邪馬台国畿内説 Part352
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979_________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。 ◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://imgur.com/qfiOJLu
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ65,67に追記 誰も読まない駄文を長々と乗せて我が物顔
お山の大将のスレ主
内容は切り張りの詐欺師の論法 そうやって畿内説を知らないままだから
九州説は反論できず
負けるだけ 反論できなきゃ、ボヤけばボヤくほど惨めなだけだろう >>54
世有の「魏の世に」の用例
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
魏は漢の法により、母后の號は皆旧制(漢と同じ)であったが、夫人以下には魏の世には増減あった。
漢の世に対して魏の世で増減があったの意味であり魏の各代で増減があったは誤訳。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
伯父柔と父澤は後漢の郭泰(郭林宗)に認められ出世した人物で魏代にも活躍した人物である
従って先人とは魏代の王沢、王柔、王機のみを指す
王家は昔からの名家ではないので誤訳。 >その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。
立地場所だ。
上座>中座>下座になる。
実際、各地域の上座にはその地域の始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山古墳群、交野の森古墳群、讃岐の萩原墳墓や猫塚などなど。
では大和盆地の最上座とはどこか。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg
トヨもヒミコもヒミコの父さんやお母さんも叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後に高天原の神々になったのだ。 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 856 日本@名無史さん sage 2018/06/08(金) 14:02:50.45
骨子の3世紀中葉に古墳時代開始というのも年輪年代法の裏付けのない炭素年代測定法を元にした推定であって、科学的な根拠とは言えない
BP何年という数字がいくら出ようが絶対年代を基にした較正ができなければ、それが西暦何年をさすかは誰にもわからないのだ
植物の同位体識別のデータもなく、試料単位の年代誤差の比較データもない
これでは炭素年代測定法の意味がない
年輪年代法での推定にしても、年輪年代法は飛鳥時代の時点で法隆寺や飛鳥寺の例から既に100年の誤差を生じてしまっているのは有名である
しかしこの狂った年代を指す年輪年代法を参考に新しく作られた土器編年は、100年古く出た数字をそのまま利用したり、矛盾を孕む場合はあっさり古材利用としてしまったりする
古材の利用と片付けてしまえば年輪年代法の意味がない
石塚古墳周濠のヒノキ板199年を100年新しくした場合4世紀頃となり、年輪年代法登場前の1970佐原案までさかのぼることになる 年輪年代法を元にした推定だって決めつける理由は?
????? 980 日本@名無史さん[] 2018/06/09(土) 01:59:35.22
>>979
>>1にどういう視点で分析するという
視点に関する見出しがない
いつはいいね、倭人伝の時代2世紀から3世紀
どこでもいいね、畿内特に纏向遺跡
何を?ここは不明瞭だ どうも前方後円墳と土器がそうらしいが、それ以外のようでもある。注目の分析対象を明言してないから要旨と書きつつ要点が記述されていない。
どのように???ここが欠落している
何をが不明瞭だから
だらしのない散文にしかなってないよ。
例えば、同定できるなんて文言は失格だよ。
以上終わり
983 日本@名無史さん[] 2018/06/09(土) 02:08:46.94
>>980
注目の分析対象を明言してない?
庄内併行期と明記されてる
990 日本@名無史さん[] 2018/06/09(土) 02:29:05.42
スレ主は5w1hもわからない小学生だった。なるほどね。 どういう視点で分析するって?
畿内説のテンプレなんだから畿内説を概説してるだけだろ
分析する論文じゃないんだから >>77
>年輪年代法での推定にしても、年輪年代法は飛鳥時代の時点で法隆寺や飛鳥寺の例から既に100年の誤差を生じてしまっているのは有名である
年輪年代は名古屋大学の中塚教授の「樹木年輪セルロースの酸素同位体比」で追試可能。
恥をかくのは鷲崎。 九州説自体が極右によって創り出された虚構。
新井白石や本居宣長は、
大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という史実を、
国学者のプライドとして認めることが出来なかった。
だから「当て馬」として九州をあえて出した。
九州説なるものを創作し、馬鹿を集め、議論させる。
議論してるうちは大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という重い荷物を着地させずに済む。
永遠の水入り、永遠の中腰を狙ったのだ。
これは天才の発想だ。
しかし彼らはあの世で嘆いているであろう。
馬鹿(=九州説者)が増えすぎたと。 事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
ヒミコの時代から1700年後、土蜘蛛の末裔たちが高天原の麓で声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。
ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代、土蜘蛛=奴婢を束ねた男がいた。
日向から来た神武である。
だから今でも水平社博物館と神武社が並んでいるのだ。
http://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png >>79
>例えば、同定できるなんて文言は失格だよ。
なんで?
理由は?
?? >>80
チェリーピッキングのお墨付きありがとうございました。 理由がないのも>>85みたいに意味不明なのも
九州説の特徴だね
妥当性を保証する情報が何もなくって0点ってこと >一寸千里の千里は80kmが北緯35度付近の南北で成立するなら
一寸千里の千里は400kmも太陽が夏至の日に真上に来る
北緯22度付近で成立しそうな気はする 数字苦手だから計算はしないけど <
周地付近の北緯35度付近で、夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であり、
大地がほぼ平面的であって、南へ千里行ったところでは、夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸になって、
南へ千里行けば影が一寸ずつ短くなるんだから、
1寸短縮を16回繰り返せば、夏至正午の8尺棒の影長の1尺6寸がの、0寸になって、
太陽がほぼ真上になってしまう事になる。
これは、地球では(北緯23.5度付近の北回帰線の話になるんであり、
洛陽付近から北回帰線までが1万6千里だ、という事であり、
地球では、ナポレオンが、
北緯0度の赤道からの北緯90度の北極への地表面の長さを一万kmと決めたので、
割り算すると1度≒111kmであり、
北緯35度から北緯23.5度は11.5度差であるから、
洛陽付近から北回帰線までが1276.5kmになり、
それが1万6千里だから、割り算して、1里は、79.8m位になり、
これからも、短里距離が求まる事になる。 >>912
>>>現代の数値に換算して魏の里は一里約430mと導きだされたということ<
>>同様に、魏志倭人伝の里は現代の数値に換算しておよそ100メートル未満となる。<
>計測のミスなのかも知れない<
この男の頭がクルっているから、かも知れない。
>魏で使われた度量衡が記されている律歴志と<
後代の学者の「自己解釈に拠る」律歴志は、
魏志などの「実際に実見計測した記録」よりも、信頼性が全く落ちる。
>基準のモノサシである正始弩尺から<
尺定規は、周代から魏代まで、殆ど変わっていない。
>換算された一里約430mの史料事実と異なるから<
周髀算経の一寸千里や魏志の記録では、1里は75〜80m。 >>914
>なら律歴志のようにそういう短里の体系が記された史料があれば一発で証明できる
陳寿は記録を出来る限り綿密に残すから
本当に短里があるなら魏志のどこかに体系がはっきり書いてあるだろう<
陳寿は、魏や西晋代の史官であったんだから、
当然、魏〜西晋朝が決めた度量衡を黙って使用するだけ。
勝手に、秦漢代の度量衡で書けば、当然採用されない事を知っているし、
場合に依っては、西晋朝に反抗している、と見られて、首も危なくなる。 >>919
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
まともな論理性のある書き込みが皆無だから、
からかう以前に相手にならないんだが。 >>924
>だから、想定していても、実験したら間違いだって分かるだろ?<
夏至正午の8尺棒の影長を、周地付近とその南北千里で測った、
という事実関係を証言しており、「間違いだ」とするなんらの証拠もない。
>大地が平面は誤りというのが、明確にされていない以上、
実際には測っていないと考える方が妥当 <
夏至正午の8尺棒の影長が0寸になる北回帰線付近までは、
ほぼ大地平面と出来る事も書かれている。
>実際に測っていないのであれば、周髀算経が実測可能だった証であり
里が短里だった証拠、というのは根底から論拠を失う<
実際に計測した事を記録しているんだから、
里が短里だった証拠、という論拠を失わない。
>ザラコクじゃない人が、いい加減なことを言ってるのを見ると
悲しくなるからやめてくれ<
wwが、いい加減なことを言ってるのを見ると、
東大の大学院や博士論文審査の教授らがどんなにアホであったのか?が判って、
可哀そうになるからやめてくれ。 >>929
>木っ端の報告よりも、古来からの科学である世界観の方が当然に優先されるよ
出所不明ではなく、山海経、淮南子等で永年練り上げられてきた世界観<
山海経にも短里記録があるし、淮南子の一寸千里の説明も短里。
>>しかも計算結果→會稽東治之東 <
>計算結果じゃなくて、世界の果てまでの観念距離=萬二千里に、数字の方を
合わせてるんだよ 、
それ×だったよ。
裸國黒歯國まで書かれているんだから、
世界の果てまで萬二千里だ、という事になっていない。
この男(ww)は、今、大和説がやっているのと同じこと。
結論は先にあって、それに合うように史料事実の否定曲解捏造を造作している。 >>937
>思い付きでゴメン 径百歩とか奴婢百人は 魏の使者は見ていないと思う
伝聞で倭人伝に記したと思う 卑弥呼の墓はもっと小規模のように思う<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」」は、
「大作冢」というような「形容」文言が入っているし、
「餘」という「概数」文言が入っているが、
伝聞なら、そのような文言にはならないのであり、
伝聞記録ではなく、実見記録なんだよ。
>畿内でも良いが<
畿内なんて存在もしていないんだから、キミも嘘つき騙しの×人間なんだよ。
>狗奴国と対峙してたのだから
そんな大規模な工事して、鉄の武器も無ければ、狗奴国が攻め込むチャンスでは
当然 狗奴国のスパイも邪馬台国に潜入していただろうし<
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」と書かれているから、
戦闘は一旦収まっている。 >>938
>考古学は歴史ではない。考古学は考古学で、独立した学問である。
文献上記紀から始まる日本史からアプローチするのはいけない。
物証からアプローチすべき<
いや、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
文献も考古も、同じように根拠になる貴重なものであり、
それらの一部でも排除する論は、一種の偽学問や偽科学になってしまうのであり、
文献も「物証の一つ」であり、否定抹殺すべきではない。
おそらくこの男も、文献が大和説にとっては都合が悪いから、
否定抹殺してしまおう、とする嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>945
>畿内には大から小まで古墳が揃ってる <
畿内なんてなかったの。
>そのどれかじゃないの<
唐会要に拠って、倭国は「正北抵新羅」だから九州であり、
大和は、宋書の「自昔・・・東征毛人55国」の中の一国であり、
旧唐書などに拠って、大和日本国は、倭國から別れて東征した別種の旧小国」であり、
古事記に拠って、大和は、倭国の地方の市を監督する大倭國の国であった事にしかならないの。
>まあ卑弥呼が実は斎王のような存在だったとしたら ワンチャン出雲に墓があるかもね<
幾ら仮定や分裂幻覚妄想のウソをしゃべっても、バツは×。 >>94
「大作冢」大いに冢を作る
「徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」径百歩に奴婢百人を殉葬した。 >>951
>太陽が宇宙の彼方にないから、作図すれば「大地が平面」だから「影の長さに差ができる」<
順番が違うね。
洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、
南北千里では、同じ1寸差であったから、大地は平面であるんだろう、と推定出来、
更に、南へ千里行けば8尺棒の影長が一寸短くなるんなら、
その千里南を16倍(萬二千里)行けば、夏至正午の太陽の影長が0寸になる、
つまり、太陽が真上になる場所(がある事が判って、
周知付近での8尺棒と1尺6寸の影の作る直角三角形と相似である事から、
太陽高が(8尺棒の8と同じである事になり)、8万里である、という計算が出来たんだよ。 >>953
>魏志倭人伝の行程なんぞ
当時使われていた魏の尺度に照らし合わせたら邪馬台国はパプアニューギニア<
魏志倭人伝の行程は、魏使らの実地の見聞や観察の記録が元。
当時使われていた魏の尺度(周髀算経の一寸千里の法の短里)に照らし合わせたら、
邪馬壹國女王之所都は、筑紫。 卑弥呼が死んでから径百余歩の墓を造ったなら、
その間、10年近くは殯をおこなってたという事になる。
実際にはすでに大きな塚が出来ており、その埋葬部を造っただけであろう。
高齢だった卑弥呼は自分の墓くらい考えていただろうし、
「徑百餘歩」「奴婢百人」は魏使の又聞きであり象徴的な伝聞だったのであろう。 >>956
>ほう 何という場所から何という場所で計測したんだ? 文献の引用宜しく<
周髀算経という文献に拠って、
周地付近と、その南北千里になる場所の3か所での、
夏至正午の8尺棒の影長を計測した。 >>960
>まあ実際一寸千里がどうであろうとも<
何だ?。
wwは、(後漢末期に再収集注釈がなされた)周髀算経や一寸千里が、
どうしても否定し切れなかったのかい?。
>魏の時代は律歴志<
その律歴志は、はるか後代の「自己解釈」の書であり、
魏使らや魏や郡役人らの実際の見聞記録の魏志などには比較にならない半分×書、
>正始弩尺によって一里約430mが史料事実だし<
尺寸法は、殆ど変わっていない。
>文帝の度量衡統一令によってそれ以外の尺度は存在しないという事になるんだけども<
文帝は、始皇帝の秦朝や漢朝の度量衡のままで良かったんなら、
即位の詔書で「同律度量」なんて書く必要がない。 >>961
>そもそも2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで続いた王権を
日本人が忘れているわけがない。<
8世紀の大和政権の記紀にも風土記にも「卑弥呼」という呼称を一切使わず、
隠蔽しようとしていた。 >>962
>邪馬台国は大和国、初期の大和朝廷だな 邪馬台国大和説が普通だな<
邪馬台国も大和朝廷も存在しなかったし、
「南≠東」などに拠って、大和説は×。 >>963
>違う違う どこそこの地からどこそこの地で計測したら八尺の棒の影長が一寸違ったと
現在でも確認できる記述が欲しいわけ
ただ北と南で棒の影長がそれぞれ一寸違ったとあっても
それが正しいか確認できなければこっちもどうしようもない<
違う違う。
不可知部分への挙証を要求する事自体が、インチキ・・・・詐欺師。
我々は、知り得た情報を史料批判して、
それからの確率の高い帰納的な推論をするしかない。 >>967
>文献に書いてあることが全部本当なわけないじゃん<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た資料の信頼性を資料批判して、
それからの確率の高い帰納的推論をするしかないじゃん。 >>968
>だから周髀算経のどこに
何々という所から何々という所で棒の影の長さを測ったと出てくるんだ?
それがわからなきゃ一寸千里の法が正しいか間違ってるか確かめられないんだよ<
上方の存在しない不可知部分。 >>973
>計算したらちょうどそうなったという意味
そもそも會稽東冶之東に倭人がいたという伝承はどこにあるの?<
「會稽東冶之東」ではないよ。「會稽東治之東」だよ。
>世界の果てが萬二千里ならなぜ東千里、南四千里、船行一年なんていう情報がある?
観念距離萬二千里なら、里数と日程も引き延ばしたで問題ある?<
魏志は、観念距離で書いてもいないし、「里数と日程を引き延ばして」もいない。 >>975
>昔は朝鮮半島を400里四方としていたのに
ある時に4000里四方になってて
そこから倭人伝は単純に10倍されたのではと言われてるね、<
1里の距離尺度が、違ったから。 >>105
>8世紀の大和政権の記紀にも風土記にも「卑弥呼」という呼称を一切使わず、
隠蔽しようとしていた
いやいるよ。
媛蹈鞴五十鈴媛命。
でもこれじゃ分からない。
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛。 >>983
>注目の分析対象を明言してない? 庄内併行期と明記されてる<
箸墓は、布留であって、庄内ではないから、
庄内併行期にはならないよ。 >>994
結局のところ、この阿呆さんも、
「スレ主は南→東などの嘘つき騙しから逃げたから評価0だ」
という事を、
否定する根拠は出せなかったんだよねする。 姫命 日女命
こんな記述じゃすぐにばれる。
かといって全然違う名前に変えるわけにはいかない、祖先への冒とくになる。
だから加筆したわけだ。
「ヒメ」に出雲族の象徴・踏鞴と妹と同じ五十鈴を加えた。
そして媛蹈鞴五十鈴媛命となった。
そして神武東征紀をやたら強調し、女王国であった史実を隠した。 大和王権が安定して以降の地名は比較的後世にも残る地名が多いです。
しかし、『魏志倭人伝』に書かれた地名はあまりにも
現代に比定するのが困難なものが大半を占めています。
つまり、邪馬台国連合から大和王権の間には大きな断絶があった
証拠だと言えるのです。
邪馬台国連合がそのまま大和王権にスライドしたのであれば、
『魏志倭人伝』の地名がもっと後世に伝わっていてもおかしくありません。
やはり、『記紀』神話通り、九州の邪馬台国連合勢力の一部が
東征して大和王権ができ、そこから全国支配を進めていった
と考えるべきでしょう。 >>116
>現代に比定するのが困難なものが大半を占めています。
對馬國 対馬
一大國(一支)壱岐
末慮國 松浦
伊都國 糸島(怡土)
奴國 那珂(儺県)
投馬國 出雲
邪馬台國 大和
斯馬國 志摩(伊勢志摩)
已百支國 伊吹
伊邪國 伊賀
都支國 多藝
彌奴國 美濃
くらいまではいけると思うけど >>81
追試したの?
追試したのならその結果ある? >>121
なんだ言えないのか
ざっとだけど検索したが追試結果なんかどこにもなかった
まーた出任せの嘘か 勉強する気ゼロだから九州説なんてトンデモになるんだな
新聞すら読まないなんて
そうやって世間から取り残されて行く老人か・・・
あまりにもみじめだな
新聞を読め
書いてあるから >>124も証拠なし
九州説はいつも妥当性を担保する情報なしの
0点教
w 金属器ゼロ・・・おっと、銅鐸片が見つかっていたな、、失敬 >>123
もはや昔の新聞なんか手に入れるの困難なんだからいじわるしないで提示してくれよ
新聞に論文が掲載されてるわけじゃないんだから、どこどこの研究機関が発表したって書いてあるだけだろ?
その研究期間を教えてくれよ
え?もしかして出任せの嘘だったの? 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>67
そうやって「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論出来ずに知らん振りし、
倭国は「正北抵新羅」「である事や、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」や「大和は、倭奴國から別れた別種の旧小国」に知らん振りし、
「邪馬台国」や「畿内」や「朝廷」や「天皇」などの、
存在もしなかった文言を使ったままだから、
大和説は負けるだけ。 >>68
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
反論できなきゃ、ボヤけばボヤくほど惨めなだけだろう。 伊都で日本海を監視したの?
対馬海峡を監視したと思うだけど。
そして女王国以北を支配したとも書かれているなら、女王国は伊都国の周りだろ。 >>70
>高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>71
>倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
倭国大乱も大和朝廷もなかったから、×だ。 >>72
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。<
記紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書であり、
畿内も大和朝廷もなかったから、×だ。 >>73
>邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。<
邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×だ。 畿内も邪馬台国も大和朝廷もなかったって
壊れたボイスレコーダーみたいに
言い張り続けてるけど
理由は? >>81
>年輪年代は名古屋大学の中塚教授の「樹木年輪セルロースの酸素同位体比」で追試可能。
恥をかくのは鷲崎<
これは、古田史学スレで議論して、
極地のサンプルでの酸素同位体比が、列島でので多様な樹木年輪との一定の相関が得られない、
という事で、議論相手の説明を否定してしまって、議論相手が出て来なくなり、
古田史学スレも、無くなってしまった、
という事があったな。
要するに、年輪年代の欠陥と同じような欠陥を持っていたものだった。 >>82
>九州説自体が極右によって創り出された虚構<
大和説自体が、「倭国の存在や歴史」を否定盗用造作し、
「天地開闢以来、大和天皇家が列島を一元支配したもうた」
という「皇国史観の極右の思想」そのものであり、
それによって創り出された虚構。 >>86
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
それの指摘に対する反論を出来ずに、
逃げ回ったり、反論理由が言えなかったり、
意味不明な「口先での言葉尻へのヘイトスピーチ街宣」になるのも
大和説者の特徴だね。
妥当性を保証する情報が何もなくって0点ってこと >>143
>これは、古田史学スレで議論して、
極地のサンプルでの酸素同位体比が、
列島でので多様な樹木年輪との一定の相関が得られない、
という事で、
何を言ってるのだ。
樹木の種類に関係なく酸素同位体比は判明している。
中塚教授は2000年前のサンプル迄作っている。
>議論相手の説明を否定してしまって、議論相手が出て来なくなり、
古田史学スレも、無くなってしまった、
という事があったな。
要するに、年輪年代の欠陥と同じような欠陥を持っていたものだった。
中塚教授の研究に欠陥などない。
お前の脳みそと毛根が欠陥だ。 >>100の訂正
洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、
南北千里では、同じ1寸差であったから、大地は平面であるんだろう、という事になり、
更に、南へ千里行けば8尺棒の影長が一寸短くなるんなら、
その千里南を16倍(萬六千里)行けば、夏至正午の太陽の影長が0寸になる、
つまり、太陽が真上になる場所(がある事が判って、
周知付近での8尺棒と1尺6寸の影の作る直角三角形と相似である事から、
太陽高が(8尺棒の8と同じである事になり)、8万里である、という計算が出来たんだよ。 >>118
難波宮造営期 歴史学に画期的な進展も 地球研・中塚教授の「酸素同位体比法」
https://www.sankei.com/west/news/140224/wst1402240010-n1.html
中塚教授は、この十数年で酸素同位体の分析装置やセルロース抽出法の開発が進んだことに着目し、この方法を開発。
年代が判明している木材を酸素同位体比で確認したところ、年輪年代法の結果とも一致したという。
九州説のド阿保君たちはいい加減あきらめるのがよろしいw >>149
>洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
>1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、
そんな歴史的事実は無いんだよね >>102
>卑弥呼が死んでから径百余歩の墓を造ったなら、
その間、10年近くは殯をおこなってたという事になる。
実際にはすでに大きな塚が出来ており、その埋葬部を造っただけであろう。<
この男も、・・・・大和説者か?。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
という時系列的に書かれている。
>高齢だった卑弥呼は自分の墓くらい考えていただろうし、<
そんな風には書かれていない。
>「徑百餘歩」「奴婢百人」は魏使の又聞きであり象徴的な伝聞だったのであろう。<
又聞きや伝聞では、「餘」というような曖昧な概数表現は起きないし、
「里」も知らない倭人が「歩」を知る訳もない。 >>109の訂正
>だから周髀算経のどこに
何々という所から何々という所で棒の影の長さを測ったと出てくるんだ?
それがわからなきゃ一寸千里の法が正しいか間違ってるか確かめられないんだよ<
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