邪馬台国畿内説 Part807
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1661249337/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>1
貴方は、またしても、完全に破綻してしまった邪馬壹國畿内説のスレッドを作成したな。 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
テンプレ
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で日本上陸(伊都国=出雲)→伊勢遺跡
投馬国=ツマ国=ツシマ国=対馬
ここは朝鮮半島を周って来て最後日本に向けての出発港
伊都国=イツ国=イズモ国=出雲
これはちょっと無理があるかな
最後は陸行一月で伊勢遺跡 >>4
そもそも伊勢遺跡は年代が違うとあれほど言われているのに。
それに一万二千里はどうした? 江戸時代じゃねーんだから畿内説とか言ってる奴は頭がおかしいとしか。 >>8
伊勢遺跡が廃棄されたのは二世紀後半だから卑弥呼は居ただろうがよ
それと一万二千里は倭人在帶方東南大海之中までの距離 >>1
立てるだけ立ててその後なんのケアも無く放置は、随分といい加減な1ですな、
何やってるのかな? □□□□□ ご 注 意 □□□□□
ここは操作ミスで立っちゃって重複スレらしいよ
こっちのスレはdat落ちさせるってさ
書き込まないでね テンプレに何も期待していないし、邪魔なだけなんだが。 >>5
どうもしない
近畿パーが>>3にまるでお手上げ反論不能
九州説の完全勝利
>>3
こんなもん一発で反論不能、大破轟沈だからな畿内説はwww
□□□□□ ご 注 意 □□□□□
ここは操作ミスで立っちゃって重複スレらしいよ
こっちのスレはdat落ちさせるってさ
書き込まないでね 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>19
こんなもん一発で反論不能、大破轟沈だからな畿内説はwww
>>19
伊都を統括していたのは女王国でしょ
女王国は国家連合であり、女王国の首都がある国が邪馬台国 纏向遺跡にたくさんの人が住んでた遺跡はない
つまり、都市として機能していたか疑わしいということだ
仮に邪馬台国の首都があったとして
長期間首都として維持されていたのか、厳しいと言わざるをえない。 >>22
150年程だから
それより纏向は誰のものだって事だな
近所の唐古鍵遺跡の10倍の規模があるし纏向の前後もずっと存続している 伊勢遺跡と同じく、宗教施設のみの役割しか担っていなかったという
意見があるね
邪馬台国が奈良なら、卑弥呼はおかざりの王で、畿内はたんなる宗教施設と墓地の地だったという可能性があるね
都市機能のある遺跡がないのだから
実権は誰が握っていたのか
案外寄り合い所帯だったのかもね >>25
宗教施設って言い方どうなのよ?
占いであろうが王が号令かければ政治だから □□□□□ ご 注 意 □□□□□
ここは操作ミスで立っちゃって重複スレらしいよ
こっちのスレはdat落ちさせるってさ
書き込まないでね スレ立て人、流石に諦めたんかな?
半泣きでテンプレ修正してるのかw
テンプレ不要だし、現実の書き込みに則して
「邪馬台国総合スレ」でいいんじゃない? 清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」 歴博が結果ありきの箸墓の推定年代を意地汚いやり方でマスコミリークしなければ畿内説などとっくの昔に消えていた。
歴博の罪は邪馬台国論争を大きく後退させただけではない。ヤマト王権の歴史の解明にも大きくダメージを与えた。古代史の極悪罪人「歴博」を許すな! 歴博が行ってきた事。
【旧石器捏造事件の本質】
旧石器捏造事件とは、藤村が考古学者をだました事件ではなく、考古学者が藤村を利用して国民をだました事件である。
捏造石器からナウマン象の脂肪酸を検出したという研究結果が、帯広畜産大学から報告され、捏造石器の信憑性の補強に使われた。【国立歴史民俗博物館館長の佐原眞】は、この情報によって、反対意見を発表した小田静夫氏を名指しで批判し、旧石器発掘に対する反対意見を封じ込めた。捏造石器にナウマン象の脂肪酸が付くわけがない。捏造を補強する共犯者といわれても仕方がない学者たちがいたことになる。
国の機関が、反対意見を名指しで批判し、力ずくで発言を封じてしまうのは学問の世界では異例のことであった。 大和弥生社会の展開とその特質
寺澤薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 戦後において記紀を否定するあまり、記紀が含んでいた真実の一部まで歴史学者は素直に認めることができない縛りが発生している。
それは倭王権が筑紫に成立したということ。
九州北部に上陸した弥生稲作文化が全国に広まった。
ところが稲作とは暦と灌漑が必要であり、多くの王朝において、それらは王の専権事項である。
弥生時代とは、筑紫に成立した倭王権が全国に稲作による支配を広めた時代に他ならない。
記紀がついた最大の嘘は、大和における神武の年代を弥生時代のはじめまで前倒しすることで、あたかも初めから列島の覇者が筑紫の倭王権ではなく大和王権であったかのように偽装したことだ。
邪馬台国畿内説は、記紀編纂者が用意したトラップにまんまと引っかかっているのである。
卑弥呼の治世である3世紀まで、大和に独立した王権が存在したという考古学的証拠はない。
弥生時代において、考古学的に確実に王権が存在したのは、金印や三種の神器が出土する筑紫だけである。
畿内説は考古学的証拠を無視した妄言にすぎない。 □□□□□ ご 注 意 □□□□□
ここは操作ミスで立っちゃって重複スレらしいよ
こっちのスレはdat落ちさせるってさ
書き込まないでね テンプレうざいし畿内説スレなんて名ばかりで他説の方が優勢だから
テンプレのない邪馬台国論総合スレを作るのはどうか? 架空説の存在しない設問を論破して勝った気でいる意味不テンプレは畿内説側から見ても不要ではないか? >>23
長髄彦たち飛鳥の豪族の存在が目に浮かぶようだ。 >>44
他説の方が優勢?何処でそんな電波を受信しましたか? 電波を飛ばしてるのは君たち徳島人だろ。恥ずかしくないのか? 畿内説の人間でも、あのテンプレは赤面ものだろ。
カルト集団の教義じゃあるまいし、言い訳だらけで誠実さのカケラもない。 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は、北部九州の様式の土器が畿内に拡大した庄内併行期に相当する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出て、那珂比恵地域では人口が急拡大した。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは福岡以外にありえない。 ↑
テンプレが間違いだらけだったから添削してやったぞ。
よろこべ。 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)
福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国と投馬国はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。 >>49
あんなんが身内にいたら恥ずかしいので全力で止めますよ。
まあ、電波過ぎてついて行けないのは幸い。 いわゆるヤマタイコク(女王国)の話し?
それともヤマトコク?
どっちかね? >>56
邪馬台国をヤマタイとするかヤマトとするかも自説の内だよ?
言いたくない理由でもあるのですか? >>56
他説が優勢という書込みを電波と言ったのだからあなたは畿内説ですよね。
どうしてそれが言えないのかコテハンなのに不思議な人ですね。 >>59
要らんと言ってもどうにもならんしなあ
とにかく俺は全く読んだ事がないし何が書いてあるか知らん >>61
他説から質疑を装った架空の質疑とそれに対する意味のない回答。 >>60
こいつに関わっても得るものはない。せいぜい徳島県の情報ぐらいだ。
おおよそ邪馬台国論争には不要な情報。
自分は語らず他人の揚げ足取りで優越感に浸り周りを不快にするだけの人間。 邪馬台国論争?
今更それ必要なんですか?
冷静な意見お待ちしております。 742日本@名無史さん2022/10/15(土) 10:46:29.73
>>741
頼りない神?
ミーハーのお前にとってはな。 わははははは @阿波
〜〜〜〜〜
ミーハーとは阿波人。古事記の公開で一躍阿波の国魂となった大宜津比売を祀りあげ記紀に登場しないからと阿波忌部の母神たる八倉比売の祭祀を怠るというアホバカ共。挙げ句正体が不明になった八倉比売を大日霊女だと嘯く糞野郎の集団。 阿波説論者なんか数人規模^_^
某1さんは過剰反応でしょうね。
ブラタモリ見てるのでレス少ないですが、ご容赦ください。 >>68
@阿波ピンポイントで個人攻撃しとるんでないの?
好きにすれば良いと思うけど、建設的では無いね。 ブラタモリでは何と言っていたの?
タモリだから福岡派? 歴博同様に偽古代史を金に変えようとする奴は糞ってだけだ。 いやー金田城の石垣が思いの外壮大で驚きました。
小船越の下りも勉強になりました。 >>77
あなた>>63の言う通りで相手を見下すだけで自説は何も言いませんね。
どうしてですか?傍目から見てもちょっとイラっとしますよ。 関わっても不快感以外に得るものはない。もう止めときって。
こいつの説は女王国(連合)は瀬戸内海沿岸諸国で、邪馬台国は不明だとさw ヤマタイコクなんていう呼名の、国はそもそもなくて、
ヤマトコクがあったというのが私の説です。
ヤマトコクが何処に有ったかなんて、
今更詮索するだけ野暮でしょう。
女王国とヤマトコクは完全一致はしないかも知れませんが。 >ヤマトコクが何処に有ったかなんて、
>今更詮索するだけ野暮でしょう。
江戸時代の情弱者と同じ思考www いや、江戸時代にも劣るね。
宣長は基本的に邪馬台(ヤマト)国は大和国、卑弥呼は神功皇后のことであると考えました。
皇紀を疑わない彼にとって3世紀のヤマトなら大和国以外に考えれなかったからです。
その上で、魏と通好を持ったのは神功皇后をかたる偽物であると主張しました。
【『魏志倭人伝』の記述から、魏の使者が来たところは九州としか考えられないからです。 】
また宣長はこの偽物を熊襲の類とは言っていますが、女酋長とは言っていません。 王は男だっただろうと推測しています。
『日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない』という立場から」などというのは、 何の根拠もない憶測です。宣長の学問の特徴は、憶断を持たず、古い文献によって物事を 明らかにすることです。文献によらず、自分の好みの結論に理屈を付けて強弁するような事は、 彼が最も嫌ったことです。 逆説的に言えば
皇紀を疑えば3世紀のヤマトなら大和国ではないと言うことです。
ヤマト王権自身が筑紫から東遷して来たと証言し、それとは違う間違った
海外の記録にまで訂正を求めているのですから。 歴博が結果ありきの箸墓の推定年代を意地汚いやり方でマスコミリークしなければ【畿内説などとっくの昔に消えていた。 】
歴博の罪は邪馬台国論争を大きく後退させただけではない。ヤマト王権の歴史の解明や日本書紀の正当性に泥を塗りまくった。
古代史の極悪罪人・朝敵「歴博」を許すな! >>47
歴博の電波にやられてるのはあなたの方ではありませんか。 >邪馬台国論争?
>今更それ必要なんですか?
確かに必要ないな。畿内説も四国説も消えたしな。 >>86
得るものはないと言ったよ。「ヤマトだから」こんだけよwww 邪馬台国はヤマトと読むのだろうけど、3世紀の時点でそれは倭のことで福岡県だと思っています。
大和と書いて奈良県のことであるというのは7世紀以降の文献しかないわけですから。
卑弥呼の即位直前の後漢代の倭が対馬海峡国家として描写されていることを無視はできません。 >>89
大和は関係ないし倭も関係ないでしょう
ヤマトという名前は古来からあった 7世紀より前に奈良県のことを大和と呼称する文献は確認できない。 直後に倭を統一したのがヤマト王権なのだから女王国連合はヤマト王権に発展するか、ヤマト王権に吸収されたか、滅ぼされたか、無関係に自然に消えたか?
しかし、最後のはありえんだろ。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後~筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。
足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。 結局、畿内説ってのは江戸時代ならともかくの時代錯誤のトンデモだよな。箸墓の年代こじつけしか要素がないんだよな。 >>91
じゃあヤマトって何よ?
なぜそんな名前が出てきたんだ? 敵対国の狗奴国の比定地から丹が出ると大喜びの徳島人の思考が理解出来ない。推定朝貢ルート上でもある。 >>96
筑紫の地名の多くが畿内に移転されている。
その中でも最も重要な地名はヤマトであったのだろう。
後漢書において倭すなわちヤマトとは対馬海峡の国とされている。 女王の都から魏へ行き来するルートだよ。
阿波説では狗奴国を通る。丹が出る若杉山辰砂採掘遺跡も阿波説での狗奴国。
破綻してると思うんだけど。 >>99
もう無茶苦茶だな
大和は本当に奈良を指してるの? ヤマトとは、ミナトと対になる語で、山への入り口、山の麓という一般名称。
一方で大倭とは、中国語の用法では倭が周辺諸国を従えて大きな国になったときに大○というような表現を用いる。
ただし大倭については後漢書に次のような記述がある。
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
対馬海峡が三千里、韓国が四千里四方とされており、大倭王がいた邪馬台国は福岡県内となる。
畿内説を唱えるものは、都合が悪いこの記事から目を背けたままだ。
後漢末の倭国乱を治めるために卑弥呼が共立されたのだから、倭王卑弥子のいる邪馬台国も、楽浪帯方から一万二千里の福岡県内。 >>102
対馬海峡が三千里なんて書いてないし通ったとも書いてない
即ち直線 後漢書は魏志倭人伝とソースは同じ。
ちなみに後漢書の方が三国志よりやや後に書かれている。
なので里のスケールは同じ。
楽浪帯方から狗邪韓国まで直線で七千里だと、短里よりさらに短くなるよ。
韓国が四千里四方とあるのを踏まえての七千里だから、楽浪帯方から沿岸を四千里南下して、半島の西南角で東に向かって三千里のところに狗邪韓国があるというのが中国人の理解だよ。
そこから南に渡海するので、九州は東南海中になる。 >>104
其大倭王居邪馬臺國楽浪郡徼去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國七千餘里
なんか勘違いしてないか? 大倭王は邪馬臺國に居る
楽浪郡から萬二千里にあり(邪馬臺國から見て)西北界の狗邪韓國からだと七千餘里
つまり邪馬臺國は狗邪韓國の東南の方向にあるのよ その通り。でその地、地勢東高西下、奈良盆地となっていくのよ。 もう、九州はむりよ
半島から九州までなんて大して遠くないんだから。で、決定的なのは箸墓は道教の墓。ホトを刺すと残るんだから。
本居に影響されないほうがいいよ、上田は解ってる。 狗邪韓国から対馬海峡を南下して九州に上陸してから東に向かうから、伊都や博多から見たら狗邪韓国は北西にある。
そもそも山島に依りてという表現からは、内陸は想定できないしな。
方角的にもせいぜい出雲なら許容範囲だが、奈良は無理だろ。 >>110
倭国や邪馬台国が小ちゃっな出雲に!?
一時的な逗留地ならまだわかるが ホトをついて死んだのが百襲姫命だけだったら、いろんな憶測が出来るのだが、高天原の機織り女の話があるので推理が進まない。
機織り女の死に関して、それほど深い意味を見いだせられないからだ。
深読みをすれば、機織りという産業をスサノウが滅ぼしたとも取れるのだが、そんな事はなかったからである。
しかし実際に古事記に書かれているので無視することは出来ない。
そこが重要なのだ。
ホトをつくという異様な描写が故に百襲姫命の件は様々な説が生まれている。
しかし本当はただ死亡したという描写に過ぎなかったのではないかという結論しか出てこないのだ。 奈良盆地は誰がどう見ても青山四周。
あれを地勢東高西下などと言える奴はネジが飛んでる。
畿内説は最初から無理よ。せいぜい江戸時代くらいまでだね。 >>109
いかにも邪馬台国とは関係なさそうだなw そもそも本州について、津軽海峡を知らないと島だと認識できないだろ。
しかしそこは蝦夷地。
本州は無理筋。
箸墓に至っては、こじつけにしか聞こえない。
卑弥呼は推定で少なくとも80代で亡くなっただろうが、百襲姫はについてそんな記事はない。 >>111
狗邪韓国から東南という内容でどこまで行けるかという話をしているだけ。
少なくともそれで奈良盆地を持ち出すのは頭おかしい。 高天原の機織り女の死は事故だという以外にも何も出てこないからである。この一点に関連性が見いだせなければ、謎めいた憶測は無理である。逆に3つの事件に共通しているのは女性と死の事実である。そして女陰が持つ生命力を本当に断つには女陰を傷つけることだという思想性である。
>>109
【思考の迷路の罠】
古代史で遊んでいると、いろいろ深読みするのが楽しい。しかし深読みしすぎると迷路に入ったり、独自の説を振りかざしてしまう結果になってしまう。今回の女陰事件もだいぶ考えたが、女性急所説までしかたどり着けなかった。 また変な解釈してるしホトとか出鱈目な話は要らない
倭在韓東南大海中依山?為居凡百餘國其大倭王居邪馬臺國
楽浪郡徼去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國七千餘里
倭は東南の大海の中にあって山や島に住んでて百余国ある
大倭王は邪馬台国に居て楽浪郡からだと萬二千里で西北界の狗邪韓國からだと七千餘里
結論から言うと伊勢遺跡
後漢時代も魏の時代も邪馬台国は同じ場所にあった
ただし中国側が勘違いしてて邪馬台国は集落ではなく国家でヤマト
>>118
3世紀の倭の筆頭国である邪馬台国(伊勢遺跡)は4、5、6世紀とどうなっていったの?
消滅したの? >>119
廃棄されたんだか別の場所に移転してる
王宮の移転なんて近畿ではありがちありがち 伊勢遺跡は邪馬台国有るけど無い
伊勢遺跡は王宮で邪馬台国は国家
皇居は日本にあると言ってるようなもの すまん、日本語でお願いしたい。
女王の都する所=邪馬台国ではないのか? 纏向は明らかにヤマト王権の遺跡だ。
ヤマト王権の前身と言うのか? >>124
後漢時代もだし女王だけじゃないんだけどな すまん、ますます理解出来ん。
女王の都する所=邪馬台国を皆で探して論じてるのではないのか? >>125
そう考えるしかないな
ただ王統皇統がつながってるかはわからんよ >>127
そうなんだけど後漢時代はその場所におそらく男王が居た
俺は卑弥呼より日本発祥の場所の方が興味あるけどな >>128
ヤマト王権の前身であるが王統にはつながらない?
ヤマト王権に降ったのか?もちろんヤマト王権が併合した
諸国を全て記載してはいないかもしれないが「親魏倭王」の国だ。
強国を降した誉を記載しない理由は何か? >>129
日本書紀によれば
饒速日尊が生駒山から奈良を眺めて眩しさに目を細めて「日本」と名付けたとある。 >>130
だって仁徳天皇と今の天皇の血がつながってるかなんてわかんないでしょ >>131
日本という名前は後の時代だろうけど国家の始まりだよ 卑弥呼と今の天皇だって血がつながってるとは言えないけどつながってないとも言い切れない >>132
そうじゃないんだよ。根本的に理解してないね。
血縁関係は不明でも「王統」は確実に継がれているんですよ。
過去の倭地にあった国で王統が途絶えた国は数知れない。
だが、ヤマト王権は初代神武天皇からの王統を主張しているんだ。 >>136
俺もそういう事を言っててつながってようが途切れてようが国家として継続している 血統が代わってようがなかろうが
我が国はずっと「日本(やまと)」なのですって事。 >>137
そこまで理解できているならもうわかるはず。
結論を言うと残念ながら「伊勢遺跡」はヤマト王権にとってどうでもよかった場所。
それだけ。 >>139
おまえが決めるな
後漢時代も魏の時代も同じ場所に王が居たと推測できる
倭王として金印を貰った王が >>133
日本という名前をつけたのが饒速日なら、神武東征より前だ。
一方で伊勢遺跡は大和よりむしろ出雲と関連づけるべき遺跡だ。
王統が違うだろう。 >>140
残念ながら決めたのは私ではありません。記紀の編者なので悪しからず。
妄想説の人は最後はキレて根拠のない主張をするのは変わりませんね。
>後漢時代も魏の時代も同じ場所に王が居たと推測できる >>136
記紀でさえ、実は王統は一つではない。
天皇家の中にいくつもの王統が存在する。
まして天皇家と別の王統があったことを否定する根拠はない。 >>137
根拠のない妄想だね。
結局、畿内説とは神武から始まるヤマト王権を無条件に妄信して、そのために事実を歪めているんだよ。 >>140
後漢の時に倭王として金印をもらったのは、博多の倭奴国王だよ。
耄碌した? >>143
よく読んで。早漏君。
実際はどうであれ「日本書紀の主張は一つの王統」だよって言ってるに。
>>144
ヤマト王権の主張はそうだよって言ってる。
従属側の国津神の故地も記録されている。
伊勢遺跡など知ったこっちゃないってな。
一千万光年ゆずってそこが後漢時代の王都だとしてヤマト王権との関連性は不明だよね。 たくさん出てきやがったな
後漢時代も魏の時代も王は邪馬台国に居ると言ってるのになんで妄想なんだよ >>141
仰る通りですね。
伊勢遺跡は国津神側の遺跡で出雲や伊勢に比べれば記載する必要のない取るに足らない場所って事。 >>144
おまえ何言ってんの?
ジンムなんて居ない >>151
伊勢遺跡の時代出雲大社や伊勢神宮なんて存在しない >>153
誰が「神社」の話をしたの?障害持ちかな?152は間違いないだろうが。
猿田彦は伊勢だろ?
衢~對曰「聞天照大~之子今當降行、故奉迎相待。吾名是猨田彥大~。」時天鈿女復問曰「汝將先我行乎、抑我先汝行乎。」對曰「吾先啓行。」天鈿女復問曰「汝何處到耶。皇孫何處到耶。」對曰「天~之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到【伊勢】之狹長田五十鈴川上。」
大国主は出雲だろ?
二~、於是、降到【出雲】國五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端而問大己貴~曰「高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故、先遣我二~驅除平定。汝意何如、當須避不。」時大己貴~對曰「當問我子、然後將報。」 天孫に降った強大な国津神の事なんだが。
王統にも関わらない。降ってもいない。=ヤマト王権とは関係性の低い遺跡。
邪馬台国をヤマト王権の前身と言うお前の論は破綻しているって事だ。 結局>>146のような主張をしておしまいw
アホバカもほどほどにな。 >>154
存在してないんだからしようがねえじゃん
海でも眺めてたのか? 箸がなく手掴みで飯食ってたのに何故箸でホト突くんだ?
何考えてんだ? >>151
纒向に一揃いしかない高殿が十数棟もあるのだから、取るに足りないということはないのだけれど、記紀編纂者から見たら無視すべき存在だったのだと思います。
国津神なので。
つまり伊勢遺跡はヤマト王権に属さない、出雲の国津神系の王朝なんですよ。 >>152
そのいないはずの神武が大和に即位したという日本書紀にしがみついてヤマト王権を夢想しているのが畿内説なのですよ。 >>153
伊勢神宮はともかく、出雲大社についてはすでにあったことになっています。 >>156
大和からそう遠くもない伊勢遺跡が大和に属さない出雲の国津神の遺跡なら、ヤマト王権ってなんだっていう話だよ。
だいたい、カタカナ造語はマユツバだろ。
実態がない後世の思いつき、こじつけ。
大和と書くと神武の国そのもので、神話となってしまうしね。 >>157
出雲大社がその時代になかったという証拠は? >>158
> 箸がなく手掴みで飯食ってたのに何故箸でホト突くんだ?
> 何考えてんだ?
鋭いw 曹叡の称賛と魏の卑弥呼に対する好意と親魏倭王。
魏尺の墓と伊勢、出雲の祖形といえる建物。
3世紀から現れる勾玉の形。太一を祀る斎宮。
そして今の政治は道教を認めないとする淡海三船と鑑真の時に方士も送ろうとしたが日本から拒絶されたとする状況、その状況から生まれた箸墓伝説。万物を生み出すとされる入り口を塞いで死んでる。
これら状況証拠から比定できる人物はひとりしかいないよ。前方後円墳は大仙までは続く。仙人思想が間違いなく列島にあり、その始祖が箸墓なんだよ。 息を吐くように嘘をつくのはやめようよ。
畿内説の品位が疑われるだけ。 >>163
筑紫から東遷して来たとの主張だ。読めばわかる。
畿内一帯は出雲系勢力の傘下だったのは神武天皇に伊勢を譲ったとされる
伊勢津彦が出雲神の子、出雲建子と呼ばれていた事からも明らか。
>伊勢遺跡が大和に属さない出雲の国津神の遺跡なら、ヤマト王権ってなんだっていう話
疑問に思うのが疑問で仕方ないんだが??? 箸墓古墳という名前は、古代の有力氏族である土師氏に由来する。
箸で陰部を突いたというお話も伝わりますが、これはあくまでも箸墓という地名に付会した説話にすぎないのではないかと思われます。 神話の挿入説話を区別できない人が読むのは難しいね。
だから、完全に拒絶するか珍説のオンパレードになるんだろうな。 >>163
万葉集にも歌われ古代皇族から愛された三輪山を神体とする神は誰かね?天津神か?
ヤマトって何だよって言われても筑紫から東遷して来たって堂々と書いてるじゃないか。 >>170
正にそれ。「イザナミのホトから日本列島が出て来たのか?」とか言うヤツ。
完全に頭がおかしい。 >>172
それって、邪馬台国と関係なくないか?
結局は神武の伝説に頼らないと畿内説には何もない。 三輪山の神が物部つまり饒速日なら、天津神だけどね。
しかし邪馬台国とは関係ないよな。 神武が筑紫から来たなら、それ以前の筑紫の日向は豊葦原中国の王都であるわけだが、神武らが筑紫を出たら王都ではなくなるのか?
筑紫が王都であり続けたら、そこにいたのが倭王卑弥呼ではないか? 大物主は三輪大歳彦明神。スサノオの子、オオトシ。
父、スサノオが三室の磐座に鎮座した事に因み一番美しい山を御諸と名付け鎮座した。
饒速日とは姻戚関係だろうがどう考えても同一ではないね。原田氏の影響だろうが。
スレチなんでここらへんで。 >>176
>神武らが筑紫を出たら王都ではなくなるのか?
ヤマト王権は何度も遷都しているが何か不思議ですかね?
奈良から京都に行きましたよね?
>筑紫が王都であり続けたら、そこにいたのが倭王卑弥呼ではないか?
筑紫が王都であった時代にそこにいた天皇の祖先の女王が倭王卑弥呼でしょうね。 大和って、出雲や筑紫から来た神の吹き溜まりだな。
沿岸部が初期から開拓されたのに対して、内陸はフロンティアとして残っていたからかな。
いずれにしても、邪馬台国とは接点が見出せない。 >>178
卑弥呼は3世紀、記紀だともう天皇家の祖先どころか崇神とかだよ。
だからこそ纏向遺跡が崇神天皇の宮で矛盾しないのだけど、卑弥呼がヤマト王権の歴史に入り込む余地はないんだよ。 邪馬台がヤマトであると言う前提においててです。>>178
邪馬台がヤマトでないなら畿内説では邪馬台は、どこに消えちゃったの?って事です。
九州説なら奈良から遠く離れた地で闘争の間に消滅ってのも無くはない。
何をどう解釈しても畿内説なんてあり得ない。 纏向遺跡は本当は4世紀。
歴博の犯罪じみた行為が邪馬台国論とヤマト王権の史書に泥を塗っただけ。 やはり、3世紀の大和の記録を含んでいることがほぼ確実な記紀において、天皇家の系譜が連綿と続いていて、卑弥呼が全く登場する余地がないのが決定的だろうね。
卑弥呼は畿内政権が知らない、または無視している筑紫倭国の女王なのだろう。 >>183
私とは違う意見ですがそう言う解釈も可能ですね。
いずれにせよ江戸時代ならともかく「畿内説」などトンデモでしかないって事です。 まあ、記紀の年代は少しずつ前倒しされているというのもあるかもしれないので、纏向遺跡の正確な年代はわからないですけど。 崇神天皇の実在性を証明しうる纏向遺跡を無理矢理邪馬台国にこじつけようとしているのなら、それは確かに歴史に対する冒涜ですな。 >>186
>崇神天皇の実在性を証明しうる纏向遺跡
それです!それ!!!許せるものではないです!
歴博は前科があるんでいい加減にしろって感じです。 邪馬台国畿内説だと、日本史は闇の中になってしまう。 九州の邪馬台国とヤマト王権に連続性はあるのか?を論じる段階なのに
犯罪まがいの者どもが妨害している状態と言える。
意地なのか信仰なのか畿内説など害悪以外の何でもない。 >>164
出雲大社は八世紀伊勢神宮が五世紀後半、神話と無関係 >>170
神話の根拠がない
つまり根拠が神話しかない >>191
史書に散りばめた神話の挿入説話を区別できない人が読むのは難しいね。 日本が成立したのはいつなのか知りたい
神様が海かき混ぜて日本を作りましたで納得できるかバカ >>192
根拠となる遺跡を出してから言って
それが無いと荒唐無稽な話しなんか信用できるか! >>194
畿内説の遺跡もないよ。箸墓は歴博の犯罪だし。
かつて存在した弥生時代の集落の何%が見つかってるの?まず七万戸の遺跡を出せよ。
遺跡なんて残ってるから遺跡であって残るとは限らないんだけど。 >>195
それ読んで書いたけどその神話ってじゃあ何よ?
日本がある事で証明してるとでも言いたいの? >>196
俺は伊勢遺跡説だから
何度も書いてるが七万戸はヤマトの戸数 >荒唐無稽な話し
ヤマト王権の公式見解。
荒唐無稽は卑弥呼中国人だろうwww >>199
ヤマト王権の公式見解。
これが正しいとする根拠がない >>155
伊勢遺跡は明確に出雲の関連。
荒神谷遺跡もそうだが、弥生時代から出雲に何らかの勢力がいたことは間違いない。
それはやはり出雲と呼ぶしかない。 王が居るのは伊勢遺跡や纏向遺跡であってその場所だけがヤマトではない
王が治める地域がヤマト >>198
だからそのヤマトとやらの所在地が問題なんだろ。
大和なら奈良盆地だが、伊勢遺跡は別系統だし。
そもそもヤマトが倭のことなら、後漢書では狗邪韓国から倭奴国までの間の対馬海峡だけが倭だ。 >>202
伊勢遺跡は女王がいたというよりは大国主の祭祀場。
纏向遺跡は単発の王宮。
どちらも邪馬台国とは、似ても似つかない。 >>203
大和朝廷は奈良県だけ治めてるんじゃないでしょ >>204
また神話かよ
あほらしい
何が大国主なんだか >>194
邪馬台国の遺跡が残っている根拠を述べて下さい。
全ての遺跡の推定戸数と当時の人口が同じくらいなら言い分を認めますけど。 >>205
根拠なし
畿内説では河内彦がいる大阪さえも敵国狗奴国なんだろw >>208
出雲の権力者に仮に名を与えるなら、それしかないだろ。 >>206
狗邪韓国から南下して末盧国、そこから東南または東で倭奴国。
東南海中に王都があるな。 >>209
中国の史書から邪馬台国は2~3世紀の話しだよな
まさに伊勢遺跡がそうだし吉野ケ里もそうだな
戸数はどれ程正確かわからない
ただし七万戸は狭い地域ではない >>210
統一国家大和朝廷は奈良県を治める朝廷なのか? >>214
だからそれが記紀に踊らされた妄想なんだろうね。 >>213
仮に邪馬台国の端っこの民衆層が住む遺跡が見つかってもそれが
邪馬台国だと推定するには根拠が希薄すぎる。根拠となる文献と合致してナンボのもの。
見つかった遺跡から逆算で邪馬台国だなどとするから纏向は歴博の犯罪に巻き込まれた。
纏向は発見時点で崇神天皇にゆかりの物として研究すべきだった。
遺跡を出せなどと横暴にも程がある。 >>216
纏向の調査はまだこれからだから気長に待てよ
伊勢遺跡もそうだけど >>215
何言ってるのかわからない
大和朝廷は無かった? 邪馬台国七万戸の中に奴国二万戸が含まれるんだよな。
邪馬台国と同じ倭人伝に記載されて、単一の国邑としては東夷最大となる奴国が含まれないわけはない。
ならば邪馬台国の範囲の中でも最大の国邑が奴国であったはず。
その奴国すら支配下においたのは、大率を擁する伊都だけ。 >>218
そうだね。
記紀に踊らされた実態のないものだよ。
大和朝廷と呼ぶとどうしても始祖である神武の話になってしまうから、最近はその表記を使わずにヤマト王権と呼ぶらしいが、その範囲も年代も全くもって定義されていない。 >>217
奈良盆地の何割を纏向遺跡に含める気だよ。
それこそ詐欺だろ。
玉垣に囲まれた3棟と井戸、それだけが纏向遺跡の現実だよ。 >>220
纏向があり馬鹿でかい墓もあるんだが
ジンムなんか居ない 伊勢遺跡は出雲の系統であり、畿内とは関係ない。
弥生時代末期において、西日本はおろか、近畿すら統一はされていなかった。
まして伊都のように近隣に強い支配力を持った地域に比べて、大和はあまりにも出土品が貧弱であり、郡使が滞在したという伊都には何の影響も与えてはいない。
大和は魏志倭人伝にある邪馬台国とは何の関係もない片田舎にすぎない。 >>221
それを決めつけるのはまだ早い
何があったかまだはっきりしないけどあれはでかい
墓もでかい
かなりの権力者が居たんでしょう >>222
普通、古墳は古墳で扱い、別のところにある建物と混ぜこぜにはしない。
そのような姿勢こそ、考古学に対する冒涜だよ。 >>222
はぁ?10代崇神天皇の存在を示唆するそれらがあって
初代はいない?何の根拠で? でかい古墳だけなら全国にある。
しかも年代がおかしい。
卑弥呼より後のものなら、いくら並べても何の意味もない。 >>226
ヒント
崇神天皇の諡号は
はつくにしらすすめらみこと >>225
時代が合致する可能性があるものが直ぐ近くにあるんだから無関係と考える方がおかしい
逆に無関係とする根拠が必要なくらい 邪馬台がヤマトなら意味はあるだろう。
何か狂気を感じる。この天皇の名前をカタカナで書く人。 >>230
初代は居てもジンムなんか居ないでしょう
それに初代がなにをやった人か見当も付かん 崇神天皇が磯城に宮を構えたのは、ヤマト王権の真の権力者であった物部氏の母を持つため。
妻問婚の時代、子供は母親の実家の権威を継承した。
桜井市は物部氏の本拠地である石上神宮の地、物部の里に他ならない。
物部氏は軍事と祭祀、つまり祭りごとの全てを司っていた。
前方後円墳は物部氏の墓制と言われる。
そして畿内を日本と命名したのも、物部氏の祖である饒速日。 伊勢遺跡は地勢東高西下ではない、また、墳墓も古い。
冷静に魏尺の箸墓をなんとするのだ?纏向もふくめ寸法がなんで中華なのだ?
倭人に卑弥呼以前に倭独自の道なるものがあるなら何でみな大夫だなんて言っとるのだ?。
倭人卑弥呼の鬼道は何処で誰に教わり、台与に何処で教えたのだ?
何で斎宮伊勢は太乙を祀るのだ?
無理があるね、他の考え方でわ。 >>230
はて?
ひらがなで書いたつもりだが?
漢字は古事記と日本書紀で違うから、後世の当て字に過ぎない。
日本人ならきちんと訓読みで和風諡号を使い、読みを記載するなら仮名で書いて何が悪い?
御肇國天皇と書いたら何割の人が読める? >>234
俺は卑弥呼より日本の成り立ちの方が関心があるのよ
伊勢遺跡の時代大型墳墓はまだないし卑弥呼にそれ程の権力があったとも思わない >>236
あなたの言う「日本」って何でしょう?
何度も出てきてますがその名は饒速日尊の命名ですけど。 >>234
前方後円墳の大きさはバラバラで、規格などなかったことは明白。
たまたま近い大きさと思われる箸墓にこじつけただけ。
そのために年代は無理に前倒ししている。 >>234
だいたい、鬼道だって九州説は三種の神器などを用いた古代神道だと解くわけで、道だの道教だの持ち出すのは畿内説のマッチポンプに過ぎない。 狂気を感じるのは異常に長生きの古代天皇の実在を信じてる方でしょう
遺跡があるから何かは居たけど そして日本は卑弥呼が女王を務めた倭の別種。
後に逆に倭を併合したと。 >伊勢遺跡は地勢東高西下ではない。
奈良も違うだろ。
>冷静に魏尺の箸墓をなんとするのだ?纏向もふくめ寸法がなんで中華なのだ?
根拠が希薄だし仮にそうだとしてもそのような文化が伝わったのだろう。
>倭人卑弥呼の鬼道は何処で誰に教わり、台与に何処で教えたのだ?
縄文時代から倭にある要は古神道だろう。
>何で斎宮伊勢は太乙を祀るのだ?
え? 前方後円墳は大仙までは続く、倭五王の墓はおそらくこれ等であろうと思っている、ゆえに狗奴国は弟、河内であろうと考える、1字大王も自然な流れだ。 >>241
その時代の近畿が国家という体を成していたかどうか。
大和から見て、伊勢遺跡は出雲の系譜の別の国、河内は河内彦がいる敵国狗奴国なら、大和って奈良盆地の外に出ていけてないよね。
それが九州?それが洛陽?馬鹿馬鹿しいにも程がある。 >>238
纏向は四世紀にはあってその頃巨大古墳もあったとされてるけどいったい何を疑ってるの? >>242
卑弥呼は倭の女王国(連合)の邪馬台に都す。日本は饒速日尊の国。
完全に無関係だろ。どっちが主かは、ともかく倭と日本は合併した。 >>245
おまえの言ってる事には全く根拠が無くてわかんねえ >>246
卑弥呼は2世紀末に即位して3世紀中頃に亡くなった。
4世紀は関係ないよね。
畿内説は後世の資料ばかり持ち出して、なんの証明もできていない。 >>248
根拠がないことを信じてぶつぶつ呟いているのは君の方。
早く目を覚ませ。 >>247
倭と日本は文字だから当然卑弥呼に時代にはない
もし読みがヤマトであるなら同じって事になる
おまえの言ってるのは日本人がワまたはヤマトとヒノモトまたはニッポンと言ってたら成り立つ >>249
俺卑弥呼の事なんてどうでもいいから
日本の成り立ちに関心がある >>252
だったら邪馬台国を持ち出すな。
纏向遺跡は崇神天皇の宮。
邪馬台国を絡めるとかえって議論がおかしくなる。 >>252
弥生人流入で縄文人が列島中央から押し出されるところから? >>251
旧唐書では倭と日本は別の国とされている。
日本が生駒山で饒速日が名付けた畿内のことなら
倭はどこのことだ?
後漢書では、倭とは狗邪韓国から倭奴国までの対馬海峡のことだ。 >>253
ヤマトは重要な意味があるのに何故?
纏向遺跡だって否定してないし何か権力者が居たんでしょう >>254
国家の成り立ちで何処からなんてわかんない >>254
弥生人が流入したのは九州北部から。
稲作文化は約200年かけて九州から東日本にまで広まった。
水稲稲作には暦法と灌漑か必要だが、どちらも王の専権事項だ。
筑紫で生まれたスサノオとその息子のイソラタケが農業を広めただの、筑紫で生まれた大山祇の子である三島溝杭耳が農業を広めただのと伝えられている。
全国の生産様式、生活様式が筑紫の様式で塗りつぶされていくんだよ。 >>251
こういう面倒な人困る。漢字は後から当てたに決まってるでしょ?
「ワ」と「ニギハヤヒの名付けたヒノモト」が合併したんですよ。
おそらくワの筆頭国はヤマトでヤマトとヒノモトの両国が合併したから【後の世】で
日本と書いても倭と書いてもヤマトと読ませるんです。あー面倒だわ。こういう人。 >>256
重要だからこそ、その名前の扱いには気をつけなければいけない。
畿内は日本だが、そこにヤマトという読みを当てたのはいつだ?
本来は日本にヤマトなどという読みはない。 卑弥呼の時代の中華が呼称する「倭(ワ)」と
ヤマト王権時代の「倭(ヤマト)」が区別できない人がかなりの頻度で定期的現れるけど
もう来ないで欲しい。 >>260
どんな言葉に文字をあてたかは重要だろ
倭はワと言ってたのか?
日本はヒノモトと言ってたのか? >>260
倭が周りの国を合併したから大倭という表記になり、そこから大和に転じたのだろう。
しかしそれは本来の倭がどこを在していたのかとは別の問題。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
これだとあくまでも九州北部が倭。 >>263
ヒノモトだろうね。
そして日下も同じだろう。
饒速日は生駒山に登り命名したと。
畿内は本来の倭ではない。 >>266
弥生時代にヒノモトなんて言ってたと思うのか? >>265
それそれ。
それこそ日本書紀がついた大嘘なんだよ。直前に書かれた古事記は日本の表記を用いていない。
日本と書いてヤマトと読ませるのは、7世紀末にはじまったことだということ。 >>267
じゃあ弥生時代にヤマトと呼んだいたと思うのか? >>268
それ以前からヤマトという言葉はあったのは間違いないのよ 九州北部が倭。その通り。
倭(九州北部)を邪馬台(ヤマト)が併合した後に東遷して
さらにニギハヤヒの「ヒノモト」も併合。だから三国時代の倭(ワ)は九州北部だが
東遷後の倭(ヤマト)は大和(奈良)。
大倭は本来、「おおやまと」と呼称してました。 >>270
ヒノモトはなかったのにヤマトはあった?
ダブルスタンダードだよ。 >>268
具体的に読ませるというのは7世紀からかもしれないが
ヤマトは同時にヒノモトである事を意識はしていたよ。
「日出処の天子」ってのはそう言う事だろう。 後漢書だから倭奴国がその時最南界でも構わないんだよ。伊都の話は片付いたんだよ。 >>275
いやいや、日出処は日没処に宛てた手紙だろ?
単に中国より東の国を意味しているだけ。
日出処の天子の名は多利思比孤、その地には阿蘇山があり火を吹くとあるんだよ。
畿内ではなく九州だろ。 >>276
卑弥呼が即位したのはその後漢代末期だよ。
卑弥呼の王宮はどこにあった? >>278
邪馬台国にあった
卑弥呼以前も邪馬台国にあった でも多利思だからねぇ、
上多利、下多利、を思彦ってのが引っ掛かるわね。 うわー九州王朝説かよ。畿内説よりアホだわ。
どこに首都に阿蘇山が有るって書いてたんだ?
あんな珍しいもん見たか聞いたかしたら記録するだろ。
多利思比孤もあれだ
中華「王の姓と名は?」
倭「あ、オオキミに姓はないっす。母権社会っすから。最強の豪族が皇后を輩出して生まれた子が次の・・・」
中華「王に姓がないだと!俺をバカにしとるのか?あー!!」
倭「うわーどうしよう。答えられるわけないっしょ・・・天の足彦です。」
こんな感じ。景行天皇とかタラシヒコだったろ。 5世紀の雄略天皇の名を記した剣が九州と埼玉で出ている事を考えると、
日本がまだ二つに分かれていたとは考えられんだろ。 単に中国より東の国を意味しているだけ?
だったら東の国の天子で良くない? >>283
交易の痕跡があるし想像よりまとまってる
歴史が西側ばかり目が向くようになってるのはどうも気になるんだよな
毛人扱いだし ヒスイだって貴重品なんだぞ
あれを加工するのは凄い技術だ >>285
うん。
それを美化して日出処天子と書いただけだよ。 >>282
母系社会なら母親の姓を継ぐだけのこと。
天津神だからアマ、天の何某で姓としたたけのこと。
タラシヒコも天皇の和風諡号ではしばしば出てくる。
それも仲哀天皇みたいに、九州に絡む天皇が多い。 >>281
卑弥呼が倭国の王として即位したのは倭国大乱の後
倭国大乱は梁書によれば、178~184年ころ
卑弥呼が即位して大乱は収まった 卑弥呼は幾つだよ、
女王になってから見るもの少なし、50年以上も見てないのかよ?弟は幾つよ?そんな国に魏は親魏を与え張政は必死になるのか?まるで❌ 記紀もそうだけど視線が内から過ぎるだろ。初めて現れた相手に中華皇帝は親魏を与えたんだぞ。魏と親しくするに相応しい相手と判断したんだよ、倭人じゃ無理だよ。 >>292
まあそうだわな
スパイを送って情報を仕入れてたでしょう
日本側だってそうで近いうちに後漢やべえぞくらいの情報はあったでしょう 列島にすぱい組織かい、
裸足で鯨面ならバレないな。 もともと支配層つまり弥生渡来人は中国人なんだろう。
だからある程度は海外事情も知っていた。 まあ、親魏を与えられる理由が呉を牽制するためとか、トンデモ話では話にならないんだよ。
魏はまだ半島攻略中の戦闘状態のさなか、突然、敵かどうかもわからん、お粗末な朝貢品の連中を
案内まで付けて皇帝に会わせたんだからね、ちゃんとした理由がいるのよ。
日本に置き換えてみろ、朝鮮攻略中に天皇に会わせる相手はどんな相手か?
まあ、じっくり話を聞きたいね、嫌われ者は仕事にでるからまた後で。 後漢時代も金印をもらっていたから、魏の役人だって倭を知らないわけではない。 帥升は相手にされとらん。劉備は漢と自称していた、昔は昔だよ。 帥升など存在しなかったからな。誤写から生まれた倭王だ。
聖書で最大級の魔王ルシファーが誤訳から生まれたのと似たような存在だ。
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/suisyo.htm 半島攻略中に半島の向こう側の国がしっぽ振ってやって来たら普通に利用を考えるだろ。
ちょっと褒美をやれば大喜びで後方支援がないと分かればそれだけでも安い物だろ。 卑弥呼時代は2世紀後半が全盛期
3世紀前半は狗奴国に戦争をしかけられるほど衰退していた
まさに北部九州だよな 台与が王になって狗奴国をやっつけたのか?
バカバカしい キナイコシは衰退という言葉が好きでやたらと使いたがるが、的外れなことばかりで説得力がない。
なお狗奴国王卑弥弓呼がもともと卑弥呼と同族であれば、壹與の時代には単に旧に復して邪馬台国と統一されたのだろう。
つまり筑紫と肥国の統一女王が壹與であり、肥前河上の與止日女である。
卑弥呼と壹與の間の男王は川上タケルかもしれない。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、豊比咩(トヨヒメ)、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比咩命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である豊比咩は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。 この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 台与の時代に寺なんかないし神社だってどうせ鎌倉時代創建とかだろ 肥後や筑後て卑弥呼等の時代
地名、地域 なんて呼ばれていたのだろうか? >>306
今日では神社とか廃寺とか呼んでいるだけ。
與止日女は風土記にはもう昔話として登場している。
川上タケルも古事記に登場している。 >>308
狗奴国とかだろ。
吉野ヶ里は華奴蘇奴国。 >>309
與止日女さんも川上タケルさんも実在が疑わしいでしょ
居たことを前提にしてるけど 與止日女神社の創建は欽明朝。
日本書紀が「卑弥呼=神功皇后」としたのに対して宗女トヨを振当てされた神功皇后の妹。淀姫。
『肥前国風土記』の成立は8世紀だから十分に昔話だよ。
與止日女命(ヨドヒメ)
世田姫(ヨダヒメ)
淀姫(ヨドヒメ)
豊比刀iトヨヒメ)←この名前だけ異質なのはそう言う事です。
はたして、卑弥呼ですら無いと言われている中で宗女トヨを祀った神社など存在するのだろうか? >>310
華奴蘇奴国滋賀だろうな。
『日本書紀』では神前郡、『和名抄』では神埼郡 当時の神社なんて岩や木に縄巻き付けてたとかしんなんでしょう 寺が立派で信者取られるから神社も立派なのを建てたと思うな
信仰の対象も仏様に対して山とか岩じゃねえ 山とか岩じゃまずいからアマテラスとか適当に作って祀り上げて >>311
疑わしいと言うのは簡単だなぁ
思考停止するだけだもんな >>312
神功皇后の妹を豊玉姫に当てるのは10世紀からだと聞いた。
それまでは別人。 >>313
肥前からの地名の移転じゃん。
アホらしい 畿内だと、祖先にあたる神様がそもそもそこにはいなかったから、神道が抽象的なものになってしまう。
岩だの山だの言い出すのはそういうこと。
しかし九州の特に福岡だと、天皇家の祖先がいたり、たまに天皇家のゆかりの神社もある。
ていうか、そう言うのばかりだろ。
その流れで肥前河上には與止日女がいた。風土記では割と悪者扱いだけどね。それは風土記がヤマト王権側から書いているからだろうな。 摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る
ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
畿内だって、山やら岩やらを祭るのは大神神社が三輪山を御神体にしているくらいだろ。
それだって、山そのものを祭るというよりは、山に神様がいるから祭るのであって、三輪山の神はしばしば山から降りてきて人と関わっている。 あーまた何でも筑紫マンか。
上賀茂 賀茂別雷神社 雷神と三島溝杭の娘との子。籠神社の極秘伝で火明命。
下鴨 賀茂御祖神社 三島溝杭耳(賀茂建角身)とその娘(大物主妃、神武天皇の皇后の母)
賀茂氏は忌部氏族。 >>299.帥升が居なかったとは思えない。
倭人伝、その国元は男王住むこと7.80年、倭国乱れ‥、また、もとは100国、今通じるとこ30ヵ国。
帥升なる者の情報は陳寿は持っていたし、後漢倭奴国の所在地とは違う場所の国という情報も持っていたとも言える。
しかし、倭人伝には筑紫国なぞ無い。隋書に出てくる国だよ、それにね、多々良は任那の村だよ。 倭面上國やら倭面土國やら国名も揺れまくって
一番間抜けなのは倭面土をワミャト(ヤマト)とか言うヤツ。
生口160人に対して印綬の記録がないのに王の名が記録されるとか不自然極まる。 ただ100ヵ国と通じていたともあるから、帥升等から話を聞いていた、情報は仕入れただろう、願請見が叶わなかっただけで、印を与える程の国の纏りもなく、ただなんか貰いに来ただけと判断されたんだな。 存在しないだろうが仮にいたとしても倭の面上國なんだろ?
ヤマト王権の王統とは無関係。
卑弥呼と違い日本書紀が無視した事からしてそう言える。 >>318
当たり前だろ
根拠が伝承じゃ話にならん >倭人伝には筑紫国なぞ無い。隋書に出てくる国だよ
以前は「倭」と呼ばれた地域が「倭」の拡大(東遷合併)によって新たに「筑紫」や筑紫島と名付けられた。 >岩だの山だの言い出すのはそういうこと。
より古くから列島に存在した自然崇拝との融合だよ。神の依り代とした。
現存する最古の祭祀形態は山を神体とする「神奈備」形式
そもそも、神社の原形は神体山の遥拝場と言われている。
その神体山が望めない場所に勧請した時に社を建てて分霊を鎮座させた。
大物主・三輪山(御諸山)
賀茂別雷神・神山
宇摩志麻遅命・八百山
瀬織津姫・六甲山 つまりは、神社しかねーよって所はこれらと比べたら比較的に新しい物だと言える。
與止日女神社の創建は欽明朝。 上記の四座は神武天皇の時代。 藤氏家伝には三國志を引用して入鹿を批判している。先祖を敬うどころか否定している書物を史料とするには慎重さが必要だと考えるがね。 卑弥呼の時代に筑紫は無い。伊都と奴国、倭奴国が何故記せない?
先祖の行為を何故記せない?
何故否定出来るのだ? >>327
倭は畿内の王統と無関係という部分は同意 >>329
例えば香椎宮は仲哀天皇がいた宮だから、4世紀にはすでにあったということだな。
岡田宮は同時代に崗県主がいるのでその宮(好字令で2字に)。 >>332
何をもって最古としているのか意味不明。
現在の神道と共通する様式が見出されるとすると、平原遺跡の鳥居や三種の神器だろう。
三種の神器を榊に架ける様子は、筑紫の神夏磯姫くらいから見られるから、4世紀には山や岩によらない形式があったということだ。
4世紀というと沖ノ島の岩上祭祀を思い浮かべるが、あれも例えば天照大神の磐座を想定したものなら、岩そのものを祭るというよりはやはり祖先崇拝に属することになる。
明確な自然崇拝の様式を教えてくれるか? 蘇我は藤原の政敵で藤原が悪どい方法で滅ぼしたのに
蘇我を悪く言うのは当たり前。蘇我を褒めたら藤原の悪行を認めるような物。
何言ってんだこいつ? >>333
神武の年代を教えてくれるかな?
それとその3社はいずれも固有の人物を祀っているように見えるのは気のせいかな?
それらの末裔の氏族が祖先を祀っただけだはないか? >>335
伊都と奴国は日本の歴史にも出てくるよね。
あと、不弥国は位置的に香椎宮だと思う。
伊都は日本書紀では怡土の県主というのが出てくるから、その宮があるところだろうけど、実は高千穂宮と同じではないかと。 >>336
倭は東南の大海の中にあるんだよ
何故無関係なんだ? >>337
仲哀天皇なんてのが本当に居たのか?
墓は大阪にあるみたいだが
九州説が言ってる事には根拠がまるでないな
もし実在しなかったら伝承も史跡もなんの意味もない >>343
畿内説は百襲は持ち出すのに仲哀は否定するの?
都合がいいダブルスタンダードだね。
ちなみに陵墓比定はいい加減だから。 仲哀の王宮は山口県下関市の穴門豊浦宮、現在の忌宮神社。
もう一つは筑紫橿日宮、現在の香椎神宮。
これだけ具体的に残っていて、何を根拠に否定するのか。
そもそも九州にしかいなかった天皇なんて畿内政権には不都合極まりないのにわざわざ載せたのは、当時の人たちにとってその存在は疑うべくもなく、応神の父として記載するしかなかったからだろ。 まだ墓の方が一応年代測定やってるだけましだよ
神社なんかいつからあるかわからん なんでもかんでも否定していいなら、聖武天皇も桓武天皇も明治天皇も否定すればいいのに。
俺は昭和天皇だって会ったことはないからね。
今上もないけと。 陵墓比定がいい加減なのは有名だろ。
仲哀天皇は特に畿内となんの関わりもない。 >>350
どのくらい間違ってるの?
半分くらいは正しいの? >>350
古墳だって一応伝承とかを元に決めたんだろうしおまえに否定できるものではないと思うがな しかも古墳はその時代にあった事が一応証明されている 宮内庁の陵墓比定が正しいと思っているおめでたい奴はお前くらいだw >>354
じゃあどのくらい間違ってるの?
一応伝承はあるんだしそれを信じてるんじゃないのか? 陵墓比定がいい加減だと聞き付けた
だから全否定するって感じだもんな
おまえの言ってる事と矛盾するし全く客観視出来てない 畿内説が百襲姫を持ち出す理由は各々であろうが、鬼道=道教の我が説では箸墓が卑弥呼の墓としているので、他書の者と重なっているだけであり、また、その内容を吟味すると同じ道教の指導者とも言えるね。としているだけ。
今、本スレでは、陳寿は邪馬臺の場所を間違えたとかやっているが、我が説では全て自然に解釈される。陳寿は万2000里会稽の東、共に正しい。でも、場所を特定出来ないように書いたのだよ。
元は男王住むこと~帥升等の位置を中華は解ってることからも知らない筈はない。 >>357
陳寿は意図して書いてるんじゃないし中国側が本当に知らないんだよ
王宮の場所は知っててもそこは邪馬台国という邑ではない 邪馬臺は女王の都とするところ、いわば泰山の道観。祭祀を行い、修行をする場。伊勢や大社の祖形となる建物が並ぶ場所、また、千人の奴婢が指示もなく動き回る、活気に満ちた場所。 中国なら王宮があるのは長安とか洛陽だけど
そういう地名を指すのが邪馬台国だと中国側は思ってた
邪馬台国が国家を指すとは思ってなかった
だっておまえの国は倭だろって感じ で男子1人が卑弥呼の言葉をつげる。
やがて卑弥呼死に径100歩以下、確認している。当然魏は邪馬臺に行っている。 全体は倭国だろう。が女王国以北に大卒を置くとなっているし、市の管理は大倭が行っているとあるので、全て女王の管理下にあるので女王国とも言える。首都は畿内、邪馬台国と呼んでもいいと思うよ。吹上仙洞臺と吹上仙洞国(東京)ってとこかな。 では勾玉のかたちにかえましょう。
3世紀から形が変わります。ホト、万物を生み出す物の形です。道教の象徴的な形ですが、神器ではありません。曹叡は特別にソナタの好物を与えます。剣と鏡。そして最高の親魏倭王の印璽です。この3つが道教の神器とされる物です。 根本的な事を指摘しますが、
卑弥呼は祈祷によって病気を治し、謝礼として米を納めさせたのですか?
倭人伝の言う鬼道とは中華にとってよくわからない宗教的な意味ですよね。
古代史の妄想は楽しいですが物には限度がありますよ。 >>364
収穫した作物に感謝の祈りとかそんなんじゃないの? >>365
そのようなものかも知れませんね。
いずれにせよ五斗米道ではありませんよね。卑弥呼が中国人とかもうね。 >>362
女王国以北を治める大率と、大率が置かれた伊都との位置関係がおかしいよ。
伊都は本州の日本海沿岸も全て統治していたのか? >>363
九州の弥生王墓を見ると、玉は勾玉に限らなくても良い。
また、勾玉は縄文時代からその形はあり、サメつまり記紀に言うところの鰐の牙だよ。
海神族は海中で最強の生物の牙を象徴的に用いていた。
後年、それを玉石で代用するようになった。ホトは関係ない。 >>365
卑弥呼の鬼道が古代神道なら、卑弥呼は神奈月に稲の収穫の祭、すなわち新嘗祭を執り行っていたのだろう。
逆にそのような祭祀を中国人が表現しようとすると、鬼道となるだろう。 鬼道=道教 →卑弥呼は張h瑛
なにこれwww 浅慮。 書紀でモモソヒメとか神功皇后イタコ芸(神憑り)やってるでしょ
まああれが鬼道そのものでしょ イタコ【芸】ってのは本質をよくあらわしてると思う。
王族は芸である事は承知していたのだろうな。 >>372
今の感覚がだとバカバカしいと思うけど当時は真剣だったと思うよ >>373
民衆を神憑りだと騙せるように真剣に芝居したんだろ? さて、まず>>364だな。鬼道は別に中華にとって解りにくい物ではないですね、老荘思想が解りにくい中華の支配層はおそらくいません。
五斗米は初期道術を身に付けたい者から五斗の米を取っていたのが始まりで信者で無い者から取っていたかは知りません。
まず、五斗米の張魯は、漢中に20年一国を築きあげた鬼道の指導者であるということ。後漢朝廷、曹操からも太守に封され、劉備も欲しがった鬼道の指導者であるのです。病気治癒だけでそれはなせないでしょ。
また、曹叡は不治の時に祈祷師を呼びましたが効果なく、巫女を処刑しています。皇帝でさえ当時は巫女を呼ぶ時代なんですね。
魏は鬼道を受け入れてる国です。
倭、独自の大衆に人気ある鬼道であるならもっと詳しく説明してあります。曹叡は誰であるのか解って対応していると判断しています。
最後に列島は流れて来たものも多いでしょ、別に淮南子を読んだ巫女が来て布教しておかしいですか?宇佐神宮なんて香春思想でしょう。
詐欺師徐福まで称えておる国だよ。 徐福が日本に渡来したのではないかという中国の伝説は日本にも伝わり、多くの伝承が創作された。
「昔話の主人公」と「異国人がってきて王族を差し置いて国家を預かる」を何で同列に扱うの?
世界大百科事典
中国において,鬼とは本来死者の霊魂,幽冥の世界における霊的存在を意味し,天界,人界を貫く原理法則をそれぞれ〈天道〉〈人道〉というのに対して,鬼神の世界を貫く原理法則を〈鬼道〉という。
また,帝王の主宰する万神の祭壇の八方に設けられる鬼神の通路を文字どおり鬼道と称する。
一方,巫覡(ぶげき)などの行う呪術および【国家非公認の呪術的宗教などもまた鬼道】といわれる。後漢末から三国魏の時代にかけて,四川,陝西両省にまたがる一大宗教王国を築いた五斗米道教団の第3代教主である張魯は,主として符(おふだ)や呪水といった呪術的方法を用いて病人の治療を行い,その勢力を拡大していったが,当時の史書は【張魯の教法を鬼道】と決めつけている。
非公認呪術宗教の中に五斗米が含まれ、異国人(倭人)のシャーマニズムなども当然、鬼道である。
お前の論理はリンゴは赤い。赤いのはイチゴ。だからリンゴ=イチゴと言ってるようなもの。ただのアホ。 >>368.邪馬臺は海人族ではありません。海人族が山奥に行きません。
3世紀に勾玉のかたちを変えた者等が現れたということです。
邪馬台はヤマトでは無いとする者もいるでしょうが僕はヤマトでもいいと思います。
邪馬臺は山の人のいるところ、即ち山人、それは仙です。仙の臺が邪馬臺とも言えます。 >>377
箸墓の年代は、歴博の犯罪的行為が無ければ推定4世紀なのですがそこはどうすんのよ?
箸墓ありきのあんたの説は根本からしておかしいんだけど。 >>376、これは想像力も感性もないな。答える必要性も感じない。勘弁な。 歴博の犯罪的な行為が間違っているなら、成り立たないわな。
あなたが犯罪的な行為と思うのと同じ位、箸墓は道教の巫女の墓と確信してるよ。 前方後円墳は大仙までは続く。倭五王の墓であろう、とは誰もが否定しないであろう。だか倭五王の名は中華名の1字王だからね。 >>379
間違いの核心部分だから答えられんわな。 核心?ハハハハ。ますます、答えても無駄な相手だね。
ただ最後の二行はいいね。張魯の集団は中華では鬼道と決めつけている。
鬼道=道教じゃないか。
あなたの辞書には書かれてないね。 >倭五王の名は中華名の1字王だからね。
避諱だろ。大王の本当の名を伝える訳がないw タリシヒコわ?
倭国以外の国わ?
色々いうが、自分の説でこちらをやり返しなさい。まず、邪馬台はどこで根拠を説明しなさい。 道教の中で異端の五斗米が鬼道と呼ばれる。
鬼道 ≠ 道教
中華にとって神道も異端であり鬼道と言われた。
お前の論理はリンゴは赤い。赤いのはイチゴ。だからリンゴ=イチゴと言ってるアホバカ。 情報操作に直ぐに騙されるタイプだな。
あなたの説は知ってる。
あの神社、卑弥呼神社だろ? 古韓尺、気持ちはわかる。
張魯の教団は異端じゃあない。今日の道教の中心的存在の一つだよ。
曹操は才能を大事にする人物(陳平を広告に使う)。男女の隔たりもない。魏で天后とされる琪瑛、水神であり治水の神、理系だな。張魯は216年に没する、その翌年に男で自殺なぞするような女を曹操は認めない。
217年、卑弥呼は列島に向かったのだよ。 ちょっと、高所から眺めれば一目瞭然、北、東、南からの水は生駒と金剛の間から流れでる。
東高西下は奈良盆地。
中華の使者ならすぐそう思うだろ。 奈良盆地を見てい一番に思う事かよ。
まともな奴なら四方が山だな。だろう。 >>385
アメタラシヒコを時の王の実名と思っているヤツがいるとかw 「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつ そんな常識をドヤ顔で書かれても困るけど例えるなら
浦嶋太郎、金太郎、桃太郎、キャベツ太郎とかたくさんいる中で忌避で
「太郎です」って答えただけだよ。 いや「タラシヒコ」軍団でしょ
先祖代々の称号ですよ 称号でもいいよ。名前じゃないんだから。
俺が言いたいのはいくら中華様の使者とはいえ
「大王の本当の名を伝える訳がない。」なんだ。
卑弥呼だって名前と思ってる奴はいないだろうに。
トヨは例外かも知れん。
また卑弥呼と答える訳にもいかなかっただろうし名前の一部かも。 玄宗代における唐から日本への国書より、その時の唐は日本国君主の名を「主明楽美御徳」と誤解していたことが分かります。「主明楽美御徳」は「スメラミコト」で、日本国君主の称号の訓読みです。
これらもそういう事だろ。みだりに口にしない。常識。 >倭五王の名は中華名の1字王
だからこんなの笑っちゃう訳ですよ。だから何だと。 義経=ジンギスカン説ほどによくできてもない。
正直、現実味もまるでなければ面白みすらない。 景行天皇のタリシヒコは、現代では諡号として扱っているが、本来は生前の称号であったと考えられているはず。 どうかなぁ?孝昭天皇の皇子にもアメタラシヒコいたような。 しっかしひどいな。中華卑弥呼の野郎、三国志はやたら詳しいが日本古代史はからっきしだな。あんなアホバカ妄想が出来るのもうなずける。 >>404
古き名を再び使うのは一種の美意識でしょ。
では初代は誰かというと、タリシヒコなら景行になるわけで。
イギリスにチャールズ、フランスにシャルルが歴代何人もいるのと同じ。
それなのに日本の歴史になると実在性がとか諡号がとか、変な話になる。
少なくとも、昔の天皇家は景行あたりも実在性を疑問視などしていなかったわけです。
だから偉大な祖先の名前であるタリシヒコが何度も使われる。
成務の若タリシヒコは、単にタリシヒコの息子という意味ですけどね。 >>406
ほぼ同意するがアメタラシヒコは天を満たす(=太陽)男王のような意味だろう。
天垂彦なら天孫的な意味か。何度も使われても不思議はないがタラシ王朝とか眉唾。 世間ではタラシ王朝とは河内の王国の名前らしいね。
しかし景行は九州に攻め込むし、仲哀はずっと九州と山口にしかいなかった。
あえてタラシ王朝と呼ぶのなら、それこそ筑紫倭国の歴史を継木しただけ。 鬼の首でもとったつもりか?
「倭王姓阿毎字多利思北狐號‥」つまり、隋には嘘をいい、倭国ではこの名は王として通用していないというのかな?倭王瓉~武も倭国で瓉王というと笑われたのかね?
卑弥呼を邪馬臺で卑弥呼女王と言ったところで誰も知らず笑われたのかね?
中華も皇帝であり、えいせいとは呼ばないよ 一度君らの聞いてもしょうがないような自説を聞きたいね。 お前が戦国時代の小説を書いたら
秀吉に「信長様〜」とか平気で言わせるんだろうなwww 返答になっとらんぞ。
「倭王姓阿毎字多利思北狐‥」。 倭が姫は一代限りなのでその後どうなろうが構わんのだが、
>>413.日本は倭の別種には同意しますね。
倭武王の上奏文と比べれば余りに質の違いで違う人達が解るね。中華の賢い連中も直ぐに疑いますね。 新唐書の百済のところでも「百済は扶余の別種なり」と書かれている。
この百済王の名前を見ると「扶余璋」であったりと扶余の文字が見える。
もし、百済と扶余が日本人が意味する【別種】ならば、これは変だ。
同じ種か一種であるから、百済王の名に扶余が入るのだ。
「日本は倭の別種」とは「日本は別の国だけど同じ種」
あるいは、「日本は倭の別名」と翻訳するのが妥当。 >>411
>隋には嘘をいい、倭国ではこの名は王として通用していないというのかな?
ある程度の身分の物なら皇族の名前だとわかるだろうね。
>倭王瓉〜武も倭国で瓉王というと笑われたのかね?
笑うかどうかは知らんが、その報告に関わった人間以外には意味がわからない。
>卑弥呼を邪馬臺で卑弥呼女王と言ったところで誰も知らず笑われたのかね?
笑うかどうかは知らんが、「あ〜日巫女様の事かな?」あるいは「皇女(みめみこ)様の事かな?」と思うだろう。
>中華も皇帝であり、えいせいとは呼ばないよ
よくわかってるじゃないか。何が言いたいんだよwww >>419
それはお前さんの別種という言葉の定義が間違っているだけ。
中国語の文献において中国人が使っている用法が正しい。
別種でも同じ姓でいいということ。
アマという姓を九州でも本州でも使っていて構わない。
むしろ姓が同じだからこそ、元は同じ別種と認識できる。 >>421
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。 >>419
倭というのは地域
現代で例えると、東洋とかオセアニアとかいう呼び名
その倭の地域に倭国があり、秦王国や日本国もあったという意味 >>334
これは酷い。万世一系は乙巳の変の正当化する為だとすら言われているのに。
この程度だから卑弥呼が中国人とか言えるんだね。酷すぎる。 ハハハハ、君らが思ってることを正当化する為だと思うがね。 尾張は東西北と、伊勢遺跡は南北と交易したが、大和纒向は東としか交易しなかった。
河川交通が内陸の物資輸送の中心だった時代に、大和川も淀川も利用できなかった。
東の山を越えた交易と言っても、今日ですらそこは難所の一つ。
古代において大規模な交易などできるはずもない。 ホケノ山古墳も4世紀では?
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>435
4世紀に見えるな。
これを3世紀だとするのは恣意的すぎる。 特定の遺跡だけ入念に見てもわかんないな
他はどうなのよ?
普通このくらいの誤差なら信用するしかないわけで >>437
誤差の幅が100年以上あって、中心が4世紀なんだけど? >>438
なんでそんな幅広いんだ?
他の遺跡はどうなのよ? >>439
>なんでそんな幅広いんだ?
これが普通だよ
そして実際の年代より古く出る傾向がある
本来は最も新しい年代を目安とするべき >>440
俺が年代測定法の事なんて知らんし漠然とそんなもんかと思ってるけど
基準は揃えないとダメだよ 俺が推してる伊勢遺跡も一世紀後半から二世紀後半と
かなりピンポイントで特定してるけど何故そうなのか知らん ホケノが卑弥呼より100年は新しいというのは大昔にこのスレで出て、久しぶりなネタだけどね。
皆が忘れた頃にしれっと3世紀として持ち出すのが畿内説のやり方ってわけだ。 >>443
他がわからんから何とも言えない
ふるいにかけるのも目の大きさが違ってちゃダメでしょ >>443
古墳の築造年代より、古墳の構造・副葬品を見れば一目瞭然。
「ホケノ山古墳」も、埋葬構造(葺石・石囲い石室)、水銀朱や勾玉、鉄器などの副葬品などから、
畿内へ進出した大和忌部のお墓だと一発で分かるものをww
トンデモどもは、未だに悶えている。 わははははは @阿波
大和忌部って何や?大和国高市郡忌部を本貫としたのが太玉命を祖とする「忌部氏」の本宗やないか。
分家?傘下?の阿波忌部が何で出しゃばってんの?
それは、〇〇忌部、それは〇〇物部。全部自分の説地域発祥。
まるで現在の半島人の思考。 >>446
>大和忌部って何や?
「倭人(阿波勢力)」の一派だ。 わははははは @阿波 日本@名無史さん(略)@阿波さんは、
「倭人(阿波勢力)」と言う妄想に魅入られて取り込まれてしまったかわいそうな人なんです。
まともなやり取りは期待できません、
そっとしてあげて下さい。 本来なら、倭人>阿波勢力なのですが、
なぜか阿波勢力=倭人という妄想に囚われております。
この点だけは、彼が他の阿波説論者と一線を画すところでもあります。 小松島は、海原に、鴎立ち立つ飛鳥の地。
小松島は、香具山・畝傍山・耳成山(日の峰山・中津峰山・津の峰山)の並び立つ飛鳥の地。
小松島は、飛鳥の宮が在った微高地。 わははははは @阿波 飛鳥宮は、弥生小海退により、現在海水面より2mぐらい海水面が低かった時代の、
微高地に立地する小松島市周辺とさぬき市津田に在った。 @阿波 >ちなみに大林町の東宮や西宮は現在海抜2m以下の低地です。
大ウソ詐欺師の板野の売郷奴。
大林町の東宮や西宮は現在海抜2m以上の微高地です。 わははははは @阿波 地理院地図で標高表示させられるから調べてみたらよろしい、 いずれにせよ、海岸沿いの微高地に王宮があったなどと言う妄想はおまはんしか支持しとらん。 大ウソ詐欺師の板野の売郷奴。 わははははは @阿波 ただの思いつきの珍説から更に妄想を膨らませてしまい、
阿波説論者からも迷惑がられる可哀想な人。 常世の国の意味も知らずにパラダイスのつもりで常世の国を連発するのもどうかと思う。
もしかして、周りくどい方法で阿波説のアンチ活動を行なっているのでは無いか? >>457
倭国(阿波)は、遺跡が証明している。
大ウソ詐欺師の板野の売郷奴は、口先だけの雑魚。 わははははは @阿波 地理院地図の標高データによると、東宮神社は1.2m、
西宮神社は1.1〜1.3m、
蛭子免の事代主神社が1.8〜2.1mですね。
東宮神社の所に遺跡が有れば、県道の整備工事の時に何か出てきていても良い筈ですが、
今のところそのような資料は見つけられません。 >>459
>地理院地図の標高データによると
騙したつもりか?
そのデータの時代はいつや? 大ウソ詐欺師の板野の売郷奴よ。 わははははは @阿波 国土地理のデータも信じないのではどうしようもないですね、
妄想の世界を一人で楽しんでくださいませ。 >>460
>地理院地図の標高データによると、東宮神社は1.2m、
>西宮神社は1.1~1.3m、
>蛭子免の事代主神社が1.8~2.1mですね。
だからなんだ?
今の徳島市でも、そんなもんだがww 間抜けの詐欺師よ。 わははははは @阿波 飛鳥宮は、弥生小海退により、現在海水面より2mぐらい海水面が低かった時代の、
微高地に立地する小松島市周辺とさぬき市津田に在った。 わははははは @阿波 >>464
逃げる準備か?
>地理院地図の標高データによると、東宮神社は1.2m、
>西宮神社は1.1~1.3m、
>蛭子免の事代主神社が1.8~2.1mですね。
だからなんだ?
今の徳島市でも、そんなもんだがww 間抜けの詐欺師よ。 わははははは @阿波 小松島市に飛鳥時代の京があったって話、
阿波国古代研究所の中の人も、流石にこれは無理って諦めたんではなかろうか、
那賀郡大林村にかつて飛鳥祠があったと言う記録だけではどうにもならん。 >>465
今の徳島市の新興住宅地と古代の王宮が同じレベルなんですかね?
徳島市の低地の住宅地、よくそんな所住宅地として売るなあ、
不動産屋悪どいと思ってしまうんですか。 >>467
>今の徳島市の新興住宅地と古代の王宮が同じレベルなんですかね?
別に徳島市に限った話ではなし。 全国にそんな所、わんさとあるがな。 間抜けの詐欺師よ。 わははははは @阿波
>>469
飛鳥時代の話なんだがww 今と変わらんのだが?
お前の頭は、縄文海進。 わははははは @阿波 今と変わらんとして低地である事に変わりは無い。
離宮ならまだしも王宮はあり得ません。 小松島市の豊浦町は、江戸時代の干拓地なので、
古代は事代主神社の周りは低湿地、北側の今の豊浦町辺りは干潟が海ですね。 >>471
>今と変わらんとして低地である事に変わりは無い。
全国にそんな所、わんさとあるがな。 間抜けの詐欺師よ。 わははははは @阿波
>>473
>干潟か海ね、
板野よ、詐欺はやめろ! @阿波 そう言う立地の王宮は他に有るんですか?
離宮ならまだわからんでも無いですが、
恒久的に住む王宮を作るのは論外でしょう。
話を逸らさず、ちゃんと考えて下さいね。 >>476
>そう言う立地の王宮は他に有るんですか?
どあほ! 「阿波」以外にあるかい! 間抜けの詐欺師よ。 わははははは @阿波 >>476
>恒久的に住む王宮を作るのは論外でしょう。
だれがそんなこと言うた?
讃岐の津田へ行ったり、鳴門の木津へ行ったりして遷宮しとるわ。 ただし、遷都とは違うぞ! おっちょこちょいよ。 @阿波 そんなら東宮神社周辺で何か遺構は出たの?
県道の整備工事の時に出てもおかしくないんだが、
そのような報告を目にした事は無い。 >>479
>そんなら東宮神社周辺で何か遺構は出たの?
東宮神社周辺がどうかしたのか? わははははは @阿波 結局、無神を頂く無神教が一番いいと思います。
恐らく、全てを容認できる人間になれるでしょう。 北部九州が、阿波と同じく温暖で有る事を一向に認めようとしないのは何でだろうね?
よっぽど都合が悪いのか? >>484
論破されまくって、すがるところがそれしか無いように見受けられます >>484
>北部九州が、阿波と同じく温暖で有る事を一向に認めようとしないのは何でだろうね?
植生だと何度言えばいいのか?認知症じゃ無いのか @阿波 >>490
誰一人として学問的・遺跡的に反論出来る者なし。 わははははは @阿波 >>492
なっ、
誰一人として学問的・遺跡的に反論出来る者なし。 わははははは @阿波 >>491
大麻の吸いすぎで幻想を見ているようだのう >>494
なっ、くだらんことしか言えんだろ。
誰一人として学問的・遺跡的に反論出来る者なし。 わははははは @阿波 なっ、売郷奴のアホも黙るだろ。
誰一人として学問的・遺跡的に反論出来る者なし。 わははははは @阿波 >>487
北部九州は温暖で、クスノキもタチバナも自生してます。
この2点において阿波と決定的な差は無いと思います。
一度言い出して引っ込みがつかないのは分かりますが、
そこは認めないとどうしようもないですよ。 >>497
こいつ、売郷奴だな。 わははははは @阿波 >>498
>北部九州は温暖で、クスノキもタチバナも自生してます。
だったら、バナナも北部九州で自生だな。 わははははは @阿波 >>501
倭人伝にバナナは出てこないので阿波はアウト >>498
>北部九州は温暖で、クスノキもタチバナも自生してます。
だったら、バナナも北部九州で自生だな。
移植と自生をいっしょにするアホの売郷奴。 わははははは @阿波 縄文時代は弥生時代より温暖だったので、日本列島内なら余裕で自生可能です。
もっとも九州や四国南西部は、鬼界カルデラ破局噴火により、
壊滅的な打撃を受けていますから、
その後再び何百年も掛けて植生が復活したと考えられます。
一旦北上した自生北限が、だんだんと南下してきだと考えれば、
北部九州に自生しててもなんの矛盾もないかと。 >>506
自生は無いね、
幼稚園の園庭に植わっていたけど、
実をつけるのをみた事は一度もない。 >>508
実家が北部九州だったけど庭にバナナの木はあったよ、同じく身が成る事は無かったけど 阿波は魏志倭人伝に書かれていないバナナ自慢で自爆して遁走しました >>506
>阿波はバナナが自生しているのか?
移植してビニルハウスで自生しているよ。 それが自生ならば。 わははははは @阿波 >>507
>縄文時代は弥生時代より温暖だったので、日本列島内なら余裕で自生可能です。
こいつはどこまでアホなんだろうか? 「魏志倭人伝」は縄文時代と思っているんだろうか? @阿波 関係ない例を出してきて煙に巻くのは詭弁の一例。
間違いは素直に認めてやり直した方が傷は少ないのになあ。
まあ、それが出来ないから拗らせている訳だ、 >>514
3行以上の文章は理解出来ない様やな^_^ なっ、売郷奴のアホも黙るだろ。
誰一人として学問的・遺跡的に反論出来る者なし。 わははははは @阿波 >>503
> だったら、バナナも北部九州で自生だな。
>
> わははははは @阿波
なぜバナナの話を持ち出した? >>515
>関係ない例を出してきて煙に巻くのは詭弁の一例。
そらは詐欺師のお前の得意技。 わははははは @阿波 >>518
>なぜバナナの話を持ち出した?
売郷奴のアホが「クスノキもタチバナも自生してます」と詐欺をはたらいたからさ。
「クスノキもタチバナも北部九州で自生するなら、バナナも自生すると言ったまで。
それが「自生」といえるのであればな。 @阿波 先生に怒られて、ほなけんど伊太乃さんもやってるんです〜って、
言い訳にもならん言い訳しとる子どもみたいやなw >>521
「クスノキもタチバナも北部九州で自生するなら、バナナも自生すると言ったまで。
それが「自生」といえるのであればな。 @阿波 >>520
楠も橘も北部九州で自生していると何度も論破された記憶が無いようだ。随分と認知症が進行してるな。 >>523
>楠も橘も北部九州で自生している
バナナやパイナップルもな。 わははははは @阿波 >>522
北部九州にタチバナやクスノキは自生してないと言う判断が、そもそもおまはんの思い込み。
なんでそう勘違いしたんだろう? 卑弥呼の時代にも存在していたクスノキ(樹齢1800年以上)
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認 >>527
自生してないって言い張っとるのはおまはんだけだろ、
おまはんが、学術的な証拠を示して。 >>529
「日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A >>529
「日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、
九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A
自生地は黒潮沿岸だな。 @阿波 >>530
九州って事は、北部九州も含まれとるんとちゃうの? >>531
四国、九州は全域、本州は山口、和歌山、三重と書いてあるな。
北部九州に自生してないとは何処にも書いてない。 記紀に書かれているイザナギが禊をした場所が筑紫の橘だから、橘は自生していたのだろう >>528
>阿波の楠は樹齢1000年で800年ほど足らない
年輪を見ないと正確な樹齢なんぞ分からん。 アホか! @阿波 >>531
おまはんのリンクしたウィキペディア読む限り、
北部九州に自生してないとは書いてないんだけど?
何処で間違えたん? >>533
>四国、九州は全域
また詐欺をやり始めたww 恥ずかしいわ。
全域ってなんや? 剣山もか? 詐欺師よ。 @阿波 >>535
これまでに伐採した木の年輪データくらい、どこかにあるんだろ。 >>536
>北部九州に自生してないとは書いてないんだけど?
南九州に自生しているとも書いていないが? 詐欺師よ。 @阿波 四国、九州は全県の海沿い、
本州では、和歌山県、三重県、山口県の海沿いの地域。
北部九州には自生してなくて、山口県には自生しとるって話にはならんわな。 >>540
九州、四国は県の指定が無いんだから、
全県の海沿いが自生地という事。 >>536
>北部九州に自生してないとは書いてないんだけど?
南九州に自生しているとも書いていないが? 詐欺師よ。 @阿波
お前はイチャモン言うのが精一杯。
常識的に考えて、黒潮沿岸地域だな。
お前は非常識だから、北部九州にバナナやパイナップルが自生する説だな。 わははははは @阿波 >>535
幹周 21m 福岡県築上郡築上町本庄
幹周13m 徳島県東みよし町加茂
阿波の楠は随分と小ぶりだなあ、盆栽かよ >>541
>四国、九州は全県の海沿い、
常識的に考えて、黒潮沿岸地域だな。
お前は非常識だから、北部九州にバナナやパイナップルが自生する説だな。 わははははは @阿波 山口県でも自生しとると書いとる、
山口県には黒潮が流れとらんだろ。 >>541
>山口県には自生しとるって話にはならんわな。
対馬海流(黒潮の分かれ)沿岸だ。
常識的に考えて、黒潮沿岸地域だな。
お前は非常識だから、北部九州にバナナやパイナップルが自生する説だな。 わははははは @阿波 >>542
>九州、四国は県の指定が無いんだから、
>全県の海沿いが自生地という事。
常識的に考えて、黒潮沿岸地域だな。
お前は非常識だから、北部九州にバナナやパイナップルが自生する説だな。 わははははは @阿波 >>546
>山口県には黒潮が流れとらんだろ。
北部九州でも、五島あたりは対馬海流だから自生の可能性がある。 @阿波 なっ、売郷奴のアホも黙るだろ。
誰一人として学問的・遺跡的に反論出来る者なし。 わははははは @阿波 植生はウソをつかない。
売郷奴はウソばかり。 わははははは @阿波 現代の話になるがみかんの生産量が九州の各県より劣るのが徳島。 日本海側のタチバナの自生北限地は長門市の青海島、
この島より南にある福岡県で自生してないという合理的な理由が無い。
日本@名無史さん(中略)@阿波氏の主張は合理的でない、
単なる主観のゴリ押し。 >>554
>現代の話になるが
現代の話になるが、倭国(阿波)も後進県となってしまった。 @阿波 >>555
>この島より南にある福岡県で自生してないという合理的な理由が無い。
合理的な理由が有る。 対馬海流(黒潮の分かれ >>555
>この島より南にある福岡県で自生してないという合理的な理由が無い。
合理的な理由が有る。 対馬海流(黒潮の分かれ)沿岸でないから。
売郷奴のアホは、すぐ緯度で判断するバカ。 @阿波 立派なクスノキは普通切るんだし池上曽根遺跡の井戸のクスノキを
九州から運んだなんて言ってる奴もアホ
放ったらかしで朽ちさせてもなんも良いことはない >>560
>対馬海峡は福岡沖も流れてます。
離れすぎ。 @阿波 >>556
そもそも阿波のどこに橘が生えていたんだよ、阿南辺りじゃ無いのか >>562
離れすぎ?その根拠は?
長門市の青海島も、あんまり変わらんでよ? >>563
>そもそも阿波のどこに橘が生えていたんだよ、阿南辺りじゃ無いのか
阿南に限らず、大概のところに生えているよ。 @阿波 >>563
ウィキペディアに、香川県に生えて無いと書いてないから、
四国地方の沿岸部は自生範囲なのでしょう。 >>565
>離れすぎ?その根拠は?
タチバナが自生しないから。 @阿波 >>566
卑弥呼の時代に生えていた証拠はあるのか? 結局は、北部九州が温暖だと自説に都合が悪いから、
北部九州は温暖で無い事にしたいと言う願望でしか無いわけですね。
分かりました。 >>567
>ウィキペディアに、香川県に生えて無いと書いてないから、
ウィキペディアに、香川県で自生するとも書いてない。 つまらんことを言うな!どあほ @阿波 みかんの生産に適しているのは徳島ではなくて日差しの強い九州全域 >>572
「魏志倭人伝」の時代にタチバナが野生していたのは、黒潮沿岸地域。 @阿波 >>571
本州は県で指定しとるのだから、
香川県に生えてなければ、
四国地方も県で指定するんとちゃうの? >>575
>四国地方も県で指定するんとちゃうの?
書いた人に聞け、ボンクラ。 @阿波 >>571
こちらはおまはんの示したウィキペディアに書いてある事を基本に話ししとるので、
もし他にもっとええ資料があるならそれでも別に良えんよ。 >>576
こちらはおまはんの示したウィキペディアに書いてある事を基本に話ししとるので、
もし他にもっとええ資料があるならそれでも別に良えんよ。 >>581
その資料は「福江市」って書いてあるな。
長崎県には違いないが、五島列島の話である。 大体、この場合の橘が、日本在来種の橘をさしているのかどうか・・・。
その辺から話始めなきゃ埒が明かないんでないの? >>583
島原半島にも自生していたが消滅したともあるな、失礼。 >>584
「魏志倭人伝」の時代にタチバナが野生していたのは、黒潮沿岸地域。 @阿波 >>586
根拠は無いのに図々しいにもほどがある。 >>586
お前が何のつもりでバカやってるのかは知らないが
藤井も徳島商工会議所青年部も「お前さえいなければ」と思ってるよ。 >>591
>藤井も徳島商工会議所青年部も「お前さえいなければ」と思ってるよ。
なっ、
誰一人として学問的・遺跡的に「阿波」に反論出来ないだろ。 わははははは @阿波 橘の花散る里のほととぎす 片恋しつつ鳴く日しそ多き
大伴旅人が太宰府で詠んだ歌 >>593
そりゃ、奈良時代に常世の国(阿波)へ「非時香果」(タチバナ)を採りに行ったぐらいだから、
全国で「非時香果」(タチバナ)を植樹したことだろう。 @阿波 >>578
>もし他にもっとええ資料があるならそれでも別に良えんよ。
「橘の分布範囲は台湾から南西諸島を経て九州、四国、本州の太平洋側となっている。」 @阿波
https://www.spf.org/opri/newsletter/387_2.html >>594
持って来たとしたらイザナギが禊をした橘あたりからだろうね >>600
>非時香果は垂仁天皇だろ?
という説もあるが、間違いだろう。 @阿波 >>599
イザナギ 立証できない
記紀の世界だな。証拠すらならない >>597
山口県の自生地について一切言及が無いな。
学術的な論文でも無いし、ソースとしては不十分では? >>599
>持って来たとしたらイザナギが禊をした橘あたりからだろうね
阿南市橘あたりだな。 @阿波 >>604
今度はお前が北部九州が「倭地温暖」だというソースを出す番だ。 @阿波 国司がいる阿波が「常世の国」とか辺境丸出しwww
アホバカにも程がある。 和歌山、三重
東へ千里渡海 静岡
やっぱ、近畿だな。
丹もある。絹も、ト骨も、鉄もある 何がイザナギだよ?
みかんぐらい誰でも何処でも運べるわ >>595
佐賀の伊万里にあった香橘神社の社伝では垂仁天皇の代に天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬と称された非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘のこと)を持ち帰った田道間守命が帰途この地に非時香菓を一株植えたという言い伝えがあるので阿波には行っていない。阿波からの帰途で佐賀に来る事はない。
https://i.imgur.com/kZc5ra3.jpg イザナギが云々言うのは間違い説の九州王朝説か阿波説だろう。 >>610
田道間守命は、奈良時代の「但馬の守」だ。 @阿波 >>610
阿波の味方はしませんがそれ嘘です。だいたい神社の創建年は?
本当の由緒は「四十八代称徳帝之御宇、常世ノ国より橘を献す。其船当津に着岸し、岩栗の景勝清浄の地なるを賞して、橘の実を植へ、普陀落観世音の尊像を安置し奉る、 其後、橘ノ嶋田麿歌枕に来て土人に此説を聞て曰、往昔吾祖父諸兄公に橘を賜て始て姓とすれは因縁あり」 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. ここまで阿波に橘が生えている証拠無し、写真でもウプしろや >>618
まぁ、「阿波」のタチバナと言えばスダチだな。 わははははは @阿波 >>618
三重県
://www.mie30.pref.mie.lg.jp/eat/4944 >>620
スダチは黄金色に輝く実ではない、はい論破 >>623
みかんも鉄も「阿波」なんだけど。 わははははは @阿波 竹取物語やね
石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬萊の玉の枝」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持って来させる話があるよね
偽物を持って来たり、両目が李のように腫れたり
蓬莱の玉の枝は常世の木の枝かもね
仏の御石の件は筑紫の君磐井に関係がある?
眼にバチが当たるのは五色の石神の眼に関係してそうだ >>624
>スダチは黄金色に輝く実ではない、はい論破
わははははは まじで食いついてきてるよ。
食いつかれついでに言うと、スダチも熟れると黄金色に輝く実だぞ。 @阿波 >>620
おいおい、平安宮左近の橘はスダチなのか? >>631
そんな後世の平安宮のことなんか知らんがな。 わははははは @阿波 日向の髪長姫の件で歌がやりとりされる
いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香細し 花橘 下枝らは 人皆取り 上つ枝は 鳥居枯らし 三栗の 中つ枝の 含隱り 赤れる孃子 いざさかば 良な
橘は真ん中は含隠りして、上と下はもうないようだ
その後道の後、道の後と歌われる
橘は耳と関係がありそう
髪長姫は赤と関係があるようだね 貴族らは王権の象徴を誤魔化して色々罪を重ねて来たようだな >>634
まぁ、話を元に戻せば
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!ってことだ。 @阿波 >>637
>阿波の相手はもう辞めた、達者でな。
まともに「阿波」に反論できないからな。 またおいで。 わははははは @阿波 >>637
賢明な判断。論破されてもそれを忘れて同じコピペを繰り返すから永久に終わらない。 >>642
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!ってことだ。 @阿波 日向の髪長姫のお供が角のついた鹿皮の服を着た人たち
兵庫の加古川の由来にもなっている
東北の伝承に出てくる龍の黒神と戦った、鹿使いの赤神と関係があるかもね 畿内説は自説の証明をせず中傷を繰り返すばかり
多説への批判も、訳の分からないことを根拠に妄想を繰り広げる >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>656
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)
帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム) >>660
福岡平野(末盧国←伊都国【一大率】→奴国・不弥国)→女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種
↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里
筑紫平野(卑弥呼・男弟→祇園山・ダンワラ古墳)
↓
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(卑弥弓呼)
JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ! 帯方郡南に行っても
斉州島 南下しても
海である。 >>660
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆ >>664の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」 >>665
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上(刺し違え2体)確認されている祇園山古墳を比定。 馬牛いない?
カラカミ遺跡、遠賀川等に馬の骨出土
其餘旁國遠絶 不可得詳
確認できなかっただけだな。 松浦想定地
明らかに他の千里と違う。
東千里の倭種
どうやって測る?
倭種の地まで行ったのか? >>660
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、甕棺墓の殉葬者66人(差し違え2体を含む)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`) >>666
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>674
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>676
ワ(もしくはイ)としか読めない倭、ダイワとしか読めない大倭(大和)をヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。 6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。 @阿波 >>678
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子(倭→和へ書き換え=和を以て貴しとなす)」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧(熊本県玉名市和水町前原の石原家文書)
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長 今城塚古墳に眠る大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
もしかして、中身も一緒に??? >>681
今城塚??あっ、継体陵の阿蘇ピンク石棺!!そういうことかっ!! >>680
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に帯方郡の鉄の独占輸入権要請→親魏倭王金印】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) >>665
>裸国フィリピン
一連の富裕層強殺の指示役「ルフィ」送還のニュースで見たけど、フィリピンの刑務所ってみんな上半身裸なんだよね。
>黒歯国パプアニューギニア
ウィキによると、
「研究者によっては、インドネシアと関連する国ではないかと考察されており、論拠として、インドネシアではベテルチューイング(日本ではキンマと呼ばれる)という檳榔樹と石灰で作ったガムのようなものを噛む習慣があり、時々赤黒い汁を出しながら話をするとされ、『三国志』の記述にある水路の行程・地理からも指摘される」ピッタリ! 大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。
江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。 【平原遺跡の年代】
副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
特に耳璫は女性専用の飾りであると考えられている。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢との交流が途絶えた倭国乱より後の様式である。
技術的には古墳時代に多くみられる国産の大型内行花文鏡に属する。
玉と鏡に五尺刀を一振りだけ加えてあえて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王の地位にあったことがわかる。
寺沢薫氏ら畿内説の学者を含め、平原遺跡が王墓であることに反対している学者はいない。
平原の管玉と同類のものは日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は共伴している土器や鉄器から3世紀前半から4世紀と考えられている
耳璫は漢末六朝初期(2世紀末~3世紀)に流行した形状である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。
周溝から出土した土器片が庄内並行期と見られることから、200〜250年頃である。
鏡の編年で言えば、舶載鏡であることがほぼ確実な内行花文鏡・虺龍紋鏡の「長宜子孫」銘は漢鏡最後の第六期(〜190年)に多く見られるものであり、平原遺跡はそれ以降といえよう。
また、国産の超大型内行花文鏡はその後の畿内の前方後円墳から出土する大型内行花文鏡の先駆けである。
結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
卑弥呼の前の倭王は男王とされているので、その年代の倭国女王は卑弥呼と壹與しかいない。 >>688
古代日本、古墳、平安期迄の支配体制の構造は、
軍事統一と言える信長まで
面での支配ではなく、支配者の点の連携である。
魏の東夷政策は、呉と結んだ公孫氏を滅ぼし、
直後に朝貢した卑弥呼と同盟の後、韓王朝を滅ぼした。
魏の東進は、200BCからの青銅輸入、
植民、鉄輸入等親交が有った日本には受け入れられない。
卑弥呼=筑紫21国が、魏帝の檄、黄幢を蹴って
三国志に参戦しなかったのは、半島の次は九州という
対魏覇権主義防衛の必然性で、日本海ルート、本州勢力と
軍事共合する必然性が有ったからである。
これが、防人=一大率の役割である。
この間、九州と本州が戦争とか、東遷とか
そんな余裕は存在してはいない。
筑紫周辺21国は、壹與の後見、難升米他の将軍?
の合意で、本州と対魏防衛で結束したのである。
世界史レベルで、
大和朝廷成立に到る最大のイベントなんだが?
なんで、どーでもいい、
探検時の仮称国名(筑紫21国)邪馬台国での
畿内対九州論争なの? 何を言ってるのか、判ってるのかな?
三国志倭人伝には、
倭国卑弥呼が、魏の東夷政策での
中国三国志覇王である、魏帝の同盟国として
筑紫卑弥呼に対する245年時の韓制圧戦での
参戦要請、この、檄と黄幢を蹴った事が記されている。
前線である九州が一大率=防人を受け入れ、
日本海ルート諸国、瀬戸内海諸国と競合して、
対魏で日本の防衛に向かうのは当り前の歴史である。
なんで? 倭人伝が九州対畿内論争になる?
南も東も無い、倭人伝の場合の筑紫は畿内なのか? 陳寿の話
魏時に二回あった遣使による、
貴重な話で、その報告書によると帯方郡から倭に至るには・・・
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06 有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里
08 多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10 浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13 東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14 東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
ここまでが、247年
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、伊都迄来た、張政の報告からの引用。
・倭人船の寄港地名を聞き漢字にして、その里程を記録した。
・帳政は、到と至をかき分けている。
・到 伊都國(常駐)で黄幢 拝假 難升米、檄告諭と 政等 以 檄告喩 壹與の要件は済んだ。
12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐 が、これの言い訳、証明。
・各集落の人口に関しては、有○○戸を使用した。
・梯儁の報告の引用である、次段によって、女王迄は萬二千里だが
張政の行程は、積算、萬五百里~萬七百里である。
残りの最大千五百里が、水行二十日と水行十日 陸行一月の計、という直列は在り得ない。
・謎の一月行については、陳寿の補足文での計算によって、二千里であることが判る。 15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
これが240年
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
の梯儁による、女王国の詳細、国勢(所属国)と地理に関する報告の引用である。
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
は、陳寿による補足説明である。
・梯儁は魏軍船による行軍で金印他皇帝からの并齎詔賜を届けたのであって
寄港地は特になく、盗賊や戦闘を避けるため幕営による進軍だったと思われる。
・投馬國、邪馬壹國、狗奴國八名ではなく、馬韓54国10万戸と同様の概念の国である。
・人口に関しては可○○戸を使用し、寄港地は名称不明なので里程は無く
馬韓4千里、弁辰韓3千里、渡海3千里は、各国の通過に要した日数の概略である。
・水行1万里で九洲島上陸だが、残りの陸行1月は、2千里であることは明瞭。
・女王国の所属国は次有21国で7万戸であり、 20 此 女王 境界 所盡
次有21回連呼で示した、此れが、女王国の境界 所盡である。
・盡と言う文字は、境界線ではなく全てを書き尽くしたという意味が有る。
後述、
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
によって、女王国は九州島の南北2千里にある21国で周旋可 五千餘里しかない小国だった。
これが、240年、初めて韓西岸から対馬海峡を渡った魏使梯儁の報告である。 長文コピペに読む価値はまったくないのは昔と同じだね。 帳政の行程の積算
帯方郡から積算1万5百里の伊都から、
残りの行程が直列した場合、
自郡 至 女王國 萬二千餘里
では、残りの行程、1500里は、
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
ですが?
陳寿は帳政の行程で九州上陸迄水行1万里を知っている。
残りの陸行一月が2千里でない可能性は有るか?
陳寿は、建中校尉梯儁の記述の
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
と言う記述で、
陸行一月が2千里である事を共有していたから
自郡 至 女王國 萬二千餘里
という、計算が出来た。
考古学には無理でも、小学生の
算数では、一月行は、2千里である。 いつも見かけるコピペなのか、新たな長文なのか
そのへん、はっきりして欲しい いちいち同じことを何度も説明させるからだ。
畿内説はとっくに破綻しているのに。 寺沢薫
「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。 倭人は里数を知らず、日数で距離を測る(未開人である)。
(隋書)
(もちろん、中華文明の人間はそのような無知なことはしないから、)
(郡使が実際に通過した経路である)女王国から北は道里を略載できる。
(魏志)
そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。
(魏志)
伊都に駐在した郡使が卑弥呼に謁見して金印を渡しているのだから、女王の都である邪馬台国は九州北部しかあり得ない。 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>701
お墓しかないのかよww がっかり九州。 @阿波 >>706
安心しろ。 畿内説もお墓しかないから。 よかったな、トンデモ同士。 わははははは @阿波 こうやって考えてみると、縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って稀有なんだな。
「阿波」以外に無いんじゃなかろうか? @阿波 布留遺跡
布留遺跡(ふるいせき)は、奈良県天理市布留町・三島町付近にある旧石器時代から現代まで続く複合遺跡。「布留式土器」(土師器)の出土により古墳時代前期の標式遺跡となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E7%95%99%E9%81%BA%E8%B7%A1 高天原に神ずまります
神漏岐、神漏美の命持ちて
皇御親神伊弉諾大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊祓給いしときになりませる
祓戸大神たち
諸々の罪穢れを
祓い給え 清め給えと申すことの由を
天津神国津神八百万の神達ともに
聞こし召せと
畏み畏みも申す
阿波剣山に神住まわれる
ソロモン・シバの神を持って
天皇の祖神、ナザレのヨセフ
福岡の日向の四国の鳴門に
祓い給いたいときにあります
鳴門の渦潮やお祓いの宇宙力の神達
~
という意味になるのかな 白山菊理姫はイザナギ・イザナミの叔母神であり、玉依姫にもなります
転生すると磐長姫(九頭龍)です
玉依姫は豊玉姫(木花咲耶姫の転生)と姉妹です
そしてそれが【潮満潮干の玉】で日本の紅白の起源なんです
か・・・
イザナギ・イザナミの叔母・・・
しかしなあ、伊弉諾大神は神社が淡路島だから、
剣山のソロモンとは違うんだよなあ・・・
やはり、伊弉諾大神はナザレのヨセフのハズだなあ・・・
すると、伊弉諾がヨセフで伊邪那美が聖母マリアとすると、
この、叔母とは?
アンナは聖母マリアの母、では、聖母マリアの叔母は?
ちょっと調べてるんだけどもヒットしないんだよな 「伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせた菊理媛神を祀る阿波」
阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
「阿波誌」に、「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。
菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とある。
なんと、伊奘諾尊と伊弉冉尊が泉平坂で相争ったとき、二人を仲裁した菊理媛神(くくりひめのかみ)が、
阿波市阿波町で祀られているのである。 @阿波
http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html 菊理媛命と同一神とされる「白山比咩神」を祀る「白山(しらやま)比売神社」
徳島県吉野川市山川町忌部山字白山
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とある。
「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」である。
ここはイザナミ命の「遥拝所」。
この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われている。
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、
イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承がある。 @阿波
「白山比売神社と立石列石」
https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/ 「白山比咩神」のすぐ近く 「稚宮(わかみや)神社」
徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石
祭神は、思兼尊・長白羽命。 長白羽命は、荒妙(あらたえ)を織った神。
神麻績部の祖神とある。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/16991385/ 志良夜末比賣・・・
末法を納める止めの女神様なんだろうなあ
やっぱり、ヒロインに華を持たそうと神も神計するだろうしな 伊邪那美=白山姫とするなら、
聖母マリアは(黙示録の?)ヨハネと再婚したという説があるから、
ナザレのヨセフは聖母マリアの叔母と再婚したのでは?という、
あり得ない仮説を立ててみました。 倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。 古代倭国において大和はなかなか話題にも上らない辺境の地。
後に筑紫勢力に征服されて倭国に組みまれた。
そんなところに倭国女王がいるわけがない。
卑弥呼は中国が交渉した相手は列島のどこにいたのかという視点で考えなくてはいけない。
それは九州北部しかない。 伊奘諾は伊奘冉がいた黄泉の国から筑紫の日向に逃げて来て小戸つまり伊都の海岸で禊をした。
逃げる時に黄泉比良坂を越えてきたが、船は使っていない。
つまり伊奘冉の黄泉の国もまた九州北部のどこかであった。 博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれていた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。
この文章を声に出して音読するといい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。 神道で最も重要な祝詞は、倭国の王都が何処であるかを明確に示している。
■ 大祓の祝詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす 参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)
禰宜二良(櫓を執る)
君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな 満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)は、山口県下関市長府沖、瀬戸内海(周防灘)中の2つの無人島であり、原生林が満珠樹林・干珠樹林として国指定の天然記念物となっている。
忌宮神社の飛び地境内であり、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。
また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もある。
この宝珠を神功皇后に授けたのが、海神族の安曇磯良である。
安曇磯良は志賀海大明神ともいい、常陸国鹿嶋大明神や大和国春日大明神も同一とされる。
民間伝承では、阿曇磯良は豊玉姫と彦火々出見(山幸、伊都の高祖宮)の子とされており、「日子波限建」と冠されることのある彦渚鵜葺草葺不合命(彦火々出見の息子、神武の父)と同神であるとする説がある。
潮満瓊と潮涸瓊は、海幸山幸伝説にも登場する。
山幸彦(彦火々出見)は兄の海幸彦から借りた釣り針を失くして困ってしまうが、志賀島の綿津見神宮へ行き豊玉姫から潮盈珠と潮乾珠を受け取り、海幸彦を懲らしめる。
筑紫の日向を逃れた海幸彦は九州南部の隼人の祖となった。
山幸彦の子が彦渚鵜葺草葺不合命、孫が神武天皇である。
これらは全て玄界灘を支配した博多湾沿岸の倭国の海神族の伝承である。 大足彦忍代別(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は榊に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは倭国の皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲の辺縁部である。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく、筑紫に都した自らの倭国王権を指していたことになる。 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)
福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。 聖母マリアの叔母とは、サロメという人だろうか?
阿波さんなら物知りだからよくご存知では?
教えていただけます? しかし、日本人の顔立ちは、ほぼ和風で、
ソロモン・シバや古代ユダヤ人っぽくないんだけどな・・・
いや、居るか >>28
洗礼者ヨハネの首を盆に載せて来た
ヘロデヤの娘サロメと、
イエス・キリストの十字架の死に立ち会った
サロメとは別人でしょう。
これで、恐らく、白山菊理姫は善人サロメだろうか? イエス・キリストの死に立ち会ったマリアの姉妹では、
もっともっと有名になっていいはずだ。
それが、あまり有名ではないとすると、
恐らく、善人サロメは聖母マリアの叔母なんだろう ナザレのヨセフの墓所が淡路伊射奈岐神社にあることを考えると、
伊弉諾大神はナザレのヨセフ
伊邪那美大神は聖母マリア
白山菊理姫は善人サロメ
だろうか? TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか?
ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>1
重複スレッド
同じ事象・人物に関するスレッドは、個々に多少の違いがあっても原則的に削除対象になります。
その場合、立てられた時期・時間、1に書かれている内容、レスがどれだけついているか、という優先順位で総合的に判断します。
客観的な判断が難しい時は、利用者同士の話し合いを待つか、立てられた時間の遅いものを停止処置をすることとします。
同一掲示板内ではない重複スレッドは、内容にほぼ変化のない場合は悪質なマルチポストと判断し、板の趣旨に合った真面目な議論が続いた場合を除き、全てを削除対象とします。 九州爺(クスジジ)とは
多くは高卒であり、学歴コンプレックスを解消するために古代史にのめりこむ
多くは定年退職後の年金生活者であり65~75歳
球磨焼酎を好む九州男児である 毎日晩酌し、赤ら顔で放屁する
「おじいちゃん臭い」と言われ、孫には嫌われている
三種の神器や氏族、神社の伝承などを好む
ゴミ出しをする隣人に説教することがあり、近所でも嫌われている このうち3つ以上当てはまったら
あなたは立派な九州爺です まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 邪馬台国はヤマト王権であり、日本は中華に朝貢した過去がある。
ネトウヨの歴史修正主義には困ったものだ。
731部隊の存在を否定したり性奴隷問題を矮小化したりフクシマの汚染水を安全だと言ってみたり東條やヒロヒトは戦犯ではないと主張したりと本当に困ったもんだな。 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー
汚職/集団ストーカー/盗聴/盗撮/揉み消し
揉み消し加担 >>755
天子たる天皇が朝貢することは歴史書的にあり得ない。
それでも神功紀に載せてしまうのは、大和政権が邪馬台国と繋がりがあるから。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
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注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
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