邪馬台国畿内説 Part357
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530008283/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-_________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ3,31を修文
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 >>341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/06/29(金) 09:06:12.51
◆FAQ 31
それでさあー 加筆したのはわかるけど
瀬戸内の国々の名前上げないのか
不弥国から投馬国まで国が無い 基幹航路へーーーー
危なすぎる >>34
中二病的な妄想が全開だな。
なんの根拠もない。
同じレベルの内容を九州説で主張したら、九州説の中で叩かれるレベル。
畿内説の支持者は、なぜこのようなひどいテンプレを放置しておくのか。
このような強引な言いつくろいが、世間から畿内説が支持されなくなった理由だとわからないのか。 >>921
大和説者っていう人種は、皆、頭が変なんだろうか?。 69日本@名無史さん2018/06/29(金) 11:29:17.04
>>341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/06/29(金) 09:06:12.51
◆FAQ 31
>瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体<
>交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く
>吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。<
首長??小首長??? 国の長とどう違うの??????
>族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。<
吉備氏が3世紀存在してたという根拠は?記紀神話???
だとしたら邪馬台国は瀬戸内全域の圀じゃん >>34 に
加筆して益々 畿内説が破綻していく
残念だねーーーーーーーー >>923
>山口や広島、愛媛、香川にも倭国の連合圀があったというのが畿内説だよ
倭人伝には載って無いけど<
「正北抵新羅」に拠って倭国は九州であり、
その倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」が、瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東に進んで行ったから、
山口や広島、愛媛、香川にも九州倭国の将軍の征服跡があったり、
地方の市を監督する大倭國の国があったというのが、
史料実態だよ。
倭人伝には、詳しくは載って無いけど。 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした邪馬台国、大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 >>924
>あの記事を当時の常識的な中国人が読めば会稽より南方になることは理解できたんだな?<
陳寿は、あの記事を当時の常識で読んで、
倭國が、会稽東治之東になる、ということが、理解できたんだよ。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。
神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 >>925
>無理だね。
30国のうち29確定してるから
1 対馬国2 壱岐国3 末盧国4伊都国5 奴国6 不彌國7 投馬国
( ここに 中四国の国が いくつか入れば良いが )
8 邪馬台国 <
中四国の国は、其餘旁國と倭種とが、はっきりと書き分けられているから、
無理だね。
また、投馬国と邪馬壹國は、「南≠東」に拠って、当然×だね。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
あま市など東海地域には石作神社が散見される
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? ◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
☝
テンプレ思いっきり記紀引用してるじゃん やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
シラの正体がわかれば、古代史が生き生きしてくるかもしれない
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取、→新羅、神奈川、埼玉 >>934
>(瀬戸内航路)わからないって?
現実に人がそこを通って移動してるって証拠が出てるわけだろ?
なんでわからないんだろうなあ <
魏使らは、不彌國までの移動説明はきちんとはっきり書いたが、
瀬戸内移動の事は、全く書いていないから。 >>935
>なら陳寿が理解できるだろう なぜ理解できなかったの? 不合理だね <
陳寿は、魏使らの行程記録が理解出来たんだから、
「計其道里、當在會稽東治之東」と書けたんだよ。
「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師の大和説者の脳は、不合理だねえ。 >>938
>どれも御免だ
他人と会話できないコミュ障は、黙って立ち去ってくれるのがいい <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、どれも御免だ。
他人と会話できないコミュ障は、黙って立ち去ってくれるのがいい。 >>74
記紀???????
それって3世紀??? >>76
>陳寿は、あの記事当時の常識で読んで、
>倭國が、会稽東治之東になる、ということが、理解できたんだよ。
と言うことは会稽より南だね
ということは南水行の方位は東の間違いだし、短里はない 畿内説は困ったものだ破綻するはず
倭人伝も記紀も自己都合で解釈する
頭の中に狂気的な自動変換器を持っているな >>940
>理解できたという根拠は?<
陳寿は、きちんと「計其道里、當在會稽東治之東」と、ほぼ正しく書けた事。
>同じ里という表記なら気がつかないだろう。
ただ、おかしいと思ったから日程も併記した可能性はある。<
陳寿は、おかしいとも思っていないし、
(行ってもいない)投馬国へは、側副傍線國への日数説明であるし、
「女王之所都」の「水行十日陸行一月」は、
出発地の郡からの里数記載の後の日数説明だ。 >>942
>不弥国から投馬国までの間に瀬戸内には30国に入る国が無いから
いっそ四国も中国地方も投馬国や邪馬台国に入れちゃう??<
瀬戸内に関しては、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書き分けられているから、
×。 陳寿がきちんと「計其道里、當在會稽東治之東」とほぼ正しく書けたんなら
短里は使ってないことになるな >>944
>短里なんて見たことも聞いたこともないから<
陳寿も魏使らも役人らも、魏が周髀算経などに里を採用した事を知っているから、
記録や記載が出来た。
>記事を書きつつ何の疑いもなく会稽東冶の東だと推計したんでしょ<
記事を書きつつ何の疑いもなかったから、「会稽東治の東だ」と推計したんでしょ。
>陳寿は全くおかしいと思っていない
魏の役人が中央への報告書にそんな変な単位を使う可能性もない<
陳寿も魏の役人らも、周髀算経里を知っていたから、
魏の役人らも行程記載に里数が書け、
陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」と計算出来た。 >>947
はっきりしてるのは、陳寿は短里をしっているから、
「計其道里、當在會稽東治之東」という計算が出来たと言うことだな。 >>951
>陳寿が短里なんて知っていたら、倭が会稽より南だなんて断定しないだろう<
陳寿が短里を知っていたから、
倭が「「計其道里、當在會稽東治之東」だ、という計算が出来たと言うことだな。 >>952
やっぱり大和説者は、理由もなく「南→東」の嘘つき騙しや、
「東冶」などの嘘つき騙しを、言い張ってたのか。
w 前スレ>>807
>天柱山の、1500m余りという標高と短里ピッタリであり、
現在の中国の標高(水準点は黄海の平均海水面)と単純に比べても意味がない
>漢代には「介山」も、「里」で記載しているよ。
介山がある山西省は平均標高1000m前後あるから
75m×30里=2250mが「介山」の海抜高度2440mと近い数値というのを根拠にするのならば
漢代に平均海水面からの標高を測量する技術が必要になる >>954の訂正
「そもそも畿内がなかったとかの主張が意味不明 」は、削除。 >>95
陳寿が短里を知ってたら
「當在會稽東治之東」
の東とは書かないでしょ
倭人国は中原のあたりで全然南国じゃないことになるんだから >>959
>知らなかったからこそ、短里で書かれた資料を長里で解釈して、会稽の東と思ったのだろうね。<
陳寿は、短里を知っていたからこそ、
短里で書かれた資料を解釈して、女王國は「会稽東治之東」だ、と思ったのだろうね。 陳寿が倭国を現実よりはるか南の国だとカンチガイしてたことは動かせない事実だろう >>103
短里を使ったら女王國は「会稽東治之東」にならないでしょ? >>962
で、「南→東」などの嘘つき騙しの理由は?。
今言えテメエ!。 >>106
この荒らし投稿の犯人はzarakokuだったのか >>973
>今言え爺さんも、やっぱり九州説だったね<
いや、「今言え」・・・・は、以前に何度も返事をして上げたのに、
全く知らん振りして同じ事を貼り付けているばかりだから、
オウム返し的に、反論しているだけだよ。 >>976
>現代人があたらしく考えたものを古代中国人が知ってるわけないでしょ<
短里は、周髀算経や漢代の淮南子や介山記載が、既に使っていたの。 >>977
>なら、どうして陳寿は単離を知らないの?<
陳寿は、短里を知っていたから、
ほぼ正確に、「計其道里、當在會稽東治之東」だ、と計算出来たの。 >>981
>なら、どうして陳寿は短里を知らないの<
陳寿は、短里を知っていたから、
ほぼ正確に、「計其道里、當在會稽東治之東」だ、と計算出来たの。 >>111
でも短里を使ったら、
倭国はぜんぜん「會稽東治之東」にならないよね? 実際の九州に合わせて短里とか創作しちゃったのが災いしたな 古田武彦氏流、短里説(魏・西晋はすべて短里を使っていた)に対する批判は
ここがよくまとまっていると思う
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/ichikankei.html
天柱山の話もきっちり論破されてるよ
結びの言葉の引用
「私には、古田氏の「魏晋朝短里」説ほど、根拠のない説が、これほどの自信をもって、
説かれたことは、かつてなかったと思うのである。古田氏のことばをかりるならば、
それこそ、「妄想的」である。根拠らしい根拠をもたずに、自説をたて、ほとんど罵倒に
近いことばで、他説を論難して行く。それは、ほとんど、ことばによる暴力とでも
いうべきものである。私は、古田氏の良識を疑うものである。」 >>117に追加
ザラコクさんがよく言う、
「出発方向が東南だからいいんだ」
「邪馬台国は奴国のすぐ南」
についての同じ人の反論の図示
一目見て、古田式読み方がインチキって分かるね
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/ichikankei.html せっかくだからもう一つ
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/furutasetsu_hihan.htm
この人も、ザラコクさんといろいろやりあったみたいだね
そして、客観的に見て完全にザラコクさんの主張(≒古田説)が破綻しているのに
ザラコクさんは今日も破綻したことを書き続けている訳だ
「南→東だから×」っていうのは、これ以上の矛盾をさらさないための
逃げ口上なんだろうね
これを書いておけば、根拠なしの1行でごまかせるからww 陳寿は短里を知らなかったが、結果的には彼の書いた魏志倭人伝では短里が使われていた。
陳寿は文章をまとめただけだから。 >>104
それこそ、短里で書かれた記録なのに、それを陳寿が意識していなかったことの表れだよね。 >>114
畿内の方がもっとムリなのに、なぜそのことを無視するのか。 同じ里という表記の単位だったから。
陳寿はまさかそれが東夷の短里だとは思わなかったのだろう。 >>121
陳寿が短里を知らなかったなら
魏晋朝に単離なんてものが無かったってことでいいよね 古田は国内移動距離の無視と日数表記を半島移動にしてるから
実際は発案した短里で比定してるわけじゃないからな
半島由来の遺物が多いことで話題になっていたから春日に比定している >>128
東夷の短里?
魏の役人が何故そんな変な単位を使うの? >>118さん
投馬国から邪馬台国へは南(四国方面)向かって東に行ったで説明付くの 69日本@名無史さん2018/06/29(金) 11:29:17.04
>>341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/06/29(金) 09:06:12.51
◆FAQ 31 なんだけど
それでさあー 加筆したのはわかるけど
瀬戸内の国々の名前上げないのか
不弥国から投馬国まで国が無い 基幹航路へーーーー
危なすぎる
69日本@名無史さん2018/06/29(金) 11:29:17.04
>>341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/06/29(金) 09:06:12.51
◆FAQ 31
>瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体<
>交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く
>吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。<
首長??小首長??? 国の長とどう違うの??????
>族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。<
吉備氏が3世紀存在してたという根拠は?記紀神話??? だとしたら邪馬台国は瀬戸内全域の圀じゃん 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 83日本@名無史さん2018/06/29(金) 12:04:41.39
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
☝
テンプレ思いっきり記紀引用してるじゃん >>75
これはまた貼り付けであり、
倭国大乱も邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×ね。 >>77
この貼り付けも、
邪馬台国も大和朝廷もなかったし、「南≠東」に拠って、×。 >>78
この貼り付けも、
畿内も大和朝廷も神功も皇子もなかったから、×。 >>79
この貼り付けも、
畿内も大和朝廷もなかったし、
卑弥呼も狗奴國も「南≠東」などに拠って、×。 >>81
この貼り付けも、天皇も皇后もいなかったから、×。 >>82
この貼り付けも、
大和朝廷なんてなかったから、×。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>155
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 虐めてるのでは無い
マインドコントロールされた
スレ主を救いたいだけ >>83
>Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
☝
テンプレ思いっきり記紀引用してるじゃん<
賛成。
スレ主は、格好の良い事を言っているが、
確かに、後代史書の記述は、前代の同時代史書に比べて、信頼性が落ちるのだが、
前スレの後半でも議論になっていたように、
スレ主は、魏志の陳寿の「東治」の記載を、
後代の高慢で自己解釈での書き換えの多い范曄の後漢書の、
「東冶」にすり替えたインチキ論を書いていた。
要するに、スレ主も、口先で誤魔化しをする・・・・詐欺師なんだろうな。 >>89
>>陳寿は、あの記事当時の常識で読んで、
倭國が、会稽東治之東になる、ということが、理解できたんだよ。<
>と言うことは会稽より南だね<
また、変な男が現れた。
「会稽東治之東」という事は、(会稽より南ではなく)、
会稽のほぼ東方だ、という事であり、
確かに、倭國は、会稽の「東〜東北東」に当たるんだよ。
>ということは南水行の方位は東の間違いだし、短里はない<
という事は、この男も、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説仲間である、という事だな。 畿内説は里数はどうでもいいの?
単里も問題が無いでもないが九州説の解明しようとする姿勢が好き
畿内説は倭人伝を否定しすぎ 結局短里は魏の里なのか東夷の里なのか
九州説はどっちを主張するのかはっきりしろ >>161
魏志倭人伝の距離を当時魏で使われていた単位をもとにkmに直して
その結果が実際の距離と大幅に違ってたら参考にしたくてもできない >>160
>確かに、倭國は、会稽の「東〜東北東」に当たるんだよ。
口先でいくら誤魔化したって会稽は種子島あたりだ
九州は会稽の東じゃないんだよ
九州説は誤魔化しをやりすぎ >>93
>陳寿がきちんと「計其道里、當在會稽東治之東」とほぼ正しく書けたんなら
短里は使ってないことになるな<
違うな。
陳寿が長里を使っていたんなら、郡から萬二千余里の女王國は、
赤道付近にあった、となっていた筈。
しかし、そうではなく、「會稽東治之東」と書けた、という事は、
長里の6分の1位の距離である「短里」を使っていた、という事だ。
大和説者って人種は、皆・・・・だな。 >>159
zarakokuがまた嘘をついてるな
1は東治と東冶が同じ場所だと論拠をあげて立証しているが、論拠に後漢書は使ってない >>159さん
頭脳明晰な方ですね
スレ主は病気ゆえ 追い詰めると 気が狂うかも
末期のオウム真理教がいい例です 犯罪に及びます >>165
>陳寿が長里を使っていたんなら、郡から萬二千余里の女王國は、
赤道付近にあった、となっていた筈。
口先で、ハズ、ハズっていうだけで
ぜんぜん証拠をださないんだよね テンプレは支離滅裂は皆知ってるから読まなくていい
テンプレ読め>>1
読むに値しない>>1のテンプレは相手にしなくて良い >>167
反論できないで中傷ばかりしてる九州説の負けは明らか スレ主 三輪山伝説も引用してるなwww
なんなのテンプレ >>99
>>天柱山の、1500m余りという標高と短里ピッタリであり、<
>現在の中国の標高(水準点は黄海の平均海水面)と単純に比べても意味がない<
天柱山の「高峻二十余里」という計測は、
当然天柱山の近くの平野部からの三角測量に拠る近似的計測であり、
その平野部は、海抜100m以内位だろうから、
1500m余りの数字は、誤差は10分の1以下であり、
意味は十分にある。
長里では、エレベスト位の高山になり、有り得ない。
>>漢代には「介山」も、「里」で記載しているよ。<
>介山がある山西省は平均標高1000m前後あるから
75m×30里=2250mが「介山」の海抜高度2440mと近い数値というのを根拠にするのならば
漢代に平均海水面からの標高を測量する技術が必要になる<
これも同じ。
山高は、当然、周辺の低地の平野部からの簡易三角測量であり、
海抜でなくとも、近似値としては十分。
勿論長里では、エレベストの1.5倍位の山高になり、
長里の使用ははっきり否定される。 まだ距離で揉めてたのか
中国で朝鮮半島が当初400里四方で認識されてたのが
ある時から10倍の4000里四方に変化してて
それがそのまま倭人伝に当てはめられたから混乱してるだけの話なのに >>101
>陳寿が短里を知ってたら 「當在會稽東治之東」 の東とは書かないでしょ<
関係なし。
陳寿は、郡からの萬二千余里が短里だ、と知っていたから、
中国側の短里距離と合わせて、「當在會稽東治之東」と書けた。
>倭人国は中原のあたりで全然南国じゃないことになるんだから<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽付近は、
中原に比べて、十分南国的だったんだよ。 >>171
引用して、なんか悪いのか?
トンチンカンな文句ばかり付けてるのは、やはり論破された腹いせか >>143
>>159
有難う ためになった
テンプレはなんとなく、畿内説としては???ズレていると感じてた
スレ主は畿内説を理解していない
畿内説自体支持しないが この畿内説のスレ最悪ですかね
ザラコクさんに言わせれば畿内なんて無いとか言うでしょうが >>104
>陳寿が倭国を現実よりはるか南の国だとカンチガイしてたことは動かせない事実だろう<
陳寿が倭国を、「現実よりはるか南の国だとカンチガイ」しておらず、
キチンと「計其道里、當在會稽東治之東」だ、と認識していたことは、
動かせない事実だろう。 >>177
要するに自分は九州説を支持すると言いたいだけだろ >>175
郡からの萬二千余里が短里で、どうして「會稽東治之東」になるの?
理由ナシの言い張りだけ? ザラコク
入れ変わった??????
過去はテンプレの嘘を暴いていたし
テンプレが加筆修正するたびに投稿してたと思うが
最近 名無し相手が多くねーか >>178
會稽東治は現実の北部九州よりはるかに南の国だけど >>105
>短里を使ったら女王國は「会稽東治之東」にならないでしょ?<
女王國の中の投馬国は、九州北岸から「南へ水行二十日」の位置にあるから、
九州南端にまで達しており、
九州南端で、ほぼ会稽東治之東であり、
九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、
九州島が「郡からの(短里での)萬二千余里の女王國の範囲内」に、
十分に含まれている。
>>181です
当初のザラコクとは違うような気がしてきたけど
当初は
<<<<「南→東」などの嘘つき騙し<<<<<<<
だけで片付けなかったけど
最近 行き詰ったら
<<<「南→東」などの嘘つき騙し<<<
と連呼してない?
私なりにザラコクのフォローはしてますが・・・ >>181
昔も今もザラコクはそんなことしてない
聞く人が笑っちゃうような嘘を毎日ついているだけ >>112
>それ、現代人の発明だよね<
いや、史料記載実態だ。 >>113
>でも短里を使ったら、
倭国はぜんぜん「會稽東治之東」にならないよね?<
女王國の中の投馬国は、九州北岸から「南へ水行二十日」の位置にあるから、
九州南端にまで達しており、
九州南端で、ほぼ会稽東治之東であり、
九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、
九州島が「郡からの(短里での)萬二千余里の女王國の範囲内」に、
十分に含まれている。
ザラコクは論破されまくって
南→東などの嘘つき騙しと連呼するしかなくなったのさ >>179
いやむしろ自分が畿内説の者より畿内説を知ってるかのような思い上がりが
笑える >>183
>九州南端で、ほぼ会稽東治之東
会稽の屋久島辺りです
インチキはダメ >>114
>九州が会稽東冶の東ってムリありすぎ <
誤魔化すな。魏志は「会稽東治」だし、
女王國の中の投馬国は、九州北岸から「南へ水行二十日」の位置にあるから、
九州南端にまで達しており、
九州南端で、ほぼ会稽東治之東であり、
九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、
九州島が「郡からの(短里での)萬二千余里の女王國の範囲内」に、
十分に含まれている。
嘘つき
会稽郡の最北端でも大隅半島より南だ
しかもお前は北部九州説だろう? >>172
山西省は高地だから海水面レベルの標高の平野部はないだろ
標高1000m前後の平地から測量しても海抜高度2440mの山は1400m前後になる
おそらく漢代の山高は山頂あたりまでの道のりの距離だな >>192
あんたさあ
郡から短里で萬二千余里って不弥国までだって言ってたろ
その場その場で支離滅裂だな ザラコクは馬鹿だから相手にしたら✖
方位と大和にこだわってるだけのクダランやつがザラコク ここ、守らないと九州説死亡だもんな
せいぜい醜くあがいて頑張れや 不思議なのは
ザラコクは古代に畿内は存在しないといいながら
大和は容認するのだよね
バカだよね ごめんなさい。
このスレの主旨から他説論者非難はいけないよね
ザラコクは異常だと率直に思う
テンプレ何も論破していない >>197
いや、戯画化した九州説そのものだ
九州説の醜いとこの集大成ね ザラコクも最近時間差レスで逃げ回るようになったな
やる気がないならやめたらいいのに テンプレに九州説がすっぱり論破されてるから
連句点は必死でニセスレ立ててるんだし ザラコクはテンプレを
「南→東などの嘘つき騙し」だけで片付けるから
彼こそ宗教だよ
個々に反論できない愚かなザラコクこそ宗教だよな
ザラコク悔しかったら方位以外のテンプレ論破しろよ
どうせ「南→東などの嘘つき騙し」で逃げるのだろう
極論
すれ主=ザラコクもどき >>183
>九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、 九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、
改ざん不可
倭人伝に書かれてるのは、会稽東冶の「東」 >>166
俺のカキコミとザラコクを結びつけないでくれよ
逃げんなよ >>170さんも頭脳明晰です
さてあなたは
>>83のカキコミをどのように思いますか
クダランのひと言で終らせるならテンプレ読んで無い >>170さんも頭脳明晰です
さてあなたは
>>83のカキコミをどのように思いますか
クダランのひと言で終らせるならテンプレ読んで無い きたーーーーーーきたーーーーー
キナイコシの困ったときの一行カキコミ---------
論じろよ >>208
ロクにものを知らない人間が主張するのが九州説だから >>210
ものすごく、と言うか異常なまでにアタマの悪い人間が>>83を書いたと思うが、違うかい? >>216
あんた適任だな
テンプレの正確な記紀の位置づけを理解できるんだ
ごめんテンプレでは記紀はご法度だったよなwww >>217
病気じゃないよ
逃げないで
論を待ってる
むやみやたらに>>1の専売特許を使わないでな >>219
論ならテンプレに山ほどあるんじゃない? >>222
それ論破ずみだから
過去スレ読んだ方が良い
論破の反論無いのがほとんどだから
俺にふらないで過去スレ読んでね >>223
すれ主?????
記紀の位置づけは?????
しょうがないな君は
俺 キウスでいいよ >>224
いつ、どこで何と言って?
論破したという証拠は? >>225
位置付けってどういう意味?
漠然としすぎてるんだけど >>224
ここは「南→東」の、ひとこと連呼で畿内説明を論破した気になってる妄想爺さんもいるしね
証拠のない自己申告ロンパシターは相手にされないよ >>176
よう、スレ主。
匿名で姑息な書き込みするなよ。 >>221さんへ
張り付けておきます
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
☝
テンプレ思いっきり記紀引用してるじゃん >>179
テンプレが畿内説の説明としてなっていないということだろ。 >>182
一万二千里も南だから、問題ないだろう。 >>235
テンプレは話題提供でいいんでねーの
長すぎるがーー
スレ主もテンプレで遊んでるだけじゃん
自分でも辻褄が合わないのは承知でねーか >>233
もしかして、それは何かしら畿内説を批判してるつもりなのか?
意味がよくわからんけど >>239
まさに意味不明。
畿内説のいうことは筋が通っていない。 >>202
>ザラコクも最近時間差レスで逃げ回るようになったな
やる気がないならやめたらいいのに <
ザラコク氏は貴方みたいに暇じゃ無いから
暇な貴方がザラコク氏に打ちのめされるのを楽しんでますよ >>244
普通の頭脳があれば解るだろう
南かどうかは一里が何mかによって変わる
一里が1cmだったら全然南にならないのは分かるな?
それとも、まだわからないか? 方角を読み替えるのなんて、畿内説だけ。
そこに根拠はない。
畿内説に論理はない。 自分では意味が通っているつもりでも、妄想だから他の人には理解されない。
それが畿内説。
ということは、さっきから粘着しているのはスレ主本人? ザラコクは特定の時間にしか出てこない。
ただ、その時に前スレへのレスも含めて大量に書き込むから面倒くさい。
暇なのは匿名での書き込みも含めればスレ主だろうな。 >>247
短里でも南は南だよ
詳しくは九州説の書物でもいいしNETでわかるよ >>250
論理
◆FAQ 3
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。
加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。
また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照) 伊都、紀の川にも伊都がある
神功皇后応神が畿内に戻り大和朝廷を討つ際に、伊都国の勢力も畿内に移ったんじゃないかな
紀伊は東国の勢力と合流して、兵を整えた場所 大平洋ルートが理にかなってる思う・・・
不弥国(北九州)から南へ投馬国(宮崎)
さらに南に向かい黒潮で南紀 陸行で邪馬台国 畿内
どなたが指摘したが不弥国から瀬戸内ルートでは投馬国まで国が無かったは???? 証拠は出せない
理由は答えられない
こんな九州説が消えていくのは
当然だな >>261
テンプレに書いてあるな
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。 >>258
あなた同様私は学者じゃないから
久米、岩井、北山、薮田、谷川、清水(継承略)・・・の論から自分なりの解釈
宜しければ 一読ください
判断はあなたがすれば良いと思います >>267
それ記紀じゃん
3世紀???????
スレ主と違う意見もいいけど >>268
主張はすれども証拠は出さず
ほんにお前は屁のようたま >>265
あと、異常に文書がヘタで、不適格な主語省略や助詞欠損が目立つ >>271さん
だから一読ください
手間暇惜しむと行けませんよ
久米、岩井、北山さんあたりでピンときませんか? >>248
書き込み時間見るとザラコクは一日中レスしてるみたいだけど ボケ老人(キナイコシ、奥山、スレ主)が
畿内説をめちゃめちゃにする
こまったもんだ
ザラコク氏は方位他で否定するだろうが・・・
畿内説間の意見の相違には口を出さないで欲しいな
瀬戸内海航路で方位は説明できない
瀬戸内海航路では不弥国から投馬国までの圀は無しで済ませるのかね
倭国大乱・・・・瀬戸内は?? >>279
ザラコクさんは四六時中いない
私キウスモドキも しかり
スレ主さんは毎日 頻繁に顔を出します >>235
畿内説でしょテンプレがすべてならこのスレ要らないよ
あんた>>1だしょ
違うなら論ぜよ
>>1より抜粋
>>>>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <<<<< いやいや
テンプレ 思いっきり
記紀の三輪山伝説持ちだしてるな
(大爆笑) >>283
このスレにも朝からのザラコクの書き込みが見られるが >>285
箸墓が女性(卑弥呼)と断定する材料は?? >>4で触れられてるしーーー
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、
後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など
3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、
改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。 >>248
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えテメエ! >>1
以前指摘しましたが 未だ三輪山を・・・
畿内説で
記紀は持ちださない方が良いです
三輪山は山岳信仰の範疇でいい
記紀を持ちだすのは??? >>291
本当に文章が下手くそだな
小学生でもお前よりまともな文章書ける奴がいるぞ 古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ
磯女、龍女が石に乗っ取られ、石の子を生むようになる
牛鬼伝説
箸墓伝説は牛鬼伝説を言い換えただけ >>1
以前指摘しましたが 未だ三輪山を・・・
畿内説で
記紀は持ちださない方が良いです
三輪山は山岳信仰の範疇でいい
記紀を持ちだすのは??? ・とんでもなく自己中
・思い込みが激しい
・最低限必要な知識すら皆無
ザラコク、伊都クズ、キウスの共通項 >>286
でも昼は書いていないし、今もいないだろ。
まとめて書かれるから面倒なんだよ。 >>290
暴走しないでください
アンカーミス???
私に対しての質問ならオカド違いです
私が答えるすべもありません >>115
>短里を使ったら女王國は「会稽東治之東」にならない<
勿論、長里を使ったら、女王国が赤道付近にまで行ってしまって、
「会稽東治之東」には、全くならない。
しかし、陳寿らは、
公孫氏討伐時に、先に楽浪帯方郡を攻撃奪取しており、
その時には、おそらく山東半島から東に渡海して、楽浪帯方郡を攻撃していたから、
山東半島の対岸の地が郡である事を知っており、
だから、山東半島から南の方へ大体萬二千余里行った所を求めて、
会稽東治を求めた、という事になり、
倭人伝での里距離と同じ短里を使ったんだろう、
という事になる。 >>116
>実際の九州に合わせて短里とか創作しちゃったのが災いしたな <
この大和説男も、
山東半島から会稽東治の距離が、短里で「ほぼ萬二千余里」になる、
という事が判らず、
長里では、赤道付近になってしまう、
という事も判らなかったアホであった事が災いしたな。 これだな スレ速すぎ
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 >>117
>古田武彦氏流、短里説(魏・西晋はすべて短里を使っていた)に対する批判は
ここがよくまとまっていると思う
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/ichikankei.html
天柱山の話もきっちり論破されてるよ 結びの言葉の引用
「私には、古田氏の「魏晋朝短里」説ほど、根拠のない説が、これほどの自信をもって、
説かれたことは、かつてなかったと思うのである。古田氏のことばをかりるならば、
それこそ、「妄想的」である。根拠らしい根拠をもたずに、自説をたて、ほとんど罵倒に
近いことばで、他説を論難して行く。それは、ほとんど、ことばによる暴力とでも
いうべきものである。私は、古田氏の良識を疑うものである。」<
何だ?、これは。
Yahooで、古代史でも和田家文書でも、私との議論に勝てず、
大和説の天誅を「大先生」と崇めて、アル中になって、
脳がおかしくなっったのか?出て来なくなった「ハイエナ」のサイトではないか。
彼は、結局は・・・・で廃人になった人物だよ。 >>118
>ザラコクさんがよく言う、 「出発方向が東南だからいいんだ」<
ハイエナは、
私の、
「出発説明+途中説明+到着説明」の原則や、
地域間距離は、居住外縁部間距離の原則や、
喜八郎さんの「撥ね字」の下手な筆跡などに、
とうとう反論出来ないまま、
居なくなってしまったアル中男であったんだよ。
>「邪馬台国は奴国のすぐ南」 についての同じ人の反論の図示
一目見て、古田式読み方がインチキって分かるね<
この男も、ハイエナと同じく、全くのアホだね。
私や古田さんが、は「邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ南」説だよ。 >>119
>これと合わせてみると、もっと面白い・・・
せっかくだからもう一つ ・・・
この人も、ザラコクさんといろいろやりあったみたいだね
そして、客観的に見て完全にザラコクさんの主張(≒古田説)が破綻しているのに
ザラコクさんは今日も破綻したことを書き続けている訳だ <
ハイエナは、私との議論に負けて、アル中になってしまって、出て来れなくなったんだよ。
また、「九州王朝説批判」を書いた熊本大の数学教授の川村明も、
結局は、議論に勝てずに出て行って、私と天誅との議論の紹介をしてしていたが、
その中には、ハイエナは名前すら出て来なかったんだよ。
>・・・「南→東だから×」っていうのは、これ以上の矛盾をさらさないための
逃げ口上なんだろうね これを書いておけば、根拠なしの1行でごまかせるからww<
何だ?、・・・・wwであったのか。
しかし、「南≠東」は、結局は、天誅もハイエナも反論出来なかったんだよ。 >>311
>私との議論に勝てず、
朝鮮人は言張るだけだから相手にするのをやめたんだろう >>121
>陳寿は短里を知らなかったが、結果的には彼の書いた魏志倭人伝では短里が使われていた。
陳寿は文章をまとめただけだから。<
この男も×ね。
陳寿は、短里を知っていたから、「計其道里、當在會稽東治之東」と書けたんだよ。
短里を知らず、長里しか知らなかったんなら、
「計其道里、當在會稽東治之東」とは書けず、
例えば「計其道里、當在赤道付近」となってしまう筈なかったんだよ。 これだな スレ速すぎ
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 >>122
>それこそ、短里で書かれた記録なのに、それを陳寿が意識していなかったことの表れだよね。<
この男も、・・・・アホの大和説者のようだな。
陳寿は、短里を知っていたから、「計其道里、當在會稽東治之東」と書けたし、
天柱山の「高俊二十余里」も書けたし、
高句麗の方二千里や、遼東との距離の千里などが書けた。 ザラコクとやら
テメーは頭クルクルパーマ
テンプレも論破してない
南≠東 以外で テンプレ論破したこと無いな >>123
>長里だと思い込んでいたからだろうね。<
陳寿が「長里だ」と思い込んでいなんなら、
「会稽東治之東」ではなく、
赤道付近、とでも書く。 >>316
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! 名無しを相手にしかできないだろ
スレ主と真っ向勝負しろよ
キチガイ >>128
>同じ里という表記の単位だったから。
陳寿はまさかそれが東夷の短里だとは思わなかったのだろう。<
いや、陳寿は、短里だと知っていたから、
(赤道付近ではなく)「会稽東治之東」と書けた。 >>129
>陳寿が短里を知らなかったなら
魏晋朝に単離なんてものが無かったってことでいいよね<
「魏晋朝」じゃないよ。
古田論は、「魏西晋朝」の短里、だよ。 名無し相手しかできんザラコク
スレ主と真っ向勝負しろ
南≠東 「畿内」は無いだけだろテメーーは
テンプレも論破できん奴が来るなボケ------
テメーが逃げるときは
南≠東だけなら幼稚園児でもできる >>131
>古田は国内移動距離の無視と日数表記を半島移動にしてるから<
ウソを付くな。
国内移動距離記載は、有れば無視しておられないし、
「水行二十日」は、不彌國から投馬国への所要日数の、倭人からの伝聞情報であり、
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都までの所要日数で、魏使らが実際に数えた日数だ。
>実際は発案した短里で比定してるわけじゃないからな <
ウソを付くな。
短里は(発案ではなく)史料実態であるし、
それを使って、伊都国や奴國を比定しておられる。
>半島由来の遺物が多いことで話題になっていたから春日に比定している<
弥生銀座が首都圏であり、
後には、卑弥呼の居地は、安徳台、と推定しておられる。 >>132
>東夷の短里? 魏の役人が何故そんな変な単位を使うの?<
魏の初代文帝の即位の詔書での受命改制で、度量衡の統一を指示し、
重臣たちが周制への復古の上表を繰り返したから、
周髀算経の一寸千里が採用された。 >>137
>九州説、詰み<
「南→東」の」嘘つき騙しの大和説、詰み。 142日本@名無史さん2018/06/28(木) 22:43:34.50>>146
だよな
俺様のスレに無意味な連投すんなよキナイコシ
はっきり言うわ
「失 せ ろ ク ズ」 >>139
>とうとう幻覚に悩まされる敗残九州説 ww<
とうとう幻覚に悩まされる敗残大和説の・・・・男のww。 >>143
>☝
テンプレ思いっきり記紀引用してるじゃん<
スレ主は、後代史書を否定しながら、
後漢書の「東冶」は採用して、
同時代の客観性と信頼性の高い「東治」を抹殺しているんですよね。 >>162
>結局短里は魏の里なのか東夷の里なのか
九州説はどっちを主張するのかはっきりしろ<
結局短里は、周髀算経や、山海経や、淮南子や、介山や、天柱山や、
魏朝や西晋朝や赤壁などの里。 >>163
>魏志倭人伝の距離を当時魏で使われていた単位をもとにkmに直して
その結果が実際の距離と大幅に違ってたら参考にしたくてもできない<
魏志倭人伝の距離を、
当時魏で使われていた距離単位(短里)をもとにkmに直して、
その結果が実際の距離と大体あっているから、十分に参考に出来る。 >>164
>>確かに、倭國は、会稽の「東〜東北東」に当たるんだよ。<
>口先でいくら誤魔化したって会稽は種子島あたりだ<
いや、ほぼ九州南端だ。
長里説者や大和説者らのような赤道ではない。
>九州は会稽の東じゃないんだよ<
赤道は、会稽の東ではないんだよ。
>九州説は誤魔化しをやりすぎ<
大和説は、口先での誤魔化しをやり過ぎ。 >>166
>zarakokuがまた嘘をついてるな
1は東治と東冶が同じ場所だと論拠をあげて立証しているが、論拠に後漢書は使ってない <
スレ主がまた嘘をついてるな?。
会稽東治は、会稽郡治の東方だが、
東冶は、福州付近であり、全く違う場所だ。
>論拠に後漢書は使ってない <
そりゃ嘘つき騙しのインチキだ。
実際に「会稽東冶」と書いたのは、後漢書であるし、
魏志の福州付近の「東治」の表現があったのは、王朗の逃げた場所?の話であり、
その場所を「東治」と書かれたのは、張元済らの採用の正当な魏志ではなく、
台湾か?どこかのインチキな、孤立魏志本の記載だ。 >>167
>>>159さん
頭脳明晰な方ですね <
褒めていただいて、有難う御座います。
>スレ主は病気ゆえ 追い詰めると 気が狂うかも
末期のオウム真理教がいい例です 犯罪に及びます<
ちょっと怖いですね。
しかし、スレ主は、あんなに大量のテンプレを書いても許されるんですから、
ひょっとしたら、5chという組織の中にいる人物であるかも知れない、
と思っており、
私に何らかの事件が起きれば、警察に、と5chを捜査して頂くように、
と思っています。 >>168
>>陳寿が長里を使っていたんなら、郡から萬二千余里の女王國は、
赤道付近にあった、となっていた筈。<
>口先で、ハズ、ハズっていうだけで ぜんぜん証拠をださないんだよね<
小学校レベルの算数の計算ですから、自分で計算してみたら?。 >>170
>反論できないで中傷ばかりしてる九州説の負けは明らか<
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘に対して、
反論できないで中傷ばかりしてる大和説の、
負けは明らか。 >>173
>まだ距離で揉めてたのか 中国で朝鮮半島が当初400里四方で認識されてたのが <
そんな情報がどこにあったの?。
「南→東」などに嘘つき騙しの大和説者の情報では、信頼性が全くないが。
>ある時から10倍の4000里四方に変化してて<
誰が何時何故変化させたの?。
郡役人なら、その時、郡役人は短里を使用した、という証拠になるだけだよ。
>それがそのまま倭人伝に当てはめられたから混乱してるだけの話なのに<
変な男。
「方四千里」と書かれたのは、倭人伝ではなく、韓伝だよ。 『古代史から読み解く「日本」のかたち 』(祥伝社新書)
倉本一宏 (著), 里中満智子 (著)
という本を立ち読みした
倉本氏は九州説を唱えており、行程で日数表記の部分は不弥国からの連続読みは間違いで、帯方郡を起点にすると書いていた
文献学者でもこんな読み方をするのかと唖然とした
しかも学者でありながらマンガ家と共著とはどうかしてる >>174
>長里の6分の1位の距離である「短里」とか使って
どうして北部九州が「會稽東治之東」になるの?<
陳寿の「會稽東治之東」の対象は、
当然、「自郡至女王國萬二千餘里」であるであるから「女王國」であり、
女王國には、南九州の投馬國が含まれるのと、
この場合の「萬二千餘里」は、直線距離的距離になり、
北部九州だけではなく、九州全域を示す事になるの。
また、北部九州までの部分行程の合計の「萬二千里」は、折れ線行程距離の合計でり、
直線距離よりも短いの。
そして、會稽東治から見て、九州はほぼ「東〜東北東」の方向になるから、
だいたい「之東」で間違っていないの。
しかし、長里であった、とすれば、自郡至女王國萬二千餘里は、赤道付近にまで行ってしまう事になり、
全く×になるの。 >>338
またザラコクが嘘をついているな
毎日嘘をつかないと死んでしまう病気なんだろうか >>176
>引用して、なんか悪いのか?
トンチンカンな文句ばかり付けてるのは、やはり論破された腹いせか<
はっきりした同時代の実見や見聞計測記録ではなく、
伝承だけでは、確率が低過ぎて、絶対的な論拠にはなり難い。
この男が、トンチンカンな文句ばかり付けてるのは、
やはり、大和説学者論破された腹いせか。 >>179
>要するに自分は九州説を支持すると言いたいだけだろ<
要するに、この「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説男は、
自分は、嘘つき大和説を支持する、
と言いたいだけだろ?。 >>180
>郡からの萬二千余里が短里で、どうして「會稽東治之東」になるの?
理由ナシの言い張りだけ?<
「自郡至女王國萬二千餘里」は、魏使らの、
投馬國を含む女王國への直線距離的説明になるから。
不彌國までの部分行程の里数合計の「萬二千余里」は、折れ線的な部分行程の合計であり、
直線距離ではないから。
それで、大和説者は、
「萬二千余里」が直線距離であっても、道のり距離であっても、
「長里」であったんなら、赤道付近にまで行ってしまう、
という事をどう説明してくれるの?。
やっぱり、こっそり逃げて隠してしまうの?。 >>182
>會稽東治は現実の北部九州よりはるかに南の国だけど<
北部九州は、女王國の入り口までの「折れ線的部分距離の合計」の位置であり、
「自郡至女王國萬二千餘里」は、
南九州の投馬國を含む女王國全体への直線距離説明であり、
その意味で、女王國は、會稽東治から見て「東〜東北東」の方向になり、
「ほぼ東だ」と言えるの。
そして、大和説者らのような「長里」では、赤道付近にまで行ってしまって、
全く×になってしまうの。 >>188
>ザラコクは論破されまくって
南→東などの嘘つき騙しと連呼するしかなくなったのさ<
国民が、嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者に騙されて、
日本の将来を危うくしてしまう事にならないように、
嘘つき騙しの出発点になった、一番判り易い「南≠東」の論理を中心にして、
大和説の嘘吐き騙しを暴いておいておくように、しているのさ。 >>191
>>九州南端で、ほぼ会稽東治之東<
>会稽の屋久島辺りです インチキはダメ<
会稽ではなく、会稽東治です。
インチキはダメ。
会稽東治は、広大であった会稽郡から分郡されて呉郡に編入された地域であり、
その東先端は、揚子江の河口の南岸付近で、
その真東は、ほぼ九州島の南端付近です。 >>193
>嘘つき 会稽郡の最北端でも大隅半島より南だ<
嘘吐き。
会稽郡ではなく、「会稽東治」であり、呉郡に分割編入された地であり、
その最東海岸は、揚子江の河口の南岸付近であり、
その東は、ほぼ九州南端だ。
>しかもお前は北部九州説だろう? <
「自郡至女王國萬二千餘里」の女王國には、
南九州の(元の東テイ人地域の)投馬國が含まれるのだ。 >>194
>山西省は高地だから海水面レベルの標高の平野部はないだろ <
アホだな。
黄河の取り囲まれているような地域の独立峰的な山だから、
周辺に介山が見える平野部が幾らでもある筈だ。
>標高1000m前後の平地から測量しても海抜高度2440mの山は1400m前後になる <
介山が見える平野部で」簡易三角測量をすればよいだけ。
>おそらく漢代の山高は山頂あたりまでの道のりの距離だな <
この男は、登山道なんて、標高差の5倍位以上の長さになる、事は幾らでも有り得る、
という事も判らないアホなんだろうなあ。 >>353
あなた馬鹿ですか
百年も前に呉郡に分割編入された地だったら
魏のころには会稽郡ではなく
もちろん「会稽東治」なわけもない
勝手に地名を捏造しちゃいけない >>354
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>195
>山の高さなどをを表す単位は里ではなく丈だぞ<
天柱山や介山は、里。 >>196
>あんたさあ
郡から短里で萬二千余里って不弥国までだって言ってたろ
その場その場で支離滅裂だな<
以前の議論で言っていたように、
それ、「折れ線的道のり距離」。
直線距離ではない。 >>335
おいおい答えになってねーぞ
短里は魏で使われた里なのか
それとも魏では使われていなかったいわゆる東夷の里なのか
どっちの設定で行くのかと効いとるんよ 「東治」という地名があるというのなら、他の文献データを出せばいいのです
無いのなら、刊行本作成時のミスってことです
《太平御覽》藥部七 冶葛
「《吳氏本草》曰:」「或生會稽東冶。」
※《吳普本草》又稱《吳氏本草》,古代漢族藥學著作。共6卷。魏吳普約撰於公元3世紀初期。 >>197
大和説者は、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの馬鹿だから、
相手にしたら✖。
都合の悪い史料事実を否定曲解し、大和にこだわってるだけのクダラン・・・・が、
萬世一系国粋皇国史観などの史料事実を否定曲解するテロや戦争狂の・・・・大和説者。 >>198
ここ、守らないと大和説死亡だもんな。
せいぜい醜くあがいて、国民に見放されれや。 >>199
>不思議なのは ザラコクは古代に畿内は存在しないといいながら
大和は容認するのだよね バカだよね<
新唐書での史料事実だから。 >>200
ごめんなさい。
この掲示板は、原則「自由投稿」の主旨から、嘘つき騙しではない限り、
他説論者への正当な非難は、容認されるんだろうねえ。
「南→東」などのスレ主や大和説者らは異常だ、と率直に思う。
これまで、3回全テンプレ全批判をしたが、殆ど何も反論して来ない来ない。 >>201
いや、スレ主や大和説者らは、戯画化した嘘つき騙しの・・・・大和説そのものだ。
大和説の醜いとこの集大成ね。 >>336
問題なのは短里は使われていなかった事
見つかってる魏のモノサシや使われていた単位を記した律歴志から換算すると
魏の里は短里じゃなくて1里430mの普通の里 >>203
九州説に、テンプレも大和説も、すっぱり論破されてるんだから。 >>365
批判じゃなくて
南≠東ってわめいただけでしょ >>204
>ザラコクはテンプレを 「南→東などの嘘つき騙し」だけで片付けるから
彼こそ宗教だよ 個々に反論できない愚かなザラコクこそ宗教だよな
ザラコク悔しかったら方位以外のテンプレ論破しろよ
どうせ「南→東などの嘘つき騙し」で逃げるのだろう <
このスレに参加したPart170位から、もう3回、
「テンプレに逐一反論」してあるんだが、
殆ど反応はなかった。 >>205
>>九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、
九州島は、会稽東治の「東〜東北東」であり、ほぼ東<
>改ざん不可 倭人伝に書かれてるのは、会稽東冶の「東」<
改竄不可。
倭人伝に書かれているのは「計其道里、當在會稽東治之東」であり、
「大体の推定」。 >>215
>ロクにものを知らない人間が主張するのが九州説だから<
ロクに人類の常識も知らず、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
殺人テロ戦争狂の・・・・詐欺師が主張しているのが、大和説だから。 >>216
ものすごく、と言うか、異常なまでにアタマの悪い、
「南→東」などの嘘つき騙しの殺人テロ戦争狂の・・・・人間が、
大和説者だと思うが、違うんかい?。 >>230
>ここは「南→東」の、ひとこと連呼で畿内説明を論破した気になってる妄想爺さんもいるしね
証拠のない自己申告ロンパシターは相手にされないよ<
ここの「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・なんて、
相手にしようなんて無意味で無駄な事など、思っちゃいないよ。
国民の7割のまともな人々が、
国民の3割の「萬世一系の殺人テロ戦争狂」の大和説者にこれ以上騙されないように、
注意を喚起できるように、応援して上げているんだよ。 >>239
>短里だと南にならないから問題だな<
短里なら、投馬国を含めて女王國は九州全域になるから、問題ないが、
長里だと「自郡至女王國萬二千餘里」が赤道付近にまで行ってしまう、
という事が、一番問題だな。 >>256
>A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。<
ならない。
折れ線的道のり記載説明では、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になっている。
不彌國からの側副傍線國の投馬国は、水行二十日であるから、ほぼ南九州である事になる。、史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
>「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、
倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。<
史料事実の改竄をするな。魏志は「計其道里、當在會稽東治之東」であって、
「東冶」ではない。
>故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。<
後代史書の後漢書の「東冶」は、
范曄が「自己解釈に拠る書き換え」の多いアホであるから、根拠にならない。 >>256
>以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること<
以上の事から、里数及び「南」に何らの問題はなく、スレ主らの「長里」では赤道付近に行ってしまう事や、
周髀算経や礼記や指南魚などに方位磁石で、「南」の方向を間違える筈がない、という事も自明である。
>並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。<
周髀算経の一寸千里の谷本計算で、魏の役人や陳寿が、1里≒76.5m位の度量衡を使った、という事に疑念の余地がない。
>実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。<
京都と釜山と洛陽付近が北緯35度線状であり、倭地はそれより3渡海の3千里以上南であり、何ら問題がない。
>三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。<
可視可能な区間は簡易三角測量が出来、可視困難な對海國〜一大國は、一寸千里で計測出来、何ら問題はない。
>加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。<
会稽郡東治の海岸は、揚子江河口部になり、ほぼ九州島南端と同緯度である。
>また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。<
両郡は、北緯38度線付近以北であり、整合する。
>筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。<
九州は、会稽東治の「東〜東北東」の範囲内であり、「當在」という推定位置と整合する。 桃の種の放射性炭素測定より、
勝山古墳出土の祭祀用と言われる木材を、
名古屋大学の中塚武教授の発明したセルロース酸素同位体比で測定すればいいだけだと思います。
祭祀用にケチって古材を使うとは考えにくいので、
おそらく樹木伐採の年代が被葬者埋葬の年代になると思われます。
光谷さんの3世紀前半という年輪年代の結果が正しいかどうか追試ができます。
中塚教授は2000年前までのサンプルを既に持っておられるようので照合は可能でしょう。
そして纏向石塚出土の板材も照合すればいい。 >>378
「當」はequal, justだから「東〜東北東」じゃダメだよ
会稽東治は九州最南端よりも南 >>256
>また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。<
「當在〜」は、始めから近似的推定を意味する文言。
>実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより<
始めから、有効数字1桁程度の概数計測。
>倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、<
伊都国はは怡土の地であり、海岸で「皆臨津搜露」するんだから、
どちらかと言えば、前原〜糸島水道方面。
それから、東南百里(短里で7.65km位)に奴國の入り口がある事になる。
>奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。<
博多・比恵那珂エリアは、弥生銀座であり、邪馬壹國女王之所都の首都圏。
>このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、
所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる<
このように、スレ主のテンプレは、史料実態に違背する断定ばかりであり、
おそらく・・・・であり、採用出来ない。 北緯38度から会稽までは888kmもあるね
短里じゃ届かないな >>381
>それから、東南百里(短里で7.65km位)に奴國の入り口がある事になる
それだと室見川も越えられないぞ >>381
古田説は摩訶不思議
至る先が隣の国の入り口で
いったい出発点はどこなんだ
? 會稽東冶之東の項に書かれている鯨面の風習の遺物が
九州は本州と比べて非常に少ないからな >>378
投馬国を女王国より南にするのは御都合主義だろ 筑紫一元説では投馬國を狗奴國よりも南にしてるからな >>377
投馬国までの道里がわかっているなら
投馬国は女王国以北なので
ザラコクは間違い
投馬国までの道里がわかっていないなら
その道里を計って会稽東治までに出来ないので
ザラコクは間違い
おわり >>371
「當在會稽東治之東」と書いてあるんだから
「大体の推定」なんかじゃない
「ちょうど東」ピッタリだと言っている >>261
>大平洋ルートが理にかなってる思う・・・<
人類の常識に外れた分裂幻覚妄想の類であり、理にかなっていない。
分裂幻覚妄想が許されるなら、
空中を飛んで行ったとか、地球を一周してから行ったとかの妄想が、自由自在。
>不弥国(北九州)から南へ投馬国(宮崎) さらに南に向かい黒潮で南紀<
人類の「安全最短の原則」に違反している。
>大平洋ルートが理にかなってる思う・・・
不弥国(北九州)から南へ投馬国(宮崎)
さらに南に向かい黒潮で南紀 陸行で邪馬台国 畿内
>陸行で邪馬台国 畿内<
邪馬台国も畿内もないし、分裂幻覚妄想の結論先にありきだし、
紀伊山地越えなんてする筈がないし、
「南→東」などの嘘つき騙しだし・・・。 ザラコクがまた発狂してるのか
論破されすぎたのだな >>262
>「高天原にある日本最古の神社の境内」 何も難しい事はなかった。
卑弥呼の墓、単純明快な場所にあった。
魏志倭人伝の記述通り、径百余歩の塚の周りに奴婢が埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛だ。<
これも分裂幻覚妄想の類。
「南≠東」に拠って、始めから×。 >>263
>通算したら倭が洛陽より北だろ?<
これも、分裂幻覚妄想。
洛陽と釜山と京都がほぼ北緯35度ラインであり、
女王國は、釜山よりもずっと南。 >>264
>何か問題でも?<
「南≠東」に拠って、始めから×。 >>266
「南→東」に嘘つき騙しの分裂幻覚のの妄想をする。
証拠は出せない。
理由は答えられない。
こんな大和説が消えていくのは 当然だな。 >>407
九州説のひとは、そんなウソばかりついてて楽しいの >>267
>テンプレに書いてあるな
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、<
吉備は、元は、出雲系であり、
そこへ海峡や筑紫の倭の東征があって、出雲勢力と倭人勢力の混在地域ぶなっていて、
筑紫への搬入上納と、出雲経由の半島や楽浪文化の両方の混在地になっている。た。
》東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、
吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し
博多湾に到達していた状況が窺知される。<
倭国の「東征毛人五十五國」の中の一地域国群。」 >>281
頭も顔もオカしい上に、性根の腐ってる人だ〜れだ?。
答え。大和説者。 >>282
>ザラコク氏は方位他で否定するだろうが・・・
畿内説間の意見の相違には口を出さないで欲しいな <
嫌だ。
人類の常識を否定し、
都合の悪い史料を否定曲解するような分裂幻覚の妄想の大和説に、
国民が騙されて行くのを見る事は、
黙過し難い。 >>409
なんの根拠もないヨタ話をいくらしても
反論にならんよ つまり、纒向は邪馬台国とは、完全に無関係だったのだね。。。 >>414
方向音痴なのは、松浦から糸島が東南だと言い張る九州説の面々だな
w >>289
>また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、
後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など
3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、
改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。<
後代に記録された「伝承」は、やはり、
過去の同時代記録文献や、過去の同時代的考古に比べれば、
やはり、途中での改変の存在が否定出来ず、
証拠価値が劣り、
歴史の絶対的な根拠にはなり難い。 >>290
で、「南→東」などの嘘つき騙しの根拠は?。
さっさと言えテメエ!。 『天王』
日本で一番古い家なんだけど、
言ってる意味が分からない?
中国では天子という説明があったり、
どういうことだと思う >>298
・とんでもな自己中
・戦前の「萬世一系皇国史観」の殺人テロ戦争」が第1主義の結論先にありきの思想
・思い込みが激しい
・最低限必要な知識すら皆無
安部自民や右翼マスコミや学会教育界や大和説者らの共通項 >>425
だれか絶対的根拠にしたのか?
そんなのするのは、ツガルなんとかを祭り上げる古田説くらいだろ >>306
>非差別部落に住み着いた在日だから日本語能力が低い <
・とんでもな自己中
・戦前の「萬世一系皇国史観」の殺人テロ戦争」が第1主義の結論先にありきの思想
・思い込みが激しい
・最低限必要な知識すら皆無
・安部自民や右翼マスコミや学会教育界や大和説者らの共通項
・いずれ、殺人テロを起こす凶悪なタカ派の犯罪者人種 老婆の時代の話だからなのかな
『天王』?
馬に乗り、腰に刀を差していた・・・、
そういう家だと言っていたんだけど >>315
>>(ハイエナも天誅も川村も結局)私との議論に勝てず、<
>朝鮮人は言張るだけだから相手にするのをやめたんだろう<
このwwも、結局は、
・とんでもな自己中
・戦前の「萬世一系皇国史観」の殺人テロ戦争」が第1主義の結論先にありきの思想
・思い込みが激しい
・最低限必要な知識すら皆無
・安部自民や右翼マスコミや学会教育界や大和説者らの共通項
・いずれ、殺人テロを起こす凶悪なタカ派の犯罪者人種 >>324
>ザラ小皿2018/06/29(金) 23:46:37.37
名無しを相手にしかできないだろ スレ主と真っ向勝負しろよ キチガイ <
Yahooでは、当然zarakokuを名乗っていたが、
Yahooにzarakokuネームでの投稿を拒否され、
止むを得ず、2chに引っ越して来て、始めはzarakoku名で投稿していたが、
ssn >>434
いや、政治狂いの偏向思想老人だろ
そんなことするのは
w >>435が途中で投稿ボタンを押した事になってしまったので、やり直し。
>ザラ小皿2018/06/29(金) 23:46:37.37
名無しを相手にしかできないだろ スレ主と真っ向勝負しろよ キチガイ <
Yahooでは、当然zarakokuを名乗っていたが、
Yahooにzarakokuネームでの投稿を拒否され、
止むを得ず、2chに引っ越して来て、始めはzarakoku名で投稿していたが、
ssn(Yahooの頃はkssn)が、zarakoku名でのなりすましの投稿を始めたので、
それからは、zarakoku名投稿を止めて、「日本@名無史さん」で投稿をしている。 >>435
ザラコクは口汚なく危険思想を喚いてて出禁になったんだな >>434
それがそのままお前
だからYahooを締め出された >>344
>『古代史から読み解く「日本」のかたち 』(祥伝社新書)
倉本一宏 (著), 里中満智子 (著) という本を立ち読みした
倉本氏は九州説を唱えており、行程で日数表記の部分は不弥国からの連続読みは間違いで、帯方郡を起点にすると書いていた
文献学者でもこんな読み方をするのかと唖然とした
しかも学者でありながらマンガ家と共著とはどうかしてる<
「韓の方四百里」の出典は?。
>倉本は九州王朝もあったって言ってるんやで<
投馬国の「水行二十日」までも「郡からの日数」としているようでは、
陳寿の行程説明の記載方法が理解出来ていないな。 >>355
>あなた馬鹿ですか 百年も前に呉郡に分割編入された地だったら
魏のころには会稽郡ではなく もちろん「会稽東治」なわけもない
勝手に地名を捏造しちゃいけない 、
あんた(ww)は馬鹿でしょ?。
あんたは、始めは、
会稽郡東治地域の会稽郡から呉郡への変更編入は260年頃?だった、
と説明して、その後で、それでは都合が悪いから?、
会稽郡から呉郡への変更編入?は、西暦100年代であった、と言い換えた。
しかし、あんた(ww)の嘘つき騙しの策略性詐術性はバレバレであったし、
その説明の仕方では、会稽郡東治地域の会稽郡から呉郡への変更編入が2回あった、
という情報になるだけであり、
どちらもあったんだろう、という事になるだけであり、
だから、私は、年次を記載せずに、
「会稽東治」地域が以前から会稽郡の治下にあったあった事がある、
という表現に止めておいた。 >>360
>おいおい答えになってねーぞ 短里は魏で使われた里なのか
それとも魏では使われていなかったいわゆる東夷の里なのか
どっちの設定で行くのかと効いとるんよ <
東夷伝でも魏志でも、ほぼ全面的に使われており、
周代や漢代や西晋代でも使われており、
唐代まででも全面的ではないが、使われている、
と言ってんだよ。 >>442
どうせまたザラコクの
カンチガイ記憶違いの
トンチンカンだろ >>361
>「東治」という地名があるというのなら、他の文献データを出せばいいのです<
魏志倭人伝の「東治」は地名ではなく、普通名詞。
>無いのなら、刊行本作成時のミスってことです<
宋明清代での考証校勘では、
魏志の「会稽東治」は考証校勘対象にはなっておらず、
写本でも版本でも全て「東治」であって、「東冶」となっている写本版本はなかった、
という事であるから、「刊行本作成時のミス」ではなかった、という事だよ。
ちなみに倭人伝で考証校勘対象になったのは、
「郡支國と都支國」と、「黄幢と黄憧」との二つだけ。
>《太平御覽》藥部七 冶葛
「《吳氏本草》曰:」「或生會稽東冶。」
※《吳普本草》又稱《吳氏本草》,古代漢族藥學著作。共6卷。魏吳普約撰於公元3世紀初期。<
太平御覧も、後代での自己解釈に拠る書き換えが多い半分×書であり、
根拠にはならないんだよ。
ちなみに、
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
の、魏志と太平御覧を比べてみな。
太平御覧が、どれだけ魏志を「自己解釈に拠って書き換えをした半分×書」であったのか?が判るよ。
太平御覧の記載は、史料事実の根拠にはならないんだよ。 >>367
>問題なのは短里は使われていなかった事 見つかってる魏のモノサシや<
「モノサシ」とは尺定規の事であり、
尺定規は、周代から大きな変更はなかったのであり、
議論対象にはならないもの。
>使われていた単位を記した律歴志から換算すると<
後代史書の律歴志は、後代史書であるから、後代の解釈で書かれており、
魏代の度量衡の根拠にはならない。
>魏の里は短里じゃなくて1里430mの普通の里<
魏の里の距離は、魏志などでの「里使用例」からの帰納から算出されるべきもの。 後漢書東夷列伝倭:
「其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、?耳相近,故其法俗多同。.」
「會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至?洲者。」
三國志呉書十五呂岱
「會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等為亂,權以岱為督軍校尉...」
「四年,廬陵賊李桓、路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅雌刪齊桾タ起。」
晋書東夷倭人
「計其道里,當會稽東冶之東。」 >>376
>タンリタンリは脳タリン<」
チョウリチョウリで赤道付近にまでいってしまう大和説者は、脳タリン。 >>447
>魏志倭人伝の「東治」は地名ではなく、普通名詞。
まったく根拠がない
そんな言葉を使った人がいた形跡がない >>448
その帰納が嫌で全くやらないのが
古田説なのだな >>447
>写本でも版本でも全て「東治」であって、「東冶」となっている写本版本はなかった、
それ、真っ赤なウソだって証拠がテンプレに載ってた >>379
>桃の種の放射性炭素測定より、 勝山古墳出土の祭祀用と言われる木材を、
名古屋大学の中塚武教授の発明したセルロース酸素同位体比で測定すればいいだけだと思います。
祭祀用にケチって古材を使うとは考えにくいので、 おそらく樹木伐採の年代が被葬者埋葬の年代になると思われます。
光谷さんの3世紀前半という年輪年代の結果が正しいかどうか追試ができます。
中塚教授は2000年前までのサンプルを既に持っておられるようので照合は可能でしょう。
そして纏向石塚出土の板材も照合すればいい。<
何度も言ったように、
「セルロース酸素同位体比で測定」するのは自由だが、
中塚の持っている「2000年前までのサンプル基準木」と、光谷の検査木とが、
(欧米の大平原の森林のように)同じ環境であったのか?や、
(日本列島のような海水と陸水比や気候差や環境差が千差万別地域で)
根からの吸収酸素と葉からの吸収酸素も全く同じような同位体比であったのか?が、
保証出来ないから、
絶対的な証拠にはならない、
と言ってんだよ。 なんもない遺跡を必死で卑弥呼の時代に持ってくる努力賞 >>380
>「當」はequal, justだから「東〜東北東」じゃダメだよ<
相変わらずの「変な男」。
断定文言は「有」や「也」や「在」など。
「當」は、当然話者の「判断を意図する推定」文言。
>会稽東治は九州最南端よりも南<
会稽東治自体がある範囲の指定であり、一点指定ではないし、
「之東」も、大体であり、「絶対東」指定ではなく、
勿論、赤道付近のような外れは、当然拒絶している。 >>457
>「當」は、当然話者の「判断を意図する推定」文言。
だから、ジャストだって判断でしょ?
なにをトンチンカンなこと言ってるの
これだから無学は困る >>383
>北緯38度から会稽までは888kmもあるね 短里じゃ届かないな <
また、変な男。
郡からの萬二千余里が、短里(1里≒76.5m)での直線距離であれば、
萬二千里が918kmであり、
888kmなら届いているではないか。 >>457
>会稽東治自体がある範囲の指定であり、
だから会稽郡南部の7県ほどもある地域の範囲だよ
中心地は福州だ
時代によっては東治校尉が行政府の長だった >>384
>>それから、東南百里(短里で7.65km位)に奴國の入り口がある事になる<
>それだと室見川も越えられないぞ<
三雲や平原付近が入り口で、奴國は二万戸だから、
奴國の範囲は、三雲や平原から日向峠を越えて、
日向川沿いに下って、
室見川の吉竹高木のある早良平野付近までの範囲。 >>385
>古田説は摩訶不思議 至る先が隣の国の入り口で いったい出発点はどこなんだ ? <
前原付近の(千戸の)伊都国の外縁部。 >>386
>會稽東冶之東の項に書かれている<
ウソを付いて誤魔化すなよ。
「會稽東冶之東」ではなく「會稽東治之東」だ。
>鯨面の風習の遺物が 九州は本州と比べて非常に少ないからな <
梁書に出雲付近が「文身國」と書かれているから、
鯨面文身の習俗の中心は、出雲であったんであり、
九州倭國内にも、風習が伝播していたか?、移住者が残っていた、という事だな。 >>387
>投馬国を女王国より南にするのは御都合主義だろ<
陳寿の行程説明の史料事実であり、史料実態だ。 >>389
>むちゃくちゃだな<
大和説者人種の、史料実態はへの口先否定曲解の実態は、
まるで・・・・であり、無茶苦茶だからな。 >>390
>南九州って宮崎以外は弥生文化の外じゃなかった?<
鹿児島の上野原遺跡が、おそらく、元の東テイ人の20国の中心地。 素人目だが
もし畿内に山大国があったして
王都は京都にしたと思うが・・・・
現京都の仏閣等の下層部からいろんな古代の物が出土すると思うが
現実的には 発掘は総スカンくうだろうが
なぜ奈良にしたのか????
纒向説の方に説明願いたい テンプレでは纏向を交通の要所であると述べてるが
京都の方が交通の要所としてはふさわしいと思う
スレ主はじめ畿内説の方に聞きたい >>392
>投馬国までの道里がわかっているなら 投馬国は女王国以北なので ザラコクは間違い<
投馬國は、不彌國からの「南水行二十日の位置」だから、
不彌國の直ぐ南にある邪馬壹國女王之所都よりもはるかに南になる。
>投馬国までの道里がわかっていないなら その道里を計って会稽東治までに出来ないので
ザラコクは間違い<
不彌國から南へ水行二十日の位置だ、と判っているから、九州南端部になり、
会稽東治之東の地に、ほぼなっている。
おわり >>393
>「當在會稽東治之東」と書いてあるんだから 「大体の推定」なんかじゃない
「ちょうど東」ピッタリだと言っている <
「ピッタリ」だと言うんなら「也」や「在」や「有」を使う。
「當在・・・」だから、「在」ではなく、「在るべし」という推定を書いている。 自分の思い込みが普遍的なものだと思うためには異常な程の傲慢さが必要
ザラコクも伊都クズもキウスもそれを持ち合わせている >>403
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、また発狂してるのか。
論破されすぎたのだな。 京都=王都説は無いのだろうか???
畿内説では纏向が王都が有力だが
山城は重要な拠店だが畿内説(王都は纏向)から古代 山城はいかなる位置づけ???
狗奴国は北陸?????? >>408
大和説のひとって、そんなウソばかりついてて楽しいのって?。 >>410
それは、「南→東」などの嘘つき騙しの、
現代人大和説者の分裂幻覚の・・・・の妄想。 >>415
>なんの根拠もないヨタ話をいくらしても 反論にならんよ<
全て、知り得た史料事実や史料実態からの帰納的推論だ。 奈良と京都のどっちが交通の便がいいか?
新幹線がどちらを通っているか見ればわかるだろう。 邪馬台国は奈良でいいと
京都府民のほとんどが思っている
倭人伝による風習は京都として受け入れがたい >>416
大和説者は、「南→東」などのような嘘つき騙しの怒号と、
ヘイトスピーチ的な罵倒ばかりで、
内容なし。 >>419
方向音痴なのは、出発時点では松浦から伊都国が全く見えないのに、
東南方向だ、と言い張る、大和説の面々だなw 。 いま京都に固執してるのはキウスだろ
さすがキ印の発想は普通と違うわ >>430
だれか絶対的根拠にしたのか?。
そんなのするのは、
・とんでもな自己中
・戦前の「萬世一系皇国史観」の殺人テロ戦争」が第1主義の結論先にありきの思想
・思い込みが激しい
・最低限必要な知識すら皆無
・安部自民や右翼マスコミや学会教育界や大和説者らの共通項
の大和説者くらいだろう。 >>463
倭人伝は「男子無大小 皆黥面文身」「諸國文身各異」 >>436
いや、
「戦前の萬世一系皇国史観の殺人テロ戦争が第1主義の、結論先にありきの思想」の、
政治狂いの偏向思想の大和説の・・・・ガキだろ?、
そんなことするのは。w 東海道は奈良を無視してる
近畿以西・以北と交通網は滋賀、京都だろう >>439
天誅もハイエナも川村?も、
Yahooから出禁になった、みたいだったよ。 大和説(纏向)は交通の拠点から主張するが
喜納にの拠点なら京都が全方位だ
平安京を堀つくすスベは無い・・・・京都は 現代 都市機能を果たしてるから掘れない 弥生時代の交通網の主軸は日本海。
京都は瀬戸内海へ通じる経路だから、何もないならよりはマシ。
しかし日本海の交通の最大の要所は福岡と対馬海峡。 畿内説で
邪馬台国の中心(都)は京都と言う学者はいない?よーーー 伊勢は東海道
近江は東山道
キウスは例によって七道を知らないんだろwww >>449
>後漢書東夷列伝倭:
「其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、?耳相近,故其法俗多同。.」
「會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至?洲者。」
三國志呉書十五呂岱
「會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等為亂,權以岱為督軍校尉...」
「四年,廬陵賊李桓、路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅雌刪齊桾タ起。」
晋書東夷倭人
「計其道里,當會稽東冶之東。」 <
後漢書やや晋書は、はるか後代の「自己解釈に拠る文字選択」をするから、
魏志の文字の正否の根拠にはならず、
三国志の呉志の記載は、分郡前の記載であるから、「会稽東冶」と書かれているので、
陳寿の「会稽東治」とは対象が別であり、
これも根拠にならない。 京都の古刹は邪馬台国論争以前に築造されているから
発掘調査はできないネ >>490
そりゃ大和は畿内であって東海道ではないからな キウスって古代の東海道が関ヶ原を通っていたとか思い込んでそうだなw 4棟に粘着したのと同じか…
無能な働き者こそが社会の害悪だな もっと東にないもないのに、東海道もへったくれもあるか。
畿内説はデタラメばかり。 伊都クズの茶々入れはピントがずれてるなぁ
後世の枠組みを持ち出したのはキウスだから 同じ土器様式を使用する地理的名称として使ってるだけだかな
伊都クズには理解できないかも知れんが >>510
九州も日本列島も朝鮮半島も使えなくなるぞ 日本の最古の文献は8世紀
陳寿は3世紀の実在人物
スレ主の主張どおり
邪馬台国は記紀では解けない >>513
キウスよ、そういうことは九州説スレや伊都説スレ、葛城説スレに書き込んでやりな >>501
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えテメエ! >>512
九州は自然地形なんだけど。
朝鮮半島は根元の境界線が中国との間で揺れ動くね。
畿内は無理筋。
特に纒向は東海とだけ強く結びつき、瀬戸内海にアクセスできていない。 纒向は伊賀へ抜ける交通の要所はわかるが・・
多分 市場があったのだろう
畿内に関わらず より大きな市場があったと思うが
コンクリーートジャングル
纒向は田舎だから運よく・・・・・ >>451
>>魏志倭人伝の「東治」は地名ではなく、普通名詞。<
>まったく根拠がない そんな言葉を使った人がいた形跡がない<
三国志の刊本の中の台湾系?の本の「王朗」の話で、
「東治」が普通名詞として使われた例がある。 >>452
その魏志の「里」記載からの帰納が嫌で全くやらないのが、大和説学者らなのであり、
それを一杯やったのが古田さんであったのだな 。 大和川より淀川
京都じゃねーーか 卑弥呼が居たのは
何れも南≠東だから✖だが
畿内説でなぜ王都を京都にしないのか??
邪馬台国=ヤマト王権としたいがゆえかなwww >>453
>>(計其道里、當在會稽東治之東)写本でも版本でも全て「東治」であって、
「東冶」となっている写本版本はなかった、<
>それ、真っ赤なウソだって証拠がテンプレに載ってた<
「王朗」の話では、
「計其道里、當在會稽東治之東」の例とは違うよ。 >>521
今の京都市中心部には邪馬台国の中心地に比定できるような遺跡も古墳もない >>458
>>「當」は、当然話者の「判断を意図する推定」文言。<
>だから、ジャストだって判断でしょ? なにをトンチンカンなこと言ってるの
これだから無学は困る <
「也」や「有」や「在」などのような、断定ではなく、
「當」は、推定的判断。 >>460
>>会稽東治自体がある範囲の指定であり、<
>だから会稽郡南部の7県ほどもある地域の範囲だよ 中心地は福州だ
時代によっては東治校尉が行政府の長だった <
この会稽は、「夏后少康之子封於會稽」の会稽の事であり、
福州の事ではないよ。 >>467
>素人目だが もし畿内に山大国があったして 王都は京都にしたと思うが・・・・
現京都の仏閣等の下層部からいろんな古代の物が出土すると思うが
現実的には 発掘は総スカンくうだろうが なぜ奈良にしたのか????
纒向説の方に説明願いたい <
大和説ではないが、
「南≠東」に拠って、京都も×。 >>473
自分の思い込みが普遍的なものだと思うためには、
異常な程の傲慢さが必要。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らも、それを持ち合わせている。 >>524
だろー。
京都でさえそうなんだから、畿内はあり得ない。 >>476
>京都=王都説は無いのだろうか???<
「南≠東」に拠って×。
>畿内説では纏向が王都が有力だが<
畿内なんて、存在していなかったから×だし
、纏向も「南≠東」などに拠って×。
>山城は重要な拠店だが畿内説(王都は纏向)から古代 山城はいかなる位置づけ???
狗奴国は北陸??????<
狗奴國も、南≠東に拠って×。 >>479
>邪馬台国は京都を中心とした国だよ<
「南≠東」などに拠って×。
> 奈良は墓地<
大和も河内も山城も播磨も、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国群。 >>482
>邪馬台国は奈良でいいと
京都府民のほとんどが思っている
倭人伝による風習は京都として受け入れがたい <
どっちにしても、「南≠東」などに拠って×ね。 >>530
しかりだが
京都は発掘調査できないから。。。しかりとしか言いようが無い
京都のの中心部は寺社や住居だらけでは手も出ない 九州説には朝鮮人の筑紫連呼しかいなくなったから
九州説スレもなくなってしまったな 畿内説は なぜ奈良?
畿内に邪馬台国があったとして
何故 王都を纒向にする必要がのあったのだろうか???
記紀神話は8世紀だし・・・ ここ畿内説の一個人>>1のスレ
畿内説論者で書き込むのは>>1のみ
なんか>>1の銭儲けに付き合ってるような気がしてきた このスレは
レス数では稼ぎ頭と思うが・‥書き込み者が限定されてる
対費用効果では
SNS業界ではスレ主の惨敗だろうな >>450
全然上手くねーな
短里短里は脳も足りんしセンスも足りん キナイコシ独白
「結局、俺様がこう思うのだからそれに合わないものは間違いだ、としか言ってない
これに気がつかないってことは、論理的思考能力が欠如してるってことなんだけどね
誰からも認められることがないまま終わるつまらない人生でしたね」 >>539
ヒロユキ知ってる?
2ちゃん、5ちゃんの争いは有名だよ
スレ主 過去 ヒロユキで異常な反応しめしてたよ
BUT 私らは金かからないから楽しめばいいと思う >>542
それ、お前に対するもんだよ、伊都クズさんwww >>372
常識ある人間なら朝から晩まで南→東だから×とかわめかないと思うんだけど 他人に向けられたものを「独白」とタイトル付けるとか立派な捏造ですね
>伊都クズ ザラコクとは
1)・・・畿内説の落ちこぼれ(これテンプレの支離滅裂で理解可能)等を相手にするだけの能力
2)・・・スレ主の仲間
3)・・・キウス 間違った
>>553=キウス
>>533=ザラコクだな >>548
一人じゃない
俺もザラコク?引用してる
何故 南が東に成るのか >>444
だから、魏で使われていた里と東夷の里が同じ短里だというなら
わざわざ存在の確認されてない東夷の里とか言いださなくてもいいだろ
魏の里は普通の里だが東夷の里が短里で
それで書かれた地理書を下敷にしたから魏志倭人伝は
短里で書かれていると主張するか
それか魏の里は短里だったと主張するかどっちかにしな
どっちも短里だと主張するのは
九州説は矛盾のある主張をしているという事になるから 瀬戸内航路で
不弥国から投馬国までの圀の回答無い
どこの圀にも属さない
ヤクザの親分が多数いたでいいの? キナイコシに以前
Q「纒向から明日香まで 何処にヤマト王政は都を移した」と聞いたら
A「藤原,,,平城京」 京をまた戻したとのこと
Q「纒向から明日香まで 何処にヤマト王政は都を移した」と聞いたら
A「藤原,,,平城京」 >>448
前々から尺定規は議論対象にならないとか抜かしてるけど
魏の尺定規から1尺約24cm
律歴志から1里=300歩=1800尺で1里約430mと
現在ではっきり確認できるから重要 >>557
>わざわざ存在の確認されてない東夷の里とか言いださなくてもいいだろ
魏志倭人伝と実際の地理かさを比較してみろよ。
短里だったと結論づけるしかないだろ。 >>557
>魏の里は普通の里だが東夷の里が短里で
>それで書かれた地理書を下敷にしたから魏志倭人伝は
>短里で書かれていると主張するか
そう主張しているよ?
それなら納得できるんだね? 京をまた戻したとのこと
Q「纒向から明日香まで 何処にヤマト王政は都を移した」と聞いたら
A「藤原,,,平城京」 >>565
おう納得するよ
さーて東夷の里とやらが存在した証拠を出してもらおうか
魏志倭人伝の里が東夷の里だからあったは循環論法になるからな >>564
そっちこそ魏里の1里430mで換算してみな
魏志倭人伝に書いてある里は不正確であてにならないと結論つけるしかないだろ
それを無視し都合のいい数値を創作するなど論外 倭人では瀬戸内に存在したのは投馬国だけだが
投馬国か邪馬台国の
出先が山口や広島に愛媛にあった
そこまで魏使は記述してないだけ >>564
だから実際比較してみせろよ
規則性が無いから
短里など無かったと結論づけるしかない >>525
>「也」や「有」や「在」などのような、断定ではなく、
>「當」は、推定的判断。
こいつは馬鹿か?
それとも捏造魔か?
原文は「當在」だぞ
推計した結果として断定したんだろ >>567
>さーて東夷の里とやらが存在した証拠を出してもらおうか
だから、魏志倭人伝と実際の地理を比較しろよ。
他人の計算が信用できないなら自分で計算してみたほうがいいのでは? >>559
え? なにが問題なの? 俺は日本海航路説だが >>576
規則性のある単位を見出せないという計算結果が出てるから
出た出たと口先だけで言って計算して見せない人間の言うことをまったく信用しない >>579
テンプレへの疑念じゃねえーの
>>>>>>>>>>559
瀬戸内航路で
不弥国から投馬国までの圀の回答無い
どこの圀にも属さない
ヤクザの親分が多数いたでいいの?
>>>>>>>>>> >>513
>スレ主の主張どおり
>邪馬台国は記紀では解けない
いや解けるよ。
7世紀の朝廷は卑弥呼が誰なのか分かっていた。
だから、
神武天皇をとんでもなく古い時代に設定したのだし。
解けないと思い込んでるやつに邪馬台国h解けない。 >>503
>そりゃ大和は畿内であって東海道ではないからな<
「畿内」なんてなかったから、×。 >>511
>>(畿内や東海道という文言)同じ土器様式を使用する地理的名称として使ってるだけだかな
伊都クズには理解できないかも知れんが <
ウソを付くな。
「畿内」という文言は、「天皇や天子がいる直属的支配地だ」という意味で使われており、
近畿や大和には天皇も天子もいなかったんだから、
「畿内」という文言を使うのは、嘘つき騙しのインチキ詐欺師だ。 >>512
>九州も日本列島も朝鮮半島も使えなくなるぞ <
「九州」は、天子や天皇の直接的な全支配域、という意味であり、
5世紀頃からや倭國で存在していた可能性が高い文言であり、
日本列島や朝鮮半島は、現在地名呼称だ。 >>517
>石刃はあるだろう。 石包丁とか。<
そりゃ、縄文期や毛人時代の文化であり、
金属器使用の弥生倭人の「東征毛人五十五國」の支配下になってからは、
衰えたものだよ。 >>541
長里長里は、脳も足りんし、センスも足りんし、
ヘイトスピーチ殺人テロの凶悪な顔。 >>542
大和説者の白状
結局、我々大和説者がこう思うのだからそれに合わないものは間違いだ、としか言ってない。
これに気がつかないってことは、論理的思考能力が欠如してるってことなんだけどね。
国民の3割からしか認められることがないまま終わるつまらない人生でしたね。 青銅器鋳造の開始を証明する鋳型と溶炉遺構の出土は
和歌山県堅田遺跡が日本で最も古い >>592
また妄想かい?
九州説って、なんか証拠のあることは言えないの? >>595
スクロールすればお前が自分で見られるものを
わざわざ手間かけて教えてくれる親切を他人に期待するな ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
☝
テンプレ思いっきり記紀引用してるよ >>598
テンプレでは解答出ていないぞ
テメー
テンプレ読んだのか キナイコシの主張
瀬戸内航路で魏使は畿内邪馬台国へ 3世紀 瀬戸内航路は基幹航路
⇓
疑問
不弥国から投馬国まで 瀬戸内に国が無いのは何故だ・・・倭人伝の倭国30国に該当がない
⇓
スレ主
◆FAQ 31 で回答済み
⇓
邪馬台国
畿内、中四国説 じゃん >>576
魏志倭人伝の短里で書かれてるらしき距離を
短里で換算して合ってたからといってそれが何になる?
短里を証明したいなら当時のモノサシの実物や1里は何尺で…と
短里の体系が書いてある当時の書面がどうしても必要 >>603
キナイコシはスレ主のことだよ
オクヤマもスレ主のことだよ >>603
キナイコシはスレ主のことだよ
オクヤマもスレ主のことだよ キナイコシの主張
瀬戸内航路で魏使は畿内邪馬台国へ 3世紀 瀬戸内航路は基幹航路
⇓
疑問
不弥国から投馬国まで 瀬戸内に国が無いのは何故だ・・・倭人伝の倭国30国に該当がない
⇓
スレ主
◆FAQ 31 で回答済み
⇓
邪馬台国
畿内、中四国説 じゃん >>611
知らん たぶんスレ主が過去 変換ミスしたかなんかで
誰かがつけた スレ主のあだ名 >>611
知らん たぶんスレ主が過去 変換ミスしたかなんかで
誰かがつけた スレ主のあだ名 >>606
引用しても悪くない
スレ主も多分に引用してるが 下記を宣言してるからオカシイと指摘されてる
・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 畿内説の説の部分の読み方がわからない人が踊り狂ってるだけ 理由の言えないコミュ障がジタンダ踏んでるわけね
自分の考えを言葉で表現できないでヒステリー起こすのは子供によくある 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 関川って2017年にもなってまだこんなこと言ってるのか
庄内式が出てる九州の年代はどうすんだ?
時空の歪みが生じていて畿内と九州で100年近いズレがあるとでも言うのだろうか >>622
墳丘上や周濠から布留0の時期のものがたくさん見つかっていて
対して須恵器は墳丘上から1点
どちらを築造時のものとするかは既知害以外には明々白々だから >>623
纏向の調査報告書改訂版が出て
元あった関川執筆部分がボツ食らった
という、ある意味伝説の人だからな >>619
>畿内説の説の部分の読み方がわからない人が踊り狂ってるだけ
畿内説では説という字をコシと読むの?
まあ、南を東と読むくらいだからな。
狂っている。 >>623
>庄内式が出てる九州の年代はどうすんだ?
邪馬台国と関係あるの?
あるという根拠は? >>634
「キナイコシ」連呼爺がそう読んでるみたいだね
おかしい人なんだろうな >>635
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
って話の根拠がテンプレに書いてある >>637
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
年代詐欺
>・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
邪馬台国と関係ない
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
根拠なし
平原遺跡という屈指の王墓があるから、明らかに独立国「倭国」
(倭国はその前の後漢の頃から対馬海峡の国とされている) >>637
>って話の根拠がテンプレに書いてある
なんでテンプレはそのように短くまとめないのか?
スレ主にまとめる能力がない?
否
長いわけのわからない少しおかしな日本語を読むうちに洗脳されるようにである。
テンプレは詐欺師の論法を利用した、悪意のある文章である。 キナイコシのコシとはコシヒカリのコシと同じで越のこと キナイコシは畿内-古址
昔,邪馬臺國の都のあった所。 短ければ「この根拠は何だ?」とか言い出すんだから、その相手が面倒なんだろ 越は出雲よりも謎が多い国だな。
出雲よりも前の旧勢力かな。
その昔は福岡の香椎も同じ語源であったという。
出雲が福岡を追い出されて東へ移動したように、越は出雲により東へ追い出されたのかもしれない。
出雲は記紀に筑紫の前の政権として登場するが、越は存在感が薄い。 >>647
追い出されたのは西北九州の甕棺造墓集団
全羅南道では5世紀まで存続する >>646
今も質問攻めにされてるのに無視してるだけじゃん >>548
>常識ある人間なら朝から晩まで南→東だから×とかわめかないと思うんだけど <
常識ある人間なら、
周髀算経や礼記で、
「午前と午後での8尺棒の影端を結んで東西を決め、
それに直交する方向で南北を決める」事や、
指南魚という方位磁石を知っている魏使らが、
南と東とを間違えない、事も知っているから、
朝から晩まで「南→東だ」とかは、わめかないと思うんだけど。 コピペの寄せ集めは剽窃と言って、論文としては認められない。
そもそもテンプレは日本語の使い方が怪しい。 テンプレに各学者名、論文年が書いてあるから
詳細はそれを読むのがいい、というか通常は読んでいる
テンプレで長いとか日本人の研究は信頼できないとなると
パズルでボケ防止するか、連呼で民族満足するしかない >>557
>だから、魏で使われていた里と東夷の里が同じ短里だというなら
わざわざ存在の確認されてない東夷の里とか言いださなくてもいいだろ
・・・どっちかにしな<
嫌だ。
魏朝では殆どが短里を使い、東夷伝ではほぼ全部短里で記録されている、
というだけの事だ・ >>563
》前々から尺定規は議論対象にならないとか抜かしてるけど
魏の尺定規から1尺約24cm<
周代の周髀算経の一寸千里の谷本確認計算で、「1歩≒25.5cm」と、
魏尺の「約24cm」は大体同じ。
>律歴志から1里=300歩=1800尺で1里約430mと
現在ではっきり確認できるから重要<
それ、(周髀算経の一寸千里ではなく)、始皇帝の1歩=6尺を使って得られたもの。 >>567
>おう納得するよ
さーて東夷の里とやらが存在した証拠を出してもらおうか
魏志倭人伝の里が東夷の里だからあったは循環論法になるからな <
端的には、韓伝の「方四千里」と、
高句麗伝の、「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai貊、東與沃沮、北與夫餘接。
都於丸都之下、方可二千里」。
「方可二千里」は、長里であれば、「鴨緑江河口沖〜豆満江河口沖」にまで達してしまう、という矛盾が発生し、
短里であれば、遼東之東千里と高句麗の方二千里がほぼきちんと納まる。
また「夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與yup婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里」も、
ほぼきちんと納まる。 >>639
>なんでテンプレはそのように短くまとめないのか?
>スレ主にまとめる能力がない?
「そのように」ってことは>>637が短くまとまってるのは認めるんだね?
でも>>637はテンプレからのコピペだぞ
オウンゴールだったね >>660
その周髀算経が
1里=300歩=1800尺
で書かれているんだがね >>568
>そっちこそ魏里の1里430mで換算してみな
魏志倭人伝に書いてある里は不正確であてにならないと結論つけるしかないだろ
それを無視し都合のいい数値を創作するなど論外<
そっちこそ、論外。
「一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測」などを知っている魏の役人たちが、
全ての里計測で、実距離の6倍もの距離になるような「間違いを起こす」筈がない。 >>655
つまり朝から晩まで南→東だから畿内説は×とわめき続けるザラコクは
根本的な常識が欠落しているという事ですか >>665
「一寸千里や簡易三角測量や記里車や」?
そんなもん知ってるって証拠は? >>569
>倭人では瀬戸内に存在したのは投馬国だけだが<
倭国は、瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東の4地域で「自昔・・・東征五十五國」をしており、
だから、平均しても、瀬戸内で4文の1の14国位は征服していた事になる。
>投馬国か邪馬台国の 出先が山口や広島に愛媛にあった <
投馬國も邪馬台国も、「南≠東」に拠って×。
>そこまで魏使は記述してないだけ<
不彌國まででも8か国を記載している、という事と矛盾している。 >>574
>だから実際比較してみせろよ
規則性が無いから
短里など無かったと結論づけるしかない<
だから実際比較してみろよ。
1里が50m〜90m位の中の有効数字1桁概数、
という規則性があるし、
実際の距離の6倍位も違う長里など無かった、
と結論づけるしかない。 >>669
だから口先爺さん、その証拠を出しなよ
証拠なくして結論なしだ
ww >>575
>>「也」や「有」や「在」などのような、断定ではなく、
「當」は、推定的判断。<
>こいつは馬鹿か? それとも捏造魔か? 原文は「當在」だぞ
推計した結果として断定したんだろ <
反対だ。
「在」という事を推定したんだよ。 >>577
>え? なにが問題なの? 俺は日本海航路説だが<
日本海航路説も、「南≠東」に拠って、×。 >>541
長里長里は、脳も足りんし、センスも足りんし、
ヘイトスピーチ殺人テロの凶悪な顔。 >>578
>規則性のある単位を見出せないという計算結果が出てるから<
それなら、その計算とやらをここに提示すれば済む事。
>出た出たと口先だけで言って計算して見せない人間の言うことをまったく信用しない<
古田本やYahooでの議論でも、
韓や 海峡や一大國などの実距離が明確な例での計算が出されていたし、
出ていない出ていないと、口先だけで言って、
計算して見せない人間の言うことをまったく信用出来ない。 >>674
ほら、口先だけで証拠出さない
ハナシにならないな >>672
その「南≠東」は会稽東治の東に拠って、×。 >>579
>テンプレに答えがあるから回答不要 <
テンプレは、長過ぎて、誰も読まない代物であり、
「答えがある」というんなら、
ここにその部分を転写すべし。
そうすれば、批判して上げる。 >>671
断定を推定するって
ザラコクの日本語が、×。 >>580
>【衝撃真実】狗奴国は富士王朝なり!Part1 <
「南≠東」に拠って、×。 >>584
>だから、 神武天皇をとんでもなく古い時代に設定したのだし。
解けないと思い込んでるやつに邪馬台国h解けない。<
「天皇」も「邪馬台国」もなかったから、×。 >>585
「南→東」などの嘘つき騙しの、
理由が言えない大和説。 >>682
理由いっぱい書かれてます
ザラコク反論不能 >>594
>青銅器鋳造の開始を証明する鋳型と溶炉遺構の出土は 和歌山県堅田遺跡が日本で最も古い ><
堅田遺跡は、御坊市湯川町財部に所在する三重の環濠を持つ弥生前期の環濠集落である。
竪穴住居17棟のうち4棟が松菊里型住居であること、
伊勢地方の壷や条痕文を施した三河西部の壷・甕、結晶片岩を含む紀北や角閃石を含む生駒西麓部の壷・甕、和泉産の特徴を示す多条の沈線に幅広の沈線を組み合わせた無頸壷などの搬入土器が多く認められること、
地元で作られた土器にも中部瀬戸内(播磨・備前・伊予)、あるいは安芸、西部瀬戸内(豊前・長門)の属性をもつ土器が見られることから、
広範囲の交流があったことが窺える。
ヤリガンナ鋳型は、砂岩製で縦6.5センチメートル、横6.0センチメートル、厚さ6.1センチメートルの破片である。
残存する鋳型面は縦の長さ約4.0センチメートル、横幅約2.5センチメートルである。
中央には、幅0.25センチメートル、深さ0.2センチメートル、断面V字を呈した溝が一条まっすぐ縦方向に彫り込まれている。
その左右は端部近くでわずかに内湾気味となるが、両端部とも破損していて形状は不明である。
彫り面が熱により黒変していることから、実際に使用されたと考えられる。
残存部から、幅3センチメートル、長さ20センチメートル程度のヤリガンナが復元できる。
なお、同時代出土のヤリガンナ鋳型と比較しても、幅・厚さが大きいことから、別の鋳型を再利用した転用材の可能生が高い。
この鋳型は、環濠集落の北西部、3条の環濠の内濠(環濠1)から、弥生時代前期新段階後半頃の特徴を示す弥生土器と共に出土した。
このことから、ヤリガンナ鋳型は弥生時代前期新段階後半に属するものであると考えられる。
堅田遺跡では、鋳型のほかに溶炉遺構や炉壁とみられる焼土塊、羽口と思われる破片等の出土が見られ、青銅器生産が行われていた可能性が高い。
青銅器生産は、これまでに九州で弥生時代中期以降の例しか確認されておらず、
堅田遺跡で青銅器生産が行われていたとすれば国内最古の例となる。
堅田遺跡出土ヤリガンナ鋳型は、日本の青銅器生産を考える上で貴重である。
であるから、出雲銅鐸祭祀系ではなく、半島系倭人の東征での征服地の一つであったようだな。 >>601
>邪馬台国 畿内、中四国説<
「南≠東」などに拠って、×。 >>605
>魏志倭人伝の短里で書かれてるらしき距離を
短里で換算して合ってたからといってそれが何になる?<
勿論、個々の里記録が根拠になっている。
>短里を証明したいなら当時のモノサシの実物や<
尺定規の寸法は、周代からずっと「大きな変化はなく、殆ど変わっていない」。
>1里は何尺で…と短里の体系が書いてある当時の書面がどうしても必要<
「短里の体系が書いてある当時の書面」なら、一寸千里が書かれた周髀算経や淮南子であり、
谷本確認計算に拠って、「1里≒76.5m」が計算された。。
そして、始皇帝がが「1歩=6尺」という命令をしたから、 >>621
>関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」<
ふーん?、関川氏もこんな事を言っていたのか。
私と殆ど同じだね。 >>622
>箸墓から須恵器出土してるが年代比定に使わないの?<
弥生前期末〜中期後半の遺跡とみられる吉武高木遺跡でも、
多数の初期須恵器が出土したとされる(菱田哲郎氏*24)
という事では、箸墓の須恵器は、
筑紫からの伝来と、陶邑殻もたらされた可能性の、
両方の可能性が出来てしまって、
年代根拠にはならなくなったんだよ。 >>684
堅田遺跡
いままでは、朝鮮半島から北部九州にもたらされた農耕文化をもとに弥生文化が成立し、
東へ広がったと考えられていましたが、
遺跡から出土の土器・石器等から縄文時代終わりころ大陸から瀬戸内に渡来した集団によって弥生文化が生まれ、
前期後半にはどうも瀬戸内を中心にして一つにまとまる環瀬戸内圏が成立し、
東方への開発拠点として堅田遺跡の集落が造営されたようです。
こういうのを多元史観という >>623
>関川って2017年にもなってまだこんなこと言ってるのか
庄内式が出てる九州の年代はどうすんだ?<
筑紫の庄内は、柳田に拠って、三雲が先行しており、
その後祇園山から出土した後、
弥生銀座の那珂八幡から瀬戸内〜大和などに伝播した事になる。
>時空の歪みが生じていて畿内と九州で100年近いズレがあるとでも言うのだろうか<
50〜100年位、筑紫の方が大和よりも古い。 >>637
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。<
「古墳時代」なんて曖昧な事を言ってはいけない。
墳丘墓も筑紫が先行していたし、高冢は祇園山が最初。
そして、前方後円墳も、那珂八幡や津古生掛などが先行し、
瀬戸内や大和は、筑紫からの伝播になる。
そして、ホケノの有棺有槨は、楽浪から吉備を経て大和に伝播した事になる。
>・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。<
前方後円墳はも筑紫から東瀬戸内を経て大和にも伝播。
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。<
北部九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の結果、大和も倭国の傘下に入った。
>ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。<
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは、弥生銀座である。 >>643
>キナイコシは畿内-古址
昔,邪馬臺國の都のあった所。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>652
>追い出されたのは西北九州の甕棺造墓集団
全羅南道では5世紀まで存続する<
ふーん。 >>686
周髀算経や淮南子には1里=300歩などのような
短里の体系なんぞ書かれてないぞ
魏志倭人伝、周髀算経、淮南子は短里で書かれてある
その証拠に魏志倭人伝、周髀算経、淮南子の距離は短里だと
延々と循環論法をやっているのが九州説 >>664
>その周髀算経が 1里=300歩=1800尺 で書かれているんだがね <
周髀算経の「立二十八宿,以周天曆度之法」の説明での、
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」は、
前漢初期に周髀算経の収集者が、
「倍正南方,以正勾定之」の意味が判らず、
「始皇帝の1歩=6尺」使っての自己解釈を「倍正南方,以正勾定之」に付記した文になってしまった、
と言っているんだよ。 >>666
つまり朝から晩まで南→東の嘘つき騙しをして、
嘘つき騙しは×だ、はとされている大和説者は、
根本的な常識が欠落しているという事ですか?。 >>667
>「一寸千里や簡易三角測量や記里車や」? そんなもん知ってるって証拠は?<
一寸千里や簡易三角測量は、後漢代末に再収集注釈された周髀算経に書かれていたし、
記里車も孔明の発明だ、という話があるから。 >>670
>だから口先爺さん、その証拠を出しなよ 証拠なくして結論なしだ ww <
だから、
古田本には、韓や一大率などの記載から「1里の距離」の計算例が書かれているし、
Yahooでの議論で、mutouha氏らが海峡幅からの確認計算を何度もしておられた、
という事を紹介していたんだよ。
そして、大和説者らは、それらを探し出して、書きだせばよい、
と言って来たんだよ。 >>696
つまり周髀算経という本を書いた人は一歩=六尺
と考えてたつまりことで、いいね? >>675
>ほら、口先だけで証拠出さない ハナシにならないな<
ほら、大和説者は、
「短里記載が存在しない」と主張するんなら、
韓や海峡や一大國などからの「里記載の実距離」を計算提示して、
短里にはならず、長里では合っている、という事を、
口先だけではなく、証拠を書きだせばよい、と言っているんだよ。
しかし、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、証拠を出さない。
ハナシにならないな >>705
そんなこと「言って」いたらダメでしょ
オレ様の主張は証拠だす気ないぞー
違うという証拠を出せー
それ、世間からバカにされるだけだから >>690
堅田遺跡
いままでは、朝鮮半島から北部九州にもたらされた農耕文化をもとに弥生文化が成立し、
東へ広がったと考えられていましたが、
遺跡から出土の土器・石器等から縄文時代終わりころ大陸から瀬戸内に渡来した集団によって弥生文化が生まれ、
前期後半にはどうも瀬戸内を中心にして一つにまとまる環瀬戸内圏が成立し、
東方への開発拠点として堅田遺跡の集落が造営されたようです。
こういうのを多元史観という<
大陸から(九州倭國を通さずに)直接的に瀬戸内に伝来して来た話は、
銅鐸祭祀の出雲経由の伝来になるが、
松菊里型住居が説明が付かず、堅田遺跡から銅鐸が出土していないから、
出雲経由説が否定されるんだよ。 >>707
堅田遺跡の土器は環瀬戸内系の地元製作に大阪南部、伊勢地方の搬入
松菊里型住居は4棟、朝鮮半島とのつながりを示す土器あり
銅鐸の鋳型は弥生中期からだからまだ始まっていない
出雲経由説はどこにも書いてない >>695
>周髀算経や淮南子には1里=300歩などのような
短里の体系なんぞ書かれてないぞ<
1里=300歩は、
周代からきなっていた決まっていた「里歩」系単位の換算規定であり、
短里の体系とは関係がないんだよ。
魏志倭人伝、周髀算経、淮南子は短里で書かれていないとか、
魏志倭人伝、周髀算経、淮南子の距離は長里だとか、
延々と「結論先にありき」の循環論法をやっているのが、大和説 。 >>703
>mutouha氏らが海峡幅からの確認計算を何度もしておられた
海は一日で一気に渡れる距離を一律で千里にしてるから、陸の里程とは別
その陸と海の里をごっちゃにして、適当なことを言ってるのが短里というまやかし >>704
>つまり周髀算経という本を書いた人は一歩=六尺
と考えてたつまりことで、いいね? <
違うね。
前漢初期に、周髀算経を収集した人が、
周髀算経の、
「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之」
の意味が分からず、
「即平地徑二十一步,周六十三步」と
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」という、
殆ど同じ大きさの二つの同心円を書かせる、
という大失敗をしていた、という事だよ。 >>713
前漢初期に周髀算経を収集した人の大失敗だ
という証拠は? >>712
つーか、そのナントカ氏が確認計算をしたって証拠がなにも無い >>708
>堅田遺跡の土器は環瀬戸内系の地元製作に大阪南部、伊勢地方の搬入<
筑紫倭国の「 自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍が造った「地方の市」を介して。
>松菊里型住居は4棟、朝鮮半島とのつながりを示す土器あり<
九州系系の東征将軍の市を介して。
>銅鐸の鋳型は弥生中期からだからまだ始まっていない<
菱環鈕式の年代はまだ決まっていなかった筈。
>出雲経由説はどこにも書いてない <
国引き神話時代から、西日本の盟主であった。 >>716
考古学的根拠が無い筑紫一元史観
銅鐸鋳型は中期初めの土器とともに出ている
山陰系の土器は作ってない >>314
またごまかしてるけど、魏・西晋全土が短里だったっていうのは、
ザラコクさんがどう言いつくろったところで、これ以上ないほど論破されてるよww
他人を個人攻撃したところで、魏・西晋朝の里が短里だったというのはあり得ない
歩が複歩で一歩=六尺、さらに300歩が里なんだから、魏晋尺=24.3センチから
魏晋里が437メートルくらいなのは確定 古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。
立地場所だ。
上座>中座>下座になる。
実際、各地域の上座にはその地域の始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山古墳群、交野の森古墳群、讃岐の萩原墳墓や猫塚などなど。
前期古墳は高地にある。
では大和盆地の最上座とはどこか。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg
トヨもヒミコも、ヒミコの父さんやお母さんも、叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後にこの地に埋葬され、高天原の神々になったのだ。 故・金関 恕(かなせき ひろし)さんが奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を述べられていた。
同じく京都教育大学名誉教授で元・橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも、
和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を述べられているようだ。
仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が誰にも分からなかった。
解いたのはわしだ、まいったか。
事代主
┣━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) >>710
短里の体系が書かれてない書を
短里のあった証拠に使ったらダメだろー 1里あたりがやけに短い例をいくら集めても、べつに短里の証明にはならんのにね
規則性が見つけられないとね 古代史の資料はオンリーワンが多いから、類例の有無は意味がないよ。
魏志倭人伝という文献と、実際の地理を比べてみなよ。
自分で検証できるはずだ。
根拠もなしにイヤイヤ言い続ければ嘘が真になると思うなよ。
魏志倭人伝が信用ならないと思うのなら、畿内説は邪馬台国論争から手を引くといい。 >>702
>>一寸千里や簡易三角測量は、後漢代末に再収集注釈された周髀算経に書かれていたし、
記里車も孔明の発明だ、という話があるから。<
>>そんな本が読まれたって証拠は?<
読んで知っていなくっちゃ、
そんなアホは、
行程や地理を記録する魏の役人には、選ばれないから。 >>703の訂正
だから、
古田本には、韓や一大國などの記載から「1里の距離」の計算した例が書かれているし、
Yahooでの議論で、mutouha氏らが海峡幅からの確認計算を何度もしておられた、
という事を紹介していたんだよ。
そして、大和説者らは、それらを探し出して、書きだせばよい、
と言って来たんだよ。 >>714
>前漢初期に周髀算経を収集した人の大失敗だ
という証拠は?<
全く不必要で、無駄な、二つ目の、
「始皇帝の1歩=6尺を使った円弧を造成させる」という、
・・・・アホな記載をしてしまっていたから。 「蓋天説」は古代中国でもトンデモ
実測もせずに、夏至と冬至の値を等分にして春分・秋分の値を出している時点でお察し
ただの机上の空論
短里はあるんだ−って言い張る九州説とは相性がいいのかもねww >>715
つーか、
5chの・・・・詐欺師の大和説者らが、
全てにおいて、
九州説の論の中の「大和説にとっては都合の悪い論」には、
知らん振りしてなかった事にして逃げておいて、
九州説の挙証の証拠を永遠に要求し続けて、
国民には議論に勝っているかのような口先宣伝をしている・・・・詐欺師である、
という事が実態である訳で。 >>725
>そんなアホは、
>行程や地理を記録する魏の役人には、選ばれないから。
そうだよな!
魏の皇帝が定めた公定尺の体系以外で、行程や地理を記録するようなバカは
魏の役人、建忠校尉や塞曹掾史にはなれないから!ww >>729
>九州説の挙証の証拠を永遠に要求し続けて、
永遠に要求なんてしてないじゃないかww
ただ単に、九州説がまともな挙証一つできないから、
永遠にバカ扱いされてるだけだよww >>727
なんで無駄なの?
絶対に必要なものでしょ? >>724
ほら、言い訳ばっかりで
絶対に証拠を出さない
九州説はトンデモだと公言してるようなものだな >>725
>読んで知っていなくっちゃ、
そんな本を読んで知っていなくっちゃ
いけなかった、という証拠は? >>717
>銅鐸鋳型は中期初めの土器とともに出ている<
最古の菱環紐式銅鐸は、縄文末の「国引き神話」の出雲から大量に出土しており、
出雲の祭器中心であった事が判り、
その後、天孫族に国譲りさせられた後は、天孫族に鋳直されて、
銅製武器やホウ製鏡の材料に使われた。
>山陰系の土器は作ってない<
元出雲の支配下であって、九州倭國の「東征毛人五十五國」になっていた吉備や瀬戸内周辺は、
出雲の残映を引き継ぎながら、
楽浪文化を、対馬壱岐ルートや沖之島ルートから直接的流入もするようにもなった。 >>724
>根拠もなしにイヤイヤ言い続ければ嘘が真になると思うなよ。
これは立証責任転嫁という典型的なサギです >>718
>またごまかしてるけど、魏・西晋全土が短里だったっていうのは、
ザラコクさんがどう言いつくろったところで、これ以上ないほど論破されてるよww<
Yahooでの議論で、ハイエナらが持ち出した「三国志の魏志の里使用例」では、
ほぼ全て、(長里ではダメで)短里であった、という事で、論破しておいてあったよ。
>他人を個人攻撃したところで、魏・西晋朝の里が短里だったというのはあり得ない<
口先だけで、いくら他人を個人攻撃したところで、
魏・西晋朝の里が全て長里だった、というのはあり得ない。
>歩が複歩で一歩=六尺、さらに300歩が里なんだから、魏晋尺=24.3センチから
魏晋里が437メートルくらいなのは確定 <
魏の文帝の受命改制の詔書に拠って、魏の重臣たちが次々に周制への復古の上表をし、
始皇帝の「1歩=6尺」を否定して、
周髀算経の「一寸千里での1歩≒25.5cm」に拠る短里を採用した、
という事が確定。 >>720
>古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。<
魏の臣下や親魏倭王になった倭国の古墳は、魏の文帝の薄葬令に拠って制約され、
巨大墳は不可になり、冢程度のものに制約され、
晋代になって天円地方思想を教えられて、前方後円墳が始まり、
倭国では薄葬令の制約が余りなくなった「東征毛人五十五國」の瀬戸内以東で、
巨大化が進んだ。
>トヨもヒミコも、ヒミコの父さんやお母さんも、叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後にこの地に埋葬され、高天原の神々になったのだ。<
「南≠東」に拠って×。 >>740
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えバカジジイ! >>721
>故・金関 恕(かなせき ひろし)さんが奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を述べられていた。
同じく京都教育大学名誉教授で元・橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも、
和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を述べられているようだ<
明帝の下賜の五尺刀としては、
50年以上もの古い刀を慶賀の下賜刀にするのか?、という事が疑わしい。
また、東大寺山が4世紀後半であるから、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」の真っ最中であり、
半島の國王に伝世されていたものを倭国の将軍が持ち帰って、
今度は、東征将軍として大和に来て、そこで副葬された、という可能性がある。 >>722
>短里の体系が書かれてない書を 短里のあった証拠に使ったらダメだろー<
「短里の体系が書かれていた書」なんてをものをでっちあげたお前の、
脳が悪質である、というだけだ。
周初の周公の頃に既に「一寸千里の法」という測影計測が行われていた、
という事が実態であっただけだ。 >>743
>明帝の下賜の五尺刀としては、
50年以上もの古い刀を慶賀の下賜刀にするのか?、という事が疑わしい。
中平の2世紀末から4世紀後半まで刀を貰ったと記されてる日本人は卑弥呼以外にいない。
また和邇氏は孝昭天皇を祖とする皇別氏族、つまり王族。
中國皇帝→日本の王族への舶載品であるのだから、
素通りされた九州のカッペは少し黙ろうか。 >>744
実態だー実態だーと叫ぶだけで
九州説は証拠ゼロ >>723
>1里あたりがやけに短い例をいくら集めても、べつに短里の証明にはならんのにね<
1里当たりの距離が50〜90m(平均76.5m)の短里の例が沢山あるのに、
それが全て1里が434m位の長里の例だ、なんて主張したって、
何の証明にもなっていないのにねえ。
>規則性が見つけられないとね <
「1里当たりの距離が50〜90m(平均76.5m)の短里の例が沢山ある」
と言うのが、規則性。 >>743
>50年以上もの古い刀を慶賀の下賜刀にするのか?、という事が疑わしい。
なら古い後漢鏡しか出ない九州に
邪馬台国があったわけないな 「オレ様の考え」でしかないものを
「実態」だぁーと横車オシオシ
それが九州説 >>724
>魏志倭人伝という文献と、実際の地理を比べてみなよ。
ごちゃごちゃ言わんで、倭人伝で里数が書いてあるところを列記してみればいいだろが
・倭人伝の地名
・現代の地名
・その距離が何km
まずは帯方郡から狗邪韓国がどこからどこで何kmから始めろ >>728
>「蓋天説」は古代中国でもトンデモ<
当然、周地付近からの天地の観察計測からの「近似的モデル」。
>実測もせずに、夏至と冬至の値を等分にして春分・秋分の値を出している時点でお察し
ただの机上の空論<
これも、当然、計算に拠った近似的数値。
大和説者らのような、「6倍位の距離の空論」とは比較にならない位の、
有効な、価値のある近似。
>短里はあるんだ−って言い張る九州説とは相性がいいのかもねww<
「6倍位の距離の空論」や「女王國を赤道付近」と言い張る大和説者やwwは、
安部自民や右翼マスコミ学会教育界や人種差別殺人テロ戦争狂のキョクウらのような、
・・・・詐欺師と相性がいいかもしれないね。 畿内説は他説を誹謗中傷する事で存続している。
なぜなら、畿内説には何の考古学的な証拠がないから。 >>730
>>そんなアホは、 行程や地理を記録する魏の役人には、選ばれないから。<
>そうだよな!
魏の皇帝が定めた公定尺の体系以外で、行程や地理を記録するようなバカは
魏の役人、建忠校尉や塞曹掾史にはなれないから!ww <
そうだよな!。
魏の文帝が「始皇帝の1歩=6尺を否定」し、
魏の重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返した事で、
後漢末に再収集注釈された周髀算経の使用「里」の体系で、
行程や地理を記録することが出来ないようなアホは、
魏の役人、建忠校尉や塞曹掾史にはなれないから!。 >>732
>>九州説の挙証の証拠を永遠に要求し続けて、<
>永遠に要求なんてしてないじゃないかww ただ単に、九州説がまともな挙証一つできないから、 永遠にバカ扱いされてるだけだよww <
wwは、古田本を読めば済む事なのに、永遠に「膨大な古田本の転写引用」を要求し続けている。 >>733
>なんで無駄なの? 絶対に必要なものでしょ? <
「立二十八宿,以周天曆度之法」は、天空の「黄道」を地面に投影するだけだから、
地面に投影する円弧は、1個でよい。 >>762
周髀算経を読んでないだろ
地上に計測用の円を描くため、もう少し広く水平に整地すると書いてあるんだ キナイコシは、畿内説を論破されると、悪口しか言わなくなるな、、、 >>764
キナイコシが悪口を言ったら、畿内説が論破された証拠だね、、、 >>736
>最古の菱環紐式銅鐸は、縄文末の「国引き神話」の出雲から大量に出土しており、
菱環鈕式は出土地不詳4点,出雲2点,播磨1点,淡路1点,越前1点,伊勢1点,美濃1点と
朝日遺跡の鋳型1点
出雲の銅剣出土数は筑紫よりはるかに多い
お前は征服大好き筑紫一元史観の連呼だけだな >>734
ほら、出典の紹介をしてあるのに、自分から探して読む事は一切せず、
相手に「大量転写を要求」するばっかりしの・・・・。
大和説はトンデモ・・・・だ、と公言してるようなものだな 。 >>735
>>(方角の決め方や里数の計測法を)読んで知っていなくっちゃ、<
>そんな本を読んで知っていなくっちゃ いけなかった、という証拠は?<
皇帝らから命ぜられた「方向や里数を記録する役人」としての業務が果たせないから。 >>745
>>明帝の下賜の五尺刀としては、
50年以上もの古い刀を慶賀の下賜刀にするのか?、という事が疑わしい。<
>中平の2世紀末から4世紀後半まで刀を貰ったと記されてる日本人は卑弥呼以外にいない。<
明帝が、50年以上前に造られた(さびた?)鉄刀を、
魏の明メンツにかけても親魏倭王に下賜する事は有り得ない。
有り得るのは「渡平海北九十五國」の戦いで手に入れたもの。 >>746
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者は、
実態ではないー実態ではないーと、
口先のヘイトスピーチを叫ぶだけで、
大和説は証拠ゼロ 。 >>748
>>50年以上もの古い刀を慶賀の下賜刀にするのか?、という事が疑わしい。<
>なら古い後漢鏡しか出ない九州に<
皇帝の下賜鏡か?なんて、全く決まっていない。
平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、明らかに皇帝の下賜鏡が元になったもの。
>邪馬台国があったわけないな <
邪馬台国なんてあった訳がないし、
倭国の別種の旧小国の大和に、大量の「尚方作」方格規矩鏡が出土する訳がないな。 >>750
「萬世一系皇国史観の殺人テロ戦争狂の大和説者」の、オレ様の考えでしかないものを、
「事実だ、実態だぁー」と横車オシオシ。
それが大和説者。 >>751
>ごちゃごちゃ言わんで、倭人伝で里数が書いてあるところを列記してみればいいだろが
・倭人伝の地名 ・現代の地名 ・その距離が何km
まずは帯方郡から狗邪韓国がどこからどこで何kmから始めろ<
帯方郡の郡治はおそらく沙里院付近であり、出発地は、おそらく郡の外縁部の海州付近。
そこから、循海岸水行して、
おそらく牙山湾口付近(の唐津?)から韓国に上陸して、
乍南乍東の蛇行をして方四千里の韓国を歴訪し、
半島東南端の狗邪韓国に到った。 畿内説を論破され、キナイコシに元気がなくなった。。。 たいほう郡から、一万二千里と明記されてるだろうが、
九州の海岸までで一万里だから、邪馬台国は北九州にある、のは自明のこと。
ただし、明らかに、九州邪馬台国と同時代に、飛鳥に発達した国があったが、
土器の移動状況から、九州が上位の国だ。
そのご、日向に新しい勢力が台頭し、その勢力が瀬戸内から、
飛鳥を征服進出して、飛鳥に政権を立てて、その後北九州勢力と対立したが、結局
九州勢を征服した、これが、日本の古代史。
北九州の卑弥呼の国は、高天原として、神話化され、日向飛鳥政権の歴史に取り込まれた。 なのにあなたは飛鳥へ行くの
飛鳥の町は それほどいいの
こーのわたしのー 愛よりも〜おおお〜 畿内説に一角の疑念も持たない畿内説論者は異様としか言いようがない >>755
>九州説はこのくらい、やけくそ<
「南≠東」や「萬二千余里」や「弥生銀座」や「祇園山や平原」や、
「正北抵新羅」や倭国の「東征毛人五十五國」などで負けた大和説は、
これくらい、やけくそ。 乏しい知識しかないのにまず疑念から始まってるのがアンチ畿内説 >>758
>という証拠がないから、>>757はサギである<
「南≠東」や「萬二千余里」や「弥生銀座」や「祇園山や平原」や、
「正北抵新羅」や倭国の「東征毛人五十五國」などで、
反論証拠を出せずに負けた大和説の>>758は、
「一種の詐欺師」です。
、 鰯の頭も信心から
疑念を持つな、信じろ!これが畿内説の論法。
桃の種、これが畿内説の証拠だ!疑念を持つな、信じろ! >>759
>ピンボケな中傷ばっかりだね九州説<
「南≠東」や「萬二千余里」や「弥生銀座」や「祇園山や平原」や、
「正北抵新羅」や倭国の「東征毛人五十五國」などで、
反論証拠を出せずに負けた大和説は、
ピンボケな中傷ばっかりだね。 九州説って・・・証拠の出せないことしか言わないんだね >>763
>周髀算経を読んでないだろ
地上に計測用の円を描くため、もう少し広く水平に整地すると書いてあるんだ<
人類の常識として、
天地の構造モデルを説明する事が目的の周髀算経のような文書では、
黄道上の太陽位置を地上に投影した説明をしたければ、
普通に「黄道に対応する円」を一個描けば済むことであり、
その円よりも少し大きい円の地を整地して置く、なんて事を記載する事は、
普通の人間は考えないんだよ。
つまり、そんな事を書いた「前漢初期の周髀算経の収集者」は、
収集だけではなく、自己解釈に拠る「内容説明的な加筆」をしていた、
という事になるんだよ。 >>788
>黄道上の太陽位置を地上に投影した説明をしたければ、
>普通に「黄道に対応する円」を一個描けば済むことであり、
>その円よりも少し大きい円の地を整地して置く、なんて事を記載する事は、
>普通の人間は考えないんだよ。
は?
普通かんがえるだろ
平面じゃないとこに円を描いたって天文観測できない
あたりまえ >>767
>出雲の銅剣出土数は筑紫よりはるかに多い
>
>お前は征服大好き筑紫一元史観の連呼だけだな
別人だが横から失礼します。
筑紫一元史観を唱えている論者はいません。
基本的には記紀が大筋として史実を反映しているという立場だと思います。
その立場で言えば、筑紫の前に出雲が倭国の中心であった時代があるのであり、考古学的に裏付けできるということになります。
筑紫から出雲への政変が出雲の国譲りです。
その年代については明確にすることは難しいでしょうが、博多湾沿岸が倭奴国として記録されている後漢代にはすでに政権移行が完了していたと見るべきでしょう。 >>757
>菱環鈕式は出土地不詳4点,出雲2点,播磨1点,淡路1点,越前1点,伊勢1点,美濃1点と
朝日遺跡の鋳型1点<
また、古いデータを出して来たな。
荒神谷と加茂岩倉では菱環鈕式を含めて他の大量の銅鐸が出ているから、
それらは菱環鈕式から始まって、銅鐸がずっと継続して 造られていた、
という事の証拠だよ。
>出雲の銅剣出土数は筑紫よりはるかに多い<
だから、それは、出雲が海峡の天孫族に国譲りを強要されて負けたから、
荒神谷と加茂岩倉に「隠匿状態」にされたから、多いんだよ。
>お前は征服大好き筑紫一元史観の連呼だけだな<
お前は、荒神谷と加茂岩倉の大量の銅鐸の存在を隠匿する詐欺師だな。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
津ツはノという意味かな。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。 >>792
泉北丘陵、イシズ川なんて全然関係ない。
失せてくれ。 >>791
お前が>>736で書いたのは
>最古の菱環紐式銅鐸は、縄文末の「国引き神話」の出雲から大量に出土しており、
このウソを>>767で訂正してやった
無知のくせにテキトウなことを書くな
俺は筑紫一元東征説と違って、前期末、中期初の鋳型が出ている畿内、北陸、東海など多元的に
青銅器製作が開始された考えだから出雲に多いことを否定などしない 畿内説って・・・証拠の出せないから妄想しか言わないんだね 方違神社の創建は古いんだな
崇神の時代 大神神社と同じ時期 >>790
>筑紫から出雲への政変が出雲の国譲りです。
>博多湾沿岸が倭奴国として記録されている
>後漢代にはすでに政権移行が完了していたと見るべきでしょう。
何を言ってるのかわからん
>筑紫一元史観を唱えている論者はいません。
反日どろぼうザラコクとチョンボ変質者伊都厨が連呼している >>782
「萬世一系皇国史観」という結論先にありきのアホしかないのに。
まず「大和説ありき」という非科学や非学問から始まってるのが大和説。 九州説信者の特徴
・平然とウソをつき、バレても平気
・証拠は頑として出さない
・いわれもない誹謗ばかりする
こんな連中が居着いて九州説が無事なわけがない >>787
「萬世一系皇国史観」の結論先にありきの似非学問の大和説って・・・、
証拠の出せないことしか言わないんだね。 畿内説が 「萬世一系皇国史観」だなんて
誰が見ても嘘とわかることを連呼する
九州説の神経がわからん
自分が嘘つきだと公言してるのと
同じじゃないか >>803
あなた、畿内が 「萬世一系皇国史観」だって証拠
出せるの?
出せないでしよ
オウンゴール連続で負ける九州説 >>789
>>黄道上の太陽位置を地上に投影した説明をしたければ、
普通に「黄道に対応する円」を一個描けば済むことであり、
その円よりも少し大きい円の地を整地して置く、なんて事を記載する事は、
普通の人間は考えないんだよ。<
>は? 普通かんがえるだろ<
少し位凸凹があっても、直径30m位の大体の平地であれば、
「徑一百二十一尺七寸五分」の円は書けるんだし、
「即平地徑二十一步,周六十三步、令其平矩以水正」である事なんて、
黄道の投影図を書く事に関しての関して、絶対的(必要)条件でもない。
>平面じゃないとこに円を描いたって天文観測できない あたりまえ<
大体の平面であれば、黄道の投影図は書ける。
あたりまえ。
それが判らなかったらしい「前漢初期の周髀算経の収集者」や、
ww?という大和説人間は・・・。 >>795
>お前が>>736で書いたのは
>最古の菱環紐式銅鐸は、縄文末の「国引き神話」の出雲から大量に出土しており、
このウソを>>767で訂正してやった 無知のくせにテキトウなことを書くな<
最古の菱環紐式銅鐸が、荒神谷と加茂岩倉に隠匿された時点での沢山の銅鐸の中に存在した、
という事は、出雲には、最古の菱環紐式銅鐸が荒神谷と加茂岩倉以外にも沢山あった、
という事だ。
>俺は筑紫一元東征説と違って、前期末、中期初の鋳型が出ている畿内、北陸、東海など多元的に
青銅器製作が開始された考えだから出雲に多いことを否定などしない<
ヤリガンナは、銅鐸ではないよ。
だから、ヤリガンナの鋳型は、出雲系の銅鐸の根拠にならず、
筑紫倭国から東征で齎された技術だろう、
と言ってんだよ。 >>801
「萬世一系皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説信者の特徴。
・平然との史料実態の曲解捏造のウソをつき、バレても平気
・大和説に都合が悪い事の証拠は頑として出さず、九州説者には無限に証拠を要求する。
・いわれもない誹謗ばかりする
こんな・・・・連中が居着いていては、
大和説が無事なわけがないな。 >>805
畿内説が万世一系説であることを認めている? 古田氏は多元王朝説で知られている。
筑紫一元説ではないな。 >>804
「畿内」という文言自体が「萬世一系皇国史観」だ、
という誰が見ても実態とわかることを、
必死で否定を連呼する、
大和説者の神経がわからん。
自分が嘘つきだと公言してるのと
同じじゃないか >>808
「〜大量に出土しており、」とは実際に出たということだ
正しい日本語を使え反日ホラ専門ジジイ
瀬戸内系の土器だから筑紫からの移住集落ではない
金属加工技術と4棟の松菊里型住居は半島由来だから工人は渡来系 >>811
古田の多元王朝の根拠は泥棒偽書で知られている 畿内における王権の起源を実際よりも古く見せて、ヤマト王権がずっと日本を支配していたと嘯くのは万世一系説とは違うのか?
畿内説では、卑弥呼の直前の倭奴国王などをどう位置付けているのか?
筑紫における倭国乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼なのではないのか? 筑紫一元史観を唱えている人物はこのスレにはいない。 >>806
>あなた、畿内が 「萬世一系皇国史観」だって証拠 出せるの? 出せないでしよ<
またまた、変な・・・・大和説者。
「畿内」という言葉は、「天子や天皇の存在や、その直接的支配地」を意味する言葉。
しかし、大和の王が「天皇」を称したのは天智が最初だから、
卑弥呼の頃の話で大和説者が「畿内説」だと主張すれば、それは、
卑弥呼の頃に「大和に天子か天皇がいた」
という嘘つき騙しの主張をしているのと同じ。
つまり、
オウンゴール連続で負ける大和説 。 >>815
ヤマト王権が1世紀の倭奴国を支配していたと言ってる畿内説はおらんだろ >>817
>「畿内説」だと主張すれば、それは、卑弥呼の頃に「大和に天子か天皇がいた」
>という嘘つき騙しの主張をしているのと同じ。
反日団体と変質者だけだろ、そんなこと思うのは
九州説の集まりでも九州と同じ地域概念で畿内という語は使っている 三雲南小路遺跡 1世紀後半
方形周溝墓の出現
個人的には、天孫降臨に関係あると睨んでいる
畿内の方形周溝墓勢力が、大陸への玄関の伊都国に婿入りしたんじゃないかな
或いは、奴国から博多湾一帯を割譲してもらい、伊都国を建国したのかもしれない 三雲南小路は地下埋葬だろ
畿内の方形周溝墓は地表より上だろ >>813
>「〜大量に出土しており、」とは実際に出たということだ 正しい日本語を使え<
荒神谷と加茂岩倉の大量の外縁付鈕式銅鐸は、
おそらく菱環紐式と殆ど同類発展形と言えるものだ。
>瀬戸内系の土器だから筑紫からの移住集落ではない<
別に「筑紫からの土器を伴った移住」を想定する必要がない。
東征将軍らに拠る土器技術の伝播、という可能性がある。
>金属加工技術と4棟の松菊里型住居は半島由来だから工人は渡来系<
これも同じ。「工人の渡来」を想定しなくても、伝播でも有り得る。 >>814
大和説者の「萬世一系黄皇国史観」の根拠は、
当然、記紀の「倭國の存在や歴史」の抹殺盗用造作の、
泥棒偽書である事が知られている。 >>822
なら外縁付鈕式銅鐸が大量に出てると書け
筑紫の土器技術で土器作ったら北部九州系の土器になる
技術が伝播するには人の移住が必要 >>823
泥棒偽書は詐欺師古田の仕事仲間のどろぼう喜八郎著だろ >>818
>ヤマト王権が1世紀の倭奴国を支配していたと言ってる畿内説はおらんだろ<
Yahooでの議論で、
東大と京大を渡り歩いて京大の教授クラスになっていたらしい「天誅」という男が、
私の「まさか、大和天皇家が、天地開闢以来大和で誕生し列島を支配していた、という説なのか?」という質問に、
「そうだ」と返事していた。 >>826
お前が締め出されたYahooでの議論など知らん
お前は毎度勘違いするからそのリンクを貼ってみろ 押し照るなにわ、記紀でいう芦原中津國は倭国大乱で敗れた
なにわのもう一つの枕詞、葦が散る そもそも天地開闢って何時だ?
日本列島が大陸から引きちぎられたときか >>823
>大和説者の「萬世一系黄皇国史観」の根拠は、
>当然、記紀の「倭國の存在や歴史」の抹殺盗用造作の、
>泥棒偽書である事が知られている。
これ、日本語?
意味ワカンネ >>819
>>「畿内説」だと主張すれば、それは、卑弥呼の頃に「大和に天子か天皇がいた」
という嘘つき騙しの主張をしているのと同じ。<
>反日団体と変質者だけだろ、そんなこと思うのは<
萬世一系 皇国史観という思想宗教に狂った大和説のキョクウの・・・・だけだろ?、
そんな事を思うのは。
>九州説の集まりでも九州と同じ地域概念で畿内という語は使っている<
私は知っている45年位前までは、「畿内説」なんて言葉がなく、
みな「大和説」と呼んでいた。
という事は、現在の九州説者の中で、「畿内説」という文言を使っている人は、
学校で「大和説」という言葉を教えられず、
教師や教科書で「畿内説」という文言しか教わらなかったか?、
「畿内説」という文言ばかりを使う大和説者の嘘つき騙しに、騙された人たちだったんだろう、
という事になる。 >>833
なんの証拠もないザラコクの思い出話なんか
誰が信じるの? >>833
じゃ45年位前にいたジジイとレス作って議論しろ >>820
>三雲南小路遺跡 1世紀後半 方形周溝墓の出現
個人的には、天孫降臨に関係あると睨んでいる
畿内の方形周溝墓勢力が、大陸への玄関の伊都国に婿入りしたんじゃないかな
或いは、奴国から博多湾一帯を割譲してもらい、伊都国を建国したのかもしれない<
やはり、「自昔・・・東征毛人五十五國」の否定は出来ず、
旧唐書や唐会要や新唐書に書かれたように、大和は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんでしょうね。 >>824
>なら外縁付鈕式銅鐸が大量に出てると書け<
荒神谷や加茂岩倉の大量の銅鐸は、菱環紐式が淵源だ。
>筑紫の土器技術で土器作ったら北部九州系の土器になる
技術が伝播するには人の移住が必要<
技術の伝播があれば、普通の人間は、
更に「工夫や応用」を考えて、発展させるものだ。 >>833
>私は知っている45年位前までは、「畿内説」なんて言葉がなく、
>みな「大和説」と呼んでいた。
これはzarakokuが
どれほどウソつきか、あるいは無知か
いい加減なことを断定する人か
よくわかるエピソードだ
「六七年前、考古學雜誌に於て、已に幾多の議を再發し、有力なる學者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り」
これ、明治43年公刊の内藤湖南の論文ね >>825
「泥棒偽書」説は、
詐欺師安本や右翼マスコミや反古田の大和説者らの仕事仲間が、
偽筆跡鑑定者や桐原詐欺師や和田キヨエらを使って、でっちあげた説だろ。 誰が見ても偽書だよ
脳が3グラム以上あれば分かることだ >>838
お前は「〜大量に出土しており、」とウソを書いたが
菱環紐式は大量に出ていない
筑紫からの移住を示すものがない >>827
>>Yahooでの議論で、
東大と京大を渡り歩いて京大の教授クラスになっていたらしい「天誅」という男が、
私の「まさか、大和天皇家が、天地開闢以来大和で誕生し列島を支配していた、という説なのか?」という質問に、
「そうだ」と返事していた。<
>お前が締め出されたYahooでの議論など知らん お前は毎度勘違いするからそのリンクを貼ってみろ<
Yahooの掲示板は、1〜2年前にtextreamという名称に変えて、
それまでの議論を全て「見る事が出来ない」事にしてしまったから、
天誅との議論も消されてしまった。
しかし、当然、古い投稿子であった大和説のハイエナやmkpoやhnや、
九州説の無党派さんらは、その事を知っている筈であり、
聞いてみれば、当然肯定してくれる筈。 >>832
>>大和説者の「萬世一系黄皇国史観」の根拠は、
当然、記紀の「倭國の存在や歴史」の抹殺盗用造作の、 泥棒偽書である事が知られている。<
>これ、日本語? 意味ワカンネ <
大和説者の「萬世一系黄皇国史観」の根拠は、記紀、
って意味。 >>843
平然とウソをつく男が
また誤魔化しを言ってる >>839
>>私は知っている45年位前までは、「畿内説」なんて言葉がなく、
みな「大和説」と呼んでいた。<
>これはzarakokuがどれほどウソつきか、あるいは無知か
いい加減なことを断定する人か よくわかるエピソードだ <
古代史本や教科書やマスコミも「大和説と九州説」であった。
>「六七年前、考古學雜誌に於て、已に幾多の議を再發し、有力なる學者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り」
これ、明治43年公刊の内藤湖南の論文ね<
そんな事、戦後の日本では、聞いた事もない。
しかし、京大の・・・・皇国史観の大和説大和説派の内藤なら、言い出しかねん発言だな。 >>841
>誰が見ても偽書だよ 脳が3グラム以上あれば分かることだ<
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E8%97%A4%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E3%81%AB%E5%8A%A0%E7%AD%86+%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E7%AD%86%E8%B7%A1#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
の喜八郎さんの「下手な撥ね字の筆跡」を見れば、
東日流外三郡誌の筆跡や、和田家文書の筆跡とは全く違うものだ、
という事が、
脳が3グラム以上ある人間には、誰にでも分かる事だ。」 >>848
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>842
>お前は「〜大量に出土しており、」とウソを書いたが
菱環紐式は大量に出ていない <
当然、「菱環鈕式」の系統の銅鐸が荒神谷や加茂岩倉から大量に出ている、
という意味だ。
>筑紫からの移住を示すものがない<
倭國の「東征毛人五十五國」があったんだから、
筑紫経由の伝搬だった、と言うべきだな。 >>830
沼地に生えるただの葦など国の名前に埋め込むわけがない。
弥生文化の基礎である水稲のことだよ。
豊葦原中国の王となるために、天孫邇邇芸は筑紫に降臨したと記紀に書いてある。 >>851
お前が書いたのは
「最古の菱環紐式銅鐸は、縄文末の「国引き神話」の出雲から大量に出土しており、」
だから「菱環鈕式」の系統の銅鐸が大量に出土しているという意味にはならない
それがどろぼう偽書屋の筑紫一元説 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、畿内王権は自然発生したのであり、筑紫から流入した勢力などありません
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです
九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が仕え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました >>855
九州説はトンデモということか
なるほどね >>855
その「八咫鏡」って
もう否定されてなかった? 「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、
畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、
近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然
いわんや 瀬戸内航路で不弥国から投馬国まで国は無いいのは基幹航路として不自然 「漢書・地理志」100余りの国に分裂
「倭人伝」倭国大乱後30国
畿内説(瀬戸内航路)では不弥国から投馬国まで
中国地方・四国に100余りの圀の中ぼいくつかは存在したと考えるか?
もし、存在したとしたら倭人伝に記されたどの国の属国になったと考えるか? >>860
瀬戸内航路で不弥国から投馬国まで国が無いから >>859
>畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、
?
投馬国の官も戸数も書いてありますが? 2対2
畿内説にとって、不弥国から投馬国までの瀬戸内海は
スペースだな 狙われるよ >>864
国がないと、何なの?
論理的に話してくれるかな >>867
倭国大乱後 瀬戸内の領土はどの国にも属さなかったでいいの? >>870
あったと立証しないと反論にならんよね?
わかってる? >>872
畿内説で解説すべきじゃないの
倭人伝では無いことになるが・・・・・ >>872
九州説なら解説できるよ 中四国は
だから 畿内説で解説して 畿内説に反論は無いということで、いいね?
で?
何を解説するんだ?
はっきり言ってくれれば解説するに吝かではない
ただ、何を解説して欲しいのか言ってくれなければね
答えようがない >>870
国の定義が明らかでないので回答不能
遠賀と備後に挟まれたあたりには
吉備や出雲、丹後に匹敵するような勢力は無かった模様 テンプレが西は早鞆瀬戸まで投馬国と書いてる件について
・・・なんか問題でも? ^^^^^投馬国
ウィキ
比定地は、邪馬台国九州説では日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)説、
薩摩国説、五島列島説、等がある。
瀬戸内海航行説の場合、名称の類似から備後国の鞆とする説等があり、
日本海航行説では出雲国や丹後国、但馬国等にあてる説がある。
コトバク
大和説では周防(すおう)佐婆郡玉祖(たまのや)郷,備後(びんご)鞆津(とものつ),
出雲(いずも),但馬(たじま)などに比定されている。 >>879
テンプレ見てねーが
本当ならスレ主は大馬鹿だな 大和説から畿内に広げ畿内説
今は投馬国を関門海峡まで広げた畿内説
wwwwwwwwwwwwwww 投馬国7万戸
邪馬台国5万戸
が正解なのだ
投馬国は広大な大国なのだ >>891
誰も畿内説に反論してないんだから、反論は無いんだろう? >>890
自白しなくても、キミのことは皆が知ってる >>887
学史を知らない無知をさらす九州じいさんの悲惨 畿内説得意の罵声とイミフが続くような気配
一人しか居ないがなww >>853
>お前が書いたのは
「最古の菱環紐式銅鐸は、縄文末の「国引き神話」の出雲から大量に出土しており、」
だから「菱環鈕式」の系統の銅鐸が大量に出土しているという意味にはならない <
荒神谷と加茂岩倉の大量の銅鐸は、出雲が西日本の銅鐸文化の淵源であり、
最古の菱環紐銅鐸と、その形態を引き継いだ銅鐸が隠匿された、
という話は、いくつか見ていたから。 >>857
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ人種ということか。
なるほどね。 >>860
>不自然だって理由は? <
「南≠東」だし、
狗邪韓國から不彌國まで6〜7國を里数まで詳細に書かれているのに、
まで瀬戸内では、殆ど書かれていないから。 >>865
>>畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、<
>? 投馬国の官も戸数も書いてありますが?<
不彌國からは「南」という方向しか書いておらず、
瀬戸内方向は「東」であり、「東」とは書いてないから、×。 >>866
>2対2 畿内説にとって、不弥国から投馬国までの瀬戸内海は スペースだな
狙われるよ <
「狙う」とか以前に、
瀬戸内や大和は、「南≠東」に拠って、×ですね。 >>867
>国がないと、何なの? 論理的に話してくれるかな <
「国がない」以前の問題として、
瀬戸内や大和は、「南≠東」に拠って×なの。 >>869
>筋悪
>九州説がまたオウンゴールで負ける予感 <
瀬戸内も出雲も大和も、「南≠東」で筋悪。
大和説が、またオウンゴールで、負ける予感。 >>870
>山口 愛媛 広島は国が無かったの? <
「倭種」だとしか書いていないね。 >>872
>あったと立証しないと反論にならんよね? わかってる?<
「倭種」があった、と書かれているだけだよ。 >>875
>九州説ではどうなるんだ<
倭種がいた、となるんだ。 >>876
>畿内説に反論は無いということで、いいね?<
「畿内」なんて、始めからなかったよ。
>で? 何を解説するんだ? はっきり言ってくれれば解説するに吝かではない
ただ、何を解説して欲しいのか言ってくれなければね 答えようがない<
倭人伝では、瀬戸内は「南≠東」に拠って×だし、
瀬戸内方面は「倭種」だ、としか書かれていないんだよ。 >>878
>国の定義が明らかでないので回答不能
遠賀と備後に挟まれたあたりには
吉備や出雲、丹後に匹敵するような勢力は無かった模様<
そんな事以前に、「南≠東」に拠って、
「遠賀と備後に挟まれたあたり」は、倭種であって×であり、
「吉備や出雲、丹後」も「南≠東」に拠って×。 >>879
>テンプレが西は早鞆瀬戸まで投馬国と書いてる件について
・・・なんか問題でも?<
「南≠東」に拠って、×。 >>882
>瀬戸内は倭国じゃないから問題なし <
瀬戸内は、「南≠東」に拠って、投馬國でもなく、邪馬壹國女王之所都でも女王國でもなく、
倭種でしかないから、
問題大有りであり、×。 >>901
>狗邪韓國から不彌國まで6〜7國を里数まで詳細に書かれているのに、
>まで瀬戸内では、殆ど書かれていないから。
辺境には5000戸未満の小国が並んでて、中央に近づくにつれて数万戸の大国になっている
自然ではないか >>818
>>>815
>
>ヤマト王権が1世紀の倭奴国を支配していたと言ってる畿内説はおらんだろ
たまにいるけどね。
2世紀初の帥升はどうなんだ?
2世紀末に即位した卑弥呼まで、時間差はわずかだよ? >>870
>>>865
>山口 愛媛 広島は国が無かったの?
あったけど、歴史にほとんど残らずに消滅したのでは?
筑紫の銅矛銅鏡文化や三種の神器が継承されたのと対照的だね。 >>884
>^^^^^投馬国 ウィキ
比定地は、邪馬台国九州説では日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)説、
薩摩国説、五島列島説、等がある。
瀬戸内海航行説の場合、名称の類似から備後国の鞆とする説等があり、
日本海航行説では出雲国や丹後国、但馬国等にあてる説がある。<
瀬戸内海航行説も日本海航行説も「南≠東」に拠って×であり、
だから、ウイキも×。
>コトバク
大和説では周防(すおう)佐婆郡玉祖(たまのや)郷,備後(びんご)鞆津(とものつ),
出雲(いずも),但馬(たじま)などに比定されている。<
おや?、コトバンクは(畿内説と言わずに)「大和説」と書いているようだね。
しかし、ウイキと同じく「南≠東」に拠って、コトバンクも×。 >>915
魏志倭人伝は小さな国邑でも、郡使が通過した時はきちんと記録しているが、日本海も瀬戸内海もほぼ記事が皆無。
魏志倭人伝には郡使は伊都にとどまると明記してあり、郡使は卑弥呼に会っている。 >>886
>馬を投げた国だからスサノオの国の出雲<
「南≠東」に拠って×。 つまり、畿内説は、木っ端微塵に破綻したのだね、、、 >>888
>反論はないようだな ww<
畿内説狂のwwも、「南≠東」に拠って、×人間だな。 >>892
>誰も畿内説に反論してないんだから、反論は無いんだろう? <
畿内なんて存在していなかったんだし、
「南≠東」で反論してあるよ。 >>925
「南≠東」は「会稽東治之東」で論破されてるよ >>896
>学史を知らない無知をさらす九州じいさんの悲惨<
大和の井戸の中の蛙、「南≠東」が見えず知らず、
国民に無知を晒して、×にされて、悲惨。 >>770
だな
中国が韓国にあげた刀を日本が奪ったんだ
韓国に返さなきゃいけないな >>911
>つまり思考停止だね<
つまり、大和説者は、「南≠東」に反論出来ず、
思考停止して、口先のヘイトスピーチにトンズラね。 >>915
>>狗邪韓國から不彌國まで6〜7國を里数まで詳細に書かれているのに、
瀬戸内では、殆ど書かれていないから。<
>辺境には5000戸未満の小国が並んでて、中央に近づくにつれて数万戸の大国になっている
自然ではないか<
「南≠東」だから、始めから不自然ではないか。 >>926
>「南≠東」は「会稽東治之東」で論破されてるよ<
「会稽東治之東」で九州説はほぼぴったりだし、
大和説は赤道付近にまで行ってしまって、論破されてしまっているよ。 >>931
>「会稽東治之東」で九州説はほぼぴったりだし、
なんの根拠もないまま、ただ連呼するザラコク
不完全で他人に通じない日本語でわめくキウス
九州説も末期症状だな あと、議論に参加すらせずに、ひたすら荒らし続ける連続句読点 >>933
>何を? 何の説明を求めたの?<
「南→東」などの嘘つき騙しの、説明を求めたの。 >>934
何の説明も求めてないの?
なら、回答は無くて当然だ >>937
嘘つき騙しの説明など、しないよ
本当のことを言うのが当然だから どうして九州説はみんな日本語の変な人たちばかりなんだろう? 九州説残党の共通項
・証拠ださない
・根拠いうの大嫌い
・理由ない >>935
>>「会稽東治之東」で九州説はほぼぴったりだし、<
>なんの根拠もないまま、ただ連呼するザラコク<
「会稽東治之東で九州説はほぼぴったり」の説明も、「南≠東」の説明も、
もう数えきれない位、説明してあるよ。
>不完全で他人に通じない日本語でわめくキウス 九州説も末期症状だな<
「南→東」などの嘘つき騙しをわめき、赤道付近までになってしまう長里を叫び続けるなど、
日本語が判らないらしい大和説者は、末期症状だな。 >>942
>「会稽東治之東で九州説はほぼぴったり」の説明も、「南≠東」の説明も、
>もう数えきれない位、説明してあるよ。
根拠なく、ただ文字列を並べるだけっていうのは、「説明とは言わない」んだよ
「嘘も百回言えば本当になる」
「でかい声で相手を圧倒すれば勝ち」
「交渉事は、大勢の人数を集めて圧迫、脅迫をして言い分を通す」
っていう文化圏の人のやり口だよね >>938
このスレで展開された話題について、何一つ提案をしていない。 >>940
>>928でわかるよな
5chの九州説にはもう日本人はいなくなった 畿内説なんて300% いや1万%ない!
おれは全てを知ってる
証拠もある
が、言わない
畿内説の教授たちなどの首が飛ぶからな
かわいそうだ 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530589490/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>944
>このスレで展開された話題について、何一つ提案をしていない。
このスレで展開された話題って、具体的にどれのこと? 346 名無しさん@恐縮です[sage] 2018/07/03(火) 16:10:24.29 ID:Gkl5f1Pd0
朝鮮人は日本がないと生きていけない憐れな民族
そもそもあの国を作ったのは日本
台湾人が書いた素晴らしい書
「韓国は日本が作った」Amazonで購入可能
は世界中から賛同を得たが、韓国だけ翻訳されてない
理由は簡単、真実が書かれてるからだ
あれを教科書にしとけキチガイ下劣民族!
DNA解析で判明してる事実だがな
日本人と朝鮮人は全く別民族なんだよ
そんなことはもう世界中では周知の事実
知らないのは朝鮮人と日本人くらいだ
欧米の精神学会で解明された 火病
これはもう欧米では朝鮮人特有の精神病だと認知されとる
詳しく知りたい奴はググれ
日本での凶悪犯罪者の殆どが在日朝鮮人という事実を知れ!
何百年と中国人の奴隷だったのをいまの状態にまでにしたのは日本だろ
それが癪に触るのか下劣民族よ!
真実から目をそらす下劣民族よ!
恥を知れ!恥を! 346 名無しさん@恐縮です[sage] 2018/07/03(火) 16:10:24.29 ID:Gkl5f1Pd0
朝鮮人は日本がないと生きていけない憐れな民族
そもそもあの国を作ったのは日本
台湾人が書いた素晴らしい書
「韓国は日本が作った」Amazonで購入可能
は世界中から賛同を得たが、韓国だけ翻訳されてない
理由は簡単、真実が書かれてるからだ
あれを教科書にしとけキチガイ下劣民族!
DNA解析で判明してる事実だがな
日本人と朝鮮人は全く別民族なんだよ
そんなことはもう世界中では周知の事実
知らないのは朝鮮人と日本人くらいだ
欧米の精神学会で解明された 火病
これはもう欧米では朝鮮人特有の精神病だと認知されとる
上記を詳しく知りたい奴はググれ
日本での凶悪犯罪者の殆どが在日朝鮮人という事実を知れ!
何百年と中国人の奴隷だったのをいまの状態にまでにしたのは日本だろ
それが癪に触るのか下劣民族よ!
真実から目をそらす下劣民族よ!
恥を知れ!恥を! >>940
どうして大和説者は、みんな日本語の変な人たちばかりなんだろう?。 >>941
大和説残党の共通項
・「南→東」などのウソを付く
・証拠ださない
・根拠いうの大嫌い
・理由ない
・史料事実が大嫌い
・萬世一系皇国史観という宗教信者 >>943
根拠なく、ただ口先でヘイトスピーチ文字列を並べるだけっていうのは、
「説明とは言わない」んだよ。
「嘘も百回言えば本当になる」
「でかい声で相手を圧倒すれば勝ち」
「交渉事は、大勢の人数を集めて圧迫、脅迫をして言い分を通す」
「萬世一系皇国史観」の殺人テロ戦争狂のキョクウ文化圏の人のやり口だよね。 >>945
スレ主を始め、5chの大和説者らには、もうまともな日本人はいなくなった。 >>950
「萬世一系皇国史観の殺人テロ戦争」狂の、
(オームのような)宗教に騙された、
「国民の中の3割」位の人々が、
かわいそうだ。 台湾人かw
ニグロチックブタのw
ウンコ色の黄褐色の肌
エラの張った短顔
穴がよく見えるブタ広鼻
黒人みたいな突き出した口元の突顎
黒人みたいなぶ厚すぎるタラコ唇
ブタブタしくて、ハノハノしい、クッサイ汚らしいものですw >>951
とうとう、大和説者が、人種差別的殺戮テロ戦争にクルってしまったみたいですね。 >>959
こんな「人種差別的なヘイトスピーチ」投稿を、
5chは、何故許可しているんでしょうかねえ?。 近くにブタみたいな顔した東南アジア系の顔した奴いねえが?w
いたら、そいつは台湾人か香港人か華南人のいずれかw
醜い、ハッカクリッチでウンコフルなものですw >>963
大和説者は、人種差別的ヘイトスピーチの荒らしばっかりで、
最低だな。 >>956
>「萬世一系皇国史観」の殺人テロ戦争狂のキョクウ文化圏の人のやり口だよね。
オウム返しができてないぞww
まあ、暴力団や、実力行使をするような街宣右翼団体の構成員は、なんとかな人たちが多いから
ザラコクさんとは親和性が高いと思うけどさ 結局、北部九州説は、
「伊都国、奴国は、邪馬台国とは別に書かれている別の国」というのを無視する
「短里」をでっち上げる
「島巡り仮説や末慮国上陸点など、旅程の都合のいい無理読み」を発明する
「須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡」など100年以上古い遺跡を重視する
「周溝の土壙墓は殉葬墓」「内行花文鏡は八咫鏡」という昭和の思いつきで平原1号墓を卑弥呼の墓にしたがる
という、一つ一つ否定済みの駄説をいまだに根拠だって言い張ってるだけなんだよな 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」 FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530589490/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 大和説残党の共通項
・「南→東」などのウソを付く
・証拠ださない
・根拠いうの大嫌い
・理由ない
・史料事実が大嫌い
・萬世一系皇国史観という宗教信者 大和説者が、人種差別的殺戮テロ戦争にクルってしまったみたいですね。 FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て 瀬戸内航路で不弥国から投馬国まで国は無いいのは基幹航路として不自然 「韓国は日本が作った」Amazonで購入可能
は世界中から賛同を得たが、韓国だけ翻訳されてない
理由は簡単、真実が書かれてるからだ 弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが
、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、
3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、
畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、
ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。 何百年と中国人の奴隷だったのをいまの状態にまでにしたのは日本だろ
それが癪に触るのか下劣民族よ!
真実から目をそらす下劣民族よ! FAQ100
Q 関門海峡から吉備・明石あたりまで投馬国でいいの
A いま 妄想を働かしてるからしばし待て このスレッドは1000を超えました。
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