源為義
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
子供40人以上作ったのに次男、三男、十男はそれぞれ長男の子供(義平、頼朝)の手で
それ以外は八男を除けば全て長男義朝に殺されたンゴ…
ついでに自分も殺されたンゴ… 源氏とかいう世界史レベルで見ても類を見ない内ゲバ一族 親父…長男に殺される
長男…家来に裏切られ殺される
次男…長男の命を受けた長男の長男に殺される
三男…長男の三男に殺される
四男…長男に殺される
五男…長男に殺される
六男…長男に殺される
七男…長男に殺される
八男…唯一生き延びるも島で追討を受け自害
九男…長男に殺される
十男…長男の三男に殺される
十一男…長男に殺される
十二男…長男に殺される
十三男…長男に殺される
十四男…長男に殺される 義朝はそもそも後継の器ではなかったようで、父為義より子供の頃から半ば追い出される形で関東に下った
鎮西に追放された八男為朝も同様
本来なら次男義賢が後継者候補で、そのまま行けば嫡流は義仲の兄である仲家になる筈だった
頼朝が嫡流だというのは後からこじつけられただけ
実際長男が後継者という概念はこの時代まだ存在しない 源氏ってなんでこんな内ゲバばっかすんの?
同じ平氏は仲良しなのに 天王とか鶴若とか実在したんかね
保元物語でしか見たことない 満州先生の新刊「馬韓も百済も満州にあった」が限定100部で発売中ですよ。
Amazonのみの発売なので、売り切れる前に君も買おう! 源姓って格好いいよな
今から源姓にするのは不可能だから名前改名して源次にするか >>8
日本人は濁点がある三文字をカッコいいと感じるらしい
逆に平氏のように「へ」から始まる言葉を嫌うとか
※江戸時代の火消し組もいろは別にチームが分かれてたけど「へ組」はかっこ悪いと言うので取り除かれた
よくよく勉強してみると平家の団結ぶりは凄いんだけどねー 源氏の家来は平家ばかりで源平合戦は実際は平平合戦だったと詳しい人が言ってた。
平家同士が戦ったわけだから平氏が団結力あったというのはちょっとちがう。 >>10
ちょっと違う
確かに頼朝の元に集まった関東武士はほとんどが「平氏」の出だけど、平氏自体はその後も脈々といきのこってるし、壇ノ浦で沈んだのはみな「平家」
ここでいう平家とは伊勢平氏の清盛の家系の事ね
平家は清盛の元で団結してる
親父の代から仲悪かった叔父とその息子が保元の乱で敵対したくらい ウチは血筋は一応常陸平氏の末で、頼朝の家来の家系だから平家がまとまってるなんて言われると何のことやらさっぱり分からんね。
平家嫌いの平家なんかいくらでもいるよ。 伊勢平氏の一族が団結してるって事でしょ
所謂「平家」と呼ばれる清盛直系の家系 伊勢平氏が平氏のすべてみたいな言い方したら関東では物笑いの種だよ。
平家はまとまりが悪いというのが常識。B型多そうだし。 義朝が親兄弟殺したのは知ってたけど元服前の子供達も殺してたのか 鶴若、亀若、天王だっけ? もう一人は忘れた
義朝に言われた家来が赴いて「久々にパパに会えるらしいからみんなで来いってさ!」と連れて行かれ船岡山で斬られた
まだ幼いから「義朝にいちゃんに取り合ってくれよ!」って泣いて喚いたらしいが当の義朝の命令だし聞き入れられずそのまま文字通りパパの所に送られたと 身内殺しは源氏の醍醐味だといってもいい。
身内同士で何ごともなかった松平家徳川家はそれ自体が源氏詐称を証明してる。
徳川がもし正統派源氏ならば、江戸時代を通じて内紛が起こしていなければならない。 義平少年も伯父さんぶっ殺した後まだ幼い二歳の義仲をころそうとしたらしいからな
敵の子供を助けた清盛とは人間の器が違う
まぁそれが命取りになった訳だが 義朝の実子は実際はもっとたくさんいると言われる。
しかし義朝に殺されるのを怖れた母親が子供を実家に匿い別の父親の子として育てるため義朝はそれを知らない。 平将門は叔父である国香を殺した。
子の貞盛は藤原秀郷とともに将門を討った。 清盛は国香から数えて8代目。国香は伊勢平氏の祖である。 >>20
義朝が自分の子供を殺そうとしたってこと?
悪源太義平が生きてたとしても義経同様に頼朝に使い捨てにされて殺されそうだなー 義朝って調べれば調べるほどDQNだよなぁ
裏切った長田忠致の最後もどこまで本当なのかな
身の終わりと美濃尾張で話が出来すぎてる気がする 源氏が関東進出してくるまでは平氏は貞盛・繁盛一族vs将門・良文一族の因縁の対決。 義広と為朝は許されたのに元服前の弟たち4人が殺されたの本当に可哀想だ 兄弟殺し結構じゃないか。日本武尊、カインとアベル、神話の時代からあることだ(笑) 一緒に親父も殺した奴はなかなかいないけどな
斎藤義龍くらいか? 目立たなかった六孫王。
なぜその子孫が肉親殺しに励んだかというと平家の嫁をもらって平家の血が濃くなったからだ。
考えなくても解ること。 義賢が頼長とアッー!だったのは有名だが
頼朝も後白河院とアッー!だったらしいな
義朝が出世の為に子供を捧げたとかw
頼朝の子作りが遅れたのは幼年期に掘られまくった反動で長い間性的不能だったからだという説を見たことがある とりあえず、平家と平氏をキッチリ分けようぜ
平家は清盛直系やその近親者、平氏は平家以外の平氏 >>26
その四人は実在かどうか。
保元物語にしか出てこないし、作品の特性上、源氏の悲劇を強調するための創作の可能性がある。 >>33
ありがとう
保元物語にしか出てこないんだ
4人にそれぞれいた乳父がその場で悲しみのあまり皆後を追ったとか、いかにも創作臭いなとは思ってた
その乳父の1人の家族筋に義朝の妾もいて夜叉姫が産まれたとされるけどこの人も実在が怪しいし義朝死後にやっぱり後を追ってるんだよね 為義は義親の息子というのが定説だけど、義家の息子説もあるんだよな。
現実にはどっちなんだろう。 為義に嫌われて関東に追い出された義朝
鎮西に追い出された為朝
後継者とされた義賢 >>32
じゃあ、平忠正は平氏?平家?
平直方は?平盛国はどうよ? 保元物語の元服前4人の子供は架空の存在であってほしいな
救いなさ過ぎるだろこれじゃ
戦で大暴れした為朝が島流しで済んだってのに 保元の乱についてリアルタイムで記録した『兵範記』には、その幼い四人の男子について書いていないそうだ。
これをしてフィクションと決めつけるのは早計だけど俺はフィクションだと思ってる。
『保元物語』の成立は乱の六十数年後だからいろんな話が紛れ込んでも不思議ではないし。 >>41
そうなんだ
保元物語以外では全く出てこないのかな?
当人の日記とか 義賢と頼長のアッー!は有名だが
幼い頼朝も後白河とアッー!だったらしいね 為義 アホ
義朝 クズ
為朝 DQN
義平 脳筋
頼朝 陰険
義経 自閉 為義 アホ
義朝 クズ
義賢 ホモ
為朝 DQN
行家 トラブルメーカー
義平 脳筋
頼朝 陰険
範頼 無能
義経 アスペ 義家 自己中
義親 山賊
為義 アホ
義朝 クズ
義賢 ホモ
為朝 DQN
行家 トラブルメーカー
義平 脳筋
頼朝 陰険
範頼 無能
義経 アスペ 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 >>52
義家も義経も自己中だけど、義家は健常のワガママレベル、義経はボーダーのアスペって感じ
今生きてたら学生時代友達は出来ないけど小さな会社起こして地味ーに成功しそう 唯一身内思いの源氏って実は義仲なんじゃね?と思ってる >>57
頼朝と対立した叔父さん二人を保護して、代わりに自分の長男を人質に預けてるからね
旗揚げも頼朝が行ったのを見届けてからだし、何気に頼朝にはかなり気を使ってる >>59
義仲は最後平家と手を結んで頼朝と戦おうとした説があるよね 誰やw
いや誰かはわかってるんだが正直どうでもいいお方なんで 59
義重と義賢は手を組んで悪源太と戦争やってるからな 軍事貴族っていう連中がいるんだし
自分の身は自分で守らないと殺される時代だぞ 後白河とか普通に致してるよ
あと寺社でも当たり前のようにあった 今まで稚児99人抱いたけど3桁はヤベーからもう辞める、みたいな言葉が残ってたり >>75
あの時代って、基本身分高いほうがタチだよね?
それなのに義賢はタチに回ったの? >>76
受けに回るのは初めてだったが意外と良かったって悪左府さんが言ってた >>77
これいつも思うんだが糞まみれになったりしないんだろうか
そもそもローションも無いし唾だけだと痛くねら でもうんこはつきそうだよね、浣腸やウォシュレットもないし、終わった後のシャワーもないし…
オエ 現代の感覚で語るのはナンセンスじゃない?当時はウンコがつくのもまた一興とかやってたんじゃないのw 考える考えないじゃなくて現実的にア○ルから分泌液が出ないんだから考えざるをえない 武士は貴族の前ではネコだったのかな?
重盛も頼朝も後白河に掘られたのか 江戸時代の指南書には
臭いが相当きついから覚悟しろ
気になるなら事前に徹底的に洗え
と言うようなことが書いてある >>83
十分に拡張出来ていれば
水と腸液だけで足りるんだよ 頼朝の子作りが遅れたのは思春期時に後白河に掘られまくったせいで女が好きなのに立たない身体だったからだと聞いたことがある 平安時代なら、淋病はあっても梅毒やエイズはなかった 掘られまくったせいで女が好きなのに立たない何てことはあり得ない
掘られまくったせいでホモになって立たないんだよ >>89
普通に流人だったからだろ
後白河は女癖は悪いがホモではない >>96
まさことくっついてからしばらく出来なかったけどな >>97
頼朝は政子とくっつく前も伊東の娘との間に子供作ってるし
くっついてからも愛人作って激怒した政子が愛人の家を焼いている 『義経記』なんか読んでると本当にそう書いてあるんだよな >>102
頼朝からみて一代縮まるな。さらに義家の神格化がすすむな 義朝の母と義賢の母はどちらも藤原氏だと思うけど、どちらの母の実家のほうが家格が上なのだろう? 義朝の母は淡路守藤原忠重女だが
義賢の母の六条大夫重俊女は姓が不明
ただし義朝が若年期に都での出世を諦め無位無官で関東に下ったのに対して
義賢とその同母弟義広とともに都で官職を受けているのは
母親の身分が良かったためと言われている
義賢は藤原頼長の男色の相手として愛された >>105
義賢以外の源氏の奴らもホモホモしてたのかな >>107
義賢の母がはっきりしないのは頼朝が握りつぶしたのかな。もしくは頼朝にとって都合の悪い人だったとか 義朝って鬼畜だよなぁ
父親も幼い弟も容赦なく殺すとは
なんとか逃がせなかったのかね そもそも幼い弟四人の実在については疑問符がつくわけなんだが
父親や五人の弟たちに関しては義朝の当時の立場を考えれば助命は無理だろう 頼まれたとは言え次男の朝長も殺してるしね
日本の歴史上、親、弟、子を殺した奴って中々いないんじゃない >>108
生かしておいたら源頼朝が鎌倉幕府を開けていないんじゃね
頼朝も父親に倣って弟やら従弟やら殺してるし >>110
朝長は落武者狩りで負傷し死亡、が普通の見方だろ。
もし自分の手にかけたことにこだわるなら義朝は父も弟たちも殺していない。 >>113
平治の乱で敗れた義朝はとにかく自分一人は助かるべく東国まで猛スピードで逃げた
14歳と若年であった源頼朝は父から遅れてしまったが義朝はそんな息子を見捨て
頼朝は平家に生け捕りにされている(池禅尼によって助命)
朝長は逃亡途上で負傷し、父義朝の足手まといになった
義朝は頼朝同様見捨てて逃亡しようとするが朝長は年長な分
平家に生け捕りにされれば殺される可能性が高い
平家に処刑されるくらいならと父義朝に見捨てていくなら殺せと言い
義朝は殺して逃げたというあたり 頼朝も叔父や弟たちの誰一人として殺してない。
やったのは部下たちだ。 義朝も助命嘆願しただろ為義の。為義も助かる望みがあったから義朝にすがったわけで 正確には泰衡の命を受けた長崎某。
さらに細かく言うと義経は自害しているから殺されたわけではない。 藤原秀衡が頼朝より長生きしてたらどうなっていただろう? 秀衡はともかくとして義経が頼朝より長生きするイメージがわかないからそこまで変わらない気が 和田合戦のころに義経と秀衡が生きていて三浦義村と和田義盛と組んで北条を滅ぼすとか。実朝はそのままで義経と秀衡と義村と義盛の連立政権。 学生のときに保元物語読んで、四人の幼い子供をだまし討ちにする場面で胸糞悪くなった
義朝って屑だよな 実は死刑の命令なんか出てなくて(当時の記録に義友に処刑された事実が書かれているのみ)、義朝が河内源氏と坂東を統一するために無理やり親父と弟を殺した説もあるんだよね
清盛の叔父殺害も同様 >>132
保元物語と平治物語にのみ出てくるんだっけ?
頼賢以下乱に参加して処刑された五人の弟は鳥羽法皇の喪が明けていないという理由から死体も船岡山で放ったらかしにされたんだよね
それなら初めから死刑判決にすんなよと そうだよ。角川の平治物語を読んでみると、従来の平治物語を知る人はすごく違和感があるはず。
悪源太が信頼(のぶより)に意見して「官位はいらん、俺は悪源太で十分だ」なんていった話を含め、
相当の武勇伝じみたエピソードがないことに気づく。
その角川の平治物語ですら史実にかなりの脚色が施されているというのも事実。
学術書で保元平治の乱を読んでみるとそっけなくてガッカリするで。 保元の為朝、平治の義平を混同してる人は多い。
講談だから似たような話になったんだろう。 実際為朝の武勇伝は尾鰭つき過ぎ
史実はどうだったんだろうね ところが為義本人は為朝のことを「小男」って呼んでるんだよね
大男の無双描写は保元物語のみ 義朝も為義も今でいう小六くらいで親から勘当に近い処遇受けてるんだよね
元々DQN素質があったのかな 為義自身も十代半ばで叔父(大叔父?)をブッ殺してんだよなあ。 >>143
生まれた時から源氏の御曹司としてチヤホヤされ、
暇な時間は武芸の稽古
傲慢で乱暴な性格になる奴も多いだろう
美化されてるだけで、義平、義仲、義経なんかも多分にその傾向があったと思う この頃の御曹司って部屋住みくらいの意味じゃなかったっけ? >>147
それでも周りの家臣どもは生まれた時からぺこぺこチヤホヤするやん 実の子供に斬られるって一番嫌な死に方だよな
当時は肉親に処刑されるのは名誉説もあるんだっけ? >>146
まがりなりにも貴族(藤原摂関家)の番犬なんだし、帝王学みたいなのは身につけないのかな。 義親の四男説もある
というか昔はそっちが主流だった 為義も義賢も義仲も、三代揃って「部下の統制が出来ずに評価を下げた」点はそっくりだよね
頼朝の統率力が異常とも言えるが 頼朝は部下の土地の保証を公権力を使って推し進めたからだろ 元は殺人狂の武士の世界に組織や法をもたらした頼朝と泰時はすげぇ 為義のなかでは後継者候補は義賢→頼賢なんだっけ
義朝と為朝は子供の頃から勘当同然 為朝は勘当されたけど保元では貴重な戦力として呼び戻された。
伊豆に流されたけど、もし義平が為朝を救出して同盟を結んでいたら…
それでもやっぱり平治では清盛が勝つだろうな。 戦と無関係な今若以下4人の幼子が殺されたのに
戦で大暴れした為朝が流罪で済んだ矛盾 >>161
でもこれ普通に疑問
そしたらなんで行家や惟義らは生き残れたの?ってなるし
たまたま京にいたからというのもなんかなぁ… そもそも四人の幼子は実在ではないと何回言えば理解するんだか カリスマあるやつを死刑にするとシンパがテロ起こすから
島流しにした方が安全 >>164
wikiにも載ってるけど
というか為義以下含めてそもそも死罪の勅命が出た形跡もないんだよね 為義って
義親、義家のどっちの息子なんだよ?
前から謎なんだよ。 >>163
別に矛盾ではないでしょ
為朝が捕まったのは合戦から日数が経った頃
合戦を引き起こした主犯でも何でもない
平時だから明法家が先例を調べて流罪を決定 為義や忠正の処刑も基本は戦時の延長とか、
敗戦者への処刑の慣行(報復を防ぐ)の延長にあって
特に義朝の場合は棟梁権確立のために必要な面もあった >>170
幼子は処刑されて、行家や惟義は生き延びたのは京にいなかったから? 為義が、義親ではなく義家の5男だったら、
源義重が、頼朝に対して複雑な感情を持った理由は分かるな。 かたくなに幼子が処刑されたことにしようとしてる馬鹿は二度と来るな >>173
わざわざ朝敵の子を跡継ぎにしないよね? >>174
逆にどうあっても実在しないと断言するのもどうかと >>176
実在を証明できるんだったらね
保元物語という講談モノ以外の史料を片っ端から調べて、それに相当する人物を見つけてからおいで。 仮に非実在だとして、保元物語の作者はどこから出したんだろうね wikiでは為義の子供欄や義賢の弟欄に書いてあるね
保元物語の史実と相違点を述べた点にもこの子供四人の実在を疑うことは書いてなかった 四人の幼子の存在を肯定してる奴、俺から見るとゴジラの実在を主張してるのとなんら変わらんw 実在したかどうかはわからんが、居たとしても無関係なのに殺害命令出るもんかね? 十男の行家は幼かったから殺されなかった、という説があるくらいだから、
実際に四人の幼子はいなかったか、実は行家は十四男だったという説。
でもこの分野の第一人者たる日下力さんは四人について「未詳」と書いているくらいだから、
史料では確認できないんだろう。つまり実在ではなかったとするのが自然だ。 元木泰雄氏によれば幼子四人のことは『兵範記』に書いていないそうだから、やっぱり実在は無理だね。
リアルタイムで書かれた『兵範記』と、それをもとに後で作られた『保元物語』では信憑性が違いすぎる。 為義の出自をみれば、頼朝の家は全然、河内源氏の嫡流ではなかった。
頼朝の家が河内源氏の中で特別になったのは、義朝のおかげ。
義親の子供だったという説の場合、
兄が3人もいて、
しかも、その兄たちが正室の子どもな上に、官位もその兄たちのほうが上だった。
為義の母の出自は不詳である。
義家の子供だったという説の場合、
兄が4人もいて、
しかも、東国武士団の中でライバルだった義国(新田・足利の祖先)のほうが同母兄だった。
>>188
ありがとう
そもそもが「天王」なんて恐れ多い名前幼名につけるもんかね
夜叉丸だの鬼武者だのつける一族にこれ言っても始まらんが >>185
その説面白いね
まぁ実際十郎呼びされてるし、万が一、十四男なら頼朝のほうが歳上になってしまう
老獪で無能な疫病神の中年というイメージが崩れるなw >>193
実際のところは行家と頼朝って同年代なんだろうな。
もし実在しない四人の幼子より年下なら義経と同年代になってしまうw 年齢がさほど変わらないなら
叔父と言うだけであれだけ引っ掻き回してた無能が嫌われるのも頷ける >>194
『尊卑分脈』
為義の母の項目には「同義国、中宮亮有綱女」とある 実際、為義は本当に義朝の助命を見越して投降したのかね
実際は物凄く険悪だったみたいだし疑問 確か保元の乱まで死罪がなくなってなかった?助かる見込みがなかったら新宮十郎の母ちゃんの実家の熊野あたりに隠れてたんじゃないの。まあ罪はちょっと謹慎、最悪でも配流ぐらいとか。 熊野まで無事に逃げられるという保証はないんだけどな 清盛、義朝が京都→近江のルートを封鎖していないという保証はあるのかねぇ。
合戦で馬をなくしているだろうから逃亡は徒歩、迅速な異動は無理。
しかも為義と五人の息子たち、郎党たちも同行すれば大人数で目立つ。
熊野まで逃げられるか、義朝が助けてくれるか、の選択で、
結果的に後者は史実通り助けてもらえなかったが、
もし熊野に逃亡中に落ち武者狩りで殺されていたとしたら、
>201は「義朝にすがれば助けてもらえただろうに」とほざいていただろうな。 新田義貞が頼朝に味方せず自立を目指したときに
当家は源氏嫡流は向こう(頼朝)は三代朝敵と言ったとか
義親が為義の親なら義親・為義・義朝・頼朝と四代朝敵のはずだから
やはり為義は義家の実子ということか 何気なく日本史板の何かを読もうと思って
なんとなく興味を引いたのでこのスレを読んでみたら
源氏が悪鬼羅刹の巣窟だと知って衝撃を受けた
そして頼朝が義経を追いつめた理由がなんとなくわかった
親族コロし上等の世にあっては
人気のある身内は明確な敵だったわけか
保元物語の兄弟の話は漢籍に元ネタでもあって付け加えたのではないかとふと思った
といっても元ネタがあるならここの諸兄が知らん訳ないか >>206
いや、頼朝ではなく、父親の義朝までのことを言ったのかもしれないよ。 >>208
家臣連中もわりと気軽に担ぎ手=自分ちの家長ごと神輿を変えるから対抗馬になりそうな神輿は潰しとかないと命が危ないからね むしろ、親兄弟で仲良かった家なんてあるか?
例えば戦国時代だと、信長秀吉家康信玄元就、、、みんな近親者で争ってるよな 日本では傍系相続が伝統。兄弟の誰もが実力次第で本家になれる。 >>208
例の兄弟は殺されたのに
大暴れした為朝が助かるというのも明らかに変だしね たしかに幼少の男の子4人が殺されたならなんで為朝は?ってなるね
まぁ為朝の無双はほとんど保元物語の脚色なんだろうけど
実際は小男らしいしね 四人の子供の存在についてこのスレだと否定的みたいだけど、身投げしたその母親や兄弟で守役の事は吾妻鏡にあるし、一概に創作とも言えないんじゃないかなと 義賢は東国へ行く時何故自分の長子の仲家を連れて行かなかったのか?
何故頼政などに預けたのだ?
もしかして東国への下向を命ぜられた時点で「自分は実質廃嫡されたもの」と悟っていた? >>221
その頃には頼賢が後継者候補になってたみたい
罪を犯した部下の為に出世が頓挫する不幸っぷりは父親譲りだな
ところで義賢は普段部下と交わる時はタチばかりだったせいか頼長に求められてもウケには回れなかったのかね 新宮十郎行家というくらいだから男児だけで10人は子供いたんだろ
>>220 >>222
このころの武士はみんな男色やってたのかな >>224
この頃ならどっちかといえば貴族の文化だよ >>223
為義が斬られる直前に
男子を60?人もうけて日本の60余ヵ国に送り込みたかったが果たせず、と悔恨したらしいから
男子だけでも40人位はいたんじゃないかと思ってさ
例の切られた幼児たちのエピソードは創作だとしても、60歳位まで子作りに励んでたんじゃないか 宮下玄覇氏は著書の中で波多野義通が義朝の元を離れた理由の一つに幼子4人を直接騙して殺させた事を挙げているから、必ずしも創作とは言えないんじゃない?
むしろ保元物語での創作部分は為朝関係のエピソードかと 宮下は何を根拠にそう言っているのかを知りたいね。
波多野自身がそう言っている文献があるなら可としよう。
しかし「波多野が離れた→きっと四人のガキを殺害させたからだ」だったら宮下がおかしい。 宮下のことググッてみたら歴史研究家じゃないんだね。
たぶん保元物語を史実だと思い込んでいるタイプ。
よって四人はやっぱりフィクションだと決定。
文句があるなら『兵範記』から四人の記述を探して来い。 そもそも勅命すら降りた記録がないんだよな
父親と弟殺害も義朝の独断の可能性が高いらしい >>232
一周回って兵範記には戦闘に直接関わっていない人間の処刑まではわざわざ記さなかった説を挙げてみる
無理かw
為義の処刑地も物語と違って子供と一緒で船岡山なんだよね >>234
井沢のバカがよく使う手法やでw
4人の子供らがいたというソースを出さなアカン >>235
鎌倉時代に物語が成立した過程で、
「偉大なる鎌倉殿の父親が簡単に親兄弟殺すわけない!せや!朝廷に助命嘆願しても通らず無理やり殺させられたことにしよ!朝廷の冷酷ぶりを強調するために関係ない子供も巻き添えに食らったことにすれば完璧や!」
みたいなことがあったのかねw 実際は為朝の無双ぶりも多分にフィクション入ってると思う
平治物語の義平も同様 天地創造の頃から言われてきたことをドヤ顔で語られましても 幼子の逸話といい、助命の話といい、為朝の件といい、結局どれが真実なんだろうね 幼子にこだわってる奴の頭が悪いことだけはわかるスレ どこから作られたのかね
幼子4人とその乳人と母親の死 保元物語は殆どエンターテインメントに近いらしい
実際は合戦というほどのものでもなく、テロ集団が集まっているところに一斉検挙に及んだようなもの
頼長含め有名どころは5人ほどしか死んでないのもその証拠 >>240
頑なにこだわる奴と頑なに否定する奴の両極端だな 存在しないものを「かたくなに否定」って当たり前なんじゃないの?
じゃあアンタはゴジラがこの世に存在して街を壊すかもしれないという前提で危機感持ってる? >>243
「物語に出てくるから絶対存在する!」→馬鹿
「当時の日記に出てこないから絶対存在しない!」→馬鹿
「当時の日記に書かれていない以上、理由があって書かれなかったのかそもそも存在しないから書かれなかったのかは不明だが、一級資料で存在が確認出来ない時点で実際したはどうかはかなり疑問符がつく」
程度で良いかと >>245
なにかの理由で記録に残らなかったのなら、なんで四人だとわかるの?
名前はどこからわかるの? >>246
創作ならなんでも可能でしょう
名前はありふれた幼名なので余り意味なし
ただし当時の為義にあの年頃の子らがいて斬られた事実があっても不思議じゃないとは思う >>247
「可能性がある」は「四人が実在した」の証明にはならないね。
歴史学の場では語る価値もない。 >>246
記録といっても公的なものではなくあくまで当時の人間の日記だから、書かれなかった理由なんて、あくまで戦に関わった人間だけ書かれたとか、単純に他の出来事を優先的に書いた結果忘れたとか、筆が進まなかったとか、理由ならいくらでもある
物語成立の過程で使用された資料が見つかっていないだけの可能性もあるし
存在についてはかなり懐疑的だけど、当時の一級資料に出てこない=全て全否定というのも強引だと思う
第一級資料の玉葉ですら書かれた事に伝聞や私的意見が多く実際とかけ離れた描写も多いという指摘もあるし、重大事件が書かれていなかったりするしね まぁほとんど創作だろうなとは思う
本当なら志田義広はそもそも保元の乱に参加してたのかどうかも怪しいがなんで免れたのかも不明だしね 源氏の棟梁の割には不祥事等で官位が低いままだった。 >>252
為義は子供と部下のために不遇だったと思う >>256
それ以上に東国武士をそれなりにまとめあげて結果的に頼朝挙兵時の即戦力にしたのが大きい
清盛の誤算は頼朝を生かした事よりも伊豆に流したことなんだよな 佐渡や淡路のような海に隔てられた島に追いやってしまえばさすがに何も出来なかったろう。
それが無理だったとしても、少なくとも平家のホームグラウンドである西国なら良かった。
配流先が伊豆になったのは、頼政の差し金もあったらしいな。
貴重な源氏の生き残りとして、いつか自分の手駒として使えるやもしれぬという布石みたいな。
実際は頼政の方が打倒平家の先兵として真っ先に死ぬ結果になったがw 源頼朝の同母弟希義は四国土佐に流された
頼朝挙兵後、頼朝と合流しようとするも途中で討ち取られ消滅
頼朝も西国へ流されていたなら討ち取られていただろう >>258
伊豆は頼政の知行領地だしな
源氏の長老として責任持って預かってたんだろう >>261
史実ではあちこちから喧嘩売られまくりで対応も優しいというより甘いよね >>258
淡路とか京に近いし抜け出しやすいし
平安末期の流刑地に淡路とかないだろ 義朝の関東下向も、為朝同様勘当だったのかな
為義父ちゃんは頼賢を可愛がってたんだよね 大事なのは義朝と義賢の母ちゃんの実家の家格よな。
どちらも藤原氏で、例えば清華家や殿上家くらい離れてるとかでもないし。
義朝の正室も藤姓熱田大宮司家だし、そんなに悪くはないよね。 義朝は「長子である自分こそ源氏の棟梁になるべき」とばかりに、
義賢を殺させてまで半ば強引に棟梁になったのに、
自分の子に関しては端から長子相続とは考えていない辺りが矛盾してる。
義平の事は武勇こそ買っていたけど自分の後継者とは見ていなかったからな。
けど自分が弟を殺したように、将来義平が頼朝を殺して棟梁の座を乗っ取る可能性もあった訳だし。 >>189
義国は京で不祥事を起こしたから上野に追放になったんでしょ。
為義は義家の子だと思うけどなあ。
朝敵の義親の子をわざわざ跡継ぎにしないでしょ。
消去法で妥当なのが為義しか残っていなかった。 源義家没後、嫡男義忠が源氏棟梁となったが、叔父の義光に暗殺された
しかし最初は叔父義綱が犯人だとされ源為朝(14)が義綱一家を追討し滅ぼしてしまった
真犯人義光は逃亡、うっかり為義wは源氏の代表となるが本人や手下が狼藉三昧だったので出世できず、子作りに精をだす その事件、義光が義家の死後俄かに棟梁への野心を燃やしての事だと言われてるけど、
内紛を煽る事で源氏の力を削ごうとした白河院が元凶という説もあるようだ。
義光は院に唆されてまんまと踊らされただけらしい。
実際この内紛で義家の死後から瞬く間に義忠が殺され、次兄の義綱一族は壊滅、義光も義忠暗殺の黒幕と割れたために
京には居場所が無くなり常陸へ逃亡、残されたのはまだ年端も行かない為義のみという有様だし。 >>268
長子が跡を継ぐなんて概念はこの時代ないよ
基本は母親の実家の格で決まるし、それすら父親の一言で覆ったりする
義平が生き残ってたとしても義経同様に頼朝に戦でこき使われた挙げ句消されるか、
行家のように従わずに飛び出して追い詰められて消されるか、
義仲や志田義広のように独自路線を取りつつも最後は敵対した消されるか
どちらにせよ長生きは出来なそう ただ義平は武勇はあってもカリスマのようなものは無い。
平治の乱に敗れて敗走する途上、父と別れて再起の兵を募るべく飛騨方面に向かった時も、
一時は千人もの軍勢が集まったにも関わらず、義朝死すの報が伝わるやあえなく四散している。
義平は所詮侍大将レベルの武人であり、多数の武士達を心服させるようなものは持っていなかった。
頼朝の後ろ盾を失った義経に誰もついて来なかったのと同じで、義平も結局は「父ありき」の存在に過ぎなかったと言えよう。 義仲も烏合の衆呼ばわりされるけど
なんだかんだ最後まで地元の軍隊は残ったりしてるし
それなりのカリスマはあった模様 >>272
為義本人のミスとか狼藉って何かあった?
義賢しかり全部部下の問題だと思ってたけど
まぁ統率出来ないのはアレだが 八幡太郎も武家の棟梁でありながら息子の制御はできなかった
子どもなんてのはそんなもんよ
みんな自分の子どもは可愛いのよ この頃の家族関係って家父長権が強い割には親子それぞれがかなり独立的な印象があるなあ 源義忠暗殺後、義忠の息子たちは平氏養われた
義忠の妻が平正盛の娘である縁
義忠の孫は壇ノ浦で平氏と一緒に滅びた >>279
為義が義賢と頼賢を可愛がってたのはわかるが
義朝と為朝に限ってはそうは思わん 可愛がっていたと言っても、「嫡子として見どころがある」と見做されていた間だけだろ。
義賢にしても、帯刀先生の位を剥奪された後は義朝同様東国に追いやられているし、その後は頼賢だもんな。
息子だけで10人以上もいるからなのか、為義にとって「嫡子」なんてものはいくらでも取り換えの利くものだったのだろう。
まぁ嫡子の選択を誤ればすなわち一族の命運にも関わる事ではあるから止む無い面もあるが。 保元の乱で義朝は京に凱旋して関東は悪源太に任せるつもりだった? >>286
そもそもなんで義朝以外の兄弟はみんな為義側についたんだろうね
東国武士のほとんどは天皇側だし、一人くらい義朝と一緒に戦ってもよさそうなもんだが 義平
朝長
頼朝
義門
希義
範頼
全成
円済
義経
頼朝同母弟の希義の影が薄いのは何故? 巴御前
夜叉姫
鶴若、亀若、今若、天王
廊御方
弁慶
実在が怪しい奴ら 保元物語を鵜呑みにしてたので、ここ見つけて幼子四人の存在自体が創作の可能性があることを初めて知ったわ
比企にある供養塔にも四人の名前があるけど、これは「義経が逃亡中に立ち寄った記念」とか「信玄が座った石」レベルの胡散臭さってことかね 義平1141-1160 左衛門少尉
朝長1143-1160 従五位下・中宮大夫進
頼朝1147-1199 正二位・右近衛大将・征夷大将軍
頼家1182-1204 正二位 左衛門督・征夷大将軍
一幡
公暁
栄実
貞暁1186-1231
実朝1192-1219 正二位・右大臣・征夷大将軍
義門????-???? 宮内丞
希義1152-1180
範頼1150-1190 従五位下・三河守
範圓
源昭
全成1153-1203
頼保
頼高
頼全
時元
義継
道暁
頼成
義円1155-1181
範成
豪曉
義保
義経1159-1189 従五位下・伊予守 >>296
どこまでが本当なのかね
実際為朝はどのくらい強かったのか >>276
> ただ義平は武勇はあってもカリスマのようなものは無い。
平治の乱当時、義平は20歳くらい
父義朝のパシリ役の20歳にカリスマも何もある訳あんめえや
30歳過ぎくらいになれば威厳も出てくるだろう
知能は高くなさそうだが優秀な補佐役がいれば凌げる
20歳の時点で叔父急襲や平重盛戦の経験があるのだから、その後にも武勇伝は増えただろう >>302
清盛急襲なんて考えずそのまま逃亡して三浦と合流してたらなぁ…
頼朝の傘下に降るとは思えないし、義仲と義広とは敵対間違いないだろうし、独自勢力で都を目指すも頼朝に潰されそうだな
義仲と同じ運命辿りそう 義平の母は三浦氏らしいし、上総広常は平治の乱で義平配下らしかったし、義平の妻は新田氏だった
義平存命なら関東武士団は義平に従っただろう
頼朝は義平の配下として義経のような立場になっていたと思われる >>304
頼朝が従うかね
自分も周りも母親の身分持ち出して対立しそうな気が 義平がいたら、義経範頼はどっちに付いたかね?
現実は頼朝が旗揚げした時、既に頼朝より上の兄二人(義平・朝長)はいなかったために
頼朝は嫡子だけでなく長兄という立場にもあった事で二人は自動的に頼朝の下へ来た訳だが、
義平がいるとなれば話は違って来るだろう。
自分達と同じ立場の庶兄の義平の方にやはり親近感を持つという可能性はあろう。
特に義経のような戦バカにとっては義平のような豪勇な兄の方がウマは合ったと思うし。 義平が生き延びていたら、源氏の棟梁は義平になっていただろう
戦の度に武勇伝を重ねカリスマ性が高まり、かつての平将門のように暴れまくると思われる
一方頼朝は武士としては最弱だから事務的な役割しかこなせない 個人の能力じゃなくて坂東武士がどちらにつくかだろう? 義平存命なら、三浦氏、上総氏、新田氏は確実に義平の配下になる
頼朝に味方するのはには乳母繋がりの比企氏や佐々木くらい
足利氏や小山氏傍系も頼朝につくかもだが、義平軍のほうが優勢 新田は味方にはなっても配下にはならんじゃろ
河内源氏で世代上で大勢力だぞ
第三極にすらなりうる 義平、朝長が生きてたら関東騒乱ですわ
頼朝はたまたま以仁王の令旨の時に関東にいて兄が亡く長兄だったのが幸いした、と思います 初陣が負け戦の平治の乱だが無傷で逃亡成功
落ち延び途中で逸れたお陰で長田家に辿りつかずに済む
都合よく兄二人は死亡
死罪ではなく流罪、それも源氏地盤の関東へ
石橋山で負けても敵に見逃され逃亡成功
義仲が折れてくれたおかげで衝突を避けられる
義仲が戦ったおかげで平家が都から落ちる
義仲が暴れたおかげで対照的に評価and期待が上がる
弟のおかげで平家を倒せる
弟のおか(ry 名目上幕府の基礎を作れる
運良すぎ それと並行して私的には武士と主従関係を結び、公的には朝廷と折衝して権限をぶん獲っとる大政治家やがな頼朝は 朝廷工作交渉とか、頼朝本人よりも京から来た大江や中原とかが活動したんだろ
頼朝は運と人に恵まれたということだ だがその頼朝も晩年には自分の娘を後鳥羽天皇に入内させようと画策なんかして武士の支持を失っている。
所詮は源氏もまた「朝廷への帰属意識」だけは捨て切れなかったという事。
それが承久の乱の遠因になったのは確か。 頼朝は馬から落ちて氏んだことになってるが、本当は北条らに暗殺されたんだろ 京育ちといっても平治の乱で流刑になるまでの約13年間だけだが
何人も乳母つけられて美味いもの食い放題だったんだろう。普通の鎧は着られないし馬にもろくに乗れないデブだったらしい 義平は平治の乱で父の援軍として京に来た時が頼朝とは初対面だったのかな。
義平は母方の東国で生まれ育ったのだろうから京生まれ京育ちの頼朝とは面識など無かったろうし。
けど本当に↑そんな有り様だったとしたら、内心面白くはなかったと思う。
母が貴族だからというだけで嫡男として遇されているとなれば尚の事不満は大きかったはず。
『たとえ父が嫡男と決めたとしても、俺はこんなヤツは認めんぞ』なんて思ってたのかも。
「平治物語」では平重盛の軍勢と度々渡り合った事になっており、重盛に対しても
「嫡男同士不足はあるまい。さあ戦え」などと言ったらしいが、
その辺も自分こそが源氏を継ぐ者だという意識の表れだったかもしれん。 朝長が従五位下中宮大夫進、頼朝が従五位下右兵衛権佐に叙位されていた
にも関わらず義平は無官あるいは六位の左衛門少尉と伝わる
源氏の棟梁には成れなかったでしょう 平治の乱のどさくさに紛れた除目は信用できない
東の僻地からやってきた、お上りさんに即官位を与えるほど甘くはなかったようだが 平治の乱の首謀者の藤原信頼は義平が上洛した時大層上機嫌で
「大国でも小国でも、官位官職でも好きなだけ申請するがよい」と言ったらしいが。
けど義平はそこでは辞退している。
むしろ自分に兵を預けてくれ、摂津の阿倍野まで進んで平家を迎え撃ちましょう。
清盛の首を取った暁にはいくらでも官位官職を頂くと。 頼朝が上手く馬に乗れていたら義朝と一緒に知多半島で長田に討たれていただろう 義朝を暗殺した長田親子は、頼朝の平家討伐にしたがった。
懸命に働いたなら、みのおわりをやる と頼朝から言われたらしい
そして平家が滅んだあと、頼朝は長田親子に、身の終わりを与えられ処刑された 頼朝はただ二人に「恩賞をやる」と言って呼び出しただけだろ。
美濃や尾張をくれてやるとか具体的な話はしていない。
それでいそいそとやって来た長田父子を磔にして殺したらしい。 義朝とはぐれなかったら、頼朝は義朝ともども長田にころされていたのだから
どう間違っても長田を許す訳ない
それも分からずに頼朝に使われて平家と戦った長田は阿呆 為朝が伊豆大島で死去したのは1170年らしいが
あと10年生きていたら以仁王挙兵で活躍したかもしれない
残念 死去というかやらかして殺されてるからなあ
そしてやらかさなかったら為朝じゃない >>331
暴れまわっても他の源氏の下についたり同盟組んだりする未来が見えないしなんだかんだ鎮圧されそう 正直為朝は父の為義以外の者に従う姿が想像出来ない。 平家と平氏を分けたがる人いるけど
俺の家系の先祖は良文流だけど鎌倉時代に平家一門を称してたぞ
ちゃんと鶴岡八幡宮の記録に平家一門と記録が残ってる 為朝と義平が組んで平治の乱で暴れるところが見たかった気はする >>336
乱で勝っても負けてもその後殺し合う未来しか見えないw
そう考えると暴れ者のイメージの義仲が実は源氏でトップレベルに入るくらい一族を大事にしてる感はある
政治力はパーだけど この頃の闘いって大将が
「やーやー我こそは音にきく源義朝が長男悪源太義平」みたいな
名乗りを先ずはあげてたんだっけ? 大将はあげない
あれ味方に「今から突っ込みます/一騎討ちしますので証人になってくださいね」って言ってるだけだから
手柄を立てたい武士がやる >>339
そんな時代で、自ら先陣を切って武士の戦いとは言えない奇襲をかけ、民間人を犠牲にしてまで完璧に勝利する義経
頼朝と対立した時に誰も味方しなかったのも頷ける 一の谷も屋島も壇ノ浦も、当時の戦の設定を逸脱した奇襲だったから平家は対応できずに敗れ去った
義経がいなかったら平家は滅亡しなかっただろう >>341
>>342
あの時代ってのは、戦はただ勝つだけじゃダメで「勝ち方」が問題だった。
そこへただ一人型破りな戦術を駆使する義経は確かに天才(いや鬼才と言うべきか)ではあったが、
その時代の常識を遥かに逸脱していた以上最後には排斥される事は免れようが無かった。 >>344
そうなんだよね
特に自費で戦に参加している武士たちからすると、意見は聞かず独断先行で手柄は奪うわ、武士にあるまじき奇襲and無謀地味た突撃をさせられるわ、民間人も巻き添えにする奇策はとるわで、ついて行くのが嫌になったんじゃないかと
たまたま完全勝利に終わっただけでバクチな面だらけなんだよな、義経の戦術は 保元の乱で敗れ、為朝が東国落ちを勧めたのに為義は京に留まり死罪
当時の東国は、義朝、義平の勢力が強かったはずだから、為朝や為義が活動する場所はなかっただろう
どうせなら為朝の本拠地九州に落ち延びるたら歴史は変わっていたかも >>346
既に齢60にも近かった為義に九州まで行くのはとても無理だろ。
そもそも戦で敗れて逃亡していた時に為義は身体を壊していたのだから尚の事そんな余力は残っていまい。
やはり「義朝が自分の助命を嘆願してくれる」という一縷の望みに縋って降伏する以外の道は無かった。 >>345
博打は屋島の前に嵐の中を渡海したくらいしかないんだが
一ノ谷も博打の要素はあまりないぞ 壇ノ浦にいたっては多勢で少数の平家を包囲してるし
どこにバクチの要素があるのか知りたい 壇ノ浦は源氏にとっては最初で最後の本格的な海戦だった。
たとえ大軍を擁していても、陸の上では強くても「船同士の戦い」なら源氏は勝てるかどうかは分からないという意味で、
不安要素が無かった訳ではない。
戦いの当初は潮の流れも平氏軍有利に働いていたしな。
それまでの常道を無視して「非戦闘員」と見做されていた水夫を射殺させたのも、
とにかく不利な状況を打開する事以外考えていなかったからだろう。
けどその時は良くても後になれば「あんなやり方は無い」となるのもごく自然な事。 >>351
水夫射殺は戦後に小説で書かれたのがさも史実のように書かれてるだけ 潮の流れとか水主射殺とか、いったい何を参考文献にしてるんだかw
少なくとも合戦の模様を記す文献は『平家物語』しかないんだが、
どうも>>351は『平家物語』を読んだこともないようだね。
海戦って書いてる辺り司馬遼太郎みたいなクズがバイブルのようだな。 関門海峡を海と呼ぶなら瀬戸内海は大洋で太平洋に至っては銀河系の広さだなw
あのな、平家には「水軍」はあっても「海軍」はないの。
なにが海戦だよバカかw 舟戦といっても大砲がある訳でもなし。
ほとんどは小船に乗った侍が弓矢放ったり、相手の船に乗り移って白兵戦やるだけ
烽火や鉄球とかの兵器もなかっただろう 壇ノ浦で平原が負けたのは、平家の味方の水軍が裏切りまくりで源氏方になったからだろう
熊野水軍とか まさに源氏軍にフルボッコされた平家みたいな351よ、決して波の下にダイブなんてしちゃいかんぞ。 義経より義仲のほうが戦が上手かったと思う
そして単体の戦力なら為朝はチートとして頼朝もなかなかだよね だが個人での武勇なんてものは必ずしも「将の器」には結び付かないからな。
義経も為朝も義平も所詮「侍」であって「武将」ではなかった。
義仲だけは両立していたと言えるかもしれんが、頼朝のような有能なブレーンがいなかった。 義平は武将の器だったと思うぞ
まだ若くて実績は少ないが、父義朝が東国を離れたあと、義平が東国武将を統率していたようだし。目障りな叔父を攻め滅ぼしている 平治の乱で頼朝が鎧を着ようとしたデブすぎて入らなかったとか、馬にもろくに乗れなかったとか。
伊豆での挙兵の際も、北条一味が山木を攻めてる間、頼朝は北条邸で喚いてただけだし。石橋山では惨敗だし
頼朝は戦以外の工作で成り上がっただけ 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 >>363
戦が強いだけの奴は単なる営業マン
頼朝は現代企業に例えると大企業の創業者だよ >>363
頼朝が嫡流の証の源太産衣着を着たんだから違うんじゃないか?
石橋山の時も敗走時に追いかける敵に百発百中だったとか、3人張りの弓を引いたとかの逸話はあっても馬に乗れないなんて聞いた事ないぞ
最後は限りなく怪しい落馬事故だが 吾妻鏡とか頼朝と北条一味に都合のいいように捏造改竄されたやらせ本だからな
頼朝関係の記述は半分以上信用できんわ >>366
ソイツは藤原信頼のエピソードと混乱してるようだね 源氏八領と呼ばれる鎧のうち、薄金(うすかね)の鎧は平治の乱で源為義が着たと言われている。
薄金の鎧は源氏棟梁のみが着用を許された鎧らしいから、為義は源氏棟梁だったのかもしれない 源氏八領の鎧は保元の乱と平治の乱の際、散逸されてしまったが、楯無の鎧のみ現存しているとされている
平治の乱の際、源義朝は楯無の鎧をつけ逃亡途中で脱ぎ捨てたらしいが。
その楯無の鎧が何故か源義光から甲斐源氏に伝承されている。どちらかは偽物だろう >>367
頼朝というより北条だよね
13人の合議制も嘘らしいし >>370
おそらくは義光伝承の方が偽物ではないのか。
義光は一度は棟梁になる野心を燃やして部下に甥の義忠を殺させているからな。
自分への拍付けのために鎧をデッチ上げるぐらいの事はしても不思議じゃない。 為義は義忠の養子として、源氏伝来の宝物を相続したのだな 八龍の鎧は源為朝や源義平が着用したらしい
平治の乱での敗北逃亡途中で義平は美濃あたりで八龍の鎧を脱ぎ捨てたらしい
しかし、それが何故か義経の手に渡ったとされている 別に殊更に「悪」などと付けなくても為朝の強さは誰もが知る所だからな。
「鎮西八郎」の方が響きもいいしカッコイイではないか。 為朝にどうしても「悪」の称号をつけたければ「鎮西悪源八為朝」といったところか 仮に保元の乱で上皇方が勝っていたら、為義は改めておそらく最も戦功を上げたであろう為朝を
嫡子にしたなんて可能性はあるかな? 真の嫡流となるには、累代伝承の宝物を相続してないとな
皇室の3種の神器みたいなもの 家義光流だけど、10年前に弟に騙されたわ、懲らしめたら
逃げちゃったけど、いま何処でなにしてるんだろうな(^^;
魔が差したけど、兄ちゃんを裏切らないと逃げ出すまで言ってたけど
先日判明したのは、母方は三浦氏の末裔みたい。 >>388
何言いたいのか分からんが、日本語で頼む 遊行僧世阿弥の子孫でも武力があれば源氏氏の長者になれるんだもんな 松平→得川は偽源氏だろ
吉良から家系図買って家系を偽造
得川が源氏とか本気で思ってるなら、かなりの池沼だな 先祖伝来の宝物とかなくても朝廷が氏の長者と認めたら氏の長者となる
偽源氏の徳川家康は朝廷から源氏の氏の長者とされて征夷大将軍になった 源頼朝の清和源氏が一番有名だが、宇田源氏、村上源氏、嵯峨源氏、花山源氏、正親町源氏他もいる 河内源氏は頼朝以前の極位を考えると……まあその程度の家柄 頼朝以降は臣籍降下で与えられる姓は源だけだったろ? 細かいことだが、源は姓ではなく氏だろ
姓(カバネ)は古代は大臣、大連、国造、県主等
壬申の乱後に天武天皇が定めた八色の姓では真人、朝臣、宿禰等
奈良時代以後は有力氏族の姓は、ほとんど朝臣になってしまったらしいが 源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。
原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、
自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。
源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた。
武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初
室町時代には清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており、徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。 源義家も源頼朝も源氏長者ではなかった。もちろん源為義も。
清和源氏河内流という枝葉末節の中での自称嫡流
源頼朝と息子二人は征夷大将軍になって武家の棟梁となったが、全源氏のトップとなった訳ではなかった 氏の長者なんか西国でしか通用しない慣例だろ
東国は鎌倉殿・征夷大将軍が絶対だ 源実朝は最期一瞬だけ正二位右大臣になったから
暗殺されずに生き延びていたら武家源氏初の源氏長者になっていたかもしれん 建保6年(1218年)に源実朝が内大臣になった時に、先任の大納言だった久我通光を超えて、源氏で一番高い官職には就いていた。
実朝より上にいたのは、関白:近衛家実、太政大臣:三条公房、左大臣:九条良輔、右大臣:九条道家。
その後、九条良輔が亡くなって、道家が左大臣に昇格して、実朝も右大臣に昇格する。 徳川家康は生前は従一位右大臣、源氏長者。
死亡直前に太上大臣を贈られ死後正一位を贈られた
源為義は従五位下、左衛門大尉、検非違使
六条判官、陸奥四郎
最期は保元の乱で敗退し息子義朝に処刑される、59歳 為義が幼少期の義朝を早くに関東にやったのは
やはり為朝同様勘当同然の厄介払いだったのだろうか そのあと義賢が嫡子となり関東に進出したから、そんなところなんだろう。
力をつけた義朝への牽制。しかし義平に返り討ちされた。 義賢が関東に下向した時は事実上廃嫡された後だろう?
既に嫡子の座は頼賢に移っていたはず。
むしろ廃嫡されたから義朝の牽制役にされたのではないか。
嫡子のままならそんな役割をさせるとは思えない。
まだ下に適当な弟はいるのだから。 手下や為義自身が荘園を襲撃したりの悪行が多かったから、従五位下から出世できなかった
息子為朝が為義の真似して九州で暴れたら、為義は検非違使解任されて無職となった
為義に嫡男扱いされて喜ぶ息子はいたのか? >>407
義朝も見下してたろうね
長男である自分を追いやったにも関わらず、その後も全然駄目なオヤジ
一方自分は為朝同様にどんどん配下を増やして関東を固めた
殺したくなっても仕方がない 親殺しは後々まで響くから戦略的にはやりたくない
信西の厳命でやむなく処刑した >>409
これだろうね
実際は父親もそれに従う弟達も目障りだったから殺す分にはいいけど、後の評判考えて助命嘆願したんだろう というよりそもそも処刑命令が出された証拠がないらしい
無理やり父殺しさせられた事にしたのかもね。後の頼朝あたりが 為義は無実の叔父義綱一家を攻め滅ぼした
そしてその報いとして為義は息子に処刑された 武家源氏は内部抗争が醜いから衰退した
そして偽源氏得川家康が源氏を乗っ取った 処刑命令は為義だけらしい
弟達は生かしておけば危ないから義朝が自発的に殺した
義仲の子供や義経の子供を殺した頼朝も然り
清盛は甘すぎる 源経基が陽成上皇の圧力で、どこの馬の骨か分からない無頼漢の満仲を無理やり養子に押し付けられた。 〈祖父〉貞純親王死去の翌年〈息子〉六孫王経基誕生
〈息子〉六孫王経基よりも〈孫〉多田満仲の方が先に生まれる
単に400年後成立の尊卑分脈の記述だから不正確なのか
それとも別の理由があるのか 知らない
源満仲の子の頼信が関東の神社⛩にお参りして起請文を報じた文は見つかってる
本人は自分は応神天皇の末裔だの名乗ってる ありえるなら継体天皇のときに滅んだ本流があるだろ
武烈天皇のときに滅んで継体天皇が天皇家を継承しただ
その雄略〜武烈天皇の方の系図かなにかを引くやつが源常基の養子に入り家系図を買った可能性が考えられる
生き残りいたとしたらな どっちにしろ天皇家の血筋は引いてるわけだから皇族の末裔っちゃ末裔やがな 現天皇家ってのは継体天皇の血を引く末裔らなわけ
継体天皇の子孫らには全て真人号が与えられた
朝臣号に切り替えたのが源氏、平氏
天皇家にまとわりつく影はこれやな
応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、仁賢、顕宗、武烈
滅んだ天皇家本流 こな仮説がほんもんなら清和源氏は天智天皇の血すら引いとらん 家系図ってのは神の血を引く連中らが保管、管理していたからね
そっちの記録が残っていたなら自分の祖先が誰だか知るのは可能なの 天武天皇あたりにしろ天智天皇の弟を名乗ったが天智天皇より年上みたいな話もあるからの
天武天皇は継体天皇の末裔らに真人号を与えてるんだから別に迫害はしとらん
てより自分自身が継体天皇らの子孫の女性らと積極的に婚姻政策やってるからな 持統天皇と藤原不比等らはどっちかっちゃ天武天皇の血を引く皇子らを最終的には滅ぼしとるわけなんだな
そんで全て天智天皇の血を引く者らだけを残した
この時代から藤原氏の専制が始まる 最終的には天皇家本流が滅んだのが西暦506年
継体天皇が即位したのが西暦507年 このスレでは義朝の幼い弟は居なかった説が濃厚なのか 史学だと、義朝の弟、娘の夜叉姫、巴御前、弁慶は皆怪しい >>435
元木氏は「第一資料に見られないが、いた可能性は十分ある。ただし保元物語内のように朝廷から処刑命令が出た形跡はないので、頼賢以下6名と幼童4人の処刑自体は義朝の独断であろう」と述べてる それは「行家の下に弟たちがいた可能性はないこともない」であり、
四人でしかも名前が保元物語の通りである確率は天文学的に低いだろうな。 >>439
一応元木氏は名前の通りの四人にも言及していた
他資料に名前が出てこない=日記に登場しないことも、物語の通り朝廷から処刑命令が出た訳でもなく、ましてや戦乱とは無関係な幼児ならば義朝が独断で処刑した場合、日記にわざわざ書かれない理由は大いにあり得ると
ただ、個人的には為義の本妻扱いの女とその子供なら、処刑された場合、戦とは関係なくとも名前が出てきても良いような気がする 一次史料に名前がないのに名前がわかるわけないだろ
人数もどうやって知るんだよ >>441
一応吾妻鏡でも名前は出てるし、家系図もある >>440
『兵範記』には為義と五人の義朝弟の処刑のことが記されているよ。
>義朝が独断で処刑した場合、日記にわざわざ書かれない理由は大いにあり得る
なら四人の幼子についても記されているべきでは? >>444
>>440は、「戦に参加したわけでもなく、それも義朝の独断で行った処刑なら、わざわざ日記に書かれる事もなかったのでは?」って言いたいんじゃない? じゃあ処刑されたという事実があったかどうやってわかるの? >>446
同時代の記録に何一つ残っていないのに「四人は実在して死刑になった」の根拠は何なの?
それならニュースになってないけど今日は安倍総理が近所のスーパーで万引きした、
マスゴミは忖度して黙っているんだ、というフェイクニュースも成立するんだよ。 よく考えたら「義朝の独断で処刑」って意味わからないね >>449
保元物語にあるように、朝廷から親兄弟を処刑するよう命令が出た記録はないらしい
元木氏曰く、物語では助命嘆願も叶わずやむなく処刑させられた事になってるけど、実際は河内源氏の内乱をまとめるべく戦後処理と称して義朝の独断で処刑したのではないかとのこと それは合戦に参加した弟たちのことであって実在しない四人の幼子の話ではないだろ >>451
>>450だけど、俺は誰も幼子四人について触れてないぞ >>451
弟どころか為義の処刑命令や助命嘆願も当時の記録には見られないらしいから義朝がこれ幸いとやったのかもね 義朝にしてみれば、自分の棟梁の座を確固たるものにするためにも
自分に敵対した弟は生かしておく事は出来なかったのだろうな。
その後の平家との戦いの結果は全く逆ではあるが、義朝のやった事も頼朝と変わらん訳だ。
自分の地位を固めるために弟を殺す辺りは同じ。 >>454
それが河内源氏だよね
敵対したら身内でもその子供でもおかまいなし
敵の子供を助けた清盛とは真逆 頼朝が殺さなかったのは北条氏と結んでいた全成だけ。
と考えると、頼朝による弟粛清は北条氏が裏で糸を引いていた可能性は? 御葉門てんで親族衆の家柄制定してるけどね
足利なんかその筆頭だろ
義経、範頼、義高は殺しちまったけどな >>440
一応四人の幼子については以下の形で吾妻鏡にも出てくる
内藤行遠の四人の子供の内、為義妻(四人の幼子の母親)、平太政遠(幼子一人の乳父)、義朝妾(夜叉御前の母親)
ただし吾妻鏡自体がねつ造多いし、夜叉御前に至っては平治物語では義朝死後に自殺しているのにこちらでは生きて成長した頼朝と再会してる
また保元物語では幼子処刑の後に政遠と為義妻が自殺しているが、こちらでは子供含め全て自殺
元木氏曰く、義朝に乳父含めて一家全員殺されたか、もしくは為義の死を知り今でいう一家心中ではないかとも
少なくとも物語のように幼子処刑命令が出た形跡はないから、あったとしても「将来の悪い芽を摘む」意味だったのかもね 源平合戦で戦死した頼朝の親族
・仲家(義仲兄)
・希義(頼朝実弟)
・義円(異母弟)
頼朝に倒された頼朝の親族
・義仲(従弟)
・義高(従甥)
・義広(叔父)
・行家(叔父)
・光家(従弟)
・義経子(甥)
・義経(異母弟)
・範頼(異母弟)
頼朝殺しすぎw 残念賞な頼朝の親族
・阿野全成(異母弟)
頼朝没後まで生きたのに。
頼朝の息子に倒された頼朝の親族、でもあるが。 >>459
物語のような処刑ではなく、強制自殺かも >>462
どっちも義仲に接近した時点で運命は決していた。
義広の場合義仲は同母兄の義賢の子という事もあったかもしれんが。 義仲って世間一般のイメージと違って男らしくていい奴だったんじゃないかって思う
ギリギリまで頼朝にも気を使ってるし >>463
元木先生は、「処刑命令が出た記録はないので、義朝の独断で幼子4人も殺したのだろう」と仰っている。
物語とは違って、そこら辺は後継者としての地盤固めをする必要もあってかなりドライだったのかもね 為義流は平家に倒されるより同属の殺し合いのほうが多いってのが凄い 為義自身も殺してるからな。
叔父(大叔父?)の義綱を。 >>467
平家との戦いで死んだのって義円くらいじゃないか?
他はほぼ同族にやられるか、北条にやられるか >>471
駒王丸と違って、仲家はするっと頼政の養子になれてるあたり、義朝親子も頼政には手出し出来なかったのかね 頼政は天皇の護衛だし、いくら源氏といっても流れが違うからな。 何代も遡らないと先祖が一致しないほど血筋が違うものな。
まして放っておいてもいつ死んでもおかしくないくらいの高齢ならライバルにはなり得ないし、
だから義朝も特に警戒はしていなかったのだろう。
もっとも皮肉にもその頼政のおかげで頼朝は復権出来たようなものだが。
義朝はそんな事は知る由も無く死んだが、もし頼政がいなかったら頼朝は「源氏の地盤」とも言える
東国に流される事は無く、従って後の復権も無かった。
令旨は届いて旗揚げぐらいはしたかもしれんが、希義のようにあえなく敗死するのが関の山か。 >>465
わかる
身内を大事にする数少ない河内源氏って感じ
皇位継承への口出しも、令旨を出して死んでいった以仁王の遺児を担いだあたり、本人なりに筋を通してる気がするしね 15年前義経の追われるルートに沿って旅行したら
一気に運気を落として貯金がゼロどころか借金人生に転落
勇気ある人はやって検証してみないか? そうなのか
俺は派遣社員の時にそのルートを旅行して半年後に正式雇用されたよ 四国お遍路を逆周りすると恐ろしいことが起こるという噂も・・・ 義平
朝長
頼朝
義門
希義
範頼
全成
義円
義経 義門は実在じゃない可能性が高いらしいな
あとから系図に書き加えられたとか ヅラスガ「アベコロナが順調に殖えとるな
よっしゃよっしゃあ!」 義平 1141~1160 左衛門少尉
朝長 1143~1160 従五位下中宮大夫進
頼朝 1147~1199 正二位右近衛大将
義門 不明~不明 正六位下宮内丞
希義 1152~1180 無官
範頼 1150~1193 従五位下三河守
全成 1153~1203
義円 1155~1181
義経 1159~1189 従五位下左衛門少尉 義仲好きいる?
個人的に源平最強の軍略家だと思うんだ 義仲は好きか嫌いかといわれても困るが興味がある人物ではある >>487
人に好かれる性格だったんだと思う
頭が良かったかは疑問だが 前にも書いたけど、なんで梶原景時は「平三」なのに、息子の景季は「源太」なの?
平氏から源氏にかわってね? >>486
義経より義仲のほうが軍略家としては上だろうね
義経はバクチの部分が強い
政治が理解出来ないのは2人とも一緒だけど 政治が理解できないといっても相手が日本史上でもトップ級英雄の頼朝だからねぇ。
白鵬に勝てなかったら弱い横綱という認定するようなもんだわ。 >>491
以仁王の遺児を立てたい!っていうのはある意味筋が通ってるんだけどね
問題は武士の分際で皇位継承問題に口出しした事 そこらへんの感覚は京育ちじゃないとだめだったかな
育った先もそこらへんの感覚を教えられなかっただろうし 親王宣下も受けられなかった以仁王の、さらにその遺児が皇位を継ぐのは無理があるって事を
義仲に助言出来るようなブレーンがいればまた違っていただろうがな。
いくら源氏が蜂起する直接のきっかけになった令旨を出した張本人とはいえ、所詮はただの「王」であり、
厳然とした位の差ってものがあるんだから。 ガースー「宣言解除して聖火リレーでばか騒ぎ
大阪コロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています