邪馬台国畿内説 Part415

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1◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:21:35.45
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:22:27.70
キナイコシは畿内説に対する愛情とか欠片もないよん

昔の高齢さんとか鴨さんとかのを見直してみたらわかるけど、
彼らは記紀その他の畿内伝承への愛着をベースにして論じていた

キナイコシは

「 倭 猿 憎 し 」

で毒吐きまくってるだけ

3◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:23:02.10
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

4◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:23:29.96
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

5◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:23:46.98
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

6日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:23:55.11
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

7◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:24:04.68
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:24:24.80
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

9◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:24:41.63
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

10◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:25:06.42
◆6
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

11◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:25:29.13
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

12◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:25:43.88
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

13◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:26:01.21
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

14◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:26:17.67
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

15◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:26:37.06
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

16◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:26:51.79
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)

17◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:27:09.97
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:27:27.74
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

19日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:27:30.72
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

20◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:27:47.02
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

21◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:28:09.15
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

22◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:28:27.08
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:28:40.97
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

24◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:28:58.32
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

25◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:29:13.76
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

26日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:29:20.53
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

27◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:29:32.42
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

28日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:29:39.55
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

29◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:29:49.82
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

30日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:29:55.05
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

31◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:30:06.54
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

32◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:30:26.46
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

33日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:30:42.88
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

34◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:30:44.73
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

35◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:31:05.78
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

36◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:31:24.47
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

37◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:31:42.17
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

38日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:31:52.44
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

39◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:31:58.27
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

40◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:32:20.59
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

41◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:32:37.81
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

42◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:32:58.27
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

43◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:33:16.87
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

44日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:33:20.98
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、テンプレートを貼り付けているな。。。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:33:33.57
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:33:51.15
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

47◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:34:09.29
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

48◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:34:25.27
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

49日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:34:35.23
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、テンプレートを貼り付けているな。。。

50◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:34:43.53
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

51◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:35:05.47
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

52◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:35:22.74
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国

53日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:35:40.24
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

54◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:35:51.09
における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。


◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

55◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:36:13.12
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

56◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:36:29.68
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

57◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:36:46.56
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

58◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:37:04.29
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

59◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:37:22.16
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

60◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:37:39.30
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

61日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:37:42.74
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

62◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:37:54.09
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

63◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:38:11.16
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:38:42.36
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

65◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:39:00.98
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

66◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:39:17.26
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

67◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:39:37.32
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

68◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:39:55.33
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

69◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:40:19.61
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。

70◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:40:38.83
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

71◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:41:01.01
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

72◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:41:20.46
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

73◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:41:37.47
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。

74◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:42:13.26
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

75◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:42:46.21
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

76◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:43:07.04
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。

77◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:43:25.47
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

78◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:43:48.80
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

79◆UiepmfCeDJqf 2019/01/08(火) 21:44:08.07
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 91を追加、他の箇所も行数調整等に軽微な修文あり

80日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:46:40.68
邪魔者をものともせずにスレ立て乙

81日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:46:52.01
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

82日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:47:07.60
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう

中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い

万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?

信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?

83日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:48:08.52
杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。

逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】

堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている

畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事

倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな

【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト

上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。

84日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:49:01.10
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

85日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:49:36.28
 道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

86日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:50:42.64
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?

畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている


池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。

これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?

87日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:52:11.92
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある

スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い

ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。


スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい

仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ

日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな

神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話

この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します

88日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:53:39.58
古代において、巫女は兵団とセットなんだな
卑弥呼の役割は民、兵を教化して纏めることだったんじゃないか?
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている

◎櫛、巫女、兵はセット
◎櫛は衛生道具、毛じらみやフケなどを梳き除く為の道具

記紀で櫛に変えられた姫がいたような
どういう意味があるんだろう

89日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:54:50.11
オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな

気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう

四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山

舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い

更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。

敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。

伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。

風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。

90日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:56:10.99
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ

91日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:59:12.99
纒向遺跡は、巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。

農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。



◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。

さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。

92日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:01:29.79
なにこの面白いコピペw
こっちのが読みごたえあるw

93日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:04:54.88
纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。

卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?

布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。

石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 

なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ

ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう

切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。

饒速日とどういう関係があるのか?

卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく

神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう

94日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:07:21.74
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。

95日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:10:35.66
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生したヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。

96日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:11:58.35
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

97日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:12:08.18
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)

「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」

98日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:17:59.58
ほとんど老婆談が正解なんだよ、

『クンビーラ』

ワニ、馬の画像などが出てきたりするでしょ?

『何者にもなれない お前たち』?なぜだと思う?ぽけもそ?

99日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:18:19.64
卑弥呼と天照大御神は何か関係あるのだろうか?

伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるのかな

また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が祓戸四神の「瀬織津姫」であると記述される。

100日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:20:10.26
413の>>832
>>方角の錯誤があるだけで、むしろ畿内説の傍証だぞ
全くその通り。<


畿内なんて存在せず、
大和説は、「南≠東」などに拠って、×。

101日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:23:14.00
伊都高祖宮の近くには先代の男王の祖である三雲南小路遺跡とその宗廟であり漢委奴国王印(金印、倭王の国璽)を管理していた細石神社がある。
そして倭国大乱より後の年代の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、そこを支配するのが伊都に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国である。
そして三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花咲耶姫の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、高千穂宮の実体だろう。

102日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:25:15.43
413の>>835
>それは、本州系王権が一大率を置いて、筑紫から外交権を奪った理由だよ<

「本州系王権」と言い換えて誤魔化しても、も、「南≠東」である事には変わらず、×。

103日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:25:16.83
歴史研究にはゴミだけど
長文書くの好きならラノベでも書いたら?

104日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:29:18.79
歴史研究にはゴミだけど
歴史捏造するの好きなら祖国でやってたら?

105日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:31:12.92
413の>>837
>「短里があった」というのが根拠がないし<

陳寿が、「計其道里、當在會稽東之東」と書いて、
魏使らが「短里で記録した」事を肯定している。

106日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:36:57.69
出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、

己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、

◎八咫の鏡はオオナムチの和魂
八咫の鏡が今あるのは伊勢神宮
能の三輪に通じるな

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。

斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか

この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い

なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう

107日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:37:28.49
413の>>840
>畿内説は考古学で邪馬台国の位置を考えてるんだよ
九州説とは違う <

畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しであるし、
文献でも、考古でも、大和説は九州説に全部負けており、
大和説は、全部×。

108日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:40:13.15
古代史を考える上で牛鬼伝説も見逃せない。
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミとも言えるんじゃないかな。

百襲姫と大物主神の箸墓伝説。
石が海神の姫である磯女を娶る話かもしれないね。

109日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:42:13.92
413の>>841
>倭国と朝鮮が太い交易のパイプで結ばれ、倭国内も水運のネットワークが全国に張り巡らされていた当時、
仮に邪馬台国が九州のどこかだとして、魏使が本州についてぜんぜん言及しないと言うのは、あまりにも不自然だよ。
出雲の人々なんて、直接日本海を渡って辰韓(新羅)まで行っているので、
帯方郡の人々だって本州の存在を知らないはずがない<

「短李女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種「短李」と飲み、書かれている。

110日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:43:50.02
九州説は議論で負けるから荒らしに終始する事にしたようだ

111日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:46:14.27
連続句読点=伊都クズ

112日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:49:43.07
『クンビーラ』出てきたでしょ?


『魔王モラクス』?
『ベルゼブブ』『』『』『』とか、どういう意味だと思う?

113日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:50:26.66
413の>>846
>文飾の値って言うのは「千里の名馬」とか「白髪三千丈」とかだよ
渡海千里は典型的<

渡海の千里にも、魏志には「余」が付いているから、
「文飾の値」ではなく、魏使らの記録からの陳寿の「余を使った簡略説明」・

114日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:53:16.49
九州説は儒教精神に染まった朝鮮系統の人間がやってるんだろうけど
およそ学問に不向きというのがよくわかる
不向きどころか根底には理論性や秩序への破壊衝動がある

115日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:56:17.48
一番初めは一之宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅山
四は信濃の善光寺

116日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:00:06.53
413の>>850
>その魏志倭人伝典拠の後漢書で邪馬臺國と書いてあるから、
邪馬壹国が間違いと判断されてる <

魏志の記載は、魏使らの同時代の実見計測記録であるから、
客観性も信頼性も確率も高いが、
後漢書の記載は、遣使を派遣しての実地の見聞ではなく、前史の魏志などの記載の「自己解釈に拠る書き直し」になっているから、
信頼性が全くなく、魏使ぬ比べて、信頼性も確率も非常に低い。

117日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:07:54.04
413の>>860
>奴国を除くと北部九州に栄えている場所がない<

奴國は、「日向峠西麓〜早良平野部であり、
弥生銀座は邪馬壹國になるから、×。

118日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:16:25.48
413の>>861
捏造単位の長里に全面的に依存しているのが大和説。
魏志が短里で書かれている事は、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてくれたので、
陳寿が証言してくれたことになった。

119日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:17:45.14
長文の人おもしろい
このスレにはもったいない

120日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:21:47.47
伊都クズ=連続句読点=鼻ホジ

121日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:28:35.92
>>20
FAQ8
その伊勢の鳥羽から東へ千余里舟で行くと、千葉県房総半島よりさらに東の海に出てしまうんだがなあ。
太古からの交易路であるのと、その交易路を東へ千里行くのとは、また別の話だよな。
房総半島のさらに東の海に倭種の国があるとは思えんが。
それよりは、瀬戸内海を九州から東へ千里舟で行くほうがリアルじゃないか。
3世紀前半には、近畿、東海、北陸、瀬戸内から勢力が寄り集まって、連合政権作っていたようだし。
倭種の国とは、それらを指しているのじゃないかねえ。

122日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:29:57.58
>>869
>行程パズル迷走の果てが、臨海郡は江蘇省にあった〜という作り話とは
なんとも惨めな話じゃないか九州説<

Wikiでは、会稽郡東部をを分割して呉の揚州(ほぼ江蘇省)の支配になった、
と書いてあったし、
「類スレ主」も、最初はそのような話を書いていたが、
zaraに指摘されて、
直ぐに撤回して、後漢始め頃の話にすり替える、というインチキをした。

123日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:37:37.53
413の>>877
>韓地方四千里は、倭地までの距離の調整のために誇張されている<

倭人伝だけではなく、韓でも高句麗でも扶余でも遼東でも、
短里で書かれている。

124日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:38:13.87
>>90
アチメは、安曇の磯良だろ。

125日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:41:30.07
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

126日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:44:22.38
413の>>886
>それは、考古遺物、遺跡の状況と、<

考古でも文献で、大和は北部九州には敵わない。

>邪馬臺(g)ia[v]g-mar-t`(e)gの音から大和が妥当ということ<

「臺」には「ト」の音韻がない。

127日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:51:36.79
>>126
>「臺」には「ト」の音韻がない。

断定じいさん、証拠あふの?

128日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:51:45.27
>>122
>Wikiでは、会稽郡東部をを分割して呉の揚州(ほぼ江蘇省)の支配になった、
と書いてあったし、

それがまたデッチ上げでしょ
なんの証拠もない

それが事実に反するって証拠は出てる
九州説は大ウソつきだ

129日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:52:35.65
413の>>895
>それなら、出発方向が10メートルくらい「南」でそれが示されていて、
途中は日本海沿い道なり水行で丹波まで行けるから<

行けない。
陸行としか書かれていないし、
五百里と書かれている。

130日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:58:19.04
>>107
>畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しであるし、
>文献でも、考古でも、大和説は九州説に全部負けており、
>大和説は、全部×

なんでこの人たち、一切証拠を出さないの?
そういう生き方をして来た人々なの?

131日本@名無史さん2019/01/09(水) 00:00:49.82
413の>>897
>伊都国や奴国は女王国より北にあると魏志倭人伝に書いてあるから<

書かれていない。
邪馬壹國の北は不彌國。
奴國や伊都国は、邪馬壹國女王之所都からは、西北方向。

132日本@名無史さん2019/01/09(水) 00:01:00.98
前スレ>878
>唐会要倭国伝には(大和日本国と区別して)「正北抵新羅」と書いているから、

FAQ71より
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。

大和日本国と区別して書いてある倭国は、藤原常嗣のいる大和倭国なんだよww
唐代を記した史書(旧唐書、唐会要、新唐書)に、倭国伝と日本国伝が別立てで置かれているのは
唐代に(正確には武則天の武周の長安四年)、倭国が日本国への改号を申し出たからだよ

133日本@名無史さん2019/01/09(水) 00:03:27.94
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

134日本@名無史さん2019/01/09(水) 00:49:09.02
>>133
「・・・漢委奴国王印により倭国王に冊封された。」

一見して無理だとわかるだろ


わからんか・・・
国名ちゃうやろ

135日本@名無史さん2019/01/09(水) 01:01:26.98
バカが精一杯背伸びして書いたんや
武士の情けってもんやろ

136日本@名無史さん2019/01/09(水) 02:33:26.64
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

137大名行列2019/01/09(水) 02:40:57.29
紀州藩徳川家のケース

和歌山から江戸まで約625qを17泊18日で移動。 一日平均約35qのペース。

鳥取藩池田家のケース

鳥取から江戸まで約706qを21泊22日で移動。一日平均32qのペース

加賀藩前田家のケース

金沢から江戸まで約467qを12泊13日で移動。一日平均約36q

138日本@名無史さん2019/01/09(水) 02:43:07.80
陸行一月?????

139日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:01:22.51
>>133
>2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
>副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が

カチ割ったので滅亡


ww

140日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:04:28.71
キウス

141日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:17:39.20
>>91
>纒向遺跡は、巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。

だから、纏向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地 だと、何度言えばw  @阿波

142日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:19:17.55
>>93
>纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。

だから、それらは「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」 だと、何度言えばw  @阿波

143日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:44:58.47
関川さんが畿内説から干された理由

97日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:12:08.18
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)

「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」

144日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:48:38.34
オクヤマ

145日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:55:35.68
>>143
>古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。

だから、「古墳の起源になるような墳丘墓」が在るのは倭国(阿波)だけ と、何度言えばw  @阿波

146日本@名無史さん2019/01/09(水) 06:58:05.37
>>143
>纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。

だから、「大和政権の確立期」は8世紀 だと、何度言えばw  @阿波

147日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:03:45.14
413の>>905
>不彌国の次の南に水行の投馬国
水行二十日5万戸と道里と戸数が乗っているぞ
投馬国は少なくとも不彌国よりは南になるのでは <

途中移動が書かれていないから、魏使らは移動していない。

>そして女王国はそれらをひっくるめてさらに南 <

「さらに」にはならない。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國のすぐ南にある。

>まあ実際は東なんだが <

「南≠東」に拠って、×。

148日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:21:48.43
413の>>908
>投馬国を消したいの? 都合が悪いの?<

投馬國の位置などの説明は、行程の説明で終わっており、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の「女王國」は共立諸国であり、
投馬國が始めから含まれているの。
そして、だから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史 」
の「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。


の「

149日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:45:05.22
413の>>908
>投馬国を消したいの? 都合が悪いの?<

投馬國の位置などの説明は、行程の説明で終わっており、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の「女王國」は共立諸国であり、
投馬國が始めから含まれているの。
そして、だから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史 」
の「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。


の「

150日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:52:38.72
>>149
>「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。

そうすると今度は邪馬台国の戸数が合わない
邪馬台国七万戸と投馬国五万戸は重ねられないぞ

そして投馬国はどこに置くんだ?ww

151日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:59:47.31
九州説は辻褄の合わないことばかりだな

152日本@名無史さん2019/01/09(水) 08:02:39.93
>>151
>九州説は辻褄の合わないことばかりだな

畿内説も、辻褄の合わないことばかりだな 。  @阿波

153日本@名無史さん2019/01/09(水) 08:15:49.24
>>150
魏志倭人伝の記述の構成

・倭國(倭王卑彌呼の支配下)
・・・投馬國(朝鮮半島南岸地域)
・・・・・狗邪韓國
・・倭人(日本列島に住む)
・・・邪馬壹國(北部九州地域)
・・・・・對馬國、一大國、末廬國(自女王國以北の地域)
・・・・・不彌國
・・・・女王國(卑彌呼を共立した中心国)
・・・・・伊都國、奴國
・・・・傍國(斯馬國〜烏奴國の20か国)
・・倭種(中国地方)
・・侏儒國、裸國 黒齒國(四国、関西地方)
・狗奴國(南九州の卑彌弓呼の支配下)

154日本@名無史さん2019/01/09(水) 08:20:42.73
卑弥呼時代は、「邪馬台国」=「女王国」

台与時代になって、【(「邪馬台国」=「女王国」) + 「狗奴国」】=倭(国)

そして、卑弥呼時代以降の倭(国)は、県外(淡路・讃岐・吉備等)を包含しながら順次拡大していく。  @阿波

155日本@名無史さん2019/01/09(水) 08:45:57.12
413の>>926
>だから、倭人条の循海岸水行七千里に合わせて、韓地方四千里に調整されてるってこと<

全く合っていないし、
循海岸水行七千里ではないし、「七千里」ではなく「七千余里」だし。

156日本@名無史さん2019/01/09(水) 08:49:48.91
413の>>928
>邪馬台国はヤマトだ! 小学生かよ。<

邪馬台国なんて存在もしていないし、「台」に「ト」なんて音もないよ。
詐欺師かよ。

157日本@名無史さん2019/01/09(水) 08:57:46.66
413の>>932
>(方四千里や七千余里)換算したときの「見かけ上」の話だけどな <

いや、「余」の使い分けがあるから、実測が元になった数値記載。

>その見かけ上の、現実とは関係ないものを「短里」だと誤認したのが九州説なんだよ<

その実測記載が短里であったのであり、
それを「誤認」とか言い出して、
都合の悪い記述の抹殺を図る嘘つき騙しの・・・・犯罪者的詐欺師が大和説者。

158日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:23:36.58
413の>>942
「南→東」や「余」の有無などの論点に関して、
なにも根拠を言わずに俺様結論をただ連呼か 。
さすが宗教思想の大和説。
学問じゃないわ。。

159日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:29:49.14
オクヤマ氏とは、何者だろうか。。。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10105716140

160日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:35:32.82
>>149
やっぱり
九州説に都合が悪いから
投馬国を消したいの
一心なんだな

161日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:40:10.69
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

162日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:57:13.08
余なんていい加減に解釈してるだけだからな
論点ですらない

163日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:02:19.94
413の>>943
>投馬国は戸数と道のりが書いてる国だから 道里と戸数が書いている国になって
女王国より北にある国という事になる <

ならない。行程の記載時点で、投馬國は、
不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の水行二十日位の位置にある事が確定位置してしまっており、
不彌國からの水行する国である、という認識であり、
また、「女王國」とは、あくまで、
(倭國や倭人諸国の中の)卑弥呼を共立に賛成参加した国の範囲の、という意味。

164日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:14:14.84
413の>>950
>投馬国は戸数と道のりが書いてる国だから
道里と戸数が書いている国になって 女王国より北にある国という事になる<

投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。

165日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:43:45.45
413の>>959
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
欺瞞ばかりだな。

166日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:10:36.21
413の>>961
>音だけならそうだけれど、<

音も合わないし、「南≠東」に拠っても、大和は、×。

>それまでとは画期をなす大遺跡で、<

九州倭国の東征将軍らにとっては、必要であったから。

>それまでにはなかった生活用ではない大建築と各地の墓制を
統合した前方後円墳祭祀の創始の場所で、<

前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないし、創始は筑紫の那珂八幡など。

>各地からの人の交流の結節点だった、
という考古学的な裏づけの上に、発音上もヤマトで問題ないんだから、これでもう決まりだろ?<

九州倭国の東征将軍らの拠点と、地方の市を監督する大倭職の地であっただけ。

>編年上も問題ないことが、<

卑弥呼の冢ではないから3世紀末以後であり、編年も全くあわない。

>桃核の14C年代測定で再度確認されたし、全く問題がない<

AMS法は、50年位古くでるから、×。

167日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:21:39.37
413の>>963
>投馬国は、邪馬台国以北の国というのは動かない<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は、不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の、水行二十日の位置にある事は動かず、
卑弥呼共立の「女王國」の中に含まれる事も動かない。

168日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:29:03.21
>>164
>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
>不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
>だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。

それならば、投馬国の記載は邪馬壹國の記載よりも、あとでなければおかしい
狗奴国ほか、邪馬壹國より南の国はすべて、邪馬壹國よりもあとに記載されている

九州説は、無理読みだから辻褄の合わないことばかり

169日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:30:36.89
413の>>971
大和説の面々が、
「南→東」などのような露骨な嘘書いたりが嵩じたり、
荒らしたり中傷したりが 、
ひどすぎるからだろ。

170日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:34:03.62
413の>>974
>そうだ! 纏向の柱跡と家型埴輪を組み合わせると
女王卑弥呼の都纏向の再現が出来るぞ!<

「南≠東」であるから、「女王卑弥呼の都」が×。

171日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:36:20.47
畿内説スレで九州説への反論が荒らしだという異常な発想

172日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:38:21.48
413の>>978
>仮の予測による復元って事になりそうやね
しかしビジュアル的に纏向を示せれば多くの人にその壮麗さがイメージしやすくなるだろう
もう九州説に纏向の柱跡は倉庫跡とかの悪宣伝の材料にはさせん
これで九州説は終わる <

しかし、纏向からは、肝心の生活痕や居住痕が出ないから、×。
これで、大和説は終る。

173日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:43:51.48
>>172
なんで×なのか理由もないというオソマツな九州説が
もう終わってます

174日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:51:46.49
>>164
>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、

行程説明で
不彌國あたりでもう萬二千余里がほぼ終わってることにすると
女王国は会稽からはるか北ということになるから
九州説は倭人伝の記述と明らかに合わなくなり
お陀仏が確定するのだ

九州説終わってる

175日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:52:45.32
>>173
南→東の説明をあやふやにしてる限り、
畿内説は支持されない
ましてや、纒向を大集落と言っているようじゃ笑笑

176日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:56:07.16
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

177日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:02:53.93
>>3
北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。

箸墓の築造は260年〜270年頃で、布留0式土器の時期とされている。
卑弥呼が死んだのは、248年。
10年〜20年も後に卑弥呼の墓を造るとは考えにくい。
卑弥呼の墓ではないだろう。
そもそも邪馬台国が大和にあったとする推定は、各種のデータから否定される。

178日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:13:48.27
とあるゲームのイラスト『ベルゼブブ』というのがあるでしょ?

『魔法のペルシャ』?

179日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:14:09.28
>>4
大型建物は、3世紀半ば頃以前には柱の抜き取りが行われていて、建物はなくなったとされている。
卑弥呼の死は248年なので、卑弥呼が死んだ年以前には既に建物は無くなっていた可能性が高い。
卑弥呼の死と大型建物の撤去とを結びつけるのは、相当無理がある。

180日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:20:47.73
『聖徳太子 ペルシャ』

本当の話でしょ、ワニさんが何やらとか、
実際は『松傾』の家の話なんじゃないの?

キュウリの葉・・・あの写真もそうだし

181日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:26:17.80
>>5
日本書紀は後漢書の倭國大和説を受けて、神功皇后を卑弥呼と似せたりしているように、各所でそうした描写を行っている。
箸墓についても同様の操作を行っているフシがあるので、要注意だ。
しかし、そのような操作を行いながらも、一方では、九州筑後山門で卑弥呼とよく似た田油津媛を討ったことを描写していて、邪馬台国が九州に所在したことをほのめかしている。
モモソ媛は直接的な卑弥呼の描写ではなく、一方の田油津媛は直接的な卑弥呼の描写であるので、卑弥呼の邪馬台国は筑後山門と推定するのがよい。

182日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:31:08.87
というか家の写真なんだけど

老婆が言うには、
馬に乗り、何かの刀を持っていて・・・寺院が〜・・・・
肉は食べなかったよと言っていたりw

183日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:47:28.20
>>181
田油津姫は、卑弥呼本人と言うよりはその末裔かなと思います。
神功皇后の記述は魏志倭人伝に合わせるため、120年ほど繰り上げてあると考えられています。
つまり応神天皇が4世紀末になります。

184日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:48:21.29
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

185日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:00:15.40
それにしても何なんだろう、
このような話とか

『蠅の話 小泉八雲』

186日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:00:57.12
>>184

肥人(コマビト・ウマビト)は異人なので倭人とは別の民族

187日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:05:37.68
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

188日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:08:01.44
>>7
高地性集落を地域間紛争の現象を説明する具体的事象だとする考えはその後の新たなデータによって否定されており、高地性集落の存在をもって瀬戸内沿岸など西日本の政治的まとまりの根拠とする考えはなくなりつつある。
大和の纏向に広域連合の臨時政権が置かれた事情は、高地性集落の存在とは別の動機によるものと想定するのがよい。
倭國の歴史は、倭人伝が記す通り、紛争が頻発するまでにすでに70年〜80年を経るものであり、大和の纏向に広域連合政権が180年頃に成立する以前にはそのような政権が大和にはなかったのとは対照的である。
纏向の政権は、各地の勢力によって政治的に合意編成されたものであり、倭人伝の倭國とは異なるものである。

189日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:17:52.83
小泉じゅんいちろーの話をしていたことがあったり、
一緒に議事堂(国会)に行ったことがあるとか、
父親は横須賀の〜と言っていたりw

偶然にしてもおかしな話ばかり、
どういうことなんだろう

190日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:20:49.16
414の>>108
>では、千余里の距離は1里434mで計算するのがよいと思うが、どうか。<

魏志などの「大部分の李記載」や、東夷伝や、韓伝の方四千里や、
倭人伝の3渡海の各「千余里」などの史料実態と、6倍位も違って、
「南≠東」などと相まって、
×。

191日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:26:52.18
>>175
>南→東の説明をあやふやにしてる限り

何度も丁寧に説明しただろうが!

たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い

記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう

また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない

さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる

以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
番外
ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、
ということで構わない

ザラコクは「南≠東だから×」といえる立場にないww

192日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:28:16.05
>>188
>纏向の政権は、各地の勢力によって政治的に合意編成されたものであり、倭人伝の倭國とは異なるものである。

どうして?
倭人伝の倭國は共立で出来てると書かれているのに?
ぴったり合致してない?

193日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:39:31.82
>>179
>大型建物は、3世紀半ば頃以前には柱の抜き取りが行われていて、建物はなくなったとされている。

誰にそう「されている」の?


情報源不明で主張することは、相当無理がある。

194日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:47:50.90
また新しいバカが湧いてきたか
肝心の部分は全部何の根拠も提示せず「そうだから」としか言ってない辺りバカ丸出しだな
こいつ論破してやる!とか意気込んできたんだろうけど自分がバカなのを露呈してるだけだな
こういう低能が九州説なんだろうな

195日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:33:11.37
韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。

705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

196日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:41:21.90
>>193
辻地区の建物跡は、「柱穴の口」が擦れていることから柱の抜取りが行われたと推定されていて
その年代も、その建物あとと同年代とされる祭祀土坑の桃核の年代から3世紀前半とされている

そこまでは事実だよ
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf

そして、3世紀中ごろの居館域は辻地区よりも山側、扇状地のより標高の高い領域と想定されている
この辺の発掘が進んで、3世紀中ごろの建物跡が出たら、九州説は何も言えなくなる
早く発掘が進むことを期待してる

197日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:43:25.43
九州バカの特徴
結論だけ言い張るが、理由がぜんぜん説明できない
「もう説明した」とか「書いてある」とか言い張り
いくら聞いても頑として答えない ←(答えない所がミソ)
そして相手をバカにする書き込みを延々と始めて煙に巻く

198日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:51:53.74
>>196
3世紀半ば頃以前には248年が含まれるから
なんの問題もないんだが
なんで「相当無理がある」とかいう結論がとび出して来るのか

九州説さんの思考は読めないなあ
理由が説明できない人々と会話をするのは難しい

199日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:56:27.41
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

200日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:57:19.95
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。

201日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:59:58.28
ぼくちゃんの思い込みでそうなってるから「そうなってる」と言うだけだからな
九州説にまともな理論なんてあるわけがないのが分かる

202日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:22:50.90
>>201
んまあ>>188あたりがその典型で
「大和の纏向に広域連合の臨時政権が置かれた事情は、高地性集落の存在とは別の動機によるものと想定するのがよい」
とか言って、あたかもその「事情」が「高地性集落の存在」と同じ動機によるものと想定してる相手に反論してるような態度

こういう脳錯綜って相手の発言を決して引用しない姿勢(つまり正しく理解する意思がないってこと)が原因だ


極め付けはこれ
「倭國の歴史は、倭人伝が記す通り、紛争が頻発するまでにすでに70年〜80年を経るものであり、大和の纏向に広域連合政権が180年頃に成立する以前にはそのような政権が大和にはなかったのとは対照的」
相手の発言どころか史料すら引用しない

まさに「ぼくちゃんの思い込みでそうなってる」状態なんだよね

203日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:30:05.01
>>201
その「ぼくちゃんの思い込み」を、よそで恥をかくといけないから、
丁寧に根拠も示して「それは違うんだよ」って教えてるのに聞きやしないww

204日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:32:29.09
>そもそも邪馬台国が大和にあったとする推定は、各種のデータから否定される。

これとか暫く腹がよじれるほど笑ったわ
各種のデータからwww
一番肝心な部分を脳内ソースで済ませると言うバカ丸出しぶり

これでなんか語ってる気になってんだからな

205日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:36:17.44
各種のデータから否定されるんだから当然だよなぁw

206日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:40:14.30
>>191
残念ながら憶測や思い込みでは???

207日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:42:47.97
各種のデータかららしいぜ?

208日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:53:23.09
これ今度から使うわ
「各種のデータから」
各種のデータからそれが良いと思うわ

209日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:53:42.55
>>206
そう思う理由を説明してくれ

210日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:53:46.52
>>207
そのデータって、どこにあるか聞くと
「ネットで検索したらどこかに有ったんだ。おかしい、消されてるようだ。ワシが指摘したので圧力が加わったんだ。」
とか言うやつ?

211日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:53:58.39
九州説こそどうなんだよ

212日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:01:10.18
「卑弥呼が死んだのは、248年」という「データ」すら実は存在しなかったりする

213日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:01:35.30
むしろその各種のデータとやらを上げて論じてくれるならまだ話も出来るんだがな

聞いてみれば訳の分らん妄想と単なる思い込みを垂れ流しだすんだからな
会話にもなりゃしない

214日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:16:23.17
今日も、長い時間、討論を実行したが、一度破綻してしまった邪馬台国畿内説を、復活させることはできなかったのではないのかな。。。

215日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:19:43.00
>>214
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまったのだもの。。。

216日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:33:27.24
414の>>111
物理も数学も弱いんだね。
棒の寸法やその影長寸法や「南北場所での影長の寸法」は、尺寸寸法系の記録であり、
南北場所間の里数は、全く別の里歩系寸法系での記録であり、
その両方を使った計測を記載したのが周髀算経の一寸千里の関係であり、
谷本計算は、棒と影端の造る太陽仰角の南北差から、千里の距離(メートル法)を計算しただけだから、
尺寸系の「一尺は何寸であったのか?」なんてことは、
影長差の表記がどう示されるのか?という問題であるだけで、
だから、南北間での影長差がX寸であったのなら、「X寸千里の法」という表記に変わるだけなのだ。

孫に教えてもらいなよ...

217日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:35:25.86
>>196
>この辺の発掘が進んで、3世紀中ごろの建物跡が出たら、九州説は何も言えなくなる

邪馬台国の東にいた倭種だよ。
年代がいくら邪馬台国に近くても、その一言で畿内説は終了。

218日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:36:54.39
無駄な年代比定を延々とやっているキナイコシが馬鹿みたいだ。
意味がない。

219日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:59:40.28
寸尺系とか里歩系なんかも苦し紛れの創作
矛盾点を突かれると関連が無い別のものと言い出す

220日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:16:24.04
414の>>118
>だから一万二千里は陳寿の筆法だよ <

「一万二千里」ではないよ。
「萬二千余里」と「余」が付いており、
魏略の同じ「萬二千余里」が書かれているから、
それは魏使や魏の役人たちの記録そのもの。

221日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:26:15.68
>>216
>谷本計算は、棒と影端の造る太陽仰角の南北差から、千里の距離(メートル法)を計算しただけだから、


だから1尺が何寸なのかが変わると計算結果も変わって来るんだが

理解できないか?

222日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:35:45.99
>>212
わけわからんな。

223日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:38:14.41
>>204
邪馬台国が大和にあったという具体的なデータ、出してみなはれ。

224日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:42:07.03
>>202
学者の間では、高地性集落と倭國大乱とは時期が違う、ということが定説になっている。
高地性集落と倭國大乱とが無関係なら、大和から博多までを領域とする卑弥呼の政権はいつできたのかい。
いつまでも、古いデータを使っていては、バカにされるよ。

225日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:42:09.45
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまった。。。

226日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:45:43.70
>>198
248年といえば3世紀中頃。
3世紀前半には大型建物は解体されていたというのが通説。
3世紀前半は、卑弥呼が死ぬ前。
大型建物と卑弥呼の死は、無関係。

227日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:49:24.84
>>193
大和説の寺澤大明神が勤める纏向学研究センターの説明文を読んでみたまへ。

228日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:52:50.01
>>224
アンカは付いててもねー
この人は誰の言ってる何に反論しようとしてるんだ?

それとも脳内で独り言を呟いてるのか?

229日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:55:10.13
>>192
卑弥呼共立の倭國は、北部九州。
倭國の乱は、玄界灘側の連合と筑紫平野側の連合との騒乱。
筑紫平野側の連合有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は筑紫平野側が擁立した。
その頃、大和に結集した広域連合政権では、纏向の微高地を平らにする土木工事が行われていて、やがてそこには大型建物の祭祀施設が建てられた。
政権加盟勢力から持ち回りで代表祭祀者を出して、毎年盛大に農耕祭祀などを行っていた。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

230日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:55:56.62
>>226
>248年といえば3世紀中頃。
>3世紀前半には大型建物は解体されていたというのが通説。

は?
248年って3世紀前半だぞ


九州説の考えることは、わけわからん

231日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:57:42.26
>>209
あんたというか畿内説の主張
>方角の錯誤は起こりうるし
・・・・・これは可能性

>九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
> 投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、  
・・・魏の使者が1回しか邪馬台国に1回しか行ってい無いとでも 瀬戸内海を1月地近く水行してるのだが


>・・・・・
・・・以下は推論故省きます


ザラコクとは別人ですので、ザラコク論はザラコクに対して問うてください

232日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:58:06.16
>>227
>大和説の寺澤大明神が勤める纏向学研究センターの説明文を読んでみたまへ。

そうか

あなたはいつもの、何も説明できない人ですね?

233日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:02:41.17
>>230

畿内説同士の相撃ちはやめないか

234日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:04:39.93
>>231
いやそれ、なにか反論なのか?

あなたの文章では
誰のどのような見解を
いかなる理由で否定しているのか
ぜんぜん見えないのだけど

235日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:10:59.20
>>234
私が学んだ範囲の意見ですよ
あなた、見解はどこで学んだの?
私を非難するのは容易いでしょうが
>>191の根拠が他説批判や憶測で成り立っていると書き込んでるのだが・・
南→東の明確な理論づけが為されれば国民の支持も増えるよ
ザラコクも書き込みを控えるよ

236日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:22:57.71
>>235
まぁまぁ、そんなにカリカリせんでもw  
南→東がどうあれ、たびたび中国・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

237日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:29:58.35
畿内説のスレで南→東を咎めるのはそまそもナンセンスだし
倭国は南国であるという認識があったという事で充分に説明がついてるよ

238日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:30:01.91
>>235

>他説批判

ここは畿内説スレなので、
九州説が他説(畿内説)の批判をしているんだよ
学問では九州説の支持は不要

239日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:34:04.57
>>238
でも、彼らは畿内説を批判しないんだよ
九州説が正しいから畿内説は間違いだー
というロジックを使っちゃう

だから彼らを返り討ちにすると九州説批判になってしまう
本意じゃないんだがなあ

240日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:36:54.41
畿内説は仮説をベースにした仮説なんだろ?
落ちこぼれの学者どもが飯の種にしてるだけ。

241日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:39:09.59
>>239
>だから彼らを返り討ちにすると九州説批判になってしまう

九州説には返り討ち出来るんだけど・・・   @阿波

242日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:41:05.31
>>206
>残念ながら憶測や思い込みでは???

そこからそう判断したのか、具体的に指摘しないと意味がないと何度言えばww

243日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:41:07.40
九州説は学術的に淘汰されかかった仮説だけど

244日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:41:46.38
>>239
>だから彼らを返り討ちにすると九州説批判になってしまう

だけど、倭国(阿波)には反対に返り討ちにされる・・・   @阿波

245日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:44:27.68
>>217
>邪馬台国の東にいた倭種だよ。

これも何度も指摘してるんだが、
女王國東渡海「千餘里」、復有國。皆倭種。
の「千餘里」を隠してごまかすなよww

九州と本州の間を「千餘里」とするのは、九州説お得意の短里でも無理w
つまり、本州の勢力は九州から見て東渡海「千餘里」の国とするのは不可能

246日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:48:45.25
>>245
女王國とは伊都国と奴国、博多港から1000里で山口県。

247日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:49:47.74
>>245
>つまり、本州の勢力は九州から見て東渡海「千餘里」の国とするのは不可能

つまり、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。  @阿波

248日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:51:14.00
>>245
本州じゃなくて四国

249日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:52:12.77
>>222
正始八年に卑弥呼が狗奴国との戦いを訴える使いを送った記事があって、
その後に卑彌呼以死とあるだけだから、正始八年(247年)には生きていたけれど、
実際に卑弥呼が死んだのが248年(正始九年)なのかどうかははっきりとは言えない

250日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:54:40.47
>>240

このように日本人学者を拒絶しなければ
成り立たなくなってしまったのが九州説

251日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:54:51.24
>>231
>・・・・・これは可能性

「間違えるはずがない」の否定には十分

そして、実際に間違っているのは事実
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

252日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:56:04.19
>>245
寝言言っちゃダメ。
魏晋1里=434mで計算してみてごらん。
北部九州の行橋市あたりからちょうど大和に着く。
大和は、倭人伝の倭種の国。

253日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:57:59.11
>>235
>ザラコクも書き込みを控えるよ

そんなはずがないだろ?ww
ザラコクは朝鮮儒教の価値観で、自分が道徳的に正しいと信じているから
「事実はどうでもよくて、道徳的な上位者である自分の言うことが正しい」という考えで
畿内説擦れの議論を妨害することだけを目的に、書き込んでいるんだからさ

ザラコクについては、時間が解決するしかないと思っているよ

254日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:59:44.79
>>252
瀬戸内海は通らないで出雲、丹波経由で行くんじゃなかった?

255日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:59:52.61
414の>>122
>墓や土器に形式があって年代が分かるように
古鏡にも形式があるからそこをすっ飛ばして議論しちゃいかんよね<

墓の形態というものは、個々の部族や氏族の誇りであり、
同一地域内に合っても、部族や氏族が違えば、墓形態も違う事など幾らでも有り得るもの。
それは、使用土器でも同じこと。
近接地域間でも、部族が違えば、当然、
使用土器の形態が違う事など、幾らでも有り得る事。

256日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:01:05.23
>>246
>博多港から1000里で山口県。

それは「水行」であって、「渡海千餘里」にはならない

水行は沿岸航行で何かあったら陸に上がればいい安全な航海
渡海は外洋に出る航海で、何かあったら死ぬしかない持衰頼みの危険な航海

257日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:02:17.11
>>249
卑弥呼が死んだのは事実。
その直後に男の祭祀者が一時王位につくが、すぐ排除されて台与が王位につく。
248年から直近の時期。
その時期以前に、大型建物は撤去されていた。
だから、建物の撤去と卑弥呼の死とは、無関係。
テンプレ主が、建物撤去と卑弥呼の死は関係があるとしているのは、間違い。

258日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:02:31.98
>>247
>畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国

阿波から畿内を見たら、間に淡路島があるから渡海「千餘里」にならない
残念でしたw

259日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:04:29.20
>>256
九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

260日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:04:34.39
>>254
うむ。

261日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:05:01.81
>>252
>北部九州の行橋市あたりからちょうど大和に着く。

瀬戸内海みたいに島がわちゃわちゃあるところは、渡海にならないんだってば
「渡海」と「水行」は区別されていることをちゃんと認識して!

もちろん、帯方郡から水行十日で九州北部に着くというのも、
渡海と水行をごっちゃにしている時点で、ダメ

262日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:05:14.12
>>259
冗談だよねー?

263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww

無理読みww

264日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:08:51.99
>>263
60cm

265日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:13:29.89
414の>>138
>長里だろうと短里だろうと、帆柱のある大型の中国船で30日(投馬国20日+邪馬台国10日)も航海したら、
九州をグルッと一周して末盧国まで戻って来ちゃうよ。<

「帆柱のある大型の中国船」という妄想が×。
中国との遣使の渡海の往来では、「持衰」の同乗の記録があるから、倭船であり、
「循海岸水行」のような航行は渡海ではなく、
狗邪韓國と末盧國の間の渡海になり、倭船を使っている事になる。

>少なくとも鹿児島は通り過ぎちゃうでしょ。
鹿児島を通り過ぎてその先どこに行くんだ?と。放射読みで投馬国の方が遠いと言うのも無理あり過ぎ。
いずれにせよ行程については、陳寿90度回転で無事奈良盆地に着くと言うことで解決ですよ。<

いすれにせよ、「南≠東」に拠って、奈良盆地は、×ですよ。

266日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:14:48.37
>>258
>阿波から畿内を見たら、間に淡路島があるから渡海「千餘里」にならない

淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw   @阿波

267日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:17:29.70
>>263
だから、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。  @阿波

268日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:18:30.24
水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー

269日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:18:39.65
九州でも東部北側の人にとっては本州は近いんだろうけど
九州西部に住んでる人にとっては
関門海峡と東シナ海が同じくらいの感じなのかもしれない

270日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:20:06.86
>>258

だから、倭国(阿波)には反対に返り討ちにされる・・・   @阿波

271日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:21:15.02
414の>>145
>連続読みで投馬国から南(実際には東)に水行しないと、陳寿の認識に合わない <

投馬國の説明には「至の前に途中移動の文言がない」から、魏使らは行っておらず、
「至」は、(移動して到着したのではなく)
「南に行けば(投馬國が)存在する」という位置説明の使用意味になっており、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説は、陳寿の説明には合わない。

272日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:21:25.27
>>268
>水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー

瀬戸内海の潮流を舐めたらアカンぜよ。  @阿波

273日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:22:04.35
秘境は遠い

274日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:23:09.62
>>263
博多から山口県が1000里ですよ
九州と中国地方は繋がってないから渡海。

275日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:23:32.69
>>273
>秘境は遠い

邪馬台国は遠い。  @阿波

276日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:24:03.27
>>273
>秘境は遠い

倭国(阿波)は遠い。  @阿波

277日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:31:14.30
414の>>149
>ザラコクはよく「止」が二つだから歩いてないとかいうが元はこういう字だぞ・・・
下側は「止」じゃないだろ?
足跡の象形を整理するときにこの形のなっただけで止まるという意味はない <

「歩」の文字は、上が止まるの文字で、下が止まるの文字の反転の字形だ、
という説明をしたのは、類スレ主の方だ。
だから、「足底の形で、後ろ側で止める」という事は、歩行しておらず、
「1足底」長だ、という意味だ。

278日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:35:42.11
「女王國東 渡海千餘里」
旁國を含む女王國の東から渡海が千餘里
女王國以北が従属している国々

279日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:40:15.43
>>266>>267
>淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw   @阿波
>だから、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。 

淡路島と和歌山の間の海峡は10キロだな
関門海峡ほどではないが、それでもこれが渡海千里なら
一里10メートルだww

>>264 訂正ありがとう

280日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:41:14.77
>>268
>水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー

いや? 日本海航路の方が妥当だよ
ここはテンプレと意見が異なるけどさ

281日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:43:50.07
>>235
>ザラコクも書き込みを控えるよ

>>277の「「1足底」長だ、という意味だ。」を見てごらん
どんなに間違っていることを突きつけられても、ザラコクはこうやって
ウソを強弁し続けるんだよww

282日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:44:00.78
>>278
旁國を含む場合は「此女王境界所盡」みたいに「女王國」じゃなくて「女王」と書かれてるから「女王國東 渡海千餘里」は旁國とか含まないよ
伊都国、奴国から1000里。

283日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:45:24.93
>>274
>博多から山口県が1000里ですよ

だから、それは「水行」なんだって
陸沿いに水行していて、途中に河口があっても、川幅分を渡海するとは言わないだろ?

284日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:47:49.70
414の>>161
>わからない投馬国を邪馬台国よりも前に書いている<

奴國と投馬國に対しては、
「至」の前に途中移動の文言がなく、
投馬國は水行二十日の位置だ、という事だから側副傍線国説明である、
という事が判り、
邪馬壹國に対しては、不彌國からの里数が書かれていないから、
不彌國から殆ど移動を要せずに至る、
という事が判る。

>水行二十日と水行十日陸行一月がじゃまでしょうがない<

邪魔になっていない。
行程里数説明とは別の、(後続の使節らの参考になる)貴重な所要日数の説明。

>邪馬台国を福岡県にするためだけの読み方 ⇔<

大和説者は、邪馬壹國女王之所都を奈良県にするためだけの、
「南→東」などのインチキ読み方。

285日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:52:10.98
>>283
渡海とは陸続きでない場合に海峡を渡ることだよ
川の両岸は繋がっているだろ
水行は単に海を行くこと。

286日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:53:32.24
>>234
私が学んだ範囲の意見ですよ
あなた、見解はどこで学んだの?
私を非難するのは容易いでしょうが
>>191の根拠が他説批判や憶測で成り立っていると書き込んでるのだが・・
南→東の明確な理論づけが為されれば国民の支持も増えるよ
ザラコクも書き込みを控えるよ

287日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:54:13.39
>>282

女王境界所盡は不屬女王に対する表現
奴国=博多からは東に渡海できない

288日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:55:10.22
キウスの文章がキモい

289日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:55:25.38
太平洋ルートを✖とした時点で畿内説は終わったと感ずる

290日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:56:50.26
>>279
>淡路島と和歌山の間の海峡は10キロだな

女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km) 1里=50m  @阿波

291日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:01:08.84
>>287
言い張られてもなw

292日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:16:37.43
>>232
他人に頼ってはいけない。
自分で見つける努力をしなさい。
纏向学研究センターのホームページから探しなさい。

293日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:20:52.41
414の>>172
>臨海郡(りんかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、
現在の浙江省南部に設置されたらしくて <

Wikiでは、臨海郡は、
257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。臨海郡は揚州に属した。
とされ、浙江省南部とは書かれていないし、
Wikiの会稽郡にも、
呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、
会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。・・・
三国時代には・・・257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。
とされ、いずれも、臨海郡は、会稽郡の「東部」とされ、
呉の中心地域である丹陽郡や揚州(江蘇省付近)の支配下になっていた、とされる。

>場所的には台湾のちょっと上くらいでその東はやっぱり沖縄ぐらい 九州北部は指さないが <

分郡された臨海郡の地域に情報混乱があっても、
魏志の記載は、「会稽東治」であり、
「会稽会稽郡の東部〜江蘇省の海岸地域」の呉の直轄的支配地域を指す事は、明確であり、
その「之東」が九州島付近を指す事も明確であり、
台湾や沖縄は、全く×。

294日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:22:55.68
>>261
瀬戸内海の(海)は、ウミだよね。
海を舟で行くことを、中国語では(渡海)だよね。
渡海千余里は、瀬戸内海を千里舟で行くこと。
お分かりだよね。

295日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:28:15.18
>>278
女王国=倭國。
倭國の女王=卑弥呼。
卑弥呼の倭國から東へ千余里(1里=434m。434m×1000里=434km)海を渡ると倭種の国。
倭種の国=大和。

296日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:29:13.46
>>290
>女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km) 1里=50m  @阿波

淡路島はどこに行った?ww
それに短里を言い募る奴でも、1里=50mってのはないぞw
ご都合主義だことww

297日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:30:25.66
263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww

無理読みww

298日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:30:48.56
>>286
その前に>>234>>191の書き込みが別人だって早く気づこうよww

299日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:31:01.08
263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww

無理読みww

300日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:31:22.40
263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww

無理読みww

301日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:31:50.22
263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww

無理読みww

302日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:31:55.88
>>294
>海を舟で行くことを、中国語では(渡海)だよね。

違います
水行は沿岸航行
渡海は外洋に出る航海だよ

303日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:32:35.77
263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww

無理読みww

304日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:32:42.29
最近の畿内説本は畿内の定義が曖昧だとつくづく感ずる
昔は伊勢は笑止千万で終わったが
今や畿内説の学者によっては丹波・丹後、播磨・近江・紀伊・淡路・伊賀・若狭・・・・・・

畿内説の畿内の範囲がメタメタに陥ってるのではないかな
もしくは都合によって畿内に入れたり外したり

305日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:34:49.87
>>285
>渡海とは陸続きでない場合に海峡を渡ることだよ
>川の両岸は繋がっているだろ
>水行は単に海を行くこと。

沿岸航行といっても、岸から数百メートルは離れる
その距離から関門海峡を見ると、地続きにしか見えない
九州北岸から、中国地方へは沿岸航行の「水行」だよ

306日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:37:39.65
阿波説は
畿内説にとって九州説より難敵だな
阿波説をやっつけられたら九州もやっつけられるかもな

307日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:37:50.19
414の>>188
>そもそもザラコクが臨海郡が会稽東治の事で
その東は九州を指すっつーデタラメが事の始まり<

臨海郡という名前を最初に持ち出したのは、「類スレ主」の方。

>臨海郡の東も台湾の上辺りだからその東は九州の特に北部は指さない <

「会稽東治」といういう文言は、女王國の位置推定をしたいのだから、
陳寿は明らかに「会稽の東方の治域」の海岸地域を示そう、としている。
そうすると、その地は、呉の支配的地域であり、
その事を示すために、陳寿は「東治」という説明文言を使ったんだろう、
という事になる。

308日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:38:45.60
>>268
方角がちゃいます。
水行は南。
渡海は東。
倭人伝、ちゃんとお読みやす。

309日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:43:22.09
>>296
>淡路島はどこに行った?ww

淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw   
淡路島は倭国(阿波)であっても、女王国じゃない と、何度言えばw  @阿波

310日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:44:16.64
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

311日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:44:40.80
414の>>190
>しかし九州説は何で邪馬台国を北部に想定しちゃったんだ
南部に想定した方がまだ頑張れる気がする <

この人は、まだ、
女王國の範囲と、邪馬壹國女王之所都の地域とを、混乱している。
女王國の範囲は、卑弥呼共立に賛成した国であり、南九州の投馬國を当然含む。
しかし、邪馬壹國は、不彌國のすぐ南の筑紫付近にあり、
女王之所都は、その筑紫付近の中にある、という事。

312私も知りたい2019/01/09(水) 20:46:28.23
177日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:02:53.93
>>3
北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。

313日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:46:39.96
>>306
>阿波説をやっつけられたら

う〜ん、無理。  @阿波

314日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:49:05.05
>>312私も知りたい
>北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。

「倭国(阿波)の最先端文化」の間違いだよ。  @阿波

315日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:49:30.07
>>305
主観すぎるよ…
地続きでないのは明らかだから、表現は渡海でも間違いではないだろうな

316日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:50:48.22
太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる


太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる

太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる


太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

317陳寿90度回転さん2019/01/09(水) 20:52:12.77
>女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。
>又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。
>又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。

この辺は、女王国から遥か遠くの国々の話で、あんまり深く議論しても仕方ないんじゃないの?

いずれにせよ、人種の違う人たちが女王国から物凄く遠くに住んでいるということで、
それは蝦夷からまた聞きした北海道の縄文人やアイヌかも知れない。

少なくとも青森までは、縄文時代から日本全国の交易ネットワークに入っていたので、
そこまでの地理的知識はボンヤリとではあるが当時の倭人には共有されていただろう。

陳寿90度回転の立場から言えば、『女王国の東、海を渡ること千余里』これは北のこと。
『海を渡ること千余里』とは、宗谷海峡かも知れない。

『又、侏儒国有りて、その南に在り。』これは東。
『又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南』これは北東。
北海道を深く深く分け入ったところの話かも知れない。

318日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:52:58.32
>>315
まぁまぁ、  
渡海だろうと水行だろうと、たびたび中国・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

319日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:54:56.57
414の>>194
>九州南部だと埋葬品とか集落とかの根拠が崩壊するからな<

崩壊しない。
(元は東テイ人の遺跡と思われる)鹿児島の上野原遺跡や、
天孫族の伊都国系の阿毎氏の分国と思われる宮崎の古墳群があるし、
球磨付近に特異な土器の分布もあった筈だし。

>考古学では九州北部を文献史学では九州南部を主張するのが九州説<

考古学でも文献史学でも、どちらでも九州に負けているのが、大和説。

320日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:54:56.67
>>291
👀 👀👀 👀👀 👀👀 👀👀 👀

321日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:58:38.32
414の>>195
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をしている大和説者は、
要するにチェリーピッキングでその場しのぎを続けているだけの状態なんだよ。
そして、
苦し紛れのその場しのぎだから、大和説は、中で矛盾しまくり。

322日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:59:10.93
>>304
>畿内説の畿内の範囲がメタメタに陥ってるのではないかな

メタメタなのは九州説の方だろ?w

投馬国の比定地も、半島南部とかいうトンデモから、
邪馬台国比定地より南の宮崎とか、北部九州に無理やり詰め込んだりとかデタラメだし
邪馬台国の場所も、筑紫平野といったり、伊都国が邪馬台国だといったり、
福岡平野に無理やり押し込んだりばらばらのメタメタ

それを全部つぶして回るのが面倒でしょうがない
まあ、一つ一つは矛盾だらけだから、簡単につぶせるんだけどねw

323日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:04:10.50
>>305


從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 

324日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:05:30.30
>>322
>まあ、一つ一つは矛盾だらけだから、簡単につぶせるんだけどねw

まあ、矛盾がないのは倭国(阿波)だけなんだけどねw  @阿波

325日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:10:30.12
414の>>201
まぁ、大和説者は、
後漢書の会稽東冶の誤字をいいことに、会稽を限界まで南へ移動させて、
あまつさえ会稽郡の南にまで「会稽東治」を仕立て上げるという騙し計画も失敗して、
会稽東治が上海やが揚州(江蘇省付近)である事を否定する計画も、
水泡に帰したしなぁ

もう九州説の生き残る道は無いでしょね

326日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:13:01.02
>>192
卑弥呼共立の倭國は、北部九州。
倭國の乱は、玄界灘側の王家と有明海側の王家との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちらで王を名乗るものが現れた。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

327日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:15:23.92
414の>>228
>この投馬国が吉備王国か出雲王国かと言えば、
領域の広さやその後の陸行の長さから考えて、出雲ではないかなと思っている。<

「南≠東」によって、始めから、×。

328日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:20:34.42
>>326
>卑弥呼共立の倭國は、北部九州。

無理。 「其山有丹」でも無理。 「橘」でも無理。 「楠」でも無理。 なにがどう転んでも、無理。  @阿波

329日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:22:40.87
414の>>223
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説者は、
ボコられると途端に荒らしまくって、
スレ流そうとするね。

330日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:30:45.49
畿内説同士の相撃ちはやめないか

331日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:33:27.07
畿内説はもともと中身が空っぽだからしょうがない。

332日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:33:47.21
>>322
畿内説のスレで他説に振って逃げるのかな
他説批判は他説のスレでやるべし
畿内説批判はこのスレでいいんでねーの

333日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:35:27.72
キナイコシは主張すべき中身がないから、他説を攻撃することしかできない可哀想なやつなんだよ。

334日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:37:40.50
414の>>233
>>投馬国は、薩摩。<

>それ、女王国以北に合わないんだけど?<

先に投馬國の位置が、不彌國から水行二十日で行ける南九州である事が示され、
また、後で、女王國とは卑弥呼共立国の呼称であった事の説明になっているから、
投馬國も、女王國の中に含まれるの。

335日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:44:54.43
目茶苦茶に順番入れ替えるのが九州説

336日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:47:15.94
>>305
>沿岸航行の「水行」だよ

「水行」は沿岸航行に限らず単に海を行くことだよ
関門海峡は見るなくても北部九州地域を支配してるんだから関門海峡の存在は分かってるよ
だから九州北岸から中国地方へは渡海なんだよ。

>>317
>女王を去ること四千余里。
女王(邪馬壹國)の東4000里とあるここは問題だな
邪馬壹國の先まで里数が分かっている
先まで里数が判明してるんだから途中から日数で邪馬壹國の行程を説明する必要がない
里数と日数を連続して読むのは間違いなんだ。

337日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:52:41.03
414の>>234
>九州北部は女王国じゃないんだろ
九州北部の国々は、一大卒支配下の女王国に服属する地や国というだけ<

卑弥呼共立に反対したようであったのは狗奴國だけであり、
東渡海千里の倭種は、共立支持か?は不明であり、
半島南岸の倭は、狗邪韓國以外は不明であり、
九州の中北部の其餘旁國は、共立賛成であったようであり、
しかし、魏の支配下になる事までは拒否したのは、
(戸では書かれず)「家」でまでは一大國と不彌國。

また、「官」名が書かれなかった狗邪韓國は、魏の臣下にもなった難升米の国であり、
末盧國はになった同じく都市牛利の国であった可能性がある。

338日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:57:19.65
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

339日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:01:56.18
>>326

作り話がこの民族の特徴

340日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:05:43.15
>>339
>作り話がこの民族の特徴

え?・・・あんたは何民族なんだw

341日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:06:33.51
>>332
>畿内説のスレで他説に振って逃げるのかな
>他説批判は他説のスレでやるべし

すぐ逃げる
無能な九州説

342日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:07:04.95
東の倭地までどれくらい?

なに、その日のうちに渡れるよ

ふむふむ、なら1日の水行だから千里だな

343日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:21:25.11
>>323
???
沿岸航行が水行だってだけだろ

循海岸っていうのを、波打ち際だとか言わないよな?
半島南部のリアス式海岸を出たり入ったりしながら航行するはずがないからな
座礁しないためには陸が見える範囲で沖に出るんだよ

そして半島の概形に沿って進むのが循海岸の意味

344日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:28:54.12
414の>>241
>当然、沖縄あたりだ<

陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って、×だ。

345日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:29:24.30
>>336
関門海峡って沖合から見たらこんなんやで
https://t.pimg.jp/040/863/631/1/40863631.jpg

地続きにしか見えないし、沖を通る人にとっては水行であって渡海じゃない
それに「千里」にならないっていうのはごまかし続けているだけだぞ

移動距離は渡海距離とは違うよ

346日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:32:17.63
>>332
>畿内説のスレで他説に振って逃げるのかな

反論したかったら、論点を明確にして具体的な指摘をしてくれww
逃げてるのは九州説w

347日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:33:07.15
>>345
北部九州地域を支配してたんだから見えなくとも知識として関門海峡を知ってるよ
博多から山口県までを渡海と認識してたんだよ。

348日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:33:41.58
レス乞食

349日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:34:29.68
414の242
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説は、
大和に拠る九州の支配とか征服とか屈服とか、強権的な言葉が大好き。

>畿内説の想定する倭国は葬送祭祀を統一する祭祀連合で、卑弥呼は共立祭祀王
征服王じゃないww<

「南≠東」や、
「九州倭国の「東征毛人五十五国」という史料事実に拠って、×。

350日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:36:22.88
>>343
沿岸航行に限らず渡海も水行なんだ
循海岸は渡海じゃないから単に水行と書かれてる。

351日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:37:50.50
>>347

お前はな

352日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:39:06.59
関門海峡は
門司側の沿岸水行すると、同時に下関側の沿岸水行にもなる

353日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:40:07.13
飛び飛びロムですがスレの結論は卑弥呼さんは伊都で壹与ちゃんは葛木でOK?

354日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:43:07.27
>>351
魏志倭人伝にも「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑」と書かれているだろ
当時から関門海峡は知られていたんだよ。

355日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:45:19.36
>>353
壹與は肥前河上

356日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:47:10.07
卑弥呼も壹与も伊都国ですよ。

357日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:48:22.50
有明海沿岸の人たちは関門海峡を実際に見たことがないのかもしれない
有明海よりも広大な海峡だと想像しているんだろう

358日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:54:06.64
414の>>の261
>それを前方後円墳体制って一般に読んでるんだけど知らないのかい?<

列島での前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などが先発だ。

>ただ、その体制は武力討伐で屈服させて作られたものではなく、
卑弥呼の共立によって談合で作られた体制だ<

ダメだ。
「南≠東」であり、九州倭国の「東征毛人五十五國」であり、
大和は、阿毎氏の倭奴國から別れた別種の旧小国だ。

>その祭政一致の体制に北部九州も参画している<

東征将軍らが、前方後円墳を大和に伝えた。
大和のみの倭国など、絵空事だとすぐに分かる。

359日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:54:26.62
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

360日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:05:01.49
>>353
それはそれで"あり"と思いますよ
考察するには面白そうですね

361日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:13:32.38
414の>>269
>>その前方後円墳に筑紫から来た銅鏡が大切に安置されていたのだから<

>これが大嘘 3世紀には筑紫は銅鏡を新たに入手できなくなっている<

これが大ウソ。
3世紀の筑紫は、明帝の下賜の銅鏡百枚や呉系楽浪鏡師らの△などが流入し、
卑弥呼らに拠って鏡片としても、沢山配布され、
平原や3世紀末の一貴山銚子塚などの黄金鏡などの花を開いた。
それに対して、大和は、3世紀末以後の東征将軍らのホケノの鏡片が始まりであり、
呉系楽浪鏡師らの教授で子弟たちが、大量の粗悪な副葬用の△を作って副葬した。

>平原1号墓出土鏡が、40枚中38枚が仿世鏡だっていうのをもっと深刻に考えた方がいいよww<

21枚の「尚方作」の方格規玖鏡は、明帝の下賜鏡が元になった、
という事を、もっと真剣に考えた方がよい。

362日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:16:38.96
 


土人!

馬鹿どもよ、
 


邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。

小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。

当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。

世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。

狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。

で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。

その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。

わかったか、


 

363日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:17:36.30
>>328
阿波は紀の川と仲良くしてたらよい。

364日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:19:33.70
414の>>の272
>邪馬臺は、ヤマドゥだって言ってる人がいるけど、
日本書紀の万葉仮名がそのままヤマドゥだな<

「臺」は「台」ではなく、
「邪馬台国」は、存在もしない嘘つき騙しであるから、×。

365日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:20:18.50
>>362
笑うとこ?

366日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:23:39.87
>>326
2世紀末の大和行きは都落ちなのに、なんでそんなに東征したがるの。
尾羽うち枯らしてみすぼらしく流れていくのに、都へ上るように意気揚々な鼻息はなんで。

367日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:23:54.93
>>362
こちらへどうぞ
邪馬台国エベンキランド説
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517734950/

368日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:28:37.83
414の>>275
>薩摩から開聞岳まで舟で行って、そこから一気に屋久島まで漕ぎ渡る。
屋久島が倭人伝の上陸地点。
倭人伝の倭国の想定は、唐津から沖縄あたりまで続く巨大島があって、卑弥呼の都はその沖縄本島あたりにあり、狗奴国はその南にあるというもの。
これは、古代中国人の強固な観念。
そこに仙人の住む理想郷があった。
邪馬台国はその理想国にあったわけ。<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしてしまっているし、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてしまっているし、
「陸行一月」する陸地がないから、やっぱり×だろうねえ。

369日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:28:52.46
>>362
九州王朝派が意気消沈したと思ったら、今度は朝鮮加羅王朝派かよ。

370日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:31:12.36
>>350
それは無理筋
水行と渡海は区別されてるし、玄界灘から山陰の海岸へ移動するのは水行だよ

記録するのは魏使だからね

371日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:32:16.20
>>366
そりゃあれだ。
太平洋戦争で大本営が「転進」と言い張ったのと同じだ。
実際は敗退だが、そうは書けないだろ。
記紀によると、親戚筋の饒速日が関西で成功しているらしいと塩土爺から聞いたので出発を決めたとある。
三雲遺跡の主として3代70〜80年に渡って君臨して後漢から金印まで授かった天孫族が、倭国大乱でその地位を失ったんだよ。

372日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:32:53.43
>>370
郡使は本州に渡っていないから、伝聞情報だけなんだよ。

373日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:33:44.62
>>365
>>362は科学ニュース+板で邪馬台国スレを荒らしてた人だよ
取り合わなくていい

374日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:33:49.64
>>370
水行⊃渡海なんだよ
渡海も水行の一種。

375日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:36:33.08
>>372
出雲から普通に楽浪土器が出てる
半島と出雲の往来は考古遺物から確認できるし九州だけが交流してたという説は成り立つ余地がない

376日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:37:29.97
>>372
張政等の魏使は本州に行ってないけど公孫氏時代の郡使は本州まで言ってるね
「去女王四千餘里」と邪馬壹國の先の里数も記録している。

377日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:39:36.96
>>374
だったら「10キロ沿岸航行、600メートル海峡横断(渡海)」は、
水行と書かれるのが当然だなww

378日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:40:29.55
>>375
昔は出雲が倭を代表していたけど、それを倒して成立したのが筑紫の王権じゃないか。

379日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:47:10.72
>>376
>張政等の魏使は本州に行ってないけど

それは無理だよ
北部九州より大国の出雲の人も大和の人も北部九州に来てるし、
郡使も出雲を知ってるなら北部九州は倭国も代表と認められない

そして建中校尉梯儁は金印・皇帝詔書を倭国の都、大和まで運んでいるし
塞曹掾史張政は以檄告喻壹與で、臺與のいる都まで行っているのが分かる

その記録で、北部九州から都まで水行陸行合わせて2ヶ月と伝わっている訳だ
九州のみの倭国は、状況からあり得ない

380日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:47:44.55
414の>>276
>短里なんてないんだよ?ww<

魏志には、大和も長里もなかったよ。

>奴国も伊都国も邪馬台国とは別の国  奴国と伊都国を除いたら北部九州に七萬餘戸の邪馬台国を置く余地はない <

奴國は、日向峠西麓〜早良平野部であり、不彌國は博多湾岸であるから、
邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野およびその周辺丘陵地。

>投馬国は戸数道里が略載された女王国以北の国だが、九州説では投馬国を置く場所がない<

投馬國は、先に「不彌國から南の水行二十日の位置にある側副傍線國」、
という説明が終わっていて、卑弥呼共立國の中の一国である事になり、
だから「女王國」の説明の中に含まれる事になる。

土器も前方後円墳祭祀も筑紫発祥のものを、
東征将軍らに拠って伝えられて受け入れているだけの場所が、
3世紀末以後の「九州倭国の別種分家の旧小国」の大和。

381日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:49:04.33
>>337
卑弥呼共立までは、博多が玄界灘連合の盟主。
熊本の王は、鉄など貴重財の取引で博多と仲よかった。
しかし、共立後は筑後の邪馬台国が盟主となってから、邪馬台国の為政者らは幅をきかして、嘉瀬川河口からの沿岸伝いの交易舟に言い顔せずに横槍入れるようになった。
このことから、熊本の王は邪馬台国に腹を立てていた。
そこで、邪馬台国が音頭とって倭國が魏に朝貢するようになると、大和の纏向連合から「どや、一緒に邪馬台国、攻めんか」と相談があり、熊本はもとより卑弥呼と良くなかったので、一も二もなく話に乗った。
そして、冊封の固めとしての皇帝の軍旗が邪馬台国に送られて、いよいよ魏の家来になる段となるや、国を売る邪馬台国に対して正義の旗を掲げ、熊本と大和が南北から一気に攻め込んだというわけ。
これが3世紀中頃のリアルな歴史。

382日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:50:50.97
>>378
>昔は出雲が倭を代表していたけど、それを倒して成立したのが筑紫の王権じゃないか。

神話時代の記紀を史実だと言いたいのかい?

神武の東征があったとしても、それですら邪馬台国の時代より何世代も前だぞ?

383日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:52:58.89
>>380
>魏志には、大和も長里もなかったよ。

大和は当て字
大陸側は邪馬臺という当て字で記録している

長里はないな
あるのは1里=435メートルの魏晋里だけだ

384日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:54:59.55
出雲の四隅突出型墳丘墓は
筑紫の甕棺が没落するころから大型化し北陸にも拡がる

385日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:59:34.83
>>379
>郡使も出雲を知ってるなら北部九州は倭国も代表と認められない

出雲から筑紫に代表権を委譲したよね。

>>379
>そして建中校尉梯儁は金印・皇帝詔書を倭国の都、大和まで運んでいるし

循環論法の詐欺。

386日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:01:25.14
>>382
>神武の東征があったとしても、それですら邪馬台国の時代より何世代も前だぞ?

根拠は?

387日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:07:28.49
>>368
勘違いしてはいけない。
九州巨大島は、中国人の強烈な固定観念。
帯方郡役人が「倭國は北部九州」といくら報告しても、頭の硬い本国の役人らは帯方郡の報告を信じず、巨大島の南部にある邪馬台国へ行く道筋もちゃんと報告せよ、と命令する始末。
やむを得ず、帯方郡の役人は、博多の商人から沖縄へ行く行程を聞きだして報告を上げた。
そういう歴史の真実を理解できないで、陳腐な旧説を繰り返していてはダメ。
沖縄あたりに仙人郷があるという古代中国人の強烈な固定観念を知らなければ、陳腐な説を説いてみせるだけに終わる。
もっと、中国の歴史を勉強したまへ。

388日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:08:24.36
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

389日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:08:44.11
神武の東征は邪馬台国よりずっと後だよね

390日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:15:11.59
>女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。
>又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。
>又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。

繰り返しになるけども、これは女王国から遥か遠くのよく分かってない国々の話で、
あまり議論しても仕方ないと思うんだけど、

狗邪韓國 → 対馬国 1000余里
対馬国 → 一大國 1000余里
一大國 → 末廬国 1000余里

なんだから、渡るのにそれなりの時間がかかる立派な海峡なんでしょ。
人種の著しい違いを強調してるんだから、宗谷海峡のことじゃないの?
『東』を陳寿90度回転させると『北』なので、普通に考えればそうだよね。

あるいは可能性は低いと思うけど、佐渡島か、壱岐か。

いずれにせよ関門海峡じゃないだろ。

391陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 00:23:06.63
>>390は、私『陳寿90度回転さん』が書いたレスです。
で、少しまあ興味深いのは、邪馬台国までひたすら『南』、『南』、『南』と書いて来た記事が、
さらに先の遠国になると『東』になっている。
つまり、日本列島が関東甲信越あたりを境に、反時計回りに屈曲していることが正しく認識されている。
これも『陳寿90度回転説』を裏付ける補強材料の一つだと思う。

392日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:23:08.64
そうだなぁ、千余里か
国東半島と山口では?

393日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:34:35.33

394陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 00:38:19.05
海峡を渡る時の千余里と言うのは、厳密に約400kmという訳ではなく(韓国南岸から対馬、壱岐、松浦までの各海峡幅はそんなにない)、

『ガッツリ海峡渡ったった!どやっ!』
『命の危険を冒して渡海しましたぜ!』
『評価して評価して!』

その思いが一声千余里になっている。

そう言う意味では関門海峡ではないね。

395日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:53:00.91
方可二千里戸八萬の夫餘の国土の半分の距離だからな

396日本@名無史さん2019/01/10(木) 03:58:01.26
>>257
>その時期以前に、大型建物は撤去されていた。

証拠は?

397日本@名無史さん2019/01/10(木) 04:56:29.64
瀬戸内海も狭いね
尾道から向島 因島 生口島 左木島 ::あたりを見ると島の密集地だな

398日本@名無史さん2019/01/10(木) 05:12:59.30
>>391陳寿90度回転さん
魏志韓伝 読んだ

399日本@名無史さん2019/01/10(木) 05:21:59.67
>>263
-------------------------------------------------------------
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。

関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
-----------------------------------------------------------------
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
下関に国があればの話でしょ
彼は中国地方と言っているだけで比定はしていないよ
あと、計算間違ってる

400日本@名無史さん2019/01/10(木) 05:32:39.55
誰でもいいので
大型建物は撤去

撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか

401日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:08:39.26
>>400
倭国乱が起きたので九州倭国と交易することができなくなった。

402日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:11:48.75
邪馬台国=ヤマト王権として
卑弥呼が記紀から抹消されたのは朝貢外交だけだろうか

403日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:19:03.63
414の>>280
>漢鏡とは言ってないw 銅鏡(舶載鏡)が入手できてないんだよww <

そりゃ大和の事だな。
3世紀末以後のホケノで、初めて鏡片なんだからな。
筑紫なら、3世紀末頃の一貴山銚子塚頃までの一杯でていた。

>卑弥呼がもらった銅鏡100枚はガン無視かい?
史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン九州説<

卑弥呼の銅鏡百枚なら、明帝の指示の通りに、
筑紫や西日本の卑弥呼の部下や豪族や、親愛なる婢や、東征将軍らにに下賜したり、
余った21枚の「尚方作」鏡は、後継の壹與が相続した。

史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン大和説。

404日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:25:42.27
414の>>287
>スレの趣旨から逸脱してるのは九州説論者全員だけど <

「南→東」などのように、史料事実を否定曲解するインチキをやっているのは、
スレ主を始めとして、類スレ主や大和説者や大和説学者らや、
学会教育界や、右翼マスコミや、右翼PC会社や、安部文部省らの、ほぼ全員だけどな。

405日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:35:18.08
「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。
畿内説では説明できません。単純な話です。

406日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:35:45.11
414の>>298
大和説者や大和説学者らは、
「南→東」などのような嘘吐き騙しをせずに、
史料事実や史料実態から「正しく引用する」、
という学問の基本から学んで。人生やり直すのがいいと思うよ。

407日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:40:44.94
>>400
撤去じゃ無くて木が腐っちまたんじゃねーか

408日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:44:10.46
畿内説は倭人伝の大部分を否定しないと成立しないの?

409日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:44:31.46
414の>>300
大和説者は、
邪馬台国畿内説のスレでクダ巻いてないで、
精神的な病気に関するスレで、
思う存分好きなことを書いてくればいいじゃないか?ww

古代史のスレでは、「南≠東」などの嘘吐き騙しに関して、
意味のある反論一つできない「邪馬台国畿内説スレ」位しか、
残っていないんだからさw

410日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:58:38.18
>>408
はい

411日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:59:13.08
414の>>303
>とにかく、3世紀の舶載鏡が1枚もない時点で平原1号墓は卑弥呼の墓の候補からは脱落だよ
同じことは、祇園山古墳でも言えるけどねw 伝祇園山古墳出土鏡が、三角縁神獣鏡なんだからw<

大和では 3世紀末以後のホケノで、初めて鏡片なんだからな。
筑紫なら、3世紀末頃の一貴山銚子塚頃までの一杯でていた。
卑弥呼の銅鏡百枚は、明帝の指示の通りに、
筑紫や西日本の卑弥呼の部下や豪族や、親愛なる婢や、東征将軍らに下賜したり、
鏡片にして下賜したり、
余った21枚の「尚方作」鏡は、後継の壹與が相続した。
更に、3世紀末〜4世紀の一貴山銚子塚の黄金鏡のようにお宝にされたが、
317年頃の八女〜久留米への遷宮で東海姫氏國になってから、
鏡は三種の神器の一つになり、
大量の下賜はなくなった。

史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン大和説。

412日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:06:27.33
414の>>311
>平原の勾玉はガラス製
自慢のガラス製耳璫のほうが大切な神器だったんじゃないかな
錆色塗装鏡含む鏡類は全部棺の外だから<

みんなお宝。鏡は、棺に入りきれなかった。

413日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:10:12.08
414の>>315
どんなに史料事実を突きつけられても
それを否定曲解する嘘吐き騙しのする、
作り話をやめないの大和説

414日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:11:36.05
>>410
畿内説が倭人伝重視の九州説とかみ合わないのは当然だなww

415日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:12:32.66
414の>>317
それに対して、大和説者は、
きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論を、
した証拠が一切なくて藁

ww

416日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:15:42.35
>>405
>畿内説では説明できません。単純な話です。

また、九州説でも説明できません。単純な話です。  @阿波

417日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:19:36.16
>>414
>畿内説が倭人伝重視の九州説とかみ合わないのは当然だなww

北部九州説も「其山有丹」・「橘」・「楠」などで、倭人伝とかみ合いません。  @阿波

418日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:22:12.02
414の>>317
それに対して、大和説者は、
きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論を、
した証拠が一切なくて藁

ww

419日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:28:18.58
414の>>318
>>以上、確かに(その地図では)臨海郡は、会稽の南にあった。
しかし257年に会稽郡から分郡された臨海郡は、はっきり会稽郡の東部地域だ、
書いており、
孫権の本拠の南京の揚州丹陽郡に属し、揚州は現在の江蘇州付近の事であるから、
陳寿の会稽東治は、江蘇省を中心とする地域である、という事には変わりがない。⇔

>さwすwがwに、これはヒドいな この理屈だと
”日本の首都が東京なので鹿児島は関東を中心にする地域である” になるよ
あまりにも頭部の狂いすぎた論理 <

要は、お前の提示した地図が、いつの時代の地図であったのか?、という事が問題。

420日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:30:39.54
>>411-415
こういう嘘のつけるzarakokuって、すごいね

421日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:35:38.26
>>386
>根拠は?

崇神、垂仁、景行が纒向(周辺)に宮を置いたことが記されており、彼らが纒向のヒコ王
そして、纒向が卑弥呼の時代なのは確定

記紀の系譜で、神武は崇神の9代前
宝賀寿男氏の古代系譜研究に依れば、との豪族系譜の対比から神武は崇神の5世代前

九州説と違って、根拠なしで言い散らしてるわけじゃないんだよw

422日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:37:41.21
414の>>328
つまり、会稽東治之東で、どうしようもならなくなった破綻説だな、
大和説は。

423日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:42:05.90
414の>>331
>やっぱ方向オンチの集団だ
じゃ不彌国から水行する時も一旦ちょっと南に向かってから東に進んだから
魏志倭人伝には東が南と書かれてるんだ <

不彌國から、北へ玄界灘へ一旦出て、東回りか西回りで、海岸沿いに水行二十日した。

424日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:43:00.83
神武ら天孫族が筑紫の伊都を去ってから筑紫倭国の女王になったのが卑弥呼だから、神武の年代と卑弥呼の年代が重なっていて当然。
纒向の遺跡の年代がいつであっても、それは邪馬台国と関係ない倭種、ヤマト王権の萌芽を見ているにすぎない。

425日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:45:04.54
>>396
>証拠は?

辻地区の大型建物跡は周辺の祭祀土坑とセットの施設と考えるのが妥当
柱の抜き取り跡があるのは事実
祭祀土坑の供献土器、桃核の推定年代が230年程度まで
卑弥呼の遣使の頃には、宮は別の場所に営まれていたと考えるのが通説

ただ、2世紀末に共立され248年頃に死去という卑弥呼60年在位説を採るなら
230年以前も大和の盟主は卑弥呼なのだから辻地区の建物も卑弥呼の宮の蓋然性が高い

426日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:46:01.45
「其山有丹(その山には丹〈ベンガラ〉があった)」というのは、阿蘇山のことであろう
カルデラ内の遺跡からは大量のベンガラが出土している。

427日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:47:16.33
>>400
>撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか

建物が傷んだor手狭になって、新しい宮を建てたから、でいいんじゃないの?

428日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:49:12.12
丹は水銀朱でしょ

429日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:50:11.01
>>402
>卑弥呼が記紀から抹消されたのは朝貢外交だけだろうか

単に古すぎて十分な記録・記憶がなかっただけだと思うよ
欠史八代くらいの年代だから

卑弥呼の名前で書いてないだけとも考えられるし

430日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:53:19.93
>>406
>女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。

魏略では、対馬や壱岐のこと
倭国ら辺にある島は、渡海千里で離れている島も含めて「皆」倭種だって言ってるだけ
旧唐書の別種表記に引きづられて、別の国だと思っているのがバカすぎる

431日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:55:17.86
>>407
>撤去じゃ無くて木が腐っちまたんじゃねーか

柱穴の縁が擦れてて抜いたのは確実
ちょっとうろ覚えだけど、抜いた柱穴に供献土器が入れられてたのも確認されてたと思う

432日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:58:31.40
>>427
>建物が傷んだor手狭になって、新しい宮を建てたから、でいいんじゃないの?

纒向地区の古墳造営が終了したからだよ。 纏向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地 だと、何度言えばw  @阿波

433日本@名無史さん2019/01/10(木) 07:58:52.46
>>408
>畿内説は倭人伝の大部分を否定しないと成立しないの?

畿内説は「陳寿が倭国を会稽の東まで続く南北に長い島だと誤認していた」とするだけで
そのまま読めるよ

まあ、個人的には末盧国から東南500里は、伊都国行きじゃない旅程が
紛れ込んでると判断しているけど

434日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:00:00.20
>>400
>撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか

あの建物はね三輪神社の初期の祭殿
柱は三輪明神大神神社に移転されたのだよ
纒向は神社
境内で市も催されてるし、祭事も行われている
境内だから集落跡がなくてもOK

邪馬台国の王都では無い

435日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:02:06.92
>>412
>みんなお宝。鏡は、棺に入りきれなかった。

大事なの一枚くらいは入れればいいじゃないか?
王権の象徴とまで主張しているのと、整合性がないぞww

436日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:05:37.89
>>423
>不彌國から、北へ玄界灘へ一旦出て、東回りか西回りで、海岸沿いに水行二十日した。

ザラコク理論では、出発方向が北なんだから北至邪馬壹國って書かれなきゃいけないだろ?ww

437日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:18:49.15
>>390
これは公孫氏時代の帯方郡からの郡使が倭の奥地を見分した記録に基づくものだ

女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。

又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。

女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。

438日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:23:50.44
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

439日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:25:55.43
414の>>338
>つまり九州説は無理なんだね
東南じゃなくて南に偏りすぎてるから <

釜山の南は平戸と五島列島の間位で、郡の東南は、関門海峡付近だから、
筑紫は、郡の東南〜東南東の間だ。

440日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:28:35.20
女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
熊本城で謁見して倭人の地の絶えている(沖縄の)場所を問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、で着くと答えがあった、、、

441日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:29:13.48
441の>>343
またの大和説が、
幾ら証拠を言って上げても知らん振りして、聞いていないふりをして、」
「南→東」などの嘘つき騙しには、何の証拠も出さずに、
罵倒と中傷を繰り返してるな。

442日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:32:21.09
>>440
>女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。

熊本城の東に海はない。  畿内説と同じ。  @阿波

443日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:34:10.12
414の>>344
まー大和説者は、
「南→東」などを取り違えるの、とか言って「後漢書が証拠だ」などのと言っているけど、
後漢書も、南と東を取り違えていないから、
この意見は客観的事実から×だわな...

444日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:49:11.42
414の>>352
>だが、実際の三角縁神獣鏡の出土分布は、畿内中心で<


列島での最も古い△群は、筑紫ばかりで、呉系楽浪鏡師らの出稼ぎで西日本にも分布したが、
大和の△は、4世紀以後で呉系楽浪鏡師らが鏡作り神社で、
大和の子弟の教えて粗悪な副葬用の大量の△を造った。

>北部九州では1枚の神獣鏡をありがたがってる状態なんだが? <

列島での△は、筑紫が最も早く、3世紀前半であり、
大和は4世紀なんだが。

>配布を受けていたのがどちらか、というのは同笵鏡の分布からも
めっちゃはっきりしているんだが?ww<

配布したのは、製作者の呉系楽浪鏡師ら。

445日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:50:06.02
>>440
女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。

又、侏儒国(四国)有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。

女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東
部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。

446日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:51:10.22
414の>>353
>実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?<

間違っていないよ。

447日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:56:51.14
414の>>354
>>東→南の錯誤は、絶対に起こり得なかった。<

>間違いはどこにでも忍び込むんだよ 絶対にナイナイーとか、そういう非現実なこと
ムキになって言い張るから 九州説は信用されなくなったんだよ<

?。そりゃ、「絶対」ではないなあ。
「殆ど絶対」間違えない、だ。
間違う可能性があるのは、思想や宗教に狂った・・・・詐欺師や、大和説者位だ。

448日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:01:25.96
414の>>356
>>「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
だから、 倭人らは、太平洋を渡っているね。<

>なんで倭人が里数をかぞえられるの? <

侏儒國までの情報は、魏使らの部下らが行ったんだろう、と思うよ。

449日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:08:41.16
>>448
魏使の部下らじゃなくて公孫氏時代の帯方郡から来た郡使が倭の奥地を見分したんだよ。

450日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:18:48.06
女王国の東(の宮崎)から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
熊本城で謁見して倭人の地の絶えている(沖縄の)場所を問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、で着くと答えがあった、、、

451日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:20:51.42
裸国と黒歯国は、太平洋の島の可能性が高まってきたな。。。

452日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:22:39.27
414の>>365
「東至安南如至成都,通水陸行」は、陽苴棟驍ゥら安南へ向かう通行路の説明 。
成都へ至る道と同じような東向きのコースを通って通水陸行をして至れる、
という説明文。

453日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:33:32.92
414の>>367
>「東だけ」説なんて唱えてないよww
方角は、道なりでいいんだろ?って言ってるだけ<

「陸行五百里」だけだから、方向は、始めから書かれていない。
案内人や道なりや道標に拠って進むだけ。

>それだけで「東≠南だから×」は言えなくなるww<

途中の方向は、始めから書かれていない、と言っている。

454日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:03:03.25
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

455日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:07:13.33
>>446
>間違っていないよ。

間違ってるよ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

理由もなく間違っていると言っても意味はない
現実には勝てないww

456日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:07:35.23
キウス

457日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:15:50.30
>>452
>「東至安南如至成都,通水陸行」は、陽苴棟驍ゥら安南へ向かう通行路の説明 。
>成都へ至る道と同じような東向きのコースを通って通水陸行をして至れる、
>という説明文。

それだと今度は「『東北」至成都二千四百里」が間違いになる
最初は同じ昆明行きの道だからな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/365

458日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:18:01.24
>>453
>「陸行五百里」だけだから、方向は、始めから書かれていない。
>案内人や道なりや道標に拠って進むだけ。

おいおい
『東南』陸行五百里、到伊都國

しっかり東南って方角が書いてあるがなw

459日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:20:12.47
>>450
>女王国の東(の宮崎)から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。

畿内説とおなじ言い訳。  @阿波

460日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:23:31.05
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

461日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:25:13.53
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

462日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:20:23.20
九州説の脳内では各種のデータからそうなってるんだよ

463日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:26:31.75
414の>>370
>さもなきゃ 伊都国の王権が崩壊したってこと<

伊都国は、倭奴國系の阿毎氏の国として、東海姫氏國時代にも存続しており、
姫氏に代わって政権を取った阿毎氏系の磐井が、ヲホドに倒されても、
また、葛子が再建して、伊都国は竹斯國として存続し、
倭国は俀國として阿毎氏のタリシホコを輩出して、
白村江の大敗まで、倭国の王家として存続した。

464日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:30:06.95
414の>>373
つまり会稽東治之東に拠って、女王國はほぼ九州島内であり、
大和説は、完全に無理で死亡っスね。

465日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:31:12.01
ほら、また論破された九州説が荒らしをはじめますよー

466日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:34:20.28
414の>>389
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺の、
結論しか言わない大和説 。
けっして論証はしない。

467日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:36:57.97
414の>>390
九州説は日常的に、
史料事実や人類の常識に基づいた帰納的確率的な推論を組み立ててるからな。

468日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:40:03.77
史料事実や人類の常識に基づいた帰納的確率的な推論を組み立ててるからな

九州説のギャグが今日も冴え渡ってるなぁ

469日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:46:43.25
帰納的って言葉の意味が分かってないんだよ
あと、常識って言葉の意味もおかしいw

史料事実という言葉も、実際にはないw
通常は史料の内容とか、史料の実態とかいうww

470日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:49:10.71
実際に距離も方向も九州の中ですら滅茶苦茶なのに「南は絶対!」とか喚いてる馬鹿が何をほざいてるのやら

伝説の頃からの記載と変わらん記事を見て都合のいい行程叫んでるだけのサルがw

471日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:51:16.71
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまった。。。

472日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:52:03.07
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

473日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:55:08.22
みなみはぜったいいいい!ほうこうをまちがえるわけがないいぃいい!!!

会稽の東に無い
九州の中ですら距離も方向も間違いだらけ

これが史料や常識に基づいた思考とは
抱腹絶倒のスーパーギャグだな

474日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:59:09.44
414の>>406
>まあその前に夏至に8尺棒の影長が一尺六寸になるのは北緯34.7度の地点だけど
その場所での冬至の影長は正しくは一丈二尺八寸五分なのに、
周髀算経では一丈三尺五寸になってる
冬至の影長が一丈三尺五寸になるのは北緯35.95度の地点<

それなら、太陽視角を0.5度として、
夏至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」と、
冬至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」とを計算して調べて、
どれ位の半影幅の差があるのか?を比べてみな。  

475日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:06:12.99
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、 韓国人が発狂したのではないのかな。。。

473日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:55:08.22
みなみはぜったいいいい!ほうこうをまちがえるわけがないいぃいい!!!

会稽の東に無い
九州の中ですら距離も方向も間違いだらけ

これが史料や常識に基づいた思考とは
抱腹絶倒のスーパーギャグだな

476日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:08:06.53
方向を間違えるわけがない!

とか喚き散らした後に「会稽の東に無いのは方向を間違えたからだ」とか平気な顔で言い出すからな
流石は史料と常識に基づいた各種のデータから間違いのない九州説様の思考回路だな

477日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:13:58.53
>>474
>それなら、太陽視角を0.5度として、
>夏至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」と、
>冬至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」とを計算して調べて、
>どれ位の半影幅の差があるのか?を比べてみな。  

それを自分で計算して、相手に検算をお願いするのでなければ書き込みは無意味だよ

「夏至に8尺棒の影長が一尺六寸になるのは北緯34.7度の地点だけど
 その場所での冬至の影長は正しくは一丈二尺八寸五分なのに、
 周髀算経では一丈三尺五寸になってる
 冬至の影長が一丈三尺五寸になるのは北緯35.95度の地点」

これは確認可能だし、何一つ間違っていないぞ

つまり、周髀算経の数値は実測値ではありえないし、机上の計算のでたらめってことだ

478日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:18:03.03
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

479日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:44:06.35
♪一羽の雀が言うことにゃ〜  おらが在所の陣屋の殿様〜

480日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:04:11.92
韓国政府に雇用された韓国人が、尖閣諸島まで伸びていた倭人の領地を少しでも狭くしようとしているな。。。

476日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:08:06.53
方向を間違えるわけがない!

とか喚き散らした後に「会稽の東に無いのは方向を間違えたからだ」とか平気な顔で言い出すからな
流石は史料と常識に基づいた各種のデータから間違いのない九州説様の思考回路だな

481日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:05:15.55
九州説名物の論破された後の荒し行為、はーじまーるよー

482日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:10:00.15
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し続けるために、韓国政府に雇用された韓国人が、完全に論破され、討論での反論を諦めて、敗北を宣言したな、、、

481日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:05:15.55
九州説名物の論破された後の荒し行為、はーじまーるよー

483日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:12:52.83
魏志倭人伝時代の倭国では、なぜ短里が使用されたのだろうか。。。

484日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:15:47.34
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し続けるために、韓国政府に雇用された韓国人が、「地面での半影長」に対する知識が無いので、計算不可能なのではないのかな。。。

477日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:13:58.53
>>474
>それなら、太陽視角を0.5度として、
>夏至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」と、
>冬至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」とを計算して調べて、
>どれ位の半影幅の差があるのか?を比べてみな。  

それを自分で計算して、相手に検算をお願いするのでなければ書き込みは無意味だよ

「夏至に8尺棒の影長が一尺六寸になるのは北緯34.7度の地点だけど
 その場所での冬至の影長は正しくは一丈二尺八寸五分なのに、
 周髀算経では一丈三尺五寸になってる
 冬至の影長が一丈三尺五寸になるのは北緯35.95度の地点」

これは確認可能だし、何一つ間違っていないぞ

つまり、周髀算経の数値は実測値ではありえないし、机上の計算のでたらめってことだ

485日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:17:49.76
>>425
大型建物とその周辺には人が住んだ痕跡がない、というのが纏向を掘った調査員の報告。
人が住まないのに卑弥呼が住んだ宮とするのは、有り得ない。
纏向の大型建物群は、祭祀施設だろう。
人が住まない祭祀施設は、纏向の前身と考えられる近江の伊勢遺跡にすでに現れている。
人が住まないのに人が住んだ宮と強弁するのは、精神衛生によくないぞ。

486日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:21:08.85
>>484
冬至正午の8尺棒の影端部は、あまりはっきりしないので、影の長さが決まらないことを、外出したことがない韓国人が知らない可能性が高いのではないのかな。。。

487日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:37:40.42
魏志倭人伝時代の倭国では、なぜ短里が使用されたのだろうか。。。

488日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:55:08.95
>>455
確かに呼子か名護屋浦から糸島市は実際には東南ではなく略東だが
魏使は東松浦半島を略南に向かい唐津市街地で略東に向かった
糸島市東部から呼子や名護屋浦方面は途中の山で見通せず方向の確認は出来ない
地図が無いのだから歩いてきた感覚で東南するのは当然だよ。

489日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:56:38.79
>大型建物とその周辺には人が住んだ痕跡がない、というのが纏向を掘った調査員の報告

出た出た
またホラ吹いてる

490日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:57:20.60
また各種のデータかw

491日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:00:17.48
どうせあれだろ?纏向遺跡は全体として人が居住する竪穴式住居がないと言うのを勝手に飛躍させて「大型建築物に人がすんでない」とほざいてるんだろうよ

あたってるだろw

492日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:03:13.34
九州サルの史料と常識に基づいた各種データからの判断なんてこの程度だと分かる

493日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:22:00.25
魏志倭人伝時代の纏向には、なぜ、全体として人が居住する竪穴式住居がないのだろうか。。。

494日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:23:37.81
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し続けるために、韓国政府に雇用された韓国人が、完全に論破され、討論での反論を諦めて、嘘の悪口を言い放っているな。。。

489日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:56:38.79
>大型建物とその周辺には人が住んだ痕跡がない、というのが纏向を掘った調査員の報告

出た出た
またホラ吹いてる

490日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:57:20.60
また各種のデータかw

491日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:00:17.48
どうせあれだろ?纏向遺跡は全体として人が居住する竪穴式住居がないと言うのを勝手に飛躍させて「大型建築物に人がすんでない」とほざいてるんだろうよ

あたってるだろw

492日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:03:13.34
九州サルの史料と常識に基づいた各種データからの判断なんてこの程度だと分かる

495日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:24:47.70
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまった。。。

496日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:27:23.38
娘夫婦が、窓の高さを決定するために、使用したホームページがあったな、、、

https://keisan.casio.jp/exec/system/1185781259

497日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:27:50.19
屋根の勾配を決定したときに、必要になる、柱と梁の長さの関係性を、計算する公式ホームページで、8尺の影が何尺何寸になるか、計算すればよいな、、、

https://keisan.casio.jp/exec/system/1260261251

498日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:28:58.81
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

499日本@名無史さん2019/01/10(木) 15:15:32.99
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

500日本@名無史さん2019/01/10(木) 15:15:48.46
500

501日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:18:27.56
414の>>414
>適当なあてずっぽじゃなくて、倭国は会稽東治の東の南国という陳寿を
含めた大陸中華の知識人層の常識に合うように調整してあるんだよ <

陳寿は、魏使らの方向記録を書き換える必要がないし、
バレれば陳寿自身の信用を失う事になるだけだから、しない。

>それに行く先々で方角方角が間違うはずがないと言い張るのはむしろ幼稚な考え方<

この「類スレ主」のような・・・・ではなく、普通の人類である限り、
倭人であれ魏使らであっても、方向は間違えない。

502日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:32:23.95
都合よくぼくちゃんの妄想にすべてを合わせて好き勝手なことを喚き散らすのが九州サルの

「史料と常識に基づいた各種データからの判断」

503日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:34:06.98
>>422
>評価は後漢書のほうが高かったね 史記・漢書・後漢書が三史<

唐代の史家にも、
魏志や前史の「自己解釈に拠る書き換え」を実行しているインチキ史家が多く、
魏志と後漢書の差異に関しても、後漢書の記載を採用する傾向(後漢書中心主義)があり、
そんな唐代史家の評価など、根拠にならない。

504日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:36:59.48
>>488
>魏使は東松浦半島を略南に向かい唐津市街地で略東に向かった

九州説って、間違っているといわれても無視して間違ったコピペを張り続けるよな
荒らしってことだけどさ
唐津市街地から略東に向かっても背振山脈の南側にしか行けないから
どうやっても伊都国には着かないぞ!

インチキを何度書いてもインチキ
そこから北に行かないと、伊都国には着かないし
北に行ったらどうごまかしても東南にはならない

諦めろ
方角が間違うはずがないというのは、九州説の頼みの綱だけれど
ただの幻影か脳内妄想に過ぎないw

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

505日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:38:59.61
>>425
>でたらめ九州説の末盧国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない <

唐津港〜唐津駅付近からの出発なら、東南になる。

506日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:39:24.00
>>501
>バレれば陳寿自身の信用を失う事になるだけだから、しない。

逆だ
大陸中華の知識人の間では、倭国は会稽の東の南国だと思われているから、
「南と書かない」と、その文書の信用が失われる

まあ、私選史書だから何を書いてもいいと言えばいいんだけどな

507日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:41:22.05
>>505
>唐津港〜唐津駅付近からの出発なら、東南になる。

ならないよ
リンク先にきちんと地図が示してあるから見て来い
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

もっと北の名護屋浦湾から出発でもせいぜい東で、どうやっても東南にはならない

508日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:42:59.08
九州説は、方角が間違っていると認めた瞬間、畿内説の方が明確に妥当だと分かってるから
方角が間違う「可能性」すら認められない

九州説は、短里がなかったらその瞬間、論立てが一切できなくなるから、短里があるんだーと
わめき続ける

惨めなものよの

509日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:53:00.11
>>508
日本書紀にも短里は出てくるんだが?

510日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:56:31.31
>日本書紀にも短里は出てくるんだが?
よくもまぁ次から次へとホラが出るわ

511日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:58:03.70
>>509
魏志倭人伝の短里もそうなんだが、誇張された盛った数字を短里だと言い張ってるだけ

日本書紀のは、よその盛られた数字をそのまま持ってきただけ
日本に短里があったわけじゃないww

512日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:58:44.51
仮に日本書紀にタンリとやらがあってだから何なんだ?w

まぁ日本書紀を信じると言うなら神功皇后は卑弥呼に比定されてるんで畿内と言う事を主張してる事になるだけだがな
疑わしかろうが何だろうが信じるらしいし

513日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:59:46.24
馬に鹿にサルにサギ
オウムまでいて騒がしい動物園だなあ

514日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:01:52.46
父母(神)〜三貴子(神)というのは?
年代、話的にも・・・すべておかしくない?

515日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:03:56.07
本当に日本の神話というのがあるでしょ、
他の書などからの引用だという話だし

516日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:07:19.69
九州猿は都合が悪いといつものように荒らしまーす

517日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:09:06.79
高木神というのがいたはず、
それとも普通の植物の話?『樫の木おじさん』とか


筋肉少女帯『高木ブー伝説』

518日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:12:10.56
山ほどコピペ投下して荒らすヤマアラシ
南に川をさかのぼったと嘘つくカワウソ
短里をゴリ押すゴリラ
このスレは見物料取れるな

519日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:14:15.49
ただ今は無意味にツブやくツブ貝をご覧になれます

520日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:16:56.18
>>518
うまい

521日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:20:12.76
『AKIRA』の話?

522日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:21:15.00
「wwwwwwwwwwwwwwwww」

     どりふ大爆笑?

523日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:27:46.56
>>509
>日本書紀にも短里は出てくるんだが?

それを言いたかったら、日本書紀の原文を貼るくらいはしなよww

何度でも貼るけれど、九州に上陸してからの方角は間違っているww
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

524日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:28:36.60
414の>>434
>そんなことを言ってるんじゃなくて、方角が間違うはずがない、と
言い張るのは幼稚だと言ってるんだが? 実際間違ってるだろ?
現実から目をそらすなよ 何度でも貼ってるからさ
末盧国から伊都国の行程は方角が間違ってる<

間違っていない。
「東南」は唐津付近からの出発方向であり、合っているし、
出発時点や途中でも伊都国の方向は、魏使らには、見えていない判らない。

525日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:29:14.56
>>513
クズ動物園か・・・

526日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:37:37.36
なんか九州説のスレみたいだな

527日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:40:11.66
畿内説を反面教師として九州説を語るスレ

528日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:47:11.71
>>489
大和説のくせに、大和の発掘調査員の報告をウソ呼ばわりするとは。
嘆かわしい。

529日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:49:49.57
414の>>437
>会稽(30.0)の北の許容範囲が博多(33.59)なら 南は那覇(26.23)くらいになる
「会稽東治之東」 の「おおよそ東」と書く意味がほぼない<

「会稽」からの方向を論じる事がインチキ騙し。
陳寿は「会稽東治」と書いており、「会稽郡の東治」とは書いておらず、
「治」の主語がはっきりしない。
という事は、Wikiの説明の「呉の揚州の支配地域」を示している可能性が十分にあり、
揚州は、(後の)江蘇省の地域であるから、
陳寿の書いた会稽東治は、上海付近〜江蘇省海岸付近を指していた、
という可能性は十分にある。
そうすると、「之東」は、九州島付近にどんぴしゃりであり、
陳寿の位置推定も魏志の「女王國の位置説明や方向記載」も、
間違っていなかった事になる。

530日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:50:31.22
>>525
九州な動物を集めた
九州動物園

531日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:51:18.27
バカ九州説がサンドバックになりに来てるからな
マゾなんだろうよ

532日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:51:38.49
ただ今オウムが何か言ってますねー
面白いですねー

533日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:52:31.38
>>470
大和ザルは、倭人伝に「南」と書いてあるのが「東」字に見えるのか。
小学校、やり直してこい。

534日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:55:00.47
>>533
ああ見えるね
証拠史料と推論を持ってすればな
九州説には見えないようだけど

535日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:57:36.89
九州説は非合理的な考えを捨てたらどうだ?
現代社会じゃ生き辛いだろ

536日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:59:27.89
間違えるわけのないと喚き散らす方角が間違いだらけだと言うのが史料から読み取れる事実

九州猿は事実を認めないで妄想を叫び散らすだけ

あわれあわれ

537日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:01:45.32
・会稽の東に無い
・九州の中でさえも方向間違いだらけ
・記載が伝説の頃から変わってないとてもいい加減な物

この事実を無視して「ほうこうはまちがえないいいいい!」と叫び続ける異常者
こんなものにすがり付いてるのが九州説

538日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:17:38.87
合理主義者はよく聞くけど
非合理主義者っていうのは聞いた事もねー
非合理主義者九州説

539日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:18:34.15
>>1
テンプレより下記から不弥国の比定地を定かにすべきだと思うが・・有力候補でもいいが


弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png

540日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:21:14.83
>>1

>近代のポピュリズム<


余りにも駄弁

541日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:25:59.92
>>1
24時間張り付くのも あんたの勝手だが
畿内説でも今や通用しない説もある
古い論や新しい論の区別ぐらいしたほうが良いと思う
張り付けや引用は畿内説の時代感からずれるよ
だから畿内説の恥さらしと揶揄される

542日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:27:22.92
九州説は人類の恥部そのもののくせに

543日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:31:23.42
頼むから海外の学会とかに向かって短里とか魏志倭人伝を正しく読んだら北九州とか発表しないでくれよ
日本人がみなこうだと思われたらかなわん

544日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:31:57.15
>>1
石野さん,関川さんしかり磯田さんしかり
纒向は遠くになりにけり
寺澤さんも橿考研も2〜3年前の論調の勢いはなくなっているよ
あなたが一番 知っていると思う

545日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:32:27.87
>>509
やはり、76.5mなのかね。

546日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:33:21.35
周と魏は1里=300歩≒300尺とかもな
日本人はキチガイだと思われるから

547日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:35:36.10
>>488

>途中の山で見通せず方向の確認は出来ない
>地図が無いのだから歩いてきた感覚

正解。
そして方位を間違えていた

548日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:36:00.05
>>543
外国人が読んでも、邪馬台国は北部九州だろう。

549日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:36:28.61
間違いだらけの本の間違いだらけの記載の一部を取り出して「絶対に間違えてない」と言い張る異常者

それが九州説

550日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:36:53.11
>>544
>石野さん,関川さんしかり磯田さんしかり
>纒向は遠くになりにけり

だけど、九州説のせいじゃないよ。  @阿波

551日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:37:58.69
>だけど、九州説のせいじゃないよ。

キナイコシの活躍のおかげだな。

日本人とは思えない汚らしい罵倒の連打w

552日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:38:22.83
>>539
えっ、東海へは行かんのか。

553日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:38:54.57
>>548
在日は外人じゃないぞ

554日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:40:00.84
スプリング8

中国から一枚出土

オウンゴールと気づかず自分のゴールにガンガン蹴りこむその雄姿w

キナイコシガンバレ!!!

555日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:40:51.82
>>535
合理的なのが優秀という意識高い系。

556日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:42:42.88
>>1
石野さんの最近の論調は
倭国大乱を制したのは、祭り上げられた吉備の女性卑弥呼であり
壱与がヤマト王権の基礎をを築いた論調だよ

557日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:43:23.62
>>555
これが儒教九州説の価値観だ

558日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:44:13.46
『AKIRA』という作品を観てみて、
謎の建物、施設の内部に高木神?のようなものが植えてあるから、大きな木。
それとも他の作品だったかな?

『河童』・・・と同じようなコンセプト。

559日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:44:22.63
ついに「俺達は合理なんて関係ない!」とか言い出したぞこの馬鹿w
流石は九州説だな

「史料事実や人類の常識に基づいた帰納的確率的な推論を組み立ててるからな。」
「各種データからの」

とかほざいてて都合悪くなるとすぐこれだよw

560日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:44:27.74
オラワクワクしてきたぞ

大阪の陣で言うと、いまどこらへん?

天守閣は燃えてるかい?

561日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:45:35.24
>>550
だから阿波と言いたいのだろうが
吉備と阿波の關係を問う必要がある

562日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:46:52.18
倫理やモラルは世につれどんどん洗練されていく
動物本能的非倫理は存在場所が徐々に無くなっていく
倫理的に生まれ変われと法王にも言われたろお前ら

563日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:47:05.61
>>534
それで、円墳先造説唱えてたのか。
観光パンフ見て、証拠物件だとヒラヒラさせていたしな。
惚れ込んだら、シコメでも別嬪に見えるんだろ。
そいで、そのうちシコメであることに覚醒するのかね。

564日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:50:30.63
本当に儒教思想の非倫理性は面白すぎるな
よりにもよって学問版で合理性なんか関係ないなんてセリフ吐いたヤツは初めてじゃないだろうか

565日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:50:49.18
このような質問をしている人がいたり

『芥川龍之介の「河童」で、なぜ長老は生活教を信じないのですか?』

566日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:51:15.35
>>543
邪馬台国なんて日本人以外の誰が研究するんだ?
海外の学会があって中国人が真面目に読んだらこんなに揉めないだろ?

567日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:51:51.95
>>561
>吉備と阿波の關係を問う必要がある

吉備は吉備忌部による吉備支店 と、何度言えばw  @阿波

568日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:53:48.26
>>549
あなたは間違えてないとは言い切れないのに、なぜ本やら論者が間違えていると言い切れるのか不思議でならない。

569日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:53:48.29
>>566
エセ日本人がよく書き込みに来てるじゃないかこのスレに

570日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:55:15.34
キナイコシ大炎上

571日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:55:19.28
>>560
もう終わって、大阪城跡整地中だろな。

572日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:56:11.83
>>563
俺は円墳先造説唱えてないぞ
それにはノータッチ

573日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:58:31.01
>>569
それがあなたの言う「海外の学会」?
wwwwwwwwwwwwwwwww

574日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:58:55.78
414の>>485
このように
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、
決して理由を言わない 。

575日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:59:14.35
悪意に満ちた嘲笑
マンガに出てくる悪魔かよ

576日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:00:02.68
>>563
円丘先出説に反論できなくて脳が沸騰してるようだね

577日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:01:48.16
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

578日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:03:33.61
儒教九州説が悪魔教の一種に見えてきたな
いやたぶん宗教学的に見ればそうなんだろうけど
悪魔の像はたいがい半獣半人
獣性をもつ人間として表されるし

579日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:04:27.71
>>544
>石野さん,関川さんしかり磯田さんしかり

九州説が叱られてんのか?

580日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:04:28.57
>>578
キナイコシの脳内

581日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:05:37.22
そりゃあ半島南岸を領有する倭人なんて悪魔だろ

キナイコシから見たら

あれ?w

582日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:05:59.19
九州説の数字666

583日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:06:11.24
たいやきくんの歌手がいたでしょ、
河童に出てくる・・・・と同じようなことを言っていたり


偶然観ていたんだけど、たしか数年前・・・

584日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:07:10.25
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまった。。。

585日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:09:10.52
悪魔教は人を狂わせ理性のない獣に変える
九州説そのものじゃないか?

586日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:10:46.01
キナイコシは何人なの?

587日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:12:19.42
wiki『たいやきくん』
印税のところを読んでみて、どういう業界?仕組みなんだろう

588日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:13:16.89
いや…待てよ…
九州説は短里を76.5mと主張している
これをならすと66・6…
恐ろしい…
黙示録に予言された獣…九州説…

589日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:14:27.10
>>529
>陳寿は「会稽東治」と書いており、「会稽郡の東治」とは書いておらず、
>「治」の主語がはっきりしない。

とうとう
「会稽東治」が
当時ぜんぜん会稽郡でない場所なのだと言い張りだす
末期症状の
九州説


合掌

590日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:21:13.44
畿内説ってリアリティに欠けるんだよな
記紀やヤマト王政を持ち出しリアルティを出そうとしてる努力はわかるけど

591日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:23:56.31
三角縁神獣鏡
前方後円墳

592日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:24:21.38
414の>>494
>ウソを吐け、ウソをw
伊都国から奴国の東南至奴國百里も、実際には東だぞww<

「至」の前に途中移動の説明がないから、魏使らは移動しておらず、
奴國は伊都國からの側副傍線國の説明になり、
また、郡から末盧國の行程記載里の単位は、短里になるから、
百里は7.65km位である事になり、
奴國は、日向峠の西麓〜早良平野部付近になる、と解釈できる。
結局、東南を「東の間違いだ」とする理由がない。

593日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:24:22.57
>>567
時代考証が✖

594日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:25:14.23
>>1
石野さんの最近の論調は
倭国大乱を制したのは、祭り上げられた吉備の女性卑弥呼であり
壱与がヤマト王権の基礎をを築いた論調だよ

595日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:28:22.41
>>586
>キナイコシは何人なの?

一人ぼっち
>>1=キナイコシ=24時間張り付く=すれ主=オクムラ

596日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:31:20.30
・会稽の東に無い
・九州の中でさえも方向間違いだらけ
・記載が伝説の頃から変わってないとてもいい加減な物で訂正れてない

これを「間違えてない!だから九州なんだ!」と言い張るキチガイ
こんなバカが「資料を常識に基づいて判断」とかほざいてる

存在そのものがギャグ
それが九州猿

597日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:31:43.51
>>594
うわあ、それは痛いですねw

598日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:31:44.50
>>595=キウス大先生さんよ

オクヤマ≠オクムラ

599日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:32:11.60
666州説は何で口から出任せばかり言うの?

600日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:33:05.80
>>588
畿内説では1里??Mなの

601日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:33:21.99
そして自分にレスを付けて同意してバレてないと思ってるまいどの九州サル踊り

602日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:34:27.04
>>589
初心者?

603日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:35:45.34
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。

604日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:35:48.98
>>600
1魏里約430m

605日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:36:21.36
畿内説ってリアリティに欠けるんだよな
記紀やヤマト王政を持ち出しリアルティを出そうとしてる努力はわかるけど

606日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:36:46.34
>>604
帯方郡から九州北岸までが一万里にならないから、明らかに間違いですね。

607日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:37:34.93
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。

同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。

更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。

結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。

608日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:38:23.62
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。

609日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:38:51.05
>>592
>「至」の前に途中移動の説明がないから、魏使らは移動しておらず、

ザラコク発明のこの珍説に根拠がないから、あと全部みなヨタ話に、なるんだよな

610日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:38:56.69
>>603
女王国は邪馬台国だし
会稽東治の東は台湾沖縄辺り
1万2千里は概念的数字

611日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:40:59.38
>>602
ほらな

九州説はまったく反論できない
つまり終わった説

612日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:41:57.26
>>606
魏志倭人伝がね

613日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:45:18.10
>>612
魏志倭人伝が誤りだと言い始めたら何かを捏造しようとしているから気をつけろ。

614日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:46:17.17
>>607
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、

それを何ひとつ具体的に証明できないから
九州説は支持者が消えたんでしょ?

615日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:46:18.09
>>505
>「到」と「至」でごねてたやつも沈黙したし、
意味上の差はないってことが改めて確認されたってことでw<


いや、「到」という文字は、「至」に「リットウ」が付けられているんだから、
「リットウ」のある分だけ、「至」とは少し違った意味を持つ事になり、
陳寿も、魏志倭人伝の中で、
長かった行程で、「ようやく達した」という場合に「到」を使っており、
狗邪韓國は、郡から循海岸水行歴韓國乍南乍東という苦労をして「ようやく倭地に達した」、
という事を示そうとしており、
伊都国でも、渡海を3回したり「陸行五百里」して、
「ようやく皆臨津搜露や一大率のある関門の国に達した」という事を示そう、としている。

616日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:47:11.58
キナイコシが追いかけているのは空想の国であり、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国ではないよ。

617日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:48:52.23
>>613
いま、あなたがやってるのが無謬説という名の捏造だよ

618日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:51:05.81
>>615
>「リットウ」のある分だけ、「至」とは少し違った意味を持つ事になり、


それは、誰の説?

また、あなたの発明?

619日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:52:09.75
>>613
>>616
じゃ邪馬台国は会稽東治の東で沖縄の事?

620日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:56:50.15
沖縄からは三角縁神獣鏡が見つかってないから
たぶん違うと思うんだよなー

621日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:59:57.61
現実にあきらかな捏造をしてるのが
九州説だと証明されてるだろうが

会稽が、どうして江蘇省に移動するか?

622日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:00:52.86
時々本当に成人だろう九州説と話をしてるのか自信が持てなくなるよ

623日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:01:11.99
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

624日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:04:16.59
もっと5歳児に話かけるような風にした方がいいのかも知らん

625日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:04:49.94
>>622
いや、確実に痴呆老人だろ

626日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:05:52.21
414の>>527
またWiki紹介
揚州(ようしゅう)
揚州 (古代) - 中国古代の九州のひとつ。淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されている。
揚州 (江蘇省) - 中国の隋代以降にかつて存在した州。現在の江蘇省揚州市に相当する

つまり、私の言っている江蘇省や揚州は、現代的地域名。

627日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:07:28.91
あの様子じゃ症状はだいぶ進んでるな

628日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:11:53.12
九州説というものが
歴史学とは縁もゆかりもない
おかしな政治思想だということが
毎日どんどん明らかになって行くなあ

629日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:13:19.12
>>611
あんた終ってるよキナイコシ

630日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:13:39.86
>>628
畿内説もだろ?  @阿波

631日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:14:33.37
>>626
つまり会稽は、ザラコクのいう揚州には存在しない
ザラコクが今まで言ってきたことは
すべてウソであった

確定

632日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:17:11.09
414の>>538
大和説は、「南→東」などの嘘つき詐欺師のアホだから、
ついうっかり、「大和説にとっては都合が悪くなる情報」を提示する、
という失敗を繰り返す。

633日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:18:05.03
もしかして76.5って儒教的に何か意味のある数字かも知れないな
だからいくら言っても谷本計算の不備を指摘されても変えられない
1短里76.5mを66.5mに変更するくらい何て事なさそうなのに
そうすれば史料とも整合性も取れるし

634日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:18:56.06
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまった。。。

635日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:22:14.16
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

636日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:22:51.36
>>628
九州説はむしろ宗教思想だ
カルトな

637日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:24:58.60
414の>>539
>会稽から東冶(福州市)の間の距離に邪馬台国があるだろう、という意味。<

半分×書の後漢書の「東冶」は根拠にならないし、
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、×。

>会稽の東は屋久島あたり。 東冶の東は沖縄本島あたり。 唐津からずっと巨大島が続く。<

唐津から沖縄までの巨大島は存在しないから、始めから×。

>この巨大島に邪馬台国があるから、戸数7万戸というような人口規模になる。
巨大島を想定すれば、邪馬台国の戸数の謎は解ける。<

分裂幻覚的な「想定」は、幾ら「解ける」と宣伝しても×。

638日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:27:29.14
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
韓国人の宣伝が失敗してしまい、自殺して、死体になる可能性が99.5パーセントあるので、弔ってあげれば良いなw

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1545486838/l50

639日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:29:03.45
九州説が念仏を唱え出した
いやアホな思想を念じてるから念アホだな

640日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:43:34.86
>>633
>もしかして76.5って儒教的に何か意味のある数字かも知れないな

76.5という数字は儒教的には何も意味がない
王畿は千里四方であるべきだ、という儒教思想があった
王畿の南端と北端は地中(世界大地の中心)から夏至の日の影の長さがそれぞれ一寸違うという儒教思想もあった
天文学ではない
逆算で76.5という数字を出したのは現代日本人

641日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:43:51.45
畿内説というものが
歴史学とは縁もゆかりもない
おかしな政治思想だということが
毎日どんどん明らかになって行くなあ

642日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:45:39.92
オウムが何か言ってるなあ

643日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:46:03.26
414の>>552
>会稽郡の位置は、ウィキペディアさんによると 陳寿が三国志を撰述した西晋時代には
「晋代になると会稽郡の管轄県は山陰、上虞、余姚、句章、鄞、鄮、始寧、剡、永興(266年に余曁県より改称)、
 諸曁の10県となり、現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯となった。」
ということなので、『現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯』を図示したよ
これが一番正しいだろう・・・どうやってもこの「会稽の東」は九州にはかからない<

またインチキしてるな。
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」だと書いたのであり、
「会稽の東」だなんて書いていないし、
勿論「会稽郡の東治」だとも書いていない。
陳寿の意図は、会稽とは「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、
そのような広大な会稽の中の「東」地域の「治域」を指定しよう、とした。

644日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:48:32.38
>>608
>95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。

人の計算をうそコピペするなよww

正しい結論はこうだ

11から136メートルとか、-73〜306メートルとか、「意味のある数値」だと思いますか?

これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、
いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。

645陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 20:48:51.25
>>608
水行距離については、広めの海峡を渡ったらザックリ1000里なのだろう。

陸行距離については、100里とか500里と言うのは数字を丸めたり切り上げたりしていることは歴然。
また計算すれば機械的に結果は出て来るけども、標本和が4と言うのはスジのいい統計処理ではない。
(2σの最少と最大で12.6倍も開きがある)
別の標本が1個とか2個入って来るだけで平均値が大きく変わるので、これをもって2σから外れているという議論には、
あまり意味がない。

また短里でも長里でも、どちらにせよ北九州の沿岸のクニを南西から北東に向けて順番に巡っていることは変わらず、
その後の『水行20日』と『水行10日+陸行1月』で九州からはるか南の海上に出てしまうことも変わらない。

646日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:48:51.38
・会稽の東に無い
・九州の中でさえも方向間違いだらけ
・記載が伝説の頃から変わってないとてもいい加減な物で訂正れてない

これを「間違えてない!だから九州なんだ!」と言い張るキチガイ
こんなバカが「資料を常識に基づいて判断」とかほざいてる

仮に会稽の位置を都合の良いところに持ってこようとも、
九州の中でさえ間違えまくってる方角の存在が歴然と存在してるので無意味
その場その場でほらを吹いて誤魔化せると思ってる

皆さんこれが九州説ですよ

647日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:50:47.79
>>615
>いや、「到」という文字は、「至」に「リットウ」が付けられているんだから、

その「リットウ」は、声譜といって読みを示すもので、意味には関係ないんだよ
至と到の使い分けは、音韻上のもの

意味の違いはない

648日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:51:38.01
>>640
何か何の証明でもない九州説っぽい言い分
さては76.5または765は儒教的に何か意味がある数字なんだな

649日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:53:34.10
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

650日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:54:26.36
>>643
>陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」だと書いたのであり、
>「会稽の東」だなんて書いていないし、

東冶だろうと東治だろうと、會稽東治(冶)が會稽の中なのは確定
中国語はそういう表記だ

だから、東冶だろうと東治だろうと「会稽の東」を見れば十分
九州説は残念でしたww

651日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:57:44.12
>>637
>唐津から沖縄までの巨大島は存在しないから、始めから×。

でも、陳寿はそれを大真面目に書いている訳だ
つまり、「陳寿の認識が間違っていた」という証明

その陳寿の間違った認識を元に書かれたのが、魏志倭人伝の地理観であり
旅程なんだよ

その間違った認識からの帰結が、投馬国、邪馬壹國への南至の表記だ
これが、南⇒東の根拠だよ

はっきりしてるだろ?
儒教道徳で師(教祖)の教えを守らないといけない人以外には、これで理解できるww

652陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 21:03:52.08
話は変わるけども、『ニギハヤヒ』『ナガスネヒコ』と邪馬台国との関係は、
テンプレ作者的にはどのような整理なのだろう?

653日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:06:21.69
対馬海峡の真ん中で夜を明かすわけにはいかないから、島から島へ一行程を1日で渡りきり、それを水行千里としたのだろう。
帯方郡から九州北岸までが水行10日、一万里になる。
上陸したら王都である邪馬台国まで残りはたったの二千里だ。

654日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:06:33.74
今の所ただの推察だけど
765が儒教的意味のある数字というだけの事だったとしたら
九州説はとんでもねえな
ただ人を愚弄するためだけに説をでっち上げたって事だし
底知れない不可解な悪意
外見は大人の幼児

655日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:13:03.58
いや儒教精神的には重要なのかもな
わけわからん方法で相手を見下しバカにするのは
そうすれば儒教道徳的に相手より優位に立つわけだ

656日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:25:23.92
>>654

海路 平均73m
陸路 平均117m
だよ。
別に意味なんてない。

657日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:25:57.46
>>655
>いや儒教精神的には重要なのかもな

これってキナイコシの心の中?

658日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:32:20.82
>>656
古田が何があっても76.5mを崩さないのが怪しい
そもそも谷本計算でも76.5mに合わせるために数字を操作してるフシがあるからな
1歩=25.5cmにして
本来そんな数字出て来るわけないのに

659日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:35:34.06
キナイコシ絶賛発狂中

660日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:36:59.26
414の>574
>そもそも一寸千里の千里を76km相当とした谷本計算自体に不備がある
1寸2.3cmで 1尺10寸の約23cmで計算がされているそうだが<

「谷本計算」自体では、「尺と寸」の寸法関係など、何の関係もなく計算された。
そして、その計算論考とは別の「古代史の歪みを正す」という本の中での、
「短歩」があった場合での推定値の計算の時に、「1里=で300歩」を使われた筈。
だから、そこでも、「尺と寸」の換算則は使っておられない。

>周の1尺は実際は8寸相当の約20cm
なので1里=300歩≒300尺で計測(これも意味不明だけど)されたとすると
一寸千里の千里は65km相当になる<

京大出の計量学者である谷本さんは、周代でも1尺=10寸であった、とされ、
1尺=8寸という換算則の存在を認めておられない筈。

661日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:48:40.01
414の>>579
>実際邪馬台国は東で<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺であるし、魏志倭人伝では、東南〜南南東。

>魏志倭人伝が指す南1万2千里は何もない所<

不彌國で「萬二千余里」は、ほぼ終わっているから、北部九州内。

>東→南だったから邪馬台国は畿内 <

「南≠東」などに拠って、×。

662日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:54:59.44
414の>>581
>魏志倭人伝の南1万2千里は沖縄台湾辺りで何もなし <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、筑紫。

>東には卑弥呼の時代の前方後円墳や三角縁神獣鏡の見つかる大和という国がある<

大和の前方後円墳も△も、3世紀末以後であるから、×。

>じゃあ邪馬台国は南じゃなくて東だ 三段論法<

だから、この大和説男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師だ。

663日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:04:46.54
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

664日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:12:24.66
在日九州説は人類学的にも興味深いサンプルかも知れない
非倫理的な人治主義の極み儒教支配の李氏朝鮮で
1000年過ごした民族の思考と仕出かす事はどういう風になるか

665日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:14:09.71
>>658
平均73メートルだよ。

666日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:28:40.80
50メートルと200メートルの平均って意味あるか?

667日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:36:05.05
>>647
>その「リットウ」は、声譜といって読みを示すもので、意味には関係ないんだよ
>至と到の使い分けは、音韻上のもの

>意味の違いはない

「ない」の証明はできない。意味の違いがない場合もあるが意味の違いのある場合もあるだろう。
魏志倭人伝がどっちなのかはまだ未確定。

668日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:37:23.44
意味はない
50メートルと200メートルにするために詐欺ってるだけだからな

669日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:38:17.61
南は東と言ったから

キナイコシの

ラノベ宣言

670日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:39:31.70
>>660
学者が数字のデッチ上げしたらマズイんじゃないの

671日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:42:04.63
>>670
非常にマズイよね。スプリング8

672日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:44:33.67
>>671
そうでちゅねーマズイでちゅねー
よーちよち

673日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:49:16.60
>>651
バカだろう。

674日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:50:00.72
>>592
>陳寿の時代 羅針盤も無いから真東は断定できないよ<

Wikiで、磁石の歴史を検索すると、紀元前2世紀頃には磁石が知られ、
指南車や指南魚があったらしいよ。

675日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:52:40.54
九州説は説でも何でもなくて
朝鮮的儒教根性による政治および祈祷の類
だんだんわかってきた

676日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:53:45.44
414の>>594
>會稽東冶之東というのは
行程の里数+日数の南に進んだ分が会稽〜東冶くらいになるということ<

後漢書の「会稽東冶」は、半分×だから、論拠にならない。

677日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:54:00.74
>>675
そうでちゅねーマズイでちゅねー
よーちよち

678日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:54:59.38
>>650
ざんね〜ん。
東冶=現在の福州市

会稽東冶=紹興市〜福州市

東=そのヒガシ



屋久島〜沖縄本島=邪馬台国

679日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:58:56.98
>>678
無駄な抵抗も、もうそれくらいかな?
弥生時代の魏人が会稽東冶の東と言っても、
だいたい日本列島全体くらいの感覚でしょ。

680日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:00:17.40
しかしお前らのとこの儒教は酷えな
相手をバカにし見下すのが偉いという教義であり政治方式
内容も酷いわ心情的な政教分離もなされてないわ
しかも骨の髄まで染まってるわでどうしようもないな

681日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:02:30.47
地理観が間違っているからな
平面の方形大地だから

682日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:03:20.57
バカにされ見下されているキナイコシが

酒を垂らしながら

涙の愚痴www


キナイコシが気力を取り戻すまで

もうしばらくお町くださいwww

683日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:04:21.25
>>673
>バカだろう。

同意、九州説にはまともな思考力の人はいない

684日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:04:26.64
414の>>611
オレ様の「南→東」などの史料事実の否定曲解の思想に合わないから、
お前は間違っている、というロジックを捨てないと、
大和説には先が無いよ
まあ、捨てた瞬間に大和説じゃなくなるんだろうけど

685日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:05:37.91
>>677
おっ皆さん
あれが朝鮮オウムです

686日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:07:00.88
キナイコシあまりにも何にもなかったからな

若さを持てあました若者のあいだでは、夜の奈良湖で騒ぐのが流行ってたらしいよ

ナイトプールの先駆けだね

687日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:09:29.59
會稽東冶から北に水行一月陸行一月行った地の東が
おおむね不彌國

688日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:16:48.64
韓国人の劣等感ってのも相手より優位に立たなければ
場合によっては殺されるからな
必死に見栄を張るわけだ

日本の物を何でも起源主張するのも
そうしないと心情的に落ち着かなくやむにやまれずの行為
こういうのは何ていうのか
常識の病変とでも言うのか

689日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:19:54.70
キナイコシはなんで儒教儒教うるさいの?
的外れな批判めいたものはバカを晒すだけだよ?

690日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:21:01.50
キナイコシはなんで韓国人を目の敵にしているの?
レイシストなの?
かっこいいと思っているの?

691日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:21:03.80
414の>>614
>三角縁神獣鏡 畿内で最も多く見つかる魏の銅鏡<

畿内なんて存在しないし、大和の△は4世紀以後であり、明帝の銅鏡でもない。

>記銘されている魏の年号景初三年は 当時現存していた原典に近い魏志倭人伝を引き写した
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に卑弥呼が魏に使いを送った年と出てくる
魏から卑弥呼への下賜鏡とされる<

明帝の詔書は景初二年12月だから、景初三年紀年鏡は、明帝下賜鏡にはなあrない。

>淮南子に書かれている世界の果てまでの距離1万2千里
帯方より南1万2千里が邪馬台国は短里で実測された距離という
九州説の主張を漢の時代に書かれた淮南子に出てくる<

陳寿は、「余」という記録からの近似した事を示す表現を使っていたから、
その元になった記録は、淮南子のような「余」のない記録ではなかった、
という事になる。
空想的なものだよとバッサリ一刀両断。

692日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:22:49.91
という空想

693日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:22:51.31
おっ効いてる効いてる
九州説儒教儒教バーカバーカ

694陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 23:25:12.57
キミたち、両派とも、品位ある議論をしなさい。

695日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:26:17.64
キウス

696日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:26:41.33
ザラコクへ
臨海郡はここだよ
会稽郡より南
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg

697日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:30:57.04
儒教思想者は本当の害悪
世界中で迷惑かけてるからたぶんその内強制的な排除が始まる
倫理観価値観が普遍的常識とあまりに違いすぎるから

698日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:33:24.95
問題。

伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮

彼らは何者だったか?

699日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:34:43.23
キナイコシ大丈夫か?

愚痴るぐらいなら、テンプレを整理しよう

せめて3レスくらいにまとめるんだ

700日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:37:30.60
このスレは朝鮮及び在日系がどんな思考をするかのいいサンプルになるだろう

701日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:37:45.20
>>697
キナイコシのことだなw

702日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:39:33.76
問題。

一大率が置かれ、帯方郡の使者が必ず滞在する外交の窓口であり、
官は爾支、副官は泄謨觚、柄渠觚と言う独自の官を持っていた伊都國は、
何故に千余戸の小国であったか?
(隣の奴国は副官がテンプレ役職の卑奴母離だが、戸数は二万余戸と伊都國の20倍)

703日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:43:20.80
エリートの町だよ。
三雲の遺跡などを見ればわかる。
弥生時代らしからぬ中国製品の数々、硯や鉄など文化水準の高さを表す文物たち。
魏の皇帝と渡り合えるだけの外交能力を有する集団は列島の中でここにしか存在していなかった。

704日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:43:57.72
>>701
こうヘラヘラしてられるのも本気で得体が知れない
儒教者は人間ではないと言われてるのに等しいのにな

705日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:45:51.15
以前電車乗ったら、耳に入ったもの(畿内説テンプレのあれこれとか)をひたすら繰り返す電波がいて、
「うわ、ヤバい奴の車両に乗り合わせちゃったなー」と思ってたら
なんと次の駅で違う電波が乗車してきた。
こっちはどうも思いついた単語を片端からしゃべり散らす。
「儒教、サル、九州説、ぷしゅー〜」
これに前からいた電波が反応
「儒教、サル、九州説、ぷしゅ〜」
気が合ったのか対抗してるのか、喋るペースが上がる。
「南が東、會稽東冶之東、ちんこちんこ〜」
「東東、ちんこちんこぉ〜」
なぜか「ちんこ」という単語が気に入ったらしい電波と、それを輪唱する電波。
この電波同士の鮮やかなフリーインプロヴィゼーションに、車内は笑いを堪える息苦しい
空気で満たされた。

706陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 23:47:21.70
問題。

1.テンプレ副官である卑奴母離とは何者だったか?
2.何故にテンプレ副官として複数の国に出現するのか?

>>698
>>702
も僕、陳寿90度回転さんのレスです。

707陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 23:48:20.06
とにかく君たち、両派とも、品位ある議論をしなさい。

708日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:49:42.39
儒教九州説が狂ったぞ

709日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:50:05.06
キナイコシ連弧厨の「キナイコシ」は韓国人が大好きww

710陳寿90度回転さん2019/01/10(木) 23:52:04.59
特定の民族へのヘイトレスもやめなさい。
そんなことをしなくても議論は出来る。

711日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:52:46.39
>>699
>せめて3レスくらいにまとめるんだ

キナイコシ連弧厨の「キナイコシ」はテンプレにまともな反論一つできないから
テンプレが大嫌い

少しでも減らしたい気持ちでいっぱいww

712日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:55:03.16
事実を述べるのの
何がヘイトかな

713日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:01:23.16
>>703

硯は誰が使ったのかわからないし、低品質の鉄器などではないんだよな
「夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり」
祭祀の儀礼だな

714日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:01:57.02
しかし儒教の悪口を言われると九州説も腹が立つんだなー
面白い
いつか滅びる定めの非道義的な儒教なんてちっともありがたいと思えんが
そんな物なんか
異民族とか異教って歴史の話だと思ったけど
現代日本でもあるもんだ

715日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:03:09.73
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

716日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:04:00.87
腐れ儒教は儒教ではない

717日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:06:33.22
スレ主がなんで儒教を憎むのか意味不明w

718日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:06:45.33
まあ本家儒教はちゃんとした道徳的なやつだろうな
腐れ儒教は朝鮮式

719日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:09:46.71
以前電車乗ったら、耳に入ったもの(畿内説テンプレのあれこれとか)をひたすら繰り返す電波がいて、
「うわ、ヤバい奴の車両に乗り合わせちゃったなー」と思ってたら
なんと次の駅で違う電波が乗車してきた。
こっちはどうも思いついた単語を片端からしゃべり散らす。
「儒教、サル、九州説、ぷしゅー〜」
これに前からいた電波が反応
「儒教、サル、九州説、ぷしゅ〜」
気が合ったのか対抗してるのか、喋るペースが上がる。
「南が東、會稽東冶之東、ちんこちんこ〜」
「東東、ちんこちんこぉ〜」
なぜか「ちんこ」という単語が気に入ったらしい電波と、それを輪唱する電波。
この電波同士の鮮やかなフリーインプロヴィゼーションに、車内は笑いを堪える息苦しい
空気で満たされた

720日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:10:25.17
それよりも・・・・・もっと凄い話、
なぜ『聖徳太子 ペルシャ』なのかとか

721日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:11:38.20
ゾロアスター教〜シルクロード〜という話でしょ

722日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:12:33.97
>>717
この人の全1病もアレと一緒で死ぬまで治らんようだ

723陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 00:14:23.56
問題。

持衰とはいかなる者であったか?

航海が上手く行けば、持衰が生口や財物を得られたということは、持衰は生口ではなく自由民。
その自由民が、航海の不調で殺されたというのはどういうことなのか?

またそれは輸送を請け負った海人であったのか?それとも乗客である一般の陸人であったのか?
あるいは海人も陸人も区別はなかったのか?

724日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:16:42.03
『アヴェスター』(あべ☆)

確実に渡って来ているということになる

725日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:22:13.03
wikiで良いから読んでみて
『天体戦士サンレッド』



「・・・・・・・・・・・・・・」なるはず

726日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:23:55.95
まああまり朝鮮儒教者を責めるのも可愛そうになってきた
今の朝鮮儒教式悪意に基づく支離滅裂から逃れたいと思うなら
仏教でもキリスト教でもまともな宗教を心から信じる
世界中の大多数は多かれ少なかれそうしてる

727日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:23:59.84
持衰は致斎、神事以外のいっさいを控える

728陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 00:26:04.57
問題。

卑弥呼や台与が巫女王になることで全国の動乱が収まったのに、
その『巫女王による統治』は何故に後世に定着しなかったのか?
男系のオオキミによる統治がデフォになったのか?

729日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:26:50.85
『魔法のペルシャ』『天体戦士』
『何者にもなれない お前たち』『河童の三平』げげげ・・・その他


ほとんど同じ

730日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:31:03.57
家の親戚・・・、
正確には老婆の親戚なんだけど、山岸という人がいたり、

『マジンガー』にも出てくるとか、他の作品?
しゅてんどるふ?『松傾』?

731陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 00:31:48.01
問題。

紀元前から大量の移民が朝鮮から来ているのに、
何故に馬も牛も羊も、邪馬台国の時代にはいなかったのか?連れて来られなかったのか?

732日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:32:38.37
>>728
ヒント
つ「ヒコヒメ制」

733日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:33:27.25
本州にはいたんじゃない?

734日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:35:20.66
斎王(内親王or女王)は平安時代までいるだろ

735日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:37:15.21
『天体戦士』のwiki読んでみた?

川崎市に住んでいて、猫が好き、河童の〜、パトラ・・・で、
・・・、・・・、・・・。裁縫(老婆談と同じ、あの写真の話)が〜。

>しょっちゅう「善と悪だぞ!?」と訴えている。

736陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 00:40:35.33
問題。

1.卑弥呼や首長たちは、魏国から卑弥呼を通して頒布されたり、あるいは国内で製造された鏡を、
どのように使用したのか?自分たちの化粧のためではなかろう。鏡を用いた祭祀とは何か?

2.鏡を用いた祭祀は、銅鐸を用いた祭祀とどこが違っており、前者は何故に後者を駆逐したのか?
  神社の御神体で銅鏡はあるが、銅鐸や銅矛はない。それはなぜか?

737日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:46:01.69
>>728
九州では壹與の後も女王が続いているよ。
神夏磯姫や田油津姫など。

738日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:47:23.85
裁縫というか、
蚕が何やら、機織りなんかをしていて〜という話でしょ

739陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 00:48:07.63
>>736
に追加。

神社の御神体として鏡はあるが、銅鐸、銅矛、銅剣はない。
だがもっと銅鐸よりも古い信仰である自然石や山そのものが御神体になっていることは、
現代にも残っている。それは何故か?

740日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:50:45.79
>>737
いなかだからな

741日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:51:14.81
あの謎の写真自体は家のなんだけど・・・・、
だから正確には家の話?

キュウリの葉、葱の華・・・・『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、何なんだろう

742陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 00:51:48.29
つまらない罵倒レスを連投している人も、
問題設定をしてみなさい。そうすると議論の端緒になるから。

743日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:59:09.57
小手子の像というものが建てられているでしょ
(老婆から話を聞いた後にネットで調べてみた)?
あの辺りの話をしていたり、むかーし住んでいた事があったんだよとか

744日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:03:56.62
>>737
田油津姫は、卑弥呼だろう。

745陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 01:05:16.27
スレ主旨と無関係のキ○ガイレスを連投している人も、問題提起をしてみなさい。
問題意識が議論の端緒となり、議論を通じて衆智が集められ、より真実に近づく。
キ○ガイレスには何の意味も効果もないよ。人生の時間の無駄だ。

746日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:08:19.08
『松傾』
実際はAD200年頃の・・・という話でしょ?調べてみた?

747日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:18:13.67
>>679
明の時代に製作された日本地図では、九州が沖縄付近までの巨大島として描かれている。
中国人の観念は、九州が巨大だったの。
九州から東は、あまり関心ないみたい。

748日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:25:35.94
『ボーボボ』?に出てくるキャラのような気もするし

749日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:41:00.95
魏志倭人伝では、朝鮮から伊都国までと、それ以降とは、道のりの書き方が異なっている。
朝鮮から伊都国までは「A国、又・・・至B国」のように国が連続して繋がっているように書いてあるのに対して、
以降は、「伊都国・・・・東南至奴国・・・・東行至不弥国・・・・南至投馬国・・・・南至邪馬台国」のように書かれており、
伊都国を起点として放射状に国々が配置されている(放射式)と解釈するべきである。放射式で道のりをたどると、邪馬台国はどんなに遠くても九州域内となる。
(榎一雄)

750日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:47:49.49
>>749
榎一雄

  30年前に死去


ww

751日本@名無史さん2019/01/11(金) 02:22:10.85
『天体戦士』『ボーボボ』・・・読んでみて、わかったはず


『気象戦隊ウェザースリー』

>「天体戦士サンレッド」になる以前のサンレッド
>(コラムでサンレッドが「あの時は俺も若…」という発言をしたことがある)。
>サンレッド本人は否定していたが、

>FIGHT.66で同一人物であることが確認された。

752日本@名無史さん2019/01/11(金) 02:25:40.44
本当に誰が考えたんだろう

『反省だけならサルでも出来る』という話

753日本@名無史さん2019/01/11(金) 02:26:34.18
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

754日本@名無史さん2019/01/11(金) 02:27:26.09
そして反省もできない九州説

755日本@名無史さん2019/01/11(金) 02:37:38.00
天体戦士


>究極形態である『ファイアーバードフォーム』等へ変身後はより強力になる


>単行本で表表紙を飾ったのは19巻と20巻のみ、正確には前者で表表紙を飾ったのはレッドに変身した
>『コピーロボット』


『ボーボボ』に出てくるキャラ

756日本@名無史さん2019/01/11(金) 02:44:09.69
老婆の言っていた、年(歳)を取って〜という話と同じでしょ

『日本昔話 姥清水』

757日本@名無史さん2019/01/11(金) 03:12:34.78
『河童』の作者も、
鼻が〜と言っていたり、どういう事なんだろう

758日本@名無史さん2019/01/11(金) 03:16:34.61
どう考えても

三貴子(神)の話

759日本@名無史さん2019/01/11(金) 03:39:21.91
キウス

760日本@名無史さん2019/01/11(金) 03:45:04.45
鐸は鈴、教令を受ける際に鳴らすもの
今も神社の拝殿で先ず鳴らすだろ

761日本@名無史さん2019/01/11(金) 05:36:54.69
414の>>615
>それはその場所の方位はわかるけど
その場所から移動した後にどの方向に進んだのかが必要だからな<

目的地が見えていれば、「どの方向にすすむのか?」なんて書く必要がない。
目的地が見えていなければ、出発方向を教わった後は、
案内人や道標や道なりや、海流や風や進方向固定などしかないな。

762日本@名無史さん2019/01/11(金) 05:45:27.32
414の>>617
>部下が方位を東と報告しても
上司が南だと言えば南になるのは古代でも現代でも同じ<

上司であろうと、学会教育界やマスコミや安部政府であろうと、
後から「間違った記録をした」事が確認されれば、
その上司の首が危ない、のは、古代でも現代でも同じ。

763日本@名無史さん2019/01/11(金) 05:49:57.65
414の>>619
>つーか、古今東西世界各地で方位を間違えてる人が後を絶たないのは一体なんで?
って話よ <

そりゃ、古今東西、方位を誤魔化したい・・・・アホの詐欺師人種がいるから、だよ。

764日本@名無史さん2019/01/11(金) 05:56:23.09
414の>>627
>>神籠石や水城は、白村江のはるか前から造られており、
大和説は破綻している。<

>証拠は?<

白村江の後では、
唐軍らがやってくるまでには、とても間に合わない。

765日本@名無史さん2019/01/11(金) 05:57:50.60
414の>>630
このように
大和説の人は
加齢するとともに
おかしな宗教や政治思想に
かまけるようになっていくのだ

766日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:01:12.04
414の>>635
大和説はすべて、唯我独尊の犯罪者的殺人戦争の 宗教的な顔貌。

767日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:06:11.36
414の>>639
これも、陳寿90度回転さんの分裂弁格の妄想。

768日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:12:16.25
414の>>646
>不弥国の次の投馬国も、その版図は実に水行30日分(行くまでの20日+陸行を始めるまでの10日)にも達し、
そのような長大な海岸線を持つ国は、九州には入りきらない。
その投馬国の可能性がある長大な海岸線を持つ国の候補としては、出雲王国か、吉備王国しかない。<

「南≠東」だから×だし、
投馬國は、魏使らが移動していないから、×。

769日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:14:56.34
414の>>648
「南≠東」などに拠って、×。

770日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:18:57.33
414の>>653
「南≠東」などに拠って、×。

771日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:21:15.92
414の>>657
「南≠東」などに拠って、×。

772日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:26:36.51
414の>>661
>三角縁神獣鏡も初期前方後円墳も
X船蛍光測定や炭素14c測定など
科学的な分析によって3世紀のものと結論づけられている <

AMSは、プラズマ化の失敗により、50年位古く出る事で、×。
X線蛍光測定とは、何をしているのか?は知らん。

773日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:35:17.35
414の>>664
>イヤ畿内で見つかる三角縁神獣鏡には <

畿内なんて、存在もしない嘘つき騙し文言。

>景初とか正始とか3世紀である239年〜240年の魏の年号が入ってるし<

明帝の下賜の鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの制作。

>これを4世紀以降で確定とする根拠は何よ<

大和の△は、竪穴式前方後円墳から出るから、ホケノよりも後であり、4世紀以後。

774日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:38:34.50
414の>>666
>記紀がどこまで信用できるかってのはあるけれど、
大国主の妻に奴奈川姫(越)から、多紀理毘売(宗像)までいるのは、
日本海側の交流、交通がそれだけ盛んだったことの反映だと思う
その意味でも、日本海航路の「投馬国、出雲」説の方に分があると思う<

「南≠東」などに拠って、始めから×。

775日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:43:39.74
414の>>668
前方後円墳は冢のではないし、
実際卑弥呼の冢の祇園山は前方後円墳ではないし、
「南→東」などの嘘吐き詐欺師学者の「標準編年」を、
信仰し続けないと成りたたないのが大和説。

776日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:49:09.65
414の>>674
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説学者らの化学分析が信用できる、
と宣伝するサギサギ論法は、
21世紀の現在には通用しない。

777日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:02:30.36
414の>>678
>蛍光X線分析によって三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と同じ成分<

何だ、これか。
△の材料銅は、渡来楽浪鏡師らの徐州銅や海東鏡銘文に拠って、
魏西晋鏡と類似して当然。

>埋葬されていた木棺のAMS法分析によって
ホケノ山古墳の被葬者は120〜244年頃のもの 副葬品から見て3世紀中葉<

これも×。AMSを使っただけで。50年位は古く出るし、
木簡では始めからその外側年輪数だけ古く出るし、
ホケノは、有棺有槨前方後円墳であるだけで、卑弥呼よりもずっと後であり、
庄内〜布留であるから布留なので、4世紀になってしまう。

778日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:07:30.90
例によって、一つも証拠を出さないまま結論をただ垂れ流し続けるザラコクであった


ww

779日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:14:47.00
414の>>690
>そもそも本州ですら陸行1月が無理筋なら、九州だと余計に無理筋だろう。<

本州は、「南≠東」などに拠って、×。
陸行一月は、郡から女王之所都への行程の、陸路日数であり、
大半が「歴韓國乍南乍東」に費やした。

780日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:20:03.79
直接試料で同位体比分析して詳しくわかってるのに、
確実性の落ちる蛍光X線分析なんか持ち出しても意味がないだろ。
しかも蛍光X線分析のやり方が間違ってたのに、ちゃんと勉強し直した論文が出てるのならソース出してくれ。

781日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:21:19.11
414の>>691
>ということは、日本への伝来時差を考えると
魏朝から直接銅鏡もらってるんだから、伝来時差はほぼないだろ?<

明帝の下賜鏡は、内行花文鏡や方格規矩鏡などが中心であり、△はない。

782日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:26:53.24
>>644
統計の意味をわかってないアホ

783日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:28:53.25
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

784日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:29:06.15
414の>>704
>南が東の錯誤というのは、多くの状況証拠から論証できる合理解 <

人類は「南と東とを間違えない」から、×。

785日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:29:54.48
>>761
>目的地が見えていれば、「どの方向にすすむのか?」なんて書く必要がない。
>目的地が見えていなければ、出発方向を教わった後は、
>案内人や道標や道なりや、海流や風や進方向固定などしかないな。

これを言ったら最後、
『「南≠東」などに拠って、始めから×。』が
まったく意味をなさなくなるのが理解できないんだよな、ザラコクは

まあ、カルト集団への信心の深さの表明という宗教的活動をしているだけだから
真理の探究とは最初からかけ離れたところにいるわけだけど

786日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:34:10.12
>>779
>陸行一月は、郡から女王之所都への行程の、陸路日数であり、
>大半が「歴韓國乍南乍東」に費やした。

古田史学の会以外はまったく考えもしないこの「韓地陸行説」を見るだけで
まともに考える気がないのが分かる

787日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:34:51.42
414の>>712
「南≠東」などに拠って、×。

788日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:41:09.50
>>782
>統計の意味をわかってないアホ

>>782は第二種の過誤って概念も知らずに書いてるだろ?ww
批判したかったら論点を明確にして、具体的に指摘しなさいっていつも言ってるだろうがw

この場合なら、どこがおかしいから統計が分かっていないと判断したのかを
具体的に書かないと意味がない
まあ、具体的に書けないんだろうけどさw 能力的にw

789日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:42:21.13
414の>>716
>九州のローカルな王が・・・<

大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の一国の、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国。

790日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:44:26.71
>>1とザラコクで9割は投稿してるな

791日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:46:56.53
>>780
>直接試料で同位体比分析して詳しくわかってるのに、
>確実性の落ちる蛍光X線分析なんか持ち出しても意味がないだろ。

同位体比分析は特定の元素についての分析で、破壊分析
蛍光X線分析は元素の存在比を見る分析で、非破壊分析

もともと目的が違うし、非破壊分析の方が一般に多くの試料について分析できる
Spring8の放射光を使った分析は精度は十分に高いよ

片方をやったらもう片方は意味がないってことにはならない

792日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:51:01.75
>>784
>人類は「南と東とを間違えない」から、×。

これは末盧国から伊都国の方角が間違っている時点で意味がない
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

陳寿は人類じゃないってことにするのかい?

793日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:51:59.28
>>790の全1病はキウス

794日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:00:05.07
>>791
片方は破壊分析で精度が高い。

もう片方は非破壊分析で精度が低い上に、手法の基本から間違っていると
専門家に何度も指摘されている。
せめて正しい手法で数値計算した論文があるなら、ソースを示せと言っている。

795日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:05:38.98
>>794
専門家って、どこの誰?

796日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:50:38.87
414の>>718
詔書や金印や大量の下賜品を運ばなければならない魏使らの移動は、
人類の常識である「安全最短の原則」。

797日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:56:48.70
414の>>719
>方位 間違いないのは太陽を利用する方法です。
地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、
その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、
簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。<

そうですね。「礼記」にも書いてあるそうです。
周髀算経は、日没と日の出の棒の影端を結ぶ方法です。

798日本@名無史さん2019/01/11(金) 09:01:05.95
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
韓国人の宣伝が失敗してしまい、自殺して、死体になる可能性が99.5パーセントあるので、弔ってあげれば良いなw

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1545486838/l50

799日本@名無史さん2019/01/11(金) 09:01:57.89
414の>>727
相変わらず、ひとことも理由を言わない「南→東」などの嘘つき騙しの大和説。
デタラメ過ぎる ...

800日本@名無史さん2019/01/11(金) 09:03:30.86
800

801日本@名無史さん2019/01/11(金) 09:16:41.98
>>794
>もう片方は非破壊分析で

破壊分析は、考古遺物のような一点物ではそうおいそれとはできないんだよ
その点非破壊分析なら、ある程度気楽に多くの試料を測定分析できる

統計処理をしないと意味のある情報が得られないような調査項目の場合
多くの試料について非破壊計測を行う意義は大きい

俺様が認めないんだーって言うのは無意味だよ
測定自体の精度は低くても、そこから得られる情報は重要

>>794はそれが理解できているのか疑問

よそのスレで、俺様は留学して学位をとったエリートだって言ってた人かな?

802日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:23:52.97
>>788
信頼区間の意味がわかってないアホ

803日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:31:31.02
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

804日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:38:10.67
ここは学問版だからねえ。
学位なんて分野を問わなければかなり持っているだろ。

805日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:05:24.31
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

806日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:07:08.94
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、今、何者達なのだろうか、、、

807日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:07:57.45
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、銅鐸民族ではないのかな。。。

808日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:24:56.93
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

809日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:59:40.39
414の>>766
>短里だと井田法で1家に分配される農地はたった600平米で
1月でさえ生活できないのだから短里なんて有り得ないじゃん<

そりゃ、井田法でのどの部分を1里と呼んだのか?という事の問題であり、
一個人所有の田畑の長さで言うのか?、9区画の1周か、1辺か、所有1区画の1周か?、
などの、時期や時代によっての決め方に違いがあった、という事なんだろう。

810日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:21:49.24
>>809
また史料を見もしないで妄想してますね

811日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:41:09.07
大型放射光施設SPring-8は、太陽の100億倍もの明るさに達する「放射光」という光を使って、
物質の原子・分子レベルでの形や機能を調べる事ができる研究施設です。
この放射光を使うため、国内外から産学を問わず、毎年のべ1万6千人もの研究者がやってきており、
運営開始19年目にあたる平成28年には累計利用者数が20万人を突破しました。
放射光施設は、生命科学や環境・エネルギー、新材料開発など
様々な分野の研究開発に貢献していることから、世界中でその重要性が認識されています。
各国においても次々と建設や稼働が進む中、
SPring-8が作り出すビームは世界最高レベルのエネルギーや明るさ、安定性を誇っており、
世界的にもとても重要な施設です。 文部科学省

812日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:41:27.97
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

813日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:43:20.17
大型放射光施設SPring-8は、太陽の100億倍もの明るさに達する「放射光」という光を使って、物質の原子・分子レベルでの形や機能を調べる事ができるので、邪馬台国畿内説が破綻した可能性が、高まってきたのだね、、、、

814日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:44:22.97
太陽の100億倍もの明るさに達する「放射光」という光は、邪馬台国時代という過去に向かって、進んだのではないのかな。。。

815日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:45:32.76
大型放射光施設SPring-8は、太陽の100億倍もの明るさに達する「放射光」という光を使って、物質の原子・分子レベルでの形や機能を調べる事ができるので、原子爆弾との関係性があるのではないのかな。。。

816日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:08:19.08
特に大型放射光施設と呼ばれるものには、世界にSPring-8、APS、ESRFの3つがあります。

・ESRF
European Synchrotron Radiation Facility ヨーロッパ16カ国グルノーブル(仏)
6(GeV) 56本 844m

・APS
Advanced Photon Source 米国エネルギー省 アルゴンヌ(米)
7(GeV) 68本 1104m

・SPring-8 日本
8(GeV) 62本 1436m

817日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:25:44.33
414の>>717
いずれにせよ『陳寿90度回転説』は、
「陳寿が方向に関して嘘吐き騙しをした」という、
史料事実や史料実態を否定曲解する嘘吐き詐欺師の大和説なのだ。

818日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:29:16.71
自分に都合の悪いものを何でも証拠なく嘘だ嘘だと決めつけ、自身は嘘に嘘を重ねて生きてきた男
その名はザラコク

819日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:29:28.80
414の>>721
それでも、普通のまともな人は、太陽が見える限り、
方向は間違ないし、迷わないんだよ。
それが人類の歴史だ。

820日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:43:31.84
414の>>777
>揚州を江蘇省のことだとか捏造歪曲して <

そんな事は言わない。
揚州の中に、(現代の)江蘇省が含まれる、と言って来た。

>会稽東治(福建省)を異常北上させようとする歴史破壊者<

これが、「類スレ主」の騙しのテクニック。
会稽東治が福建省だなんても言う筈がないし、
会稽東治は、会稽郡の南方部分ではなく、
夏后少康之子封於會稽の会稽の、東部地域だ、
と言っている。

>それが九州説 <

このような、インチキ男ら。
それがスレ主らの大和説者。

821日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:49:18.16
人類の歴史上太陽が出ていようが方角見失って遭難なんていっぱいあるだろ

822日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:49:27.71
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側(上海だね。。。)を治めている役所の、、東にあるはずだ。

823日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:51:40.84
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

824日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:53:55.22
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
韓国人の宣伝が失敗してしまい、自殺して、死体になる可能性が99.5パーセントあるので、弔ってあげれば良いなw

825日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:54:59.63
414の>>790
>里が「田の土地」というのはでたらめもいいところだし、
「一人の人が耕し生活出来る一つの田畑」が、「夫」だ
「夫」が1辺百歩の方形 その「夫」を9つ井形に並べたのが「里」
ここまではっきりしてるんだから、1里76メートルだったら全員飢え死にだよw <

この「類スレ主」は、また今度は、井田法ではなく、
晋代頃?の法の話にすり替えているな?。
距離単位としての「里」の長さが、周代からも大きく変わっており、
だから、晋代での「里」の定義でしゃべっても、そんなものは、
井田法や「里」の論拠には全くならない。

826日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:57:21.38
414の>>791
1万2千里の道里をどう計算しても、大和まで届かない。
それに「南≠東」だし、
大和説もう諦めろ。

827日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:00:14.06
もう諦めろ。。。

828日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:00:50.85
>>820

>そんな事は言わない。
>揚州の中に、(現代の)江蘇省が含まれる、と言って来た。

前スレ>>693で「揚州(≒江蘇省)の地域になる」と書いてるようだ

揚州は

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)#/media/File:%E4%B8%89%E5%9C%8B264.jpg

829日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:01:34.53
>>820
>そんな事は言わない。
>揚州の中に、(現代の)江蘇省が含まれる、と言って来た。

ウソにウソを重ねるザラコク
言わないなら会稽東治が江蘇省だと言い張ってた事実はどう誤魔化す?

揚州の中に(現代の)江蘇省が含まれる、
というだけの話をしてたなら
会稽東治が上海付近とかいうデマの理由になど
まったくならないのだぞ

830日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:02:14.42
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

831日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:05:36.49
414の>>797
>取り違えなんかないんだよ 短里なんてないんだからww <

短里は、史料実態だ。

>誇張された表記があるだけ <

魏使らも陳寿も、魏略も後漢書もも梁書も、誇張などする必要がない。

>そしてその本ネタは淮南子の世界観
「余」がつくかつかないかとか、ザラコクがバカすぎるww<

「余」がある意味も分からないなんて、類スレ主もスレ主もバカすぎる。

832日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:06:36.26
>>820
>会稽東治が福建省だなんても言う筈がないし、

あんたが言わなくても歴史上の事実は変わらないから

833日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:08:10.58
調べてみた『裁縫』画像?

昔の写真、絵葉書というのが出てくるでしょ、
なぜか同じようなモノばかり。


キュウリの葉、葱の華・・・・
家と同じ写真は出てこない・・・・どういう事だと思う?
『松傾』
こういう名前の家の写真

834日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:08:52.45
>>831
>短里は、史料実態だ。

つまり泡沫古田派の珍解釈ということ

835日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:09:31.02
もも

836日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:12:42.97
ググって、調べてみると出てくるでしょ?


役者、芸者、何やら祭り、〜人形、町人・・・、
このような絵葉書、写真・・・。


家と同じ写真だけ出てこないでしょ、
何かのホンモノなのかな?

837日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:13:14.83
>>831
>「余」がある意味も分からないなんて、類スレ主もスレ主もバカすぎる。

あんたの理由もない思いつきなんて
誰にも意味が解らないよ

838日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:19:43.93
414の>>805
>報告書提出先の人が知らない単位などを使って
どこの誰が報告書を書くんだ<

魏使らが報告書を書き、魏の天子らが報告を受け、
陳寿や、魏略や後漢書が、魏使ら記録に拠った里記載を書いた。

非現実的な想定をすれば大和説の首が締まるだけだぞ 。

839日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:27:52.16
414の>>810
>ザラコクさんに質問  対馬の方可四百餘里と壱岐の方可三百里  とで
「餘」がついているかどうかでどんな意味の違いがあるんですか?<

魏使らの計測記録は、一大國は丁度ほぼ三百里位であり、
對海國は、「四百里」より少し多い、という事であったんでしょう。

840日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:30:10.44
>>821
>人類の歴史上太陽が出ていようが方角見失って遭難なんていっぱいあるだろ


偽の使いは遭難していない つまり方角を見失っていないという事になるね

841日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:30:24.04
>>576
江戸時代に箸墓が円墳だって。
バカじゃないの。
前方部墳頂付近に二重口縁壷の破片がたくさん散らばっている。
その二重口縁壷は3世紀後半〜4世紀に造られて、それ以降には造られなくなったもの。
現在、その壷の破片が前方部でみられるのだから、少なくとも4世紀までには前方部が現在と同じようにあったということになる。
江戸時代にその前方部がないとしたら、それは、なんかの悪い夢みたということだろう。
テンプレ主のこじつけ箸墓円墳先造説の正体が、その悪い夢なんだよ。
どお、まだ頭沸いてる?

842日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:49:15.14
414の>>812
>>「余」が付いているから、 魏使らの計測値を陳寿が大体の近似化した数値であり<

>あんたのなんの根拠もない個人的解釈を何度聞かされても意味がない
「余」にそんな意味がないなら、あんたの説は意味がない
「余」にそんな意味があるなら実測だとウソをつきたい奴は「余」をつける
つまり、あんたの説は意味がない つまり「余」が付いているかどうかで
実測か実測でないかを判断できない <

それでは、
「余」が付いていない里記載と、「余」が付いている里記載の両方がある事や、
格部分行程里数記載が、いずれも有効数字1桁程度の記録に統一されている、
という事の説明がつかないから、×。

また、魏略の「里記載」の「余」の有無と比べてみると、
魏志と同じような「里記載」であるから、
「余」での記録をしたのは、魏使らの記録からすでに「余」記載であり、
有効数字1桁近似数値であった、という可能性が高い。

843日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:54:53.06
414の>>822
>こねくりまわしていて、わけが分からんな。
200年頃築造の石塚が260年〜270年頃の箸墓より新しいわけがない。<

石塚は、撥型前方後円墳であるから、卑弥呼の冢や中八万よりも後の3世紀末。
箸墓は、布留であるから、4世紀以後。

844日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:01:22.75
>>5
>箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。

それはその通り。
ならば行燈山が崇神墓の蓋然性が高いので、箸墓被葬者の卑弥呼と崇神の関係を説明してもらおうか。
崇神の前代、前々代あたりにヒミコがいるということになるからね。

845日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:07:03.20
>>31
>また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。


 を
  つ
   く
    な

846日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:08:34.89
414の>>834
>と言うわけで邪馬台国と大和朝廷の関係をどう考えてるかどうか聞きたい
俺は系譜的な部分は不確かだが邪馬台国はそのまま大和朝廷に繋がる勢力だと理解してる<

唐会要倭国伝に拠って、倭国は「正北抵新羅」に拠って北部九州にあり、
新唐書などに拠って大和日本国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の、
地方の市を監督する大倭職の国であり、
更に、大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」の中の一国であった。

847日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:11:57.97
441の>>842
>>歴韓國乍南乍東は、韓内陸行ね。<

>じゃあ「南至投馬国水行二十日」の出発点はどこ?
自己矛盾してるよね九州説<

不彌國。

848日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:36:04.40
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない

というのなら >>1よ、答えてもらおうか。
おまえは箸中山=卑弥呼なのだから行灯山がトヨあたりかな。渋谷向山は誰なのかな。

俺の説を言おうか。
箸中山=イカガノシコオ 行灯山=崇神 渋谷向山=景行だ。

イカガノシコオは磯城の王だ。
姉のイカガノシコメとヒメヒコ制を形成してる事でも分る。
何よりも物部は瀬戸内勢力だ。
瀬戸内要素が強い箸墓の説明ができる。
そして山代の五塚原、交野の雷塚という箸墓と強い関りがある墳墓の説明ができる。
山代の五塚原はイカガノシコオの妻・真木姫の父で山代国造の祖・長溝であろう。
交野の雷塚はイカガノシコオと真木姫の子で交野連・タベノ宿禰であろう。


箸墓が卑弥呼の墓ってwwwwww
片腹痛いわwww

849日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:04:14.78
前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、
誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情。

魏志倭人伝に書かれた奴婢が殉葬されている卑弥呼の墓は高天原だ。
殉葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png

850日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:38:20.44
850

851日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:39:06.31
>>841
>江戸時代にその前方部がないとしたら、それは、なんかの悪い夢みたということだろう。

あなた・・・
畿内説のテンプレが
そんなこと主張してると思い込むなんて
ホント乳幼児並みの知能も無いんじゃないの?

852日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:58:57.09
>>838
>魏使らが報告書を書き、魏の天子らが報告を受け、
>陳寿や、魏略や後漢書が、魏使ら記録に拠った里記載を書いた。

つまり
使者が短里で報告したのに
都人が長里で理解したので
会稽より南だと誤解したという説は
ありえない空想だ
ということで
決着ね

853日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:01:00.90
>>883
>末盧国に上陸するところまでの距離が末蘆国への距離で、
そこから伊都国国境までが伊都国への距離っていう主張だったよな?<

少し違う。末盧國上陸は、おそらく唐津港。
末盧國出発は、西唐津駅〜唐津駅付近。

>つまり、末盧国の国内移動距離が末盧国から伊都国への距離だっていう不合理を
言い張ってたじゃないかww<

言っていないな。

>そして、同じ旅程で「不彌國→邪馬壹國は、殆ど移動距離無しで到着する」とするなら
不彌国は大きさ0だww<

いや、不彌國到着は姪浜の東端の「小戸」付近で
不彌國の出発は、不彌國の外縁部の福岡平野の中央部の付近。

>不彌国に到着したところが邪馬壹國ということになるww
不彌国もバカにされたもんだなww<

いや、不彌國の外縁部の福岡平野中央部に邪馬壹國の入り口がある事になる。

854日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:03:33.41
>>839
つまり
実測かそうでないかで使いわけてるのだ
という説は
非現実的な空想だということで
はい、決着

855日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:08:51.66
>>885
>それに、伊都国まで船で行くし<

ウソを書くな。「陸行五百里」だ。

856日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:08:58.91
>>853
>いや、不彌國の外縁部の福岡平野中央部に邪馬壹國の入り口がある事になる。

行程に書いてある里数が中心地までじゃなくて
外縁部までの距離だというなら
部分行程距離の総和は総行程距離と一致しないことになる

古田説が全部崩れるな

857日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:22:08.58
>>851
テンプレ主は、FAQで江戸時代の箸中長者屋敷の観光パンフを得意そうにヒラヒラさせていたし。
大和説者は、観光パンフはいつの時代でもトリミングするものなのを知らなかったのかね?
オカルト情報にすぐ飛びつくの、大和説者のいつもの癖だよね。
箸墓円墳先造説は、そんなオカルト好きの連中のお祭り騒ぎだろうな。

858日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:31:11.27
>>843
撥形前方部は、弥生終末期の尾張で既に見られる形なんだがな〜。
その尾張の撥形前方部が大和の石塚古墳に採用されたということが、リアルな歴史なの。
撥形前方部が3世紀末なんて、世迷言の部類だよ。

859日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:32:54.25
>>891
>なんの根拠もない空想だね
帯方郡の港にいる中国人は入港して来た倭船から持衰が降りてくるのを見ることだって出来る
精進潔斎明けの持衰と一杯やった奴だっていないと断定できるのか?
倭船に乗ったことのある韓人から情報を集めることだって出来る
日本に住んだことのある楽浪人からだって事情聴取できる
自分の空想した可能性だけが唯一絶対だという思い込みが強いのが九州説の特徴だね <

何の根拠もない妄想だな。
史料事実は、
「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」
であり、
その実態からの直接的な推論でなければ、分裂幻覚の妄想だな。

860日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:37:35.11
>>839
>魏使らの計測記録は、一大國は丁度ほぼ三百里位であり、
>對海國は、「四百里」より少し多い、という事であったんでしょう。

つまり「まったく測っていない」ということだな
現実の対馬と壱岐に、そのような長さで測られるべき部分などないww

861日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:41:34.69
>>802
>信頼区間の意味がわかってないアホ

分かってないのはそっちだろ?
機械的に計算値としては出てくるけれど、n=2の数値に対する平均値の信頼区間って
事実上無意味だぞww

862日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:45:11.62
>>859
>その実態からの直接的な推論でなければ、分裂幻覚の妄想だな。

つまり
魏使が倭船に同乗して持衰を実見した
なんてのは
分裂幻覚の妄想
だということで

よろしいな?

863日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:48:10.57
>>857
それ、なんか証拠あるの?
病的分裂妄想幻想とか
そういうやつ?

864日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:49:25.60
>>905
会稽の東に無いのは、
「会稽東治」の「東治」をこっそり隠すインチキをしたからだ。!キリッ

これが名物大和説のサル踊りですよ。

865日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:50:50.37
>>864
そんな説だって証拠あるの?
九州は妄想だけで出来てるの?

866日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:58:37.29
>>907
>実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?<

「末蘆国から伊都国の方角」なんて、見えないんだから、書かれてもいないし、
「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向だ。

>伊都国→奴国も東南じゃない<

「類スレ主」の奴國の比定(弥生銀座付近)が、
結論先にありきの循環論法で、間違っているのだ。
「東南至奴國百里」は、史料実態通りに解すれば、
奴國は、日向峠西麓〜早良平野付近だ。

867日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:01:19.79
>>909
>実際、渡海のところの方角は大体合ってて、
九州についてから倭国内の方角が狂いまくりなんだが?<

実際、郡から女王國の全移動での方向は、全て「間違ってはいない」んだが。

868日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:06:46.71
畿内って会稽の東なの?

869日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:07:34.63
>>851
>畿内説のテンプレが
>そんなこと主張してると思い込むなんて

読みにくいテンプレを書く方が悪い。

870日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:07:38.33
>>912
>日本に行くのなんて晴れてりゃ半島から見えるんだからな
正確な方向感覚なんていらんからな<

だから、魏志の狗邪韓國→對海國の渡海には、方向記載はされていないんだからな。

>ド最初の認識からして会稽の東に無いのに辿り着けるくらいのテキトーさだと理解しろサル<

「会稽の東」ではなく、「会稽東治之東」だ。
史料事実を、自由自在にテキトーに書き換えるインチキは、止めろ!。

871日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:12:52.70
>>919
大和説バカは、今度は、「大和はこの時列島で初めて大陸と行き来した」とか、
言い出すのか?。

たまげたなぁ

872日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:22:10.10
>>921
[会稽の東]ではなく、「計其道里、當在會稽東治之東」なんだからなな。

いい加減嘘つき騙しを止めるんだな。

873日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:29:47.54
>>927
>会稽の東に無い<

「会稽の東」ではない。「会稽東治の東」。

>その他の上陸後の九州の記述も方向間違いだらけ つまり方向なんて分かってない<

その他の方向記載も全て間違っていない。
つまり、魏使らも陳寿も、方向を全く間違っていない。

874日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:36:55.15
>>931
>見えてて知ってる場所に行ってる<

目的地は見えている場合と、見えていない場合とがある。

>その後は現地の人間に案内されてる
別に測量も方向の確認なんてする必要はない<

見えていない場合には、都や後続の使節らのために、
出発方向を計測記録する必要がある。

875日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:20:11.06
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

876日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:31:01.85
倭人が案内してくれるので記録の必要は無いな
そもそも異民族との外交使節団は多数あるのに行程を記録したものが発掘されてない

877日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:33:21.30
>>869
テンプレが読みにくいんじゃなくて
お前に人並みの学力が無いだけだな
読み書きくらい習得しろよ

878日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:35:17.54
おもてなしの国 倭国

879日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:35:41.92
わからん
それちがう
あれちがう

モテない男の典型のような天麩羅

880日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:38:24.62
>>872
つまり会稽より南なんだよ
会稽東治が会稽郡の外で会稽郡より北だとか
馬鹿すぎるだろう?
嘘つき爺さんも騙し願望は捨てるんだな
稚拙すぎて誰も騙せてないから

881日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:01:04.06
弥生時代にどうやったら東シナ海を越えて真東かどうかわかるんだ?

東北や東南だろうが、東シナ海のはるか向こうなら東で合っている。

882日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:06:02.80
開き直る九州説爺さんw

883日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:11:45.17
>>882
地図もないのに真東なんてわかるわけないだろ。

884日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:13:51.05
東シナ海の東北か東南かわからない
倭地がどこにあるのかまったくわかっていないということは
実際の地理観はないということ

885日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:15:11.70
>>884
東北東と東南東の間にありゃ東だ。

886日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:16:13.71
>>884
会稽東治から東シナ海を越えての精密な地理観はないわな。
東北も東南も東の範疇に入る。

だが、帯方郡からの里程や日程は直接経路だから、真実。

いい加減に醜いごまかしやめたらキナイコシw

887日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:16:21.87
>>885

お前が決めるな

888日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:19:23.34
>>887
奈良湖で頭冷やしてこいキナイコシ

889日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:20:06.69
方位と距離が正確で、行程で比定できるといいながら
倭地がどこにあるのかは中国人にはわからないと言張る
都合がいい背乗り人種九州説

890日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:24:48.33
方位と距離が正確で、行程で比定できる
倭地がどこにあるのかは中国人には正確にわかる<東夷伝里でね

会稽東治についてはまったく別の話であり、
弥生時代に東シナ海を越えての話だから、
東北だろうが東南だろうが東でいい

見苦しいぞ キナイコシ

891日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:25:27.24
倭国にも牛はいたそうだから
魏志倭人伝は正確では無いという事でよろしいな

892日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:26:08.12
キナイコシ

会稽東治詐欺がバレて

液晶画面にグーパン自滅 乙www

893日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:29:17.26
キナイコシはザラコク爺さんに感謝しろよな。

いくら老人で話し相手がいるだけで嬉しいからと言っても、
どうでもいい会稽東治の話に乗って、
親身になって検討してくれている。

今すぐA4紙に『ザ ラ コ ク 大 明 神 さ ま』と大書して、
部屋の一番高いところに祀るように。

え?
日本じゃないからA4紙がわからない?
トホホホホ

894日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:29:32.41
>>890

>会稽東治についてはまったく別の話であり

それ、晋の役人が会稽までの距離がわからないと言張ってるのと同じ

895日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:32:33.19
>>894
は??

晋の役人だろうが魏の役人だろうが会稽までの距離はわかる。

だが、それを倭国までの距離と比較するのが、
弥生時代には無理、という常識レベルの話だ。

なぜなら東シナ海を越えての観測が無理だから。
なぜなら東夷伝里での里程記載は、弥生時代にしては驚くほど正確だが、
それなりの誤差があるから。

896日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:35:30.28
>>895

>なぜなら東シナ海を越えての観測が無理だから。

郡から邪馬台国までの方位、距離が正確なら
物差しとなる中国大陸東岸側のどの位置の東かはわかる

897日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:37:42.20
会稽のあたりから渡来したのが倭人だから。
稲作も養蚕絹織も支石墓も会稽のあたりから渡来しただろ。

898日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:39:00.40
支石墓は朝鮮半島からだろ

899日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:03:01.42
キウス

900日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:12:15.42
倭人は呉の太伯の末裔

901日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:28:11.14
今日もプロレスご苦労さん

902日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:30:50.10
>>895
じゃあ
陳寿はどおして、倭国に行く道里を計算するとちょうど会稽東治の東にあるはずだと書き残したんだ?
行程記事は本人そういうつもりで書いていたということだろう?
つまり陳寿は短里など使っていないし、書いた行程記事は現実と合わない
方角も間違ってのだよ

903日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:39:36.22
陳寿は短里を知らなかった。
しかし彼が使った資料は短里で書かれていた。
だから実際よりも倭が南方にあると思ってしまった。

904日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:40:11.21
>>861
その前に、n=3の試料に対してt-検定で平均値の信頼区間を出してるが、
t-検定が使える前提を満たしてない

母集団の分布がどんなものであっても、n≧30なら正規分布で平均値の信頼区間が
計算できるが、試料数がそれより小さいときには一般には平均値の信頼区間は出せない

その場合はチェビシェフの不等式で、信頼区間の上限を見積もることになるがその場合は
95%信頼区間はm±4.48σになる

陸路 平均117メートル 分散5833メートル
の数値を使えば、95%信頼区間は
117±4.48×√5833=117±342メートルだ

117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間
というところまでしか言えない

n=3の試料で統計学的に言えることなんてない

905日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:43:56.18
>>903
陳寿が短里を知らなかったら、フィリピンくらいになるんだろw

906日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:45:27.28
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。

907日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:45:56.91
>>866
>「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向だ。

これを認めるなら、魏志倭人伝に書かれている方角はすべて意味を持たなくなる
書かれているのは出発方向であって、実際の方角を意味していないってことだからな

ザラコクが「東≠南に拠って×」と書き続けているのは茶番もいいとこww

908日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:47:50.46
>書かれているのは出発方向であって、実際の方角を意味していないってことだからな

畿内説は「東≠南に拠って×」

909日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:49:10.77
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。

910日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:50:12.06
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

911陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 21:51:43.24
繰り返しになるけど、短里でも長里でも、結果は変わらないんだよ。
各々の国の細かい比定はどうだろうが(奴国が博多湾であることは鉄板だと思うけど)、
魏使たちは北九州の海岸を松浦から北東に向けて、魏皇帝の使いであることを示すデコレーションで威儀を正し、
大量の下賜品を積載した当時としては巨大な中国船の船団と一緒に進んでいたことは変わらない。

そして行く先々のクニで何日もブッ続けでしつこく接待責めに合い、
とてもではないが陸行何日と言う風には書けないので、里を使って行程を表記した。

ここまでは、短里だろうと長里だろうと変わらない。
どっちにしろ博多湾(奴国)のちょっと先まで行ったことは変わらないんだから。

そしてここから先は、水行何日、陸行何日と言う風に距離の表記が変わる。
博多湾(奴国)の先にある不弥国を過ぎてからは、巨大な領域を持つ国、『投馬国』の領域だ。
夜になれば停泊するんだろうが、毎晩毎晩の接待はない。
山陰の海岸線を見ると山が海まで迫っていて、出雲平野以外には、
魏使様を接待出来るような大きな村は作れなかったことが明らかに分かる。
だから水行30日(出雲まで20日、その先で陸行に以降するまで10日)という記述になった。
そしてそこから陸行1月で行く盆地の国。そこがどこかは、もう明らかだよね。

912日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:54:25.57
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、韓国人がデコレーションケーキを作るのでは、ないのかな、、、

913陳寿90度回転さん2019/01/11(金) 22:04:57.15
当時の中国人も、大月氏国(クシャーナ王国)が西域から南の海に続く国であることはボンヤリと聞いていただろう。
そうすると、天円地方の世界観から言って、中華の土地が世界の中央部の主要部を占め、
大月氏国はその西にあって、匈奴がいるような結構な北の方から、世界の南端の海まで続いているという、
南北に細長い国であると想像したのではないかね?
そうすると、東の海に浮かぶ倭国も、南北に細長い国であると。そうあらねばならぬと。
そうでなければ当時の知識人たちに受け入れられないであろうと。
そのように考えた陳寿が、魏使たちが残した記録を見ながら筆を舐め、エイヤ!で日本列島を90度回転させた。
これが、いろんな物事を最もシンプルに説明できる『オッカムの剃刀』だと思うよ。

914日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:05:47.77
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

915日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:10:01.36
キナイコシ

悪事が通用しなくなって

液晶画面にグーパン自滅 乙www

916日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:47:50.05
>>932
>淮南子が1万2千里後漢書も1万2千里 魏志倭人伝は1万2千余里
という事は 魏志倭人伝の1万2千余里は後世史家の自己解釈による書き換えだな
今の魏志倭人伝は12世紀だし後世史家は
何でも絶対に自己解釈による書き換えを行う存在らしいから<


ダメだ。魏略が「自帯方至女國萬二千餘里」という、
魏志と同じ「萬二千餘里」という記録を残しており、をという事は、
「萬二千餘里」という文言が、魏使らの記録に書かれていた、という事だ。
つまり、陳寿は、淮南子を書き換えしたのではない、という事であり、
後漢書が、魏使らの記録や魏志や魏略の記録を書き換えた、という事だ。

917日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:54:14.52
>>934
>じゃあ南1万2千余里も倭国の極南界を指す概念的な数字に
ちょっとつけ足しされたものだな <

「南1万2千余里」なんて文言は、どの書にもないよ。

918日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:57:04.52
>>936
>伝説時代や交渉の薄い頃の記載からずっと後まで方向も距離も記載が変化してない <

変化したのもあれば、結果として残ったものもあった。

919日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:57:26.27
>>916
>魏略が「自帯方至女國萬二千餘里」

ザラコクや
女王國が女国になるのは気にしないのに、
萬二千里が萬二千餘里になるのは認めないって
どんなダブスタだ?ww

920日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:59:27.68
ザラコクを見てると、宗教って怖いなと思う
宗教は人をこんなに狂わせるんだな、と

まあ、最初からザラコクはまともな人じゃなかったのだろうけれど

921日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:13:11.25
>>963
>谷本計算の不備を突かれたのがよほど悔しかったようだなあ<

谷本計算では、1尺が10寸であるのか?。8寸であるのか?には、
全く関係がな計算されており、何も間違いがない。

>けど残念だけど谷本計算には間違いがある <

けど、「類スレ主」の1尺=8寸だった、という説は、
前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定され、
「類スレ主」の方が間違っていた、という事になった。

922日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:16:41.72
>>921
>けど、「類スレ主」の1尺=8寸だった、という説は、
>前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定され、

短里もねー
前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定されてるよ
六尺が一歩だから

923日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:22:25.69
>>965
>蓬莱島だの何だの言ってる頃とその後に実際に交流を持ってる頃となんも変わらん距離感と方向感
実際に間違いだらけ <

魏志だけではなく、魏略にも「萬二千余里」の「余」が付いていた事が分かって、
「類スレ主」の「魏使や陳寿は淮南子記載を流用した」説が破綻してしまって、
大和説が、また破綻してしまった。

924日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:25:05.52
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

925日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:27:43.13
>>970
>まあそのコピペの周八尺160cm棒の影長が
北緯35度より北になるってのはちょっと怪しいかもな
あと160cm棒の影長が1寸差になるのが60kmは
66kmがより事実に近い
連続句読点よ60kmを66kmに直しておいてくれんか <

「類スレ主」も全くアホだったんだなあ。
千里が「60km」であっても、「66km」であっても、
そりゃ結局「千里≒434m」をやっぱり否定していて、
「短里だ」と言っていた事になってしまっているではないか。

926日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:39:45.54
畿内説の逃亡が目に見えてはげしさを増してきたな

927日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:45:08.69
>>109の訂正
本州方面の記録としては、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と飲み、書かれている。

928日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:47:10.61
>>110
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
議論で負けるから、
荒らしに終始する事にしたようだ。

929日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:52:09.70
>>114
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
万世一系皇国史観の儒教精神に染まった、
人種差別的殺戮戦争狂のキョクウ系統の・・・・人間がやってるんだろうけど、
およそ学問に不向きというのがよくわかる。
不向きどころか根底には理論性や秩序への破壊衝動がある。

930日本@名無史さん2019/01/12(土) 00:06:12.66
>>926
「逃亡」が「目に見えてはげしさを増してきた」
って、どういうセンスで日本語使ってるんだろう

931日本@名無史さん2019/01/12(土) 00:53:01.95
>>930
なにしろ鉄器さえ溶かす水だからな。

小学生の頃から奈良湖で泳いでいたら、
20代後半から「目に見えて禿しさを増してきた」

それ以上は突っこんでやるな。

932日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:04:08.59
キウス

933日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:29:17.96
オクヤマ

934日本@名無史さん2019/01/12(土) 02:03:01.06
古代ロ−マですでに政府は塩に関わりをもち、
すべての道はロ−マに通じるといわれた道のうちで最も賑やかな道は
「Via Salaria」(塩の道)であったといわれ、現在のサラリ−の語源になったといわれる
中国では紀元前7世紀に塩の専売制を確立したとされる
日本の製塩土器は縄文時代の茨城県霞ケ浦南岸がもっとも古く
弥生時代になると西日本では岡山県児島で始まる
http://www.geocities.jp/t_hashimotoodawara/salt6/salt6-15-06.html
人類の活動に必要不可欠な塩であるが、
筑紫は製塩遺跡、塩の道が少ない
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12060034569.html

935日本@名無史さん2019/01/12(土) 02:13:45.53
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

936◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:51:20.91
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547231195/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

937日本@名無史さん2019/01/12(土) 04:51:00.34
情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 より

最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの 里単位が使われたのかという問題です。 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里 は70〜90mになります。
ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何ら かの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさん けい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があ ることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その 中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観 測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の 長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行 にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を 求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。
また、南北千里は、76〜7 7kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝 の1里と想定される長さによく対応しています。

938日本@名無史さん2019/01/12(土) 04:52:52.98
情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 より

最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの 里単位が使われたのかという問題です。 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里 は70〜90mになります。
ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何ら かの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさん けい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があ ることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その 中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観 測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の 長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行 にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を 求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。
また、南北千里は、76〜7 7kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝 の1里と想定される長さによく対応しています。

939日本@名無史さん2019/01/12(土) 04:56:08.78
情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 より

最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの 里単位が使われたのかという問題です。 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里 は70〜90mになります。
ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何ら かの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさん けい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があ ることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その 中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観 測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の 長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行 にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を 求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。
また、南北千里は、76〜7 7kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝 の1里と想定される長さによく対応しています。

940日本@名無史さん2019/01/12(土) 06:20:08.94
>>916
じゃ魏略の著者が自己解釈で書き換えたんだな
淮南子が1万2千里で後漢書も1万2千里だから

941日本@名無史さん2019/01/12(土) 06:42:09.73
>>939
高校レベルの歴史をあまり勉強してない私大出身の理系は騙されやすくて大変だ

942日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:17:30.27
>>939
結局南に1万2千里は
淮南子が元の架空の数字だから短里なんてなかったし
そこに書いてる内容は全て知識の不足による錯誤か
または知っててわざとやってるという事になるね

943日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:22:04.95
そもそも洛陽盆地は南北30kmも無いからな

944日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:25:14.18
>>132
>>唐会要倭国伝には(大和日本国と区別して)「正北抵新羅」と書いているから、<

>FAQ71より 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、
「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。<

ダメだ。唐会要も、
倭國伝と日本国伝とを、全く別の場所に記載して、別の国であった事を主張しているし、
列島からの遣使に関しても、
則天以前でも以後でも、きちんと、人物を区別して書き分けているから、
倭國使を名乗った遣使は倭国伝に、日本国使を名乗った遣使は日本国伝に、
はっきり違う国からの遣使として書き分けているとして事になる。

>大和日本国と区別して書いてある倭国は、藤原常嗣のいる大和倭国なんだよww <

ダメだ。薜原朝常嗣等は、「正北抵新羅」の九州の倭國の使者を名乗った事になる。

>唐代を記した史書(旧唐書、唐会要、新唐書)に、倭国伝と日本国伝が別立てで置かれているのは
唐代に(正確には武則天の武周の長安四年)、倭国が日本国への改号を申し出たからだよ <

ダメだ。則天の前にも後でも、倭國使節と日本國使節とを書き分けている。

945日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:35:02.97
>>134
>「・・・漢委奴国王印により倭国王に冊封された。」
一見して無理だとわかるだろ
わからんか・・・ 国名ちゃうやろ <

一見して、漢側からの実際の国名として残った「呼称」であった、
という事がわかるだろ?。

946日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:47:40.60
ダメだ
そもそも九州倭国なんて無い
さすがに奈良時代にもなれば伝世文献だけでなく木簡などの発掘文献も出てくるのを無視してる
書き分けなんて主張は九州説の恣意的な解釈の産物でしかない

947日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:50:54.99
九州倭国は古田がつくったおとぎ話だから
定説になることも教科書に載ることもないし
古田シンパの平均年齢75歳の爺たちが死に絶えればなくなる

948日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:03:08.12
>>946
>そもそも九州倭国なんて無い

かといって、畿内倭国も無いよ。  @阿波

949日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:07:28.06
>>946
>さすがに奈良時代にもなれば伝世文献だけでなく木簡などの発掘文献も出てくるのを無視してる

奈良時代というのは、筑紫倭国が滅んだ後に畿内が発展した時代のことだよ。
逆に、なぜ奈良時代より前に畿内にろくな文献がないのか、不思議ではないか?

950日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:16:43.25
昔から、古墳時代だとか飛鳥時代だとか、やけに区分も意義もぼんやりしているなと思っていたんだ。
なんのことはない。
畿内は首都ではなかったから、畿内を基準とすると訳がわからなくなるだけのこと。
筑紫倭国の存在を認めれば、対馬海峡と筑紫・出雲を舞台とした倭国時代前期、伊都国成立から247年卑弥呼崩御までの倭国時代中期、肥後・筑後・太宰府を舞台とした663年白村江海戦までの倭国時代後期など、もっと明確に時代区分を定義することができる。

951日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:18:23.11
>>950
そうはならんから安心して崩御してくれ

952日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:21:56.70
>>950
>畿内は首都ではなかったから、畿内を基準とすると訳がわからなくなるだけのこと。


かといって、九州も首都じゃないよ。  @阿波

953日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:29:11.06
飛鳥時代からも発掘されてるじゃん
遣隋使遣唐使による律令制の導入でこの時期に官僚機構が発達したからでしょ
九州倭国なんて国家機構の痕跡すら無い

954日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:34:14.03
九州は3世紀前半には畿内に服属してたのだろうな

955日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:39:14.75
>>941
あんた
東大理三?

956日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:42:31.26
倭人伝の記述とキナイセツを丸バツでやつたら
ほとんどバツだつた

957日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:45:58.63
九州説信者とは偽史を信仰する人々なのだな

958日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:52:28.29
>>956
しょうがないよ妄想で成り立つ畿内説、

959日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:56:12.53
>>957
そう言えば、あんたらしき人が纏向掘りまくって、
水道管壊して、警察に叱られてたな

960日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:58:06.99
>>953
律令制の完成は663年の白村江敗戦を受けての筑紫倭国滅亡後、701年の大宝律令だよ。
敗戦後に戦勝国である唐からの制度導入が進んだんだよ。
大平洋戦争と同じ。

961日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:01:26.99
邪馬台国の位置であるとされる会稽東治の東は台湾沖縄あたり
帯方より南1万2千里の地点はそこだと言っているから
それで換算すると魏志倭人伝の里は1里140m
魏使が正確に測ったんだとしても短里じゃないね

962日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:08:40.22
>>961
魏の里の半分以下だから、それがいわゆる短里だよ。

963日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:12:15.61
>>961
魏志倭人伝の短里の大きさは上で計算されている。

>>904
>117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間

あなたの計算に近いから、やはり倭の王都である邪馬台国は帯方郡から一万二千里の会稽の東に相当する(と陳寿が思っていた)九州北部になるね。

964日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:13:01.14
間違ってるのだから短里は無いと考えるのが合理的な思考

965日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:15:40.56
>>150
>>「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。<

>そうすると今度は邪馬台国の戸数が合わない<

「邪馬台国」なんて存在しないし、いろんな対象に使われている詐欺文言であるから、
論拠にならない代物。

>邪馬台国七万戸と投馬国五万戸は重ねられないぞ <

重ならない。

>そして投馬国はどこに置くんだ?ww<

南九州。

966日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:17:01.10
>>151
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者はの、
辻褄の合わないことばかりだな。

967日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:18:08.68
筑紫倭国とか短里なんかの現実と乖離した虚説が前提の時点で九州説はダメでしょ

968日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:19:39.88
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?

969日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:20:10.81
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

970日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:22:46.61
>>160
やっぱり「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者は、
都合が悪い方向や里数や日数た国名た全て消して、
曲解したいの一心なんだな。

971日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:27:24.15
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

972日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:31:15.81
>>168
>>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。<

>それならば、投馬国の記載は邪馬壹國の記載よりも、あとでなければおかしい<

不彌國から、水行二十日して行く国だから、不彌國の後にくっつけて書くのが当たり前。

>狗奴国ほか、邪馬壹國より南の国はすべて、邪馬壹國よりもあとに記載されている<

狗奴國は、一旦邪馬壹國女王之所都に着いてから行ける所、として書かれている。

大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの無理読みだからの、
辻褄の合わないことばかり。

973日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:35:14.72
>>173
「南→東」などが、なんで×なのか?、の理由も判らない、
という「人類の常識」も判らないオソマツな大和説が、
もう終わってます。。。

974日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:38:10.98
伊都国は小国だし一大卒が置かれてたのだから違うよね

975日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:45:55.72
一大率は女王国以北に置かれてた
伊都国には魏の世に王がいた
倭の国は全て女王国に統属していた。

976日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:57:41.84
伊都国は小国

977日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:05:49.01
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職

978日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:14:20.46
>>174
>>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、<

>行程説明で 不彌國あたりでもう萬二千余里がほぼ終わってることにすると
女王国は会稽からはるか北ということになるから<

邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だから筑紫付近になるが、
卑弥呼共立の投馬國が南九州であるから、女王國はほぼ九州島付近になり、
陳寿の女王國の位置説明は(会稽ではなく)会稽東治之東であり、
会稽東治は、浙江省北部〜江蘇省になるから、その東に九州島はほぼぴったり含まれ、
大和説の主張は、倭人伝の記述と明らかに合わなくなり お陀仏が確定するのだ。
大和説終わってる。

979日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:16:29.14
百済はまだない

980日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:21:49.73
まだないけど、制度は同じだったということ。
または百済が卑弥呼時代の倭の制度に倣った?

981日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:33:20.01
>>980
大率は官名じゃない。官名なら「一」なんかつかない。
一大率は一大国の率、率は帥(司令官)、官僚ではなく軍人。

982日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:33:55.36
同じ文章中に一大国と一大卒が出て来て無関係だと思う感覚がわからないなあ

983日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:37:39.02
一大国は明らかに一支国(壱岐)の誤記だよ。

984日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:41:04.19
墨書がにじんで間違えるなら、支→大じゃなくて、支→又じゃないか。

985日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:41:38.14
実際に間違えているんだからしょうがない。

986日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:45:38.57
自説に合わないと改竄する
改竄しまくって、最後には倭人伝はフィクションだとなる

987日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:49:47.85
一大率の「大率」部分だけ取り出して、偶然同じだった、空前絶後の官名と同じに見えるからってそれとつなげて考えるのはヘン
しかも百済の「大率」って〇〇率っていう官名が複数ある中の一つだし。

988日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:52:08.64
倭人伝の官副名は倭人の発音に漢字を当てている
一大率の一大は一大國と同じ発音
壱岐国は北部の壱伎郡と南部の石田郡があり、国府は石田郡にあった
怡土八郷に石田郷があり現在の二丈長石・武・田中・浜窪辺り
その中心に糸島地方最大の一貴山銚子塚(いきさんちょうしづか)古墳(4世紀後半)が造られる
一貴山流域の深江井牟田遺跡から三雲と同様に多量の楽浪土器(弥生後期〜TB期)が出ている

989日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:53:25.14
>>986
実際倭人伝は地名ぐらいしかおおよそ正しいと確かめられないんだけどな

990日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:57:52.43
対海國と一緒でしょ。
対馬島の中に、対海國など複数の国があったのと同じで、
壱岐島の中にも、一大國など複数の国があったんだよ。
九州島の中にも、数十の国があるのと同じ。

991日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:59:26.90
壱岐は、倭人伝では伊支(馬)だね。

992日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:04:08.08
九州説は九州の考古知識がまったくない

993日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:04:57.78
>>944
>倭國伝と日本国伝とを、全く別の場所に記載して、別の国であった事を主張しているし、

同じ国で国号が異なる時期を別立てしているだけ

>列島からの遣使に関しても、
>則天以前でも以後でも、きちんと、人物を区別して書き分けているから、

倭国伝の人物も日本国伝の人物も全員、日本書紀や続日本紀で確認できる大和朝廷の人物だよ
九州王朝の人なんて一人もいないww

994日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:05:30.19
鉄器があるから大丈夫

995日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:05:47.09
>>987
それを知っていたからこそ、倭には大率一人しかいないという意味だったのでは?

996日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:07:27.27
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

997日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:08:21.58
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

998日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:13:06.46
>>191
>たとえその場で方角を間違わなかった「としても」
史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、<

普通の精神状態の人類は、「東西南北の錯誤」は起こさない。

>実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている<

「類スレ主」男の、史料記載事実の曲解のウソ付き騙し解釈が原因であった。


>次に、記録の不備の可能性も高い  
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、
最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い
記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、
東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう<

報告が違っていれば、部下や後続の魏使らによってバレてしまい、魏使らの首も危ない。

>また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない<

始めから「倭人在帶方東南大海之中」」と、はっきり方向指定をしている。

>さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、
倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる <

陳寿は「会稽東治之東」だとはっきり推定しており、「相当な南国」だとは思っていない。

999日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:13:32.59
>(の王都、邪馬台国)

とは書いてない
書いてないことをこの民族は連呼する

1000日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:14:17.65
>>191
>1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない<

普通の精神状態の人間である限り、同一視出来る。

>2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する <

普通の知能を持った人物の情報である限り、間違いは全く存在しない。

>3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる <

・・・・や詐欺師が介在しない限り、方角の錯誤は生じない。

>4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある <

宗教に狂った「結論先にありき」の循環論法者でない限り、ない。

>ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる<
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、
ということで構わない <

「倭人在帶方東南大海之中」とはっきり方向が指定されている。

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