邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)4
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。
伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。
里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。
三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。 三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた 三国志に出てくる「統属」は6か所。
「A統属B」は全て、
一)"元々別所属"のAとBが、
二)新たな所属変化に伴う"人事異動"によって、
三)AがBの「直接の部下」になる、の意味。
☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。
☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。
☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。 三国志に出てくる「共立」は3か所。
「共立」は、
@王位継承順位第一位の資格が無い男系王族が、
A周囲の者たちの推薦によって
B王位継承順位を飛ばして王に立てられている。
<夫餘伝>
『尉仇台死 簡位居立 無適子 有孽子麻余 位居死 諸加共立麻余』
夫餘王の尉仇台が亡くなると、簡位居が立った。
簡位居には嫡子がおらず、庶子の麻余がいた。
簡位居が亡くなると、(家臣団の)諸加が、庶子の麻余を共立した。
<高句麗伝>
『伯固死 有二子 長子拔奇 小子伊夷模 拔奇不肖 國人便共立伊夷模爲王』
高句麗王の伯固が亡くなった。
伯固には長男の拔奇と、弟の伊夷模がいた。
拔奇は不肖だったので、国民は弟の伊夷模を共立して高句麗王とした。
<倭人伝>
『其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼』
倭国もまた元々は男を王として70-80年が経過していた。
その後倭国乱が発生して、倭国内でお互いに攻伐することが何年も続いた。
そこで一人の女性を共立して倭国王とした。その名を卑弥呼という。
よって、同じルールを適応すると、
倭国に1-2世紀に渡って70-80年の男王時代があった。
その倭国の中で倭国乱が起きた。
卑弥呼は倭国王家男系の人物であり、かつ本来は王位継承順位一位では無かったが、
倭国の皆によって共立されて王となった。 >>1
>邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。
妄想だけで、まったく裏付ける遺跡が何もないお前が何を言っても誰も信じない。 @阿波 邪馬台国は連合国ではなく連合国倭国を構成する単体のクニ
女王卑弥呼が都したのは伊都国ではなく邪馬台国
投馬国は伊都国や不弥国の南
基本的なところをいろいろ間違っている >>11
それだとどこにも着かなかった。
結局は伊都説のみが矛盾なく行程を説明できる。
違うというなら無理のないまともな行程論を提示するべき。 >>1
基本的に魏志倭人伝は旅行ガイドブックではないからな。
陳寿が一番書きたかったことは、卑弥呼様が司馬仲達が
公孫氏を滅ぼした時に、魏の明帝に朝貢使節を送ったことだからな。
だから場所とかはかなり適当な感覚で書いていると思うぞ。
だから倭の使節がお日様のほうから来ましたと言っていたのを
中国人は南からやってきたのだと解釈したのだと思うぞ。 >>13
>公孫氏を滅ぼした時に、魏の明帝に朝貢使節を送ったことだからな。
倭人(阿波勢力)は、前漢時代から中国と通行している。 @阿波 (伊都説者は
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
の2ch版も参照されたし) 梁職貢図の倭人の姿は裸足で魏志倭人伝からの伝聞と思うかもしれんが、
当時見たまんまの倭人だと思うぞ。
なんで裸足かというと、そりゃ舟で移動するからだ。
古代日本は平野部の少ない島国で基本は舟移動。
街道整備は奈良時代から。
だから裸足なんだよ。靴履いてたら滑ってアブナイ。邪魔。
文化の優劣ではなく、生活環境から裸足が良かった。
そして、倭人が裸足ということは、東夷世界の制海権は倭人が握っていたということ。
海の覇者。
中国遣使のその他大勢は長い船旅で
内陸の中国人から見たら物珍しい海の男たち。
梁職貢図の倭人も外交や交易交渉をするトップは中国服(スーツ)を着ていただろうし、
倭国でも陸地で暮らしてる人は靴が普及していたかもしれんが。 宮の本遺跡とかで上腕が発達した人骨が出土している。
海の男たち。
いつも漕いで移動。裸足。
服は貫頭衣でもない、船員の作業着だろう。
万一転覆した時はなるべく身軽になれるのがいい。 >>13
魏志倭人伝の記述は複数の資料の寄せ集めだよ
魏の明帝に朝貢使節を送った時の記録以前の資料も参考にしている
里程と日程は別の資料からの引用で同じ行程を距離で説明んだよ。 >>18
魏志倭人伝の記述の仕方がどうあれ、前漢時代から中国と通行していた
倭人(阿波勢力)による情報だ。 @阿波 >>19
魏志倭人伝には倭人が文字を使用していたと書かれている
文字を使用していた痕跡の硯、削刀、机等の文房類が出土するの主に北部九州地域
四国からは出土しない
文献資料と考古学的な出土品が一致するのは北部九州地域だよ。 >>20
砥石が出ようが出まいが、倭人(阿波勢力)は、前漢時代から中国と通行していた。 @阿波 >>22
どんな証拠が欲しいんだ? 言ってみな。 @阿波 それそれ、トンするトンする。 わははははは @阿波 >>15
レス番703
>その視点で平原遺跡を見てみますと、
>1号女王墓は割竹形木棺墓で、その埋葬方向の直線上には吉武高木遺跡があるんですね。
>さらに、平原遺跡の西の大柱、西の鳥居2つ、東南の大柱、が、
>1号墓を挟んで一直線に並んでおり、
>これもまた吉武高木遺跡を指していますね。
>この吉武高木遺跡への軸線から「日の出」を迎えるのが、「春分の日と秋分の日」。
やはり高祖山を挟んで西の吉武高木遺跡→東の糸島側に遷都したのか。 ネトウヨはなぜ負け続けるかw
縄文文明やら竹内文書やら日ユ道祖論やら富士文書やら神代文字やら東日流外三郡誌やらというスピ系の連中がネトウヨの中核だから
多くのネトウヨの特徴として平田篤胤の信者である事が挙げられる
そして安倍晋三の支持者で日本共産党や在日コリアンに対するヘイトを行うのが共通点である
つまりネトウヨとは差別主義者の根源的悪である 短里がどうこうももういらん
韓人が韓方可四千里を否定したくて騒いでいるだけだ
万二千里で女王国に入国だから、
畿内説だろうが阿波説だろうが短里が焦点ではなく、
不弥国から先に日程を繋げることができるのかどうかが焦点なのだからな
むろん日程と里程は並列で、共に北部九州伊都国が目的地だとするのが、
正解だがな。 ここの説は今は無名だが将来的にはメジャーになると思うよ。 >>33
>畿内説だろうが阿波説だろうが短里が焦点ではなく
間違いなく、短里だ。
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg >>34
考古学的には半島南部投馬国。
文献もそう。
逆に否定するほうが根拠を示すべき。 >>37
>考古学的には半島南部投馬国。
???
大国「投馬国」とは、こういうものだ。 @阿波
投馬国(五万戸)(着岸地宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「田村遺跡」・「若宮ノ東遺跡」・「西分増井遺跡」・「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「居徳遺跡群」他 >>40
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州に、「平野・可耕地」がいくら有ったところで無用の長物! わははははは @阿波 >>38
田村遺跡は倭国乱期に滅んでいる。
裸国と考えれば、平形銅剣勢力=倭国王師升の軍勢に征服され、
その160人の一部として田村遺跡出身者が洛陽に渡り、
後漢書や三国志の裸国・黒歯国の記事を伝えた、と考える。 >>42
>裸国と考えれば
下手な考え、休みに似たり。 @阿波 伊都国の一貫山銚子塚古墳では、
頭部に鍍金方格規矩四神鏡と内行花文鏡、
側面に三角縁神獣鏡8枚で、畿内との同笵鏡複数。
だから、4世紀後半になっても平原女王墓や三雲井原王墓と同じ権威だったことがわかる。
しかも鍍金鏡。 素材では、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(日田ダンワラ古墳)と、
鍍金方格規矩四神鏡(一貫山銚子塚古墳)が至高。糸島市二丈田中
大きさだと、
超大型内行花文鏡5面(平原遺跡1号墓)が世界最大。 日程の部分は後で別の資料から差し込まれた記事だよな
里程は不弥国で終わってる。 >>46
里程は不弥国からさらに先までありますね。
島の大きさを足して一万二千里でちょうど伊都国と奴国の中間、つまり弥生北部九州の考古学的中心地点ですからね。
陳寿が細かく記しているのは一万二千里の詳細を示すためでしょう。
張政の報告書が元と思われる旅誌は伊都国の描写までですから、
これが日程の情報源でしょうね。
里程とは別記事ですね。 魏志倭人伝の文体は地図を描いているのではなく、
帯方郡から倭までの動的な移動そのものを記しているからね。 動的な移動を示している、移動季節は素潜り漁をしている夏である、
方角は出発時の真夏の太陽を基準とした方角である >鍍金方格規矩四神鏡(一貫山銚子塚古墳)が至高。糸島市二丈田中
鍍金の銅鏡って他に出土例はあるの? 後漢製の鍍金方格規矩四神鏡を貰えるのは卑弥呼か台与だけ。
(正始八年に張政を送るときに伊聲耆掖邪拘が洛陽で朝貢外交している)
つまりはそういうことだな。
平原遺跡1号墓女王が卑弥呼。
一貴山銚子塚古墳が台与。 一貴山銚子塚古墳は素環頭大刀も出土しているから、古いよ。
3世紀もある。
しかも素環頭大刀は3口(卑弥呼が貰ったのは二口)だから卑弥呼じゃなくて、
台与か男王かだね。 三雲南小路遺跡から金銅製四葉飾金具が出てるから金の存在自体は知られていたはずだね >>47
里程の記録を書いた人は女王国の博多湾(不弥国)から再び船に乗って倭種(山口県)に行ってますね
東方を探検する為に呼子から博多湾へ船だけを移動させたんでしょうね
そして中国地方を4000里(320km)陸路移動した。 >>56
さらに侏儒国まで行っているので、
日程の張政とは別の人。
だから魏志倭人伝の時代よりも昔、後漢書の短里測定と同じ時期でしょう。 隋書俀国伝
隋書は唐の魏徴撰。唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628)に書かれた物。
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬台者也
地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬台なる者なり。 隋代の倭国は、地勢は東高く、西は下。
隋代の倭国の都も、邪靡堆に都する。
すなわち、魏志いうところの北部九州邪馬台国なる者なり。
(隋書記載時の都も北部九州にありますよ) 倭国の勢力圏が拡大した、けれども都はやはり魏代と同じ邪馬台国倭国の領域、つまり北部九州にあった。 後漢の鍍金方格規矩四神鏡と内行花文鏡と、弥生の素環頭大刀。
一貫山銚子塚古墳のが古くね? いや、若い頃の卑弥呼は狗奴国討伐の女将(おかみ)軍として
八女津あたりに邪馬台ヤマトの駐屯地が有ったのだと思う。
伊都国はのちの太宰府的な外交拠点だったんだろう。
当然若いころの卑弥呼も駐在し帯方郡の使節とも交渉したり、
八女津で軍事指揮をしたりと忙しく。 そして常時は岡山倉敷周辺を主な拠点にし、桃を供え鬼道の儀式を行ってた、
のち邪馬台国の女王として共立され奈良纒向の宮殿へと入城した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています