邪馬台国畿内説 Part382
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537808182/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和) ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(B.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
https://i.imgur.com/MRmSyqP.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君″jッ至海東,保子¢キ。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青銅」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(文帝紀)とあることからも、人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
次いで柳田が凸帯から庄内期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した
今世紀に入り、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ13に字句修正、84,68に加筆、85を追加 3世紀の鏡は北九州を中心に分布している位至三公鏡
『わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、中国と日本との地域差、年代差を考えれば、
西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。』
『倭の使が、外交関係のあった西晋の国から鏡をもたらしたとすれば、その鏡のなかには、「位至三公鏡」がふくまれていた可能性が大きい。
「位至三公鏡」などのこのような傾向からみれば、西暦300年近くまで、中国と外交交渉をもった倭は、九州に存在していたようにみえる。』
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm >>79
位至三公鏡って庶民向けの格式の低いクズ鏡で有名だよな >>79
>わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので
いや、ど素人が理由も言わずにそんなこと断定しても
誰が信用するんだ????
って話 >>667
そして何を言い出すかと思えば、九州を否定して?、
「大和には弥生時代を通して凄い沢山出土物がある!」?とか言い出す?。
バカは毎度見てて笑わせてくれる 。 >>668
>畿内には古墳5700基以上あるそうだから
椿井古墳1基250点だからそれで単純計算すると5700×250で
畿内に鉄器は142万5000点以上ある事になるな<
畿内なんて、存在しないからインチキだし、
椿井も、大和ではないし、九州倭国の東征将軍の墓だし、
古墳の数も九州の方が多いし、
唐会要の倭国伝の「正北抵新羅」によって倭国は北部九州だし、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国で、
筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の、地方の市を監督する大倭職の国でしかない。 >>669
>>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。<
>これもデマ 筑紫型庄内甕が出ている <
あれ?、おかしいなあ?。
筑紫→大和の搬入土器は、なかった筈。
という事は、この大和説男は、
豊前当たりの「 筑紫型庄内甕」を、筑紫の庄内甕だ、として誤魔化したか?。 >>670
>巨大古墳やらの遺跡無視して鏃の数が国の強さを決めるんなら、現代世界の最強国は
空母や戦闘機なくても兵隊と鉄砲の割合だけは多い北朝鮮になるわアホ<
大和説者って人種は、やっぱり殺し合い戦争・・・・か?。
巨大古墳は、戦争行為ではないよ。 >>671
>ついでに九州説ご自慢の「たくさんの鏡!」とやらがことごとく4〜5世紀の古墳出土ときたもんだw
肝心の卑弥呼時代の出土物なんてなーにもない こいつら脳みそ腐ってるだろ <
九州には、明帝下賜鏡系の鏡や鏡片が沢山出土しているし、
瀬戸内〜南関東の鏡は、九州倭国の東征将軍らの鏡と、
卑弥呼や壹與らが、渡来の呉系の楽浪鏡師らに任せた鏡もある。 >>672
>あと鉄器とやらで征服するなら「弥生時代通じて」北部九州から外に出ることさえもできないチンケな九州の有様に笑えるな
鉄器のある九州は最強無敵なんだろ? 笑わせてくれる<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の武器。 >>673
世界の学問の世界や、国民の世界では、大和説はもう絶滅したも同然だからね。
知能レベルが20世紀で止まってる大和説お爺さんたちだけが取り残されて、
老醜を晒してるだけ。 >>676
>古墳出土品を否定しまくるけど、自分たちの持ち出す出土品とやらが4〜5世紀、下手すると6世紀の古墳だってんだからな
まぁ都合のいい脳みそしてること <
古墳出土品は否定しまくらないよ。
九州倭国の東征将軍家の大事なお宝だから。 >>677
>いや畿内には推定142万5000点鉄器があったんだぞ <
その計算がインチキであったが、
畿内なんて存在しないし、
瀬戸内〜南関東の鉄器は、大体九州倭国の東征将軍家のものだったんだよ。 >>679
>九州の土器が出ないと言ったかと思うと また正反対のことを言い出す九州説
説と呼べるだけの「まとまり」が無いな <
また変な詐欺師が出て来たな?。
九州の土器が出ない、なんて言わないよ。
纏向から出ないのは「筑紫の土器」だと言ったんだよ。 >>682
>弥生時代末には独自の生活様式を畿内式に塗りつぶされて、
真っ先に纏向型を作って三角縁をありがたく数枚だけ押し頂いていた九州がなんだって?<
九州倭国の東征軍によって、
瀬戸内〜南関東には独自の生活様式を筑紫式に塗りつぶされて、
真っ先に卑弥呼や壹與や呉系楽浪鏡師の三角縁をありがたく押し頂いていた大和が、
なんだって?。 >>684
東征将軍家や呉系楽浪鏡師に指導された△を、
大量に棺の外に適当にバラまいて埋葬して、
とても大事そうにしまいこんでる大和様だからな。
筑紫は、流石は大量の鏡のある最強の土地だわー 凄いわー あこがれちゃうなー 。 >>686
「南→東」などの嘘吐き騙しのソースが出せない大和説。 >>687
>だって椿井古墳1基から鉄器250点だろ?
そんで畿内には5700基以上古墳があるだろ?
そんなら5700×250で142万5000点以上鉄器がある事になるじゃないか <
畿内なんて存在しないし、
椿井は大和ではないし、
古墳の数は北部九州の方がはるかに多いし、
京都の一番多い椿井の鏡数を古墳数倍する、という合計計算がインチキだし。 >>690
自分は平気で「弥生時代を通じて」「4〜5世紀の古墳」とかの関係のない話をし、
人様には「3世紀の古墳の出土品」というインチキをする、
これがをする、ヤマトセツですよw。 >>691
つか、邪馬台国とかの存在もしないインチキ造語をする「大和」説ってさ、アレだよね。
つまり・・・・詐欺師の烏合の衆の通称 。 >>693
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、その時その時適当な事言うだけ。
挙句の果てには、古墳が大和説の根拠とか、庄内式も自分たちのもんだとか、言い出すからな。
もう笑い転げて死にそうだ。 >>695
まあ少なくとも大和説というのは「説」じゃない。
「カテゴリー」には、・・・・宗教、という範疇であり、
学問的根拠は全くとまでは言わないが、ほとんど無さそうだな。 >>696
こんだけ毎回ボロボロにされても懲りずに来るんだから、
ここに来る大和説者は、殺し合い戦争暴力団の仕事でやってるだろの、絶対 。 >>697
>邪馬台国とは葛城だ、あきらめろ。<
「南≠東」で×だ。あきらめろssn。 >>700
>>平原の21枚の「尚方作」鏡は、
明帝が下賜鏡が元になっている事が確実なものだし、<
>とか言ってるのが、世界でも75歳の素人オジンただ一人って 笑い話なー<
3世紀頃の東アジアで、「尚方作」と刻めるのは、魏などの中国王朝だけだ、
ってことが判らないのは、
世界で「日本の大和説者」だけだ、って。
笑い話だなー。 このスレの特徴
1、テンプレが異常に長い
2、畿内説のウソが暴かれる
3、他説の主張がわかる
こんなところかな >>702
>平原の国産だらけの鏡がなんだって?
キュウシュウセツが毎度縋り付いてる柳田大先生の調査でそう断定されてるが
残りの数少ない破鏡だのが1世紀2世紀の物 <
「尚方作」鏡を貰えた記録は、卑弥呼しかないからな。
破鏡副葬するのに、綺麗に塗装してから破鏡したんだろうなあ。
>ついでにショボイ方形周溝墓で卑弥呼の死後に特筆されるような墳丘墓ですらないが
何を夢見てんだか知らんがアホは毎度懲りないな <
魏の薄葬令には逆らえないから、表面的には簡素ししたんだろうなあ。
何を夢見てんだか知らんが、・・・・アホの大和説者は、
もう不治の病だから、毎度懲りないな 。 >>704
>奈良でも尚方作(眞大巧)鏡は出ている<
天神山は、方格規矩鏡だから、おそらく卑弥呼らが楽浪鏡師に下賜用に造る事を指示したもの。
>さらにそれが魏からの下賜鏡だったとしても<
いや違うだろ。銘文に「海」といにう文字が入っている、
>21面見つかった九州は邪馬台国じゃないな <
邪馬台国なんて存在しないよ、薄気味が悪い。
>残りの78面は畿内にあるという事になるから<
畿内なんても存在しないよ、薄気味が悪い。
それに、明帝の下賜鏡は、内向花文鏡と方格規矩鏡が中心であったんだよ。 >>104
>破鏡副葬するのに、綺麗に塗装してから破鏡したんだろうなあ。
平原1号墓の錆色塗装鏡は製作工程途中での塗装 >>709
>つまり、だれも祇園山から出た土器を庄内とは言ってないんだよな<
最初の発掘報告者は、庄内や布留という言葉を知らないか?使わないか?のおじいちゃん?だったから、
報告書には「土師器」としか書かれていなかった、という事で、
後からの久留米市や大和説学者らも、「土師器」という文言を踏襲して、
「古い土師器=庄内」と判定した、って事。 そんな事よりも
LOOK『シャイニン・オン君が哀しい』
この曲もそうなんだけど、
なぜ漫画、アニメ・・・ゲームの話ばかりなんだろう
浦島太郎のテーマでしょ >>710
>見つかったものが全部古い鏡を鋳つぶした国産だと分かってるチンケな方形周溝墓はさすがだな<
巨大鏡は、「尚方作」と書かれていないから、おそらく楽浪鏡師に拠る国産だろうが、
青龍三年方格規矩鏡は、サイズが小さくて同范されているから、おそらく明帝下賜鏡であり、
という事は、「全部古い鏡を鋳つぶした」という事にはならない。 『松傾』
どう考えても、ウラシマまりんの話、なぜか漫画 >>711
「南→東」などのウソや、
こういうウソを平気でつける大和説の・・・・脳って、凄い。 >>715
>で?見つかった鏡がことごとく古い鏡を鋳つぶして作った国産の鏡だと分かってて<
「ことごとく古い鏡を鋳つぶして作った国産の鏡だ」とはならない、と言ってんだよ。
>周りに何の影響も及ぼさずに消滅するちっこい方形周溝墓がなんだってんだ?<
薄葬令。
>なあ?まさか卑弥呼の墓とか大笑いなこと言い出すつもりか?<
おそらく壹與の墓。 >>107
勘違いしている
考古学素人の宝賀の感想文に書いてあるのは、
「土器に具体的な年代を与えるのは相当に難解であるが、
卑弥呼が死去した二四七年頃当時の土器については、
西新式土器(柳田康雄氏)、纏向2式ぐらい(寺沢薫氏)、庄内式の【古いほう】(都出比呂志氏)、と表現が異なるものの、
ほぼ同様な見方がなされる。
これらは昭和六一年、いまから十五年前の『三世紀の九州と近畿』(河出書房新社から刊行)というシンポジウムに際しての見解であった。」
祇園山の土師器が【古いほう】と言っているのではない >>105
酷えな
方格規矩鏡は楽浪鏡師に下賜用に造る事を指示したものと言っておきながら
舌の根も乾かなぬ内に明帝の下賜鏡は、
内向花文鏡と方格規矩鏡が中心であったという支離滅裂ぶり >>717
>奈良でも尚方作(眞大巧)鏡は見つかっている そして九州では21面しか見つかっていない
となると魏の下賜鏡100枚だったとしても 残りは未発掘の畿内の古墳ににあるという事になる<
この大和説男も、全くのアホだ、という事だね。
明帝の銅鏡百枚の全てが「尚方作」であった、という事にはならない。
当然、腕のいい高名な民間鏡師らからの買い置きの鏡もあった筈。
例えば、青龍三年鏡の「顔子」の「ような。
>邪馬台国は畿内と認めるか <
邪馬台国も畿内も存在していないから、この大和説男は・・・・詐欺師だな。
>尚方作鏡は下賜鏡じゃないと撤回し邪馬台国は畿内と認めるか<
「尚方作」と書けるのは、魏の工房か、
魏朝の代理が勤まるような卑弥呼らの命令があった場合だけだ。
>九州説が取れる選択枝は二つに一つだ<
九州説は、
大和説者のような狭小な視野でしか考え断定する事しかできない・・・・アホではなく、
十分に広い可能性を考えて、それらカラオケの確率の高いものを帰納的推論しているのだ。 あとシュテンドルフのセリフ?
お前たちと飲んだばかり・・・(このようなことに)
と言っているけど
本当に、いつ頃の話なんだろう
ドルフは死んでなくて、生きてたのか!みたいな話だし 老婆(旧姓:渡辺)の話?
結婚する前の話なんだけど、
離れなんかもあって、凄い家に住んでいる人だと言われて・・・
と言っていたし、
震災が起きた後に、そういう話をするようになった 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>119
>「尚方作」と書けるのは、魏の工房か、
>魏朝の代理が勤まるような卑弥呼らの命令があった場合だけだ。
そんなこと
素人じいさんが独断で宣言しても
なんの意味もないでしょ 老婆も小学校しか行っていないよ
というわりには詳しいし
そういう話、歴史? >>2
>乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は
>各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
那、主語が変わってるだろ。
あくまで「2世紀前半から続く王権が」にならないといけないのに、
「各地の首長が」に変わっている >>127
いまどきの九州説は、日本語もろくに読めないない無教養ばっかりか 知能が低いことが九州説入信の必須条件だから仕方がない >>720
>え?建物ですらないただ立てただけの柱2本しかない方形周溝墓が卑弥呼の祭祀場とか言い出すのか?
まさかねぇ
そんなこっ恥ずかしいことを大キュウシュウセツ様が言い出すわけないよなあ<
えっ?。魏の薄葬令を知らないの?。
まさかねぇ。
そんなこっ恥ずかしいことを、大ヤマトセツ様が言い出すわけないよなあ。 >>726
また「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しのバカの大和説者が、
「古墳はヤマト発祥!古墳こそ邪馬台国の証拠だ!庄内式もぼくちゃんの物だもん」
とか喚きだしたw。
毎度バカ踊りに笑わせてもらえる。 >>127
「2世紀前半から続く王権」とかいうのは
岡上あたりの独特な主張で
畿内説とは関係ないから
>>730
しかし「南→東」などの嘘つき騙しのヤマトセツは、
毎度都合がいい曲解ヘイトスピーチばかりよな。
西新式は「古い土師器」と並行し、祇園山は古い 。
西新式と並行するから「古い土師器の庄内」も3世紀半ばだ。
北部九州から見つかる須恵器?とやらは古い灰色陶器だ。
纏向から見つかる古い半島土器?は、筑紫よりも50年位は新しいから、
3世紀末以後だ。
これが判らない、こいつら大和説者の脳みそどうなってんだろうな。 >>731
自分達が言い出す時の西新式は3世紀の庄内式と並行する物だから3世紀。
でも庄内式は4世紀だと?。
流石は狂人大和説者のいう造作は、理解できない 。 >>134
あなたに考古学は無理だから
引退して孫と遊んでなさい >>134
祇園山から見つかったものが「古い土師器」だなんて誰も言ってないから
そこんとこヨロシク >>732
>畿内、九州ともに西新式は庄内式と並行してる判断でだいたい一致してる <
畿内なんて存在しないし、大和は九州よりも50年位あたらしい、と言っている。
>これは九州説の学者の意見ともすりあわせて作られている そして西新式の最終段階と布留式の出現期は被っている
これも一致してる だがキュウシュウセツのアホの手に掛かると並行してるはずなのに西新式は3世紀初頭から3世紀半ば
でも庄内式は4世紀で布留式は4世紀末という<
西新の時期など言った事もないし、大和の土器編年は九州の土器編年よりも50年位新しい、と言っている。
>いつも畿内は土器は一方的に古くしてる!とか喚き散らしてるがこのありさまだからな<
・・・・大和説者という人種は、自分でてっち挙げた話に、
自分でヘイトスピーチする・・・・だからね。
大和説者は、学らの編年さえも無視して好き勝手に都合のいいことを叫んでるからなら。
学問なんてもんじゃないのがよくわかる。 >>138
>畿内なんて存在しないし、大和は九州よりも50年位あたらしい、と言っている。
なんの理由もなく、な >>734
庄内式は九州発祥!。
前方後円古墳も九州発祥!。
祇園山も「古い土師器の庄内」だから卑弥呼の墓!。
4世紀頃の前方後円墳古墳から鏡が出るから九州倭国の東征将軍らの墓!。
弥生時代通じて凄い沢山の出土品があるから九州が邪馬壹國女王之所都! ボーボボもゴーストライターだったの??
まさか思考盗聴というわけでもないだろうし・・・・、
陰謀論者が言うには、そういう事(思考盗聴)も可能だと言っている >>138
>大和説者は、学らの編年さえも無視して好き勝手に都合のいいことを叫んでるからなら。
>学問なんてもんじゃないのがよくわかる。
畿内説は、学者の編年に即してるから
学問そのものですよね >>140
つまり九州説には
ひとつも根拠がないと
そういうことだね >>133
ということは2世紀前半の男王の系譜は断絶したわけだね。 >>133
倭人伝にあるのだから、卑弥呼前史を無視したらいかんだろう
倭国は大乱の前に男王がいたのだよ
共立された卑弥呼は前王との関わりがある可能性が高い
歴史的に鑑みると、血筋関連が一番高そうだがな
その国の中心地域が変わった等の表現は無いので、基本同じ所だろうね
まぁ、可能性が高いぐらいに過ぎないけど
しかし、下記文章は、倭国を考察する上で説明できなくてはいけない部分ではある
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 >>146
そうテンプレに書いてあるんだが、読んだことはないのかね? >>739
大和の猿のバカ話は、バカ用のスレでやれ 。
そこで好きなだけバカ同士でバカな妄想話してこい。 >>740
3世紀前半の大和に鏡が多い??。
はぁ?なに妄想してんだ?。
大和説ってマジで何も知らないで喚いてるんだな。 >>149
理由のない「可能性が高い」が
トンデモ説の特徴 >>150
ひどいテンプレだな。
それでは何をもって卑弥呼は倭王の正統と認められたんだ?
王家は断絶、王都も全然違うところにありますでは、正統とは認められない。 JR桜井線巻向駅近くを、ガイドブックを片手にして歩いていたら、
「こんなところに邪馬台国はないのではないのかな」と地元の人に言われたな。。。。
「どうしてなのかな」と応答したのだが、ニヤニヤされながら、
「あれは、観光関連の宣伝w。。このあたりの者には常識」と言われたな。。。 >>152
いや、歴史的に鑑みた可能性が高い推測だよ
それを考古学と照らし合わせ、状況を考察していく
まず、前王はどこにいたか?
倭国の"中"にいたのは確実
ここからだね
都合の悪い部分は切り捨てたいのはわかるけど、それでは説得力が無いし >>157
そいつが加古川から来た老人でないという証拠は? JR桜井線巻向駅近くを、ガイドブックを片手にして歩いていたら、
「こんなところに邪馬台国はないのではないのかな」と地元の人に言われたな。。。。
「どうしてなのかな」と応答したのだが、ニヤニヤされながら、
「あれは、観光関連の宣伝w。。このあたりの者には常識」と言われたな。。。
地元の人に、そのあと、自宅でお茶をご馳走になったな。。。 >>162
もっと多くの話を、聞けたのではないのかな、、、 >>154
推測し、考察するしか無いだろ?
別の可能性が高い説があるなら、出せばいい
事実は謎なのだから
その中で考古学の出土物は事実に基づく物だから、適合する説を考えていくだけだよ
しかし、倭国は卑弥呼共立時に創立された国ではない、事は確実だね 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。 >>165
何も考えてないやつが
考察はできないだろ 男の王が七、八十年続いたということは、男の王の前は、女の王だった可能性が高いな。。。 魏志倭人伝時代の倭国は、男が王になるごとに国が乱れてしまったのではないのかな。。。 JR桜井線巻向駅近くの地元の人の話では、箸墓古墳を作製したときに、昼は奈良盆地の人民が大坂山から石を運び、夜になると火星人が石を積み上げたのだね。。。 >>741
肝心の卑弥呼の時代に、大和はお寒い状況だから、大和説の連中も困った挙句、
纏向を3世紀半ばに持ち出したり、
4世紀の古墳の鏡とか持ち出してる状態なのに、
バカはこれだから
3世紀の大和が鏡の中心地とかどんな妄想してんだろうな?。 >>170
卑弥呼が何時、王になったのかはっきりすれば、その先の女王のことも判明するのではないのかな。。。 >>744
「卑弥呼の時代に大量の鏡がー!」とかいつも叫んでるが、
聞いてみれば「大和!」とか「纏向」とか言い出すからな。
笑い死ぬ。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当はもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>177
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 ひたすらウソをつく
それが九州説に残された唯一の道なのだな >>745
本当にそんな3世紀の鏡の中心地が大和にあれば、
誰も困らんからなw。 >>746
鏡もない
鉄もない
王城もない
径100歩の墓もない
大和説って何を根拠に妄想してんだろうな 理解できんわ キナイコシ打つ手なし
このスレを閉めるか、
このままは恥をさらし続けるかの2択 畿内説の宣伝が、反論することを放棄して、覆しようもない真実に対して、嘘だと喚き散らすだけになってしまったな。。。 帥升という人物は、日本書紀に記録された人物なのだろうか。。。 >>747
ドヤ顔で言い出す遺跡からは
国産の鏡すらない、ショッボイ掘立柱だったり、陶器もも鉄も出て来ないから、
笑わせてくれるし。 漢委奴國王とは、男なのだろうか、女なのだろうか。。。 前スレのオウム返し荒らしという虚しいバカ踊りを続ける九州猿に朝から笑わせてもらってる
もっと踊れ
ホラどうしたまだまだオウム返ししないといけないレス沢山あるぞ ショッボイ掘立柱とは、地元の者に不評なあの不気味な柱のことなのだろうか、、、
そして、あの不気味な柱は撤去されたのだろうか。。。 畿内説の宣伝係が、ザラコク氏に踊らされていて、朝から笑わせてもらえるのではないのかな。。。 >>183
畿内説は
イヨの時までに領土?連合?を広げ、東に入植し、中心地を移したならまだわかるんだよね
またはクナ国連合にに入植された説もわりとあるかもしれない
でも徹底的に遷都説を否定しちゃってるからなぁ 奈良市には、せんとくん、、、という市民にも不気味がられた着ぐるみがあったな。。。 >>158
テンプレ読まない方が良い
畿内説が誤解される >>183
現実を無視した妄想の花園で遊んでるようだな
逃避は老人ボケが進むぞ 「せんとくん」をデザインしたのは大阪府出身の彫刻家だな まぁあんだけ「九州の絶対の証拠」とか喚き散らしてた鏡が、
実は卑弥呼の時代には前時代の破鏡片とゴミみたいな?製鏡しかないと「いまさら」知った九州老人に現実を直視する勇気はないんだろう
こんなもんで良いなら畿内でも破鏡片が見つかるし、?製鏡は畿内周辺から九州と別の物を生産して関東から九州にまで配布してるから
あ、ちなみに絹も終末期の出土は2遺跡だけで、粗悪な糸くずが見つかる程度
後期(AD100年くらい)までは二けたを数えた出土のこの激減ぶりは明らかな衰退
こんな程度で出土出土言うなら纏向の絹の小袋の方がよっぽどまともな出土品だなw
「大量の絹と鏡を出す偉大な先進地域大九州」の正体がこれね >>158
>>>156
>認められないって理由は?
何をもって正統だと認められたと思う? >>767
>「2世紀前半から続く王権が」共立する理由がない
大陸史書(史記)における共立という用語の使い方は
この考察でも読んでおいて・・・このページの中程の「史記 晋世家」ってところ <
根本的に、共立王=倭国王という事であり、大和は、「南≠東」に拠って×。
>>前方後円墳がない唐古・鍵がなんで王権なんだよ。<
>本当に事実関係の認識に欠けているな 古墳時代の初期には、奈良盆地の有力者の墳墓は
大倭・柳本古墳群にまとめて作られているんだよ<
「大倭」とあれば、原則として、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の地」(おそらく欠史八代の頃)であった、
という事だよ。
>それぞれの「集落に付随する古墳」という形にはなっていない<
纏向は、その延長で、九州倭国の東征将軍の「市の祭祀場」だな。
「万世一系皇国史観」という結論先にありきのもの知らずだからの、
見当違いのことを信じ続けている。
大和説以外の文献を少しは読みな。
自分に都合のよい文章しか読まないから、いつまでも迷妄なままなんだよ。 せんとくんの不気味な踊りは、幼い子供たちとっては、脅威になってしまったな。。。 卑弥呼即位の前は、漢委奴国王印が出た福岡が倭国の中心だったことは間違いない。
3世紀には平原遺跡も登場するし、伊都が倭の王都と考えるのが妥当だろう。 >>201
インターネットの公式ホームページを閲覧して判明したが、魏志倭人伝時代の遷都とは、無関係な着ぐるみだな。。。 >>203
邪馬台国は遷都はしないで、最初から最後まで、熊本城の地下に存在したのだね。。。 >>768
>>遺跡数、鉄器、銅器は福岡が一番多いのだから。<
>遺跡数が多いのは、遺跡データベースへの登録数が多いだけ
例えば福岡県の弥生墳墓遺跡だと 調査を除いて757件がヒットするけど、
そのうち 「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
そりゃぁ、数が多くなるのが当然
鉄器が多いのも、甕棺墓というタイムカプセルのおかげであって
発掘バイアスの寄与が大きい<
そんな事は、大和でも同じ。
要するに、遺跡総数や鉄器総数で、福岡の方が多かった、という事実には変わらん。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 >>205
多かったって証拠がないという指摘なんだが
日本語が理解できてないようだな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 九州には絹も鏡もないと言う現実に耐えられない老人が発狂してるな
可哀想に
こんな当たり前の情報さえも知らないで偉大な大帝国大九州の大邪馬台大帝国を妄想してたんだから
邪馬台国の会の被害者がこんなところにも >>770
>桜井茶臼山古墳出土の銅鏡は、破片の形でしか出ていないし、その前に盗掘にあっている
だから、出土状況は「破片の形で墓坑内の土と紛れた状態」だし、内行花文鏡も
「復元して面径を測る」ことはできていない <
ふーん?。
「鏡片」と書く学者と、「破片」と書く学者がいた、って事か。 畿内には絹も鏡も鉄もないと言う現実に耐えられない老人が発狂してるな
可哀想に
こんな当たり前の情報さえも知らないで偉大な万世一系の大和大帝国を妄想してたんだから
桜井市教育委員会の被害者がこんなところにも >>781
>>畿内も邪馬台国も存在しないから<
>それ、循環論法なの、わかってる? わかってないよね <
「南→東」などという史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説者の、
「万世一系皇国史観」という「結論先にありき」の循環論法であった、
という事が分かっている。 死体となった邪馬台国畿内説が、テルテル坊主のように吊るされて、謎の考古学者達にサンドバックにされてしまったな。。。 オウム返し猿は分かりやすいなw
痛いこと突かれるとすぐに反応する
こいつ一日中いてハラハラしながらスレ監視してるんだなw そもそもそんな分かりやすい大量出土があればどの学者だって対応するだろうにな
素人でも調べたらすぐわかる程度のアホ情報に踊らされてるんだから
何かと言うとすぐに陰謀とか叫びだすし
九州説がキチガイの集まりだと言われるのがよく分かるわ >>784
>>筑紫では△も庄内も、大和よりも50年位早い。
これは以前から九州説考古で言われて来た事であり <
>九州説考古なんて存在しないよ つまり九州説は昔から考古学的に否定されていた<
勿論、
30年位前までの大和説学者の編年表などでは、
九州の庄内が大和の庄内よりも50年位早く始まったように書かれていた、
という意味だ。 >>216
また、そんなウソをつく
九州説って病気なの? >>216
平然とこんな嘘をつく
そして絶対に証拠を出さない
それが九州説の生き方 【畿内の鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。 朝飯前にウソをつき
昼飯前にウソをつき
飯を食ったらウソをつく
それが九州説 >>205
>そんな事は、大和でも同じ。
そんなことはない
弥生時代の全国でも最大級の拠点集落の唐古・鍵遺跡は
「唐古・鍵遺跡で1件」だよ
調べもせずに適当なことを書いて、ウソだらけになるのが九州説の特徴 ちなみに、糸島の三雲遺跡群は24件
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡 >>210
>ふーん?。
「ふーん?」じゃねーよ
「調べもせずにでたらめを書いてごめんなさい」は? 九州に鏡も絹も無いと「今更」知った九州老人が発狂してお送りする必死のサル踊りをお楽しみください 鏡なんて九州説に関係ない!とか言う珍言が飛び出したからなぁ
次はどんなバカなこと喚きだすのか楽しみでしょうがない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>786
>あらら、鉄器が甕棺の中から出てると思ってる?<
祇園山の墳裾の殉葬の1号甕棺からは、鉄刀が出ている。
>絹はその可能性が高いが、
鉄に関しては畿内以外の西日本だと普通の住居跡から出土するよ<
畿内なんて、存在せず、
大和からは、弥生末期の3世紀末までは、鉄器は殆ど出土しない。 そりゃ仕方ないよなぁ
今まで考えもしないで盲信してた事が全部自分のバカさ故の勘違いだと今更になって知ってしまったんだから
九州老人には耐え難いことだろう
うんうん
こうやって発狂して裸踊りを続けるくらいしかやることないよなぁ >>788
>三世紀前半の九州は鏡片だけなので、ゼロ枚<
鏡片は、卑弥呼の親愛なる部下、という身分や地位を示す貴重な鏡だから、
数えなければならず、
更に、卑弥呼の死は、おそ楽248年頃であり、
下賜されたのはそれ以前であるから、3世紀前半であり、
0にはならないよ。
勿論、祇園山にもある。 破鏡が5期の物だと知らないからまたこうやって妄想を叫んで恥をさらす九州説だった 完鏡の副葬がまた始まるのは古墳時代になってから
つまり、魏晋当時に九州は中国鏡を手に入れられず、古墳時代になってから鏡を手に入れたことになるわけだ >>789
>三世紀の九州の鏡は少数の前時代の破鏡や小型?製鏡ばかりとなっている<
いや、沢山の鏡片が出土しているし、蝙蝠鈕座内行花文鏡も幾つも出土している。
勿論、平原は3世紀である。
>これは中国鏡を手に入れる手段を失っていると言う事を如実に示している
仮に平原を3世紀に持ち込んだところで前時代の鏡を鋳つぶした国産鏡ばかりで、
数少ない中国鏡も前時代の物で状況は変わらない <
明帝の下賜鏡が沢山あった、という事も示しており、
渡来の呉系の楽浪鏡師らに拠る、志登や藤崎西新町や祇園山や那珂八幡などの鏡も、
3世紀である。
>「2世紀半ばまで多くの中国鏡を出した」と言う前提はむしろ
「肝心の3世紀、卑弥呼の時代に中国鏡の入手が出来なくなった」
と言う事を際立たせることになっているのが分かる<
この男が、数多くの3世紀の九州の鏡の存在を隠蔽しようとしている・・・・である事が判る。
>そして4〜5世紀の古墳出土鏡などは伝世鏡などと言ったところで
やはり入手経緯は不明としか言いようがない
やはり「新しい共伴物」の年代で判断するのがどの説関係なく考古学の当然の常識で参考にしかならない
この事から3世紀の九州が鏡の中心地などと言う状態ではなく、むしろ明確な衰退を示している時期だと分かる <
一貴山銚子塚などに見られるように、筑紫の現地生産が続行されていた、という事は明らかである。 倭全体では大体150年くらいまでの後漢鏡を最後に鏡の入手が困難となり、破鏡や小型?製鏡の作成を始めたことになる
後漢政権の動揺とも合致しているので妥当な時期となる
九州に限らず他の地域でも同様に完鏡の副葬が激減して破鏡が主になる
そして再び完鏡の副葬が始まるのは古墳時代
この100年以上の空白の時間を考えると伝世と言うよりも現実的に鏡入手が出来ない時間があり、
古墳時代になってから鏡を再び手に入れられるようになったと考えるのが妥当だろう >>790
>まぁそんなに大量の鏡とやらが出てるならそこに比定すればいいだけだからな
無いから平原に執着してるわけで <
祇園山は盗掘されたが卑弥呼の墓。平原は壹與の墓。
>卑弥呼の時代になにもなくなる九州の現実に耐えられないから妄想に逃げてんだろうな<
大和説や阿波説は、九州に沢山ある、という現実に耐えられないから、
史料実態を口先で誹謗抹殺して、
九州には何もなかったかのような嘘つき騙しの妄想に逃げ込んでいるんだろうなあ。 畿内説的には径100歩の墓ってmに換算したら
どれくらいだと思うの?
やっぱり径150mくらいの墓を張政に自慢したの?
参考までに後漢王墓とか魏朝皇族墓が最大のもので径60mくらい。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>794
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをし、
口先でヘイトスピーチ中傷をしないと、
何も出来ない大和説と阿波説ww。 >>795
ウソと中傷の詐欺が、大和説の書き込みのメインコンテンツだから。 >>796
大和では、卑弥呼の時代の3世紀前半に何も出てこないのを、
本当は大和説もよく知ってるからな。
その現実に耐えられないから、古墳や庄内式の起源を50年位遡らせて、
喚きだしたりするんだろう。
現実を受け止められないから精神に異常をきたすんだろうよ。 このように破鏡、小型?製鏡の時代と言うのは「倭全体で鏡の入手が困難になった時期」であると分かる
そして古墳時代に入ると再び完鏡の副葬が始まる
この事を考えると古墳出土鏡は、そのまま古墳時代に入手された鏡であると考えるのが妥当
つまり、古墳以降の鏡はそれ以前の入手物ではなく、古墳を広めていた勢力を通しての入手が主になると言えるだろう >>799
>平原遺跡の年代
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である<
成程。 平原遺跡はこの鏡不足を象徴する遺跡であると言える
この墓から見つかる鏡のほとんど全てが古い鏡を鋳つぶして作った国産鏡となっている
そして残った少数の中国鏡も古い時代の鏡となっている
3世紀の年代設定をされていようがいまいが、「中国鏡を入手できなかった人物」の墓であるのが分かる 畿内説的には径100歩の墓ってmに換算したら
どれくらいだと思うの?
やっぱり径150mくらいの墓を張政に自慢したの?
参考までに後漢王墓とか魏朝皇族墓が最大のもので径60mくらい。 >>802
>古墳出土鏡とか言い出したら畿内が圧倒するだけだしな <
畿内なんて存在もしないインチキ騙しの造語。大和は、3世紀末以後のホケノから、同行式画分帯が初めて出ただけ。
>むしろ含まないと言ってあげるのは優しさのレベル
まぁそれでも畿内は3世紀のまさにその当時に近い古墳から鏡が出てくるから、
伝世鏡とか無理筋出さないでも当時の鏡として判断できるからな<
ホケノが3世紀末以後。それ以外は4世紀以後。
>何もない九州とは比較にもならない<
当然志登や藤崎や祇園山や那珂八幡などがある。
>そして窮した挙句に古墳出土鏡は全部九州が上げた物なんだい!
とか訳の分からん妄想を喚きだす始末<
言わない。
九州倭国の東征毛人五十五國の東征将軍らが、卑弥呼らからの下賜鏡を副葬したか?、
渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡か?、という事になる。
大和説とか阿波説とか言う連中は、そのまま脳の病として処理して良い奴らだな。 卑弥呼の時代である弥生時代末期の九州の鏡事情を考えると多くの事が明らかとなる
九州全体で古い時代の破鏡や、小型?製鏡ばかりが出てくる
平原遺跡も同様の状態
この事から導き出される結論は
「配ってしまったから無い」ではなく「最初から入手できていない」と言うのが分かる
多くの鏡を下賜されたことになっている邪馬台国の姿とはかけ離れた姿が浮かび上がる事になる >>804
>んで?大九州様のどこから三世紀、卑弥呼の時代に沢山の中国鏡が出てくんの?
なぁ? 教えてくれよ<
明帝→卑弥呼の銅鏡百枚と、トライの呉系楽浪鏡師らが造った鏡。 >>805
>九州説の脳内には卑弥呼の時代に
大九州の大邪馬台大帝国が金銀財宝を転がしながら日本を支配してた事になってんだなぁ<
「大邪馬台大帝国」なんて存在もしないし、「日本を支配」も無理。
九州とその周辺の島々。 >>806
>中国鏡がザクザク湧いてくる日本を<
3世紀にザクザクは平原だけ。
大和説者は、卑弥呼が、直接支配した国が大和にあると思い込んでるんだから、
そりゃ会話も成り立たんわなぁ。 >>807
>そもそも畿内のシステムの象徴の古墳から出てきた鏡を<
「畿内のシステム」なんて存在しないから、×。
3世紀にはほぼ全くなかった鏡を、鼻の穴膨らませて持ち出すあたり、
大和説の脳ミソのイカレっぷりが凄いよな。 >>809
>>舶載△がある、という事を書いた時点で、間違った前提を置いた事になる。<
>「舶載」にも「仿製」にも「 」が付けてあるだろ?
舶載と言われているもの、仿製と言われているもの、という意味だよ
舶載鏡であることを、最初から前提にはしていない <
「舶載と言われている△」というものが存在しないので、
嘘吐き騙しになるんだから、書くな。 >>812
「南→東」などの嘘吐き騙しをしている寺澤に勝ったとか、
寝言言ってる馬鹿がいて笑った。
しかも寺澤は勝手に、史料事実を曲解捏造という誤認している。
流石は大和説の異常者だな。 >>239
>つまり、魏晋当時に九州は中国鏡を手に入れられず、古墳時代になってから鏡を手に入れたことになるわけだ
手に入らないわけないだろ。
九州を経由して入ってくるんだから。
しかし、国産の鏡に興味が移ったというか、価値観が変化したんだよ。
漢が滅亡したから、漢鏡に意味がなくなったのだろうね。 >>241
平原遺跡の位置付けが不明確。
やり直し。 >>253
>九州全体で古い時代の破鏡や、小型?製鏡ばかりが出てくる
>平原遺跡も同様の状態
平原遺跡の鏡は小さくも古くもないよ?
キナイコシは息をするように嘘を吐く。 この間まで、平原遺跡の鏡は割るためだけに作った簡略化された鏡とか言っていたのに、もう矛盾したことを言う。
キナイコシはその場限りの適当な嘘をつくから矛盾だらけ。 九州猿が現実を受け止められずにアホ丸出しの珍言を繰り返す様が面白いです つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 まさか、畿内説の宣伝係は、あの不気味な掘立柱を立ててしまって、地元住民に冷ややかな目で見られている、ちっぽけな空き地を城だと考えているのだろうか。。。 >>267
あの空き地は、熊本城の観光用の駐車場よりも狭いのではないのかな。。。 そもそもキナイコシが主張する王城とは?
