邪馬台国畿内説 Part396
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。 【骨 子】 ・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43) ・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6) ・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7) ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541317892/ ◆0【 要 旨 】 ( >>2-12 に各論、それ以下にFAQを付す ) 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。 その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。 395の>>615 >天皇家によって邪馬台国(卑弥呼&台与)の痕跡が跡形もなく地上から消し去られた... あるいは、邪馬台国の痕跡を覆い隠すために、 全国津々浦々にその真上から前方後円墳を造らせることで、古墳時代が始まったとかw< 邪馬台国も台予も天皇家もなかったし、 「南≠東」や、倭國は「正北抵新羅」に拠って北部九州であり、 その倭國が「東征毛人五十五國」をした、と言っているのであり、 大和は、「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であったんだから、 ×ね。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 何々の陰謀〜・・・ 実際に、あるんだよという話ばかり 『日本昔話 姥清水』 神隠しに〜・・・雲隠れ? していた人物が現れたという話なのかな? 本当に老婆と同じ話 395の>>637 >ヒミコはエベッさん(事代主)の娘さん。< 「南≠東」などに拠って×。 395の>>640 >太宰府は 陸路あつかい 関門を 出雲起点で 陸路一月(少し苦しーが解決 < 「南≠東」などに拠って、×。 老婆談というのも その日本昔話の放送された日(年)、 制作?よりも前(昔)の話 どういう事なのか・・・なんだよ 395の>>642 >補足ありがとう。 箸墓は定型化した最初の前方後円墳だから、卑弥呼の冢を潰すために天皇家によって造られたとすれば、その目的に合致する。 次の西殿塚古墳は台与の冢を潰すために天皇家によって造られたということ。 つまりこの2つの前方後円墳は、女王台与の死後(234年〜?)邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)により、 相次いで後円部の大きさが設定&築造されたため、一気に巨大化したということ。 < 「南≠東」などに拠って、×。 高天彦神社に拘らないなら、いい雑木林があった 高鴨神社の西300mの雑木林が150m弱 横に周溝もあるし 何度説明しても同じw むかーし住んでいた事があって・・・ >>748 >いや、その辺に土が盛り上がった塚がないからしょうがない 盛り上がってます。 >神社の境内でもなんでもないんだけどね 鳥居があるので境内です。 行ってもいないくせに適当な事を言いすぎ。 >>754 >左側の高低差を示すグラフを見てもらえば、 西から東に向かって下っているだけで「塚なんてない」ことがすぐに分かると思う 右側の高低差を示すグラフを見てもらえば、 東から西に向かって上っているので「塚である」ことがすぐに分かると思う >>760 高鴨神社は古事記の最高神・迦毛大御神(かものおおみかみ)=あじすきたかひこね=スサノオ >>764 Dead Or Alive『You Spin Me Round』 ここに出てくる人物が親なの? 395の>>660 >卑弥呼・台与の冢を潰されたということは... 女王国周辺の数十カ国の国名(烏奴国とか志麻国とか)が現在のどこにあったのか全く比定が出来ないのは、 大和朝廷によって邪馬台国時代までの地名は、とことん塗り替えられたかもわからんな...orz < 台与も大和朝廷も邪馬台国もなかったし、 「南≠東」などに拠っても、×。 高天原神社の前の林は単なる尾根の端っこだよね 小川の側からだと高さ8mくらい 葛城氏が有力氏族である事も考えたら被葬者本人の伝承が消えて土蜘蛛塚だけ残るって疑問だよな >>714 >「奴婢埋葬痕跡」とやらの根拠も証拠も一切示せないじゃないかw 痕跡があるのだが? 蜘蛛窟と高天彦神社拝殿。 何言ってるのおまえ。 しかも神武天皇だと記紀に書かれている。 箸バカ古墳には「奴婢埋葬痕跡」が全くない。 >>767 >被葬者本人の伝承が消えて 御所市高天は高天原最有力地。 江戸時代まで普通に高天原と認識されていた。 あと、あの塚は個人の墓ではない、神々の墓。 鴨族の鴨の語源はカミ(井上光貞) 395の>>663 >(年已長大は25歳か?問題)蜀書董允伝にあるそうな 呉書諸葛瑾伝では長夫とあるが34歳だってさ< 有難うございます。 景行天皇の熊襲征伐伝説と九州の初期古墳の分布は奇妙な一致を見せるな 初期の大和王権による九州征服の流れを描いていると思われる ただその動きも4世紀に入ってからの物だから卑弥呼以後の畿内による九州倭国への征服行動の物語だろうかね >>762 >盛り上がってます。 >>763 >東から西に向かって上っているので「塚である」ことがすぐに分かると思う よくもまあ、恥も外聞もなくこういうのが書けるね いくら書いたって、実際にグラフを見た人には「塚がない」ことはひと目で分かるのに 特に>>763 の方は、ザラコク並みの言葉を入れ替えただけのオウム返し これぐらい凝り固まってないと、トンデモ説に固執するってのは無理なんだろうな 伊達郡の川俣町という掲示板に、 このような謎の書き込み かーくんが住んでいる=ひかるげんじ という意味でしょ『ザ・モモタロウ』 高天原は本当は半島の事だと思うんだが。 神代は中国の事でさ。 それをまるで日本国内の事のように書き上げただけだろ? 当時の豪族たちに伝わっていた伝説には、大陸や半島時代の倭人の歴史が含まれてたんだよ。 きっと。 >>768 >痕跡があるのだが? >蜘蛛窟と高天彦神社拝殿。 蜘蛛窟は別の伝承が残ってるし、物的証拠0だろ? 高天彦神社の拝殿のどこが痕跡なんだ? 高天彦神社は西に向かって拝む形だぞ! 東側に王墓があるとしたら矛盾する 結局、痕跡だと「言い張っている」だけで、何も出せない もう諦めなww >>720 小便は自分で言っていたことだからな。 鴨厨と呼ばれていた頃の方がまだ良かったな。 >>743 >高天彦神社前の雑木林は大きすぎるから >道路挟んで北側の小さい雑木林にしたらいいんじゃないの? >3ヶあるみたいだし そのあたりも古代から地元の墓域だと思う。 おそらく土葬。 普通なら畑にされててもおかしくないのになぜかされていない。 そのあたりのことを地元の人に聞いてみたいのだが、 過疎化が進んでるのか人がいない。 『ザ・モモタロウ』 に出てくるテング・テング なぜか、ひかるげんじの曲の歌っていたり、 あとローラースケート? >>715 どこまでを神話と呼ぶんだ? 応神とかを神話と呼ばれたらたまらないな。 神代(神武東征まで)を神話と呼ばれならまだわかるけど。 >>774 >高天原は本当は半島の事だと思うんだが。 縄文時代の遺跡って、結構山の中の標高の高いところにあるんだよな そういう、縄文集落から平地に降りてくるのが天孫降臨なんじゃないかと、妄想したりもする >>775 >高天彦神社は西に向かって拝む形だぞ! 東側に王墓があるとしたら矛盾する 鳥居から見れば塚が西側にあり、さらに奥に拝殿がある。 何も矛盾しない。 >>774 高天原は対馬海峡周辺のどこかだと思う。 出雲や筑紫に行き来しているからね。 大和まで来ると、饒速日のように「行ったきり」扱いされてしまっているから、大和の近くではないだろう。 あと、神代の巻の後半は筑紫から見た視点になっている。 >>777 >そのあたりも古代から地元の墓域だと思う。 本当に憶測だけの適当さ >>782 >鳥居から見れば塚が西側にあり、さらに奥に拝殿がある。 >何も矛盾しない。 拝殿から何を拝むのかと聞いてるんだよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>780 >>783 普通に考えりゃそうなるよね。 葛城の高天原ってただの空き地だもん。 >>529 >明帝が、景初二年大晦日から景初三年元旦にかけて亡くなったんだから、 景初二年12月の詔書は、明帝にしかならず、 >それを否定するキミのような人間は、「口先での嘘吐き詐欺師」なのであり、 人間の屑なのではありませんか?。 景初二年なら明帝で当たり前。誰もそれを否定していませんねぇ。 景初三年の誤というのが主流であって、かつ「明帝詔」という記録は存在しません。 どこに嘘がありますかぁ? >晋書は、はるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」の多い唐代史書であるから、 >「ついうっかり」記載以外は、信頼性がなく、根拠にならない。 《通史》《通典》の話に、突然《晋書》が出てくるのか、さっぱりわかりませんねぇ。 「ついうっかり」とか呆れます。「イイとこ取り」なのでしょうね。 >>785 >拝殿から何を拝むのかと聞いてるんだよ 鴨系神社のご神体は山 >>782 >鳥居から見れば塚が西側にあり、 これ、グーグルストリートで拾ってきたけど、鳥居と言えるか? https://i.imgur.com/yKLearP.jpg ざまぁみろw スレのほとんどを葛城の高天原の話題にしてやったぜw 裏返せば箸墓だという説がいかに説得力がないかということなのだがw >>789 >鴨系神社のご神体は山 つまり、拝殿より東にある、葛城川に向かって下る「ただの尾根」は 拝む対象ではないってことだよな で、どうして高天彦神社拝殿が奴婢殉葬の痕跡になるんだ?w >>532 >晋書以来の唐代史書の「自己解釈に拠る書き換え」という事が流行していたにも拘わらず、 >魏志の記載通りについうっかり、 >「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と記載した、 >とという事が、信頼性があるの。 流行とか妄想でしょう。 「ついうっかり」で「イイとこ取り」ですかぁ。 >>魏志の引用については一番量が多いのが《通史》。 さらに言えば「景初三年」「正始元年」「正始四年」を揃えているのは日本書記だけ。< >唐代以後の後代史書は、原則として、3世紀の魏志倭人伝の直接的な証拠にならない。 まさに全文献の否定ですねぇ。 日本書紀の引用は北宋の刊本より古いのですよ。 >叙勲が終わった瞬間から、卑弥呼や難升米らは魏の臣下であり、 >当然業務の打ち合わせがあり、その間に明帝が亡くなってしまったら、 >卑弥呼や難升米らも、喪に服さなければならない。 それって君の思い付きでしょ。 ・「漢魏の制」前漢文帝によるもので三十六日喪。 ・儒教では「三年の喪」(袁紹や趙雲が服喪。) ・曹操の遺令では「葬畢、皆除服。」つまり埋葬まで。 明帝の葬は「癸丑、葬高平陵」だから、服喪期間は三年正月癸丑まででしょうか。 >劉マらは戦争が主任務であって、 >終わった後は、行政が主任務であった劉夏が着任していても、何らおかしくもない。 公孫淵を倒すまでは作戦中だから終わっていませんね。 それに正始元年には、弓遵に代っています。 劉夏が「行政が主任務」なら短期間で代らないでしょう。 395の>>663 >(年已長大は25歳か?問題)蜀書董允伝にあるそうな 呉書諸葛瑾伝では長夫とあるが34歳だってさ< 有難うございます。 >>791 >スレのほとんどを葛城の高天原の話題にしてやったぜw 全部、左側スロープ君の言い分を否定論破するものばかりなんだけど? >裏返せば箸墓だという説がいかに説得力がないかということなのだがw 畿内説は磐石だからねぇ 箸墓が卑弥呼の墓かどうかは、編年次第だよ 三日月湖年縞による14C年代のスタンダードが作られたら、さらに精密な編年が できるようになるだろうし 395の>>674 >しかも、河内朝の倭の五王(讃=仁徳、珍=反正、斎=允恭、興=安康、武=雄略)は、倭の総人口500万人の時代、百済に援軍を送り高句麗と戦争しながら、300m〜500mの超巨大古墳造ってたんだよね? 古墳時代の日本って凄くね? < 「讃=仁徳、珍=反正、斎=允恭、興=安康、武=雄略」は、 名前も年代も事績も全く合わないから、×。 >>794 >鳥居だが? 注連柱(標柱)って言うらしいよ? >>792 >つまり、拝殿より東にある、葛城川に向かって下る「ただの尾根」は 拝む対象ではないってことだよな 前にも言ったが塚には墓石群がある。 死者=神を拝んだであろう。 それがどうした。 >で、どうして高天彦神社拝殿が奴婢殉葬の痕跡になるんだ?w 拝殿左に土蜘蛛を埋めた石がある。 標識も何もないので見逃す。 そう言えば、注連縄と鳥居はどう使い分けているんだろう? >>799 どっちみち聖地の結界だ。 お前の様な下人は来るな。 >>794 >鳥居だが? これに比べると相当、お粗末だねw @阿波 物部氏・蘇我氏・葛城氏の祖、伊迦賀色許売(イカガシコメ)・伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、ここ阿波で生まれ、暮らし、葬られたのである。 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html >>797 >全部、左側スロープ君の言い分を否定論破するものばかりなんだけど? 一番肝心なことは「常識人」が言うように崇神が4世紀前半かどうか。 4世紀前半ならトヨは一人。 中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。 ならば彼女は鴨族であり邪馬台国は葛城になり、その聖地は高天原。 おまえはこの一番肝心なことをスルーしてて何をエラそうに言ってるのか。 395の>>688 >殉葬はよくイメージされるような 奴婢を古墳の周りに埋めるものじゃないぞ < 魏志の「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、 魏使らが直接的に「卑弥呼の墓で百余人の奴婢の殉葬を見た」というような記録だぞ。 >古代から王墓には行われて来たとあるが大き目の古墳からそんな跡は見つかってないから そのかわり古いものでは特殊器台や円筒埴輪が見つかるからそれで何がしかの儀式を行っていたであろうという事< 箸墓に、殉葬墓が見つからなくて、 その代わりに特殊器台や(人骨入りの)円筒埴輪があったんなら、 箸墓では殉葬はなかった、という事であり、卑弥呼の墓である事も否定される、 という事。 >>804 >中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。 それ、どこから出たと思ってる? 東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか? 和邇氏の本拠地はどこだと思ってる? 葛城とは関係ないだろうがw >>800 >前にも言ったが塚には墓石群がある。 その墓石群、写真なりソースなり出せるかい? いつの時代のもの?ww 395の>>693 「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者やスレ主は、 よほど「史料事実や史料実態」が怖いようだな。 鳥居之祓 神の在座鳥居に伊禮は 此身より日月の宮とやすらげくす 鳥居は元々日、月の宮の印 四天王寺も創建当時から寺なのに、木造の鳥居があったと言われている 調神社とか鳥居がない神社もある 豊津姫とか言ってるけどさ、その前に塚がなかったら殉葬も何もないだろ? という疑問には一切答えないよねww 左側スロープ君には、他人には見えないものが見えるらしいw 395の>>699 >邪馬台国は現京都市を王都とした地域 出雲、丹波、近江、大和一円の国が邪馬台国< 邪馬台国なんて存在もしないし、「南≠東」で×だし、 九州倭国の「東征毛人五十五國」などを完全に無視して逃亡しているから、×。 >ザラコクさんは南≠東で片付けるだろうが 大平洋ルートを検証していない 投馬国は宮崎周辺< 「南≠東」でも×であるが、 皇帝の詔書や金印や大量の下賜品を持った魏使らは、 「安全最短」が最も大事な原則であり、九州北岸から近畿に行くのに、瀬戸内を通らずに、 わざわざ大回りの黒潮での漂流するような危険路を選択する事など、 有り得ないから×。 狗奴国は東海か北陸かは決めかねています 395の>>703 >当時の列島に殉葬の風習自体あったのかね 死後の世界があって奴婢に主人の世話をさせようという死生観が < 魏志にははっきりと、 「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」 があった事を記録している。 邪馬台国の南なのだから狗奴国が東海や北陸にあるわけ無いじゃん ここだけ読み替えるなんて変なの >>813 >邪馬台国の南なのだから狗奴国が東海や北陸にあるわけ無いじゃん >ここだけ読み替えるなんて変なの 魏志倭人伝は、帯方郡に近いところから順に記載する体裁で書かれており、 遠くの国ほど、より南にある、ということになっている 「ここだけ読み替える」ではなくて、順番が後のものほど 「南と書いてある」=「帯方郡から遠い」と読めばいいんだよ 径百歩は纒向だが 箸墓の前方後円墳の径なんてどうでもいいし倭人伝の記述の径百歩と土器の炭化物だけで 卑弥呼の墓なんて((´∀`*))ヶラヶラ 発掘物では葛城 ヤマト王権の発生の地は葛城王朝だよ 一部の九州説もおかしいな 東遷は邪馬台国じゃねーよ 邪馬台国に変わる九州勢力か連合体が倭種の別国を制圧したのだよ かもきみの湯でもいいんじゃない? 完全に破壊されちゃってるけど元は雑木林だろうし 泉質はいいらしいよ、年中無休だし >>806 >それ、どこから出たと思ってる? >東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか? >和邇氏の本拠地はどこだと思ってる? >葛城とは関係ないだろうがw 孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。 トヨ津媛は葛城だ、バカ者。 395の>>705 >そう垂仁紀にあるように 人を古墳の周りに生き埋めにした痕跡は見つかってない つまり魏志倭人伝にある殉葬とは人が古墳の周りに埋めるような物じゃなかった < 魏志にははっきりと、 「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」 があった事を記録しており、 魏使らが、徑百餘歩の冢に「jun葬者奴婢百餘人」があった事を見たように、 記録している。 >>712 >いやそこらへんは同時期でもいい。 卑弥呼が死んでから150mの塚を作ったわけではないであろう、というのと同じ。< 魏使らは、周髀算経の一寸千里の法を使っており、 それは「1里≒76.5m」だから、 1里=300歩に拠って「1歩≒25.5cm」の短歩になり、 「百余歩≒25.5m」位になるから、 「150mの塚」は×。 朝日遺跡だよなー 元々畿内と同じ木棺墓の勢力だったのが、紀元前後に日本海側と関係が深い土器棺墓の勢力に変わったのでは? 更に弥生末期にヤマトに攻め込んで拠点を移したのかな 395の>>716 >記紀それから魏志倭人伝の記述を信じるなら 神武天皇が大和を平定したのは考霊の間で西暦180年ぐらい < 二中歴の年代歴の、 「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政 継体五元丁酉の(五一七〜五二一)・・・」 において、 517−39−569×2=−660 が成立するから、 569年間が二倍年歴で書かれていた、という事になり、 −660+569=−91であるから、書紀の神武即位元年は紀元前91年、 という事になるから、 「神武天皇が大和を平定したのは考霊の間で西暦180年ぐらい」というのは×。 短里なわけ無いって 夏侯淵は3日で500里6日で千里って行軍する速度を称えられてるのに短里だったらショボすぎるわ アチメは朝鮮語で朝日 アチ、アユチ、アイチ、 卑弥呼と何か関係があるかもしれない >>720 >魏志倭人伝に考霊の間(考帝〜霊帝の間、160年〜180年)倭国大乱とあるから< 魏志倭人伝には「孝霊の間」なんて書かれていないし、 倭国大乱もなかったから、×。 >そして日本書紀には神武天皇は東征し苦しい戦いを経ながらも畿内を平定したとある 神武が畿内平定したのはその頃だったろうという事< 畿内なんて存在もしなかったし、 二中歴の証言では、神武即位元年は、紀元前91年頃だから、×。 935の>>723 >倭国大乱と神武は直接関係ないと思うが、< 倭国大乱なんてなかったから、×。 >かなり年上であったろう神武とヒミコは同じ時代でいいよね。 そう言ってるわけだが。< 神武は二中歴に拠って紀元前91年頃即位であり、卑弥呼は3世紀だから、 全く合わず、×。 >>819 一寸千里の法とは夏至の北緯35度から南北千里離れた棒の影長差は 一寸づつで計2寸差になるだろうという空想の数値 太陽が真上にくる夏至の北緯22度付近ならともかく 北緯35度付近では南北千里づつ離れた棒の影長差が 丁度1寸づつで計2寸とはならないのだ >それ、どこから出たと思ってる? >>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。 >東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか? >和邇氏の本拠地はどこだと思ってる? >葛城とは関係ないだろうがw 孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。 トヨ津媛は葛城だ、バカ者。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー というわけで>>1 は見事に撃沈wwww やり直し。 >>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。 >それ、どこから出たと思ってる? >東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか? >和邇氏の本拠地はどこだと思ってる? >葛城とは関係ないだろうがw 孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。 トヨ津媛は葛城だ、バカ者。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー というわけで>>1 は見事に撃沈wwww >>1 は見事に撃沈しましたですよ、皆さんw すっきりしました。 これでこのスレも平和になる事でしょうw >>826 >孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。 >トヨ津媛は葛城だ、バカ者。 それもこれも全部、葛城の地に卑弥呼の径百歩 150メートルの塚があって初めて言えること その塚がないことがあばかれた時点で、葛城が卑弥呼の本拠地とか その後のもろもろも全部破綻しているw >というわけで>>1 は見事に撃沈wwww トンデモさんがみんな全1病なのはどうしてなんだろうねww >>828 >>>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。 で、東大寺山古墳の被葬者は誰なんだい? 九州説もイライラするくらいなら このスレに書き込まなければいいじゃないか >>831 まずトヨ津媛がトヨだと認めるのかどうか。 どっちだ。 他に有力候補者がいるなら遠慮なく出せ。 >>832 4c後半なら神功皇后時代の武振熊命あたり。 >>815 賛同 邪馬台国は九州で滅びたか 新たな九州和国連合が東に向ったんだよ ヤマトは平和の地で魏と対等にやりえない 遺物をみれば一目瞭然 畿内は倭種の別国だよ >スサノオ 『スサノオ 犯罪者』 いつ頃の話なのか知らないけど、 そういう話ばかり >>834 >まずトヨ津媛がトヨだと認めるのかどうか。 誰も認めてないだろ? ザラコクもキウスも認めてないぞww トンデモなんてのはそんなもんだよ 395の>>725 >神武東征とか考古学的に何の痕跡もない物を 当たり前のように史実に結び付けて珍説を喚き続けるサルの滑稽な事よ< 五瀬命らは、大阪湾から生駒山地の西岸の「日下」にまで舟で直接的に着いて、 そこで長脛彦らに負けて大阪湾に退却して、そこで五瀬命が亡くなって、 磐余彦の神武が後を継いだ、 という伝承が記載がされているが、 という事は、長柄付近の南方から日下の間が、河内湾という状態であった訳で、 しかし、その河内湾は、記紀が書かれた8世紀始めには土砂の堆積で無くなってしまっていたので、 記紀の筆者らは、河内湾の存在を知る筈がなく、 という事は、神武東征伝承には、大阪平野の歴史や考古と一致していた、という考古証拠があった、という事になるから、。 >>835 >4c後半なら神功皇后時代の武振熊命あたり。 どうして、そこまで伝世したの? トヨが持ってたんじゃないの? 元をただせば、卑弥呼がもらった五尺刀だって言いたいんだよね? 卑弥呼も台与も倭王だったのに、どうして分家筋の和邇氏に伝わるの? それから、どうして和邇氏は葛城にいないの? 巻向は3世紀でいいよ それ以前にも纏向に人は住んたんだろ 日本全国3世紀に人が住んで地なんか山ほどある」 巻向が3世紀なんてどうでもいいじゃん 3世紀以前に人が纒向に住んで無いのか どあほ 倭国大乱により筑紫を出て東遷したのは伊都の先代王家とされた天孫族。 倭国大乱の後に肥国から共立されたのが卑弥呼。 前方後円墳の作り方教室は終わった 完成形は前方後円墳でいいんでねーの >>838 トヨ津媛の3世代前にヒメがいる。 神の娘だ。 長生きしたヒミコの後に男王が立ち争乱、 そして13歳のトヨ擁立だから3世代差というのはピタリと合う。 ヒミコの甥っ子の孫がトヨだ。 これが王族の宗家だ。 これらを認めずに対案も出せないのは負けということ。 自覚せよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる