島三雲は遅れている<
元の倭奴國の地であり、壹與の後の4世紀頃には、また倭國の王家になっていた。 >>529
>>平原遺跡の耳璫は魏晋の頃のもの。<
>それって変質者が柳田の考察を改竄した編年だろ<
気味が悪い男。
何故「変質者」とやらの名前が言えないんだい?。 >>644
>弥生銀座は首都圏であるから、福岡平野から太宰府付近までの広域。
>その付近も首都圏。
>博多湾、今津湾は、出雲や半島や海峡や瀬戸内などの海上からの搬入港。
反日朝鮮人のお前が決めることじゃない
>元の倭奴國の地であり、壹與の後の4世紀頃には、また倭國の王家になっていた。
反日の妄想はいらない >>645
お前はレスを読む読解力がない
Yahooで聞きかじったことも全て勘違いしている >>533
>それは改竄常習変質者が考古無視した一体
博多湾沿岸には糸島の影響はない <
影響ある。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
常治伊都國、於國中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。 >>643
漢文読めない恥さらしが満座の失笑を浴びました >>627
卑弥呼の時代に畿内という概念があったという証拠を出せ。 >>537
>面していないよ<
糸島水道は伊都国だから、伊都国は博多湾に面している。
>博多湾側には博多産の庄内式土器を使う人々の遺跡がある
伊都国内部には庄内式はほとんど入らない<
おや?、この男は、
柳田のついうっかり発言と、明大の佐々木の(変更後の)論考を、
否定する気なのかな?。 >>650
影響はないというのは出土物の話をしている
三雲の楽浪土器の下限がTB期、交替的な馬韓土器は福岡平野が多いから
「郡使往來常所駐」「特置一大率檢察」という記述も
卑弥呼の遣使を境に博多側に移行している可能性もある >>538
>それは伊都国を事実上占領してる邪馬台国の官だ<
邪馬台国なんて存在しないし、
伊都国の一大率は、共立卑弥呼の国の、軍事警察の中心だ。 >>655
それら、なんの否定にもならない
ザラコクや伊都厨の妄想だけが否定されてる >>655
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>541
前からおかしかったこの大和説者が、
とうとう妄想を始めたか 。 >>545
>今津湾沿岸は糸島ではなくて福岡市西区今宿、周船寺<
変な男。
伊都国は、前原〜糸島水道。
>今津湾沿岸も山陰、瀬戸内、畿内の影響下だから <
今津湾沿岸も、玄界灘の海上からの搬入到着地。 >>553
>ほら、伊都国は検察されてる側だ<
伊都国は、検察する側だ。 伊都には大率を置き、卑弥呼が伊都から北を支配していた。 >>665
>伊都国は、前原〜糸島水道。
伊都国の話などしてないが、
伊都国が前原〜今宿までの糸島水道の比定なら
三雲は伊都国の南になる 大率の主力は水軍だと思う。
壱岐や対馬を含めた対馬海峡、言うまでもなく倭国の生命線を鎮守するものだろう。
三雲は大率を置いた伊都国の王宮などがあるところだから、大率で支配する必要はない。
大率を置いたのが伊都国にいた倭王であることがはっきりするね! 変質者伊都厨みたいな爺が近くに住んでる方は
必ずお子さんの送り迎えをしていただきますようお願いします。 >>553
>ほら、伊都国は検察されてる側だ<
いや、伊都国は、「世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」であり、
他の「官」の国ではなく、独立的であり、
共立女王との同盟国的な地位の国だ。 >>554
>人口も少ない伊都国が最強軍事国家とか どんだけトンデモ妄想するやら<
狗奴國と並んで、「王」が存続しており、
伊都国は、一大率もいて、共立卑弥呼と同盟國的な国だ。 いずれにしても
光武帝からの金印は伊都国に贈られたもので
倭国王師升は伊都国王だと確定してるから
2世紀までの段階は伊都国が日本代表であることは確かだ >>569
>邪馬台国の時代には奴国が最大で、伊都国はかなり落ち目なんだよ<
邪馬台国なんてないよ。
また、奴國は、「王」がいないから、落ち目なのであり、
その地域は、三雲や平原〜日向峠〜早良平野付近なんだよ。 >>675
反日民族は自分の仮説の連呼だけしかしないから
学問の場では全く相手にされていない >>672
一大率なんか置かれて対等なわけないだろ
そもそも統俗に関係だ
伊都説の史料無視ぶりは酷いもんだな
ww 伊都クズは歴史学と考古学の方法論を理解してないからな >>617
>魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。
また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。<
魏志の里は、(長里ではなく)短里記載である、という事が史料実態であるから、
始めから×。 >>635
ほら、また証拠が出せず、口先だけ。
また口から出まかせだったんだな。
大和説はこれだから信用されないんだ。 >>636
>>米田は、古田史学会の本にも書いていた。<
>どろぼうと深く関わってる組織の本は読んだことが無い
米田の講演や論文から都合がいいとこだけパクったんだろ?<
米田自身が書いていた。 帥升に関わる遺構・遺物が明らかでないのに
考古学的に確実になるはずがない >>677
伊都国が日本最強の軍事力を持ってるから一大率が置かれたんだが?
倭国大乱の覇者としてね >>656
>三雲の楽浪土器の下限がTB期、<
ふーん、だから三雲で楽浪土器→庄内土器の変化が起きた事になるのか。
>交替的な馬韓土器は福岡平野が多いから<
こりゃ、西新町への半島人の流入の話だな。 >>684
年代でおおよそわかる。
その時代に王墓は伊都国にしかない。 2世紀までの日本全国の墓で中国の鏡など大量の副葬品がでるのは伊都国比定地の三雲・井原・平原遺跡しかない
全国どこを掘っても三雲・井原・平原以上のものが出てこないのだから
光武帝から金印を得た王も倭国王師升も伊都国の王としか考えられない >>668
>伊都国が前原〜今宿までの糸島水道の比定なら
三雲は伊都国の南になる <
「東南至奴國百里」は、
末盧國から到着した伊都国の中心地の前原付近からの位置説明。 >>682
反日のお前が書いてあると言張って、書いてあったことがない 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>692
伊都国の中心地が前原付近とする考古学的根拠は?
国の入口からの方位にしたり、出発方向にしたり
反日思想組織の都合に合わせて変えてたら
方位を書いてる意味がなくなる >>512
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。 >>515
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>516
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>448
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 考古学的に帥升の墓は意見の一致をみていない
また八咫バカが捏造 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 帥升の墓は、畿内説を妄信するキナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 >>710
最近、考古学側から異論が出てるの知るわけもないか 倭奴国とは伊都国のことであり、倭を代表する王都ですね。
もちろん卑弥呼も伊都国にいて、大率を派遣して中国との交流や朝鮮との交易を維持したのでしょう。
大率の役割は後々の鎮守府のような海軍の統率だったでしょう。
倭国は海軍を主力とする海の民、天津国でした。 井原鑓溝が伊都国王の墓なのは定説
帥升を伊都国王とするのは定説ではない キナイコシが帥升の墓に過剰反応するのはなぜだろうか、、、 >>714
朝鮮半島南部から鉄を大量に入手できる伊都国が日本の覇者になったのは必然の帰結です 57年の倭奴国王統とは別の倭国の王等が請見を願い出たということだろうな 井原鑓溝は場所が不明のままで細かい編年観は確定してないしな 後漢書倭伝で倭奴国王の名が書かれず、帥升の名は書いているということは
倭奴国王は非倭人で、帥升等が國皆稱王の中の王等だな
倭人伝でも女王国に統属している伊都國王の名は書いてない
千戸でも王が存続しているということは
郡とのパイプがある非倭人の王が共立された女王国に従属しているということだな >>724
卑弥呼は公孫氏の打ち立てた女王
だから魏が公孫氏を滅ぼしたことに驚いて急いで服従の使者を派遣した >>725
卑弥呼は倭国で共立されたと書かれている そうだね、、、
熊本城の周辺に言い伝えがあるな。。。 >>511
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 僕たちは帥升について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。 キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。 >>703
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 >>690
>2世紀までの日本全国の墓で中国の鏡など大量の副葬品がでるのは伊都国比定地の三雲・井原・平原遺跡しかない
平原1号墓は2世紀まで、でいいんだ?
じゃあ、北部九州には3世紀の王墓、卑弥呼の墓の候補は一つもないんだな
それから「中国の鏡など大量の副葬品がでる」って書いてあるけど、平原1号墓から大量に出るのは
仿世鏡であって、中国からの舶載鏡はやたら古いのが2枚だけだよ テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のないことを喚く癖があるな。。。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 邪馬台国なんか取るに足らない小国だからどこにあるかなんてどうでもいい
重要なのは倭国はどこなのかということであって
それは伊都国であるという事 倭の中心部が邪馬台国であり、その中心国邑が伊都国だね。 魏志倭人伝を無視すれば畿内説も考えられるだろうが畿内説者は何故南を東と入れ替えて説明するのかね?
魏志倭人伝は嘘だと? いきなり極論にするあたりが底の浅さを示してるんだよね 本当に何もない文化後進地帯を首都だと言い張るのが畿内説
文明のレベルが1つ違う >>693
>嘘つきとの指摘を受けてシレッと文章を変えるクズ<
伊都国が「前原〜糸島水道」付近だ、という事は、
始めから言って来た事。 >>694
>(米田が古田史学の本に投稿していた事)
反日のお前が書いてあると言張って、書いてあったことがない<
このキョクウの大和説男(おそらくww)は、
朝日の小尻記者銃殺テロ事件を起こしたようなキョクウや、オームらと同じような、
・・・・なんだろうなあ。
怖い怖い・・・。 >>697
>伊都国の中心地が前原付近とする考古学的根拠は?<
Yahooでの議論で、天誅とyamatogawakonanが、前原付近の、
「郡使や魏使らの迎賓館?」のような遺跡を発掘中だ、
と言っていた事位しか知らない。
伊都国の比定地は、
古田第1書での「前原〜糸島水道」の比定や、
加布里や周船寺が、郡使らの到着港であったらしい、
という話しか知らない。 >>699
>お前の妄想は学界の定説ではない<
「南→東」などの嘘吐き騙しをしている大和説学会そのものが、
信頼性が全くないのであり、
そんな・・・・学会の定説、なんてのも、何の価値もない。 >>702
>キチガイキャラで荒らしの準備か <
また、「朝鮮人誹謗」や「反日誹謗」の人種差別的な殺人テロのキョクウの大和説者やwwらが、
キチガイキャラで荒らしの準備か?。
人間ではない・・・・人種の殺人テロは、怖い怖い。 >>704
「南→東」などの嘘吐き騙しのヘイトスピーチ・・・・テロの大和説は、
かなり追い込まれてるな。 >>706
>考古学的に帥升の墓は意見の一致をみていない<
文献的には、
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼・・・」
の情報しかないんだから、
安帝永初元年に倭國王として、仲間等と一緒に、生口百六十人を献上した、
という位しか情報がなく、
それ以上は、推定の領域。 >>707
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説人種は、
自ら狂いっぷりをアピールするスタイル。 >>712
>伊都クズ説は2018年、成立もせず塵と消えた<
帥升は、倭國王であり、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は九州であったのであり、
大和説は2018年、成立もせず塵と消えた。 景初四年鏡って、平成32年の東京五輪メダルみたいなもんじゃね >>713
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、
最近、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭國が九州にあった事が確定し、
そんな・・・・アホが、
考古学側からからも文献学側からも、異論が出てるの知るわけもないか。 >>720
>57年の倭奴国王統とは別の倭国の王等が請見を願い出たということだろうな<
問題の原点は、
卑弥呼の頃には「倭奴國」の名前が30国の中から消えている、
って事ですよ。
そして、類似音韻の国として、「伊都国」と「奴國」の名前がある、って事。
だから、私は、倭奴國が、奴國と「阿毎(アマの伊氏」の伊都国」とに分裂した、
って推定をしているんですよ。 >>734
>平原1号墓は2世紀まで、でいいんだ?<
いや、明帝の100枚の銅鏡が元であった事を示す「尚方作」鏡が21枚もあるから、
卑弥呼の死後の墓だ。
>じゃあ、北部九州には3世紀の王墓、卑弥呼の墓の候補は一つもないんだな<
いや、日本で唯一、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
を満たし得るは墓の、祇園山がある。 >>735
>卑弥呼が天皇の妹ではないといつ決まったんだ?<
卑弥呼は、「共立女王」であって、「天皇の妹」とは書かれていない事と、
天皇は、まだ存在すらしていなかったから。 >>742
>松木武彦 古墳時代前夜弥生最大の王墓 楯築弥生墳丘墓・・・
岸本直文 倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス・・・<
松木も岸本も「南→東」などの嘘吐き騙しである事がバレてしまっているから、
始めから×であり、×人種。
読んで欲しけりゃ、「南≠東」を認めてからおいで。 >>745
いきなり「南→東」などの嘘吐き騙しの極論にした立論をするから、
その辺あたりが、大和説学者の・・・・アホ性や、底の浅さを示してるんだよね。 >>761
>いや、明帝の100枚の銅鏡が元であった事を示す「尚方作」鏡が21枚もあるから、
>卑弥呼の死後の墓だ。
それ全部仿世鏡
尚方作は決まり文句 >>747
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説詐欺師が、
「真実を語る」と主張する笑い話。 いくらザラコクが、「南→東」って書いても
方角の間違いは普通にあるのは普通の人は理解できる
ザラコクが無能すぎてそれしか書けないからってみんな知ってるし
それで何かを主張できると思ってるところがバカすぎる >>765
>>いや、明帝の100枚の銅鏡が元であった事を示す「尚方作」鏡が21枚もあるから、
(平原は)卑弥呼の死後の墓だ。<
>それ全部仿世鏡<
それなら、「尚方作」と刻んだ事の説明が付かない。
>尚方作は決まり文句<
そんなウソがバレたら、そりゃ「親魏倭王」は剥奪だし、
壹與の遣使も追い返されてしまう。 >>308
>波動関数(シュレディンガー方程式)には、
>アインシュタインの「場の引力的や斥力的な相互作用の存在」、という事が含まれておらず、
引力も斥力も数学的な正負の符号の違いだけで、理論上は対等なものだ、って
説明しても理解しないんだろうな
>また、数学的にも、
>「三体問題以上には確定的な解が得られなくて、確率的な解しかない」という事にも、問題があって、
>不完全なものです。
三体問題とか、関係なさ過ぎww
三体問題はマクロな力学の問題で、摂動のためカオス化するので、無限近似しかできないという話
シュレディンガー方程式は、解が確率分布の形を取るだけで「確定解」が得られる
クオークって言葉がここまで一度も出て来ないところを見ても、まったく理解していないくせに
14C年代測定法の結果を認められないって言うためだけ、嘘をついているのが丸分かりww >>729
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 場の引力的や斥力的な相互作用の存在について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 僕たちは場の引力的や斥力的な相互作用の存在について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 キナイコシが論破されてしまっている話題が、シュレディンガー方程式のことのようだね。。。 >>776
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 >>253
成程。大和への伝播先での細かな作りの違いが全国的には、主流になったということか。納得できる説明だな。有難う。 >>738
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>708
