【祿壽應穩】伊勢早雲庵宗瑞 part02【針積玉碎】
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伊勢盛時 (康正二[1456]〜永正十六[1519])
仮名:新九郎 入道名:早雲庵宗瑞
戦国時代の武将、政治家。京都出身。
後の小田原北條五代の始祖。
幕府中央実務官僚であったが幕命を帯びて駿河下向、今川氏の内訌に軍事介入して鎮定。
一旦帰京したが伊豆堀越公方の内紛に際して再下向、幕府、今川氏、扇谷上杉氏等の指示と支援を受けて伊豆國に侵攻。
ここまでの経緯と功績により今川家重臣となる。
以後数年の伊豆制圧戦を経て事実上の伊豆國主、戦国大名の立場を確立する。
但しこの間も今川家の軍事指揮官としての活動は継続。
関東の情勢を受けて扇谷との同盟のもと相模國西郡を制圧。
後に扇谷及びその配下三浦氏と諸権益の対立を生じて開戦、長期にわたる戦争の結果相模國全域及び武蔵國の一部を支配するに至る。
最晩年には上総真里谷武田氏からの支援要請を容れて房総にも侵攻。
伊豆侵攻後から室町型秩序を排して領国直轄統治の展開に努め、相模國進出後は検地等を通じて公正、合理的な税制の確立に尽力。
更に相模國完全制圧と前後して関東一円を襲った壊滅的飢饉状況の中、村の賦役の法的根拠を全て所謂「虎ノ印判」状のみとする制度改革を実施。
これは諸々の中間搾取を排除して飢饉下に在る村の負担を軽減するものであり、村から大名権力体への直接訴訟制度「目安制」の創出と併せて後世の北條善政伝説の核事実となったと考えられる。
箱根湯本、金湯山早雲寺に永眠。
戒名:早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門 【祿壽應穩】
祿(財産)と壽(生命)は應[まさ]に穩やかなるべし
(「虎ノ印判」文言)
【針積玉碎】
伊勢早雲は針をも藏に可積程の蓄仕仁に候つる雖然武者邊につかふ事は玉をも碎きつべふ見へたる仁にて候由宗長物語候事
(「朝倉宗滴話記」より) 伊勢宗瑞と自然災害との関わりに注目している。
所謂「百姓憐愍」伝説の元ネタとなったであろう行政改革が壊滅的飢饉への対応から始まったのと同様、
伊豆制圧戦争の決着は明応七年大地震(M8.2〜M8.4)及びこれに因る大津波、更にその三日後に襲来した大型台風と、
小田原城奪取は明応九年相模湾地震と、
それぞれ分かち難く結合している。
むしろ自然の不可抗的脅威あってこその伊勢宗瑞、とさえ見える。
明確な史料は残っていないものの、
阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災等が現代科学技術文明にさえ激烈なインパクトを与えた事実に鑑みれば
中世社会にとって上記の災害が激烈な衝撃だったことは想像に難くない。
気候変動と地殻変動の中世に在った「戦国大名」をこういう視座から眺め始めると思考のパラダイムが根本から覆っていく。
ありがちな講談的人物論中心の英雄史観には我々素人もそろそろ訣別する時が来ている。 伊豆って幕末でも九万石くらいだよね?
武蔵は百万石以上はあったろう
そう考えると伊豆から出るしかないよね >>6
それなのに、なのか、だからこそ、なのか、
何故か伊豆が関東の、日本の導火線になった歴史事例が幾つもあるのは面白い。
もっとも伊勢宗瑞の小田原事案は扇谷から「伊豆で貸した分を返せや」と要求されたってのが真相に近いようだが。 伊豆一国で幕末時点で八万石ちょいだろ
しかも畑や漁業からの年貢も含んで
天城辺りを中心として幕末御用林が多いのは後北条氏時代からの遺制かもな 天城と云えば山葵。
山葵と云えば奥多摩。
両方とも北條直轄領でもあり徳川直轄領でもあり。
しかし山葵の栽培は江戸時代から。
徳川将軍家は賞味できたろうが北條屋形は間に合わなかったか。
残念。 >>8
北條は伊豆の林業に関してもまた例によって詳し過ぎる行政文書が残ってるな。
農林漁商工業、みんなその調子だから狸が北條の民政を丸呑みするわけだ。
新制度を拵えるよりうんと楽だし確実だもんなあ。 >>10
後北条が山奉行を置いて支配した天城一帯の御林→幕府の御林→現在の国有林と今も続いている 北條の被官・給人に対する軍役賦課はもちろん貫高に応じて定められていたわけだが、
平山優の研究から読み解くと貫高に対して単純な比例関係にあるんじゃなくて正偏向の非線形(高禄の者ほど重い)、即ち累進式になってたようだ。
これ、ひょっとして、小泉改革以後の日本国の税制より「民主的」なんじゃねえか…。 >>12
宮城美作守などの軍役を見ると、貫高に比べ明らかに多いよな
特に馬上と弓鉄砲が多い 伊豆って不思議な国だな
遠流の地とされた伊豆から、流人の頼朝が旗挙げし北条氏をはじめ河津、曽我、宇佐美、土肥、伊東、工藤、加藤らは全国に所領を得た
伊豆から関東、やがては全国に・・の歴史 >>7
いや尾張や三河のほうが多いいよ。
近代史の人材輩出は薩摩、長州だけどな。 >>17
現代の政治制度が長州が作り上げたというなら真実だな 前スレに居着いてた構ってちゃんが新スレにも来たか。
此奴の書込には独特のキモチワルさがあるから一目で判る。
真っ当なスレ住人の皆さんは触らないようにしましょう。 伊豆から、出ずる
日本語は、連環の輪
文字の意味も、さっぱりわからねえな 北條の林業。
北條(に限らず戦国大名)は山の樹木の伐採を厳しく制限するのみならず森林育成も奨励した。
深山の杉、檜は育苗植林を、低山や里山なら曾孫生えする櫟、小楢、栗等の落葉広葉樹を、と。
もちろん大名権力体が戦争や普請で必要とする木材をいつでも確保できるようにしていたわけだが、
実はそれと同じくらい洪水防止という目的を極めて重要視していたと謂う。
山林の荒廃、保水力の低下、土砂崩れや洪水の頻発と激甚化、それが更に山を荒らして…
という「洪水は人災」のメカニズムを正確に理解していたことに驚く(驚いちゃ失礼か)。
戦国大名の環境問題意識と云うと奇異に感じるが、
文字通りヒトの生命と領国の運命が懸かっていただけに現代の我々よりもリアルで切実な感覚だったかもしれない。
考えてみりゃ当り前の話、ケロッと忘れていた直近百年の方が異常だったな。
【参考文献】
「軍需物資から見た戦国合戦」 盛本昌広 2020 書いていてフと気付いた。
國木田獨歩が逍遙して称揚した「武蔵野の雑木林」の形成は江戸幕府の新田開発からだと思い込んでいたが、
これも実は北條期に淵源するものだったのか。 後北条氏の分国では木一本首一つといわれたほど立木の伐採、山の入会は厳格だったからな 後北条氏分国内の六斎市に代表される経済実態に興味がある
これもある程度の史料が残っているだろうから調べると面白いだろうね
他の地方の史料が少ないから後北条の経済圏の特徴なのか一般的だったのか比較が難しいかもだが
六斎市が設定された地域は今も主要地であるから話は壮大なスケールになりそう >>29
八王子は北條氏照が瀧山から移った時に市も″持って来た″ようだが、
瀧山のそれが氏照の代からなのか大石氏に起源するのか。
江戸ではもちろん太田道灌の時代から市が立って殷賑を極めていたと云うが、
それが道灌横死後の動乱で一旦断絶したのかそれとも北條〜徳川まで連続していたのか。
北條以前の関東は地場・民生の史料がなかなか無いからなあ…。 単なる地方豪族ではなく、分国を標榜し国法を施いたからにはそれなりの配分を意図しての市の設置だったろうな
関係ないかもしれないが、関東では建物の跡から古銭がよく出土するよな >>31
大問題「撰銭」で捨てた悪銭だったりとか、、、 >>32
関東各地から出土する埋蔵銭は建造物の床下から出土するから非常用の蓄えだったと思う >>34
北條に限らず多くの戦国大名領国で貨幣経済が発達していたとみていいんじゃないか。
イ)年貢や給金が実際に貫高決済(貨幣納付)されていた
ロ)撰銭問題が行政制度の変革を促すほどの影響力を示した
ハ)年貢の現物納付容認後は貫高を定高として市場相場による相当現物量が都度指定(即ち現物の方が変動)された
ニ)大名領国を跨ぐ広域交易も盛んに行われていた
−−等々の諸点から、既に貨幣を介した流通が尋常の姿になっていたと考えられる。 >>20
長州の人材宝庫はなんやねん
あんなちっぽけな藩から次から次へと近代日本の支配者が出るなんて信じられんわ
クソ東北土人なんかに国政を任せたから日本は敗戦国になったんだわ 北条早雲をそれまでの悪役から義を重んじる英雄に評価を一転させたのが司馬遼太郎の大功績 >>37
スレチだが長州藩の一文字三星は他藩にはない妙なカッコよさがあるよな。 日本を敗戦国に追い込んだクソ東北土人の責任は重い
昭和初期も薩長が国政を支配してれば日本は敗戦国にならずに済んだ >>38
まぁ司馬なくして北条早雲の復権はなかったのが真実だな。 東北諸藩および東北軍人は経済産業を丸っきり理解できなかったのが戊辰戦争も日米戦争も敗因の原因だろ。
幕末から藩そのものが総合商社と化してた長州は恐ろしすぎるよ。 スレチの自演荒らしをそれ以上積み上げると荒らし報告スレへの報告要件を満たすことになる。
報告が通ればレス削除やアクセス規制の対象になるが、承知の上でやってるのかな? >>39
おまえさぁ
後北条氏の貫高制とか理解でき? 北條の舟運について色々読んでいるが、
栗橋時代の北條氏照は三十艘もの商船を配下に置いていたとか。
しかもそんな内陸から「鯛、海鼠、蛸」を注文する書状が残ってたりする。
ここから解ること。
イ)伊豆相模江戸外房の海の支配を活かして旨い肴を喰っていた
ロ)北條氏照は呑兵衛 >>47
栗橋まで届けさせるとなると鯛や蛸も塩漬けだろうけど
、まあ酒には合うよな
氏照っ呑兵衛だったんだ?
氏邦って名の地酒は寄居町にあるけど 過去に国内で発見された埋納銭発掘例のランキングで一位は以外にも北海道(和人地の舘跡から出土)、二位三位も石川や新潟で、古くから貨幣経済が発達していたはずの近畿や西国ではないんだよね 昔、埼玉の蓮田の岩槻配下の土豪の館跡から27万枚の銅銭が出土して話題になってたね
何で埋めるんだろうと疑問に思ってたけどまじない的な要素もあるのかな? >>51
火牛の群れと一緒のこれ↓かな。
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/da/203/wm20120223194617-1.jpg
(出典:小田原市公式サイト)
今やこれは水戸駅にある黄門様&助さん格さんの銅像と同質のものだろう。
「水戸黄門」「遠山金四郎」「大岡越前」「宮本武蔵」「真田幸村」「齋藤道三」…そして「北條早雲」。
彼等は既に史実とは別世界の虚構に懇ろに封印された。
これからも愉快痛快な英傑譚として親しまれ愛され続けるだろうが、歴史を語る場に蘇ることは二度と無い。 「本書は、伊勢早雲庵宗瑞についての」
黒田基樹氏は著書『戦国大名・伊勢宗瑞』の最初の一行をこう書き起こしている。
正に他ならぬ黒田氏こそが「北條早雲」を過去へと葬った人であってみれば単に「伊勢宗瑞」と記すべき所、
殊更に斯様な書き方をしたについては氏の明確な意志が感じられる。
実事求是の学究としての矜持を保ちつつ、
広く親しまれた「北條早雲」とその伝説に想いを寄せた人々への敬意を示したのではないか、と。
この一句を以て「北條早雲」への訣別、鎮魂としたように思われてならない。 >>50
これ1トン超えてて東京国立博物館のCTスキャナの重量制限オーバーしてたってね
270貫というと中堅〜大身国人の年収というところだけど、それが銭にすると1トン超えってなかなか不便だよな >>54
この大量出土の銅銭、岩槻近くの黒浜って所なんだけど、岩槻を追われた太田三楽斎が城の奪取をねらい潜伏していたとされている場所でもあるのが気になる
伝えによれば出土した場所は三楽斎家人の館跡だというし
銅銭を庭や床下の土中に埋める風習は全国的なものだったらしいけど、石の蓋とか建物が焼け落ちた後も考えていたようだな 戦国期の遺跡からの出土品って変に生々しいから面白いよね
埼玉の私市城跡だったと思うが、堀跡から鮮やかな刀創痕ある首(頭蓋骨)が出土した。しかも若い女性の首が。
軍記物にあるように激怒した不識庵謙信率いる越後勢が私市城攻めで城兵のみならず女子供まで皆殺しにしたってエピソードも本当なのかもな?と想像が膨らんでしまう
銅銭もそうだけど、漆器類や磁器類が多いが、刀傷がある人骨や馬具とか兜とかの出土品がどういった経緯で土中に残ったのか気になる 早雲の若い頃、文正年間の京の米価でいうと銭28貫文で米41石買えたそうだから、銭270貫文でおよそ400石(60トン)、銭1トンが米60トンなのか 銅銭の量も凄いが、銭が入っていたこれだけの大瓶が尾張の常滑焼なのもそそる >>57
> 文正年間の京の米価でいうと銭28貫文で米41石買えた
即ち 銭一貫文=米一石四斗六升。
約八十年後の永禄七年、
北條領国の「穀反銭」の公定歩合は銭百文で一斗三升、
即ち 銭一貫文=米一石三斗。
約10%のインフレだが八十年間の変動としては極めて少ない。
戦国飢饉状況下の絶対的な米不足を考えると俄かに信じ難いが、
都と関東の格差なのか、
食糧流通経済そのものが潰滅した結果なのか、
それとも北條の原理として市場の実相場と乖離した「良心的」な歩合設定としたのか。 都のレートが同時代の関東と同一だったとは思えないし、むしろ都のレートは例外的だったと思う
それにしても100年もの間、関東で大名としてやってた北条なら貨幣と流通と物価の安定的をはかる政策施策は合戦以上に注力していただろうな 辻照の食べ物の話が出てたけど、当時の関東の食事事情に興味出てきた
衣食住の食は国の基幹的なものだから後北条も相当影響を及ぼしたはず
或は影響されたはず
詳しい人がいれば、まずは調達方法など知りたいので教えて! >>61
その件に詳しい人はいないだろうなあ。
本職の研究者もなかなか分からないんじゃないか。
以下、連投でテキトーなことを書き散らかしてみる。 北條氏繁が書いた『出陣次第』に出陣・帰陣・具足着始の時の献立と食事作法が詳しく記されている。
献立は 昆布、熨斗鮑、打ち鮑、そしてもちろん御約束の、鰹。
鰹については氏綱の噺が世上に有名。
先に書いた氏照の 鯛、海鼠、蛸も併せて海の幸を大いに好んだことが窺える。
伊豆、相模灘、武総之海、香取之海、外房と、これほど多様かつ長大な沿岸環境を領有した戦国大名も珍しいんじゃないか。
その現れか、上記の肴も内湾の種から外洋の種まで揃っている。
この辺が北條ならではの特色と云えるのかどうかは知らない。 肴についてもう一つ。
これは史料も何にも無い妄想だが、
北條は利根川を初めとして関東の大河の過半を押さえていたから川肴も盛んに喰ったんじゃないか。
江戸時代には「関宿の鮭」がブランド品になっていたんだが或いは戦国時代にも食されていたかもしれない。
北條氏康があれほど関宿の領有に拘ったのも当地の川肴が喰いたかったからなのかもしれない(ねーよ)。 流通について。
海陸一体の舟運体系を構築していた北條は水産物や沿岸産品の輸送に困ることは無かっただろう。
特に海産物の方は漁師を物流にも軍役にも活用していたから迅速な広域流通が可能だったと考えられる。 肴以外について。
『出陣次第』の献立にはまた、これも定番の 栗 が挙げられている。
北條の林業に関する話題で木材用の栗の育成奨励に触れたが、それと関係があるかどうか。
北條氏邦が鉢形に入った時、
小田原の想い出に蜜柑を持って行って同地でも栽培したと謂う。
温暖さ故か当時既に小田原で蜜柑が普及していたことが知れる。
以上、駄文連投御免。 >>64
網代とかアジの干物ばかりですごいけど後北条の番肴の名残もあるのかな >>67
魚ッ喰いだねェ、名将氏康公。
もう塩でも無塩でも生でも干物でも。
もちろん網代の干物も大量発注。
以下、『戦国時代における南関東の交通』中丸和伯1959 から抜粋。
(脱字と思われる部分も原文ママ)
**********
氏康は弘治3年(1557)11月に国府津郷の村野惣右衛門に 「御前様御台所諸役御免条々」 をさだめ、永禄3年(1560)2月には毎月小田原城へおさめる魚値段きめてから塩でも無塩でも随意と現物納させた。
また永禄4年3月には小やた(八幡)の小代官百姓に生たい(鯛)3枚,、永禄11年8月には伊豆網代官百姓に干鯛60枚にスルメ500枚を接客用として納入させた。
そのご隠居した氏康は永禄9年6月10日に自領国府津郷から火急の御用の御肴をその日の夕方8ツ以前に台所へもってこさせたり、永禄6年10月16日には須賀 (平塚市)の田中に小鳥のゑ御用のあじ200疋を2とき(4時間)のうちに小田原へもってくるように命じた。
********** 書いた後で気が付いたんだがこの件、
> 永禄4年3月には小やた(八幡)の小代官百姓に生たい(鯛)3枚
永禄四年三月ってカゲトラと不愉快な仲間たちによる小田原城攻囲の真っ最中じゃねえか。
なんで鯛なんぞ取り寄せてるんですか氏康公…。 >>69
小田原に馳せ参じた諸将をもてなす宴でもしてたんですかね?
生の鯛から連想すると、ひょっとしたら軍神に捧げる供物(当然神事の後には食した)として使ったのですかね?
一門宿老が神前に烏帽子・白の直垂姿で鯛と手づくねのかわらけに注いだ御神酒を捧げて勝利を祈願していたとか勝手に想像が膨らむ 伊豆のアワビとかサザエもうまいけど、これは交易にも使ってたんかな?
昆布やワカメも使えそうだし >>71
鮑や栄螺は方々の海で獲れるからなあ。
熨斗鮑は定番の縁起物だから海の無い甲信とか北関東方面の需要はありそうだ。 山梨名物のアワビの煮貝は駿河の今川から送られたのか始まりだとか >>73
懸命に越後や駿河を、海を取ろうとした武田信玄が何だか切ないな たしか山梨って、海無し県だけど人口あたりの寿司屋の数は全国一なんだよな >>75
奥多摩の更に奥に在る丹波山や小菅にさえ江戸前を主張する寿司屋があったりするからな。
もっともこの両村は実質的に東京都(水道局)の領土だけど。
海の幸への憧憬は甲州者の遺伝子に刻まれてるのかもしれない。
何度も南進しようとしては伊勢宗瑞に叩かれた武田信縄の頃からの哀しい性か。 山梨や長野の旅館に泊まると、とにかくマグロの刺身でもてなすよね。
せっかくだから山の幸食をいたかったりするのに、とにかくマグロの刺身!みたいな感じで。まあ、甲斐信濃だと魚介類はアワビの煮貝のような保存食ばかりだったのだろうね。
そういえば、私が転勤で北九州の小倉に居たときに土地の名物の糠床(床漬け・百年床)や、これを使って魚を煮たぬか炊きをよくたべた。三方を海に挟まれた小倉でわざわざ保存食かよ?っておどろいたが、由来を聞けば藩主小笠原氏とその家臣団が旧領信州松本での保存法を小倉に持ち込んだものとか。
小田原の食い物と言えばういろう(外郎)もあるよな。あれは早雲が都から呼んでの作らせたのが始まりとか聞いたけど、関東のお菓子に影響与えたりしてるのかな? >>70
山口博氏は『北条氏康と東国の戦国世界』(2004 )において、
鯛は長尾景虎退散を祝う為のものと推測している。
これ↓が鯛の発注書現物。
最初の四文字が「たい三枚」に見えるが…どうかな…?
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/240298/ 鯛三枚の納入を命ずるのも小代官宛の虎印状か
直轄領ならではかもしれないが、国府津の小八幡には名主はいただろうから小田原の国家的な徴発として命じたのだろうな
当然ながら、納品した分は番肴から幾分か免じられたりそれなの保証はあったのだろうけど 「戦国」の本質は飢饉と戦争の、即ち飢餓と暴力の無限循環連鎖以外の何物でもない。
その銃爪を引いたのは中世の地球を襲った気候寒冷化と地殻変動。
しかし飢饉という事象は陸の上のことで、
戦国の頃も気候変動の海産物への影響は相対的に小さかったのではないか、
少なくとも沿岸部に棲む人々はそれなりに栄養源を確保していたのではないか、
長大な海岸線を確保した北條の領国経営は或る程度までそれを勘定に入れられたのではないか、
漠然とそんな推測を持っていた。
話は飛ぶが、
さっき秋刀魚で呑んだ。
去年も今年も彼岸を過ぎても脂の少ない痩せた秋刀魚しか店に並ばない。
しかも不漁でもある。
気候温暖化による海水温上昇の影響だと云う。
影響は海にも及ぶ。
俺の推測はあまりにも甘かったと悟った。
寒冷化なら北の旨い肴が関東でも獲れたかもしれない!(甘い) 当時の相模湾で鯛の漁ってだんな方法だったんだろ?
臨時に鯛を三枚小田原城へ納めろというの、漁民にはかなり重かったのか、それとも大したことなかったのか知りたい 司馬遼太郎が箱根の坂で書かなかったら知名度は今より低いだろうな あの勝海舟が最も近代的な戦国大名に後北条氏の名を挙げていたが
最期の秀吉の従属勧告に応じずと意地を張りすぎて滅亡したのは後北条氏といえども戦国大名の気質から抜け出せなかったのか >>84
司馬が書かなければ無名の偉人で終わってた河井継之助と北条早雲は同じかよ >>84
司馬遼太郎の箱根の坂が駄作でそれほど認知されていないので影響はないと思われるね >>85
中身のない議論するだけで結論が先送りする小田原評定は現代の政治を先取りしすぎたともいえるw
それに対すると豊臣秀吉は大陸的な専制政治家だからな後北条氏の手法は全く通用しないともいえるw 後北条の政治は灰色決着をつけたがる日本人の性質そのもの
勝敗の白黒つけたがる大陸型独裁者の秀吉みたいな性格からすると一番嫌いなタイプだろ
秀吉も最初は後北条を滅ぼすつもりまでなかったかもしれないが途中で変わったかもしれんね >>84
オレの中では「最後の将軍」が司馬遼太郎の最高傑作なんだ
常に無能扱いされ続けてた徳川慶喜をあそこまで高評価した歴史小説もないよ 磯田道史は花神を司馬遼太郎の最高傑作に上げてたみたいだが 後北条氏の重臣達の話し合い談合政治は良くも悪くも徳川幕府に受け継がれてる 中身のない話し合いを無駄に延々と続けて何もできずじまいで終わるのが小田原評定だっけ? >>92
その結果新たにできた役職が大老なんでしょ >>4で書いたように伊豆・関東に於ける伊勢宗瑞の事蹟は大規模自然災害との関連を抜きにしては考えられない。
飢饉恒常化はもう前提事項としても;
・明応四年 大地震/大津波
・明応七年 大地震/大津波
・明応九年 大地震(内陸性か)
・永正八年 富士山噴火
と、たった二十年未満のうちに非常識な頻度で天変地異が発生している(ちょっと1990年代から2010年代に似ている)。
この時期、伊勢、今川、堀越、古河、山内、扇谷、三浦、大森、武田等には各々相応の政略も展望もあったろうが
哺乳類ヒトのそんな矮小な営為など大自然の暴威に殆ど無効化されてしまったかもしれない。
領国とその周辺で現出した惨状に対する危機管理・現場対応を必死で重ねるうちに、
事態に無力無能を曝け出した旧統治体制を図らずも超克してしまった、
必ずしも意志することなく戦国大名として成立してしまった、
宗瑞の後半生は案外そんなドタバタだったのではないか。 >>97
彼は戦国大名わー志向していなかっただろうね 氏照が酒呑みだったって本当なの?
その辺の話はなかなか興味深いけど
後北条の分国では酒は生産されていたのかな? >>99
> 氏照が酒呑み
取り寄せた品目を見て酒呑みが妄想しただけですよ。
鯛はともかく海鼠や蛸は御飯のおかずにはならないからねぇ…。 >>100
まあ、塩着けや干しものではなく生にこだわったのなら酒好きそうだよね
後北条氏当時の関八州の酒事情に詳しくないんでわからないが、酒の安定的な確保も課題になるね >>101
「戦国時代 関東 酒」で論文検索してみたけど特に見つからず。
酒造そのものが縄文以来行われていたことは確かだが銘酒というほどには至っていなかったんじゃないかな。
但し、
・当時既に清酒と濁酒の区別があった
・新酒よりも古酒(重醸酒)が好まれた為アルコール度は現代より高かった
・北條領国の美物(うまもの)は伊豆が鰹、相模が鮑、上総が海苔だった
等々、無駄に余計な知識を得てしまった。 各自でこさえるどぶろくみたいな物はあったろうけど、まあ小田原には酒屋はあったろうね
相模は鎌倉もあるし酒を専業で作る者はいたと思う 史料が数多く残っている後北条氏だけど、酒や酒造の史料は珍しく無いみたいね
鎌倉の頃より関東では幕府が酒壺こわしたりと市中で酒が盛んに取引されていたのは間違いないんだが、大々的に税金かけるほど商業としては未発達だったのかねえ? 小田原城至近の酒店の御主人は語る。
変な御客様がいるんですよ。
毎朝夜が明ける頃に決まって買いに来るんです。ええ、もう毎朝毎朝欠かさず。
こっちはまだ寝起きで店を開けるどころの騒ぎじゃないんですがね。
遠回しにそう云うとね、馬鹿野郎、酒は朝呑むもんだ、夜呑んだってロクなことは無ぇ、なんてねえ…。変でしょ?
身なりは立派な御侍なんですが御顔に、こう、大きな刀疵があって何とも凄味のある…。
まあ、御代はいつも現金払いですし、人品骨柄良さそうな御方なんですが。
え?名前?伺ってませんねえ。紋所?…あー、何てえのかな、オムスビみたいな奴で。 現在、氏邦って銘酒はあるけど氏照はないね
八王子城って銘酒はあるけど
魚の納入を命じた書状が残っているのに、酒に関するものがないのは、命じられた者は零細な商売人で関東に土着しなかったということなのかな?
江川酒もそうだけど、ある程度自作で賄えるものでもあたのだろうか? 小田原以外で後北条支配の歴史を強烈に感じるのが八王子なんだよなあ >>108
後北条の家臣の三沢衆の子孫が土方家。
土方歳三は最後の後北条侍なり。 >>110
そういえば15日に延期されてた「燃えよ剣」がやっと公開されるんだよな
来年には「峠」も公開されるみたいで実に楽しみだ
時勢は徳川幕府の復権か? >>108-110
話題について来られないなら自演してまで無理に書かなくていいのに 見苦しいのを通り越して滑稽だよ 八王子の話題が出て思い出したんだが司馬遼太郎の街道を行く第一巻は甲州街道の特集で、
今は分からんが昭和の八王子は徳川慶喜の大ファンが多かったんだと。
武州多摩の辺境ほど幕府イデオロギーが強いのは新選組を見たら分かるわ。 しかし後北条の失政は現代日本にも病根として根深く残しているな
堺屋太一や司馬遼太郎は徳川幕府の鎖国主義の島国根性が日本人を極端に矮小化させたと批判していたが
元を辿れば小田原評定を代表にする後北条の談合政治にあるんじゃないかと 来年は鎌倉北条氏が大河ドラマなら後北条五代が大河ドラマになってもいいだろう。 俺は後北条のてづくねのかわらけに拘って調べたいな
八王子城跡や岩槻城跡からも出土しているが、ロクロ系のかわらけに比べて極々少数なんだよね
儀式用だったのかね? 小田原の後北条家の特徴として、家督を巡る争いの記録がほとんど無いことも付け加えたい
近接する戦国大名でも同様の例はないと思う
また、家中の内紛らしきものも少ないと思う >>121
山内上杉、扇谷上杉、古河公方それぞれ特有のロクロ製かわらけも気になる 租税の実態や食料、経済、酒とか土器の需給や生産や、使用例の実情がわからないと戦国大名の実像は見えないよな
武力とか知力(笑)とかどうでもいいし >>4と>>97で触れた「伊勢宗瑞と地震の関係」について幾つか書籍や論文を読んでいる。
何回かに分けてぽつぽつと書いていきたい。
先ずは次レスから、対象となる三つの地震について。 【明応四(1495)年八月十五日 地震 津波】
『鎌倉大日記』『熊野年代記』等。
地震の推定M不明。津波の推定波高8m前後(鎌倉、東伊豆)。
由比ヶ浜で二百余人溺死、鎌倉大仏殿が流失したとの被害記述(実は誤読か)の残る震災。
古来著名な地震であったが1980年代に於ける文献史料批判に基づく研究によりその実在性に疑義が呈された。
近年は史料の記述は明応七年地震(後述)との混同、誤記であるとしてこの地震の存在を否定する見解が主流となるに至っていた。
しかし2010年代に入って歴史学の片桐昭彦、考古学の金子浩之、更には地震学の浦谷裕明等の各氏によって複数の学術分野から主流説に対する異論発表が相次いだ。
そこでは明応四年地震は相模トラフを震源とする関東地震(大正関東大震災等と同質)として実在した可能性が強く提起されている。
下記明応七年地震とは震源を異にすることに注意されたい。
これらの研究報告を読んだ上での私見だが、この地震の実在は肯定すべきものと考える。 【明応七(1498)年八月二十五日 地震 津波】
『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』『常在寺衆年代記』『日海記』他多数。
地震の推定M8.2〜8.4。津波の推定波高6〜10m(焼津、西伊豆)。
歴史地震の代表格とも称すべき大震災。
東は房総から西は四国まで東海道及び南海道の広範囲に亘って死者数万人、建屋被害数万戸とも謂う厖大な被害記録を同時代史料に残す。
考古学成果からもその実在は疑いの余地無く実証されている。
南海トラフ及び駿河トラフを震源とする南海・東南海・東海連動型の巨大地震とみられる。
なおこの地震から僅か三日後の八月二十八日には駿河湾を大型台風が襲った。
大震災と暴風雨の連擊による激甚災害は当該地域のヒト社会を潰滅状態に陥れた。 【明応九(1500)年六月四日 地震】
『勝山記(妙本寺記)』『王代記』等。
地震の推定M不明。津波の記録未発見。
『勝山記』に拠れば明応七年地震以上の震動であったと謂う。
甲斐國の史料にのみ記録が残り他国就中沿岸国の史料が確認されないことから内陸の直下型地震を思わせるが上記両史料にはそれぞれ
「この年までも大地震不絶。」(勝山記)
「此年迄三年震動ス。」(王代記)
とあって明応七年地震に連動するトラフ震源の群発地震であった可能性も否定できない。
『勝山記』の前年一月二日条に見える「大地震する也」との記事も或いはこれを傍証するか。
何れにせよこの地震の実在は疑いを容れないものの、現時点ではその全貌は不明と云う他は無い。 >>112
ついに1年半遅れで昨日公開されたんだな。燃えよ剣。
来年には司馬の生誕100周年記念目前に峠が公開されるが。
実は峠こそ司馬遼太郎の最高傑作かもしれん暗示。 燃えよ剣の著書にも土方歳三が後北条氏三沢衆の土方家の子孫だと触れられてるから一読あり
さらに遡ると源平合戦時に坂東にいたヒジカタなんとかという武将だったとか・・
そこまで調べ上げた司馬遼太郎に感動 長尾景春が主役である伊東潤の『叛鬼』に出てくる北条早雲も見物だぜ。 しかし最近また88歳死亡説が盛り返してきたな
むろん88歳死亡説を世に定着させたのは司馬遼太郎だが 次に、
伊勢宗瑞の小田原城接収や伊豆國全域制圧と地震との関連について現在の学説動向を粗雑に眺めておく。 【地震と小田原城接収】
伊勢宗瑞の小田原城接収は長享ノ乱に於ける扇谷上杉方与同勢力としての行動である。
その時期及び詳細経緯については未だ確定されず、明応四年説と明応九年説が対立している。
イ. 明応四年説
上述『鎌倉大日記』の八月条震災記事に続く九月条に「伊勢早雲攻落小田原城大森入道」との記事が見える。
震災による小田原の動揺混乱に乗じて宗瑞が攻め込んだとの理解であって、かつてはこれが学術水準に於ける定説だった。
しかし地震の実在性が疑われる中で四年説の前提が揺らぐ。
更に山内上杉顕定書状の解読から、
・明応五(1496)年七月時点で小田原城は扇谷上杉方の拠点であり城主はなお大森氏だった
・扇谷方勢力として長尾景春入道意玄及び伊勢弥次郎盛興(盛時弟)が援軍に入っていた
等を黒田基樹氏が指摘するに及んで四年説は殆ど否定された。
その後、地震自体の実在性が上述の如く強力な再評価を受ける中で四年説も再浮上しつつある(片桐氏、金子氏等)。
一定の説得力を有する仮説ではあるが、上記の山内文書との矛盾や当時同じ扇谷方に属した大森氏を宗瑞が攻めることの不自然さなどの課題に対して十分な解決を提供するには至っていない。
(続) (承前)
ロ. 明応九年説
四年説同様、震災を奇貨として小田原城接収が為されたと云う理解であるが、その契機は明応九年地震だったとする。
四年説を否定した黒田氏は、史料に依拠する限りその時期は「上記明応五年七月から文亀元(1501)年三月(宗瑞の小田原掌握を明示する文書の初見)までの間の何時かとするしかない」として断定を避けた。
近年になって盛本昌弘氏は寺社棟札の研究から本件が明応九年地震の直後であったとの仮説を提起、黒田氏もこれを支持する。
上記文亀元年との時間的近接、宗瑞の伊豆制圧完遂(明応七[1498]年)との前後関係、そして五年七月に小田原城大森氏が山内方に転じたこととの連関性等から見て九年説の蓋然性は極めて高い。
但し九年説にも四年説の根拠たる『鎌倉大日記』の記事との矛盾を単に誤記として切り捨てるだけで十分な説明を為し得ていない、四年地震自体の「復活」には沈黙する、等の危うさや強引さは残る。
(続) 盛興とか氏親はソースが大宅高橋家過去帳なんていう胡散臭いやつだし、 ごめん途中で書き込みしてしまった
>>137は忘れてくれ >>131
大河ドラマで長尾景春、太田道灌、北条早雲の関東三国志を見てえ。 >>139
小田原評定の負の遺産は現代日本社会にも受け継がれてる。 >>129
「燃えよ剣」によると土方家のルーツは東鑑に記されてるらしい源氏武者の土方次郎らしい。
さすがはトラック一台分の資料を集める司馬遼太郎。 >北条早雲88歳死亡説
スーパー爺さんだな
案外に昔の老人のほうが現代より元気だったかもしれない >>144
土方歳三と後北条は、ほとんど関係ないし本人も意識なかったでしょうよ
どちらかというと保元平治の昔の関東武士の末裔なんだという自意識はかなり高かったと想像はするが >>146
過去レスや前スレを見れば解ると思うが、その自演荒らしには触らない方が良い。 スレタイを知名度が高い北条早雲にしないから過疎化しちゃうんだよ >>146
関係ないどころか三沢十騎衆の子孫なんて関係が深すぎるんですが?
後北条氏なくして土方家は存在しなかったとみても過言ではない >>128-130
司馬遼太郎いわく日本で初めて組織を作ったのが土方歳三らしいが・・
それはともかくゲリラ戦術やらせたら日本史上でも群を抜いてるのは確かだな。 >>140
15世紀の日本を舞台にした大河を見たいものだな しかし伊東潤の小説の影響か急に有名になってきたな長尾景春。 >>148
おそらく伊勢新九郎なんて小田原市民でも分らんよな 当然ながら小田原は後北条の匂いを強烈に感じる。
当然ながら甲府は武田の匂いを強烈に感じる。
八王子は後北条と武田が入り混じった匂いを強烈に感じる。 >>150
土方はええが
江藤新平とか河合継之助とか大村益次郎とか他の歴史小説家や歴史学者が余り題材にしない人物を知りたいときは
司馬遼太郎の小説や評論を読むしかなくなっちゃうよな >>154
伊勢新九郎ならまだ分かる
ただ伊勢新九郎長氏でアップデートが止まってる人は結構いると思う >>148〜>>156 もっと書き込み間隔を開けないと自演がバレバレ 鎌倉北条氏って室町幕府や鎌倉公方の仇敵なんですよね。
鎌倉幕府滅亡後も反乱起こしたりして。
幕府の官僚だった伊勢家が敵である北条家を名乗るって変だと思うんだけどなぜでしょう?
足利や上杉からしたら、血縁関係がないとは言え北条に滅ぼされるのは屈辱だったのでは。 >>160
従来から云われている通り、関東軍政界に於ける地位の確保。
鎌倉九代の衣鉢を継ぐ名乗りは関東では限りなく重い。
付け加えるならば、小田原北條に善政伝説がある如く鎌倉北條も善政のアイコンだった。
貴公が何処の出身かは知らないが、
東京/関東で平将門公が英雄であるように、中央政権視点のみで「北條」の名を観るのは危険だろう。
伊勢盛時は確かに伊勢家の者として幕府中央官僚を務めた身だが、
出家の後はあまり伊勢の名を使いたがらなかった節がある。
更に、本当に「血縁関係がない」かどうか、
最近になって黒田基樹氏等が間接史料の不気味な符合を指摘したりしている。 >>161
> 関東軍政界に於ける地位の確保
鎌倉幕府滅亡時にはその関東軍政界が北条氏を攻めて鎌倉を陥落させたのでは? >>162
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。
我が国には良い諺がある。
また軍政界とは今日に名を残す武将のみによって構成されたものに非ず、
名も無き村や浦の集合無意識に拠る所の方が遥かに大きい。
最明寺時頼入道の伝説以来鎌倉北條が村々にとって如何なる存在だったか調べてみることを奨める。
「下」こそが「上」を不可抗的に規定するという人類社会史普遍の構造原理も学んでみては如何か。
英雄史観は既に死んだ。
「雑兵たちの戦場」(©藤木久志)の視点から社会を眺めれば
新田義貞的史観が果たして普遍のものかどうか、
そこに大きな疑念の余地を認めることだろう。
と同時に。
北條の名乗りが如何なる効果を持ったか。
古河公方は勿論のこと、幕府将軍家にとってさえそれが尋常のものではなかったことが、同時代史料に示されている。 >>163
なるほど。
新田義貞に協力したけど、やっぱり北条時代の方が良かったなあ、
なんて都合のいい連中もいたかもしれないですね。
北条を名乗るというのは室町幕府の正統性を否定するようなものだと思うのですが
それでもなおメリットがあるという判断を氏綱はしたのでしょうね。 >>164
「潜在敵(室町幕府)の敵は味方」ということなのか、
古河公方が抵抗も無く北條改姓を公認しているのが面白い。
一応和睦はしているものの幕府の手先としてやっぱり潜在敵だった両上杉に対するイヤガラセでもあったのかな。
国府台の後、山内を蔑ろにするが如く氏綱を関東管領に任じたのも同根かもしれない。 (>>136から承前)
【地震と伊豆制圧戦争】
「幕府-扇谷上杉-今川-伊勢」対「堀越足利-山内上杉-武田」の対立構図による足掛け六年間に及ぶ戦争である。
将軍足利義澄の堀越足利茶々丸(=母と弟の仇)に対する復仇戦、幕府の関東直属拠点(堀越御所)回復運動、及び長享ノ乱の三つの要素が重層構造を成している。
明応二(1493)年伊勢宗瑞の侵攻に始まって同七(1498)年足利茶々丸の自害及び狩野道一の滅亡を以て終結した。
戦争期間中に明応四年震災と同七年震災及び台風を経験、当然ながら戦争の転機や帰趨は大規模自然災害によって不可抗的に規定されたものと考えられる。
但し災害と戦争との具体的な相関経過については上述の小田原城接収時期とも絡んで議論の対立がある。
(続) (承前)
イ. 明応四年地震と戦局
伊勢宗瑞の侵攻以来二年間一進一退だった戦局はこの年、足利茶々丸が伊豆國から没落して大島に渡るという大転機を迎えた。
以下、明応四年地震実在の立場を取る片桐氏、金子氏等の仮説を踏まえて概観する。
四年地震が実在したとすると、考古学成果から茶々丸勢力圏(堀越〜東伊豆)は甚大な震災被害を受けたと認められる。
茶々丸没落が震災前後何れのことかは不明であるが、後であったとすれば物理的に戦線維持が不可能になった結果と推測できる。
一方、当時宗瑞の軍勢は伊豆北西部又は駿東地域に在ったとみられる。
上述の如く四年地震が相模トラフ震源の関東地震であったならば宗瑞方の被害が相対的に小さかった蓋然性を十分に想定し得る。
これによって宗瑞が震災直後段階に於ける軍事的優位を確立し得たと考えると、一見唐突に思える戦局転換も納得が行く。
また、同年九月の小田原進出を肯定する場合にも茶々丸没落による伊豆戦線小康化を前提とすることで整合的な理解が可能になるように思われる。
(続) (承前)
ロ. 明応五年及び六年の戦局
明応四年に一旦は伊勢宗瑞方優位が確立した伊豆戦線であるが、翌五年から六年にかけて足利茶々丸方が反転攻勢に出た。
大島亡命後程無く本土帰還を果たした茶々丸は武蔵國(山内顕定)や甲斐國(武田信縄)に仮寓しつつ彼等の支援を受けて北方から伊豆を窺う一方、伊豆國内に残る与同勢力とも連動して反撃を展開する。
五年七月には小田原城大森氏が山内上杉方に服属、「西郡一変」と云われる状況が現出する。
これを受けて翌六年になると茶々丸勢は駿河御厨地域まで進出、呼応して伊豆の旧臣狩野道一も攻撃を激化させる。
宗瑞方は一転して劣勢を余儀無くされて拠点死守が精一杯という状態に追い込まれた。
帰趨不明の激戦が続くその足下の地下深く、破局へのカウントダウンが進んでいたことを、伊勢宗瑞にせよ足利茶々丸にせよ神ならぬ人の身にして知る由も無かった。
(続) 関東だと海進が特に関わるけど現在の温暖化って中世の海進との違いってなにが挙げられてるの?
いまいち理解してなくて現在の温暖化の原因は不明はなんとなくわかったんだけど、以前あった温暖化との違いが今だ理解できてないんだよなぁ
短期においていちじるしく上昇してるとかあるのかなぁ? >>169
所謂「関東の平安海進」のことを云っているのなら戦国時代より遥か昔のことだ。
関東に限っても伊勢宗瑞を初めとする戦国大名の動向とは全く結び付け難い。
逆に地球全体は勿論、日本列島規模でも中世を通観すれば温暖化よりも寒冷化を示す物理痕跡や記録の方が圧倒的に優勢でもある。
そして「戦国時代」を現出せしめた原動力はこの気候寒冷化(及び大震災を生んだ地殻運動)に他ならない。
現下の大問題である地球温暖化についても、誤解があるといけないから念の為。
先ずは「温暖化」という現象自体が問題なのではないことを前提としなければならない。
地球は放っておいても温暖化〜寒冷化のサイクルを無限に繰り返す。
その主原因は地球内部の物質/熱対流(内熱)とも太陽活動の変動(外熱)とも云われるが完全に解明されてはいない。
そして驚くべきことに、現在この惑星は「氷河期(寒冷期)」に在ると云う。
より正確にはその終りに在って「間氷期(温暖期)」へと向かいつつある。
従って現時点に於ける気候変動のベースラインは温暖化だということになる。
それは少なくとも地球なる惑星にとって不可避な事象であってヒトごときがどうこうできるものではない。
深刻な問題は、
「現在進行中の温暖化が地質学的に想定さるべきトレンドから著しく上方逸脱していること」
「その原因は地球の惑星活動に在らず『ヒト』なる只一種の生物の営為に在ること」
の二点に集約される。
これが貴問に対する回答にもなるだろう。
そしてこの上方逸脱分だけはヒトの行動如何で修正し得るものであるし、また修正しなければならない−−というのが事の本質であると認識されたい。 >>170あーなるほど、そうか、ありがとう。
じゃあ質問ついでに原因の中で人の活動におけるものの影響は何%ぐらいだと今最先端の研究では考えられてるの?
それを見極める研究ってどんなのがあるの?方式とかイメージしても分けることができる研究ってなかなか分からないんだよなぁ >>171
真鍋淑郎氏と御弟子さんたちの何十年間の研究成果を5ちゃんねるの書込枠に要約できるような知識も能力も俺には無いよ。
それこそ今正に旬のトピックなんだから解説記事を探す方が早い。 >>148
玄人ぶってるスレ主の頭が狂っておかしいんだから仕方ねえよ >>144
個人的には『翔ぶが如く』は平家物語、太平記に匹敵する一代領事詩だと思ってる。 当然ながら甲府は武田の匂いを強烈に感じる
当然ながら小田原は後北条の匂いを強烈に感じる
しかし八王子だけは武田と後北条の入り混じった匂いを強烈に感じる 長らく後北条の領内でも大久保長安や松姫などの武田遺臣が作り上げたのが八王子。
本当に八王子だけは不思議な街だ。 司馬遼太郎「街道をゆく」第一巻は甲州街道の特集で、
今は知らんが昭和の八王子は徳川慶喜の大ファンが多かったらしい
確かにいつまでも徳川慶喜の夢を見たいと思う心も武州辺境の八王子でしか誕生しないのかもしれない 南房総のちっぽけな安房里美ごときに大苦戦した北条氏康はゴミだろ >>178
後北条+武田+徳川のトリプルミックスこそ八王子。
昭和まで八王子にこそ強烈すぎる幕府イデオロギーが生まれてたのも当然か。 >>179
里見水軍が強すぎたからじゃね?
北条水軍も存在してたが地政学的に海戦では里見水軍が有利であった。 (>>168から承前)
ハ. 明応七年地震と戦局〜足利茶々丸の滅亡
明応六年は足利茶々丸方優位の裡に推移したが、翌七年に戦局は再び大転換、伊豆戦線は同年の内に伊勢宗瑞方の勝利で最終決着を見る。
この転換の直接契機が茶々丸の滅亡であったことは疑いを容れない。
その時期は『王代記』に拠れば正に大震災と台風の明応七年八月であったと謂うが、震災が茶々丸滅亡を如何にして決定付けたかについては研究者の間でも意見の分かれる所である。
かつては宗瑞方が震災後の大混乱に乗じて茶々丸を追い詰めたとする見解が主流であった。
決戦の機会を虎視眈々と狙っていた宗瑞が震災後間髪を容れず一気に総力を投入して反転攻勢を掛けたと云う。
後述の異説によってやや後退したものの、金子氏等は今もこの立場を維持している。
(続) (承前)
これに対して家永遵嗣氏は大地震、津波とこれに追い討ちを掛けた台風の壊滅的災害下では大規模軍事行動やその準備作業は物理的にも時間的にも不可能であると指摘する。
黒田氏等は家永氏の指摘を肯定した上で、伊豆七島の津波記録の解析から宗瑞方が伊豆國全域に於いて再び優位を確立したのは震災以前だったとして金子氏等と見解を異にしている。
この前提に立って震災の茶々丸滅亡決定過程については甲斐國武田信縄の動向を重視する。
ここまで茶々丸を擁して伊豆戦線に激しく干渉してきた信縄は、震災と時期を同じくして殆ど唐突に今川/伊勢と和睦を遂げている。
甲斐國に於いても激甚であった震災被害下、内訌をも抱える信縄が多方面戦争体制を維持し得なくなって和睦に踏み切った蓋然性は高い。
和睦に際して一つの「落とし前」として茶々丸の身柄或いは首級を差し出した、謂わば茶々丸は武田権力体に捨てられた−−のではないか。
黒田氏は慎重な云い回しで断定を避けつつこういう経緯を想定している。
大震災が伊豆國を巡る大規模軍事行動を誘発したのか停止を強要したのか。
金子説(従来説)と黒田説の対立の本質はこれに集約されると云える。 四年が中地震、その後のもう一つの本震が大地震とも見れるんじゃないか >>179
かとおもえば武田信玄も苦戦した上杉謙信と互角の勝負したり分けわからんね 勝海舟曰く北条氏康は日本史上でも最高の民政家らしいが 司馬遼太郎好きのこの人って何が目的で小学生みたいに連呼してるの?
意味もあんまりないみたいだし、八王子サイコーみたいなこと?中学生とかがやってるのか? >>186
対里見だけを見れば北条氏康は雑魚ちゃうかと思うわな確かにww 強いアイデンティティーだけは感じるわ、意味はないけど 後北条を語りつくしたいなら
小田原と八王子は必要不可欠やぞ
とくに八王子を語らんでどないすんねん スレタイを北条早雲にしないから全然盛り上がらんのよ
ここも潮時だな >>193
歴史を作るのは理屈でも正論でもない熱狂情念やぞ。 まあ俺は司馬遼太郎が好む快男児が好きだから
記録文学の大家である吉村昭みたいな
理屈と正論が好きなおまえらとは意見が合わないのは仕方ない お前がやってるのは
詳しい人!俺の八王子愛を満たす情報なんか出せ!俺と八王子は一心同体なんだ!じゃなきゃ生きてる意味がない!価値が無くなる!
早く出せ!ほら出せ!俺?俺はなんも知らん!司馬!司馬!司馬!
これに歴史のれの字も感じないよ、哀れさだけ感じるわ、お前は八王子じゃない、お前はお前だ、お前を見つけろよ だがそれが古今東西の歴史の原動力なあんだろうww
主張内容の理屈や正論だけ見れば完璧でも野党が選挙で勝てない理由を見ろw そもそも北条早雲自体が理屈や正論では計り知れない戦国屈指の梟雄である風雲児であり権謀術数の塊 野党とか広げたら会話にならんだろ、専門板じゃなくて遊べるところで遊べよ
それともなにか微妙にどことも合わなくてあぶれてんのか?それはたしかに社会問題だな。
でもここよりは合う所があると俺は思うぞ、響くか知らんが たしかに北条早雲みたいな成り上がり者は出世欲が異常に強い。
もう少し遅れて誕生してたら豊臣秀吉級になっていただろう。 歴史というものは知識ではなくて情念と権謀のみで動くことを理解できない奴らだ。
だがそれならそれでいいから知識を披露してくれ >>185
震源と性質が違う。
四年は相模トラフの関東地震、
七年は南海トラフに端を発する南海・東南海・東海三連動型地震。
一方、『勝山記』『王代記』にあるように七年から九年まで「三年震動ス」が事実だとすると、
この両者は本震−余震の関係なのかもしれない。 歴史を動かすものは先ず物理法則、
次にその具現化としての自然環境、
それからヒトなる生物の生理特性。
その他には何も無い。 それはそれは非常に勉強になりました。ありがとうございました。 >>205
いや別として扱ったつもり
ただ四年のは規模が周りに大きい影響を与えてはなんじゃないかという事
でもごく一部に記されるレベル、ただその後の地震は規模が違ったんじゃないかという事
を書いてるつもりだった >>210
確かに四年地震の西伊豆〜駿河湾沿岸の被害が東伊豆〜相模湾沿岸に比べて相対的に小さかった蓋然性はある。
小田原攻略四年論者もそこに伊勢宗瑞の軍事行動の可能性を求めている。
後日書く予定なんだけど、
俺は小田原城接収については四年、九年とも史実だったと考えている。 >>213
ここは「学問」板の「日本史」スレだ。
議論を展開するに当たって拠るべきものは理屈、論理以外に何も無い。
小説、映画、ドラマ、漫画、ゲームといった虚構の中にのみ存在するキャラクター「北条早雲」を語るなら自ずと違うアプローチになるだろうが。
むしろそれを語りたい嗜好の人が何故学問板を徘徊しているのか、
何故その方面の板に然るべきスレを立てて同好の士と存分に語り合わないのか、
それを訝しく思っている。 北条早雲ほど奸雄、奸絶に相応しい武将もいまいがな
そしてそれこそが北条早雲の人気を支えてるのである >>214
勝海舟
「世間は生きてる、理屈は死んでる」
この名分を屁理屈なおまえさんに送ろう。
野党が選挙で勝てないのもしかり。 行蔵は我に存す。
毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。
浅薄な付け焼き刃はすぐにバレる。
どうせ勝海舟を引くんならこれぐらいは引っ張って来い。 勝海舟はおまえさんみたいな屁理屈野郎が大嫌いだとよ 勝海舟が理系に暗く陽明学を中心とした精神論を非常に重視してたのは語録を見ればわかる。
「処世の秘訣は誠の一字にあり」 政治の世界は理屈では成功しないからな
それこそ交渉力で必要なのは剣術で鍛え上げた勝海舟が最も重視してた呼吸力だな
今の野党を見れば分かるが屁理屈に知識だけ詰め込んでも無理だよ (>>183から承前)
ニ. 明応七年地震と戦局〜伊豆戦争の終焉
足利茶々丸滅亡後も伊豆國内の残党の抵抗は稍々続いたが、最早それは伊勢宗瑞方にとって大きな障碍とはなり得なかったとみられる。
伊豆戦争は明応七年の内に淡々と収束に向かった模様である。
その最終過程について金子氏等は、震災で弱体化、孤立化した小勢力群を宗瑞方が各個撃破で殲滅掃討したと想定している。
一方黒田氏等は、物理施設のみならず統治機構も社会関係も潰滅した村々、浦々にむしろ粛々と進駐接収したと云う方が事実に近いと見ているようだ。
ここに於いても大災害が軍事行動を促進したか停止したかについての見解の相違がある。
何れにせよ、狩野道一の滅亡を以て伊豆戦争は終焉を迎える。
足掛け六年にも亘る戦争は劇的な決戦による終幕なども無いままに、自然の猛威が去った後の荒涼たる景色の中へとフェイドアウトして行った。
大震災が戦争という構造そのものを根こそぎ破壊し尽くした−−と云うべきか。
(続) (承前)
しかし真に重要な政治過程は戦後にこそ在った。
新たに伊豆國の為政者となった伊勢宗瑞の権力体が全力で取り組まなければならなかった課題、即ち荒廃を極める村々、浦々の救難再建活動である。
『北條五代記』など軍記群に見える「風病」救済活動によって民心を得たとの説話、それも含めた所謂「百姓憐愍」の北條善政伝説の核事実はこの辺りに在るのだろうが、史実に照らしてもこの政治過程には具体的な意義を認め得る。
宗瑞にしてみれば早急に領国を再建しなければ権力体の存立もあり得ないわけで、しかも旧来の統治機構が完全に崩壊した状況下では否応無く村々と伊勢権力体が直接向き合わざるを得なかった。
非常時活動である救難は勿論、権力体の本来機能である徴税や賦役に関しても現場の破滅的現実を真摯に受け止めた上で行うことが不可避だった。
ここに伊勢宗瑞の枕詞とも云うべき「村の直轄統治」「村との直接対話」が萌芽したものと考えられる。
室町幕府の統治秩序に対するアンチテーゼ、即ち「戦国大名」の定義に他ならないこの政策を、宗瑞が何処までそれと意識していたのかは分からない。
しかし伊豆國からやがて相模國へと展開されるこの統治原理は、伊勢宗瑞を正に戦国大名の魁にして典型として位置付けることになる。
そして震災が生み出した−−むしろ強要した−−それは宗瑞のみならず北條五代をもその終焉に至るまで規定していく。
(続) 理屈だらけ 自画自賛 自己賛美のオナニー 誰が読むの? 他人に読ませて広めたいなら工夫しないとな
ここは司馬遼太郎が突出してる天才
おまえさんでが司馬の足元にも及ばんから、せめて伊東潤の足下ぐらいには及ぶようにしろよ たいてい司馬遼太郎は賛否両論入り交えて一方的に否定も肯定もしない人物評論してるわけだが
その司馬が、ただ一人だけ神のごとく賛美一辺倒だった歴史上の偉人は島津斉彬だけだな スレ主ごときの理屈を並べただけの文書力では勝海舟の足元にも及ばんよ 勝だとか土方だとか書いてるやつ死んでくれねーかなぁ?
バカは邪魔なんでな とりあえず理屈バカの>>1は知識よりも他人に読ませる文章力を身につけろよ
話はそれからだ 【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。
議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証がたった一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
俺の生業である工学技術の世界は勿論、文系の世界でも同じ筈で、それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。
素人が碩学諸賢を批判するのは恐縮だが、この意味に於いて本件に関する対立は稍々冷静さを欠くように思う。
四年説にも九年説にも相応の史料や考古学成果が根拠として存在する以上、共に史実であると俺は考える。
小田原城が無二の要衝であるからには何回争奪があっても不思議は無い。
(続) (承前)
明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。
黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、理工学系の知見から地震の実在が再肯定される中、自説を維持するならば新たな論拠を提示する必要があろう。
明応五年の山内上杉顕定勢による小田原城攻略と扇谷派の没落、そして大森氏の山内方への降伏転属には争う余地は無い。
片桐氏等は顕定書状にある「要害」は小田原城のことではないと論じているが、ここは「西郡一変」をもたらすほどの要害は同城以外に考えられないとする黒田氏等の見方を強く支持したい。
(続) (承前)
明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。
しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
現時点では明応九年地震は関東地震であったとの見方が有力で、これを肯定するならば同四年の事例同様、宗瑞方と小田原方に生じた被害の偏差が軍事行動の促進及びその結果を規定したと考えられる。
或いは伊豆戦争の終幕の如く抵抗力を喪失した敵城を粛々と接収したことも想定し得る。
但し史料が九年地震について七年地震以来断続した地震群の一つ、即ち東海地震である可能性を示唆していることには注意を要する。
この場合、被害の偏差は生じ難いかむしろ逆であることさえあり得る。
今のところは留保が必要とするしかない。
何れにせよ、小田原城の攻防は伊勢宗瑞乾坤一擲の勝負などではなくて、より大きな戦争構造の中での要衝争奪だった。
それは少なくとも足掛け六年間の経緯の果てに明応九年を以て決着した。
その意味では「ありがちな」事例と云えるが、しかし稀に見る大震災の頻発に終始規定され尽くしたという点に於いて特筆すべきものであった。
(続) 早雲の伊豆討ち入りが幕府公認だったと言うのが本当なら、なぜ守護代のような公的地位をもらえなかったんだろうか?足利一門なり上杉から庶子や出家者を連れてきて守護にして、自分はその下で守護代におさまるほうが身分秩序的にはベターだったのでは?
早雲って確か、死ぬまで官位ももらえてないよね >>237
丁度今、関連経過を鳥瞰する書込を準備中だった。
それと一部重複することになると思うが。
当初はあくまで幕府奉公衆(将軍直属の暴力装置)としての″業務″だから、いちいちその成果について官位を、というわけにはいかないだろう。
幕府として報酬を与えるとしても知行加増が関の山なんじゃないか。
また守護や守護代の補任要件には家格や慣例が含まれる。
伊勢家庶流がそれに適うかどうかは知らない。
そもそも伊豆は関東管領山内上杉の管国だからそれを取り上げて…というのも幾ら何でもハードルが高過ぎる。
更に勘繰れば、
伊豆戦争は結局「長享ノ乱」の一方面戦線に変質していったわけで、幕府からすれば後知恵で「あれは山内と扇谷の私戦だから関知しない」と頬っ被りして予想外の厄介事に発展した戦争の責任を放棄することも出来た。
そんなこんなで伊勢宗瑞は利害関係者の思惑で使い捨てにされただけと見るのが真相に近いように思う。 (>>235から承前)
【私見による補遺その二 それは伊勢宗瑞の戦争だったのか】
伊勢盛時(当時は出家前)の伊豆侵攻が「明応の政変」と連動したもの、即ち足利義澄及び細川政元の意志によるものであったことは既に広く認知されている。
と同時に、義澄、政元、盛時等が好むと好まざるとに関わらず、山内上杉の管国たる伊豆に扇谷上杉の支援を得て侵攻した瞬間それは「長享ノ乱」の大構造に組み込まれることでもあった。
結果論ではあるが初動に於いて取り逃がした足利茶々丸が山内や武田と連携するに至って伊豆戦争はいよいよ「長享ノ乱」の一要素と化していく。
そこには「茶々丸個人の討滅」から「伊豆國全域制圧、確保」へ−−という戦争目的の変質が認められる。
当然ながら、盛時の主体意志など微塵も存在しない。
軍記等の呪縛から逃れ切っていない我々素人は勿論、研究者の間にさえ伊豆戦争と小田原城接収を分けて、或いは段階過程として考える傾向が今なお根強い。
しかし既述の如く、事実を再構成してみれば両者は一体不可分のものとして進行したのであって「長享ノ乱・西南戦線」としか云いようのないことが解る。
そこに於ける伊勢宗瑞(伊豆侵攻前後に出家)勢は終始一貫して「扇谷上杉方・伊豆箱根方面軍」として使役−−むしろ酷使−−され続けただけだった。
扇谷定正/朝良は宗瑞を与同勢力と云うよりも完全に麾下の一部将と思っていたかもしれない。
しかもその間、宗瑞は今川氏親の部下として参遠戦線にも幾度となく駆り出されている。
正にブラックを極める労働状態、よくぞ過労死しなかったものだと嘆息の他は無い。
(続) (承前)
どう見ても巻き込まれただけ、右往左往しただけ、酷使されただけの殺人的労働によって維持し続けた戦線の、その経過や帰趨さえ宗瑞の意志によって規定されることはなかった。
宗瑞はおろか如何なるヒトの意志や存在も「無」とする巨大自然災害の非常識なまでの連続がそれを不可抗的に規定した。
「戦争」なるヒトの矮小な営為を嗤うが如く、地震が津波が台風が敵も味方も瓦礫の海に沈めた。
壊滅的破壊に叩きのめされて、それでも宗瑞が何とか立ち上がれたのは殆ど偶然の幸運に恵まれた結果でしかない。
そしてフラフラと瓦礫の上に立った宗瑞が四囲を見回した時、意外にも立っているのは己独りだった−−。
乱暴に総括すればそれが真実だろう。
それは「伊勢宗瑞の戦争」ではなかった。
少なくとも小田原領有の時点では、それは伊勢宗瑞の戦争ではなかった。
そう結論せざるを得ない。
他者の意志と大自然に翻弄され続けただけの日々が後付けの意味を付与されて北條五代草創神話と化すのは北條氏綱以後の事蹟から遡及した結果であって、
それは最早伊勢宗瑞の意志とは別の範疇に属する事になる。
以上 一つ不思議なのは、この時代、日本六十余州はすべて天皇に任命された将軍の下知に従う、将軍の下知を遵行するのは守護である、という観念があったはずなのに、宗瑞支配下の伊豆と相模の2国だけはそこからすっぽりと抜け落ちてる感があるんだよね。
伊勢宗瑞という朝廷から見れば無位無官、幕府から見ても守護でも守護代でもない人が勝手に支配して、所領安堵とか公事の裁許とかバンバンやってるワケで。
後の戦国大名だってもう少し「上級権力からの委任」というフィクションを大事に扱ってるよね。それを「素浪人伊勢新九郎」ならともかく、室町的政治秩序にどっぷり浸って育ったはずの人がやってしまう。そしてなんだかんだそういう支配が安定的に持続してしまうというという。 伊豆相模両國について云うならば大震災が室町的統治形態を破壊・無効化したという絶対的現実が大きい。
否も応もなく宗瑞がやったような方式以外に統治は不可能だったろう。
官位も受領も怪我人病人を救ってはくれないし瓦礫をどかしてもくれない。
現場の現実と日々対峙する宗瑞にしてみれば無駄な虚名を求めて運動してるような暇もカネもねえんだよ、と、「室町的政治秩序にどっぷり浸って」きた者だからこそ思ったかもしれない。
また仮に幕府がそれを咎めようにも今川や扇谷上杉と組む伊勢を止められるだけの暴力装置は存在しない。
もっと俯瞰すれば、例えば享徳ノ乱の経過に於ける太田道灌や岩松氏の台頭に見る如く室町秩序の崩壊は伊勢宗瑞登場を待たずして既に不可逆的に進行していた。
その真因が寒冷化による飢饉恒常化に在ったとすれば誰であれその趨勢には抗いようもない。
伊豆相模の如き特殊事情がなくとも、また宗瑞でなくとも、宗瑞的なる者の出現は時間の問題でしかなかったと見る。
後の戦国大名たち−−宗瑞の子孫も含めて−−が求めたのはフィクションそのものではなくてフィクションによる現状追認だった。
求めて得られずとも戦国大名としての行動を止めたりはしていない。
「功」成った者が次に求めるのが「名」であるという、現代も変わらぬ行動原理に過ぎなかったのではないか。 知識と理屈を並べても誰も読まんぞ
他人に読ませたいなら読ませる文章力を身に着けろ
おまえさんごときでは司馬遼太郎の足元にも及ばんのは仕方ないとしてもだ いやチラシの裏みたいなものだから
嫌なら読まなければいい話w 記録文学の最高峰といわれる吉村昭を見習え
少し工夫すれば誰かが熱心に読むかもしれんぞ 岡山から伊勢平氏の末裔たる北条早雲は誕生したる
〜後北条五代戦国期〜
こんな感じで書き込んでいけよ 伊豆戦争を概観してみて不審に思うのは、山内上杉顕定の挙動と足利茶々丸の位置付け。
元々伊豆に無理矢理置かれた堀越御所は山内にとって管国内の寄生蟲以外の何物でもなくて、実際享徳ノ乱の真っ最中に徴税を巡って両者間に紛争も起きている。
ましてや茶々丸は極悪非道の不祥事を起こした逆賊(ということになっている)なんだから幕府が動く前に伊豆國守護・関東管領として顕定が討たなければならなかった筈。
それを放置するさえあるに、茶々丸と組んで幕命討伐軍たる伊勢宗瑞に刃向かうとは言語道断
−−と、普通はそう考える。
しかし顕定は幕敵となるリスクを冒してまで史実の如き選択をしたし、狩野道一をはじめとする伊豆國衆の過半も茶々丸方として頑強に抵抗した。
それがこの戦争を長享ノ乱に組み入れる結果になったことは措くとしても、彼等をしてそうさせたものは何だったのか。
妄想になるが、少なくとも当時の関東に於いて彼等の行動は一定の正当性を認め得るものだったのではないか。
茶々丸は本当に人面獣心の外道だったのか。
実はそれなりに支持されても訝しくない存在だったのではないか。
伊勢宗瑞が永らく「梟雄」の濡れ衣を着せられた如く、足利茶々丸も軍記や司馬某によって不当な汚名を被っているのではないか。
そんなことを考えざるを得ない。
茶々丸の家督奪取の真実や領国統治の実態については未だ闇の中のようだが、
今後その実像が解明されることを期待したい。 どうして関東、特に相模武蔵国が一方的なオセロのようにの後北条一色になったのかを知りたい >>248
そんな史実は無い。
武相のどの城も領も激しい攻防争奪によってモザイク的な勢力図が形成されつつ徐々に北條に収束していっただけ。
但し、相反項がモザイク状に存在する時、比率偏差が或る閾値を超えると収束が加速度的に進行していく数理モデルは適用出来るかもしれない。 >>243
無理だろ。知識は誰でも普遍的に勉強すればさえ身につくが、
文章能力というのは一種の天性みたいなもんだから、いくら努力してもそう簡単に身につくわけじゃないぞ。 それ考えると映画化されるほど歴史小説家としても大成した磯田道史は偉いわ 仙台味噌は北條から生まれた。
また無駄かつ愉快な知見を得てしまった…。
**************
常州真壁郡から来往した真壁屋市兵衛は国分町に住み、『古人筆頭』の格を与えられ『古木(ふるき)』の姓を賜り、玄米百石の扶持を受けて藩の味噌御用を勤めていたが、
寛永3年(1626)3月、国分町に『仙台味噌』の招牌を掲げ『仙台味噌』の元祖となった。
其の規模は8尺桶18本7尺桶2、3本をもって醸造を行ったと伝えられている。
古木氏は相州小田原の北条氏縁故の者
で、伊達家もまた輝宗以来北条氏と親交があったので、
日本最古の豉、未醤生産の記録を残す伊豆、相模地方の味噌づくりの技術が北条氏を通じて伝承されたことが考えられ、それが更に真壁屋の手に依って改良発展した事が窺われる。
−−『仙台旧城下町に所在する民俗文化財調査報告書E 仙台味噌』(2010年3月 仙台市教育委員会) より引用
************** 北條の梅干し。
**************
小田原梅の歴史は古く,500 年前から植えられたと言われており,北条氏の時代,軍用に供するため梅干作りが奨励され,発展した.
小田原で梅干製造が発展した理由は,梅干づくりにはたくさんの塩を必要とするが,幸い,小田原地方の海岸は小田原から二宮にかけて塩田が広がり,塩の供給が豊富であったことがあげられる.
−−『地方品種「十郎」を用いた梅干作りへの小田原市の取り組みと課題』(石川友理 2013) より引用
**************
北條がもう少し頑張ってりゃ江川酒、梅干し、ういろう、蜜柑、味噌が「虎ノ印判」ブランドで全国区の銘品になってたかもしれない。
北條徳川同盟があの形で続いてりゃ山葵(史実:安倍川上流で史上初の栽培→1600年頃天城に導入)もイケたか。 >>255
甲州だとほうとうが幅をきかせているが、後北条の分国にも深谷の煮ほうとうがあるしうどんもある
後北条氏当時の関東の小麦粉事情も知りたい 明應八(1499)、巳未
此年霜月王流サレテ三島へ付玉フ也。
早雲入道諌テ相州へ送賜也。
−−『勝山記(妙法寺記)』
伊勢宗瑞研究に於いて以前から知られたこの意味不明で不気味な記事。
かの黒田基樹氏でさえ匙を投げた謎の事件だが、何とこれが後南朝の最後の王「西陣南帝」又はその係累である可能性があると云う。
應仁文明ノ亂のドサクサ紛れに南朝復興を目指して策動した挙げ句に逮捕配流された、とか。
北條研究側からは誰も指摘しない話だが後南朝研究側ではそれなりに唱えられているらしい。
しかしねぇ…、
同じ『勝山記』文明十(1478)年条に見える甲斐國に配流された「王」と同一人物と云うのも時間(世代)的に怪しいし、後南朝研究者には申し訳無いが無理筋じゃなかろうか。
案の定、
南朝=後南朝=北條時行+伊勢宗瑞→氏綱北條改姓の伏線
などと馬鹿をほざく輩も出て来てるようで、何かの偏向意図を持った妄説としか思われない。
これは脈絡不明の独立事件、その詳細は謎、という北條研究側の現見解の方が妥当だろう。 >>259に補足。
色々と関連記事を漁ってみたが、後南朝研究者は当時の関東状勢を軽視し過ぎだと思われてならない。
三島を含む伊豆は戦争及び大震災による混乱荒廃の余燼止まぬ危機的状況、
相模以北の関東も長享ノ亂真っ最中で万が一古河公方勢力が南朝の皇胤など担いだらエライことになる。
そんな鉄火場のド真ん中へヤバいモノを放り込むか?という話。
将軍も管領もそこまで愚かではなかろう。
やはりこれは、細川政元が應仁文明ノ亂における西軍関係の貴種を流しただけのことと見ておきたい。
伊勢宗瑞の「諫テ相州ヘ」というのも単純に厄介払いの盥回しが真相と考える。 スレ主の蘊蓄を読むより司馬遼太郎の「箱根の坂」の方が100倍は面白いわ >>264
「北条早雲」の「資料」などただの
一つも存在しない。
それは講談や小説の中にだけ生きる虚構だから。 日本人は今日でも悪しき小田原評定から抜け出せない
日本人に残した後北条の爪痕は深い 別に北條に限らず歴史には浪漫なんざ端っから欠片も無い。
生物進化と同じ、と云うかその一部だから、理に適った者が生き残って理に反した者が滅ぶだけのこと。 なるほど時代の理に反したから後北条は滅びたわけだ。
しかし同じ東国の雄であった信玄、謙信みたいに氏康が今日の戦国武将最強論争の論案にも上がらず後世の記憶に残らないのは悲しいな。 北条氏康ほど歴史の記憶に残らない大物武将も珍しいといえば珍しい 統治論も暴力論も知らないガキや白痴どもの論争(笑)だの記憶だのの対象になっていないのは幸甚。
北條氏綱/氏康はアカデミズムの考察対象として在り続ける。 知識と理屈だらけ振りかざしても誰からも相手にされないぞw
インテリどもの無意味な論争に明け暮れてた小田原評定みたいに滅びていくだけw 歴史とは情念という熱エネルギーと水面下の権謀術数が動かすものである つまり後北条には時代の浪漫性が何一つないということですな >>274
無駄な知識を振りかざして論争に明け暮れてるだけで何一つ決められない後北条家の小田原評定は今日の日本人にも深い悪影響を与えてる。 >>270
毛利元就や伊達政宗より完全に空気扱い。
まあそれでいいとうマニアもいるみたいだがな おい氏康ファン!
ちっとは北条氏康の魅力と凄みとやらを語りつくしてみろや!
その為に無駄に知識だけは詰め込んでんだろ? 生涯無敗状態で野戦最強の上杉謙信に勝利したことぐらいではないでしょうか? 後北条氏は、これからも室町後期〜戦国時代研究の中心であり続けるので、忘れ去られることだけはない 織田信長や武田信玄でさえ勝てなかった上杉謙信に勝利したと必死に喧伝すれば
北条氏康の人気は急騰するかな? だが安房里見氏ごときに大苦戦したのが痛すぎる。
金星も多いが弱小相手に取りこぼしも多い
ここが勝てる相手には確実に勝ってきた三英傑との決定的な違いで北条氏康の致命的な弱点 歴史上の人物に関して人気云々とか、
その発想からして狂っている。 一度味方になった相手にも簡単に裏切られるしなあ
里見とも一度は和解したのに 来年の大河ドラマの鎌倉北条氏に連れて後北条氏への感心も増えるんじゃないか? >>284
仏陀やキリストが2000年も人類の記憶から失われてないのは信仰心という名の人気である こっちの北条は鎌倉殿みたいに味方同士でドロドロしてないからな
そこが逆にドラマ化し辛い所なんだろうけど >>289
それが分からん理屈バカもいるんどすよ。 上皇を3人も島流しにする前代未聞の下剋上を成し遂げた史上最強の北条義時に比べたら
北条早雲の下剋上なんて塵のカスみたいなもんやな 坂東平氏で関東は元々平氏の一大拠点だが
平将門だっている そもそも里見は雑魚ではない(というか、里見義堯は安房の一国衆から安房上総を統べる戦国大名に育て上げた一大英雄)
武田信虎や今川氏輝に匹敵する創業をやってのけた人物だが こんなのファンになる奴はスレ主みたいに余程の変人だろ 里見氏は北条家にとって命でもあった鶴岡八幡宮を焼き討ちにしたために仇敵と化した どうせ知識だけを詰め込んでんなら
北条氏康の謎の最強軍師の臼井入道とやらを掘り下げてみろ あー割れちゃった、くっつけてくっつけて、真ん中割れてるよ
臼井じゃなくて白井だよ >>306
本屋やネットで資料集めてるだけだから自分で現地飛んで古文書を読み漁って研究したりしてない人でしょ。
そこらへんは幕末偉人の子孫に実際に会って話を聞いてきた司馬遼太郎の研究力は恐れ入るよ。 >>311
韮山と早雲寺と箱根神社と伊豆山神社は超定番ルートでは
三嶋神社もいいぞ 俺なんか伊豆の国市にある北条時政の願成就院まで参拝してきたのに >>306
白井入道の存在は残された資料自体が少ないから無理だろ
こういうのは憶測でしか判断するしかない
まだ山本勘助のが豊富 そもそも戦国〜幕末は出尽くしてるからもう目新しい研究資料なんてないんだよ
これからは未だ未解明の部分も多い11世紀〜15世紀の平安から室町が日本史の主流だろ?
その布石に大河ドラマ鎌倉殿がなるかもしれない
>>1も歴史学会に一石を投じたいなら室町時代あたりを研究しろ 後北条一族の新発見とかはない
だが鎌倉北条一族ならあるわ 客観的な研究が待ち望まれてるのは南北朝時代でしょ?
ある意味では日本史の最後の空白地帯 >>317
全く出尽くしてないが?
古民家や寺から新たな文書が出てきて既存の学説吹っ飛ぶとかこの10年で何度も起きたことだぞ 日本史の最後の空白地帯は14世紀の南北朝時代。
長く南朝イデオロギーで冷静な研究が今日までできずじまいでいる。
足利義満なんて日本史上屈指の宰相なのに評価が低すぎる。 最近になって応仁の乱あたりがブームになってきてるのはいいこと >>317
たしかに15世紀以降の日本史では何か新発見とかはもう無理。
石田三成の墓まで暴かれ骨格まで調査されつくされてんだからなw ごめん16世紀以後の日本だった。
まだ15世紀以前の日本史なら研究の余地が残されてる。
もう近世は無理。 無理って
江戸時代の諸藩の行政機構なんて、詳細がわかってるとこのが少ないのに >>330
虚構。
北條の税制の基礎知識ぐらい仕込んでから出直して来い。 おまえも武鑑ぐらい読み直してこい
もう16世紀からの日本史は研究されつくして驚愕の新発見はないんだよ やはり鎌倉幕府滅亡から応仁の乱あたりまでの14世紀〜15世紀が日本史の最後の空白地帯で
まだまだ未解明部分が多く研究余地が残されてる そういや意外に奈良平安時代は残された資料が豊富すぎて研究余地がない。 >>335
荒らしには餌を与えないように。
無視が最善。 では16世紀以降で未解明な部分があるのか?オカルトや都市伝説の類ではなくてだ。 16世紀からの日本の行政区分が細かく記録されてるのは
イエズス会など西洋人が多数訪れて地方の民俗まで記録してたのも大きい >>337
玉川上水の建設はあんまり記録が残ってないんじゃなかったけ? 「史料が大量に残されているからもう研究の進展しようがない」とか言っちゃう人は、現代史とかどう考えてるんだろうか?あまりに歴史観が原始的すぎない? 俺が本気で気になるのは陰謀論だが原爆地上起爆説と山本五十六の生存説だけだなw >>338
16世紀からと以前では記録資料の質が違うのはそれかもしれない。
以前の資料は抽象的で曖昧な表現が多い。
なにしろ日本人は白黒つけない曖昧な表現を好むからである。
ここらへんは西洋人は見たまま正確に記録してくれるから助かる。 幕末志士の人物評価も一番参考になるのは実はお雇い外国人の印象談だったりするのよ。 故意にスレチの書込を繰り返してスレを浪費する荒らし行為は報告/規制対象になる。
以前も警告した。 >>344
百聞は一見に如かずで写真の力は偉大すぎるな。 太田道灌は良きライバルだけど
北条早雲が憎しみを込めた仇敵は三浦道寸だけでしょ? 本当に研究が待ち望まれてる最後の大物武将が細川政元じゃないかと >>348
三浦一族を皆殺しにするぐらいの怒りが早雲にあったわけだな 浅井長政みたいに苦しいときに裏切られたとかならともかく、身分も由緒もない他国の凶徒に抵抗したら恨まれるって割に合わないな >>351
朝倉孝景も面白い漢よのう
やはり室町時代こそが日本史に残された最後の楽園 北条氏康みたいな穏やかな顔してながら強敵には驚異的な強さ魅せる漢が好きだ。
上杉謙信はボンボンだと舐めてかかった北条氏康の意外なる強さに驚いたなんじゃないか。 >>355
もそもそ旧来の関東の親玉である山内上杉と最高権威の古河公方叩きのめして勢力消滅させてる時点で意外性のカケラも無い とりあえず16世紀の大物武将で前半生が不明すぎて研究価値が高いのは
・明智光秀
・北条早雲
・山本勘助
この3人のみ >>263
司馬遼太郎の推測では北条早雲を支えてたのは孟子の義らしい。
易姓革命の信徒である ああそうか道三と一益も入れて5人のみ。
それ以外の全ては研究されつくしてるからもう何もないだろ。 >>359
陽明学でいうところの永久革命思想が早雲には入ってると思ってたよ。 東京西郊(区部外縁や多摩)の地域史を観るに、室町後期即ち戦国時代開基の村が殊の外多い。
当スレの上の方で議論になった落葉広葉樹植林育成の件も当該地に村が在ればこその話で、江戸時代中期に先立つ「戦国時代(北條統治期)に於ける新村開拓ムーヴメント」の蓋然性は高い。
この想定は北條の領国政策とも強い整合性があるし、盛本昌広氏等の論考を踏まえても当然あって然るべき仮説だろう。
然るにプロの史学者でさえこの件に関しては「武蔵野の開発は享保から」と云う旧来の通説に甘んじて思考停止しているのは実に訝しく、且つ当地を地元とする者としては歯痒い。
日本、少なくとも関東の中世の生活史/産業史について考察さるべき課題、解明さるべき謎はまだまだ広大な未開野を残している。 来年の大河ドラマに合わせて本屋では北条義時の書籍ばかり目立つが一時的な便乗に過ぎないだろ
まずもって日本史でも奈良時代から室町時代は人気なさすぎる
これも軍記以外での具体的な資料が少ないからだ 16世紀からの日本は来日宣教師の記録書類も豊富に残されてるからな
それだけ21世紀には何も驚愕の新発見もないけど、その代わりに歴史小説の題材にもしやすいんだろう >>363
語れって今川家なくして後北条家は存在しないぐらいかな。 >>366
とくに江戸期からは記録文化でもあるぐらい記録文体作業が日本中の藩で行われた。 江戸は日本人の小人化が止まらない日本史上最悪の停滞時代さ >>365
大河ドラマも葵 徳川三代を最後に糞ジャニーズばかりが出演して実にくだらない。
鎌倉殿はどうなることか。 なんで後北条ってこんなに武将としての魅力や浪漫がないんだよ >>358
>>361
興味をそそられるのは明智光秀ぐらいかな ジャニーズ出始めてから時代劇全般の劣化が止まらないのには同意 今月発売の歴史道では磯田道史が戦国最高の家臣団に後北条と毛利を挙げていました 毛利は滅亡寸前になりながらなんとか生き延びたが後北条は滅亡した
この差は何か? >>380
羽柴対毛利の戦 と 羽柴対北條の戦 はその法的意味や構造が全く異なる。
そこが理解出来れば結果の差異に何の疑問も無い。
齋藤慎一氏の論考が明快。 >>380
毛利家には吉川広家という名参謀がいたからさ
あとは北条氏政に比べて毛利輝元がわりと賢ったからかな 上杉景勝と毛利輝元とは最終敗者だが
さすが豊臣政権の五大老を張っただけに後北条家とは力量が違いすぎるよ
上杉と毛利が生き残れたのもこれ ああ、また恒例の自演だったのか。
返答して損をした。 >>380
上杉も毛利も生き残れたのは本能寺の変があったからに決まってんだろ天下もまだ定まってない時期だったし
北条の場合は小田原の役の時点で北条と同等かそれ以上に脅威となりえる勢力が控えていなかったのが運の尽き >>385
また自演なんだろうが反応してやるよ。
結果と原因が転倒している。
軍記脳やゲーム脳にありがちな倒錯だ。 >>380
汁かけ飯の氏政が無能だけだったんちゃうかと どんなに無能君主が誕生しても国が滅びない官僚制度を作り上げた毛利元就は偉大 >>387
甲陽軍鑑に乗ってた逸話だっけ?
ただ後北条最大版図も氏政時代。
相手が悪すぎたな 氏政が無能って何言ってんだって話で
長尾上杉を関東から叩き出し、里見を事実上屈服させ、佐竹宇都宮等を中心とする残存勢力を完全に圧迫する体制に持っていったの氏政の時代だけどな >>388-389
山内容堂
「長州は逆さひょうたん」 >>390
もはや謙信がいない弱い上杉を追い出したぐらいで調子こいて天下の秀吉にも勝てると本気で錯覚してたんだろうか? 謙信のいない弱い上杉???
親上杉勢力を北上野以外の関東から叩き出したの、謙信の在世中ですが 大相撲の合口と同じで後北条は謙信存命中から対上杉だとお得意様だったからなあ
後北条が相性が悪いのは武田と里見 北条家は何をそこまで上杉戦に燃えさせたのか?
お前らの仇敵は里見だろうが。 お前らとか言ってひと括りにする手法がもう五年前のものなんだよ >>396
氏綱の時代は、概ね甲斐に対しては優勢を維持していたけどね そこは信玄が不世出の名将だったからさ
勝頼相手には勝てたかもしれないけどな >>397
里見は北条相手の戦術だけ考察してばいいから楽だったのだ。
北条は上杉や武田を相手にするときに戦術を変えなきゃならない。 謙信が一方的に突っかかってくるだけで
北条は謙信なんか相手にする気ないだろ >>396
相性などと掴み所の無い話をしても始まらない。
憲政以前の上杉には恒常的飢饉下で領国の村々を如何に存立させて行くかという思想が全く欠落していた。
北條にはそれが明確にあった。
結果は馬鹿でも予見できる。
上杉謙信には「越後の」飢民を救済する断固たる意志と政策があったが、北関東をその為の犠牲、単なる狩場としてのみ扱った。
北條は領国化した村々をどうにか喰わせて行くことで大名権力体ともども栄える道を目指した。
北條氏康対上杉謙信の関東戦争は謂わば危機管理のイデオロギー闘争。
これもどちらが現地の村や國衆から支持されるかは論を俟たない。 しかし常々思うんだが、
「関東三国志」とか称して北條氏康/武田信玄/上杉謙信の時代だけ仰々しく特別視する、世上の愚かな風潮はどうにかならないものか。
関東に於ける三者の壮絶な相剋は、
伊勢盛時が幕意を帯びて伊豆に侵攻した明応二(1493)年に始まって
終わりは武田勝頼が滅亡した天正十(1582)年の足掛け九十年間に及ぶ。
天正二(1574)年の上杉謙信の関東戦争全面敗北まででも八十二年間。
所謂関東三国志なんぞは永い戦史のごく一時期の局面に過ぎない。
全体構造を俯瞰した上で位置付けなければその本質も見えては来ない。
さすがに当スレには>>399氏のように正確な認識を持つ人もいるが…。
無知な衆愚は論じて詮方無いが、
歴史好きを自任する者の集まる日本史板や戦国板までもがその弊風を免れないのはどうしたことか。
実に嘆かわしい。 格闘技の試合と同じで地政学上の相性は確実にあるよ。
でなければ上杉が北条を苦手として北条が武田、里見を苦手として武田が上杉を苦手としてた理由が見当たらない。 武田、上杉、北条は見事にグーチョキパーのトライアングル >>407
海戦では無類の強さを発揮した旧日本軍でも陸戦に弱かったのを見ると。これは遺伝なものなのかと。 北関東を食い物にしていた謙信が義の人とか言われているのが納得いかない >>407
北條と上杉のことは既に書いた。
日本語が読めれば理解できるだろう。
武田、里見、何だったら佐竹や簗田でも良いが、
自然環境、産業、技術、流通、行政等々の構造から考察すれば実体のある理解は必ず見出せる筈だ。
「相性」などと云う実体無き幻想は思考停止以外の何物でもない。 >>412
上杉謙信は越後國主だ。
為政者の至上の正義は「民を喰わせていくこと」。
その為に謙信は北関東に於ける略奪誘拐を国家ビジネスとして事業化した。
壊滅的飢饉下で冬季の越後に留まれば餓死の他はない飢民を雑兵として関東に連れ出して喰わせる。
それは越後の村々にとっては口減らしにもなる。
従って上杉軍の北関東での略奪が陰惨苛烈であればあるほど謙信は國主として領民に仁政を敷いたことになる。
これは正しく「義」であって、上杉謙信を義将と呼ぶに何の不思議も無い。
−−と、
上杉謙信を賞讃すると謙信ヲタは真っ赤になって怒るけどな。
褒めてるのに。 >>411
そりゃ、どの国家民族にも得意不得意の分野があるからな ほらよ知識だけを無駄に詰め込んでんなら白井入道の経歴を書いてみろ >>379-380
北条早雲と毛利元就は東西の成り上がり武将として良く比較対象にされるよね 引き続き北條の林業を考えている。
伊勢宗瑞はその最晩年に「虎ノ印判状」を創出して体系的な行政改革を実行した。
今に遺る印判状執行の最古例(永正十五[1518]年十月八日)は四条から成る。
その筆頭条は山林資源の直轄一元管理に関わるものであって宗瑞がこれを非常に重視していたことが窺える。
盛本昌広氏の研究に拠れば同様の山林資源管理方式は今川、世田谷吉良、簗田、由良、白井長尾等に広く認められるが、これらの事例は主に永禄期[1560年代]以後である。
武田に至っては同方式の採用が長篠合戦敗北後の天正三[1575]年十二月まで下る。
宗瑞の施策開始の突出した早さが際立つ。
「戦国乱世」状況が恒常的に厖大な木材や薪炭を要することは云うまでもない。
にも関わらず武田等多くの大名が確固たる管理体系を定めず恣意的な乱伐を重ねて
資源の涸渇〜戦争運営の困窮を招くばかりか山林の保水能を低下せしめて洪水災害、ひいては領国の更なる荒廃を招いた例が少なからず知られる。
盛本氏の謂う「戦国時代の環境問題」である。
ここに何か見る所があったのか、
早期に山林資源直轄管理に着手した伊勢宗瑞を先進的と云うことには躊躇を覚えるが、的確であったことは間違いない。
何が宗瑞をして斯くせしめたか、私見では二つばかり推測を立てている。
またぽつぽつと書いて行く。 盛時が早雲を名乗って幕府に戻らなかったのはなんでなんだろう?推測できる資料もないのかな? 三増峠の惨敗と河越夜戦での圧勝が北条は武田に弱く上杉に強い印象を作り上げたな >>422
直接示す史料は確認されていないようだ。
出家したのが京都を棄てる決意の表明だとするとその時期は伊豆侵攻開始前後だが、動機は謎と云うしかない。
幕府側ではこの頃伊勢盛時を奉公衆(直属暴力装置)に配置転換している、
即ち爾後も幕臣として盛時を使役する気があるわけだから京都方面にも理由は見出し難い。
ただ、
盛時自身の意志がどうあれ伊豆侵攻以後の事実経過の中に京都帰還の機会は無かったようにも見える。 >>423
三増峠、記録見る限り惨敗というほど負けてはいないんだけどね
武田にとっては撤退戦だし
ただ、挟撃しといて劣勢だったのは言い訳できんが 北条は三増で死者を出しすぎてんだよ
氏康は信玄の威圧によっわい >>427
三者とも大成功だったろ
今川は三河尾張への進出成功、武田は信濃制圧、北条は武蔵下総支配の強化と関東の覇権確立の布石
ここまで成功した同盟、あの時期に他にない >>426
武田も損害結構大きくてな、重臣クラスも何人か死んでる
あの合戦自体は割と局地戦であって、あまり大きな意味はない
武田の関東侵攻により駿河での武田優位の確立と言う点で武田の戦略的勝利と言う観点こそ重要
上杉との甲越同盟ははっきり言って大失敗だった
上杉、同盟相手との協調とか欠片も考えないしな
北条相手のみならず 単に上杉だと扇谷や山内なのか謙信の事なのか分からんな
信玄は山内とはさほど対立してないし
北条は向こうがちょっかい出してこなければ謙信なんかどうでもいいだろ 結局は手取川で信長も返り討ちにした謙信にきまってるだろ >>429
> 上杉、同盟相手との協調とか欠片も考えない
佐竹も簗田も里見も見殺しだからなあ…。
略奪誘拐放火に精を出すだけで味方の支援は殆どしない。
上杉謙信はそれで関東諸将から見限られて敗北した。 >>433
> 信玄は山内とはさほど対立してない
山内憲政が甲信方面へ出た時に痛撃を喰らわせたんじゃなかったか。
北條今川と組んだってことは自動的に反山内になる。
> 向こうがちょっかい出してこなければ
そのif自体が成り立たない。
上にも書いたが、
上杉謙信が越後國主である限り領民の為に遅かれ早かれ関東へ略奪戦争を仕掛けなきゃならないのは必然。
外侵無しに國が立ち行くほど越後のポテンシャルは高くない。
だから北條との衝突も、その結果の敗北もまた必然。
謙信は最初から詰んでいた。 上杉謙信 河井継之助 山本五十六 田中角栄
二流の戦略家にして一流の戦術家を生むのは越後人の血が成せる業か >>436
北条と対立してる時は佐竹と組んでるぞ武田は
佐竹は反北条が関東関係の基本なので、武田が北条と同盟関係である限り組めない 関東三国志で争ってる間にまさか西からの攻撃にしてやられるとは 勝頼、氏政、景勝の大同盟を組んで織田豊臣に対抗できなかったものなのか 勝頼は景勝、氏政の両者と友好関係にあったが
氏政と景勝が勝頼が仲介しても無理なぐらい最悪の関係にあったからだろ 三郎が上杉を継いでいたら三国の同盟も可能だったかもな 政治家が目先の利益ばかり飛びつくのは今も昔も変わらんのね 政治家というか
それが人間の性だろ
とくに日本人ほどそれが強い気がしてならない >>449
先を読めないから滅びるんじゃない
むしろ、時代に先行して滅びるん事例のが多い
そんなのあくまで結果論であって、適者生存でしかない まさか後北条の統治が現代を先読みしすぎて当時の北条領以外の日本人に理解されずに滅びたってか? 後北条の小田原評定は今日まで続く日本の悪しき八百長談合文化を生んでるぞ 北条を大河にするときは幻庵を主役にしてほしい
うまい具合に滅亡直前に死ぬし しかし、小田原評定というか、定期的かつ頻繁に開催されていた後北条氏の評定システムのことも知らんと、
小田原評定を悪口だと思って使ってる奴がおるな
最近20年の研究成果全く調べてもいないとみえる 幻庵宗哲の生年については明応二(1493)年という通説は否定されて永正期(1504〜)とみられている。
よって伊勢宗瑞長逝(1519)の頃はやっと元服したかどうか。
そもそも幼少から箱根権現別当への道を歩んでいた身で、武将としての記録初見が天文四(1535)年だから宗瑞に「仕えた」という表現には疑問が残る。
歿年も通説の天正十七(1589)年よりは数年早かったとの見方が有力。
北條氏政が名目とはいえ氏直に家督を譲ったのが天正八(1580)年だから、こちらは確かに「仕えた」とは云える。
以上から、幻庵宗哲が仕えたのは氏綱以後の「四代」というのが確実な所だろう。 「先進的」なる言葉自体が胡散くさい。
世界は直線的に進化して行くものと云う、西欧近代啓蒙思想の虚構を煮詰めたような概念だ。
北條権力体はそれが組み込まれた構造の中に在って合理的ではあったし、
例えば武田上杉などと比べて目的機能の一貫性は高かった。
初代宗瑞の政策が災害対応の中から確立していったことに象徴されるように、
それはあくまでも北條の置かれた状況に必死で対応し続けた結果だった。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
確かに北條の統治原理やその仕組は江戸幕府を経由して近代まで影響を遺したが、それは結果論に過ぎない。
既に北條自身の意識とは別の範疇の事だろう。 (>>421から承前)
伊勢宗瑞の山林資源政策の淵源についての私見その一。
散々触れてきた明応七[1498]年大震災+大型台風の惨害がここにも翳を落としていると見る。
これとの関連で、当該の虎之印判状の永正十五[1518]年という時期、及び伊豆木負村(現・沼津市内)という地理が注目される。
この地震が南海/東南海/東海連動型であったならば木負近辺が大津波に直撃されたことは確実で、沿岸の村落や農地はもとより後背地の山林も潰滅は免れ得なかったものとみられる。
当時伊勢宗瑞は正に伊豆戦争の大詰めを迎えて大量の木材を各地から徴発していたことだろうが、木負を始めとする西伊豆一帯の山林資源が大被害を受けてそれも儘ならなくなったのではないか。
天然資源と雖も有限なものであって恣意的な乱伐を続けたり災害に遭ったりすれば涸渇する、という事実に直面したことが平時からの資源管理重視に繋がった蓋然性は高い。
また木負の立地や印判状の文言「竹木」から見てこの時の対象は里山の山林、即ち薪炭や生り物(非常時の食糧)の用も兼ねる落葉樹の雑木林や竹林と考えられる。
そして印判状の時期は大震災から丁度二十年、櫟、小楢、栗等落葉樹の場合は苗木植林にせよ曾孫生えにせよ伐採使用や果実収穫に堪えるようになる頃だ。
一度潰滅した山林が資源としての再生を果たした時期と見做せる。
この時に当たって戦時や災害時に備えるべく、特に政策発令をしたのではないか。
実際、当該時期は恒常的飢饉の戦国時代にあっても殊更に酷い飢饉の記録があることからその切迫性を想像し得る。
直接一元統治という原理、枠組そのものが大震災への対応から生まれたのと同様、その枠組で作動させる具体政策もまた災害、非常事態への備えによって規定された。
斯くの如く伊勢宗瑞の全政治経歴から災害の影は抜き難い。
−−そんな見通しを持っている。
(続) 現代的価値観から見て合理性が高く、より集権的で、家臣による合議システムがあったという意味で「近代により近い」≒「先進的」って視点は理解できるが
> あくまでも北條の置かれた状況に必死で対応し続けた結果だった
こんなのどこの国、どこの地域でも同じで、より先進的だろうとして統治システムを確立しようとした勢力なんて共産主義しかない
結果は推して知るべし >>464
> 「近代により近い」≒「先進的」って視点は理解できる
既に啓蒙思想に絡め捕られてるよ。
戦国時代と近代の間に先進も後進も無い。
単に少しばかり「違う」だけだ。
> より先進的だろうとして統治システムを確立しようとした勢力
フランス共和国やらアメリカ合衆国やらってのがあって、な。
正に啓蒙思想でウッカリ国を建てちまったウツケどもだ。
本邦でも天武朝という顕著な事例がある。 >>465
フランス革命やアメリカ独立革命知らん人がいうセリフだ
あれ、根本には行き詰まった内政問題の解決があり、そこに啓蒙思想が取り込まれたけど、紆余曲折の末にたどり着いたのは地域性に基づく現実解でしか無かった
こんなのどこの国でも同じ
本邦における明治維新だって同じだ
ちなみに、近代的を「先進的」と呼ぶのは近代というシステムが現代につながっているからであり、それに優劣をつけた覚えはない >>466
現代に繋がっていようと断絶していようと同じことだ。
その時々の「現代」が直線的進化の最先端であるという一元的で偏狭な価値観を暗黙の前提とするから「先進」などという幻想に絡め捕られる。
> 地域性に基づく現実解
少なくとも合衆国については違う。
地域性に基づくと云うなら、ネイティブの築いてきた多数の地域社会群を統合する形で建国された筈だ。
それとは全く反対の、元来の地域性の破壊と排除、地域と無縁な人工システムの建設こそが合衆国の歴史だろう。 追記。
> 本邦における明治維新
列島史上、
実は戊辰戦争の結果生まれた「大日本帝國」ほどこの列島の地域性即ち地理水文、気候風土、生活文化等々から乖離した統治権力体は他に類例を見ない。
その政体と列島の地図を並べて考えればすぐに解る。 >>468
あ、うん
特定のイデオロギーの持ち主ってことは理解したわ 歴史は進化するものとして解釈することも違う方法で解釈することもできる、西欧的社会進化論や発展段階論はそういう様々な解釈の中でも有用性が高かった、ってだけだろ 「国史の意義は万邦無比の国体の精華を顕すことにある」って解釈だってあった(今でも生き残ってるかも)しな >>470
> 有用性が高かった
−−か、どうかは、それが相対化される時が来てから判ることだ。
評価は未だ定まらない。 >>472
時系列的に、より優れたものがより劣ったものに取って代わるだろう、って進化論の信仰告白じゃんw >>473
何処をどう読んだらそうなるのか不思議だが。
もしかして日本語が不自由な人か?
封建制や共産主義の如く、完結したものだけが確定評価の対象になり得る、即ち「棺を蓋いて事定まる」と云っている。
現在進行形の「現代」を支える思想が果たして「有用性が高」かったかどうか、この社会システムが過去のものになった時に初めて判る。
念の為に云えば、その評価を行う時代がより優れているとか「先進的」であるとかいうことはない。
「現代」とは違う社会システムが構築された時代、というだけのことだ。
因みに「進化論」も胡散くさい言葉だ。
慥かダーウィンその人が後に「evolutionではなくて単にchangeとすべきだった」と悔やんでいたんじゃなかったか。
あれほどの知性でさえ啓蒙思想の病から自由ではなかった。 後北条は鎌倉北条氏よりも奥州藤原四代と比較してしまう 中央権力に滅ぼされた地域覇権で終わった民政大国だからか? 信玄や謙信や政宗にもあった上洛意識が後北条には全くなかったと思われる。
権力欲の塊だった鎌倉北条より奥州藤原四代だな >>477
そのアナロジーは粗雑過ぎる。
欧州藤原を葬った鎌倉勢は如何なる意味に於いても「中央権力」ではなかった。
むしろ当時の鎌倉は中央権力=朝廷の軛を断ち切って独立性を高めんとする段階にあった。
朝廷と通じる藤原(と鎌倉は見ていた)を自らの行程の障碍として排除した。
一方、小田原陣時点の羽柴「豊臣」対北條の関係は単純な中央対地域というものではない。
現実に北條が豊臣大名に転身していたことは齋藤慎一氏の論考に詳しい。
故に両者の関係は「公」対「私」である(少なくとも羽柴側はそう位置付けていた)所にその本質が在る。 無味乾燥の後北条家なんかより伊達家のほうが武将の覇気があるから好きだわ 方や関東を支配してるだけで方や日本六十六州の支配者 >>486
後北条は関八州の盟主だけど
鎌倉北条は鎌倉幕府将軍の下に置かれる御家人たちによる評定衆で
議長権を持っている程度だっただろ 比企、畠山、梶原、和田、三浦の諸氏を滅ぼしてからは北条一門による重要な役職の独占が加速して専横を恣にしてたじゃん
摂家将軍は単なるお飾りでしかなかったし執権とはいえ朝廷からも事実上の支配者とみなされていたのは確かだろ 上皇さえも島流しにした鎌倉北条氏には徳川幕府でさえ勝てないよ 鎌倉北条のようなドロドロした歴史じゃなくて良かった 謹賀新年。
小田原城の新年の宴は海の幸尽くしだったんだろうな…羨ましい。 >>501
鎌倉の北条氏と後北条氏のどこが外交音痴なのか、意味がわからん
外交音痴が幕府の権力を事実上奪取したり、関東の覇権握ったりしたのか
凄い歴史認識だな 後北条は外から来た織豊政権との外交に失敗し滅亡
鎌倉北条は元寇に際しオンチ以前に状況を理解していなかったし使者を斬り殺したりして二度の襲来を受けた
退けられたのは単なるラッキーだし三度目が無かったのもラッキー >>503
うん、全部固定観念で概ね覆されてるかつての俗説てんこ盛りで笑える
元寇の撃退がラッキー?
状況を理解してなかった?
何言ってんだこいつ 状況を理解いした上で返書も出さずに放置したり使者の首を刎ねたり朝鮮からの救援要請も無視していたの? >>505
そうだよ
宋経由、禅僧や商人経由でも情報は入っていたし、国際交易の利権握っていたのも北条氏
その上であの判断をした、十分勝ち目あると判断して 後北条の外交は下手糞だったかもしれないが
鎌倉北条氏は上手だろ 関東を支配しただけの後北条と日本六十六州を支配した鎌倉北条氏では器が違いすぎる
横綱と平幕ぐらいの差 しかし本屋の歴史書棚に行くと大河ドラマの便上で北条時宗以来の鎌倉北条家ばかりだなw 内輪揉めばかりな後北条の歴史なんて人気出る訳ねえだろ >>514
北条家は最終勝利者であるにも関わらず清盛、頼朝、義経に名声を奪われてるわけだ。
やはり清盛、頼朝、義経には存在する千年も名を残す英雄豪傑の浪漫を感じさせないからだな。 前の太政大臣、平朝臣清盛公にだけは漢一代の浪漫がある 同じ平氏なら平早雲と名乗ればよかったんではないかと。 >>519
正式な名乗りは平盛時で、取次やってるときの書状はそうなっているけど
もしかして苗字と氏の区別ついてないのか? ああそうだったんですか
どうせなら平氏ブランドを最大限に活用すべきだったのに >>521
いや、だからね
徳川(苗字) 源(氏) 朝臣(姓) 家康(諱)
なので、それぞれ意味があるし、使われているの
早雲庵殿は
伊勢(苗字) 平(氏) 朝臣(姓) 盛時(諱)
ってこと
当時のそれなりの武家なら、政所執事伊勢守伊勢氏の一門であれば、自動的に「平」だってことは常識なの ちなみに、関東では秩父党の生き残りを中心とする坂東平氏と、足利、新田系を中心とした源氏が多いけど、上杉氏(藤氏)みたいな大系統もいる (>>463から承前)
伊勢宗瑞の山林資源政策の淵源についての私見その二。
もう一つの仮説として、これが諸寺社再興事業に向けた具体的な準備作業の一環であった可能性を検討してみたい。
周知の如く次代北條氏綱は箱根権現、一之宮(寒川神社)、鶴岡八幡宮等の主要寺社修造を殆ど北條の単独事業として完遂した。
氏綱が箱根権現に奉納した棟札に拠ると一連の寺社修造再興は「相洲故太守」即ち伊勢宗瑞の宿願であったと謂う。
従来これはあくまで宗瑞の願望を述べたものであると、それこそ何となく思われてきた。
しかし実は具体作業、ここでは材木確保の布石を打ち始めていたとは考えられないか。
永正十五[1518]年十月と云えば伊勢宗瑞が相模國全域制圧を完了してから三箇月、軍事行動は一旦収束した時期であって、「宿願」の実行という意味でも伊勢権力体の統治確立という意味でも当該事業に着手して不思議は無い。
計画通りに且つ十分に材木を確保出来るように、と。
その為の綜合的な山林資源確保政策の一端が木負村の件に顕れたのではないか。
そもそも虎ノ印判状に象徴される行政改革断行そのものが上記状況を前提とした一挙ではあった。
(続) (承前)
この仮説にはネックとなる要素が二つある。
一つには木負村の立地から推測される樹種(既述)である。
確かに寺社建築と云うと杉檜、深山に植生する針葉樹が直ちに連想される。
当該文書が示唆する里山の落葉広葉樹とは齟齬する。
しかし大規模修造となれば本体建屋のみならず門や塀の全面新築をも伴うわけで、ここには栗、櫟、欅等の適用が充分に考えられる。
また土台は定番の松であろうし、これらは何れも里山や低山から獲得される樹種である。
二つには当時の大飢饉(これも既述)である。
斯様な危機にあっては寺社再興どころではなかろう−−と我々現代人は反射的に思う。
しかしそれはあくまで廿一世紀の価値観であって中世のそれではない。
斯様な危機なればこそ神仏への崇敬をいよいよ深くしてこれを顕すべきである、それが統治権力体の責務である−−という思考は中世にあってむしろ一般的だったのではないか。
このように二つのネックは必ずしも私見を否定するものではないと考えている。
なお、ここまでの二通りの仮説、災害危機管理説と寺社再興政策説は相反的なものではない。
両方が重層的或いは結合的に作用した可能性も十分に想定されよう。
以上。 >>523
扇谷への着到だったか何かには「平入道」とある
−−と何処かで読んだ。 平秀吉に対して平氏政で返せば和解できたかもしれない >>529
> 上杉は藤原か?
不識庵謙信こと上杉政虎は長尾だから以後は実質平氏。
山内上杉は異常に養子相続が多いから仔細に調べれば憲政以前にも藤原の血は切れていたかもしれない。
後世には吉良から養子が入った(忠臣蔵敵役の吉良上野介義央の実子が上杉綱憲)からそこからは源氏でもある。 日本の家と氏の感覚だと、上杉は藤氏
養子相続しても、家としての氏は変わらない
上杉四家の由来は丹波あたりを本拠としていた地下家(下級官人)と言われてるね 源姓足利・藤姓足利みたいに成り立ちからちがうはずなんだよな
畠山が平姓から源姓に変わったのが謎 >>533
秩父党平氏畠山宗家は畠山重忠の乱で滅亡、断絶した
畠山という苗字だけ、足利家の一族が入部して継いだのが源氏系畠山氏
直接的につながってるわけではないんだよね >>530
それはない。
小田原遅参後に死に装束で現れた伊達政宗を許した秀吉は豪快無比な行動を好む漢よ。
秀吉は後北条みたいに小田原評定のインテリどもが理屈だらけを語り合うで茶目っ気がない武将を何よりも嫌う。
後北条の外交力では秀吉の真意を理解できなかった。 秀吉は武田勝頼の自害を哀れんだり上杉景勝を五大老に就任させたりしたが
どうもインテリ北条家とは馬が合わなかったみたいだ
秀吉は理屈を嫌う人間だからな
幕末だと西郷隆盛や勝海舟に近い人間 伊達政宗と北条氏政では武将としての格が器が違いすぎる 武田勝頼の死に様は項羽のごとく絵になりすぎるが
北条氏政の死に様は東条英機のごとく無様なだけ 後北条家みたいな高級官僚テクノクラート集団は平時だと無敵の強さを発揮するが
有事だと最弱に近い惨状を見せる われは平朝臣清清盛公の子孫なりとか大々的に宣伝すれば平氏を名乗ってた織豊政権の心を射抜いたかもしれないのに外交力が足りないなあ >>544
結局は勝海舟の言うように交渉力というのは呼吸力ということだな >>544
それ詐称極まるのでアウト(伊勢平氏清盛流は断絶している) >>248
>>320を書いた後も少し考えたが、より簡単に;
イ. 応力集中モデル
ロ. 侵蝕地形モデル
でも解けるだろうと思い至った。
前者の方が北條優勢化現象の非線形性をより明確に表現できるかもしれない。
適切な閾値(降伏点)と切欠係数の設定が課題か。 >>5
馬加氏ってこのころいなかったっけ
って調べたら旱雲が生れたころ滅亡か >>550
平氏には珍しく千葉氏の内訌はぐっちゃぐちゃだからねえ…。
馬加氏も滅亡したようでいて滅亡してないし。 北條一族呑兵衛容疑、更に強まる。
味噌、梅干しに続いて「烏賊の塩辛」も北條発祥。
**************
食品名 いかの塩辛 神奈川県(小田 原)
材料 いか、こうじ
作り方 いかを水洗いして、調理し、いか1貫匁に塩2升5合と、こうじ1枚分をいかのわたと共に樽に詰めておくと1週位で食べられる。
食べ方 塩辛汁、お茶漬
由来 北条時代、美濃国から小田原に移住した美濃屋吉衛が、漬物屋を開業したことに始る。
或年いかの大漁があり、その処分に困つた折価格が大暴落をした。
その時に、このいかを大量に買いこんで時期をみて売り出そうと塩とこうじをもつて、樽に詰め長期間の保法を考えたことが始まりである。
−−『保存食について』(1958年食品学会誌第5号) より引用
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/969/1/0100_005_012.pdf
************** 源平交替ではなく
公家→平→公家→源→公家
藤原→平清盛→後白河→源頼朝→藤原将軍&後鳥羽→北条→後醍醐→足利→三好&九条→織田→豊臣(公家)→徳川→毛利(大江)&三条・岩倉→島津→明治→ 勝頼と景勝は古武士タイプ
氏政はインテリタイプ
秀吉が何よりも嫌うのはインテリタイプの武将 基本的に後北条家はテクノクラートのインテリ集団
それ以外の何物でもない いよいよ明日から北条義時が主人公の大河ドラマかあ
やはり後北条は自ら領土拡張をしないで、
ひたすら内政整備のみに専念したから鎌倉北条みたいな海千山千のダイナミズムにかける
確かに専守防衛のみに徹してる現代日本から見れば後北条は参考にもなるんだろうが
どうも赤い貴族が蔓延して官僚腐敗で崩壊したソビエト末期みたいな衰退と停滞の時代を招くよな >>555
北条氏政が伊達政宗に負けず戦国バサラ大名なら五大老を要請されてたかもしれんな >>557
後北条氏が専守防衛?
長期間にわたって赤緑を拡張し続けたthe戦国大名なんだけど、何見てるんだろう、って人がこのスレで変なこと言ってるよね >>563
わかるわw
なんか権謀術数の巨魁だった源頼義みたいな壊し屋なんだよなw >>562
わかるわw
なんか権謀術数の巨魁だった源頼義みたいな壊し屋なんだよなw 上杉、武田、伊達からは感じる戦国武将の浪漫後北条にだけは感じないのはそれだったのか! 上のは>>557へのレスね。
本当に何もかも中途半端な武将もどきが後北条だったよ。
勝頼の自害を泣き正宗を許し景勝を五大老に就任させた豊臣秀吉が東国の武将で後北条と全く意思疎通ができなかったのも無理はない >>567
太閤殿下は幕末だと西郷隆盛や勝海舟みたいな人間。
新選組配下には後北条家臣の子孫が多かったみたいだが。 >>568
小田原評定など後北条は日本に負しか残していませんから 頭でっかち後北条
鎌倉北条とは一族の器がちゃいすぎる そもそも江戸幕府の高禄な旗本って後北条や今川の旧家臣が多いのよね >>572
狸はさすがに狸だけあって、
織田や羽柴のように全てを自己流に置き換えて歪みを生んだりせずに
前代の在り方を丸呑みして丸め込むズルい道を選んだ。
俯瞰すればそれは北條がやった事でもあって、
家康の康は松平清康の康に非ず北條氏康の康だとデマを流したくなるぐらい北條に学んでいる。 北條水軍草創について調べている。
それは伊勢宗瑞の対扇谷宣戦、或いは長尾為景・長尾景春との三者同盟、更には房総侵攻とも関わる深く広い議論でなかなか簡潔には考えがまとまらない。
何れ思いつくままにダラダラ書いて行こうと思う。 WJで連載中の逃げ若で諏訪神党の風間氏が忍者役で出てきたが
多分後北条の風魔党に繋げるんだろうなあと 少年漫画のノリが嫌いでなければ読めるかと
私は単行本派ですが面白いと思います 豪胆すぎる石田三成はインテリかあ?
たしかに内政能力がずば抜けていたが武芸は弱くても武将として必要すぎる気魄だけは情人ではなかっただろ
そもそも徳川家康相手に真っ向勝負なんかインテリやテクノクラートじゃ無理だろw
腐っても石田三成はモノノフだったのだ 後北条関係の歴史小説で最高だったのは
伊東潤の「城をひとつ」
これ本当に最高 大藤一族の話やな
今だと後北条を書かせたら伊東潤の右に出るものはないだろ >>580
そうそのとおり
インテリ北条氏政に決定的に欠けていたのは武将としての大胆不敵と気魄。
平秀吉に対して平氏政で送り返せる度胸がなかったのが致命傷。
伊達政宗の死に装束よろしく羽柴秀吉は捨て身の武将を好んで助命する人間。 伊東潤って終盤になるほどダラダラつまらなくなる印象だけど
そこまで言うなら今度読んでみよう
小説なら北条龍虎伝が好きだった >>583
北条五代のインタビューで「これで北条ものは卒業してもいい」とか言ってたで しかし伊東潤がそこまで北条に熱くさせるものはなんだったんだろうか。 >>580
我々の心を魅了してやまないのは三成の義侠心なのだ このスレ、俗説と妄想(と多分小説)だけで固定観念持ってて、ここ20年の研究に全く触れてないのが延々と連レスしてるのなんなん?
今時石田三成の義侠とか、徳川家康と真っ向勝負とか何寝言言ってんだと そもそも16世紀以降の日本史なんか出尽くして何も新規発見がねえだろう
そんなら歴史小説をたんまり語りあったほうが実があるよ それこそ石田三成の墓まで発掘されて骨格調査されつくしてるからなw
戦国時代に新しいものなし 北条氏政ごときインテリは戦国の世では生き抜いていけなかったのよ
石田三成にはある胆力がなかった 武田勝頼の最期には項羽のごとく浪漫があるが
北条氏政の最期は東条英機のごとく無様なだけ 日本史の最後の空白地帯は14世紀〜15世紀だからな。 >>597
大河ドラマにされないわけですね・・。
今後も無理でしょう 戦国の東国大物武将といえば信玄、謙信、政宗だけになってるからな。 南房へ行くと「里見を大河ドラマにしよう」みたいな幟が立ってるが北条以上に可能性低いな 本多忠勝の領地だった大多喜町が大河誘致しているらしいが
そっちのほうが可能性ありそう
同じく領地だった桑名や他の地域も出せるし >>601
千葉の旭市なんか木曽氏(木曽義昌)を大河に!ってやってたぞ笑 それなりにドラマチックになりそうではあるが旭市に転封してきてから5年くらいで死んでるだろw 市名を旭将軍木曽義仲公から採用してるくらいだからな
千葉県だと近世大名だけど関宿城主の老中久世大和守が大河に重要な役で出たことはあるけ、どもちろん主役ではない 木曽義仲を大河にするのも無理がありすぎるぞ
木曽義仲も源平合戦の大物武将に違いないが
源氏三大でも義経、頼朝の同父兄弟とはネームバリューがありすぎる 東国の戦国武将でいつまで後北条は空気なんだろうか?
信玄、謙信、政宗の名が出てきても氏康の名が出てこない 相模の獅子が越後の龍と甲斐の虎を喰うためにはどうしたらよかったんだ! オーラだな
カリスマ性だな
これが北条氏康にはない
元から高級官僚タイプで政治家や扇動者には不向きなんだろなんだろ その世代および地域の人にしかわからない血縁の序列があったんだろうな
誰々さんの家は財産は少なめだけど元侍従だとかここは元はここの分家だとか
実話ドキュメントみたいな話ですよ 甲斐の虎、越後の虎(諱より)、相模の虎(虎朱印)
むしろ甲斐が浮いてねえか、父の信虎ならわかるが 北条氏綱の家格向上度合いが凄まじい
駿河の客分伊勢の小僧から、関東管領補任、古河公方御一家扱いまで躍進(全て真正の書状残存)
早雲庵殿と氏康に挟まれて目立たないけど、戦国の傑物としか
山内、扇ヶ谷両上杉のみならず、駿河今川、甲斐武田にも治世後半はずっと優勢を確保し続けるとかどんだけなんだろうか >>614
そこを解る人がいてくれて喜ばしい。
近年の北條研究では五代のうちで氏綱の役割が最重要視されている。
北條のみならず全関東の戦国後半期の座標系を氏綱期北條権力体が確立したと云って過言ではない。 相模の獅子が越後の龍と甲斐の虎を打倒するためにはどうしたら良かったんだ! 急にだが寺社への安堵状はそれだけで出した者の所領となり得るのか?鎌倉府から移行していく中で
あいまいになっている概念だと思う、研究が足りてない分野である気がする 所領になったから領内に安堵状出している認識だったが違うのか >>619
ちょっと意味が取り難いんだが、
戦国大名権力体が領内寺社に「安堵状」を発行したら当該寺社領が大名領になるのか
−−と云う質問だろうか?
だとしたら、それはない。
安堵というのは対象の既得権益を大名権力体が公式に保証する政治行為であって、あくまでも寺社領が寺社領であることの確認だ。
大名は寺社の外護者という立場に留まる。
但し通常は安堵と引き換えに;
・寺社領内の行政実務を大名権力体が代行する
・寺社が大名の作成した法度を遵守する
・寺社独自の暴力装置を縮小・解体する(代わりに外部からの脅威は大名が暴力装置を発動して排除する)
−−等々を強要することが多いから実質的には対象を「籠の鳥」化するものではある。 >>622
まぁそれを前提に
慣例化された安堵状であればまぁ領主のその地の影響大と見れるけど
安堵状が一つ見つかったからその地は領主の影響があったと見るのは
どうかと思う(そういう研究家が多い)まずは影響を持とうとしたと
見るべきだろう。で、結果持てたかは別の話だと俺は考える。
これは寺社ということでなく寺社に出した安堵状による土地の話ね。
まず寺社に対して行うだろう、それが初めの方の一歩だろうって話で、
他の材料があって初めて領主となるわけだ。
これが抜け落ちる研究家が多いって愚痴を急に書いた。 >>621
外交が下手くそなら、越後勢排除して関東の覇権握るまでいけていないわけだが 覇権握れてねえじゃん
安房も常陸も下野も掌握できてないし
御館の乱でも外交で景勝方に負けて武田を敵に回してるし >>624
それに触るな
>>621は前スレから粘着してる荒らし
で構ってもらうことだけが生きがいの病人 >>623
うむ。
確かに安堵状にせよ制札にせよ、その時期その地域の大状況を俯瞰しないと位置付けを見誤ることは多々あるな。
他スレで書いたが「一次史料」重視の行き過ぎの弊害。
それも含めた「構造」を見ることこそ肝要。 >>624
下手糞だから余力は残っておきながら滅びたんだろうが 上杉景勝には直江兼続がいたから生き延びれたが
外交上手と言われた北条氏照が直江兼続になれなかったのが惜しいな >>621
決して下手糞ではなかったんだろうが
秀吉の機敏を読めなかったあたりは二流だな 信長存命の頃でも武田との合戦で手を抜いて信長の不況を買って上野取られてるだろ 北条氏政を育てられなかったのが
非の打ちどころがないような北条氏康の唯一つの致命的失敗 >>605-606
最近は木曽義仲にハマってる俺としたら
史上で火牛の計を実行したのは木曽義仲と北条早雲のみ 早雲のは明らかに創作やがな
実際に小田原城を手に入れた経緯はよく分かってないし >>230
>2018年の「伊都国は佐賀川上である」の予言通り、
翌2019年から始まった佐賀市大和町川上の一部に当たる七が瀬遺跡発掘で、弥生末期の巨大墓地が出土した。
ここからは、三種の神器の祖型も発掘されている(2021年発表. 遺跡群は現状保存の予定)。
なお、伊都国官衙と目されるのは、同じ川上の大願寺廃寺跡である。
此処には、藤原氏の祖の中臣氏のそのまた祖のタケミカズチ(武御雷)を祀る太神宮もある。
しかも主祭神の武御雷の父の名は、記紀の「伊都之尾羽張」であるが、これは倭人伝の「伊都国の張(張政)」を思わせる、いかが??
まあ、佐賀は、
熊襲系や徐福系の「其餘旁國遠絕,不可得詳」の国々がある位であり、
また、壹與の居住地であった可能性が少しある程度であり、
卑弥呼の女王之所都の可能性は10%以下だろうなあ。 >>640
指揮命令系統の統一、権力の一元化、その上での中央における合議制の導入、税や賦役の法定化、あたりが後北条氏政権の前時代から変化した部分だからねえ あえて無理やりにでもこじつければ
後北条も大日本帝国も内政統治は完璧に近いが外交が絶望的に弱くて滅びたんだろう
その外交力の弱さが現代日本にも悪影響を与えてる気がするよ 日本という国が外圧でしか変化しにくいといわれるのもそれ。 富山の埴生八幡宮に参拝にいったら
火牛の像まで設置して一大アピールしてるのにw 牛1000頭に松明つけた北条早雲の火牛の計は一体どんな目的だったんだろうか。 500kg以上の水牛100頭ぐらいに正面から突っ込ませることができるならば
鬼の警視庁第四機動隊の防御も正面突破できそうだぜ >>647
富山いいところだったなあ
日本で一番好きかも 火牛を突っ込ませたわけではないがハンニバルも火牛を使っている 伊勢宗瑞の伊豆戦争及び小田原城接収は三度にわたる大地震と津波に絶対的に規定された政治過程だった。
金子浩之氏は著書『戦国争乱と巨大津波』に於いて考古学に軸足を置きつつ地質学・地震学等理工系学術知見を大幅に取り入れてこの過程を考察したが、
小田原城接収時の所謂「火牛の計」は津波被害の暗喩ではないかと述べている。
同書が非常に優れた研究書であることは論を俟たないが、しかしこれは幾ら何でも勇み足と云うべく、論理的推測を逸脱して妄想の域に両足を突っ込んでいる。
宗瑞の小田原城接収は正に北條五代に於ける創世神話と称すべきものである。
後世、北條系軍記群の成立過程でそこに超常的な英雄譚の彩りを添える為に、既に確立していた木曾義仲の「火牛の計」を借用したものと見て間違いない。
義仲の冒険武勇伝自体『史記』からの借用だから、宗瑞の件は孫引きということになる。
世界の神話や英雄伝説は幾つかの定式的類型を共有することが知られているが、本件もその一例という以上の意味はなかろう。
(続) (承前)
上述の如き馬鹿馬鹿しい議論は措いても、
この伝説の本質或いは核事実は「小田原を箱根から攻めた」、即ち陸路から小田原に入ったという記述に在るだろう。
伊豆から小田原を窺うならば天下の嶮を以て鳴る箱根や断崖狂濤の真鶴よりも先ずは海路が第一に想定される。
いずれ書くかもしれないが、小田原城接収時点の伊勢が相当の水軍力を保持していなかったとは考え難い。
にも拘わらず何故に箱根だったのか。
私見としては、伊豆の水軍力もやはり津波によって一時的に潰滅したからではないかと見ている。
敢えて峻嶮の路を選ばざるを得なかった伊勢軍の行動にも大震災の濃い影が射しているものと考えておきたい。 ゾウは巨大すぎて足を狙われるから動物兵器には向かないみたいだ。
水牛ぐらいの大きさだと最強の動物兵器と化す。
スペインの牛追い祭りで証明されてる。 >>649
鹿児島、沖縄の闘牛みて何十頭も正面から来られたら人間ごとき死ぬよあれ また北條か…。
********************
【小田原蒲鉾のはじまり】
正確なことは明らかになっていませんが、小田原で蒲鉾づくりが盛んになったのは、今から220年くらい前(天明年間)、小田原城主“大久保忠信”の時代≪北条早雲時代(1432〜1519年)という説もあります。≫だといわれています。
http://www.kagosei.co.jp/shiru/history/
******************** 伝令に使ってる時点で、戦闘行為に利用していると言って良いのでは 俺の中で木曽義仲は史上最強の脇役。
幕末の高杉晋作と似たもの同士。
討幕の主軸は西郷、大久保、岩倉の3人だが果たして高杉なくして突破口を開けたかと?
平家打倒の主軸は頼朝、義経、時政の3人だが旭将軍なくして突破口を開けたかと? 木曾義仲は別に時代先駆けてもいないがな
先駆けてるのはむしろ清盛 短期間で日本列島を暴れまわった漢の中の漢は義仲のみ
楠木正成が義経より上位に置いたのも当然 しかし源平合戦では清盛、頼朝、義経、北条の陰に隠れてる義仲カワイソス。
清盛→義仲→頼朝の順で中央政界は動いていたのに。 俺の中での平家物語は旭大将軍の死によって終わる。
残りは余興にすぎん。 超短期間だが玉を制圧して日本国の覇者と化したのが木曾冠者義仲公。 つまり後北条は野球選手でいう記録に残っても記憶に残らない選手なんですね。 武田勝頼の死は強烈に記憶に残るが北条氏政はいつ死んだのって感じで記憶に残らないんですね。 せめて氏直が長生きして軍記物や歴史書でも書いてればねぇ
平家物語や吾妻鏡みたいに後世に語り継がれて人気あったかもしれない(笑)
養子が大阪で狭山藩として残ったはいいものの大したこともしてないしね 狭山藩北条家は江戸時代に2代にわたって他家から養子が入っているので、子孫ではない(家としては繋がっているが)
強いて言うなら伊達政宗の男系子孫(仙台伊達>佐野堀田>狭山北条) 北条氏照支配地域の素朴感が好きだ
住んでる人間じゃ中井と分らんだろ やはり後北条は民政能力は戦国最高峰なんだろう。
ただ強力な外圧に対抗できる外交力に乏しかった。 >>659
1t近い闘牛だと火縄銃を50発ぐらい撃ち込まないと死にそうもないね てか北条早雲の火牛を真面目に研究した人間いないだろ? 小田原城の制圧については、時期すら分からんので火牛とか真剣に考える要素すらない >>689
時期について何か見解はあるかな?
俺は以前書いたように明応九年説を採るが。 誰もが真剣に考えないからこそ火牛1000頭に攻撃が史実とされてしまったんだろう 誰もが真剣に考えないからこそ火牛1000頭の攻撃が歴史上の史実とされてしまったんだろう 今川が室町幕府側の総大将として鎌倉に攻めてきたからな
そこの軍艦をやっていたのが北条早雲なんだよ
鎌倉御所がそれで古河に逃げたわけさ 関東と京都は何度か戦争になってるからな
足利将軍義教のときには自分で軍勢を率いて鎌倉に乗り込み鎌倉公方足利持氏を確か斬り殺したんだろ 昔の武将らは気性の激しい将軍ら多かったからな
将軍となるくらいだからそのくらいできねば務まらんだろ 鎌倉公方を古河に追いやったのは氏親の祖父の時ではなかったか 大河ドラマ鎌倉殿で思い出したが
われらが北条早雲が崇拝してやまなかった武将が頼朝
今日の日本社会では義経の人気が絶大で頼朝は幕末の岩倉具視のごとく陰険だと人気がないが
江戸期までは武将達の憧れの的は頼朝だったみたいだ 足利成氏の鎌倉失陥は享徳四年(康正元年)[1455]。
伊勢盛時誕生の前年である。 youtubeで削除された過去の知ってるつもりで見たんですが? 石田三成も豊臣秀吉も足利尊氏も先例として参考してたみたいだし。
鎌倉殿は超カリスマすぎる 鎌倉殿で平家憎しみたいのがやたらセリフであるけど、関東平家結構いるからなんか違和感あるんだよなぁ >>707
平家と平氏は別物だぞ
いわゆる平家って伊勢平氏清盛流のことであって、それ以外の平氏は平家ではない >>703
それじゃあ史実だな間違いないおめでとう 前にYoutubeで知ってるつもりの北条早雲のが見れたけど面白かったぞ
何故か削除されてるが
それによると新九郎は頼朝公みたいに伊豆を本拠地に定めて関東で旗揚げしたかったんだと 石田三成も頼朝公みたいに奇跡の大逆転を狙うと自害しないで恥をさらしながら処刑まで生き続けたわけだ。
秀吉も家康も頼朝公に言及してたし。
あの時代の武将は頼朝公と自らを重ねることがステータスなんだろう。 富樫倫太郎でも司馬遼太郎の小説でも早雲の頼朝崇拝が書かれてたけど。
史実の記録はないってことか それも火牛の計と同じ半分は作り話なのか?
まあ北条早雲ほど虚構まみれの武将もそうはいないよ。
そもそも年齢と出身地からして今だに論争に明け暮れてるからな。 新九カ奔るでも頼朝の足跡を辿ってはしゃいでいたけど
後に氏綱が北条を名乗ることになる布石にしたいんだろうな おそらく早雲は自らの出自をわからせないように自己韜晦が激しかったんじゃないかと推察。
会う人間ごとに出自を別々に答えてたとかな。
いまでも諜報機関の工作員の常套手段ではあるし戦国期の成り上がり武将なら当然そうしたんだろう。 >>711
お前さんみたいに釣られるダボ鯊がいるんだから、嘘でも出鱈目でもとりあえず吹いてみるもんだな。 第一に太閤殿下の出自からしていまだに確定してないじゃないかよと だがしかし
北条早雲の生き様には戦国ロマンを感じてやまない >>725
人生っていうか、出自も経歴もまるで違うが
どこが似てるんだ? 永正十三年[1516]七月、伊勢宗瑞は三崎城に名族三浦氏を殲滅、ここに相模國全域制圧を遂げる。
三浦配下で三崎を拠点に活躍していた「海賊衆」亀崎、鈴木、下里、三冨、出口等も暫時の抵抗の後に降伏、原状のまま伊勢配下に編入される。
所謂北條水軍に関する所伝や研究は以後の動向に集中していて、恰もこれを以てその草創とする暗黙の共有理解が存するものの如くである。
後世「武総之海」即ち江戸湾を舞台に里見水軍と激戦を繰り広げた北條水軍の中核が彼等及び紀伊から招致した海賊衆であったのは確たる史実で、上の風潮も強ち不当とは云えない。
しかしこれ以前の事実経過から見て、伊豆/西相模時代の伊勢権力体が有効な水軍戦力を保有していなかったとは到底考え得ない。
相応の水軍が稼働していたのみならず、その行動が寧ろ伊勢権力体の動向を規定していった節さえ窺える。
それはまた、豆相に基盤を持たない伊勢=北條が「戦国大名」として確立されていく過程の本質にも深く関わっている。
そういうことの徒然を、主に黒田基樹氏の研究に拠りつつ随時書いて行きたい。
(続) 知ってるつもりの北条早雲
いかにも変幻自在の梟雄家としての早雲の特色が出て面白かったから
またyoutubeで見たい >>567
武田勝頼の死を憐れみ上杉景勝を五大老に就任させた豊臣秀吉が
何故か北条氏政にだけは死を命じたのはそれだったのか >>560-561
源平交代の前には日本は藤原氏に独占支配された >>731
氏直に赦免後に旧織田信雄邸を充てがうなど、それなりの処遇をしていた模様(早死したからそれ以降はわからん) 坂口安吾の『二流の人』の小田原攻めの描写は天下一品。 >>734-736
まるで古代中国の聖人君主のごとく崇められることもある北条氏康の致命的な失敗は次世代を育てなかったことだな 北条氏照も別に名軍師とまでいえない
完全に秀吉の力を読み違えてる
相手が弱小だと強いタイプ 北条氏照だけは有能だとかいう評論家連中が多いからな >>737
黒田官兵衛の交渉が失敗に終わってたなら小田原城総攻撃が実施されて流血戦になっていたであろう 氏照も氏邦も、その支配地の統治は小田原が噛んでる
そういう発想で統治機構作ったのが後北条氏なのに、なんで個々人の能力とか的外れなこと言ってんだか意味不明 >>744
氏邦とか氏照なんて小田原が噛んでるどころか単なる出先機関でしょ >>746
そうでもない
独自に文書発給(龍の印章を使用)してるし、武蔵における大領主としての事績がかなり残っている 組織の前提を抜きに個人を評価するのは無理
評価するならその組織で有力だったかくらい 末期のガタガタ北条家でも北条氏照だけが有能だとか言う妄言が多いいから困るわ
そもそも秀吉の力を見誤った最強硬派が氏照だろうに そう北条氏照こそ後北条滅亡の最悪の戦犯。
氏政は無能なだけ。 >>737
>>742
徳川家康
「おれなら秀吉みたいに重臣達の死罪で終わらせずに小田原城を総攻撃して1万兵は失わせる」
家康は後北条に恨みでもあったんかいな。 滅びゆく北条に有能者なんていないよ
ある意味ではエセ君子の氏康こそが原因を作ったともいえる >>751
北条氏政と衝突した天正壬午の乱の恨みじゃないでしょうかね? 家康は受けた恩も恨みもきっちり返す人間だからな
後北条家は秀吉に滅ぼされたが敵が秀吉でまだよかったという >>752
そこは上杉謙信も武田信玄も義に熱いとか仁徳者とか言われながら後継者育成で失敗してますから。 家康は北条の遺臣大量に抱え込んでるし、なんなら北条家の一門で大名2つ、大身旗本複数召し抱えてるで恨みも何もない罠
あれだけ武田とやり合って遺恨があったはずの武田相手にも駿河、甲斐の統治にあたって遺臣取り立ててるし、家康は合理的なだけだろう 上杉謙信は後継者育成に成功しているだろ。
いつの説を鵜呑みにしているんだ?
御館の乱は景勝と景虎に問題があったから起きたのではない。
三城神余親綱の反乱が原因。
親綱に助けを求められた景虎が景勝と対立して御館の乱になった。
景虎は北条と葦名と伊達を味方にしていて、景勝は武田だけ味方にした。
どちらの外交も武田勝頼や北条氏政と比べて優秀。
景虎が絶対に勝てるはずだったが景勝が番狂わせの勝利を得た。
メンツにこだわらない景勝の戦略は謙信以上。
景虎に味方した者は徹底的に弾圧した。謙信の義父である山内憲政と景虎の幼い子供も殺した。
それぐらい景虎が優秀で怖かった。 >>757
乱が発生してる時点で後継に失敗してるんだが……
代替わりで加賀半国と能登越中、上野北半失ってるんだけど >>759
後継時の混乱からの軍事衝突>外敵による攻勢>領地失陥
が原因じゃなくてなんなんだ、無理筋すぎる 御舘の乱が起きて分裂してしまうこと自体が上杉謙信が後継者の育成に失敗した証拠
bv本郷和人 坂口安吾の指摘どおり上杉謙信はただの戦争マニアみたいなもんだし。
それを義で飾ってたという。 まあ上杉家には直江兼続という毛利家には吉川広家という名参謀がいたおかげで
両家とも主君が無能で滅亡寸前に追い込まれながらも何とか存続できたわけだ
残念ながら北条氏照では名参謀になりえなかったわけだ
改めて巨大組織ほど参謀力こそが最重視される 豊臣秀長が亡き後の豊臣秀吉は狂いはじめましたしなw >>762
全然飾れてなかったみたいだけどな。
真の目的=「略奪&冬季の口減らし」だけってのを関東勢に見透かされて総スカンを喰らった挙句に臼井で惨敗潰走して終了。
−−というのが遺憾ながら上杉謙信の関東戦争始末。
自国の飢民救済の為に略奪戦争を公共事業化したって意味じゃ慥かに国主としての「義」は果たしてるんだが。 謙信が義将ってことにしたいテレビ番組なんかでは毎年関東に押し寄せてた事は絶対に言わないし
薄い歴史ファンは知らない人も多いんだろうな 伊東潤が小説で持ち上げてるから最近は北条氏照の株が急上昇してるけど・・
八王子や多摩を発展させた民政家としては一流だったんだろうなあ
つくづく後北条家は戦国武将というより政治家一族だなあ 血に飢えるほど戦争が好きでないと戦国武将になれないだろ?
格闘家がリングに上がりたがるのと同じ心境。 あほが
戦場で武勇を誇りたい気概がないと武将にはなれんよ 寺社への信仰心が篤い大物戦国武将でも少し賢いヤクザと同じだから
なかには山賊チンピラゴロツキの類も多かっただろうに >>771-772
伊東潤氏が後北条家を最大限に評価してるのが他の戦国武将連中と違い
後北条家だけが独裁制を否定した合議制政治家そのものだったからなんですとさ >>772
あの時代の武将なんてそんなもんでしょう。
そもそも野心がないと武将になれんよ。 >>767
秀吉への徹底抗戦を主張した最悪の戦犯も氏照だけどね まさか竹やりでB‐29に立ち向かえ精神は後北条文化で生まれたんですか? >>751
あの時の徳川家康はまだ若いから血気盛んだったと思われる そうでもなければ豊臣家を滅亡させたりしないよ
北条も武田も豊臣も何気に対立した家は滅亡させまくってるのが東照公 家康は人間地雷だと思ってるよ俺は
それも核地雷
絶対に敵対してはいけない >>765
まだそんな古い説を信じてるの?
謙信の小田開城と関係ないところで行われた
無関係の人身売買が史料の読み間違いで同じにされただけなんだが。 真実の謙信は戦争好きの戦争マニア
格闘家が対戦相手を求めてリングに上がりたがるのと同じ 毘沙門天を熱心に崇拝してたあたり謙信の闘争本能は人一倍に強そう 大酒飲みで脳卒中で死んだんだっけ?
第六天魔王には勝てても酒には勝てなかったのかよ・・ 坂口安吾『直江山城守』
「上杉謙信は大義名分が大好きな戦争マニア」 第六天魔王なんぞ言うものんだからどんな恐ろしいもんかと思ってたが
たいしたことないもんわこれなら堂々と上洛しよう >>792
松永弾正に最後の希望を与えてくれたんですけどね >>793
近年は小栗忠順と北条氏康は不自然に持ち上げられすぎてる そりゃ英雄豪傑なき最近の時勢では民政家を評価する風潮ですから。 旧大勢力の打倒という意味では、過小評価されてるとも言えるが (>>729から承前)
真鍋淳哉氏は著書『戦国江戸湾の海賊』(2018)にて戦国時代の「水軍」「海賊」を次の如く定義付けている。
「日常は漁業や海上輸送などの仕事に従事していたが無許可での通行などいったん自らの権益を侵す存在が出現した場合にはそれに対する成敗権(略奪行為)を容認された存在」
彼等は緩やかな形で大名や國衆の統制下に置かれて、戦時の水上戦闘部隊としては勿論のこと平時に於いても海上統轄の為の暴力装置として機能した。
中世の海運は造船技術や航海技術の限界から沿岸航行が原則であった。
従って沿岸各地の要津に通航や寄港に関わる多大な権益を管理する「海賊衆」が存在したのも道理である。
関東と西国との海上往来に於いて、太平洋に突出している上にリアス式海岸を有する「難所」「要衝」伊豆半島沿岸全域は殊更にその属性が強い。
故に有力な海賊衆が津々浦々に蟠踞するしていたことは云うまでもない。
伊勢盛時の侵攻した明応年間の伊豆國とは、正にそのような地であった。
(続) しかし徳川親衛隊の筆頭格である新選組の大ブームを巻き起こしたのも大阪人の司馬遼太郎なのは皮肉すぎる話だ
たしかに奇兵隊とかでは新選組には濃厚にある魅力的魔力が足りないから新選組は小説の題材にはしやすいけどな 上杉謙信を日本史上最高の武将に置いたのが頼山陽の日本外史 >>806
それは全くの嘘だな。
頼山陽の上杉謙信を見る眼は冷徹だ。
「関東管領の虚名を振り翳す者」と突き放している。 >>809
楠木正成には手放しの賞賛だが、
上杉謙信に対しては是々非々。
山内憲政を保護した動機も「父(長尾為景)の弑逆の罪を誤魔化す為」と辛辣。
頼山陽が楠木と並べて絶讃して已まないのは新田義貞。
勿論徳川将軍家への遠回しな阿諛もあるが。 いくら政治とはイデオロギーとはいえ偏狭な尊皇攘夷派に利用されすぎましたからね >>812
恣意的に引用した輩が悪いよ。
『日本外史』を読めば、頼山陽は後世の尊攘論者や皇国史観原理主義者よりも遥かにマトモだ。
南朝正閏論が基調とはいえ後醍醐帝を厳しく批判してるし足利尊氏も評価すべき所は評価してる。
連中は『外史』をロクに読んでなかったんだろう。
数多の戦国大名から特に北條武田上杉毛利の四氏を取り上げた理由もむしろ近代的視点とさえ云える。 権現様が大将の鏡だと評価してたのが島津義久だというのに 島津はともかく、伊達は奥羽越えた影響力持てなかった家だろうに (>>798から承前)
明応二年[1493]に伊豆へ侵攻した伊勢盛時は、翌々明応四年八月の大震災迄には伊豆國北部を一旦勢力下に収めた模様である。
当然ながらその途上で多くの浦々の海賊衆を服属せしめたわけだが、特に西岸土肥に拠る富永氏と東岸伊東に拠る伊東氏を傘下に加えたことが重要であった。
地理から明らかな如く両港は東西伊豆の要衝であって、鎌倉時代から有力な水軍勢力が両港を拠点として海上交通の掌握に当たっていた。
当然ながら宗瑞−−この頃出家した−−もこれらの海賊衆の存在を重く見てその調略に務めたことだろう。
果たして彼等を早い段階で配下としたわけであるが、例えば足利茶々丸の当初の逃亡先が関東に非ず伊豆大島だった事実に伊東の動向の影響を想定しても強ち不当ではあるまい。
また富永は後に遠山氏と並んで江戸城代を任された−−或いはその水軍力によるものか−−ことからも伊勢=北條の絶大な信頼を得ていたことが窺える。
しかし明応四年以後の伊豆戦争の展開に於いて彼等伊豆海賊衆が直ちに所期の活躍を見せることはなかったものとみられる。
明応四年及び七年の大震災津波が沿海住人である彼等にも潰滅的被害を与えたことは想像に難くない。
先述の如く小田原城制圧が陸路箱根から行われたとの伝承にその影が射している。
彼等が窮境から立ち上がって本来の力を発揮するには伊勢宗瑞の対扇谷/三浦戦争を待たなければならなかったものと考えられる。
(続) 戦前の日本では後北条滅亡は早雲の悪業が祟ったのだと (>>817から承前)
是天命に非すや。
運已に盡きぬる上は縦ひ落ち行きたりとも微運の我等何程か遁るへき。
犬死せむよりは命の限りの戰して弓矢の義を專にすへし。
運の通塞も軍の吉凶も非可謂。
永正十三年[1516]七月、伊勢宗瑞は三崎城に三浦道寸を攻囲、後詰に襲来した扇谷上杉建芳を返り討ちにして返す刀で総攻撃に掛かる。
進退窮まった三浦道寸は、対岸上総に勢威を張る姻戚真里谷武田信嗣を頼って渡海再挙すべしとの家臣の進言に、上の如く言い放って決戦討死を選んだ。
−−と、『異本小田原記』は伝える。
悲壮にして熱い名場面だが、軍記物の典型的な粉飾である。
黒田基樹氏は著書『戦国大名・伊勢宗瑞』に於いて下の如く解析する。
そもそも真里谷は三崎城攻防戦に際して三浦を支援すべき立場にも拘わらず沈黙を守った。
それどころか三浦滅亡の直後には伊勢と同盟を組んでその軍勢を房総に招き入れた。
早い段階から真里谷は三浦を捨てて伊勢を取る、謂わば勝馬に乗る政治路線を決めていた。
それ故に三浦支援などは論外で、三浦道寸にとって房総渡海の選択肢は既に消されていた。
−−と。
真実であろう。
しかしそれ以前に道寸の渡海を不可能ならしむる物理的状況が形成されていたのではないか。
即ち、三崎周辺海域の制海権は既に伊勢に握られていた、少なくとも三浦の海上に於ける自由度が著しく喪われていたのではないか。
(続) >>818
毛利元就は一代で200万石だが北条早雲は一代では伊豆相模しか支配できなかった。
その後の両家の運命を見ても毛利元就に軍配が上がる。 戦前の北条早雲は足利尊氏に負けず劣らずの極悪人扱いだったぜよ >>822
どうも群雄割拠の西日本では活躍できる居場所がなさそうなんで
ちっぽけな伊豆に流れてきたのが歴史の真実なんじゃないでしょうか?
東国がバトルロワイヤル状態になったのは信玄、謙信の両雄が台頭してきてからですし。 享徳の乱も長尾景春も知らないんだな、、、
そんな人がなんで日本史板にいるの? たしかに伊豆の支配者にしかなれなかった早雲
だが安全なところから攻めるのは武将の判断としては間違ってはいないがなw (>>820から承前)
三崎海賊衆は伊勢=北條権力体からも高く評価された水軍勢力である。
彼等が存分に活動できる状況ならば真里谷の助力無しでも三浦道寸を奉じて強引に房総へ押し渡ることは可能だった筈だが史実は斯くの如し。
或いは海路湘南小田原を強襲して伊勢領国を攪乱する、兵站線を破壊する等は当時の水軍にとって寧ろ戦時主要任務であったにも拘わらず、一次史料はおろか軍記や口伝にも左様な所伝は見当たらない。
三崎衆の海上行動は伊勢方の水軍勢力によって強度の制約を受けていたものと解するのが自然である。
伊東をはじめとする東伊豆勢の活躍が想定される。
また後述するが南伊豆の海賊衆は沿岸のみならず七島の海に跳梁跋扈する実力を有していた。
彼等を悉く配下に加えた伊勢宗瑞がこれを十分に活用しなかったと考える方が難しい。
既にこの段階に於いて伊勢=北條は三崎衆に匹敵する水軍力を保有していたと見なければならない。
(続) 伊達政宗がミニ信長の扱いをされるぐらい東北は平和すぎたんですよ 信長、秀吉は当然ながら家康も三河の人で太平の世ならいざしらず
大乱世の世を制するのは浜松以西の人間でしか無理なのかと本気で思う
幕末の大乱世でも何故か西日本人ばかりが活躍してる んまあ東日本は特に関東以北は安定の農業王国ですから。
異端の政宗公が出てくるまで東北では武将による殺戮合戦なんてなかったもんだから、どうしても政宗公が目立ってしまっただけ。 中世の奥羽が農業王国って
中世社会が農業中心なのは少なくとも日本をはじめとした農業文化社会では極端な例外(例えばヴェネツィア)除けば農業以外は添え物で
その日本の中で奥羽は農業生産の環境が極めて厳しい環境にあって、だからこそ大きな勢力が出てこなかった側面が大きいわけだが
そういう基礎的な知識すらない人が中世語るってどうなのよ ちなみに、伊達より先に奥羽で巨大化した勢力としては、南部一族や安倍・安東氏がいる
その伊達も政宗の前、稙宗の時代、天文の乱までは南奥羽の覇権握っている 北条早雲(一介の浪人から大名に成り上がり)じゃなくて、
伊勢盛時→宗瑞(幕府官僚から今川氏す重臣を経て独立)が登場する大河ドラマってある? >>839
ない
というか、その時代を扱った大河ドラマは、伊勢盛時の官僚時代の状況がわかってからは1本もない
漫画でも「新九郎、奔る!」くらいしかないのでは (>>829から承前)
やや時を遡って、南伊豆海賊衆の動向とその歴史的意義に就いて述べる。
明応七年[1498]八月大震災の直後、伊勢宗瑞は下田海賊衆の御簾真敷を八丈島代官に任命、派遣する。
事実上、これは当時山内上杉顕定方の奥山忠督の代官支配下にあった八丈島への強襲と云える。
両者の抗争は永正四年[1507]奥山の降伏、下田抑留を以て終結するまで十年余に及ぶ激戦となった。
それが海陸に亘る戦闘を伴ったことは当然であるが、八丈島の地理からして水軍の行動は沿岸や内湾のみならず准外洋をも股に掛けるものであったと考えられる。
下田に拠って活動してきた御簾は無論、神奈川に拠る奥山もそれだけの水軍力を有していたことは興味深い。
当時の伊豆海域状勢推して知るべしと云うことか。
そして先述の如く、後の三浦戦争に際して伊勢がこの水軍力を活用した蓋然性は高い。
伊豆國本土のみならず島嶼の山内管国にまで戦線を拡大した事実に、否応無く長享ノ乱の大構造に組み込まれていた伊勢宗瑞の姿を見ることは可能である。
しかし黒田基樹氏は前掲書に於いて、この構図を逆転して捉える視座を提示している。
即ち、
元々御簾と奥山の間に海域権益を巡る縄張り争いが続いていた所、優位を得る為に御簾は伊勢、奥山は山内の傘下に入ったのであって、明応七年に始まる事態はこの在地抗争に上位権力体が引きずり込まれたという構造ではないのか−−と。
「下が上を規定する」構造の典型例である。
(続) >>841
これはおもしろい!正直内陸の戦いが多くて、存在はしてもピンキリで軍まではいかない海賊衆かと感じていたけど
伝承が事実ならやはり宗瑞は西や伊豆から海軍の基礎を持ちこんだのかもな、上杉関東勢は権力を投入して海軍には力入れてなかったんじゃないかと
勝手に思ってる、これは三浦もそうじゃないかと思ってる。ただ大坂同様太平洋側にルートがあったのは事実として、八丈島が思ったより独特の発展と
いうか拠点の発展みたいなのがしていないのは気になるところ、あとやっぱり三浦氏滅亡も時間がかかってるし、段違いの能力をもった水軍だったのか、
そこは気になるところだな… 誰も読まん下らん知識ばかり無駄に集めても面白かないで >>831
>>833
つまり奥州は現代のカナダや北欧みたいに、どんよりとした空気が流れて冷めてる人間ばかりで
血気盛んな若殿原が非常に出にくい、まさに村根性の田舎だったって事やね そういえば河合敦も東北では武将による虐殺なんて無かったのに伊達政宗の蛮行は例外だと言ってたな。
まさに異端児といえば異端児かもしれんな。
もし伊達政宗が群雄割拠の西日本で生まれてれば陶晴賢みたいなわりと早い段階で殺される末路を迎えてそうだが
雑魚ばかりの東北だからこそ伊達幕府とも恐れられる絶対王者と化すことができたんだろう >>844
そこらへんは今の東北と変わらないかと。 まあ早雲も超激戦区の三河以西から楽勝な伊豆に逃げた来たんやろうなw 一代では伊豆と相模の西半分しか制圧できなかった人ですから。 それじゃ相模の獅子じゃなくて相模の猫じゃないかよ! 伊達幕府とか言われてないし、東北でも伊達氏は絶対王者とかになってないし(北に南部、南に佐竹、出羽には最上がいて突出した大勢力ではない)
なに適当なこと抜かしてんだこの連レスの頭悪いのは >>845
そういや大久保長安が家康より政宗こそ征夷大将軍にふさわしいとか伊達幕府を目指してたとかw
徳川家光も伊達政宗だけは別格の扱いをしてたの事実だわ。
徳川家光ですらもそうなんだからさすがは東北の絶対王者かもしれんな。 >>843
そりゃここは誰も読まない知識を披露してるみたいのくだらん日記帳。 くだらん知識を披露されるより司馬遼太郎の箱根の坂の方が100倍ためになるわ。 どうでもいい糞の下痢みたいな知識を披露させられてもねえつまらんですよね >>854
徳川家光いわく伊達政宗だけが親父殿だと。
最上や佐竹なんてどうでもいい糞雑魚は幕府から眼中はないのに頭悪いバカレスする情弱もいるもんだなあ >>842
伊豆の地理特性からして太平洋海運から権益を貪ろうとするのは必然の成り行きで、浦々の海賊衆はあの海を横行する技術を自然に身に付けていたんだろう。
勿論近代海軍の如き派手な海戦は不可能だったろうが、御簾と奥山との抗争でも敵の哨戒突破や外洋上での拿捕等の断片的な記録から彼等の航海操船技術の高さが窺える。
また後年になるが、西伊豆土肥の富永や同田子の山本等は武総之海に於ける里見水軍との海戦で大戦功を挙げている。
彼等もまた屈強の水軍だった。
上杉や三浦が水軍力整備に不熱心だったとは思われない。
山内は享徳ノ乱の最中から伊豆七島支配に乗り出しているし、
扇谷は同じく享徳ノ乱に於いて武総之海を挟んで古河方の里見や千葉と厳しく対峙していた。
私見では、伊勢宗瑞の江戸侵攻が挫折した背景にも扇谷方海賊衆の影が感じられる。
三浦については三崎衆について既述。
関東・東国の水軍の印象が相対的に薄いのは、純粋に記録の少なさによるものだと思われる。
八丈島が独自勢力の拠点とならなかったことについては、申し訳ないが不勉強で詳らかにしない。 そりゃあ関ケ原合戦後に家康が豊臣以外で恐れていたのは奥州の伊達政宗だけでしょ?
まさか佐竹や最上なんて糞雑魚を家康が恐れるわけないだろ。
こんな当たり前すぎる常識中の常識もわからん痴呆のバカが日本史板には本当にいるから困るよ。 下手に幕府を開くより伊達政宗みたいに天下の副将軍格が一番おいしい立場なんでしょう。 豊臣滅亡後に島津も毛利も飼い慣らされて徳川幕府から最も恐れられて最も厚遇されてたのは奥州の覇王たる伊達政宗しかおらん >>865
乱世の世なら毒を入れて大御所を殺したかもしれないが
太平の世で大御所を殺すわけがないと大御所の前で言ってのける恐るべし伊達政宗の豪胆力こそ誠の副将軍よ
惜しいかなこの豪胆力こそがインテリ北条氏政には欠けていた 知ってるか
伊達って佐竹相手に兵力で優位に立って会戦してことも、まともに勝利したこともないんだぜ
雑魚って伊達のことかな 北条早雲が何のために伊豆に流れてきたのか今だ不明か?
それこそ比較的に楽勝な地域で大名として旗揚げしたかったとかあるんかい? 勝頼、景勝、氏政の3人で一番ファンが多いのは勝頼。 伊勢備前守家の当主として親子で引き続いて今川家の取次やってた
親族の北川殿は今川家の御台所
って、今川に来る理由しかねーだろ、と 畿内を収めるのが五段階でレベル5の実力が要されるのならば
伊豆半島ごときならレベル1でも済みますから。 しかし小田原北条氏が自らを大途と唱え称したのはどういった志向なのだろう? 西国には化け物の梟雄が多すぎたから北条早雲の生き場所がなかったように思われる そういや短期間だが三好一族を殺した松永久秀は天下人と評されたんだよな?
機内を制圧するのがどれだけ偉業か 現代でいえば畿内を制圧するのは知事筆頭格の東京都知事就任みたいなもんですかね。 >>878
各方面に於ける幕軍の軍監、謂わば公権力の職業戦争屋−−という可能性がある。
伊勢盛時は駿河クーデター完遂後帰京して実務官僚に復帰していた。
その三年後、幕府は伊豆戦争に当たって当地に縁の無い盛時を奉公衆(将軍直轄軍)に異動させてまで派遣した。
伊豆侵攻軍の実体は由緒正しき今川や扇谷の歴とした家中であるが、その指揮を官僚伊勢盛時に執らせたことは奇怪至極である。
本来ならば山内、扇谷、今川辺りに直接下令すれば済む所、クーデターの実績を余程高く評価したものと考えられる。
盛時は伊豆制圧の成った暁には帰京する気ではいたようだ。
しかし帰ったら帰ったで伊豆戦争の功に事寄せてまた何度も同じように使われたであろう蓋然性は高い。
それを武門の誉と思うか、「便利屋かよ…」と思うか、盛時の心事は知る由も無いけれど。
歴史にIFを構える愚に、座興までに乗ってみた。 >>884
そんな事実はない
さらに言えば久秀は長慶の忠実な臣下で、長慶生前の頃から阿波三好家と本宗家は反目してた >>882
コーエー数値では三英傑に匹敵するほどの能力値の早雲だが
実際は大したことなかったのかもしれない まあ一代で伊豆と相模の半分だけでは毛利元就とかと比較すれば激しく物足りないなあ 北条早雲は好きだが
西日本に留まっていたなら毛利元就に誅殺された陶晴賢みたいになってた可能性あり 信玄、謙信、氏康が同時に出てきてくれてだいぶは東日本も盛り上がってきたが、
全体的に16世紀の西日本優位性は変わらずだな。 奥州藤原氏でさえ大河ドラマになってんだ後北条五代もなれや 宗瑞が関東下向後北条氏と伊勢氏が連絡とり合ってる様子がなさそうなんだけど
原因なんなんだろうね、連絡とり合ってたら100年後の北条征伐はなかった気がするんだが
本能寺の変で伊勢家自体は壊滅してそうだけど関東に逃げたという縁者もいなさそうだよね? 今川と伊勢も繫がりはあったのか謎だな
まぁ幕府が衰退した後の伊勢に利用価値なんか無かったかもだけど >>897
何故かドラマ化されていない最後の大物が太田道灌と北条早雲のコンビだろうな。 両者とも観光客誘致に熱心でないからとかよく言われるが
鎌倉こそ安泰だから誘致しなくてもいいんだよな >>898
認識が間違っている。
北條氏綱は今川を経由せずに京都政界と直接交渉を行う独自外交ルートを有していた。
これは近衛家及び伊勢本家との密接な連携によって構築された。
氏綱の北條改姓、左京大夫任官、従五位下叙爵、
次代北條氏康の左京大夫継承、従四位下昇進、幕府相伴衆就任、
何れも無位無官を貫いた伊勢宗瑞の子孫としては異例の栄達だが、この独自ルートによる幕府・朝廷への外交運動の成果と理解されている。
やや疎遠になるのは氏康期後半辺りからで、
これは北條が関東に強力な独立勢力として確立するに及んで京都政界からの干渉を忌避した故のこととみられる。
伊勢本家から関東に赴いた事例を見ないのもこの路線の結果だろう。 (>>841から承前)
下位権力体はその存続と権益保証を目的として上位権力体に服属する。
上位権力体にとってはこれが自らの存立基盤である以上、有事に於ける下位権力体からの支援要請に応えることは不可避の義務である。
この関係に従って、最小政治単位である「村」の在地権益抗争が國衆間の、やがて大名間の戦争に発展していった事例が近江國や常陸國の同時代史料に遺されている。
気候変動(寒冷化)と地殻変動(大地震頻発)、これらに惹起された恒常的飢饉と戦乱の無限循環連鎖、…という末世的危機の中で上記の構造はより露骨に顕在化したことだろう。
そして正に、この構造をこそ「戦国大名」と呼称する。
かつて伊豆戦争末期、大震災の潰滅的被害下の村々と直接向き合った伊勢宗瑞は、在地に対して基盤や権威の無い存在であったが故にこそ直截に「戦国大名」への道を走り始めた。
守護や荘園領主から転身した大名群と違ってそれ以外にアイデンティティを持たない伊勢権力体は徹頭徹尾上記構造に規定されざるを得なかった。
(続) (>>904から承前)
黒田氏は更に云う。
伊勢宗瑞の対扇谷戦争発動は「野望」に非ず、上記構造そのものの事象ではなかったか。
御簾と奥山の一件はあくまで一事例であって、他にも海で陸で伊勢配下の村々と隣接する他領国の村々とのリアルな利害抗争が頻発した結果、緊張が極限に達していた可能性がある。
その臨界点がこの戦争だったのではないか。
−−と。
長享ノ乱の収支決算として伊勢領国の境を接する隣国は扇谷領国となっていた。
同時に扇谷は事実上山内の配下に組み入れられていた。
宗瑞の意志の如何に拘わらず、伊勢が戦国大名として生存する為には否応無しに扇谷との、やがては全上杉との戦争に引きずり込まれて行く以外の選択肢は存在しなかった。
南伊豆海賊衆の動向は伊勢=北條権力体のこうした構造と宿命の象徴だった。
と同時に、戦国大名伊勢に精強な戦略暴力装置即ち水上機動戦力を加える者でもあった。
巷説に「海の北條」と謂う。
上に見た如く戦国大名北條の本質に海賊衆が深く関与していたならば、巷説は或いは一片の真実を含んでいるのかもしれない。
(了) >>902
実のところ家康は武田でも後北条でもない太田道灌の申し子 ここまで伊勢新九郎盛時/早雲庵宗瑞の軍事/政治上の軌跡を概観すると;
・駿河クーデター:北川殿→伊勢本家→幕府による工作
・伊豆小田原戦争:将軍と管領の意志による公務 長享ノ乱の方面戦線 気候変動と地殻変動への対応
・相模戦争:在地抗争への受託介入
・房総侵攻:在地抗争への受託介入
・領国統治全般:気候変動と地殻変動への対応
−−ということで概ね構造解析できる。
不可解な謎も劇的な要素も皆無。
軍記の伝説とは全く裏腹の「実務」に終始した生涯だった。 残る問題は、以前も書いたが京都時代の軍事経歴。
幕府が文官である伊勢家の者を当初から暴力発動を予定したクーデターにいきなり起用したのは何故か。
盛時の軍事行動記録は認められていないが、弟の伊勢弥次郎盛興については将軍足利義材近江進軍に出撃した史料が遺る。
これも伊勢家のイメージからはやや奇異に感じられる。
全くの想像だが、
伊勢本家が武士とは名ばかりの純然たる文官だったとしても「伊勢氏」総体として見た場合に於いて盛経流はその暴力装置としての機能を負っていたのではないか。
そう考えると唐突に見える盛時や盛興の軍事動向も納得が行くように思われる。 >>898
伊勢貞辰・貞就父子でググってみるといいよ
子の貞就は父とともに北条氏に仕えてるけど、貞孝の方は京に戻って本家を相続してるね
朝廷とも宇野定治を使者に三条西実隆や近尚久通らと交友を結んでる 伊勢氏一族には、ほとんど文官の伊勢守家以外にも奉公衆勤めていた一族が数多くいるから、武力行使に使われても違和感はないな >>911
なるほど。
にしても、盛時と盛興の駿河伊豆小田原で見せた実戦能力は水準以上のものだ。
やっぱり京都時代に記録の残っていない戦闘経験を積んだか。
伊豆派遣までの申次衆という職位とそのような行動との整合性も気になる。 北条氏政は小栗上野介みたいなもん
時勢が読めない優秀な事務官僚 盛興ってソースがあの大宅高橋家過去帳だし、弥二郎で統一して欲しい >>914
お前さんがそう思うんなら、お前さんが自分の信念に従ってそう書けば良い。
別に文句は無い。
しかし俺がそれを強要される謂れも無いな。 後北条も末期はエリートのテクノクラート集団ゆえの弱点が露呈してしまったな 乱世では伊達政宗みたいに豪胆力こそがものをいうからなあ
武田勝頼は猪武者すぎて失敗したが まぁ後北条のは自称平氏ですから
鎌倉北条は本物の兵士だが まぁ後北条のは自称平氏ですから
鎌倉北条は本物の平氏だが 素浪人あがりが天下の平氏を名乗るなんて大それたことを 平氏は関東ではメジャー
領主層はほぼ平氏か秀郷流藤氏 伊勢氏は元々関東で足利氏の家人だったと考えられてるから、実は関東にルーツがある 源義経の有名な郎党に伊勢三郎義盛っていたけど、あれも同じ類かな? 伊勢三郎の出自や何故伊勢を称したかは本当にわからん
伊勢氏も出自は平氏でも伊勢平氏流を称しているが疑問も呈されている
伊勢平氏が足利の下についた流れで個人的に面白いと思ったのは
足利が三河守時代に対岸の伊勢から流れてきて配下についた説 >>931
その説の論文等を読んでみたいと思うので、差し支えなければ御教示願いたい。
足利氏の宗家は守護管国である三河國にどの時代/どの程度在地性を有していたんだろうか。
伊勢氏と云うと足利宗家直臣の印象が強いが、伊勢國と三河國の在地の関係とすると足利は足利でも吉良や今川と結び付くのが自然のようにも感じられる。
何れにせよ、伊勢盛時個人の出自や実像が解明された一方で伊勢氏の来歴が怪しげなままというのが面白い。 >>926
やっぱり公家以外の一代で太政大臣に成り上がった平清盛はバケモノだな
多くの成り上がり浪人が清盛にあやかろうと平氏を自称したがる気も分かる 今清盛といわれたのが長州の井上薫。
やはり成り上がり一代天下の代名詞は入道相国なんだな 頼朝を崇拝しきってたくせに平氏を名乗るなんて滅茶苦茶な主張をしてたのが北条早雲 >>932
説を紹介しているだけで出典はよくわからなかったです
あとよく見てみたら三河守と限定はされていなかったです、失礼 >>935
宗瑞は平氏名乗っていないが…
だいたい北条姓は氏綱の時に改姓だろ。 伊勢氏は平氏だし正式文書では平姓を名乗っていたのでは >>939
伊勢盛時は伊勢守伊勢家の係累で、桓武平氏維衡流(伊勢平氏すなわち平家とは同祖となる)の家
なので、取次の文書など正式な名乗りとしては「平盛時」と署名している
称するも何も、生まれてこの方ずっと平氏だし、政治的意図を持って平氏を名乗ったわけでもない 正式なものでは書かなくてはならぬこともあろうが、それを直ちに名乗っていたというのは違うと思うが… >>942
公文書として署名するって、「称する」ことの最上級だが?
文書の意味とかきちんと理解してないとしか思えんが
単なる私称では公文書に署名できないから、政治的に工夫するのはよくある話 だから公文書に記載することがイコール名乗ると言うのかよ!
それを名乗るとはフツー言わないだろって言ってんのアホ >>944
苗字と氏と姓の区別ついてからおいでください
少なくとも、歴史学上、公文書に署名することは「名乗る」の中でも最も権威のあるものです ちなみに私文書だと
苗字+官名、所在地+官名、苗字+仮名、地名+役職名などなど、いろんなパターンがある(関係性や文書の用途によって使い分ける)
苗字+諱という、現代人がよく使う呼び方は、文書でも口頭でもほぼ使われない 武田(苗字)源(氏)朝臣(姓) 大膳大夫(官途)太郎(通名)晴信(諱)
ですな おいおい姓、氏、苗字の区別もつかない奴が
日本史板で語ってるのかよ ここまでは割とシンプルだけど、受領名とか東百官とかも絡んでくると中世〜近世の名乗りって複雑怪奇なんだよな
そら、一次史料出てきたら、名乗りから「誰」を特定するのが一大事だって話になる 現在では姓(かばね)がほぼ苗字に変わって「せい」と呼ぶからから紛らわしさはある ということならば
>935の言ってることがかなりおかしいとなるが そもそも板東武者は源氏を武士の棟梁としていたからな >>953
だから全力で放置されてる
このスレ、粘着的にアホなこと連レスして場を荒らそうとする奴がいる しかし他の後北条スレとか閑古鳥だからな
荒らしもスレの賑わいではあるらしい >>951
> 一次史料出てきたら、名乗りから「誰」を特定するのが一大事
月日は明記されてるが年が無い、しかも世襲の仮名やら受領やらを名乗ってたりするとかなりタチが悪いようだな。
黒田基樹氏がボヤいてた。 >>935
そこらへんは頼朝の厚き御家人である畠山重忠も秩父平氏 >>956
おまえみたいな知識だけ披露しても誰も読まない糞つまらんスレで終わるからなw 歴史とは勉強するのではなく感じるのである。
勝海舟 意味もない知識を詰め込む詰め込み教育は歴史離れを加速させるだけやで >>937
たしかに今太閤とか今清盛とばかり言われるな >>957
その黒田某と伊東潤のどちらが後北条氏に精通してるのか? 現時点で北條研究に関して我々素人が拠るべきは;
家永遵嗣
山口博
黒田基樹
盛本昌広
の各氏の論述だと思われる。
大震災と伊豆戦争の関係に限定すると 金子浩之氏
戦国社会構造の根本理解の為には 藤木久志氏
藤木氏へのアンチテーゼとして 市村高男氏
−−辺りだろうか。 有名人だと小和田哲男もおるよ
今川研究の方で著名だけどな >>969
小和田氏は綜合商社って印象がある。
何でもかんでも氏を呼び付けるメディアが悪いんだが。 伊勢宗瑞そのものからはちょっと離れるんで挙げるのを躊躇したが、氏康から後の北條を含む中世東国社会の構造論なら齋藤慎一氏が良い。
沼尻合戦に光を当てた『戦国時代の終焉』で名を知られるようになったが、元来は「道」「城館」「河川」等のハードウェアからの戦国時代考察が氏の本領だろう。
やはり残存史料の豊富なこともあって北條への言及も多い。
下手な軍事論、政治論、人物論なんぞより遥かに面白い。 .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の小説を読んでたほうが歴史学の為になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の小説を読んでたほうが歴史学の為になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の小説を読んでたほうが歴史学の為になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の歴史小説を読んでたほうが歴史学の参考になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の歴史小説を読んでたほうが歴史学の参考になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の歴史小説を読んでたほうが歴史学の参考になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の歴史小説を読んでたほうが歴史学の参考になる .
どうでもいいが糞スレ主のうんちくは無意味で無駄な知識だけ詰め込んで糞つまらん
司馬遼太郎もしくは伊東潤の歴史小説を読んでたほうが歴史学の参考になる >>1には歴史は勉強するのではなく現場で体得するのだという勝海舟さんの言葉を理解できそうもない 小栗上野介は理系に強いが交渉力が弱い
勝海舟は理系に弱いが交渉力が強い スレ主よ歴史とは知識で詰め込むものではない体得するものだ 勝海舟の氷川清話に比べたら>>1の評論は塵みたいなもん まだまだ>>1の歴史学は勝海舟に比べると浅すぎると言わざるを得ない 伊達政宗>上杉景勝>武田勝頼>>北条氏政。
北条マニアには悪すぎるが残念ながらこう実力を評せざるを得ない まだ武田勝頼の最後には武将としての矜持を感じさせられるが
北条氏政の死はダサいだけ 埋めて流したいのが露骨なのも哀れだが、新スレを早速下衆な書込で荒らしてるのもお前だな。
更に幼稚で病的になってるじゃないか。
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