邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 [陈来]殷商的祭祀宗教与西周的天命信仰· 中国民俗学网-中国民俗学会 伊都国に王が居ただけで、伊都国王ではなく倭王だよな。 博多湾岸でも複数の勢力がある。
それが協定を結んで共立国家となる。
集権国家は考えにくい。
旧郡単位くらいの小国群だろうな。
伊都郡、志摩郡、早良郡、那珂郡などなど 訂正します
平原周辺 ×
玄界灘域 〇
まあおなじですか >>534
>旧郡単位くらいの小国群だろうな。
伊都郡、志摩郡、早良郡、那珂郡などなど<
遠慮せんでええよ?対馬海峡から姫川までの広域交易圏や >>528
>平原卑弥呼さんの墓かもよ?
吉野ヶ里辺りと葬送祭祀の文化も同じ
そうした同じ文化圏の中で、より強大な勢力があるのに、
成年男子10人で作れるような小さな墓が倭王の墓であるなどということはない
魏代の度量衡で径十歩に満たない墓が、「大作冢徑百餘歩」と書かれることはない
逆に卑弥呼の墓が「大作冢徑百餘歩」と書かれている以上、径十歩に満たない墓は卑弥呼の墓ではない
当たり前の帰結でしかない >魏代の度量衡で径十歩に満たない墓が、「大作冢徑百餘歩」と書かれることはない <
大作冢と徑百餘歩がリンクしてる?殉葬奴隷とその執務官の行列でないとする理由は?
つうかリンクしてたとして東夷伝の長さ単位が袖や槍や国間隔で狂てても信用する理由は? まあ140mだとしても箸墓はAMSで完全に否定されとるな(残念でした 耳飾りはようしらんが副葬刀的には3世紀真ん中位で不思議ないんやけどな ありゃ?今宵もわえの一人勝ちかい?たれぞ相手になる人おらんのですか?
羽生君や故神の子KID君にも勝てそうな気がしてきた 又說得一布衣從海中浮出其身如中人衣其兩袖長三丈
作矛長三丈或數人共持之能步戰 >>538
>殉葬奴隷とその執務官の行列
行列を径で示すとしたら、それは行列の幅になるぞww
殉葬奴隷(がいたとして)の人数が書いてあるのに、
さらにわざわざ行列の長さで書く理由もない
径百歩が「大作冢」の大きさじゃなかったらびっくりだよw
常に、伊都国説の人間は平原1号墓の大きさをごまかそうとするw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>545
塚の大きさじゃなくて殉葬された100人の奴婢の埋められた範囲じゃない? より詳細に言えば、こうではないかな:
塚だけの大きさじゃなくて、殉葬された100人の奴婢の埋められた範囲も含めた墓域全体のことじゃない? >>547
>塚の大きさじゃなくて殉葬された100人の奴婢の埋められた範囲じゃない?
でも、平原遺跡に殉葬100人の範囲などというものは、検出されていないよね?
残念でした >>549
もっと周辺も調査する必要がありそうですね。 平原が、いくら立派で大きくても、墓だけでは只の墓場にすぎぬ、
王宮と官衙の跡も合わせて示せ。 三雲にあるじゃないか。
弥生時代にしてすでに漢字が使われ、魏の郡使が滞在した外交拠点だ。 >>552
>三雲にあるじゃないか。
で、三雲のどこに径百歩の墓があるんだね?
三雲にも曽根遺跡群にも、3世紀の径百歩の墓はない
残念でした 多くの殉葬のあとはそのままだったかもしれないが、
卑弥呼の場合のような大規模殉葬ともなると、
後世まで語り継がれ、やがてそれなりの神社を建てて、弔うようになったのではないか。
具体例として、内々には卑弥呼を祀っていると思しき阿蘇高千穂神社の境内には、
荒立(あらたて)神社という末社がある。
表向きはサルタヒコとアメノウズメをお祀りしていることになっているが、
いろいろウラ事情があるらしい。
というのは、もともとここには6体の神像が納められていたのだが、
そのうち4体は、明治になって、急にどこかへ移されたらしい。
2体は「荒魂」、もう2体は「和魂」だったそうだ。いかにも謎めいた神社ではある。 >>545
>行列を径で示すとしたら、それは行列の幅になるぞww
<
ん?どういうこと?もちつけ
ちなみに三国志ざっと探したが径は【小路】の意味での用例は見つかったが【さしわたし】のが見つからん?
>殉葬奴隷(がいたとして)の人数が書いてあるのに、
さらにわざわざ行列の長さで書く理由もない <
塚つくりより殉殺儀式の方が政君らにインパクトあったんかもよ?(漢代以降廃れてたんじゃね?ようしらんが まあ殉葬と青銅鋳造で祭祀用品造るんは殷の風俗やね
玄界灘やな(山東から殷やら越やら燕やら 径100が塚のことでも依然東夷伝の長さ単位が袖や槍や国間隔で狂てる問題あるな?
頼みの箸墓はAMSで否定されとるしな(もう参ったせえ あー
殷の殉殺の刃物は刀ちゃうんやな
マサカリでしたか? 殷滅び
山東へ逃げ
呉滅ぼし
越山東へ
極まりて
燕山東へ
山東の
海流の先
玄界や? ありゃりゃ?今宵もわえの勝ち?相手おらんですか?
阿部君や伊支馬君にも勝てそうな気がしてきた >>555
>ちなみに三国志ざっと探したが径は【小路】の意味での用例は見つかったが【さしわたし】のが見つからん?
三国志18 魏書18 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八
太祖行酒、韋持大斧立後、刃徑尺
大斧の刃の部分の径が尺と書いてある
円形物じゃなくても、尺と書かれているだろ?
これが差し渡しの例で、三国志の中
径は、木の幹に使われれば、木の太さ=断面の差し渡しの意味で使われて、
そこから長い構造の太さ、幅も径で表される
川や運河で径といえば、その河幅になる
小樽運河の運河沿いの小道600メートルを、径600メートルと書いたら、
中国人は運河の幅が600メートルだと思ってびっくりしたという笑い話もあるそうだ
隊列を組んでの行進に径の字を使えば、当然隊列の幅の意味になる
まあ、行列だったら、「長」の字を使うのが当然でそんなところに径は使わないけれどね >>563
あちゃー 覚悟の順番待ちちゃうんか?さしわたし100余歩100人逃げ廻ってたんを追っかけて殉殺したのか?(むごいのー
>太祖行酒、韋持大斧立後、刃徑尺<
探したのな?いちおうd
【さしわたし】他にもありましたわ
>敦煌献径寸大珠<
>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?
さしわたし百餘歩殉葬者は奴婢百餘人(解決
>小樽なんたら笑い話<
ん?作文が紛らわしかったんやろ(原文プリーズ?
まあ径≠小道の理由もほんまはないんやろがこっちは径百餘歩=さしわたし百餘歩でもいっこもかまわんよ?(何も賭けとらんし元ネタ >>484 やし
つうかジョーカー君?は二泊と二日かけても径百餘歩=差し渡し百餘歩だったとして
それが塚とリンクしていることの証明も更に東夷伝の矛や袖や国同士間隔で酒吹き出しものの長単位を信頼する理由も箸墓脇孔最下層AMS両ピークが3世紀真ん中見事に外してる理由も上げられんかったいうことな? >>538-539
方言気持ち悪いとか脇ネタにしか反応できんのやったら降参せえ(いい加減タイムアウトよ また段違い手合い違いのハムスター狩りしてもた?(失礼 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ありゃ?荒らしすぎて無人になったのか?
まあ邪馬壹國の所在地はようわからんが卑弥呼さんの都は伊都で決定やね 南至邪馬壹國女王之所都
邪馬壹國は女王を修飾している
着いたところは女王國@壹媽(伊支馬)(壹與)
邪馬壹國女王は壹與のニックネーム 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>568
卑弥呼さんが住んでたのは伊都国に異論無し。 卑弥呼さんが住んでたのは久留米
久留米は邪馬台国の中央部
邪馬台国の範囲は北野地域(筑後川中流平野)と筑後平野内陸部(筑後平野海岸部は投馬國) 北野地域の割り振りはこんなところじゃないかな
次有邪馬国はヤマ国で、八女・筑後・みやま
次有躬臣国はクシ国で、玖珠・日田、
次有巴利国はハリ国で、浮羽・久留米
次有支惟国はキイ国で、基肄・甘木・朝倉 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>565
>【さしわたし】他にもありましたわ
>>敦煌献径寸大珠<
これは正しい
タダごく普通の丸い玉の径を「径」と書いてあるだけ
>>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?
この「径」は「道」の意味
街道ほどしっかりしていない小さな道を「径」という
道を2000里進んだというだけで、径百余歩のさし渡しとは関係ない
>さしわたし百餘歩殉葬者は奴婢百餘人(解決
つまりこんな読み方は通用しないってこと
径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句 福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。 >>575
>久留米は邪馬台国の中央部
久留米が邪馬台国の中に在った国邑の一つであることは異論がないが
久留米に卑弥呼はいないよ
卑弥呼さんが住んでたのは伊都国
糸島市ですよ。 >>579
>福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
>どんぐりの背比べである。
倭国(阿波)の弥生銀座と比べると、「福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群」は碌な遺跡じゃないことが分かる。 @阿波 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>578
ん?レス見逃してました
山海おじいちゃん?の意見は意見として承りましたが
最後の【つまり】の用法完全に間違えてますよ? >>583
泣き言はいいから、「加茂宮ノ前遺跡」に匹敵する「弥生銀座」の遺跡、挙げてごらんよ。 @阿波 加茂宮ノ前遺跡なんてそこら中にある取るに足らない遺跡じゃんw >>588
>加茂宮ノ前遺跡なんてそこら中にある取るに足らない遺跡じゃんw
と、言ってみたかったんだよね? @阿波 >>586
>最後の【つまり】の用法完全に間違えてますよ?
>>565の
>>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?
がまったく近くない
この径は「小道」
径百余歩の径は「さし渡し」
まったく違うものを近いというのは間違い
「つまり」こんな読み方は通用しないってこと
径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句 >>590
>>>586
>最後の【つまり】の用法完全に間違えてますよ?
>>565の
>>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?
がまったく近くない
この径は「小道」
径百余歩の径は「さし渡し」
まったく違うものを近いというのは間違い
「つまり」こんな読み方は通用しないってこと <
山海おじいちゃんプレゼン0点よ?
突っ込み処他にもありますが小道2000里3本長過ぎやろ?
>径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句
<
言い切るのなぜや(?_?) 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>591
>突っ込み処他にもありますが小道2000里3本長過ぎやろ?
小道といっても、踏み分け道ではなく>>578にも書いてあるとおり
街道ほどしっかりしていない小さな道を「径」という
グダグダ言うだけで話の通じないやつなら相手をするだけ無駄だな >>593
おはよう
ん?
結局肝心要の>径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句
< はよう説明せんアホ爺? 漢文の文法は、名詞の形容詞による修飾がかなりいい加減だが、該当箇所は
大作「冢」『徑百餘歩』、徇葬「者」『奴婢百餘人』と、
直後に形容詞句(または同格の修飾句)が置かれているんだから、読み方に紛れはないだろう
殉葬者の列の長さが径百歩なんて、無理読みもいいとこ あーなるへそなるへそ
徑百餘歩|徇葬者|奴婢百餘人
この文法が成り立たないゆうことやね?
問題は陳寿君の地の文に同じ用法があるかどうかやな?
今度三国志注意して読んでみます(アホ言うてごめん ありゃ?
すぐみつかるやん?修飾句+被修飾句+修飾句
八月,紹連營稍前,依沙塠爲屯,東西數十里 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 「陰謀論」を信じてしまう人に共通する気質「スキゾタイピー」とは?
https://gigazine.net/news/20180930-conspiracy-theory-schizotypy/
王朝説信者って、この手の人が多いんだろ?
トランプ支持者と同じタイプの障害だよな >>597
漢文読めないなら無理するなよ
八月、紹連營稍前、依沙塠為屯、東西數十里。
八月、袁紹はやや前に営を連ね、沙塠に依りて屯と為す、(屯は)東西数十里
「修飾句+被修飾句+修飾句 」になんてなってないぞ
紹 連 營 稍前、依沙塠 為 屯、 東西數十里
主語動詞目的語副詞 副詞 動詞目的語修飾句(屯の同格) >>600
ごめんレス見逃してました
八月と東西數十里がなぜに爲屯を修飾しとらんのかまるでわからんプレゼンやな
>八月、袁紹はやや前に営を連ね、沙塠に依りて屯と為す、(屯は)東西数十里<
つうか中文無知以前に言語脳が未発達のお爺ちゃんはそう書き下すんやな(コーヒー吹き出しました
厳密には依沙塠爲屯【東西數十里】みたいに【主句の後ろに付けた数字等で程度を説明する句】は補語であって主句全体に対応してるの知らんの?(勝手な文法作ったらあきませんよ
沙塠に依りて屯と為す、(屯は)東西数十里 不正解
沙塠に依り屯を為すこと東西数十里 正解
つうか殉葬者奴婢百余人は言語脳が未発達のお爺ちゃんやったらどう品詞分解するのんですか
文法にのっとり厳密にやって味噌(興味深い 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 本庶佑氏「教科書に書いてあることをすべて信じてはいけない。疑うことが大事」
先人の言ったことを鵜呑みにしてはいけない
再吟味しないと真実は見えてこない。 しかし陰謀論とかの怪しいネタに飛びつくのは論外。
教科書を信じる方がマシなレベルだよ 陰謀ではなく、記紀が古い歴史を歪曲しているのは常識だろ。 >>600
ありゃ?投了?
袁紹本初一歩下がって身動きとれず? ちなみに1歩譲って【さしわたし100余歩】が前句に掛かっても塚だけちゃいますよ?
おおいに塚を作ることさしわたし100余歩 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>601
>勝手な文法作ったらあきませんよ
それはこっちの台詞
漢文は漢字が表意文字であることに甘えて、文法が堅くないんだよ
>【主句の後ろに付けた数字等で程度を説明する句】は補語であって主句全体に対応してる
というのは、日本語で読み下すときの読みやすい書き方であって、
中国人がそういう認識で読んでるわけではない >>601
>八月と東西數十里がなぜに爲屯を修飾しとらんのかまるでわからんプレゼンやな
「八月」は、ある意味「見出し」だろ
魏書武帝紀第一の建安年間の記事で建安五年が
五年春正月、董承等謀泄。(中略)
二月紹遣郭圖淳于瓊顏良、(中略)
八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。と話が進んでいくだけだから、
八月が修飾してるとか言い出すのが不思議
結局、修飾句+被修飾句+修飾句 の関係にはなってないだろ?
漢文読めないのに無理するなって >>608
>おおいに塚を作ることさしわたし100余歩
で、そう読んだときの差し渡し百余歩は、どの範囲になるんだ?
塚の大きさ以外にはならないだろ? >>614
>中国人がそういう認識で読んでるわけではない
また勝手な決めつけ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>614-615
アホ曝したら介護してもらえるとでも?
>>616
厳密には工区やな(塚径かもしれんしちゃうかもしれんし 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>619
>厳密には工区やな(塚径かもしれんしちゃうかもしれんし
「かもしれんしちゃうかもしれんし」、と
「厳密には」
が同居してるってのはすげえな
適当に茶々入れてるだけで、聞きかじりをえらそうに書いてるだけだろ
畿内説スレで論破されまくり これに対する回答から逃げてるし
「結局、修飾句+被修飾句+修飾句 の関係にはなってないだろ? 」
どれが修飾句で、どれが被修飾語なのか、具体的に言うてみ? >>620
>長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
最初の頃の龍は、伝説の神獣じゃなくて実在の動物だったんだがな
揚子江鰐だよ
長江下流域の実在の生物
それが、揚子江(長江)から離れた、鰐のいない地域に伝わる過程で伝説化していった
話の向きが逆 魏使は伊都国までしか行ってないという説があるね。ということは、卑弥呼のいる国はそこから遠いということだな。近ければ行かないはずないもんね。
邪馬台国は九州北部以外の所にあるということだな。 >>625
九州北部のどこかにあるということだろう。 北部九州とは、どの範囲を指すのかあやふや
都合次第で、広がったり狭まったり、ご都合主義の見本だな ああ、北部九州の範囲については悩むな。
自分は熊本説なので中部九州とでも
呼んだほうがいいかもしれない。
ただ地図では大きい九州山地があるので
熊本は北部と言えなくもない。 >>628
>自分は熊本説なので
そこまでどうやっていくの?
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