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>774
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。 >>785
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 >>769
>>波動関数(シュレディンガー方程式)には、アインシュタインの「場の引力的や斥力的な相互作用の存在」、という事が含まれておらず、<
>引力も斥力も数学的な正負の符号の違いだけで、理論上は対等なものだ、って 説明しても理解しないんだろうな<
何だい、これは。「数学的な正負の符号の違い」という問題ではないよ。
素粒子レベルでは、素粒子が粒子性と波動性の両方の状態が起こっている、
という事を説明するには、粒子性だけでは説明が付けることが出来ず、
また、反素粒子の存在や反応を説明するためにも、波動場の斥力と引力の相互作用に拠って凝集性が起こって、
それが粒子性の発生の原因だ、という論理なんだよ。
>また、数学的にも、 「三体問題以上には確定的な解が得られなくて、確率的な解しかない」
という事にも、問題があって、 不完全なものです。<
>三体問題とか、関係なさ過ぎww 三体問題はマクロな力学の問題で、摂動のためカオス化するので、無限近似しかできないという話<
自然現象は「多体的」であり、数学的には、例えばAを記述し、それとBやCとの相互作用を記述したとしても、
その時点での「BとCとの相互作用」の記述が出来ていない、という事が、
数学的な三体以上問題の断定的な解が得られない、という事の原因だよ。だから、近似が必要。だから、自然現象に対しては、近似説明しか出来ない、と言ってんだよ。
>シュレディンガー方程式は、解が確率分布の形を取るだけで「確定解」が得られる<
場の相互作用を含まない方程式は、始めから不完全なもの。
>クオークって言葉がここまで一度も出て来ないところを見ても、まったく理解していないくせに
14C年代測定法の結果を認められないって言うためだけ、嘘をついているのが丸分かりww<
クオークの存在も、まだ未確定な筈で、空間3次元で引力斥力の存在で、それだけで6個の基礎粒子の可能性が発生し、
更に、電磁場が電場と磁場の組み合わせになっているから、その要素も加えれば、12個の基礎粒子の可能性まで有り得る。 シュレディンガー方程式とは、邪馬台国畿内説の何を計算するのだろうか、、、 >>791
検索してみると、猫のことを計算するための方程式のようだね。。。 >>782
卑弥呼が猫を飼っていたのではないのかな、、、 >>793
驚いたな。。。卑弥呼は猫を飼っていたのだね。。。 >>794
そういえば、熊本城の周辺には、たくさんの猫が生きているな。。。 >>795
卑弥呼の飼っていた猫が、繁殖したのではないのかな。。。 シュレディンガー方程式で、計算した結果、邪馬台国畿内説が破綻してしまったな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>709
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 倭王武と万葉集と邪馬台国はどんな関係があるのだろうか。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>784
そうそう、僕たちは、とうとう、魏志倭人伝の倭人達が、周代の単位系で、魏使に、卑弥呼の墓の大きさを伝えことを調べ上げてしまったものだものね。。。 >>787
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>781
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>782
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 >>799
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>809
優れた考古学者達に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>801
倭王武は肥後の王ではなかったのかな。。 >>811
そうだね、、、
熊本城の周辺に言い伝えがあるな。。。 >>802
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>813
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、 >>804
つまり、纏向にある前方後円墳はどれもこれも大きさが合わないのだったな。。。 畿内説を妄信するキナイコシが、論破されたので、スレッドを埋め立てているのではないのかな、、、 >>272
河内や播磨は、大和とは別の支配組織なのか。新しい知識を得ることができた。有難う。 >>812
万葉集にも記録されているかもしれないね、、、 >>814
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 >>826
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 >>770
なるほど、、、大物主は神武天皇の舅でもあったね。。。
大物主と天皇は長い時代に渡って、親戚だったのだな、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>815
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された大規模調査で判明したねw >>748
畿内原人の発展は遅れたからね
文明を九州から頂いた >>790
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔は渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えこのサギブキジジイ! >>832
この男も、不可知部分が殆どである古代史においての、
「不可知部分に関する証拠」を、断定的に挙証する事を要求する・・・・大和説者。
自然や歴史も、多体問題であり、
僅かに知り得た事実からの帰納的推論をするもの。 >>790
>素粒子レベルでは、素粒子が粒子性と波動性の両方の状態が起こっている、
この時点で間違っている
量子という言葉が理解できていない
素粒子って言葉も、現代物理ではまったく使わないとは言わないけれど、
意味が不明確になるので基本的には使用を避ける
量子は、粒子性と波動性を「同時に示す」んだよ
「両方の状態」ではない
>波動場の斥力と引力の相互作用に拠って凝集性が起こって、
「波動場」などという概念は、量子論にはないぞ
「凝集性」なんていうのもない
>それが粒子性の発生の原因だ、という論理なんだよ。
そんな論理はないww
ちょっとググってウィキペディア辺りを読んでくるだけでも、
ここまでひどいことは書かなくなるだろうにww
このザラコクさんの、「私は素粒子物理が分かってるんだ」っていう「立場」が
畿内の遺物の14C年代測定法による編年の否定のためだっていうのが、バカすぎる 炭素14年代測定法は試料や方法によって年代のバラつきがありすぎる
科学的手法だというものの果たしてその年代が合致するかは未だ不明
AMS法は文献資料により年代が確認できるものよりも大きく古い年代を示すことが報告されている
歴博も参考程度に留めるよう言っている
日本における年輪年代法も同じ
誰も検証してないから正しいかどうか不明
こちらも古代では100年代ほど古い結果が出ることが報告されている
これら手法の登場以降、古墳の年代ばかり古くなる一方
庄内式土器の出現も年輪年代法登場前は300年頃が定説だった
大和説の年代論は科学的に確立された手法に則っていない
再現性が無いものは科学ではない 大和には纏向しかないのが痛い
3世紀の畿内の遺跡をみれば纏向を除けば小規模な遺跡ばかり
大勢力のいた形跡が見られない畿内に3世紀に入って突如として纏向が登場する不可思議さ >>836
>3世紀の畿内の遺跡をみれば纏向を除けば小規模な遺跡ばかり
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
集落遺跡、たくさんあるよ?
拠点集落レベルのものだけでも20以上あるし
唐子鍵遺跡は、集落部分では吉野ヶ里遺跡より大きな大集落だよ? >>835
>試料や方法によって年代のバラつきがありすぎる
その通りなんだけれど、木を焚いた煤なんかだと、木の中心部は切り倒されて時点で
大きな木だと200年位前に固定されたCO2だったりするのに対して、一年草や
その年に固定された光合成産物であることが確認できる試料だと、相対的に
信頼度の高い測定結果とみなしうる
一年草の場合は、植物体が柔らかいから残りにくいし、柔らかいから周囲の炭素の
混入も想定しなければならない
その点、桃の核のような、その年に成長した組織であることが確実な部位で、
しかも硬くて周囲の炭素のコンタミを落としやすい(極端な場合には周りを
削り落として芯だけで測定すればいい)材料は、相対的にというフレーズは
つくが、ある程度信頼性の高い結果が期待できる
今回の測定結果は、複数の測定機関で西暦135年から230年の間という、
誤差込みで100年幅というばらつきを認めたものだが、それでも遺跡の建物が
3世紀前半には存在していた、というのを認めるくらいの精度はあるだろう >>838
はあ…やっぱり唐古・鍵遺跡出してきたか
しかも自分から「ただの集落遺跡」って言ってるし
唐古や吉野ヶ里みたいな「クニ」のショボい集落遺跡なんかのことを言ってるのではなく
三雲・井原・平原レベルの遺跡が纏向以外に畿内にありますか?
纏向以前の畿内には大勢力の形成は見られない
これは学界の定説 >>839
>吉野ヶ里は筑紫の集落ではまだまだ弱小
後学のために、吉野ヶ里が弱小レベルに見える遺跡をできるだけたくさん教えて!
比恵・那珂遺跡群は入れていい? >>841
>三雲・井原・平原レベルの遺跡
逆にそれ、ただの墓
阿波さんに突っ込まれるよw 環濠集落レベルの旧態然とした畿内に3世紀に入って突如として纏向が登場する
これは倭国大乱の前後にこれまでの倭国の中心である伊都国の勢力が纏向へ移動したという事 2世紀まで倭国の中心は伊都国であった
建武中元二年に光武帝に使者を送り金印を賜った王は委奴国=伊都国王
倭国王師升も伊都国王
伊都国は早良国や奴国や糟屋国など九州北部のクニを滅ぼし九州北部の王=倭国王となった
だから倭国王=伊都国王である 漢書地理志に記された「百余国」は倭国大乱の前段階にすでに伊都国=倭国の属国だった
倭国大乱は伊都国=倭国が東に勢力を伸ばし出雲、吉備、讃岐、阿波、播磨などの勢力を付き従える過程
西日本に連合王国を打ち立てた伊都国=倭国はヤマトに拠点を移しここを中心とした これが纏向
手薄になった九州北部には元本拠地の伊都国に一大率を置き監視した 吉野ヶ里は「城」ですよ。
筑紫倭国の集落とは、現在の福岡市にあたる地域の
広大な住居群。
征服することはあっても、攻められることなど無いから、
環濠なんてありません。
弥生時代の天下の名城であっても
城は城。
「城」と比較されても困ります。 >>844
何にもない建物群が出現したからといって、
なんで東遷したことになるのか?
伊都には大型建物なんてありません。
纒向には伊都から出土する夥しい文明品(鉄器、硯、楽浪土器、なんてありません。 >>844
>倭国の中心である伊都国の勢力が纏向へ移動したという事
何のために湿地帯で内陸の纏向へ移動したの? 説明できないだろうけど。 @阿波 >>843
>逆にそれ、ただの墓
>阿波さんに突っ込まれるよw
先にやられてしまったw @阿波 >>850
湿地帯?
馬鹿言ってんじゃないよ
うちの水泳部は奈良湖で毎夏遠泳訓練だぞ! >>854
南を東と間違える連中が日本と中国を行き来してたとしたら恐ろしい事実だが >>1
女々しい
独学を積めよ
古代史なんてなんて、日本史の一部
正統化するの畿内説
畿内説もいいが,証の提示が畿内は??????? >>848
邪馬台国論叢での吉野ケ里の
位置づけはいかがと考えますか? >>858
見りゃわかるだろ。
倭国の城だよ。倭国乱では狗奴国側。
畿内なんてそもそも吉野ヶ里までたどり着けないし
倭国が大船団でサービスして畿内から運んでやったとしても
1万人総がかりでも落とせやしない。 >>790
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>858
吉野ヶ里は神埼国の跡
奴国はじめ他の九州北部の諸国とともに伊都国(倭国)の属国だった >>素粒子レベルでは、素粒子が粒子性と波動性の両方の状態が起こっている、<
>この時点で間違っている 量子という言葉が理解できていない
素粒子って言葉も、現代物理ではまったく使わないとは言わないけれど、意味が不明確になるので基本的には使用を避ける<
無駄で無意味な論だな。 量子は、当初は質量と荷電量を持った最小単位群として定義され、 しかし、それが最小ではない事が確認されて、更に素粒子というものを再定義化されたもの。
>量子は、粒子性と波動性を「同時に示す」んだよ 「両方の状態」ではない<
、同じことだ。
>>波動場の斥力と引力の相互作用に拠って凝集性が起こって、<
>「波動場」などという概念は、量子論にはないぞ<
当たり前だ。場の一つの状態だ。
>「凝集性」なんていうのもない <
複数以上の場の相互作用の、引力の存在に拠って凝集が起こり、その凝集体やはり別の周りの場と斥力を持った時に、粒子性が備わってしまう事になる。
>>それが粒子性の発生の原因だ、という論理なんだよ。<
>そんな論理はないww<
50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ。
>畿内の遺物の14C年代測定法による編年の否定のためだっていうのが、バカすぎる<
場の相互作用の存在は、結果として「場全体の安定状態」を志向するのでのあり、だから、プラズマ化をして外周電子を失えば、原子核は核内の「電子の荷電」の分を放出(放射性崩壊)して、原子核内の安定を図ろうとする 畿内説の人は纏向纏向としか言えないのな
そこしかないから
纏向が3世紀後半以降のものだって判明したらショック死しそう
纏向がアウトなら吉野ヶ里レベルの唐古・鍵しかなくなるし 俺は九州説だが纒向は3世紀前半だろ。
3世紀後半には稲部遺跡も出現するし
それで鉄器なし遺跡があったらもう奇跡だよ。奇跡。 炭素年代測定法は年輪年代法により導かれた正確な年代を基に絶対年代を補正する
日本の場合年輪年代法の絶対年代の担保がないため、参考程度にしかならない
桃の種130年〜235年、一緒に計測された土器付着物は100年〜200年というが現在多数説の布留0式280年、それと同時期から少し前の庄内3式の年代から大きく遡るではないか
桃の種は100年の誤差があれど実際の示す年代はその中の1年でしかない
他の試料の確率分布法のグラフを見たらわかるが、両端に行くと確率が減る
つまり卑弥呼の年代の230年ぐらいをピンポイントで示してる確率はものすごい低い
恐らくピークは180年ぐらいを示しているだろう、そうなるとこの試料はやはり年代が古く出ていると批判するべきではないか
この試料からは巻向が後漢の時代を示すとも言えるのにそうは言わないのは結論ありきである証拠だ
2世紀中頃なら従来通説との乖離が大きいからそれは無いというのなら、それこそ炭素年代測定法より土器編年に重きを置いているわけで炭素年代測定法の意味がないではないか 纒向遺跡がヤマト王権の首都だったというのは確実なんでしょ?
しかし邪馬台国とは限らない
国名が酷似してるから関連を連想するけど >>866
>50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ。
癲狂院? >>840
>>試料や方法によって年代のバラつきがありすぎる<
>その通りなんだけれど、木を焚いた煤なんかだと、木の中心部は切り倒されて時点で
大きな木だと200年位前に固定されたCO2だったりするのに対して、一年草や
その年に固定された光合成産物であることが確認できる試料だと、相対的に
信頼度の高い測定結果とみなしうる
一年草の場合は、植物体が柔らかいから残りにくいし、柔らかいから周囲の炭素の
混入も想定しなければならない
その点、桃の核のような、その年に成長した組織であることが確実な部位で、
しかも硬くて周囲の炭素のコンタミを落としやすい(極端な場合には周りを
削り落として芯だけで測定すればいい)材料は、相対的にというフレーズは
つくが、ある程度信頼性の高い結果が期待できる
今回の測定結果は、複数の測定機関で西暦135年から230年の間という、
誤差込みで100年幅というばらつきを認めたものだが、
それでも遺跡の建物3世紀前半には存在していた、というのを認めるくらいの精度はあるだろう<
AMS法でプラズマ化をしてしまっていてはダメだ、と言ってんだよ。
先に、同一資料で、一般ベータ線法での計測とAMS法での計測でのデータを比較して、
どれ位の差異が発生しているのか?を確認して、
それから桃の種のAMS法での計測値の補正をやらないと、
ダメだ、と言ってんだよ。 >>842
>>吉野ヶ里は筑紫の集落ではまだまだ弱小<
>後学のために、吉野ヶ里が弱小レベルに見える遺跡をできるだけたくさん教えて!
比恵・那珂遺跡群は入れていい?<
当然、弥生銀座や、糸島付近からから筑前地域全域に存在する遺跡群。
吉野ヶ里は、鏡がなく、剣も「一本副葬」レベルで千戸位の「其餘旁國」レベル。 >>846
>漢書地理志に記された「百余国」は倭国大乱の前段階にすでに伊都国=倭国の属国だった<
倭国大乱なんてなかったし、30国は、であり、ほぼ共立諸国として独立的であり、
まだ属国にはなっていない。
>倭国大乱は伊都国=倭国が東に勢力を伸ばし出雲、吉備、讃岐、阿波、播磨などの勢力を付き従える過程<
倭国大乱ではなく、
倭國は「正北抵新羅」の九州地域であり、
出雲は梁代まで独立的であり、
吉備、讃岐、阿波、播磨、河内、摂津、山城、大和、紀伊などは、
九州倭国の「東征毛人55国」地域。
>西日本に連合王国を打ち立てた伊都国=倭国はヤマトに拠点を移しここを中心とした これが纏向
手薄になった九州北部には元本拠地の伊都国に一大率を置き監視した<
「南≠東」に拠って、×。 >>847
>伊勢遺跡は? <
出雲系と越系と、九州倭国の「東征毛人55国」の3勢力の共存地。 吉野ヶ里が弱小という表現は変でしょ。
倭人の城であって、単純に強いか弱いかだったら軍事的には強い。
弥生筑前の大発展を認めたら困る畿内説が
環濠集落じゃないと国と認めない変なルールで誤魔化してきたから
価値基準がぐちゃぐちゃになってる。 >>857
>なんとなく東と思わないのか? <
思わない。
この男も、「南→東」の嘘吐き騙しの宗教に狂った・・・・詐欺師だな、と思う。 >>858
>邪馬台国論叢での吉野ケ里の 位置づけはいかがと考えますか?<
吉野ヶ里は、
須玖岡本などの「鏡や3本の剣の副葬」と比べて、
鏡がなく、剣も「一本副葬」レベルで、
千戸位の「其餘旁國」レベル。 >>877
ククク
やつは四天王の中での最弱...
みたいな話でしょ >>879
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>877
>倭人の城であって、単純に強いか弱いかだったら軍事的には強い。
軍事施設としては、基肄城、大野城の方が重要だし。 >>858
>邪馬台国論叢での吉野ケ里の
位置づけはいかがと考えますか?<
邪馬台国は突然できた国では無い
吉野ヶ里は都市機能があり文明も同年代の畿内の遺跡より優れていると思う
倭国を率いる国としてはそれなりの体を成してる遺跡が畿内には必用 纒向を王都とするには
2世紀、3世紀初頭ぐらいの文明が優れた遺物が多数必用?? 王都である遺物はないから、傍国の一つ。
九州北部は吉野ヶ里級の遺跡が複数あると見られる。
最大の国ゆう 途中で送ってしまった。
奴国二万戸に比べれば、吉野ヶ里はまだまだ小さい方。 そしてその奴国より重要な機能を持つ国邑として伊都国が記録され、実際に糸島平野には多数の王墓が発見されている。
吉野ヶ里には王墓はない。衛星都市の一つ。 当時 文明は西から東は定説だがな
奈良のくそ田舎に文明が渡ったのは邪馬台国以降
弥生期と古墳期をごちゃまぜにしちゃいかんな
箸墓は前方後円墳 素人でスマン
箸墓をモモソの墓とするならそれ以前の陵墓の比定をひっくり返すことにならないか
畿内説人に聞きたい >>883
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えこのサギブキジジイ! >>869
>俺は九州説だが纒向は3世紀前半だろ。
3世紀後半には稲部遺跡も出現するし
それで鉄器なし遺跡があったらもう奇跡だよ。奇跡。<
纏向や石塚は、
基本的には九州倭国の「東征毛人55国」の一つであり、
庄内で、且つ前方後円墳であるから、那珂八幡などの後になり、
3世紀の末頃になってしまうでしょうね。 >>871
>纒向遺跡がヤマト王権の首都だったというのは確実なんでしょ?
しかし邪馬台国とは限らない 国名が酷似してるから関連を連想するけど<
根本的に「邪馬台国」なんて、史料に存在しないから、×。
史料事実に沿って、「邪馬壹國」で論理を構築すべし。 >>888
>吉野ヶ里には王墓はない。衛星都市の一つ。
吉野ヶ里の北墳丘墓は、14の甕棺が埋納されていて、
ただ一人の卓越した首長の墓ではないので、王墓ではなく
特別な地位にあった特定家系の家族墓と見なされているが、
それでも墳丘サイズは南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態で、
その高さは4.5m以上あったと考えられている
衛星都市の特定家系墓でもこのサイズの墳丘を作っているのに、
12×8メートルの倭王墓なんていうのは考える必要ないだろw しかし久しぶりに覗いたが・・・
週刊誌に出てた
「新・卑弥呼の墓は99%本物だ!」 福岡県で全長450mの前方後円墳発見
ってのは話題になってないのか?w
勿論トンデモを百も承知で週刊誌買って読んだが
(週プレなんてグラビア目当て厨房の頃買って以来だw)
年代おろかそもそも自然地形かどうかも
まだ決まってなさげなのに
(記事の中で古墳と断定してる人はいたが)
99%とかいつもの九州(クズ)説のアレだったなw
しかもこれを卑弥呼と推してる地元の学者ってのが
九州王朝説のご様子とあっては何をか言わんやとwww >>890
>箸墓をモモソの墓とするならそれ以前の陵墓の比定をひっくり返すことにならないか
>畿内説人に聞きたい
私もプロではないが、もともと陵墓の治定は江戸時代の私人蒲生君平の研究成果「山陵志」に
拠って決めてるだけだから、ひっくり返るも何も、最初から正しい保証はほぼない
実際、発掘成果により今城塚古墳が継体天皇の真陵であることは確実と
考えられているけれども、宮内庁が言うことには「現治定の太田茶臼山古墳で
長年お祀りをしているのでこちらにお移りになっていると考える。陵墓指定の
変更は考えていない」(意訳)だそうだ
現治定はもともといいかげんで、信頼性がなく、正しい真陵が
判明したところで変更はされない
ということで、それ以前の治定がひっくり返ったところで誰も気にしないし困らない >>883
>遺跡が畿内には必用
あげ足を取りたい訳でも、重箱の隅をつつきたい訳でもないんだが
「ひつよう」は「必要」だろ?「必用」じゃなくて
一度きちんと変換すれば、あとは予測変換で間違えなくなると
思うから次から直して >>873
>AMS法でプラズマ化をしてしまっていてはダメだ、と言ってんだよ。
これが言いたいだけで、素粒子物理、核物理が分かるって言い張ってるんだよなww
でも書いているのは常識以前の大間違い
>>866
>50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ。
おもしろいww
どこの大学だ?
大学名くらいなら特定はされないから言うてみ
ちなみに私は東大で博士号取ってるよww >>897
横道だけど
江戸時代の陵墓治定は遅くとも元禄時代から始まってる
寛政期の山陵志はその後の治定作業に影響を与えてないわけではないけれども
あくまでも参考程度にしかなってないよ 畿内説は今回の桃の種の年代をなぜ古すぎると言わない?
炭素年代測定法に疑いを持つことすらタブーなのか? >>899
>AMS法でプラズマ化をしてしまっていてはダメだ、と言ってんだよ。<
>これが言いたいだけで、素粒子物理、核物理が分かるって言い張ってるんだよなww でも書いているのは常識以前の大間違い<
重力場と電磁場とが相互作用をしている、という事の知らず、
同一検体で、ベータ線法での計測値と、AMS法のプラズマ化での計測値の比較、という事も思い至らないwwは、
常識以前の・・・・アホ。
>>50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ<
>おもしろいww どこの大学だ? 大学名くらいなら特定はされないから言うてみ
ちなみに私は東大で博士号取ってるよww<
最近私のPCが、頻繁に、「検索侵入」されている、という警報が掲示されており、
しかし、その警報そのものも侵入者であった可能性もあり、
だから、一切相手にしていないし、
wwも嘘つき騙しの・・・・であるから、全く信用していない。 え?
「ww」がザラコクのPCに侵入してるって話か?w >50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ
ドコの病院デスカ? モモソの陵墓の比定は正しくて 他は適当なんて詭弁だな >>906
>モモソの陵墓の比定は正しくて 他は適当なんて詭弁だな
それを言っている人は多くはないよ>「モモソヒメの治定は正しい」
間違ってなくてもおかしくない、くらいで >>900
そうですね。
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 @阿波 >>902
>重力場と電磁場とが相互作用をしている、という事の知らず、
出た!ww
重力場ってww
重力、弱い力、電磁気力、強い力の順で強くなるのは知ってるか?
重力は弱すぎて、原子核内のような強い力の働く領域では、ネグって構わないものだよw
>同一検体で、ベータ線法での計測値と、AMS法のプラズマ化での計測値の比較、という事も思い至らないwwは、
あっそうか!
ザラコクはAMS法でも、β線を計ってると思ってるんだ!
それは思いもよらなかったわ! 確認しなくてごめんなぁ!
AMS法では、原子核の質量そのもので分離して原子核一つ一つを数えるんだよ!
AMS法ではβ崩壊速度は関係ない
かといって、プラズマ化したからといって、原子核の崩壊率には何の影響も一切ないけどな
>常識以前の・・・・アホ。
ザラコクと常識が同じだったらヤバいわww >重力、弱い力、電磁気力、強い力
ザラコク先生の頭の中じゃ統一場理論がカンセーされてるかもしんないwww >>908
その「古代」って現代用語と意味が違って「過去」って意味
で、阿波には土御門が流されているから調査対象になっただけ >>911
>その「古代」って現代用語と意味が違って「過去」って意味
「古代」も「過去」じゃなかったっけ?
>で、阿波には土御門が流されているから調査対象になっただけ
で、反正天皇の御陵跡が分かったんだから、めでたしめでたし。
で、結局「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」だった訳だ。 @阿波 >>912
そう主張したけど幕府には無視されて終了
昔も今も徳島にはおかしな人がいたってこと 畿内説的には何故南じゃなくて東なの?
説明してくれる?
これ説明出来ない限り畿内説は成り立たないよ? >>913
>そう主張したけど幕府には無視されて終了
無視されたという根拠は?
当時はこの「勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山」に葬られた人物が誰なのかを知る術もなかっただろう。
だが、この貴重な発掘調査・資料が文献で残っていることがすばらしい。
後世の研究に繋がった意義は大きい。
ところで、他所ではどのような元禄時代の陵墓調査記録があるのかな?
もしかして、これも「阿波」だけ? @阿波 >>914
倭人伝の「会ケイ」の東・・・って鹿児島よりも南になるけど
倭人伝の方角や距離の記述はかなり大雑把というか 大陸の常識では、倭国は南国なんだよ
所有無與儋耳朱崖同って書いてあるし、
夏后少康之子封於會稽で、計其道里、當在會稽、東冶之東というのが陳寿の認識
だから、なんでも南にしてある
末慮国から伊都国が、実際は北東なのに東南陸行と書いてあるのは
別の理由(本来の行き先が別の経路)だと思うけれど
最初の倭人在「帶方東南大海之中」の範囲であれば、
南と東はどうでもいいと思っていた節もある >>917
>元禄の修陵を知らんのか?
だから、阿波以外で「掘り出した時の記録」が残っているの?
もしかして、これも「阿波」だけ? @阿波 >>916
それは既に何度も説明されているけど水行は潮に流され風にも煽られたりと、当時は人力だから遠く感じて仕方がない。例えば100m船を漕いでも環境次第では500m分のエネルギーを使うだろう。
しかし方角は太陽と月がある限り間違える事ははい。 >>919
古記録に照らし合わせて天皇陵を探し出して保存しようとする事業なのに
畏れ多くも掘り荒らすという破壊行為をドヤ顔で報告してきたのはキチ阿波だけ あ、訂正w
古記録に照らし合わせて天皇陵を探し出して保存しようとする事業で落選したからといって
掘り荒らすという破壊行為に及んだのはキチ阿波だけ >>921
>畏れ多くも掘り荒らすという破壊行為をドヤ顔で報告してきたのはキチ阿波だけ
ほんとだね。 だけど、当時もまさか「勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山」山稜に大王墓が在るとは思わなかったんだよ。
やはり、大王墓は山稜に在るんだね。 @阿波 記録や学問的成果を無視あるいは牽強付会した妄想を喚き散らすのは阿波の伝統なのか? >>902
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>920
>それは既に何度も説明されているけど水行は潮に流され風にも煽られたりと、当時は人力だから遠く感じて仕方がない。例えば100m船を漕いでも環境次第では500m分のエネルギーを使うだろう。
そんな説明よりも、今の日本が倭と呼ばれるようになる前に、百越の一派に
倭と呼ばれる集団があって、それと同祖とみなされたから倭と呼ばれるようになった
だから南方系、という方が説得力がある
典拠は論衡
巻八儒増篇第二六
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
巻一三超奇篇第一八
周時天下太平 倭人來獻鬯草
巻一九恢国篇第五八
成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
>しかし方角は太陽と月がある限り間違える事ははい。
実際に倭国を訪れた魏使の報告書が間違っていなくても、
それを見て史書を撰述する史家が、大陸の常識に従って「南のはず」と
判断するのは普通にありえる
「間違えることははい」というのは誤変換だよね
本来は、「間違えることは、はい、あります」かな? >>926
百越の倭が渡来定着した事を証明する証拠遺跡も、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器も土壁の中国系住居も
石刃の中国系耕作用農具も中粒種のイネも漢字の金石文も龍信仰も亀卜も一切ない。
漢人の単なる勘違いか、別物だと知ってて故意に同名を付けたかのいずれか。 日本最古の神社は大神神社ではなく高鴨神社だ。
大神神社は崇神の時代。
高鴨神社は孝昭の時代。
その高鴨神社よりさらに上座にあり、
もはやいつ頃出来たのかも分からない古い名神大社がある。
高天彦神社だ。
場所は御所市高天。
高天原最有力地である。
つまり高天彦神社は奈良盆地最上座に位置し、最古かつ最聖の神社である。
その高天彦神社の境内に径百余歩ほどの塚があり「奴婢」が埋葬されている。
http://9327.teacup.com/zenyamaren/img/bbs/0001836M.jpg
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
かつて葛城で土蜘蛛を退治した男がいた。
日向から来た神武である。
それはヒメ(踏鞴五十鈴)=ヒミコの時代でもある。
纏向に卑弥呼墓などあるわけがない。
アホの>>1www
アホの>>1www 高天原は御所の高天で正しいと思うが、卑弥呼とは全然関係ないと思うぜ。 >>916
>倭人伝の「会ケイ」の東・・・って鹿児島よりも南になるけど
倭人伝の方角や距離の記述はかなり大雑把というか<
「計其道里、當在會稽東治之東」の「計其道里」は地の文である事を示しており、
だから、当然「魏使らの記録からの陳寿の判断」である事を示し、
揚子江河口南岸から九州方向は、「東〜東北東」の範囲内にあるので、
陳寿の判断はほぼ合っており、
「倭人伝の方角や距離の記述はかなり大雑把」という事にはならない。 >>918
>大陸の常識では、倭国は南国なんだよ<
いや、陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」という計算。
>所有無與儋耳朱崖同って書いてあるし、<
「其風俗・・・所有無與儋耳朱崖同」という記載であり、
風俗の類似がある、と言っているだけ。
>夏后少康之子封於會稽で、計其道里、當在會稽、東冶之東というのが陳寿の認識
だから、なんでも南にしてある<
誤魔化してはいけない。「東冶」ではなく「東治」。
>末慮国から伊都国が、実際は北東なのに東南陸行と書いてあるのは
別の理由(本来の行き先が別の経路)だと思うけれど<
これも×。
陳寿の行程説明方法は、「出発説明+途中説明+到着説明」の原則であり、
「東南」は、(目的地方向ではなく)、出発時点での出発方向説明。
>最初の倭人在「帶方東南大海之中」の範囲であれば、
南と東はどうでもいいと思っていた節もある<
ない。
魏や郡役人や魏使らは、南と東とをほぼ全く間違っていないし、
唐会要倭国伝でも倭国の位置を「新羅の東南」且つ「正北抵新羅」と書いており、
九州を特定している。 >>920
>それは既に何度も説明されているけど水行は潮に流され風にも煽られたりと、
当時は人力だから遠く感じて仕方がない。
例えば100m船を漕いでも環境次第では500m分のエネルギーを使うだろう。
しかし方角は太陽と月がある限り間違える事はない。<
南北間の海上距離や遠距離は、目視出来れば簡易三角測量でも里数の概算が出来るし、
目視出来なくても、一寸千里の法で概数計測出来る。 三国時代は領土だけじゃなく科学の諸分野でも覇を競っていた。
その副産物として数学も発達したから、当然特に魏と呉がその領土拡大の
最遠部での派遣を巡って嘘の記事を書くわけはない。他国から馬鹿にされる。
魏の換骨奪胎によって成った晋は魏の直系であり、書いた人は蜀の官僚。
畿内説が言う「倭人伝は嘘」説は、根拠がない。
箸墓や巻向だけ都合良く調節しておいて他は嘘というダブスタは学問と呼べる
代物じゃない。
正史編纂でミスったら首が飛ぶ世界にクズ学者共を連れていきたいね。風説流布で
全員死刑w 壮大な宮殿を建ててる連中が南と東を方角間違えるって
無理矢理にもほどがある
畿内説者は古代人馬鹿にしすぎだな 日本の神話(記紀神話)自体
『松傾』の話だと書いてない? 『ボーボボ』
『ずっとオレのターン』
『何者にもなれない お前たち』
同じ画像ばかり出て来たり 馬鹿馬鹿しい
魏志倭人伝なんて全体から見れば巻末の付録程度
風俗風習についても東南アジア地域との混同は大昔から否定されてるところ
陳寿が倭国にやってきた魏使のものもした(単一の)記録を直接見て
書いたという保証は何処にもない
「素直に読んだらピタリと分かるな」
どとほざく九州説はおよそ学問じゃない
と言うか倭人伝の行程記事を読み解けば
必ず邪馬台国にたどり着けるという前提がなければ
そもそもゲームが成り立たない
メディア・出版業界によって作られたブームと言う産物昭和の遺物 『日本昔話』=『ドラゴンボール』?
『るろうに』という作品のwiki
>あなたの畠に作った茄子や胡瓜は、どうなさいます。
>善い加減のトキにちぎって、沢庵にでもおつけなさるでしょう。
>アイツラはそれと同じことです。
家の写真みたいじゃない?胡瓜のような葉、葱の華・・・などが写っていたり、
むかーし、家に凄い刀(謎の刀)が飾ってあったとか 老婆が言うには馬に乗って・・・
何やらという話をしていた、
腰に刀を差し、どこだったかな〜城があってとか >>933は>>934のツッコミの意味が分かってるのか?
そもそ三国志は陳寿のあくまで私撰であって
正史に咥えられるのは陳寿の死後のことだ
そのことを>>934は笑ってるのだろうと思うが
もっとも仮に朝廷で編纂したものであっても
東海の彼方にある倭国の情報に誤りがあったとて
首も飛ばなきゃ史書としての評価に影響もないだろう
老婆は二本松のほう、
家が伊達郡?川俣町のほうに住んでいた・・・という話 「老婆ガー」とか喚く基地外
まだ居座ってるんだな
どうせ意気軒昂にこの板の邪馬台国スレにやってきたが
相手にされなかったりコテンパンにやられた
ゴミクズレベル九州説(東遷説・九州王朝説)の成れの果てだろうが なぜ家の話をしているのか?なんだよな、
伊達郡の川俣町という掲示板でしょ、
香野という家があったという話などもそうでしょ
実際(現在というか、かなーり前の事だと思うんだけど)、
住んでいるところは神奈川県の川崎市川崎区 どういう事なんだろう、
いまも川崎に住んでいるんだけど、
近所の寺院に通っていたと言っていたり
このスレの話というのは超時空(悪く言うとデタラメ)のような話でしょ、
もれ(仮)の話は、時代的には最近というか現在? 本当の話
兄、弟、妹:5月15日生まれ、
あの写真(胡瓜の葉、葱の華・・)の家
むかーし住んでいたことがあるんだよ
というところが伊達郡とか川俣町・・・?そっちのほう これも偶然なんだけど凄い話
5月生れ、おうし座、金牛宮?
『金の子牛』 >>942
>そもそ三国志は陳寿のあくまで私撰であって
>正史に咥えられるのは陳寿の死後のことだ
陳寿の死後、どころじゃないよ
正史と認められたのは、唐代の初め、7世紀になってから 亀戸天神?
牛の像があると書いてあるでしょ、
むかーし遊びに行ったりしたと言っていたり
老婆が生まれるよりも前の話、
老婆も、そういう話を聞かされたんだと思う 誰だったかな、
シンクロ現象というわけではないんだけど、
妹の結婚した時期とか、同じころ? 数年前の、とあるスレ
・宣伝でもしてるのか?
・国か何かで宣伝してるんだよなw
と言ってる人がいたり、
何かに気づいているのか、知ってる人だと思う >>939
とうとう畿内説論者が倭人伝を否定し出したw
畿内完全敗北 現在、小手子の像?というものが建てられていて、
むかーし、その近所に住んでいたことがあるんだよと言っていたり
当時の職業も、わからない、
像などを作っている家なのかな 『松傾』
家は、このような名前の家なんだけど、
どういう事なんだろう 卑弥呼というのは相当外交センスの高い王なんだよ
諸葛亮が死んで蜀が勢いを失って
魏軍の司馬懿が遼東に取って返して公孫氏征伐されたと見るや
すぐ魏に遣いを送っている
まるで諸葛亮の死まで知ってるような神がかり的なタイミングだ
これだけ中国事情を知るには纏向に居ては不可能
九州北部、しかも中国からの使者が定期的に来る場所じゃないと知りえない
伊都国しかない そのような書や本(聖書)も持っていなかったし、
家にはなかった。老婆も持ってない。
なぜか山の上の話などをしていたり。 山王、信夫山、カールおじさん?
調べてみると同じような絵が出て来たり むかーし住んでいた家には、
本や書なんかが、ずらーっと沢山並んでいた(老婆談) 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1526755568/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 『天王宮 山王院』
そのバスケの話じゃないんだけど、サトシというキャラがいない? 『ボーボボ』
ググると出てくる画像など、家の写真みたいでしょ?
なぜだと思う? 白面サイ サイ=サトシ
だと言ってる人がいたり「弟だよ」とか、
ニンジャアニメにも出てくる? ニンジャ漫画
『サイ』というキャラのwiki、
根の国が何やら、イタチの弟(サスケ)だと書いてあったり >>942
>そもそ三国志は陳寿のあくまで私撰であって 正史に咥えられるのは陳寿の死後のことだ
>もっとも仮に朝廷で編纂したものであっても 東海の彼方にある倭国の情報に誤りがあったとて
首も飛ばなきゃ史書としての評価に影響もないだろう <
この男も×だな。
梯儁等の記録は、直後に張政らの長期?滞在?記録に拠って、確認されており、
陳寿は、それらを見て倭人伝を記載した事になるから、
やはり倭人伝の記載の客観性や信頼性は、抜群だ。 >>945
>「老婆ガー」とか喚く基地外 まだ居座ってるんだな
どうせ意気軒昂にこの板の邪馬台国スレにやってきたが 相手にされなかったりコテンパンにやられた
ゴミクズレベル九州説(東遷説・九州王朝説)の成れの果てだろうが<
「老婆ガー」は、半島人差別の皇国史観の通説者であったようだったよ。 >>962
>注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは 邪馬台国畿内説に関係が有って 根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。<
ここは、原則自由投稿の掲示板。
スレ主が勝手に投稿制限をしてよい筈がない。
投稿制限をしたければ、自分のホームぺージを立てて投稿制限すべき。
誰も立ち寄らないだろうけど。 それと、なぜ人の家に寄生しているのがいるのか?
なんだよな 頭の良い人は気づいている
キングギドラ、オロチ、ヒドラの市というキャラ、
そして家の、あの写真
まがい物には何を言ってもわからない、
どこかで習ったか、勉強した程度でしょ なぜ侵害のような事ばかりしているのか?という話
実際は『キングギドラ』〜『三津首広野』でしょ 個人的には良いとも悪いとも、何とも思わないんだけど。
このような作品ばかり聴いていると
頭が悪くなると言ってる人がいたとか、いないとか。
聖飢魔U『KILL THE KING GHIDRAH』 誰が作ったのか、わからない、謎のチェーンソーのゲーム
敵の台詞「渡来人どもめ〜!」と言っていたり 『NARUTO サイ』というキャラ
>【根】の先輩・シンを兄と慕っていた
『北斗の拳 シン』 すでに気づいている思うんだけど、
邪馬台国の話をしているわけではない 『聖化 日神 日霊 津』
実際は、どこの国の出身なんだと思う 肉は食べなかったよと言っていたりw
何だったんだろう、あの写真の話
何度も書いてるので説明不要 普通に考えても、おかしい
肉でしょ?食べなかったと言っていたんだけど スサノオ?
何者かが創作した話なんじゃないの?芸能?
刀などを持って何やらとか ニンジャ漫画のwiki参照
素手で何やら〜と書いてあったり、
ジョジョ?武器、刃物を持ったら(使用)・・・と言っていたり 『ボーボボ 田ぼ』
・・・・に保存されている家、それと家の写真でしょw
あと「るろうに」某キャラ(モデルとされる人物)のwiki トヨトミミ、トヨトミ?
何か刀の話があったような気がするんだけど 九州説は邪馬台国論争に敗退しちゃって、もう嫌がらせしか出来ないんだね 未明からお昼まで意味のわからないことを呟き続けてるのか
異常者はこわいな 九州説に悉く論破されてスレを荒らすしかなくなった畿内説
関西人そのもの 厚顔無恥な荒らし野郎だな
畿内説の者が自分たちのスレを荒らすわけないだろう >>926
"らしい"書き方だけで全く説得力ねーな。
魏から見てざっくり南ではなく、何処何処に水行、何処何処へ陸行と書かれているのだから間違えようがない。 九州説の意味のある書き込みを、もうずっと長いこと見てない
ザラコクの繰り言と、頭のおかしい荒らしつぶやきばかりだ
お鏡さんが九州説隔離スレを立ててくれてるから、そっちで思う存分自説を展開すればいいんじゃないかな? 九州説の人は? >>994
>何処何処に水行、何処何処へ陸行と書かれているのだから間違えようがない。
その「何処何処に」っていうのが、大陸中原にいる人間には分からないんだから、
「間違えようがない」なんていうのは「ただの文字列」でしかないぞ
大陸中原の人にとって、「末慮国」も「伊都国」も「奴国」も単なる国名を
示す「文字列」にすぎないんだから、その「想定上の位置」は如何ようにでも
書けるんだよ
そして「陳寿の認識」では、倭国は帯方「東南」大海中の南北に延びる洲島の
上にあって、国の配列も北から南に配列されている
末慮国から伊都国は、現実の地理では北東方向なのに東南陸行って書いてあるだろ?
この時点で、「方角を間違うはずがない」というのはただの戯れ言
国の間の移動は、「南」「東南」「東」の三通りしかないのを見ても、「東南」大海中が
大枠の規定としてかなり硬いものだと想定できる
あいかわらず九州説は、筋の通らない思い込みしか書かないな このスレッドは1000を超えました。
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