平和だから環濠がいらないと言ってみたり、王城と言ってみたり、その場を取り繕うことばかり。
そもそも魏志倭人伝では王城はかなり守りが固いとされており、纒向の様子とは似ても似つかない。 >>267
あの掘っ立て柱の間から、タコ型火星人の着ぐるみが出現して、観光客を喜ばせれば良いのではないのかな。。。 そして呟き荒らしで都合の悪いレス流し
いつものパターンだな
一人で複数の荒らしを装って大変だなぁ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. キナイコシがまた変なことを呟いたな。。。
271日本@名無史さん2018/09/28(金) 15:25:29.17
そして呟き荒らしで都合の悪いレス流し
いつものパターンだな
一人で複数の荒らしを装って大変だなぁ >>273
畿内説の宣伝係のキナイコシは、キナイコシをサンドバッグにして、揶揄っている者の人数を、少しでも少ないと思いたいのではないのかな。。。 >>821
>台与は卑弥呼の宗女であって、それ以前の王統とのつながりはどこにも書いてないぞ <
「台与」なんて存在もしない文字に変えたインチキを裾のるから、繋がりが見えなくなった。
きちんと史料事実通りに「壹與」と書けば、
中国式の一文字名詞の「壹」氏の「與」という名の娘だという事になり、
「邪馬壹國=邪馬という壹氏の国」の「壹」との関係が見えて来る。
当然、魏使らも陳寿も、同じ「壹」を使った、という事は、そういう意味であった、
という事を知っていた可能性もある。
>まあ、神武の東征説話は、畿内皇統が九州起源だということを示したいのかもしれないが、<
畿内なんて存在しなかった嘘吐き騙しの文言。
>その場合でも、神武の大和入りは邪馬台国より5世代100年以上(おそらく)前のこととなる<
邪馬台国もなかったから、嘘つき騙し。
>神武の入植が史実であっても、普通に畿内説で問題ない<
畿内なんて存在もしないから×。
>「東遷の時期の範囲を不明にすれば 畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう<
九州倭国では、五瀬命や神武らの個人的な東遷と、
九州倭国の国としての「東征毛人五十五國」の二種類あった事になる。
>つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい 早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう<
「畿内」なんて存在もしないから、×。 畿内説の宣伝係のキナイコシは、論破されると、イノシシの顔の話題に切り替えるのではないのかな。。。 >>822
キチガイ大和説みたいな、「南→東」などの嘘吐き騙しの異常者にはなりたくないわ。 >>823
九州に、卑弥呼時代の魏鏡や渡来の呉系楽浪鏡師らの製作鏡があった、
という事を知って、
当然の事実を目にして発狂する大和説キチガイが吹いた。 >>265
畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 >>825
>素直に読んだら邪馬台国は沖縄か台湾の位置では?<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるから、×。
素直に読んだら、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
邪馬壹國女王之所都は、博多湾岸の不彌國の直ぐ南〜筑紫平野付近になり、
女王支配國地域は九州付近全域になり、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」とほぼぴったり一致し、
「沖縄か台湾」は×。 >>826
>邪馬台国は葛城であり纏向ではない。 寺沢はボンクラ。<
邪馬台国なんて存在もせず、葛城も纏向も「南≠東」などに拠って×。 >>832
>その通り。
魏が邪馬台国の卑弥呼を倭奴国の正統な後継と認めたということは、
卑弥呼も博多湾沿岸にいたということだ。<
成程。 >>834
>別に漢鏡じゃなくてもいいんだけれど、
魏志倭人伝で魏の皇帝から銅鏡百枚もらったと明記されているのに、
3世紀の舶載鏡が1枚も出ない平原1号墓が何だって?<
確か2枚位が挙げられており、
21枚の「尚方作」方格規矩鏡も、塗装されていただけで、
おそらく明帝の下賜の鏡そのもの。 >>838
何もない大和ナメクジ大発狂。
遂には漢鏡とかのとかの殆ど無関係とか、「邪馬台国」なんていうウソを言い出したwww。
本当にその場その場で思いついた言い逃れを喚くだけだなwww。 >>839
今日も「南→東」などの嘘吐き騙しの、能無大和説の断末魔が響き渡って心地いいなぁ。
次はどんなバカな事言い出すのかな?、楽しみだな。 >>845
>おそらく、神武は卑弥呼と同世代かわずかに歳上。
倭国大乱で王都である伊都国を脱出して大和に向かったのだろう。
そしてその後に即位したのが卑弥呼だ。<
「南≠東」などに拠って×だ。 >>287
ひたすら「南≠東」とか
お経唱え続けてるだけの九州説の惨状のほうが
無能九州説の断末魔としか見えないけどね >>846
もの知らずの大和説者の思考回路
>「卑弥呼時代の九州には小型?製鏡と前代の破鏡しかなく漢鏡がないと今更知る」<
卑弥呼の時代の九州には、明帝の下賜の銅鏡百枚と、渡来の呉系の楽浪鏡師らの製作鏡もあった。
>魏の下賜鏡がどうのこうの大騒ぎしてた事をスコーンと忘れる<
忘れていない。大和説者が分裂幻覚の妄想をしている。
>だが九州の?製鏡は小型で権威も糞もない粗悪鏡でしかないと知らないのだった <
この男が、卑弥呼の時代の九州には、明帝の下賜の銅鏡百枚と、渡来の呉系の楽浪鏡師らの製作鏡もあった事を、
忘れていたらしい。
>しかも畿内では別の鏡式を作り出して配布しており<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
しかも大和では3世紀末以後のホケノの画文帯が最初。
>九州のローカル粗悪鏡とは何の関連もないと言う事も知らないのだった<
ホケノ以後の△は、粗悪な副葬用の鏡。
さて、大和説者は、次はこの事実を今更知ってどんなことを喚きだすのかなw。 >>261
>平原遺跡の位置付けが不明確。
明確だろ
独占的に漢鏡を入手してたルートが途絶えて権威失墜した小国の王様の墓だ >>262
>平原遺跡の鏡は小さくも古くもないよ?
>キナイコシは息をするように嘘を吐く。
中国製の鏡を「入手できてない」状態という意味で平原も小型ほう製鏡を使ってる他の北部九州も同じと>>253 で言っている
その趣旨が伝わらないように重要な箇所をカットした引用をしてるのは不正行為だね
そうした上で、あたかも平原の鏡が小さいと言っているかのように歪曲するなんて、それこそ九州説は息をするようにウソをついてる >>848
「南→東」などの嘘つき騙しの分裂幻覚の妄想の、
バカ大和猿のサル踊りには、いつも楽しませてもらってるよ。 >>849
>間違いのない絶対の証拠とか騒いでた九州の漢鏡とやらを突然「そんなもん関係ない!」と言い出すとは恐れ入った
ここまで果てしないバカだとは知ってたけど <
そりゃ、漢代と魏代とでは、中国でも倭国でも、事情が全く違っているから、
当然「関係がない」だろう。
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者が、
ここまで果てしないバカだとは知ってたけど、恐れ入った。 >>854
ほらほら都合が悪くなったよ、「南→東」などの嘘つき騙しの、キョクウの・・・・大和説クン。
次は何かな?。
口先でのヘイトスピーチの騙しクンで埋め立てかな?。 ザラコクもキウスも凄いよね
朝起きてから寝るまでウソつき続けて、すごいよね
こういうのを「息をするように」って言うんだね >>253
えっと、
まず、平原は破鏡(破片)ではなく、破砕鏡(故意に割ったと思われる鏡)だよ
意味が全く違う物なので、"同様"というのは間違いだね
平原の方格規矩四神鏡は国産かもしれないが、元のモデル鏡はその模様から復古鏡であると思われる
小山田宏一氏によると、魏は後漢を引き継いだという意識の強い国家で、曹操以来後漢復古鏡や模倣鏡を重視していたと言っている。
平原の方格規矩四神鏡の元鏡は、この後漢復古鏡で方格規矩四神鏡の可能性がある
中国出土の魏鏡の鉛の値が測れればいいのだが >>296
中国製の鏡を「入手できてない」状態という意味で平原も小型ほう製鏡を使ってる他の北部九州も同じ >>885
「漢鏡なんて邪馬台国に関係ないもん!」
なんて、
存在もしない「邪馬台国」とう文言を使った嘘つき騙しの、
涙目で喚き散らす大和説者のサル踊りをご覧ください。 >>296
3世紀にどこが確実に入手できてたんだい?
平原以上に関連性が認められる弥生終末の墓があれば出してほしいが
平原の朱は中国産、ジトウも後漢以降流行していた物だし、素環刀もあるな
鏡だけ入手できなかったのか?
墓に入れなかっただけでは? >>260
>しかし、国産の鏡に興味が移ったというか、価値観が変化したんだよ。
>漢が滅亡したから、漢鏡に意味がなくなったのだろうね。
こういう根拠なしの憶測を基礎に置かないと、論の組み立てすらできないのが九州説
漢鏡に意味がなくなったのなら、漢鏡の一形式の内行花文鏡のでかいのを作ろうなんて
思いもしないのが、道理なんだが? >>299
糸島の外に供給できてないってことは、入手できてなかったってこと >>301
その模様に意味を求めたのだろうよ
いつも思うが、当時、"中国鏡だから特別だった"というのは何を根拠にしてるかわからない
型式に扱いの差異があるのは、平原以降の古墳の副葬状態や古墳前期までの内行花文鏡の超大型化でわかるが >>299
じや、なんで超古い漢鏡を2枚墓に入れた?
辻褄が合ってないぞ >>302
供給できてない、というのはなんでだ?
正直、魏鏡の特定ができていない時点では何もわからんよ >>887
>畿内は既に独自方式の?製鏡を配布して<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの偽作文言。
大和が「独自方式の?製鏡を配布」した、という事も全くない。
>その上で三角縁と言う新しい方式を産みだして配布してる<
楽浪鏡師らの鏡造り神社で大和の子弟に△作りを教え、
子弟らが粗悪な△を大量に造って副葬したが、
「配布」するような△では、とてもじゃないが、全くならなかった代物。
>鏡配布の主体も畿内が奪いとってる図式<
鏡配布の主体は、
卑弥呼らの九州倭王らと東征将軍らと、
呉系楽浪鏡師らの「地方の豪族らからの依頼注文」での製作。 >>306
そんな空想いくら書いても
九州説の信頼が落ちるだけだぞ >>888
>でも、その国産の大鏡とやらは、倭国内にまったく広がっていない <
九州倭国内での破鏡副葬用のお宝であったから。
>倭国内でたくさん広められたのは三角縁神獣鏡の方で、<
渡来の呉系楽浪鏡師らが、造って売って回ったから。
>その分布と配布の中心は 畿内にあることが明白 <
畿内なんて、存在もせず、
大和の子弟が、呉系楽浪鏡師らに教わって、粗悪な△を大量に造ったから。 >>305
九州説はワカランワカランで逃げるしかない
ww >>269
そうなんだよ
王の別荘でも護衛の家屋ぐらいあってもいいよな >>280
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 畿内がナイナイって連呼してる人、なに?
変な宗教の人? 畿内説の宣伝係が、箸墓古墳が4世紀に誕生した崇神天皇の時代の作製物という、重大な真実から逃げ回っているのではないのかな。。。 >>902
>>邪馬台国も畿内も存在していなかったから、嘘つき騙し。<
>へんな政治思想でそんなこと街宣車みたいに連呼されても 困るよね
ここ、学問板だからさ <
学問板なら、「存在もしない嘘つき騙しの文言」を使って、
世間の人々を騙そう、としては、絶対にいけないね。
勿論、それを許容している掲示板や文部省学会教育界や右翼マスコミや警察も悪い。 >>906
ここの半公共機関的な学問的掲示板で、
「畿内」という存在もしなかった嘘つき騙しの説を唱えても、×。 >>317
学問板なら、理由も言わずに連呼しちゃダメだろ >>910
>卑弥呼の墓も葛城の高天原にある。<
「南≠東」などに拠って、嘘つき騙しになるから、×。 >>150
>そうテンプレに書いてあるんだが、読んだことはないのかね?
だれも読んでないと思うわ、長いしつまらんし。
つまり纏向は2世紀前半からの男王の系譜から断絶したってわけだね。
では前スレで唐子鍵と言ってたのは誰だ。
お前とは正反対の意見という事だな。 >>321
読んだら九州説絶望ってわかっちゃうから
怖いんだよね? >>322
俺は畿内説だが?
ただし纏向に卑弥呼がいるわけないという説。 >>321
畿内説の話はつまらんから読まない
でも畿内説に反論したい
って、無理でしょ
そのくらい分からんの? >>324
俺は畿内説。
で2世紀前半の男王系譜と纏向とは断絶したという事だね。
卑弥呼ってどこの誰だったの?
せめて出身地域くらいは言えよ。 2013年に、死体になって、テルテル坊主のように吊るし上げられて、サンドバッグになった纒向説が、別の畿内説にも、蹴り上げられているな。。。 キウスは100字以上の文章読むのムリ
その証拠は今日でてた 平原遺跡には、貴重な中国産の水銀朱がふんだんに使われ、輸入宝飾品もたくさん副葬されていた。
中国からの輸入品の分量は他を圧倒する。
耳璫は魏晋代の3世紀中頃のものとされており、最先端の流行を取り入れていたことになる。
(平原遺跡が2世紀の墓ならオーパーツになってしまう)
中国からのものが手に入らなかったらなどということはない。 >>913
>鏡については弥生時代から既に畿内を中心に独自の小型?製鏡が日本全国的な規模で広まっているのが分かってる<
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であり、
魏代も、九州には明帝の下賜の銅鏡百枚が来ており、渡来の呉系楽浪鏡師らの製作鏡もあり、
倭人のホウ製鏡群もあった。
>九州の?製鏡とは違う秩序が既に弥生時代末期には誕生しつつある<
大和の鏡は、3世紀末以後のホケノから。
ホケノには鉄鏃が多いから、九州倭国の東征将軍かその部下の墓である可能性が高い。
>その土台の上で邪馬台国、そして古墳時代が訪れる<
邪馬台国も、存在していなかった嘘つき騙し文言であり、×。
>なぜか九州説は九州だけしか鏡がないとか、
配布は九州しかしてないとか言う思い込みで語ってるから面白い<
「九州だけしか鏡がないとか、配布は九州しかしてないとか」なんて言っていないから、
この男も嘘つき騙しの・・・・であり、×。 おら>>1
卑弥呼の出身地域くらい言え。
言えないのかこのポン助は。 >>325
え?
九州説でしょ?
これ、「クズせつ」って読むんだよ >>336
罵倒はイイから質問に答えろ。
卑弥呼の出身地は? >>932
>>権威の象徴を配るわけがない。<
>権威の象徴が複数あったらその時点でおかしいだろ?
同じ王冠が複数ある王朝とかないだろうが?<
権威の象徴も、
一個よりも二個、二個よりも三個・・・のように、
多いほど権威が強いもの。 >わかりません
とうとう>>1が白旗上げよったaww
>>1が「降参」と言いよったでwww >>339
>>>334
>倭人伝からは、わかりません
キナイコシが敗北か。 >>340
ほれ、誰が決めたの?
素人オジン75歳? 畿内説の>>1が卑弥呼の出身地が分からないと言いよったwww >>340
>>権威の象徴が複数あったらその時点でおかしいだろ?
>同じ王冠が複数ある王朝とかないだろうが?<
一人の女王が全てを保有しているなら、なんら問題はない。
八咫の鏡も、何枚か作ったように読める記録がある。 >>342
それが敗北だと思うキウスに学問板にいる資格なし >>346
つまり、王権の象徴とかでは無かったんだね
アホ >>933
>>おそらく、全て晩年の卑弥呼の持ち物だったのだろう。<
>一人で5枚使う理由は何? あんな嵩張るものを、5枚もどこに使うんだ?
さあ、がんばって憶測・妄想を練り上げて聞かせてくれww<
権威物やセレモニーは、(限界が来るまでは)進化拡大、の原則。
大きい事や多い事はいい事だ。
大和の古墳も同じ。
>卑弥呼は九州にいないんだから、無駄な妄想だけどなw<
大和の卑弥呼は、「南≠東」などに拠って、×。 試料番号d13C 14C 年代1 標準偏差較正暦年代(cal AD) 測定ラボ番号
(permil) (y BP) (±1s) 2s の範囲と確率(NUTA2-)
MOMO-1 -25.5 1814 ±23 AD130-252( 94.8%)AD307-310( 0.6%)23554
MOMO-2 -24.7 1831 ± 23 AD126-242( 95.4%) 23555
MOMO-3 -25.5 1821 ± 23 AD128-246( 95.4%) 23556
MOMO-4 -25.5 1817 ± 23 AD128-250( 95.4%) 23559
MOMO-5 -27.6 1839 ± 23 AD 90-100( 1.8%)AD124-240( 93.6%)23560
MOMO-6 -26.7 1806 ± 23 AD131-256( 90.0%)AD298-318( 5.4%)23561
MOMO-7 -26.5 1820 ± 23 AD128-248( 95.4%) 23562
MOMO-8 *
MOMO-9 *
MOMO-10 -28.1 1865 ± 17 AD 84-216( 95.4%) 24438
MOMO-11 -25.7 1826 ± 17 AD133-235( 95.4%) 24439
MOMO-12 -27.2 1807 ± 17 AD132-251( 95.4%) 24445
MOMO-13 -26.3 1833 ± 17 AD130-234( 95.4%) 24446
MOMO-14 *
MOMO-15 -27.0 1808 ± 17 AD132-250( 95.4%) 24448
平均値 ** -26.4 1824 ± 6 AD136-232( 95.4%) あかんわ?辻地区のんは卑弥呼さんが亡くなったころには99.999ぱー廃絶されとる? 桃種のんはあてになるんかのー?つうか日本版樹木なんたらが不正確? >>314
>畿内がナイナイって連呼してる人、なに?
zarakokuという人です。
yahoo掲示板を追い出されました。
>変な宗教の人?
そうです。
このまま安倍政権が続けば、やがて軍国主義日本が「韓国領である」竹島を侵略、
私のかわいい孫が、あぁ…という人です。 誰か答えろ
畿内説的には径100歩の墓ってmに換算したら
どれくらいだと思うの?
やっぱり径150mくらいの墓を張政に自慢したの?
参考までに後漢王墓とか魏朝皇族墓が最大のもので径60mくらい。 >>356
キナイコシは後世のものばかり持ち出す詐欺だから 八咫鏡も怡土城も日向峠も日本書紀も
続日本紀も三種の神器も御鎮座記も祇園祭も
みんなはるか後世のものばかりだね >>357
>畿内説的には径100歩の墓ってmに換算したら
>どれくらいだと思うの?
>やっぱり径150mくらいの墓を張政に自慢したの?
畿内説と言ってもたった一人の葛城説だがおおよそ150m
https://goo.gl/maps/9kSzwnYKLaT2
右下の尺図を見て、おおよそ150m
高天原にある日本最古の神社境内という単純明快な場所。
真理とは得てして単純明快なのだ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 龍はもともと揚子江ワニ
もともと長江の実在の生き物だよ >>360
レスありがとう
都合の悪いレスはスルーの纏向ガイジより余程好感持てるわ 718日本@名無史さん2018/09/28(金) 22:02:38.73
安本美典さんは5世紀から8世紀の延べ20人の天皇の平均在位が10.88年だと言ってます。
5世紀の天皇の在位って記と紀で違うのだが何を根拠にしたのだろうか。
そしてその10.88年を、古くなると在位が短くなるという理由で10年にしてます。
このあたり恣意的。
そしてその10年を実在確かな用明天皇以前に当てはめてます。
いや全然意味が分からない。
用明天皇を基点にするなら用明天皇から30代あたりの平均在位を計算して当てはめればいいだけ。
やってみます。
31代用明天皇585年即位。
30代後は60代醍醐天皇930年まで在位。
930-585=345
345÷30=11.5
「平均在位11.5年」
31代用明天皇から神武まで、神功皇后を確実な一代と見なし、31代遡ります。
11.5×31=356.5
用明天皇即位年585−356=229
神武即位229年。
やはり神武と卑弥呼は同時代。
卑弥呼とはヒメ。
のちに踏鞴と五十鈴を加えられ姫蹈鞴五十鈴媛と呼ばれる女性です。 纒向説の宣伝係を、同士討ちで叩きのめした謎の人物は、天皇の平均在位ではなく、親子の年齢差で、研究を進めれば良いのではないのかな。。。 卑弥呼の出身地が分からないということは、破綻宣言だな。。。 >>934
>大体平原1号墓が墳丘の平面プランで、同じ葬送文化の吉野ヶ里北墳丘墓の
10分の1以下って時点で、倭王の墓とかチャンチャラおかしいレベルなんだが、
他に候補すらないから仕方がないんだよなw
平原1号墓 12×8メートル 96平方メートル
吉野ヶ里北墳丘墓 40×27メートル 1080平方メートル
客観的な数字で見ると、歴然だろ?<
平原の集合墓は、当然壹與の一族の「壹氏」の集合墓であり、
壹與の遺族は、その集合墓の慣習と、魏の薄葬令に拠って埋葬される。
だから、大きさや表面状は薄葬にして、中身を濃くする事は十分に有り得る。 >>943
>「自郡至女王國萬二千餘里」は
「計其道里、當在會稽東治之東」だろうというのは全く不正確な記述<
不彌國が博多湾岸で、邪馬壹國女王之所都は筑紫で、投馬國は南九州になるから、
「女王國」の範囲は、ほぼ九州島付近になり、
会稽東治は、ほぼ上海付近になり、
九州は上海付近から「東〜東北東」の中にきっちり入るから、
両者は、ほぼ一致している。
>当時使われていた尺度の資料から導き出される事実
魏志倭人伝の距離記載は誰の目にも明らかに過大なもの<
魏使らの記録実態が「1里≒76.5m」位の短い里距離であり、
秦漢代の「1歩=6尺」から導かれる長い里単位ではない。 >>962
後漢書の「 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也、光武賜以印綬」の、
「倭國之極南界也、光武賜以印綬」は、
「倭国これ南界を極めるや、光武は印綬を以って賜う」と読むべきなの。
そして、「極める」の内容が、「自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」の、
「極於此矣」の「極〜」に書かれているの。
「 >>967
>ザラコクがいくら泣きわめこうと
ホケノ山は三世紀中葉と認定されているからね <
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者がいくら泣きわめこうとも、
前方後円墳は冢ではないから、ホケノは卑弥呼の墓ではなく、
卑弥呼の冢の250年頃とははっきり区別出来る位の後であり、3世紀末以後なんだよ。 伊都国スレとか妄想しかないスレは次スレを立てるのを止めるべきだな >>372
>南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者がいくら泣きわめこうとも、
>前方後円墳は冢ではないから、ホケノは卑弥呼の墓ではなく、
>卑弥呼の冢の250年頃とははっきり区別出来る位の後であり、3世紀末以後なんだよ。
自分の思想ありきで
あらゆる科学を無視する
それが九州説 >>99
>まあ少なくとも大和説というのは「説」じゃない。
「カテゴリー」には、・・・・宗教、という範疇であり、
学問的根拠は全くとまでは言わないが、ほとんど無さそうだな。<
俺は纏向が王都と言いだした頃から 大和説は商売だと思ったよ
根拠があまりにも稚拙だから宗教化して行ったのだろう 1)邪馬台国なるものは日本に字の無かった時の中国人の当て字。
2)壬申の乱に勝利した天武天皇は称号を大王から天皇と変えた。
彼は天皇は神の子孫、生き神とし、初めての歴史書の古事記で天皇の神格化を正当化しようとした。
ありがたい事に他の豪族で大掛かりな手前味噌な神格化をするための物語を編集者がいなかったので、
天皇の地位が確立されていった。
古事記や日本書紀なんて取捨選択の極みだろう、それまでにあった悠久古代日本の歴史を消し去り大和朝廷を正当化するために書かれたもの、
よく歴史は勝者によって作られると言われるけれど敗者の歴史にこそ日本人の真価が隠されてるような気がする。
ヤマトの地は倭種の別国であり、いまその敗者の歴史が纒向で研究されつつある >>969
>(椿井)東征将軍の墓じゃないかも知れないだろ? <
Wikiより。
1953年(昭和28年)、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。
内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。・・・
多数の銅鏡を棺の中に入れる習俗が古墳時代前期には西日本や中部地方で急速に拡がった。
それらの鏡が、短期間にほぼ同一場所・地域で製作されたと推定されている。
また、日本最古の刀子も出土している。
武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、
工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、
漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土している。
このほか、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。
当古墳は、淀川を遡り木津川の右岸にある。
縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃っている。
南西に船戸という地名がある。
以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されている。
以上、この異質で豪華な竪穴式石室の被葬者は、
大量の武器と鏡に強い価値観や誇りを持った新規渡来の人物であった、
という可能性や確率が高い。 大和は狗奴国連合の中心じゃないかな
纒向で西日本や北陸・東海の土器が出てるのも根拠になるかな >>971
>物部や!さすがは鴨先生かっこええ
まあだが実名曝して誰それにアホいうたらあきませんよ
個人的には崇神さんの1、2世代前の人かと思います<
7〜8世紀の頃の大和の物部は、自分らは九州倭国系の「部」であった、という事に、
強い誇りや伝承を持っており、やはり、
「東征毛人五十五國」の東征将軍のような地位にあったらしい、
という可能性が高い。 九州の伊都国を中心とする邪馬台国連合と旧奴国王族が作った狗奴国連合の対立した時代
丁度、倭国大乱を終結するために伊都国勢力と北九州から中国地方西部・四国西部の旧奴国勢力との和解のために共立した女王卑弥呼の邪馬台国の時代に重なる
搬入土器の出身地割合(Wikiより)・・・・狗奴国連合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1% >>383
>以上、この異質で豪華な竪穴式石室の被葬者は、
>大量の武器と鏡に強い価値観や誇りを持った新規渡来の人物であった、
>という可能性や確率が高い。
椿井大塚山の被葬者は崇神に反乱を起こした武埴安彦。
中国製の小札革閉冑が出ている。
この小札革閉冑、面白い所からも出ている。
河内の玉手山6号墳墓だ。
この玉手山6号墳墓被葬者を開化の妃・埴安媛の父である河内青玉繁だとしたら、
可愛い孫の武埴安彦に小札革閉冑を贈ったとも考えられる。
河内青玉繁は台与の朝貢団の一員であったのかもしれない。 畿内説は炭素年代のみ、いろいろ根拠を挙げても結局それしかない。
そして、この炭素年代は日本産樹木の年輪の炭素C14を用いて標準化している。
これが較正曲線と言われるもの。ところが、この日本産樹木の年輪年代法と言うのが奈良の光谷拓実氏だけが開発して彼しか再現出来ていない。
その年輪年代法によれば、670年全焼し701年以降に再建された法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年代は594年となってしまう。
これはどう考えても68、90年代の伐採と考えるのが正しい。 >>978
>魏志倭人伝に載ってる詔書の記述では
薄葬にしろなんて倭国に令じた記述はないが
単に九州に古墳がないだけだろ<
その「古墳」という文言は、当然「前方後円墳」を意味させているから、インチキ。
卑弥呼の時は「冢」という形態であり、
前方後円墳思想は、晋の武帝の頃に起こったから、列島では筑紫の那珂八幡などがの最も古く、
その後も一貴山銚子塚や端山などが存在する。
>それに卑弥呼の墓は径百歩の大きな塚を造りじゃなかったのか<
魏の文帝の即位の受命改制詔書では、始皇帝に拠る度量衡の混乱を統一する事を指示しており、
その後重臣たちが「周制への復古」を上奏しており、
漢代最末期に再収集注釈をされた周髀算経の一寸千里の度量衡(短里や短歩)が、
当然採用されたから、
「百余歩」は25.5m余り。 法隆寺の問題について光谷氏は、
「原木の周囲から百層以上の年輪部分を除去して心柱に仕上げていることになる。(そんな馬鹿な‼︎)
法隆寺五重塔心柱の例からして、疑問の残るところである」と述べている。
法隆寺五重塔の心柱のヒノキは原木の最外部の樹皮が少し残っていたことが確認されており、
加工時にほとんど削られていない。
ここで畿内説は年輪年代法が崩壊すると、つまりは炭素年代も崩壊してしまうので、
間違いなく594年の伐採や572年近辺の伐採材である!と強弁するしかない。
他も合わせて13事例程も実年代と伐採年が百年ほどもずれる事例がある。
しかし、畿内説はその全てで百年以上古い古材を利用したのである、と強弁するしかない。
そうしないと、崩壊してしまうからです。
実に脆い主張なのです。 >>980
>その割には1万2千里と、パプアニューギニアに達する距離に
邪馬台国がある事になっているけど <
邪馬台国なんて存在のしない嘘つき騙し文言であるし、
「パプアニューギニアに達する距離」という読み方をした事も、
この男の精神的な異常性を示す。 >>317
後漢書に旧字体で邪馬臺國と出てるじゃないか 全くの素人ですが、道案内するとき、東京で大阪にはどれくらいかかりますかの質問に、
新橋へは5分、上野へは10分、有楽町へは15分、大井町へは20分、渋谷へは30分かかります。
渋谷から大阪へは新幹線のりつぎで2時間半です。のような説明するんでしょうか。
普通大阪だったら、横浜、静岡、名古屋、京都、大阪と説明しませんか。
魏志倭人伝の記述がまさにこれで、九州のあたりがやたらと詳しい。
とすると邪馬台国は品川くらいじゃないかな〜思うのですが。 >>369
魏で使われていた尺度は普通の里以外ないよ
文帝が尺度を統一しなさいと命令を出してるから >>389
>魏の文帝の即位の受命改制詔書では、始皇帝に拠る度量衡の混乱を統一する事を指示しており、
>その後重臣たちが「周制への復古」を上奏しており、
これが架空の作り話だから
短里もぜんぶウソ >>386
>伊勢・東海系 : 49%
>関東系 : 5%
外来土器は庄内式土器出現の頃から増加し、約15%なので
東国系が纒向遺跡全体の8.1% >>372
ホケノ山古墳を誰も卑弥呼の墓と言ってはおらんだろ
それに古墳は古くは塚と呼ばれてきた
現在の呼び名が墳だから古代中国で言う大きな墓
冢ではないという主張はアホ >>383
渡来人だったら何か
それにそうじゃないかも知れない >>388
炭素年代測定はピタリと出るものじゃないぞ
100年ほど幅が出るから >>387
椿井大塚山古墳の朱はまず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」。
また、河内の玉手山1号墳墓の朱もまず間違いなく河内忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 >>390
>ここで畿内説は年輪年代法が崩壊すると、つまりは炭素年代も崩壊してしまうので<
まあ年輪基準でAMS較正は無理筋かもやね? >>393
魏志倭人伝の皇帝から邪馬台国を導き出すのは難しい
その通りに辿ると邪馬台国は赤道付近になるから
地名を当てはめていくのが恐らく正解 >>392
「後漢書」は参考程度に
「後漢書」の著者・范曄(はんよう)は宋代の人で、記述対象から大きく離れた時代の人である。
また、同書の倭人に関する記事は、彼が「三国志」魏志倭人伝を読み、
かつところどころ誤解して焼き直した部分が多い。 >>390
だから炭素年代測定は例えば550〜650年とか
年代に幅を持たせてるからピタリと出ないって
間違いなく594年の伐採であると強弁はしようがない
九州説じゃあるまいし
元データ見てないから何とも言えんけど >>397
>それに古墳は古くは塚と呼ばれてきた <
いつの時代から?史書では明らかに区別していると思いますが >>397
「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」。
また、副葬品の鉄器・土器・銅鏡なども大和忌部が持ち込んだものと考えざるを得ない。 @阿波 >>408
そうだよ
炭素年代はあてにならないのに
しつこくついてくる九州説には辟易 >>407
時代が離れてようが関係ないよ
記録があればそれを写すだけだから
後漢書は漢の時代に書かれた倭奴国との交流記録を参照しているある意味
魏志倭人伝とり倭国を正確に記述してある書
また魏志倭人伝も漢の時代の倭奴国記録を下敷きに書かれた可能性があるのだ 纏向は畿内説のその場しのぎだからな
そのうち、あっと驚く物が畿内から出土するから待て >>409
いつから古墳は塚と呼ばれてきたというのは
古代の事だからわからん
ただ前方後円墳は近代の呼び方だから
墳は塚(冢)ではないというのは誤り
そもそも史書で区別なんてしてないだろ
それならこういうのが墳でこういうのが冢であると書かれているはずだから >>413
お!
>そのうち、あっと驚く物が畿内から出土するから待て<
葛木国からやな?(巡り巡って壱与ちゃんのパンツ出るかも! スレチ御免
平原と吉野ケ里が40キロしか離れていない事が最近わかった >>388
>畿内説は炭素年代のみ、いろいろ根拠を挙げても結局それしかない。
一行目から真っ赤なウソで
正直、笑えた
さすが九州説 辻地区のは誰の宮やったんやろな?(思ってたより古そうやからニギハヤヒさんのかも 「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
お金をかけない諸葛亮の冢でも墳(定軍山)とセットということ >>413
>そのうち、あっと驚く物が畿内から出土するから待て
まぁ、いずれにせよそれは倭国(阿波)の「忌部はん」が持ち込んだものとなるわけだ。 @阿波 >>389
おう魏から薄葬にしろと言われていた筈なのに
卑弥呼は奴婢百人殉葬 径百歩の大きな墓を作ったと
記録されてしまっているぞ
つまり薄葬令が倭に出たというのは九州説のホラ
ついでに短里もあった証拠なし
魏で使われた尺度は普通の里 >>386
魏の使いが滞在した筑紫が含まれないところを見ると、纒向は邪馬台国と関係なさそうですね。 >>394
だから、短里で測定した結果を受け取った人たちが長里だと思い込んで会稽の東と書いてしまうんですよ。 一度死体になった、畿内説が、また起き上がってしまったな。。。。 >>404
地名を当てはめていくと、九州上陸までで一万里を消費します。
それを便宜的に短里と呼んでいるのですが、そんなことも理解せずにブーたれているのが畿内説。 >>413
>纏向は畿内説のその場しのぎだからな
>そのうち、あっと驚く物が畿内から出土するから待て
出てから言え >>429
昨日の夜中に、纏向説を宣伝するキナイコシを叩きのめした側の、別の畿内説ではないのかな。。。 >>428
筑紫倭国は外来文化の取り込みに熱心だったというだけ。
現代の日本だってそうだよね。
アメリカで開発した自動車が日本車の方が優秀になったように、中国で成立した銅鏡が日本でさらに平原遺跡の超大型内行花文鏡に進化した。 >>427
魏の役人が魏で使われてない単位で測定するって・・・
・・・ばかですか? >>434
だって東夷だから、現地で雇った人員が短里を使ってしまうんだよ。
まさか高貴なお役人が自分で測量するわけはないよね? >>432
鴨厨氏が次スレを立ててテンプレを書けばいいのではないのかな。 >>435
日本を滅ぼすつもり?
さすがキナイコシ >>1は前スレでは2世紀前半の其の国の男王を唐古鍵だと言った。
ところがこのスレではその男王と卑弥呼とは断絶していると主旨を変えた。
ならば卑弥呼はどこにいた人物かと聞くと「分からない」と答えた。
まぁ>>1はこの程度の人物。
親分の寺沢も唐古鍵と言ってたからそれを真似てるだけであろうが底が浅い。 >>427
何で倭まで来た魏の使いが短里で記録を取るんだよ
九州説のいう所では倭に来た魏の使いは正確無比に距離を測定したんだろ
そして魏は尺度等の単位統一令が文帝から出てるんだろ
普通の里以外の尺度を使うのは皇帝の命令違反だろ >>436
ならそんな距離記録はアテにならんっつー事やね >>439
>>>1は前スレでは2世紀前半の其の国の男王を唐古鍵だと言った。
いつ、どこで? あいかわらずのアホやなあ
神聖なる魏の尺を、汚らわしき東夷の倭地の測定に使うわけなかろう どちらの畿内説なのか、はっきりすれば、良いのではないのかな。。。 元々倭まで1万2千里と漢の時代から言い伝えられていたのを
陳寿がそれに即すように魏の時代にわかった地理に当てはめたんだろう ん?アホ爺がまたアホ断定してはるな?
>
魏の役人が魏で使われてない単位で(※東夷伝の元ネタ地図)測定するって・・・
<(※投稿者注
まあホンマいうんなら頑張ってプレゼンしてみそ?わえは公孫君絡んで地図作ったに1000勾玉やな >>439
全一病の妄想スゲー
自分が発狂してるのは
わかんないもんなんだね >>444
巻向押しのやろ?(鴨先生はもっと頭ええでしょ >>433
日本では自動車を作るようになっても日本のお茶碗を使っている
平原の簡素図象大型鏡はどこも作っていない
錆色塗装鏡も拡散しない >魏の役人が魏で使われてない単位で(※東夷伝の元ネタ地図)測定するって・・・
ほんまのアホちゃうか、、、
魏の高貴なお役人が、自ら東夷の倭の測量なんかするわけなかろう。
そんなけがらわしい仕事は、帯方郡が雇った小者の仕事だ。 九州説は九州のどこに邪馬台国があったか議論するから
伊都?宇佐?熊本?朝倉・・・
その他は狗奴国連合のどこに王国があったか議論しておくれ
畿内?出雲?阿波?吉備?・・・ 岡上氏が出現したので、破綻した纏向説を宣伝するキナイコシが、追い詰められてしまったのではないのかな。。。 >>440
>九州説のいう所では倭に来た魏の使いは正確無比に距離を測定したんだろ
ここが多分違う。
現地のガイドに下請けに出したんだよ。 >>455
それもありますな(勾玉賭けるのやめます 日本の里でさえ、記録が残ってる奈良時代には
すでに中国里とはかけ離れてたからね。
戦国時代くらいに今の日本の里になったらしいけど
特に違いを問題にした形跡もない。
里ってのはそういうローカル単位系なんだろうよ。 >>455
>そんなけがらわしい仕事は、帯方郡が雇った小者の仕事だ。
だよね。
そんなバカなと思うかもしれないけれど、出た結果の数字を見ると、そうと考えるのが最も妥当だ。
現実は大抵そんなものなんだよ。
今も昔も変わらない。 魏の律歴志(使われた度量衡を記したもの)には
1里=300歩
1歩=6尺とある
そして正始弩尺という
魏の時代の1尺約24cmのモノサシが見つかっているから
これから換算すると魏で使われていた里は1里約430m
そして九州説によると文帝が単位統一の指示を出したそうだから
これ以外の尺度は使われていないという事になる その数字を中原の役人が魏里で解釈したら、会稽の東になったわけだ。
また、現代人が解釈したら赤道を越えてしまったわけだ。
その数字がどのように得られたのかを考えなくてはいけない。
現実問題として、邪馬台国まで一万二千里とあり、そのうち朝鮮半島南岸までで七千里、対馬海峡で三千里を費やしているわけで、残り二千里では九州を出ることはない。 >>463
>これ以外の尺度は使われていないという事になる
それは魏の国内だけ。 >>458
魏の役人は倭に行ってないわけ?
w
w
w >>465
「魏」志倭人伝だぞ
魏で使われている以外の単位使ったらマズイんじゃないのか >>462
で?
なんで現地のガイドが
雇い主の知らない単位で報告するわけ? >>442
前スレ見れや、面倒臭い。
もし別人物というならお前は卑弥呼の王権は2世紀の男王王権とは断絶という説だな?
はっきりせい。 >>462
そんなバカなとは思わないよ
バカとは思うけど >>420
「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
ここで言う「墳」と「冢」の違い教えてよww 唐書だったかによれば
韓や倭の東夷は里を知らず
日数で距離を表すんじゃなかったかな 「全一病」とは
「全部 >>1 が 病巣」と言う意味なのである 元気がなくなってきたキナイコシが、また、テルテル坊主のように、吊るされてしまったな。。。。 いや。。。吊るされたのはむしろ九州説だった。。。。 >>468
ガイドは居たと思うよ
魏使は探検隊じゃ無いから
そのガイドが方角を間違えるはずは無いよな 例え東夷人じゃない現地のガイドが里を使って案内したとしても
それは漢で使われていた里になるはずだ
なぜなら卑弥呼が使いを出す1年前まで遼東半島にいて
魏に滅ぼされた公孫氏は元は漢の役人だったからな そして漢の里も魏の里よりちょっと短いくらいで
そんなに変わらない つうか新人ちゃうやろ
新人王より早く手術したらよかったんじゃね 現地のガイドが東夷人なら里を知らず
知っていたなら魏里とほぼ変わらない漢里
九州説の魏志倭人伝の里は東夷の短里説はこれにて終焉 素朴な質問?魏晋里やとなぜに畿内説有利なん?
普通に東夷伝里でも出雲や葛城になるんやが?(越経由 >>476
元気がなくなってきたキナイコシが、また、テルテル坊主のように、吊るされてしまい、サンドバッグにされるのではないのかな。。。 >>478
九州説の根拠は
「思うよ」「はずは無い」
w
w
w >>483
畿内説有利なんて言ってないよ
九州説死亡と言ってるだけ 陳寿君が魏晋里のつもりで執筆してたら洛陽からどの方向に何kmだと考えたことになる?(まんにせん
お爺ちゃんらだれかわかりますか? >>487
ん?なんで?つうか畿内説も死亡するんじゃね? >>483
九州説は滅亡
畿内説はいつも通り
パプアニューギニア説歓喜 「其山有丹」で、倭国(阿波)が邪馬台国に決定してるんだから、
「里」も倭国(阿波)までを考えりゃいいんだよ。
倭国(阿波)にとって、里程なんてどうでもいいことなんだけどw
トンデモ妄想説はほかに議論することないんだね。 @阿波 >>488
洛陽つーか帯方から1万2千里
要するに海の果てにあるはるか離れた概念上の国 >>442=>>1
だろ
誤解を招きたくないなら常にコテつければいいじゃん
やましい事があるからだろ 陳寿君は山海読んで笑い転げてたような時代のひとよ?(山海爺さんの好みは知らんが 孫権の東方探索ノウハウや知識併呑した西晋が山海なんたらて?まあええとしこいてアホさらしたらあきませんよ? 九州説は基本40年以上前の古田説から何も進歩がないからな
いずれは滅びる定めよ おつむが人並みの男だったら
全然違うことを言ってる投稿が2つあったら別人の投稿だと思うのが普通
同じ人間が矛盾したことを言ってると理由もなく決めつけるのは
>>493の気が狂ってる証拠 >>499
もう滅んでるでしょ
九州説で学術論文かく人がいない テルテル坊主をサンドバッグのように蹴りつづけていた優れた考古学者達が全て去ったあとに、ボロボロになったテルテル坊主が、虚しく勝利の宣言を発表したのではないのかな。。。 >>482
>知っていたなら魏里とほぼ変わらない漢里
想像というか、根拠のない決めつけで、実際の魏志倭人伝の記述と矛盾している。 >>492
>>>488
>洛陽つーか帯方から1万2千里
>要するに海の果てにあるはるか離れた概念上の国
実際に訪れているのに、概念上とかわけわからんこと言うね。 >>500
キナイコシはその時その時で言い逃れをするから、言うことが変わるんだよ。
畿内と九州でダブルスタンダードも使うしね。 >>503
どう矛盾してるのか?
>>504
陳寿が訪れたわけじゃないからさ >>505
あんたが病気で別人の投稿をゴッチャにしてるだけだ 場所がわかる松浦までは
魏の里表記の1/5の実距離だから
その先も1/5程度だろ まあ九州説は帯方から1万2千里を5分の1にすると九州になるネーと
いつまでも遊んでいろ >>510
計算根拠もなく
ひたすら1/5にしたい
九州説は論でなく欲望ね >>512
どう足掻いても論理的に語れないのが九州説 >>517
ありもしなかった短里とかいう妄想を垂れ流しといて
九州説はよく言うもんだ 場所がわかる松浦までは
魏の里表記の1/5の実距離だから >>512
どう足掻いても論理的に語れないのが九州説 すると距離は不正確な記録だからどう解釈してもいいのかな
なら1万2千里を4分の1くらいにして畿内を指していた事にしよう >>519
どう計算したかは死んでも言えない九州説 >>521
別に解釈などしない
明らかに間違いだから根拠に使わないだけ 魏志倭人伝の距離は魏里の5分の1というのもそもそも恣意的
実際は場所によって1里40m〜180mになるからな >>524
このように
自分の説を説明できない九州説は
もはや説でもない 九州説は説ではない
大事なことなので、二度言いました 魏の里は1里=約400mという事実から
悲鳴を上げて逃げ回る九州説 またバカ丸出しのぼくちゃんの考えたすごい行程か
鏡も出ない九州は結局妄想を喚くしかないと >>430
>地名を当てはめていくと、九州上陸までで一万里を消費します。
nnさん、こんにちは
早く成仏してください
九州上陸までを万里にして、「万里の修交」が晋の高祖司馬懿の
公孫氏討伐のおかげで叶うようになりました、っていう晋の祖への
よいしょ記事なんだよ
要するに、万里になるように盛った数字であって、実距離とは関係ない
白髪三千条とか、千里馬常有とかの、誇張表現の同類
その盛った数字を本来関係ない実際の距離と照らし合わせて換算すれば、
盛った分だけ短くなる
それを短里と言い張っているだけなんだよ、九州説は >>436
>だって東夷だから、現地で雇った人員が短里を使ってしまうんだよ。
現地で雇った人員は、長さの単位をどこで誰から習うんだ?
魏の単位以外を使う理由がないだろ?
>まさか高貴なお役人が自分で測量するわけはないよね?
自分で測量しなくても、自分の移動した距離が、自分がこれまで使っていた単位と
5倍も6倍も違っていたら、気づくだろうに
もう、矛盾を糊塗するのに、妄想を駆使するものそろそろ限界だなww 袖の長さも盛ったてか?
つうか三国志で仲達よいしょされてるとかアホ? わえ わえ言ってる頭のおかしい人には通り名はないの?
誰かのアバターか何か?
キウスよりは日本語がしっかりしてるけれど >>533
>つうか三国志で仲達よいしょされてるとかアホ?
普通するだろ
司馬氏帝国の役人だぞ >>531
>その盛った数字を本来関係ない実際の距離と照らし合わせて換算すれば、
>盛った分だけ短くなる
盛った分を考慮すると九州でしょ?
それを便宜的に短里と呼んだら、そっちが過剰反応しているんだよ。 ん?おじいちゃんらは野球もみんの?
つうか司馬炎しらんのか? >>535
>>>533
よいしょしなければ斬首だぞ<
なんで? >晋の偉い人の先祖なんだろ<
理由にならんわ?
なんかそういう法とか例が出してくるんかと思ったが >>538
便宜上呼ぶんなら実態に合わせて不定里とでも呼べ
短里は古田が提唱した古代周王朝の単位が魏で復活した、
または東夷で使われていたとされるもの
これからは便宜上九州説をホラ吹きバカと呼ぼう >>542
なるだろ
魏志倭人伝は晋の時代に書かれた
晋の偉い人に気に入られれば財物ザクザク貰えるし出世のチャンスだ
俺がそういう事の出来る立場ならならヨイショしまくるね >>543
>短里は古田が提唱した古代周王朝の単位が魏で復活した、
古田の説明は後付けの想像だし、そんなものは無視だよ。 >>544 は大谷君やわえの爪垢煎じて飲めばええよ >>546
そっちは古代中国に生きてたら左遷か斬首だ >>533
>袖の長さも盛ったてか?
袖の長さが5分の1とか6分の1の単位で書いてある史書があるなら教えておくれw >>547は阿波と同類の匂いがするが、阿波ではない
誰なの? >>548
ん?陳寿て左遷されんかった?(うろおぼえ 中国人の学者は倭人伝の1里の長さを
どう解釈してるの?
中国人学者は殆ど九州説なんだろ つうか仲達のことは割と生生しく書いてるんじゃね?
なぜに東夷だけ大きさ盛るのん?晋のころはしっちゃかめっちゃかやぞ? >>555
だったら >>544 みたいなあさましいことようせん人いうことやろ >>558
魏志を書いた頃は左遷された後だから
考えを改めたんだろ 中華思想を嘗めるなよw
中国人は東夷のことなんて興味ないよ
中国人研究者の邪馬台国の定説なんて考えるだけ無駄
研究してる人、何人いるんだ?の世界 >>562
>中国人は東夷のことなんて興味ないよ<
そうやな
中国の人は東夷伝は飛ばし読みやな
無理矢理読ませたら鹿児島じゃね?いうてたよ 九州説もレベルが低い
史上最高の頭脳の持ち主が何年もかければ隙のない理論を作り上げる事も出来そうだけど
まあ無意味な徒労だし誰もやらないだろう >>542
実際、司馬氏が魏の皇帝を殺した話とか
一切書いてないだろ? >九州説もレベルが低い
史上最高の頭脳の持ち主が何年もかければ隙のない理論を作り上げる事も出来そうだけど
まあ無意味な徒労だし誰もやらないだろう<
畿内説も大差ないやろ?(鴨先生は除く
まあ出雲とか四国とかまだ掘ってないとこ多い方が可能性高いやろな さてさて伏せられたるカードは53枚
纏向周辺のカードは捲れど捲れどジョーカー出ず
あらあら伏せられたるカードは山陰四国吉備に多数ありける? >>566
可能性は畿内が一番
大和国という邪馬台国っぽい国名
前方後円墳
邪馬台国がが魏と交流した頃の魏の年号、景初三年が記銘された
三角縁神獣鏡が国内で1番見つかる クーデターで思い出したが畿内説では張政君らはクーデター後に帰還したんか? >>566-567 を加筆修正します
>九州説もレベルが低い
史上最高の頭脳の持ち主が何年もかければ隙のない理論を作り上げる事も出来そうだけど
まあ無意味な徒労だし誰もやらないだろう<
畿内説も大差ないやろ?(鴨先生は除く
まあ出雲とか四国とか久留米以南とかまだ掘ってないとこ多い方が可能性高いやろな
さてさて伏せられたるカードは53枚
纏向周辺のカードは捲れど捲れどジョーカー出ず
あらあら伏せられたるカードは山陰四国吉備九州に多数ありける? 九州は2世紀半ばから4世紀後半の古墳出土鏡に至るまで魏晋鏡を手に入れることが出来ない
邪馬台国時代を含む200年近い長期に渡る漢鏡空白期間がある
中国と交渉を行っていた政権が存在していないことを如実に示していると同時に、古墳勢力に与することでようやく鏡を入手している状態が分かる つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>572
平原遺跡は中国産の朱をたくさん使っているし、耳璫もガラス玉も中国産。
単に魏鏡に興味がなかっただけ。
鏡は国産化に成功してしまっていたし、漢は滅んでしまっていたし。 >>575
平原一号で埋葬があったころ、まだ魏は建国していない >>113
文献考古共に、「何故そのような史料実態が起こり得たのか?」などの理由を考えないで、
「南→東」などの史料事実を始めから「結論先にありき」で否定曲解して、
考古出土事実を完全無視で、
分裂幻覚の妄想の夢を語るの大和説。
W >>576
平原遺跡一号墓の耳璫は魏晋代以降のもの。
つまり魏の建国よりは後になる。 ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 平原遺跡について
・1号墓(女王墓)と2号墓(陪塚)が周溝を共有しており、
方形周溝墓と円形周溝墓が共通の周溝で囲まれた一体の墓域だった
・出土品は一括して国宝指定
・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)
<1号墓(方形周溝墓、18×14m)>
・水銀朱丹(大量の中国朱が、外に流れ出したことで墓が発見された)
・割竹形木棺(下半身を東南の日向峠へ向ける)
・ガラス製耳璫 3(女性用高級装飾品、国内唯一の出土)
・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900 (ヒスイ無し)
・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)
・大型内行花文鏡5面(日本製、直径46.5センチメートル=八咫、世界最大)
・方格規矩鏡 32面、内行花文鏡 2面、四螭文鏡 1面
(9割以上が仿製鏡で、舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)
<2号墓(円形〜隅丸方形周溝墓、周溝を含んで径10m)>
・丸太木棺
・土器片
・前漢鏡3
<18本の柱穴>
・うち2本は東南の日向峠へ向いている鳥居か >>578
あんた一人で勝手にそんなこと決めてもダメでしょ 九州においては鏡の序列は
完形漢鏡←破鏡←小型?製鏡
となっている
積極的な鏡の配布と明確な「漢鏡、そして完形を至上」としてる序列を持つことから漢鏡の需要が高かったことが明確
破鏡や?製鏡を作ったことそのものが「漢鏡の不足」」への対処であるので漢鏡に興味がないと言う指摘は全く当たらない
そのような強い需要がありながらも200年の長きに渡って漢鏡を入手できない状態を鑑みると、
九州が中国と交渉して鏡を手に入れる能力を喪失していることをはっきりと示しているのが分かる >>571
畿内説的に張政君らが帰るのが遅い方がええんちゃう?
クーデターて249やったろ?
張政君らが卑弥呼さんの墓づくり見学したなら箸墓余計に繰り上げんのといかんちゃいますか? 古代東アジアでは、漢など中国の皇帝が各地の王の正統性を保障した。
倭国も古来より朝貢を重ね、倭王として冊封を受け、その証として金印、銅鏡(内行花文鏡)、璧などを受け取った。
特に金印は国書において国璽として用いられたと考えられる。
いずれも九州北部から出土し、畿内からは後世の遺跡から出土する例を除き出土しない。
・須玖岡本遺跡(奴国)
青銅矛5本
青銅剣2本
青銅戈1本
中国鏡約30面
ガラス璧
ガラス玉
・三雲南小路遺跡(伊都国)
青銅矛2本
青銅剣1本
青銅戈1本
中国鏡35面
ガラス璧8枚
ガラス玉
青銅製棺金具
・平原遺跡(伊都国)
銅鏡40面(うち5面が超大型内行花文八葉鏡)
素環頭大刀1本
ガラス玉
瑪瑙玉
耳璫 倭奴国の王が金印をもらったのは伊都国が反映していた時代であり、後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国と同じである。
古くから発展し大きな人口を抱えていた奴国すなわち福岡博多に対し、伊都国は倭国大乱の前の後漢の頃に作られた政治と外交のための人工の政治都市であり、人口は少なかった。
平原遺跡の豪華な出土品からわかるように、伊都国は3世紀初頭に最盛期を迎える。
その地を治めた偉大な女王は王権の死後に王権の象徴である周8咫の大型内行花文鏡とともに葬られた。
副葬されなかった鏡は三種の神器として後の天皇家に伝えられた。
糸島平野の東にある高祖山には日向峠やくしふる山などの地名があり、伊都国の王家が八咫の鏡を伝えた日向三代の王家であったと考えられる。
それに続く倭国王であった卑弥呼ももちろん伊都国にいた。 >>582
序列?
あんた一人で勝手にそんなこと決めてもダメでしょ
漢鏡を至高としていたのは漢が存続していたヤリ溝遺跡まで
平原遺跡は明らかに違う
それは漢の滅亡後の墓だからだと考えるのが普通 >>115
>卑弥呼が死去した二四七年頃当時の土器については、
西新式土器(柳田康雄氏)、纏向2式ぐらい(寺沢薫氏)、庄内式の【古いほう】(都出比呂志氏)、と表現が異なるものの、
ほぼ同様な見方がなされる。
これらは昭和六一年、いまから十五年前の『三世紀の九州と近畿』(河出書房新社から刊行)というシンポジウムに際しての見解であった。」
祇園山の土師器が【古いほう】と言っているのではない<
勿論「三世紀の九州と近畿」を宝賀氏が引用したのではないが、
この引用でも、寺澤と都出は、「土師器の古い方」と言っている事になるから、
庄内を指している事になるし、
柳田も、「土師器の古い方=庄内」を含んだ言い方をしている事になる。 >>586
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 弥生時代後期〜末の九州の副葬状態を見ると破鏡や小型?製鏡は墳墓に副葬されない
5〜6期の古い完形に近い鏡(割られていることが殆どだが原形を保つ)を副葬しているのが分かっている
このような副葬や扱いの違いから明確にランクが付けられているのが分かる
なによりも最初から漢鏡に用が無いのであれば破鏡など必要としない
?製鏡で完鏡を作って配布すればいいだけの事である
この事から九州では漢鏡、そしてより完形に近いものが尊重されていたことが明白となる >>589
ん?アンカ先見誤った?
>平原一号で埋葬があったころ、まだ魏は建国していない<の理由をおたずねしたんですが? このように九州では強い漢鏡への需要があり続けたにも関わらず鏡を長期間にわたって手に入れることが出来なくなっているのが分かる
漢鏡を求める意思を持ちながらも漢鏡を手に入れられないと言う状態は、
すなわち九州に中国と交渉して鏡を手に入れるだけの能力がなくなっていることを示すものであるのが分かる
そして再び九州に完形漢鏡が副葬されるようになるのは古墳勢力を介しての段階になるのを待たねばならない >>117
>酷えな
方格規矩鏡は楽浪鏡師に下賜用に造る事を指示したものと言っておきながら
舌の根も乾かなぬ内に明帝の下賜鏡は、
内向花文鏡と方格規矩鏡が中心であったという支離滅裂ぶり<
それ以前に、卑弥呼は、明帝下賜鏡の一部を、
直接東征将軍や地方の豪族に下賜した鏡もあれば、
渡来の呉系楽浪鏡師たちに同范鏡を造らせて、配布した鏡もあった、
という推定を言ってあるよ。
勿論、楽浪鏡師たちは、
東征将軍や地方の豪族に直接△などを作って上げたケースもあった。 >>592
副葬品が魏の建国後のものだからでしょ。 なによりも「汝の好物」とまで言わしめて100枚の銅鏡を下賜されている邪馬台国の姿から鏡を特に重視して欲していたことが分かる
中国では鏡に政治的な権威はなく、普通なら玉璧が重視される
その中で鏡を大量に下賜されている点などからその特異性が分かる
もし「鏡に興味のない勢力」であると言うのであればそれは史書の邪馬台国と別の国と言う事になる >>583
うーん割とどうでもいい
クーデターが249年なら張政が帰ったのはその後
260年ぐらいじゃね
まあ記録もねーし >>593
>このように九州では強い漢鏡への需要があり続けたにも関わらず
ここが嘘。
平原遺跡において国産の超大型内行花文鏡を完成させて、漢鏡へのこだわりなど必然性がまったくなくなっている。 まあ辻の高床も235には廃絶で箸墓も280以降ではコピペしかなくなりますな?
頑張ってください! >>597
>なによりも「汝の好物」とまで言わしめて100枚の銅鏡を下賜されている邪馬台国の姿から鏡を特に重視して欲していたことが分かる
魏の方が邪馬台国にすり寄っているように見えますね。
倭国との関係を政治的に利用して、漢から継承した権威を強調しようとしたかもしれません。 >>599
じゃあ平原でなぜ古い漢鏡を副葬してんの? 「配布される先での明らかな漢鏡受容と序列がありながらもこれを無視して存在している」
と言うのであれば平原遺跡と言うのは北部九州の破鏡や?製鏡を広めている勢力と全く関わらない個人の墓と言う事になる
つまり、地方の個人の墓に過ぎないと言う事になり、当然邪馬台国とも卑弥呼とも関係のない場所と言う事が明白になるだけの事である 「汝の好物」✕
汝に好きもの 正解
わしも添削されたがじゃき >>588
>この引用でも、寺澤と都出は、「土師器の古い方」と言っている事になるから、
>庄内を指している事になるし、
>柳田も、「土師器の古い方=庄内」を含んだ言い方をしている事になる。
その誰も、祇園山の土器が土師器の古い方だとは言ってないんだが? つまり、漢鏡に興味を持ってない、と言う主張は、「北部九州の破鏡、小型?製鏡の配布と全く無関係」「鏡を求め下賜された邪馬台国とも無関係」と主張してる事になる
平原遺跡と言うのは特に何の影響力もない単なる個人墓であると言う事になる >>573
畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 >>118
>青龍三年方格規矩鏡は畿内の出土<
竹野郡や高槻は、大和ではない。
またこの同范鏡を造れたのは、渡来の楽浪鏡師たち。
同范であったんなら、「顔氏」は、明帝の買い置き鏡の作者名であったか、
楽浪鏡師の中の一人の名前であったか?という事になる。 >>594
いつの間にそっちが勝手に創り上げた東征将軍が
実在の人物のようになってるんだ?
さらに東征があったとしても恒霊の間の180年頃
卑弥呼の時代の60年は前
方格規矩鏡は明の下賜鏡になったり国産鏡になったり
便利な鏡だな
どっちがどっちかわからないなら
そもそも畿内九州量説の根拠として使えない
畿内九州とも発見されてるのは同じものだからな >>580
>・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)
おいおい
あんたの一尺はいったい何センチなんだ?
ww 古い鏡を払い下げて、自分は最新の国産鏡を使ったのでしょう。
宝飾品は海外の品をふんだんに使っています。
耳璫(これまでの編年では265〜316年)が卑弥呼のものなら、今までの常識よりも年代が前倒しされるくらい、最新のものを取り入れて使っていたことになります。 >>128
いまどきの大和説者は、
「戦前からの万世一系皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しの、
日本語もろくに読めないない無教養な・・・・詐欺師ばっかりか。 >>129
知能が低いことが、
「戦前からの万世一系皇国史観」教の説入信の必須条件だから仕方がない。 明かな漢鏡の需要のある北部九州の地域と無関係に存在している個人墓が平原である
という主張であるならそれで構わない
平原はただの個人の墳丘墓にすぎず邪馬台国とも卑弥呼とも関係ない事が明確になるだけの事
そして平原がどうであろうが北部九州の地域が確実に漢鏡を求めている実態があるので、
どの道「九州は中国と交渉して鏡を入手する力が無かった」と言う事に何の変りもなく、
ようやく鏡を手に入れるのは畿内の古墳勢力に与した後と言う事にも変わりがない >>613
そんなことする国は、東遷とか絶対にしてないよね
ww >>611
>さらに東征があったとしても恒霊の間の180年頃
>卑弥呼の時代の60年は前
倭国大乱で神武が筑紫を出たと言っているじゃん。
神武は卑弥呼より少しだけ年上かな。
卑弥呼は190年頃に即位して年長大とあるので。 >>598
張君は次期帯方太守やったかもよ?(260年やと時系列どうやったろ
出典忘れたから突っ込まんでくれ >>618
倭国は一つでも、部族が違うんですよ。
天孫族は王権を失い、東征したのです。
その後の混乱を収めるために、肥国から卑弥呼が共立されたのでしょう。 >>610
>竹野郡や高槻は、大和ではない。
それが、どうしたんだ?
ここは大和説のスレじゃないぞ >>602
>>>586
>平原一号は二世紀の墓だから
根拠は? >>609
物部さん遺跡やろ(詳しくは鴨先生に聞いてください >>610
青龍三年方格規矩鏡 出土場所
京都府京丹後市弥栄町和田野大田/峰山町矢田坂尾 太田南5号墳 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫ニニギに嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の賀茂神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>619
魏志倭人伝に記載のある卑弥呼の治世は景初三年、239年 >>629
異文化というほど違わないですよ。
新しい物は女王に、古い物は払い下げ。
それだけのこと。 東征て何波もあったんやろなー(神武さんのはわりと小規模やったのかも?
まあ西から来たら東にいくわな(人類の流れやろ 欠片であろうとも中国鏡であれば上位に当たると言う価値観は、
単なる美術品や希少品と言う扱いではなく、中国王朝の権威を背景とした物であるからと言うのが分かる
魏との交渉によって新たな地位を与えられた邪馬台国が重視するのは滅んだ漢ではなく魏となる
その魏の鏡に対して興味を持たないと言うのであれば、やはり九州にいたのは邪馬台国と別の国であると言うことになる >>627
太田南6号墳の朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 >>636
>魏との交渉によって新たな地位を与えられた邪馬台国が重視するのは滅んだ漢ではなく魏となる
それは魏の側の期待に過ぎないのですよ。
宝飾品は興味があったけれど、鏡は自作できるようになったから不要だったと。 >>610
青龍三年は魏の年号
青龍三年方格規矩鏡を造れたのは魏の鏡師 >>639
ほんまやったら絶対編年箇所引っ張って下い(でないとアホよばわりよ? 一生懸命に九州には邪馬台国なんてありません、平原はただの個人墓ですと主張してる人がいるのが面白い
畿内の邪馬台国の存在を熱烈に認めてくれてるんだな
まさかこれで私は九州説ですとか言わないよな? >>609
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 けど。。。
よく見たら破綻してたのは九州説だったよ。。。 けどほぼ古墳からしか手に入らないからな
一般人で持ってる人はほとんど居ないんじゃないだろうか まあ欲しがる人がいくら出すかだな
状態にもよるだろうけど数十万〜数百万が妥当かな 数万でしょ。
数百枚現存するので。
そこらの博物館の予算で買える程度でしか売買が成立しません。 九州説は本当に面白いよな
その場その場で適当な言い逃れを叫んで、気が付いたら平原九州とさえも無関係な個人の墓
九州に魏の鏡を求めた邪馬台国なんてありませんと声高に叫んでしかも気が付いてないんだから
流石はバカの標本といわれる九州説だ 三角縁てようしらんが古墳時代のレプリカが殆どなんじゃね
三国期のオリジナルは数枚のような気がしますが専門家はどう思てるんやろ?
つうか報告書引用まだー(ざっくりまとめただけでもええしURLでもええですよ 内行花文鏡の方がいい。
しかし平原遺跡のだと、レプリカを作っても費用が数万では収まらない。 まず日本にゃ古代鏡市場がないから値段の予測がつかないか 畿内説は本当に面白いよな
その場その場で適当な言い逃れを叫んで、気が付いたら平原九州とさえも無関係な個人の墓
流石はバカの標本といわれる畿内説だ >>659
中国から入ってきたいわゆる舶載鏡と国内コピーのボウ製鏡がある >>663
そうやろね
専門家だろうが考えることは同じやな
オリジナルは何枚かあったんやろなー 鏡や絹が大量に見つかるから邪馬台国だ!とか言うデマを鵜呑みにして何十年も生きてきた九州説教団の人間に現実はとても受け止められないだろうなぁ >>662
そういう事言うから九州説は
論破されて悔しがる人の標本と言われる >>664
安すぎやろ
レプリカとしても同の材料費だけでももうちょっとするわ >>665
少なくとも6枚はオリジナル
まあ三角縁神獣鏡にも編年があって1期〜4期までは舶載鏡だったかな
9期まであり5期以上は国内製品
恐らく数百枚は舶載鏡が存在しているだろう >>669
あーそーなんか?4期までは全部舶来で日本でコピーした痕跡ない言う理解でOK? つうか平原絶対編年の報告書探してはる人遅いな?もーいつでもえーからな
もう今日は諦めました >>670
俺もそこまで三角縁の編年に詳しい訳ではないけど
まあそうなんだと思う >>589
>晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもの
どこがどう特殊で特殊な形状なのか教えてよ
できれば、図示してある典拠を教えてくれるとうれしい >>671
いや、別に教えてやる義務ないから
むしろ平原押しの九州説じーさんたちが一人も平原の報告書読んでないのがバレて、笑わしてもろた 三角縁は文様の特徴から第何期がいつ頃作られ日本に入ってきたかとかの研究までされてるのに
九州説はいまだに国産鏡だいやそうじゃないの段階だからなあ >>589
というか「晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもの 」って誰の説だか言えよ
きっと「俺様の説だ」と言うから、その時点で笑うわ 平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では
土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、
先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、
1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない
となると、普通に2世紀が妥当ってことにしかならないんだよな >>580
>・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)
めっちゃ笑える
その土壙墓って、周溝が埋まった土を掘って土壙を作ってるんだよ
1号墓本体ができてから、ずいぶん長い間待ってから殉葬するんだねw
そういうのは日本語では殉葬とは言わない
それから「周溝の一部を発掘した『だけ』で合計10基」って書いてるけど周溝として掘れるところは全部掘ってるよ
平原1号墓ってたいして大きな墓じゃないからね
それから、土壙墓が、平原1号墓の墳丘主体上にも作られてるのは知ってるかい?
殉葬相手の墓本体を荒らして作る殉葬墓って、すごいと思わん?
平原1号墓は、周溝が埋まるくらいの年月で埋葬者への崇敬の念がまるで
なくなってしまうほどの、その土地の実力者だったんだろう
墳丘サイズだけで見ると
平原遺跡 1号墓 12×8メートル 面積 96平方メートル
吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓 40×27メートル 面積1080平方メートル
吉野ヶ里の北墳丘墓は倭王の墓ではないのは確実
その10分の1に満たないのが平原1号墓
これを卑弥呼の墓の候補にしなきゃいけないんだから、
3世紀九州の遺跡・遺物の乏しさは深刻
戦時中だから小さいとか、薄葬令の影響とかバカも休み休み言わないと
侍女千人いる王宮の王が、墓を作るのに男子千人を動員できなくてどうする?
薄葬令が倭国にはないのは、このスレでも何度も言われてる
まあ、平原1号墓も3世紀じゃないんだけどさ というか別に平原がいつの時代だろうが邪馬台国には何の関係もないからな
何か知らんけど3世紀に持ってきたらすぐにそこが邪馬台国になると思ってるのが沢山いるから笑えるが
国産鏡しか手に入らない中国と交渉も出来ないヘボい奴らでしかないからな >>681
>国産鏡しか手に入らない中国と交渉も出来ないヘボい奴らでしかないからな
だから、倭国(阿波)しかないと何度言えばw 中国と交易していたのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 いやー、九州説の人たちって無知が服着て歩いてるよな衆だね
いや裸で歩いてっかも知れないけどさ 魏の使いが滞在して外交を行なっていたのがまさに平原遺跡がある伊都国なんだけどね。 裸で歩いていたのは畿内だろw
九州には絹があり、魏にも朝貢していたことが魏志倭人伝にある
畿内は絹がないから朝貢できないねえ >>680
>侍女千人いる王宮の王が、墓を作るのに男子千人を動員できなくてどうする?
纒向にそんなに建物あったかな? >>684
>魏の使いが滞在して外交を行なっていたのがまさに平原遺跡がある伊都国なんだけどね。
その伊都国を治めていたのが、「筑紫忌部」と何度言えばw @阿波
>>679
>土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
根拠は?
>この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、
平原遺跡そのものの年代なんじゃない?
>となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、
そんなに時間が経ってからまた手を加えるとは思えないなあ。
で、畿内にはない鉄製品が平原遺跡では使い捨て状態だったと。
邪馬台国に鉄があることは魏志倭人伝に明記されているからねえ。
纒向はやはり無理があるよ。 周到に用意された罠にひっかかり、畿内にはない鉄製品が九州では使い捨て状態だったことを浮き彫りにしてしまい、キナイコシが畿内説の宣伝係を解雇され、タコ型火星人の着ぐるみを作製中なのではないのかな。。。 >>688
畿内に鍛冶屋の跡があるのに、鉄がないとか連呼しちゃう
九州説の非科学が笑える >>145
つまり大和説には、
「南→東」などのように、史料事実の否定曲解のウソ付き騙しばかりで、
ひとつも根拠がないと、
そういうことだね。 >>691
鍛冶屋ではないというのが、真実なのではないのかな。。。 鉄製品使い捨てとか放漫経営してるから九州の国は没落したんだよ 邪馬台国にはなぜ、鉄が、使い捨てられるほど存在したのだろうか。。。 熊本城の地下や城下には、鉄の遺蹟が多いのだったな。。。 >>148
>で、九州説の王城はどこにあるの?<
吉武高木→三雲→弥生銀座のおそらく安徳台→糸島→久留米〜八女→太宰府、
と移って行ったの。 絹wwwww
九州で邪馬台国の時代に絹が出る遺跡は1つだけwwww
それも粗悪な糸くずが出るだけ
その上その前の中期までは二けたもあったのにこの激減ぶり
あからさまな衰退の証拠でしかないwwwww
こんなもんで良いなら絹の小袋が出た纏向の方がまだましだwwww
鏡も絹もねーんだよwwww九州にwwww ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 九州説って本当に何一つ知らないんだなぁ
邪馬台国の会のバカ丸出しのインチキグラフ見て「すげー!鏡も絹も大量だ!」とか言って踊ってるんだろうな
可哀想に >>154
「南→東」などの、理由のない「嘘つき騙しの断定」が、
トンデモ大和説の特徴。 >>702
などと毎日ウソをつくのがトンデモ九州説の特徴 >>691
>鍛冶屋の跡に鉄がないのは、なぜだろうか。。。
九州にも碌な鍛冶屋の跡がないのは、なぜだろうか。。。 @阿波 邪馬台国の会とかしまいには4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡とか持ち出して来て邪馬台国とかほざいてるよな
よくあんなバカなこと平気で言えるわ たかだか4,5世紀のことなのに詳らかではないって後進文化国だったってのは悲しいね 九州には碌な鍛冶屋の跡もなければ、朱の精製跡もないのは、なぜだろうか。。。 @阿波 >>168
理由もなく「南→東」などの嘘つき騙しをした考察するのは、
・・・・大和説の馬鹿のやること。 >>174
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
何も根拠が出せない。
それが大和説衰退の原因。 >>708
まあ、ここには大和説とか居ないけどな
なんせ畿内説のスレだから 九州も畿内と同じレベルなのではないだろうか。。。 @阿波 >>188
「前スレの投稿にオウム返しされ」という、虚しいアホ踊りを続ける大和猿に、
朝から笑わせてもらってる。
もっと踊れ。
ホラどうした?。まだまだオウム返しされないといけないレス、沢山あるぞ。 >>712
九州も畿内と同じレベルなのではないだろうか。。。 @阿波 >>194
「南→東」などの嘘つき騙しのように、大和説者は、
現実を無視した妄想の花園で遊んでるようだな。
逃避は老人ボケが進むぞ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. しかも見つかった絹は物凄く目が粗い粗悪品
麻布よりも荒いと言う酷い物
魏に高級絹織物を献上したような技術が存在しないのがよく分かる >>678
>>589は、伊都チョンボが他人のブログから無断使用コピペしているものだが
「晋代あたりの特徴的なタイプであろう」というのは
高山純が「古代東アジアにおける耳璫の流伝」の中で
「浙江省杭州老和山の漢末六朝初期に比定される搏室墓から出土した琥珀製耳璫」について書いていること
柳田は同書から引用して、平原遺跡の耳璫もわずかにくびれる形式なので
「後漢末が平原王墓の年代の弥生終末と符号している」と書いている 唐古鍵には絹はないけど精密な絹織物と同じ技法で布を織っていたのが分かってる >>712
九州説爺以外の誰かが藁人形論法を使ったって証拠は? >>720
>唐古鍵には絹はないけど精密な絹織物と同じ技法で布を織っていたのが分かってる
とうぜん、織っていたのは大和忌部。 「忌部はん」以外に織れる人いないんだからw @阿波 鏡は200年間手に入らず古墳出土鏡まで現れない
絹は極わずかな粗悪品しかない
出ない、質が悪いだけじゃない
前時代の豊富な出土量を考えると「明らかな衰退」をしてるのが分かるな >>197
まぁあんだけ「大和の絶対の証拠」とか喚き散らしてた鏡が、
実は卑弥呼の時代ではなく、3世紀末のホケノ以後の鏡しかないと、
「いまさら」知った大和説老人に、現実を直視する勇気はないんだろう。
こんなもんで良いなら、九州では3世紀中ごろの明帝鏡の鏡片が一杯見つかるし、
△鏡は筑紫周辺から、大和と別の物を生産して九州から関東にまで配布してるから。
あ、ちなみに絹も、大和は3世紀末以後の出土から見つかる程度。
後期(AD100年くらい)までは二けたを数えた出土のこの激減は、甕棺部族の衰退を意味し、
その後は、久留米や宮地嶽には「絹に金刺繍」も出ている。
「大量の絹と鏡を出す偉大な先進地域から大和」の正体がこれね。 >>725
畿内も九州と同じレベルなのではないだろうか。。。 @阿波 >>209
九州には絹も鏡も大量にあったと言う現実に耐えられない大和説老人が発狂してるな
可哀想に。
こんな当たり前の情報さえも知らないで、偉大な「大和帝国」を妄想してたんだから、
スレ主やテンプレの被害者がこんなところにも。 伊都から久留米に遷都したんだな。
川上は副都だろうか。
高祖山から高良山に信仰の中心も移動したのだろう。
どちらも王宮の東側に神奈備がそびえる位置関係となる。 >>214
「オウム返しされ」の大和猿は分かりやすいなw。
痛いこと突かれるとすぐに反応する。
こいつ一日中いてハラハラしながらスレ監視してるんだなw。 >>215
そもそもそんな分かりやすい大量出土があるのに、
大和説学者は、何故まともに対応しないんだろうか。
素人でも調べたらすぐわかる程度のアホ情報に踊らされてるんだから、
何かと言うとすぐに、「南→東」などのように「ウソだ」とか叫びだすし、
大和説がキチガイの集まりだと言われるのがよく分かるわ。 >>219
平然とこんな嘘をつく。
そして、都合の悪い情報は、絶対に証拠を出さない。
それが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の生き方。 >>220
>【畿内の鉄器】 唐古鍵 板状鉄斧 大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市) <こ れ だ け>
【痕跡】 唐古鍵 鉄斧「柄」 加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。 ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。<
成程。 >>223
朝飯前にウソをつき 昼飯前にウソをつき 飯を食ったらウソをつく。
それが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説。 戦後になってもなお大和の万世一系を声高に叫ぶのだから、時代錯誤も甚だしい。 >>228
>そんなことはない 弥生時代の全国でも最大級の拠点集落の唐古・鍵遺跡は
「唐古・鍵遺跡で1件」だよ<
【畿内の鉄器】 唐古鍵 板状鉄斧 大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市) <こ れ だ け>
【痕跡】 唐古鍵 鉄斧「柄」 加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。 ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけらしいよ。
調べもせずに適当なことを書いて、ウソだらけになるのが大和説の特徴。 >>231
九州に鏡も絹も大量にある、と「今更」知った大和説老人が発狂して、
お送りする必死の大和説者のサル踊りをお楽しみください。 >>235
そりゃ仕方ないよなぁ。
今まで考えもしないで盲信してた事が、
全部自分のバカさ故の勘違いだと、今更になって知ってしまったんだから。
唯我独尊の高慢な「南→東」などの嘘つき騙しの大和説老人には、
耐え難いことだろう。
うんうん、 こうやって発狂して裸踊りを続けるくらいしかやることないよなぁ。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫ニニギに嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の賀茂神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>237
>破鏡が5期の物だと知らないからまたこうやって妄想を叫んで恥をさらす九州説だった<
明帝の「尚方作」鏡が、副葬の破鏡に使われた、
という事は、卑弥呼に死以後にしか起こり得ない、という事が分からず、
またこうやって妄想を叫んで、恥をさらす大和説者だった。 人間ここまで平気で嘘つけるようになっちゃうもんなんだね
九州説って宗教、すごいや 次のスレッドのタイトルは、邪馬台国火星説で良いのではないのかな。。。 畿内説の宣伝係が、論破され続けているせいで、発狂して、悪口を喚き散らすだけになっているな。。。 魏志倭人伝時代よりも莫大な時間の前に、熊本城の目の前の島から、黒潮に逆らって、沖縄まで移動した者達の正体は、何だろうか。。。 熊本城から沖縄の間を、移動していた者達が、倭人なのではないのかな。。。 >>239
>完鏡の副葬がまた始まるのは古墳時代になってから<
この男は、また「古墳時代」の定義もしないし、
出来ないで、世間の人々を騙そう、としている。
筑紫では、△が志登や藤崎や祇園山や那珂八幡や一貴山銚子塚などから出ているし、
内行花文鏡なども幾つも出土している。
>つまり、魏晋当時に九州は中国鏡を手に入れられず、
古墳時代になってから鏡を手に入れたことになるわけだ<
つまり、魏晋当時に九州は中国鏡を手に入れる事が出来ており、
大和は3世紀末以後のホケノになってから鏡を手に入れたことになるわけだ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>747
>この男は、また「古墳時代」の定義もしないし、
>出来ないで、世間の人々を騙そう、としている。
またザラコクがウソをついてるな
一個人が勝手に定義したらダメだろうに >>241
>倭全体では大体150年くらいまでの後漢鏡を最後に鏡の入手が困難となり、破鏡や小型?製鏡の作成を始めたことになる
後漢政権の動揺とも合致しているので妥当な時期となる
九州に限らず他の地域でも同様に完鏡の副葬が激減して破鏡が主になる
そして再び完鏡の副葬が始まるのは古墳時代 <
またこの大和説者が「古墳時代」という定義を言わずに、
世間の人々を騙そう、としている。
九州倭国では、3世紀前半からも、鏡や鏡片が沢山でており、
△も那珂八幡なども275年頃が早く、
大和では、3世紀末以後のホケノが最初。
>この100年以上の空白の時間を考えると伝世と言うよりも現実的に鏡入手が出来ない時間があり、
古墳時代になってから鏡を再び手に入れられるようになったと考えるのが妥当だろう<
九州倭国では、ホウ製鏡が造られ、
3世紀前半には、呉系楽浪鏡師らが渡来して来ており、
明帝の銅鏡百枚も入って来て、殆ど断絶はないはない。 >>751
>ホケノ山は三世紀前半だがね
「忌部はん」のお墓をよく取り上げてくれるね。 @阿波 >>248
>このように破鏡、小型?製鏡の時代と言うのは「倭全体で鏡の入手が困難になった時期」であると分かる
そして古墳時代に入ると再び完鏡の副葬が始まる
この事を考えると古墳出土鏡は、そのまま古墳時代に入手された鏡であると考えるのが妥当<
九州倭国では、3世紀前半から楽浪鏡師の渡来や明帝の銅鏡百枚やホウ製鏡や鏡片があり、
大和では、3世紀末以後のホケノから、東征将軍や楽浪鏡師らの鏡が始まった。
>つまり、古墳以降の鏡はそれ以前の入手物ではなく、
古墳を広めていた勢力を通しての入手が主になると言えるだろう<
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
全て九州倭国からの分け前を貰っていた。 >>750
>またこの大和説者が「古墳時代」という定義を言わずに、
>世間の人々を騙そう、としている。
高校の教科書に載ってることを言わないと、どうして世間が騙せるんだ?
ふつうの人たちは知ってることから何度も言わないだけだ 邪馬台国からえんえん進まないペースでいいわけ?ないかもよ。 >>250
>平原遺跡はこの鏡不足を象徴する遺跡であると言える <
いや、巨大鏡や大量の破鏡が造れる位、鏡が余っていた。
>この墓から見つかる鏡のほとんど全てが古い鏡を鋳つぶして作った国産鏡となっている
そして残った少数の中国鏡も古い時代の鏡となっている<
平原以外からも、沢山鏡や鏡片が出土している。
>3世紀の年代設定をされていようがいまいが、
「中国鏡を入手できなかった人物」の墓であるのが分かる<
大和は、3世紀末以後のホケノが最初であった、という事が分かる。 大和は、3世紀末以後のホケノが最初であった、という事がはっきりした今、ホケノに埋められた人物を発掘すれば良いのではないのかな。。。 古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
中期(4世紀後半〜5世紀末)、
後期(6〜7世紀)
に区分している。
古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。 >>253
>九州全体で古い時代の破鏡や、小型?製鏡ばかりが出てくる 平原遺跡も同様の状態<
この男は、何度も同じ嘘つき騙しを繰り返しているから、・・・・。
>この事から導き出される結論は 「配ってしまったから無い」ではなく
「最初から入手できていない」と言うのが分かる <
有り余っていたから、巨大鏡や大量の破鏡や鏡片が造れた。
>多くの鏡を下賜されたことになっている邪馬台国の姿とはかけ離れた姿が浮かび上がる事になる<
邪馬台国なんてなかったし、大和の鏡は3世紀末以後のホケノの少量が最初であるし、
この男の、「国民を騙そうとする嘘つき騙しの・・・・詐欺性」が浮かび上がって来る事になる。 弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。 >>762
>その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
その強力な力を持つ支配者が存在した痕跡があるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>760
> 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
>古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
卑弥呼の死後の話しかできない畿内説。
九州倭国にいた卑弥呼の崩御が西日本全体の政治力学に影響を与えたのだろう。 >>762
>箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。
畿内説は大和政権の話しかしないよね。
卑弥呼やその前の男王も皆大和政権の王だったと思っている?
それではただの万世一系説なのだけれど? >>765
どうして万世一系説になるのだ?
九州説の考えは非論理的でワケがわからない >>766
>万世一系説とか別にどうでも
正直、なんの意味があるのかも知らないし、分からない。何を一生懸命言ってんの? @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>764
>卑弥呼の死後の話しかできない畿内説。
これも真っ赤なウソ
卑弥呼以前の話もたくさんしている 箸墓を卑弥呼墓にするのなら台与はどこ?と聞けばまぁ適当に答えるのであろうな。
卑弥呼のお父さん、お母さんの墓は?
2世紀前半の男王の墓も答えてもらおうか。 >>264
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説猿が、
現実を受け止められずに、アホ丸出しの珍言を繰り返す様が面白いです。 >>271
そして「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
ヘイトスピーチの呟き荒らしで、都合の悪いレス流し。
いつものパターンだな。
一人で複数の荒らしを装って大変だなぁ。 卑弥呼墓=前方後円墳という説が苦しいのは、
後円部が主体埋葬者なのだから、基本、一人で一基だよね。
これは説明が苦しくなってくる。
卑弥呼のお父さん、お母さん、トヨのお父さん、お母さんの墓は?
と聞かれればかなり苦しいだろ。
あと崇神が行灯山であることは古事記の記述や時代考証からほぼ確実。
そうすると卑弥呼、トヨから崇神への移行に対してどう説明するのかな。
行灯山の少し前が箸墓だからね。
俺の説は一族みんな同一墓というものだから説明が楽。
場所は高天原なんだけどね。 >>288
ひたすら「南≠東」問題から逃げるとか、
ヘイトスピーチのお経唱え続けてるだけのの大和説の惨状のほうが、
無能無能説の断末魔としか見えないけどね。 明治憲法第1条「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を発布したのは
薩摩の黒田清隆内閣のとき >>290
>>平原遺跡の位置付けが不明確。<
>明確だろ 独占的に漢鏡を入手してたルートが途絶えて権威失墜した小国の王様の墓だ<
明確だろ。
大和には、3世紀中頃に平原程の魏鏡や楽浪鏡師鏡のあった形跡はなく、
ようやく、3世紀末以後にホケノが画文帯一枚位の小国の墓墓しか出て来ない。 >>291
>>平原遺跡の鏡は小さくも古くもないよ? キナイコシは息をするように嘘を吐く。<
>中国製の鏡を「入手できてない」状態という意味で<
明帝の中国鏡が入手出来ていた。
>平原も小型ほう製鏡を使ってる他の北部九州も同じと>>253 で言っている<
同じではない。平原は巨大国産鏡もあるし、明帝鏡も沢山ある。
>その趣旨が伝わらないように重要な箇所をカットした引用をしてるのは不正行為だね
そうした上で、あたかも平原の鏡が小さいと言っているかのように歪曲するなんて、
それこそ九州説は息をするようにウソをついてる<
嘘つき騙しがバレないように、関係のないウソを並べて、
重要なウソの箇所を隠そうとした大和説者の引用は、不正行為だ。 >>295
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説のスレ主らも、
大和説者らのヘイトスピーチの係の弟子らも、凄いよね。
朝起きてから寝るまで、交代でウソつき続けてるって、
こういうのがオームの弟子らみたいだ、っていうんだよね。
まるで「息をするように」って言うんだね。 >>291
>えっと、 まず、平原は破鏡(破片)ではなく、破砕鏡(故意に割ったと思われる鏡)だよ
意味が全く違う物なので、"同様"というのは間違いだね
平原の方格規矩四神鏡は国産かもしれないが、元のモデル鏡は
その模様から復古鏡であると思われる
小山田宏一氏によると、魏は後漢を引き継いだという意識の強い国家で、
曹操以来後漢復古鏡や模倣鏡を重視していたと言っている。
平原の方格規矩四神鏡の元鏡は、この後漢復古鏡で方格規矩四神鏡の可能性がある
中国出土の魏鏡の鉛の値が測れればいいのだが<
成程。 >>297
>中国製の鏡を「入手できてない」状態という意味で
平原も小型ほう製鏡を使ってる
他の北部九州も同じ<
また、「南→東」などの嘘つき騙しの変な大和説男。
「入手出来ていた」。 >>301
>>しかし、国産の鏡に興味が移ったというか、価値観が変化したんだよ。
漢が滅亡したから、漢鏡に意味がなくなったのだろうね。<
>こういう根拠なしの憶測を基礎に置かないと、論の組み立てすらできないのが九州説
漢鏡に意味がなくなったのなら、漢鏡の一形式の内行花文鏡のでかいのを作ろうなんて
思いもしないのが、道理なんだが? <
内行花文鏡も、21枚の「尚方作」方格規矩鏡も、魏鏡だよ。 >>302
>糸島の外に供給できてないってことは、入手できてなかったってこと<
蝙蝠鈕座内行花文鏡は、筑紫に幾つも出土しているよ。 >>304
>じや、なんで超古い漢鏡を2枚墓に入れた? 辻褄が合ってないぞ<
当然明帝の下賜鏡であったかも知れず、
何らかの価値があったから、入れたんだよ。 >>308
「南→東」などに嘘つき騙しをして、
そんな曲解捏造のヘイトスピーチをいくら書いても 、
大和説の信頼が落ちるだけだぞ。」 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/asia/1538031595/l50
【茅ヶ崎市】韓国の慰安婦映画「沈黙ー立ち上がる慰安婦」の後援となってしまう
映画『沈黙−立ち上がる慰安婦』上映会 in 茅ヶ崎
日時:10月16日(火) 14:30/19:00
会場:茅ヶ崎市文化会館 小ホール
主催:『沈黙−立ち上がる慰安婦』実行委員会
後援:茅ヶ崎市、茅ヶ崎市教育委員会
この映画は「慰安婦は日本軍に強制連行された」と主張している。
明らかに歴史を捏造し日本を不当に貶める反日映画である。
この映画の上映会をなんと茅ヶ崎市、茅ヶ崎市教育委員会が後援するというのだ。
こんな歴史を捏造した映画の上映会を市が後援するなどとんでもない話だ。
是非、茅ヶ崎市長、茅ヶ崎市役所宛に抗議の電凸、メールを! >>310
九州説は、ワカランワカランで逃げ、
「南→東」などのような嘘つき騙しをし、でっちあげるしかない。ww ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>311
>7期鏡がない時点で、お察し<
土器でもそうだったが、
鏡でも「地域的な流行時期」の差異や前後は幾らでも有り得、
それを無視した編年は、無意味で無価値。
特に後代史家や日本の大和説学者の編年は、信頼性がない。 >>792
:義によって添削します(つうか焼酎吹きました
畿内説は、ワカランワカランで逃げ、
「南→東」などのような嘘つき騙しをし、でっちあげるしかない。ww >>314
畿内がアッタアッタって連呼してる人、なに?。
変な宗教の人?。」 良く見ておけ
これが全てを論破された九州説の末路だ ん?
>>675
まあたぶん >>679 程度のもんしかひっぱれんのやろ?
やあいやあいあほじじい
絶対編年の根拠は庄内なんたらだけやん?
下限が庄内なら3世紀真ん中もあるなあ >>315
>王墓とは考えられない墓からも大きな鏡が出ているし、
内行花文鏡だけが大きな鏡となっている訳ではない <
超大型鏡は、明帝が下賜をする筈がなく、
おそらく、卑弥呼らの命令で(渡来の)楽浪鏡師らは造ったもの。 掲示板に1日中張り付いてオウム返しばかりやってたらそりゃ頭もおかしくなるわな >>322
>読んだら九州説絶望ってわかっちゃうから怖いんだよね?<
もう3回も全部逐一反論を投稿したのに、スレ主からの再反論投稿は見られない。
スレ主も、もう大和説絶望ってわかっちゃうから、怖いんだろうね?。 >>324
>畿内説の話はつまらんから読まないでも畿内説に反論したい って、無理でしょ
そのくらい分からんの? <
もう3回も全部逐一反論したが、スレ主からは反論がなかった。
という事は、スレ主は反論出来なかった、という事であり、
国民を騙すために貼り付けだけをしている、っと事でしょ?。
それ位分からんの?。 >>325
>卑弥呼ってどこの誰だったの?
せめて出身地域くらいは言えよ。<
松野氏姫氏系図では、卑弥呼は称号のようなもので、本名は「刀良」と言い、
「東海姫氏國」の姫氏の分家の分家の家系で、「大野」付近にいた娘。 >>803
>もう3回も全部逐一反論した
「南≠東」とか連呼してただけでしょ >>332
>え? 九州説でしょ? これ、「クズせつ」って読むんだよ<
え?。大和説なんでしょ?。
これ、「嘘つき騙しの・・・・せつ」って読むんだよ。 >>336
なるほど。
大和説は、「戦前の万世一系皇国史観」の「唯我独尊の殺戮戦争」主義の、
右翼の、マスコミや、、文部省学会教育界や、、やくざ暴力団や、、安部政府らの、
・・・・説であったのかい?。
クズ説だったか >>798
関西弁のあほじいさん、テンプレに
平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
と書いてあるよ
絶望しな 畿内説の中傷が先鋭化してきてるな
適正な議論ができないのならスレから去れ >>803
>もう3回も全部逐一反論したが、スレ主からは反論がなかった。
すぐに他の人が先にザラコクを論破しちゃったからだよ >>808
そんな鏡もその他の宝飾品も無視した編年に意味はないよ。
ただのコンタミの可能性が高いからね。 次スレは鴨厨氏が立てるべきだ。
「畿内説」としてまだまともに議論が通じそうだ。 >>809
どれが中傷?
やくざ、暴力団とか連呼してる奴? >>760
個人的には弥生と古墳時代で切るのは無意味やと思いますが?
教科書的に定型化つうか箸墓からの前方後円体制【かっこ?付き】からが古墳時代やったら3世紀第4四半世紀以降からじゃね(AMSがいうとった 唐の捕虜になってた讃岐国の錦部刀良というのがいるな >>808
あほじじいのテンプル腐ってるんじゃね?(マジレス >>376
自分の[「戦前の万世一系皇国史観」思想ありきで、
あらゆる科学を無視して、
「南≠東」など史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする。
それが大和説。 >>802
反論するもテンプレになーんの変化もないだろ?
要するに相手にされてないって事だ >>380
全く反論できないんだな、
「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説。 >>811
残念ながら、素人の意見より発掘調査した学者の判断が優先するね
そして、鏡や宝飾品で柳田と違う年代だと判断した学者はいない 絶対編年の理由がテンプルにないなあ?
まさかAMS?(煽りますよ(なんもでんのやったら先にアホいうてごめん >>817
毎日こんなウソついてる人を誰が相手にしてくれる? 学者いうても歴博AMSまとめたいがいやったよ?
学者の何を信用しろて?? 畿内説は第二の神の手で考古学や歴史学への信頼を失った。 >>815
>唐の捕虜になってた讃岐国の錦部刀良というのがいるな
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。 @阿波 >>825
大阪の警察署から逃走したひったくり犯捕まったみたいだぞ 結局AMSだけなんですな?
AMSが辻も箸墓もアウトなんわかってないんやね >>831
素環刀で、あーだけ赤恥かいて
また足りないのか? >>384
>大和は狗奴国連合の中心じゃないかな
纒向で西日本や北陸・東海の土器が出てるのも根拠になるかな<
「南≠東」などに拠って、×。 ん?刀は説明したったろ?
理解せん爺の介護せんわ? >>837
関西弁じいさんなんか、頭が変って言われてるもんな >>838
そして、あんたの大チョンボって発覚しただろ >>386
>九州の伊都国を中心とする邪馬台国連合と旧奴国王族が作った狗奴国連合の対立した時代
丁度、倭国大乱を終結するために
伊都国勢力と北九州から中国地方西部・四国西部の旧奴国勢力との
和解のために共立した女王卑弥呼の邪馬台国の時代に重なる<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しであるし、
「南≠東」などに拠って、×。 カラの刀の絶対編年覆せんくせにカラッポレスやめれアホ爺? >>387
>中国製の小札革閉冑が出ている。<
中国製とは全く似ていない。
似ているのは半島性のものであり、
九州倭国の「渡平海北九十五國」で九州倭国が学んで、
「東征毛人五十五國」に使ったもの。 日本で出土する素環頭の太刀は
第1期が弥生中期で短いもの
第2期が弥生終末期で長大化
第3期が4世紀末から5世紀と書いてある論文を
何の理由で畿内説が覆さなくてはいけないのか 平原1が卑弥呼さんの墓とは言い切らんが否定の根拠自分で説明せんのに口入れたんやったらアホ爺いわれてもあきらめれ
あほ爺? >>842
あんた、凄くアタマ悪いんだな
伽耶の素環刀がいつの物だって
「大刀の本格的盛行は弥生終末期から古墳前期にかけて始まる。」
という禹論文の趣旨は変わらない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>844
第2期が弁韓あたりで3世紀後半と絶対編年されてるから つうか個人的に平原1が3世紀になるて考えた理由が刀やな >>394
>魏で使われていた尺度は普通の里以外ないよ
文帝が尺度を統一しなさいと命令を出してるから<
普通の始皇帝や漢代の「里」でよかったんなら、文帝は、即位の詔書で、
わざわざ度量衡の統一をわざわざ指示する必要がない。
良くないと思ったから、度量衡の統一を指示し、
重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返し、
周髀算経の度量衡が採用された。 >>849
日本の場合は輸主に入品だから
日本の編年と違うわな
それが何か >>850
日本の場合の編年だと
長い素環頭の太刀が出ても弥生終末〜4世紀末ぐらいとしか
わからないだろ >>849
されてると何なの?
3世紀後半といのは
第2期、つまり弥生終末期以降4世紀中頃
に入るから通説(=畿内説)と何の齟齬もないわけだが? >>397
>ホケノ山古墳を誰も卑弥呼の墓と言ってはおらんだろ <
そんな事は言ってもいないよ。
「前方後円墳は冢ではない」と言っている。
そして、孔明も遺言で「墳と冢」とを、明確に区別した書き方をした。 >>846
その論文は3世紀後半が弥生時代認識の作品やん
つうか縦軸が朝鮮南岸の3世紀後半にあわせてるやろ >>851
漢と魏の里は魏の里が長いよ
魏里が制定されたにも関わらずあちこちで慣習的に漢里が使われていたので
魏里に統一しなさいといった命令だろう >>398
>来人だったら何か それにそうじゃないかも知れない<
どちらであったのか?は、確率の高低の問題。 >>404
>魏志倭人伝の皇帝から邪馬台国を導き出すのは難しい
その通りに辿ると邪馬台国は赤道付近になるから<
書いた陳寿自身が、
「自郡至女王國萬二千餘里」を「計其道里、當在會稽東治之東」とはっきり説明しているんだから、
赤道付近にはならない。
この投稿子の「読み方」の間違い。 >>863
文章理解力なさすぎ
同じタイプの素環刀が使われてた時代というだけだよ
弥生終末〜古墳初期という時間幅が短くなるような話ではない 鏡もない絹もない
あるのは前の時代からの明らかな衰退の姿
それが九州 言葉悪かった(ごめん
アホは死んでくれたらスッキリしますね >>858
>>372で
>前方後円墳は冢ではないから、ホケノは卑弥呼の墓ではなく
とまるで畿内説がホケノ山を卑弥呼の墓と言ってるような事を
書いてるではないか
前方後円墳は古くは塚または大塚という呼び名が一般的
土を高く盛った墓であり
卑弥呼が死んだときの大作冢と魏志倭人伝に記されているものと同一として何の問題もなく意味が通る >>869
関西弁じいさんみたいに脳だけ死ぬと
スッキリしないよね >>865
つまり、理由もなく言い張ってたんだね
また頭のおかしい関西弁爺が論破されたな >>866
帯方より1万2千里は東治之東のはるか南
はっきり書いてあるなら魏志倭人伝の地理観は正確なものではないと
はっきり書いてある事になる >>867
時代区分は論文の目的外なのはわかってますけどな
絶対編年しやすい朝鮮南部が第二変期で3世紀後半編年されてるんやから
平原もほけの山もそれよりは遡らんやろ
日本のが先行する理由がないし >>872-873
死ねいうてごめん
生きろ絶対生きろ? イヤ日本の2期と朝鮮南部の2期を一緒くたにされても ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>879
日本の2期は弥生終末期の素環頭の太刀の長大化が始まる時期
そもそも朝鮮南部の2期はどういう定義なん 弁韓あたりやら朝鮮南部ゆうたが倭人の領域ぽいとこよ?
なんたら日本府のあたりじゃね? 魏志倭人伝に出てこないし
三世紀の頃に日本府はない筈 ミラー談議に押されてますが
刀マニアがもっといたらええなあ? >>882
朝鮮南部も弥生終末期があったのか
まあ弥生時代の定義も暫定的なものだし
古墳も全部発掘されてるわけじゃないから場合によっては
日本の太刀の編年はもっと遡るかも知れない
現状で長い素環頭が出たから三世紀と断定するには弱いんじゃないかな つまり刀に編年からは、平原遺跡は3世紀後半以降ということ?
それなら玉や耳璫の編年と一致するじゃん。 魏志倭人伝や後漢書では朝鮮半島南岸の狗邪韓国は倭国の一部だから、編年にも差はないだろう。 >>875
妄想しすぎ
第二期が3世紀後半からとか、どこにも書いてない >>572
嘘つくな捏造機内説
3世紀の鏡は北九州を中心に分布している位至三公鏡
『わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、中国と日本との地域差、年代差を考えれば、
西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。』
『倭の使が、外交関係のあった西晋の国から鏡をもたらしたとすれば、その鏡のなかには、「位至三公鏡」がふくまれていた可能性が大きい。
「位至三公鏡」などのこのような傾向からみれば、西暦300年近くまで、中国と外交交渉をもった倭は、九州に存在していたようにみえる。』
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm >>886
ん?
言い切らんが?正解かも
つうか論文の表に刀出土した遺跡名ありませんでしたか? 三世紀後半だと卑弥呼の墓の可能性は少ないぞ
卑弥呼の死は250年年前後だから 畿内説は魏志倭人伝も考古学的な編年も無視し始めたぞ。
負けたということか? 邪馬台国の会のバカサイトを持ち出してきて大爆笑www
墓誌が出たとかほざいてるがその墓誌が出た墓と鏡が出た墓は別なのに勝手に同じにしてる
都合のいい脳みそしてるわ >>896
それなら九州説こそ負けっぱなしじゃないの >>895
>>888
>日本の太刀の編年はもっと遡るかも知れない
>現状で長い素環頭が出たから三世紀と断定するには弱いんじゃないかな
この論理なら2~3年くらいの誤差は無視できるよね。 そしてついでに言うならその位至三公鏡出てるの全部4世紀後半以降〜五世紀末の古墳だから
古墳出土鏡を持ち出して邪馬台国の証拠でございますとかwwww
どこまで笑わせんだよ能無し九州説wwww >>896
無視してるのは九州説だが
つまり九州説は学問ではない >>900
別に無視してもいいけど
卑弥呼の墓が三世紀後半のものの可能性が少ない事に変わりはない そもそも平原1の太刀が素環頭の体で話が進んでるけど
実際はどんななん 平原が伊都の実力者の墓なんは間違いないやろから朝鮮半島南岸より先進地域でも不思議ないやろ
刀の編年先行はあるやろ? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 別に平原をどこに持っていこうが邪馬台国と何にもかかわらないから好きに適当ほざいてればいい
ご都合よく卑弥呼の時代に持って行っても何にもならんとわからん脳みそだから九州説なんてやってんだろ 邪馬台国の会ってワードが出たらあっという間に九州説が消え去ったな >>914
煽ったり死ねいうてごめんな
頑張って長生きしたらええよ(頑張れ! 朝鮮南部だと素環頭2期は三世紀中ごろだから平原はどうこう言い出すかと思ってたのに ヤフー掲示板で邪馬台国の会と言ってみたらどうなるか >>902
>狗邪韓国はのちの金官伽耶国など一貫して韓地
売国奴 >>912
>まあ平原1は二世紀末〜三世紀前半ぐらいかね
そのまんま卑弥呼の治世ですね。
その時代の物品が副葬されていたなら、生前の卑弥呼が使っていたものがそのまま副葬されたのでしょう。 >>920
ちなみに卑弥呼の死は250年ごろの三世紀中葉 >>920
卑弥呼の治世にしたくて
知性のないやつが無理やり
年代引き下げてんだをー しっかし、わえわえ爺さんヒドく頭悪いよな
ついこの前はあの論文に椿井大塚山が弥生終末と書いてあるって言い張ってボコボコにされてたんだぜ
笑えるやつだよな この議論の流れからは平原遺跡が卑弥呼の墓に思える。 あーあと位至三公鏡は古墳出土だと書いたが佐賀の谷口古墳とか畿内要素満載の古墳で三角縁と共伴してるから
こんなもん持ち出して九州説の証拠とか
どんだけ脳みそ足りないんだろうな 4世紀築造とされてきた、平地に作られた箸墓古墳が、3世紀に造られたとすると、それまで4世紀築造とされてきた桜井茶臼山古墳など、その他の古墳も次々と前倒しされます。
すると5世紀の応神天皇・仁徳天皇陵の時代は動かせないので、「空白の4世紀古墳時代」となってしまう、という不自然さもでてきます。
どうにもこうにも次々にモグラがでてきて矛盾につきあたるのが、邪馬台国畿内説のように思われるのですが…… 素環頭の論文って相当古いけど、韓国の編年は変わってないの?
ホケノのようにあの論文以降に出土したものもあると思うが新しいのはどのくらいあるんかね? >>932
三角は魏との関わりとは関係の無い鏡だし、明らかに国産で大量生産された鏡だからなぁ
あまりにも出土数が多いし、粗悪品も多く、扱いも格下だから、高級な花輪的扱いだったかもな 中国の書物に登場するのが根拠なんだから少なくとも大陸と交流があったんだし
大陸に近い日本海側にあったって考えるのが普通じゃねえの?
邪馬台国が日本列島全てを支配してたわけではなくて
畿内にも同時期に別のクニがあったってことでいいじゃん >>935
それは畿内の大豪族だけ
九州の三角縁は配布される数が少ない上にとても格の高い扱いを受けている
那珂八幡古墳の三角縁は1面のみで大切に絹の袋に収められている
三角縁が程度の低い鏡というのは畿内の大豪族の古墳を見ての勘違い
この三角縁の扱いの天地ほどの差を見ると畿内と九州の地位の違いがよくわかる
圧倒的上位の畿内と、序列の下位の九州という図式が明確 ついでに言うなら位至三公鏡は面径が小さめで文様も簡易なものとなっている
中国で流行したというのも尊重されたというよりも日用品として手ごろだったからだと思われる
日本古墳出土品を見ても「それだけ」か「他の鏡と出てくる場合は扱いが悪い」という形になっている
棺内ではなく、羨道に投げ置かれたりしているなど雑な扱いになっている
序列の低い鏡としての姿が見えてくる
つまり、この鏡が多く見つかる地域というのは、
単に下位の鏡を与えられた地域と考えるのがこの鏡の扱いを見るに妥当な評価であろうと思われる 桃の種
纏向遺跡 約2800点
津島遺跡 2415点
上東遺跡 9606点
モモの種核の研究だけでは論争の決め手にはなりそうにないのですが、
仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になりますよね。
吉備の桃の種も炭素年代法で調べるのも面白いかもww 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1538242175/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 辻褄が合わない
畿内説では南が東だろ
北部九州から東が正しいのが畿内説だろ
すると畿内邪馬台国から見て西が北部九州が畿内説だろ
ここが問題なのだ「畿内邪馬台国から見て西が北部九州が畿内説」
〜自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國〜
畿内説で西にあるはずの伊都国が北と倭人伝で記述されているのはなぜか
畿内説では伊都国が出雲あたりか
ならば南は南で好いがww >>943
論理的思考力のない人ですか?
文献の中での整合性を一切考えないからそういうトンチンカンなイチャモンをつけるんだよ >>943
>畿内説では南が東だろ
>北部九州から東が正しいのが畿内説だろ
・・・
>畿内説で西にあるはずの伊都国が北と倭人伝で記述されているのはなぜか
なぜって?
実際は東に進んでるのに間違って南に行ってると思ってる人なら
実際は西から来たけれど間違って北から来たと思ってるのが普通だが?
何か問題あるのか? >>933も、わけわからん奴だね
空白とか不自然とか矛盾とか
結論だけ言うくせ具体的なことは何も言わない
異常に頭が悪いのだろう >>945
ふーーん
魏使の帰路の方位はどうしたんだろう
帰路で
間違いに気づいたら、倭人伝では方位は訂正されているはずだが 瀬戸内海航路で魏使が帰れば
畿内から西に向かうことになるでしょ
これも北へ向かったと勘違いしたという事でいいカナ?
往路 復路 とも 方位を誤認した?????? これもマタマタ疑問
畿内説では 往路と復路は違う?
魏使は一回ぽっきりしか畿内邪馬台国に行ってない?
複数回行っていれば方位は訂正されてたはずだが
誤写なら、倭人伝の方位は誤写だらけにならない? 南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
水行計30日陸行1月
常に太陽は南、北極星は北の空にあるのに2月も方位を間違えるかな?
まずは復路も方位を誤認したかどうかだな
畿内説でいけば復路の方位も誤認なんだろうな >>405
>徳島人はどこから来たのんやろ?<
「〜部」という文言の発生は、古田さんの分析では、
古代縄文〜弥生の出雲王朝での発生であったようで、
そして出雲を引き継いだ倭人の天孫族系も「物部」や「忌部」などを引きつぎ、
天孫族系の東征に拠って、「物部」や「忌部」も列島各地に広がったんだろう、と思う。
「物部」部族は、東征将軍やその部将として全国的に広がったが、
「忌部」部族は、出雲の祭祀を引き継いで、吉備から讃岐や徳島に残存していて、
倭国の東征軍の支配下になって、祭祀国として残存したんだろう。 >>411
>そうだよ 炭素年代はあてにならないのに しつこくついてくる九州説には辟易<
そうだよ。
炭素年代は、ベータ線法のような直接的崩壊計測であれば、確率が上がるが、
AMS法では、古い年代が出過ぎて、信頼性が非常に低い。
しかし、大和説説者らは、大和の年代を古くしたいから、
必死でAMS法にしがみついている。 >>953
正論
常識が通じないのが畿内説
だからアンケートでも支持者が少ない >>412
>時代が離れてようが関係ないよ 記録があればそれを写すだけだから
後漢書は漢の時代に書かれた倭奴国との交流記録を参照しているある意味
魏志倭人伝とり倭国を正確に記述してある書
また魏志倭人伝も漢の時代の倭奴国記録を下敷きに書かれた可能性があるのだ <
ダメだ。
陳寿自身も、当然後漢代記録や、後漢に関する史書などを、
当然直接的に、同時代的に見て知っていて、魏志や三国志を書いている。
だから、はるか後代の、同時代的ではない范曄の後漢書の書き換えよりも、
はるかに信頼性が高い。 復路は気がつかなかった
ナイスだと思う
これを袋(復路)小路に入り込む畿内説なんちゃって >>413
>纏向は畿内説のその場しのぎだからな
そのうち、あっと驚く物が畿内から出土するから待て<
ダメだ。畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの詐欺文言だし、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎなかったし、
筑紫には、あっと驚く「漢委奴國王」印が出土している。 >>414
>いつから古墳は塚と呼ばれてきたというのは古代の事だからわからん
ただ前方後円墳は近代の呼び方だから 墳は塚(冢)ではないというのは誤り
そもそも史書で区別なんてしてないだろ
それならこういうのが墳でこういうのが冢であると書かれているはずだから<
ダメだ。
孔明は墳と冢をはっきり区別して使い分けているし、
説文解字も、冢=高墳として、「冢≠墳」だという書き方をしている。 親魏倭王の㊞は古墳の石室からは出ないだろう。
神社が持ってたりするんじゃないかな。 >>418
一行目から真っ赤なウソで、正直、笑えた。
さすが「南→東」などの嘘吐詐欺師の大和説。 >>423
>邪馬台国が当て字なら大和国の事じゃね <
邪馬台国は、存在もしない嘘つき騙しの「サギ語」。 炭素年代(AMS)の問題点・・・学会では測定値を定説とはしていないのが現状
・採取から前処理などの途中経過までに起きるホンのわずかな汚染で測定値に狂いが出てしまう
・炭素年代の測定の前提条件は自然界における同位体の割合が同一である
この測定法ではこれが常に一定という前提でのこととなるのですが実は一定ではない
同位体は空気の上層で宇宙線を浴びることで発生するわけだが、宇宙線は太陽の活動状況や地球の磁場の強さで変わってくる
・炭素は大気中だけでなく海洋でも存在(当然) これが大気との間で常に循環を繰り返しているが表層は常に大気と盛んに循環が施されているので
大気とほとんど同じ濃度です、しかし、中層深層となるとだんだんと割合が変わっていく さらに海洋も非常にゆっくりと循環、
その状況も時代海域で違ってきていることがわかっている、これらを海洋リザーバー効果と呼ぶ
理系科目が苦手だから文系に進んだあなた! そのまま炭素年代法を信ずるといけませんよ! >>424
大和説者は、「南→東」などの、
史料事実の否定曲解の嘘吐きサギをする・・・・人種。
「戦前の萬世一系皇国史観」に狂った戦争狂は、怖い怖い。 >>423
>邪馬台国が当て字なら大和国の事じゃね <
隼人の圀でもいいじゃん >>427
だから、短里で測定した結果を受け取った人たちが、
短里できちんと計算して、会稽の東と書いたんですよ。 >>428
「筑紫の在地土器というのは消滅する」なんていう、
嘘つき戦争狂の大和説は、消滅する。 >>969
実際皆生の東じゃないんだから、短里というのは間違いだね >>941
>畿内説=狗奴国連合説 <
めでたし めでたし これで論争は完結だなww >>435
そして、「南→東」などの嘘吐き詐欺師の戦争狂の大和説者は、
すぐ滅んだ 。 >>436
>だって東夷だから、現地で雇った人員が短里を使ってしまうんだよ。
まさか高貴なお役人が自分で測量するわけはないよね? <
「夷人不知里數、但計以日」。 >>440
>何で倭まで来た魏の使いが短里で記録を取るんだよ
九州説のいう所では倭に来た魏の使いは正確無比に距離を測定したんだろ
そして魏は尺度等の単位統一令が文帝から出てるんだろ
普通の里以外の尺度を使うのは皇帝の命令違反だろ <
魏の里で記載しなかったら、命令違反。 >>441
>ならそんな距離記録はアテにならんっつー事やね <
なら、魏の里を使わなかった大和説者の説明は、アテにならんっつー事やね 。 >>443
あいかわらずのアホやなあ。
神聖なる倭地で、汚らわしき始皇帝の里を、使うわけなかろう。 ザラコクさん
南は南でいいのですよ
不弥国から南に向い投馬国(宮崎あたり)
投馬国から南に向い太平洋ルートで南紀
陸行で邪馬台国・・・畿内と言うより京都周辺
・・鉄も絹もあるよ、海も瀬戸内海だけでなく日本海もあるよ 奈良は墓地でいいよ >>446
魏の役人が魏で使われてない始皇帝の里単位で測定するって・・・、
まあ有り得へんなあ。 >>447
「南→東」などの嘘吐きサギの大和説者の妄想スゲー。
自分が発狂してるのは、 わかんないもんなんだね。 >>450
「南→東」などの嘘に嘘を重ねて、
ついに大和説が自己崩壊し始めた。 >>456
>その他は狗奴国連合のどこに王国があったか議論しておくれ
畿内?出雲?阿波?吉備?・・・ <
「南≠東」などに拠って×。 >>458
>>九州説のいう所では倭に来た魏の使いは正確無比に距離を測定したんだろ<
>ここが多分違う。 現地のガイドに下請けに出したんだよ。<
「夷人不知里數、但計以日]. >日本の里でさえ、記録が残ってる奈良時代には すでに中国里とはかけ離れてたからね。
戦国時代くらいに今の日本の里になったらしいけど 特に違いを問題にした形跡もない。
里ってのはそういうローカル単位系なんだろうよ。<
「夷人不知里數、但計以日」。 >>462
>>そんなけがらわしい仕事は、帯方郡が雇った小者の仕事だ。<
>だよね。 そんなバカなと思うかもしれないけれど、
出た結果の数字を見ると、そうと考えるのが最も妥当だ。 現実は大抵そんなものなんだよ。
今も昔も変わらない。<
「夷人不知里數、但計以日」や、大和説者が嘘つき・・・・詐欺師である、という現実は変わらない。 >>972
東でOK
大陸から見て 真東では無い そんな特定する技術も無い
例
大阪から見て 金沢は東の方でもいい 名古屋は東の方でも良い おおざっぱに日の上るところが東 >>463
>魏の律歴志(使われた度量衡を記したもの)には・・・<
魏朝の文書ではなく、民間のアホ詐欺師の書いたものだから。 >>466
>魏の役人は倭に行ってないわけ?<
魏の役人は、「夷人不知里數、但計以日」を知らなかったわけ?。 >>972
会稽の間違いでは?
皆生????????????????????? >>468
で? 、
なんで現地の「夷人不知里數、但計以日」のガイドが 、
自分の知らない単位で報告するわけ?。 このスレにカキコム畿内説はバイトだろ
だから知識も無い 帯方郡もバイト任せだったが、
畿内説もバイトに任せるようになったのか、、、 >>471
>「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
ここで言う「墳」と「冢」の違い教えてよww <
「墳」は、山のように大きくて広いもの。
「冢」は、棺が入るような小さくて低いもの。
「墳=高冢」。 実際に無知なのは九州説だし、詐欺師も九州説だよ
平原で出た素環刀を平然と魏の下賜した五尺刀だとか宣伝してるし >>477
>いや。。。吊るされたのはむしろ九州説だった。。。。<
いや、大和説は「南→東」などのような、嘘つき詐欺ばかりしたから、吊るされた。 >>479
>例え東夷人じゃない現地のガイドが里を使って案内したとしても
それは漢で使われていた里になるはずだ
なぜなら卑弥呼が使いを出す1年前まで遼東半島にいて
魏に滅ぼされた公孫氏は元は漢の役人だったからな <
「夷人不知里數、但計以日」。
つまり、当時、倭人は「里」という文言を知らなかった。 >>480
>そして漢の里も魏の里よりちょっと短いくらいで
そんなに変わらない<
始皇帝は「1歩=6尺」と命令し、漢は従ったが、
周や魏は「1歩≒1尺」であった。 >>998
はい、短里支持者の「現地のガイド」説死亡しました このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2日 6時間 20分 53秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。