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邪馬台国畿内説 Part832
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2022/12/03(土) 20:23:17.36
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1669746333/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:24:33.00
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2022/12/03(土) 20:25:05.80
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2022/12/03(土) 20:25:39.23
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2022/12/03(土) 20:26:13.07
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:26:45.91
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2022/12/03(土) 20:27:17.05
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2022/12/03(土) 20:27:49.98
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:28:30.51
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2022/12/03(土) 20:29:16.34
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:29:49.39
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2022/12/03(土) 20:30:23.00
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
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2022/12/03(土) 20:30:55.06
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:31:30.69
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:32:10.61
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:32:42.14
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:33:13.75
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
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2022/12/03(土) 20:33:45.68
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:34:16.79
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:34:48.17
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:35:20.99
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:35:53.48
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:36:22.93
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:36:52.22
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:37:26.58
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:37:59.48
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:38:32.77
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:39:11.69
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:39:43.14
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:40:16.63
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:40:50.58
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:41:22.59
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:41:52.48
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:42:30.95
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2022/12/03(土) 20:43:01.37
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:43:36.08
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:44:11.14
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2022/12/03(土) 20:44:42.55
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2022/12/03(土) 20:45:11.63
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:45:41.52
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2022/12/03(土) 20:46:17.25
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2022/12/03(土) 20:46:51.35
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:47:22.74
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:47:51.73
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 20:48:21.88
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2022/12/03(土) 20:48:52.42
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2022/12/03(土) 20:49:22.69
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2022/12/03(土) 20:49:53.68
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2022/12/03(土) 20:50:26.46
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2022/12/03(土) 20:50:57.38
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2022/12/03(土) 20:51:31.31
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2022/12/03(土) 20:52:05.14
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2022/12/03(土) 20:52:38.84
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2022/12/03(土) 20:53:13.40
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2022/12/03(土) 20:53:46.79
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2022/12/03(土) 20:54:19.99
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2022/12/03(土) 20:54:51.44
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2022/12/03(土) 20:55:21.90
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2022/12/03(土) 20:55:52.09
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2022/12/03(土) 20:56:31.22
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2022/12/03(土) 20:57:02.67
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2022/12/03(土) 20:57:31.40
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2022/12/03(土) 20:58:02.51
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2022/12/03(土) 20:58:37.30
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2022/12/03(土) 20:59:09.54
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2022/12/03(土) 21:00:01.71
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2022/12/03(土) 21:00:31.65
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2022/12/03(土) 21:01:01.90
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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垢版 |
2022/12/03(土) 21:01:33.33
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2022/12/03(土) 21:02:06.21
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2022/12/03(土) 21:02:41.04
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2022/12/03(土) 21:03:12.45
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2022/12/03(土) 21:03:41.89
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/03(土) 21:04:11.33
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/12/03(土) 21:04:42.01
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 21:16:12.53
>>997
魏の兵は、沖を航行する船団を呆然と指をくわえて眺めていたことだろう。  わははははは   @阿波
0078日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 22:03:41.90
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0080日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 22:37:50.85
>中国には2種類のジャンクがあります。中国の川船から開発された北部のジャンク[1] :20?と、西暦2世紀から東漢王朝と取引されてきたオーストロネシア語族の船の設計から開発された南部のジャンクです。[2] :12?13?それらは後の王朝に進化し続け、主に東南アジア全体の中国の貿易業者によって使用されました。その後、ジャンクは他の東アジア諸国でも使用されました。特に日本では、ジャンクは中国と商品を取引するための商船として使用されていました。
ジャンク(船)
https://wblog.wiki/ja/Junk_(ship)
0081日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/03(土) 22:59:34.48
>>79
IntCal20って何だか知らない九州説クン
w
w
w
0082日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 01:56:19.04
現代科学の進歩によって邪馬台国九州説という夢は消滅してしまった
なのに理系知識に乏しい老人世代は妄想上の擬似科学を頼りに虚しい抵抗をしてる

今もIntcal20というのは実在の科学技術なのだけれど。九州老人たちはそれを何だか知らないまま、唱えれば畿内説が崩壊してくれる呪文化のように進行していて滑稽だ
逆なのに
0083日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 01:59:06.24
誤変換
「呪文かのように信仰」な
0085日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 05:20:59.54
九州説はジャンク説
0086日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:14:56.17
纒向=邪馬台国と言うには
①纒向が卑弥呼の時代であること、
②纒向の出土品や遺構が魏志倭人伝の記述と合致すること、
の2点が必要 

古い年代が出がちな炭素年代法をもって畿内説が①を強弁しても、②がメタメタだ
大陸や九州との交流を示すものが殆ど出ない
伊都国に一大率を置いて諸国を検察させ帯方郡と密接に交流したはずの邪馬台国の遺跡に九州や大陸との交流の跡が殆どないなど考えられない

纒向を本気で邪馬台国と信じる人間など2022年の現時点ではキナイコシ以外に殆どいないのではないか
0087日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:18:27.53
ざっとリストアップされてるものだけでも前期古墳と中期古墳それぞれが全国に700以上ある。
4世紀後半のうちには古市で中期古墳の時代が始まっちゃうのだから、前期古墳の始まりが4世紀初頭なんて話には、マトモな人は取り合わない
3世紀の纒向で始まった古墳時代が、そのままヤマト政権に繋がるという歴史観が支配的になった今、邪馬台国九州説の出番は永久に去っちゃったよ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:21:01.75
>>86
言ってることがズレてる
卑弥呼が居ようが居まいがその時代に纏向が存在した事を否定出来てない
0089日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:22:56.68
巻向に卑弥呼は居ない=纏向は4世紀って事にはならないから
0090日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:27:45.93
>>86
>Aがメタメタだ
>大陸や九州との交流を示すものが殆ど出ない

そんなスローガンいくら叫んだって学問的にキッパリ否定されてますが

> 纒向を本気で邪馬台国と信じる人間など2022年の現時点ではキナイコシ以外に殆どいないのではないか

妄想乙
それ、多数説です
0092日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:39:43.14
>>91
そんな証明を学者は誰もしてないよ
もろ妄想
0093日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:41:49.69
纏向の年代に疑念があるなら同じもので比較するしかないのよ
魏志倭人伝の記述なんて関係ないから
0094日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:44:41.23
教科書にも載ってるような定説を理由も言わずに完全否定する
そんな九州説って、空飛ぶ円盤のエロヒム星人を信仰してる人並みなのね
0095日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:45:27.52
纒向学では纒向遺跡はその前の弥生時代の大和の遺跡とは連続性が感じられず外来勢力が担い手だと考えているようだ
文化的先進性・連続性などを考慮して外来勢力として九州勢力を想定するならば、魏志倭人伝の邪馬台国は、①東遷後(上記考え方を織り込んだ畿内説)か②東遷前(東遷説型九州説)か、という東遷のタイミングの議論と言う話になる
東遷説型九州説の立場として纒向学とはいずれ折り合える可能性を感じる
0096日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:47:00.35
>>91
>その主張はintcal20によって根拠の乏しい願望に過ぎないと科学的に証明されました
https://agora-web.jp/archives/220907081125.html

その素人さんのホームページにも、そんな事は書いてないけど
0097日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:54:30.12
纒向学が纒向遺跡を3世紀後半以降の築造と認めれば、理論的には私の考える東遷説型九州説と矛盾なく折り合える
0098日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:55:58.91
>>95
>@東遷後(上記考え方を織り込んだ畿内説)かA東遷前(東遷説型九州説)か、という東遷のタイミングの議論と言う話になる
東遷説型九州説の立場として纒向学とはいずれ折り合える可能性を感じる

可能性ないよ

先に纒向は九州との交流がぜんぜんないと言い張ってる九州説さんと決着つけてきてくれ
0099日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 06:58:03.22
>>97
>纒向学が纒向遺跡を3世紀後半以降の築造と認めれば、

発狂しちゃダメでしょう
0100日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:00:30.10
>>98
俺は伊勢遺跡説だが九州との関係は薄いと考えてる
0101日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:04:29.25
>>98
卑弥呼死後の内乱期などに周囲と対立して東遷した勢力だとすれば、纒向勢力と九州との交流が少ないことは説明がつく
むしろ東遷後は、記紀からも示唆されるように大和の在来勢力との婚姻関係を含めた融和に注力して吉備から東、尾張伊勢あたりまでの勢力との関係構築を進めたのだろう
0102日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:05:15.68
銅の入手ルート
中国→対馬→出雲→近畿
邪馬台国の行程
帯方郡→水行20日で投馬国(対馬)→水行10日で伊都国(出雲)→陸行一月で伊勢遺跡
0103日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:09:24.96
>>101
>卑弥呼死後の内乱期などに周囲と対立して東遷した勢力だとすれば、纒向勢力と九州との交流が少ないことは説明がつく

どうしたら証拠のない説を主張できるかってこと考えるのって、不毛だと思わないの?
0104日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:14:13.35
記紀に神武天皇が九州から来て大和を征服したと書いてある理由は、本当にそのような伝承が皇室にあったからだとしか合理的には考えられない
また弥生時代に北部九州から圧倒的に出土品した鉄、銅鏡、絹などが古墳時代以降は畿内から多く出土し、また畿内の銅鐸文化が突然終了したことなども、九州勢力の東遷を示唆する
0105日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:17:06.30
大型銅鐸は紀元前から作られてたからその当時銅の入手ルートは確立してた
0106日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:18:17.32
3世紀前半の邪馬台国(連合)には絹や鉄鏃があった
この邪馬台国は東遷前か東遷後かと考えれば、3世紀前半の出土品から見て畿内より北部九州、すなわち東遷前と考える方が圧倒的に合理的
0107日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:22:43.01
>>104
>記紀に神武天皇が九州から来て大和を征服したと書いてある理由は、本当にそのような伝承が皇室にあったからだとしか合理的には考えられない

それ、どうやって他人を納得させるの?
そんなのが「合理的だ」と口先で言うだけじゃダメなの、わかるよね?

>弥生時代に北部九州から圧倒的に出土品した鉄、銅鏡、絹などが

そんな事実があるって証明できる?
言い張るだけじゃダメなの、わかるよね?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:24:39.55
>>106
>3世紀前半の邪馬台国(連合)には絹や鉄鏃があった

どこにあった?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:27:08.32
中国からどういう状態の青銅器を手に入れてたか気になるね
何を溶かして銅鐸を作ってたんだろう?
0110日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:27:16.79
>>104
>また畿内の銅鐸文化が突然終了したことなども、

そんな事実があったって、どうやって証明する?
口先で言い張るだけじゃダメなの、わかるよね?
0111日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:27:25.76
>>107
前者は推論だが後者は考古学的事実
キナイコシ個人が認めようが認めまいが事実は曲げられない
0112日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:29:06.78
キナイコシは都合が悪い事実は何も認めないね
まるで新興宗教を盲信する信者のようだ
0113日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:30:02.63
鉄なんか半島の市場に売ってるし
0114日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:31:36.32
>>112
>キナイコシは都合が悪い事実は何も認めないね

誰だって証拠を見せなきゃ信用しないでしょ?
0115日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:33:07.77
>>111
>前者は推論だが後者は考古学的事実

考古学的事実 だって証拠は?
ただ口先でそう言い張るだけじゃダメなの、わかるよね?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:39:02.41
>>114
反論したいなら質問するより反証を出した方が早いよ
この世に反証が存在するならね
0117日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:45:52.45
>>108
邪馬壹国連合はないけど
卑弥呼連合はあったと思います。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:46:06.08
>>116
>反論したいなら質問するより反証を出した方が早いよ

反論?
何をトボけたこと言ってるのかな

君は、そう主張する証拠を見せろと言われてるんだが
日本語がわからないのかな?
何も証拠を出さないで「事実だー」って叫ぶと
他人が信用してくれるとでも思ってるの?

それはないんだよ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 07:54:40.66
>>119
君は頭がおかしい人なのかな?
君って。コンサートの会場にチケット持たずに手ぶらで行って「入れろ!」って言う人?
「俺が予約してないって反証を出せー」って怒鳴る?
それは狂人のすることだ

証拠を出さなきゃ門前払いだ
これ、いちばん簡単に勝つ方法なんだよ
0122日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:09:49.42
ヘーゲル的に言えば議論は
正→反→合
で進む
キナイコシには「反」がない
ひたすら「正」に質問を繰り返すだけ
だから「合」が生まれない
0123琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/04(日) 08:10:20.83
それまでの倭とは別種が
ホトを刺してしまったんだよ、無駄さ。
箸墓が道教の墓。
これはもう疑いようがない。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:12:16.69
>>121
>反証ないんだね

証拠を出さない相手に反証は要らないんだよ
「証拠を出せ」
って言うだけでいい
0125日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:13:15.64
キナイコシはバカなんだよ、わかるよねw
0126日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:13:22.70
>>122
>ひたすら「正」に質問を繰り返すだけ

君は「正」じゃないんだよ
証拠を出さないから
0127日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:16:10.39
>>125
>キナイコシはバカなんだよ、わかるよねw

九州説さん
証拠も出せずに罵るだけ?
それこそバカのやることだ

「証拠を出せ」と言われて出せなければ、議論は君の負け
0128日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:19:01.32
>>122
>ヘーゲル的に言えば

それも妄想
君がやってるのは
「立証義務の前方転嫁」と言う詐欺だよ
0129琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/04(日) 08:32:02.78
原点は鬼道だよ。
これを曖昧にすることによって現状を維持し続けてきただけさ。
愚かな意地だね。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:34:15.77
>>91
とにかく口先だけで言い張って
何があろうと証拠は絶対に出さない
それが九州説のやり方なのかい?

>「3世紀中葉には古墳時代が開始していた」
という教科書にも載ってるようの定説に対して

>その主張はintcal20によって根拠の乏しい願望に過ぎないと科学的に証明されました
https://agora-web.jp/archives/220907081125.html

とか言い張るが、証拠は絶対に出さない
論拠すら口が裂けても言わない
そういう嘘と思い込みの連鎖が生んだ鵺の化け物が九州説なのさ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:45:38.61
>>127
バカにバカと本当の事を言っているだけ、わかるよね
0132日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:47:32.16
>>131
ほら
九州説はすぐ罵るだけになる
簡単に論破されたのが一目瞭然だ
0133日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:49:42.57
>>132
キナイコシのバカは定説です、わかるよね
0134日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:57:38.12
>>133
このように九州説は
論破されたのが第三者にわかりやすい
0135日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 08:59:49.52
>>134
キナイコシはスレ主としてつまんねえんだよ、わかるよね
0136日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:01:20.91
>>135
誰を見てもキナイコシと呼ぶ病気
0137日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:03:08.63
>>136
すぐに反応するバカ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:03:36.39
>>130
>「3世紀中葉には古墳時代が開始していた」

その「古墳」は、決して「前方後円墳」を指していない。   @阿波
0139日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:04:01.24
すぐ反応した>>137の自滅
0140日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:04:39.18
>>130
>「3世紀中葉には古墳時代が開始していた」

その「古墳」は、決して「前方後円墳」を指していない。   @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:12:16.37
国民の万人を納得させられない畿内説は税金泥棒です
0142日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:20:05.55
>>141
国民は納得してんじゃね?
0143日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:24:55.07
>>142  
国民が納得してようがしていまいが、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:25:15.27
>>142
なぜそう思う?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:25:50.49
>>144 
国民が納得してようがしていまいが、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0146日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:31:44.90
>>144
九州説が非国民推奨だからでは?
0148日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:38:08.18
>>147
よく見てごらん
例えば九州説の中で伊都説が過半数取れてると思うか?
無理だね
つまり、畿内説が最大派閥なのさ
0149日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:41:32.04
>>148
畿内説は共産党みたいなもの、永遠に野党確定。税金の無駄遣い。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:46:34.57
>>149
主流ですけど?
歴史教科書にも載ってる邪馬台国候補地は巻向だけ
0151日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:47:06.23
>>149
どっちも永遠野党だよ。  わははははは   @阿波
0152日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:48:15.27
国民の税金を無駄遣いする畿内説はさっさと解散しろ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:49:04.45
纒向は邪馬台国候補として考古学界ゴリ押しだったが、結局魏志倭人伝と整合するような「邪馬台国らしい遺構や出土品」は殆ど何も出てこなかった
前評判倒れ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:49:43.62
>>151
阿波は落選候補
0155日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:50:08.51
疑惑の総合商社畿内説を許さないぞー
0156日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:50:57.96
纒向は「外来勢力である崇神朝の遺跡」として歴史的価値は非常に高いが、魏志倭人伝に記載された邪馬台国ではない
0157日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:51:02.56
>>154
泡沫ね
0158日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:55:29.43
極悪人キナイコシを留置場にぶち込めろー
0159日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 09:58:37.24
魏志倭人伝と整合するのは圧倒的に北部九州
絹が出る、鉄鏃が出る、大陸由来の銅鏡が出まくる
環濠があり戦傷遺骨があり墓制(柩ありてカクなし)が一致する
南に狗古智卑狗(菊池彦)のいる狗奴国(隈・熊・球磨)があり、東に海を渡ると別の倭種の国(本州、四国)がある

北部九州の邪馬台国連合の一部勢力が東遷したのが纒向勢力=崇神朝であろう
福岡朝倉一帯の地名と奈良桜井一帯の地名が酷似するのもこの経緯によるものだろう
0160日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:00:38.43
纒向学は外来勢力による纒向築造を想定する
東遷説型九州説と融合可能だ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:02:34.66
>>159
>絹が出る、

いつ、どこから?

>大陸由来の銅鏡が出まくる

どこから何枚?

>環濠があり

それ、倭人伝には出て来ないよね

>戦傷遺骨があり

どこから、いつの人骨が?

>墓制(柩ありてカクなし)が一致する

と言う証拠は?


九州全滅してなくね?
0163日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:04:32.46
>>161
絹が出てるのを知らないのか、はい論破。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:04:43.90
>>162
回答不能で九州説また惨敗


みじめだねー
0165日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:05:56.31
>>163
>絹が出てるのを知らないのか、はい論破

いつの絹が、どこから?
九州説はいつも惨敗
0167日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:07:54.77
>>160
>東遷説型九州説と融合可能だ

無理
東遷の痕跡なし
0168日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:08:13.99
>>88

> >>86
> 言ってることがズレてる
> 卑弥呼が居ようが居まいがその時代に纏向が存在した事を否定出来てない

その時代かどうかがまず怪しい
そして卑弥呼と関係ないならもはや邪馬台国論争とも関係ない
纏向遺跡が邪馬台国と関係ないヤマト王権の起源としてなら文句もつかなかっただろうに、邪馬台国や卑弥呼と無理に結びつけようとしたから、各方面から総スカンを食らうことになったことを理解した方がいい
0170日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:10:20.51
>>93

> 纏向の年代に疑念があるなら同じもので比較するしかないのよ
> 魏志倭人伝の記述なんて関係ないから

関係ないのかw
畿内説がいう邪馬台国は魏志倭人伝と関係ない妄想w
普通は邪馬台国とは魏志倭人伝に書かれた邪馬台国なんだけど、畿内説の夢想する邪馬台国とは何なのか
0171日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:11:36.33
 「無知は罪である」というソクラテスの言葉がある。無知な人間が引き起こす罪としては、 無知を取り繕う無責任な発言を行い、その結果が悪いと隠蔽しようとして嘘を重ね、さらに 悪い結果を導き出すことである。 畿内説を表した言葉である
0172日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:12:30.19
>>169
>畿内説が何も証明できていないよ?

布留0が3世紀中葉と立証した
0173日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:13:26.86
纒向がヤマト王権の萌芽であり崇神朝と繋がることはほぼ確実だろう
さらにその纒向の勢力(ヤマト王権)は弥生時代からの大和土着勢力ではなく外来勢力と見るのが纒向学だ
では、具体的にどの地域から来たか、が次の論点になろう
研究の進展を待つ
0174日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:14:15.11
>>171
それ、一つも立証できてないから
九州説は無知な罪人
0175日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:17:07.55
>>98

君が心配する話ではない。
畿内は筑紫の分家だが、遠すぎて交流が疎遠になったと考えればいい。
神武東征の説話における饒速日の扱いを見ればよく分かる。
噂は耳にするが実際の交流はなかったろ?
纏向勢力が筑紫からの入植者でも、筑紫との交流は絶えていたし、従って筑紫に滞在していた帯方郡使とも交流はなかった。
何も矛盾しない。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:19:34.49
>>175
どんな古代史の謎も「ドラえもんの道具を使った」と言えば何も矛盾しない
つまり、なんの自慢にもならない
0178日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:20:58.10
寺沢薫氏は、土器の編年を、西暦の実年代にあてはめることの難しさについて、箸墓古墳の「布留0式期」(布留0式という型式の土器の行なわれた時期)に関連して、つぎのようにのべる。

「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」(寺沢薫「箸中山古墳[箸墓]」、石野博信編『大和・繼向遺跡』学生社、2005年刊所載)
0179日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:23:02.38
>>178
もったい付けただけで、実際はしれっと
260〜280と言ってる
0180日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:24:32.64
>>101

纏向遺跡が崇神天皇の宮なら、母親の物部氏族つまり現在の桜井市を中心に勢力を持っていた三輪山の神と関係していただろう。
物部氏の祖である饒速日は海部氏、尾張氏らの祖でもある。
天照大神の孫は二人いて、筑紫に降臨した邇邇芸、関西に降臨した饒速日だ。
中国の史書による関西の倭種が筑紫の倭人の分家というのは、記紀とも一致する。
纏向遺跡が3世紀後半から4世紀なら、神武東征が卑弥呼の前の倭国大乱の時期でもよい。
卑弥呼の時代の直前に伊都にいた甕棺を持つ倭王の一族は邇邇芸の末裔の彦火火出見とされている。
時代設定は矛盾なく収まることになる。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:25:25.43
寺澤薫氏は『箸墓古墳周辺の調査』[奈良県橿原考古学研究所2002年刊にて、次のようにのべておられ、もっともなことだと思う。

箸墓古墳の暦年代については最近、これを3世紀中葉として、『三国志』「魏書」東夷伝倭人条記載の卑弥呼の墓に比定しようとする意見が多くみられる.具体的な土器編年をもとに考古学的な手法で暦年代を積み上げた結果であれば、大いに議論すべき問題であろうが、ごく一部の研究者を除いてその多くはこうした自己の分析プロセスを全く提示しないか試みた形跡すらない。また、最近の年輪年代や放射性炭素年代をそのまま鵜呑みにして、それによって生じる考古学的な矛盾を全く等閑に付したケ-スも少なくない。これらの意見は、論理の転倒にとどまらず、考古学研究者としての本務を全く放棄している点で、考古学の存立そのものをも危うくする以外のなにものでもあるまい。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:25:30.68
さらに、卑弥呼が魏王朝から240年に拝受した「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡に違いなく、この鏡を初期のうちに副葬したであろう箸墓古墳は卑弥呼の墓と考えてよいとする考えもある。こうした議論は一見、中国鏡の製作年代から導き出された考古学的年代決定によっているかのようには見えるが、実はそれぞれが議論の対象となる幾重もの独断と可能性のうえにたった歴史解釈上の仮説でしかなく、うがった考えをすれば、まず箸墓=卑弥呼の墓ありきで、箸墓の年代観がこの前提に規定されているのではないかとまで疑いたくなる。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:28:11.15
>>175
>纏向勢力が筑紫からの入植者でも、筑紫との交流は絶えていたし

なんで絶えた?   @阿波
0184日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:28:46.10
>>105

だがその銅鐸文化は消滅して、筑紫から銅鏡銅矛文化を持った集団が入植して置き換わった。
ちなみに饒速日が天照大神から授かった鏡が籠神社に伝世している。
平原遺跡の八咫の鏡と同じ内行花文鏡だ。
内行花文鏡が天神つまり太陽神である天津神の象徴なのだろう。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:29:53.32
>>182
愚痴っぽい
0186日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:31:37.36
>>107

日中の双方の全ての史書は、畿内政権は筑紫の分家または末裔ということで一致している。
考古学的にも、博多湾沿岸に始まった弥生文化が関西関東を含めた列島を制覇した。
水稲稲作、銅鏡、銅矛、各地の勢力の祖先に関する伝承も全て筑紫から継承されている。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:32:06.94
>>184
>だがその銅鐸文化は消滅して、筑紫から銅鏡銅矛文化を持った集団が入植して置き換わった。

と言う根拠は?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:33:59.89
>>113

> 鉄なんか半島の市場に売ってるし

しかし纏向遺跡の人々は手に入れられなかった。
半島や九州北部と通商していなかったから。
九州北部には半島から仕入れた鉄が大量にあり、本州でも日本海側の出雲の領域には鉄があったのに、纒向には鉄がなかった。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:34:53.82
>>187
九州説さん、また解答不能ですか
連敗に次ぐ連敗ですね

情けなくなりません?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:36:07.31
>>189
九州説さん
それ、証拠でもあります?
ないから妄想ですよね
0194日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:36:55.01
>>191
>畿内説の証拠を何も提示できずに騒ぐだけの小物だよね。

提示してるけど?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:37:41.92
>>193
証拠は?
0196日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:39:09.96
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

新唐書

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:39:34.00
寺沢薫と言う人が暗愚で有名な邪馬台国の会が主催するアフォの安本美典賞の賞金10万円が欲しいと言っています。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:40:10.46
>>191
言葉の揚げ足しか出来ないバカタレですわ、畿内説の癌
0201日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:43:06.12
>>197
牢屋でただ飯を食いたいようだなw
0202日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:43:41.02
>>199
文化の伝播はあって当然
東遷という根拠は皆無だな
0203日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:43:57.67
暗愚で有名な邪馬台国の会は老害1700人ほどの後頭部のハゲた犯罪団体です。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:46:05.82
>>198
反論いっさい出来ず詰問からは逃げ回り、中傷者根性丸出しの悪口しか言えないってミジメじゃない?
0205日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:47:26.52
>>203
ハゲのどこが悪いのじゃ?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:47:57.45
>>200
魏志倭人伝に記述道理ですね。
20日で投馬国、さらに10日陸1月ですからね
0207日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:48:52.15
>>180
神武東征は倭国大乱の時期の可能性もありますね
新羅本紀によるとAD193年に飢饉で倭人が移民してきた記述があるのでこのタイミングの可能性もありそう
0208日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:49:01.09
暗愚で有名な邪馬台国の会の老害会員を見たらハゲた後頭部をスリッパで引っ叩きましょう。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:50:33.41
>>207
東征じゃなくて、避難民ではないか?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:51:24.71
>>208
人として最低なのがキナイコシ
0211日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:54:22.75
>>200
>単純に遠すぎたから。

遠すぎならば、入植にも来ていない。   @阿波
0212日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:56:16.08
>>209
食糧を求めて勢力ごと移動したということだろうね
大和に入る時に武力衝突もあっただろうが、当時の大和にあまり強力な勢力はなかった
(纒向学でも突然強力な勢力が現れたのでこれは外来だと考えている)
0213日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:56:48.24
>>202

権力の象徴である銅鏡が筑紫から伝播したものだよ。
畿内の古墳における銅鏡の副葬の状態からは、畿内説が根拠とする三角縁神獣鏡よりも内行花文鏡の方が上位に扱われていたことがわかる。
そして最大の内行花文鏡は平原遺跡の八咫の鏡。
畿内の古墳からも大型内行花文鏡は出土するが、いずれも平原の鏡を越えない大きさに作られている。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:57:20.27
>>170
あたりまえだろ
魏志倭人伝に書いてある時代に纏向が存在しなかった証明にならないから
0215日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:58:13.25
キナイコシはネット依存症の最終形態と思われる、死ぬなよ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:58:57.43
>>213
>権力の象徴である銅鏡が筑紫から伝播したものだよ

権力の象徴だという理由は?
0217日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 10:59:53.95
>>212
>食糧を求めて勢力ごと移動したということだろうね

四国や中国地方をすっ飛ばして、くそ田舎の奈良湿地へか?  

もっとましな妄想理由を考え出せ!  わははははは   @阿波 
0218日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:00:01.57
>>209

実質的にはそう。
記紀における神武の説話ですら、筑紫が不安定な政情だったので筑紫を出たように読める。
東征は強がりで、饒速日との会戦で勝てずに最後は同族ということで和解して大和に定住した。
ちなみに記紀は東遷ではなく東征と表現しており、実はあくまでも筑紫の勢力が畿内に拡大したという立場を取っている。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:00:20.40
>>176
銅鐸は近畿からたくさん出てるけど
0220日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:01:32.76
>>212
東征はでっち上げだろうな。
実際は神武は、東へ逃れたロヒンギャみたいなもん
0221日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:01:35.00
暗愚で有名な邪馬台国の会が「季刊邪馬台国」と言うザラ紙で作ったゴミのような古雑誌を発行している。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:04:14.36
>>189
でも中国から銅は手に入った
0223日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:04:47.68
>>212

饒速日と邇邇芸が同祖であることから和解したと記紀は伝えている。
そして纏向は饒速日の末裔である物部氏の支配域であり、纏向遺跡の主であったと考えられる崇神天皇は母方が物部氏。
天皇家はその後も数代に渡り纏向に宮を構えている。
纏向遺跡近くの石上神宮は物部氏の本拠地とされる。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:05:53.14
>>214

魏志倭人伝の時代にすでに纏向遺跡があったことを証明しないとダメだろ。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:09:16.22
>>224
そう発表されてんじゃん
0227日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:10:14.89
>>225
銅を入手できると言ってるんだよ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:11:23.32
>>218
>筑紫が不安定な政情だったので筑紫を出たように読める

四国や中国地方をすっ飛ばして、くそ田舎の奈良湿地へか?  

もっとましな妄想理由を考え出せ!  わははははは   @阿波 
0229日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:13:18.01
銅は入手できるのに市場に売ってる鉄は入手できないなんてあり得ない
つまり必要ないだけだよ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:24:08.24
>>224
九州説爺さんたちは自分達が超マイナー少数派であるという自覚がないね
0231日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:24:19.57
>>218
>筑紫が不安定な政情だったので筑紫を出たように読める

畿内纏向を批判しておきながら、畿内纏向を目指すダブスタ。   
九州東遷説は、畿内纏向を批判しながら、自らを否定し続けているということ。
畿内説も九州説も、結局畿内纏向でどツボにはまる構図なのである。   @阿波
0232日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:29:37.95
>>222

鉄は厳しく管理されて筑紫または出雲が外に出さなかったのかもね。
記紀においても考古学においても、筑紫と出雲が二大勢力。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:31:32.52
>>232
>記紀においても考古学においても、筑紫と出雲が二大勢力。

倭国(阿波)を出た、筑紫忌部と出雲忌部だ。   @阿波
0235日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:32:10.87
>>232
鉄は倭人が掘り出して半島の市場に売ってるから
銅こそ中国から手に入れてるんでしょ
0236日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:34:22.01
>>233
倭人が掘り出して市場で売ってるのになんで規制なんだよ?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:41:15.29
>>236
>倭人が掘り出して

「倭人(阿波勢力)」な。   @阿波
0238日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:56:11.17
あれ? なんか言ったか?   @阿波
0239日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 11:56:15.82
漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり
近畿の勢力も中国に朝見して銅を手に入れてたんだよ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:02:44.51
>>240
だって年代測定をどうやってるか知らねえもん
炭素で年代を測るとかわけわかんねえ
0242日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:06:33.06
はっきり言って土器ですら俺が見たって年代なんかわかんねえよ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:34:51.18
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0244日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:38:27.73
>>239

筑紫や出雲の領域からは鉄が出て、それ以外の地域からは鉄があまり出ないという、考古学的事実から考察したまでだ。
筑紫と出雲は、それ以外の地域に対して有利な立場であったことがうかがえる。
漢の頃の百カ国には本州も含まれていたかもしれないが、おそらく三国時代の三十カ国は九州北部だけになったのだろう。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:41:12.20
>>244
>筑紫や出雲の領域からは鉄が出て

鉄を持ち込んだのは、倭国(阿波)を出た、筑紫忌部と出雲忌部だ。   @阿波
0246日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:43:25.01
>>241
畿内説は炭素年代法の原理を知らずにそれが根拠だと言い張っていたのかよ。
原理を知れば、精度には限界があるとわかるはずなんだよ。
だから纏向遺跡も箸墓古墳も、正確な年代は知りようがない。
およそ4世紀。3世紀の可能性もなくはないけど確率的には4世紀の方が高いかなくらいが科学的なデータとして示せる限界。
少なくとも卑弥呼のいた2世紀末から3世紀前半に届く可能性は90%ない(ある程度の確率は示せる)。
逆に言えば、箸墓古墳が卑弥呼の時代のものである可能性も5%未満くらいならあるだろう。
しかしどの学者に聞いても卑弥呼の治世という答えしか返ってこない平原遺跡と比べると実に不利だろ?
0247日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:44:32.41
>>244
だから銅は近畿以東も手に入れてるでしょ
中国からの輸入は何故有利にならないの?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:49:16.54
>>246
炭素も年輪も似たようなもんなんだろうがその正確性なんて俺は証明できない
ただサンプルが多くなると正確性が増すんだろうし推し進めるべきだと思う
それでも正確性の証明は俺にはできないけど
0249日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:51:07.70
鉄は半島で手に入れていたのですよ。
その半島に権益を持っていたのは九州ということ。
あとは出雲?
しかし記紀ではその出雲を倒して筑紫の日向王家が成立するんですよね。
つまり年代差があって、一時期は出雲が優勢だっだけれども、最終的に筑紫が総取りすることになったと。
狗奴国との戦いは、熊本にも製鉄遺跡があることから倭国つまり九州の内紛でしょうね。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:52:45.91
>>246
平原遺跡は発掘の保存ができてないでしょ
遺物の年代よりそっちが問題
0251日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:54:09.60
ゲノム解析も炭素年代法も、まだまだよく解らんってこと。

さも、決定したように言うやつは、一種の詐欺師。   @阿波
0252日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:55:22.30
>>249
鉄は半島の市場に売ってるんだよな
だから地元の客も日本の客も中国の客も誰でも買えたんでしょう
0253日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 12:57:34.27
>>250

発掘の保存て何のことかな?
発掘は破壊的作業に他ならないよ。
これはどこも同じ。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:00:09.75
>>253
どのような状態で発掘されたか
0255日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:00:35.25
>>252

でも事実として筑紫か出雲しか手に入れてない。
向こうの人から見ると、倭人が入れ替わり立ち替わりやってきて買い付けていくけど、日本国内で見ると出かけて行って手に入れられる層とそうでない層は明確に格差があった。
纏向は後者つまり格下であることは間違いない。
出雲勢力下の伊勢遺跡と、畿内勢力下の纏向遺跡でも規模の格差は明白だよ。高床建物の数を数えてごらん。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:01:36.11
>>254

偶然見つかったものはしょうがない。
しかしその後の調査は行われてきちんと記録は公式に報告書がまとめられている。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:02:21.76
>>255
銅は手に入れてるから鉄の需要はあまりなかったんでしょう
0258日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:12:30.16
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0259日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:19:23.76
箸墓周濠から出土の布留0式土器は、捨てられるまでどこでいつまで使われていていたのか、そしていつ捨てられたのかが不明。その土器で箸墓築造年代測定をするのはナンセンスである。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:29:39.55
1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

この表を見ると西暦200年の推定人口は四国から奥奥羽までで489,800人
北九州と南九州を合わせて105100人
合計は594,900人

魏志倭人伝に記されている戸数から人口を推定してみると
倭国29か国のうちの8か国分の戸数が80,000戸
一戸4人とすると320,000人
残りの倭国21か国で一国当たり2000戸とすると合計42000戸、人口では168000人

倭国の合計は488000人

狗奴国を2万戸、80000人と推定すると

列島全体の人口は568000人

魏志倭人伝の数字が当時の人口をかなりの確度で把握していたことがわかる
0261日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:36:10.75
>>260

なんで実際の記録である魏志倭人伝より、推定に過ぎない鬼頭の方が正解の基準なのか。
アホじゃないのか?
0262日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:49:43.86
>>259
>箸墓周濠から出土の布留0式土器は、捨てられるまでどこでいつまで使われていていたのか、そしていつ捨てられたのかが不明。

わかってるんだよ
近所で飯を炊いてたんだ
使ってて、壊れた時に捨てられたんだよ


>その土器で箸墓築造年代測定をするのはナンセンスである。

いや。わかりきってることを理解できない頭がナンセンス
0263日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:52:29.69
>>232
意味不明、丹後、北陵、関東まで鉄出土
0264日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:56:14.42
>>262
>近所で飯を炊いてたんだ
>使ってて、壊れた時に捨てられたんだよ

箸墓周濠が完成した綺麗な状態では捨てないだろうから、
かなり後世に捨てたんだろうな。   @阿波
0265日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:59:19.44
>>263

北陸は出雲の前の覇者であっただろう高志。または出雲の影響下。
関東は明確に出雲の影響下。関東最古の大社は出雲系の鷲宮神社。大宮にある武蔵国一宮氷川神社も出雲系。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 13:59:50.54
>>246
>畿内説は炭素年代法の原理を知らずにそれが根拠だと言い張っていたのかよ。

知ってる人間が使ってるよ

>原理を知れば、精度には限界があるとわかるはずなんだよ。

その限界を踏まえて使ってるよ

>だから纏向遺跡も箸墓古墳も、正確な年代は知りようがない。

あんたは原理を知らないから理解できない
そうやってデタラメを言う

>およそ4世紀。3世紀の可能性もなくはないけど確率的には4世紀の方が高いかなくらいが科学的なデータとして示せる限界。

理解してないから、そうやって決定的に間違える
間違えて、理解して使ってる学者たちと正反対のことを言う

>少なくとも卑弥呼のいた2世紀末から3世紀前半に届く可能性は90%ない(ある程度の確率は示せる)。

という理由を説明できないだろう?
原理を全く理解していないからだ

>逆に言えば、箸墓古墳が卑弥呼の時代のものである可能性も5%未満くらいならあるだろう。

根拠なくデタラメな数字を言ってもダメだ

>しかしどの学者に聞いても卑弥呼の治世という答えしか返ってこない平原遺跡と比べると実に不利だろ?

いや、圧倒的に有利だ
お前、平原遺跡のことを何も知らないのだろ?
0267日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:02:35.58
>>232
出雲より松江だろう。
すなわち、現出雲は筑紫同様
後はからできた国
0268日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:02:42.04
>>265
それみんな、倭国(阿波)から出た「倭人(阿波勢力)」一派の進出地だ。   @阿波
0269日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:03:54.58
倭人の主要な勢力は日本海交易圏に参加できた筑紫、出雲、高志。彼らは鉄を手に入れることができた。
その中でも最終的に覇者として中国との国交ができたのは筑紫。中国は金印を与えることで外交代表権を筑紫に与えた。
皇帝の権威をもって王を冊封するのが封建体制だよね。
冊封されなかった出雲や高志は倭種として扱われる。
纏向はさらに格下の倭種のカスw
0270日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:04:10.70
>>261
どちらが正解などとは言っていない
この比較から、九州説は当時の推定人口を考えてもありえないということ
0271日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:06:11.20
>>269
出雲から鉄出土あるのか?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:09:01.34
>>267

出雲の中心がどこであったかは別として、松江も出雲の圏内。
伊勢遺跡も明らかに出雲系だからね。
辺境になるほど、テリトリーはやけに広く大雑把になる。
高志つまり越など、越前越中越後までとんでもなく長い海岸線を持っていた。
逆に中央である九州北部は狭いのに群雄割拠していた。
まあそれはそれだけ九州北部に人口も富も集中していたからこそだろうけど。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:10:08.97
>>270

鬼頭推定を基準に魏志倭人伝の数字の正誤を論じているように読めるけど?
0274日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:11:36.05
>>262

捨てたのは周濠とは限らないだろ、住居そばのゴミ捨て場にポイしていたものが、後年何らかの理由で出土し近くに出来た周濠に廃棄したかもしれない。その場合数十年から100年以上のタイムラグが考えられる
0275日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:12:13.38
>>260
俺は一戸はもっと住んでると思ってるし
一つの集落で魏志倭人伝に書いてある戸数を養うのは無理だと考える
0276日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:12:50.10
725年推定人口・・・奈良時代推定人口
・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一)
・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式)
筑前 112,000人 ・85,400人 ・92,900人
筑後 ・59,300人 ・75,300人 ・73,300人
豊前 ・47,200人 ・75,300人 ・71,600人
豊後 ・51,600人 ・82,500人 ・87,400人
肥前 ・48,300人 ・85,400人 ・81,400人
肥後 108,700人 178,000人 185,500人
日向 ・30,800人 ・47,700人 ・43,800人
大隅 ・40,600人 ・21,100人 ・28,400人
薩摩 ・38,400人 ・17,400人 ・28,500人
壱岐 ・12,100人 ・・9,400人 ・10,600人
対馬 ・・9,900人 ・・7,000人 ・・7,000人

最小を使っても
筑前 ・85,400人
筑後 ・59,300人
豊前 ・47,200人
豊後 ・51,600人
肥前 ・48,300人
肥後 108,700人
壱岐 ・・9,400人
対馬 ・・7,000人
合計 416,900人(1戸5人として83,380戸)
500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸
0278日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:14:31.28
日本書紀には卑弥呼を彷彿とさせる九州の巫女女王が神夏磯媛、八女津媛、田油津媛など複数登場する
崇神朝の景行天皇は神夏磯媛、八女津媛に比較的好意的だったが、応神朝(の前身)の神功皇后は山門の巫女女王田油津媛を殺害する

私は崇神朝は邪馬台国連合の内陸の有力勢力の東遷した勢力(なのでヤマトの名を持っていった、「ト」の音が違うのは九州と大和を区別するため)と考えている
また応神朝も九州から起こって畿内に進出して崇神朝を滅ぼしたと考えているが、彼らはより玄界灘に面した海人勢力で、半島での活動も活発だったと考えている(日本書紀の神功皇后三韓征伐の話も広開土王碑文の倭の朝鮮侵攻もこの前応神朝九州勢力が主体と見る)

崇神朝が比較的ドメスティックな性格だったのに対し、応神朝は半島での活動も中国外交(倭の五王)も活発だったのはこうした背景があるように思う
0279日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:16:52.66
四拍手の神社は、宇佐神宮、出雲大社、弥彦神社

さてその共通項は何か
0281日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:18:54.08
>>27i2

>>260にある1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)によると
北九州の人口は40,500人に対して
山陽は48,900人、畿内と畿内周辺で100,500人
東山85100人、東海54400人
北関東、南関東合わせて99000人となっている
0282日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:19:55.36
>>280
九州説また思考停止して逃走
0283日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 14:23:14.03
>>281>>272へのレスでした
0284日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 14:23:27.19
>>272
鳥取も多いよ。中尾遺跡など。
今使譯所通三十國
其餘旁國遠絶 不可得詳

から筑紫限定ではないし
筑紫さえない時代。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:26:22.12
>>273
現在の推定値と魏志倭人伝の記録に基づく推定値を比較しているだけ

この「魏志倭人伝の記録に基づく推定値」は私のもの
0286日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:27:11.02
>>277
州レベルだろうな。
可だし、見積もりなので実際にあるのかは定かではない。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:35:06.16
たぶん、投馬国は有力者が少ないと
思われる四国。
其餘旁國遠絶 不可得詳からの国々は
山陰、山陽や九州の一部だろうな。
邪馬台国は近畿一帯だけど、なんら中心国でもないし支配などしていない。卑弥呼が共立された九州へ行ったに過ぎない。邪馬台国連合などないが
卑弥呼、壹与連合はある。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:38:40.54
だから投馬国が半島で邪馬台国が列島だってば
0289日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:40:50.13
>>275
一戸の人数については所説あります、4,5人程度とする見方が多いようです

一つの集落での戸数ではなく、ある地域全体の戸数だと思います
例えば本州に入ってから投馬國と邪馬壱国の2国の戸数の表記しかありませんが
これは、出雲を中心とした本州の日本海側の一定の範囲が投馬國、
畿内を中心とした一定の範囲(近畿+α)が邪馬壱国であると思います
0290日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:41:24.42
>>262
ゾウリムシ並の単細胞発見
0291日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:45:06.10
>>289
不弥国で切れてるから投馬国邪馬台国は別人が残した記録と考えるのが妥当
投馬国が半島で邪馬台国が列島
0292日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:47:28.88
>>288
シツコイぞ。
ないな。
0293日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 14:47:51.17
>>291
不当だね
0294日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:47:51.32
>>291
不当だね
0295日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:48:07.16
>>291
仮に、そうだとしても九州説は成り立たない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:49:14.83
>>292
投馬国邪馬台国はどう考えても広域で集落の並びと同じじゃない
0297日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:49:45.87
>>291
で卑弥呼はどこに?
0298日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:50:47.06
>>296
だろうな。県レベルでなく州レベル
0299日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:51:20.80
>>297
邪馬台国、つまり日本列島に居ると魏志倭人伝には書いてあるんだよ
0300日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:53:08.08
>>299
里数が表示がある所にはいないのか?
0301日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:53:45.72
>>265

鷲宮神社は関東最古の大社を名乗っているが、
『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の記載が最初の式外社
氷川神社は、貞観元年(859年)1月27日、従五位下から従五位上
(大神神社は、貞観元年(859年)2月、正一位)
8世紀に出雲族出身の无邪志氏が開拓し
中世以降源頼朝を始めとする坂東武者の信仰の対象となったのが氷川信仰
0302日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:53:52.09
>>300
誰かが行って記録に残したんだろう
0303日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:53:52.25
>>299
関東でも北陸でもいいよな
0304日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:55:18.36
>>301
3世紀話だよ。出雲なんて後の時代。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:55:24.84
>>303
まあそういう事だな
後は遺跡が頼り
0306日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:56:40.60
じゃあ、例えば鹿島神宮は、阿波人の権力者が常陸まで遠征して、
それで祀られたんですか?
神社の歴史ってそういうものなんですねえ
しかし、弥生後期には神社らしい神社はなかったんですよね?
ああ、そうか。時代考証にも合致するというわけか。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 14:58:35.08
>>305
鉄、銅、絹、ト骨等が出れば全て候補地
0308日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:01:34.78
>>307
魏志倭人伝にある国邑ってあまり信用してないけど
伊都国は詳しく書いてるし何処かにあったと思ってる
0310日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:04:01.54
なんで伊勢神宮はじめ有力神社は御神力が強いんだろうな・・・
御神域だからだろうか?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:05:46.24
>>308
東千里の倭種以外の里数ある所は行っているだろう。不彌国までは行っている奴国は里数のみと
推測。狗奴国に近いから行っていない。
目的は伊都国だろうな。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:06:15.54
>>301
>鷲宮神社は関東最古の大社を名乗っているが

鷲を冠する神社は、「倭人(阿波勢力)」の祖神「天日鷲命」に由来している。   @阿波

◇千葉県印旛(いんば)郡栄町の 大鷲神社 「天乃日鷲尊」を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。
◇茨城県新治(にいはり)郡新治村の 鷲神社 は社殿が平成7年に焼失したが氏子の寄付により平成11年に社殿を復興。
ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。 鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。
◇栃木県下都賀郡石橋町橋本の 鷲宮神社の祭神は「天日鷲命」。
◇栃木県佐野市「鷲宮神社」この鷲宮神社は栃木県下都賀郡都賀町の鷲宮神社から勧進されている。
◇東京都浅草「鷲神社」御祭神:天日鷲命、日本武尊
天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれている。この神様は「倭人(阿波勢力)」の内、物部氏(後の忌部氏)の祖神。
天富命は、天日鷲神の子で、安房国(千葉県)に来航し、利根川を上り東国を開発したと伝えられており、
製紙、紡績の業を広めたとされている。   @阿波
0313日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:07:09.67
神社の歴史なんて平安時代以降だし
そこから700~800年遡れる神社なんか無いよ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:07:39.24
【結論】畿内説は考古学会の産廃である
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国国内の伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が次々と出てきたため
中国側は混乱し、とりあえず知っている行程のすぐ後に倭人の説明を追記してしまった。
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国の位置は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡り千里ほどでまた倭種の国々がある。
・女王国の南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている

■半島南部の倭人領が「投馬国」である根拠の一つ
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991
0315日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:08:04.10
>>301
>鷲宮神社は関東最古の大社を名乗っているが

鷲を冠する神社は、「倭人(阿波勢力)」の祖神「天日鷲命」に由来している。   @阿波

◇千葉県印旛(いんば)郡栄町の 大鷲神社 「天乃日鷲尊」を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。
◇茨城県新治(にいはり)郡新治村の 鷲神社 は社殿が平成7年に焼失したが氏子の寄付により平成11年に社殿を復興。
ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。 鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。
◇栃木県下都賀郡石橋町橋本の 鷲宮神社の祭神は「天日鷲命」。
◇栃木県佐野市「鷲宮神社」この鷲宮神社は栃木県下都賀郡都賀町の鷲宮神社から勧進されている。
◇東京都浅草「鷲神社」御祭神:天日鷲命、日本武尊
天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれている。この神様は「倭人(阿波勢力)」の内、物部氏(後の忌部氏)の祖神。
天富命は、天日鷲神の子で、安房国(千葉県)に来航し、利根川を上り東国を開発したと伝えられており、
製紙、紡績の業を広めたとされている。   @阿波
0316日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:08:55.52
記紀神話によれば、
>大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
三輪山信仰は大国主神に始まったことになる
0317日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:09:17.18
>>313
古墳のかわりに神社置いたかもしれんな
戸籍とか税徴収、情報伝達とか
0318日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:09:58.92
>>316
記紀によらなくていいよ。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:12:26.55
女王国の東の海の先1000里ほどで、また倭種の国々がある
渡海を前提とした行程説明しか記載が無い
つまり女王国は島である
連合国30国は一つの島に収まっているものと考えるべき
0321日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:14:14.51
>>320
水行があるので
考えないべき。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:23:16.57
>>320
それは当時魏と交流のなかった四国のこと、四国は倭国に含まれていなかった

関門海峡の一番狭い箇所は650m、九州の岸にいれば本州がいやでも見える距離
0323日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:23:25.85
>>321
何言ってんだよ
女王国の東の海が伊勢湾だとしたら対岸は見える
明らかに渡海1000里という表現は適さない
0324日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:26:03.81
>>323
敵する。四国,本州も見えるけど?
0325日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:26:31.32
>>324
適するだな
0326日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:28:32.94
神社は日本をまとめるために必要だったんじゃないかと思うんだけど
0327日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:31:19.76
>>322
そんなこと、どうでもよろしいがな。  
関門海峡がどうあれ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0328日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:31:46.49
>>323
対馬と壱岐の間も「渡海千里」

壱岐からは対馬の高い山は頻繁に見える
対馬の高い山からは壱岐が見える
0329日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:33:44.99
>>328
対馬も天気がよく条件がよければ
韓国も見える
0330日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:33:55.15
>>328
歩いて行けないところが「渡海」。   @阿波
0332日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:36:01.49
>>330
歩いて行ける所でも渡海
0333日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:36:44.59
伊勢湾は、「渡海」でない。   @阿波
0334日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:37:17.87
>>332
まあ、選択に過ぎない。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:39:13.10
帯方郡の南側の漢江は、ソウルあたりの川幅は1kmを超える
0336日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:39:47.97
>>333
伊勢湾は渡海。
志麻から駿河方面もある。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:44:17.84
>>335
案外、短いのね
0338日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:44:55.13
伊勢湾はもし書くとしたら水行だ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:46:24.54
>>338
いや、書く人や見た人による。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:47:15.48
>>339
見た人は勘違いしないでしょう
0341日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:48:10.55
>>339
「魏志倭人伝」では基本、歩いて行けないところが「渡海」。   @阿波
0342日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:51:21.50
>>340
意味不明?琵琶湖を見て海という人もいたが?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:51:59.22
>>341
そういう記述はない
0344日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:55:58.61
>>343
歩いて行ける
帯方郡(沙里院市)

狗邪韓国(巨済島)

は、「海岸水行」となっており、対馬海峡は歩いていけないので、「渡海」となっている。   @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 15:59:45.37
>>344
だから、そう選択しただけだよ。
歴韓しているからね。
寄らなければ渡海も選択できる。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:06:16.73
人それぞれでいいんだよ。
後はお互い、つっぱればいいんだよ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:07:03.33
>>345
>寄らなければ渡海も選択できる。

寄港する、しないは関係ない。 歩いて行けないところが「渡海」。   @阿波
0348日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:09:11.37
>>347
関係する。陸路が災害等で使えない。
渡海だな。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:12:41.64
>>348
>関係する。陸路が災害等で使えない。

災害があろうがなかろうが、歩いて行けないところが「渡海」。   @阿波
0350日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:13:15.59
沿岸伝いなんだから四国は沿岸水行だな。
淡路島経由、無論 渡海もあるけど?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:14:38.08
>>349
災害があろうがなかろうが、歩いて行けたところがあっても「渡海」。   
0352日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:15:05.06
>>350
だから、歩いて行けないところが「渡海」。   @阿波
0353日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:15:59.62
>>352
だから、歩いて行けても「渡海」
0354日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:16:15.24
>>351
歩いて行けたところがあったら「水行」。   @阿波   
0355日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:17:02.36
>>353
歩いて行けたところがあったら「水行」。   @阿波 
0356日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:17:51.39
>>354
歩いて行けたところがあっても
海を渡れば渡海
0357日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:19:24.99
>>356

海を渡らなければ行けないところが「渡海」。   @阿波
0358日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:21:56.04
>>357
伊勢・志麻から駿河方面だな。
大量物資には船が最適
0359日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:22:56.49
>>357
とは限らない
0360日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:22:57.18
>>358
ただし、命がけ。   @阿波
0361日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:23:49.78
>>359
基本的には、限る。   @阿波
0362日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:24:30.88
>>360
ぜんぜん、いらこ避ければいい。
阿波も難所だし
0363日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:25:39.58
>>361
基本的には、限らない。
海渡しかない。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:26:49.10
>>362
いらこ避けても命がけ。   @阿波
0365日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:27:39.15
>>364
阿波も同じだな
0366日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:30:07.14
>>359
基本的には、限る。   
海を渡らなければ行けないところが「渡海」。 
船に乗らなくても、歩いて行けるのであれば「水行」。   @阿波  
0367日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:31:35.79
>>366
限らない
歩いて行ける所があっても
海を渡れば渡海。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:32:21.85
こんなキチガイ連中より俺の伊勢遺跡説の方が余程まともだと思うがな
質問には誠実に答えてるし極めて常識的な判断もできてるし
0369日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:32:56.67
>>367
「魏志倭人伝」で限られている。   @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:33:49.53
>>368
じゃ、「渡海」の解釈は?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:34:22.80
>>369
そういう記述はない
0372日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:35:17.00
>>368
伊勢遺跡一つの単発遺跡で妄想できる、トンデモ。  わははははは   @阿波
0373日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:36:07.66
>>371
行程記述にある。   @阿波
0374日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:36:42.34
>>370
368ではないけど
自由と思う
後はお互いに永遠につっぱればいい事
0375日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:37:00.51
>>373
ないよ。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:39:32.47
>>375
帯方郡→狗邪韓国は水行。 行程記述にちゃんとある。   @阿波
0377日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:50:13.22
>>376
そこだけある。
別に渡海が書いていないだけ。
三国志では陸路あっても渡海がある
FAQにあるけど?
0378日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:56:44.76
>>377
対馬海峡は歩いて行けないから、「水行」ではなく「渡海」ときちんと区別している。   @阿波
0379日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 16:57:08.56
>參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

そのあとこう書かれてる

陳寿的には
女王国もその東に渡海してある倭種の国々も
どちらも「島」と言う認識です

女王国の島の周りにある島国を紹介してるわけです
だから渡海表記

簡単な答えですねw
0380日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:16:06.38
>>378
区別はしていないよ
0381日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:17:25.31
>>379
なので伊勢志麻から東海も渡海ですね
0382日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:21:18.96
>>381
なので伊勢志麻から東海まで、歩いて行けるので「水行」ですね。   @阿波
0383日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:21:27.06
>>381
其餘旁國遠絶 不可得詳
なのだから島扱いだろうな。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:22:57.04
>>382
なので伊勢志麻から東海まで、歩いて行けても
海を渡れば「渡海」ですね。 
0385日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:28:31.75
周旋可五千餘里 は不彌国や奴国までだな。
万二千余里から引くと7千里
帯方郡から狗邪韓国と一致
0386日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:29:24.06
魏志倭人伝に「倭地」という言葉は二度しか登場しない
一回目は
>倭地温暖
二回目は
>參問倭地

陳寿は倭人についてカテゴリー分けして順番に記述している
最初は倭国、
次に倭地、これは狗奴国や南西諸島の倭人で、魏と交流がある人々が住むところ
最後に倭種
>女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
これは倭人の住む国・地域だが魏と交流がない所、四国を指す

>參問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里
は九州の熊本・鹿児島から南西諸島の島々を指している

倭地についての記述が詳細を極めるが、これは呉の背後に展開する地域・島々と魏が交流があることを示すため
魏の役人が記述した記録を陳寿がまとめたもの
0387日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:30:25.64
>>385
あとは
其餘旁國遠絶 不可得詳だからね。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:31:15.52
>>384
なので伊勢志麻から東海まで、歩いて行けるので
海を行けば「水行」ですね。   @阿波 
0389日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:32:36.76
>>386
四国にも瀬戸内沿いに鉄出土あるのだが?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:33:18.36
>>388
なので伊勢志麻から東海まで、歩いて行けるので
海を行けば「渡海」ですね
0391日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:34:15.05
>>389
>四国にも瀬戸内沿いに鉄出土あるのだが?

鉄器王国「阿波」は、南四国だぞ。  わははははは   @阿波
0392日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:35:03.29
>>390
歩いて行けなければ「渡海」だ。   @阿波
0394日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:43:42.29
>>392
当然、陸路で歩いて行けても
海を渡れば「渡海」ですね
0395日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:46:45.78
>>394
当然、陸路で歩いて行けたら
海を渡るとは言わない。  @阿波
0396日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:49:05.63
>>395
当然、陸路で歩いて行けても、
海を渡れば「渡海」
0397日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:50:44.09
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0398日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 17:52:18.76
>>396
わははははは
当然、陸路で歩いて行けたら
海を渡るとは言わない。  @阿波
0399日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:04:52.68
>>398
当然、陸路で歩いて行けても、
海を渡れば「渡海」
0400日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:08:34.40
>>393
鉄の分布
丹後から石川も東千里
伊豆、神奈川から千葉も東千里
石川から東北も東千里だな
こちらの説も使えるな。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:15:01.08
箸墓が出来た時は今の大池は無かったようだ、そして後世に大池を掘り内堤も取り除いている。この時点で布留0式土器の出土した周濠は存在価値がなくなっているのです。周濠は意図的に埋められた可能性も高いと思われる。
https://i.imgur.com/BCZWSvW.jpg
https://i.imgur.com/RaIV9rl.jpg
0403日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:34:49.66
>>402
切り口が違うんだよね。
さってどう取るか?
あとはト骨とか絹のデータを重ねる。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:37:53.62
>>402
沖縄あったけ?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 18:44:12.51
>>402
どちらにせよ。データが古いな。
新しいもんないかな?
0406日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 19:20:12.97
>>405
鉄器の出土数などあまり意味がない。

意味があるのは、鍛冶炉遺構遺跡の数だ。   @阿波
0407日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 20:07:44.46
>>406
鉄にせよ、鍛冶炉遺構にせよ
邪馬台国に多いとか少ないとかの記述はないけどね。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 20:17:16.23
>>1
intcal20で古墳時代の始まりの時期が揺らいできたんだからテンプレ修正しとけよ

誤)3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
正)3世紀中葉には、古墳時代が開始していたという説を畿内厨が唱えているが、intcal20により信憑性がなくなってきている
0410日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 20:17:50.07
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0411日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 20:44:34.47
>>409
>intcal20で古墳時代の始まりの時期が揺らいできたんだからテンプレ修正しとけよ


揺らいでないけど?
何をデタラメ言ってんの?
理由も言わずに、九州説信者って気が狂ってんの?
0412日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 20:51:40.56
九州廃説は苦しまぎれに口から出まかせを言う
いくら訊かれても絶対に証拠を出さないので、ただのホラ話とわかる
0413日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:03:25.96
>>409
3世紀中葉には古墳時代が開始していたってのは
別に畿内説じゃなくて
ふつうに教科書に載ってて全国でみなが習ってる日本史の定説でしょ
0414日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:22:09.90
そもそも昔から古墳時代が3世紀半ばからってのは、小林行雄とか甘粕健とかが言ってた伝統的な通説だよな
戦後に「初代天皇は崇神だから、きっと行燈山が最初の古墳だー」みたいな都市伝説が流れたけど、信憑性は無いんでしょ?
0415日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:24:16.83
>>413
3世紀中葉では不正解になるな
0416日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:24:48.95
>>415
理由は?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:33:40.02
九州の卑弥呼は美人で800の軍勢で
1万の大和連合に勝つんだぜ
0420日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:33:53.68
>>413
>3世紀中葉には古墳時代が開始していた

その「古墳」は、決して「前方後円墳」を指してはいない。   @阿波
0421日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:34:14.65
>>418
それが、何?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:35:56.12
>>413
どんな古墳なのかな?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:36:37.43
九州説、終わってるね
完全に学問の世界からはドロップアウトした
0424日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:37:08.24
>>413
>3世紀中葉には古墳時代が開始していた

その「古墳」は、決して「前方後円墳」を指してはいない。   @阿波
0425日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:37:31.00
>>422
歴史の教科書に書いてあるような古墳ナー
0427日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:40:53.33
>>380
対馬海峡は歩いて行けないから、「水行」ではなく「渡海」ときちんと区別している。   @阿波
0428日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:41:34.39
>>413
>3世紀中葉には古墳時代が開始していた

その「古墳」は、決して「前方後円墳」を指してはいない。   @阿波
0429日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:44:30.95
>>428
お祈りでつか
0430日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:44:37.50
「魏志倭人伝」には、「水行」と「渡海」の区別を行程記述にちゃんと記述している。 

帯方郡→狗邪韓国は水行。 

対馬海峡は歩いて行けないから、「水行」ではなく「渡海」ときちんと区別している。   @阿波
0431日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:48:22.31
円墳の西山谷2号墳が最古かもしれんな
0432日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:57:46.06
>>431
>円墳の西山谷2号墳が最古かもしれんな

これらがもっと古いよ。

「突出墓」も倭国(阿波)発祥! 「突出部をもつ墳丘墓」  

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳・寺山3号墳・曽我氏神社1号墳 
0433日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:58:30.22
intcal20を無視して、古墳時代は3世紀中葉からという従来の説に固執する畿内説は科学から完全にドロップアウトした

https://agora-web.jp/archives/220907081125.html
「残念ながら60%以上が求められるモデルの適合度は16%と低く…参考程度の結果と捉える必要がある…」
0434日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 21:59:08.85
「突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳」

前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、

吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ、ある種の地域的規範が形成されている。   @阿波

https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12408409524.html
0435日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:03:49.35
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0436日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:06:21.78
方墳の祇園山古墳も古いぞ
0437日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:15:26.25
>>436
その祇園山古墳も「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、一発で筑紫忌部のお墓だと分かる。   @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:16:51.48
>>429
阿波では、弥生時代終末期には古墳の構造(青石石棺・葺石・竪穴式石室など)や
副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器・中国鏡など)から成る、
「前方後円墳」の前段と言われる「墳丘墓」が登場する。
一方、4世紀の初め頃、遺跡がほとんど無い寒村にもかかわらず、
奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の「前方後円墳」が造られるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな~  わははははは   @阿波
0439日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:17:19.24
IntCal20のデータを貼り付けている人は纏向石塚古墳が195年築造と書いてあるがわかっているのか?
IntCal20のデータが正しいなら古墳時代は2世紀末に始まったことになる。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:19:19.15
>>439
>IntCal20のデータが正しいなら古墳時代は2世紀末に始まったことになる。

ただし、その「古墳」は、決して「前方後円墳」を指してはいない。   @阿波
0442日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:20:50.92
>>430
当然、陸路で行けても
海を渡れば「渡海」ですが?
0443日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:28:07.81
>>442
とは、「魏志倭人伝」にはなっていない。   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:30:59.92
>>440
だろうな。
同じ時期に、前方後方墳とかもある。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:31:37.54
>>441
ただの村おこしであった
0446日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:33:54.84
>>443
東千里の倭種
となっています。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:35:36.67
>>445
北部九州はそれでいいよ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:35:58.73
>>446
だから、畿内は没。  わははははは   @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:38:37.92
>>279

筑紫伊都の王権より前の倭国王権。
豊国は志賀島にいて伊都の天孫族の外戚であったが、最終的には宇佐を中心とする豊前豊後に追い出された。
出雲は天孫族が伊都に降臨するより前に倭国の代表だった勢力で、山陰地方に追いやられた。
出雲により押し出される形でより東に分布するのは越の国で、弥彦神社は越後国総鎮守。その主は素戔嗚の息子ともされるが、弥彦と五十猛が後世に混同されたのだろうと思う。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:39:11.61
>>448
べつに畿内説でもない。
陸路があっても陸路取らず
海渡れば「渡海」
0451日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:39:28.91
>>425
どんな古墳だって?
0453日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:41:02.37
>>450
とは、「魏志倭人伝」にはなっていない。   @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:46:07.85
>>306

鹿島神社は香取神宮とあわせて旧香取海の太平洋への出入り口を南北から挟む位置にあった。
古くから東北地方および常陸国と他地域との間の物流経路を担っており、律令制以前より、東海道地域と陸奥国とを繋ぐ交通路は、下総国・常陸国を通り香取海を横断していた。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:47:27.05
>>453
なっています
0457日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 22:47:44.04
>>311

目的地は伊都国だが、すぐ目と鼻の先の奴国と不弥国へは足を運んだ。
だから里数が記録されている。
里数がない地域へは行っていないで倭人からの聞き取りだけ。
0458日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 22:49:38.91
纏向学も最近では箸墓古墳=卑弥呼の墓説を放棄して、布留1式期すなわち3世紀末から4世紀初めの築造と言っている
私の考える東遷説型九州説と融和可能ではないか

纏向学研究第9号(2021年3月)
「3世紀、大和・河内に王権を樹立した吉備・出雲連合」(石野博信)より
>邪馬台国大和説の考古学者を含む多くの人々は、箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼墓に比定するが、魏志にいう卑弥呼没年のAD247年か248年と箸中山古墳出土土器は一致しない。1974年に実見した記憶とその後の宮内庁による公表(中村・笠野1976)で見る限り箸中山古墳(箸墓)に近い。因幡の宮内第1遺跡や前項で紹介した但馬の妙円丘部出土土器は布留1式で邪馬台国に都を置いた倭国女王・台与(壱与)の墳墓と考えるのがふさわしい。布留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当する。
0459日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 22:52:11.59
>>457
当然、そのパターンもあるが、
奴国の南に狗奴国があるから、不彌国までと推測
なので「東行」となっている。。奴国に行ったなら「南行」になるのではないか?
0460日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 22:52:15.51
>>312

鷲宮神社の縁起

神代の昔に、天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿である。
崇神天皇の御世には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。
景行天皇の御世には、日本武尊が当神社の神威を崇め尊み、社殿の造営をし、併せて相殿に武夷鳥宮を奉祀した。
桓武天皇の御世には、征夷大将軍坂上田村麿が、武運長久を祈り奥州鷲の巣に当神社の御分社を奉祀した。

鷲宮神社ホームページより引用
0461日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 22:54:07.66
>>460
魏志倭人伝と随分離れた時代だな。
0462日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 22:54:39.48
前方後円墳の前段階が前方後方墳だと思ったけど年代的にはそうはなってないな
前方後方墳が先に廃れてるけど同時並行なのか年代測定の間違いなのか?
0463日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 22:54:46.30
>>458 の本文引用がコピペミスでおかしくなった
本文引用部分は正しくは以下

>邪馬台国大和説の考古学者を含む多くの人々は、箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼墓に比定するが、魏志にいう卑弥呼没年のAD247年か248年と箸中山古墳出土土器は一致しない。1974年に実見した記憶とその後の宮内庁による公表(中村・笠野1976)で見る限り箸中山古墳(箸墓)円丘部出土土器は布留1式で邪馬台国に都を置いた倭国女王・台与(壱与)の墳墓と考えるのがふさわしい。布留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当する。
0464日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:01:07.97
>>317

その通り。
権力者の宮なので、地方においては行政府の役割を果たしていたものが後に神社となった。
例えば投馬国は宮崎県西都原市の都万神社だが、律令制より前の旧日向国府であったとも言われる。
さらに遡ればそもそも天孫族の海幸山幸の争いで負けた海幸彦が落ち延びた先が日向国であり、隼人の祖となったという。
一方で筑紫の日向すなわち伊都に残り皇祖となった山幸彦はそのまま高祖神社に今日まで祭られている。
高祖山には博多湾沿岸で最大となる中国式山城である怡土城など山城も築かれた。
0467日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:04:05.16
不弥国からは南に水行しているからね
0468日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:04:56.31
「纏向学研究」を読む限り、纏向を作った勢力は大和土着ではなく外来勢力であり、また箸墓古墳は3世紀末から4世紀初頭とのことだ
畿内説も現実的な方向に修正してきているのではないか
0469日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:06:13.80
>>326

支配者である殿上人、天津国でも天神でもいいが、その宮かつその行政府が後に神社となった。
神社の建物は本殿と拝殿からなるが、本殿が王族のプライベートな居住空間で、拝殿が他人と会ったりする執務室のようなところ。
HomeとOfficeだね。
その弥生時代以来の役割が失われたのは古墳時代における仏教伝来、さらには律令制や国分寺の整備によるもの。
0471日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:07:45.98
>>464
弥生時代から神社があった遺跡がないし根拠がない
地方豪族の王宮であるなら周辺に集落がなきゃおかしい
0473日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:10:27.18
>>368

伊勢遺跡は筑紫に主権を奪われた出雲の一部で、その最盛期は卑弥呼の時代より古い。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:11:37.59
>>473
何の根拠も無いな
0475日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:13:52.15
>>413

5世紀は確実に古墳時代だが、4世紀がよくわからんと習ったな。
空白の4世紀。
0476日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:15:13.32
王宮の建築様式が神社に引き継がれてると思うけど神社の場所に王宮があったとは思わない
それを証明する遺跡がない
0477日本@名無史さん
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2022/12/04(日) 23:18:38.95
>>459

平原遺跡のあたりから日向峠を越えて吉武高木遺跡のあたりに移動するだけなら東でいいだろう。
そのスケールだと不弥国はせいぜい香椎になる。
山をさらに越えて宇美なんて行かないですよ。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:21:20.10
>>461

そうだね。
魏志倭人伝よりはるか前から神社というのは各地にあった。
ただしその頃は神社と呼ばずに宮と呼ばれていた。
鷲宮神社なら単に鷲宮たね。
九州の古社も多くが〜宮と呼称される。
神社が宗教施設になるより前にできたからだろうね。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:22:39.50
>>467

福岡県の内陸からどうやって南に水行するんだよ。
水行は別記事で、帯方郡が起点。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:25:43.28
>>439
定型化された前方後円墳の出現をもって古墳時代の始まりとするのが主流のはず
纏向石塚古墳は定型化された前方後円墳ではない
0482日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:28:17.90
>>471

鷲宮は洪水のために後世に移転した。
鹿島や香取は海岸線が大きく変更されて海そのものが無くなったから、やはり今の場所ではない。
そもそも関東平野は沖積平野で平成になっても水害があったくらいだから遺跡が残りにくい。
あったとしても現在の感覚では掘立小屋の痕跡くらいになるからね。
都万神社は周囲に西都原古墳群という屈指の規模の古墳群やそれに付随する住居跡がある。
投馬国五万戸は半島南岸にも山陽にも収まらない。
九州北部の邪馬台国に対して九州南部の投馬国なら無理がない。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:33:02.05
>>479
宗像辺りで船に乗り有明海を目指したと考える
0484日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:33:38.98
>>476

しばしば場所は移転するからね。
しかし西日本にも東日本にも各地にそれぞれ弥生時代まで遡る伝承が残されているのは確かで、何でもかんでも否定すればいいというものではない。
少なくとも稲作が普及したところでは誰かがそれを指揮して灌漑をして田植えや稲刈りをしたはず。
戦後の日本史は古史古伝を否定するあまり、名無しの勢力があちこちにいて名無しの墓が沢山あるという状況になってしまった。
かと言って明治維新後のように無理やり歴史を捏造してもいけないけど。
バランスが難しいね。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:34:48.39
>>482
それを関連付けるのがおかしい
もし王宮跡が神社になったなら難波の宮や紫香楽の宮跡地には
馬鹿でかい神社があるはず
日本国国王の住居跡だからな
0486日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:37:56.74
>>483

はあ?
有明海に行くならわざわざ宗像まで行かずに奴国や末盧国から乗った方がいいでしょ。
郡使が滞在していたのは伊都国なのだから。
有明海に出るなら、筑紫平野を河川で水行で南下する方法もある。
那珂川の最上部と筑後川の最上部は200メートルくらいの距離しかなく、船を担いで相互に交通していたらしいからね。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:40:53.81
>>485

移転したり廃絶したりはよくあること。
気にすんな。
そもそも弥生時代の宮はそれほど大きくない。
馬鹿でかい神宮は後世に造られたもの。
まあ、纏向遺跡は300年頃の宮の典型的なデザインとしては妥当なのだろう。
本殿と拝殿、それを囲む玉垣が揃っている。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:43:08.90
>>485

ああ、あと仏教伝来より後は話が複雑になる。
でかい建物を作ることができるようになるけど、純粋な神社は廃れて神仏習合するからね。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:43:20.78
>>484
>しかし西日本にも東日本に

正確に言うと南日本と北日本しかない
陽と陰の2元論で無理矢理日本は造られてる

宇宙の根源を織り成す摩訶不思議な量子力学の世界
0490日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:44:15.37
>>488
だからその時代に神社作ったんだろ
0491日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:44:37.15
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だと思い至ると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:45:57.82
>>490

じゃあ纏向遺跡も仏教伝来後か?
様式としては神社そのものだぞ?
まあ崇神天皇の宮なんだろうけど。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:49:10.46
>>492
だから神社とは別物の王宮だって
王宮は遺跡として出てくるが神社ではない
0494日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:49:47.18
>>486
宗像にこだわる訳ではないが、魏の使者は倭国の調査も大きな目的だから長崎方面の地形も知って置きたかったのかと考える、有明海には筑後川があり遡れば久留米にも日田にも行けるから便利なのよ。
https://i.imgur.com/6PYbNki.jpg
0495日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:52:58.27
そもそも高床建物の歴史は仏教伝来よりはるか前の吉武高木遺跡から始まるからね。
ただし卑弥呼より前の伊勢遺跡も吉野ヶ里遺跡も、配置が現在の神社とは違っている。
纏向遺跡は現在の神社の配置を持つ最初の遺跡なんだよ。
言うまでもなく仏教伝来よりはるか前。
当時の王宮が現在の神社の様式であったことが確認できる貴重な遺跡だね。
その後は数代にわたって纒向に点々と天皇が宮を作ったが、他はまだ見つかっていない。
崇神天皇も宮の伝承では纒向の他の地区にあった。
まあいずれも物部氏の血縁で、物部氏の権力を背景に纒向にいたので、その権威を直接に継承しているのは石上神宮であるとも言える。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:55:11.93
>>494
そんなの一回じゃなく何度も来て調査してたんでしょう
だから被ったりバラバラの資料がある
0497日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:55:15.13
>>454

鹿島神宮と香取神宮は、
嘉祥3年(850年)9月15日、正一位
なので、単に畿内偏重の格付けがあっただけということはない
0498日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:57:01.18
>>493

香椎神宮は仲哀天皇の宮だよ。
仲哀天皇は豊浦宮にもいたが、現在は忌宮神社の名前になっている。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/04(日) 23:59:44.54
>>497

ならば鹿島香取は天津神の宮であったのに対して、鷲宮は出雲の国津神系であったからだろうね。
また、いったんはおそらく廃絶して倭武命が再興したようだからね。
おそらくは古墳時代を通じて関東の鎮守府であった鹿島香取とは格差がついたのだろう。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:00:20.61
>>495
伊勢遺跡は配置は違うが建物自体は同じ
てか伊勢神宮と同じであれこそ神明作り
吉野ヶ里も吉武高木遺跡全然違う
0501日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:02:47.70
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:03:00.19
>>496
魏になってからは初めてじゃないかな、倭国側も公孫氏が滅びたから魏に朝貢したのだろうし
0503日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:04:34.17
正しくは香椎宮
香椎廟(六国史)、樫日廟(延喜式)が平安時代中頃から神社化した
0504日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:07:30.99
>>500

ここでは建物の配置としての神社の様式を述べている。
個々の建物の形式としてはそれより前からあることは承知している。
だが、本殿と拝殿を直線上に配置したのは纏向遺跡つまり崇神天皇の宮が確認できる範囲では最初だろう。
出雲の本殿はその次の垂仁天皇の纒向珠城宮に習っているらしいし。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:08:58.77
>>503

つまり王宮が神宮になった例なんだよ。
遺跡?
掘れないから見つからないだろ。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:11:01.05
>>503

『日本書紀』において「橿日宮」、『古事記』において「訶志比宮」、『新撰姓氏録』では「橿氷宮」と表記されている。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:15:01.10
>>501
伊勢神宮の建物Cは定期的に建て替えてる心御柱のあるやつでしょ
纏向遺跡に心御柱はないでしょ?
伊勢遺跡にはある
0508日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:15:59.28
纏向を作ったのが物部ユダヤなら幕屋を作ったのだろうね、その幕屋は石上神社に移動し、籠神社も作ったのだろう
0509日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:16:26.82
>>472
渡海ですね
0510日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:18:04.86
>>507

後から造られた建物は先行する様々な様式を取り込むからね。
その辺は色々混ざるんだよ。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:18:33.35
>>506
『日本書紀』おくのもおかしな話。
魏志倭人伝に一致しない文献
0513日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 00:20:50.48
>>510
だからどっちがどうとか言うつもりはないんだけど
伊勢遺跡が無関係のように言われるのは違う
0514琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/05(月) 01:03:49.90
卑弥呼以前に各地に神社も宮も無い、誰もが王だという統治機構、理念を知らない半島と変わらんバラバラな国があったに過ぎない。
また、記紀には秦王国が記されていない、五倭王後、秦王国が建国されてる、倭に属した秦王が居たのだよ。九州には。
何れにしろ中華度量衡の纏向、箸墓に中華宗教集団が現れ臺(道観)を築いたのだよ。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:07:14.61
>>514
倭王は居ただろうがよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:14:58.28
>>511

神功皇后紀は卑弥呼から120年後らしいから、魏志倭人伝に記載がなくても問題はない。
位置的には不弥国が香椎宮あたりだろうけど。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:15:33.38
どうしても渡来人が建国した事にしたいのね
南方系渡来人には何も触れないのに
0519日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:21:43.51
高床式の建物なんて南方系でしょ
そいつらが建国したんじゃないのか?
0520日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:24:24.41
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。

田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後~筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。

足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰によるものであり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:26:24.15
日本書紀の記述からは、畿内だけではなくなぜか九州北部の各地に宮家があり、それぞれが三種の神器を持っていたことになっている。
その中でも、神夏磯姫の三種の神器の鏡は八咫の鏡と明記されている。
その年代は推定で4世紀の初めであり、3世紀中頃の卑弥呼崩御からほんの半世紀しか経っていない。
伊都平原の八咫の鏡が作られたのが3世紀初めと推定される。
神夏磯姫が卑弥呼や壹與の後継者だった可能性は高い。

もう一つの興味深い点は、記紀において神武は三種の神器を筑紫から持ち出していないこと。
三種の神器は神武の曽祖父のニニギが筑紫に持ち込んだものだが、大和で神武と饒速日が会談したとき、互いの身の証としては天羽羽矢を示している。
つまりその時点ではまだ三種の神器は筑紫にあったことになる。

神夏磯姫は日本書紀で筑紫の梟師(タケル)と書かれている。
これは筑紫で一番偉いまたは強いという意味だが、筑紫大宰の帥や倭王帥升にも通じる名前である。
そして帥は率とも書けるので、伊都の大率にも通じるのである。
それは九州倭国の支配者の称号に他ならない。
神夏磯姫を助けて戦った景行天皇の諡は、分家を意味する忍代別。
本家はもちろん、八咫の鏡を持つ筑紫大宰の帥である神夏磯姫。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:31:19.05
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座である。
平原遺跡の超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないため、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これを含めた八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都平原に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 01:40:23.52
夏吉の若八幡神社は神夏磯姫の末裔である夏羽の王宮だった。

妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた
ttps://lunabura.exblog.jp/16637306/
0524日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 05:25:27.47
>>467
「南行」になっていないから行っていない
不彌国から川で南下だろうな
0525日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 05:32:39.84
>>516
問題ありだな。
まあ、神功皇后のモデルで創作だろうだな
0526日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 05:44:12.03
>>521
邪馬台国ではないよ
卑弥呼が九州に居ただけだな。
57年、107年の記述に邪馬台国は登場せず
0527日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 05:45:50.01
神功皇后は実際は皇后ではなく(女性ですらなく)玄界灘近くの海人族の長であろう
卑弥呼の後裔の山門の田油津媛を倒して(邪馬台国の滅亡)筑紫で勢力を伸長し、さらに朝鮮半島に侵攻(三韓征伐、広開土王碑文)して勢力を拡大した後、畿内に上って崇神朝を倒したのだと思われる
日本書紀が皇后として描いたのは記紀編纂の大方針である「万世一系」の建前を貫くための脚色だろう

ちなみに、同様に簒奪王朝であろう後の継体天皇を記紀が応神5世としたのも「万世一系」の建前を貫くためと思われる
なお磐井の乱は、簒奪した継体朝と簒奪された応神朝の母体ないし同盟関係の九州王朝の間の戦争であったと思われる
0529日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 06:06:16.21
>>528
滅ぼした側が敗者側の女性を婚姻で取り込んで姻戚関係を結んだり祭祀を継承するのはよくあること
その後の統治を容易にするためであろうし、昔は本気で恐れられていた祟りを避けるためもあったかも知れない
0531日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 06:19:41.14
>>527
近畿にある邪馬台国との宗の分裂だろうな。
新羅派と百済派の対立産む。
両国建国に倭が関与、仲介として伽耶国を置く
倭国内の百済派が主導権握る。
バランスが崩れたのである。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 06:23:34.67
アホの邪馬台国九州説は迷惑な同類の九州王朝説を自己の責任で廃棄物処理しなさい。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 06:49:52.59
>>530
別に放棄はしていないけど?
0535日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 06:56:57.53
>>509
「魏志倭人伝」には、「水行」と「渡海」の区別を行程記述にちゃんと記述している。 
帯方郡→狗邪韓国は水行。 
対馬海峡は歩いて行けないから、「水行」ではなく「渡海」ときちんと区別している。   @阿波
0536日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:08:16.41
九州(筑紫)vs大和

九州神武vs大和土着(ナガスネヒコ)は九州の勝ち
九州応神
0537日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:10:48.56
>>536
途中だった

九州(筑紫)vs大和

九州神武vs大和土着(ナガスネヒコ)は九州の勝ち
九州応神朝vs大和崇神朝も九州の勝ち
九州磐井vs大和継体朝は大和の勝ち

大雑把に上記の構図を考える
0538日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:17:11.63
>>535
伊勢・志麻から駿河方面は
「渡海」ですね
0539日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:19:13.75
>>534
してませんけど?
0540日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:22:43.35
>>538
「魏志倭人伝」にない。   @阿波
0541日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:27:47.40
>>540
東千里があります。
又、水行なら四国には邪馬台国はないですね。
水行20日、10日で渡海はない事になります
0542日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:31:26.31
>>541
>東千里があります。

歩いて行けないから、「水行」ではなく「渡海」ときちんと区別している。   @阿波
0543日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:33:28.76
>>542
四国は没になりました。
水行20日、10日
0544日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:34:53.95
九州説は魏志倭人伝とも記紀とも整合しながら歴史の流れを語れるが、畿内説は矛盾する記述の多い魏志倭人伝や記紀を嘘が多いと軽んじるしかない
0545琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/05(月) 07:38:13.70
筑紫の次に秦王国があったのだよ、普通に香春、宇佐だわね、それから10ヵ国位あって海岸で大阪湾岸だね。秦国王が九州に居たんだよ。違うか?
0546日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:41:46.43
>>543
確かに豊予海峡は歩いて行けない。

伊勢湾は歩いて行ける。   @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:44:01.73
>>545
外国人居住地だろうな。
宇佐神社て立派ですね。
技術者が多くいたのだろう。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:47:30.04
>>547
まあ、推測はご自由に
0551日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 07:48:32.10
>>546
なので阿波はご臨終
0553日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:01:17.80
>>551
「東渡海千里」の紀伊水道は、歩いて行けないので「渡海」となっている。   @阿波
0554日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:02:51.52
>>551
「東渡海千里」の紀伊水道は、歩いて行けないので「渡海」となっている。   

伊勢湾は、歩いて行けるからご臨終。  わははははは   @阿波
0555日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:09:20.70
>>554
阿波の解釈では
水行20日、10日
渡海はない阿波はご臨終。
当方は
陸路取らなけれ渡海だけですから。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:12:14.68
>>555
その前に、方角、距離でご臨終。  わははははは   @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:15:05.37
卑弥呼が即位した時点では畿内は確かに後進地域で
その後、急速に発展することになる
三輪山信仰はこの背後で形作られたのだろう
大国主命は国譲りの前に、天孫が後輪する以前に三輪山に大物主命を祀っている
0558日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:17:54.22
>>555
>阿波の解釈では
>水行20日、10日

不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→紀伊半島  


畿内説の水行20日、10日は?  わははははは   @阿波
0560日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:22:41.05
>>555

奥山よ、畿内説の水行20日、10日は?  わははははは   @阿波
0561日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:27:07.06
箸墓伝説で倭迹迹日百襲姫は大物主の神の妻となる
神の妻とは巫女のこと
卑弥呼の鬼道の力の源泉、背景は三輪山にあった
0562日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:37:55.74
>>560
トンズラか?  わははははは   @阿波
0563日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 08:39:58.61
山門の卑弥呼の鬼道を継ぐのが筑紫の神夏磯媛であり八女津媛であり同じ山門の田油津媛

その祭祀を携えて大和に移ったのが神武天皇であり、その子孫で纒向で王朝を作ったのが崇神天皇
倭迹迹日百襲姫は卑弥呼の鬼道の流れを汲む崇神朝の巫女
0564日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:13:29.91
>>563
卑弥呼が死んでから何年後にモモソヒメが巫女になる設定?
0565日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:17:49.88
畿内説は、水行20日、10日を説明出来ない。  わははははは   @阿波
0566日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:20:04.56
>>565
阿波になど
0567日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:22:51.25
卑弥呼の力の源泉は三輪山の大物主
三輪山も大物主も持ち運べない

三輪山と大物主から卑弥呼は離れられない
0568日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:23:07.55
>>564
ざっと50年くらいかな
纒向学研究によると箸墓は3世紀末~4世紀初頭
また倭迹迹日百襲姫は割と若くして亡くなっている模様なので
0569日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:37:33.45
>>568
纒向学研究によると箸墓が3世紀末〜4世紀初頭?
どうして平気でそんなウソつくの?
性根の底まで腐ってるのかな
0570日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:45:56.20
単に間違った説を言い張るんじゃなくて
意識して他人を騙す嘘をつく
それが今の九州説だよ
腐りきってる
0571日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:47:51.49
>>558
不彌国から土佐国宿毛は歩いて行けるのか?
渡海とは書いていない。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:50:09.50
>>568
箸墓が作られたのは300年前後だろうね、卑弥呼の墓とは別物
0573日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:51:29.15
>>562
あらま、奥山になったしまった
近畿一帯説なんだけどな。
邪馬台国連合などはない
卑弥呼連合或いは壹与連合はある。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:52:21.72
>>571
だから、佐田岬の先っぽだけは歩いて渡れない と前々から言っている。  @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 09:53:44.51
>>572
理由もなく断定するのは
もう病気の一種
0577日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:01:06.56
>>574
水行?
0578日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:05:57.54
>>577
陳寿が、あの短い距離を「渡海」とは認識しなかったんだろう。   @阿波
0579日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:07:35.39
>>576
嘘つき
どこにも「箸墓は3世紀末〜4世紀初頭」なんて書いてない
0580日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:09:12.37
>>578
実際に行った人や陳寿が陸路がある事を
認識しなかたんだろうな。
島々からなるんでね
0581日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:20:23.63
>>579
君の読解力で読み取れないなら読み取れないで私は別に良い
普通の人が読めば、
箸墓から出土した布留1式土器は3世紀末~4世紀初頭なので箸墓もその時期であり、だから卑弥呼の墓ではなく台与の墓に比定する方がふさわしい、
という文意に読める
0582日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:25:14.09
>>581
嘘つき
頭が狂ってる
そう読めるって言うのはお前の意見であって
「纒向学研究によると箸墓は3世紀末〜4世紀初頭」
なんて書いてない

狂った嘘つき
0583日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:26:28.98
箸墓の周濠から出土した布留0式土器は何処から来たのか?

大池は箸墓築造後の姿では無く後世に拡張された部分と埋め立てられた部分が存在する。池として拡張された部分の土砂は外堀の埋め立てに使われて田んぼになったと想像出来る。現在の画像を見ると掘られた部分は、隣には民家がたっているので当時は住居として使われていた可能性がある。
田んぼの埋め立てに使われる土砂に含まれていた不要な土器片は近くの第81次調査の周濠に廃棄されたのであろう。つまり箸墓の周濠が出来てから布留0式土器が廃棄されるまではある程度の時が経ている事が考えられる。


https://i.imgur.com/v3nbqYL.jpg
https://i.imgur.com/iN0Fwx3.jpg
0584日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:31:55.69
九州説は嘘つくのがデフォ
本当のことを言うのはウッカリした時よw
0585日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:42:14.92
>>537

磐井対継体も、継体が勝ったとは言えない。
長門より西を取るつもりで、結局は屯倉一つを手に入れたのみ。
磐井は戦死したが、息子が筑紫の君を継承して、筑紫倭国の国体は護持された。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:43:21.30
>>581
>君の読解力で読み取れないなら読み取れないで私は別に良い

あんたが脳足りんだな
石野は「1974年に実見した記憶」って言ってるから、見たのは発掘した土器じゃない
実際の調査で箸墓の築造は布留0と出てるんで、表面採取された布留1式土器は追祭祀のものだ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 10:47:57.64
>>585
>磐井は戦死したが、息子が筑紫の君を継承して、筑紫倭国の国体は護持された。

滅んだよ
生前造った磐井の墓が最後で葛子の墓がないから
0588日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:11:04.29
畿内説は作文どころかチラシの裏の落書きレベルって事だな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:12:06.91
>>575
箸墓は誰の墓かい?
0590日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:13:37.81
>>589
年代と状況からみて卑弥呼
0591日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:14:50.16
>>590
証拠は?
0592日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:21:06.51
>>588
>畿内説は作文どころかチラシの裏の落書きレベルって事だな

理由もなく断定するのは馬鹿の証明
0593日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:27:06.27
>>591
年代が合致するで良いんじゃないの
0594日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:29:46.89
>>591
年代の根拠はいろいろあるが、面倒なのでとりあえずintcal20を挙げておく
状況は1がいくつか言ってるが教科書レベルの常識
0595日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:31:37.45
>>593
それだけでは証拠にはならない、ただの希望だ。
そもそも年代測定に納得している人は少数派だ。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:32:08.66
>>586
しかし石野は2021年の纒向学研究で、箸墓は卑弥呼の時代に合わないので卑弥呼の墓ではなく台与の墓と考えるべきだと言っているのは事実だ
0597日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:33:27.04
>>595
だったら全ての年代測定否定すれば?
0598日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:34:11.88
>>582
箸墓は卑弥呼の墓に時代が合わないので台与の墓と考えるべきだと石野は書いてるじゃないか
何を発狂してるんだね、君は
まるで宗教だな
0599日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:35:17.75
寺澤氏も箸墓が卑弥呼の墓である可能性は薄らいだと書いている。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:35:44.40
>>598
一人の意見なんてどうでもいいから
0601日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:38:00.29
箸墓だけがおかしな事をやってる証拠を出さないとな
0602日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:38:43.26
>>600
卑弥呼の墓だと断定しているのはキナイコシ以外だと誰?
0603日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:39:03.17
>卑弥呼の墓ではなく台与の墓と考えるべき
やぶれかぶれもいいところ。径百余歩の冢は卑弥呼の墓ってのはどうなった。
行き当たりばったりのアホバカ畿内説。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:40:51.51
俺から見るとバランスが悪く見えるのよ
そこまで年代測定に拘るなら他の遺跡の年代にも拘れよって話し
0605日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:40:56.94
纒向学研究の第4号には纒向遺跡は外来勢力が作ったと考えられると書いてある(寺沢薫)し、纒向学研究の第9号には箸墓は卑弥呼の時代と合わないので台与の墓と考えるべきと書いてある(石野博信)

畿内説も足元の議論はキナイコシの盲信通りではないようだ
0606日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:41:27.92
>>598
いずれにせよ、墓だけあって、都を成す集落遺跡が無い時点で資格無し。   @阿波
0607日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:43:20.42
無知なマスコミをそそのかして「卑弥呼の墓じゃね」とパブリシティさせたのが畿内説。それから国民を騙して税金泥棒もやってます。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:45:24.35
それと科学的な年代測定だけどこれは推進すべきだと俺は思ってる
0609日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:45:52.28
法には触れてないが「犯罪的」としか言いようがないね。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:53:06.86
年代測定の研究者に税金が支払われているな、半数がそうじゃないかよ
https://i.imgur.com/YxguDox.jpg
0611日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 11:55:54.12
畿内説には魏志倭人伝を読み解ける学者がいないのな
0612日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:06:56.21
>>594
Intcal20を根拠ってお笑いネタで言ってるんですよね?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:07:21.72
そのまま崇神朝の研究に移行すれば無駄にはならないけど
国民を騙し続けてきたってのはどうなんだ?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:20:19.51
>>598
「纒向学研究によると箸墓は3世紀末〜4世紀初頭」
なんて書いてない
捏造
0615日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:23:36.70
>>614
日本語としてその意味にしか解釈されない文章が書いてある
箸墓=卑弥呼の墓だと宗教的に盲信する君の脳が拒否しているだけ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:27:26.40
纏向学研究第9号の石野博信氏の文章を再掲
普通に箸墓は3世紀末から4世紀初頭なので卑弥呼ではなく台与の墓にふさわしいと読める

>邪馬台国大和説の考古学者を含む多くの人々は、箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼墓に比定するが、魏志にいう卑弥呼没年のAD247年か248年と箸中山古墳出土土器は一致しない。1974年に実見した記憶とその後の宮内庁による公表(中村・笠野1976)で見る限り箸中山古墳(箸墓)円丘部出土土器は布留1式で邪馬台国に都を置いた倭国女王・台与(壱与)の墳墓と考えるのがふさわしい。布留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当する。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:28:16.90
すでにどの学者も箸墓が卑弥呼の墓だとは考えていないのに、このスレの畿内説だけが信じてしまっている。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:28:59.25
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0619日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:30:35.53
>>612
>Intcal20を根拠ってお笑いネタで言ってるんですよね?

厳然たる事実
箸墓の築造が3世紀中葉だってことにはIntcal20が根拠の一つになってるけど?

反対する理由を言った人は一人も実在しない
0620日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:31:35.15
纏向に邪馬台国が無かったという考古学的根拠

1. 魏志倭人伝に記述されたような戦時下の邪馬台国の様子が、纏向とその周辺に無いこと

2. 古墳時代が始まる直前の弥生後期まで、纏向とその周辺には王が存在せず、中国(漢~魏)との交易を示す遺物が出士しないこと

3. 箸墓が造営された布留式期(3世紀中頃か)での纏向の直接的統治範囲が、奈良盆地・南西部の「おおやまと地域」に限定されること

(坂 靖氏の著書「ヤマト王権の古代学」による)
坂靖氏は元橿原考古学研究所企画学芸部長
0621日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:34:03.06
>>619
>箸墓の築造が3世紀中葉

その古墳は決して「前方後円墳」を指していない!   @阿波
0622日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:37:43.98
>>615
>日本語としてその意味にしか解釈されない文章が書いてある

という証拠は?
現実の問題として
纒向学研究に「箸墓は3世紀末〜4世紀初頭」
なんて書いてない んだが
0623日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:37:56.47
少し前に箸墓は卑弥呼の墓だ、纒向は邪馬台国だとマスコミに喧伝していた考古学界だが、その後根拠になる出土がさっぱり出なかった2022年末現在、本音でそう思っている考古学者はどれくらい残っているのだろうか?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 12:49:15.97
畿内説は邪馬台国のなりすましだったのです
0628日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:10:56.15
>>620
>坂靖氏は元橿原考古学研究所企画学芸部長

部長じゃなくて課長な
森浩一の最後の弟子ももう定年
九州説は遠くなりにけり
0629日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:11:29.77
>>622
その意味のことが書いてある
わからないのは読解力の問題
考古学以前の国語の話
0630日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:12:05.52
>>624
九州説、いつも証拠出せずに逃亡
0631日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:16:56.82
>>629
>その意味のことが書いてある

理由もなく言い張るだけ?
さすが九州説
0633日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:23:19.61
畿内説は邪馬台国オレオレ詐欺
0635日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:33:31.60
>>634
確かに箸墓は壺の形をしている
0638日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:52:16.74
>>636
やっぱその形なのかな
0639日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:53:17.52
>>613
崇神なんて居ねえ
0640日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 13:58:07.51
石野の文章にはいくつかのトラップがあるね

彼は1974年に箸墓円丘で見つかった土器を見たと回想し、布留1だと言った
ところが詳しくは「口縁端部の形状や胴部の張りなどを纒向出土の壷と頭の中で比較し、当時
の纒向3式新、現在の纒向4類、3世紀後半と考えた」と言っている
これは布留1ではなく布留0のことだ
辻褄が合ってない

どっちにしろ、箸墓は発掘されていない
彼が見たのは台風被害調査のとき宮内庁職員が採集したものだ
このとき須恵器など後世のものも採集されている
そして隣接地の発掘調査により、箸墓の築造が布留0だと判明した

布留1は古相・中相・新相と続き、それ全体が3世紀末から4世紀初頭とされている

つまり、「箸墓は3世紀末〜4世紀初頭」なんて誰も言ってないし、言えない
普通の人は嘘をつくのが嫌だから
0641日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:01:04.19
魏の皇帝が卑弥呼に金印を渡し親魏倭王としたとき、
>汝の在する所は遠きを踰(こ)ゆ。
と述べ、遣使をねぎらった

このときは、司馬懿の率いる兵によって公孫淵とその子・公孫脩が滅び、直後朝鮮半島の南端まで魏の直接領となった直後、
つまり、倭国は魏の隣国で、その距離は朝鮮半島南端から対馬までしか離れていない
倭国までの距離を語ったのなら、この表現は大げさすぎる
そうではなく、卑弥呼の都が奈良にあったことを知っていたから、九州からさらに2カ月かかると説明されていたからこそ、皇帝は「汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。」感嘆して語った
0643日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:17:56.61
>>642
今は2カ月でなく2日で、欧州でなく地球を1周できる
0644日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:18:19.89
現代人ですら調べないとわからないのに
当時の人間などもっとわからないだろう
司馬懿の功績を大きくみせるだけのハッタリなだけ
卑しい倭人を遠く(彌)から呼んだ
来たではなく呼ぶ
0645日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:18:54.45
>>641
そうではなく、卑弥呼の都が四国の「阿波」にあったことを知っていたから。   @阿波
0646日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:20:39.96
>>640
>このときは、司馬懿の率いる兵によって公孫淵とその子・公孫脩が滅び、直後朝鮮半島の南端まで魏の直接領となった直後、
つまり、倭国は魏の隣国で、その距離は朝鮮半島南端から対馬までしか離れていない

朝鮮半島南端まで魏の直轄領ではない
魏志の韓伝によると、帯方郡の南には馬韓、辰韓、弁辰の三種の韓があった
また韓の南は倭と接するとか、弁辰の?盧国は倭と界を接するとかという記述があるので、朝鮮半島南部には倭に属する地域もあったようだ(おそらく狗邪韓国を含む)

当時の中国が認識する倭は、北部九州から対馬海峡を挟んで朝鮮半島南部であったと思われる
0647日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:20:55.50
>>644
>現代人ですら調べないとわからないのに

心配ご無用!
「倭人(阿波勢力)」が絶えず半島と行き来しているから。   @阿波
0648日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:23:32.07
司馬懿が簒奪政権でないとするため、漢王室の血脈の蜀が正統で晋はそこから禅譲されたとするもの。魏の勢力を過大に書く必要性などない
0650日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:45:27.63
>>646
思われません
0651日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:51:36.50
>>641
奈良は知らないと思う
翡翠等があるので九州を超える範囲で
倭国や倭地を認識していたと思うが?
0652日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:53:47.69
<<646
以前、三国志時代の郡の管轄範囲の表で朝鮮半島南部まで含まれていたのでそういう書き方をしました
ご指摘ありがとうございました
0653日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 14:59:22.95
>>651
奈良は「ヤマト」ですね
0654日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:12:58.82
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0655日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:15:02.44
北部九州の邪馬台国連合から東に海を渡ったところ(本州、四国)にも国があり、それもみな倭種だ、
というのが当時の中国の認識
0656日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:20:29.19
後漢や魏晋時代の中国や朝鮮半島は、北部九州(倭)以外の日本列島については出雲ぐらいは知っていたかも知れないが大和だの阿波だのはガチで1ミクロンも知らないだろう
0657日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:26:20.81
倭の五王より前の中国史書には九州の地名や人名ははっきりと出てくるが、大和だの四国だのの地名や人名がはっきりとした形で書かれたことは一度もない
大和だの阿波だのと勝手に思いこんでいる側が都合よく脳内補完して勝手に解釈しているだけだ
0658日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:28:18.64
魏志倭人伝には、北部九州以外の日本列島のことは「東に海を渡ったらまた国があってみな倭種」以外には何も書かれていない
そもそもそれ以上のことを知らない
0659日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:30:49.90
魏志倭人伝に戸数の記録がある
倭国29か国のうちの8か国分
そこから推測した当時の日本列島の人口と、最近の研修者の推計にそれほどの違いがない
魏志倭人伝はall about 倭人だから、当時の倭人の居住域と人口についても調べたはず
もし、九州以外の倭人について調査していなかったとしたら許されない錯誤と受け止められただろう
0661日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:39:09.00
纏向学研究第9号の石野博信の
P45 Ⅳ.2・3世紀、吉備の大和・河内進出に
纒向遺跡出土外来系土器の比率再検討(石野2019bより)が掲載されている

吉備25%、東海20%、河内20%、山陰・北陸17%、阿波・讃岐・播磨8%、近江5%

「報告書」の間違い
東海系のS字口縁甕だけは胴部破片でも判るため数値に入れてしまい、
円グラフで東海系49%となってしまった
0662日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:48:28.45
九州も本州も四国も海で隔てられて分かれてる事なんて中国人は知らねえよ
0663日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:49:23.54
>>646
>三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93

一定の地域に存在した集団という説明のようです
0664日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:50:11.19
>>661
関東ないの?
0665日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:54:27.80
中国人の認識は東南の大海の中に浮かぶ島ってだけだよ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:55:30.31
>>662
水先案内人は知っているだろ
0667日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 15:57:33.70
>>662
よ~く知っている。
倭国(阿波)は、たびたび大陸・半島と往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してから。 わははははは   @阿波
0668日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:04:08.40
阿波が関門海峡を忌避する理由は何?自説が崩壊するからなのだろうかw
0669日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:05:21.53
漢王朝は日本のことを知っていた。だから中平銘鉄刀があるわけだ。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:12:11.26
>>669
知ってるかどうかで言えば徐福の時代から知ってるよ
0671日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:14:11.23
>>668
「出入国在留管理庁」に相当する、一大率(筑紫忌部)伊都国(直方)に立ち寄らなければならないから。   @阿波
0672日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:20:07.14
>>671
阿波フィクションとしては、いつの時代まで直方に立ち寄ってたのかなw
0673日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:22:43.29
>>672
瀬戸内海がルートとして利用できるようになったと考えられる雄略天皇時代まで。   @阿波
0674日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:25:35.82
交易はしてたよ
毎年朝見に来てたと書いてあるだろ
だから近畿でも銅が手に入った
0675日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:35:45.46
>>672
お返事は?   @阿波
0676日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:41:59.81
恐らく冬と台風の時期は渡海してない
水行ひと月陸行ひと月の往復で四か月かかるから時期は限られる
0677日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:47:54.57
いかに一支國が交通の要衝で大事か
一大率がいんのもわかるねw

馬韓の目支國の真似して
倭地の一支國w

答え見えてきた?w
0678日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:54:00.77
>>673
何故に関門海峡を通らなかったのか聞いている
0679日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 16:57:31.27
王都を語る阿波なら関門海峡を通る事など問題ないだろ、皇室専用列車が原宿から出発するように
0680日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:08:09.88
>>678

>>671を読め! カス!   @阿波
0681日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:09:16.40
>>680

王都を語る阿波なら関門海峡を通る事など問題ないだろ、皇室専用列車が原宿から出発するように
0682日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:10:25.77
>>659
それこそ倭人に聞いたんでしょ
つまり倭人は把握してたって事
0683日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:14:32.07
使者が博多湾で上陸したなら関門海峡なんか知らないだろ
0684日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:17:40.41
>>683
しなければ?
0685日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:17:51.91
>>680
出雲も直方に行かないと朝鮮と交易できなかったのか?
0686日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:17:57.02
市で調べると
いちきしまひめ‐の‐みこと【市杵島姫命/市寸島比売命
にぶつかるんだよね

斎の「いつ(き)」もあるけど
まあ「いち」がどれを指してるか、もっと精査せんと

なお、一大國は
天原 = 高天原 は確定

末盧國 ← 盧 = あし、よし。穂のでていない葦のこと。

葦原中つ国がどこかも確定したのでw

答え完璧です!
0687日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:21:45.30
>>685
出雲忌部がか?  出る幕なしじゃ。  わははははは   @阿波
0689日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:22:37.19
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0690日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:24:21.24
>>682
だな。水行なんてそうだろうな。
東千里も里数知る中国人から断片的に聞いたり
とか?
0691日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:27:18.77
>>688
一般的な説ですね。松浦
他の千里と比較すると短い
0692日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:28:48.90
>>687
何を言っているか意味不明だ
0693日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:30:23.34
>>690
千里は目視できるでしょ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:30:56.15
>>682
たとえ倭人に教えられとしても
倭国全体の人口と九州の人口を比較すれば
九州以外の地域にどれだけの人口があるのかは容易に計算できる
0695日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:31:37.04
>>693
他の千里はどうやった?
0697日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:36:22.73
>>691
だから、福津市辺り・万津浦   @阿波
0698日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:36:40.46
>>694
日本が分断してるとわかるわけない
0700日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:40:20.67
>>698
倭国の人口を教えてくれた倭人は、日本の地形の概要も伝えることができただろう
0701日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:40:49.52
>>699
短里て?一里58mでいいのか?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:44:08.11
>>701
いいんじゃないかと?
魏里より短ければ自由だし
0704日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:54:40.11
纏向学研究第9号の石野氏の文章

>邪馬台国大和説の考古学者を含む多くの人々は、箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼墓に比定するが、魏志にいう卑弥呼没年のAD247年か248年と箸中山古墳出土土器は一致しない。1974年に実見した記憶とその後の宮内庁による公表(中村・笠野1976)で見る限り箸中山古墳(箸墓)円丘部出土土器は布留1式で邪馬台国に都を置いた倭国女王・台与(壱与)の墳墓と考えるのがふさわしい。布留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当する。

この文章の論理構成は以下
①箸墓古墳円丘部出土の土器は布留1式
②布留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当
(③よって箸墓古墳は3世紀末から4世紀初頭の築造と考えられる)
④これは卑弥呼没年と合わないので卑弥呼の墓ではなく台与の墓ではないか

③は直接書かれていないのでカッコ書きにしたが、ロジックとしては①と②の結果③が導かれ、また③を前提に④と言っている

つまり、纏向学第9号には、箸墓古墳は3世紀末から4世紀初頭の築造と書いてあるに等しい

論理的思考力のないキナイコシの負け 笑
0705日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:55:19.53
>>700
それを知ってるのはそういう役職に着いてるひとでしょ
0706日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:57:22.77
要は、纏向学のオフィシャルな出版物(2021年3月発表)に、箸墓古墳は3世紀末から4世紀初頭と書いてある
0707日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 17:59:27.75
>>706
退屈だなおまえ
いい加減どうしたいのか言えよ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:09:29.62
石野氏と言う人が不埒な悪徳団体である邪馬台国の会が主催する安本美典賞の賞金10万円が欲しいと言っています。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:12:38.41
邪馬台国オレオレ詐欺のキナイコシが追い込まれてるなw
0711琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/05(月) 18:14:06.78
箸墓が岱輿の墓は考え難いな。まず魏尺はいいとしても築造が綺麗すぎる、倭人主導とは思えない。次に岱輿が百襲姫伝説には成り得ないだろ。
百を襲う姫は我が姫しかおらんのよ。
0712日本@名無史さん
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2022/12/05(月) 18:22:03.83
倭国はかつて100国あったが、魏に朝貢したのは女王国30国のみ

この時点で女王国とは倭国の一部地域の話だと示唆しているわけで

畿内だの瀬戸内だのはまだまだ後の話だろ
0713琪瑛教祭酒
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2022/12/05(月) 18:25:45.02
卑弥呼になるには資格が必要なのだよ。
1つ、鬼道を身に付けていること。
2つ、30を纏める政治システムを知っていること。
3つ、粗末な朝貢でも中華皇帝に称賛される理由の有る者。
4つ、箸墓伝説に相応しい者。
以上をクリアできる実在人物は1人だけだよ。
0714日本@名無史さん
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2022/12/05(月) 18:26:51.00
>>708
確かに書かれてるね

邪馬台国大和説の考古学者を含む多くの人々は、箸中 山古墳(箸墓)を卑弥呼墓に比定するが、魏志にいう卑 弥呼没年のAD247年か248年と箸中山古墳出土土器は一 致しない。1974年に実見した記憶とその後の宮内庁による公表(中村・笠野1976)で見る限り箸中山古墳(箸墓) 円丘部出土土器は布留1式で邪馬台国に都を置いた倭国 女王・台覧^(壱与)の墳墓bニ考えるのがふbウわしい。布 留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当する。

https://i.imgur.com/HNVvzqN.jpg
0715日本@名無史さん
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2022/12/05(月) 18:27:27.93
>>712
銅を手に入れてるから
0716日本@名無史さん
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2022/12/05(月) 18:29:56.83
>>714
それでどうするの?
0717日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:31:02.56
>>716
??
0718日本@名無史さん
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2022/12/05(月) 18:32:41.84
>>717
そいつはそう言ってるらしいけどおまえはどうすべきだと考えてるの?
0719日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:35:24.33
>>703
東なのか?
0720日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:35:56.39
>>614
横レスだけどあんたの負け
0721日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:36:17.76
>>703
今度は1里96mか?
0722日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:37:41.14
>>720
>>718だけど俺は?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:38:15.34
>>719
一例だが豊前からは普通に見えるよ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:38:25.94
>>721
今度は1里90mかだな
訂正
0725日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:38:55.58
短里?大爆笑!水行20日は?水行10日・陸行1月は?どうするの?
0726日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:39:23.34
>>723
いったい1里は何mなんだ?
0727日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:39:24.79
>>721
手前の国東半島も見えているだろう
0728日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:40:10.92
>>727
サッパリ、わからん短里
0729日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:41:18.03
>>722
ちゃんとした日本語で書いてくれるかなあ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:41:49.53
>>729
そいつはそう言ってるらしいけどおまえはどうすべきだと考えてるの?
0731琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/05(月) 18:43:26.73
数有る墓の中でも特別なのが箸墓なんですよ。
卑弥呼の墓です。
岱輿は宗女、卑弥呼が指定した後継者、五神山の第一座、岱輿。
西殿塚がおそらく桃園を護る西母岱輿の墓。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:44:08.72
>>726
海上の千里は目視でしか無理でしょ、陸上での経験を持って決めてるのだろう
0733日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:45:28.28
>>730
ちゃんとした日本語で書き直してくれるかなあ?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:45:39.63
1里 = 432mです。つまり、京都の三条から四条までの距離です。無知な部外者が勝手に変更されては困ります。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:46:16.84
>>704

石野は実見した宮内庁書陵部箸墓出土の壺を纏向4類と考えたので
それは布留0式、纏向5類が布留1式
0736日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:50:33.10
良いことを教えてあげよう。箸墓古墳の盗掘品を秘かに分析しているので2世紀中頃の築造は正しい。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:51:53.48
>>734
それで計算すると対馬から壱岐の距離が432キロになるけど
0738日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 18:53:06.58
>>736
何が出てきたんじゃ?w
0739琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/05(月) 18:54:54.68
誰が2世紀中頃で正しいのだ。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:05:06.28
>>705
そうかもしれない
0741日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:06:52.54
博多ー釜山が200キロ、一里は66メートルになる
0742日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:08:52.79
>>741
だから何?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:12:00.09
>>737
使者の訪問回数の累計とか?
0744日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:12:32.36
>>740
つまり統一国家大和朝廷
0745日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:12:56.29
短里とか言っている愚か者は伊都国と奴国との距離100里をさっさと計測しなさい。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:12:58.26
>>712
今は使者と通訳で交流の可能な国
昔は100余国だったが、それが統合されてきて現在は三十国ということ
倭国が29か国と狗奴国で三十か国となる
0747日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:16:46.58
>>744
失礼だけど発言の意味が解らない
詳しく述べてほしい
0748日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:20:01.97
>>746
其餘旁國遠絶 不可得詳
なので北部九州説はないな
0749日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:23:31.74
>>745
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)       @阿波
0750日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:24:38.65
>>745
金印の出た志賀島対岸だと7〜8キロくらいだね
0751日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:25:47.15
>>742
何って、逆に何?
0752日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:26:48.71
>>747
日本全体の事を把握してる人が居るんでしょ
バラバラじゃ無理だし
0754日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:31:29.28
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0755日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:32:23.77
>>753
危なかったですね、24時間ネットの書き込みをチェックして九州説を罵倒する事を強要されます
0757日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:40:01.83
>>751
何が言いたいのかサッパリわからん?
0758日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:41:38.93
>>757
おまえはバカか
0759日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:42:51.88
>>758
君がバカだよ。
唐突過ぎて。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:47:11.43
>>748
次にxxx, 次にxxx,とあるけど
連なっているのか定かではない
飛び地もあるかもね。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:48:34.34
>>756
バリ島に行った時にえもしれぬ懐かしさを感じたけど、遺伝子レベルで記憶が甦ったのかもしれない
0762日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:50:10.48
>>759
前振りで距離の話題が出ているではないか
0763日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:52:30.26
>>762
レス番つけてくれ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:54:53.80
>>752
そういう人がいて魏の使者に教えてくれたのかもしれない

私は、たとえ倭人の誰からも教えられないとしても魏の使者は調査しただろうとは思います
0765日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 19:55:29.74
>>763
5chにそういう流儀は無い。感じろ
0766日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:01:23.13
>>756
東南アジアの高床式建物は日本町時代の日本から伝わっただけ

ポリネシア人が5000年前に台湾あたりからフィリピン、パプアニューギニアを経て
ポリネシアに広がった事は彼らの祖先が遺したラピタ土器が台湾あたりの印文土器と
特徴が一致するからで、マダガスカル人の故郷がインドネシアのスラウェシ島から
渡来入植した事も彼らにとって祖先が遺した土器がスラウェシ島の土器と特徴が  
一致するからで、日本列島には中国以南の土器文化は一切ないので中国以南から
入植した痕跡は一切ありません

醜悪すぎる南支那 半ブタ半黒人 汚物生命体、残念でした
0767日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:03:19.17
>>764
何処に家があるかわからんのに地理知らない人が無理に決まってるだろ
調べる方法はそれぞれ村長が数えて知事がまとめて国王に提出する
0768日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:22:20.31
>>733
どっちにしろ箸墓は布留0なんだから時代を繰り下げるのは無茶だろ
0769日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:22:26.86
>>766

縄文時代には南アジアのどこからかハツカネズミが移入していたらしいので人類と共にやってきた可能性はあるね
0770日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:24:01.73
>>768
その布留0って何だよ?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:38:21.74
畿内説は邪馬台国オレオレ詐欺グループの税金泥棒です5ch
メインでやってます
0773日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:39:56.89
布留サギ納税
0774日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:46:05.19
魏志倭人伝に布留とか出てこないしな、倭人伝に記載された証拠とか無いの?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 20:48:09.72
>>769
ない



中国以南の土器文化が日本列島にはない



人間、食べなければ死にます

人間が死なないために必要なのが炊飯器たる土器なのだよ

人間の生死に関わる必要不可欠な生活痕跡が土器なのです
0777日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 21:18:17.27
>>765
断る
0778日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 21:19:48.26
>>776
それは1980年代の意見
今は260〜280に訂正している
0779日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 21:21:24.19
>>776
布留−1式が250年?
布留−2式が200年?
0780日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 21:33:54.79
>>779
寺澤の説では布留1が4世紀第1四半期で布留2が第2四半期
ただし布留1の定義が学者によって違う
0781日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 21:53:05.25
石野の説では280から布留1で、こっちの方が多数派だね
ただし同じものを布留1古相と呼ぶか布留0新相と呼ぶかの意見の違いであって、年代観は同じ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 22:06:22.46
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0783日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 22:56:27.73
九州説、終わってるね
0785日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/05(月) 23:46:05.03
>>784
いえ。学界の主流説で全国民が学習してますけど
0787日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 00:59:33.40
畿内説も厳しいな
魏志倭人伝の記述に合う遺構や出土品がびっくりするほど出て来ない
箸墓=卑弥呼の墓も、纒向=邪馬台国も、本気で信じている人がどれだけいるやら
0788日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 01:54:45.97
フェイクを歴史認識させる地域って韓国とB落ぐらいなものだからね
無いものをある事にしてしまう洗脳教育ってやつな
0789日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 03:02:46.21
九州爺さんらがここまで現実逃避しないといけないくらい
世間じゃ畿内説で確定って方向に傾いてるんだね
0790日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 03:38:52.28
「弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している」

こんなかんじに全国で歴史教育が進んでますけど
これ、現実
0792日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 03:57:26.31
邪馬台国の卑弥呼が都する所が纏向なだけで奈良県に最強の軍事国家があったわけではない。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 04:16:42.03
>>791
でも、やっぱり奈良に一強
これが動かせない現実
0794日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 04:44:52.25
なんで、もう高校教科書にも載ってて全国のみんなが習ってるような定説を
九州説は理由も言わずに否定というか拒否するのか
世間常識じゃあ理解できない
0795日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 04:53:36.45
纏向に邪馬台国が無かったという考古学的根拠

1. 魏志倭人伝に記述されたような戦時下の邪馬台国の様子が、纏向とその周辺に無いこと

2. 古墳時代が始まる直前の弥生後期まで、纏向とその周辺には王が存在せず、中国(漢~魏)との交易を示す遺物が出士しないこと

3. 箸墓が造営された布留式期(3世紀中頃か)での纏向の直接的統治範囲が、奈良盆地・南西部の「おおやまと地域」に限定されること
https://i.imgur.com/aCpa7cm.jpg
0796日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 05:06:30.98
>>795
1 そんな要件ないから関係ない
2 弥生時代は関係ない
3 そんなこと考古学者は言ってない
0797日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 05:39:12.13
>>794
もしそのような教科書を文科省が検定で合格としているのなら、国民に間違った知識を強要していることになり憲法違反になる
0799日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 05:59:31.82
>>795
邪馬台国ついて詳細なもんは
水行の所のみ。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 06:08:46.19
>>792
政治や経済の中心でもないし
国々のひとつに過ぎない。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 06:22:07.55
広範囲に集落が点在する近畿一帯
復興、開拓、宗教地だな。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 06:39:51.94
まあ、鉄も絹、ト骨も出るし
三角縁神獣鏡以外の鏡もあるので
大陸や半島との交流はある。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 06:48:49.39
>>787

出てきてるけど調査できないだけ
0807日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 06:56:17.52
>>806
まあ、それも邪馬台国の一部
0808日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 06:59:38.73
>>807
邪馬台国オレオレ詐欺出ました
0809日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:06:00.91
>>808
君のことね
0810日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:09:17.86
邪馬台国になりすまして税金泥棒の畿内説
0811日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:12:13.63
共立で九州へ。冢は伊都国か不彌国
金印、封泥等の出土があればいいけど。
移動できるもんだから金印等が出土しても
そこが邪馬台国とは限らない。
糸島の金印も疑問だな。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:13:05.33
>>810
九州説もだよ。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:16:16.63
>>812
嘘はいけません、証拠ある?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:22:50.16
嘘の拡散の為に国民の血税が使われているのは許せない
0816日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:23:18.75
>>814
ぜんぜん、問題でもない。
各自治体にもあるもんだよ
0817日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:24:41.95
>>815
そりゃ、どこの自治体や県も同じ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:27:29.03
>>816
卑弥呼の墓だと捏造したらダメだろ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:28:41.29
>>818
じゃ、九州説は卑弥呼の冢は
想定は禁止な。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:29:48.40
>>818
平原とか言うのもいるが?
0821日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:31:18.48
>>794
どこの出版社の何というか教科書かな?
0822日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:37:46.06
>>820
糸島市は卑弥呼の墓とは言っていない
0823日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:37:58.93
>>821
山川とか清水書院の日本史Bだろ
載ってるな
0824日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:38:46.98
>>823
記述内容は?
0825日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:49:03.63
>>822
九州はどこだい?
0826日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:50:22.72
>>822
金印ミュージアムもあるけど?
0827日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:56:13.66
>>825
今、吉野ヶ里で掘っている最中だから結果待ち
0828日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:56:42.83
魏志倭人伝に記載された邪馬台国像は以下
・武力で周囲を制圧した連合内覇権国ではなく、戦乱を収めるために各国が女王として共立した卑弥呼がそこに所在していただけの連合の一構成国
・南には連合に属さない狗奴国があり、また連合から東に海を渡ると別の倭種の国があるなど連合自体の地域もある程度限定された一地方勢力
・狗奴国と戦争して苦戦し魏に泣きつくなど連合としても他の地方勢力を圧する軍事大国ではない

古墳時代の奈良盆地に弥生時代とは比べ物にならない強力な支配者が存在していたとするなら、それは魏志倭人伝に記載された邪馬台国像とははっきり異なる
むしろそれは邪馬台国の次の時代のヤマト王権が持つ性格として捉えられる

九州説は、元々邪馬台国は九州に、ヤマト王権は奈良盆地にあることを前提にしている(邪馬台国とヤマト王権を東遷で結ぶかどうかには九州説内でも立場の違いがあるが)ので、奈良盆地に強力な支配者が出てきたと主張されてもそんなことは当たり前だとしか思わない
0829日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:58:29.06
>>827
掘ったって出ないけどな
佐賀は鏡が少ない地域だ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 07:59:34.11
>>794
>高校教科書にも載ってて全国のみんなが習ってるような定説

藤村の旧石器も教科書検定を通過しましたがあれも正しかったとの主張ですか?
0832日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:10:02.73
むしろ古墳時代が始まる時期の奈良盆地に弥生時代とは比べ物にならない支配者が出てきたなら、それは東遷説型九州説にとっては好材料
0833日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:13:21.16
>>830
それを理由も言わずに否定して
国民から受け入れられると思う?
だから九州説はダメなんだよ
0834日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:14:31.33
>>832
東遷の形跡を示せないので悪材料
0835日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:18:58.14
吉野ヶ里で出た銅鏡は、中国前漢時代に作られた連弧文(内行花文)鏡で『久不相見、長毋相忘』(久しく相まみえず、長く相忘るなからんことを)「長く会わなくても、お互いに忘れないようにしましょう」という銘文が鋳出されている。同じ形、同じ銘文をもつ銅鏡は、中国雲南省の前漢時代の墓(石塞山7号墓)から出土したものが知られている程度で、非常に珍しいものだという。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:22:32.58
>この刻目突帯文土器という土器は最初は縄文末に出雲地方あたりから始まった土器で

「阿波」からだよ。   @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:30:33.12
邪馬台国研究第4号に記載されている寺沢薫氏の論の抜粋

>本論の二つ目の主旨は、ヤマト王権成立前史としての大和弥生社会の政治的評価である。第Ⅵ様式までの集落と庄内式との間にはその出現と消長をめぐって大きな断絶があり、とくに拠点的母集落の解体は単線的内的発展の延長とは考え難く、外的なイベントの存在が想起される。その象徴こそが王権最初の都宮と目される纒向遺跡の突然の出現であるが、王権のシンボルたる前方後円墳の系譜が畿内・大和に辿れないこと、奈良盆地の「クニ」や「国」の形成メカニズムが政治権力による重層化になかったこと等々から、大和(畿内)弥生社会の政治的権力の結集がヤマト王権の誕生に直結したという論理は破綻すると考える。

寺沢氏は上記をもって直ちに九州勢力や吉備勢力の東遷という結論は採っていないが、上記の内容は東遷説型九州説と理論的には整合可能だ
古墳時代になって大和盆地から銅鏡や鉄や絹など弥生時代には九州主体だった出土品が増えることや、記紀に天皇は九州から起こって大和を征服した経緯がはっきりと書いてあること(ディテールまで全てが史実とは言わないが)、などから考えて、九州勢力による奈良盆地征服が古墳時代の端緒となりヤマト王権の萌芽となったことは仮説としては十分に考えられる
後は学術的な証明を待つのみ
0838日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:34:47.73
>>837
整合不可能だよ
九州から人が来てないだろ?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:39:29.12
>>824
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:42:38.96
>>837
>後は学術的な証明を待つのみ

誰もしないので
九州説は切り株の前にただ座って、飢えて死んだ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:44:31.11
>>838
畿内古墳の構造(青石石棺・葺石・竪穴式石室など)や
副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器・三角縁神獣鏡など)を見れば、
一発で「倭人(阿波勢力)」のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波
0842日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:48:22.04
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、
大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、
その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。   @阿波
0843日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:50:36.27
>>841-842
寺沢薫氏は、ひたすら「阿波」を排除している。   @阿波
0844日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 08:54:13.02
>>839
邪馬台国や卑弥呼の事ではないな
0847日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:00:21.01
畿内には、出雲族(大国主)による銅鐸国家があったと見るべき。
日本最古の神社と言われる大神神社は大物主が祀られている。
大物主と大国主は同一とも言われている。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:02:53.05
出雲と阿波は関係あるかもしれないね。千葉には鴨川って地名もあるし。
南房総は阿波族が移住した土地だし
0849日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:03:22.64
>>847
と、大物主バカが妄想を言うとります。  わははははは   @阿波
0850日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:04:23.91
>>848
出雲忌部、関東忌部   @阿波
0851日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:04:54.02
>>844
敗れ去った九州説には、もはや反論する力も無い
ただ突きつけられた現実から目を逸らして拒絶するのみ

ただの死体のようだ
0852日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:08:48.25
>>851
つまり、生きているのは「阿波」だけってことだ。  わははははは   @阿波
0853日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:23:56.17
箸墓を作るのに鉄は欠かせない、鉄を持った勢力が奈良に進出し箸墓を作ったのだろう。箸墓工事現場は制服された奈良盆地の住民の労役場だったのです
0854日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:28:57.46
>>853
誰が造った誰の墓?
どうして前方後円墳にしたの?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:44:11.53
>>854
作ったのも被葬者も天皇家の先祖筋だろうね、卑弥呼の墓ではない。前方後円墳の形は男の△と女の○が合体した物だろう
0856日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 09:51:45.26
庄内式が3世紀なのは50年前から常識なんだ
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

纏向遺跡が出来たのは庄内式の少し前
つまり卑弥呼の時代にぴったり重なる
九州説は纏向遺跡が発見されてから慌てて中身のない年代繰り下げ工作のキャンペーンを始めたが、泥縄で笑っちゃう
0858日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:02:39.36
>>857
そんな事実ないし

九州説信者の間で流行ってる妄想病の幻覚症状でしょ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:07:09.95
日本列島に鉄器文化が浸透していた弥生時代と
畿内が無理矢理作った古墳時代というものには連続性は無い
そして纒向から古墳時代が始まったわけでも無い
東日本の前方後方墳はそれ以前から存在していたのだから、古墳時代の始まりについては東日本で調査するべきである
0861日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:13:48.79
>>833
教科書などを根拠にするのがおかしいって事ですよ。
余裕で間違いが記載されますから。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:14:57.83
>>849
人違いです。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:17:11.16
>>861
おかしい?
根本がわかってないの?
頭わるいね
常識として広く流布してるって事実の動かぬ証拠だよ

それを理由も言わずに否定して
国民から受け入れられると思う?
だから九州説はダメなんだよ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:21:15.77
>日本列島に鉄器文化が浸透していた弥生時代と
>畿内が無理矢理作った古墳時代というものには連続性は無い

ほらほら
理由を言わずに通説を否定しても無駄だってこと

>そして纒向から古墳時代が始まったわけでも無い


ほらほら
理由を言わずに通説を否定しても無駄だってこと

>東日本の前方後方墳はそれ以前から存在していたのだから、


ほらほら
理由を言わずに通説を否定しても無駄だってこと
0866日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:21:18.41
間違いが「常識として広く流布してるって事実」として
旧石器捏造問題という間違いがそうなった事実を提示しているのに
頭わるいのはお前の方だろうよwww
0867日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:22:34.79
>>866
頭悪いね

ほらほら
理由を言わずに通説を否定しても無駄だってこと
0868日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:24:32.74
実質、歴史教科書なんてのは時代遅れで頭の悪い連中の想像作文だからな
魏志倭人伝はじめ海外の記録も併記するべきなんだよ
そしてあとは自分で考えろと言っておけばいい
0869日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:26:26.56
>>866という人は、自分が何を指摘されているか分かっていないのです
0870日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:27:39.91
旧石器捏造問題と箸墓年代偽造の違いは
今のところ「バレたかバレにくいか」だけの事。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:27:43.04
>>868
いくら学者を馬鹿にしても九州説は生き返らないよ
0872日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:27:46.74
>>854
>誰が造った誰の墓?

「倭人(阿波勢力)」の豪族が自分の墓を造った。


>どうして前方後円墳にしたの?

「阿波」で既に原型が出来ていたから。   @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:28:55.05
>>870
反論できないってことは
あんたが負けてるってことだ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:29:35.04
【通説】
世間一般に広まっている説。・・・というだけで正しい説ではない。
よくない方法で歴博が世に広めただけの事。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:36:07.31
>>838
畿内古墳の構造(青石石棺・葺石・竪穴式石室など)や
副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器・三角縁神獣鏡など)を見れば、
一発で「倭人(阿波勢力)」のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波
0877日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:36:18.41
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、
大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、
その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。   @阿波
0878日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:36:31.91
マスコミへの事前リークにより、『朝日新聞』をはじめとするマスメディアでの華やかな大宣伝(5月29日)のすぐあと、2009年5月31日(日)、早稲田大学で、開かれた日本考古学協会の研究発表会で、歴博の研究グループは、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」説を強い確信の言葉とともに述べた[発表者は春成秀爾(ひでじ)氏を中心とするメンバーである]。ただ、この発表は、日本考古学協会の審査員による事前審査を受けたのちの発表というものではなく、日本考古学協会の会員であれば、だれでも発表できる質疑応答をふくめて25分という短いものであった。質疑の時間は、もめにもめた。マスコミへの事前リークという姿勢そのものへの違和感も大きかったようにみえた。

発表会の司会者で、日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授が、そのとき、報道関係者に次のような「異例の呼びかけ」を行ったことを、『毎日新聞』が報じている。 
「会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」(『毎日新聞』6月8日付夕刊)
0879日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:37:02.36
>>871
いや学者もわかってるんだよ
自分が馬鹿だって
正確には上のやつは馬鹿ばっかりだって
0880日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:38:52.88
>>874
>よくない方法で歴博が世に広めただけの事。

証拠は?
中傷したら九州説が惨めになるだけ
0881日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:40:10.34
日本の歴史分野には多くの隣国スパイが存在するというのは皆気づいてるよな
そのうち畿内説は天皇が半島起源だと言い始める事になる
0882日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:40:16.17
>>878
中傷じゃ勝てないんだよ
0884日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:46:57.79
>>883
なぜ?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:50:33.46
>>827
期待だな。
邪馬台国は近畿一帯
卑弥呼は九州へ。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:51:50.50
>>885
証拠は?
証拠がないと、あなたが誹謗中傷犯になるよ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 10:54:27.15
>>854
>誰が造った誰の墓?

「倭人(阿波勢力)」の豪族が自分の墓を造った。


>どうして前方後円墳にしたの?

「阿波」で既に原型が出来ていたから。   @阿波
0890日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 11:03:58.04
>>889
証拠がないってことは、お前が誹謗中傷犯で確定だ
0891日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 11:27:09.51
誹謗中傷と言論の自由って難しいね。
一切不可なら嘘を広めるのには好都合なんだろうけど。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:17:33.19
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0897日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:19:11.11
俺も一応共立だと思ってるんだけど奈良の遺跡や古墳の規模は共立じゃないんだよね
だから魏志倭人伝を鵜呑みにはしてない
0898日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:19:18.05
>>895
>槨有り前方後円墳は魏志倭人伝の記述と合ってませんね

前方後円墳に槨なんて有りませんが?
0900日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:23:14.58
なぜニニギの天孫降臨が薩摩の岬だったりするのか?
それで、どうして韓の国が見えるのか?

本当は末盧國に天孫降臨したのに
↓この理屈で説明できますw
(畿内説の言う東、南の方向も答え見えてきますw)

829 ニューノーマルの名無しさん 2021/07/17(土) 21:48:20.69 ID:hfbgtIOU0
緑色でしめした
九州と本州中国地方の地形が酷似
https://i.imgur.com/XajP3ZC.jpg

九州の地形 = よく見たら西日本を横にした地形

有明海が、瀬戸内海に見えるってことw
太宰府が、広島は阿岐国あたりに思えることw

また答え出ちゃったねw
0901日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:23:21.41
記紀には纒向民総動員で箸墓を造った様子が書かれてますね
纒向遺跡はその時の施設でしょう
普通に考えて
0902日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:25:06.39
俺の永平寺アーカイブより

724 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 23:35:24.72 ID:GVm4dqYs0
どこが上陸地だったかは揺るぎがないな

263 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 13:19:04.38 ID:GVm4dqYs0
五畿七道
https://i.imgur.com/lmYJeDr.jpg

これを見ると上陸地がわかる?w

参考、国交省マップ
https://i.imgur.com/hsFvhYC.jpg
0903日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:26:29.74
>>901
纏向には今のところ生活の痕跡がない
0904日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:27:33.25
通説も最新の科学でひっくり返るから通説を根拠にするのは愚の骨頂
古墳時代は3世紀中葉からってのもintcal20で打ち砕かれたし
0905日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:29:41.05
>>904
それは他との比較も重視しなきゃ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:31:06.74
>>897
共立だって、一度権力を握っちゃったら強大になることもある
教祖様が欲のないのんびりした婆ちゃんだったとしても、事務長が陰の権力者になったりする事もあるだろ?
0908日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:31:52.44
>>906
そんなバカな
0909日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:33:03.16
>>907
勿論それも含めて
卑弥呼は意外に権力持ってたのかも
0910日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:33:30.70
>>904
>古墳時代は3世紀中葉からってのもintcal20で打ち砕かれたし

それ、無知な素人の白昼夢だろ
学者は誰もそう言ってないからな
0911日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 12:40:28.70
>>904
>古墳時代は3世紀中葉からってのもintcal20で打ち砕かれたし

古墳時代は3世紀中葉からだろう。
ただし、その古墳は「前方後円墳」を指していない。   @阿波
0912日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 13:11:10.44
intcal20で古墳時代は3世紀中葉からって結果が出てるぞ
0913日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 13:18:50.29
九州には壱岐に面して末盧国、伊都国、奴国、不弥国が並んでいる
末盧国から東南を五百里で伊都国
伊都国から東南百里で奴国
奴国から東に百里で不弥国

不弥国は奴国から百里で海に面した場所となる
福津市あたりが該当すると思う

方角は末盧国、伊都国とも半島部分からの移動と考えれば南東で妥当
問題は不弥国は奴国から東と記されているが北東の方角なこと
埋め立てで地形が変わっているとしても違和感はある
しかし他に水行できる港はないので福津市あたりとすると

そこから
>南至投馬國水行二十日
と記されてているが、南に水行するのは不可能なことはすぐ解る
水行で行ける方角は東しかない

このことから、方角が後代の写本の写し間違いという推測は十分な蓋然性がある
0914日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:27:17.30
>>913
別に投馬国、邪馬台国に
行く必要性がないからね
なので細かい方角や停泊場所の記述がない。
日数と官名、見積戸数のみ
0915日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:34:18.91
>末盧国から東南を五百里で伊都国
伊都国から東南百里で奴国
奴国から東に百里で不弥国

>方角は末盧国、伊都国とも半島部分からの移動と考えれば南東で妥当

恣意的な書き換えが九州説の弱点
0916日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:43:21.75
2世紀末頃に女王国誕生
3世紀前半で卑弥呼の邪馬台国は消滅する
そして男王が立つ内乱を引き起こし収拾がつかなくなる
臺与を女王とし、266年に朝貢を再開
ここでようやく平和が訪れた
0917日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:44:52.14
>>915
南東ではなく東南でした
恣意的な書き抱えではなく
私の単純なミスです
0918日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:48:14.22
>>916
>3世紀前半で卑弥呼の邪馬台国は消滅する

こら! 勝手に「阿波」粟国を消滅させるな!   @阿波
0920日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:51:07.27
>>900
「韓の国が見える」などとどこにも書かれていないですよ。
0921日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 13:51:19.01
崇神天皇を知れば邪馬台国がどこなのかアホでも分かるがな
 
崇神天皇は3C末生まれで4C前半に在位した人物で倭人伝の臺与と生きている時代が重なる

崇神天皇が唯一頭の上がらなかった人物が叔母の百襲姫である

ここで百襲姫は臺与の諡号だという事が分かる

百襲姫は未来が見える霊能者で崇神天皇は百襲姫のおかげで暗殺から身を免れている

謀叛でヤマトが戦場になるの予知して寸前に食い止めたのも百襲姫であった

このように崇神天皇は数々のピンチを百襲姫のおかげで切り抜けている

トヨは甥のミマキイリヒコに禅譲して死ぬまで有能な補佐役に徹した

百襲姫陵が崇神天皇陵よりも大きいのは当たり前の事なのである
0922日本@名無史さん
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2022/12/06(火) 14:29:42.19
>>921
なぜ一行飛ばしなのかは分からないがわかったのはお前がアホと言う事だけだった。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 14:38:46.37
卑弥呼や臺与を過大評価しすぎだよ。
彼女ら(巫女)で政治がうまくいくなら歴代ずっとそうすればいい。実際は違う。女を王にして内乱が治まるのは皇子たちの王位継承問題を先送りにしているだけの事。その女王期間に継承候補者が死んだりして死ねば覇権争いが一つでも減るって事ですよ。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 14:44:51.48
倭人伝における邪馬台国までの距離は司馬氏の自己顕示欲のために10倍。
おそらく人口などもそうであろう。
結論出てますけどね。
短里とか存在しませんので論破するのやめてもらえませんか?>>1
0925日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 14:47:53.11
>>889
キナイコシ危機一髪
0926日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 14:50:30.30
卑弥呼や台与は一地方勢力内で宗教的カリスマで担ぎ上げられた巫女女王
ヤマト王権のような巨大古墳を作る強力な権力とは全く異質だ

南にこの地方勢力に属さない狗奴国があって戦争して苦戦
東に海を渡るとこの地方勢力とは異なる倭種の国がある

こうした魏志倭人伝の記述や考古学的成果(大陸との密接な交流、絹・鉄鏃・銅鏡・環濠などの頻繁な出土)を考えれば、邪馬台国(連合)はどう見ても北部九州

大和はこの頃は脆弱な弥生勢力があっただけで、まさに東遷した邪馬台国連合内勢力による征服(神武東征)を受ける直前のタイミングのマイナー地域でしかない

阿波?
1700年後に池田高校が全国制覇をするまで誰も知らん 笑
0928日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 14:58:21.15
卑弥呼(宇那比姫)亡き後、男王(フトニ)を大王に立てたが内乱になって
臺与(百襲姫)を大王に立てるとようやく国が治まった
 
中国の文献によるとこの後に再び男王(ミマキイリヒコ)を大王に立てて
前の女王とともに数回ほど朝貢したとある
0929日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:04:21.79
>>926
>「阿波」?

「阿波」が気になって仕方がないようだ。  わははははは   @阿波 
0931日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:10:44.81
畿内説は年代偽装が隠しきれなくなって箸墓を卑弥呼から臺与に鞍替えだなw
0932日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:15:23.73
>>926
>卑弥呼や台与は一地方勢力内で宗教的カリスマで担ぎ上げられた巫女女王
>ヤマト王権のような巨大古墳を作る強力な権力とは全く異質だ

宗教的カリスマで担ぎ上げられた巫女女王 が巨大古墳を作る強力な権力へと成長することに何か問題でも?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:20:38.73
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0936日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:21:14.16
>>931
九州説は嘘をつくことしか能がない
かわいそうだな
0937日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:51:13.46
>>913
なんで海に面して並んでるのに歩くんだよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:55:56.99
畿内説は何重もの嘘の地層で塗り固められています、日本の歴史を歪める畿内説に天誅を
0939日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 15:56:31.70
>>926
でも卑弥呼は倭王なのよ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:07:12.46
>>913
福津周辺から南に沿岸沿いに水行すれば有明海に出る
0942日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:34:33.92
>>939
当時の中国が認識する「倭」は北部九州から朝鮮半島南部に掛けての対馬海峡を跨ぐ一帯を指す
だから奴国は倭国の極南界であり、東に海を渡った本州や四国に住むのは「倭種」(倭人に近い連中)となる
卑弥呼が倭王と言うのは北部九州の王という意味に等しい
0943日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:37:09.37
>>942
等しくない
0945日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:41:58.89
九州はト骨が出土する地域が有明海沿い
牟田遺跡等を通るルートだな。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:45:01.65
>>942
倭種なんて国があるかボケ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:46:58.24
>>942
奴国は倭国の極南界
北部沿岸の博多湾にはならない。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:50:16.45
>>941
沿岸水行の記述はない。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:52:31.87
>>937
帯方郡から倭国へ移動する方法については、九州に上陸することで完了
あとは倭国内の国々の紹介
九州北部の四か国は陸路で移動できる
次の投馬国へは水行で二十日を要し
さらに邪馬壱国へは水行十日と陸行一月かかる
こう説明することで倭国内の国々の位置関係を把握させようとしたもの
0950日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:54:37.93
>>941
それは南ではなく西
0951日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:55:29.04
倭の五王より前に、中国の史書に具体的に出てきた地名・人名は北部九州のみ
当然だ
中国人が認識していた「倭」は北部九州(プラス朝鮮半島南部)なのだから
大和なんてものを中国人が認識するのは倭の五王以降
0952日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:57:29.57
だから後になって中国の史書はこの日本と名乗る連中は我々が昔から知っている北部九州の倭とどういう関係なの?と混乱する
0953日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 16:57:45.81
>>948
水行とは沿岸を船で行く事だ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:11:31.08
>>954
>津屋崎から南に船を出したのだろう

そこらが「末盧国」だ。   @阿波
0956日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:18:16.42
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0957日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:23:39.02
>>954
具体的な航行の方法について記しているのではない
あくまでも、地理的な位置関係の説明
魏に住んでいる人に地理的な説明をするのにそんなトリッキーに事はしない
0958日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:27:26.71
>>957
津屋崎あたりから西に行くと対馬や朝鮮半島だけどな
0959日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:28:22.44
ついに愚鈍な邪馬台国九州説が水行20日、水行10日・陸行1月を無視してなかったことにしだした。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:32:10.29
>>959
水行20日、水行10日・陸行1月を「魏志倭人伝」通りに説明出来るのは「阿波」だけ。   @阿波
0961日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:34:29.00
まだ箸墓が卑弥呼の墓だと言っている学者はいるの?
もういないよね?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:35:28.62
>>865

通説だの痛説だの騒いでいるけど、畿内説は一つも根拠を示せてないね。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:36:48.94
福津から南の方向は久留米や吉野ヶ里がありその辺りに目的地があったのだろう、福津の南に船で向かったと考えればいい。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:36:57.34
戦前の歴史の教科書を思い返してみれば、教科書に載っているということが何の根拠にもならないことは明白なんだよ。
科学的証拠を示せていない時点で畿内説に勝ち目はない。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:37:35.49
>>962
とか決めつける理由は?
0966日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:37:46.71
箸墓はオオモノヌシの墓
奥さんであるモモソ姫が一緒に埋葬されてるだけ
本来はオオモノヌシの墓
0968日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:39:06.25
>>964
科学的証拠を示せていないという証拠は?
0969琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/06(火) 17:39:11.82
倭奴国まで、後漢では北部九州までの認識だよ。
その後住むこと7.80年の元は男王(帥升ら)が北部九州か違う所かにおったのだよ。卑弥呼が北部九州とはここからは確定できない。で隋書では明かに地勢東高西下畿内であり邪馬台の者と言っとる。1、に説明されとる。
箸墓が卑弥呼の墓であり、この際だから言うが
大物主も大国主も卑弥呼のことだよ。物部は卑弥呼教団幹部、大祭酒及び祭酒。大率は姦令。
卑奴母離は雛守、五斗米道の組織図だよ。
内向花文鏡なんぞの銘文では大倭王にあらず。卑弥呼は神仙思想、広漢神獣鏡。岱輿は神山の第一座、一番弟子。後継者問題で不和が弟、卑弥弓呼
。五王武の上奏と妹子の内容とでは明かに知性が違う、バカでも違う政権と解る。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:40:47.05
>>908

馬鹿だと思うけど、このスレ的にはそれが畿内説の主張なんだよ。
纒向には大きな運河があったから可能だし、纒向から河内の土器が出ないのは、大和川で簡単に来れるから運ばないのだとさ。
詳しくは過去スレ参照。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:42:59.08
>>914

女王が都とする邪馬台国には行かなくてはいけない。

後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:44:59.07
【筑紫の日向】

記紀における神代の王都である筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山と言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり、朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif
0973日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:45:15.12
卑弥呼の鬼道は神降ろしのたぐい
今で言うイタコ芸
神功皇后もモモソ姫もそう
大陸のアレとはまったく違う
0974日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:47:06.26
>>947

倭国というのは、大海中の島々という認識なんだよ。
だから九州北岸に倭奴国かあつても矛盾しない。
0975琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/06(火) 17:49:30.17
北枕は単なる神降ろしとは違う。
イタコ道が隋代まで一番信用していたのか?倭人わ。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 17:54:31.32
出雲・畿内は銅鐸でイタコのイメージ
九州は鏡や勾玉で巫女のイメージ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:04:20.18
神勅や託宣と言えば宇佐神宮
0980日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:09:25.80
キューキュ キューキュ キュッキュキュ キュー州

QQショップなつかしいー
0981日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:12:01.82
伊都国産の真珠?そんな汚い物はいらんわ。真珠は伊勢志摩に限る。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:17:01.62
伊勢志摩は夫婦岩だけでなく真珠も伊都志麻と同じであったか
海人族達には故郷を思い出す風景だったのかもしれないね。
0983◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/12/06(火) 18:31:16.74
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1670316301/50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0984日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:44:02.51
>>981
伊勢志摩の真珠養殖は明治に入ってからだからね
0985日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:51:50.57
貢白珠五千孔 台与は5千個の真珠を献上している
北部九州では自前で用意出来るが、海なし超ローカルおおやまとでは用意出来まいに。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 18:57:05.07
平安時代の『延喜式』「雑式」には、貴族達が家来を派遣して盛んに対馬の真珠を買いあさったため、人々が混乱していると記述されている。
https://i.imgur.com/BWrCLQz.jpg
0987琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/06(火) 19:16:22.28
また、そういう話か、天然真珠なぞ、蜆にもできる。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:21:40.48
女王国で揃えば済むのに
わざわざ、自国に求めるとは阿保過ぎ。
翡翠とかは九州からは出ない。
貴重な輸出品なので女王国の国々のひとつ。
北陸でも鉄出土多い。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:23:44.77
白珠は水晶の加工品で真珠ではない。水晶の加工品は京都府北部で製造された。九州にはない。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:38:30.79
倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す

稲部遺跡から出土した絹に近い
0991日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:41:35.10
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0992日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 19:47:48.16
卑弥呼の時代の絹の出土て
福岡の三カ所と滋賀の稲部遺跡ぐらいだな。
福岡からのは出土は見た事がない。
どの程度のもんか定かではないが?
0993日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 20:01:55.29
>>992
福岡に三か所もあったか?
0994日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 20:15:55.96
九州を移動してみると感じることだが
一般的に抱くメージより狭い
東北地方・中部地方は各々九州の1.5倍の面積がある
0995日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 21:01:00.00
邪馬台国なんて北部九州のちいさな地方勢力
というか、弥生時代の日本列島はどこもそんなもの
吉備も出雲もどっこいどっこい
その他はもっと小さい
神武東征を受ける直前の大和もナガスネヒコ程度の弱小勢力しかいない冴えない地域だった

公孫氏を滅ぼして帯方郡を接触した魏が周辺諸国に朝貢を促した時に、日本列島で朝鮮半島から一番近くて交流があった筑紫勢力に声を掛けたらたまたまそこのリーダーが卑弥呼という巫女女王だっただけの話だ

ただ、晋の実質的建国者司馬懿の公孫氏征伐の功績を大きく見せるために、魏志を書いた晋の役人陳寿が邪馬台国を呉の背後を脅かす東の大国のように脚色したために、邪馬台国(連合)は大層な書かれ方(魏志の異民族列伝最多の約二千字)をしてしまった

一部の畿内説の考古学者が一生懸命に大和の「強大な権力ぶり」を強調するが邪馬台国はそもそもそんな存在ではない
頓珍漢も甚だしい
0997日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 21:14:54.89
>>995
>邪馬台国なんて北部九州のちいさな地方勢力

「邪馬臺国」じゃない北部九州はな。

「邪馬臺国」=粟国は、大河四国三郎吉野川流域と鮎喰川流域を併せた、強大国。   @阿波
0998日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 21:15:33.77
>>995
>一部の畿内説の考古学者が一生懸命に大和の「強大な権力ぶり」を強調するが邪馬台国はそもそもそんな存在ではない

「そんな存在ではない 」という根拠は?
また理由なき決めつけ?
0999日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/06(火) 21:27:41.57
>>998
お前はいつも同じパターンの繰り返し!  能なし!   @阿波
10011001
垢版 |
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垢版 |
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