高天原にある卑弥呼の墓
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魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
謁見を請うということは外交儀礼として土下座。
日本の歴史は中華皇帝への土下座から始まった。
その屈辱の史実を隠すことが記紀編纂の目的。
だから基点となる卑弥呼の時代を神武東征紀で猛々しい男王国に変え、
その神武をBC660年即位などとトンデモない時代に設定し、
それ以前のスサノオを神話化した >>73
>だから「時の天皇」って誰?
「時の天皇」って書いてある時点で、初代じゃないのは確定ww
御所市に言って聞いてきなよw >>72
>調べてるも何も神武東征紀の高尾張邑の記述の話。
本当に、妄想へ気のあるやつは始末に負えないな
神武東征で誅した土蜘蛛が奴婢だったなんて、古今東西どこにも書いてないのにww 単に東に向かって傾斜する尾根があるだけで、尾根上のピークすらない 後漢書によると、朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までが倭国だ。
そしてその中の倭奴国に金印が授与された。 >>75
お前には日本書記より御所市史の方が重要なのかw
桜井市史で卑弥呼が箸墓に眠るとかの記事を探してこい馬鹿もんw >>76
>神武東征で誅した土蜘蛛が奴婢だったなんて、古今東西どこにも書いてない
抵抗したものは奴婢となる。
帰順したものは奴婢とはならない。
古代の鉄則。
事実、神武の住んだカシハラは奴婢郷。 >>78
奈良盆地は北側に山がないので盆地ではないというのと同じ屁理屈。 奴婢埋葬痕跡の出せない箸バカ古墳支持者=畿内説スレの1君、今日も涙目www 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>81
>お前には日本書記より御所市史の方が重要なのかw
おいおい、左側スロープ君の奴婢埋葬痕跡っていうのの根拠が「土蜘蛛伝承」だろ?
御所市史は、その伝承をきちんと調べて書いてあるものだ
左側スロープ君みたいに「土蜘蛛」の3文字だけで妄想を膨らませたものとは訳が違うww >>83
>奈良盆地は北側に山がないので盆地ではない
左側スロープ君は、これが大好きみたいだけど、「平城山」って言葉は知ってるかい?
佐紀盾列古墳群は、平城山で奈良盆地が終わる間際に作られているんだよ >>82
>抵抗したものは奴婢となる。
>帰順したものは奴婢とはならない。
どこにそんな記録がある?ww
いつもの妄想ジャンw
>古代の鉄則。
そんな鉄則はないwwwww >>83
>事実、神武の住んだカシハラは奴婢郷。
あれ? おかしいなぁ、どこにそんなことが書いてあるんだい?
日本書紀には書いてないよ? >>84
>奴婢埋葬痕跡の出せない
いや、高天彦神社周辺の奴婢埋葬痕跡が一切出せてないのが左側スロープ君だよ?ww
ミラーリング乙w >>87
>御所市史は、その伝承をきちんと調べて書いてあるものだ
そうすると千本の足を持つ妖怪は生物学的に何という動物なのかな?
普通人は、それを民話ととらえるけどね。
一方、神武はこの世に生きた人物。
つまり史実。
お前は民話でもって史実に対抗してるという事になる。 >>88
>左側スロープ君は、これが大好きみたいだけど、「平城山」って言葉は知ってるかい?
>佐紀盾列古墳群は、平城山で奈良盆地が終わる間際に作られているんだよ
だから何。
奈良市から京田辺、宇治に、そして京都に平地が続いてるね。
だから「奈良は一部分が山に囲まれてないから盆地ではない!」と、
しつこく言い続けるやつがいたらどうよ。
基地外だよね?
それがおまえ。 >>89
>>抵抗したものは奴婢となる。
>>帰順したものは奴婢とはならない。
>どこにそんな記録がある?ww
>いつもの妄想ジャンw
抵抗したものも抵抗しなかったものも人類皆平等だったのか、アホ。 >>91
>いや、高天彦神社周辺の奴婢埋葬痕跡が一切出せてないのが左側スロープ君だよ?ww
蜘蛛窟、高天彦神社拝殿の画像も出した。
見たくないのはわかるけど、あまりにも君はぶざまだ。
まぁ箸バカ古墳に奴婢埋葬痕跡が有れば見たいのでどんどん出してくれwww >>90
>あれ? おかしいなぁ、どこにそんなことが書いてあるんだい?
>日本書紀には書いてないよ?
日本書記には畝傍山の東南と書いてある。
しかし畝傍山の東南にカシハラという地名はない。
これはかつて本居宣長が指摘したように、
また鳥越憲三郎さんが指摘したように、御所市柏原しかない。
当地には神武天皇社もある。 >>92
>一方、神武はこの世に生きた人物。
>つまり史実。
天皇崩于橿原宮、時「年一百廿七歲」
これを生物学的にどう説明するのかな?
こんな長命の人間はいない
これを史実とするのは無理がある >>93
>だから「奈良は一部分が山に囲まれてないから盆地ではない!」と、
>しつこく言い続けるやつがいたらどうよ。
そんなこと言い続けている人はどこにもいないだろ?
>基地外だよね?
いない人を非難中傷してもしょうがないだろうにww
>それがおまえ。
そんなことは一言も言ってないだろ?
逆に、平城山が奈良盆地の北側を画しているって書いてるのは無視かい?
外の誰一人認めていない、東下がりの斜面の尾根をただ一人「塚がある」と
言い続けている人ならいるんだけどねww
その人は、左側スロープ君の定義に従うと「基地外だ」ということになるらしいけれどww >>94
>抵抗したものも抵抗しなかったものも人類皆平等だったのか、アホ。
日本書紀には
「此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。
又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、
皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。」
とあるだけで、奴婢にしたなどとはどこにも書いてないし、奴婢郷ともしていない
まつろわぬ物は「皆誅之」「掩襲殺之」と誅殺しているだけだよ
勝手に奴婢にするなって話
妄想乙、で終わりだよ >>95
>蜘蛛窟、高天彦神社拝殿の画像も出した。
本当にバカなんだな?(確認)
その写真画像は、蜘蛛窟であり、高天彦神社拝殿であって、
それと殉葬奴婢とは「一切」「まったく」「何の関係もない」んだよ
その単純なことが認められずに、足掻くこと足掻くことww
みっともないことこの上ないww >>100
>その写真画像は、蜘蛛窟であり、高天彦神社拝殿であって、
>それと殉葬奴婢とは「一切」「まったく」「何の関係もない」んだよ
高天彦神社拝殿左、奴婢埋葬痕跡なのだが?
こんな単純なことが認められずに、足掻くこと足掻くことww
箸バカ古墳にまったく痕跡がないからってみっともないことこの上ないww >>99
多くを殺し、生き残った者は奴婢。
そんな事は当たり前。 >>98
>逆に、平城山が奈良盆地の北側を画しているって書いてるのは無視かい?
平地が京都まで続いてても奈良は盆地だね? >>97
>天皇崩于橿原宮、時「年一百廿七歲」
>これを生物学的にどう説明するのかな?
先に足が千本の生物の名前を言え。
神武127歳を誰が正しいなんて言ったのかな?
崇神4世紀前半、神武は2世紀末。
BC660年にしたのは倭国王帥升=スサノオを隠すため。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>97
>天皇崩于橿原宮、時「年一百廿七歲」
>これを生物学的にどう説明するのかな?
>こんな長命の人間はいない・・・・・・・・・・・・・
その通りですね。医療技術が発達した21世紀にも127歳の
長命者はまずいない。況や古代にいた筈がない。
この科学的視点を記紀読解時にも、何故適用されないのか?
即ち神武が在世していたとされる古代−自ら文字で記録する
知識もなく農事暦だけで太陰暦すらなかった古代人の享年を
どのように伝承できたのか?
文字記録無しでは享年を伝世不可能。即ち記紀記載の享年は、
編纂者の何らかの意図による作文だね。
そんな数値を妄信しておられる貴方が、私には不可解だね。 >>106
>即ち記紀記載の享年は、
>編纂者の何らかの意図による作文だね
もちろん。何らかの意図とは日本の歴史の初現が中国の皇帝への土下座から始まってはいかんという事だね。
>そんな数値を妄信しておられる貴方が、私には不可解だね。
貴方って誰のことかな、わしは>>97 ではない。
どちらにしても神武127歳なんて信じてるやつは一人もいないと思うが。 >>101
>高天彦神社拝殿左、奴婢埋葬痕跡なのだが?
これがバカの極
それは蜘蛛塚であり伝承では
『むかし、千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた。時の天皇はお悩みであったので
勅使がきて、字 サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。 矢の落ちたところを矢の段という。
土蜘蛛を高天彦神社の傍に埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛のいた窟は神社の前の並木の東にある。』
というもの
奴婢でもなければ、殉葬でもないし、神武天皇も卑弥呼もまったくに無関係
「これを大発見した!オレ様は天才!」って自分で言っている左側スロープ君が
哀れでしょうがないww 「倭國王・帥升はスサノオではないか」
新井白石など江戸時代の国学者にとっては日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まるわけで、
最悪の仮説ですが一応立ててみたでしょう。
そうすると帥升の約100年後にヒメ、そしてすぐ後にトヨがいるわけです。
107年倭國王・帥升 スサノオ
・
・
・
238年 卑弥呼(ヒミコ) ヒメ(踏鞴五十鈴)
・
266年 台与 トヨ津
神武東征紀とは女王国を隠ぺいするための大袈裟な記述であったことが分かります。
邪馬台国はやはり大和である。
しかしそれは古代天皇の朝貢を意味する。
新井白石など江戸時代の国学者にとっては絶えられない屈辱である。
だから「邪馬台国とはどこだろう、私は九州さと思うが。高天原は常陸である。」
などとしらを切り邪馬台国論争をスタートさせたのです。
つまり九州説なるものは虚構なわけです。 >>109
可哀そうにとうとう頭がおかしくなったんだね。
蜘蛛窟には碑が立っており当地の伝説が地元のA家で代々守り続けてこられたことが分かる。
そこには神武天皇の名前と日本書記にある高尾張邑の事が書かれてる。
これを痕跡というのだ、わかったかね。
さぁ早く箸バカ古墳から奴婢の痕跡を見つけたまえ、永遠に無理だろうけどwww
負け犬ぶざまwww 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>112
しつこいね。
勝者に抵抗した人間は殺されるか、生き残っても奴婢だ。
こんなことは当たり前。 >>115
親族や家族ってのがあるのだよ。
分る?
また高尾張邑の話は葛(カズラ)で編んだ縄がどうこう、
つまり生け捕りを思わせる。
所で端バカに奴婢の痕跡はあるのかい?wwww バカの壁は、越えられないようだねww
左側スロープ君に、日本語で書かれた論理展開を追うことを期待するのが無駄だってことだろうな
なにせ、誰にも見えない左側スロープがあると言って引かないし
証拠だといって出してくるただの尾根の雑木林に丸をつけた図でも、毎回丸の位置がずれる
とことん、人とは交われない存在なんだろうww >>101のようなオウム返しだけで、意味のある反論ができない辺り、
低脳さを自ら曝していく芸風と見えるw
ザラコクとお友達になると、レベルも感性も似ているから仲良くなれるんじゃないかな? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>117
奴婢埋葬痕跡が全くない箸バカ古墳支持者と何で交わらないといけないのかな? 奴婢埋葬痕跡って、葛城にもないよね
しかも墳丘すら無い 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>121
墳丘も奴婢埋葬痕跡もあります。
まずヒミコが誰なのかから論考してますので、
私の話には基礎があります。
みっともない箸バカ古墳とは全然違いますw 高天原から北九州へニニギノミコトが行かれたとき道案内したのが伊勢の猿田彦だった。
高天原が近畿や宮崎だとよく言われるが、近畿や宮崎から北九州へ行くのに伊勢の者が
道案内するのはおかしいだろう。
天照大御神様が天岩戸にお隠れになったときお出しする相談をしたのが長野戸隠の思兼命
だった。
高天原が近畿や宮崎だとしてそこに長野の戸隠からわざわざ相談しに行くだろうか。
私は高天原は飛騨高山だと思う。
高天原はタカアマハラ、タカアマが高山になった。(高山が武将の名という説は間違い)
また、天皇御即位には飛騨の一位の木で出来た釈が使われる。 高天原はなにわ〜堺かもね〜
海に面した高台にある原、正に上町台地〜にぴったりなネーミング >>126
高天原がなにわ〜堺だとして、ニニギノミコト
が、なにわ〜堺から北九州に行くとき、なぜ伊勢
に住んでるものが道案内したのか説明してくれ。 >>125
高天原は御所市高天。
新井白石が常陸説を出す江戸時代まで普通にそう認識されていた。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>125
高天原も天岩戸も伊勢も徳島の話。 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>128
常陸を含む日高見国の国王は高天原である飛騨王国が任命していた。
日高見は飛騨上とも書く。
国王が天孫族だったことで新井白石は勘違いしたのだろう。 >>134
>国王が天孫族だったことで新井白石は勘違いしたのだろう。
ならば邪馬台国も飛騨だと言えばいいのに新井白石はそんな事言ってないでしょ。
新井白石は邪馬台国は北部九州だと言った、
そして高天原は常陸だと言った。
これは「邪馬台国も高天原も大和ではない」という事を強調したかっただけ。
つまり焦点ずらし。
邪馬台国も高天原も大和であれば古代中国への臣従関係を意味する。
国学者としては耐えられない史実だ。
だから邪馬台国も高天原も大和であると確証を得てのち、
邪馬台国も高天原も大和ではないと言ったのだ。 >>135
>「邪馬台国も高天原も大和ではない」という事を強調したかっただけ。
>邪馬台国も高天原も大和であれば古代中国への臣従関係を意味する。
>だから邪馬台国も高天原も大和であると確証を得てのち、
邪馬台国も高天原も大和ではないと言ったのだ。
これみんなあなたの妄想でしょ。それともなにか根拠があるの? >>136
>これみんなあなたの妄想でしょ。それともなにか根拠があるの?
新井白石は高天原が常陸と言ってのち、
何か詳しい説明などを論じてない。
ただ常陸だと言っただけ。
ただ大和葛城から焦点をそらしたかった以外に理由はない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 正式名称は磯上乃古事記
海の無い長野、奈良は関係のない話
蚊帳の外 >>137
新井白石が書いた高天原が出ている古事通4巻と古事通2に全て目を通しているわけで
ないから断定はできないが、新井白石は、
常陸国に「多珂(たか)」という地名があった。
上古の言葉で「あま」といえば海のことである。播羅(はら)もまた上古の言葉である。
古語にいう『多訶阿麻能播羅(たかあまのはら)』は、多珂(たか)の海上にあった
地ということになる。
というだけで常陸が高天原だと公言しているようだ。
これでは新井白石の判断力を疑ってしまう。 >>139
国生みとは、高天原が全国を統一するために諸国を支配下にしていった話。
海をかき回したら島が出来たというのは神話上の話。
よって高天原が海の近くにある必要はない。
ちなみに高天原飛騨国の王子イザナギと出雲国の姫イザナギは政略結婚。 国生みの初めはおのころ島、すなわち博多湾の能古島。
ここがイザナギが最初に獲得した国土であり、倭国創建の地、弥生文化発祥の地。 天長2年(825年)に空海が「磯輪上乃秀真国之阿波国也」
(しわがみのほつまのくにこれあわくになり)と断定した文章が
太龍寺に残ってるから古事記は四国が舞台だろうね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >磯上乃古事記
の「磯上乃」は「古」の枕詞。
>磯輪上乃秀真国之阿波国也
の「磯輪上乃」は「渦潮上の」という意味。
「磯上乃」と「磯輪上乃」とは違うのだよ。 ニニギノミコトは九州防衛のため高天原から北九州に降りた。高い所から降りたので
北九州はヤマノフモト縮めてヤマトと言った。
ニギハヤヒは都を移動する準備に高天原から近畿に降りた。それで近畿もヤマトと
言った。
タテミカヅチは国王になるため高天原から日高見国に降りた。それで日高見国も
ヤマトと言った。
魏の人間が北九州に行って、ヤマトの都はどこか、と聞いたら高天原を教えるだろう。
不弥国から水行20日で投馬国、水行10日陸行1月で邪馬台国だが、
投馬国が但馬国で、そこから水行10日で越前、陸行1月で飛騨国である。
飛騨国は高天原であるとどうじにいわゆる邪馬台国でもありうる。 倭とは倭大國魂神社(延喜式)がある美馬(ミマ)を中心とした四国のこと
崇神天皇の諡号 ミマキイリヒコ
簡単な話 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>147
その話には少しも出雲が入ってない、やり直し。 >>141
>古語にいう『多訶阿麻能播羅(たかあまのはら)』は、多珂(たか)の海上にあった
地ということになる。
というだけで常陸が高天原だと公言しているようだ。
これでは新井白石の判断力を疑ってしまう。<
なんでそんなたわいない説を述べたのか。
国学者として、
邪馬台国=大和
高天原=金剛山(高天台 御所市高天)
とは言えなかった。
大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事になるからだ。
だからわざと邪馬台国=九州、高天原=常陸などと言って焦点ぼかしをした。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>140
磯の字はあとから置き換え
万葉集に海の歌が多いのは四国が舞台だから
奈良には海はありません 延喜式の伊射奈美神社は美馬
大嘗祭の三木家も美馬
高天原は美馬にある剣山 記紀の国生みで女神の名は四国だけ
四国が女王国であることを匂わせてる 記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。 国生みのかき混ぜは鳴門の渦を表してる
そして淡路島
失敗作オノコロは鳴門淡路島周辺の小島 記紀の国生みは博多湾から始まらない。
豚骨ラーメン以外に何もない場所から始まるわけなかろう。 >>159
オノコロはまぐわいの場所で聖地だから失敗ではない、
失敗はヒルコな。
西宮あたりに流れ着いたんだろう。 かき混ぜたのは矛だろ。
銅矛文化圏の伝説なんだよ。
畿内は銅鐸文化圏。 まあ、国産み神話がもともとは淡路島近辺のものってのは通説になってるよな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>158
>国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置され・・・・
九州北部沿岸の島?『記』の記す下記クニ生み大八島(日本列島)8島のうちどれどれが、
九州北部沿岸の島だったとおっしゃるのか?
淡道之穂之狭別島
伊予之二名島
隠伎之三子島(天之忍許呂別)
筑紫島
伊伎島(天比登都柱)
津島(天之狭手依比売)
佐度島
大倭豊秋津島(天御虚空豊秋津根別)
西日本全体の地名に拡大され再配置されたのは、どれどれのことか?
再配置などせずとも、当初から佐度島以外は西日本では?
これら8島が8世紀当時の『記』編纂者の認識していた倭国範囲だっただけでは?
淡路島に付かぬ冠詞(a,the ?)ならぬ接頭辞「天」付き別名島だけが、
天津神支配領域説も首肯できないな。 播磨灘
国産む話し
磐余あり
屋島のいわれ
大八島なり
神武さんは讃岐うどん食べてから東征しました? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>167
原典ではおそらく天津国、つまり対馬海峡だけの国生みだったんだよ。
後漢書では倭の北限は狗邪韓国、南限は倭奴国とある。
その後で大和が再編集した時に西日本を追加した。 >>148
ミマキイリヒコは徳島美馬から名付けられたとの説だが、任那の城との説、
築紫の水沼との説、都城の三山城との説もある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています