邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525790222/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 ttp://chimei. sakura. ne.jp/f-32yodohime.htm
川上タケルの墓や淀姫神社の話はここが一番詳しいと思う。NGワード回避のため、スペースを挿入してあります。 >>98
>根拠のない希望的な意見ですね。
根拠はこれまでにも何度も書いてるだろ?
一番簡単なのは、>>43の
投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ
帯方郡の南に韓の領域があって、そのさらに南に投馬国五万余戸の大国があると
するなら、韓、在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接。「方可四千里」。も、
おかしなことになる
有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓で、
馬韓が凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。
辰韓と弁韓が弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。
韓が全部で十四・五万戸で、方可四千里なら、帯方郡の位置、朝鮮半島の形からして、
半島の南半分が全部韓じゃないと収まらない
そこにさらに、その三分の一にあたる大国を押し込んだら、韓は東西4千里、
南北3千里くらいにしないといけないし、そこまでしても、朝鮮半島南部は
リアス式海岸で、内陸にも多くの人口を容れられる平野はない
半島南部に戸数五万余戸の投馬国を考えるというのは無理読み以外の何ものでもない
それから、もっと根本的に、魏志倭人伝冒頭の
倭人在帶方東南「大海之中、依山島」爲國邑とも矛盾する
倭人の国が帯方郡と地続きの半島上にあったら、
「大海中の山島」の国とは書かれない >>99
>それはあなたの主観にすぎない。
いいえ
古墳時代には、その権力の大小に合わせて、墳丘の大きさが調整されるというのが
全国的にはっきり観察されている
九州も前方後円墳祭祀を受け入れている以上、その枠組みから外れることはない
「主観に過ぎない」ことにして、逃げようとしているだけ >>99
>平原の卑弥呼の係累であれば、大きくなく、前方後円墳でもないだろう。
逆だ、逆
平原1号墓が、卑弥呼の墓でもなく、倭王の墓でもないから、
大きくなく、前方後円墳でもないんだよ
まあ、前方後円墳ではないのは、そもそも時代が合わない二世紀頃の
墓だってこともあるけれど >>103
古墳時代は、だろ?
卑弥呼の時代は、3世紀前半
まだ各地には様々な墓の様相があり、それぞれの埋葬の仕方が違う時代だよ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>106
>まだ各地には様々な墓の様相があり、それぞれの埋葬の仕方が違う時代だよ
いずれにせよ、古代大王(おおきみ)の陵墓は平地には造営しないよ。 根本的に間違い。 @阿波 金印は出土状況が全く不明、
あんなもの国宝にしてはいけない代物。
あれを国宝にしたのは昭和6年、満州事変の時の軍部。
その意図は、
「古代天皇及び大和朝廷は中国に朝貢などしていない、朝貢してたのは九州だ」
これを印象付けたいためだ。 >>106
>卑弥呼の時代は、3世紀前半
三世紀後半には古墳時代に入るんだよ
そして、2世紀末には、各地の首長墓は吉備の楯築墳丘墓のような
大規模な墳丘を持ついわゆる王墓級墳丘墓の時代に入っている
平原1号墓は、その時代に届いていない
実際その後の平原3号墓・4号墓が、家族墓地である平原遺跡の、
1号墓被葬者の次世代の墓として方形周溝墓で築かれており、
平原1号墓の次の世代がまだ古墳時代に入っていない
その点でも、平原1号墓は卑弥呼の時代に古すぎて合わない
また、墳丘の長軸延長上に大柱を立てる葬送文化が共通している吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓と比べても、墳丘サイズが10分の1だ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が吉野ヶ里の地域首長の家族墓であって、倭王墓でないことを
考えても、平原1号墓を倭王墓と考えるのは無理がある >>105
>根拠なし
根拠は今までにも何度も書いてきたが、>>110にも改めて書いた
根拠はてんこ盛りにあるんだよ 卑弥呼の時代は三世紀前半だから
古墳時代に入ってないですね。 キナイコシがまた卑弥呼よりあとの時代のことを持ち出して何かつぶやいている。 >>110
無理だよ
北部九州の墓制が統一されてないことは
平原や吉野ヶ里、吉武高木遺跡を見るだけでも
明らかなんだから。
そんなところで同一の価値観は語れないよ。 >>112
>卑弥呼の時代は三世紀前半だから
>古墳時代に入ってないですね。
3世紀後半に古墳時代に入るためには、3世紀前半にその合意ができていなければいけなくて
その合意形成の時点から新しい秩序新しい時代に入ったと考えて、その時点から古墳時代と考える、
というのが最近の通説
卑弥呼の治世の間になされたことだよ
つまり卑弥呼の存命中に古墳時代に入っている
卑弥呼の墓は古墳であると考えるのが当然
平原1号墓は、その後、一世代古墳時代に入らないんだから、卑弥呼の墓は無理なんだよ
平原1号墓に関しては、古墳より前に吉野ヶ里の北墳丘墓に
負けてる時点でどうしようもない 400年前と墓制が違うことを、その地域で統一されていないことの根拠にしてはダメだろうww
吉武高木遺跡は紀元前2世紀だよ
そして、時代の近い吉野ヶ里遺跡と平原遺跡では
墳丘墓、その長軸方向に立てられた大柱、その延長上の小建築物、の三点セットが
吉野ヶ里の北墳丘墓
平原5号墓
平原1号墓
で共通している(5号墓の小建築物は未発掘)
これらは同じ葬送祭祀文化だと認められるだろ?
