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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:09:22.25
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!

九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。

議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!

前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾伍
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1665596245/

過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。
0002日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:09:49.60
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
0003日本@名無史さん
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2022/11/06(日) 18:10:01.68
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
0004日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:10:13.05
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン

https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg

熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する

https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
0005日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:10:25.16
◆邪馬台国の場所

383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
0006日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:10:38.86
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう

では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif

博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区~南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう

春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる

奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう
0007日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:10:51.48
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ

298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ

https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ
0008日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:12:16.45
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg

> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
0009日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:12:31.80
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w

まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)


包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
0010日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:12:50.10
九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない

九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する

その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期~終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より

弥生時代後期~終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg

弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している

破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する

考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末~4世紀初頭頃
0011日本@名無史さん
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2022/11/06(日) 18:13:04.68
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
0012日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:13:19.13
淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡

弥生時代の海の勢力図
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下


弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。

https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。

> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
0013日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:13:34.93
136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう
0014日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:13:49.34
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
0015日本@名無史さん
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2022/11/06(日) 18:14:25.65
対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄

https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』
0016日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:14:39.73
鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)

http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。


古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ

http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。
0018日本@名無史さん
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2022/11/06(日) 18:15:16.69
>>4のデータについて

184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう

>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう

と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/21/45/a0237545_16344442.png
0019日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:15:33.14
>>10補足

923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。

> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。

> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。


確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな
0020日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:15:48.80
カバネについて
臣が外様で連が譜代

> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455
> > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう
0022日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:16:14.48
結局前スレも伊都チョン連呼という狂人が負け犬の遠吠えとばかりに根拠の無い妄想駄文を連投するばかりで
まるで歯応えが無かった
たまにはちゃんと根拠を以て論理的にテンプレに反論する論客でも現れれば少しは面白くなるんだが
もうそんな骨のある奴は残ってないのかね
0023日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:18:42.36
前スレハイライト
まさかの「考古学」という言葉の意味さえ知らない伊都チョン連呼くんであったw


> 485 :日本@名無史さん :2022/10/27(木) 02:06:26.76
> >>478
> お前のいう考古学は一般に言う考古学では無い
>
> 九州には大陸の史書以外には古伝と神社の由緒しか存在していない
>
> 記紀ですら九州のものでは無いw

> 859 :日本@名無史さん :2022/11/05(土) 02:53:14.59
> >>485
> お前はそもそも考古学という言葉の意味を知らないw
> ブンケンガーは考古学ではないw
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6
> > 考古学(こうこがく、英語: archeology)は、人類が残した物質文化の痕跡(例えば、遺跡から出土した遺構などの資料)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。
> > 対して、歴史学は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。
>
> だから俺はちゃんと>>4>>6などで遺構・遺物との照合をしているだろう
> これが考古学だよマヌケw
0024日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:19:58.47
伊都チョン連呼くんはいい加減に負け犬の遠吠えをやめて事実と向き合いなさい
0025日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:24:56.64
伊都チョン連呼くんには何度もソースを要求したが一度も出てきたことがない
それが彼が負け続ける原因の一つ
一番の敗因は彼自身の頭の悪さだけどw
0026日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:35:05.90
>>2
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 水行十日 水行十日 陸行一月

この前の段落が読めないと話にならんのカモ? だけど?
南至 邪馬壹國が、九州島までの馬韓ではない半島南岸から水行十日であって、
陸行一月は九州に上陸後の梯儁の女王宮までの行軍だぞ?

正しく読めないなら、話にならんのだが? アラシ確定の
記紀とか、伊都とか、都万、阿波?で、スレ埋めればwww
早かったなwww
0027日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 18:51:27.47
>>3
247年帳政は伊都までの倭人選船の航路1万500里を里程で記録した。
奴国と不彌國は、駐留した伊都、一大率から100里である。

240年の梯儁は行軍つまり自前軍隊の宿営で進軍なので
軍事用語の水行陸行、年行を使用した。

これは渡海に要する待機などの実際の時間経過
ではなく、魏が瀬戸内海を大和まで進軍するなら? www
のような、草が生える、推定される時間の話である。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 19:00:30.60
>>5
都万厨の馬鹿さ加減の謎は
倭人伝の魏使が行って無い、山門瀬高の邪馬国の女王宮以南で
なんで、初めて九州を探検した魏使の話が成立するのか? である。
アラシは、スレに要らなくないか?
0029日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 19:05:11.01
魏志を正しく読めば魏の遣使は倭国に行ってない、倭国に行ったのは遼東公孫氏というのが分かる
0030日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 19:14:16.27
>>29
なんで、真実を隠蔽したいんだ?
だって、チョンだから? とかか?

邪馬台国が日本史に共有できない
記紀否定の古代史の真実を語っちゃおうという
コンセプトとは、共有不可能なんだが?

まあ、邪馬台国は」筑紫地域で
豊国や備前備後は含まない平野内だぞ?
倭人伝には日本古代史のホントの事が書いてある。
0031日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 19:17:47.55
魏国に自前の水軍が無いことは魏志杜畿傳にあるまた遼東公孫氏が倭国からやってきたことは公孫度傳に明記されてる
0032日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/06(日) 19:43:14.43
九州説のバカどもって、仲哀天皇とかヤマトタケルとか神宮皇后の九州征伐をなんだと思ってるの?
九州に邪馬台国があったのならこんなことしないだろ
0034日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 09:00:52.28
スレ開始から伊都チョンフルボッコの展開ワロタw
0035日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 09:33:49.72
九州説の拠り所、日本書紀の神功皇后記

山門w

九州説の記紀依存は病的
邪馬台国を隠し卑弥呼を神功皇后に見せかけていると分かっていながら山門に固執
0036日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 09:36:01.39
>>25
ま、自分で定義した完全検索による嘘つき認定の考え方に自分も引っかかるというスレ史上初と言っても良い惨めな惨状を晒した伊都チョンに言われてもねぇ
0037日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 09:45:36.34
>>32
さらに、九州に大和があったら東征も起きないよね。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 09:53:22.21
あと、伊勢と三島の件だけど、昔から内宮の本質は出雲だなんて程度の話なら言われてきた事でしょ
昔は出雲系の土地だよ
0039日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 10:35:45.49
>>35
ちがうよ。タシリヒコ
0040日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 11:13:59.01
まず、倭人伝の大前提として
筑紫地域の21国連合を女王国=邪馬台国と言っている。

これは九州北部の南北2千里内にあって、
240年の建中校尉梯儁が参問して漢字にした21国は
洲島之上にあり、 周旋しても 五千餘里で7万戸しかない。

帯方郡からは、韓方可4千里中の7000里含む12000里である。
その南は狗奴国で女王国の境界は21国で尽きている。

さらに南に2月行4千里で侏儒國、
さらに南東1年船行24000里で裸國 黒齒國
倭国の範囲の中で女王国がいかに小さいかを理解できる。

600年隋唐の倭国認識も南北3月行、東西5月行であって
南北3月行はこの九州南北、5月行は奈良で見た東の山である。
関東から、東北北海道は毛人域であり倭なのか知らない。

樺太から琉球までが日本なら、中華より日本の南北が大きい。
これを中華感覚で九夷とすることは、清国じだいまでできて無いw

18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
は、邪馬台国21国の詳細について陳寿の加筆だが、
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
魏時2回の使の行程のる説明によって知り得た30国以外は何も知らない。
と言っている。

そして、参問した21国を知り得た国名として次有を21回列記して記した。
これが邪馬台国の全ての詳細だからである。
0041日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 11:59:21.34
>>32
記紀のたわごとだと思ってる。
倭人伝を読む限りでは、本州は246年まで、
九州の統合が成立してないみたいだけど?

崇神の四道将軍で吉備まで来て
日本武尊や仲哀も九州いったの?

卑弥呼時代どころか、313年の楽浪帯方郡撤退まで、以北はもちろん
日本からは既に植民地だった韓南部の征伐なんかに行って無いんだけど?
いったいいつ誰が、韓征伐なんてしたの?

九州は卑弥呼の239年に公孫氏滅亡。
245~6年に馬韓王朝滅亡を見て、対魏の防衛の必要を感じて
本州勢力と協力する事となったから、一大卒を入れたんでしょ。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
主語の使である帳政は大倭を見た。 一大卒検察機関が有り、王の書簡や贈り物も検閲されている。

この報告によって魏と女王国の外交の三国志記録は247年で終了している。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 12:29:33.60
>>31
杜畿伝読んで来たけど? 魏の水軍の話じゃなくて
杜畿が太守に着任する時、地元民が歓迎しないで
黄河の渡し場を占拠した、って話だったぞ?

まあ黄河ならこの時朝廷の送った援軍は水軍かも知らんけど。
この紛争を回り道で対応して丸く収めて杜畿が活躍した話だけど?

公孫度の父も遼東人で玄菟郡にいたらしいけど、
遼東公孫氏が倭国からやってきた?
って、話は無いような? どこでしょうか?
0043日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 14:18:21.96
>>41
〉崇神の四道将軍で吉備まで来て
日本武尊や仲哀も九州いったの?


記紀は村雲の系図は堅持しながら物部氏を神武であるかの様に書いている。
故に万葉集にもある様に後で高天原が九州に変更されている

つまり、敵と味方が入れ替わってる部分があるんだ

4大将軍は物部の敵方
景行は物部ワカタラシ彦なのでそのままで解釈

大彦は派遣されたのではなく敗走したルートとなる
0044日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 14:34:37.35
>>10
目の付け所は良いし内容から学べるんだけど?

何で、考古学的に なのに
神武東征の時期は3世紀末から4世紀初頭頃
のトンチキに、なっちゃうんですか?

313年以降は日本海ルート諸国も九州北部海人も
半島に進出して百済新羅の高句麗戦を後押ししてたわけで
これによって、牛馬の移入と鉄の国内生産と言う富国強兵の
古墳時代政策に変化したんだよ?

考古学的に銅鏡は古墳墓制に伴う信仰の神器だし、
前方後円墳に馬飼いの高句麗墳墓を伴う朝廷の御牧が
400年代には甲斐、武蔵や上州にまで広がっている。

考古学成果が神武東征の真実、になるわけが無いと思うがw
0045日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 14:59:05.26
九州に邪馬台国は存在しない

順序が逆
先に朝貢済みの邪馬台国がない限り、国家承認直後の国に属国旗を渡して肩入れするなどあり得ない
九州の朝貢勢がヤマトと名乗っただけ

その時の倭の使い方は、倭国が地域名を表す言葉であって、なんとはなしに既に日本列島を倭と認識していただけの説明にしかならない。
その頃既に狭義の倭国という認識はなかったのではないか?
0046日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:14:34.47
>>43
だから、歴史の話なら万葉集は古事記の神々
神武天皇が九州から始まる話であって、高天原は天界でしょ?

物部って表意文字の氏姓が出来たのは、
天皇が漢字名を名乗った400年辺り。
遡れば370年仁徳天皇の七支刀辺りから、
百済人も漢字で日本の天皇が聖帝であると証言している。
漢字が無いと氏姓も姓も生まれない。

250年辺りでの倭人の名前は倭人伝でも判る。
官 概ね前後の国で雇ってる通訳案内人。卑奴母離は帳政の倭人船の乗船者
対海国/卑狗(狗邪韓国) 奴国/卑奴母離(奴国) 卑は臣下の意
邪馬臺/伊支馬(壱岐) 彌馬升 彌馬獲支(邪馬国) 奴佳?(奴国)
狗奴国/狗古智卑狗(古智が個人名)
大夫では
奴王/(難)升米 都支王/(都市)牛利 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
この文字の違いは帯方郡の役人による聞き取り国名と梯儁の命名国名の違い。

氏姓が無いので、所属国名に2文字程度の和音が名である。
後世でも氏姓が無いなら、何々村の権兵衛とかだし。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:23:16.22
>>42
曹丕が「はじめて」杜畿に命じて湖に船を浮かべて水軍を調練させたと書かれてる
公孫度の養父「が」遼東人で玄菟郡で公孫度はその父の祭祀を継いだのだけど公孫度自身は遥か東からやってきたと書かれてる
0048日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:32:21.01
公孫豹にうり二つの公孫度が公孫氏に養子入りした。
そうすると養子縁組先の家に本貫が変わるので、公孫度も玄菟郡出身になるわけだ。
公孫度の本来の出身地が不明というのは三国志研究の課題になってる。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:34:00.11
>>40
〉まず、倭人伝の大前提として
筑紫地域の21国連合を女王国=邪馬台国と言っている。

女王国に属する国としか書かれてないのでは?
つまり、厳密にヤマトの位置関係を表すものではない気がする。

単純に解釈するだけなら長門から北に邪馬台国があって、伊都が飛び地でも十分に成立する
0050日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:35:29.97
>>46
〉物部って表意文字の氏姓が出来たのは、
天皇が漢字名を名乗った400年辺り。
遡れば370年仁徳天皇の七支刀辺りから、
百済人も漢字で日本の天皇が聖帝であると証言している。
漢字が無いと氏姓も姓も生まれない。

それはあり得ない。
それなら音読み訓読みに分化したりしない。
言語学上は文字が一番最後になる
0051日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:37:55.41
>>39
そういえば金印に赤字でタリシヒコと書いた捏造画像があったな
0052日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:39:57.12
玄菟郡じゃなくて襄平県だった。後漢書と三国志で違うからごっちゃになる
0053日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:41:44.52
>>46
〉(難)升米

だしまい=タジマノモリ

おかしくはない気がするが?

逆に九州物部の宿禰、たけしうちの宿禰は、役職名が省かれて、タイシュウエツ。

おかしくはないと思われるが
0054日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:43:48.17
>>46
〉神武天皇が九州から始まる話であって、高天原は天界でしょ?

歴史学に天界は存在しない
神話やファンタジーと史実は区別するべきだ。
そんな風に出雲口伝の本にも書いてある

そもそもが人間に知覚できる神など存在しない
故にそんなことが記紀に書かれたところで何も変わらない
0055日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:48:59.59
>>51
じゃー隋書にあるタシリヒコは誰?
0056日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:49:24.64
>>44
〉考古学成果が神武東征の真実、になるわけが無いと思うがw

まさにそれですよねー。
歴史学で判断するところを特にこのスレ主は考古学とか抜かしてる。

中身を見ると八幡愚鈍とか考古学とは無関係のものばかりw
自分のやってることすら理解してなくて他人事
0057日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:53:42.06
>>26
〉正しく読めないなら、話にならんのだが? アラシ確定の
記紀とか、伊都とか

おいスレ主まで荒らし確定とかウケるww
0058日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:55:29.98
>>41
〉九州は卑弥呼の239年に公孫氏滅亡。
245〜6年に馬韓王朝滅亡を見て、対魏の防衛の必要を感じて
本州勢力と協力する事となったから、一大卒を入れたんでしょ。

口伝の本でも確かに、九州勢は大陸の脅威もきっかけとなってヤマト攻めをしたのではないかと書いてありますね
0059日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 15:58:00.25
>>55
判断が難しいですよね
タラシ彦で考えるのなら、息長系の諡号がついたところから考えるのが妥当と思われますが

成務含めて二代がタラシ彦

その後は天武前後が息長系の諡号になってる

設定としてはそのどちらかの話になるんじゃないかと
0060日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 17:28:58.99
>>59
600年にタラシ彦は難しいですね。
倭国=邪馬台国 であれば、厳しく思います。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 18:23:54.21
>>59
600年のタリシヒコは押坂大兄の太子彦 姓の天は香具山の有る天の宮
隋書によれば、当時の倭王は兄弟で執政していた。 
弟が隋史を迎えた新造の法隆寺、斑鳩宮に在った法皇聖徳である。

天皇の系譜は記紀は嘘が多いので、金石など成文史を追うだけなら
雄略~503継体~531欽明~571敏達~591押坂(タイシヒコ)/聖徳~622舒明(タムリ)
~天智(15~19歳)後見/極悪鎌足で、男子直系である。 女帝なんて居ない?
神功皇后も。 なんで? 男女平等企画が古代史に反映するよwww
0062日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 18:39:31.94
>>57
スレ主が、名無しなんで、
知らなくてすまんけど、

2がスレ主ってのは、あってるのかな? 
本人ならそうだけどw

くまモン師匠は、
都万厨じゃ無かった
かな?
0063日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 19:21:43.60
魏志倭人伝を正しく読むなのに
なぜか記紀が出てくる。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 19:26:27.04
九州説の主張が240年の倭王は九州にあった?
では無くて、倭人伝は240年の筑紫を記録している。

と言う言事なんだが? 判るかな?

これによって、日本史で記紀が否定されるか?
日本の歴史学者は、神話否定は容認できないのかね?

240年の邪馬台国21国が筑紫なのは史実だし
魏時は、これ以外の倭人国に関して何も知り得てはいない。

東夷伝序文と倭人伝評曰に、
陳寿が倭人域について残したかった記録の真実が有る。

序文より
近日之所出 遂周觀 諸國
采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
評曰より
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

倭人伝が、成立してない倭国伝でないのは
つまり、日本列島には倭国が成立していないという、そういう事だ。

伊勢なら700?、古代なら500年以降に成立するであろう、
神社の記紀の後で、辻褄合わせした伝承?
淡路島とか日向からとかの
高天原とかとかからの記紀は
絶対的、謎の神話なんだけどなwww
0065日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 19:28:42.39
魏志倭人伝に
筑紫の記述はない。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 19:43:32.07
>>65
だから筑紫と言う、表意文字は無いし
筑紫が本州と合同する以前に、固有の国名を必要としていない。

筑紫が筑紫である為には、他国との接触が必要だが?
自国に自称の固有名詞が出来るのは、
人物画像鏡の百済から見た日下大王が居た
日本が陽の下、みたいな場合である。

百済は自国を辟中つまり日本の最前線と言っていた。
七支刀と人物画像鏡、高句麗土王碑と船氏墓誌で
日本の古代史は解決してないか?

まあ雄略期の、稲荷山鉄剣は8台250年程度までの
日本の王の存在に遡れる訳だが?
0068日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/07(月) 19:55:35.30
>>66
だから、狗国の古智が個人名で
卑狗は狗国の家臣である事を意味する。
って言う、漢字の無い日本人に関する
中国人による個別識別での漢字命名の話なんだが?
0069日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 00:03:57.87
>>68
それがどうしたの?
0070日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 00:05:56.03
>狗(拘)古(右)智卑狗

右智は「佐治」に対する対義語
※智は、知・治と同じ首長的な意味合い

臣智 - Wikipedia
臣は秦、辰と共通する音であり、智は治、知と同じように首長または族長を意味する「チ」という土着語を漢字に書き換えたものである。

>有男弟佐治國

たぶん、みんな気付いてると思うが

佐治 = 幸 (山幸彦や海幸彦の「さち」)

※古事記(712)上「火遠理命、其の兄火照命に、各佐知(サチ)を相易へて用ゐむと謂ひて」

そして!

●漢字の成り立ち博士
幸の漢字の成り立ちは酷い状況でも自分の幸せを見出す罪人の気持ち

2020/07/01 — 「幸」 の漢字の成り立ちは刑罰で、自由に動けないようにするために使われた 手枷 てかせ の形を表した象形文字。

つまり!

>狗(拘)古(右)智卑狗 の「拘」

こう くるんですw

答え見えましたねw 完璧でーす
0071日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 00:06:02.13
>>67
別に国とは言っていないが?
0072日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 00:11:27.10
>>71
隋書では竹斯国。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 00:21:50.65
卑弥呼時代は10国の女王連合が
トヨ時代では30国となった、俺の説

つまり、邪馬台国は狗奴国と交戦状態になったが
邪馬台国は滅んでない

この説を後押しする
狗(拘)古(右)智卑狗さん 研究でしたw

まるで海幸彦みたいだけど
(天孫族と隼人族との闘争を神話化したものだから、ベースにはなってそうw)
0074日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 01:24:09.48
>>72
そうだよ。
卑弥呼時代に他国との接触があっても
筑紫はない。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 09:06:40.95
>>66
クコチヒコ(きくちひこ)は大彦系ですよ
新撰姓氏録
0076日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 10:18:43.29
>>73
〉まるで海幸彦みたいだけど
(天孫族と隼人族との闘争を神話化したものだから、ベースにはなってそうw)

まさに尾張家は海幸彦です。
尾張(海家=天)と、男系尾張の大王家は二度、物部(山幸彦)にやられている。

本来の天孫が、天孫(物部の磐余彦)にやられている矛盾の構図が、尾張家と物部家の関係そのものになるわけです。

天孫が天孫を攻撃した様な幻惑があるのはこのため
0077日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 10:53:46.66
つまり、天孫ムラクモからクニクルまで(倭国大乱期の物部の姫の輿入れ→モモソヒメによる安定)と、開化天からヒコイマスまで(垂仁+宇佐津姫による景初動乱)で血筋に変化が出ている訳です。

倭国大乱期では天孫に変えられた磐余彦が母系で入り込み、開化になる。
つまり天孫村雲が天孫(物部)にヤマト入りされる。
次に、その母系天孫物部になった天孫村雲の大王家が、天孫物部イクメに征服される


天孫は天孫を攻撃する形になるので過去の編纂者は右大臣の無理難題を血筋で解決した。

これはホアカリ饒速日が同一人物であったから。
そして、2回目と1回目の大乱の順序を逆にして、物部系の祖である饒速日(神代)の前から同祖の一族がヤマトにいた事を仄めかしている。
イクメの父親イニエはニニギにされ、同一人物崇神はハツクニシラスになってネタバレをするが、さらに混乱する結果になった。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 11:00:16.49
故に、物部系の一族は記紀服属を逆手に取り、天孫降臨伝承を各地で作った。

岐阜の水無神社のカンナビである位山には天孫降臨伝承がある。
そして、分家筋の磐余彦(ウマシマジ=佐野命)の子孫の物部十千根と、さらにその子孫の守屋を祀る地域になった。
因幡神社もあることから、開化の後のヒコイマス系の一族(母系物部)が岐阜に流れて行って飛騨王朝伝承を作ったと考えられる。
稲葉国造は、ヒコイマスの息子のヒコミチヌシの家系。
政権を失ったので、ミカドワケを後年に名乗った。
本拠地は丹波。同じく敗れたヒボコ族とも集合し、大丹波のエリアで栄えることになった。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 11:02:15.02
我が国に欠史は存在しない。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 11:08:08.03
>>62
都万厨だと、なにかまずいですか?

いちおう、伝承の本では
魏書の邪馬台国は邪馬台国ではなく、物部と宇佐の連合の軍隊で、その他大勢の軍の構成員は、都万にいた人たちで、そこから吉備、出雲を攻め、畿内ヤマトを倒したとあります。

つまり国名としての実態がない軍隊を魏書は邪馬台国という九州勢の自己紹介を鵜呑みにして書いています。

解釈によっては構成員多数派の都万が便宜上の邪馬台国になってもおかしくはありません。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 11:15:01.48
解釈上は、物部のいた筑後も、総大将の宇佐津姫の豊国も邪馬台国であるという解釈も間違ってはいません。

しかし、連合軍なので、他国から見たら九州は単純に見たら小国の集まりにしか見えません

問題は、九州の朝貢勢が、自分の国をヤマトと名乗ったことなのです。

既に朝貢済みのヤマトを改めて名乗ったという事が重要なのです。
故に、後漢の後継者を自認する魏国に、我が国でいう錦の御旗を与えた。

少なくとも最初の挨拶で「今からお前の国を承認するから八本の旗と、役人派遣をするわ」になるわけがない。

九州勢は、魏国をペテンにかけた。

図らずも、ここでもヤマトがヤマトを攻撃したかの様な書き方になってしまっている。

記紀はその魏書の構図を上手く対比させている、
0082日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 11:38:24.51
魏書は、時代の違う姫巫女を卑弥呼と同じ表現として書いている。
トヨの年齢と大陸の言葉である歳長大(35歳以上)を逆算してもどう考えても倭国大乱期末期にすら間に合わない。

つまりは、邪馬台国の位置の説明すら混じってる可能性もあるし、狗奴国から攻撃されて九州に暫定政権を立てていても魏書の内容は成立する。

極端な話、誰でもヤマトを名乗れたのが二回目の倭国大乱期ということになる。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 11:41:06.13
>>72
600年でいちおう、ちくし という
地名にはなってたみたいだね。

竹斯は智狗斯のような和音を読み替えただけでなく
竹という表意文字になっているが、倭人が選んだ名前だろうか?

ちなみにこの裴世清は、邪馬臺が邪摩堆ではないか?
と言う注釈の原因となった、奈良のヤマト名を漢字表記した時の使。

邪摩堆をヤマトと読むのは隋唐ではあってるのか?
ヤマタイが九州訛り、って話なのw

女王国の邪馬国にあった臺の 邪馬臺国は、
建中校尉梯儁が命名した、表意文字による漢語であって
奈良の大和とは関係が無い。 
そもそも論で240年の奈良はヤマトだったのか? 

天皇の和名は、ほむたわけ や たりしほこ
みたいのに淡海三船が漢字付けたんだろ?
タリシホコ=太子彦が居ないんじゃ嘘八百丸出しだけどw
0084日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 12:08:57.63
>>80
物部は海部、斎部みたいな皇室初期豪族
直近の武門ワケの氏姓だろうし、どこか知らんけど、

宇佐が地名であるなら邪馬台国とは関係ない
国東半島~遠賀川宗像の瀬戸内海勢力地域です。 
都万は瀬戸内海からも孤立してないかな?

瀬戸内海交通が本格化するのが、
邪馬台国が本州と連合した250年以降
だというのが考古学成果であって、
宇佐伝承は神話からの後付けなのでは?
0085日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 13:20:40.13
>>83
〉天皇の和名は、ほむたわけ や たりしほこ
みたいのに淡海三船が漢字付けたんだろ


淡海は開化系で物部関係者
右大臣が纏めさせたという説がありますね

天武の時に編纂委員会で呼ばれてない物部
しかし実際には招いた側、黒幕だったから出てこなかったのかもしれない
0086日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 15:08:14.05
>>84
〉宇佐が地名であるなら邪馬台国とは関係ない
国東半島〜遠賀川宗像の瀬戸内海勢力地域です

おお〜。私は実は本の内容を書いてるだけの人間なので生きた情報となると疎いのですが、宇佐の領域は国東半島とかちゃんと出ています。

何故都万が地政学的に重要なのかは知りませんが、平野部が多く、稲作に適しており、人の住めない沼地を開拓できる水稲を軸に人口が食料の増産とともに増えたのではないでしょうか?
確か、吉野ヶ里は佐賀との境に近かったかと。
佐賀の菜畑遺跡は日本最古の水稲遺跡でしたよね。
三嶋(越智)は、私は九州にいた一族と思っています。
それが出雲やホアカリ勢が入る前から摂津、つまり金剛山系西側から開拓を始めてた気がします。

宇佐古伝に関してはまさにその通りで。正確には記紀服属をしながら古伝を公開しています。
口伝のの公開に関しては、出雲を除くほぼ全てが記紀の記載方法を逆に利用して公開しています。

籠神社→記紀服属で村雲(神武)とカゴヤマを隠して系図を公開(本系図)付属の系図で村雲が神武と暗示。東征してない神武。

宇佐神宮→記紀服属で2回目の東征の人物である崇神(イニエ)を、神武として内容を公開しています。
なので応神の先祖が神武と書いています。

和歌山の物部総本家(現橋本家)と、オコベ神社の宮司家の小野田家(ルパング島のあの小野田さん)は、記紀服属で最初の物部東征である磐余彦を神武とする歴史を取材に答えています。

唯一服属しない歴史を公開しているのが出雲の富家になります。

古伝の公開は命懸けなんでしょうね。
神武は、村雲、磐余彦(ウマシマジ=佐野命)、イニエ(崇神)の三人に当てられた架空の大王になります。

記紀に服属して書いてるから逆らってませんよという事な訳です。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 15:19:42.08
>>84
景初の頃は吉備国、つまり平型銅剣のエリアで、当時のヤマトはこのルートで朝貢が出来ない状態でした。
ましてや仲違いしたとはいえ、ヤマトの尾張は親戚なのに対して、物部は完全な敵

ゆえに最初の東征ルートは四国南から若山ルートになったそうです。
隼人族は九州で物部がスカウトした土着民で傭兵だった様ですね。
これは複数の古伝で言及されています。
二度目の景初は真っ正面から吉備国と戦った様ですね
0088日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/08(火) 15:21:49.45
>>84
〉瀬戸内海交通が本格化するのが、
邪馬台国が本州と連合した250年以降
だというのが考古学成果であって、

見方を変えると、物部勢が九州からヤマトを統一して、瀬戸内海も手中に入れたとも言えるわけでございます。
連合ではなく日本統一とも解釈できるわです
0089日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 16:47:22.68
 最近、東大阪の鬼虎川遺跡で巴形銅器とひし形模様の描かれた楯が出土し
それが吉野ヶ里遺跡から出土した巴形銅器の鋳型とピッタリ一致したんだって
その遺跡の東正面が生駒中腹にある石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

 饒速日尊と宇摩志麻遅命を主祭神とする神社、
吉野ヶ里遺跡はニギハヤヒ、物部氏の本拠地だと前々から思ってたが、確信がもてた。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 17:16:03.02
その石切神社の南側に近鉄額田駅があって、
その南側に枚岡駅、枚岡神社がある
枚岡神社は中臣氏の氏神で主祭神,天児屋根命,比売御神?,経津主命?,武甕槌命

なお、吉野ヶ里遺跡には今ひし形模様、巴形銅器が付いた楯が観光用に置かれてるが
あれ、石切神社鬼虎川遺跡から出土した楯がモデルだからね。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 17:19:24.49
中臣氏はニギハヤヒの家来で、
関東茨城の鹿島神宮と千葉香取神宮などと関係が深い。

茨城水戸市の那珂川、霞ケ浦鹿島神宮の中臣氏、
香取神宮のフツヌシ(経津主)九州コンビ。

霞ケ浦周辺からは、関東では珍しく巴形銅器も結構出土する地域。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 18:11:06.31
巴形銅器って、あれ太陽信仰のシンボルで誰にでも提供する物でなく天孫守護的な、
近代風に言えば親衛隊、皇宮護衛官の様な目印で、
部外者は近づくなと威嚇するものだろう。

奴国出土の巴形銅器鋳型からは香川さぬき市から出土した巴形銅器が製造され
側には、百襲姫伝承のある水主神社があり、関連が感じられる。
尾張一族が統治してた名古屋周辺、からも結構出土してる。

この巴形銅器の鋳型は九州北部吉野ヶ里と奴国地域の2か所からしか発見されてず
出雲には欠けらが有るとか無いとかと言う珍しい青銅器らしい。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 20:07:46.44
>>88
なんで物部が九州起源なんですか?

朝廷が九州統合したのは、倭人伝で250年以降であって
物部は出雲自身か、同等の銅鐸期の200BCが始祖に近い豪族。

この頃の畿内豪族は、日本海宗像の海神~出雲~越~丹後
~近江~尾張美濃~伊勢~阿波~瀬戸内海吉備~九州東岸まで。

氏姓が無いのは有史以前なので、当然漢字の氏姓が無いのであって、
現代皇室の起源は、物部蘇我海部斎部越吉備近江尾張の豪族の富と姫
古代史の真実、源氏物語の後宮における、性治で進行した。 領地の地名も
漢字が無きゃ、平仮名1~2文字、後の前後のような分別が必要なら3文字の発音である。

この歴史は、戦国時代の覇者、信長も破壊してはいない。
父母や祖先に背かないという道徳は倭人が呉の太伯の後を削除した
下劣な虐殺戦争での中華思想の三国志に、でも散見する。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 20:20:15.12
済まない。 JENEで、スレがDAT落ちになって
更新しなかったんで、

TESで書き込んだ。
多分以降、話は通じる。

同じ症状で、ジェーンなら修正は 
「強制過去ログ化」 を実行 。
でした。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 21:56:54.40
宮下文書と云われる古文書があるが可なり怪しい物のようで、富士王朝とか何とか

富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある
北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司、宮下家に伝来した古文書

これを整理し1921年(大正10年)6月25日、宮下家文献をもとに
三輪義熈が著した概説書となる『神皇記』が隆文館から発行された。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 22:01:18.56
そして、吉武高木遺跡群では1981年~2005年まで19次にわたる発掘調査が実施。

当然古文献を元に宮下文書が書かれたのが大正10年で
1981年発掘の遺跡の事など知るわけがない。

それなのに発掘記録と宮下文書に書かれた内容がピタリと一致してて
ある一部分の内容は古文献が残ってて伝承されてたんだろうと思う。
吉武高木遺跡群の大型建物(長井の宮)と河合の埋葬墓地の関係が見事に一致してる
とても信じられないが。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 22:12:23.15
吉野ヶ里遺跡と「天孫降臨」

「南の水門」とは
『宮下文書』は「南軍」について「附地見島、南の水門より攻むる大将は、
元帥火須勢理命(海幸彦)、副帥経津主命・建御名方命、軍勢五萬餘神とす」と記す。
「附地見島(筑紫)」の「南の水門(有明海)」から攻めている。
「南軍は南水門より上陸し、賊の大軍と戦い、奮撃轉鬪六百五十日にして、
遂に賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。

「南の水門」とは「有明海」であろう。「南軍」は長崎を廻り、有明海に入り、
「佐賀県南部」に上陸している。 「賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。
先住民は「佐賀県南部」から「西北方向」に逃げている。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 23:15:18.63
>>93
〉なんで物部が九州起源なんですか?

朝廷が九州統合したのは、倭人伝で250年以降であって
物部は出雲自身か、同等の銅鐸期の200BCが始祖に近い豪族。

相当に本質に迫られたご意見と思います。
物部氏は、神功皇后期前後で部民姓を与えられますが、同族集団という意味合いですよね。
海家と違ってかつてなんと呼ばれていた家なのか判明していないという事です。
再渡来した徐福はホアカリの名を捨て、和名饒速日を名乗り、出雲のイチキシマ姫を娶り、九州での習合相手、協力者を獲得しました。
当時の大陸は男系分化。日本列島は女系分化でしたので、習合相手がなければ単なる外国人居留地しか形成できないわけです。築秦国東の秦国領域と同じですね。

九州は、出雲で国譲り事件を引き起こしたホアカリの事もあり、下に置かれた地域でした。

大陸の脅威に真っ先に晒され、貿易の美味しいところは持っていかれる。
畿内ヤマトに対する敵愾心は強かったと考えられます。
ちなみに、尾張家の部民性が海部と思われますので、本来であれば物部氏に関しても家名が当然に存在していたと思われます。

景初以降の年代の政治の動きは、単なる同じ家系の親戚同士のお家騒動に過ぎません。
少なくとも正当性や相続権利を主張しあった争いと考えられます。(三韓征伐と同じ考え方ですね)
違いは宗教くらいのものでした。

制服ととるか、連携ととるかは精神的な事と思われますが、考古学的にはそういう中身は分からないものなのではないでしょうか?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 23:21:56.93
>>95
山下文書の種本は寒川文書とされていますね。
鹿島エリアは古くはミナカタ、物部、大彦系のエリアでのちに八井耳系のタテカシマ(鎌足の先祖)がやってきて程なく中臣(弓前)が入り込んできています。
いつ、中津と弓前が統合して中臣家になったかは判然としませんが直接出雲から嫁さんを貰ったというよりは、八井耳と習合して臣姓を名乗った様な気がしています
0100日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 23:25:04.82
文章の内容から見ても名草にやられた彦五瀬を擁護し、名草を悪く書いているので物部系の話が中心になっていると言われています。
これが大陸の史書を照らし合わせると、記紀により隠され、大陸には出てくる築秦国の東の秦国系の文書なのではないかと分析される話につながります(前スレの古本屋エリナ氏の動画)
0101日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 23:27:06.77
山下文書は、徐福と武内宿禰が出てきて色々学んだとか一見ファンタジーが描かれていますが、後年に子孫たちを受け入れてきたという事が示唆されています。
そして、それよりも古い権威ある一族がいたという方が描きたい内容であったのでしょうね。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/09(水) 23:52:57.39
>>89
築秦国は、2世紀までは完全に物部王国とも言える勢力だった様です。
曽我氏出身の推古女帝は587年に先祖が物部宗家(本当は文家筋の石上系)を滅ぼした事を気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡にフツヌシを祀る神社を建てたそうです。
確か今でも吉野ヶ里南方の、みやきには物部神社があるはずですよ。
しかし3世紀以降に半島への出兵で大勢な物部族が駆り出され、吉野ヶ里は衰亡。九州での物部の勢力は大きく力を落としたそうです。
そして記紀の邪馬台国時代から物部が消されたことにより、吉野ヶ里も書かれなかったことで忘れられていったそうです。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 00:13:10.96
>>90
枚岡神社。シブいですね。
確かあそこは春日の元宮とも言われるところで、中臣家の地盤があったところとされています。
私は支持出来かねる部分もありますが、出雲口伝の本ではコヤネは元々はヒボコ系の分家で、その名の通り、ほんの小さな勢力から始まった一族と書かれています。
更に別勢力で息長家がありました。
ヒボコ系はスサ族に食い込んで集合を繰り返して勢力をつけていったとありますのでその辺は整合しますが、大陸の任那、倭国領域、秦韓、金金冠迦羅のナカという史書からの関係で言えばヒボコの先祖筋になるので個人的には半島で敗れてヒボコより後年に渡来したヒボコの本家筋の様に捉えています。

話を神社に戻しますが、既にあの神社にはミカヅチと鹿(銅像があります)がいますから、関東領域で鹿島(登美家のミカヅチと、諏訪の千鹿頭神の領域)て神官を経験した後の神社と解ります。
そしてこの神社では本殿一位のコヤネが春日大社では二位に落とされています。
元々鹿島で鹿が祀られており、春日には鹿島か鹿がもたらされたとありますので、九州の鹿神事は後年に志賀島神社にできた山褒祭りが出来たあたりで持ち込まれたのではないでしょうか?

律令時代には中臣藤原の天下になりますが水銀が出た中央構造線とその両端には鹿島が置かれます。
九州にも鹿島があるんです。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 00:17:52.11
>>93
〉現代皇室の起源は、物部蘇我海部斎部越吉備近江尾張の豪族の富と姫

繋がって系譜で言えば、現在の皇室は継体天皇を出した北陸蘇我家が男系の祖になります。
徐福の血は女系でしか繋がりません。
そして、携帯天皇は富家から養子入りした事代主系の富太彦。
男系は出雲に遡ります。

今更徐福のことなんてバレても全く問題はありません
0105日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 00:19:40.50
現在の皇室は、蘇我臣系。
出雲の、つまり臣系の皇室になります。
南朝北朝なんてどうでもいい話になります
0106日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 00:30:04.98
宮下文書で解釈するのであれば徐福から8代目の人物からカバネが「福岡」になっています。
尾張氏に対応する物部氏の古い名を推測であげるとするのであれば福岡氏という事になるのではないでしょうか?
それと斉の国の人物である徐福がこの系図だと真の黄帝第四王子という事になっているので、古くから物部氏は秦国系を名乗ることで徐福を隠してきているのではと書いた推測がここでも書かれているのがわかります
0107日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 00:46:44.28
宮下文書は、アマテラスやらオシホミミが出てくるので、記紀成立後に書かれた忘備録のようなもので記紀に合わせて書いてあるので、神武の位置付けでだいたいどの一族が纏めたのかは推測ができるのではないでしょうか?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 01:10:56.57
宮下文書が仮に九州勢の誰かの一族のまとめた文書であり、仮にそれが渡来人であったとする。
そしてお上に逆らわぬ様記紀の内容に服属しながら独自性を出しているところは高天原。
宮下文書では高天原は、「天竺真郡州」と書いているのでこれが本質なのかもしれない。
また、大物主と猿田彦が共通の先祖から分かれていると出てくるので、少なくとも2回目の東征以降、の物部政権が終わって三輪山の女神が伊勢に入った以降に歴史を俯瞰している事がわかる。
そこでは、大陸の史書の解釈だと我が国な関係のない、金冠迦羅系のウガヤフキアエズが先祖になっていることから中臣家とも集合した物部とわたしは考えています。
そしてクニトコタチを富士山に住んだ天皇として書いていて、それこそがトヨウケであるとしているので、伊勢神宮下宮の成立後、つまりワカタケルよりも後に纏めたと推測できる
0109日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 01:17:58.93
んで、朝鮮系のウガヤフキアエズと徐福を含む系図が書かれ、秦国系のエリアである辰韓の系図が統一して書かれているので、つまりはヒボコと徐福の系統がかつては大陸では一緒だったという事を書いているわけだな。

そういう話をテキトーにまとめれば伊都チョンの様にヒボコスサノオにならんくもないが、どう考えても古すぎて別の家だろって話

我が国側の歴史としてはヒボコは役職名に近く、大国主(実際には17人もいる)と、同じく解釈により歴史が全然変わってしまう存在
0110日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 01:19:31.49
系図としては母系、男系の区別がないので、立場を変えて上手く他の豪族との親和性を出せるように美味しいところをまとめて、他の豪族との親和を目指している系図の様に思う
0111日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 01:22:32.82
忌部は男系で言えば出雲の分家だけど、おそらくヒボコか中臣家に近いところから嫁さんもらったのだろうね。
後年には藤原中臣体制を意識してか、大陸出身(コヤネ)を名乗る様になった
故に天神系譜に忌部の祖としてコヤネが出てる
あれは母系を上手く使って繋げた系図の様に思う

奥方が出てない一般の系図など当てにはならない
0112日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 01:29:15.63
徐福系の血筋は欽明天の女系からしか遡れないと書いた。

そして、宮下文書では欽明天皇の神社復興を最後に朝廷との公式祭祀が途絶えたと書かれている。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 12:52:36.37
>>90
〉石切神社鬼虎川遺跡

大変勉強になりました。ググってみてとても感動しました。
あれ持ってた人たち、超強そうww

今年の盆はセブリ縦走と吉野ヶ里行ってきまして青銅器も見てきましたが、実は盾はちゃんと見てきていませんでした。

やっぱり農耕の神事ではなく、戦闘に関するシンボルだったので残らなかったのでしょうかね。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 15:37:11.05
生駒山系と言うのは標高300~642mの南北約30km、東西約5kmの山々で、

じつは、長髄彦(ながすねひこ)って生駒山体そのもじゃ無いかと思う。
大阪市内の高速道方面から見ると脛と膝(生駒山頂)のように見える。

石切神社の北方には神武東征に出て来る日下(くさか)、楯津(たてづ)の港の楯津があり
その北に行くと、吉武高木にある飯盛山(楠正成で有名)があり
その北方交野市にはニギハヤヒが天の磐船で降臨した磐船神社がある。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 15:39:21.39
つまり、生駒山系山体自体が物部軍団の山城だった、山の扉、門番でヤマト?

生駒山の麓一帯は物部一族、家臣団の拠点だったんだろう、
あの弓削道鏡の弓削神社や物部氏と関係深い矢作神社、渋川神社が八尾市にある。

そして後、物部氏は石上神宮へ
枚岡神社中臣氏は関東鹿島から白鹿に乗って春日大社へと移ったんだろう。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 16:12:21.97
九州博多湾、山幸彦ニ二ギ系と有明海、海幸彦ニギハヤヒ系が全国制覇へと進軍、
まるで、薩長土肥藩が革命、明治維新を進めたように。

神話や神社伝承伝説を見てると、いかにニギハヤヒ系物部集団が
日本全国、東北北陸から九州まで広がって行ったか分かる、まずは物部王朝が先行し

追いかけニ二ギ系の神武東征軍、天孫族たちが巻き返し王朝奪取、
悔しいけど物部さんはイワレヒコさんに同じ天孫組だとしり禅譲させられたんだろう。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 18:32:40.59
>>116
だからその東遷ってのは西暦で言うと何時なんですか?
200辺りから247年までの筑紫域の女王卑弥呼は東遷しないし、
漢四郡の在った、313年までに韓征伐なんて
日本海ルートの王だってしてないよ?

記紀の時系列が成立しないのに
何で記紀に迎合してる神社伝承が歴史のネタになるのかな?

神代どころか神武が2百数十年なら
崇神から神功応神迄だって被っちゃうだろ。

実際に開拓植民地ではなく、倭王による政治的
半島進出が在ったってことが確定するのは、
倭人伝に記録が有る、卑弥呼と明確な半島状況記録の
246~313年以降で、明らかな考古金石文の証拠としては、
記紀の言う370年の仁徳天皇?に贈られた七支刀からなんだが?

考古学的に明らかな史実を、明らかにしてない記紀や
おまけの焚書されてない伝承ってのは史書なのか?
0118日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 21:19:28.83
>ニギハヤヒが瀬戸内海を移動して大阪湾に現れたのが紀元前2世紀の終わり頃だろな。
>巴形銅器が出土した層が弥生中期だと云われてるから。
>そして、神武東征が建武中元2年(紀元57年頃、奴国王が金印授受)の後だろ。

弥生中期から後期の高地性集落「国立歴史民俗博物館(歴博)
紀元前2世紀~紀元2世紀」環濠集落も巨大化していき、特に顕著となるのが
弥生中期、紀元前2世紀の終わりごろで、大阪湾岸から瀬戸内・北部九州にかけて集中する。

山口県でも清水遺跡など高地性環濠集落があり、
紀元前1世紀~紀元2世紀では、広く瀬戸内から大阪湾岸に分布している。
紀元3世紀以降になると近畿とその周辺部にほぼ限られてくる。

畿内の高地性環濠集落の多くは、地理的に大阪湾や瀬戸内海、
それを囲む平野部を広く眺望する高台に営まれる。
その多くに火炊き場跡が検出された。のろしによる通信跡と推定されている。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/10(木) 22:05:43.31
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そおたはくめか
うをえ にさりへて のますあせゑほれけ
布留部(ふるべ) 由良由良止(ゆらゆらと) 布留部(ふるべ)

>これ石上神宮の「ひふみ祝詞」とだけど、よく見ると今の五十音訓に似てて、
>いろは歌の古代版だろな。わをん、だけがなく(わを(うぉ))で発音してたんでは。

>高句麗の地名では、一ひ二ふ三み、七なぬ十とく、と発音してた様だし
>現代人がAエ- Bビ- Cシ- Dディ- と発声練習する様な感じだろ。和語も難しいから。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 00:39:58.75
「男子は大小となく皆黥面文身す-三国志がみた倭人たち」 

弥生後期中葉~古墳前期の鯨面絵画(2~4世紀)土器分布図
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a8/b91714890f2803e31299172d7f8a5c1b.jpg

邪馬台国と物部 黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。
https://i.pinimg.com/736x/bc/98/3f/bc983f5ef495dfa44c9f4bb245ead73f.jpg
0121日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 01:16:52.10
>宗像地域と出雲、丹後半島までの日本海沿岸地域だけ、これが出雲文化圏なんだろな。
>中国と同じ6穴の土笛とうけん、はこの地域にしかない。

弥生時代の土笛は、(陶土員とうけん)とも呼ばれる焼物の笛で、起源は中国。
河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡などで出現しています。

西日本で土笛が出土した遺跡の分布図
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/4.jpg
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/201501270037.html
0122日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 01:45:05.94
>>26
>>2の用例に示した通り、「水行十日 陸行一月」とは「水行ならば10日掛かり、陸行ならば一ヶ月掛かる」という意味だからそれは成立しない
水行10日の後に陸行一月するというのは誤読
0123日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 01:56:51.72
>>28
都万厨とかいうのは知らんが、南水行二十日という記述だけで考えれば別に薩摩でも成立し得るし
>>3の通り放射読みなのでそれは別に邪馬台国の位置には影響しない
だが副葬品の分布を見ると北部九州と文化的な繋がりがありそうなのは宮崎側に見える
https://livedoor.blogimg.jp/eternalturquoiseblue/imgs/e/5/e5431193.gif

鹿児島方面は免田式土器がそこそこ出土している一方で、北部九州の海人族が権威の証としたゴホウラガイを沖縄方面から運ぶ際の中継地点になっていた形跡もあり
女王国側とも狗奴国側とも付き合いのあった中立地域ではないかと思う
0124日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 01:58:28.61
>>32
記紀を盲信するとそう考えてしまうのか
どう見ても嘘が書いてあるだろ
0125日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 01:59:37.68
>>34
雑魚は鎧袖一触だったがw
負け犬伊都チョン連呼くんのの願望は儚く消えましたとさw
0126日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:00:54.52
>>35
筑後山門に比定しているのは考古学の成果によるものだが
バカはテンプレも読めないからそんな勘違いをするんだな
0127日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:01:52.85
>>36
その妄想は前スレで木端微塵に論破されていますw

> 853 :日本@名無史さん :2022/11/05(土) 02:33:38.75
> >>469
> 相変わらず救い難いバカだなお前は
> お前と俺とのこのやり取りは
>
> バカ「お前はこの前温度計で気温を測っていたけど、その測定機じゃ電圧を測れないぞ。」
> 俺「何言ってんだこのバカは、温度計は温度を測るためのものなんだから電圧なんて測れるわけないだろ。電圧計使えアホ。」
> バカ「お前が使った測定機では電圧が測れなかった!ブーメラン!!」
> 俺「ダメだこりゃ」
>
> こういうことだぞw
>
> 測定器ってのはみんな用途が決まっていてそれ以外のものは測れないのが普通
> 温度計は温度を測るためのものなんだから電圧が測れないのは当たり前
> 完全一致検索は「世の中でそう言われているかどうか」を測るためのものなんだから俺が発見した事実が出てこないのも当たり前
>
> こんな当然のことも理解できないのはIQ80未満の伊都チョン連呼くんだけだぞw
0129日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:09:39.16
>>44
>何で、考古学的に なのに 神武東征の時期は3世紀末から4世紀初頭頃
それ以前の畿内には鉄すら無く都と呼べるようなものは無かったからだよ
逆にその時期以降は突然大量の鉄器を入手するなど不自然なほどの急成長を遂げる
畿内に初めて都を立てたのを神武東征と呼ぶならば考古学の見地からはこの時期の出来事ということにならざるを得ない


>313年以降は日本海ルート諸国も九州北部海人も 半島に進出して百済新羅の高句麗戦を後押ししてたわけで
その根拠は?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:16:03.27
>>45
旗を貰ったのは台与のときだから卑弥呼の代で朝貢済みの邪馬台国が北部九州に存在した、で問題なく成立するわけだが
筑後山門の邪馬台国が後に畿内に都を移してそこをヤマトと呼ぶようになった
順序が逆なのは君
0131日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:20:19.57
>>49
>単純に解釈するだけなら長門から北に邪馬台国があって、伊都が飛び地でも十分に成立する
伊都の一大率は女王国の北方を監督していると記されているので成立しない
伊都国の位置は女王国連合の中でも北の方でなければならい
逆に言えば邪馬台国は伊都よりもっと南にある
0132日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:24:23.07
>>56
>>129の通り考古学の成果で間違いないがw

お前は>>23の通り考古学という言葉の意味さえ知らなかったモンキーなんだから今更イキっても滑稽なだけw
0133日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:26:36.48
>>62
スレ主という概念自体に賛同しないが>>1>>2は俺だよ
>>123の通り都万には大した拘りは無い
どっちみち邪馬台国の位置には影響が無いからな
0134日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:33:04.47
>>130
〉旗を貰ったのは台与のときだから

??
ヤマト入りした連中が揉め事起こして収拾つかなかったから大陸の介入でトヨが後継者になったんだろ?
八本の属国旗なんてその前のタジマノモリの話であって開戦前の話だろ

マジかw
0135日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:35:05.91
>>126
〉筑後山門に比定しているのは考古学の成果によるものだが

根拠なし

山門の話は歴史学であって考古学ではない

お前は日本語そのものを理解してない

だから昔から伊都チョンと呼ばれる

昔からそう入れてるのにこっちに粘着w
0136日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:37:25.18
>>125
お前が一番情弱でレベルの低いスラングを連発してるだけの役立たずだろw
0137日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:44:30.62
そういや自作の五十猛や五十迹手が同一人物とか抜かしてたあの画像は最近は貼らないのか?伊都チョンww
あれは何度見ても傑作だなw
0138日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:48:14.18
トウケンのメッカは九州と出雲ww
ホアカリ饒速日の渡来した地域がメイン

この楽器が元でホアカリの一族である尾張氏は笛吹連とも呼ばれる様になった。
その頃には竹笛になってたらしいが。
故に尾張氏の立てた葛城坐火雷神社は笛吹神社とも言われている
0139日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 02:51:29.48
神功皇后記が初出の山門がいつのまにか九州から奈良に移転したことになってると主張するアホがいる
0140日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:40:56.91
さて、>>17の図にも書いてあるが前スレで神功皇后がトヨだと書いた
その根拠の一つとして阿知女作法があり、アチメは安曇とされており安曇磯良に対して玉を欲したのは神功であるから
玉を欲したと歌われているトヨヒルメ=神功だという話をしたわけだが、その次のフレーズも興味深い

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%9F%A5%E5%A5%B3%E4%BD%9C%E6%B3%95
>④のほります とよひるめかみたまほす もとはかなほこ すゑはきほこ

「元は金矛、末は木矛」の意味が不明とされているが、俺の説に則ってトヨヒルメを通説の天照大神ではなく、磯良に玉を求めた神功と考えれば理解は難しくない
まず神功が借り受けた玉とは潮の干満を操る干珠・満珠の2つの宝玉とされているが、そもそも潮汐を操ることなど出来るわけがないし、
いくら古代人が迷信深くてもそのような効果が本当にあるかどうかは実際に海に行ってみれば一発で分かってしまうのだから彼らがそんな事を信じていたとも考え難い

また書紀によれば神功に対して
「和魂(ニギミタマ)は王身(ミツイデ=ここでは皇后の身のこと)に従って寿命(ミイノチ)を守ろう。荒魂(アラミタマ)は先鋒として師船(イクサノフネ)を導こう」
という神託があったとも記されている
つまり2つの玉というのはこの和魂・荒魂のことであるが、神道の言う一霊四魂のようなスピリチュアルな意味ではなく、これは暗喩である

筑前国風土記逸文によれば神功の三韓征伐には安曇氏から安曇大浜・小浜の兄弟が従軍していたことが記されている
この二人の伊都国王子こそが和魂・荒魂であり、つまり和魂=長男、荒魂=次男といった程度の意味である
干満を操るとはこの兄弟が半島航路の潮流を熟知していたという事だ
そう考えれば金矛・木矛とはこの兄弟の名前であると分かるだろう
大浜・小浜という海人族としては出来すぎた名は号と考えられる

過去スレで神功の水先案内を務めた射楯大神=五十猛=磯武良の父である雷大臣がヒボコの正体だと書いたが
王子2人の名が金矛・木矛ならその父親である伊都国王が日矛であることはとても自然である

根拠に基づいて論理的に考察し正しく論を立てれば、こうして様々な事象を総合的に説明出来る
これが醍醐味というものである
0141日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:43:15.93
>>140関連

> 465 :日本@名無史さん :2022/09/26(月) 01:06:28.21
> >>434
> イソシと言われて名付けた地名がイヅシなわけが無いだろアホ
> お前のその妄想解釈は>>464の通り考古学的にも否定される
> 伊都の本家は糸島で但馬の方が出先機関だ
>
> 天下るとは海(アマ)下るであり海人族の本拠伊都から船で遠方へ下向すること
> だから神話でも神が天下る際に船が使われているだろう
> こう読み解けばヒボコは渡来人などではなく朝鮮半島に行って戻ってきた倭人だ
> この時代でそれをやった高貴な身分の人間といえばご存知雷大臣だな
> イトテ=射楯大神=イソタケルなので実際には子孫ではなく息子と名乗ったのだろう
0142日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:48:05.64
>>134
ああそこは記憶違いだったわ
だが最初の朝貢から9年も経っているので趣旨は変わらん
お前の負けは動かない
0143日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:50:11.17
>>135
>根拠なし
残念だが根拠は過去にとっくに示されている

293 :日本@名無史さん :2019/09/01(日) 23:41:52.72
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
https://img04.ti-da.net/usr/o/c/t/octagon/image_1378.jpg

また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg

有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>247のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
0144日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:52:24.54
>>136
そうやって何ら論理的に反論できず遠吠えを繰り返すから君が負け犬だとハッキリシチャウんだぞ伊都チョン連呼くんw

>>137
>>8にあるだろ
目まで腐ってるのかw
脳だけにしとけw
0145日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:53:34.74
>>138
>ホアカリ饒速日の渡来した地域がメイン
根拠ゼロの妄想

>この楽器が元でホアカリの一族である尾張氏は笛吹連とも呼ばれる様になった。
根拠ゼロの妄想

>故に尾張氏の立てた葛城坐火雷神社は笛吹神社とも言われている
根拠ゼロの妄想

うーん、根拠ゼロの妄想しかないw
0146日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 03:55:34.62
>>139
神功=トヨの頃はまだ九州が都だからな
その孫である仁徳天皇の御製に九州にしか生えていない檳榔が出てくるのはまだ九州にいたから
0147日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 09:53:24.03
>>142
相変わらず日本語がおかしいな、伊都チョンw
0148日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 09:56:48.20
>>143
で?山門が初出神功皇后であって考古学的な話とは無関係なわけだが?

根拠になんてなってないだろ

山門呼称は記紀服属で後付けの地名。
九州地名はヤマトから山代にかけて存在する
都万だって亀岡近くにあるぜ?w

考古学的な結論は出ていない
0149日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 09:59:49.84
>>140
磯良は魏書にも記紀にも出てこず、神功皇后記の後年の後付けのストーリーに過ぎない
考古学とは一切無関係
0150日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 10:04:48.41
宇佐のアチメワザには石上のひーふーみーが出てくる。
宇佐が物部と和解するのは後年の話
そもそもが応神期以降の神事で後付けのもの
細女に対する細男の舞が磯良舞の真髄
つまり豊彦の事だよ
宇佐の作った神事なんだからそれくらい気づけw
0151日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 10:09:54.97
宇佐がアチメワザを作ったのは、その昔任那が豊日国と呼ばれていて、宇佐や中臣家にも関係する土地だったからだろ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 12:07:04.90
筑後平野が吉野ヶ里の南の地形で筑紫であるならば、その東の山門が邪馬台国になる事はあり得んだろ
どう考えても魏書の記述は変わるだろww
0153日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 12:26:35.43
神功皇后がトヨという事なら女系が五十猛の子孫の紀伊家との関係で同時代の武内宿禰で、安曇磯良と五十猛の同一性は完全に否定される。

時代が激しく合わないw

歴史学の分野であり考古学の範疇ではないw
0154日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 12:37:47.56
今の北九州の山門町なんて、宇佐と中津の地盤の

山門は山口県にもある
山門は愛知県にもある

あそこが邪馬台国なら、神武東征は和歌山に行ってまた九州に戻ってきたという事なのか?ww

山門郡ヤマト町は昔は海の中だしねぇ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 12:58:48.48
福岡県南部にあるみやま市の、瀬高町(せたかまち)大草(おおくさ)という場所はかつて山門と呼ばれたところだが、残念ながら、土蜘蛛伝承のある場所
神功皇后も土蜘蛛を討ってるわけだが、自分の領地を討ってどうするよww

ここに卑弥呼が居たんだというのなら伊都とは遠すぎるww

これだけ地元の話を無視して個人の願望を押し付けるのが伊都チョンw

九州の人たちも迷惑してるだろうなww
0156日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 13:04:10.93
豊国の記載としては宇佐の領域には景行記にもある様に中臣村まであるが、神功皇后が豊日国あたりに居たとかの設定にしなければ無理がありすぎるし、摂津の息長家(母系ヒボコ)は、伊都チョンの話だと、五十猛の子孫てことになって、神代の先祖を征伐に遅参した醜い男という事で解釈する事になるわけだ

異常すぎるトンデモ論ww

考古学がそれの補完に回る事は一切ないww
0157日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 13:08:56.01
>>122
15 南至 投馬國 水行二十日 の前に
完全な段落を読み切れないと、永遠に正しく読む、解決は無い。

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有 -列記21国- これは240年に梯儁が参問した女王所属国の全て
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

この段落は、247年の張政の里程を示した倭人船の行程とは別。
梯儁が名無しの女王国に、次有邪馬国で見た、卑弥呼の臺によって命名した
邪馬臺国についての説明の段落である。 
投馬国も後迄不明確な弁韓を含む弁辰韓5万戸のこと。

16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 は難解だが、主語並列文。
南至 邪馬壹國の、水行十日で邪馬台国に入国してるし、
女王之所都へは海からは行けないので、陸行一月=2千里。 という事である。

18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
は、陳寿の補足だが、15 南至 投馬國 水行二十日 の前に置くべきだったし、
さらに、次に女王宮に到達した梯儁による 邪馬臺国の詳細を記す。
の一文が欲しかった。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 13:11:01.61
景初の直前の鉄の急激な輸入の中心は豊日の勢力であり、伊都にいたヒボコ族の子孫と、ヒボコの分家の中臣家、国宇佐の事であり、朝鮮語の話せない尾張氏の安曇など理論的にあり得ないのである。
中臣家とヒボコ族はその出自から大陸の言葉と朝鮮語が両方話せたであろうな。
それが朝鮮半島の秦国領域
0159日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 14:18:58.95
>>140
倭国大乱記にヒボコ族のの地盤になった播磨風土記ではヒボコの渡来は神代とあるのでNG

そもそも自分の風土記引用はOKで他のは根拠なしとか抜かしてる段階で精神異常の負け犬
0160日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 17:17:32.80
>>106
日本の青銅器が、20BCで、いきなり高度な技術を要する銅鐸
から始まってることから考えると、時期的に徐福が相当しそうだけれど、
そんな奴が国作りをしたら、もはや全中華文明の輸入になってしまうわけで・・・

多分、船団は離散したかクーデターが起きたかで、一部の渡来人が
縄文文化の、原始共産制社会の中に溶け込んでいったんじゃないかな?

銅鐸の起源は、確かに秦公銅?とかにありそうなんだけど
九州で普及しなかったのは、500年以上の穀物生産が有った九州では既に
土地や資産、家族の私有化が進んでいて、縄文祭祀は消滅していたのではないかな?

家族や子供も共有していた採集文化の原始共産制社会なら、
農業労働者を集める祭器として使えそうに思う。

穀物が通貨資産化して、財物食料私有化の弥生時代に移るのは
ここからだが、200BCでは少し遅かったのではないだろうか?

徐福の存在を日本人が知るのは、漢書を読んでからであって
徐福の8代後、とかどんだけ後付けの話なんだ?
聖徳太子の入れ歯がぶっ飛んだよw
0161日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 17:24:34.42
>>160
やっぱり、変換しなかったけど、
秦公銅? は 秦公銅 金専

始皇帝の家系に伝わった金石文入りで
ぼう、という楽器らしい。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 17:51:34.78
>>146
淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さき)つ島も見ゆ
(『古事記』仁徳天皇御製)

奄美・沖縄の御嶽には広くビロウ(クバ)が植えられビロウの木の下が拝所である。
朝廷においても神聖視された植物で、
公卿(上級貴族)に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材や大嘗祭においては
現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられている。

ビロウにちなむ地名として、枇榔島(宮崎県門川町、鹿児島県の志布志市と南大隅町)、
高知県でも温暖多湿な、足摺岬や室戸岬、徳島県南部地域でも、
アコウ、ビロウなど亜熱帯植物が自生している。
0163日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 17:54:01.91
台湾のビンロウ売りはエロい
0164日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 17:56:37.55
倭人伝導入部 と247年張政の乗った倭人船の行程

01 倭人 在 帶方 東南 大海之中 依山島 為國邑 舊百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  濱山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

この後の水行10日陸行1月 同様の難解な主語並列筆法が一か所
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐

丗有王皆統属女王國=女王国に所属する王は全て
郡使=張政 
伊都を往来するのは、女王国の全部の王であって
郡使=張政は、伊都に常駐させられているのである。
魏時の史は2回しかないので、帳政の一回しか伊都に駐留していない。
魏世である世と丗は、卅の時代表記と字が違う。 
多分帳政は卅有る王の意味で書いた。

先行レスとで、行程部分の全文掲載したが、難解箇所はこの二つ。 
他に読めない。 もう、判っただろ? 読むだけで良いんだよ?
0165日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 18:13:31.99
和歌山県の友が島(沖の島・神島(淡島)・虎島・地ノ島の4島の総称)が
「おのころ島」だったと云われる。

仁徳天皇が神島(淡島)が見える和歌山北部、加太に雛流しの淡島神社を遷座されたと伝わる。
0166日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 18:19:02.07
>>163  ビンロウとビロウは似た名だけど別種らしい。

ビロウ(Livistona chinensis、蒲葵、枇榔、檳榔)は、ヤシ科の常緑高木。漢名は蒲葵、
別名はホキ(蒲葵の音)、クバ(沖縄県)など。古名はアヂマサ。

ビロウの名はビンロウ(檳榔)と混同されたものと思われるが、ビンロウとは別種である。
0167日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 18:30:49.22
>>165
おのごろ島は神話なんだからどれでも良い。

実在可能性のある仁徳天皇が作った歌なら
時系列を壊さないで比定する必要が有る。

半島の王に忠誠を誓わせたとして
七支刀370年の仁徳天皇は、使を派遣スリャ良いだけで
そんな遠くまで行く意味が有るのかね?
0168日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 18:34:07.25
上の方で話題になってた宇佐のアチメワザと

朝廷においても神聖視された植物、檳榔(あぢまさ)の島のアヂマサと関連あるかも
神道の儀式には檳榔(あぢまさ)の植物を何かに使った?
現皇室でも、大嘗祭には用いるらしいから。

阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう、等々)
0169日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 19:28:34.13
倭人伝を正しく読めば良いだけなんだから
次有、簡単な事だろ?
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
 大倭ってなんだ?

50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 亂 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 傳辭 出入 居處宮室
53 樓觀 城柵 嚴設 常有 人持兵 守衛
 九州にある伊都の一大率って? 本州と合流しちゃった女王国の防人なの?

54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
 女王国は、倭国内のごく一部の小さい国なんではないかな?

倭人伝序文
其後 高句麗背叛 又 遣偏師 致討窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海
長老? 有異面之人 近日之所出 遂周觀
諸國 采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀

卑弥呼は小倭の王であり、大倭については魏時には何も知らない。
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
正しく読めただろ?
0170日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 19:51:09.62
こんなの見つけたわ

>平家物語 二・阿古屋之松
「日本は、昔三十三か国にてありけるを、中ごろ六十六か国に分けられたんなり」

六十六好きだね、日本さんw
(陸奥国を六十六郡(一部、出羽国)に分けたりしてるしw)

倭王武も「西服衆夷六十六国」

昔三十三か国って、どの範囲で、どの国々のことかなー?w
0171日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 21:19:41.70
岡山県内では、22遺跡で13000個を超える桃核が出土。
特に上東遺跡(倉敷市)、津島遺跡(岡山市北区)、百間川今谷遺跡(岡山市中区)
などでは、弥生時代の溝や河道などから大量に出土している。

岡山では桃核出土は当たり前でありすぎた故に、
「全国どこでも同じように出土する」と思われていて、考古学者の間では注目されることがなかった。
岡山県南の大弥生後期遺跡では、桃核祭祀は一般的に、水を祀るものとして行なわれていたのではないか。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 21:20:48.53
岡山遺跡名 桃核出土総数 出土数(弥生時代~古墳時代)

上東遺跡  9,608  9,608 波止場状遺構
津島遺跡  2,415  2,415 河道
百間川沢田遺跡 460  460 井戸 401 井戸 50
百間川米田遺跡 400  242 土坑 76 井戸 52 井戸 43
百間川今谷遺跡 384  384 溝 316 水田 63
鹿田遺跡    33   7以上
百間川原尾島遺跡22   22
雄町遺跡    10   10
南方遺跡   多数    多数

纒向遺跡(奈良県) 土坑 2,765   弥生後期
布留遺跡(奈良県) 流路上層 1,546 古墳後期
南滋賀遺跡(滋賀県) 溝 520    古墳後期
前田遺跡(島根県) 河道 408~   古墳後期?
0173日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 21:24:11.03
上東遺跡の位置は特殊器台祭祀、弧帯文祭祀で有名な、弥生後期最大の墳丘墓、
楯築遺跡から直下の位置にあり、王莽の新の貨幣である貸泉も 1 枚見つかるなど、

吉備の王権の一大貿易港で行われた出航時の祭祀には、
毎回土器に盛った様々なものが供えられたのだろう。
そしてその祭祀の中心に桃核があったはずである。
0174日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 22:04:40.94
>骨を灼きて卜し、以って吉凶を占ふ。先に卜するところを告げる。その辞は令亀法の如し。

卜骨の出土数で鳥取県青谷上寺地遺跡は群を抜いているが、
大阪、奈良、岡山、東海、関東、神奈川県三浦半島の先も卜骨の出土数が多い。
卜骨は海人族が行った占いだったのであろう。

卜骨の分布と出土数
https://0743sh0927sh.up.seesaa.net/02140958N000000000/156469753986455539610.jpg
0175日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:10:09.10
「男子は大小となく、みな黥面文身す-三国志がみた倭人たち」 

弥生後期中葉~古墳前期の鯨面絵画(2~4世紀)土器分布図
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a8/b91714890f2803e31299172d7f8a5c1b.jpg
https://i.pinimg.com/736x/bc/98/3f/bc983f5ef495dfa44c9f4bb245ead73f.jpg
邪馬台国と物部 黥面の土器は東海と岡山吉備・広島安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。
0176日本@名無史さん
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2022/11/11(金) 22:16:30.96
 最近、東大阪の鬼虎川遺跡で巴形銅器が付いたひし形模様の描かれた楯が出土し
それが吉野ヶ里遺跡から出土した巴形銅器の鋳型とピタリ一致したらしい、

その遺跡の東正面、生駒中腹にある石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

 饒速日尊と宇摩志麻遅命を主祭神とする神社、
吉野ヶ里遺跡はニギハヤヒ、物部氏の本拠地だと前々から思ってたが、確信がもてた。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:19:04.93
その石切神社の南側に近鉄額田駅があって、その南側に枚岡駅、枚岡神社がある
枚岡神社は中臣氏の氏神で主祭神、天児屋根命、比売御神、経津主命、武甕槌命

なお、吉野ヶ里遺跡には今ひし形模様、巴形銅器が付いた楯が観光用に置かれてるが
あれ、石切神社鬼虎川遺跡から出土した楯がモデルだからね。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:23:01.99
中臣氏はニギハヤヒの家来で、
関東茨城の鹿島神宮と千葉香取神宮などと関係が深い。

茨城水戸市には那珂川、霞ケ浦鹿島神宮の中臣氏、
香取神宮のフツヌシ(経津主)と九州脊振山コンビ。

霞ケ浦周辺からは、関東では珍しく巴形銅器も結構出土する地域。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:28:26.52
巴形銅器って、あれ太陽信仰のシンボルで誰にでも提供する物でなく天孫守護的な、
近代風に言えば親衛隊、皇宮護衛官の様な印で、日章旗、旭日旗、などと同じ類、
部外者は近づくなと威嚇するものだろう。

博多湾奴国出土の巴形銅器鋳型からは、香川さぬき市から出土した巴形銅器が作成され
そばには、百襲姫伝承のある水主神社があり、関連が感じられる。
尾張一族が統治してた名古屋周辺、からも結構出土してる。

この巴形銅器の鋳型は九州北部吉野ヶ里と奴国地域の2か所からしか発見されてず
出雲には欠けらが有るとか無いとかと言う珍しい青銅器らしい。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:31:33.36
宮下文書と云われる可なり怪しそうな古文書がある、富士王朝とか何とかの?

富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある
北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司、宮下家に伝来した古文書

これを整理し1921年(大正10年)6月25日、宮下家文献をもとに
三輪義熈が著した概説書となる『神皇記』が隆文館から発行された。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:37:08.16
そして、吉武高木遺跡群では1981年~2005年まで19次にわたる発掘調査が実施。

当然古文献を元に宮下文書が書かれたのが大正10年で
1981年発掘の遺跡の事など知るわけがない。

それなのに発掘記録と宮下文書に書かれた内容がピタリと一致してて
ある一部分の内容は本物の古文献が残ってて伝承されてたんだろうと思う。

吉武高木遺跡群の大型建物(長井宮)と日向川と室見川の河愛(合流地)の
埋葬墓地との位置関係が見事に一致しててとても信じられない。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:42:34.36
吉野ヶ里遺跡と「天孫降臨」

「南の水門」とは
『宮下文書』には「南軍」について「附地見島、南の水門より攻むる大将は、
元帥火須勢理命(海幸彦)、副帥経津主命・建御名方命(諏訪大社の祭神)、
軍勢五萬餘神とす」と記す。 「附地見島(筑紫)」の「南の水門(有明海)」から攻めている。
「南軍は南水門より上陸し、賊の大軍と戦い、奮撃轉鬪六百五十日にして、
遂に賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。

「南の水門」とは「有明海」であろう。 「南軍」は長崎を廻り、有明海に入り、
「佐賀県南部」に上陸している。 「賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。
先住民(熊襲?)は「佐賀県南部」から「西北方向」に逃げている。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:48:58.14
つまり、生駒連山、山体自体が物部軍団の山城だった、奈良盆地に対して山の門番でヤマト?

生駒山のふもと一帯は物部一族、家臣団の支配地だったんだろう、
あの弓削道鏡の弓削神社や物部氏と関係深い矢作神社、渋川神社が八尾市にある。

そして後、物部氏は奈良盆地の石上神宮へ
枚岡神社中臣氏は関東鹿島神宮から白鹿に乗って春日大社へと移ったんだろう。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 22:57:10.19
九州博多湾、山幸彦ニ二ギ系と
有明海、海幸彦ニギハヤヒ系が全国統治へと乗り出した、
まるで、薩長土肥の志士たちが革命、明治維新を達成したように。

神話や神社伝承伝説を見てると、いかにニギハヤヒ系物部集団が
全国、東北、北陸から九州まで広がって行ったか分かる、まずは物部王朝が先行し

追いかけニ二ギ系の神武東征軍、天孫族たちが巻き返しし王朝奪取へと進軍、
悔しいけど物部さんはイワレヒコさんに、同じ天孫組として禅譲させられたんだろうな。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 23:03:16.12
>ニギハヤヒが瀬戸内海を移動して大阪湾に現れたのが紀元前2世紀の終わり頃だろな。
>巴形銅器が出土した層が弥生中期だと云われてるから。
>そして、神武東征が建武中元2年(紀元57年頃、奴国王が金印授受)の後だろ。

弥生中期から後期の高地性集落が(歴博年代)紀元前2世紀~紀元2世紀。
環濠集落も巨大化していき、特に顕著となるのが弥生中期、紀元前2世紀の終わりごろで、
大阪湾岸から瀬戸内・北部九州にかけて集中する。

山口県でも清水遺跡など高地性環濠集落があり、紀元前1世紀~紀元2世紀、
広く瀬戸内から大阪湾岸に分布している。
紀元3世紀以降になると近畿とその周辺部にほぼ限られてくる。

畿内の高地性環濠集落の多くは、地理的に大阪湾や瀬戸内海、
それを囲む平野部を広く眺望する高台に営まれ、
その多くに火炊き場跡が検出された。 のろしによる通信跡と推定されている。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 23:09:40.57
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そおたはくめか
うをえ にさりへて のますあせゑほれけ
布留部(ふるべ) 由良由良止(ゆらゆらと) 布留部(ふるべ)

>これらは石上神宮の「ひふみ祝詞」なんだけど、
>よく見ると日本語の基本音が全て含まれてて、今の五十音訓に似ている、
>いろはに歌の弥生版だろな。わをん、だけがなく(わを(うぉ))で発音してたんでは。

>高句麗の地名では、一ひ二ふ三み、七なぬ十とく、と発音してた様だし
>現代人がAエ- Bビ- Cシ- Dディ- と発声練習する様な感じだろ。和語も難しいから。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/11(金) 23:17:04.57
>九州北部、宗像地域と出雲、丹後半島までの日本海沿岸地域だけ、
>これが後の出雲文化圏なんだろう。
>中国と同じ6穴の土笛とうけん、はこの地域にしかない。

弥生時代の土笛は、(陶土員とうけん)とも呼ばれる焼物の笛で、起源は中国。
河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡などで出現しています。

西日本で土笛が出土した遺跡の分布図
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/4.jpg
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/201501270037.html
0188日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 01:47:00.03
対馬文字(つしまもじ)
神代文字の一種。対馬卜兆文字(-まちがたもじ・うらかたもじ)とも呼ばれる。
日本語の五十音を表す47種の文字からなる。撥音の「ん」に相当する文字はない。
(「ん」が出来たのは室町時代以降である。)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Tsushima_characters_1.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CPn7s5zVAAERIsZ?format=jpg&name=900x900

亀卜の卜兆(うらかた)から生まれた文字とされ、対馬市の雷(いかつち)神社で行われる
亀卜神事では、卦を読む際にこの対馬文字やアナイチが用いられる。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 01:59:43.05
>対馬文字と非常に似ている。

縄文時代中期の-刻文付有孔石斧
山形県羽黒町中川代遺跡から、縄文中期の土器と共に右のような磨製石斧が出土している。
これが大陸から渡来した玉鉞(えつ)の一種なのかどうか、未だ結論は出ていない。

中国・山東大学教授の蔡鳳書の所見は、「大?口文化(黄河文明の一つ)の所産と思う。
文字は甲骨文ではないが、鉞形は王の意味で、上の孔は白、つまり記号も皇を表わしていて、
腰に佩用したもの。孔の開け方は中国風に両面から開けている」 

http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006toraibunnka/kokumonntuki_yuukousekifu300.jpg
http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006_1tairiku_karano_toraibunnka-2.html
0192日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 02:51:27.87
『隋書・倭国伝』の原文を見てみます。

「無文字、唯 刻木 結繩、敬佛法 於百済求得佛經 始有文字」と書かれています。

読み下すと、「(倭国に)文字は無い。唯(ただ)、刻木(こくぼく)結繩(けつじょう)のみ。
仏法を敬(うや)まい、百済於(よ)り仏経を求め得て始めて文字有り」となります。
「無文字」とは、中国人が理解できる漢字では無いと言う意味です。

「刻木(こくぼく)」とは「書契(しょけい)」のことで、「木に文字を刻む」という意味。
「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」です。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 02:54:09.77
>>188-189
倭国では仏教伝来以前には「刻木文字、結繩文字」が使われていたと記しているわけです。

この「刻木文字」は、古いものですと紀元前14世紀(いまから3400年前)の
遺跡である河南省安陽市の遺跡「殷墟(いんきょ)」から発掘されています。
別名が「甲骨文字」です。「甲骨文字=刻木文字」です。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/ngyope/20210622/20210622054836.jpg

当時は、木に刻んだ文字の史料の方が圧倒的に多かったのでしょうが、
木は長い歳月の間に朽ちて溶解してしまうので、
現存しているのは亀の甲羅や鹿の骨に刻まれた文字である甲骨文字だけが残ったのです。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 08:33:57.48
狗奴国は熊襲のこと
元は中国からやってきて九州南部から北部を拠点にして勢力を築いた

狗は中国語で犬のこと
中国の福建省に熊曾於族というのがあるがこれが昔に渡来してきたのが日本の熊襲族となった

くなこくと読むけどこれは呉音であり、
福建省で話される読み方である

卑弥呼がこれを読んでいた音読も呉音であり一致する
0195日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 10:47:25.07
>>160
えっとですね。徐福は紀元前200辺りではありませんでしたっけ?

出雲の神戸家からタキツヒメが輿入れして和名ホアカリになったそうです。
そして国譲り事件は、そらから程なくして起きたそうです。
やられちゃった家だから当然に覚えてるわけです。
手引きしたのは千家でした
0196日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 12:29:16.76
>>168
一応、アチメワザは、神事を作った宇佐側によると朝鮮語古語が由来らしいですね
0197日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 12:31:58.18
>>189
日本には普通にシュメールとかの文字もあるよね。
別段、文字がなかったわけではない。

しかし漢字はすごいな。主流派になったのは文字を独占しなかったからだと思う
0198日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 12:34:32.58
>>183
生駒山は、最初の東征の際は大彦の陣地になり、景初動乱ではイクメの陣地になったそうです。

イクメはそこでは足止めになりタジマノモリより奈良入りが遅れたそうです
0199日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 12:36:35.00
>>184
実はその磐余彦さんが物部さんだったそうで
倭国大乱期の鉄があまり無かった頃から強かったという事なのでしょうね
0200日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 12:37:50.77
>>192
隋書って、聖徳太子のお手紙読んでるくせに
倭国に文字は無い?魏志のまま、ってのはマヌケだし。

日本に文字が入ったのは、370年代七支刀と同時期で、
百済の朝貢建国直後、仁徳天皇に馬2頭と阿直岐師が贈られた時。
当分博士は皇室の家庭教師だけど、仏教公伝よりは150年以上早い。

400年から王が漢名使った倭の五王時代なのはこれが有ったから。
同様に重臣となる中央豪族に氏姓を与えたのも表意文字の漢字を理解してから。

この中央豪族を支える、地方領主が祀る氏神と言うのも
仏教公伝で寺院作るついで隆興が多いけど、
これ以前ではない。 伊勢神話ベースが可能なのは600年以降。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 13:06:10.47
ニニギとニギハヤヒは同じ物部
0202日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 13:10:08.42
>>200
文字に関しては魏書の頃からもあったでしょ

でなければ朝貢は出来ない

朝貢してる国に関して言及してるんだから扱いはあった。つまり普及はしてないという事ではないですかね
0203日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 13:32:01.44
>>160
〉そんな奴が国作りをしたら、もはや全中華文明の輸入になってしまうわけで・・・


確かにその通りです。
半島がその典型例です。

しかし日本は母系社会であったので習合相手の習慣は無視できなかったでしょうしね。
通い婚で子供は女系の実家で育てられます。

この違いが出た可能性はありますね。

武内宿禰も和歌山で育てられました
0204日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 13:49:16.62
>>185
構造船の出土から見ても畿内と九州の文化差は内容に思えます。
ただ、水稲は明らかに九州からヤマトに入ってきていて、前3世紀からの中西遺跡の規模は日本有数で、九州でも見られない規模でした。
征服の的としては狙われると思われます
0205日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 16:17:40.80
>>203
そういう肯定的な話では無くて、
徐福王権が8代続いていたら、日本でも200BCの
中華文明レベル以上の国家建設が可能という事ですが、

500年の稲荷山鉄剣銘文の武人8代はだいたい
倭人伝250年~200年位まで遡れる試算だったけど、
200BCから400年間銅鐸文化続いていて

8代後で福岡の姓? ってのは不可能であって
文献のデタラメっぷりしか感じないんだけど?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 16:32:58.28
>>188-189 続き。
これは京都五条天神社の「宝船図」だけども、明かに「対馬文字」の系統で
弥生時代ころには広く支配層神官たちの情報伝達として使われていたのでは、
漢字が入って来てからは、細々と卜骨占いとしてだけ残った。

h□□ps://stat.ameba.jp/user_images/20130203/22/taka-hannari/fc/b4/j/o0800052212404408292.jpg
h□□ps://kyotowalker.club/wp-content/uploads/2017/12/f1c18b8679704e4f57489c8a99dc8254-800x555.jpg
0207日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 16:43:09.69
>>202
確かに。 一大卒の検閲は

王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國
皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯

なのに、木簡の封の為の金印貰って、文字がなかったら
封書の検閲? 読めないのに?

で、其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰 制詔 親魏 倭王 卑弥呼
の 超難読、固有名詞漢字ばっかしの皇帝の文書も
何言ってんだコイツ? な わけですが?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 17:04:08.24
>>206
貧乏な占い師に見せかけて、スパイ活動と情報伝達に使ってたんだろ
当たるも八卦当たらぬも八卦と言いながらね。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 17:05:56.04
>>205
一応、文字の話が出てるので絡めて書きますが、ウエフツミだか、ホツマツタエだかは神大文字で書かれてて、ウガヤフキアエズに関して言及

そういう流れならあり得なくもない

福岡の福は徐福の福だから。
元々文字を持ち込んでたわけだしね
0210日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 17:43:01.84
>この経津主神(ふつぬしのかみ)の方が可能性が高いのでは?
>中国の古典などでは徐福より徐市(じょふつ)さんの名前の方がよく出るらしい。

『史記』には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」

経津主神(ふつぬしのかみ、正字:經津主神)は日本神話に登場する神である。
『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。
別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。
『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと、布都努志命とも)
として登場する。『常陸国風土記』に出てくる普都大神(ふつのおおかみ)とも同視される。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 17:50:56.11
>>209
徐福自身が、表意文字の
氏姓を名乗ることや与えることも、さらに
秦字体での史書を残すことも出来る訳で、なら
日本独自の古代文字や万葉仮名も生まれない。

>福岡の福は徐福の福
福は名で、徐が姓だと思うけどね。

銅鐸ルーツの労働者青銅職人の存在要因にはなっても
支配階級の人間が文字や貨幣、軍事、税制、統治みたいな
支配システムを持ち込んだら日本文明の発展過程が変わってしまう。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 18:49:02.86
>>210
フツは、徐市の市からきてるそうです

徐福の字名は、彦福だか、徐市なんだそうです
0213日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 18:55:25.92
なので、フツヌシは物部で祀られるわけですね
0214日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 19:38:09.36
銅鐸の普及に徐福の渡来が係わった可能性は高い。
しかし、徐福中華荘園が何処かに発展した形跡はない。

つまり渡来の支配者層は受け入れられず、
奴隷労働的な銅鐸工人だけが残った。

神武東征がAD200年なのでは? と言う話なら
四道将軍やヤマトタケル、神功皇后のような、被り時系列神話は
倭人伝で313の漢四郡撤退、250AD以降の古墳時代まで成立しないし
日本に軍事的派遣政権は、源平以降信長まで成立して居ない。

ヤマト奈良平安の成文化王朝は実在なのに
古墳時代370年仁徳400年倭の五王の歴史を消したのは
ほかならぬ、日本の朝廷、皇室である。

盗掘自演なら墓掘っても何も出ないだろうけど、
ナルちゃん? とか、
国民の歴史の真実、公開できるんじゃないのか?
知らんけどw
0215日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/12(土) 19:48:12.14
九州始め西日本の方々盛況ですね。

その西の英雄フツヌシ、タケミカヅチがなんで香取、鹿島というわが関東の縁に祀られてんでしょうか。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 09:42:06.97
>>215
フツヌシに関しては祀られる様になったのは記紀成立後かもしれませんが、少なくともその前から物部氏は入ってきていると思われます。

景行期ではタケル伝承が各地にあります。秩父神社の近くにはカガセオ伝承と真名井地名もありますし、カンナビの武甲山の熊野修験の社家は守屋姓。
碓氷峠の三代熊野のひとつ、熊野皇大神宮にもタケル伝承
関東から中央道辺りで諏方まではタケル伝承
何より諏方においては神長官家に、守屋の次男が養子入り。五官の祝の次席は江戸時代まで再興された物部氏でした。
諏訪からは富士山が見えますので、大きく分けて二度ほど流入する機会があったのかもしれません。
流れた先ではさほど大彦や出雲系の国造たちと争った形跡が伝わっていません。
つまり、中臣の様な仲の良い受け入れ先が既にあったと考えられます。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 09:54:58.80
>>214
〉神武東征がAD200年なのでは? と言う話なら
四道将軍やヤマトタケル、神功皇后のような、被り時系列神話は
倭人伝で313の漢四郡撤退、250AD以降の古墳時代まで成立しないし
日本に軍事的派遣政権は、源平以降信長まで成立して居ない。

4大将軍は全て倭国大乱期の人物で、やられちゃった側の勢力で、部下でもなんでもないそうです。
これが崇神や垂仁期にずらされて圧縮されて倭国大乱期のことは記紀から消されました
古文時代は景初動乱でひとが大勢死んだから墳墓が沢山できたんじゃないでしょうか?
前方後円墳の元になったとも考えられているのが吉備の楯縫遺跡で、独特の模様の板が巻向の埋没してたやつかどうかは忘れましたが初期の前方後円墳からも出土しています。
特殊器台は出雲の四隅突出型墳墓にも影響を与えたと考えられ、突出部に特殊器台が備わっていたタイプが発掘されていたと記憶しています。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 10:59:33.54
>>214
〉しかし、徐福中華荘園が何処かに発展した形跡はない。

つまり渡来の支配者層は受け入れられず、
奴隷労働的な銅鐸工人だけが残った。

一応、家電の本だと、徐福は吉野ヶ里で物部王国を作ったとあります。
初期型銅鐸の鋳型と現物が出ていることからも原初の銅鐸祭祀は九州にも短時間は存在していたと考えられます。
そして中国の様式に近い環濠と防御柵がありますので雰囲気は抜群ではないでしょうか?
また、当時我が国になかった合金の技術で祭器を作りますので結構大事にされたんじゃないかな〜とか思ったりします。
技術者が大事にされないのは半島の文化の様に思います。

そして、吉野ヶ里は縄文時代から続く遺跡。
つまり徐福集団を受け入れた母系の部族が住んでいた場所の様な気がしています。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 11:15:59.66
>>205
〉8代後で福岡の姓? ってのは不可能であって
文献のデタラメっぷりしか感じないんだけど?

確かにデタラメだと思います。
どう考えても鹿島に中津や物部が落ち着いた後の編纂です。
種本になった114点の資料も現物は確認されていませんし、そもそも富士王朝が徐福より前に遡る事はあり得ませんし、武内宿禰も同様です。

問題はなんの目的でそれを後年に書き換えたのかですね。
物部中臣藤原麿なる怪しい人物が書き成立後に昔からあった伝承の書留を後年に書き換えたとしか思えません。

国譲りは実際には出雲に土地を提供してもらったホアカリが前2世紀あたりに当時の大国主と事代主を同時に殺害した事件だったそうですが、当然にその際に先祖は同じとはいえ、物部のフツヌシが立ち会う事はできません。
当然にヤマトでの出雲の分家の登美家の第4代ミカヅチ(→後年に中臣家の祭神になった)も国譲り事件に立ち会う事は出来ません。

国譲りに関して藤原の功績や関わりをファンタジーで描いたものと思われます。

宮下文書の徐福や武内宿禰の話はそれと同じ様な事をしているだけと考えられます。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 11:23:33.18
つまり、フツヌシ(饒速日)ではなく、ホアカリからの分家である安曇が伊都にいて王家であったなど、宮下文書とさして変わらないインチキのキナイコシ説だという事になるわけです。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 11:29:13.03
宮下文書の重要な点は他の文書でも言及されていて、解釈上は大陸の史書から読み取ると朝鮮系になるウガヤフキアエズの系図が書かれている事
そして、それが物部の祖と共通の系図だよと書いた事です。
その必要性や背景が重要と考えられます。

そして、宮中との付き合いが欽明からなくなったという事は、継体系の蘇我、三国国造系統の政権とは付き合いが無くなったという事。
要は武内宿禰系の子孫の系統とは折り合いが悪くなった事です。

そうすると誰が改変して種本を隠して宮下文書にしたのかが見えてくる様な気がします。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 11:58:48.34
一般論としての鉄の伝来ルートですが大きく分けて3つ
第1は朝鮮半島から九州北部に伝わった弁辰鉄資本ルー ト
第2は朝鮮半島から山陰地方に伝わった大陸産鉄族ルー ト
第3は中国沿岸から九州熊本地方に伝わった海辺産鉄族 ルートである

第1ルートがニニギ族
第2ルートがスサノ オ族
第3ルートがアタ族の伝承
になっていると考えられているそうです。

それぞれにおいては素材の種類は異なっており、出雲の砂鉄は磁鉄鉱の砂化したもので技術的には親和性は高く、これが直接製鉄であるタタラに当たると思われます。

確か3世紀よりも前の鉄は大陸の史書には銕と書かれていますので、一部の変わったひとが主張する伊都の鉄の独占説は考古学的には証拠がありません。

そしてダメ押しなのは1のルートのみ間接製鉄で、2と3が直接製鉄。
3は褐鉄鉱、沼鉄になっており素材としても各ルートを裏付けています。

重要なのは北九州では古代製鉄の技術を持っていなかったという事です。
これが物部とアタ族のと協力関係に繋がっていったと思われます。
現在ではコノハナサクヤヒメはアタ族のアタツ姫ではないかという話は口伝の本以外にも言及される様になってきています。

もしかしたら佐賀の古い水稲は、アタの領域を示しているのかもしれません。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 12:07:29.19
人の住めない地域を開拓できた水稲は、もしかしたら古代製鉄の材料である沼鉄鉱の採取と関係があるかもしれません。
鉱物採取と新規の領地の獲得、そして茅の根につく高師小僧などの鉄の採取が同時に行えた可能性です。

大阪湾は確か湖沼鉄で血の海的な名前で呼ばれていたと記憶しています。

諏訪における湖沼鉄は縄文中期から行われていたという学説があります
0224日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 12:26:17.67
九州における古代製鉄の分布から言っても、大陸とのパイプがある渡来者は、北九州に来たと考えられます。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 12:44:45.04
>>224
鉄が日本に来たのは弥生前期辺りで銅とかわらないくらいでかなり古い
しかも銅の方が価値が高かったらしいけどどうなんだろう?
0226日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 12:49:02.34
三輪山は鉄分の多いはんれい岩から成り立っている山になる。
この山の山麓扇状地ははんれい岩の風化によってで きており,多数の雲母と含鉄石英砂も混在していることから鉄の製錬は可能であると言われている。
事実,三輪 山西南麓には金屋遺跡があり,前期縄文土器や弥生時代の遺物と共に,鉄滓や吹子の火口,焼土が出土している。だ からこそ「金屋」と称したのであろう。
また,三輪山の山ノ神遺跡からは刀剣片と思われる鉄片が出土し,穴師坐兵主神社には鉄工の跡がみられるという。
以上のことから三輪山が古代の 鉄生産に関わる山であったことが分かる。
大和の民が三輪山を神聖視したのは,その秀麗な山容もさることながら, その山麓に営む水穂耕作に不可欠な鉄製品の原料たる砂鉄を産する山であったからではなかろうか。

三輪山の北側、奥不動院の駐車場から直ぐ近くに白山と呼ばれる風化した岩石の景勝地がある。

つまり、鉄器がなかったわけではない。
景初直前における九州の急激な鉄の増加は輸入鉄によるものであり、国内で製鉄したらとても燃料となる木が足りない。

伊都の鉄は単なる輸入の現象であって独占ではないとしか判断はできない。

鉄を買っているのは大陸の史書にも出ている通りである
0227日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 12:53:33.16
>>225
実は銅の露鉱山は昔から出雲にありました。
シュリンケージというか、鉱脈に沿って掘るスタイルだった様です。
物流をカバーするには当然輸入はあったと考えられますが、錫と鉛は全量輸入

確か錫を増やすと白銅に
通常の配合だと、金ピカになる様ですね。
錆びにくいし、見た目もゴールドに近いわけですから、最新の合金技術の青銅器はとても貴重だったと考えられます
0228日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 13:27:05.46
>>224
あと、湖沼鉄は非常に品位の悪い鉄で、鋼までとはいかず、鏃やヤリガンナの先端程度の利用に留まっていた様です

輸入鉄の優位性は正に品位と考えられます。
昔のほぼ使い捨ての鉄は青銅より貴重品だったかと言われれば微妙〜ではないでしょうか?

話は変わりますが、我が国の湖沼鉄の分布は、宇佐から瀬戸内海南側、そしてヤマトを通り内陸を通して諏方まで分布します。

ヤマトを原初に開拓したのは、鉄という視点から見ればアタ族の可能性があると考えられます。
アタ族と摂津三島家は近しい一族だったのかもしれませんね
0229日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 20:55:38.10
>>221
宿祢の話が面白いかな?

後宮では、各豪族の姫が皇子を産み育てる訳だが
皇位継承者は一人で、それが後宮政治。

タリシヒコの後宮には700人の女官が在った訳で
その、お局? 次の王を見定めたのが日本の王ではない推古なんだろw

宿祢と言うのは、後宮生まれの皇族であって宮家が武人化したもの。

2~3代以降なら、天皇直系で氏姓は持たないけど、
稲荷山鉄剣銘文のオワケみたいに何代も、別を名乗ったのでは?
0230日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 21:24:08.63
日本武尊と武内宿祢って、王族か豪族かだけど
時系列やキャラって被らないか?

まあ日本王室の起源は、日本には絶対、天孫が、
宮崎や北アルプスじゃない、天上の高天原からは降臨しないわけで、
絶対に事実上の姫が後宮に上がった、
諸豪族=有力中央氏族が起源なんだが?

源氏物語じゃ、戦争しないで、
後宮でみんな仲良くイチャイチャしてるだろ?
言っておくが、権力闘争の毒殺とか、やめてね。
by聖徳。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 21:38:07.08
済まない。 倭人伝に時系列を戻したいんだが?
物部が九州とか、九州説スレじゃ、意味不明なんであって? 
とりあえず。

七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 ?辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世

表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは百済音の漢字変換だからである。

倭王の高句麗交戦と半島利権の主張の朝貢は400年以降であり、
この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える、属国教化ための博士も送っている。
百済はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。完全な傀儡である。

裏は百済で書かれた。 聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子を倭王に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。
和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。

百済は九州諸国同様、日本の新参一領主国であった。

仁徳から雄略は物部の王であって、七支刀を物部の氏神、
石上神宮に保存して、蘇我系となる王、継体には伝えなかった。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/13(日) 21:56:57.54
記紀厨が倭人伝の話が嫌なら
日本の古代史の話はどうかな

隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文

癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟

意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。

本居宣長のような記紀信仰の学者が倭人伝等を読んでも正しい解釈はできない。
この金石で503年は倭の五王雄略の後であり、継体は蘇我系台頭のきっかけとなるが
物部系雄略の後宮をも継承し、百済王の朝貢を受けた正規の直系であると考えられる。
継体は倭の五王外交を終わらせ、傀儡百済による中華文明吸収に転換する。

百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。

百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 09:40:23.70
>>229
〉宿祢と言うのは、後宮生まれの皇族であって宮家が武人化したもの。

宿禰姓は普通に物部の中での役職らしいですよ
故に事代主系統の出雲の冨太田彦→野見宿禰が存在します。
からはイクメから宿禰姓を貰いました
0234日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 09:45:27.29
>>230
〉日本武尊と武内宿祢って、王族か豪族かだけど
時系列やキャラって被らないか?

基本的に大王自ら軍を率いて戦うのは隠す方針だったらしく
関東方面にはタケル
九州方面には景行が軍を出したそうです。
故に関東方面に物部氏が入ってるわけです

武内宿禰は、初代は武内太田根。神功皇后のときは孫だかの、西都原の物部水軍の長になっていた武内襲津彦だったそうです。
武内宿禰も役職名なんですよね。ヒボコの使い方と同じで。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 09:56:11.12
>>231
七支刀は、神功皇后経由ではなく、物部に直接渡されたというところが重要な点と思われます。

口伝の本では、実は成務が貰ったそうです。
実は成務は死んでおらず、奥方の神功皇后に三韓征伐(実際には高句麗は従わなかってのでニ韓征伐)を反対した事で、三行半を突きつけられたそうです。(故に名前がタラシ彦)
結局、奥方を見返したかったのか、成務は半島に参戦します。
成務は半島で半ば傭兵の様な暮らしをしてそのまま半島で没します。
故に、筑紫では物部は徴兵され、物部の勢力は衰えたそうです。
吉野ヶ里は、不思議と3世紀以降に衰亡レベルの文化の後退が確認されています。
半島の前方後円墳は少し時代はずれますが物部関係者の作った古墳なんだそうです。
時代的に私は蘇我かと思ってましたが。

故に宇佐古伝では、神功皇后の子供が不義密通の子としてかかれ、竹葉瀬君を正当な神武(崇神)の子として書いています
成務が生きていたから不義密通と書かれたわけですね。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 11:09:10.32
成務を見限った皇后が次に頼ったのは九州の豪族である仲哀でした。
彼は後年の中臣家であってので、古い呼び名である中津を用いてナカツヒコと書かれました。
故に皇后が生きていたにも関わらずタラシが入りません。
この辺の設定のために、中臣やヒボコを物部に近づけたくてウガヤフキアエズや、宮下文書の様な同祖論を展開した可能性があります。
記紀編纂時は、中臣・息長家・物部(神道派)vs武内宿禰系(蘇我・三国国造系統・仏教)の争いがあって暗闘が繰り広げられて居ましたから。
出雲は中立に近い立場だった様です。
大彦系の関東は経済的には蘇我陣営でした。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 11:19:52.63
>>232
あの銘文は、漢字を万葉仮名的に使用していること、天皇ではなく「大王(おおきみ)」と表記されていることなど古代史研究上きわめて重要な資料と考えられます。

確かにオホド、あり得そうですよね。
魏書の人物も基本的には音感の当て字であったと私は考えています
0238日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 11:58:11.60
島根の銅山に関しては面白い記事があります。
http://native.way-nifty.com/native_heart/2008/05/post_4fb7.html

研究者は簡単に朝鮮半島経由とか言いますが
徐福渡来時代に露頭採取ではなく鉱脈から銅を掘り出す技術者が来ていたのではないかという遺構が半周では唯一島根から出土。
九州と出雲の間に青銅器の文化差はほぼないと考えても良いのではなかろうか。

出雲北山山地と、鷺浦あたりの龍山(辰山)は銅が取れました。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 12:17:48.26
北九州に物部の後に入ってきたのが阿部などの男系尾張氏ではなかったかと私は考えています。
安曇はその頃に入ってきたのではないでしょうか?
そうでなければ村雲のあたりで入ってることになりますが、景初では敵に囲まれていたことになります。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/14(月) 15:32:30.94
>>231
〉仁徳から雄略は物部の王であって、七支刀を物部の氏神、
石上神宮に保存して、蘇我系となる王、継体には伝えなかった。

実際には武内宿禰の子孫のうち、平群ツクに始まる政権だった様です。
物部氏という解釈は非常に正確で、武内宿禰が男系尾張氏ではなく、物部彦であるという事にもつながります。
しかし、景初動乱で畿内側につき、敵方に回った男系物部の武内宿禰は、物部とは別の家と見做される様になりました。
つまり、平群と継体は、分家した時期は違いますがちょっと離れた親戚裾ということになります。

正直、平群朝の時の話が七支刀の時代という考えが私も離れません。
成務が半島に渡って半島で亡くなったたという口伝の話は、気持ち的に受け入れが難しいです

しかし、断片的にそれらを窺わせるのが吉野ヶ里の考古学的な衰亡時期であったり、宇佐古伝の遠回しな表現であったり、出雲口伝であったりするわけです
0241日本@名無史さん
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2022/11/14(月) 15:50:23.71
稲荷山鉄剣においては、大彦の息子であるヌナガワ別の安倍家のものと私は思っています。
高橋氏(タカヒシワケ)は、新潟から山形まで主に展開する氏名で、それらの地域には曽根、中曽根などの地名が多いです。
稲荷山鉄剣は、北陸方面と関東が繋がっていた事を表していると思います。
0242日本@名無史さん
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2022/11/14(月) 18:19:46.21
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★


邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

百里

奴国(福岡県博多湾付近)

百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

水行二十日

投馬国(不明)

水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図が無かった古代では方角や距離を間違える可能性は十分あり得るが、日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、この時点で方角に関係なく不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめろ。
0243日本@名無史さん
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2022/11/14(月) 18:31:28.20
■はいはい答え:畿内説は不要です
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国側で持っていた情報であり、
日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から聞いた話である。
倭国大乱後に卑弥呼が女王となった事は中国でも話題となり、倭国に関する情報が多々存在していた。
陳寿はそれらの情報を精査し魏志倭人伝の下書きを作成していた。
そこへ女王国から倭人が朝貢に来たので更なる情報を要求したところ

~以下、倭人による行程説明~
・帯方郡から船で20日南下し、そこが投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸ししばらく歩きます
・計約一月を要します

倭人が半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいる事を知らなかった陳寿は
位置関係がよく分からず既存の行程の後にそのまま追記してしまった。
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島を指すと解釈すれば西日本全域何処とも考えられる。
しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は西日本の中でも最も西に位置するはずである。
東には海が有りそれを渡るとまた倭種の国があった。そして南に狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。

■半島南部が投馬国
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991

■その他
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)

■各国の位置関係
https://i.imgur.com/jMwIArA.png
0244日本@名無史さん
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2022/11/14(月) 21:16:43.81
伊都国からの放射説と答え出てます

1日50里は20数キロ、箱根駅伝の1区間とも言ってます

282 日本@名無史さん sage 2022/11/01(火) 22:21:06.28
渡邉先生は、こうも語ってる

当時の中華の使者は1日50里歩くので
クシャーナ朝(大月氏国)までの距離は、わりかし正確だと

1日50里×陸行一月(30日)=1500里

答え見えてくるよねw

1万2000里に対して、伊都国から残り1500里

陸行一月と里数が一致w

ということは
投馬国の水行二十日も、水行十日も、陸行一月も
起点(伊都国)からの放射説だとw

水行十日 or 陸行一月 と読むとw
0245日本@名無史さん
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2022/11/14(月) 22:32:12.29
隋書倭国伝より

>魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王

これ気になるねw

(国々)みな王を自称してたって

自称だから冊封によってではないね、一応

ならば、魏志倭人伝に官名として
「王」らしきモノが出てきてもおかしくないよな

卑狗(ひこぅ、彦)がそれに当たるのか?

謎…
0246日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 13:14:51.03
九州説だとイカダですら最低40キロは進む訳だから邪馬台国は海の中
普通に考えればわかる事
大陸の史書の解釈で国名が

やまとのイ国

にでもならない限りヤマトと呼ばれた地域が九州になる事はない。 しかし朝貢した連中は九州の勢力。 どう考えても邪馬台国ではない人間がヤマトを名乗っているとしか解釈できない
0247日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 13:35:19.51
村雲からクニクルまでが純粋な尾張と登美家の政権倭国大乱期で石上(物部)が母系に入り次代の
開化天皇で、女系が物部になった。
九州崇神が記紀で血縁にされ、葛城国の本当の大王母系物部のヒコイマスが隠された。

九州同盟国を裏切ったイクメから三代が九州物部政権
この段階で石上と九州物部は別系統の扱いにされる。(嫌われている物部とそうでない被害者の物部)

神功皇后により常州の上毛野家から崇神系の豊彦が入り、裏切り者の物部からそうでない物部の政権になる。

応神の子が武内宿禰の子孫の平群臣に殺され、クーデターで武内宿禰系の政権になる(武烈まで)

実は記紀では武内宿禰は開花の孫とされているのは間違いで、男系物部が彼の正体

つまり武烈までは男系物部政権がイクメから続いていた事になるが、武内宿禰は、イクメを裏切ってヤマト側についたから、敵同士の物部だった

平群朝末期は評判の悪い方が出たのでそれで分家の武内宿禰の北陸蘇我氏に大王就任を頼みに行った。

物部やヒボコ系までが頼みにいったのは武内宿禰が男系物部だったから。

しかし当時の北陸蘇我氏の党首は、出雲から入った養子であり、現在では物部の血筋は女系でしか遡れない。
男系は出雲にたどり着く。

景行は嫌われてしまった物部の派閥だったから九州に行っても居場所はなかったのかもしれない

九州から物部族が減り、奈良の石上が主流になったのは物部同士の小競り合いが原因

中臣家も、石上系の物部と、嫌われなかった居残り組の九州物部と仲が良かったのだろう

ワカタケルに物部の投影がなされるのはとても重要な視点と言える

蘇我が朝鮮渡来とか、五王が九州の王族とかそんなものはファンタジーに過ぎない
0248日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 14:40:32.73
邪馬台国と日本は全くの別物
だから古事記や日本書紀には邪馬台国の記載がない
0249日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 17:31:57.88
中華を模倣した帝の歴史に卑字の邪馬台と卑弥呼を書くわけないでしょwきちんと記紀に耶麻騰や神功皇后に置き換えてるよw
0250日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 18:17:04.56
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
で、使の説明による倭に到る行程を記す訳だが
倭人伝で魏時の魏からの遣使は2回。

247年塞曹掾史張政は
67 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、倭人船に便乗して来ている。
この行程が、倭人の寄港地間の里程を記した到伊都国までの行程。と、伊都近隣百里の二国。

240年建中校尉梯儁は、皇帝の金印を卑弥呼の王城=臺まで届けた。
239年に公孫氏を撃った魏にとって初めての馬韓西岸の行軍で
水や兵量を得るための循海岸水行であるが、皇帝の旗を掲げても知らない蛮人の地であり
宿営地は盗賊や戦闘を避けるため極力人気の少なそうな浜を選ぶ。

これが里程で示せる地名が無い、弁辰韓と女王国の仮名だけの水行20日と、10日である。
ただし、古い東夷地図で検証したら、12000里で上陸後は1月行であった。
月行は何日間の行軍とは、別の概念で、東夷伝専用短里同様の、
漢以前からある軍事上の東夷全図の座標の単位と考えられる。
0251日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 18:50:15.61
>>243
文献解読で、ほぼ正しい理解の話、図、を始めてみた。 GJ

でも、図がおかしい。
博多海人の倭人船航路は、対馬西岸から巨済島付近。

歴馬韓4千里の後、東旋して3千里である。
東4千里の釜山金海は確かに倭人域
だが、宗像~沖ノ島の日本海諸国ルート。

壱岐を経由した場合の目的地は
博多湾であって呼子には寄る必要が無い。
対馬~五島から熊本ルートも有るはずw

糸島付近で接岸したら沿岸水行で志賀島目視で博多湾に入港する。
筑紫平野に向かうには大宰府から入るのがあたりまえ。

対馬、壱岐は邪馬台国21国に含まれない。
宗像、遠賀川、田川、飯塚、豊国も、唐津呼子長崎も
邪馬台国21国、周旋可5千里には無理。
邪馬台国は糸島~筑紫平野の縦長。

論争の釜山とか呼子に縛られてるだけで
倭人伝自体は、読めてるうちだと思うよ?

倭人伝論争に漢文読める人居ないって、最大の謎なんだよ。
0252日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 19:13:35.01
方可四百餘里は400×2
方可三百餘里は300×2
そうすると邪馬台国が自ずと見えてくる
0253日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 19:18:27.86
1200里というのは果てという意味
目的地までは12000里で途中の距離は按分する
短里とかは意味がない
0254日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 19:25:50.26
>>245
王使が王を立てないで、領主を自称する
というのは異常なわけで

倭国の使は皆大夫。
これを、言っている。

奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗

国名参問と帯方郡での名乗りで記録上当て字が別。
1000人の王でも10万人の王でもみんな王だし、
九州は筑紫域の北部2千里が卑弥呼の国で南は不属。

日本に統一国は無かったという事だと思うんだが?
てか、豪族の軍事統一と言う概念は源平~信長で発生だろ?

もちろん、倭人伝で
日本王朝に九州筑紫が加わったのは
250年であることが担保される。

記紀によって、
否定される事実の古代史って
もったいなくないか?
0255日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 19:33:43.88
女王国=邪馬壹国=倭国連合
邪馬壹国は倭国連合=女王国の中央政府の名称
物理的に邪馬壹国という国が存在するわけではない
邪馬壹国は伊都国にある
0256日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 19:39:33.97
男王卑弥弓呼は、ヤマトのヒコミチヌシノミコとの説がありますね。
ヒコイマスの息子
0257日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 19:43:01.45
たいしゅうえつこと武内宿禰は、狗奴国ではなく、ヤマトのヒコミチヌシノミコと交戦中であると話をしている事になる。

狗奴国と交戦中というのは倭国側からの説明のみであるわけで、その辺は言い出しっぺ側の方便でどうにでもなる

既に後漢に承認されている国と戦いますなど言えるわけがない

朝貢国同士の争いに大陸が錦の御旗を渡すわけがない
0258日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 19:45:07.69
イサチから矢坂、タジマノモリなど、九州の人間しか朝貢してない。

つまり、九州勢は自分の国をヤマトと嘘をついている
0259日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 19:47:39.21
九州王朝と日本はまったくの別物で
白村江を境に立場が逆転する
白村江までは九州王朝が圧倒的に強く
白村江で九州王朝が弱体化し
日本の天下となった
0260日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:00:17.16
狗邪韓国が、二つあり、半島と九州の北部にあった事は記述からも推測される話

それぞれの独立の国が半島の倭国領域で同じ地名を名乗った可能性が高い
0261日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:05:25.66
魏書に出ている邪馬台国と、我々が議論している邪馬台国は違うものである。

弟がいる年長大の卑弥呼はヤマトの卑弥呼であって、内容的には一旦切れている。

そして景初の話になる。

大陸は畿内ヤマトの場所をほぼ正確に捉えており、前置きの部分を大乱期と一緒に書いたに過ぎない
0262日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:17:42.39
「女王国より以北は、特に一人の大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」

つまり女王国とは別の国が北側にありそこが一大卒をおいている

この諸国とは女王国側のことであろう。

倭国大乱があったのだから、九州勢が朝貢したときは既に国の配置が変わっている可能性がある。
景初の際の戦闘中の国の配置に関しては当てになる資料ではない

だから昔のメモ書きを使った
0263日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:25:07.94
一大卒を置いている国は恐れられている国からすると目の上のたんこぶである事は容易に察することができる
0264日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:26:15.08
畿内のヤマトの出先機関が伊都なんだから、邪馬台国に見えるのは当然の話
0265日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:27:51.50
さて。厳密にいうと、女王国と邪馬台国は別の国なんじゃないの?

同じ国なら女王国と書く必然はない。
0266日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:35:42.89
>>258
250年までに九州が本州のヤマトを知っていたか?
筑紫と言う地域名が無かったのと同様
梯儁が、筑紫の邪馬地域にあった卑弥呼の臺から
命名した、ヤマのタイ、あるいはそう読めるかもしれない、やまと? 

その時、奈良にヤマトと言う名前の王都が在ったのか?
首都として博多の伊都みたいな意味で
纏向を建国したなら軍事都市になる。

奈良は単に大阪湾より安全な、山の中に
畿内王室の後宮が収まった土地だと思うよ。
0267日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:42:06.29
魏書の内容に関しては一般に言われる要素としては以下の通り

1,陳寿の解説、補足
2,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文
4,裴松之の加えた注
5,魏の公文書の写し(そのままと思われる)
6,魏中央政府の何らかの史料から得た文の要約

国の配置が倭国大乱期のものなのか、景初なのか、戦乱が治ってからのものなのか判別が難しいのである
0268日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:42:11.75
>>262
伊都で外交関係を検察した一大卒が一人の何か?
と言うのは話にならない。

筑紫21国統率の卑弥呼以上の
対魏でも抗戦可能な軍事力を担保する
本州朝廷勢力が成立してたことを意味する。
0269日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:45:14.43
>>267
倭人伝の構造

01 倭人 在 帶方 東南 大海之中 依山島 為國邑 舊百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  濱山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
0270日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:45:41.56
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
0271日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:46:21.71
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
(又 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東

28 其 風俗 不淫 男子 皆露? 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈? 作衣 如 單被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵?緜 其 地無 牛馬虎豹羊鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鐵鏃 或 骨鏃 所 有無
32 與 ?耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣
33 有 屋室 父母 兄弟 ?息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 ?豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐
37 其行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去?蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其持衰不謹
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 ?杼橡樟?櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠?桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 ?猴黒雉
41 其俗 擧事 行來有所 云 為輒灼骨 而卜以 占吉凶 先告所卜其辭 如 令龜法 視火? 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 竊少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無
0272日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:46:44.47
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 亂 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 傳辭 出入 居處宮室
53 樓觀 城柵 嚴設 常有 人持兵 守衛

54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
0273日本@名無史さん
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2022/11/15(火) 20:47:11.77
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
 奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
 汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬
 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地?粟?十張 ?絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
 又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華?五張 白絹五十匹
 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦?刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青?緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授

66 其八年 太守王?到官
67 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

69 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
70 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
71 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
72 政等 以 檄告喩 壹與

73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
74 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
0276日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:53:43.49
後年の草書体の写し間違いも考慮するべき

人間の認識がベースになっているものに厳密な正しさを求めるのはどうなんよ
0277日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:55:34.40
伊都なんて一大卒であって王ではないことだけは理解できる。
別の国の王に近くなければ権力の説明にはならない
0278日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 20:59:22.15
>>268
〉筑紫21国統率の卑弥呼以上の
対魏でも抗戦可能な軍事力を担保する
本州朝廷勢力が成立してたことを意味する

でも、負けちゃったんだよね。ヤマトが。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 21:00:02.70
大陸の史書の戦闘記録は、基本的には政権交代が前提らしいね
0280日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/15(火) 21:17:50.64
>>278
663年の白村江海戦以前に
日本移民が半島から撤退するような

地元民=漢移民や穢百だけど?
からの、反抗を受けた歴史が無い。

植民地と言うのは、投資開拓して荘園を防衛すれば
氏族の所有になる土地であって、馬韓や弁辰韓の
朝鮮王と言うのは百済王や新羅王以前から、代々後室の姫によって、
倭の地域王の姫を娶り、日本王朝に取り込まれていたのである。

七支刀から人物画像鏡、稲荷山鉄剣、船氏墓誌、
全ての整合性は確立している。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 00:09:43.49
>>254
大夫とは言ってるね

魏志倭人伝に出てくる国は
県(あがた)・邑レベルもあるし

馬韓も五十余国あっても
>大國萬餘家 小國数千家 揔十餘萬戸
総十余万戸と、大半は小国数千レベル
0282日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 18:16:56.69
解説 
>>271は倭の風俗と物産だが、
これは来日魏使の見聞きよりは、卑弥呼の使からの聞き取りがメイン。

物産については、女王国に有るものと言うよりは、
おねだりした金八兩、真珠や鉱丹各五十斤のように
貴重であっても日本の国内流通的に手に入るものの有り、
であって、邪馬台国像に繋がる物産とは違うようだ。

これに次いで、>>272 は、魏使の報告である。
47~49は、247年張政が伊都国に駐留させられて見た、謎の大倭の一大率。
卑弥呼が倭王なら、中国人の文の倭国に 大が付くわけがなく、
女王国が、54~56で表現している倭人域の中の小国だという区別を行ったのである。

大小区別については、東夷伝序文に

近日之所出 遂周觀 諸國 采其法俗
小大區別 各有 名號 可得詳紀

故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
と言う文で、陳寿が倭人伝記録を残す価値を宣言している。

結語=評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
0283日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 18:28:33.15
書き忘れちゃったけど、50~53は、

卑弥呼共立の所属王21国のうちの邪馬国に在った
卑弥呼の臺=王城 を訪れた240年建中校尉梯儁の報告。

女王の歴史と、王宮の様子を報告している。
これは、見聞したものにしか書けないんだからあたりまえ。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 19:02:30.08
>>259
200~247年の卑弥呼の筑紫域21国を九州王朝とは言わないが
邪馬台国が245年以降で本州と軍事合流したことで
日本国が成立したとする、時系列は有り得る。

奥州藤原三代は、王朝の気配が有るわけで、
日本の軍事統一については信長まで無いのだけれど?
で、あっても、奥州藤原の、ここまでで奥州を含む
日本王朝と言うのは成立してないとも言える。

てか、薩摩琉球がパリ万博で独立国宣言してないかw
親が同じ神話で纏めてるけど、日本の戦国大名って、独立国だろ?

天照信仰? 神武紀元論って、マヌケの仏教文明廃棄の
明治維新からじゃなくて、昭和の戦後からか?

百済王の姫は代々王家に繋がる倭人豪族だったらしいが?
全ての陸封された日本人には、縄文遺伝子が有るらしい。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 19:20:54.14
>>284
ハプロタイブDはアイヌと沖縄、そして本州では島根が主な分布

景初の倭が九州ではない可能性は高い。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:07:40.55
対馬文字(つしまもじ)
神代文字の一種。対馬卜兆文字(-まちがたもじ・うらかたもじ)とも呼ばれる。
日本語の五十音を表す47種の文字からなる。撥音の「ん」に相当する文字はない。
(「ん」が出来たのは室町時代以降である。)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Tsushima_characters_1.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CPn7s5zVAAERIsZ?format=jpg&name=900x900

亀卜の卜兆(うらかた)から生まれた文字とされ、対馬市の雷(いかつち)神社で行われる
亀卜神事では、卦を読む際にこの対馬文字やアナイチが用いられる。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:08:30.96
>対馬文字と非常に似ている。

縄文時代中期の-刻文付有孔石斧
山形県羽黒町中川代遺跡から、縄文中期の土器と共に右のような磨製石斧が出土している。
これが大陸から渡来した玉鉞(えつ)の一種なのかどうか、未だ結論は出ていない。

中国・山東大学教授の蔡鳳書の所見は、「大シ分口文化(だいぶんこう)(黄河文明の一つ)の所産と思う。
文字は甲骨文ではないが、鉞形は王の意味で、上の孔は白、つまり記号も皇を表わしていて、
腰に佩用したもの。孔の開け方は中国風に両面から開けている」 
http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006toraibunnka/kokumonntuki_yuukousekifu300.jpg
http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006_1tairiku_karano_toraibunnka-2.html
0288日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:11:53.70
これは京都五条天神社の「宝船図」だけども、明かに「対馬文字」の系統で
弥生時代ころには広く支配層神官たちの情報伝達として使われていたのでは、
漢字が入って来てからは、細々と卜骨占いとしてだけ残った。

h□□ps://stat.ameba.jp/user_images/20130203/22/taka-hannari/fc/b4/j/o0800052212404408292.jpg
h□□s://kyotowalker.club/wp-content/uploads/2017/12/f1c18b8679704e4f57489c8a99dc8254-800x555.jpg
0289日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:12:49.26
>この「斎部家極秘神字」、通称、忌部文字・斎部文字は、
>一部分、甲骨文字を工夫した対馬文字を借用した物に見える。

>阿比留草文字 アヒルクサモジ[ヒフミ順]など全国の主な神宮、大社などで使用され、
>元々、甲骨文字から発生した刻木文字などで後世に広まった文字と思われる。

忌部文字・斎部文字 イムベモジ[ヒフミ順]「斎部家極秘神字」
斎部(忌部),橘両家にのみ代々極秘裏に伝わった文字。他見は決して許されない。
斎部氏ゆかりと明記された文字として,「斎部家極秘神字」があり,
これは斎部氏の祖・天太玉命(あめのふとだまのみこと)が作った文字という。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:15:55.74
じゃあ、どうして日本では文字が民衆に広がらなかったのか
日本では縄文・殷朝時代より中原世界の亀卜・卜骨と一緒に甲骨文字も入って来てたし
前漢鏡などで、漢字の存在も知ってたはずなのに?
それらは、支配層や神官たちの情報通信の為で機密性を重視したんだろう。

一方、中国や欧州などは世界的な宗教を民衆に広めるための文字が必要だった
ところが日本では原始社会より元々ある神秘的自然崇拝で、
仏教、儒教、聖書、など哲学的思想を広めるための文字など必要ない。

むしろ既存支配層にとって外来の哲学や思想など邪魔で危険でしかない。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:38:09.30
秦から前漢時代の漢字の中には、明かに旧約聖書の哲学が刷り込まれてて
例えば、「義」我は羊。「禁」生命の木と善悪の木を示して禁じたとか
「船」ノアは家族8人を箱船に乗せ、救ったなど、

「君」もカタカナの「コロナ、ギリシャの王冠」を組み合わせた文字。
ギリシャ文化を知ってる中央アジア人が漢字の成立に関わってるんだろな。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 22:52:00.62
じゃあ、カタカナの「コロナ」も既に知ってた者たちが居た。
それは恐らくカタカナと似てると噂のあるヘブライ文字ユダヤ人。

そう、トンガリ帽子のユダヤ人、関東千葉辺りの古墳から出土する。
あれっ、中臣氏??? 千葉霞ケ浦周辺は中臣氏の縄張りで巴形銅器もよく出る地域。
埴輪の中には明らかに土着民と違う面長の顔で肩に鷹を乗せた貴人と思われる人物埴輪が。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 23:03:08.51
確かにこの対馬文字(つしまもじ)は現在でも
使えるんじゃないかと思えるほど良く洗練された文字。
https://pbs.twimg.com/media/CPn7s5zVAAERIsZ?format=jpg&name=900x900

縄文中期の山形県羽黒町中川代遺跡から、出土した玉鉞(えつ)が間違いなく本物なら
これ、考古学会、古代史学会の大発見じゃないのか、如何じゃ専門家??
http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006toraibunnka/kokumonntuki_yuukousekifu300.jpg
0294日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/16(水) 23:37:36.90
日本書紀が出来たことにより、漢字が広まったのかもしれない
0295日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 01:52:11.12
言葉があって記憶があって文字が最後にくる事は明らか

文字など都合で決まったもので、漢字などその際たる例
後付けに過ぎない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 01:54:43.57
>>293 (カ)の文字カラスの姿に見える、(シ)の文字はカタカナのキに見える
0297日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 02:14:16.33
中川代遺跡の玉鉞(えつ)の文字は、対馬文字の虫食いされた箇所、
 (オ)じゃ無いか、斧オノとか王オウ・大オウとか(オ)が頭に付くし。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 10:30:54.02
>>290
漢字は意図的に我が国で広められたと考えるべきかもしれない
日本書紀で採用された事が大きい気がする
日本の神は日本書紀風に変えさせられてきたが、音感の指導では確かに片手落ち。
氏神に文字を当てはめたことにより、漢字が広がったと言えるのかもしれない
0299日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 11:09:18.35
こう見ると文字そのものは何かの力によって駆逐され、一般向けに漢字が半強制的に広められたかの様である

https://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_8.html

歴史を隠すということと、文字は密接な関係があったということなのだろう
0300日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 11:30:37.98
>>291
〉「君」もカタカナの「コロナ、ギリシャの王冠」を組み合わせた文字。
ギリシャ文化を知ってる中央アジア人が漢字の成立に関わってるんだろな。

日本のペトログリフもいろいろ地域が混じってる事がわかる構成になってるらしいね
0301日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 11:36:43.17
伊都に関しては歴史的に迎賓館など対外外交や貿易の拠点になっていた可能性が高いが、記述からすると、景初動乱の際にその機能が維持されたままになっていたは疑念の余地がある。

瀬戸内海の平型銅剣の出土や年代を考えると、景初動乱の際には伊都は本来の機能を果たしていない。
女王国の北の国は伊都を一時的に失っている

解釈的にタジマノモリが伊都の長官になっていてもおかしくはない記述の様にも読み取れる印象
0302日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 11:55:02.69
以上のことから、伊都に「仮に」安曇がいたということであれば、景初よりずっと前からの赴任にならなければならず、尾張氏一族なのであるからどう考えても北の国の、畿内ヤマトの出先機関の長官レベルの役職に過ぎない。
女王国の北の国の名代として畏れらているわけだから。
少なくとも倭国大乱期後には居なくなったか、孤立してしまうので九州勢と仲良くやっていなければ生き残る事は出来ない

安曇が半島に逃げ込んだという話は全く可能性がないわけではないが、裏付けになるものは一切ない。
景初の際には、ヒボコの子孫のタジマノモリ(魏書のダシマイ)がいる訳だからその時点で時系列的におかしい

平型銅剣的に見れば四国南ルートであればヤマトに帰れたから、物部氏とだけなんとか関係が保てていれば日本海側ルートを使わなくとも帰国できる
0303日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 12:04:02.06
景初の卑弥呼は、北にあった国とは別ではあるが既に朝貢している国を敵として挙げる事はできないという事象があった

故に大彦系のクナト国(狗奴国)を挙げた。
倭国大乱期で葛城国は、吉備系、ヤマト系(開化、大彦系の3つの男系尾張に分裂していたから。
位置的に移動してないのはヤマトに残り物部と妥協して物部の姫を受け入れた開化系のみ。

それ以外の国なら血筋がどうのに関係なく、魏から錦の御旗を受け取れるわけだ。

九州勢は自分達が被害者、既に朝貢していたヤマトの人間だと嘘をついたとしか思えない。
でなければ大義名分に裏付けられた黄色の属国旗、錦の御旗を貰えない
0304日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 12:11:08.45
魏国から見れば親戚の分裂した家同士の争いなのだから、結局九州の朝貢勢が誰と戦っていてもその真実を掴む事は出来ない状態であった。
最後まで九州の勢力が狗奴国と戦っていると思い込んで帰国している様に読み取れる

何を持ってして大陸から見て健気に映るのか?
まるで九州勢が世直しをしようとして、大陸に孝順を尽くすから、この混乱を納めますので力を貸してくれと訴えたからの様にも見える
0305日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 12:16:12.39
九州物部は、先に入っていた女系物部の尾張家をも切り捨ててヤマトを制圧した。

これにより当時の朝貢国の範囲を含む日本統一がなされた(信濃以北は陸奥でありどうなってるか訳分からん地域だった)

連合してる様に見えるのは当然と言える。開化前後で倭国大乱期に尾張氏に物部が入ってるのだから
0306日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 17:34:44.09
>>303
景初2年 238年は卑弥呼の初朝貢の年だが、
何の?どこの? 景初の話してんだ?
記紀なら神武でも崇神でも神功年紀でも構わない訳だけど・・・
頭、大丈夫か? 西暦固定してる卑弥呼の話は無理が有るのでは?

238年魏軍は新鋭船で黄海から奇襲で半島に入って公孫氏は遼東に逃れた。
楽浪帯方太守は、まだ3代にわたり半独立を守っていた公孫氏との戦闘中である。

帯方郡は、韓や倭についてほぼ何も知らなかったが、公孫氏排除は
呉との決戦に備えるために東夷を静めておく目的なのであって
南の倭人国との同盟は必須であった。

卑弥呼の使というより帯方太守は、まさしく渡りに船で238年の難升米を
倭王の使いとして洛陽の臺に案内したのである。
皇帝は倭が何か? なんて知らんけど、歓待しとけば間違い無いと考えたw

これが >>273 57~59の魏と女王国の外交の始まりである。
卑弥呼への金印の配達が、なめてんのか?と思える遅延の240年になったのは、
公孫氏との戦争で郡には、南の探検部隊の船なんて出す余裕は無かったのである。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 17:57:07.05
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦?刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青?緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

魏は朝貢の2年後、正始元年に卑弥呼の王宮に金印を届けた。
>>270 の240年建中校尉梯儁の行程と
女王国の21所属国名、国勢、地勢の報告である。

正始4年の遣使は印綬が有るので、皇帝に朝貢した。
帯方郡からは魏船で登臺したであろうとおもわれる。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 18:28:23.24
>>290
本物発見w
縄文2万年で地域間で文字が共有されない
と言うのは、在り得そうもないんだが?

縄文の原始共産制と言う形態で
部落外の民とは絶対に言語が違う。

しかし排除対象ではなくウエルカムである。
まあ、広がるべき文字は万葉仮名から始まった。
記紀に短歌は謎以前の謎だが? 平安万葉文学は、偉い。

それ以前に、甲骨文字が有ったとしても
地域性であって文字を共有可能性は
神社社家や宮家の同族子孫でもなければ無い。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/17(木) 19:01:56.99
漢字、漢文の話ってのは?
スレの参加者じゃ理解できないような
難しい話になっちゃったのかな? 

まず、
邪馬台国は、
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡

 行程は無関係でも、この範囲の7万戸が邪馬台国です。

20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

倭人伝に、反論? 
謎なんだけどw 写し間違いなんて痴れてるし、
わざと改定してるし、そういう話が欲しいwww
0310日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 01:19:55.45
>>306
?卑弥呼の年齢の設定がテキトー過ぎでは?
卑弥呼は二人いるよ

仮に景初の卑弥呼が年長大で35歳以上。倭国大乱期末期180年に逆算するとあり得ない年齢になるでしょ
トヨとおなじで180年代に13だとしてもおかしいよ。

戦乱を終わらせてるはずの独身卑弥呼が、トヨの母親役で途中で死んでるんだから少しは疑うべき
0311日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 01:21:00.31
確か当時の平均寿命は31だっけ?
だから35になると大陸では年長大になったわけだ
0312日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 01:26:50.43
弟をガン無視してタジマノモリが朝貢してる違和感をなにも感じないとはw

景初の下りの前は、一旦区切られている。
過去のメモ書きの内容。だから国の配置が書ける
0313日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 01:35:08.89
単純に計算したら同一人物だと42才前後でトヨを産んでるわけだがおかしいだろw
0314日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 01:39:04.46
単純に記紀に当てはめたら、成務から仲哀あたりに倭国大乱期になってしまうわけだがあり得んだろ

成務から仲哀は四世紀の神功皇后の時代
0315日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 10:31:11.20
陳寿はトヨとほぼ同年代の人物

それより以前の話は全てメモ書きなどの話

つまり、邪馬台国の説明と、景初の話は必ずしも同じ邪馬台国を表すとは限らない

瀬戸内海の平型銅剣の年代は一〜二世紀。
倭国大乱期には別の宗教が瀬戸内海に勢力を持っていた。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 10:38:53.89
魏志に「旧百余国」とあるのは漢書地理志燕地からの引用、「漢の時、朝見する者あり」は范曄に先立つ後漢代の書からの情報と思われる。
魏とは関係がないので、前史として、あっさり片づけている。

基本的に景初の下りの前までが区切りなんじゃね?
0317日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 10:43:19.43
口伝ではフトニはヤマトでの勢力を維持できなくで吉備で国を作ったとある

そして、のちの諡号ではネタバレの様に、孝霊と付けられた。
これは霊帝の時代を表しているのではないか?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 11:03:28.50
今朝貢する国は30とあるが、トヨと同年代の陳寿であれば、景初の乱の後、落ち着いてからの国の配置の可能性もあるね
0319日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 11:19:39.57
>>302

なぜそこで畿内ヤマトという、実態がよくわからないものが出てくるのか。
それこそ妄想では?
あずみはよく知らんが、伊都とは年代も王統も違うと思う。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 12:34:17.44
>>319
逆で、伊都の方が連続性がないのではと言う事です
0321日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 17:53:48.91
>>310
卑弥呼は190年までに大乱が収まって王位を得て247年まで
5~60年の在位期間が有るので80歳程度は逝ってたと考えられる。

42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
43 其人 寿考 或百年 或八九十年

は、記紀の天皇でもなきゃ無理っぽいけどw
卑弥呼が倭人の寿命を代表してたように思う。倭人伝読んでなくネ?

それより、景初の乱って、なんのことか知ってる? 倭人伝の話なら
卑弥呼朝貢の238年から239年、魏使建中校尉梯儁が来た240年頃?

乱って魏軍が奇襲で楽浪帯方の公孫氏を追討した事?
何時の何処の景初の話なんでしょう?

半島人でも公孫氏は漢四郡の太守なわけだから
これを乱とは言わないと思うよ?

四道将軍? 日本武尊? 仲哀、神功皇后? 
が、全部まとめて九州来た話か? 乱とは言わないだろw
0322日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 18:28:08.42
ハッキリ言って、神武が九州から東征したなら
それは天子の朝廷による、大和征伐って話になるわけで、

奈良ヤマトから九州や半島に攻撃軍が来るから、
熊襲征伐や半島進出、征伐になるわけで・・・

源平以降~信長の派遣以前の平定は軍事政権時代とは違う。 
家康も竹千代で人質で、勢力関係は軍事力だけではない訳だけど・・・

漢四郡撤退313年~350年、高句麗王の中国貴族楽浪候、幽州刺史任官。
370年日本の後押しによる、百済、新羅の朝貢、対高句麗防衛戦、
日本はこれによって牛馬の移入と鉄の国内生産を成功させた。
日本古代史のメインイベントなんだが?

百済の話だが、くだらないとは言わないで・・・www
以降百済王には後宮豪族の姫が嫁ぎ、王子を日本貴族として養育した。
これが、七支刀、人物画像鏡、に記されている。

百済王朝の後宮は日本の後宮=親族だったのである。
白村江以降、いつまでに半島の縄文遺伝子が消えたかは
半島史の異常さから言って、調査困難なのではないかな?

考古学と考古遺伝子学は文献学の後から付いてくる。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 19:04:22.87
>>323
まあ、九州に降臨しても
既に本州に、高天原の神ではない
人間の国が有ったら、天地創造の皇帝神話は生まれない。

日本神話は淡路島創造の神で生まれ、武人にも受け継がれて
マヌケの明治政府に繋がった事が素晴らしいのであって、

陸封されている日本にだけ、縄文遺伝子が受け継がれていることは
否定できない事実なのではないかな?

日本に渡来して、
単独の外来遺伝子で出来た集落は日本に無いだろ?
武蔵高麗とかは高麗人を集めた史実は有るが?
日本で朝鮮半島渡来人だけで繁殖可能な部落とか? 
知らんけど?

日本国内で縄文遺伝子が受け継がれないなら、
日本に、中国共産党支配のような、
不穏な何かが発生している
って、事だよwww
0325日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/18(金) 19:40:14.31
言葉が足りなかったかナ? 民族浄化政策で、
チベットやウイグル人は中国人と交配してしまう。

古代日本の統治体形は性治であり、地方の諸王に後宮の姫を贈る。
と言う手法である。 逆に皇子を中央の後宮で育てるという場合も有る。
これは奈良の後宮の話だが 源氏物語の話で真実が見える?

370年以降、百済王の皇子や姫と、
倭人豪族の皇子や姫の区別が無くなっていたから
桓武天皇の母が在ったんじゃないのかな?

白村江以降日本は百済王の家系を
独立すべき清代においても出国させていない。

日清戦争で、既に日本人である百済王ではなく、
李氏朝鮮王を建てたと言うのは、相当マヌケな話かと思う。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/19(土) 11:44:29.31
>>321
武内宿禰がオウキに戦況報告してるでしょ。
戦ってる相手は狗奴国のヒコミチヌシだと。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/19(土) 11:49:46.75
>>321
〉は、記紀の天皇でもなきゃ無理っぽいけどw
卑弥呼が倭人の寿命を代表してたように思う。倭人伝読んでなくネ?

伝聞か、春秋暦(倍暦)でしょ。年齢の件は。
身体能力的に娘であるトヨは産めない。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/19(土) 12:35:05.44
人間に知覚できる神などいない
記紀はオカルトが書いた書物ではない

淡路島など単なる設定に過ぎない

神などを話すのであれば倭人伝はお呼びではない


事実と神話が区別できないのは致命的
0329日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/19(土) 12:46:57.73
>>319
村雲からの籠神社の海部は九州物部と同じ歴史の長さを持つでしょ
先代旧事本紀にある様に。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/19(土) 13:05:12.14
あと、数万戸をくわせるだけの水田だよな

日本が誇る最古の菜畑遺跡は、それそこ個人の畑レベル。
組織的な農業生産はスキトモ以降ではなかろうか?
0331日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/20(日) 10:13:58.15
『寿命図鑑』いろは出版(2016年)によると、旧石器時代から縄文時代の平均寿命は15歳。
その後、弥生時代、古墳時代が20代前半、飛鳥・奈良時代が28歳〜33歳。

35才で年長大になるわけだ。
80代なんて当時の日本の聞き取りの結果に過ぎない
考古学的にも九州の人間だけ長寿だったなんて話は存在しない

正しく読んで80歳だなんて事なら話にならない
0332日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/20(日) 14:18:37.57
死亡原因の大半は感染症や外傷だっただろうから、引きこもって特定の人としか会わなければ、現代人と同じくらい生きてもおかしくはない。
それは卑弥呼にしか許されない生き方たっただろう。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/20(日) 15:40:24.34
>>332
80のくだりは倭国の風土の説明のことであって卑弥呼のことではないし、そもそも子供は無理
0334日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/20(日) 15:44:05.15
>>331
様々な史料から倭国大乱はAD180年ごろ収束したと推定できる
そして卑弥呼が女王として共立された
その時点で卑弥呼が何歳だったかによる
倭人伝によれば248年に亡くなったと書いてあるので少なくとも60歳以上と推測出来るが?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/20(日) 18:02:57.94
>>334
戦闘開始後8年でなくなってるその時に宗女トヨは13歳

この時点で未婚の卑弥呼とは既に違うし弟はいつのまにか消えて別人が朝貢

最短で計算する
年長大で35+8年-トヨ13歳=トヨを産んだのが30歳。当時の平均寿命でいったらほぼこの時点でもお婆さんだが、産めたと仮定する。
卑弥呼が生まれたのは到底180年代に間に合わない。
248-30=218年に卑弥呼生まれる
霊帝終わり183年から計算すると時間差は35年

35年を足すととんでもないことになるわけだ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 01:56:26.86
>>336
フッ、ついに余談が入り始めたか。
正しく読むもクソもないわな
0338日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 02:06:31.31
結局は、親子であろうとなかろうと、長大が死んだ時にトヨが13であることには変わりがない

結果が先に来るものの言い方なら正しく読むもクソもない

そもそもが、倭国大乱期の末期に既に年長大と書かれてるだろ

まともに考える力がないのか?w

同一人物なら生まれが合わないし、183年に年長大なら、35+17+48=100才でお亡くなり
0339日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 02:09:34.16
こう言うこと一度も考えたことすらなかったの?w

87才でトヨを産んだのか?ww

今まで何やってきたのよww
0340日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 02:19:20.66
最初の年長大の卑弥呼は畿内ヤマトの卑弥呼とあるね。

183年の土器と言ったら巻向一式がど真ん中で当たる
あれは急に出てきた土器ではなかったか?
0342日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 07:50:35.30
>>341
負け犬

反論の順番が違う
0343日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 08:50:02.64
纒向説は捏造です

魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた大倭という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります

纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます
0344日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 10:06:33.16
>>343
とりあえず、景初で年長大、大乱期で長大にすると100%合わないので卑弥呼は二人います。
これが正しく読むと言うことです。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 12:21:20.03
大市に関しては、実はモモソヒメ伝承のある箸墓が、本来の名称が大市古墳だったからと考えられます。

近代に入ってからは、太田遺跡。
太田タネコの領域。あの建物がある辺りは現在でも太田地籍であったと記憶しています
0346日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 13:50:41.45
180年頃に長大つまり成人していて20歳
247年に87歳で亡くなる
壹與は親戚だが娘ではない

矛盾ないな
0347日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 14:17:17.52
>>343
倭と、大倭と、ヤバイの区別は基本的には厳密に考えるべきですよね
0348日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 14:24:53.62
>>346
頭がおかしい

大陸の史書の年長大と呼ばれる年数は35
そもそもが史書の読み方理解してなく願望で読み解いている
0349日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 17:25:01.33
じゃあ103歳まで生きたということで。
医学的にはギリギリ許容範囲。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 18:04:12.31
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 亂 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
だけの話だろ?

卑弥呼の国には元は男の王が有った。
この間乱が7~80年続いたが、一女子を王とすることで国は安定した。

これは240年建中校尉梯儁の報告なので
大乱が190年までとしても、卑弥呼の在位は50年を超える。
生涯未婚の卑弥呼の宗女、壱与が13歳なら子ではなく養子や弟子であって、
単に鬼道の跡継ぎだろ? 大和朝廷の万世壱系の世襲じゃないんだよ。

ただし大乱が孝霊間と言うのが、倭人の記憶を伝聞で
西暦対応可能な干支歴が有る、中国史に準拠させてる
という不正確さは事は、否めない。

43 其人 寿考 或百年 或八九十年
は、卑弥呼を見た中国人による倭人寿命の印象である。

ちゃんと読んでるのか?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/21(月) 19:00:50.01
何を言ってるのか判らないんだろ?

卑弥呼即位の、倭国大乱終了が、いつからいつまで? 

卑弥呼の死は247年だが
梯儁の240年から247年までは、筑紫域で王であった。

他に日本の古代史を確定できる、
記紀みたいな偽書でもなきゃ
そんな文献根拠は有り得ない。

神社伝承は、参照になった。
スレのみんな、、ありがとうネ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 05:24:28.19
>>349
景初から考えた場合と大乱期から考えた場合で導き出される答えが違う段階でもうおかしい事に気づけよなww
0353日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 05:32:30.59
>>350
その部分の訳は

「大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。」

なーにが卑弥呼を見た印象だよ
頭大丈夫なのか?w
見た印象なのか、自己紹介で倭国人が主張しているのか判別はできないだろそもそも

卑弥呼を見た印象だってさww

暖かくて生野菜云々の話も適当
当時は寒冷な気候で確か最も気温が低かった頃

こんな説明などかつて大陸が倭の位置を一度は把握していた頃の話だわ
出だしのところの過去の倭の話と精度は変わらない

大陸はかつてはダン州と、倭の位置を把握していた
0354日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 05:40:59.56
>>350
〉生涯未婚の卑弥呼の宗女、壱与が13歳なら子ではなく養子や弟子であって、
単に鬼道の跡継ぎだろ? 大和朝廷の万世壱系の世襲じゃないんだよ。

昔は氏素性が全て
ほぼ世襲の世の中だよ
でなければ親戚同士の争いなど起きない

選挙か何かがあったとでも言うのか?ww
その設定はww

万世一系は世襲でなかったことを隠すわけではなくて、ドロドロのみっともない豪族間の殺し合いを隠して古くからある家柄だよと言うことを印象付けるのが目的

普通なら13の奴ではなくてもっと歳往々のやつを指名するだろ
周りが納得する様な奴がなw
張政が指名した理由はそれこそ血筋だろ
0355日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 05:45:13.19
陳寿の書いた歴史で分かることは、かつて倭と呼ばれた国があって、書いた時点では既に地域を指す様な大枠の名称に変化していたこと。
その頃は温暖であった時代の話で記憶されていたが、景初の段階では違っていたこと
張政が何らかの根拠を持って我が国の内政に介入して戦乱の指導者の後継を認めざるを得ない様な理由が我が国にあった事くらい
0356日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 05:50:47.54
>>349
〉じゃあ103歳まで生きたということで。
医学的にはギリギリ許容範囲。

それは医学でもなんでもない
願望だよ
戦乱を収めた卑弥呼と死亡した卑弥呼はどう考えても別人

そもそも長大の人物はほとんど人と合わなかった。弟がいて世話をしていた
景初の動乱を指導していたと言うのは身体的にもあり得ない

戦闘開始後6〜8年で安芸国で亡くなったと言う離れた地域に共通の伝承を持つのが宇佐氏と富家

宇佐津姫が豊玉姫だよ

歴史書は願望で判断する様な類のものではない
0357日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 05:56:01.21
〉ただし大乱が孝霊間と言うのが、倭人の記憶を伝聞で
西暦対応可能な干支歴が有る、中国史に準拠させてる
という不正確さは事は、否めない。

我が国に暦が入ってきて12動物とかを使った年代が持ち込まれて下記の内容が割と正確になるのはカワタケルの頃から

それまでは倍暦だよ

旧家の人たちに言わせると、大陸の史書は伝聞とかの部分を除けば驚くほど正確に年代は記録されているそうだ

人口や個数などはほぼ伝聞
あんなもの平均四人家族で計算しても大国である魏と同じ人口になってしまう
0358日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 07:07:21.69
>>354

むしろ卑弥呼に子供がなかったから、世襲にならずに死後に再び乱になったわけで。
血筋がなかったわけではないだろうが、実際に親戚同士の争いがあったんだよ。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 07:08:42.82
>>356

動乱を戦いで収めたわけじゃない。
卑弥呼が存在しているだけで十分。
君臨すれども統治せず。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 11:37:54.15
>>353
読んだのか? 
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
これの説明は良い。 この中の動詞の主語は主に倭人の、倭人同士がだが、
話題が変わって、たった4文字だけどw
43 其人 寿考 或百年 或八九十年

其人、指示代名詞がさすのは倭人地域に住む人々
寿考、は寿命を考えてみると、100歳か、80歳か90歳

考は、主語が必要な動詞だが
中国人が見た倭人域の様子を説明してる文であって

考えるの主語が中国人である以上、
魏時2回の来日で80から100歳の倭人を見た誰か? と言うなら、
卑弥呼に会った建中校尉梯儁の報告の可能性が高い。
という見解を、示した。 

そもそも、年長大が35歳の謎の説まであるのにw
老人が80から100歳と想定できる日本人がいたかどうかも謎。

私見への反論はかまわないが
倭人伝の内容がデタラメという思い込みでの反論じゃ
倭人伝を正しく読む事の関する議論になる可能性が無い。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 12:08:56.47
>>358
〉むしろ卑弥呼に子供がなかったから、世襲にならずに死後に再び乱になったわけで。

東征を計画したのはこの二人目の卑弥呼なんだけど。
だから属国旗が戦闘前にタジマノモリに送られてる。
戦闘開始後には武内宿禰が朝貢して戦況報告をしている。しかし、ハンコはもらえない様に書類に操作されていたため、激怒した武内宿禰はヤマト側に鞍替えした。

景初の畿内ヤマト乗っ取りを計画したのは九州の卑弥呼と、垂仁の父親イニエ。

銀のハンコを貰ったのがイサチ(後の垂仁)と、タジマノモリ。開戦前にはイニエはなくなっており、意志を継いで宇佐津姫がイクメを大将として物部豊国の連合を指揮した。
そこに宇佐津姫(後に豊玉姫にされた)の息子の豊彦と、豊姫が遅れてヤマト入りして、先に入ってたイサチとヤマトの停戦手法に反対して揉め事が起きた。タジマノモリは立場的にイサチと同じだからイニエでは抑えが効かなかった。
開戦後約8年で途中で宇佐津姫は安芸国で亡くなる。
故に張政は、子である豊姫を金のハンコの後継者として指名した。

戦乱がおさまらなかったのは、ハンコのランクとタジマノモリが制御不能になったのが直接の原因とある
魏国側にもハンコを出したのが魏国なんだからなんとかしろと誰かが訴えた可能性はある

魏書からは一方的な願望を裏付ける様なものは一切読み取れないはずだが?

九州説って中身あんまし考えてないよなw
これが卑弥呼100才で推定約4代に渡る大所帯の軍勢なら、都合よくその間の代が全員死亡してなければならないことになる

そんな都合の良い設定は存在しない
0362日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 12:17:30.93
>>361
はぁ?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 12:24:46.55
>>360
デタラメというよりはここでの話でもある様に予断が魏国側にも当然あるだろという話
考古学的にも景初当時は温暖ではない。
人口も戸数もデタラメで、まるで国を大きく見せかけているかの様である
確実なのは事件が起きた年数と、実際に目の前で見た景初の戦闘の下りのみ
他は「そう言われている」程度の話

倭国大乱では大陸は介入していなく、情報も少なかった
イカダでも一日50キロは進めるわけで、九州説だと邪馬台国が海の中になるのも過去のメモ書きか何かの古い情報だから
0364日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 12:29:44.64
一族による結束を中心に考えるべきところを、原則世襲で考えない辺り、非常に苦しいですな?

血筋が重要でないなら蘇我王朝(継体天皇)は生まれない

適当な能力の巫女が生まれるまで継承順位が決まってないなど異常だし、そこで揉めたのなら他の要因をきちんと追求がなされるべき

景初においてはそれがハンコと属国旗であり問題が複雑化した
0365日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 12:33:16.07
>>362
九州説ってあれだけの戦乱を担った一族への落とし込みがないから笑えるw

重要な一族がいるのにその話すら調べようともしない
なぜ宇佐神宮が、重要視されるのかすら疑問に思わないらしい

とにかく卑弥呼と邪馬台国が九州であるのであれば気が済むらしいww
0366日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 13:05:41.68
史があり、記や紀があり、伝がある。

東夷伝など、伝に過ぎない。
そう言われています、伝わっていますが、入ったら史とは扱わず、比較的正確に情報収取できたと思われる景初の話が入っても、その書物と立場は伝にしかならないという厳しい立場が示されているのかもしれない

伝である。そこから始めましょうね。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 13:30:42.81
>>363
>実際に目の前で見た景初の戦闘の下り
ってのは、何のことを言ってるのでしょう?

364の
>景初においてはそれがハンコと属国旗であり問題が複雑化した
で、
金印は、正始元年240年に建中校尉梯儁が、卑弥呼の臺、まで持って来た。
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 亂 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 傳辭 出入 居處宮室
53 樓觀 城柵 嚴設 常有 人持兵 守衛
が、卑弥呼の歴史と、この時知った居城である卑弥呼の臺、の様子の報告

属国旗というのが、同じく正始6年245年の
64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
なら、黄幢は、魏の正規軍としての旗印。

帯方郡が始めて、太守弓遵が戦死した
韓南部の制圧戦での檄、参戦要請だが? 
この黄幢は、
帯方郡の戦局が悪く、制圧が終わった後の祭りで、
正始8年太守王?到官、の247年まで届いてはいない。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 13:37:12.73
>>367
八本の旗はウサまで持っていかれ、開戦の際のシンボルになった

故に、八幡となった。

はちまんでなく、ハヤタが真髄なわけだ。
受け取ってるのは我が国側のナシメ(ダシマイ←タジマノモリ)でしょ?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 13:51:36.18
陳寿はかつての我が国側のことを指す、ダン州が現在の九州かどうかは判断がつかなかった可能性がある
そもそもが、水行で丸木舟でも50キロは一日に進めるのだから、沖縄でも全く問題ないことになる
最近まで米の二期作ができるのは温暖化とオゾンホールが言われ始めた近代まで、沖縄までが限界だった
九州では二毛作。しかしそれすら当時はできたか怪しい
景初時代は海退期にあたる寒冷気候であったと既に分析されており、我が国の原始農耕は壊滅的なダメージを受けたと推測されている時代

つまり、ダン州の話と、温暖で一年中野菜が取れる話は当時の話ではなく全く別の場所か別の時代の話の可能性が非常に高い
それが証拠に対馬は国内ではなく、穀物を交易で入手している

この食糧の大被害も景初の戦いの一因になったとも言われている

同じく食料で困窮する九州が、後付けで名付けられた山門あたりに攻め込んで解決できる問題かは自明の理であろう。

あの時代で巨大な水田は畿内の中西遺跡くらいのものだった。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 13:53:31.33
このダン州との兼ね合いで、南や北の方向が変えられて記載された可能性は否定できない

伝レベルの話だから問題ないと判断したのだろう
0371日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 14:08:32.66
>>368
当時の倭人の名前だったら

女王所属大夫
都支国 大夫/(都市) 牛利
奴国 大夫/(難) 升米
巳百支国 大夫/(伊聲耆) 掖邪狗


伊支馬/壱岐の馬
彌馬升 彌馬獲支/邪馬国の馬升、獲支
奴佳?/奴国の佳?
とか、だよ?

八幡って完全な和語の表意文字の名前? だし、
宇佐なんて、倭人伝時代にお呼びで無いでしょうが。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/22(火) 20:58:04.66
この頃は2倍年暦
0373日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 00:51:07.48
邪馬台国の「馬」って
邪馬国や弁辰彌烏邪馬国もあるので
単なる発音的な当て字と思うが

馬韓(マハン)が
騎馬民族(ハン=干)で、旗も服も赤色って理由を知って

赤色! 倭人も赤の刺青だな

それで馬の字もあるなーw みたいな

邪は、琅邪の「邪」から
馬は、騎馬民族の赤色から

単なる発音的な当て字とは思えないねw
0374日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 09:09:08.64
>>373
邪馬台国の台は、台は、240年に建中校尉梯儁が
金印を届けに卑弥呼の王宮を訪れた際に
所属の21国を参問して漢字にした際の
邪馬国にあった、卑弥呼の臺から命名したものであって
梯儁にとっては、完全な表意文字の仮称国名。

魏の家臣か陳寿?が臺を使用せず壹を代用したが
後漢書では、臺に戻している。
投馬国も中国名の馬韓を過ぎた国の意味で同じく表意文字。
後の弁辰韓24国5万戸である。

馬韓については箕氏朝鮮遺民が入って韓王を名乗ったと有るが
この王が、箕王自身ではなく馬氏だったのではないかと推測できる。

倭、韓には地名=王名の場合が多いが、弁辰韓には彌の付く国名が多い。
ちなみに、和音変換上、邪馬の当て字は、邪摩でも彌馬でも良いようである。
台は明らかに違うし、邪摩惟に至っては奈良の大和を知った後の修正。

大倭がヤマトだったり、大和がヤマトだったりするのは
仏教で漢字知識が増え、日本で漢字が訓音可したり万葉変換が有ってからの話。
八幡は仏教用語だが日本語。 出雲だの諏訪だの表意文字変換も有るだろうが
天皇の諱が出来た後の地名ではないのかな?
神社ってのは和語だとやしろ、寺社はてら、神宮ってのは皇祖の宮の表意文字。
仏教漢字伝来に便乗して発展している。
0375日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:33:00.18
>>371
タジマを難升米と書き

十千根入彦を、都市牛利。牛は子の草書体の写し間違いで、トチネイリ⇨トシネリ。

武内宿祢は戴斯烏越と書かれたが載は戴の写し間違い。タイシュウエツ→たけしうえつ

額田宿禰はそのままヌカダイ

「伊声耆イセシ」は古事記の「伊佐知」であり、イクメイリビコイサチ。九州での偽名だったらしい(当時の風習で真名は隠す)

矢坂入彦は、ヤシャク

単なる音感を当てはめたもので、宿禰など国内の継承は略される。
当然にどこに住んでるのか書くなどの決まりは存在しない。単なる自己紹介の音感を当てはめただけ。つまり漢字での自己紹介はしていない
0376日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:33:33.33
>>372
ですよねー
0377日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:36:40.49
記紀は大陸を欺くためのもので、我が国の国民を騙そうとしたものではない
故に諡号や先代旧事本紀、そして延喜式にある様な9つの口伝の家系の存在が作られた

景初の朝貢勢は全て九州勢によるものだ。
0378日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:37:19.84
倭の固有名詞を漢字にした時に
表意文字であればそれは中国側の、漢語。
耳で聞いたもので和音変換で適当に字を選べるなら和語。

対馬は、日本側から馬韓に対峙する島の意味だが、津島、対島にしても
馬韓時代に表意文字は無いので、後付けの可能性が高い。
倭人伝の大海国は、倭人伝以前からの中国名。
壱岐は和音のいき、だが、一大国は一支国の見書きでの誤りだろう。

日本に漢字が入るのは百済建国の370年以降であり
博士による説明が理解できたのは、
王宮周辺でも、倭の五王が漢名を名乗ってからであり
それ以前の、表意文字が使われた地名や姓を含んだ文
は疑う必要が有る。 と言う事は、理解できただろうか?

記紀以前の400年から700年も古墳時代であって
370年七支刀のような金石文はもっと出てるはずであるが
記紀成立によって、盗掘、焚書、消し去られているわけで、
寺社伝承に関しても改ざん、偽書の存在は否めない。
倭文漢字に和語の表意文字が有り得無い時代の
漢語を含む書と言うのは後付けである。
0379日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:39:07.06
故に、入彦勢が景初の人物たち。
それが分かる様に名前が書かれたので、当然に魏書には入彦、彦などはつかない
ヤマト側の立場の編纂者が、大和側の視点で、入ってきた人たちと書いた
0380日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:43:57.70
普通に当時の人たちの家系がまだ存続してて、その人たちが証言する訳なんだけど

そんなものを確立や立証で判断するなど、歴史としては馴染まない

旧家にしてみれば単なる経験や過去の出来事であって、歴史や考古学で答えが出ていなくて導き出すものという考え方は当然してない
神様の話なんかではなく、単なる先祖の話に過ぎない

本人たちが発言しても基地外扱いして失礼な事を吠えてるのがここのスレ主
ちょっと病的
0381日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:49:01.39
ちなみに断言はしていないが、彌馬升 彌馬獲支は、ミマツ姫と水口宿禰ではないかと書いてあった。

この辺は当事者の家系に聞けてないのだろう。
0382日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 11:54:21.55
タジマノモリが西都原に招かれたのは朝鮮語が話せて漢文の読み書きができたからだと書かれている。
当時は文字はあったけどまだ自分のものにはできてなかったのだろう。
故に音感部分が出てきた
0383日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 13:19:12.79
>>371
イニエはニニギにされて神代に遡らされています。
イニエの奥さんだったウサの宇佐津姫は、豊玉姫にされて同じく神代に遡らされて記述されました

ここが記紀で消されているところです
0384日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 15:46:34.94
>>147
過去スレで日本語がおかしいのは君だとはっきりしてるぞ伊都チョン連呼くんw

> 393 :日本@名無史さん :2022/09/21(水) 15:45:05.31
> >>359
> おまえ、270でこう書いてるよな?
> 〉スサノオが五十猛すなわち海人族の王である安曇磯武良に植樹を命じたという記紀神話とも完全に整合している
> 記紀神話に一切出てこないよな?磯良は

> 416 :日本@名無史さん :2022/09/23(金) 00:35:30.16
> >>393
> その文章を読んで磯良が記紀に出てくると誤解するようなバカはお前だけだぞw
> 普通の人は記紀Iに出てくるのは五十猛の方だと誰でも分かる
> 日本語の不自由なお前しかそんな勘違いはしないから安心していい

> 428 :日本@名無史さん :2022/09/23(金) 21:02:14.58
> >>416
> 〉その文章を読んで磯良が記紀に出てくると誤解するようなバカはお前だけだぞw
> 普通の人は記紀Iに出てくるのは五十猛の方だと誰でも分かる
>
> wwwwじゃあ、お前の言うイソタケルが命じた相手ってのは記紀には出てきてないわけだから嘘を確定でいいよな?
> そもそもお前、磯武良と、イソタケルが同一人物とか抜かしてなかったか?
> 同一人物が自分に命じたりとかしたのか?ww

> 462 :日本@名無史さん :2022/09/26(月) 00:49:30.26
> >>428
> >お前の言うイソタケルが命じた相手ってのは記紀には出てきてないわけだから嘘を確定でいいよな?
> お前は「スサノオが五十猛すなわち海人族の王である安曇磯武良に植樹を命じた」という文章を見て
> 五十猛が誰かに命じたように見えるのか
> お前の国語力は小学生以下だぞそれ
> まともな日本人はこの文を見たら命じたのはスサノオで命じられたのは五十猛=磯武良だと誰でも分かるはずだが
> やはり朝鮮人なんだな
0385日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 15:52:06.68
>>148
お前の頭はモンキーかい!w

>>143の図を見れば筑後山門周辺が圧倒的に鉄器の生産地であったことがはっきり分かる
当時の中心地であることは考古学的に明らか
そこの地名が山門なのだから邪馬台国がここであるとするのも当然

>山門呼称は記紀服属で後付けの地名。
根拠無し
筑後山門が魏志倭人伝当時の中心地であったのと同時期の畿内山門には鉄器がほとんど無い
明らかに文明の遅れた田舎でありそちらが都であることは考古学的にあり得ない

>九州地名はヤマトから山代にかけて存在する
上で書いたように九州の方が先に発展している
畿内の地名は九州邪馬台国の東遷によってもたらされたと考えるしかない
残念だったなキナイコシくんw
0386日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 15:53:40.91
>>149
お前は>>23の通り考古学という言葉の意味さえ知らなかったモンキーなんだから今更イキっても滑稽なだけw
磯良を祀る古社の存在は十分に考古学だよw
ただ現在まで現役で使用され続けているというだけでな
遺棄されたものだけが考古学ではない

もちろん考古学のみではなく歴史学や場合によっては民俗学などとの整合性を取ることが一番信頼性の高い手法だし
俺はそうしている
その結果が>>17であり>>140なわけだ
0387日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 15:58:44.18
そら、病的でしょ?ww
0388日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 15:59:01.44
>>150
>宇佐のアチメワザには石上のひーふーみーが出てくる。
阿知女作法が宇佐のものであるという根拠無し
ひふみが石上のものであるという根拠も無し
そもそも雷大臣=甘美内宿禰=ウマシマジと主張している俺に向かって物部の石上の文化が入っていると言われても
俺の主張の補強にしかなっていない
落第だぞ伊都チョン連呼くんw
0391日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 16:03:13.57
>>153
系図は嘘だが?
磯良と五十猛と五十迹手が同一なのは>>8の通り明らかだし、五十迹手は神功の夫である仲哀に会っているから同時代の人物に他ならない
神代という嘘を創作したから整合性を取るために系図も捏造されただけ
0392日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 16:04:52.23
>>154
地名だけで考えるとそういう罠に落ちる
考古学と整合性を取って考えれば>>143のように明確になる
0393日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:08:40.10
>>155
別に反乱者でもいれば土蜘蛛で問題無いがそれがどうした?

>ここに卑弥呼が居たんだというのなら伊都とは遠すぎるww
放射読みでも水行十日離れているわけだが
一日30km計算で300km前後となり、>>5の地図と一致する
遠いからこそ一大率を置いて管理を委託しなきゃいけなかったんだよアホ
お前の妄想は無意味
0394日本@名無史さん
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2022/11/23(水) 16:09:54.74
>>156
神代なんてものは無い
人代の出来事がループして書いてあるだけ
何度も同じことを言わせるなよ痴呆
0395日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:13:40.97
>>157
>南至 邪馬壹國の、水行十日で邪馬台国に入国してるし、
>女王之所都へは海からは行けないので、陸行一月=2千里。 という事である。
言いたいことは分かったがそれではただの放言でしかない
その読み方と同じ用例を中国の古典から探してきたら考慮してもいい
それまでは却下だな
0396日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:14:42.48
>>158
全て根拠ゼロの妄想でしかない
相変わらず議論の基礎すら理解できてないモンキーだな伊都チョン連呼くんw
0397日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:18:56.27
>>159
神代などというものが実際には存在しないことは>>8の通り明らか

495 :日本@名無史さん :2019/09/06(金) 23:22:16.52
>>292,294について更に調べたが、どうやら間違いなさそうだ

>>292で書いたように筑前国風土記逸文に五十迹手が伊蘇志(イソシ=勤)と褒められたので地名をイソにしたとある
一方の五十猛はイサオシの神と称えられている
安曇磯武良=五十猛=五十迹手は確実のようだ

伊太祁曽神社の御由緒について
http://itakiso-jinja.net/yuisho.php
> そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。
> このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。

また、先代旧事本紀によれば天村雲命の別名は天五多底(あめのいたて)とされているが
兵庫県の射楯兵主神社に祀られている射楯大神(いたてのおおかみ)はそのものずばり五十猛だとされている
http://sohsha.jp/under02.php
> 御祭神 射楯大神 いたてのおおかみ
> 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた
> 植樹の神様と崇められています。
> また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています

事績に神功皇后の新羅遠征で水先案内をしたとあるが、太平記や磯良神社の社伝によれば、神功の水先案内を務めたのは安曇磯良とされる
安曇磯武良=五十猛=五十迹手=天村雲命はもう間違いないと断定していいだろう
0398日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:19:40.01
496 :日本@名無史さん :2019/09/06(金) 23:52:18.91
それはそれでいいのだが一人の人物と考えるなら時代がまたがりすぎてるのではなかろうか


504 :日本@名無史さん :2019/09/07(土) 00:07:42.69
>>496
まさにそこが今回最大の収穫かもしれない
つまり記紀神話の年代のでっち上げの手法が判明したということだ

五十猛は素戔嗚命の息子なので神代の人間、というか神だが、五十迹手を褒めたのは仲哀だし、磯良は神功の水先案内を務めているから人代の話である
つまり実在の人物として人代に記録されている人間が別名を使って素知らぬ顔で神代にも書かれていることになる
従来考えられていたように神代が九州で人代が畿内というような分かれ方ではなく、人代の出来事を神話仕立てにして遠い過去の出来事として
投影したのが神代であり、人代と同一人物が重複して登場しているのだ

これはつまり、他の神々にも人代におけるモデル人物が存在する可能性を示している
例えば天照大神のモデル人物は神功皇后かもしれない、とかな
スサノオの子であるイソタケルが安曇磯武良なら、天照大神はその伯母にあたるから一世代上だが概ね同時代の人物とみると
むしろそう考えたほうが自然なくらいだろう

単に伊都国が安曇の国であることを実証するのが目的だったのだが、思いがけず記紀の嘘を暴いてしまったのかもしれない
0399日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:19:45.68
510 :日本@名無史さん :2019/09/07(土) 07:01:45.54
>>504の続き
もっと深い問題もある
天村雲命が五十猛=安曇磯武良=五十迹手と同一人物だということが分かったわけだが、この天村雲命は
奝然が宋の太宗に献上した王年代記にも登場する
曰く
「初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。」
とうとう倭王になってしまった
しかもなんと天之御中主に次ぐ二代目の倭王にされてしまっている

王年代記は記紀よりも後に作られており、神武の即位が周の時代と書かれていることからも明らかに年代が捏造されている
そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様

要するに、大和朝廷が作成した史書は、個々のエピソードについては脚色、改変はあれど元になった事実があるのだろうが
その年代観も天皇の順番さえもまるで信頼が置けないということである
0400日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:24:34.40
>>162
ん?四国にもあると言いたいのかな?
確かに北限が福岡だから四国もあるな
眼中になかったから気にしていなかったが書き方が悪かったな

いずれにせよ仁徳天皇がいたのは九州で畿内ではないことが御製から分かるし
淤能碁呂島は能古島
0401日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 16:29:07.14
>>174
出雲や大阪湾岸、畿内など雷大臣が追放後に辿った軌跡にも多いな
さすが卜部の祖とされるだけある
0403日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 17:06:58.69
>>395
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

水行、陸行はともに動詞であって
主語は邪馬台国と女王の所都になるという陳寿の構文の話。

同じ用例なら
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐

・丗有王皆統属女王國=主語 動詞=往来
丗は原文では後出の評曰で記す魏世と字が違うので
どうも帳政の報告の卅の可能性が高い。
中国人は、魏ではない卑弥呼の時世の王を世有王とは言わない。

・郡使=主語 常所駐=述語
郡使帳政は伊都を、往来しないで、常駐しただけ。
むしろ、240年の梯儁軍のような安全な移動のすべが無いので、
一大卒に検閲拘留されてたしていただけなのである。

68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
72 政等 以 檄告喩 壹與
と言う渡来の目的について、
一大率で拘留の伊都までの行程で完了帰国した言い訳をしている。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 17:23:59.55
ああそうだ、壹與を台与、トヨにして
豊?何とか?さんに比定するレスが有ったが、

壹與なら名がイヨだし、後漢書以降がもどした臺なら
魏王の楼閣であって、完全に中国人による表意文字。

卑弥呼の臺を継承した、後継者=宗女と言うだけの
和音の名前ではない跡継ぎ、ってだけの表意文字だぞ?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 17:55:03.31
>>402
安曇については、九州豪族でほぼ間違いないが、
250年以降に朝廷に参加したわけで、
九州は百済や新羅同等の外様状態。 外国だろw

朝廷国内、優良荘園領地は400年~から500年で売り切れ。
日本海ルートの守備が面倒な半島や未開の信州開拓。 
これって豪族の冷飯組だろ? 

まあ、関東以北の開拓は可能だが
物部以下諸豪族創成期の250から500年で、天下布武の信長状態有るか?
で、白村江で信州の安曇族も招集され、安曇野には帰らなかった。

考古学の話なら、物流は可能でも
250年までに九州南部からも海神交易は在ったが
九州が政治的に栄えた可能性は倭人伝の邪馬台国しかない。

東進説? 本州進出説? は無い。
源氏物語の後宮性治で新興地方政権が
中央に合流するのである。

馬と鉄器の富国強兵の始まりは、卑弥呼以降だが
豪族後宮のヤマトに馬や鉄器を挙げることは、まかりならない。
ってことだけ、かもなw
0406日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 18:27:37.17
アタシは考古学と言うのは、必ず偽書ではない文献
の後についてこれると信じている。

考古学成果で、纏向が邪馬台国w
それ200から250年の邪馬台国じゃなくて
日本の首都がどこだったか?
じゃね?

考古学が無かった倭王=古代日本王に拘泥する必要はない。
三国志は、序文で

近日之所出 遂周觀 諸國 采其法俗
小大區別 各有 名號 可得詳紀

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉

と言っている。
魏時2回の使で、知り得た日本国土の小国
見てない以東の本州などは知らない中国人が、
筑紫の風物を記したのが倭人伝である。

親魏倭王、は、倭時の数万里の倭の国土内では
邪馬台国の周旋可5千里しかない小倭の国王なんだけど?
大倭に対して、小倭ってのは金印に書けるのかねwww

漢の倭の奴国王、の印って、意味はは 解決だろ?
もはや、めんどくさいんだけどw
倭人伝に突然登場する、大倭 の意味が判れば話は通じるかもなw
0407日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/23(水) 18:47:32.20
まず、聞きたいんだが?

正しく読むスレなんで、漢文の読み方の話しようか?
250字位だっけ? 
原文は原文で参照しないと、日本語訳に騙されるよw

てか、
なんでこんなに悪意の誤読ばっかりなのかは謎だろ? 
邪馬台国論争の九州説って
畿内説と同じ現状みたいな、ただの馬鹿抽出だったの?

正しく読む話はしたいと思ってるんだけど?
パブリックなんで、
話を続ける価値は有ると思うんだが?

これはひどい。 ハンコ
なのかな?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 00:36:16.48
>>374
馬氏ね、なるほど

最初は十二支から半島は方角の干支をあてたと推測したが
(倭には牛馬が居ないと書かれてるし)
馬韓の名の由来探しから突破口となった
0409日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:26:42.06
>>388
お前がものを知らないだけの話
こっちはお前のレベルに合わせるほど暇ではないw
自分で調べな
0410日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:30:08.09
そもそもが自称考古学から歴史学である魏書に落とし込むのは順番が違う

新しく出土したものが出たらまるっきり組み立てが変わるだろ?

伊都チョンは、自分の言ってることが嘘でも全く意に介さないと宣言してる様なものだw

その割に、安曇しか考えられないから安曇とか意味不明なことばかりいって考古学とは一切関係ない話ばかり
何度も他の人に言われても理解できない様子w
0411日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:32:11.01
>>391
〉磯良と五十猛と五十迹手が同一なのは>>8の通り明らかだし

いや。お前しか言ってない妄言だから明らかにされていない話だろ
ものを考える順番が違う。認知レベルで異常がある。
思い込みを真実と書いているだけ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:35:39.14
>>396
お前は自分の敷いたルール通り反証には根拠を出せ

自分で言ったことすら守らないから他の人にも狂人扱いされてきたんだろw
0413日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:43:39.85
>>385
考古学的に3ルートあった鉄のルートのうち、直接製鉄がなかったのは筑紫だけ。
故にあそこは輸入しか手立てがなかった地域

考古学とかはあるのであればその圧倒的に乏しい知識を自分でなんとかしろ

お前が一番レベルが低くて役に立ってない
0414日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:48:07.91
>>392
根拠なし
考古学とは無関係な思い込み
0415日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:49:42.41
>>407
〉邪馬台国論争の九州説って
畿内説と同じ現状みたいな、ただの馬鹿抽出だったの?

九州と畿内の争いの話が魏書になるので、既存の九州説や畿内説は全く意味がないというのが最近の話
0416日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 02:52:09.20
>>406
〉筑紫の風物を記したのが倭人伝である。

その温暖な感じの記述は本当に筑紫の話なのか全くもって不明。
気象学的には景初のあたりは寒冷であった事は土壌などの分析からも結論が出ている
0417日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 03:02:36.35
アチメワザは宇佐家の自家の家伝として行っていた鎮魂祭りをアチメワザと呼ばれる神楽であった。
普通に宇佐氏の本に出てる程度の誰でも知ってる話

それがウサから石清水八幡に渡った

ひーふーみーは、石上の十種神宝の行事の口伝で振魂の清祓行事とも言われるもので18世紀以降に縁がありウサに口伝書が伝わったもの

元々、アチメが男を指すわけが無かろう。
ウズメに関係する話とも言われるくらいのものだからな

伊都チョンは九州の祭祀にすら全く知識がない様だ

九州説の人たちも迷惑してるだろうなw
0418日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 03:08:41.56
という事で、元々アチメワザは応神と神功皇后に関係した神事として作られた。
そう本にも断言して書いてあるな。

つまり、竹葉瀬君。トヨの兄の豊彦の男系の直系の上毛野のイニエと豊玉姫(宇佐の宇佐津姫)直系の血筋。

磯良舞のまたの名は細男舞

ウズメ(細女)に対する兄の細男が磯良

ホント伊都チョンはテキトーだよなw

根拠なしって吠えてるだけ。自説を信じたいメンタルしか彼には存在しないw
0419日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 03:10:02.98
アチメワザの源流を作った宇佐の話ですら根拠なしとか吠えちゃうのが自称九州説の安曇派とでも言おうかw
0420日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 03:11:47.26
つまり、アチメワザは宇佐の豊姫
細男舞は宇佐の豊彦を表している

両方とも男系は物部
0421日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 03:17:58.06
アチメワザになぜ三輪、穴師、石上が出てくるかと言うと、イクメの後に奈良入りした豊国軍は富の霊璽を一時占領したから。
故に海の磯良を呼んでるはずなのに山形出てくる。
アチメが呼んだのは豊彦。
あそこの兵頭神社には五十猛は居ない。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 11:54:30.54
>>416
>その温暖な感じの記述

と言うのは、 >>271 でいうと
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鐵鏃 或 骨鏃 所有無與
32 (胆)耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

の、話かと思うけど、
実は、改行が一文字間違ってたのに気づいて修正した。
ありがとね。

おっしゃる通りで、南海島と筑紫の風土が同じわけがない。
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
の 計 其 道里で、指示代名詞の行先が前文に存在せず、
破綻している一文と一緒で

(胆)耳 朱崖 同 は要らんのではないかと思われる。
おそらく、引用原文が百越の倭の紹介文なのでは?と思う。
あれっ? ちなみに、271の
(又 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
は文章が破綻から、削除されたであろう一文の推測。 消すの忘れた私見。

247年、帳政の見た糸島半島の、
好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之 
の季節はともかく
九州の冬は裸足で居られないのでは無いかな?

この物産や風物の説明の段落は、
魏使の確認と古史料が混在しているようで
改行位置の分別も難しい。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 12:35:43.29
>>405

倭とは博多沿岸のこと。
ならば志賀島の安曇こそ倭王の家系だよ。
本州にいたのは倭種。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 12:50:11.57
>>422
倭や大倭というのももしかしたら他の資料に出てて愚直に登場させたものなのかもしれないですね
0425日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 12:57:43.52
>>423
根拠なしの妄想。尾張氏である彼らがいつあそこに来たのかは不明
倭国大乱期以降なら阿部でも入れる
0426日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 13:35:50.84
>>422
沖縄とアイヌは確か後年まで刺青の風習が強く残ってましたよね
0427日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 15:41:43.75
鹿児島県鹿屋市で弥生時代初頭の墓群を発見!

鹿児島県鹿屋市で約2800年前の弥生時代初頭のものとされる墓が見つかり一般公開された。
「鹿屋市の立塚遺跡で約2800年前のものとされる墓が全国で初めて見つかった。
弧を描くように連なっているのが特徴だ」

鹿屋市にある立塚遺跡。ここでは、県道の改築事業に伴いおととしから発掘調査を行っている。
その過程で見つかったのがこちらの墓だ。
上空から見てみると、円を描くように作られているのが分かる。近くで見つかった土器などから
約2800年前の弥生時代初頭の墓であることが判明。土坑と呼ばれる穴の墓が計30基以上見つかっている。
大人が1人入る大きさのものから、子供とみられる墓も発見されている。
大きいもので縦幅が6.5メートル、横幅が1.3メートルほどある。
何人かの墓が連なってできたものとみられていて、親族間の墓である可能性が高いという。
環状に作られた土坑の墓は縄文時代の特徴で、弥生時代初頭のものが見つかったのは全国初。
(県立埋蔵文化財センター・寺原徹調査課長)
「(弥生時代初頭に)南九州では縄文的な墓の作り方、精神文化が残っていたと示すもの。
精神文化は分かりづらく残らないものなので、これからいろいろ研究が進むといいと思っている。」
今後、弥生時代が始まった人々の暮らしや弥生文化の研究につながることが期待される。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b46de1236aeebbe0f33ac4d0e0293311014e12e9
0428日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 16:27:09.28
>>424
大倭と言うのは、結局、周旋可 五千餘里の女王国に対する倭と言う地域全体は
九州島ですらさらに南に2月行、そこからさらに東南船行1年=24000里以上あるわけで、
卑弥呼の国が倭人域の中の小国だった、という事を、示したんじゃないかな?

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史

國國 有市 交易 有無 使 大倭 監 之
にする和訳が有るけど、
国々には市が有り有無を交易する 
で、完結してる文の後で使が動詞だと、おかしいし、
さらに監の主語は大倭になって、何を言ってるんだ? である。

使は帳政であって主語であり、女王国は小国であり
張政が大倭を見たという報告が、伊都の一大卒の報告。

31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鐵鏃 或 骨鏃 所有無與
32 (但)耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

竹箭 或 鐵鏃 或 骨鏃 所 有無 與 (但)耳 朱崖 同
で、有無が(但)耳 朱崖に 同じだ という和訳を見るけれど、
だと、この段落全部が物産や風俗の話なのに、
指摘されたような温暖地であったら全体が日本ではないおかしな話になってしまう。

或 鐵鏃 或 骨鏃 なのだが、所による有無でどちらか?
であって、この有無は物産のような熟語ではなく
有るか無いかは? その土地による。
と、いうことであって、與の或を受けた軽い疑問符としての使い方に当たる。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 16:47:07.81
>>423
倭人伝以降合流の九州と百済新羅は400年以降迄、
外様大名状態で、信濃に飛ばされた安曇は白村江で招集されて

信州には帰ってこなかったので、仁科が地域領主になった。
どっかで、白村江以降も大成した安曇族って居るの?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 17:17:59.68
>>426
中国史書が倭人の刺青の記述を尊重しているわけだけど、
すごくめんどくさくて、衛生的にも危険だし、漁労民みたいな
部族間以上には浸透しないんじゃないかね?

まあ、王族や戦士? ヤクザの印 と してなら???
弥生人の背中に、南無妙法蓮華経の刺青出たら、アタシもやるw
0431日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 18:19:40.51
>>425

いつ来ても構わない。
博多湾沿岸の氏族はしばしば入れ替わるが、その時代において博多湾沿岸を支配していたものが倭王。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 18:44:35.23
>>432
倭人伝の240~247年の記録が
日本の古代史史であって

250年までの日本に
中央政権が在った=畿内説
中央政権は無かった=九州説

だけども、倭人伝は、筑紫が朝廷に参加した
250年の、記紀ではない古代史の真実の話だよ?

九州は半島の新羅百済、同様外国だった。 
白村江以降で独立国だった対馬九州は、
日本の属国になった。

記紀には、これが記録されている。
九州、対馬は歴史的に、日本の領土である。

古代において、滅びた百済ってのは、
中国属国化で勝った、新羅によって、
日本から独立したんじゃないのかね?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 19:06:19.80
倭人伝には卑弥呼は、倭人地域に在った
入口筑紫地域のの21国の王だった、と書いてある。
あたしは、陳寿の文は尊重している。

原文に異論が有るなら聞いてネw
0435日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 21:53:26.54
>>433

なんだか読みにくくて趣旨が掴みにくい日本語だな。

記紀は神武からしばらくの間は畿内ローカルの歴史しか書いてない。
そして、魏から見た倭とは九州北部のこと。
畿内はあくまでも倭の別種、外様。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 23:29:23.06
>>431
もやは考古学どころか歴史学ですらないw
単なる願望やメンタルw

さすが須佐男=ヒボコだかなんだかをいうだけのことはあるな。
順序すら無視とはw
0437日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 23:31:32.85
>>430
確か魔除けか何かの意味があって重要視された風習らしいね
0438日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/24(木) 23:34:11.39
>>429
しーっww
本州は外様とか言ってる段階で安曇のことなんて瞬間的に忘れて熱くなってただけだからww

そもそもが今残ってる安曇の系譜は穂高神社のものしかなく、考古学的どころか歴史学的にも曖昧なのが尾張氏系統の安曇
0439日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 12:24:37.78
新羅王子の天日槍の渡来話なら、現実的には350年以降。
新羅が建国していたと言うなら、380年以降で
仁徳時代になってしまうと、渡来人が神格化するのは、
記紀神話や神社伝承と同じで、始祖を辿る創作ってだけの事だろ?
まあ、スサノオがどーたらなら、当たり前だがw

韓伝は精査したわけでもないけど、魏時の話として
辰韓では独自の王は持たず、馬韓で選任して月支国で治めた。
なんだけど、
その上で245から6年の難升米、黄幢 檄以降の韓王朝滅亡だよ。
馬韓王、辰韓王は無くなって、臣智他という官制で服属した。

ヒコボボ君は、いつどうやって、白村江以降まで歴史が継続した
百済王族のように日本の貴族に加わったんでしょうか?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 13:25:40.17
>>439
ヒコボボワロタww
0441日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 16:00:16.18
>>439
一応ですね、かつては旧敵同士だったヒボコの家系(正しくはヒボコにお嫁さんを出した家)と、島根の富家(事代主の方の家系)は結婚していた人が出ていまして、お互いの歴史や話の比較はできていまして相当数が似通っています。
まずヒボコはホアカリ饒速日よりも後、紀元後100年代(下記の設定上は神代)前半の渡来で、その後尾張氏や吉備などと習合して勢力を伸ばしたとあります。
倭国大乱期の初端を切る先頭を起こしたのがヒボコ族の播磨侵攻です。(150年代)
ヒボコは渡来の時の土地交渉での態度が悪くて出雲に土地を世話してもらえなかったので
それがかつては恨みになっていたらしいです。
男系か女系かは不明ですがヒボコからコヤネや息長家が出ました。
タジマノモリが景初時のヒボコの家系で出雲を滅ぼしています。
タジマノモリは垂仁3年とありますのでこの辺は応神あたりに事実と近くなる記紀の性質により同年代。
さらにタイマノケハヤと名を変えられて野見宿禰にやられる話が追加されています。
これが三輪山や、現在の奈良のタジマあたりの戦いにヒボコが破れる話の例え話にされ隠されました。
ヒボコの五世の孫だかがタジマノモリとされますが、実際には4代ほど系図が消されてる様な印象です。
島根と丹波の離れた家系の伝承はほぼ一致しています。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 16:16:29.08
>>439
〉新羅王子の天日槍の渡来話なら、現実的には350年以降。

確か。その頃が神功皇后の時代で、かつては辰韓の一部にすぎなかった斯ろの国がの系図が途絶え、部下の国になった辺りと考えられます。
神功皇后は、母系の先祖の相続権を主張して征伐を考えたらしいですね。
成務から、景行天皇あたりが神功皇后のいた時代で、後年に諡号でネタバラシされ、タラシが入ります。
物部オオタラシ彦、物部ワカタラシヒコ。
つまり本当の名は隠されている大王になります。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 17:37:55.39
>>442
時系列を洗える話で有難い。
天日槍に関しては、246年の馬韓、辰韓王朝の滅亡時

と、言う可能性は捨てきらなかったのだけど、
纏向以前の朝廷に、九州や半島勢力を迎える
許容力は無かったのではないかな?
安曇族や半島勢は、冷飯組ってのはその話。

245年の魏の韓侵攻に於いて、筑紫は後方支援の
檄を受けなかったわけで、247年の黄幢を蹴れば
当然、魏の敵国となるので、本州朝廷との連合防衛を迫られ
日本は、古墳時代に突入したのである。

歴史の必然であって、考古学が証明しつつあるだろ?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 17:50:05.68
>>441
時系列で、神代、崇神、応神まで被っちゃうんで
もはや、歴史の話として受け止める余裕は無いんだけれど、
家系が明らかに続いていたなら、西暦に直して貰えないだろうか?

政没年齢不明、ばかりじゃ無理なんだが?
700年系図には、どの天皇に仕えた誰誰と記されるはず。

中央皇室が無い、250年の話で豪族の伝承は無理杉w
神話に便乗と言うか、神話創作の為に提供した家電なんじゃねw
記紀の真実は、5ちゃんのHDDだけしか証言できない。 かもよw
0445日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 18:14:13.24
マヌケの東遷説の人が居るのかどうか? 知らんけど
九州説は、倭人伝の倭王は筑紫王であって、
倭人域=日本列島の王では無いと言っている。のでは?

700年の日本神話はや、500年以降の神社伝承は
朝廷成立の記紀を受けて、
または焚書した400年以降の伝承から創作された。

半島や九州の豪族に名誉が与えられている事実は
九州や半島国に日本の主権が在ったことを意味するが、
白村江で、日本は対馬海峡を設置した。

これが、歴史的な日本の領土と言う話であって、
中国史が認めてるし、半島史なら違うのか?

百済、新羅は九州四国同様、日本の一地方だったが
白村江の戦乱統一後、中国属国となった。 だろ?

古代史の話に、半島人は参加すべきではない。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 19:08:27.79
普通の中学生レベルの話で日本の古代史って言うのは
盗掘されてない古墳から、日本史の教科書がガァガァ、みたいなw

倭人伝を正しく読んでしまった場合、
記紀の250年以前、まあ応神以前なんだが?
は否定されて、

物部系皇祖の仁徳から、と言うか、
紀元の実証可能性は七支刀の370年になってしまう。

神代のイソラが、があがあ、とかスサノオが、があがあ、とか
日本は漢魏に57年、107年、238年朝貢、みたいな時系列の有る、
歴史の話なのかな? 

金太郎の鬼征伐は何時だっけ?
何時何分何十秒w 
とかなw
0447日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 20:29:25.11
今、邪馬台国の会
と言うサイトで

紹興版を読ませていただいた。
世と丗の違いだが、判らないな。

世の場合、書道的には、書き順で左下は
一を引いた後、左角になるわけだが、なんで消えてるんだ?

宮内庁の弥生ミュージアムの紹(照)版だと、
伊都国の卅有る王、表記と、評曰の魏世の世の字体は
書道的に明らかに違う。

臺が壱になる、版本や検閲後の正史より、
筆写の原本が正しいんではないかな?

陳寿は私にそう言ってる。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 20:50:27.95
記紀や伝承みたいな、神懸かりな話や神々は別格なんで、

アタシが確認や検証可能な歴史文献の、
陳寿君には、今のうちに質問してもらった方が良いwww

倭人伝全文の行間を読もうよ。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 20:59:53.14
判った。
考古学ってのは、文学の行間を読めないんだろ?
なら、倭人伝は理解できないよ。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 21:11:32.40
ま、どうせ、ここ掘れワンワンで、
解決してるけどねw

暦年遷宮以前に、継続発展してる
都市や建造物は
歴史遺跡にはならないだろ?

伊都、ってのは、
保存された、吉武高木の近辺なんだろ?
0451日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 23:31:50.71
>>443
〉纏向以前の朝廷に、九州や半島勢力を迎える
許容力は無かったのではないかな?
安曇族や半島勢は、冷飯組ってのはその話

巻向以前の政権が尾張氏という事です。故に、草薙の剣(村雲の剣は銅剣で後に鉄剣に変えられました)が皇室になく熱田にあるのです。
東征でやられちゃってるので確かに結果としてはその通り

〉当然、魏の敵国となるので、本州朝廷との連合防衛を迫られ

東征で九州勢に短期間とはいえ畿内は占領されました。連合やら国譲りだなんて都合の良い話はありません。ドロドロの争いですよ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 23:35:22.66
>>444
〉中央皇室が無い、250年の話で豪族の伝承は無理杉w

それこそが正鵠を得た答えではないでしょうか?
天武以前の大王なんて全て豪族ですよ。
たまたま藤原不比等と太安万侶の先祖が八井耳。つまり村雲の家系だったからテキトーに自分の家系から始めた万世一系を書いたのが記紀ですから。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/25(金) 23:40:53.25
当時の空気を読みましょう
【解答】
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国での伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。
陳寿はそれらの情報を精査し魏志倭人伝の下書きを作成していた。
そこへ女王国から倭人が朝貢に来たので更なる情報を要求したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)を要します
倭人が半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいる事を知らなかった陳寿は
位置関係がよく分からず既存の行程の後にそのまま追記してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png
倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島を指すと解釈すれば西日本全域何処とも考えられる。
しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は西日本の中でも最も西に位置するはずである。
東には海が有りそれを渡るとまた倭種の国があった。そして南に狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。

■半島南部が投馬国
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991

■文献記録
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0454日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 14:50:33.19
>>269 が、247年に倭人船に乗って
各寄港航路の和名の各地名間の里程を示して
合計10500里の移動で伊都まで来た帳政の記録で、

>>270 は、240年に魏で初めて韓西岸から九州へ
卑弥呼の金印を届けるために、
建中校尉梯儁が魏軍を率いて行軍して来た記録。

行軍の宿営は決まった港に入港するのではなく
人気の少ない浜などでの幕営が安全なので、
寄港地の名前や距離を示す必然性が無い。

邪馬台国は、自分が参問して漢字にした女王所属21国の
邪馬国にあった卑弥呼の臺から仮称した女王国の事。

この段が女王所属国の全てを詳細に記しているのであって
この水行30日と陸行1月が、計12000里である、とまとめた。

その南には、狗奴国が有って女王の境界は尽き此れだけ
さらに陸行2月行の九州の最南部には小人の国が有る、ってよ。
陳寿の構成だけで、充分明快な地理でしょうが?

なんでわざわざ邪馬臺国を、知らない土地に持ってくよw
0455日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 15:21:47.56
>>453
倭人船航路は
1、日本海ルート、どっか~宗像(潮待ち)~沖ノ島~対馬東岸~釜山
2、博多ルートは、博多湾~糸島北岸(潮待ち)~壱岐~対馬西岸~巨済島付近
3、宮崎、鹿児島?熊本ルートは、枕崎~天草(熊本)~平戸~壱岐~対馬西岸~
が、あったと思うね。

帳政の乗った載斯烏越は、
博多ルートなのに糸島北岸から5百里も歩かされた。
筑紫は対魏防衛を迫られて、軍港を見せたくなかったんだよ。

梯儁は公孫氏を奇襲で倒した時の帆船だろうから
水行20日で、珍島付近で歴韓国、作南から
倭人域の弁辰韓方面に東転しないでも
対馬~博多湾を目指せたと思うけどね。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 15:49:16.79
>>453
そうすると狗邪韓国はどうなりますか?

二つ出てきて、片方は北岸とありますので九州北部に狗邪韓国があった様に思えます
0457日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 15:54:20.55
>>444
〉家系が明らかに続いていたなら、西暦に直して貰えないだろうか?

説明できるには出来るが、情報が多い

それならその本を買って読んでくれ

初版本は間違っても手を出さない様に。高額になってる。
焼き直しの本が出てるから。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 16:12:38.46
手漕ぎ船で仁川から巨済島までいくというのは無理だと思うよ
潮の流れをまったく考えてないよね
0459日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 16:22:44.79
否、邪馬台国本も買ったことは無い。

ここで、宮内庁版の倭人伝(吉野ヶ里、弥生ミュージアム写真参照)
の世と丗の話をしたので、確認の為、紹興版をググったら
邪馬台国の会と言うサイトに写真が有った。

小国である卑弥呼の世で、
字が無きゃ歴史や干支?時制も無いのに
女王国の世有王、と言う表現は無い。 大倭も論外。

卅の丗と世は、書道的に違うわけで
宮内庁版は書家の筆跡だが、紹興版は個人の写経かな?
まあ、結論は、出なかったw

宮内庁版の都支国が郡支国なのは、気づいてたけど
邪馬台国21国の都支国王が都市牛利なんだからトシ?ツシ?だろw

>焼き直しの本が出てるから。
倭人伝の書写じゃない版本てか原本って、見たいよね。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 16:40:53.77
>>458
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里

これは、倭人船航路であって、何度でも往復できる
寄港地?植民地を整備した博多海人の航路。

よく見る日本語訳で間違ってるのは
歴韓国=韓国を過ぎた後、であって
珍島辺りで、縦4千里の馬韓は終わってる。
そしたら、すぐに東に横転回する訳で
3千里は巨済島付近であって、釜山までは行かない。

釜山から対馬の場合、対馬沿岸千里は、
渡海ではない、循海岸水行になる。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 17:01:48.19
何度もいわすな、と言うか、何度も言うな。 

だけど、言っておく。
歴韓国 乍南乍東
は、韓を過ぎた後、
ちょっと南下して東転するってことだぞ?

馬韓を過ぎた国ってのは弁辰韓だが
馬韓辰韓倭が混在してて郡の統一後も
倭人植民地弁韓だけは魏の統治に入っていなかった。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 18:16:45.08
仁川から手漕ぎ船だと群山くらいまでは行けたろうけど
そこから南は無理でしょ
行くんならいったん黄海に出ないと
0463日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/26(土) 18:36:59.55
仁川から群山までは海路
群山から巨済島までは陸路だと思うよ
0464日本@名無史さん
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2022/11/27(日) 09:30:50.39
>>459
原本ってメモ書きのことじゃw
でもそれも紙で保存してあったのか板木になってたのかも分かりませんね
0465日本@名無史さん
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2022/11/27(日) 09:44:58.35
>>429
律令時代より前から、藤原中臣以外の祭祀は中央から遠ざけられました

分家筋の卜部ですらそんな状況
0466日本@名無史さん
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2022/11/27(日) 09:59:08.94
>>454
合計10500里?
方300、400あるから11900余里だよ
0467日本@名無史さん
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2022/11/27(日) 11:36:54.42
>>462
徐福時代から穀物を運ぶ大型の船に関しては史書に記述がある
帆船くらいの物は考えるべきではなかろうか?
0468日本@名無史さん
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2022/11/27(日) 15:54:16.54
>>466
行程は実際に魏時2回の使が移動してるわけで
陸行水行、渡海とかの動詞が付いているんだよ?

方可、可〇万戸ってのは、
島の面積、戸数などの質量の紹介であって
実際に行動した里程に含む解釈は見たことが無い。

導入部
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

魏時(2回の)使により知り得た30国について
使の説明に從ると、郡から倭に到る行程は・・・

で、始まるのが、倭人伝前半に置いた行程部分。
動詞の主語が、張政、または梯儁の2通りあって、

張政はに遣倭 載斯烏越の倭人船乗っていったので
伊都までで拘留されて常駐したが、寄港地の名と里程を示した。

梯儁が偽の軍隊により女王に皇帝の金印を届ける行軍であって
伊都国で検閲や女王宮まで行けないならば戦争を始める。

この主語と行動原理の違いを判断することは際めて重要。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 16:05:14.21
>>465
250年までに、九州含む中央政府は無かった。
以降、新たに加わった安曇族は冷や飯組。
って話なのに、
何で600年以降の律令や蘇我氏以降の藤原まで逝くかな?

信濃の安曇族が消えるのは白村江だと思うが、
伝承厨の好きな日本の祖霊としては、そこそこ活躍するんで、
軽んじたのは、せいぜい仏教公伝辺りまでの話かと思うぞ?
百済も同じだけどな。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 16:13:50.02
逆に安曇つまり志賀島の一族が隆盛を誇っていたのは伊都が繁栄するより前の時代だと思うけどな。
大山祇や綿津見と同族なんだろ?
大山祇の権威を継承して伊都に遷都したのが天孫族なのだから。

注 倭王となった天孫ニニギの妃は大山祇つまり安曇の一族の娘
0471日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 17:21:34.49
>>468
>>実際に行動した里程に含む解釈は見たことが無い。
解釈だろー。
伊都国から分岐 東南で奴国、東で不彌国で
どちらも100里。で万二千余里。
また5000余里でも一致。
この場合は含めると解釈。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 17:23:13.79
>>468
つまり、投馬国、邪馬台国には行っていない。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 17:54:50.22
>>471
伊都国は247年張政の採集到達点で常駐した所。
68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
の大夫、難升米将軍の国。 距離は100里でも2万戸の国は大きい。
南東 至奴国には、動詞が無いし、
難升米は伊都国を往来したのであって行程外で紹介だけだろう。

と、言うより、伊都国と言うのは、丗の女王所属王の有る21国には無いので
伊都から出るのが100里で、奴国内に伊都国があるのかもしれない。

東行 至不彌國 百里は、おそらく帰りの
73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
の船が出た港の名前と思われる。 張政の知った地名は国じゃ無いものが多い。
狗邪韓國は弁韓の倭人国、対馬、壱岐は女王外、末盧國は糸島北岸の港。
伊都国は、一大卒の駐屯地。 不彌国も港。 奴国だけは国。

30国中、7国は帳政の紹介。
21国は奴国重複で、邪馬台国の世にあった列記21国王の国。
邪馬台国と投馬国=弁辰韓の仮称、狗奴国で、
この3国は、韓の馬韓、弁辰韓のような国の概念。

陳寿は倭人伝には、倭国伝になり得る、統一国が無かったから、
判んない国じゃない地名も含めて、この30を数えて
02 今 使 譯 所通 三十國
とした。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 17:58:43.04
>>473
471だけど
伊都国だろうな。奴国には行っていない
不彌国までだな。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 17:59:36.39
68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、
奴国は奴国 ←これ抜けた
の大夫、難升米将軍の国。 距離は100里でも2万戸の国は大きい
0476日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 18:09:21.78
>>475
入口だよ。そこから広がる。
奴国の南に狗奴国。元々奴国だったかもね。
>>卑弥弓呼素と和せず
卑弥呼に弓をひくものとして呼んでいたかもね。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/27(日) 18:35:32.41
>>473
自分で言うのも何だがw 
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
の世は丗=卅=三十じゃないのか?

宮内庁本ではこの部分は 丗 だが、
書的に世の異字体は、十を書いて右縦、で、左下カギでしょ?
四画だと思うけど、十の後、左右の縦を引いて下横を閉じてると思う。

末文の評曰 の 魏世 匈奴遂衰
では、十の後、右縦で、
左縦が突き抜けてから、右二本の縦を閉じている。

これは、書道的には違う文字だと思うんだが?
まあ、陳寿は数字に関しては三十を採用してはいる。

しかし、臺は、陳寿か版本時か晋の検閲時か?
で、壹に変更された。 
一大卒も一大国は、壹大国ではない。
壹與の場合、臺與であれば、名前ではなく城代?城を継いだ者。
と言う表意文字に相当する訳で、後に卑弥呼襲名の可能性もある。
壱与はまだ13歳♪だと、卑炉巳は淫行で死刑であるw

ちなみに、末文
73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
一文中に、壹與と因詣臺 が有るが、
陳寿は、探検者の投馬国、邪馬臺国と言う仮称を採用したわけで
臺の変更には、内心異議があったのではないだろうか?

丗は、帳政の記録にあった丗有る王、であり、張政が馬鹿でも
卑弥呼の世に在った王全てが女王に所属する。
と言う世の使い方、大倭王で年号も有ったとしても、中華的におかしいだろ。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 10:59:36.16
>>468
魏国は景初の段階で軍隊を差し向けてはいないでしょ。
役人を派遣して結果的にも調停レベルの程度で介入しただけの話
0479日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 11:16:19.71
>>469
〉250年までに、九州含む中央政府は無かった。
以降、新たに加わった安曇族は冷や飯組。
って話なのに

口伝の話だとそれは少し違う。
前3世紀に徐福。和名ホアカリ→国譲り事件→母系尊重で事代主子供が摂津に帰→前2世紀奈良湖の開拓開始
尾張氏が後からついてきて奈良で出雲族と集合。男系村雲の家と女系出雲事代主家系が村雲の家になる。
村雲の前で、出雲で事件を起こして大陸に逃げ帰ったホアカリが再び渡来。北九州で饒速日を名乗→物部氏
村雲のまでのカゴヤマが物部のホヤ姫を娶ってるので、奈良上位、物部下位で手打ちがあった様子

村雲の次の代の八井耳が九州に行く(相続で揉めない様に遠ざけたと考えられる)
実家の尾張氏、村雲(男系尾張氏)から海部が出て、その分家として安曇が発生。

ケースとしては安曇は実家筋の尾張ではなく男系尾張氏の、村雲の家系が景初より前から九州にいた説。

そしてもう一つが神功皇后の三韓征伐。
この時は襲津彦の声掛けで和歌山の紀伊家や、宗方までが船を集めたとされる。
反目していた垂仁の筋の物部以外の勢力に加え、安曇も協力したと考えられる
それの証拠がお船祭り

長野の安曇は六世紀より前には遡れないというのが通説であり、長野の安曇を論じる際は、律令時代の前後の話が避けられない
0480日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 13:21:24.99
>>477
〉一大卒も一大国は、壹大国ではない。

そう。結局ヤマタイコクばかり注目されて一大って何よってのはおいてけばりですよね。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 14:53:25.12
俺はもう答え出してます!

321 日本@名無史さん sage 2022/10/23(日) 17:32:34.83
高天原の「高」は美称

天原は、どこか?

644 ニューノーマルの名無しさん 2021/07/13(火) 12:04:21.18 ID:EYApAmaG0
高天原は、どこにあるのか?

魏志倭人伝より、壱岐が
魏志倭人伝だけ


大 → 天
國   國

もう陳寿さんの筆法で、答え出ちゃったねw
0482日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 14:55:06.28
>>480
ちなみに、末文
73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
の臺と壹が共有されてる一文が有ることに関して

邪馬台国の臺が曹操の高楼を意味する臺だから、卑弥呼の臺が
字が似ているだけの壹イチに変更されたであろう、ということを

陳寿が不本意に感じたのではないか? と言う話なんだが。
因詣臺 これは本文中の陳寿の用例で言えば、詣臺では無くて
48 王 遣使 詣 京都、57 太守劉夏遣吏将送詣京都
京都を使用している。 
臺が京都を意味するというのは、読み手にとってレア杉かな? 
と、感じた訳です。

つまり、臺が壹に替えられる理由は有り、
陳寿が、梯儁の初探検で仮称した、
弁辰韓=投馬国、筑紫域次有21国=邪馬臺国
を採用したのであれば、

帳政が記録した
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
も、異常な使用になる世有王、では無く卅=丗有王
で、陳寿は帳政の記録をそのまま引用した可能性は有る。
と、いう事。

後の魏晋無配慮の版本や引用で臺から壹が壹から臺に戻る例はある、
でも、卅=丗は、レア過ぎて相手にしてない世、なのかと思う。 
ただし、変な世の用法ではある。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 15:26:48.95
>>478
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦?刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

?郡が建中校尉梯儁の軍隊を派遣したのは
公孫氏征伐中の景初年間ではなく、240年で正始元年ですが?

目的は、卑弥呼に約束してた、金印と齎詔 賜 金帛錦?刀鏡采物
を 届けるためです。 

魏にとっては、初めての韓西岸から九州への探検であって
倭人伝で、倭人国への初探検記録 を残せたことについて
評曰くで
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

魏時の偉大な成果であるかのように
自我自賛w と言うか、魏帝を称賛しています。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 16:50:32.94
一大国は一支国の間違いだと思うんだけど、
帳政の記録からの名称で、何処で間違えたのか?

世の字の確認ついでに見たら
紹興版も宮内庁版も一大だった。

対馬や対海みたいな、表意文字の中国語名じゃなくて
和名の壱岐は、和音もイキなんで、一支で良いんだけど?

ちなみに、
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支

240年梯儁の壱岐から九州時の官は、伊支馬、つまり壱岐の馬くんだよ。
あとは、邪馬国の役人で、多分、所属21国や人口も参問した二人。

陳寿原本?か、宋代の版本から間違ってた、ってことかな?
高天原は桃太郎や垢太郎の爺さん婆さんでも淡路島創れる、
天界で良くて、全然関係ないだろ?
葦原中国に草生えるだろwww 原いてぇ~よ。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 18:17:57.29
官の名前の話だが、伊支馬が、壱岐の馬は当り前だが
卑奴母離は、なんで奴国船の乗員じゃないんだ?

卑が付く名乗り方は、奴国 の モリだろ?
難升米が奴の升米? みたいな所属の証明だと思うんだが?

倭人伝では、倭人国に関する名称に関しては、
帳政か梯儁が命名するしかないので
彼らが選んだ文字が気に入らない、どうこう? ではない。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 18:28:26.87
反論とか疑義とか質問とかじゃ無いと
記紀厨とか阿波厨とか都万厨とか伊都厨の
梅でスレ終るよ?

倭人伝を正しく読む場合で?
なんか質問ある?
0487日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 18:38:04.70
モリはモンゴル語で馬です

ここまで俺は答え導いてます!
0488日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 18:50:29.37
>>487
馬は313年の漢四郡撤退~高句麗戦以上前に
日本に有ったかどうか?

倭人伝の富国強兵政策250年から、
日本の半島進出は加熱したと考えるが、
313年の四郡撤退は成文史的に事実じゃないかな?

日本は、日清戦争以前で
漢魏、隋唐と戦争は望まないと思うぞ?

普通の歴史だろ?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/28(月) 19:11:37.98
>>488
馬が居ないのに邪馬台国

邪が琅邪から来てるのは確定なので
(もちろん、徐福伝説から、この字をあてた)
じゃあ、馬は? そこから深掘り邪推

馬韓の名の由来にたどり着き
>>373 で書いた

曹魏は騎兵大国だから
倭人の海戦に期待したのは事実だろうね
0490日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 00:48:38.37
【速報】畿内説は仮説に仮説を積み重ね過ぎて妄想空間へ旅立ちました
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国国内の伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が次々と出てきたため
中国側は混乱し、とりあえず知っている行程のすぐ後に倭人の説明を追記してしまった。
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国の位置は倭の最も西に位置するものと考えられる。
<以下、魏志倭人伝より>
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・女王国の南には敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている

■半島南部の倭人領が「投馬国」である根拠の一つ
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991
0491日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 12:46:08.86
>>481
高天原なんて物は存在しない
記紀上の単なる設定
0492日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 12:49:41.54
>>488
穀物が運べるレベルの船があったのだから馬も使ってたでしょ
数が少なくて出土してないだけでは?
0493日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 12:55:31.33
>>470
天孫という一族など存在しない
朝鮮ヒボコも天孫扱いだし、ホヒも天孫扱いだし、出雲の大国主一人である天冬衣も天孫

尾張氏や物部以外にも天孫は存在する

天孫に変わられたなどというのはファンタジーに過ぎない
0494日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 13:02:52.17
>>482
〉邪馬台国の臺が曹操の高楼を意味する臺だから、卑弥呼の臺が
字が似ているだけの壹イチに変更されたであろう、ということを

陳寿が不本意に感じたのではないか? と言う話なんだが。


写本の際の草書体の写し間違いの可能性が高いのではないでしょうか?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 13:44:25.42
俺は邪馬壹国の方が可能性が高い。
魏王と同じ字は使わないと思う。
字の間違いとしたのは後の時代の
学者に過ぎない。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 15:18:40.24
>>490
倭人伝、二行目を正しく読むなら

02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

今=魏時の、使=247張政と240梯儁 譯=報告によれば
所通 三十國=30国を確認している。

從=この報告によって、郡至倭=郡から倭に至るには・・・

で、行程段落が始まっているわけで、
行程は中国国内の伝承 でも、倭人から得た情報
でも有りません。

評曰の
陳寿が魏志に記録した、魏世での魏使による説明です。

魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

ちなみに伝承の場合
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫

自古以來と言う表現と 詣中國で魏世の京都ではない表現になっています。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 15:36:31.60
>>489
出てないものは、判らないけど
東夷伝では、馬韓にも乗馬の文化は無い。
葬儀の際などに喰ってしまう。 と書かれている。
戦争相手だったんだから、そうなんじゃないかな?

公孫氏は使ったと思うし、辰韓では、乗馬文化は有った。
倭人も辰韓とは通じてたんで、搬入できたなら可能性は有る。

思うに、馬は船などの搬送で寝かせると死ぬので、
この輸送技術が、高句麗人に教わるまで無かったのか?と思うよ。

>邪が琅邪から来てるのは確定
240梯儁が、所属国参問から和音を漢字にした21国の邪馬国
にあった卑弥呼の臺をランドマークとして
女王所属の筑紫域、
世有王21国連合の仮称に使った。
と言うのが持論。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 16:39:30.82
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸

水行20日、水行10日については、
単純に経過日数をアバウトで結果を記録しただけのように思う。
7日なら10日行。15日なら20日行。とかw

1月行については、日行とは無関係で、漢以前からあった
軍人しか使わない、東夷概念図の座標単位なのではないか?
と、思うが、用例から2000里程度と推測可能。

帯方郡から歴韓国は南北4千里で2月行。
これは用例の、済州島まで3月行と一致する。

水行20日投馬国は、歴韓国とほぼ同義だと思うが、
この月行という特殊な単位だと2月行になると思う。
里程は4000里だが、この後、九州まで6000里が10日行。

いいのかwそれで? まあ西風に乗れば早いw 
風の日に出港はしない、だろうけど・・・
韓西岸もだけど、船行は上り下りで時間は全然違う。

そもそも論で、里程の度量衡には、統一国が必要だが
月行のような知識は周髀算経のような知識が必要で、より困難。
指はみんなのアイドル、ヒフミwで、10本なわけで、
倭人は一年12か月、365日なんて知らなくないか?
尺貫法ですら10進法じゃないし。 
春が来たよ。 は、卑弥呼の仕事。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 17:38:23.07
すまない。 引用が遠いんで、スレを借りる。

01 倭人 在 帶方 東南 大海之中 依山島 為國邑 舊百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  濱山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
0500日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 17:42:16.12
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東

28 其 風俗 不淫 男子 皆露? 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈? 作衣 如 單被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵?緜 其 地無 牛馬虎豹羊鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鐵鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 ?耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣
33 有 屋室 父母 兄弟 ?息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 ?豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐
37 其行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去?蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其持衰不謹
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 ?杼橡樟?櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠?桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 ?猴黒雉
41 其俗 擧事 行來有所 云 為輒灼骨 而卜以 占吉凶 先告所卜其辭 如 令龜法 視火? 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 竊少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無
0501日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 17:42:49.54
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 亂 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 傳辭 出入 居處宮室
53 樓觀 城柵 嚴設 常有 人持兵 守衛

54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
0502日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 17:43:08.55
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
 奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
 汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬
 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地?粟?十張 ?絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
 又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華?五張 白絹五十匹
 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦?刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青?緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授

66 其八年 太守王?到官
67 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

69 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
70 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
71 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
72 政等 以 檄告喩 壹與

73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
74 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
0503日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 17:54:13.92
魏志倭人伝と言うのは、これだけの話で
桃太郎や月の姫カグヤ姫より、
相当簡単な日魏外交
歴史事実の話なんだけど?
何か、質問ある?
0504日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:12:11.02
>>503
市の監視役をしていた大倭とは?
のちの大和という地名との関連性は?
0505日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:24:47.85
>>504
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

魏志が報告に大倭と言う用語を使用した。
数万里以上の国土の倭の中の周旋可5千里九州の女王国は大倭王では有り得ない。
つまり、卑弥呼は大倭王では無い。
正しく読めば卑弥呼は筑紫平野にあり戦国大名の薩摩や肥国、豊国と係わりは無い。
0506日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:35:50.73
>>497
一つ疑問に思ったが
日本の馬って言えばポニーみたいな小さい馬なのは
戦国時代でも有名だが

今ググったら、ポニー系=蒙古馬系なんだな、やっぱり

確かに辰韓経由はありえるね
0507日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:37:06.65
>>504
大和と言う地名が
倭人伝の邪馬台国と関係あるのであるなら、
そのヤマトという雅な漢字の用法は
著しく棄損されると、思うぞ?

九州は、詠うなら、ヤマタイだろ?
ですたい。
0508日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:40:23.80
大和はダイワかオオワだが
ヤマトなんて誰が言い出したんだ?
0509日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:41:54.70
>>504
大倭の「大」は、ただの美称表記

それと大和と言う地名は、日本のあちこちにある
広島は阿岐国にも大和ってあるぞ
0510日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:47:45.83
俺の永平寺アーカイブより

823 日本@名無史さん 2021/01/17(日) 09:31:47.96
当時の日本人はこう発音してます

882 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/29(日) 13:32:13.81 ID:mAkgo2qF0
古代日本人、当時的には

倭 = 山跡 = 山は邪麻、跡は止 と発音する

>日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云【山跡】。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。
0511日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 18:48:01.43
>>508
240年に日本に来た魏使が、筑紫21国連合の
女王国を邪馬台国と命名した理由が必要なんだろ?

ヤマ国の、卑弥呼の臺だろ?
0512日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 18:51:05.01
実は記紀にもヤマトという地名はない。
あるのは人名の一部である。

また、倭、日本をヤマトと読むなり、
という注釈があり、これは平安後期に
追記されたと推定されている。
0513日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 19:00:45.02
倭人伝で大倭監之は、最大の謎だが、
小倭と言うのは、卑弥呼の国だろ?

萬二千の数倍の巨大な倭において
周旋可5千里の国? 

それが、魏時の対倭外交の限界だっったのである。
当時有ったかもしれない、中華思想って、日清戦争とか? 
すごく、死亡しちゃうんだけど?
0514日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 19:05:46.57
>>495
ただ、それだと蔑称にならず良い字になってしまうんですよね。
法則が崩れるわけで
0515日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 19:17:41.75
ヤマトと言う日本語は、250年の
筑紫で本州地名として通用するか?

アタシは250年は、
日本の九州統一以前だと思う。

記紀厨は、別の道に行けばいい。
0516日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 19:39:48.72
>>512
国号だし
0517日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/29(火) 23:12:50.52
古事記 下巻① 16代仁徳天皇 「本岐歌と志都歌」

蘇良美都 夜麻登能久邇爾
そらみつ  日本の國に

加理古牟登 伊麻陀岐加受
雁かり子こ産むと いまだ聞かず。
0518日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 23:40:28.31
【基本中の基本】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名などは倭人の発音に合った文字を使って記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する(トは都と書く→伊都国)

・後世のヤマトは邪馬臺=ヤマトだと思っていたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付いたのが九州説vs機内説論争の始まりである

・魏志倭人伝において「大和」は市場の監視役として使われていた「大倭」と記録されている
0519日本@名無史さん
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2022/11/29(火) 23:48:10.98
『日本書紀』雄略天皇4年8月20日条の地名説話。

一本、以婆賦武志謀以下、易舸矩能御等、儺?於婆武登、
一本、かくのごと、名に負はむと、

蘇羅瀰豆、野麻等能矩?嗚、阿岐豆斯麻登以符。
そらみつ、 倭の国を、    蜻蛉嶋という。 と詠まれた。
0521日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 00:02:39.48
古事記 下巻① 16代仁徳天皇 「本岐歌と志都歌」

蘇良美都 夜麻登能久邇爾
そらみつ  日本の國に

加理古牟登 伊麻陀岐加受
雁かり子こ産むと いまだ聞かず。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 00:21:53.18
 天平5年(733年)第9次唐遣使の大使として派遣される多治比広成に
無事の帰国を祈って、山上憶良が「好去好来」の歌を送っています。
好去とは「さようなら」、好来とは「御無事で帰還を」の意味

神代欲理 云傳久良久 
かむよより いひつてくらく
虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 
そらみつ やまとのくには すめかみの いつくしきくに
言霊能 佐吉播布國等 加多利継
ことだまの さきはふくにと かたりつぎ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 00:50:32.28
「そらみつ大和の国」
「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞である。
「古事記・歌謡」には万葉仮名で「蘇良美都」とある。
「そらみつ 空光」の語源については、『日本書紀』神武紀に

「大空から見て、光り輝き「空満つる」よい国だと選びさだめた日本の国」という意で
天空(そら)から見て「虚空見(そらみつ)日本(やまと)の國(くに)と曰(い)ふ」とある。
0524日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 00:51:18.56
>>515
魏志倭人伝 筑紫もない。
隋書でやっと筑紫国が登場
豊国も出てこず大漢国
0525日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 01:41:53.75
「邪馬壹國」なのか「邪馬臺国」なのかの論争は有るが、一方、
勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』現存刊本は、成本時期が10世紀で
現存の『三国志』刊本時期より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると
「邪馬臺国」「台」の表記が用いられている。

『三国志』より後の5世紀の『後漢書』倭伝現存刊本では「邪馬臺国」、
7世紀の『梁書』倭伝現存刊本では「祁馬臺国」、
7世紀の『隋書』現存刊本では?国について
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、
唐代の『北史』四夷伝現存刊本では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となって

全て「臺・台」「都於邪靡堆、居于邪摩堆、みやこは博多奴国なまりでヤマタイだったが、
のちにダンダンと標準語化され「ヤマト」に成ったものと思われる。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 01:58:34.07
とにかく博多の男は「そうたい」と言うように、
老若男女の区別なく「そういうたい」。  【?たい】 (福岡の方言) 地域 西部・南部 ?よ。
どげーしたるじゃろーかて、時々、思いよりますたい。 ちがったったい。と

武田鉄矢のように「~たい」を良く使う。
邪馬台国も古の奴国で使ってたヤマタイだったのだろう。
0527日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 09:23:30.33
>>514
法則?
蔑称の時代が終えたのでは?
0528日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 11:00:13.01
ヤマトは壹という文字の豆を見てトと読んだだけ
識字率が低い時代に
0529日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 11:08:23.57
そもさん
國國 有市 交易 有無 使 大倭 監之
国々には市が有り有無を交易する。 大倭を使って之を監督する。

大倭って何? 
使う という動詞は必要か? 主語は卑弥呼が、か?

國國 有市 交易 有無 大倭 監之
なら、疑問は大倭って何?役人? だけ、なんだけど、
大倭ってのは、何の用途で使うモノなんだ?
中国人に倭人の話をしている最中に、何で倭国に大が付く?

せっぱ
倭人伝では、使と言うのはある意味で絶対的主語。 
これが、段落の変わり目に有る。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史

247年の魏使、帳政は伊都国に於いて、
女王国より北に特設された検察機関、一大率によって大和の存在を監た。
女王に所属する諸国はこれを畏憚し、中国における刺史のような存在である。

49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
は、
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝
の 環境とは全然違う。
 
進駐軍? まあ、古代史的には防人って言うんだけど、
が、設置されているのである。 南無
0530日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 12:26:11.98
>>501
倭人伝の構造の話 
49の後の改行が消えちゃってたけど、

47~49が、247年の張政が常駐した伊都の見聞録。

50~53は、其國と言う指示代名詞で、女王国と周辺の歴史になって
あとは、240年の梯儁が金印を届けた、卑弥呼の臺の見聞録。

54~56は、陳寿が伝承から知り得る女王国以外の倭人国の概念。
それに対し、女王国は、九州島の中にある周旋可 五千餘里の小国だった。
と言う話、で締めくくった。 後は、外交史の段になる。

邪馬臺国は、次有で括った21国が、此 であって
それだけで、女王 境界 所盡 なのです。
陳寿が、無駄に次有反復で42文字も費やしたのには理由が有る。
0532日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 12:31:22.11
女王連合30国は
西日本一帯(だいたい)と言う答えになります!
0533日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 13:08:11.28
>>532
それって女王と言っても、
西日本一帯の神功皇后の大倭の国々なんじゃねwww

陳寿は、
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
と、言ってるわけで、南隣の狗奴国以外は、名前も知らないと思うぞ?

北側の対馬、壱岐から入って来たところの
卑弥呼の邪馬臺国は、
筑紫地域で周旋可 五千餘里の21国連合だよ。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 13:34:35.26
神功皇后記に 桜井の磐余若桜宮に有る時
9歳の皇帝曹芳の使者から金印モロタ って書いとけw

ってか、神功皇后なら2年も待たなくても
帯方郡まで貰いに行けたんじゃね?

帰りのついでに韓王朝も滅ぼして
三国志の英雄になっちゃうだろwww

陳寿も、こっちの方が書きたかったとおもうね。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 13:37:36.04
衆夷の「衆」はどこから来てるのか?
いろいろと調べました

西日本は島が多いので「州」や、太白の後裔で周代の「周」が転じてや
「衆」の字の意味じたいは集団・寄せ集めなどだから
邪馬台国の共立に合うなw とか

>>170 ←で、ここでも書いたが
倍々で国数を増やしてるので

倭王武の頃は「西服衆夷六十六国」の西日本だが
邪馬台国の頃は、その半分の三十三国なら
おっと、魏志倭人伝に出てきた国数に近くなったなとw
(てか、倭国大乱の前後と言わず国数は、だいぶ離合集散を繰り返してる)

「次有」は三国志全文検索すると
弁辰の一部身分紹介と、倭人の傍ら国紹介でしか出てこない
(だいたいは「其次」と言う使い方が多い)
なので、意図的な記述か、何らかの含みがあっての書かれ方とわかる

魏志倭人伝を見た、のちの倭人が
「次有」を「衆」的な意味合いで捉えたと
思ってもおかしくないだろう

國 ←或も有と同じ意味だしねw
(※古代において、音が「有」の意味の語に仮借され、原義は「域」や「國(国)」に受け継がれた。)

答えこんな感じですw
0536日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 13:40:19.69
>>533
卑弥呼時代は北部九州10国の女王連合
イヨトヨ時代は西日本30国の女王連合
俺は、生口の数からそう答えを導き出してます!
0537日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 14:47:22.24
>>535
>「次有」は三国志全文検索すると
 弁辰の一部身分紹介と、倭人の傍ら国紹介でしか出てこない

有用な情報をありがとう。 
次有列記21国は其 餘旁國 遠絶 不可得詳ではなく、女王の所属国名

陳寿は、後の弁辰韓の仮称、投馬国。 女王国の仮称、邪馬臺国。
を 採用しており、
初探検の梯儁や帳政の和音地名の漢字化や駄文を尊重している。
梯儁の参問21国の漢字化で、次有が使用されていたと考える。

>>499 15~22は、女王国の紹介だが
行っても居ない、餘旁國の名前など紹介する訳がない。

15 南至 弁辰韓 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 女王国 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳革是 可七萬餘戸
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡

21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

18(陳寿の捕捉説明)削除、梯儁の謎の仮称は訂正
とすると、全文の構造は解りやすくなる。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 15:18:43.36
>>537
自分で言うのもなんだがw
倭人伝から邪馬台国が無くなると、ホント、すっきりするな。

引きこもりの女王の国とヤマトなんて、全然関係なくネw
なんで、高句麗行っちゃう神功皇后が引きこもりだよ。
その前に五尺刀2本持って、帯方郡に殴り込みだろwww
0539日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 15:49:25.95
>>537
せっかく引用したんで、次有列記21国が餘旁國ではない事のヒント。

次有奴國/奴国王=難升米 (奴の升米)
次有都支國/都支国王=都市牛利
次有巳百支國/巳百支国王=伊聲耆掖邪拘

皆さん卑弥呼の遣使で、所属国の大夫なんです。
0540日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 16:02:20.53
>>497
馬は戦闘というよりは耕作や運搬の方が普段はよく使われたのでは?
0541日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 16:46:13.02
>>540
日本に搬入できたのは楽浪帯方郡が無くなる
313年以降だろう とは思うけれど、
百済や新羅の建国を後押しした高句麗との戦争で
牛馬の搬入は加速したようです。 

高句麗人牧童も連れて来ちゃってるし・・・
百済に倭人が馬の道作ったら、高句麗人が攻めて来た
で、ござるの巻w

400年代には、甲斐や武蔵、上州でも高句麗墳丘墓を伴う
前方後円墳が出来てきて、皇室の御牧の経営に成功したようです。

皇族、豪族が独占するので当初は軍事利用?が中心で、
甲斐等のこれを担当したのは軍事担当の
大伴氏であろうと言われています。
国内交通的には、東海道方面の川なども渡りやすくなったはずです。

この歴史は、倭人伝時の魏の半島進出の脅威からの
富国強兵策、九州統合が無ければ、展開しなかったと思います。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 17:56:30.43
>>526
なんか、倭人伝を正しく読む
のは、当たり前すぎて、退屈したので・・・
やまたい、やめたい? もしかして、誰か質問ある?

タイをデスマスみたいに、語尾で多用する言語の場合、
ヤマタイが、名詞だと
アタシの出身はヤマタイたい、に、なってしまって
地域的には、固有名詞化、しにくいと思うぞ?

まあ、外国人に、山を指してアレ何と言う? 
わっゆーせいざっ? 
とか、こもせでぃせ? 
と 聞かれて

それは、山タイ。 
なら、在る。
0543日本@名無史さん
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2022/11/30(水) 18:54:06.74
>>510
道元の時代で邪馬台国を語るのは
記紀厨同様に無理が有るけど? ヤマトの語源として見るとして
引用文に変な句読点が有るので字義を正す?

>日本國 自大唐 東去 万餘里 日出東方 昇 於 扶桑 故 云日本
古者 謂之倭國 其 倭意未詳 或曰 取 稱我之音 漢人 所名之字也
通云 山跡 山 謂 之 邪麻 跡 謂 之 止

登戸 反下同夫 天地 剖判 泥湿 未乾
是以 栖山 徃來 固 自多蹤跡

故 曰 邪麻止 又 古語 謂 居住 為止言 住於 山也
音同 上武玄 之 曰 東海 女國 也

登戸 以下、ちょっと、判らなかった。
勉強します。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 19:34:50.05
>>506
対馬の馬が小さいので倭種として有名だが
繁殖、輸送の都合で、残った馬とか?

多分、百済王が阿直岐と一緒に送って来た名馬二頭とか
サラブレッドなわきゃ無くて、
高句麗にも優良種馬で繁殖すれば大きくなっていく
みたいな繁殖技術はあったと思うよ。

戦国時代の馬って、ロバみたいな奴なの? 三銃士w
まあ、その方が富士山みたいな不整地には強いけど?
川渡るのに足短いのは不利だよね?

真っ赤なお鼻のトナカイさんの季節かな?
0545日本@名無史さん
垢版 |
2022/11/30(水) 21:19:26.16
>>525
陳寿はイについては、一大率、一大国の一を使っているが
臺の変更に限って壹の使用が有る。

邪馬臺国は、ヤマ国のような
倭人の自国名の音名でヤマタイな訳ではなく、

240年に梯儁が参問して漢字にした
邪馬国に有った、卑弥呼の臺
なのであって、完全な中国語としての表意文字である。

壹与が名前ならイヨだが、
臺與であれば、表意文字で卑弥呼の臺を継承したもの、

単に後に卑弥呼を襲名するであろう、
宗女だと、言っているだけである。

臺と言う文字は、魏において
和音代替漢字では有り得ず
完全な表意文字なのである。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 11:18:52.70
中国の柵封体制は、基本的に貢物に対して大量の返礼がある様になってる。
つまり貿易の側面が強かった
一大率というのは九州の人たちがチョロまかししない様に監視するためのもので各豪族が持ち寄った物に対して適正な分配をする為の機関と考えられる

つまり、魏書に出てこない一大卒のいた北側の国が力を持っていた頃の情報が伊都
伊都の本当の王族とやらは九州には居ない。
防衛上もあんな矢面に立つ様なところに国は作らない
退却先が決まっても居ないのにそこに拠点を作るわけがない
0547日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 12:20:58.53
247年に遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
の船で、倭人船航路のルート、地名、里程を確認し
伊都、一大卒に駐留した塞曹掾史張政 の報告が以下。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯

皇帝の文書も、女王への賜遺之物も、全て検閲を受ける。
と、いう事であって、女王国の外交権は剥奪されている。

ちなみに、伊都、奴国の官、泄謨觚 柄渠觚 凹馬觚は、
倭人の名前とは趣きが違う。 觚は役職かと思うが一大率関係だと考える。

この報告を帳政が持ち帰ったことで
魏と女王国の交流は、この247年で終っている。

73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
74 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

朝貢で皇帝の返礼が有れば、自慢しなければ意味がないw

この、帯方太守 王斤頁は、高句麗を追って毋丘倹 の下で
東臨 大海 長老? 有異面之人 近 日之所出
に迫った将軍だが、260年あたりでは蜀との戦に向かった名将。

公孫氏、韓王朝は滅亡で平定出来て居るので
馬も無いような倭国は抑えておく必要は無くなったのだろう。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 12:52:05.50
伊都を窓口として使わなければならない理由は、最低限、豪族個人ではなく、国としての付き合いが必要であったからでしょう

誰でも会える様な便利な皇帝などいない
0549日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 13:09:35.01
>>548
金印を貰ったのは王である卑弥呼であって
銀印の難升米や伊聲耆掖邪拘将軍 都市牛利仕官、
でも、大夫だし、王の使者たり得るだろうけれど、
王の継承者の挨拶が無ければ皇帝は認めないのでは?

伊都一大率なんて馬も無い軍の
馬の骨じゃ、挨拶も出来ないと思うぞ。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 14:21:35.88
>>549
金印を新たに授けているということは国としての新規に承認しましたよという事ですので

以前からある国と、女王の国は基本的に関連がないはずです。
魏書の国の説明は時代がはっきりしているとは思えない部分があります
0551日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 14:22:50.07
つまり、ヤマドイだか、ヤマイッコクは女王国と無関係でも魏書の書き方は成立します。
故に女王国の様な書き方になってるのだと考えられます
0552日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 14:33:17.79
魏書の書き方からすると、倭は既に大きな地域を示す言葉になっていたと考えられます。

例えば日本の信濃国であれば単なる地方都市。

倭地域の親魏なる王という意味です。

つまり相当な偽装なり説得力のある話がなければぽっと出の国にこんなハンコは渡せません。

図らずも、以前の古いどこかの国(例えば北の国)がなければこれらの説明がつかないのではなきでしょうか?

昔から付き合いのある国を改めて権威付けしたとしか考えられません
0553日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 14:37:40.51
魏書からの視点は、何らかの混同がある様にしか見えないのです。

これが大量に青銅器材料を輸入していた畿内ヤマトと、景初の話に連続性がない事、卑弥呼が複数居たのではないかという事に繋がっていきます

魏書は、畿内単独、九州単独という一地域の話ではなく、何処にあるかは不明だが、倭というかつての国と、倭という地域の承認の話であってかなーりぼんやりした話で、過去の話も含まれるから伝になったと思われます
0554日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 14:40:55.02
さて、魏書は、本当に卑弥呼がヤマイッコクだかヤマドイにいたと本当に書いてあるのでしょうか?
何処のことかを指しているのかも分からない何処でも成立する倭王。

景初の卑弥呼の重要性は、ヤマイッコク無しに説明できていなければならないのではないのでしょうか?
0555日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 15:13:59.31
魏は239年に公孫氏を追って半島に来たわけで
韓の事や、倭の事は何も知らない。 
漢書で、57年と107年の朝貢、この遣使から得た
会稽東治の東みたいな要らない若干の情報は在る。 参考まで

東夷伝序文
書稱 東漸 於 海 西被 於 流沙 其 九服之制 可得 而言 也
然 荒域之外 重譯 而 至 非足跡 車軌 所及未 有知 其 國俗殊 方者也

自 虞 及 周 西戎 有 白環之獻 東夷 有 肅慎之貢 皆 曠世 而至 其 遐遠 也 如
此及 漢氏 遣 張騫 使 西域 窮 河源 經? 諸國 遂 置 都護 以 總領之
然 後 西域之事 具存 故 史官 得詳 載焉

魏 興 西域 雖 不能 盡 至 其 大國
龜茲 于寘 康居 烏孫 疏勒 月氏 ?善 車師 之屬
無? 不奉 朝貢 略如 漢氏 故事

而 公孫淵 乃 父祖三世 有遼東
天子爲 其?域 委以海外之事 遂隔斷 東夷 不得通 於諸夏
景初中 大興 師旅 誅 淵 又 潛軍浮海 收 樂浪帶方之郡
而後 海表 謐然 東夷 屈服

其後 高句麗 背叛 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出

遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉
0556日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 16:08:29.59
>>555
倭人伝に係るのは公孫淵 乃 父祖三世 有遼東
以下、まあ、最後の3行だけど

魏に到り、遂に日本の諸国を見て
法俗 小大區別 国名が有ることを知った。

夷狄之邦と言えども中国への礼を失わないよう求めるべきと信じ
故に 撰次 其 國列 其 同異について
接前史のいまだ備わざる所を記録しておく。

ってのが、九州の小国の女王を倭王として皇帝に紹介した
郡太守の早とちり事件を記録したかった陳寿の言い訳

小大區別 ってのが、
国と言ってもいろいろだよね?
って、言ってると思うよ。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/01(木) 18:21:40.29
>>555
倭人伝を読むスレかと思ったんだけど、
興味が無いのカモ知らんけど? 反応ないんで、
ま~た、序文について、ちなみにw だけど・・・

其後 高句麗 背叛 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出

東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
は、公孫氏討伐や、高句麗追討の後、
帯方太守になった、王斤頁、自身が、高句麗を追い詰めた

東臨 大海の東沃沮の老人に聞いた話で、
その東岸は秋田とか東北であって、九州の小国の話とは違う、
南北で中華より大きな妖怪国異聞、日本列島の話なんだよ。

陳寿は、女王国が九州島の北部南北2千里で
周旋可 五千餘里の小国だった、ってことは知ってたが、
明言出来なかった、んだと思うぞ。 実は、してるけどw

なんか、質問ある?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 11:03:40.45
ま~た、ちなみに だけど、序文と、沃狙伝の
王斤頁の与太話 東臨 大海 長老説 有異面之人
で、思ったんだけど、

この人、倭人伝では、66 其(正始)八年 太守王?到官 
だけど、扶余伝では、正始中には玄兎郡太守で、
幽州刺史の母丘倹の下で高句麗を討っていた。

この時の王斤頁の話なわけだけど、
こんな小物の与太話が、魏の記録に記録されてたと思う?
陳寿の採用にしても、どこの山海経だよ? 
って、言いたくなるような話でw

で、陳寿は、実際に王斤頁に取材してると思ったんだ。
この後、蜀の平定に向かうんだけど、そのあと益州の長官になる。
で、陳寿もこの辺で魏晋に仕官したわけで、
王斤頁は陳寿の同時代での上官だったのだろうと?

梯儁と張政の記録も、しっかり引き出せたのは、この人のおかげ。
武人的にも本人の弁? 見たいな対姜維戦でビビった話もあるけど。
なら、魏略や後漢書は、陳寿の引用って事でしょ。
諸々、解決しないかな?
0559日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 12:38:37.45
>>524
キンカンカラの昔の呼称は豊日国ですよ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 12:44:53.35
>>512
昔っからヤマトだったんじゃないの?
朝貢であるのであれば一文字くらいなら和音ではなく相手に通じる漢字一文字を決めていた可能性がある

『後漢書』……倭
『三国志』……倭
『宋書』………倭
『隋書』………倭
『旧唐書』……倭・日本
『新唐書』……日本
『宋史』………日本
『元史』………日本
『明史』………日本
0561日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 13:01:35.76
魏書において唯一の当てになる報告書は景初の下り以降のみである。
これは陳寿がトヨと同じ年代の人であったことによる

他のものは全て伝聞や過去のメモ書きであって
倭国の紹介の部分は戦いの前の国なのか戦いの後の国なのか判然としないが、南や東はテキトーな判断によってつけられた可能性が拭えない

それが二期作や野菜などの温暖を表す記載

方向性など一切当てにはならないし、人口もまともに四人家族で平均出して計算すると大国である魏国と同じレベルの合計になる事から伝聞の可能性がある

丸太船ですら一日50キロは進むことは後年の実証からも明らかで余裕で沖縄あたりにはたどり着く日数

あの書物から不思議と人気が出たヤバイエだかヤマトにたどり着くことは元々なかったのではないか?

起きた出来事の記載された年数はほぼ正確と思われるが認識に関する部分は曖昧としか思えない

基本的に政権交代レベルの争いを史書は書き残すらしいが、倭国大乱期の話は誰が誰にした物であろうか?

朝貢勢が自分たちの国の正当性を示すためにその頃からの国だが再び争いが起きて困ってますと朝貢勢が発言したとしてもおかしくはない

九州宇佐、島根富家、島根秋上家、若山橋本家、若山オコベ神社、丹後神床家は東征が物部氏によって引き起こされた事を伝えている

つまり大乱期に政権を獲得した勢力が失地回復のために大義名分を魏国に要請したとするのであれば、ヤマトを名乗った可能性が高い
0562日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 13:06:37.11
村雲の家系のはずの尾張氏系の海部の神社にホホデミが居た気がする

そして今誰の目にも明らかに物部系の彦ホホデミ

神武の諡号にホホデミが入れられて事で尾張氏と物部氏の役割が逆転されている

記紀は途中で編纂方式が変わり、九州に神が落ちてきた事にして物部を神武にした

村雲、磐余彦、崇神に架空の神武が当てられた事により欠史八代と空白の四世紀が生まれた

この諡号があれば絶対に真実に辿り着くことはない
0563日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 13:48:46.30
>>560
これを見ればわかるように
対外的には、時刻の呼び名としては
倭か日本しか使ったことはない。

大和は新唐書で大和州として出てくる。
新唐書の成立は1060年である。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 13:49:40.10
>>563
修正

>>560
これを見ればわかるように
対外的には、自国の呼び名としては
倭か日本しか使ったことはない。

大和は新唐書で大和州として出てくる。
新唐書の成立は1060年である。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 16:32:07.47
>>564
ですよね。
少なくとも魏国は九州勢を倭国の地域の代表として見做していますので、ここでも大卒側として認識していることが分かります

つまり、九州勢を誤認しているとしか思えないのです
0566日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:09:30.39
話が良く見えてなくて、すまない。
これは、奈良のヤマトの地名は

倭人伝を見て、
倭でも大倭でも大和でも日本でも、
どーでも良いけど
日本の誰か? が、
倭人伝の邪馬壹、邪馬台=ヤマト は奈良
だってことにしたって、話か? 

聖徳太子は、九州説であって
昔の倭国は日本とは別もんで日本の都ではない、
どっかの小国って言ってただろwww

つまり、皇室のご先祖様に
卑弥呼は居ないって話だぞ。
畿内説は物部かwww
0567日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:12:27.08
>>566
物部と尾張の役割を入れ替えてる。
故に籠神社では記紀成立前後の717年、母系の先祖のホホデミを隠さざるを得なかった
0568日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:15:27.04
クニクルの代で物部から尾張氏に姫が入っているが、そもそも村雲の父親のカゴヤマは異母兄妹で、結婚してる。ホヤ姫。
つまり、籠神社尾張氏系統は、ホホデミを元から母系父として祀る一族だった
0569日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:16:35.10
厩戸皇子は畿内の人かもしれないけど
アメタリシヒコは福岡の人だろうね。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:19:11.49
奈良にヤマトの古地名はあるかな?

旧筑紫郡大字筑紫筑紫神社、みたいな。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:31:54.03
>>567
何で717年だよ?
物部も蘇我も中臣も尾張、大伴も
後宮に姫が上がってる豪族だろ。

安曇や百済、新羅の王は微妙かも。
姫や後宮には日本豪族の姫が入ってる。

記紀の創作には豪族間の勢力争い
を纏める手腕が必要だったんだぜwww

聖徳太子~大化の改新? 
以降の苦労も察しってやれよ。

倭人伝を正しく以前に、
こっちは日本語訳で良いけど
源氏物語が、読めるか?
0572日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:37:37.92
>>571
〉記紀の創作には豪族間の勢力争い
を纏める手腕が必要だったんだぜwww

まさにそれですよね。
帝記の際の草壁王子にはそれができなかった
0573日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:40:13.73
>>571
〉何で717年だよ?

極秘伝ではそうなってる。
問題が大きかったらしい

物部から尾張氏に変えられたのかイニエとイクメと武内宿禰。

物部と尾張の立場は入れ替えられて作られている
0574日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:51:53.50
せっかく九州の物部を神武にしたのに丹後の尾張氏に諡号が彦ホホデミと名付けた東征した筈の神武がそこにいたのがバレる。
海部氏海部はカゴヤマと村雲を隠して本系図を作ってる。

本当の神武は東征してない。
東征したのは腹違いの家の物部氏。磐余彦ことサヌノ命。
コイツを尾張氏に偽装する必要があったわけだ
0575日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:57:41.30
>>566
〉つまり、皇室のご先祖様に
卑弥呼は居ないって話だぞ。

いる。それが母系宇佐、男系物部の直系の子孫である常州の竹葉瀬君。
イクメ(垂仁)以降の政権が男系物部だったから神功皇后により呼ばれた。
豊玉姫にされた宇佐津姫の子供、豊彦の系譜は応神になった。
しかしその子は物部の武内宿禰子孫、平群により暗殺され再び別の物部の政権になった。
物部の男系が途切れたのは継体。
継体は出雲の事代主家系から北陸蘇我に養子入りした人物。
物部氏はそれを知っていた。ヒボコ族も頭を下げて就任を丸投げした。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 17:59:54.95
まそんなこんなな話が伝わってる旧家の話だと、倭国大乱期はイツセ軍
景初は九州卑弥呼とイクメ(垂仁)による物部宇佐連合による大規模な戦いだったんですと。

我が国に神代など存在しない
0577日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:01:55.97
そして複数の旧家の伝承にはニニギもウガヤフキアエズも登場しない
我が国に欠史は存在しない
0578日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:11:31.99
>>573
豪族の氏姓に関しては、七支刀の370年と言うか
倭王が漢字名を使った、倭の五王の400年以前は無理。

氏姓、姓は王が豪族に与えたのであって、
初期は基本的にワケ=別、で、
武で貢献した有能な皇族の子孫は宿祢。
さらに、傍流は、ワケ、別だろ?

700年の氏姓で、系譜が継続してるなら、
百済新羅含めて、全部、伊弉諾、伊弉冉、
天照の子であって、皇族だろ?

DNAスレなら、縄文遺伝子で氏姓は無くてもだけどwww
それが、日本。 倭人伝正しく読む気有る?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:15:24.93
>>578
〉豪族の氏姓に関しては、七支刀の370年と言うか
倭王が漢字名を使った、倭の五王の400年以前は無理。

その平群朝の一人がワカタケル=武でしょ
我が国の大君が朝鮮みたいな事してる訳がないだろ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:20:25.05
>>578
〉氏姓、姓は王が豪族に与えたのであって、


だから何?名乗り始める前からの家が系図を持ってたらそりゃインチキになるのか?
それで都合よく先祖が消えてなくなる物だというのなら大したことはないな
昔は統一した大王なんて居ないから名前など勝手に名乗ってだだろ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:21:46.73
尾張氏が尾張氏と名乗る前からの自分の先祖の話をしたらおかしいのか?
どんだけ都合よくできてる話なんだよw
0582日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:23:39.21
>>579
平群朝? が、

アタシには判らない?
倭王武は500年。

白眉。
雄略の次の倭王は
金文、人物画像鏡によって
正しくは、継体である。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:27:52.72
昔の地方の豪族が与えたのは例えば物部であれば宿禰姓

大王様が与えただって?東征前からの名前なのにか?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:28:39.28
何回もスレ借りて、すみません。
隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文

癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟

意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。

本居宣長のような記紀信仰の学者が倭人伝等を読んでも正しい解釈はできない。
この金石で503年は倭の五王雄略の後であり、継体は蘇我系台頭のきっかけとなるが
物部系雄略の後宮をも継承し、百済王の朝貢を受けた正規の直系であると考えられる。
継体は倭の五王外交を終わらせ、傀儡百済による中華文明吸収に転換する。

百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。

百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:30:16.51
>>582
応神と継体には血縁はない
0586日本@名無史さん
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2022/12/02(金) 18:38:15.66
倭の五王なんて大陸側の略称
マジでそんな名前名乗ったとでも思ってる訳?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 18:50:03.16
>>585
応神が実在なら
仁徳は百済王から七支刀を貰た王だし、
貰う理由が無いならw うそか?

雄略は、仁徳の二代後だが、
オワケの金石で間違いない歴史を刻んでるだろ?

雄略の後は503年に允恭の皇后、継体母? 
押坂大中姫、継体=オホド王が押坂宮に入った
と言うのが、ホントの皇室の歴史だぞ?
0588日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 19:09:54.66
また嘘ぱっち継体房が偽説を広げだしたな
0589日本@名無史さん
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2022/12/02(金) 19:36:43.19
>>586
めんどくさいとコピペになって、スマソ。

隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文

癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟

意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。

本居宣長のような記紀信仰の学者が倭人伝等を読んでも正しい解釈はできない。
この金石で503年は倭の五王雄略の後であり、継体は蘇我系台頭のきっかけとなるが
物部系雄略の後宮をも継承し、百済王の朝貢を受けた正規の直系であると考えられる。
継体は倭の五王外交を終わらせ、傀儡百済による中華文明吸収に転換する。

百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。

百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。

金文では、記紀は嘘っぱちで、
継体は押坂宮を継いだ、雄略の子か兄弟だぞ?
0590日本@名無史さん
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2022/12/02(金) 20:38:54.24
金石文を、虚偽と言う、バカは見たことが無い。 弁解してみwww
七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 ?辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世

表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは百済音の漢字変換だからである。

倭王の高句麗交戦と半島利権の主張の朝貢は400年以降であり、
この大王に属する侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える、属国教化ための博士も送っている。
百済は、この博士も馬2頭を付けて日本に献上した。 完全な傀儡である。

裏は百済で書かれた。 聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子を倭王に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。

仁徳天皇の和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。

倭王の高句麗交戦と半島利権の主張の朝貢は400年以降であり、
この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は百済に漢字を伝える、属国教化ための博士も送っている。
百済はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。 完全な傀儡国なのである。

百済は九州諸国同様、日本の新参の一領主国であった。
仁徳から雄略は物部の王であって、七支刀を物部の氏神石上神宮に保存して、蘇我系となる王、継体には伝えなかった。
洛陽奪回の北伐軍を興したが、前燕の名将の慕容垂の前に大敗してしまう。
これにより桓温の東晋における勢力はますます弱体化するが
、挽回するために桓温は簒奪を図るようになる。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/02(金) 20:54:36.21
なんかコピペでミスったかもw
これらって、引用5ちゃんって書かなくても
みんなの論文とかで使っていいよ。

寺院系幼稚園卒の中学生が、
普通に倭人伝読んでるだけななんで?
もう、伊与はJKで17歳だしwww
0593日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 11:56:36.01
>>587
万世一系などペテン。

存在はしたが適当に政権を取った各豪族の人物を列挙してるだけ。
実際の大王も大王扱いされてないケースもある

あんな物テキトーよ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 11:58:42.31
七支刀は物部。物部の分家筋の成務が貰った。
だから石上にある。
住吉にないのは神功皇后とは無関係だから。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 14:56:16.11
>>587
〉応神が実在なら

それ故のウサ古伝ですよ。
豊国の宇佐を裏切ったイクメ系の物部氏を認めず、イクメの後妻の宇佐津姫との間の子を正当な神武の子として伝承を発表しています

イニエこと崇神を神武とするのは記紀服属の為の視点です。
竹葉瀬君が、神功皇后と武内宿禰(襲津彦)との間の子が死んだから、相続権を失うと考え同じ年の子を呼び寄せました

故に不義密通の子という表現をしています

応神の父が神武であるというのは荒唐無稽な話ではなく単なる記紀複属、お上には逆らってませんよという意味です

こういう記紀の構造を逆手にとって後付けで細工をしたのは籠神社も同じです。
二つの海部系図は、村雲が神武である事を暗示する系図なんです。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 18:10:19.48
370年 七支刀 仁徳
七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 ?辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世
百済建国=朝貢は仁徳による所で、後宮は倭人の姫が入ってて、
皇太子は倭王が貴族待遇で預かっていた。 聖帝から後世でも世子を頼むぞ、と。

413~438 讃 履中天皇
438~443 珍 反正天皇
443~462 済 允恭天皇
462~477 興 安康天皇
477~502 武 雄略天皇 ~489年説は、有かと。
ここまでは、物部王朝3代で良いんだけど
仁徳とか雄略が100歳越えの必然性は無いし
神話の子w 応神と繋げるのも難しい。
つまり、記紀は、物部王朝を知らない。

で、人物画像鏡によると
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。

503年に、雄略の後、継体が忍坂宮で即位している。
忍坂大中姫は雄略の父允恭の皇后だが、何故か継体の4代祖父の兄弟。無いだろ?
継体も、50過ぎで即位してるわけで、雄略と兄弟か子でも良いはずなんだよ。
継体は、允恭の皇后の宮で生まれている。
つまり、記紀は蘇我王朝すら良く知らない。 
てか、ご都合主義の古代史改竄でしょ。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:08:17.84
>>596
〉継体は、允恭の皇后の宮で生まれている。
つまり、記紀は蘇我王朝すら良く知らない。 
てか、ご都合主義の古代史改竄でしょ。

記紀は物部氏を神武にしておきながら物部氏を隠しています。
武内宿禰は尾張氏ではなく、男系物部、女系が紀伊家。
つまり、本当は物部王朝が続いていたんです
仁徳は平群臣ツク。武烈までは物部色が強いのは武内宿禰の子孫が物部彦であった事による物です。

そして北陸蘇我家は当然に本来は男系物部の家のはずですがイクメ(垂仁)と敵対した事によりより別系統の家とみなされました。
そこに出雲から養子入りしていた人物がオホド。
出雲での名前は冨太彦であったそうな。
出した家も養子先も現在でも家が存続していますよ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:11:04.42
・家という概念としては物部王朝が続き
・政治としては中央と敵対した事により出雲に匿われ、臣姓になった物部氏が続き
・DNA的には男系が出雲に遡るのが現在の皇室

物部と蘇我の争いは実は親戚同士の争いに過ぎない
0599日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:45:20.03
>>550

魏志倭人伝の金印は、後漢の権威を継承した魏があらためて倭王の立場を追認しただけだよ。
同じ倭国の王だ。
そして郡使を直接派遣することで、使いを送ってきたのがかつて倭奴国と同じ博多湾の王であることを確認したのだよ。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:47:08.67
>>565

何をもって誤認とするのか。
後漢書から倭とは九州北部と対馬海峡と定義しているわけで。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:58:07.25
もっというと、男子男系を取り入れるのであれば蘇我氏は物部氏にすぎないという事です。

故に、武内文書も宮下文書も物部氏マンセーな訳です

高良玉垂社に武内宿禰がいるのは不思議でもなんでもありません
0602日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:00:42.93
>>600
地域を誤認してるんじゃなくて、人を誤認してるんです

消防署の方から来ましたってのと同じ
0603日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:06:43.29
>>588
ふっ、確かの乏しさを裏付けもなく口先だけで否定するとは伊都チョンそっくりだなw
両方の家がまだ存続しているというのにw

願望を表に出すようになったら手遅れだね

曽我氏はwikiしてもわかるが臣姓だろ?
記紀の偽装により尾張氏の分家のような振る舞いをしてるが、実態は違うというだけの話
0604日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:08:34.82
中臣家のナカツヒコ仲哀に関しては尾張氏とも全く関係のない大王だが、地元九州では元地盤と思われるところには伝承が残ってる

継体の故郷福井と同じだわな。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:09:54.53
>>599
〉博多湾の王であることを確認したのだよ。

はいそこだけダウト。
そんなものはどこからも読み取れない
0606日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:57:14.37
稲荷山鉄剣と江田船山大刀内容のすり合わせにより、今では倭王武は、ほぼワカタケルという事で一致している

大昔のように、分からないからと言って適当に五王は九州の王朝とかテキトーに思い込みを抜かす人は本当に少なくなった。
この二つの遺物はともにワカタケルの家臣とも言える立場を示しているように思える
つまり少なくとも関東においては阿部の系統はこの頃ワカタケルの配下にあった。
二つの鉄剣からあの年号は471年という話が優勢である
治天下の記述より雄略の天下が大陸傘下から独自の天下を称するようにっていた。
これは宋書の大王自身の上表文でも明らかである
0607日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:58:01.21
・讃(サ)→オオサザキ(仁徳)
 413梁書421と425に宋に遣使
 427丁卯仁徳没
 430年の宗書文帝記は履中と考えられる
・珍(ミズ)→ミズハワケ
 432履中没、反正即位
 437丁丑反正没
 438大陸が死を知らずに称号を授ける
・済(ヅ)→アオサヅマ
 443允恭、和国王(宋書)
 451半島と和国王に
 451以降不明。允恭没、息子の穴穂遣使(宗書)
 記紀だと454甲牛に允恭没
・興(ホ)→アナホ(穴穂皇子)
 462穴穂和国王(宋書)
 462穴穂没。武たつ(宋書)
・武(タケ)→ワカタケル
 471稲荷山鉄剣
 477武、宋に遣使
 478武、半島と和国王
 479武、鎮東大将軍(南斉書)
 489ワカタケル没
 502武の死を知らずに称号。征東将軍(梁書武帝記)

ワカタケルまでは倍暦であるので記紀から直すと90年間となる。

大陸は432年の壬申の履中を記録できてない。6王の大君の時代が五王の時代
0608日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:14:38.12
応神は本来であれば襲津彦の血を引く根鳥御子を皇太子にすると思われていたが次の大君は、宇治若郎子という人物だった。
記紀には隠されているが、柿本人麻呂は万葉集にて真実を描いている(1795)
氏川を宇治と変えて読むだけの簡単な細工しかしてない

これには半島征伐で功労があり勢力を伸ばしていた臣系の物部氏(武内宿禰の子孫)は不満を持った
先に動いたのは星川建彦。彼が淀川を遡り宇治宮を攻めた。
宇治大君はそのまま亡くなり、星川が政権をとった。
記紀では平群がそのあたりに出てくるが、本当は星川は臣系物部氏、武内宿禰子孫、襲津彦の後裔である、巨勢(臣)柄(宿禰)の長子であった。

大枠で言う物部氏は仁徳の代で途絶えている

故に、仁徳大君の陵墓と応神大君の陵墓が不自然に離れている訳だ

柿本人麻呂は、264でも関連の歌を残している。
彼は古事記の編纂者であったから、母体になった稗田流の口伝を知っていた
0609日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:39:50.19
>>607
記紀に五王を比定するなら、系譜的には↓

370 仁徳在位中 七支刀 聖帝

讃 413~438 履中天皇 兄 いざほわけ
珍 438~443 反正天皇 弟 記在位5年 たじひのみつはわけ
済 443~462 允恭天皇 弟父 おあさつまわくご

興 462~477 記465 安康天皇 子 記在位3年? あなほ
武 477~502 記479己巳没489 雄略天皇 弟 わかたける

503 継体 おほど 人物画像鏡
0610日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:45:44.57
>>607
貢つぐ、天皇が爵位(?)を求める。
卑弥呼、壹与以来?
0611日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:09:18.59
武内宿禰を系図に入れちゃう、ってのは、
神功皇后を入れちゃうのと同じくらいおかしいと思うけど?

武内宿禰は、スクネ、皇族から別れて武人系で地方領を貰った皇族家系の祖。
伊勢神道の都合にしか見えないけど、実在なの?

物部、海部、斎部、大伴、見たいのは、それ以前からの部民。
後から領地を貰っても、配流じゃないなら、本願地にはならなくないかな?

稲荷山鉄剣のオワケみたいに、遅くまで氏姓化し無いのは
継承可能性が有るくらい、より天皇に近かったんだと思うぞ。
オワケが雄略の宮に昇殿したみたいな話だし。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:33:34.90
>>596
継体の皇位継承には問題山積なのは知ってる。
でも、押坂宮で即位して、百済のクグ王が朝貢してるんだから
雄略との間に誰かいても、503年正統の宮から即位は間違い無いだろ?
船王後の墓誌 質問してねw
(表)
惟 船氏 故 王後首 者 是 船氏 中租 王智仁首 児 那沛故首 之子也
生 於 乎婆?宮 治天下 天皇之世
奉仕於 等由羅宮 治天下 天皇之朝
至 於 阿須迦宮 治天下 天皇之朝
天皇 照見 知其才異 仕有功勲 勅賜 官位 大仁品 為第
(裏)
三  殞亡 於 阿須迦天皇之末 歳次辛丑十二月三日 庚寅
故 戊辰年十二月 殯葬 於 松岳山上 共婦 安理故能刀自
同墓 其 大兄刀羅古首 之墓 並作 墓也
即為 安保万代之霊 其 牢固 永劫 之寶地也

この墓誌の船王後 は、
乎婆?宮の天皇、紀、敏達572~585
等由羅宮の天皇、紀、上宮法皇、押坂彦人大兄591?~622
阿須迦宮の天皇、紀、舒明629~641
の三代の間に文官として仕えています。

船王後も文人、文官ですから、
この墓誌の天皇順は正しいはずで、
記紀の推古天皇~どうたらこうたらは存在せず
男子直系三代で、問題なしなのです。

阿毎多利思比孤は
上宮法皇、押坂彦人大兄 591?~622
隋書にある、600年兄弟二人で執政をとっていた
聖徳太子は敏達の皇太子と兄弟。 で、解決する話。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:01:51.47
>>610
倭の五王は、幽州刺史楽浪候である高句麗との
交戦権、百済新羅が自領である事の主張で、健康に遣使してたんだろ?

百済に健康に朝貢させたのも、七支刀の仁徳だがw 
でも、中華南朝は日本と北朝を鋏うちに出来ず、没落した。

で、日本は、仏教をネタに、隋に擦り寄った。 by聖徳法皇w 
アタシって、陳寿の弟子だけど、聖徳の弟子目指す。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:19:42.63
記紀厨にはアタシが何を言ってる
のか判らないんだろ?

倭の五王は、南北朝と、高句麗戦に対する
新羅や百済の建国過程での、交渉であって、

日本軍に、北朝をも圧迫する、
高句麗王と抗戦する権利と韓諸国の領有を認めろ。
って、話。

で、百済は試しに朝貢させたけど、南朝は滅びた。
仁徳朝の博士は死刑に値する。 って、ことだろ?
0615日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:10:57.42
>>611
武内宿禰は魏書にあるようにイクメと豊玉姫画策で朝貢の時に無益に終わった為、景初動乱で物部軍を裏切って東軍側についた。
その際に九州方より大型の魔鏡を備えた鏡を大量に畿内で生産した。それが国産鏡である三角縁神獣鏡。
初期ロットのものは10面あり大陸産原料で作られたらしい。
そのうちの一面は出雲にもたらされている。
なんやかんかで畿内東軍は物部宇佐連合に敗れるがイクメの放った刺客を前政権の姫であるヒバス姫の計らいで初代武内宿禰は出雲にたどり着く。
死後、弟の額田宿禰根か、もしくはその子孫により彼は神原古墳に葬られるがそこから景初年号の入った鏡が出土している。
武内宿禰は、武内太田根といい、出雲から嫁をもらい、以降宿禰を名乗らない事と引き換えに臣姓を名乗る様になった。
これが臣系物部氏の始まり。
故に蘇我氏は臣姓になってる。
小瀬臣、平群臣など、臣系の物部氏は全て竹内宿禰の子孫
出雲とは仲が良かったので、継体の代には事代主系の家から養子を出していた。

ワタカケルの後は継体ではない。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:14:47.05
そもそもがワタカケルの後に継体ってのがさして記紀と変わらない。
応神とは全く血縁がない

武内宿禰と神功皇后の間の子は死んだるので、応神の後の臣系の大王はクーデターによる簒奪

跡を継いだわけではない

記紀では平群朝になるが、事実上小瀬臣家である家系は武烈まできちんと続いた
0617日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:16:47.76
臣や連が天皇から貰う苗字だと言うのが幻想
豪族の権威の方が先に来ていたから後年に臣、連制度になった
0618日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:22:05.18
ワカタケルの頃に暦が半島からもたらされ、12動物などで正確な暦が適用される前までは記紀は倍暦で書かれている
記紀は逆算で正確な暦が復元できるように書かれている。
倍暦は春秋暦とも言われ、真正武内文書やその著書によっても言及されている

継体厨は単に上宮法王(聖徳太子)がお好きなだけのようだな
0619日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:19:47.47
大体ほかの天皇に比べ日本書記による
曖昧なワンポイント継体の記述は乏しいのは笑える
0620日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:49:27.68
隋書のタリシホコに対応した金石が船氏王後墓誌なわけで
雄略、次継体のような、記紀の古代史修正の必要として

乎婆沙宮の天皇、敏達 572~585
等由羅宮の天皇、上宮法皇、押坂彦人大兄 591~622
阿須迦宮の天皇、舒明 629?~641
の、三代なんだけど 隋書

開皇二十年 ?王 姓 阿毎 字 多利思北孤 號 阿輩?彌 遣使 詣闕
上 令 所司 訪 其 風俗 使者 言 ?王 以 天 為兄 以 日 為弟 
天 未明時 出聽政 跏趺坐 日出 便 停 理務 云 委 我弟 
高祖 曰 此 大無義理 於 是 訓令 改 之

王妻 號 ?彌 後宮 有 女六七百人 名 太子 為 利歌彌 多弗利

600年の奏上で、日本の王は兄弟で執政。
その後、法隆寺、斑鳩宮、小墾田宮を見た、裴世清の報告で
天皇は大王を称し、皇后は君。 皇太子の名は利歌彌 多弗利。
と、報告した。

推古天皇は、女6~700人の小墾田宮の太皇后で
上宮聖徳は法隆寺の法皇。

誰が天皇、タイシヒコか? なら、
敏達の子で、皇太子がタムラ?舒明である処の
押坂彦人大兄が大王である。 

皇后は名は小治田王であり、上宮は法皇、兄弟で執権だろ?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:01:05.78
倭と雛が変換できないって、どこで拾って来た原文だ?
もう覚えてないけど、5ちゃん用に直すのかいorz
0622日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:33:45.06
音無し(読み)おとなし
精選版 日本国語大辞典「音無し」の解説
おと【音】 無(な)し
① 音がしない。静かである。
※蜻蛉(974頃)上「おぼつかなおとなき滝の水なれやゆくへもしらぬ瀬をぞたづぬる」
② 人にことわりを言わない。消息がない。音沙汰がない。
※蜻蛉(974頃)中「それより後も、をとなし」
※右京大夫集(13C前)「父おとどの御供に、熊野へ参ると聞きしを、帰りてもしばしをとなければ」
③ 秘密などを人に知られないようにだまっている。隠して、言わない。
※源氏(1001‐14頃)夕霧「年経にけることを、をとなく、けしきももらさで過ぐし給うけるなり」
④ 世間に評判されない。世評にのぼらない。
※源氏(1001‐14頃)真木柱「をとなく、いづかたにも人のそしり恨みなかるべくをもてなし給へ」


つまり、音無響子とは、静けさが響き渡っているということ
無音響子とは、微妙に意味が違う
0623日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:19:28.77
神武以降、嫡男継承だったもんが、
豪族系仁徳以降から兄弟継承というか、
後宮が各姫の豪族資本で派閥争いから
天皇の暗殺みたいのが、始まってんだろ?

継体ー欽明ー敏達ー押坂ー舒明  なら、
男子直系なわけで、次は天智で良いのに・・・
記紀は何を無意味な系図改竄とか始めてんでしょうか?

そんなん、昭和以降なんて神功どころか
神武まで遡って大幅修正とかだろw 
人類皆兄弟だぞ。

気が付いたんだけど、系図いじりたくなるのは
継承者の母方に支障があるような場合みたいだね。
母方の父親が、謎の息長氏とか? みんなの好きな伝承ある?
押坂大兄とか、継承してないとか?

で、天智の母って皇極なんだけど、
天皇にしとけば大丈夫なのかな?
改竄の歴史と言うか、歴史の改竄と言うか・・・

記紀って、万世一系とか言う以前に、この辺で、
もう修正しようが無い んで、こうなっちゃってるんじゃね?
0624日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:59:27.68
>謎の息長氏とか? みんなの好きな伝承ある?

とか、書いちゃったんで、ググレカスったらw
篠原幸久さん、と言う先生の論文が有った。

同様な、アプローチの疑問があるって、知って安心した。
画像鏡の日十大王=継体説ってのは、定番だったのか?

雄略の後、誰か居るかも知らんけど、
雄略が兄を殺した弟を、ぬっ殺す、ってのも乱暴な話なんであって
そのあとは503年に忍坂宮で、身内の継体が継承で良いんだよなw

允恭の皇后と継体の皇后が、
お笑いの、息長姉妹って、お母さん、魔女だろwww
まあ、直感で捏造とか偽書と言うのは良くない?
0625日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:21:50.14
>雄略が兄を殺した弟を、ぬっ殺す、ってのも乱暴な話
何を言ってるのかと言うと、

物部、蘇我戦から、鎌足の天皇?皇族殺し、に天智が共犯って話は、
どうなんだろう? 記紀が言わずも犯人として語っちゃってるけどw

要らんだろ。 削除すべきは、これであって、系図ではない。
アタシが、記紀編纂に参加してあげれれば良かったのに・・・
0626日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 22:23:22.93
九州西都原古墳群と神武天皇の征東軍
0627日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:52:03.01
>>619
でも昔から実在する可能性が最も高い天皇だと言われてきたのが継体だよね
0628日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:47:49.56
>>627
名前はともかく、仁徳以降の記録では、実在で良いと思うけどね。
有史記録倭の五王 金石文による実在可能性

推定生年 遣使期間での在位 期間  没年齢 名 
330? 350?~400? 50年 70歳 聖帝父 仁徳天皇 370 在位中 七支刀

370生 413~438没 25年 68歳 讃子兄 履中天皇 いざほわけ
380生 438~443没 15年 63歳 珍弟  反正天皇 記在位5年 みつはわけ
390生 443~462没 19年 72歳 済弟父 允恭天皇 つまわくご

420生 462~477没 15年 57歳 興子兄 安康天皇 記465没在位3年 あなほ
440生 477~502没 25年 62歳 武弟  雄略天皇 記489没 わかたける

470生 503~531没 28年 61歳 継体天皇 人物画像鏡 おほど

在位期間の没年から生年を推定しただけなんで、
父子関係はともかく同母兄弟が可能かは?
仁徳の母は神、父は半神w 遡上不能。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:24:46.38
稲荷山鉄剣の8代で250年までは遡れると思ったけど
天皇は武人じゃないけど、親子4代で200年って、長いよな。

これって、
一夫多妻なんで、兄弟継承が有った方が
20歳から60歳まで、子作りしてりゃ、
一子相伝じゃないわけで
父の死後、兄から弟でも一代なんで、
一代が長い、ってことだったんだな。 
気付かなかった。

稲荷山鉄剣8代の場合、
嫡男相続のように見えたけど
親子40歳差とかなら350年も在るかナ?
大和朝廷の150年に、専業武人が居たか?
古墳時代から、だとは思うけど。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:39:59.98
で、
雄略物部の皇位継承争いと
推古蘇我の皇位継承争い

天智鎌足の意味不明の
倭王継承を解消したんだな?

記紀の価値はそれだけであって、
あたりまえに、神話が、日本の歴史じゃない。

ってのは、中学生でも知ってるんだが?
ホントは、何? 

5ちゃんでしか、見えないかもなw
0631日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:53:47.32
記紀のさるぐつわ
神社伝承のさるぐつわ
これは、良い。

明治~江戸の 日本神道?

日本の古代の歴史と記紀、神社伝承
まあ、魏志はw 本当に関係あるのかな?

ってのが、
本居宣長や新井白石の
疑問だったと、思うぞ。

倭人伝の話にしたいけど、なんか質問ある?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:19:22.33
邪馬台国と大和朝廷はまったくの別物
0633日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:20:46.13
倭の五王は天皇ではなく
九州王朝の王
0634日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 21:46:58.98
>>633
天皇からの独立運動かもしれん。
結局、武に制圧される
0637日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/07(水) 07:41:12.32
そもそも倭武って、日本語読みにしたらヤマトタケルなんだけど。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/07(水) 11:58:46.49
>>636
日本武尊と倭王武も神話と神代みたいなもんで良いんだけど
500年までの武から、允恭、仁徳、応仁、仲哀神功、日本武尊
5代遡ると、結局、200年近くまで遡れて、

倭王武の奏上の東蝦夷55国平、西衆夷66国服、北95国渡海平。
を 2回やってることになっちゃう? 東征もしたいなら3回かな w×3

要は240年に九州の卑弥呼女王が居たら、
日本新党で都合悪いんダロ?
あれ? 選挙で決めればいいさ。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/07(水) 17:20:42.77
>>633
何その薩摩藩のパリ万博出品みたいな話。

まあいいけど、地方分権と言う意味では、
朝廷の軍事統一とか、信長の天下布武どころか、
江戸時代の統一国家もアヤシイって話だけどね。

明治以降の、対外戦争じゃ無いと、明治維新も
内戦なわけで、始皇帝や、モンゴル帝国だって
封建社会に軍事統一なんて無いだろ?
中凶の共産党 もな~ (aa略 www
0641日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/08(木) 06:35:55.93
大和朝廷は魏志、隋書にある邪馬臺者で継承者なのは確定。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/08(木) 06:44:35.98
>>636
制度はないけどな
制度以前に天皇はいない。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/08(木) 12:27:31.72
>>630
推古は曽我氏出身ではなかったですか?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/08(木) 12:42:13.03
>>642
そんなの当たり前じゃん
天皇の不存在と、先祖の不存在は別の議論
0645日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/08(木) 12:47:30.67
>>637
日本語読みする意味がわからない
そんなこと言ったらルイ某世と同じ

イときたらすぐに五十猛の脊髄反射とさして変わらない
0646日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/08(木) 18:56:26.15
>>643
記紀が、偽史を創作した理由。

直接的には、白村江敗戦。
同、天智天皇、母の系譜素性の消滅。

中国の隋唐化における、南朝での
倭の五王の朝鮮半島利権交渉の不発。

遡っても、押坂大兄なのは、判るだろ?
仁徳の物部王朝で兄弟継承が有った。

雄略の子、継体の後の日本王朝は天智迄でも、
基本は嫡男の一子相伝である。

女帝って、後宮のお局だろwww
0647日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 13:03:01.97
息長家出身の宝姫は最初は石川臣武蔵の所に嫁入りしていた。
それが中臣家と田村王の計略により宝姫は離縁し、田村王と再婚
他の石川臣家の人物も暗殺され、名前も馬子や蝦夷にされた。
石川家を曽我氏だった事にしてクーデターを隠して英雄譚に変えたのが記紀

馬子なんて子供につけるやつは居ない
0648日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 13:54:59.29
宝姫の前夫、石川武蔵との間に生まれた息子は大海人彦、後の「天武天皇」であり、大王との間に生まれた皇子は葛城皇子「天智天皇」。
海家(アマ家)の分家の安曇氏の所で育てられたので大海人とついた。
両者は親子ではない。
中臣家が初代天皇の実家を滅ぼしたなどとても記紀は書けないわけだ
0649日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 13:57:07.34
よきことえらぶつかさの弊害が国譲りだったし、乗っ取りを正当化する物部氏の神武化だったし、中臣家の英雄譚化であり、万世一系だったわけです
0650日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 15:48:20.75
故に、あのあたりの天皇の諡号には、タラシや、タカラが入ります。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 16:10:06.57
息長って、神功の父だったのな。

神功の母って両親神々だし・・・
系図と言うより、無理筋だろw

仁徳は、父が半神で祖母が魔女でも
実在しないと、
倭の五王の歴史は有史なわけで
日本史が始まらないと思うよ。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 16:16:05.23
>>651
息長家は母系がヒボコの系統で、父系が葛城氏だったかと。
名前の使われ方が謎ですよね。
物部政権の嫁でありながらわざわざ実家の姓になってますからね。
皇后として初めての大王として権力を振ったという位置付けなんでしょうな。
大陸に対する権益を主張するのに日本書紀としては外せなかったのかもしれません
0653日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 16:24:30.01
中臣家は普通だったら早飯ぐらいになるところを、両方の勢力に嫁を出してたからすぐに復権できた。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 18:10:44.39
>>653
早飯ぐらい、って何のことですか?
アタシも安曇族は、百済王家や新羅勢、同様
ヤマト朝廷では、外様で、冷や飯組 って書いたけど?

陳寿に弟子入りしちゃったんで、仏文学好きの娑婆尼僧
アタシの日本語も解りにくいらしいんだけど、
冷や飯喰らい、ってのも有るか? 

と言うか、倭人伝の読み方の問題で、張政や梯儁の引用に関して、
陳寿の時代って、熟語数ってまだそんなには多く無いよね?
0655日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 19:16:00.81
すまない。 
話を難しくしてしまった、かもしれない。

漢文を読む上で、価値観が混入する熟語の
発達段階ってのは重要なことだと思う。
史記や孔子、陳寿?によって、熟語が成立した。

陳寿の魏晋ではなく、漢字の文学的成熟は
唐以降なのではないかな?

日本は漢文継承したから、万葉集だろ?
何を言ってるのか、判らないとは思うんだけど
倭人伝の読み方の参照として欲しい。 
0656日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/09(金) 20:29:34.00
後世のヤツが魏志倭人伝読んで勝手に解釈して改変したんだろうな

卑弥弓呼
  狗古智卑狗
  クコ

魏略では拘右智卑狗なのに「狗古」となってる

「弓呼」もクコと発音したんだろうなと察する
後世のヤツは
0658日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 09:57:30.03
>>657
卑弥弓呼は、ヒコミチヌシノミコの事だと本に書いてありました
0659日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 12:21:59.45
>>656

記者の登場人物が、物部、宇佐の人たちであり、ヤマトと戦っていながら自分たちをヤマトと嘘をついたという話の根拠が、卑弥弓呼、狗古智卑狗

卑弥弓呼は、ヒコイマスの息子のヒコタツヒコ。
彼は戦いの時期にはヒコミチヌシと名乗っていました。
物部に負けた後は亀岡に遷都し、昔のヒコタツヒコに戻し、因幡国造家になりました。
後年に帝ワケを名乗っています。
つまり、尾張家ですね。
そして狗古智卑狗は、新撰姓氏録からも大彦系。所謂九州にも地盤があり菊池比古とも呼ばれように。
大彦勢は大乱期に奈良から撤退し、出雲由来のクナト国を名乗りそれが狗奴国として描かれました。

九州勢は、別の国の人物、狗奴国のヒコミチヌシノミコと交戦中だと魏国のオウキに戦況報告している訳です。

実際にはヤマトと戦っていました。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 12:23:33.10
>>655
うぬぬ。確かに魏書の人物名はまるで万葉仮名みたいですな
0661日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 12:26:15.28
>>654
〉早飯ぐらい、って何のことですか?

すみません。iPhoneだと予測変換でどんどん違う文字が入ってしまいます。勿論冷飯ぐらいです。

結局は大王は曽我系ですが、宗教の神道は中臣が覇権をとりましたね。
現在の我が国の神道の中心も相変わらず中臣なんだそうです
0662日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 12:47:56.58
626年6月ヤマトの大豪族、石川臣麻古が病に没する。
麻古は日本書紀に蘇我馬子と書かれた人物であった。彼の死因は暗殺ではなかった。石川臣麻古の父親である稲目は欽明大君に嫁がせた二人の娘からは穴穂部皇子や初瀬部皇子が生まれていた。
626年に麻古が病に伏した際に彼の回復を祈念して1000人もの人間が出家した。(仏教)
それを見た息長家の田村王は戦慄したとされる。
石川家が推していたのは、上(かみつ)宮法王(聖徳太子)の子、山背王であり、次期大君候補として圧倒的優位に立っていた。
田村王は手を結んでいた中臣家の御食子を使って暗闘を展開する。神道派の中臣家からしても蘇我家(石川家)は邪魔な存在であった。

そして仏教を好んだと言われる継体大君時代に力をつけた北陸の三国国造家(北陸蘇我氏など)と宗家の石川臣家の、連合との争いが記紀編纂の際の下地になった。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 12:50:42.64
田村王の兄弟である茅淳王の娘であるタカラ姫は石川臣武蔵に嫁いでおり、大海人皇子を産んでいた。
田村王に姪のタカラ姫を嫁がせれば石川家の力は削がれ、息長家の結束は強くなる。
中臣家は、ヒボコの系譜の息長に近い系図とも言われ、親戚だった様である。
御食子の計略で石川臣武蔵とタカラ姫は離縁となり、628年には舒明大君が即位した。
依然、山瀬王の人気は衰えず、前大君が生前に山背を大兄に指名していた事もあり、麻古の弟、境部摩理勢は大君に逆らって彼こそが後継者との主張を曲げなかった事で誅殺
ただ一人残った石川臣雄正(蘇我蝦夷)は641年に、葛城皇子と、御食子の養子である鎌子(鎌足)に豊浦の邸宅で暗殺され、蘇我宗家とも言われた石川臣家はあっけなく滅びた。
舒明大君がタカラ姫に生ませた子、葛城皇子は、中大兄となった。

記紀においては最後に山背王、石川臣林太郎(蘇我入鹿)の仕業に見せかけ、乙巳の変は幕を閉じる。

しかし、山瀬王と、彼の異母兄弟であり、上宮法王の皇子である日置王は出雲に流れ、木築大社上官家により匿われ、血筋が続くことになった。
大海人皇子は、中大兄皇子の異父兄弟であった。

日置臣家は、後に家名を守るため、朝鮮渡来の系図を新たに作り、誤魔化した。
日置氏には二つの系図があり、片方は祇園社執行家の系図であり、高麗系譜になっている。

記紀の話をすると、海部氏に育てられていた大海人皇子の乳母が、綾部家の人麿の母親であった。
そして稗田流口伝を継承した母親から、人麿が海部氏を通じて、ワニの家系の柿本家に養子入りした事から古事記に繋がる。

三輪氏も彼らを守るために一緒にきたらしく、現在でも太田市として島根には地名が残る
0664日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 13:29:42.65
>>660
【倭人伝に見る、諸国名、倭人名考察】
 
【王名】奴王(難)升米  都支王(都市)牛利 巳百支王(伊聲耆)掖邪狗
*240年の梯儁の国名参問による漢字化と
帯方郡での名乗りで記録の当て字が別

邪馬台/卑弥呼 卑弥が一族または所属国で呼が王。
狗奴王/卑弥弓呼は 弥国から別れた弓国王。倭の奴国とかの?

【247年 張政による漢語化 和語の固有名詞人名】
張政は遣倭載斯烏越等詣郡の倭人船に同行で来日の郡の官僚で査察者
帰国は壹與の遣使掖邪拘等二十人 と送政等還因詣臺

對海/卑狗(狗邪国の一族) 卑奴母離(奴国の一族で母離が名)
一支/卑狗 卑奴母離 (卑奴母離は帳政の奴国船の同乗者)
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚(外国人か?觚は中央役人職か兵)
奴 /?馬觚 卑奴母離  不彌/多模 卑奴母離

【240年 梯儁による漢語化 和語の固有名詞人名】
梯儁は郡の将軍だが卑弥呼に金印紫綬の皇帝の使者で卑弥呼王宮まで行軍
魏軍として初めての宝物を運んだ韓西岸行軍、対馬渡海。
水行、陸行に関しては隣国の仮称国名のみで里程を示せる経由地宿営地名は無い。

投馬 (弁辰韓の仮称)(彌彌 彌彌那利 彌国の彌なら王、彌彌那利なら子?)
邪馬壹(邪馬壹 名無しの女王国21国 梯儁による仮称)
*壹は臺を曹家に配慮して陳寿または版元が修正。
伊支馬(壱岐の馬)彌馬升 彌馬獲支(邪馬の升、獲支) 奴佳革是(奴国の佳革是)
狗奴 狗古智卑狗(狗古智卑狗 狗国の古智。役名または一族名が狗国の卑)
0666日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 13:50:11.93
>>665
おおー、確か半島の国にも母系の国がありましたね。

本によりますと、豪族は男系ですが、子育ては母系の育てられ方で、奥方の実家で子育て

他は母系であったと書かれています

ヒボコ族が土著化する中で家系によっては母系の強さが現れるのは当然に考えられる事だと思われます
0667日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 13:51:33.20
故に女主人を刀自とかトベって呼んだんですよね
0668日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 13:53:46.13
ただ、秦国系は男系だったのではないでしょうか?
0669日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 16:13:11.70
卑弥呼        豊鍬入姫命
卑弥弓呼       豊城入彦命
伊支馬&卑弥呼の男弟 垂仁天皇
臺與         倭姫

俺も人物比定してみました!

だいぶ畿内説な答えになりましたが
かなり自信がありますw
0670日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:19:06.79
>>405
>250年以降に朝廷に参加したわけで、 九州は百済や新羅同等の外様状態。 外国だろw
大和朝廷は九州勢力が立てた政権だが?
文献上もそうだし、考古学的にも>>10>>19の通り
外様なわけがない

>日本海ルートの守備が面倒な半島や未開の信州開拓。 
>これって豪族の冷飯組だろ?
日本海ルートは2000年前から安曇たち北部九州の海人族の支配下
>>12のとおり

君はまず基本的な考古学知識が足りていない
0671日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:22:47.70
>>407
>正しく読む話はしたいと思ってるんだけど?
>>2を見りゃわかるように最も正しく読んだ結論がここのテンプレ
伊都チョン連呼くんを始めとする狂人の連投は無視しておけばいいよ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:24:13.76
>>409
つまり全く根拠はありませんとw
やっぱりいつもの口からデマカセだったな
伊都チョン連呼くんは成長が無いのうw
0673日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:28:24.11
>>410
>そもそもが自称考古学から歴史学である魏書に落とし込むのは順番が違う
考古学と文献の一致点を探るのは当然だが
君の狂った脳みそでは違うのかw

>新しく出土したものが出たらまるっきり組み立てが変わるだろ?
出土したらな
しないんだから仮定の話をしても仕方がない
魏書の記述と北部九州の遺跡・出土品分布は一致している
そこから北部九州を邪馬台国と考えていくのは当然のことだ

>その割に、安曇しか考えられないから安曇とか意味不明なことばかりいって
いつそんな事を言ったんだ?
そうやって他人の発言を捏造ばかりして妄想の世界に浸っているから君は常に負け続けるんだぞw
0674日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:30:52.03
>>411
>いや。お前しか言ってない妄言だから明らかにされていない話だろ
いや>>8の通り明々白々
お前はそれにまともに反論できずにいる

>ものを考える順番が違う。認知レベルで異常がある。
>思い込みを真実と書いているだけ
また自己紹介かねw
好きだね自己紹介するのが
0675日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:33:15.82
>>412
根拠のある反証は根拠のある立論に対してのみ必要なんだよ妄想家くんw
根拠ゼロの妄想に対して反証する必要はない
それは根拠ゼロの妄想だと指摘するだけで十分

俺の立論には全て根拠を示しているが君は根拠のある反論が出来ずにいる
それは俺が正しくて君が間違っているからだよ伊都チョン連呼くん
0676日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:35:52.98
>>413
>考古学的に3ルートあった鉄のルートのうち、直接製鉄がなかったのは筑紫だけ。
>故にあそこは輸入しか手立てがなかった地域
またしても根拠ゼロの妄想おつ
当時あった鉄のルートで考古学的に明らかなのは朝鮮半島から対馬航路で北部九州というルートのみ

>考古学とかはあるのであればその圧倒的に乏しい知識を自分でなんとかしろ
考古学という言葉の意味すら知らなかった君が言ってもねw
>>23は永久保存版だな

>お前が一番レベルが低くて役に立ってない
いつもの自己紹介おつw
0677日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:37:04.36
>>414
考古学という言葉の意味さえ知らなかった君が言ってもねw
>>23は永久保存版だな

>>143は完全に考古学の内容だよ無知くんw
0678日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:41:28.57
>>417
>アチメワザは宇佐家の自家の家伝として行っていた鎮魂祭りをアチメワザと呼ばれる神楽であった。
>普通に宇佐氏の本に出てる程度の誰でも知ってる話
その本に書かれていることが正しいという根拠が無いw
阿知女作法は宮中に伝わる祭事であり宇佐が先か皇室が先かは不明だし
両者とも別の起源から受け継いだ可能性もあり得る
宇佐にもあるから宇佐起源というのは根拠ゼロ

>ひーふーみーは、石上の十種神宝の行事の口伝で振魂の清祓行事とも言われるもので18世紀以降に縁がありウサに口伝書が伝わったもの
じゃあ宮中の方が古いから宇佐起源は嘘だなw
自爆おつ

>元々、アチメが男を指すわけが無かろう。
根拠ゼロ
いつもの口からデマカセ乙
0679日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:46:22.45
>>418
>という事で、元々アチメワザは応神と神功皇后に関係した神事として作られた。
だからアチメ=磯良に玉を欲したトヨヒルメは神功皇后だと言ったのは俺だがw
わざわざ俺の説を補強しに来たのかw


>そう本にも断言して書いてあるな。
断言してあるから本当だと思ってしまうその知能の低さが君の病理だな
嘘を断言する人間なんて数え切れないほど存在する
君とかなw

>つまり、竹葉瀬君。トヨの兄の豊彦の男系の直系の上毛野のイニエと豊玉姫(宇佐の宇佐津姫)直系の血筋。
根拠が無い
嘘を断言おつw

>ウズメ(細女)に対する兄の細男が磯良
根拠が無い
嘘を断言おつw

>根拠なしって吠えてるだけ。
根拠が無いものを根拠が無いと指摘するのは当然のことだがw
指摘されても根拠を出せない君がただの妄想家でしかないというまでのこと

>自説を信じたいメンタルしか彼には存在しないw
いつもの自己紹介乙w
他人に自説を信じてほしいならちゃんと根拠を持っておいで
0680日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:47:20.23
>>419
>アチメワザの源流を作った宇佐の話ですら根拠なしとか吠えちゃうのが自称九州説の安曇派とでも言おうかw
現に根拠がないわけだが
しかもひふみが伝わったのは18世紀とか言って宮中の方が古いことをバラしちゃってるしw
0684日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 19:56:41.79
>>403
それは君が個人的にそう空想しているというだけで用例とは言えない
用例と言うのは>>2のように他の文献等から解釈のはっきりしたものを持ってこなければダメだよ
0685日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 20:10:58.04
瀬戸内海交通の話なのかな?
250年以降、関門海峡航路は成立する。

理由は、阿波播磨吉備国東半島の航路である。
日本海ルートが、敦賀、出雲、宗像、対馬なのは、当たり前。
帰路、近道は、壱岐ではなく沖ノ島。 常識だろwww

ここから、読めば?
0686日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 20:12:01.16
>>404
>和音の名前ではない跡継ぎ、ってだけの表意文字だぞ?

魏書では倭人の名前がいくつもでてくるが全て音写とされている
君のその主張には無理がある
0687日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 20:13:23.77
>>683
>>2を見れば分かる通りここのテンプレが最も正しく読んでいる
それに対する反論は特に無いから他の話題が多いだけ
0688日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 20:17:35.62
>>685
海の正倉院と呼ばれる沖ノ島だが出土した遺物は全て4世紀以降のもの
3世紀には壱岐対馬航路しか無かったんだよ

沖ノ島は安曇より後発の海人族・宗像氏の聖地とされる
つまり沖ノ島以前の3世紀に北部九州の海を支配していたのは先発の安曇だったということだ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/10(土) 20:34:52.06
>>688
日本の青銅器文明発祥
BC200年からの航路には
対馬は、必然だとn思うぞ?

歴史に対する姿勢
良いのか? アラシの
阿波とかキッドと、同じで?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:05:30.12
>>688 〉沖ノ島は安曇より後発の海人族・宗像氏の聖地とされる つまり沖ノ島以前の3世紀に北部九州の海を支配していたのは先発の安曇だったということだ また病気持ちが現れたなw 鉄器の流入の3経路から行ってもそれはあり得ない 筑紫は直接製鉄を持っていなかったのは既に学説 よく平気でそんな思い込みが事実であるかのように言えるよな
0691日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:06:30.50
>>689
しーっ、スレ主とはいえあのアホを相手にするなw
0692日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:08:52.84
>>679
うわぁ、一々口答えしなきゃ気が済まない病気持ちかよw

お前の妄言が一番レベルが低くて根拠が示されてないんだよ
0693日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:11:07.42
>>678
〉>元々、アチメが男を指すわけが無かろう。
根拠ゼロ
いつもの口からデマカセ乙

お前はいつもそれだけ書き込むだけで根拠を示さないよな?w
お前は自分の知識が及ばない事を根拠がないというわけか?w
さすが、神事を作った人達のことまで平気で馬鹿にするワケだわw

だからメンタルと言われるんだよ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:13:01.75
>>669
〉卑弥呼        豊鍬入姫命
卑弥弓呼       豊城入彦命

ちょww
なぜ豊彦と、豊姫の兄妹が喧嘩してるのよww
0695日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:14:17.27
>>670
〉君はまず基本的な考古学知識が足りていない

はい根拠なしのデマ。
魏書は歴史書であって考古学ではない。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:16:10.57
>>672
教えたやってもまた完全検索とかです結果を歪めるんだろ?w
精神的勝利が目的の狂人に世の中の真理は関係なかろう
0697日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:18:34.93
>>673
〉>新しく出土したものが出たらまるっきり組み立てが変わるだろ?
出土したらな
しないんだから仮定の話をしても仕方がない

つまりお前の妄言の方が仮定の話って事だろ

考古学ってのは単なる定説であり、更新されるものだ
仮説が前提の学問と言っても良い
お前の話は嘘でも平気だよっていう特殊な姿勢にすぎない
0698日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:22:35.98
>>680
お前、アチメワザのこと何にも分かってねえだろ

それだけはその一言でわかるわw

伊都チョンが知らないこと=根拠なし、だもんなww
0699日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 12:23:47.81
>>683
な?伊都チョンのキモさ、分かるだろ?w
0700日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 13:05:55.51
>>694
喧嘩してるのは垂仁天皇と豊城入彦命
この兄弟が不和で、兄は東国に追いやられてる
(垂仁天皇が男弟佐治國。)

卑弥呼じたいは天照大御神のこと
そして天照大御神=女王(国)連合

天照大御神の力で西日本一帯を共立、衆夷を惑わしたw

ただし人間的には豊鍬入姫命が該当という解釈

卑弥呼は百襲姫じゃないのか?と
彼女は大物主の方だから基本的に違うと結論

こんな答えですw
0701日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 13:07:37.28
垂仁天皇のときの
100人殉葬エピソードがまた興味深い

真意はともかくw
0702日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 13:31:11.42
卑弥呼以死
↑これの「以」がずっと気になっていた

豊鍬入姫命に、たどり着いたのは
それが突破口になっている

三国志全文検索すると「以死」は
普通に出てくるので、陳寿的には何ら思惑はないとわかる

でも、魏志倭人伝を読んだ後世の日本人なら
変に解釈しても可笑しくない

俺お得意wの漢字分析したら
「以」= 農具のスキを持った人が成り立ち → スキイリ(神事の)

はい!「卑弥呼以死」=「卑弥呼 スキを持った人 死す」

答えこんな流れです!

あとは豊鍬入姫命の周りを調べて
人物比定したら、しっくりといったので答え出たかなw と
0703日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 15:14:49.14
>>702
69 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人

卑弥呼の死をもって(倭人達は)塚をおおいに盛りました。
って話ですけど? 変に解釈したら可笑しいでしょ?

時既に、あんまり戦争が忙しかった風でもなく
卑弥呼が更迭、訴追されたりしては いなかった
という事は解ります。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 16:30:04.25
>>701
首だけ出して叫ばせるって中国式のアレ、本当にやったらしいよ

だから物部氏は徹底的に嫌われてヤマトから追い出されたんだそう。

ま、非支配層に蛇蝎の如く嫌われて支配も覚束なかったらしい

故に垂仁の次代から既にヤマトから追い出されて宮が播磨になった。

だから、ヤマトタケルは元々播磨にいて大和には行かなかってのでハリマタケルが正しい呼び方ではないかという話がある
0705日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 16:36:57.20
>>700
〉喧嘩してるのは垂仁天皇と豊城入彦命

ここ何気に重要で、豊彦はイクメに裏切られて腹違いの後妻の子である彼は(宇佐津姫と物部の子)ヤマトから交後退し、常州に落ち着きます。
それが上家野家。
宇佐神宮が応神を祀るのは応神が豊彦の子孫だったからです。
故にあり得ない事に、それまで本殿だった姫宮をど真ん中のままニノ段にし、応神を一ノ段にしています。
姫宮は、宇佐津姫が厳島で亡くなったので、市杵島から転じて宗方神を祀るかのようにして祭神が隠されました。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 17:07:14.92
>>702
〉俺お得意wの漢字分析したら
「以」= 農具のスキを持った人が成り立ち → スキイリ(神事の)


うーむ。真正竹内文書だとまさにその通りになっていますよね。
4代目の大王(豪族に過ぎない)は、スキトモですよね。
農業国家としての成長があり身分の差や格差が生まれたとあります。
つまり。食い物がない国と争いが生まれたと。
そして、孝がつく大王の時代が倭国大乱期に当たると。
そして、問題のスキトモはヤマトから九州に宮を移したとあります。
考古学や気象学的には、景初の時代は日照りと寒冷を繰り返し食糧的に問題を抱えていた事が伺えます。

まさにスキが九州から入っていている構図になっていませんか?

おおー
0707日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 17:53:32.48
>>688
青銅を大量搬入している、出雲、丹後も
往路での宗像以降は、博多湾に用が無くても
壱岐航路という事ですね?

壱岐、対馬から釜山ルートなら、
対馬の千里は循海岸 水行 になりますが
対馬は方可4百里で九州船の航路は千里の渡海3回です。

日本海ルートの半島拠点は、釜山方面ですが
対馬東岸からの帰りは、風に乗れば、
壱岐経由よりも沖ノ島は、上陸なしで目印だけで
宗像でも土井ヶ浜でも早そうなんですが?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 19:17:45.64
>>688
興味が有るのは日本海ルートの宗像沖ノ島なんです。
遺跡は、300年代? 青銅搬送はBC200年からです。

博多湾は本願地で壱岐と
熊本以南の五島 と 東方系宗像
この3ルートは必然だと思います。

てか、話の前提の倭国統一国家なんて無いよ。
軍事統一が、鎌倉源氏ではない信長なのは常識だし、
幕末でも、薩摩はパリ万博で独立宣言だぞ?

歴史的には日本の軍事統一は、
自衛隊なんだよwww
0709日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 21:11:57.80
>>703
魏志倭人伝では「難升米」だが
日本書紀では「難斗米」になってる

これ、前にも書いたが
中華の故事に「升米恩 斗米仇」と言うのがある
意味は割愛するけど、このように
後世の人間が勝手に解釈して改変する事例も多々ある

今でも魏志倭人伝を読んで、みんながみんな独自に解釈してる
古代の中国人も日本人も同じなんじゃないかな

狗奴国は南ではなく東だ! みたいな

「以」に関しても普通はそう読むのを、、、
などなどね

狗奴国の卑弥弓呼 = 豊城入彦命 なら
紀伊の国であり、東の毛の国なので
彼なら南も東も当てはまるんでねw

答え完璧です!
0710日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 21:20:12.40
>>704
首だけ出してw いやー、それはひどいw

>>706
真正竹内文書は知らなんだ
とても興味深い

スキが九州から、確かに
倭国大乱期がキモですな

垂仁天皇時のエピソードも
結構いろいろあって面白いなと思った
0711日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 23:45:27.81
>倭国王帥升=扶余王始將、これ同じ人物だろ。
>最近、満州農安市の扶余族の遺跡から卜骨の鹿骨や頸に環のある須玖式土器などが出土してる

《後漢書 倭傳》
安帝の. 永初元年(一〇七)倭国王帥升等が生口百六十人を献じる。
《後漢書 夫餘傳》
安帝永初五年(111年)扶余王始將は歩騎七八千人で楽浪郡を略取した。

永康元年(167年),扶余王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/11(日) 23:49:10.45
>この登高神は仏具の登高座、寝床の床や、台地、一段高い所の意味で、
>天之常立神(あめのとこたちのかみ)や国之常立神と同じ登高神(とこしん)のこと。
>同じ(とこ)と発音する神がいるのも引っ掛かるな。

『周書』巻49高句麗伝
『又有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人之象;一曰登高神、云是其始祖夫餘神之子。
また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。
一つには常高神(とこしん)といい、始祖夫餘神の子だと伝える。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 00:31:14.27
>倭人伝には、邪馬台國 女王之所都 水行十日陸行一月
>官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七万餘戸とあり

>彌馬升、彌馬獲支など彌馬(みま)と付く名前は崇神の家族だけ。

崇神天皇=扶余王・依羅か??
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
皇后 御間城姫
0714日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 00:49:06.55
第8代孝元天皇の第1皇子で第11代垂仁天皇の外祖父である大彦命(おおびこのみこと)
『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。
また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比?」に比定する説がある。

で、大彦命の娘が御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)
何か、ミマキイリヒコは三輪磯城王朝への入り婿の様な気がするな。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 03:41:04.93
だから崇神は宮中内に祀られてた天照大神と倭国魂命を追い出した
0716日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 10:29:36.77
>>708
ソースは今辿れなくなってしまっていますが、一説によると沖ノ島祭司は宗像になる前は中臣家がやっていたって出てました。

ソースわからなくなってしまってるので何ともいえませんがヒボコの分家がコヤネである事、九州にも鹿島があることから古くから中臣家は半島との利権のパイプ役だったとしても不思議はない気がします
0717日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 10:59:25.36
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0718日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 12:48:47.85
倭人伝の話にしても良い感じなのかな?
「一月行」 の用例が、漢書地理志にあった。
ひと月が30日とは無関係な単位であることは間違いない。
漢代から継承してる地図上での、座標単位だと思われる。

自 日南障塞
徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧没國
又 船行 可 二十餘日 有 諶離國
歩行 可 十餘日 有 夫甘都盧國

自 夫甘都盧國 船行可二月餘 有 黄支國
民俗 略 與 珠劯 相類 其 州 廣大 ?口 多 多 異物 自 武帝 以來 皆 獻見
有 譯長 属 黄門 與 應募者 ? 入海 ? 明珠 璧 流離 奇石 異物 斉 黄金 雑繒
而 往所 至 國 皆 稟食 為? 蠻夷 賈 船 伝送致之 亦利 交易
剽 殺人 又 苦 逢 風波 溺死 不者 数年来還 大珠 至 囲二寸以下
平帝 元始中 王莽輔政 欲燿 威德 厚 遺 黄支王 令 遣使 獻 生犀牛

自 黄支 船行 可 八月 到 皮宗
船行 可 八月 到 日南象林界 云
黄支之南 有 已程不國 漢之 譯使 自 此還 矣

徐聞は海南島付近の港、方角と国名による場所は、
元の地図が無ければ判んないけど
倭人伝里の2千里が、一月行だとして
5月行はベトナム 4月行でマレーシア 8月行でインドネシア
徐聞から10月位でフィリピン? 辺りを紹介しているようだ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 14:21:56.90
地理志ついでで 但耳 朱崖のこと
倭人伝
28 其 風俗 不淫 男子 皆露? 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈? 作衣 如 單被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鐵鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

漢書 地理志
自 合浦 徐聞 南 入海 得 大州 東西南北 方千里
武帝 元封元年 略 以 為 但耳珠崖 郡

民 皆 服布 如 單被 穿 中央 為 貫頭
男子 耕 農 種 禾稲 紵麻 女子 桑 蚕 織績
亡馬 與虎 民有 五畜 山多 麈嗷
兵則 矛 盾 刀 木弓 弩 竹矢 或 骨 為 鏃 (以下歴史2行略)

陳寿の倭人伝で 32 但耳 朱崖 同 ってのは、
陳寿も海南島や倭地には行ったことが無いわけで
庶民の暮らしぶりに関する文言が、地理志の但耳 朱崖と似てるから
同じように温暖なのかな? って、言ってみただけw みたいな感じ。

倭人国の 有無=産物に関しては、ここじゃなくて
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 ?杼橡樟?櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠?桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 ?猴 黒雉
でしょ。 地理志の但耳 朱崖には、無い。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 17:15:55.25
>>717
計 其 道里 當在 會稽東治 之東
に関しては、
不適切な削除によって文章として壊れている。
計 其 道里 
の計るに主語が無く、段落中に道理が計るに係る文節が無い。

陳寿師匠は、この改竄に対して大変不機嫌である。
陳寿師匠の原文に近いと思われる復元の例。

23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差

27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東 ×

當在 會稽東治 は、
當在 が、倭使が至った洛陽であって
會稽東治は、太伯や夏后少康の在所付近。 計るに
この距離を 會稽東治から東にもっていく位、倭地は、遠い。
と言う話。 萬2千里も可だが、それは偶然だと思う。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 18:17:41.36
>>716
安曇中臣が、半島交易の
BC200 からAD200年までに成立するか?
は、無いけど。

銅鐸時代の日本海ルートは、
釜山港、宗像、出雲?、丹後敦賀? 越。
琵琶湖の高島近江。 なわけで、

博多湾ってのは必要ないですよね?

博多から出航で重要なのは糸島~壱岐。
宮崎、四国、薩摩、熊本の有明海みたいな
西回りなら、五島長崎のどっか良港? 
長崎なら平戸とか?

出雲から、釜山では宗像で充分一日なんで
マヌケの呼子だのwww 壱岐に寄る意味はない。

風待ち潮待ちは、ともかくとして、だが?
王船航路は、港にシンパを確保していたと思うね。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 18:54:52.63
倭人伝の話をしたかったんだけど
トンデモ系にしないと話にならないのかな?

質問ある? 
すまん、陳寿の弟子とか?

ちょっと逝った。
じゃあ、次?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/12(月) 19:29:34.53
>>722
どぞどぞ
こっちは文献史学的な見地で語るスレっぽいので
ぜひあますことなく語ってどうぞ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 12:17:26.69
>>709

出雲の本と記紀によると、大王家の3代目まではそこそこ仲が良かったらしいんですが、三代も続けて出雲(事代主系の家)から嫁さんもらったら出雲田が濃くなってしまいら母系文化の影響もあって、尾張家、大王家、出雲族が次第に仲が悪くなって三すくみの状態になり、大王と呼べるものがいない時期があったと書かれています。
欠史という概念の根本は何かというと我々はすぐに大王系譜に引っ張られがちですが、大王候補がいない時期=欠史という考え方なら、我が国には欠史はあるそうです。

その時にスキトモがどんな人物であったか?興味ありますね。
大王家の実家の尾張家には物部の姫(異母兄弟のホヤ姫)が入っていますから、実は少数の物部氏は古くからヤマトにもいた可能性が高いのです。

武内文書のような自分の家の氏製歴史は記紀のインチキ系図と違って自分の家の先祖しか出てきません。それ故に絶対に記紀と同じ名前と合わない名前が出てきます。

物部氏である武内家が残した歴史書で。スキトモがヤマトから九州に地盤を移したという話は、もしかしたらスキトモが物部氏であったのかもしれないという事になります。

記紀の大王系図は適当につなげた単なる設定に過ぎません。
なので、物部イニエであった崇神が尾張家に強引に繋げられて書かれてるワケです

スキトモもそうであっても全く疑問はありませんね。

よいインスピレーション貰いました
0725日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 12:28:05.97
>>721
〉BC200 からAD200年までに成立するか?

ヒボコ族の出雲渡来は紀元後100年代なんだそうです。
中臣家は無理でもヒボコ族ならなんとかなるかもですね
0726日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 13:12:17.56
>>721
〉王船航路は、港にシンパを確保していたと思うね。

確かに貿易するならそういう拠点は必要ですね。
須佐男は、面白い事に朝鮮から来たわけではなく朝鮮に立ち寄って、こんな所嫌だと日本に来ましたよね。

しかし、拠点というかシンパが存在していたという話はとても腑に落ちますね
0727日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 14:46:27.90
自女王国以北 特置一大率 検察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史

女王国以北の国々を監視する一大率が伊都国(福岡平野)にあるということは、女王国はその南にある筑紫平野ということ。

福岡平野(末盧國・伊都国・奴国・不弥国)
 ↓
筑紫平野(女王国)
 ↑
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(狗奴国)
八代平野
0728日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 14:55:14.38
>>717
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0729日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 17:31:59.22
>>727
自女王国以北 特置一大率 検察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史

この文で一大卒を特置したもの、である主語は、
自女王国以北に設置されているわけで、女王国、卑弥呼にはならない。

女王国の伊都に設置されているが、女王諸国がこれを畏憚する 
これは、女王共立国の国体とは違う存在である。

於 国中有 如 刺史
中国で言うなら、中央が郡県に派遣した刺史のようなものである。

使 大倭 監之 軍使張政が見た、大倭が主語でなければ陳寿の文章は正しくない。

43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 僅少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率

使 大倭 監之 以前の段落の主語は、指示代名詞の、
其人、其俗が指示している、女王国の国民は、国民の風俗は、である。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 17:52:34.25
>>725
応神以前は神代と言ってもいいので、良いけどw
ヒボコが、新羅王族と言うのなら、新羅の成立は370年以降で
100年じゃ日本移民の弁韓諸国設置が安定した程度と思うが?

倭人伝では、246年韓王朝滅亡の際、
馬韓王滅亡時に馬韓に居た辰韓王も王権を剥奪されている。

卑弥呼はこの245年の郡による、
韓への制圧戦に参加せよとの檄を受けたが

筑紫程度の弱小国では、
公孫氏、韓同様に、魏に喰われる、
と判断して、畿内と共闘の道を選んだ。

これが、日本目線での
倭人伝の歴史転回点としての白眉である。

ヒボコ、日槍が来るなら、313以降で百済成立、七支刀前後である。
時系列が曖昧では、歴史話は繋がらない。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/13(火) 18:03:59.08
>>728
卑弥呼以前に古墳文化と言うか
宗教化、王権の威信には、なって無くないか?

始皇帝が馬鹿杉なのに、
日本はなんでマネして700年まで続くw?

卑弥呼の殉葬ってのは、
1000人居た奴婢が、男王の成立に反対して
反乱を起こしたんだと、思うぞ。

王権の確立すら怪しいのに、
嫁、召使、以外の殉葬なんて無いだろ?
0732日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/14(水) 00:01:48.97
>>730
〉ヒボコ、日槍が来るなら、313以降で百済成立、七支刀前後である。

それはそちらの推論が曖昧なんでは?
元々神床家も富家も播磨風土記も人代の渡来ではないと説明してる事ですから
出雲と争った当の本人達の家計が今でも存続してるワケですが

旧家の歴史には欠史は存在しない

結論を出すのに欠けてるピースをもう少し検討するべき
0733日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/14(水) 19:27:18.77
>>732
検討すべき、時系列が成立する
?ぴーすを、読みたい。

記紀に依存しない神社伝承とか
古墳と一緒で消えてるんでしょwww
0734日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/14(水) 21:54:01.55
卑弥呼の墓=巨大古墳というのは出来損ない考古学統一狂会による印象操作であり壺の一種です

魏志倭人伝は中国国内の伝承や記録と、朝貢に来た倭人から得た情報を陳寿なりにアレンジして編纂された文書です。

一例として卑弥呼の墓に関する記述を読み解くと
径100歩という大きさは、倭人から聞いた殉葬100人という情報を寸法に置き換えて記載したものであり、
実際に中国が測定して確認したわけではないのです。
朝貢に来た倭人は里も知らず寸法で大きさを伝える事は出来るはずもありません。
民衆に人気だった卑弥呼の墓は、墳墓と集団墓地のセットである可能性の方が高いのです。
巨大古墳だというのは単なる妄想と言えます。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/15(木) 08:32:08.00
>>733
記紀に依存してたら意味がないでしょ。
それでは比較する意味がない。
記紀そのものが大陸の史書を見た上で誤魔化して書いているんだから。

埋まるピースはそれ以外のもの
0736日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/15(木) 08:48:41.71
狗邪韓国に関しては半島と倭国の二つの領域があったとしか思えない

狗邪韓国と伊都のみ、イタルの字が違う
そして、倭国に到達した事を示す文字になってる

狗邪韓国は北岸ということからも九州北部にあった
0737日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/15(木) 08:51:06.04
>>734
宇佐津姫の亡骸は安芸国の厳島で仮埋葬されて後に遺骨が宇佐に運ばれたそうですよ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/15(木) 12:56:34.31
>>730
倭国が九州で大倭国が畿内って説はアリだとすれば結局ヤマトと出先機関小倭になりますな。

少なくとも大陸は正確に伊都の役割と本国の位置を把握していた事になる
0739日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/16(金) 09:57:33.48
>>730
〉ヒボコが、新羅王族と言うのなら、新羅の成立は370年以降で
100年じゃ日本移民の弁韓諸国設置が安定した程度と思うが?

新羅の国は、元は辰韓の一部、斯盧の国
これが統一新羅の元になる国になった時、元の王家が断絶し、相続権を主張して始まったのが半島征伐。
ヒボコは新羅の時代の人間ではありません。辰韓時代に渡来し、出雲で土地交渉を行なっています。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/16(金) 12:22:04.65
ここにいる人たちは渡来人を知りながら平気で倭国人が長寿とか言っちゃうからな

日本の国土はゼロ磁場地帯なのか?ww

どう考えても魏略の通り春と秋暦だろ
〉魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀

我が国は渡来してくると突然寿命が倍になる国らしい。

アホかww
0741日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/16(金) 13:10:34.50
司馬遷の史記には徐福時代より前の大型船の存在と一日に進む距離の話が出てくる。

それ見れば距離感の参考にはなろう

水行ナニガシ日は距離が出過ぎる。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/16(金) 13:12:07.84
>>728
一大卒を置いていたのは女王国より北の国ですよねぇ
0743日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/16(金) 13:24:21.06
>>728
冢の定義は古墳と言うよりは簡易的な作りのお墓みたいですね。
戦闘中にデカい墓が作れると思う方がおかしいですよね。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 08:51:07.44
>>730
〉倭人伝では、246年韓王朝滅亡の際、
馬韓王滅亡時に馬韓に居た辰韓王も王権を剥奪されている。

確か部下の国になったんだっけ?
その部下に対して神功皇后は相続権を主張した
派兵を依頼したが成務はその要請を拒否。
なんと皇后は成務に三行半を突きつけて出ていってしまう
次に頼ったのが中津臣家の九州の豪族ナカツヒコ
彼にも拒否され、さらにはナカツヒコは若くして戦闘で亡くなってしまう
最終的に物部彦である武内襲津彦がパートナーとなって征伐は成功した
0745日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 08:52:05.27
ナカツヒコなんて本来なら大王にする必要もなかったが息長家や中臣家に対する記紀上の配慮だったのだろう
0746日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 09:23:28.14
>>728
〉曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。

従ったと言うのが違和感ありますがw
大陸の役人ですら伊都で足止めでしょ?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 09:44:42.72
弥生時代から古墳時代前期までは
概ね、20m~40m四方程度がおおい。
5世紀に入ると巨大化するものが出てくる。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 11:38:34.28
>>685

関門海峡の通運は4世紀以降。
仲哀天皇が開削した。
それまではトンネル状で、穴門と呼ばれていた。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 12:29:38.92
>>749
そうそう、ナカツヒコは穴門で亡くなったと書いてあった
0752日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 12:30:51.62
>>750
との時点までの最後でふか?
0753日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 12:44:25.36
https://avgle.com/video/hc4MXMbBeMt/
https://avgle.com/video/Nrx_d_hmA_j/
https://avgle.com/video/sLHR2RucBR4/
https://avgle.com/video/Zi_gLgVyNg0/
https://avgle.com/video/CGGlXl6tUlP/
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https://avgle.com/video/k2oYQYx78YM/
https://avgle.com/video/Tl8PxP99NPs/
https://avgle.com/video/QMM7d71YQ7t/
https://avgle.com/video/NRx_b_DWS_j/
0754日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 12:51:44.09
>>748
学術的には古墳時代と分けたがるから、墳丘墓だよね。
故に、大きさではなく時期で分けられるから出雲の四隅突出型も、分類は古墳ではなく墳丘墓になっちゃう
0756日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 14:48:53.08
>>754

もう古墳時代という区分をやめたら?
実態を反映していないなら意味ないよ。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 16:04:19.26
>>755
なるほど。
製鉄ではなく、鍛治遺跡ですよね。そうすると。
直接製鉄のなかったエリアですから。

倭国大乱期の最大の遺跡、ゴッサカイトですら朝鮮から鉄を持って来てた遺跡です。
タタラ跡は出ていません。
様式としては九州と同じです。
ヒボコ族が倭国大乱期に伊都と淡路島に負けて逃げ込んだと言う話が伝わっています。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 16:06:44.35
>>756
そうなんですよね。どんなに巨大なものでも墳丘墓にされちゃうんですから。
ただ、考古学は編年を規定する役割がありますので、概念上はどうしても捨てきれない見地なのでしょう。
逆に稲作の時代が早まったから弥生時代が昔から少し遡った考え方に変わりましたよね
0759日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 17:53:40.30
>>689
よく読め
俺はその頃にはまだ対馬経由の航路しかなかったと言っているんだが
おかしなことを言っているのは>>685の方だろ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 17:59:13.52
>>690
>鉄器の流入の3経路から行ってもそれはあり得ない
だからその3経路とやらの根拠を出してみろよキチガイ
お前の妄想は無意味なんだよ

> 筑紫は直接製鉄を持っていなかったのは既に学説
だから根拠を出せと何回言ったら理解できるんですかねこの狂人は
そうやって根拠を聞かれても何も出せずにいるから君は負け続けるんだよ伊都チョン連呼くんw
0761日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:00:05.05
>>692
結局何一つ根拠はありませんと
やっぱり君は永遠の負け犬だな伊都チョン連呼くんw
0762日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:02:09.27
>>693
>お前はいつもそれだけ書き込むだけで根拠を示さないよな?w
根拠が無いことを根拠が無いと指摘するのに根拠がいるわけ無いだろキチガイ
まず君が自説の根拠を出したらこちらも根拠を以て否定してやるよ

でも君は一度も根拠を出せた試しが無いよなw
0763日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:06:55.37
>>695
>はい根拠なしのデマ。
>魏書は歴史書であって考古学ではない。

>>670に根拠として挙げた>>10,12,19は全て考古学だが?
さすが日本語が読めない伊都チョン連呼くんの反論は意味不明だなw
>>384のとおり君は日本語が読めないのだからまず日本語学校に通いなさい伊都チョン連呼のチョンくんw
0764日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:08:33.03
>>696
言い訳無用
要するに君の書き込みには何も根拠がないと君自身認めたわけだな
また君の負けだよ伊都チョン連呼くん
0765日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:16:46.37
>>697
>つまりお前の妄言の方が仮定の話って事だろ
いや全然
現在までの発掘調査の成果から導かれた最も可能性の高い説ということだ

>お前の話は嘘でも平気だよっていう特殊な姿勢にすぎない
いや全然
もし今後新しい発見があれば説を更新すればよいだけのこと
それが考古学の常識なのは君も認識しているのだろう?
将来新しい発見があるかもしれないからとこれまでの発掘結果から目を逸らすのはただの詭弁に過ぎない

詭弁の特徴のガイドライン
https://www.wdic.org/w/WDIC/%E8%A9%AD%E5%BC%81%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3
>1.事実に対して仮定を持ち出す
君の言う「新しく出土したものが出たらまるっきり組み立てが変わるだろ?」は完全にこれに該当する
現在までの出土品は事実であり、新しく何かが出土するかもしれないというのは仮定に過ぎない
現在までの出土品分布から論を構築するのは当然のこと
0766日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:24:30.81
>>698
完全論破されて中傷することしか出来ないとは、負け犬はつらいねぇ伊都チョン連呼くんw


阿知女作法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%9F%A5%E5%A5%B3%E4%BD%9C%E6%B3%95
>阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう、等々)とは、宮中 及び神社等で歌われる神楽歌の一つ。

>平安中期には儀礼として完成していた。延喜末年頃に譜の統一が行われている。

宮中では10世紀の延喜末にはもう譜の統一が行われてたんだよ無知くん
で、ひふみは18世紀に宇佐に伝わったんだって?
そりゃ宇佐の方が後発という動かぬ証拠だな伊都チョン連呼くんw
自爆おつw
0767日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:26:51.04
>>699
媚びたのに無視される伊都チョン連呼くんw
そうやって他人にすり寄る君の方がキモいってさw
0768日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:41:45.00
>>707
>対馬東岸からの帰りは、風に乗れば、壱岐経由よりも沖ノ島は、上陸なしで目印だけで
>宗像でも土井ヶ浜でも早そうなんですが?

沖ノ島は漁民が訪れていた形跡はあるものの祭祀遺物は全て4世紀以降
3世紀以前は海外交易の拠点として使えるような場所としては認識されていなかったということでしょう
現代の知識で考えると間違えてしまうことがあるので注意
0769日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 18:57:32.30
>>717
祇園山古墳が卑弥呼の墓であることは>>5のとおり賛成だが、菊池彦のいた場所は菊池平野ではなく熊本県菊池郡の方だと見ています
理由は>>4のとおり出土品から分かる文化的境界が菊池川支流の合志川あたりになるから
文献と考古学の一致点を探るとこのあたりが境目でしょう
>>4の鉄鏃大量出土ラインが邪馬台国と狗奴国の争いの最前線ということです
日本で2番目に多くの鉄器が出土した方保田東原遺跡は邪馬台国側の前線基地ということでしょう
0770日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 19:07:27.79
>>725
ヒボコ族(笑)は存在し得ないって君も前スレで認めたじゃないか伊都チョン連呼くんw
> 98 :日本@名無史さん :2022/10/18(火) 22:54:39.66
> で、お前がヒボコが上陸したと言い張った糸島には朝鮮系の痕跡なんて無い
> そもそもお前はよくヒボコ族とか言ってるが当時の半島に倭に軍勢を送れるような渡海能力は無い
> むしろ半島東南部は倭人の領域
> だから狗邪韓国は韓伝ではなく倭人伝に書かれている

> 104 :日本@名無史さん :2022/10/19(水) 14:45:22.37
> >>98
> 俺は軍勢などとは一言も言ってない
> イチイチ状況を捏造でもしなければ気が済まないのか?

> 463 :日本@名無史さん :2022/10/27(木) 01:18:21.69
> >>104
> 倭に軍勢を送れないなら当然ヒボコ族とやらも存在できないわけだがw
> 自爆おつw
> 結局ヒボコが一大勢力であるためにはヒボコが倭人でなくてはならないという俺の指摘には何の反論もできないわけね

> 497 :日本@名無史さん :2022/10/27(木) 02:41:37.44
> >>463
> この辺の考え方がもう無理ww
> 単なる思い込みの自己紹介ww
> ヒボコそのものは家督争いを避けるために追い出された半島の王族w
> 秦国系の南岸で中津に近い人物
> もっと言えばコヤネに近い一族w

> 866 :日本@名無史さん :2022/11/05(土) 03:09:05.28
> >>497
> お前のその書き込みこそが何一つ根拠の無い思いお見なわけだがw
> 伊都も出雲も出石も無人の土地ではない以上、軍勢も引き連れていない余所者が王として大勢力を築き上げるなんて不可能
> 結局ヒボコは倭人でなければ大勢力になれないという俺の指摘には一切反論できない伊都チョン連呼くんでした
0771日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 19:15:25.03
結局伊都チョン連呼くんは当時の情勢や技術力を完全無視して
何が何でも朝鮮起源にしたいだけだということがよく分かる
チョンなのは彼自身だろうw
0772日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:37:06.39
>>760
〉だからその3経路とやらの根拠を出してみろよキチガイ
お前の妄想は無意味なんだよ

お前は黙ってろ
根拠なしって吠えてるだけの役立たずだろ
お前が一番役に立ってねぇ

普通に論文になってる程度の話を知らないお子様はお呼びではない
0773日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:38:00.63
>>764
病気持ちはもっと休んでろ

お前はスレを立てる以外の功績はない
0774日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:39:47.53
>>762
で何?
他の人にも狂人扱いされてるのにストーキングするのは俺に対してだけか?お笑いだなww

今そんな話誰もしてねぇだろ。少しは空気読めや
0775日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:40:38.92
>>761
はい根拠なし。
お前の話には全て中身も根拠もない

ただ根拠なしって書いてるだけの話
0776日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:43:25.87
>>770
他の人はヒボコは垂仁以降としてるから、お前のイソタケルやスサノオとの同一論はお前しか言ってない

他の人にも否定されていると言う事実は動かない

そろそろお前の手作りのあのくだらない同一論の画像貼り付けたらどうだ?

お前の手作りの画像が根拠だなんて傑作な話、どうせならまたやれよww
0777日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:45:55.03
>>767
媚びた?媚びたように見えるのか?

だからそこの伊都チョン視点だわなww

お前の話してる内容は願望とメンタルに過ぎない

一顧だにする価値のない妄言w

誰もお前の意見に同調してないだろ。

寂しくて仕方がないのか?w
0778日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:48:11.73
>>764
完全検索のお前の自爆テロは誰が見ても明らかに過去スレで残ってるからなw

俺様の思い込みは考古学の伊都チョンw

俺にストーキングするしか精神の平衡が保てないのか?他の人の親切な狂人指摘は無視か?w
0779日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:49:08.63
さて、次の登場は一週間後くらいかな。
他の人は同じレベルに落ちないように気をつけられてくださいねw相手する必要なし
0780日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/17(土) 22:50:47.75
『卑弥呼が死ぬと大きい墓をつくった。その直径は百余歩で、卑弥呼に殉死した奴隷百余人が一緒に葬られた。
その後、男子の王が即位したが国を支配できず、たがいに殺し合う内乱で千余人が殺された。
卑弥呼の一族の女で十三歳の壱与が女王になると国中が治まった。』

魏志倭人伝のこの個所は朝貢の記録であり、倭人からの伝聞をもとに文章化された記事である。
倭人は「里」という単位すら知らない時代なので墓の大きさを示すために径百余歩などと報告するはずはありません。
これは倭人が告げた「殉葬百余人」という規模を陳寿が中国と同様に「歩」という単位を使って表現した箇所であり、
実際に径百余歩かどうかはわかりません。
少なくともこの記事が書かれた時点では。

なので墓を比定するとすれば、まず殉葬百余人の墓が最有力候補となります。
たとえば「祇園山古墳」のようなものです。
前方後円墳は文献とは全く形式が異なるので候補にあげる必要性すらありません。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/18(日) 01:44:25.82
>>780
物部氏は円墳部分で征服した出雲族や尾張氏を首だけ出して泣き叫ばせて自軍の死者を弔ったらしいよ
あれは半島や大陸の影響だよな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:47:45.50
>>780 「殉葬百余人」なんですがね 魏書から読み取れるのは、魏の役人は後から仮埋葬施設を見てはいるのだろうなと言うだけの事だと言うのが一般的な見方と思います つまり出来上がったものから「殉葬百余人」を推測できる状況がなければなりません。 完全に伝聞であれば祇園の話など全く無関係になり要をなさなくなります 卑弥呼の墓に殉葬の跡がなくとも良い事になりますから じゃあと言う事でそっちの路線で考えていくと、祇園のそれは完成時に首だけ見えるような感じだったのでしょうか? なんだか発掘の状況がそれとは異なってる気がする
単なる殉葬の痕跡では意味がない気がする
0783日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:52:18.64
あと、殉葬とは書いてありますが戦闘中に身内をそこまで殺しますかね。
どうせなら戦ってシネではありませんでしょうか?

でなければ普通は敵方を埋めると思われます
しかしそれだと殉葬ならならない

確かに伝聞であって殉葬はなかったとしてもおかしくはないですよね
0784日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:03:21.51
>>783
陳寿は殉葬と表現したが、倭人の説明は単に「卑弥呼の後を追って100人以上が自殺した」という説明だったかもしれない。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:23:36.95
>>784
祇園は殉葬という習慣の証拠ではあると思うのですが、結構色々大変な時に卑弥呼が亡くなっているわけですから実際にはそんな感じでしょうね。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:28:13.79
九州の豪族、中臣家(中津臣家)のナカツヒコは九州でもちゃんと伝承が残ってて、仲哀峠とかそんなのがある辺りだったと記憶している
0787日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 20:56:22.31
慶尚北道. 辰韓(しんかん、紀元前2世紀 - 356年)は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、後の新羅と重なる場所にあった地域。
四世紀中頃は一般的には神功皇后の時代

それより前の先祖であれば新羅からという話はあり得ない
0788日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:55:06.04
>倭国王帥升=扶余王始將、これ同じ人物だろ。
>最近、満州農安市、扶余族の遺跡から卜骨の鹿骨や壷頸に輪のある須玖式土器などが出土してる

《後漢書 倭傳》
安帝の. 永初元年(一〇七)倭国王帥升等が生口百六十人を献じる。
《後漢書 夫餘傳》
安帝永初五年(111年)扶余王始將は歩騎七八千人で楽浪郡を略取した。

永康元年(167年),扶余王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:59:49.31
>この登高神は仏具の登高座、寝床や床の間、台地、一段高い所の意味で、
>天之常立神(あめのとこたちのかみ)や国之常立神と同じ登高神(とこしん)のこと。
>同じ(とこ)と発音する神がいるのも引っ掛かるな。

『周書』巻49高句麗伝
『又有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人之象;一曰登高神、云是其始祖夫餘神之子。
また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。
一つには常高神(とこしん)といい、始祖夫餘神の子だと伝える。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:01:55.08
>倭人伝には、邪馬台國 女王之所都 水行十日陸行一月
>官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳是 可七万餘戸とあり

>彌馬升、彌馬獲支など彌馬(みま)と付く名前は崇神の家族だけ。

崇神天皇=扶余王・依羅か??
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
皇后 御間城姫
0791日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:03:37.36
第8代孝元天皇の第1皇子で第11代垂仁天皇の外祖父である大彦命(おおびこのみこと)
『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。
また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比古」に比定する説がある。

で、大彦命の娘が御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)
何か、ミマキイリヒコは三輪磯城王朝への入り婿の様な気がするな。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:04:48.92
だから崇神は宮中内に祀られてた天照大神と倭国魂神を追い出した
0793日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:12:01.95
「始皇帝と大兵馬俑」展  秦の工芸品に三つ巴紋が!!
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
(2写真目と4写真目に三つ巴紋が描かれている陶胎漆器)
https://new.qq.com/omn/20210418/20210418A00MJN00.html

「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している(『新撰姓氏録』)
豊前・京都郡周辺にいたと考えられる「秦氏」、その周辺は『隋書』にいう「秦王国」であろう。

多くの「秦姓の人物」が住んでいたことが奈良時代の木簡、戸籍に残っている。
「竹斯(筑紫)国の東にある」という位置もぴったりだ。
隋の使節団は「そこの人々は華夏(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:15:01.87
春秋戦国、秦漢時代のの秦漢漆器の色調は主に赤と黒で、
「絵の内側を朱塗り、外側を墨で染める」、つまり器の内側を朱塗りするのが特徴です。

(2写真目と4写真目に三つ巴紋が描かれている陶胎漆器)
https://new.qq.com/omn/20210418/20210418A00MJN00.html

>中国東北辺りの多紐粗文鏡とアイヌ紋様に似てるな。
>土器に漆を塗り紋様を描くのは東北縄文土器などでも同じ手法で作られてる。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:39:41.98
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
筑紫の東には秦王国(宇佐周辺か?)が有ったと云う。
そして、三つ巴紋と云えば応神天皇を祀る八幡宮の神紋である。


黄金の宝剣
新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジアで作られたと考えられている。
カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されており、
新羅が秦王朝、中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/28/e16b9f4b78cca302a1d329ffac8b8468.jpg
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末~6世紀初) 
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html
0797日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 10:55:55.72
【結論が出ました】畿内説は100%勘違いの空想作文でした
魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0798日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:09:58.76
>>782
卑弥呼の王宮には奴婢千人な訳で
殉葬百余人と言うのが、大袈裟だとは思わない。

むしろ男王が立った時点で反乱を起こすのが当たり前で
子の奴婢千人が、戦死してもおかしくはない。

247年の魏使張政は、卑弥呼国への檄を確認に来たわけで
卑弥呼が、既に死んでいた場合、墓を見たいというのは当然かと?

数か月以内で作った塚であって、墳丘墓そのものでなくても
100人の殉葬が有れば、相当な墓域になったはず。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:29:30.89
>>798
殉葬100人の墓域だから径100歩と表現してるわけよ
里すら知らない倭人は歩なんで単位も知らないはずだから
朝貢の際には殉葬100人としか報告していないはず
0800日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:59:37.65
>>788
面白い視点だけど、
その扶余王は、そのまま遼東楽浪太守?なのでは?
7~8千の兵を率いた倭人ってのは無理かと?

遼東、半島北部史は、周で箕氏が冊封、燕が起こって
漢でBC200~110衛満、四郡不明、111から扶余王冊封、後漢170?で公孫氏、
238年魏が奪還。 313年高句麗。 ここまでが倭人不干渉の半島北部史。

で、日本への青銅器輸入は、衛満に押された、
箕氏が半島南部に入った馬韓時から始まっている。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:08:14.17
扶余はプヨと読む
プヨはツングースク語で鹿を意味する
鹿を連れて南下してきた北方民族を扶余族と呼んだ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:12:26.97
>>801
鹿は狩猟動物で飼わないんじゃね?
牛、馬、豚、羊、犬、鶏は、家畜で移動型民族にも?
でも、豚は移動が難しいかもね。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:23:38.93
>>802
トナカイの代わりだとか聞いたな
0804日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:29:51.09
>>803
って ことは、
サンタさんは、日本にも来れる!
だよねwww

ありがと。 GJ
0805日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:51:45.42
>>800  燕はBC222年、秦に滅ぼされてるのでBC3世紀頃の様子を記録したものと思われる

「蓋国在鉅燕南倭北倭屬燕」
「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」

蓋国(蓋馬大山がある今の北朝鮮あたり)は鉅燕(春秋戦国の燕)の南、
倭(今の韓国地域)の北に在り。倭は燕に属す。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:55:15.50
山海経、海内北経 「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」

山海経、大荒北経 「胡あり、不與(フヨ)の国、烈姓、黍を食べる。」

不與(フヨ)は遊牧民ではなく、農耕民の胡(中央アジア系)というのは扶余で、時代は武帝以降。
扶余伝に扶余王がむかし「シ歳カイ王之印」を授けられていたという。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:03:25.16
魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行ったところ、
数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。

汗人(倭人)が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国(倭国)を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。
今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人(倭人)数百戸がある。」という記述がありますが、

より時代の古い「後漢書」では「汗人が倭人」に置き換えられている。

後漢の「水径」をネタ本に注釈した北魏、麗道元の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に髙平川水というのがあり、

「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」
0808日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:12:38.58
倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には「倭山」という地名が現れます。
どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。

呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡。
勾踐は北上し、山東半島の琅邪に都を置いたと言いうから、海に逃げ遼東へだろう。

>後漢末期の曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。

白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、
曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。

白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。
曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、
この戦いで烏丸勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。

京都の烏丸通り(からすま)には烏丸川が流れてたらしいから気になるな。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:45:34.71
つまり、遼河の西方に魚を捕るのが上手い倭人の国があった。

それを聞いた鮮卑王、檀石槐が東の倭国を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助としたと云う話。


この鮮卑族はのち4世紀ころ北魏を創ったんだけど、
その貴族の衣服が烏帽子を被った平安貴族にそっくりで
飛鳥時代の仏像が北魏様式で頭の螺髪には三つ巴の紋が掘られた仏が見られる。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:30:42.17
ここに面白い話がある。「阿比留草文字(肥人書)」
古代の肥後国球磨郡(球磨川流域)に住んでいた人(肥人: くまびと、こまひと)
が 使っていた文字とされることから肥人書(くまびとのて)と云うものがある。

対馬国の卜部氏・阿比留氏に伝わったといわれる文字「阿比留文字」と共に
「阿比留草文字(肥人書)」は阿比留家の文書に対馬文字と共に書かれている。

どうして肥人を(くまびと、こまひと)と言うのか、万葉集などでも(こまひと)と訓じてる、
古代では肥人を くま、こま、と呼んでたんだろう
魏志や晋書韓伝には「乾馬国」「固麻国」などコマと呼ぶ国名が書かれてる。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:41:17.12
中国人は高麗コリョ、コレ、と発音しただろうし、
日本人などは、高句麗を高麗コマ、狛、巨摩、熊津クマナリ、駒と呼ぶ。

「隈クマ」とは河川など曲がった箇所をいい、長野県の千曲川などがいい例。
動物の熊とは関係ない。
九州北部には月隈、日の隈、大隈、など隈がつく地名が多い、

韓伝の「乾馬国」「固麻国」などコマと呼ぶ国には肥人たちが多く住んでたんだろう。
だとしたら、高句麗を倭人たちは狛コマと呼ぶのは
肥人クマ、コマ族が、かなり加わってたんだろうと想像がつく。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:49:00.80
>>757

ヒボコの記事は卑弥呼から120年も後。
4世紀は、半島からの流入が多かった時代。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:55:50.08
>>812
四世紀は子孫であるタジマノモリよりも後の時代。
神功皇后だってタジマノモリの子孫ですよ
0814日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:57:40.90
>>798
戦死と殉葬は違うのでは?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:46:57.54
>>788
この辺は眉唾ですが、真正武内文書では第三代の磯城津彦の代でスイショウと言ってますね。

磯城津彦のシですが万葉仮名で師と書いたという話です。
この辺は武内文書の独自性が強い部分ですけど。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:49:08.14
>>790
確か持統までの諡号は淡海が付けているらしいので、この辺が昔から我が国が朝鮮半島に正当な権益を持っていると後付けで主張しているところかもしれません
0817日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:56:23.90
>>791
〉大彦命の娘が御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)
何か、ミマキイリヒコは三輪磯城王朝への入り婿の様な気がするな

万世一系では全く違う家系を一つにまとめて居ますので、景初の戦いの近辺で血筋をでっち上げる必要性が出てきます。

イニエは実際には九州からは出ずに亡くなり、卑弥呼(宇佐津姫)と、先妻の息子であるイクメが遺志を継いでヤマト東征を実行したそうです。
つまりその前の代からヤマトに居たと書く必要があります。
二度あった物部による東征は一度にされました。。故にハツクニシラスが二人出てきます
0818日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:13:30.64
>>810
出雲伝承ですと中臣家は卜部氏の分家と出て居ますが、なんと吉備卜部の人からすると卜部氏の方が分家なのだそうです。

そして対馬には中臣家の雷大臣が出てきます。
アヒル系は中津臣系と言っても良いと考えられますが、高句麗系ではなく秦国(大陸の史書では斯で始まります)系です。
この辺の変遷や工作が記紀により操作された部分になるのかもしれませんね。

そしてシカの神事はそれこそフトマニなわけで、滋賀や志賀、四賀地籍は中臣系としか思えません。

どういう訳か志賀島に安曇が居ただけでそっちと結びつける向きが多いですが、それなら安曇地籍になるはずです。

那珂郡とシガは一体と思われ、それは対馬に勢力を持って居たとしか考えられません
0819日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:18:38.99
>>800
大陸の史書を間に受けて読むと、卑弥呼が中国人になるから面白いですよね。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:11:54.27
>>811
〉「隈クマ」とは河川など曲がった箇所をいい、長野県の千曲川などがいい例。

チクマ川は製鉄と関係するという説もあります。

筑紫の字が入って筑摩郡。
それらしい人に言わせるとちくま、つかまは製鉄用語らしいです。
千曲川と合わさる犀川のサイもサイノカミや製鉄に関係するらしい。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 14:08:41.92
鉄の精錬時に出てくる屑を鉄滓と呼びますね。
酸化鉄や亜鉛などの別の金属を含んでいます。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/25(日) 21:32:53.42
>>819
何で、実史である三国志での
日本、筑紫の共立王、卑弥呼が中国人?

どゆこと? どの文献真に受けるん、ですか?
0823日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 10:51:39.89
>>822
本日帰ったら纏めてみますね
0824日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 10:54:29.38
>>810
対馬ルートは中臣家と出雲が使って居た形跡がありまして、スサノオと事代主が一緒に朝鮮に行ったと言うような話がローカルに伝わって居ます

そして、カモ系の神社である霹靂神社も対馬にあります
0825日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 17:37:12.26
>>772
>根拠なしって吠えてるだけの役立たずだろ
根拠がないことを根拠が無いと指摘するのは当たり前のことだが?

>普通に論文になってる程度の話を知らないお子様はお呼びではない
その論文とやらを出してみろと言われているのが分からないから君はいつまで経っても負け犬なんだよ伊都チョン連呼くんw
そもそも論文なんてものは一説に過ぎないわけだがそれすら出せないんじゃただの妄想だわな
0826日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 17:38:07.65
>>773
おやおや一言も反論出来ずに中傷するだけとは情けないw
要するに君の書き込みには何も根拠がないと君自身認めたわけだな
また君の負けだよ伊都チョン連呼くん
0827日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 17:43:54.31
>>774
>他の人にも狂人扱いされてるのにストーキングするのは俺に対してだけか?お笑いだなww
いやそんなこと言ってるのは君一人だがw
他の人は俺の説の正しさを理解しているから君のように無意味に噛みついてきたりしないからな
疑問点がある人は普通に聞いてくるし俺も普通に答えてる

>今そんな話誰もしてねぇだろ。少しは空気読めや
意味不明だな
立論に根拠が必要なのは当然だ
特に学問板ならなおのこと
それが出来ていない君こそ空気を読みなさい
0828日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 17:51:33.00
>>775
結局何一つ根拠はありませんと
やっぱり君は永遠の負け犬だな伊都チョン連呼くんw

で、君は>>418で磯良がウズメの兄だと書いたが、それって自爆だって気付いているか?w
アマテラスを岩戸から誘い出したウズメと、神功皇后に玉を授けた磯良が兄妹ならば
神代のはずのアマテラスと人代の神功皇后が同時代の人物ってことになるわけだがよww
それって俺が唱えている
「神代は実在せず、人代の出来事を神話調にして同じ時代の出来事を複数回ループさせて書いてるだけ」
という主張に完全一致するわけだがw
つまり>>17が正しいことを君も認めたわけだw自爆おつw
0829日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 18:03:00.26
>>776
>他の人はヒボコは垂仁以降としてるから、お前のイソタケルやスサノオとの同一論はお前しか言ってない
大和朝廷成立後に来たのならば尚の事、軍も率いずに来た半島の王族なんぞが日本で力を持ってどこかの勢力と争うなんて不可能なわけだがw
ましてお前はヒボコは家督争いを避けるために追い出されたと言ったよな
ということは実家の七光りさえ期待できないわけでそれが日本でヒボコ族なんて一大勢力を築くのは全く不可能
君の妄説は君自身が主張した設定だけでもう破綻しているw

>そろそろお前の手作りのあのくだらない同一論の画像貼り付けたらどうだ?
>>8にあると>>144で教えてやったがもう忘れたのかね
それとも>>17の図の方か?
いずれにせよテンプレに入っているわけだが

やっぱり伊都チョン連呼くんは若年性痴呆症が進行しているな
0830日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 18:05:42.70
>>777
必死に媚びたのに相手にされず残念だったな伊都チョン連呼くんw

俺の説は正しいから反論が無いんだよ
現に君の妄想は俺以外からも反論が多数出ている
内容に根拠が無い謬説だからそうなるんだよ
0832日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/26(月) 18:39:57.11
さて、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言われるようにどんな愚か者もたまにはいいことを言うことがあるw
伊都チョン連呼くんの>>418での
>磯良舞のまたの名は細男舞
>ウズメ(細女)に対する兄の細男が磯良
が俺の説を裏付けていることは>>828の通りだが、他にも気をつけるべき点がある
細女=ウズメならば細男の読みは本来ホソオノコではなくウズオとなることだ
これを当時のヒメ・ヒコ制に当てはめるなら細男とは即ち宇豆毘古であるということになる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E5%BD%A6
> 海部氏系図二巻のうち『勘注系図』の註文には「彦火明命―建位起命―宇豆彦命(うずひこ)」とも「彦火明命―彦火火出見命―建位起命―倭宿祢」ともある。

宇豆毘古は神武東征の功労者として倭宿禰の称号を得ているから
いずれの系図でも建位起(タケイタテ)の息子と書かれていることになる
タケイタテは当然射楯大神こと五十猛命だな

それは>>14の対馬伝承で
「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本(ヤマト)大臣の命と云ふ。」
とあることにも繋がっている
雷大臣の息子である日本(ヤマト)大臣=倭宿禰というわけだ

雷大臣が半島に行ったとき、すでに息子がイソタケル(磯武良)の名跡を継いでいたようだからもう成人していたのだろう、
実際は建位起(タケイタテ)=射楯大神=安曇磯武良と宇豆毘古=倭宿禰=日本(ヤマト)大臣は親子ではなく
親子ほど年の離れた異母兄弟であったということになるな

彼はまた、私のアシストをしてしまいましたとさw
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 00:06:15.89
東日本では“まれ”な系統の土器が大量発見 時期は弥生時代前期 長野市の塩崎遺跡群
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023010500205

北部九州発祥の遠賀川式土器が大量に出たらしい
長野は古くから糸魚川の翡翠を求めた海人族が姫川を遡って来ていたから
海無し県にもかかわらず鉄原料が輸入のみだった弥生時代の遺跡からも鉄器が出土している
奈良よりもずっと多い
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/09(月) 22:45:29.90
姫川の翡翠は、山奥の信州迄登らない。
姫川は日本海ルートの九州安曇族が糸魚川から登っただけ。
道はない。

安曇族は、白村江で九州に帰ったら、
もっといい土地に変転できて、もう帰って来なかった。
以降の安曇野は仁科領だ。

多分、400年以降で、いまだに縄文のw 
諏訪には、甲斐の御牧から牧童の高句麗人と古墳人が入ったが、
高冷地過ぎて、米はできなかった。

縄文の里、諏訪に弥生と飛鳥平安の区別は無い。
現実問題として、地縁山神の伊勢神道無縁の祭りは継続してるし
信州高所では今でも竪穴住居の
縄文人が、松本パルコにも闊歩しているwww
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/14(土) 17:53:58.49
>>833
しかし奈良県の13は何回見ても笑える
これが30国近い連合の首都に見えるバカはどんだけ
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/25(水) 18:52:38.54
九州説は弱い
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/25(水) 19:32:24.98
筑前国と筑後国を合わせた旧筑紫国で25郡。
肥前国と肥後国を合わせた旧肥国も25郡。

これは、奈良時代から平安時代の資料なので
それより昔は、30国(旧郡)あったのかもしれない。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/26(木) 22:06:44.01
>>835
都だが首都ではない。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/28(土) 17:35:09.74
>>836
もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/29(日) 13:54:27.70
◆伊都国の官 人物比定

爾支  にし   ニギハヤヒ
※卑弥呼もこの辺の時代の人物と言える

泄謨觚 えいぼ 丁卯(ていぼう・火の弟) 山幸彦
※洩らす謨=謀ハカリゴト→塩満珠と塩乾珠を使う

柄渠觚 へいきょ 丙午(へいご・火の兄) 海幸彦
※呉音で渠=ご。横柄な渠帥(イサオ)→隼人

干支から人物を特定比定
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/29(日) 13:58:00.01
◆邪馬台国の官 人物比定

・伊支馬 いきま 垂仁天皇
※伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』
(邪馬台国はなかった、卑弥呼時代に。この説を推す官名)

・彌馬升 みます 彦坐王(ひこ【います】)
※太平御覧魏志では、彌馬叔
(叔=父母の年下の兄弟。兄弟の順の三番目)
(彦坐王は開化天皇の第三皇子)
※垂仁天皇の最初の皇后・狭穂姫命の父は彦坐王
(次の皇后・日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主命の子女)
※相当、垂仁朝に入り込んでる系譜

・彌馬獲支 みまくゎくき 武渟川別(たけ【ぬなかわわけ】)
※彦坐王レベルの系譜と言えば大彦命の系譜で、その子
(最初は、垂仁朝ツヌガアラシトの逸話から
彌摩(任那) + 干岐(ツヌガアラシトの別名) = みまかんき
任那の名を獲て枝分かれ→彌馬獲支
と思ったが、こっちも王子だしありそうw)
※武(尊称・四道将軍で言う東海担当)渟川(沼河)別(枝分かれ)

・奴佳鞮 ぬぉかてい 神聞勝(かみききかつ)
           久志宇賀主(くしうかぬし)
           国摩大鹿島(くになずのおおかしま)
※垂仁朝の中臣連祖
(この3人は同一人物や別人説などだから、深掘りせず引っくるめた)
※奴(男の)佳(素晴らしい)鞮(通訳者)
(通訳者は、海人族的な言葉のやり取りと思ってたが
神の言葉を伝える意味合いがある面々)
(鞮は他、革靴の意味。「東鯷人とうていじん」の「鯷(おおなまず)」字に酷似)
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/29(日) 13:59:35.66
◆狗奴国 人物比定

・卑彌弓呼 彦火火出見こと山幸彦
      さらに神武天皇と同一人物?

・狗(拘)古(右)智卑狗 槁根津日子こと、珍彦(うづひこ)
※神武東征において登場する、のちの倭国造の祖
(まさに神武天皇の知恵袋)

狗奴国は、天津サイドに相対する国津サイドの国(素より不和)

◇山幸彦東征
日向から海沿いに北上してきた山幸彦は筑紫で相攻撃状!
天津サイド(伊都国含む女王連合)は交戦状態を魏に報告する

すると、じつは山幸彦もまた天津サイドだと分かり
(ニニギに国津の子だと言われてたのが原因)
(また山幸彦が上陸した北部九州の宗像以東(うけいの境界から)は
国津サイドの地ゆえに起こった、すれ違い)

伊都国の官・爾支ニギハヤヒと合流一緒となり
山幸彦はそのあと東征することに
(神武東征時のイワレヒコとニギハヤヒのくだりの元の話となった?)
(山幸彦は伊都国の副官・泄謨觚に。柄渠觚は海幸彦となる)

話の流れは、こんな感じw

これにて狗奴国の方角は南でも東でもどっちでもいい
となります、俺は
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/29(日) 16:02:44.82
>>844

そもそも筑紫の日向は福岡県北西部。
彦火火出見は伊都の鎮守、高祖宮の祭神。
彦火火出見こと山幸彦に対して、海幸彦は日向国の隼人の祖とされている。
神武はそもそも伊都から出発した。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/30(月) 16:12:20.73
>>845
基本的に筑紫と日向はハイブリッドされた
それが俺の思う九州神話

オウスが熊襲征伐してヤマトタケルに変わって相手の名を名乗る(もらう)
同じような歴史が度々あるのではないかと

朝倉と大和の地名が酷似もそう

↓日本と言う国名もそう

180 日本@名無史さん sage 2023/01/28(土) 13:48:47.66
日本(ひのもと)は
元々、毛人が住んでる東日本のことを
ヤマト王権側が呼んでた地名 ←ここ重要

それを自分の国名にしちゃいましたw

ハクソンコウで大敗して
当時の中華が怖くて「俺じゃないよ、僕たち日本国だよ」ってw
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/30(月) 22:11:11.06
ここの奴らはスレタイも読めない低能か
魏志倭人伝に日本神話など一言も載ってねえ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/01(水) 16:29:32.23
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、後にそれが纏向遺跡として発見された。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/07(火) 11:54:20.82
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

ここまでが、247年
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、伊都迄来た、張政の報告からの引用。

・倭人船の寄港地名を聞き漢字にして、その里程を記録した。
・帳政は、到と至をかき分けている。 
・到 伊都國(常駐)で黄幢 拝假 難升米、檄告諭と 政等 以 檄告喩 壹與の要件は済んだ。
 12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐 が、これの言い訳、証明。
・各集落の人口に関しては、有○○戸を使用した。

・梯儁の報告の引用である、次段によって、女王迄は萬二千里だが
 張政の行程は、積算、萬五百里~萬七百里である。 
 残りの最大千五百里が、水行二十日と水行十日 陸行一月の計、という直列は在り得ない。
・謎の一月行については、陳寿の補足文での計算によって、二千里であることが判る。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/07(火) 12:17:53.55
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

これが240年
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
の梯儁による、女王国の詳細、国勢(所属国)と地理に関する報告の引用である。
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
は、陳寿による補足説明である。

・梯儁は魏軍船による行軍で金印他皇帝からの并齎詔賜を届けたのであって
 寄港地は特になく、盗賊や戦闘を避けるため幕営による進軍だったと思われる。
・投馬國、邪馬壹國、狗奴國八名ではなく、馬韓54国10万戸と同様の概念の国である。
・人口に関しては可○○戸を使用し、寄港地は名称不明なので里程は無く
 馬韓4千里、弁辰韓3千里、渡海3千里は、各国の通過に要した日数の概略である。
・水行1万里で九洲島上陸だが、残りの陸行1月は、2千里であることは明瞭。
・女王国の所属国は次有21国で7万戸であり、 20  此 女王 境界 所盡
 次有21回連呼で示した、此れが、女王国の境界 所盡である。 
・盡と言う文字は、境界線ではなく全てを書き尽くしたという意味が有る。
後述、
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
によって、女王国は九州島の南北2千里にある21国で周旋可 五千餘里しかない小国だった。
これが、240年、初めて韓西岸から対馬海峡を渡った魏使梯儁の報告である。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 18:14:31.30
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

伊都国までの里程は、247年張政の行程で1万5百里。
奴国、不彌國が行程中に有るなら、残りは1300里しかない。

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

が、この10700里と、直列する行程であるならば、
この30日と一月行の合計が、1300里という事になる。

伊都までで常駐した張政は、この1300~1500里を見ていない。

56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

この、九州島筑紫地域の21国が周旋可 五千餘里であることは
南端にあった、

20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王

を見た、里程の概算を理解できる240年の梯儁しか、居ない。
九州島の上、北部2千里程度にあった21国が女王国である。

陳寿と建中校尉梯儁は、一月行が2千里であることを知っている。
だから、陳寿は梯儁の記録の一月行と言う単位の引用を採用した。

九州上陸迄が1万里。 女王迄が徒歩2千里。
だから、自郡 至 女王國 が、萬二千餘里、になる。

小学生でもわかる算数の文章問題だ論争なのか?
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 18:27:12.31
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

には、当然、対馬、壱岐、狗邪韓國は含まれない。
又、以南の
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王

が、どれだけ大きいのか? も、知らないので
九州島北部の一月行=2千里以南も含まれない。

とうぜん、
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
に国と言える集落が有るのか? も知らない。

55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里
  又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至

倭人国は、太平洋上で果てしなく広いのだが、
魏時の 参問 倭地の卑弥呼は
周旋可 五千餘里の小国の女王だった。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:09:11.03
行程で九州なのはあたりまえだが?
文献敵に、どっから出て来れる、情報か? って話、

帳政
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

梯儁または漢書
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛

陳寿、梯儁
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

倭国は太平洋を塞ぐ大きな国だが
前々統一なんかない、三国志
戦国王の対話範疇にはならん。

って、事だろ?
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:39:02.60
「持衰」て当時の倭人が「ジサイ」と発音したものを(意味は関係なく)魏人が近い音の漢字を「邪馬台国」とか「卑弥呼」とかと同じように適当に当てはめたものでしょうか?

それとも魏人側が倭人の説明を受けて音とは関係なく当時の中国語に意訳して「持衰」としたのでしょうか?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 21:50:57.75
>>856
持 もつ。身につける
衰 簑。みの(草・わらなどを編んで作った雨具)

簑を身につけていた
そういう格好をしてたって、わかるね
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/27(月) 23:51:39.78
>>856
現地人が漢字を使用していない限りは音写だろうね
現地でどう呼ばれているかをまず当て字で示して、その後にそれがどういうものかの解説文が書かれていると考えるのが自然

その延長で考えると伊都国だけ好字が使われているのは一大率は読み書きが出来たからだろう
卑弥呼宛の書状のチェックをやってると魏志に書いてあるから文字は当然読めたはずだし
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 20:25:20.49
>>856
37 其 行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為 持衰 若 行者 吉善 共顧 其生口 財物 若 有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其 持衰 不謹

持衰が、表意文字の名詞であるなら、
名 之 為 持衰、で、為 という動詞の主語は、陳寿もしくは
漢代の引用文献時の報告書の執筆者。

風俗や有無の記録は、
23 男子 無大小 皆 黥面 から
47 使 大倭 監之
までだが、

これは、魏使の情報収集可能性からも
魏使の報告ではなく、

漢時57年、107年他の記録が
史書に限らなくても
陳寿が読める報告書が他にもあった。
という事だと、考えられる。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:44:04.87
史書解読を拒む考古学会は日本の学問の恥晒し
<総合的に見て、畿内は東の倭種の国である>

魏志倭人伝の里数表記の行程は中国側の記録のコピペであり、日数表記の行程は朝貢に来た倭人による説明である。
倭の北岸である半島南部が投馬国、対馬海峡を渡り倭の南岸が北部九州=邪馬臺国なのです。

邪馬台国行程図:https://i.imgur.com/AjvTnCM.png
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里・・・」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
https://i.imgur.com/Xb0IWL8.png

■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島

■見解
女王国視点で紹介される倭の国々の方角は「北・東・南」のみということから、
そこは西の端すなわち九州島に位置していることが伺える

■日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:19:50.89
>>860
>■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里

つまり、
帯方郡から九州上陸が10000里
女王国までは、九州上陸から2000里

九州上陸から伊都までは500里。
残りは1500里で女王国。

伊都または、奴国、不彌國から直列なら
水行十日で投馬国、邪馬台国には水行十日、陸行1月。
しかし、これの里程に実際は、最大1500里である。

上陸から伊都迄の500里は、倭人が案内した帳政の行程だが?
もっと近い港も有るがw 一日で歩けたのではないかと思うが?

残りの1500里も、
帳政が伊都に常駐しなかったとしても
3日~5日で歩けそうに思うのだがw
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/07(火) 21:58:34.83
①伊都国から邪馬台国まで陸行で一月かかりますかね?

②また不弥国までは陸行も渡海も里数で表記しているのに
伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国は日数での記述になっているのは何でですかね?
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:13:13.93
>>862
だから、行程は伊都以降の直列は在り得ないという事です。

里程日程が違う。 戸数が有と戸。 至と到が使い分けられている。

次有21国列記は、邪馬台国7万戸を紹介した、240年金印配達軍の
梯儁による参問の、女王国所属国全ての詳細名でなければおかしい。

行程中の国名の聞き取り、というのは
距離の里程が示されないパターンでは有り得ない。

投馬国以降は、女王国=邪馬台国とは何か?
の、240年梯儁の記録からの引用である。

自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
自郡 至 女王國 萬二千餘里

は、陳寿の補足。 つまり、陳寿と梯儁は、
一月行が2千里であるという辺境の地図を共有していた。

月行座標の地図の存在は、文献的には
漢書地理志~隋唐書まで、伝承していたようだ。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 03:54:20.55
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 05:32:18.55
猿でもわかることは、それだとゆうに畿内を通り越す日数だと言うことだ

>>864
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:14:34.96
>>864
魏帝の使者の行程の話なんだが? 

糸島から宇美が徒歩? アホですか? で、
どうして、そこから10日や20日の長旅の船に乗れんだよ?

フェリー乗り替えるのかw 
そんなんで皇帝の金印は卑弥呼に届かない。

サルでもわかる? 
やり直し。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 20:18:35.17
あ、そっか?

呼子から唐津? 
糸島でも博多でも良いけど

が、徒歩とかw
そんな船も絶対無いからねw

九州で、徒歩が有って、そのあと
日本海ルート、大阪湾なんて絶対無いでしょ?


魏の船なら伊都から末盧國の藪道復路500里歩かないとだよ?
そんな馬鹿、居ないだろwww
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/15(水) 13:30:47.83
なぜ魏人達は松浦で船を降りたのか
そこから陸を見ながら糸島まで船で移動すればいいのにね
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/15(水) 15:51:52.75
松浦ではないとは思う。
しかしかなり辺鄙なところに上陸したことは確かで、それは謎の一つ。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/15(水) 20:30:38.59
>>870
2~3世紀の海岸線がわからないと、謎に思うのかもしれない。
大勢の使節団が乗った船は、どれほどの大型船だったのか?
船が大きいと、接岸できる港が有ったのかどうか?
大型船が港に入れないなら、多少の岸壁でも
たまたま大型船が近づける海岸が遠くにしか無かったのかもしれない。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/16(木) 16:39:55.99
>>872
240年の建中校尉梯儁は、金印やお宝もって
魏の軍船率いて、皇帝の親書も卑弥呼に直接
届けなきゃならない使命な訳で伊都にも寄らされてない。
馬韓じゃ盗賊居たり、戦争になる可能性だってあったはず。

壱岐で皇帝の使で卑弥呼に会いに来た、と言えば
博多湾に入れば良い、と教わったはずw

末盧國で降りて、伊都迄の500里を歩かされ駐留したのは
247年の倭人船に便乗して来た張政なわけだけど、

対馬海峡渡れる倭人船の船長みたいなもんは、
博多湾から平戸、五島、有明海みたいな航路は
海岸見える訳で勝手知ったる庭のようなもんじゃないのかね?
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/16(木) 22:53:09.11
◆倭の使者 人物比定

・載斯烏越 さいしうえつ 斎主神・経津主神(【さいしゅ】【ふつ】ぬし)
            さらに建御雷神と同神?

※天鳥船神(アメノトリフネ。熊野諸手船)に乗って(載って)
経津主神と建御雷神で葦原中国を平定させることになる(国譲り神話)
(神武東征時には熊野で助ける建御雷神)
※やはり狗奴国は国津との戦いが濃厚か

・伊聲耆 いせき 大吉備津彦命こと
        彦五十狭芹彦命(ひこ【いさ】せりひこのみこと)

※伊聲+耆 = 五十狭+老人 =いさき
※温羅伝説では、討たれても温羅は、うなり声(聲)をあげ続けた
(最初は、哭き聲(泣き声)のシタテルヒメと
天若日子ワカヒコ(耆→老日オイヒコ。天津反逆者で逆名前)と思ったが
いせき(いせいき)だと、しっくり来ず)
(稚武彦命こと若日子建吉備津日子命なら、
ワカヒコ、オイヒコのペア成立w)
※大吉備津彦は、倭の使者として赴くときすでに老年だった
(このことから、臺與の人物比定も見えてくる)
(邪馬台国の官「彌馬升」が「御間叔(崇神天皇の叔=彦坐王)」なので
五十狭耆(五十狭の老人)と言う呼び名も有りと考察)

>倭王復遣使 大夫 伊聲耆 掖邪拘 等八人
       ↑官 ↑名前 ↑官名 ↑名前8人略
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/16(木) 23:09:03.38
ワカヒコ、オイヒコの温羅討伐ペア成立w ね

掖邪拘は、この当時「掖奴えきやっこ」とか、そんな官名?
宮中に仕える奴(者)

いずれは、↓以下に

>倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人

すでに掖邪拘等の答えは出てます

↓参議です

はち‐ざ【八座】
《定員が8名だったところから》参議の異称。やくらのつかさ。

少なくとも、八座(やくら)の語源になったと思われる官名です
「掖」も脇と言う意味以外に、たすけるもあります

三国志全文検索すると「掖庭」「掖門」と出てきて
どちらも「宮殿の脇にある~」的な宮中における語になります

ところで「等」も官名に含まれのか?
>難升米等 ←なんの すめら
>帥升等 ← すい ますら(ますらお?)
になるとw
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/17(金) 10:42:45.15
京都から佐世保まで歩きたい人は沢山いると思うので、有益な情報を投下します。
32日で868.1km歩いた徒歩帰省にかかった費用は
宿泊費 113,134円
食料費 47,086円
装備費 5,234円
その他 4,690円
合計 170,144円

これは、新幹線を使うのに比べ、1.1倍の距離、9倍の費用、135倍の時間を要しています。

https://twitter.com/soun142857/status/1635860965945380865?s=46&t=tvzndXOI_pbXoaNrfESZRw
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/17(金) 17:12:04.45
いや、そうじゃない。

魏使は徒歩一か月じゃなくて
九州で上陸しちゃったら、

瀬戸内海ふぇーりーに乗り換えないと、
大阪湾に入れないという話なんだけど?
道無いし?

で、月行一月は、約2000里だってのは、
水行1万里の後、陸行1月=12000里、という算数であっ
陳寿と梯儁が共有可能な概念だったんだよ。

兵站の予算は多分皇帝が出してて、
クルーズ船でも国際観光ホテルでも使えるし・・・
まあ、有益な情報、ご苦労さんwww
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/17(金) 21:47:29.29
前を行く人間の背中が見えないほど草木が伸び放題だったと記されている当時の道と
平坦に整備された現代の道の区別がつかない知恵遅れが畿内信者です
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/17(金) 22:17:27.91
現代だと西表島みたいなのを想像するといいかも
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/18(土) 10:11:34.74
>>879
西表島って、そんなとこ、知ってる奴少ないだろw
屋久島の千年杉の1700年前が想像できるか?

で、魏は公孫氏征伐の時黄海渡る船で
楽浪帯方での奇襲を成功させたから
遼東に追い込んで滅ぼせたんだろ?

梯儁は、この船で日本に来てると思うけどね。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/18(土) 12:53:35.90
邪馬台国卑弥呼=倭姫命(ヤマトノヒメミコ)
伊支馬=生目(イキメ)=垂仁
彌馬升=御馬(ミマ)皇子=大若子命
彌馬獲支=乙若子命
伊聲利=伊世理(イセリ)
難升米=梨迹臣(ナシオミ)
狗古智卑狗=久々知(ククチ)彦=菊池の豪族
都市牛利=道主宇斯(ドウシュウシ)命=丹波道主命
彌彌、彌彌那利=美々津、耳川の豪族
張政=弓長氏、大筒木垂根命?
臺與=豊(トヨ)受大御神

役職名
卑狗=彦(ヒコ)
卑奴母離=(ヒナモリ)
爾支=禰宜(ネギ)

奴佳鞮=?
泄謨觚=?
柄渠觚=?
卑弥弓呼=?
掖邪拘=?
梯儁等=?
載斯烏越=?
現状こんな感じだよ。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/18(土) 12:58:43.14
結局、外交官の難升米が後の藤原氏なんで、
魏との外交の歴史を封印してしまった訳だな。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/19(日) 14:31:41.49
◆不彌国 人物比定

多模 たぼ(たも) 八意思兼神(【やご】ころおもいかねのかみ)

※まず「不彌国=ウミ国=産み国」
(不彌国の比定地「宇美」の地名由来が「産み」から)

※このことから不彌国はタカミムスビの国となる
(最初は、ウミ国=海国で、多模は玉=豊玉彦と思ったが
「多模=多くを模する」と言う字の意味が合わず。
元より、海神の国は別にあるため、これはバツ)

※八意思兼神の「八=多い」と言う意味

※「兼=かねる/あわせる/複数のものを合わせる/併せ持つ」などの意味をもつ漢字
(模=同じものをつくるための鋳型。ひな型。手本。形。ようす。 型どおりにまねる。)

※八意思兼神は、タカミムスビの子
(不彌国が、タカミムスビの国(産み国)なら、官でもおかしくない)

不彌国はウミ国=産み国=現在の宇美
官の多模はタカミムスビの子 オモイカネ

答え確定です!
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/22(水) 23:02:28.43
>>876
京都から佐世保まで約一ヶ月かかるんだね
まあどっちにしてもこれで九州説は破綻だなあ
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/22(水) 23:38:21.38
>>886
魏志倭人伝の里数行程は中国側の解釈、日数行程は朝貢に来た倭人の行程説明
と読むんだよ低能
里数行程、日数行程のいずれもが帯方郡から北部九州までの道のりです

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png
倭の位置関係:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png
里数行程は中国があらかじめ持っていた情報である
久しぶりに倭人が朝貢に来たので行程を確認した

朝貢に来た倭人は次のように説明した
郡から船で南に20日行くと投馬国(半島南部)
さらに南に10日行くと邪馬台国(北部九州)
邪馬台国上陸後は徒歩で女王の都に行けます
合計30日ほどの行程です

中国は通訳を通じて次のように記録した
南至投馬国水行二十日・・・
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月・・・

単なる中国の誤認識だったという事だ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/23(木) 11:14:53.89
何で陸行一月を「合計30日」と読んじゃうの?
あまりに恣意的で根拠なし
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/23(木) 11:29:30.20
>>888
中国人と倭人との意思疎通が完璧でない状況を想像してみろ
双方誤解混じりで対話している状況を

もしくは陳寿がその記録を元に編纂する際にそう誤解してしまったとかもな
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/23(木) 21:39:17.95
帯方郡から倭に至るには、
九州上陸迄、水行は10000里
これは、共通認識。 

長里、短里がどうたら? は,,無関係。
韓方可4千里が無効?

陳寿曰く、自郡 至 女王國 萬二千餘里
つまり、九州上陸から女王の処都まで
徒歩で、2千里だろ?

九州上陸から、2千里というのが
長里で歩けるのか?

南東徒歩5百里の伊都はどこ?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/24(金) 08:44:27.61
>>891
黙れトンデモ近畿説
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/24(金) 17:44:41.84
傍国比定 この4国は答え確定!

伊邪 いや          伊予
都支 つき→竿調(さおつき)国  讃岐
彌奴 彌(いや、イヨイヨ)、伊予分国 土佐
好古都 大宜都(おおげつ)    阿波

これにて「都=つ」と発音

阿波は「好=よい=宜」「都=都」漢字2文字一致

伊予の分国が土佐
都のあった阿波の枝分かれ(支)が讃岐となり
伊予之二名島の出来上がり

「支=き=岐」と字が変化するならば
已百支 いはくき  因幡隠岐
支惟 きい→岐美    吉備
とも考察できる

じつは一つの答えも見えてくる
そこ、まだ不確定なのでダンマリしときます
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/24(金) 17:52:57.54
幼稚園児の言い張り合いなら畿内説スレでやればいいよwww
誰も読まないうち、すぐに、1000スレ達成と思うぞ。

>>882
固有名詞には意味が有ります。 
日本に漢字は無かったので、中国人が臨機に漢字化してますが
記紀は700年まで有りませんから地名人名の関連付けは無理。

彌彌、彌彌那利=半島には彌の付く国が多い
卑狗=弁辰 狗邪国の家臣
伊支馬=壱岐国の馬
彌馬升=邪馬国の升
彌馬獲支=同、獲支
奴佳革是=奴国の佳革是
卑奴母離=奴国の家臣の母離(難升米船で張政と同乗)
狗古智卑狗=狗奴国の古智で、狗の家臣

伊聲耆掖邪狗=巳百支國王の掖邪狗
難升米=奴国王の升米=奴の升米
都市牛利=都支國王の牛利

卑弥弓呼 卑弥呼 弓=狗奴国の狗だろうね。
邪馬台国の自称国名は弥国で呼は王のことかと?

全て、官任命の前後の国名に一致します。

爾支=?泄謨觚=?柄渠觚=?
伊都の官は、国名不明の本州人だろうね。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/24(金) 17:57:30.32
のちの日本人が中華文献を参考に字を選ぶことは有り

>阿波は「好=よい=宜」「都=都」漢字2文字一致

つまり一致してもおかしくない
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/24(金) 18:30:12.32
次有列記21国が邪馬台国=女王国の所属国である。

つまり、この総数が7万戸で、
絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
という範囲で

自郡 至 女王國 萬二千餘里
に有った女王国なのである。

スケールの話で、韓方可4千里は、
半島南部全体だが

周旋可 五千餘里というのは
九州北部以下の範囲なのではないかな?
0898日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

みんな、この論文面白いよ
魏志倭人伝に登場する役職名や国名がシュスラーの後漢音で復元されてる
余傍20カ国特定するときに使うと便利だと思う!
https://utheses.univie.ac.at/detail/51934#
0899日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

上古音とか中古音じゃやっぱ魏志倭人伝の時代の発音とは乖離しちゃうわけで
後漢音(Later han Chinese)参照するのが一番だと思う
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/27(月) 20:37:44.26
>>898
自己都合でも有るけど、漢字は表意なので
音が全ての、英語には弱いかもなwww

895は、
倭人伝で自己完結してる可能性が高い
地名と人名の関係の考察なのですが?

倭人伝の基礎になる報告書を作った
渡来した梯儁または張政での
倭人の地名や名のりの漢字化と
帯方郡で名乗った奏上との違い?

当時の中国人には、日本語から変換する
漢字は表意文字ではない。

経は読むものだが?
倭人伝に音が要るかな?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/27(月) 21:08:19.38
>>899
倭人伝の音読は、御経なんで何度も毎朝ですw
で、倭人伝には、陳寿がホントのこと書いてると思いますよ。

選択肢無いのに読めてないから、
成仏できない馬鹿なんだと思うけど?
人間一辺度は死ね。
話はそれからだwww
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/28(火) 08:02:12.99
つまり畿内説は邪馬台国に成りすまそうと必死なオレオレ詐欺
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/30(木) 10:22:15.93
>>906
という妄想で現実逃避してる畿内説さんおつかれ

史書の南は東の事であるとする仮説すら明示していない畿内説さんは非学問ですから板違いですよ
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/30(木) 15:04:52.22
>>905
だいたい、その通りなのですが、
女王国=邪馬台国=240年の参問倭地=21国
国名が、投馬国24国、邪馬臺国21国、狗奴国(不可得詳)で、3国、
247年張政の 行程地名が、狗邪、對海、一支、末盧、伊都、不彌、奴(重複)の7国

【魏時の所通 30国とは】
陳寿は、今 使 譯 所通 三十國
つまり、魏時 二回の使に從って知り得た30国、と言っている。

240年梯儁が参問した女王共立所属国=邪馬台国、可7万戸 の21国名の倭音を漢字化 

斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國
呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 (奴國)

此 女王境界所盡(つまり、邪馬台国所属21国。 これが参問倭地、周旋可五千餘里)と、

240年梯儁の行程というか、地理説明が (帯方郡から) 南至 の行程で
投馬国(含む狗邪(韓)國)→邪馬臺国→其南不属女王=狗奴国 
この3国は、馬韓54国、辰韓12国同様、国の概念

247年倭人船便乗での立ち寄り地名、(張政が和名を聞き取り漢字化)
狗邪(韓)國→(對海)國→(一支)國→末盧國→伊都國/不彌國 奴國=構成国に重複
(奴国以外は女王国所属の皆自稱大夫=王、の国名ではないか、港、島名などの地名。)

で、これ全部で、陳寿が魏時の、2つの報告書を取り纏めて数えた、 
今 使 譯 所通 の、倭地に有った、合計30国です。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/31(金) 11:50:27.03
>>905
明治の九州説w 興味深い。
邪馬台国時代以降は400年位でも
甲斐信濃や武蔵上州方面に高句麗人伴った
朝廷の御牧が広がるんだけどね。

筑紫地域の邪馬台国政権は300年どころか
266年までも続いてないのでは? 13歳の娘???

卑弥呼時代に筑紫が日本で無かったという事は判るが
むしろ、南韓も含めて国境が無かったという発想が良いような?

百済新羅の成立が246年韓王朝滅亡以降で四郡撤退の313年以降であって
350年~370年。 それまで、任那国境も成立しないはず。

筑紫の君や百済王、新羅王は、熊襲程の敵対性は無いようだけど
同様な近隣国の諸侯だったのではないかな?

任那割譲や磐井の乱を経て、白村江663年に対馬国境は確定する。

韓王は箕氏の遺民で四郡は遼東移民と穢百、辰韓は中華戦国移民だろ?
縄文人と同等文明だった、松菊里みたいな石器人から継続した
半島南部人てのは、どうしちゃったんでしょう?

領民にもなれず奴隷化で滅びたのかね?
縄文系持った、倭人も消えたという事になってるけど?
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/01(土) 17:41:17.18
>>910

もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0914日本@名無史さん
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2023/04/03(月) 16:22:19.65
インチキ九州説
0915日本@名無史さん
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2023/04/03(月) 21:18:09.45
ヤマタイだけ変な名前だよな
他はだいたい2音の名前なのにヤマタイでは長すぎる
それにヤマはともかくタイってなんだよ
他に○○タイっていう地名があるならともかく
そんな地名なんてないだろ?(西日本に)
つまり変すぎる
じゃあヤマトならどうか?これも変だ。
ヤマトなら当然山の門のことだ
水の門でミナトとなって港の意味になるのと同様に
ヤマトは山の中を通る街道の出口の事だ。
なにがおかしいかというと、これは地名ではないからだ。
ミナトの使われ方からわかるように普通は○○のミナトというに使う。○○が地名だ。
けっしてミナトが地名や国名ということにはならない。
当然ヤマトについても同じだ。○○のヤマト。これが正しい使い方だ。
ではなぜ奈良をヤマトというのか。これは使い方がおかしい。
使うとしたら○○のヤマトの形だ。場所から言って、ミワのヤマトかマキムクのヤマトとなるべきだ。
これを漢字にするとしたどうなるのだろう?当然○○山門であり、○○邪馬都だ。
だから魏志倭人伝のように邪馬台だけの国名になるのはおかしい。
変すぎるのだ。
0916日本@名無史さん
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2023/04/04(火) 08:24:53.15
博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれていた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。

以外の文章を声に出して音読してほしい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。
0917日本@名無史さん
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2023/04/04(火) 09:16:05.20
妄想の九州説
0918日本@名無史さん
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2023/04/05(水) 22:15:25.81
邪届伊都傍連斯馬
「邪は、伊都に届り、傍、斯馬に連なる。」
廣志曰 國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也
「広志に曰く、倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又、南 して邪馬嘉国に至る。女王国より以北は、其の戸数道里、略ほぼ載することを得べ し。次に、斯し 馬ま 国。次に巴百支国。次に伊い 邪や 国。案ずるに、倭の西南に海行す ること一日に、伊い 邪や 分ぶ 国有り。布帛無く、革を以て衣と為す。盖し伊耶国なり。」


伊都国から又南に行くと邪馬嘉国と書いてる。
邪馬台国論争なんぞ必要ない。
「邪馬台」などと言うこじつけ国は、伊都国のすぐ近くにあったのであって、したがって北部九州のみ。
0919日本@名無史さん
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2023/04/05(水) 23:22:08.62
傍国ほぼ完全解明です!

その1 傍国の前半は国生み神話順だった!

その2 傍国の後半は畿内と九州の位置がリンクしていた!

>国生み神話順
斯馬  しま         本州
已百支 いはくき       淡路
伊邪 いや          伊予
都支 つき→竿調(さおつき)国  讃岐
彌奴 彌(いや、イヨイヨ)、伊予分国 土佐
好古都 大宜都(おおげつ)    阿波
不呼 ふこ→二子(双児)     隠岐        
姐奴 しゃぬぉ(双児のもう1人) 佐渡
對蘇 たいそ       豊後竹田 
蘇奴 そぬぉ      阿蘇高千穂
呼邑 こゆう→子湯    日向児湯 
華奴蘇奴 鹿屋と曾於     大隅
0920日本@名無史さん
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2023/04/05(水) 23:22:19.73
>以下から畿内と九州の位置リンク
鬼  き 木 コノハナ 紀伊 薩摩
為吾 いわれ いぐ(い草) 磐余 八代
鬼奴 きぬぉ 鬼=魂  熊野 球磨
邪馬 やま  大和三輪山 肥後阿蘇
躬臣 くし→櫛玉饒速日 河内 佐賀
巴利 はぢ 速吸門   播磨 肥前           
支惟 きい→岐美    吉備 衆夷 
烏奴 うぬぉ 八咫烏  山城 鳥栖  
奴  ぬぉ     近江若狭 筑前

※鬼国以降は、九州ならそのまま時計回りで北上し、最後は奴国へ
※畿内なら琵琶湖を鹿児島湾と見立てつつ(地図の方角はそのままで)
同じく畿内を時計回りに北上
そして、若狭湾が博多湾(=奴国)として終える
(西日本は大きな九州地方だった!)
※畿内と九州それぞれの国の地理的位置がリンク
(九州の有明海で浮かび上がる、神武東征時の畿内の河内湾。相互リンク!)
0921日本@名無史さん
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2023/04/06(木) 23:47:22.71
>>913-914,917

もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 08:36:33.25
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:11:16.30
周五千里の倭国=九州なのは疑いようがないけど、
関門海峡を挟んで見える下関の地が何故軽視されたのかはどうしてもわからない。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 19:26:12.76
門司は不弥国のエリア内でいいのだろうか
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/16(日) 22:18:05.48
>>922,926

もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/17(月) 18:25:48.81
>>929

もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/24(月) 18:59:59.50
邪馬台国ではなく
あくまで筑紫島であって
中臣氏藤原氏がいたところ
証拠隠滅して宇佐神宮使って正当化した

越時代から天皇支えてた蘇我氏を倒して
権力持ったのは流石だけども

現在の政権も実質麻生で九州による支配だよな
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/24(月) 20:27:34.27
麻生は皇室に嫁を出してるからな
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:10:23.87
コシはなんで越の文字を当てたの?
越はエツだろ
黒歯はコシ国のことか?
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/29(土) 14:36:31.30
こんなのがあった

海人族には様々な仮説があるが、研究は進んでいないことから明確ではなく、朝鮮南部海岸系、インド・チャイニーズ系、インドネシア系の3系統があるとする見方がある。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/29(土) 18:09:15.58
>>940

もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/30(日) 10:47:28.88
>>1
魏志倭人伝を正しく読んだらこうなった
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/30(日) 12:45:05.47
>>944

もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/30(日) 17:38:31.28
畿内説というファンタジー小説によって考古学者のレベルの低さが明らかになったわけよ
理系とか、あとゲーマーでもいい
そういう連中に一からやり直しさせればもう少しまともな説が出てきそうだが
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/30(日) 18:20:53.25
やはり学者でなくゲーマーとかのネタ頼りなのが昭和の池沼の妄想九州説
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/30(日) 18:30:28.90
>>949
スーパーコンピューターで数年かかる分子構造解析を世界のゲーマーに公開したら数日で解明できたのは事実だ
畿内説は数十年妄想を積み上げるだけの日々
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/30(日) 18:45:35.62
分子構造解析出来るぐらいだから九州説の狂った思考も慰撫可能と言う事か
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/01(月) 08:12:11.36
まあ、後漢書で倭とは半島南岸の狗邪韓国から、九州北岸の倭奴国までと明記されているからな。
卑弥呼はその倭の乱を治めるために女王に共立された。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/01(月) 08:34:24.78
九州北岸ではなく北部九州一帯だな
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/02(火) 02:16:29.37
もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/02(火) 20:18:39.57
後漢書でも正しいよ。
そして邪馬台国についての記述はこの二書に基づいている。
つまり邪馬台国は九州北部。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/04(木) 23:23:13.18
ワイは山口県~広島県に存在した2~30個程度の小国の連合国家だった説を推したい
海賊漁民系と内陸の農耕民が緩く共存共栄してたんだよね
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/05(金) 09:16:08.00
何の反論も出来ない低能畿内説の精一杯の抵抗

964:日本@名無史さん:[sage]:2023/05/05(金) 04:24:02.35
つまり九州説はウソ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/06(土) 20:57:05.24
漁労民と稲作民の共存は倭国の普遍的なスタイル。
それぞれの指導者が天津神と国津神、海幸彦と山幸彦だったりする。
その本貫地は博多湾だ。
山幸彦こと彦火火出見は伊都国の鎮守。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/07(日) 05:59:35.56
522 日本@名無史さん 2023/05/07(日) 05:48:34.43 ID:
魏『鏡は畿内にあげましょう』
九州豪族『ぼくにも鏡ください!』
魏『貴方達は一大率の支配下でしょ?楽浪土器で我慢しなさい』
tps://i.imgur.com/3g6i3dL.jpg
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 00:16:51.23
>>968
もうとっくに論破されてるぞそれ
残念だったな

70 :日本@名無史さん :2023/05/02(火) 03:51:19.57
畿内説が心の拠り所にしている紀年銘鏡も、銅の成分を測定すると異なる年号の鏡で同一ロットの銅が使われており
後の時代にまとめて作成したことが判明w

http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hpkouennshuu-arai-hi-gikyousetsu2016-1-17.pdf
> (5)複製鏡の存在(紀年鏡の場合)
> 国内出土の「魏の紀年鏡」で鉛同位体比が判明しているものが、5種9面ある。表4には相互間の鉛同位体比の類似係数の関係を示す。
> これを見ると,同笵鏡でも鉛同位体比が大きく異なり、同時に鋳造したとは考えられないものがある
> 反面、年号の異なる鏡に鉛同位体比が一致していて、同時に鋳造した可能性を示すものがある。
> すなわち、
> Aグループ(正始元年森尾鏡、景初4年辰馬鏡、青龍3年大田南鏡、青龍3年個人蔵鏡)
> Bグループ(正始元年柴崎鏡、景初3年広峯鏡)
> であり、年号鏡を後の時代に纏めて製造していたことを示唆している

http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/113hirabaru.pdf
> しかし、そうすると別の問題が生ずる。二面ある青龍三年銘方格規矩鏡は、いずれもこれらの
> 正始元年森尾鏡あるいは景初四年辰馬鏡と極めて近い類似係数を持っているのである。
> すなわち、青龍三年(二三五年)の紀年鏡は正始元年および景初四年(いずれも二四〇年)の紀年鏡と
> 一緒に作られたことになってしまう。
> このような結果も複製が行われていたことを強く示唆する。しかも、複製を行った場所は、中国ではない可能性が高い。
> 中国内での複製であるならば、年次の異なる紀年鏡を同時に製作するはずがないからである。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/11(木) 00:17:35.36
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」

中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/14(日) 09:13:19.40
魏使の上陸地を神武の岡田宮あたりとした場合、東南600里東100里で宇佐中津あたりが不弥国になる
https://i.imgur.com/V8hS1FX.jpg
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/29(月) 21:03:38.96
石棺墓が見つかったのは遺跡の中央部に位置する日吉神社跡地。
墓には4枚の石からなる全長約2.3メートルのふたがあり、
「×」や片仮名の「キ」に似た線刻が多数刻まれていた。

これは、対馬文字で「×」は(ユ)で片仮名の「キ」は(シ)で間違いない。
0978ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/05/29(月) 22:47:40.66
吉野ヶ里遺跡の発掘には多いに興味がある
彼らは太陽信仰の民であり後のヤマト王権と文化的に共通性があったと思うからだ

欧州での火山噴火による飢饉の180年代に伊都国を始めとする北九州の部族が畿内に移住した歴史が神武東征伝説になったと考えるからだ

神武の元になった族長は西暦150年から180年頃の人物だろう
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/31(水) 07:46:32.04
もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0982ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/05/31(水) 07:55:36.04
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や安倍信者や日本会議や暇アノンの教義なのか?

ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう

邪馬台国は畿内で確定している
倭の五王の時代の少し後だが中国で描かれた梁職貢図という有名な絵がある

ここに出てくる倭人の姿を見てみると面白いぞ
他の国々の施設は礼服を来て靴を履いているのにジャップは裸足で半裸で変な布をかけているだけ

昔の絵画はデフォルメが多いから書き手の主観が強く反映される
当時の中国人から見て倭人はただの野蛮人だったのだ

ネトウヨは縄文文明などと笑わせるくれるが早く目を覚ませよ
何とか文書とか神代文字とか信じてるのは驚きだよ(草
凄いのになると世界文明の中心なんだそうだ(草はえすぎ

いいかジャップはローマ人や中国人やインド人や韓国人やペルシア人と自覚するまでもない蛮族
そんな妄説を捨てて歴史を直視すれば邪馬台国は奈良県だと分かるだろう
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/31(水) 12:38:00.34
中国の歴史書がもう邪馬台国の所在地を記して、日本から物的証拠も出ている。
・後漢書
「その大倭王は邪馬台国に居する」

・隋書 倭国
「その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり」
倭国🟰邪馬臺

・旧唐書 倭国
「倭国はいにしえの倭奴国のことである。」
倭国=倭奴国

・新唐書 日本
「日本は古の倭奴国である」
日本=倭奴国

・宋史 日本国
「日本国は本倭奴国也」
日本国=本倭奴国

=を繋ぎ合わせると
【倭国🟰邪馬臺=倭奴国=本倭奴国也】
今の中国の歴史書(正史)は
【倭国は邪馬壹(邪馬台国)で昔の倭奴国ですよ】
と正式に言ってる。
金印(漢委奴国王印)は福岡県から出てる。
歴史書も物的証拠ももうあるんだよ。

これが吉野ヶ里遺跡と関係があるとは言ってない。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/31(水) 13:16:26.54
>>983
いくら妄想しても事実は変わらない
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/31(水) 23:27:47.52
>>984
もはや何一つ論理的な反論が出来なくなった畿内信者かわいそう
やっぱり九州だって内心では分かっちゃってるんだろうな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/01(木) 00:00:51.92
>>985
歴史書に記されてる事柄が妄想?
妄想な点を指摘してくれよ
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/01(木) 10:06:50.66
日々他説を呪うだけの畿内説幽霊

>988:日本@名無史さん:[sage]:2023/06/01(木) 07:19:22.65
>九州説無脳症
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/01(木) 10:10:19.69
日々他説を妬むだけのぼっち九州説

989 日本@名無史さん [sage] 2023/06/01(木) 10:06:50.66 ID:
日々他説を呪うだけの畿内説幽霊

>988:日本@名無史さん:[sage]:2023/06/01(木) 07:19:22.65
>九州説無脳症
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/01(木) 18:14:22.53
戦前の歴史の教科書が黒塗りされたように、今の歴史の教科書も書き換えられるのだろうね。
実際、もう自分が習った頃とかなり歴史の教科書は変わっているらしいし。
捻じ曲がった皇国史観のカスみたいな畿内説に未来はないよ。
魏志倭人伝を無視してヤマトと叫んでいるだけだ。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/02(金) 12:52:34.15
正しく読む為の障害は、陳寿の記録原本尊重姿勢のようだね。
今 使 譯 所通 三十國
2件の記録を引用しているが、違う国の概念が混同されてしまっている。

247年張政の記録
狗邪韓國~到 伊都國(付奴国不彌国)
倭人船寄港地等、地域間の里程が示せる。

240年梯儁の記録
投馬國 5万戸=弁辰韓24国 5万戸
邪馬台国21国7万戸=次有列記21国(此女王境界所盡)=女王国
馬韓50余国10万戸、と同様の概念での国。

240年は公孫氏追討から1年目で
魏の梯儁は韓の地も知らないので国名も仮称である。
陳寿は投馬國が弁辰韓であることを理解したはず。

倭人伝=倭人域=日本列島、半島南岸 倭国という統一国は無い。
全ての国に王が居る=倭人には中国語の王という概念が無い。
女王卑弥呼は倭人域の一地方の王である。
依山島 為國邑 旧百餘國 
の中の邪馬台国所属21国の王が共立した王。

女王之所都は郡から萬二千餘里で
絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
つまり、魏使が記した南界の女王之所都、其南 有 狗奴國
とある経路以外の復有國 皆倭種=餘旁國 遠絶 不可得詳
なのである。
1000日本@名無史さん
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2023/06/02(金) 14:19:03.09
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