九州説は、時間経過を無視しがちだし、視野が狭い
平原1号墓を平原遺跡と言って、5号墓、2号墓、3・4号墓をまったく顧みない >>115
>3世紀後半に古墳時代に入るためには、3世紀前半にその合意ができていなければいけなくて
勝手に前倒しするな。 >>116
>平原1号墓を平原遺跡と言って、5号墓、2号墓、3・4号墓をまったく顧みない
女王墓は一号墓だけだから、別に構わんよ。
重箱の隅をつついても意味がない。 卑弥呼は女王ではない。神に仕えるシャーマンである。
天照大神は男神。神の一夜妻であり、神の衣を織るのが仕事。
穀物の実りがよくなかったり天変地異があると、神の持て成しが
よくないからということで追放される。
人間に神意を伝える役目もある。ただし、人前に姿は見せない。
いつもは機屋(はたや)の中にいて機を織っている。
この機屋は、誰も覗くことができない。
女王ではないのだから、卑弥呼のために国家的祭礼が行われること
などない。死んでから巨大墳墓が造営されることなどもない。 >>117
>勝手に前倒しするな。
九州説は、そうじゃないと困るからww
何の合意もなくいきなり古墳を作り始めるはずがないだろw
何の理由も根拠もなく一行レスで文句だけつけるのが九州説にデフォルトw >>118
>女王墓は一号墓だけだから、別に構わんよ。
一般庶民は女王にならないんだよ
当たり前だろ?
>重箱の隅をつついても意味がない。
これを重箱の隅だと思ってるのが九州説
歴史の真実とはまったく縁のないところで、
結論ありきで文句だけ言うのが九州説のデフォルトww >>119
>女王ではないのだから、卑弥呼のために国家的祭礼が行われること
>などない。死んでから巨大墳墓が造営されることなどもない。
魏志倭人伝
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
造営されてるね、巨大墳墓
その>>119のいう卑弥呼は、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼とは別の存在だな >>121
立派な墓域を持っていたなら、庶民ではないな。
しかし王家の直系でもなさそうなことは魏志倭人伝から読み取れる。
その意味でも平原遺跡は卑弥呼の墓として申し分ない。 >>120
基本は初期古墳の拡がりは思想の流行だよ
3世紀後半に同じ規格や埋葬方法が同じ墓ならば何らかの関連があったとみなしていいと思うが…まだバラバラだよなぁ
後、布留0〜の年代は定まってなく、個人的には3世紀末〜4世紀初頭と考えている
布留0は楽浪土器の出土激減期にあたるのでね
桃核のJCALとも合致するし 卑弥呼の死後に急速に西日本の再編があったのかもしれないが、卑弥呼が即位したと思われる2世紀末の時点では、九州北部以外に倭国の王都を比定する根拠は何もない。 >>122
卑弥呼がいた時代の日本に魏の使者は日本に来ていない。
卑弥呼の墓の話なんだから、これを伝えたのは台与が派遣した使者、
ないしその答礼として派遣された魏の使者。
その魏の使者も邪馬台国まで来ていない。つまり、聞いた話を伝えただけ。
「徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」なんてのはいかにも白髪三千丈風の表現。
台与の使者が伝えたのなら見栄をはって大きな話をしたのだろう。
卑弥呼の墓なんぞどこにも作られていない。
なんで女王国なんて話になったのかというと、「日本を支配しているのは
神様です。」とか、王様はいなくて「巫女が神様の言うことを聞いて皆に
伝えているのです。」などと言う話だが、そういうのは中国人にはよく理解
できないので、巫女が女王ということになってしまった。 日本においては、神様というのは後世の概念にすぎない。
そもそも神社に祀られている神様は、いずれも古代倭国の王族たち。
つまり、神という概念より先に王族の支配が成立している。
神代とはすなわち倭国創成期の弥生時代のこと。
その最後を飾るのが八咫の鏡を持つ平原遺跡の卑弥呼だよ。 >>128
日本の神は祖先神だが、祖先神のさらに向こうには神がいる。
神武天皇の先祖には天孫降臨したニニギノミコト、ニニギノミコトよりさらに
遡っていけば天照大神になる。
神の子孫だから王族は尊いのである。
神の子孫でなければただの人。
神の概念より先に王族の支配があったなどとんでもない。 >>131
弥生時代に神という概念があったとあう証拠は?
記紀の神々は神と呼ばれているが、事実上、王族として振舞っている。
特に大国主と天照大神は国譲りという政権交代を行なっている。 >>123
>立派な墓域を持っていたなら、庶民ではないな。
その家族墓地の他の墓が仮にも一国の王になった者の一族の墓じゃないんだよ
平原1号墓のあとに造営されている3・4号墓は、1号墓被葬者の直接の次代の後継者
だが、国の中枢とは無縁の普通の墓だ
>しかし王家の直系でもなさそうなことは魏志倭人伝から読み取れる。
伊都国の領域には、
「三雲遺跡群に墓を作る伊都国王家」の家系と
「曽根遺跡群に墓を作る有力者(鏡作り?)」の家系があり、
平原遺跡は曽根遺跡群の家系の弥生時代の家族墓地だよ
>>118のいう重箱の隅をきちんと見ていくと、こうしたことが見えてくる
>その意味でも平原遺跡は卑弥呼の墓として申し分ない。
一大率より下位の伊都国王家ですらない、地方の有力家系の家族墓なのだから
それを倭王墓にでっち上げるのは5階級特進くらいの無茶だぞw >>128
>その最後を飾るのが八咫の鏡を持つ平原遺跡の卑弥呼だよ。
そうやって平原1号墓出土鏡を、皇室縁のご神鏡に擬えるのは止めな
いまだに平原遺跡と平原1号墓の区別も付けられていないし、
九州説は出所不明の思い込みだけが根拠の戯れ言に過ぎない >>134
一昔前は田舎大名の墓と例えられていたこともあったが、最近は畿内説の学者でさえ平原は認めているよ
2世紀末より古くならない事がわかったからかな?大乱後の墓になるしね
まず、一市民だと平原の副葬品が説明できない
あの時代の鏡をかなり独占しており、最新の技術のガラス製品にジトウや素環刀、瑪瑙の管玉と水銀朱、国際色豊かすぎ
鏡なんか、三雲等の大量鏡副葬からの流れなのは一目瞭然だし
規模等はその時代の情勢や考え方次第で変わってくるから、副葬品を鑑みれば、平原1号墓は王墓でいいだろうね
それが倭国の王か伊都国の王かわからんが >>134
>その家族墓地の他の墓が仮にも一国の王になった者の一族の墓じゃないんだよ
根拠は?
>平原1号墓のあとに造営されている3・4号墓は、1号墓被葬者の直接の次代の後継者
根拠は?
>だが、国の中枢とは無縁の普通の墓だ
根拠は? >>136
>それが倭国の王か伊都国の王かわからんが
同時期に同じ程度の副葬品の墓が他の地域にも見当たらないので倭王でしょう。 >>136
>まず、一市民だと平原の副葬品が説明できない
伊都国の有力家系だと書いてるだろ?
曽根遺跡群に古墳時代に入ってからも累代的に古墳の増募が見られるから、
伊都国の有力者なのは間違いない
だが、伊都国王(首長)家ではない
鏡作りを職掌とする一族から、伊都国王妃が出て、夫の彦王の死後
しばらく伊都国の王位を預かった女性がいたと考えれば一番座りがよい
鏡作りの一族から出た出世頭の女性の墓に、精一杯の一族の宝物を副葬した
くらいが、平原一号墓の大きさ副葬品に一番似つかわしい説明となる >>136
>あの時代の鏡をかなり独占しており、最新の技術のガラス製品にジトウや素環刀、瑪瑙の管玉と水銀朱、国際色豊かすぎ
>鏡なんか、三雲等の大量鏡副葬からの流れなのは一目瞭然だし
まあ、伊都国の鏡の扱い方の伝統なんだろうね
だから、鏡作りの一族の出世頭という説明がフィットするんだが
当時の仿製鏡が、古い青銅鏡を原料に作られていたことを考えると、
平原1号墓の「多数の破砕鏡」は、鏡作りの家にあった、
仿製鏡原料の青銅鏡片とも考えられる
鏡作りの家なら、勝手なデザインの大きな鏡も作れるだろうし >>136
>副葬品を鑑みれば、平原1号墓は王墓でいいだろうね
伊都国王までは、合ってもおかしくないが、
伊都国王家の王墓の地、三雲遺跡群ではなく、もともとの家族墓地に葬られていること、
また被葬者が女性と見られることから、一時的に王位を預かった有力家系出身の伊都国王妃が
一番ぴったりなんだよ >>137
>根拠は?
これだよ
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2c9cac26ffdc644a177f62ea5a9aabe5202dd80c.78.2.9.2.jpeg
墓の築造順は
5号墓
↓
1号墓・2号墓
↓
3・4号墓
の順という推定が、発掘の結果なされている
で、>>110を再掲
三世紀後半には古墳時代に入るんだよ
そして、2世紀末には、各地の首長墓は吉備の楯築墳丘墓のような
大規模な墳丘を持ついわゆる王墓級墳丘墓の時代に入っている
平原1号墓は、その時代に届いていない
実際その後の平原3号墓・4号墓が、家族墓地である平原遺跡の、
1号墓被葬者の次世代の墓として方形周溝墓で築かれており、
平原1号墓の次の世代がまだ古墳時代に入っていない
その点でも、平原1号墓は卑弥呼の時代に古すぎて合わない
また、墳丘の長軸延長上に大柱を立てる葬送文化が共通している吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓と比べても、墳丘サイズが10分の1だ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が吉野ヶ里の地域首長の家族墓であって、倭王墓でないことを
考えても、平原1号墓を倭王墓と考えるのは無理がある >>138
>同時期に同じ程度の副葬品の墓が他の地域にも見当たらないので倭王でしょう。
同時期に、仿製鏡がやたら多いことを除けば、それ以上に副葬品が豪華な
丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓がある
同時期に同程度以上の副葬品の墓が、他の地域に見られるので
倭王という根拠はないよな なにを必死になっているんですか?
他の古墳は武器ばかりで軍人の墓というのが学会的には定説でしょう。
もしくは大きいばかりで副葬品がほとんどない。
倭人伝に書かれていない石積であることも検討しなければなりませんね。
平原については副葬品の豪華さは
同時代の他墳墓の追随を許しません。
明らかに女王墓。
代々の男王が失脚した後に共立された女王の墓なのですから、
代々の三雲墳墓群と一線を画す平原遺跡女王墓は
倭人伝に書かれた共立女王卑弥呼の条件に完全に一致しています。 >>144
>平原については副葬品の豪華さは
>同時代の他墳墓の追随を許しません。
そういう無理押しの教鞭はやめな
>>143に
「それ以上に副葬品が豪華な
丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓がある 」
という具体例を挙げて否定されてるんだからww >>145
墳丘墓の名前を挙げただけで具体例になるのん?
その内容は?
どの部分が「それ以上に副葬品が豪華」なん?
後半部分には反論できないねぇ
負け犬キナイコシさん >>144
>倭人伝に書かれた共立女王卑弥呼の条件に完全に一致しています。
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>146
ほいよ
赤坂今井墳丘墓
http://www.geo cities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/akasakaimifb.html
大風呂南墳丘墓
http://www.asy ura2.com/0403/ishihara8/msg/321.html
立派だろ? >>147
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
へええ
キナイコシさんは銅鏡が権威の証なんだ。
平原遺跡には世界最大の超大型内行花文鏡が5枚も副葬されているねえ?
で、対抗馬の墳丘墓さんには? >>148
え?
なにが立派なん???
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
え?
ええ?? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>141
倭国王家の王墓の地、三雲遺跡群ではなく、もともとの家族墓地に葬られていること、
また被葬者が女性と見られることから、一時的に王位を預かった有力家系出身の倭国女王が
一番ぴったりなんだよ
魏志倭人伝そのままだろう? >>143
>同時期に、仿製鏡がやたら多いことを除けば、それ以上に副葬品が豪華な
除くなよ。
倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり、伊都国そのものがわずか千戸で列島の他地域を抑えるだけの力を持っていたということだよ。
まして鉄器もない纒向なんて競争相手にもならない。 >>147
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
それこそ、後漢が滅亡した後の卑弥呼の墓だという証明ですね。
本来、鏡は漢の冊封の証だったけれども、その漢がなくなれば漢鏡にこだわる理由は無くなります。 >>152
オンドルは満州やろ。
沿海州とはちょっと場所が違う。 >>154
>倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり、伊都国そのものがわずか千戸で列島の他地域を抑えるだけの力を持っていたということだよ。
調子に乗りすぎ! @阿波 >>155
>それこそ、後漢が滅亡した後の卑弥呼の墓だという証明ですね。
>本来、鏡は漢の冊封の証だったけれども、その漢がなくなれば漢鏡にこだわる理由は無くなります。
前にも同じこと言ってた人がいるけれど、
卑弥呼がもらったのは、魏王朝から!
漢王朝の滅亡後に魏に朝貢に行ってるんだよ
しかもその後も遣使を続けてるんだから、もらった鏡はすぐに鋳つぶしましたなんて
通る訳がないだろうに
魏晋鏡も新しい漢鏡も1枚もない時点で、卑弥呼の墓の候補にはかすりもしない 新しい魏にはそれほど期待をしていなかったということでしょう。
平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。 >>159
>平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。
調子に乗りすぎ! @阿波 >>154
>倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり
青銅器の生産技術では、銅鐸製作の方が高度だぞ
平原1号墓出土鏡がでかいといっても50センチに届かない
銅鐸はでかいのは1メートルを超えてるよ
倭王が倭国最高技術が使えないってのも恥ずかしいよな >>159
>新しい魏にはそれほど期待をしていなかったということでしょう。
なら、そもそも朝貢に行かないだろww
>平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。
詭弁もここに極まれりだな >>161
倭国(阿波)矢野銅鐸の正式名称は鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る「突線袈裟襷文(とっせんけさだすきもん)銅鐸」で、
銅鐸の中でも最新型式。国内でも最大級。弥生時代後期に作られたとみられている。 @阿波 >>149
>キナイコシさんは銅鏡が権威の証なんだ。
「キナイコシ」は>>149の個別識別子
銅鏡が権威の証というより、魏晋鏡が魏朝に朝貢した卑弥呼の墓の証拠なんだよ
弥生時代にも古墳時代にも鏡の副葬が続いていて、魏朝から銅鏡100枚をもらった倭女王が
それを一枚も副葬していないというのはあり得ない 銅鐸の製造技術が高度なのは間違いないが
それが失われたってことだろうな。
少なくとも大和朝廷の時代にも発見されてたらしいが
それ何?、状態だったそうだし。
まあ、畿内周辺は何度か文化の断絶が
あったってことだろうね。 畿内の文化や技術は断絶し、筑紫の文化に塗りつぶされている。
そしてキナイコシとは>>164のこと。 >>164
副葬品に使われなかっただけでしょうね
三雲や潤地頭給などの周辺の遺跡からは魏晋鏡が出てるから問題ないでしょ 平原女王は当時の倭国の富(特に輸入品)を独占していたので、大率で対馬海峡貿易を独占していた卑弥呼本人だろう。 >>169
>平原女王は当時の倭国の富(特に輸入品)を独占していたので、
弥生時代で一番綺麗なガラス釧は丹波から出てるんだけどねw >>168
>副葬品に使われなかっただけでしょうね
どうして使わないの?
使わなかった理由は?
>三雲や潤地頭給などの周辺の遺跡からは魏晋鏡が出てるから問題ないでしょ
それ、三角縁神獣鏡と一緒に畿内から分けてもらったやつww >>169
平原の人は二世紀には死んでるんだけどなー >>161
>銅鐸はでかいのは1メートルを超えてるよ
銅鐸文化は途絶し、「倭国」には継承されなかった。
銅鐸文化圏(畿内)は倭国ではなかったんだよ。
倭国の中では伊都国が最も栄えていた。 >>164
>それを一枚も副葬していないというのはあり得ない
あなたの主観に過ぎない。 >>172
耳璫3世紀以降だよ。
鏡だって、2世紀に超大型内行花文鏡を作ることができたことを証明しないとね。
2世紀は後漢鏡を輸入していた時代だよ。 >>174
>あなたの主観に過ぎない。
というのは>>174の主観にもとずく判断
副葬されている銅鏡は、手に入った舶載鏡が副葬品の中でも
最もよい位置に埋納されているのは多くの墳墓で確認されている
魏皇帝から直接銅鏡100枚を贈られた卑弥呼の墓に、
1枚も副葬されてなくてよいというなら、どんな墓でも卑弥呼の墓にできちゃうよ
平原1号墓は、魏志倭人伝の記述を無視しないと、倭王卑弥呼の墓にはならない
そして、魏志倭人伝の記述を無視した卑弥呼の墓の比定は意味がない
平原1号墓を卑弥呼の墓と主張するのは、単に九州説の願望ってだけ >>173
>銅鐸文化は途絶し、「倭国」には継承されなかった。
ずっと倭国(阿波)で継承されているよ。 @阿波 では畿内に魏からの鏡があるかというとないという。
キナイコシはただ文句をつけるだけ。 >>179
>平原1号墓は、魏志倭人伝の記述を無視しないと、倭王卑弥呼の墓にはならない
魏志倭人伝の俺様の説を無視しないとだろw あると言うならそれを示しなさい。
ないことの証明を求めるのは悪魔の証明です。 >>184
誰が無いと言ってるのか、答えられないの?
そんなことも答えられないの? やっぱり>>181はウソをついていたんだな
さすが九州説 >>171
三角?なんて一緒に出てないよ
弥生終末期
蝙蝠鈕座内行花紋鏡だね
潤地頭給の物なんか位至三公銘だし
同時代に存在して、蝙蝠鈕座内行花紋鏡は副葬されなかった…ただそれだけだよ
蝙蝠鈕座は大型化にも採用されていないから、ちょっと気になっている
思想的に合致しなかった?のかもね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 お話しぶった切りますよ
平原1号の編年材料は副葬品だけなんか?
つうかミラーて伝世するかもだからお墓の古さの下限は決められんちゃうの?(外野の素朴な疑問 邪馬台国は神託政治。
邪馬台国を統治しているのは神である。
卑弥呼は人々に神の言葉を伝えるシャーマンにすぎない。
シャーマンにすぎない者のために巨大墳墓を作るわけがない。 径100歩
殉葬100の
ありさまぞ(恐ろしい一句や 卑弥呼さんは宇気比の達人にして公平正大なる抽選装置よ?
お御籤の始原やな 根拠きかれたら一目散に逃げまくる
これが九州説の処世術 >>190
鏡だけで邪馬台国云々とは、厚顔無恥。 @阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 ダック?が聞かれたんミラーの製造場所年代の根拠やな?
おじいちゃんらより中国人のが詳しのちゃうの?
つうか平原1副葬品同じのが出てる墓で年代確定してるのとすり合わせたら3世紀半ば位になるかもよ?
ミラーばかりに拘らずやってみそ 「ビロウ」で検索
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AD%E3%82%A6
>沖縄市の市の木である
>・・・檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ・・・(古事記・仁徳天皇御製)
(半島との関係が深かまった大阪湾の河内王朝。しかし南方系祭儀(琉球神道)が主流と思われる)
>古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物・・
>天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材
https://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54240971.html
>・・遺伝子検査をしたところ、どうも沖縄から・・・移植されたことが想定されるらしいです
大嘗祭はお風呂から始まる。琉球神道祭祀の大嘗祭
天皇と2人の采女の計3人だけしか知らない秘儀。もっとも謎めいた秘儀(秘事口伝者がいる)
高さ2メートル、径2メートル?の超狭いドーム形の「百子帳」という簡素な幕屋の中で3人で秘儀
ドーム形の幕屋の天頂に、亜熱帯の蒲葵(びろう)樹の葉で作られた笠の蓋を置く?、葉は宮崎青島神社(神武王朝跡地)か琉球神道から葉を入手?
琉球神道は蒲葵づくし。蒲葵の葉の中で一夜を過ごす。神武天皇や卑弥呼は琉球神道出身?神武は太陽に向かって矢を射るのは畏れ多いとして迂回作戦。
前回平成2年、公開された映像に蒲葵の大きな笠?をさしてもらって出てきた今上天皇のお姿は
蛇に化して堂々と人々の前に現人神として現れたお姿。神として表す笠
蒲葵の葉は、晒せば白くしなやかになる。
琉球神道が本家、天皇家神道は分家。琉球神道は海の果てにある神国を重視する。昇る沈む瞬間の「海を渡る太陽神」信仰。祭祀権は女性にある
(本土では、鹿島神社が昇る太陽を、出雲神社が沈む太陽を拝む。両神社は365日、海の水平線の太陽が確保できる)
(病床の昭和天皇は、同位者である琉球神道の大君(女神官)との面会を希望したが実現しなかった・・・) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています