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侠客の歴史
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/02(火) 13:55:40ID:rA6bcckk0
清水次郎長
0002名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/04(木) 15:17:25ID:2VN3wSxj0
他は?>>1
0003名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/04(木) 20:04:23ID:9at9gSUO0
幡隨院長兵衞
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/17(水) 20:34:05ID:DiDbWkOp0
会津小鉄
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/12/19(日) 17:24:27ID:x7ailjrvO
高山 清司
0024名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/26(火) 04:39:32.56ID:AaayCLBuO
あにきいいいい!!!!!!!!!
(笑)
0025名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/05/16(月) 22:02:39.69ID:sCNnJMmh0
清水次郎長はもはや静岡県の神様みたいになってるな
0026名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/06/01(水) 23:45:42.56ID:4R+c919e0
後藤忠政
0027名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/06/22(水) 20:21:53.15ID:q6xYxD2T0
人情に厚かったという幕末の侠客(きょうかく)、吉良の仁吉をしのんだ「仁吉まつり」
0029名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/07/14(木) 20:37:43.63ID:V1g6c7Eo0
森の石松
0030名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/07/14(木) 23:36:37.55ID:k36EdcClO
にわやでんべい
0031名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/11(木) 23:18:16.67ID:2nBmBTm70
児玉よしお
0033名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/19(金) 01:32:58.51ID:36O2hM9c0
児玉誉士夫と東声会
0034名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/19(金) 16:00:25.12ID:HqwpEAZx0
小島よしおとお尻あい
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/22(月) 09:47:32.55ID:3iZWH3KI0
小嶋陽菜と阿藤快
0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/27(土) 01:26:49.06ID:7gFyPHVk0
こだまで帰る平井堅
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/27(土) 19:53:56.43ID:fSwXBgWO0
島田伸介
0038
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2011/08/28(日) 07:14:15.97ID:ySvaYFA/0
明石屋万吉=小林佐兵衛を忘れていないか?
その功績は清水の次郎長を遥かに凌ぐ。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/08/29(月) 18:02:32.50ID:2h0GBDL50
明石屋さんま=ボビー・オロゴンを忘れていないか。
からくりテレビは紳助の廻しより間が長い
0040名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/09/30(金) 22:00:45.31ID:eH3laZ1t0
島田の紳助
0042名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/10/10(月) 20:37:09.94ID:4XNT14hm0
かきぴー
0043名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/11/12(土) 01:43:22.11ID:sshi3k1I0
■大阪人アンケート「橋下54票対平松42票」

さて、「週刊文春」、新潮が報じた橋下徹の出自報道に対して、ポストが「橋下徹『抹殺キャンペーン』
の暗黒」で、度が過ぎると批判している。両誌は橋下の父親が同和出身で暴力団組員だったこと、橋下が
小学2年生のときに自殺していることなどを報じたが、こうしたやり方は「集団リンチ」(ポスト)のようで
「立派な差別、人権侵害」(同)だとし、橋下が権力者だから許されるという考え方はおかしいと噛みついて
いる。

AERAは「『同和と実父』報道に反論」で、橋下のツイッターによる反論を載せているが、その中で
こういっている。

「今回の報道で俺のことをどう言おうが構わんが、お前らの論法でいけば、俺の子供にまでその血脈は流れる
という寸法だ。これは許さん。今の日本のルールの中で、この主張だけは許さん。バカ文春、バカ新潮、
反論してこい。俺に不祥事があれば子どもがいても報じろ。俺の生い立ちも報じろ」

現代は大阪人100人に緊急アンケートをして、この出自報道が市長選にどういう影響を与えたかを調査
している。それによると橋下54票、平松邦夫42票で、少し前のような勢いはやや減じたが橋下有利は変わらない
としている。

「サンデー毎日」も3人の政治評論家、選挙プランナーに予測させている。2人は橋下有利だが、1人は共産党
が候補を出すことを断念したことで約10万票が平松へ流れる可能性があると、平松リードと見る。

今週も文春は巻頭で「橋下徹の『逆襲』!」と特筆大書しているが、中を読むと、いくら批判しても橋下有利
は覆らず、やや八つ当たり気味で迫力がない。新潮は文春と同じネタだが、3ページとトーンダウン。中学時代の
同級生に政治資金のためのパーティ券を斡旋してもらったが、そのあと1年余の間に、その同級生が代表取締役を
務めていた建設会社が、大阪府の公共工事を5件も受注していたのはおかしいと、共産党府議団が橋下に
公開質問状を送ると発表した件を問題にしている。これが「バカ新潮の血脈論は、公衆便所の落書きと同じだ」
と橋下にツイッターで書かれたことへの返答のようだが、これも迫力不足。(>>2-に続く)

▽J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/tv/2011/11/11112887.html?p=3
0044名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/12/07(水) 23:26:24.47ID:1bnGoGjE0
亀田ボクシング之助
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/12/08(木) 15:15:58.48ID:cB2cEhfL0
吉田磯吉
0047名無しさん@お腹いっぱい。
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2012/01/02(月) 21:27:27.71ID:kbAOqzN50
関ジャニ∞
0049名無しさん@お腹いっぱい。
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2012/01/08(日) 16:25:22.03ID:oKCGXHiw0
日本のヤクザが見事な全身の入れ墨を彫ったのは、やはり水滸伝の史進の影響?

中には、史進の入れ墨を彫った人(2重彫り?)もいるようですが。
0050名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/02/17(金) 21:07:28.98ID:qm19imHnO
侠客ランキング
1位 関八州の大親分、大前田英五郎
2位 不良外国人排斥、田岡一雄
3位 暴れ馬、森の石松
4位 目明かし、安藤文吉

5位 義賊、幡隨院長兵衞

6位 仁義に篤い、清水次郎長
7位 剣客、国定忠治
8位 桶屋、鬼吉
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2012/03/03(土) 20:48:23.19ID:wTHNGqm2O
>>50
すげえ
0052名無しさん@お腹いっぱい。
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2012/04/05(木) 17:01:07.12ID:GTr9er1C0
やくざ乙
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2012/12/27(木) 12:05:01.62ID:Ie72tftY0
みなもと太朗先生のひいおじさん。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/04/12(金) 05:32:57.18ID:DVQTyCWH0
>>43に聞きたいです。
同和の人達は人類が発生した時からあったのですか。
おそらく江戸時代に創られたと思いますが、人生50年として役6代、
6代も遡れば今の人間の半数以上は隠れ同和人種となるように思いますが。
又昔は、息子が身分の低い女に惚れて何処かの養女して息子の嫁にしたよ
うな事もあったと聞きます。手付け女に産ませた子を何処かに預けたとか、
家系とか血統とかを信用している人が居る事事態不思議だと思いますが。
 
0056名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/04/30(火) 08:55:01.52ID:zzIoHCwHO
>>49
水滸伝の影響だが
本格の博徒は刺青は入れてなかった。
入れてたのは主に肉体労働者。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/04/30(火) 18:19:18.13ID:zzIoHCwHO
水滸伝の影響は図柄。

タイの徴兵検査とか
入れ墨の若者が多い。

東南アジアの習俗でしょう。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/05/11(土) 21:55:29.36ID:xyGtnYSb0
既にここで名前が挙がっている侠客だけど
資本家に雇われて労働組合の事務所を襲って
丸腰の組合員に日本刀で斬り付けるって
正直納得できん。弱きを助け、とは正反対じゃないか。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/10/13(日) 17:03:54.22ID:+PPF/36Q0
甲州の「宮ノ脇一家」について、
書かれた史料を探しています。何か御存じの方いらしたら
教えて下さい。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/10/13(日) 17:16:58.34ID:ulAky4LE0
あの司馬遷の史記でさえ、侠客伝だか、そういった人の伝記を書いているだから名
0061名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/11/01(金) 13:57:59.85ID:S3Q1z1j10
>>49
子母沢寛によれば、「侠客は無垢の白肌を誇りとし
入れ墨を入れることを嫌った」というけど、
地方によってはやはり入れることを好んだらしいよ。
多摩の侠客・小金井小次郎の背には「花和尚魯智深」の入れ墨が
あったという話
0063名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/11/22(金) 11:59:56.04ID:nfnFe7m80
祐天仙之助
0064名無しさん@お腹いっぱい。
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2013/12/09(月) 15:27:20.99ID:YFo6YG8R0
正徳寺太八
0065名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/12/11(水) 09:19:49.43ID:8SjfyNnz0
黒駒勝蔵
0066名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/12/15(日) 15:56:40.64ID:s4I90RcM0
たとえば次郎長なら「〜の」をつけた「清水の次郎長」の方が
「清水次郎長」よりも敬った呼び方になるらしい

兄弟分でも分が上の方は「〜の」付きで呼ばれた
0067けけけ崔 舜記詐欺暴行歴アリ弁護士だけは、やめたほうがいい。
垢版 |
2013/12/15(日) 17:39:33.49ID:aapAK4/00
崔 舜記(さい しゅんき)暴行罪前科歴アリ・弁護士は、
神戸地裁福島かなえ裁判官のオマンコを焼き潰し、朝鮮の高笑いをしながら
20発ボコ殴りにし今現在警察に追い回されている朝鮮殺人鬼・【小 宇。根】の顔で
全身バラバラにし、心臓を抉りスケスケビッチ黒服下透け服淫行婆ぁ福島かなえ裁判官びっちに死ぬほど心臓を滅多刺しにされ、灯油を浴びせられ、 http://www.hou-nattoku.com/lawyers/lawyer_detail.php?lawyer_id=40492
残虐に焼き殺された。 崔 舜記中国詐欺犯罪暴行歴アリ弁護士だけは、やめたほうがいい。 須佐野通の暴力嘘つき不良ババア萩原キチガイウンコ馬鹿久美子は、
「崔 舜記中国詐欺犯罪暴行歴アリ弁護士だけは、やめたほうがいい!! 」
と、詐欺顔でキイキイ叫びながら、心臓を滅多刺しに崔にされ、嬲り殺しにされ、
灯油をひっかぶられ、残虐に嘘つきの久美子糞アホンダラ萩原死根その顔
滅多刺しされ、 焼け爛れ10000℃に生きたまま、不細工鬼瓦萩原久美子おばんホラ吹き面を嘘つきの例のキチガイ嘘詐欺脅迫顔声で連呼をしながら、 地獄の顔をして無残に殺され回っていた。 崔 舜記中国詐欺犯罪弁護士だけは、やめたほうがいい。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/12/16(月) 06:36:15.54ID:N2YulpeE0
 
http://rfi.a.la9.jp/sateweb/scurl/Thorsc.html
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
 http://www.apamanshop.com/membersite/27009206/images/kamo.jpg
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
 http://www.karilun-yao.com/room/24127
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
  http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k.png
  http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k203_1.png
  http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k203_2.png
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
 http://www.apaman-yao.jp/store/
弊社としましても今後メールでのやり取りを差し控えたく、浪速建設様
と同行の上でお会いさせていただきたい所存です。
http://rfi.a.la9.jp/sateweb/scurl/kt-6sc.html
0069名無しさん@お腹いっぱい。
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2013/12/30(月) 23:12:36.77ID:FPTivmj80
高倉健主演の東映の「日本侠客伝」というシリーズがあって、自分的には好きなんだが・・・・・
見て意外だったのは、「侠客」と銘打っているのに、主演の高倉健は、博徒ではない役がほとんどなんですな。

全10作(くらい?)で、役は、
運送業者、魚市場の仲買商、火消し、劇場経営者、沖仲士、
元博徒の現トラック運転手、元博徒の現テキヤ、

などなんですね。
なんでも、「侠客」ということばには、いくつかの意味があるらしいですね。
侠客イコール侠気のあるひとという解釈もあるらしくて、この映画はそっちの解釈らしいです。
高倉健の映画はふつう「やくざ映画」と呼ばれているので、意外でした。
0070名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/05(日) 21:28:22.75ID:NBuuHAi60
むかしむかし、少しおてんばで元気のいい女の子のことを
「おきゃん」と呼びました。この「おきゃん」は「お侠」と書きます。
つまり当時は市居の人でも、思い切りがよく、気持ちのさっぱりした人を
「侠」と呼んだわけです。
よって本来は(博奕打ち=侠客)ではなかったようです。
江戸時代初期の侠客とは、むしろ金の余ったボンボンで、気風の良い人を
指した、と三田村鳶魚も言っています。

昔の映画関係者や作り手は異常に博学であったので、鳶魚なんかも
読んでいたのでしょう。東映の映画は、本来の意味での「侠」を
踏襲していたのかもしれませんね。
0071名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/06(月) 18:10:35.57ID:15eqbjnai
清水に行ってきて初めて知ったんたんだけど森の石松の寿司食いネェの場面は、てっきり遠州灘あたりの桧垣海船の船上の話かと思いきや俺の地元の三十石舟の船上の話だったんだな
0072名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/06(月) 23:24:13.87ID:HErn/Iyr0
「石松三十石船」は、本当に良いよね
滑稽で笑える作りなんだけど、「これから石松が死ななきゃならない」
っていうことを、それとなく暗示させていて、聞き終わった最後が
なんとなくさびしい。
石松っていう無類の好男児を、わずかの間に余すところなく伝えている。
まさに話芸中の快作だと思う。
0073名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/01/20(月) 23:30:05.35ID:I669StU70
江戸屋寅五郎
0074名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/21(火) 10:07:18.75ID:qd8jJrDs0
新門辰五郎
0075名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/21(火) 20:45:33.14ID:Qtr0/h8P0
獅子ヶ嶽重五郎
0076名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/22(水) 19:47:42.58ID:ozvaEx8d0
丹波屋伝兵衛
0077名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/22(水) 19:50:47.15ID:ozvaEx8d0
下吉田(人切り)長兵衛
0078名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/24(金) 00:03:02.77ID:gQ8h9fap0
津向文吉
0079名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/25(土) 11:52:26.38ID:5nJh3Qjd0
赤尾林蔵
0080名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/01/25(土) 14:47:35.98ID:5nJh3Qjd0
高萩伊之松
0081名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/04(火) 00:24:27.12ID:pbFgJpsG0
栗谷川半兵衛
0082名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/04(火) 00:25:08.89ID:pbFgJpsG0
大場久八
0083名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/06(木) 09:07:45.72ID:dlKAFqTh0
田中村岩五郎
0084名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/06(木) 09:08:20.25ID:dlKAFqTh0
石原村幸次郎
0085名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/06(木) 12:49:35.15ID:dlKAFqTh0
小金井小次郎
0086名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/07(金) 22:16:00.61ID:oW+7ZsEB0
小川幸蔵
0087名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/08(土) 20:57:08.38ID:m0NzQ1iB0
明治40年、当時街道一厳格な親分と言われた、神奈川の半鐘兼さん(堀井兼吉)が、
全国の大親分の霊牌を並べて大法要をした際の順位は、次の様であったという。

1.大前田栄五郎
2.大場の久八
3.丹波屋伝兵衛
4.丸屋の忠吉
5.相模屋政五郎
6.新門辰五郎

(7位以下は不明。次郎長、勝蔵、小金井小次郎などの名はずっと下にあった。)
(*子母澤寛『男の肚』より)
0088名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/11(火) 21:54:25.82ID:nkcwpKWj0
甲州の竹居安五郎(ドモ安)の四天王と十人衆

四天王…大場の久八、上井手の熊五郎、登沢の半兵衛、一ツ谷の浅五郎

十人衆…黒駒の勝蔵、八代の綱五郎、塩田の玉五郎、二階の弥太郎、
    鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎、岡の孫右衛門、八代の伊之吉
    八代の大亀、女無宿おりは

(子母澤寛と今川徳三は、上のようなことを記した書き物の存在を報告しているが、
 今川はともかく子母澤は、この書き物自体を懐疑的に見ている。
 大場の久八と黒駒の勝蔵とは、吃安の兄弟分ではあっても子分ではありえないため。)
0089名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/11(火) 23:37:42.30ID:nkcwpKWj0
ちなみに松尾四朗は
四天王の中に、竹居の市五郎と小市郎を入れている。
大場の久八の代わりに、二人のうちのどちらかが入れば、
四天王は、ひとまず成立しそうだ。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/12(水) 22:41:33.30ID:O0OFj/WR0
天竺音(乙)五郎
0091名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/13(木) 16:51:11.07ID:yz7orbwJ0
柚木大塚の勘五郎
0092名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/14(金) 08:52:38.30ID:CBdx01Os0
八王子の角屋彦兵衛
0093名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/14(金) 21:31:29.48ID:CBdx01Os0
「ドス」とは刃物全般を指す言葉であって、短刀のみを指す言葉ではない。
また、博徒の言葉ではなく、元来は浪人達の符牒(刀を意味する陰語)である。
よって「長脇差」に「長ドス」とルビを振るのは正しくない。
「ながわきざし」と読むか、あるいは単に「ドス」とだけ呼ぶ方がよい。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/14(金) 22:55:33.41ID:bNtiVoFxI
遠賀の人
0095名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/15(土) 17:28:23.50ID:hb5Nq9Or0
韮崎の豊吉
0096名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/15(土) 19:49:43.22ID:hb5Nq9Or0
八王子小門の亀吉(蕎麦亀)
0097名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/15(土) 23:11:19.45ID:hb5Nq9Or0
ひじょうに不思議な話なのだけど、
「御仕置例類集」によれば
文化3年(1806)に「清水湊の長五郎」、つまり清水の次郎長と全く同じ出身地、
同じ名前の人物が博奕で捕まってる記録がある。
ちなみに、次郎長は文政3年(1820)生まれ。

両者に何らかの関係があったかは不明。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/16(日) 08:47:42.00ID:7tBVS4R10
黒駒勝蔵一党
・塩田村玉五郎、八代村綱五郎、成田村岩五郎(大岩)、中川村岩吉(小岩)、
 八千蔵村要次郎、同多一郎、北八代村多五郎、八幡北村猪之助、
 落合村角太郎(鬼角?)、国分村乙吉、東花輪村乙吉、遠州掛川宿万平、
 遠州森村秀五郎、信州喜十郎、肥後次三郎、狐新居村兼吉、郡内吉田村房吉、
 中川村新左衛門、成田村文作、駿州吉原宿勝太郎、小笠原村伊三郎、
・上万力村森太郎、同照太郎(正徳寺太八の子分)
・坊主鉄、永井村新助(上今井庄太郎子分)
0099名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/02/16(日) 22:39:55.66ID:7tBVS4R10
青梅の孫八
0100名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/17(月) 13:46:50.86ID:gNwytiUE0
一之宮の万平
0101名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/17(月) 23:12:23.65ID:gNwytiUE0
岩淵の源七
0102名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/18(火) 20:38:32.13ID:+Fw3QceJ0
和田島太左衛門
0103名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/19(水) 09:11:39.28ID:IAbqqnD00
藤枝(長楽寺)の清兵衛
0104名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/19(水) 10:35:57.39ID:IAbqqnD00
甲府柳町の三井宇吉(宇七郎)
0105名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/24(月) 19:37:29.95ID:y9YeRLTi0
「元来、無頼、遊侠の徒輩の心の中には、鬼も住むが、また
 より多くの仏も住む。あ奴あ忌やな奴だと憎み出せば、ずいぶん
 非道も無法も平気でやる。だが、気に入った、あ奴のする事あ
 いい事だとなると並の人間よりは幾層倍もそ奴の為めに骨を折る。
 自分が不利だろうが、損だろうが、そんな事は頓着しないものである。」

 子母澤寛――『大前田栄五郎』
0106名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/24(月) 19:41:43.31ID:y9YeRLTi0
下田の弁天安太郎
0107名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/24(月) 23:53:25.28ID:y9YeRLTi0
☆国定忠治・日光圓蔵人相書き(天保一三年時)

 国定村無宿 忠次郎 当寅三十才余
 一 中丈、殊の他太り候方
 一 顔丸く鼻筋通る
 一 色白き方
 一 髪大たふさ
 一 眉毛濃く、其の外常躰 相撲取りとも相見え申し候

 日光無宿 圓蔵 寅四十五才
 一 ひたいに疵これ有り
 一 丈ひくき方
 一 やせ形、顔細長く
 一 鼻筋通り、色黒き方
 一 髪、目、耳常躰
 一 言舌、下野なまり
0108名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/25(火) 08:43:27.00ID:G8TSCteO0
☆竹居安五郎(吃安)人相書き(嘉永六年時)

 無宿安五郎 丑四十二才
 一 面部色白く、鼻筋通り候方
 一 眼細く
 一 言舌どもり候方
 一 せい(背)高
 一 背右より左へかけ、鑓疵七寸程
0109名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/26(水) 00:19:57.63ID:2Ey/m/w20
・大塚勘五郎人相書き(安政五年時)

 武州多摩郡柚木領大塚村無宿 おかん事 勘五郎
 一 四拾弐三才位
 一 中丈より高く
 一 丸顔、色赤黒く
 一 髪毛薄く、眉毛薄く、ほか常躰

 ・其の節の衣類
 一 木綿藍縦縞口、綿入れ
 一 羽織着し候えども、縞柄わからず
 一 小納戸半股引、小紋脚半着し *小納戸=くすんだ青色 *小紋=模様入り
 一 長もの帯び、長さ弐尺位
0110名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/26(水) 08:10:26.82ID:2Ey/m/w20
都鳥源八
0111名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/28(金) 01:00:55.08ID:AvGF1b6E0
飯能(双柳)の清五郎
0112名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/28(金) 22:46:40.23ID:AvGF1b6E0
・神山栄五郎人相書(明治六年時)

 武州多摩郡神山村無宿 字神山親分事 栄五郎
 一 当三十五才
 一 中肉中丈色白き方、顔細長く眼大き方にて、
   目じり上がり、するどく、右首までへ寄せて一寸余の疵之有り
 一 髷大きく、眉毛長く、
   衣類分からず
0113名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/28(金) 23:07:26.78ID:AvGF1b6E0
さすがに現役の「名主」で侠客を兼任(?)する者の話は
あまり聞かないが、「村年寄」や「組頭」、「長百姓」
でありながら、博奕打の親分であった者は、かなり多く
資料に見うけられる。
侠客が、しばしば村営機関の中枢に居たことは事実なのである。
0114名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/02(日) 00:14:43.27ID:7PsO3Nb20
大侠客・大前田栄五郎が佐渡抜けをしたのは、
確かな史料によれば、文政5年の7月6日のことのようである。
上州、下総出身者を中心とする19名の流人と共に島抜けをした。(手配書が
今日に残っている。)

ちなみに佐渡送りになった年は文政3年。栄五郎27歳の時である。
0115名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/04(火) 23:35:59.99ID:Ne6kUCr80
浅田晃彦の名著『大前田栄五郎の生涯』によれば、
文政五年七月六日の佐渡抜けは、
無宿水替六十四人の脱走、という大規模なものであったが、
大部分が捕らえられ、一部だけが船を手に入れ加賀領へ漂着したと伝える。
首謀者二名は死罪となった。
栄五郎は、この時幸運にも加賀領へ漂着した一部の者に入っていた。
そして彼は、その後捕縛されることなく、明治の世まで生き延びた。
彼は竹居吃安(新島島抜けを成功させた)よりも更に幸運な博徒だったことになるだろう。
後年、彼が、日本一の親分と呼ばれるようになったことにも、
この佐渡抜けの一事が大きく関与していたと思われる。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/03/05(水) 21:53:56.08ID:rHQRqyfk0
甲州青柳の市松・寅之助兄弟
0117名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/05(水) 21:55:09.70ID:rHQRqyfk0
鳥沢の粂
0118名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/05(水) 22:21:18.99ID:rHQRqyfk0
観音寺久左衛門
0119名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/03/11(火) 10:05:52.21ID:jo7PxtdN0
武州田無、稲荷の増五郎
0120名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/12(水) 13:56:59.96ID:sn1H9rjr0
・甲州無宿市松・寅五郎(松屋の兄弟)人相書(嘉永二年時)

 甲州無宿 市松
 一 年齢三十才位 一 中丈中肉、顔丸き方
 一 色浅黒き方  一 左の眉毛の上に少々古傷これあり、あばたこれ無し

 甲州無宿 寅五郎
 一 年齢二十七、八才位 一 中丈中肉、顔細長く、色白き方
 一 髪毛短き方、あばたこれ無く、
   ただし、大小を帯びる。
0121名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/13(木) 08:40:00.45ID:VuNrCtZA0
銚子の五郎蔵
0122
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2014/03/13(木) 12:05:36.04ID:cartofim0
城西川越高校出身・群馬大学の小林裕貴はクズ
0123名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/27(木) 11:33:08.87ID:e4gm5UBX0
飯岡助五郎
0124名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/03/28(金) 00:59:04.01ID:031ayRrB0
笹川繁蔵
0127名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/15(火) 14:18:33.02ID:gyei/Lam0
天王藤三郎
0128名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/15(火) 21:46:19.71ID:X9LzUOcP0
強きを挫き弱きを助けるような任侠道って本当にあったのかね・・・。

はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/16(水) 00:29:05.25ID:39nF0rzR0
百々(どうどう)紋次
0130名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/16(水) 00:34:50.74ID:39nF0rzR0
国分三蔵(勝沼三蔵とも)
0131名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/26(土) 17:36:25.91ID:56O848sh0
穂北の久六
0132名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/27(日) 00:24:12.10ID:xNk/JEiH0
保下田の久六(穂北久六)は、
「次郎長」の話だと、とんでもない悪役なのだが、
「大前田栄五郎」の話だと、意外なほど良く出来た貸元であったように書かれている。
一人の人間の中に悪と善とが同居しているのは当たり前のことであるが…
久六は後の世で悪の部分ばかりが取り沙汰された悲運の人のようにも思える。

死亡年は安政2年という説もあれば、安政6年と言う説もある。著名な人物
であるにも関わらず没年齢すらわかっていない。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/27(日) 22:16:27.00ID:xNk/JEiH0
百々紋次と天王藤三郎は、
共に国定忠治の親分と言われた侠客
0134名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/28(月) 23:45:23.18ID:ffcoE8OX0
栗谷川半兵衛は講談では、「栗ヶ浜半兵衛」と呼ばれる。
出生は参州吉良、相撲取りの頭であった。
角力興行を行いながら、東海道から上州辺りまで手広く活動した。
一時は上州に居を据え、大前田栄五郎の兄弟分となり、
「桐生の半兵衛」とも呼ばれた。危機に瀕していた大前田栄五郎を救ったのはこの頃の逸話である。

嘉永二年7月27日夜、半兵衛は、武州の石原村幸次郎以下の博徒集団に、突如
勢州古市の居宅で襲われ、重症を負う。薬石効無く兄弟分の丹波屋伝兵衛が看取る中、翌日死去した。
この時自身の仇討ちを伝兵衛に頼んだとされ、これが元で嘉永二年の騒動が起こる事になった。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/29(火) 07:49:34.90ID:nTiqKFKj0
間違えた。
「危機に瀕していた大前田栄五郎」→「危機に瀕していた江戸屋虎五郎」
が正しい。
0136名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/07/26(土) 23:51:22.09ID:7e2jf8bp0
虎五郎は武州岡村(現・埼玉県朝霞市)の生まれ、最初、「七五郎」と
名乗り、藤久保の重五郎の子分になった。この頃、隣村の「天竺音五郎」を
殺そうと計ったが失敗し、また重五郎の義弟の万吉を誤って殺害するなどの
へまをやらかした。
その都度桐生の半兵衛は頭を下げ、虎五郎の危機を救ってやった。
虎五郎が晩年になっても自分の半生を決して美化しない一角の人物になったのは、
出合った侠客たちの質の高さによる所が大きいのだろう。
0137名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/07/28(月) 14:15:51.90ID:SyED0YNY0
ちなみに、当時遠州に勢力のあった都鳥源八(都田源八)を
斬ったのは虎五郎であったと言われている。源八はたいへん評判の良い親分であり、
一方の虎五郎は「名をあげたい」一心の下卑た動機から源八に斬りかかったと言う。
腕は互いに同じ程であったらしいが、不運にも泥濘に足を取られ、源八は命を落としてしまう。

この源八の子が、後に次郎長一派と戦う都鳥三兄弟である。源八の妻は、
仇である虎五郎の首の代わりに、若い三兄弟の庇護を虎五郎の親分である大前田に要求した。
このエピソードは三兄弟の石松殺し程には知られていないが印象深い話である。

尚、静岡県入江町の都鳥吉兵衛(三兄弟長男)供養塔前に建つ地元の看板は名文である。
0138名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/08/05(火) 22:29:47.19ID:zic4Z3Fi0
小仏峠の健治郎
0139名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/09/06(土) 22:19:14.10ID:nA3/2Alx0
武州の侠客・小金井小次郎の父親は、しばしば「勘右衛門」とされるが、
本当は「勘左衛門」が正しい。また「下小金井村」の名主であったと言われるが、実際には
勘左衛門の代には既に名主職ではなかったようである。母は「なお」、兄に虎之助がいた。

ちなみに小次郎の従兄弟に当る陣屋三之助の父の名も勘左衛門。こちらは「関野新田」の
歴とした名主職にあったのであるが、身持ちが悪く博奕に凝り、終には役を下ろされてしまったようである。
小次郎も三之助も共に「関」姓なので、親の代には二人の「関勘左衛門」がいたことになる。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/09/14(日) 19:34:55.85ID:dpC+pNuk0
紀元前、漢の時代だっけ?司馬遷が著わした「史記」に
すでに仁侠、侠客の話しが書かれているそうじゃないか
0141名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/10/13(月) 10:20:30.32ID:UciyXVFu0
笹川繁蔵(天保15年)人相書

一年齢三十五六歳くらい  一丈高く中肉 
一眉毛濃く、眼細き方   一鼻筋通り、色白き方
一月代薄く、耳大き方   一口常体
一その節の衣類あい分からず
0142名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/10/13(月) 18:28:53.62ID:UciyXVFu0
和田島の太左衛門は、駿府へ出て紺屋町に住み
「紺屋久兵衛」とも名乗った。通称「紺久」。
紺久の勢力は駿府を、安東の文吉と二分したと言うからかなりのものだった
ことになる。
ちなみに戸羽山瀚ですら、当初は紺久と太左衛門とは別人だと誤解していた
くらいだから、当時の人間の素情を当てることがいかに困難な作業であるか
よくわかる。
0143名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/10/19(日) 13:30:33.96ID:g4hw+Dgq0
「清水湊は鬼より怖い、大政・小政の声がする」は浪曲『大瀬半五郎』
でも聞かれるフレーズである。
これに対して黒駒勝蔵方には
「障子に映るは黒駒身内、大岩・小岩の影が差す」がある。
最後のフレーズは「大岩・小岩と誰が言た(ゆた)」とする場合もある。
0144名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/11/03(月) 23:26:21.70ID:64I7Tf4n0
三保ノ松清三郎
0145名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/11/06(木) 23:11:42.37ID:vAOGEyJL0
鬼神喜之助
0146名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/11/08(土) 02:20:40.08ID:jk2KeWRC0
人種が違いますんでね。人種が。


日本人←日本人種
韓国人←中央蒙古人種



北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人
0147名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/11/09(日) 00:43:42.25ID:Zq3VS4ZO0
高萩万次郎
0148名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/11/19(水) 23:52:40.12ID:mw1UyOIH0
高瀬仙右衛門こと、合ノ川政五郎
0149名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/11/25(火) 22:34:53.61ID:endWuenq0
小金井小次郎の二代目をついだ藤屋和十郎(玉川屋和十郎とも)は、
盆の様子を見ただけで、すぐに勝敗がわかったという。
まず、近世で一番博奕が巧みだったのは、この人だと古老は口を揃えて言った、
と子母澤寛もエッセイに書く。察するに彼は、多分に数学的能力に優れた一種の
天才だったのだと思われる。この種の才能は遺伝するものなので、あるいは
叔父の藤屋万吉、祖父の藤屋和十郎(同名)も、そういった天才肌の
博奕打ちだったのかもしれない。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/11/28(金) 18:02:59.89ID:GYrEGCQc0
風車の弥七
柘植の飛猿
名張の翔
すっとびの辰三
出目の幹太
0151名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/12/04(木) 17:10:02.89ID:1XkrEFqP0
黒須大五郎
0152名無しさん@そうだ選挙に行こう
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2014/12/13(土) 21:34:54.62ID:+PQS7h3O0
大間々八十郎
0153名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/16(火) 20:59:38.51ID:WzvJ1CdfO
藤沢幸平
0154名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/16(火) 22:40:52.10ID:qO4Jgn7h0
では、幸平親分の兄弟分である江川平吉
0155名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/16(火) 23:16:09.14ID:qO4Jgn7h0
新橋の長蔵事、谷合長蔵
0156名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/16(火) 23:17:01.18ID:qO4Jgn7h0
高井戸、饅頭屋の鈴木勇次郎
0157名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/16(火) 23:22:49.24ID:qO4Jgn7h0
俗に小金井小次郎子分の四天王というのがある。
誰がそれにふさわしいかは異論のあるところだが…

四軒寺の藤蔵
矢端の藤五郎
田無の徳蔵
高井戸の勇次郎

の四人がひとまず、それではないかと思う。
0158名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/17(水) 18:55:46.90ID:n+sQy8c50
人種が違いますんでね。人種が。


日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種



北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人
0159名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/12/17(水) 21:36:30.97ID:tNnpPHC40
矢畑の藤五郎(仙川の藤蔵とも)は、小金井一家一の知恵者と言われる。
陣屋三之助は小次郎のいとこにして片腕。一の子分が新橋長蔵である。
小川の幸蔵は、小次郎の傘下ではあるが、陣屋とは犬猿の仲だったらしい。
よって小金井一家とは若干趣を異にする。
神山栄五郎は清水次郎長の子分にして小次郎の傘下でもあったが、彼も
陣屋とは相いれない仲だった。(後、土支田一家の祖となった。)
0160名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/01/17(土) 18:28:05.64ID:SFFNbeU80
姐さんは一般的に親分の何分
?若しくは何厘下がりですか?
0161名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/01/19(月) 13:19:11.90ID:GZrchh3o0
>>160
不勉強なため明確な答えができません。申し訳ないです。
ただ、松尾四郎の『史話と伝説』と子母澤寛の『遊侠奇談』に以下のような
記述があるので、少しは参考になれば、と思います。

―大場久八妻の「おもんさん」について―
 どこへ行っても大場の姐御で鳴らした婆さんだ。小金井の小次郎へ行っても、
 上州館林の虎五郎へ行っても、姐さん、姐さんで取り持つ、横浜の埋地の仙太とか、
 綱島の子太郎など、明治末期まで飛ぶ鳥を落す勢いの貸元連中が、一家の中に
 うようよしていたのだから、久八死後といえども婆さんの懐具合は悪くなかった。
         『史話と伝説』松尾書房 S45年

―甲州・吃安の妻について―
 甲州は何処へ行っても、ばくち打ちの女房に対して、乾児でも、旅人でも「あねさン」
 という。乾児などは、自分の親分を親といい、仁義の時でも、自分を「子」と名乗る
 以上、その親分の女房はお袋さんというべきを「あねさン」で通すのは、正妻ではなく、
 妾であるからだということである。
  『遊侠奇談』

基本的には、明確な決まりは無いのではないけれども、姐さんに接する態度で、
むしろ子分たちの力量がよく計られるのではないでしょうか。
0162名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/01/29(木) 00:34:17.34ID:2p1Js29G0
長禅寺の音五郎
0163名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/01/29(木) 23:29:49.33ID:2p1Js29G0
黒田屋祐蔵
0164名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/01/31(土) 20:22:58.36ID:pRf/DkAF0
侠は見返りを求めてはいけない。
見返りを求めたら、それは侠ではない。
0165名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/01/31(土) 20:23:55.52ID:pRf/DkAF0
小俣周太郎
0166名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/05/02(土) 22:17:10.82ID:TwM7Plpy0
小久保林蔵
0167名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/05/06(水) 22:46:07.61ID:St7tF/AD0
宇津谷伝右衛門
0168名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/05/07(木) 23:59:45.27ID:ehhVe0+80
女無宿おりは ってどういう人だったの?
任侠ドラマ(フィクション)における立ち位置でもいいからおせーて。
0169名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/05/09(土) 08:32:55.49ID:WkEPLYRj0
上記のように、俗に言う竹居吃安の「十人集」というのに名を出している。
おりはさんを単体で扱った本には今川徳蔵の『新・侠客100選』があって、
これによれば、大柄な美人で人当たりがよく、その上に吃安から賭場の代貸を任されていた
とされている。
また、彼女の賭場では一枚で金一両に相当する「金コマ」だけが使用されていて
今で言えば高級ディーラーの差配するカジノのような趣だったらしい。

確実な史料だと、甲州上芦川(笛吹市)の古文書に、「上芦川百姓平兵衛の後家、りは」
として名前が出てくる。元治二年二月、無宿共が集まった「りは」の賭場に役人の手入れがあり、
彼女も含めて、全員その場から逃げ去っている。
0170名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/09(土) 08:41:33.19ID:WkEPLYRj0
博徒連中の中では際立った存在だったため、しばしば小説中には登場させられる。
かなり古いが竹内勇太郎の『俺はども安』では、若い頃のども安を指導する(?)
姐さんとして扱われているが、無論これはフィクション。
最近だと『裏返しお旦那博徒』の中で、吃安と浪人犬上郡次郎の友情に
ひびを入れる存在として扱われている。
どちらにせよ、美人でさっぱりとした気性の女性とされている。
あとは松尾四郎の『竹居吃安』。あまり良くは書かれていないが、一番真実に近いの
かもしれない。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/05/12(火) 23:55:53.27ID:b8xQcgGR0
>>169
ありがとうございます。
>大柄な美人で人当たりがよく
という部分が一般的な侠客に抱く私のイメージを超えてましたが
>高級ディーラーの差配するカジノのような趣
こう考えると、なるほど、そんなキャラもありえたのかもしれないな、と納得。
ただ、そういうキャラで生きるには年齢的なものが男性よりずっと厳しいように思うと
亡くなった歳やいきさつが気になります。これについて書いたものはご存知ですか?

あと松尾四郎の『竹居吃安』というのは『侠客竹居の吃安正伝』のことでしょうか?
0172名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/13(水) 23:26:26.61ID:SUtIg4Iq0
『竹居の吃安正伝』のことです。さすが「国書刊行会」と恐れ入るばかりの
目のつけどころですね。

現存する仁侠研究の最高峰、植田憲司先生のブログには、その後改名し、
愛知かどこかで亡くなったおりはさんの事が調べられていたように
記憶していますが、今はブログも閉鎖されています。

貴方が根気よく、探訪、研究を続けていけば、いつかはわかると思いますよ。
0173名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/15(金) 09:02:06.29ID:mHJCSPeS0
>>172
ありがとうございます。

惜しいブログがあったのですね。スナップショットの断片を探してきましたが、
インターネットアーカイブスの性質上、収集されていないページも多々有ります。
画像は特に絶望的で、どの情報がどこにあるか容易には解らない状況です。

http://web.archive.org/web/20090225141744/http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/bakutomeibo0.htm

上のサイトの甲州の欄は見たつもりなのですが、おりはさんを見つけられないでいます。
もしよろしければ、どのあたりに書かれていたか記憶をたよりにヒントをくださいませんでしょうか?
0174名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/17(日) 01:24:34.53ID:Y/VM417s0
こんな機能あるんですね。知らなかった。久しぶりで植田先生の仕事を
見れました。感謝します。残念ですがおりはさんに関しては全くわかりません。

ただ一つ言えることは、若干(かなり?)オカルトな感じですが、
故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。
史料はあるのに、様々な理由で一般に出ないようなものは、やはり故人が、それを望んでいないから、
なんじゃないかと最近思うのです。

まずは自分がどうしてその人を調べたいか、と考えることです。その上で、その人の生涯を尊重する。
そうすると、ある日偶然、手掛かりが見つかります。自分の経験上そう思います。
それからとにかく歩くことです。(なにしろ相手は一日50キロは平気で歩く「遊侠の徒」なのですから。)
0175名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/18(月) 09:56:12.96ID:/DMZK/le0
>>174
>故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。

実は私も奇妙な経験があります。「侠客の歴史」からは時代も場所も違う別分野においてですが
ものを書く際、何をどうやっても進まないパズルが、ひとたび悪役の理解に努めることで
そのピースを切欠として一気に全体が仕上がることは1度や2度の経験では有りません。

今は「あたりをつける」段階で、どういう人物か調べ始めたばかりですが
なるほど仰るとおりで、思い込みや期待にゆだねて先走ったところは故人への礼を欠きましょう。
侘びではないけれど最初から考え直してみたいと思います。ほんとうに有難うございました。
0176名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/18(月) 23:26:36.75ID:vAU4w9080
武州の多摩川縁、柴崎村の粂蔵親分は自身十手持ちでもありながら、
博奕を催す地元の親分で、何より多摩川鵜飼の総元締めだった。
姓は中嶋。不幸にして早世した倅捨蔵は、天然理心流近藤周助の門弟、
つまり近藤勇の兄弟弟子だった。
0177名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/23(土) 23:26:08.86ID:crbd6lZZ0
石井の伴内
0178名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/24(日) 00:20:14.47ID:fdLSq3er0
とにかくヤクザはたかり
紙幣を印刷してるわけじゃないんだから
たかりが仕事
たかりのダニ
たかりのくず
0179名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/24(日) 19:15:16.80ID:Kg00cTPo0
このスレ初めて見ましたが興味深いですね

>>176
玉川要蔵が甲陽鎮撫隊に協力したという話は事実でしょうか?
やはり剣流を通じて繋がりがあったのでしょうか?
0180名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/25(月) 23:24:01.39ID:oKzQg1Dx0
「佐藤彦五郎日記」慶応四年二月に「新撰組の土方から亀吉が使いに来たので、
四ツ谷惣蔵倅の要蔵、下宿兵助弟幸助両人が、亀吉に従って出府した」
という部分があります。玉川亭要蔵は日野の四ツ谷惣蔵(宗蔵)の倅で
間違いないので、少なくとも勝沼の戦の前に彼が土方歳三に呼び出されたという
事実はあったようです。また使いにたった亀吉は八王子のソバ亀親分だとも言われており、
戸羽山瀚によれば、彼も大場久八の「辰巳隊」の一員として勝沼戦争に参加した、
というので、辻褄は色々と合うように、私は思います。
0181名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/25(月) 23:30:50.89ID:oKzQg1Dx0
要蔵親分が天然理心流だったかは定かではないですが、
明治11年には無宿博徒の捕縛で警察に協力したという理由で
神奈川県から褒章を受けています。
白刃を持った敵に立ち向かったとあるので、武芸の心得はあったように思います。
0182179
垢版 |
2015/05/26(火) 19:19:05.83ID:4299A46o0
>>180-181
どうもありがとうございます。
要蔵は松本捨助と義兄弟だったなどと伝え聞くものの
史料的裏づけはほとんど得られていませんでした。
また、『佐藤彦五郎日記』には目を通していながら、
「亀吉」「四ツ谷惣蔵伜要蔵」が何者か判断がつきませんでした。
なので、貴重な手がかりをいただき助かります。
剣流はともかく、やはり彦五郎の存在が要因として大きいのかもしれませんね。

「下宿兵助弟幸助」も正直よくわかりません。
「兵助」は馬場兵助かと思ったのですが、
馬場兵助の実家「扇屋」は下宿でなく中宿と聞きました。
追々調べてみようと思います。
0183名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/27(水) 22:42:54.64ID:UHbLqkPy0
野州佐野、京屋の元蔵
0184名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/27(水) 22:50:55.85ID:UHbLqkPy0
京屋元蔵は、十手持ちの目明し親分
子母澤寛の本だと京屋銀蔵とも書かれる。若い時分の江戸屋虎五郎に目をかけた話は有名だ。

野州佐野宿、真っすぐ通れ
曲り嫌いの男が怖い
京屋銀蔵(元蔵)の、目が怖い

当時佐野には、このような里謡があったと言う。
0185名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/05/30(土) 14:11:01.50ID:z1P2W1ty0
明治31年の小説『黒須大五郎』は、実話をもとにして書かれた「探偵実話」という
ジャンルに立つ作品である。まだ「推理小説」というジャンルが確立していなかった時代に
怪人・怪盗を主人公にした、この手の読み物が流行した。
作者は「無名氏」とあるが、実は都新聞の「高谷為之」。
高谷は元刑事であったために、明治期の刑事事件に関して独自の情報ルートを
持っており、それを活用した。
大五郎は明治5年の秋に御用になり、斬罪とされた。彼を首領とする一団は、
関東を又にかけ暗躍し、その捕縛は当時「明治三大捕縛」の一つに数えられたという。

高谷の所持していた調書を受け継いだ長谷川伸が、同じく大五郎を主人公に書いた作品が
『八丈つむじ風』である。
0186名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/01(月) 16:42:15.80ID:1HJ7FMVX0
NHK「日本の話芸」
三笑亭夢之助「ん廻し」に博徒侠客の名前をたくさん挙げるくだりがあったけど
早口だから大場久八と清水次郎長のほかは聞き逃したorz
0187名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/03(水) 00:09:47.25ID:8i8CoF/Q0
小金井小次郎一世一代の大喧嘩「二ツ塚の喧嘩」は『慶応水滸伝』によれば、
天保11年3月25日のことだという。
相手は堀端鈴木(現・小平市御幸町)の与三兵衛という親分だった。
小次郎側には府中の万吉、一ノ宮政次らが助に入る。一方与三兵衛側には、
平親王平五郎、廻田栄太郎、連雀嘉助、八軒栄次、小川幸八がついた。
いづれも実在の親分衆である。勝敗などは『慶応水滸伝』を読めばよろしい。

与三兵衛の子孫の家に伝わる話では、彼は後に「富士のふもとの出入り」に、
「一宿一飯の恩」との理由で加わり、戦死したと言う。彼は小川の親分と仲がよく、
自分の親分(小川の梅吉か?)を逃がし、自分は代わりに死んだのだと言うことだ。
0188名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/03(水) 00:14:35.12ID:8i8CoF/Q0
酔っていて文が乱れた。
「死んだとのことだ。」に訂正。
0189名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/03(水) 22:26:30.90ID:L4Zj8IHv0
『慶応水滸伝』、今時入手しやすいのは柳蒼二郎・中公文庫(2014)だけど
明治22年に『落花清風 慶応水滸伝』、同23年に『新門辰五郎・小金井小次郎 慶応水滸伝』が出版されたようで、
これらが最初の作品化なのか、あるいはさらに古く講談か芝居の元ネタがあったんですかね。

それに、実在の人物が出てくるけど、ストーリーはどこまで実話に基づいているんでしょうね。
0190名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/03(水) 23:24:52.37ID:8i8CoF/Q0
一番古い『慶応水滸伝』は明治15年、小次郎没翌年の出版です。

少なくとも、関東取締出役の名前と任期、小次郎が木更津で捕まったこと、
また後年八王子で捕まったこと等は年代、日にちが正確です。
逆に明らかな嘘があるのは、一ノ宮政次の仇である八軒栄次を小次郎が殺したという
部分です。栄次は、史料より文久年間までは生存が確認されるためです。
0191名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/04(木) 22:11:02.53ID:WQKHpde90
なるほど参考になりました。
『天保水滸伝』のように先に講談があったのとは違って
初めから書籍が出版されたわけで、つまり小金井小次郎を偲ぶ紙碑ですか。

ストーリーは虚実ないまぜで、事実か創作か判断つかないところもあるようだけど
それをわかって読めばいいと考えておきます。
0192名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/05(金) 00:06:02.63ID:NWxDWyD/0
熱海の藤兵衛
0193名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/05(金) 00:08:11.77ID:NWxDWyD/0
豆州本郷村、赤鬼の金平(由五郎とも)
0195名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/06(土) 17:20:42.52ID:KVpQwGyP0
すみません。初めて名前を聞きました。もし差し支えなければ
長兵衛という方のお名前をどういったところで知ったのか、
むしろご教授いただけませんでしょうか?
0196194
垢版 |
2015/06/07(日) 06:29:29.78ID:puH19iTC0
趣味で郷土史を調べてる知り合いから聞きました
何か本に地元の人の昔語りが載っててその中にちょっとだけ出てくるそうです

小金井小次郎の身内で有名な博徒だった
剣術が強かったらしい
義人とあるので何か人助けをした?詳しいことは書いてない
0197名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/07(日) 08:46:57.85ID:KoC8oBSU0
たいへん勉強になりました。本当にありがとうございます。
0198194
垢版 |
2015/06/07(日) 18:11:16.03ID:puH19iTC0
当時は有名だったのかもしれないけど
今ではほとんど何も伝わってないみたいですね>桶屋長兵衛

もしいつか何かわかったら教えてください
よろしくお願いします
0199名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/08(月) 22:59:49.11ID:amB22rG60
武州田無宿は、青梅街道と所沢街道が交差する交通の要所である。
また文政期以降は改革組合村の寄場を務める大宿であった。人の往来は多く、
自然諍いも増え、それに見合う調停者を必要とした。

通称「稲荷様」こと増五郎親分は、この人が出ればどんな争いもピタリと収まると言われる程の
たいした貫禄だった。綽名である「稲荷様」は屋敷の隣に鎮座する「笠森稲荷」に拠る。
よく増五郎は、小次郎の子分と言われるがそれは間違い。実際には増五郎の方が6歳年上の兄弟分である。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/08(月) 23:15:05.82ID:amB22rG60
増五郎の父は、升蔵と言い、更に輪をかけた侠客であったという。言い伝えでは、
「銚子の五郎蔵」の兄弟分という。
増五郎の子は竹次郎(別名・長四朗)といい、晩年は「増五郎」を名乗ったともいう。小次郎の
子分と言われたのはこちらの方だろうが、小次郎墓石の裏に、他の子分よりやや大きな字で、
名前を彫られていることから、その立場の違いを感じさせる。

増五郎に関する研究史料には皆木繁宏氏の『小金井小次郎伝』に加えて、
『田無地方史研究会紀要』4号掲載の楢崎成直氏による「博徒増五郎の背景」がある。

なお同じ田無の侠客、田無の徳蔵は、元々は増五郎の子分で、後に小次郎の腹心になった。
0202名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/10(水) 06:42:23.22ID:7N2LplZu0
調べてみたら『落花清風慶応水滸伝』の初版発行が明治15年だったんですな。

・読売新聞記者の高畠藍泉が、柳亭種彦(三世)の名義で書いた
・藍泉は、小金井小次郎の食客だったこともあって、小次郎から聞いた話を多く参考にしたらしい
・その後、『落花清風慶応水滸伝』をネタに講談や歌舞伎が創作された
・明治27年、市村座で上演された「新門辰巳小金井」では、五代尾上菊五郎が小次郎、四代中村芝翫が新門辰五郎を演じた

スレ常連の方々はご存じだろうけど、自分は知らないことばっかりだった。
0203名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/10(水) 06:59:42.72ID:BaHuJjM00
案外ばかにできないのが、揚名舎桃李(ようめいしゃ・とうり)による「講談・小金井小次郎」です。
国会図書館に「講談本」として所蔵されているのは大正期の出版だけど、
高座でやっていたのはもっと前だと思う。これには桃李が随分綿密に歩いて取材した形跡があって、
内容は「慶応水滸伝」よりずっと豊富。貴重な情報の多い一種の聞き書き史料としても読むことができます。

この講談の出現を受けて、市村座の芝居もネタ元を「慶応水滸伝」から桃李の「小次郎講談」に
シフトした感じがあるんですな。
0204名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/10(水) 23:27:03.80ID:BaHuJjM00
遠州浜松の国領屋亀吉
0205名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/11(木) 02:02:09.60ID:oF8U949r0
>>203
近デジで見てきました。
文体の違いなどを考慮しても、揚名舎桃李のほうが確かに情報量多そうと思いました。
0206名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/11(木) 23:04:05.77ID:tbrEjNE/0
岩殿観音の徳次郎、菊次郎
0207名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/12(金) 00:15:36.20ID:edtAtFuq0
関戸の長兵衛
0208名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/12(金) 00:43:22.17ID:edtAtFuq0
江古田の幸平親分は、元旗本くずれと伝わり、御一新の頃の人物。剣術の達者で
ありながら、生涯一度も喧嘩をすることがなく、それでいて「幸平旦那」と呼ばれ、
たいした勢力だった。しかしこの人が博奕渡世をやめようと思ったことが四度ある。
一度は母親の死に際に意見をされたこと。
二度目は信仰する不動明王が夢枕に立って、足蹴にされた時、
三度目は男の子が生まれて、その顔をはじめて見た時、
四度目は子分が三宅島へ流されて、そこで死んだのを聞いた時だという。

ある講釈師が幸平の実伝を読み物にしたい、と訪れ、取材したが一向読み物にならない。
一向に斬った張ったが無いからである。この点は大前田栄五郎も同じであったという。
どうも、「真の遊侠」というものはやみくもに闘争をしないもののようだ。
0210名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/13(土) 03:20:27.00ID:BcvwLJ430
落語「ん廻し」に出てくるのは広沢虎造の浪曲「清水次郎長」の一節だった
何代目の虎造かは言ってなかったけど
関東・東海道の博打打ちを挙げていくところ↓

寺津間之助
西尾治助
見附の小和田友蔵
藤枝 長楽寺清兵衛
伊豆の大場久八
富士郡 宮島歳三
雲風亀吉
そして駿河国安倍郡清水湊は有度町の山本長五郎こと清水次郎長
0211名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/13(土) 07:54:45.74ID:Pt+xGqU90
宮島の年蔵とは…しぶいところを突いてきますな。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/13(土) 21:07:31.46ID:Pt+xGqU90
「宮島に過ぎたるものが二つあり、長左の牛に、年のヘッツイ」

駿州吉原宿在の宮島(現・富士市宮島)にかつて伝わった里謡である。村の長左衛門の
牛は力が強く普通の二倍の働きをした。年のヘッツイとは侠客・宮島年蔵親分のうちの
立派なカマドのことである。この、土間にある立派なヘッツイには金の茶釜が二つ、
往来からも見えるようにいつも置いてあった。
0214名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/13(土) 21:22:33.19ID:Pt+xGqU90
年蔵は武闘派の親分である。黒駒勝蔵に好みを通じ、次郎長と敵対した。文久以降国を
売った勝蔵が、年蔵の元に潜伏していたことは最近明らかになった事実である。

年蔵(正しくは俊蔵)の出生は裕福な農家であったらしいが、十一の時あまりに悪事が多いことから、
父親に殺されそうになるのを母が止め、そのまま家を出て蓄電したと伝わる。三年ほどしてひょっこり帰ってきて、
それから売り出し、本市場の金七、森嶋の重吉らを従えて、近隣に名のしられる親分となっていった。
年蔵は平気で残忍な行いをした。また豪奢な生活を好み、昼間から湯に入り酒盛りをしたという。
その一方で、気風がよく激情家の仲間思いであり、身うち・同胞、頼って来る者は命をかけて守った。
後年山岡鉄舟の知遇を受けて浮浪者の取り締まりをしたこともある。
とかく生涯を通じて次郎長とは張り合い、明治五年次郎長が公用で三嶋に行く際に、
金七と共に襲いかかり、果たし合いを挑んだとの逸話も残っている。

明治23年、66歳の時、ふらりと家をでてから、それっきり帰らなかった。
よってその日を命日としてある。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/14(日) 06:39:10.90ID:IzOBTYR90
へー面白い
清水次郎長と敵対し黒駒勝蔵と懇意の人でしたか

へっついで湯を沸かしたら金の茶釜も煤で汚れるんじゃ
毎日磨くのが大変そうw
0216名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/15(月) 22:40:53.48ID:EXapisWY0
山村の寺へ入り、墓石を覗くと、時に博奕打ちの墓に偶然行きあうことがある。
「関東吉五郎」という人の墓石が甲州のある博奕打ち親分の墓域に建っている。
何をした人かはわからない。多分永久にわからないだろう。
下総で生まれ、信州松本の博徒の家に草鞋を脱いでいた時に病死した。わざわざ墓石に略歴まで
刻まれているのだから、相応の人なのだろうが、いずれ親分共々無縁。朽ちてゆくのみなのだろう。
0217名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/15(月) 22:48:23.67ID:EXapisWY0
一人でつぶやくようなスレだったが、最近反応があるのは刺激になって有り難い。
うざったくない程度に、自分の今まで調べたつまらんことを書いていこう。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/15(月) 23:35:13.72ID:Mf3MPNek0
面白く拝見してますよ。
こういうスレがあるなんて知らなかった。
言っちゃなんだけど、2chにはもったいないくらい興味深い。
これからも無理のないペースで書いてください。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/16(火) 23:02:24.02ID:DduoZ9430
関戸長兵衛は、姓小林。多摩一ノ宮の万平親分の腹心だったようだ。
安政6年には、親分の万平、同門の熊造と連名で府中大国魂神社(六所宮)に
伊吹丸という大太刀を奉納している。
蓮光寺富沢家の日記によれば、長兵衛は数人の子分を従えており、各所で争いを調停している様子が伺える。
また娘が一人いたようだ。

ちなみに府中大国魂の伊吹丸の説明板では「長兵衛」は「長三郎」と誤記されている。
0220名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/16(火) 23:22:59.45ID:DduoZ9430
思いだしたので、府中でもう一つ。
府中宿で最も古い博奕打ちに福本屋の源太郎がいる。この源太郎が奉納した
見事な水盤が大国魂神社にある、と比留間一郎が書いているが、今はそこにはない。

実はここから東へ500m程行った「国府八幡宮」の敷地に移されている。
大型で形のよいこの水盤は、人けのない神社ではひときわ目立つ逸品である。
おそらく多摩地域でも一、二を争う大貫禄の水盤だろう。
0221名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/16(火) 23:53:42.75ID:yXXkRQTM0
伊吹丸は大国魂神社の宝物殿に展示されてるんですか?

連光寺の富沢家といえば名家ですな
「富沢家日記」の特に文久〜明治は読んでみたいけどなかなか機会がない
0223名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/17(水) 02:59:39.85ID:+N6R+RRc0
府中で田中屋万五郎を思い出した
飯盛旅籠を経営、八州廻りの道案内ってことくらいしか知らないけど

御用聞きの元締めみたいな人物って話も聞いた
0224名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/17(水) 23:02:07.13ID:6o2Vq8UQ0
いわゆる十手持ち・目明しの親分は、東海道なら遠州の棒周さん(中村周蔵)、
駿州の安東文吉、少しずれて甲州の三井卯吉、武州に入って田中屋万五郎
が有名なところだった。棒周さんは国領屋亀吉の親分、安東文吉は「首継なぎ親分」と呼ばれ、
次郎長も頭が上がらなかった。三井卯吉は甲州では武田時代からつづく、由緒ある「甲府牢番」の出自、
安政4年1月4日に市川の小天狗亀吉に首を取られたが、何といっても大者だった。

田中屋万五郎は、八州回りの居住地である内藤新宿(現・新宿)中町、府中本町、大和田町の三カ所に居を構え、
武州の岡っ引親分として威光は相当なものだった。
0225名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/17(水) 23:18:02.84ID:6o2Vq8UQ0
万五郎は、姓を長谷部という。明治3年75歳で亡くなっているが、死ぬまで実家の
除帳は解けなかったようだ。
上記のように武州の三カ所にねぐらを持ち、多数の岡っ引子分を率いていた。
天保15年、実質上岡っ引(道案内)が給金制度になるに及び、府中組合、中野組合、大和田組合、青梅組合の
4か所で同時に雇われていることからも、その勢力が伺える。
彼一人を雇えば、その下の子分連(府中の丑五郎、新宿の定吉、田無の万吉、青梅の吉五郎、川越の藤吉など…)
が働いてくれるという図式ができていたわけだ。
その勢力は、北は桶川、南は府中、東は内藤新宿、西は青梅と広範囲に渡る。

ばくち打ちとの相性もよく、小金井小次郎や甲州の祐天仙之助などの手紙の中にも、しばしば
彼の名前が出る。小次郎は「本町旦那様」や「田印様」と呼び、祐天は「田中屋万五郎様」
といずれも手紙の中で万五郎を丁重に扱っている。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/17(水) 23:26:51.30ID:6o2Vq8UQ0
そうそう、田中屋は現在の府中高札場跡から北へ上がった医院の地所に、元あった遊女屋である。
0227名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/18(木) 21:53:42.90ID:wEWojSVJ0
また間違えた。田中屋は高札場の北ではなく南。
0228名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/18(木) 22:45:46.17ID:E/FgSyQW0
やっぱりそうですよね
高札場の北に病院あったかと思って驚いたw

でもいろいろ参考になりました
以前は内藤新宿でも府中でも名前が出てくるのはなぜかと思ってたけど
両方含む3カ所に住居があったんならわかるし

ブログとかやってないんですか?
スレが落ちたりしたら読めなくなるのはもったいない
0229名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/19(金) 00:20:03.19ID:bDZt5eC/0
ずいぶん詳しい方ですね。思わず釣られて、柄にも無く多く無駄話しを書いてしまいます。

すでに御存じかもしれませんが、府中に関しては郷土史家・故比留間一郎氏の論文が群を抜いてすばらしいです。
代表的なものを上げておきます。

比留間一郎「府中宿の八九三」(『府中史談 第10号』 府中史談会、1983年)
〃    「古文書よりのそいた文政年間の世相」(『郷土たま・第5号』多摩市談会、昭和61)
〃    「府中宿の旅籠屋ノート」(『府中郷土の森研究紀要2 ←いまいち自信がありません…)

日野の佐藤彦五郎にも興味がおありのようなので、同じ日野宿の隼太の行状に関して興味があるのなら、
是非お読みになって下さい。いずれにせよ、多摩地域の近世に関しては傑出した考察だと思います。
0230名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/19(金) 23:25:09.16ID:8444SNSw0
>>229
自分はただの半ちく野郎です
このスレのみなさんのほうがずっと詳しいと思います

現代は侠客とか博徒とかの扱いが難しいみたいですが
彼らの動向がわからないと本当の史実もわからないから
そういう意味で無視できないと思うんですよ

資料のご教示ありがとうございます
探して読んでみます
0231名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/20(土) 13:41:19.12ID:nbY2t3I30
大和田の友蔵は遠州見附宿に遊女屋をひらき見附の友蔵とも呼ばれた。
出身は遠州大和田(現・静岡県磐田市大原)の農民庄兵衛の次男と伝わる。
相撲取りのような体格で米二表を両手にぶら下げる程の力持ちでありながら、人間ができている。
喧嘩を嫌い、土地の紛争をよく解決した。中泉代官所が近くにあったことから
十手を預かり、次郎長も兄貴分として敬っていた。

文久三年五月、代官所から放浪中の黒駒一味召捕りの命を受け、本人嫌々ながら、
勝蔵と対峙せざるをえなくなる。そこで喧嘩出入りの得意な兄弟分次郎長に助を請い、
次郎長と勝蔵とが矛を交えることになる。
0232名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/20(土) 14:01:17.38ID:nbY2t3I30
場所は天竜川子安森。
友蔵側には、一番子分の豪傑「中泉の太郎」一家に加え、
清水から次郎長率いる25人が来た。(この時、先頭に立っていたのが、かの「桶屋の鬼吉」)
また途中、駿遠三で随一の暴れ者と言われる「伊豆の石重」さんも助についた。
清水からの出がけに、石重さんが持ってきた鰹十本をみんなで平らげたのは『東海遊侠伝』にもある
有名な逸話だ。
0233名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/20(土) 16:15:07.76ID:nbY2t3I30
喧嘩が起きると、方々から助っ人が入るのが当時の習いだった。
何しろ事者側から食い物も出るし、道銀も出る。よって喧嘩の際には自分の持ち駒以上に人が増える。
いずれにせよ、総勢で150名程が友蔵の側に付き、結果、さしもの黒駒一党(80名程という)も
一戦もせぬまま天竜川の片岸から引きあげていった。

喧嘩は後事がたいへんで、助っ人に入った者の面倒を暫く見なければならない。
友蔵の人の良いのを見越して、随分世話をかける奴が多かったという。
言い伝えでは、さらしと草鞋を毎日替え、店の払いは皆友蔵に付け、中には、衣類の新調までする
者もいたと言う。これらの払いも友蔵は厭わず、きちんと面倒を見た。
また、これ以降、勝蔵を追い続けていくことになる次郎長に、友蔵は餞別として平気で「千両」を出し与え、
これには、さすがの次郎長も度肝を抜かれたという話。(これは友蔵の娘・お梅さんの話だというから信憑性がある。)
0234名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/20(土) 23:26:49.27ID:JOPMrZZ40
結局「ん廻し」の「小和田友蔵」は間違いで「大和田友蔵」が正しかったとは
道理でなかなかわからないはずだorz

噺家がどちらのつもりで話したのかはわからないけど
NHKは文字放送の字幕を間違えてたぞw
0235名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/21(日) 00:44:18.88ID:/hGjVf6J0
間違えじゃないよ。オーラルヒストリーは、まず耳からで正しい。
小和田だろうが、大和田だろうが、構わんのだ。

友蔵は姓、磯辺(部かもしれない)。仁侠研究者の戸羽山瀚が昭和14年(ぐらい)に
墓石を再発見するまでは、地元でもほとんど知られていなかった。
十手を預かっていたことから、明治には「小警視・磯辺友蔵」と書かれたらしい。
博奕打ちの親分で警視と呼ばれたのは、まあ、友蔵意外にはいないだろう。
0236名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/21(日) 17:29:39.37ID:/hGjVf6J0
八王子は近世多摩地域の一大都市であり、祭礼・市には多くの賭場がたった。
特に六歳市の開市に合せて本宿で開かれる博奕は「市切り」と呼ばれ、多数の博徒が
集まった。

江戸期の八王子の博徒組織は大きく分けて三流あったと言う。一つは小金井一家、二つは
一ノ宮一家(蕎麦やの亀さん)。もう一つは判然としないが小仏一家(栃健?)だろう。
他にも日光屋や、平野屋といった親分衆の名前が残っている。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/21(日) 23:21:03.09ID:/hGjVf6J0
峠の健次郎
0239名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/22(月) 22:53:15.28ID:0sc4vYIS0
一般に出回ってる小仏一家の「峠の健次郎」は久沢兼吉という人のことになってる。
しかしこれは、やはり「栃健」こと栃木健次郎のことを指すのが本当ではないだろうか。
0240名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/22(月) 23:02:14.86ID:0sc4vYIS0
>>238
国定に次郎長、次はどこを取り上げるのか、楽しみだ。
0241名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/22(月) 23:40:37.69ID:0sc4vYIS0
一ノ宮万平は美服は着ない。野良作業の百姓のようないでたちで、腰には長脇差の
かわりに短いナタを帯びて山爺のようだった。現在武蔵一ノ宮小野神社の北、100程の道端に
彼の建てた小さな石が建っている。地元でも、万平の建立とは知らない。(万平自体を知らない。)
表面は剥げ既に判読は難しい。いずれ風化し消え去るのだろう。ちなみに息子とされる
藤三郎との連名で建立している。
0247名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/27(土) 12:34:54.71ID:LdUSFRHp0
天保水滸伝のアニメーションは初めて知った。良い企画だとは思うが、どうやらもう
途中で終わってしまったようだ。

助五郎と繁蔵の天保15年の喧嘩の様子、ならびに、その後の繁蔵と佐助(勢力富五郎)の
人相書きは神主家の日記である『続・神私実事集』に記載されている。
なおこの人相書きは、東京都奥多摩町にも存在している。
0248名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/27(土) 12:45:31.09ID:LdUSFRHp0
大利根川の戦いに関しては、飯岡助五郎も一方の雄だし、笹川繁蔵も魅力的な人物である。
また、繁蔵派の浪人・平手神酒(平田深木)や勢力富五郎、座頭の市なども人気が高い。

彼らに劣らず魅力的な人物に、助五郎の片腕・洲ノ崎の政吉がいる。永井の政吉とも言われるが、
自身独立した親分格でありながら、飯岡一家を双肩に背負っていた、と讃えられている。大利根川の決闘で戦死した。
0249名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/27(土) 12:59:34.15ID:LdUSFRHp0
飯岡と笹川の中が、そろそろ怪敷くなりかけてきた頃、繁蔵が勢力らを引き連れ、
飯岡の町へやって来た。飯岡方では子分が騒ぎ立ち始めている。
すると政吉が、手近にあった舟の大錨(いかり)を、ヒョッと肩に担いで、繁蔵の近くへ行き、
何気なく挨拶した。これには繁蔵も度肝を抜かれ、双方何事もなく事が済んだと言われる。

この時の様子が、芳年によって近世侠義伝の一枚(「洲之嵜亦吉」)として描かれている。
0250名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/28(日) 12:53:33.24ID:WvJ52MZt0
博徒・侠客・遊侠・旅人を、近代以降のヤクザ映画とつなげて「日本人の心性には侠客精神を好む風がある」
というのは正直違うと私は思う。高倉健や菅原文太、北野武のヤクザ物に現れる「あれ」は、講談や浪曲で次郎長や
笹川繁蔵らにシンパシーを寄せた心性とは別物だろう。

その辺の心根に一番敏感だったのが長谷川伸であり、だからこそ長谷川の作風を分析した佐藤忠男の仕事は、実は
侠客・侠気を知る上で一番大切な命題を扱っているように思う。
 佐藤忠男『長谷川伸論』中央公論社、1975
0251名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/28(日) 13:08:40.95ID:WvJ52MZt0
ともすれば暴力性や、虚無主義、勢いとノリ、偏狭な男らしさ、過剰な荒々しさなどが、
娯楽の名の下に「侠気」にすり替えられ受け入れられていくことは危険なことだろう。

実際の博徒・侠客の聞き書きや取材を重視した小母澤寛や長谷川伸、戸羽山瀚らの著作に貫かれる
侠客の姿は「仁義なき…」以降のヤクザのそれとは(無論被る面も少しはあるが)大分違っている。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/28(日) 19:20:32.39ID:oqw+FFme0
アウトロー的な人物に対して
一般大衆が憧れたりヒーロー視したりする心理は
古今東西あまり大きな違いはないような気がする

しかし、かつての侠客やそれ的な人物と
現今のヤクザや暴力団員とは別物だと思う
どう別なのか、うまく言葉にできないが…

実際に侠客などと交流があったり(同じ時代を生きた体験があったり)
侠客について詳しく調査や研究をしたりした人間は
一般大衆の憧れ気分とは異なる気持ちで
彼らを理解、容認しているのではないかと感じる
0253名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/06/28(日) 19:27:11.37ID:oqw+FFme0
個人的には、幕末期の一般大衆の憧れ気分にも興味がある
「天保水滸伝」や国定忠治について早々に講談が成立したそうだけれど
そうした実話に基づいた物語が当時どれほどもてはやされたのか
具体的に知りたいと思うもののなかなか手がかりが見つからない

今だったら検索して好意的な感想が多かったら
どうやら人気作品らしい、とかわかりやすいのに
0254名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/28(日) 23:14:37.60ID:WvJ52MZt0
というわけで、洲ノ崎の政吉
0256名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/06/30(火) 22:11:50.83ID:TxwRAwFo0
義理と人情をたどって:8 キャバレー太郎、カネと恩
http://www.asahi.com/articles/DA3S11834480.html

「キャバレー太郎」こと福富太郎について

福田赳夫が来店した時
群馬県出身ホステス40人に接待させて驚かれた
「上州出身、国定忠治張りの気っぷの良さ」などと書かれている
ただし福富さんは東京都出身

福富さんは勝海舟を信奉していて
事務所に肖像写真を飾り
洗足池の近くに自宅を建て
自室には関連書籍などを集めまくっているとか
0258名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/01(水) 21:13:20.11ID:iSlSAorr0
ちょっと質問ですが、『佐藤彦五郎日記』について。2004年の本だと
慶応四年土方から亀吉が使いに来て府中宿に呼ばれた人の中に「本宿村の捨助」とあり、松本捨助
と解釈できるのですが、2009年の彦五郎日記だと、彼は「本宿の権助」になっている。

一体どっちが正しいのでしょうかね?
0259名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/01(水) 22:29:25.92ID:IrFBGdWC0
義理と人情をたどって:9  類さんと、さあ次の店へ

吉田類(俳人、イラストレーター、エッセイスト)の世界
今回も侠客と関係なかった
0261名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/02(木) 22:14:29.41ID:Q729Zfm90
一つはそれ、『日野宿叢書 第五冊 佐藤彦五郎日記 二』です。こちらだと
本宿村の「権助」。
もう一つは『日野宿叢書 第二冊 図録日野宿本陣』のp43です。こっちだと
本宿村の「捨助」。
博徒研究の者としては捨助であって欲しいですが…出版年からして権助っぽいですな。

なお博徒捨助の史料としては、東京成徳大学の鶴巻孝雄という先生のHPに紹介されている
日日新聞明治八年の記事が注目に価します。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/sinn-siryou/sinn-4.htm
0262名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/02(木) 23:56:03.19ID:1u2X+gQU0
どちらかと言えば「権助」が正解だろうと思います。

『図録 日野宿本陣』のほうは、
本陣公開や大河ドラマ放映に合わせるべく作業を急いだ様子なので
翻刻にも問題があったと推測されます。
40ページの中段には「元治元年」の年号ヌケがありました。

『佐藤彦五郎日記 二』は、何度か再版されている様子ですね。
こちらにも翻刻ミスがあるのになかなか修正されないとか聞きました。
ただ、『図録』よりは信頼できそうな気がします。
正確を期すなら、日野市に問い合わせたほうがいいかもしれませんね。

興味深い記事を教えてくださって、ありがとうございます。
0263名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/07/03(金) 00:23:37.25ID:i8OyYlwB0
さっそくの回答ありがとうございます。東京都の多摩地域は博奕打ちの活動と同時に
新撰組に代表される剣客の時代でもあるので、時に両者がからみあうことがあって、
面白いですね。
0264名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/07/03(金) 00:35:23.04ID:i8OyYlwB0
高井戸の勇次郎は、姓鈴木、一般には「饅頭屋勇次郎」と呼ばれる。(文字通り、実家は饅頭屋。)
小金井小次郎の腹心ではありながら、同じ小次郎子分の四軒寺(吉祥寺)の作次郎とは
対立した。ある年の花会の終わりにいきなり作次郎の頭に短刀を突き刺したと言われる。
もっともこの時は作次郎の貫録で事なきを得、勇次郎大いに面目を潰した。
高井戸宿は甲州街道のうちでも、もっとも変容してしまった場所で、昔の面影はたどれない。それでも
古老は、ここに小金井小次郎配下で「不死身の男」がいたというから、これが勇次郎だろう。
0265名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/03(金) 23:43:16.28ID:04qNHMYW0
「高井戸村の団子屋・勇次郎」とあるのはそういう人物でしたか。

「中川の庄」「吉原のオタンチン政」というのも人名のようですが、
後者は面白い通り名ですね。

ちなみに、「特みて」とあるのは「恃みて」、
「しばへ」は「しば\/(くの字点)」=「しばしば」かなと思えました。
0266名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/04(土) 10:49:51.75ID:eK6Tc8Y70
なるほど「恃みて」ですか。
要するに記事の内容は
浅草で博打に負けた捨助が、入船の小次郎宅で偶然に高井戸勇次郎と鎌次郎、彦次郎に会い、
鎌次郎と彦次郎は捨助の子分だったので、親分のために浅草の賭場荒らしをやりにいき、
その結果、とばっちりで捨助もつかまった
と、こういう話なんでしょう。私の説明も人の事言えませんが、本文は実に分かりにくいですな。
0267名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/04(土) 10:56:55.58ID:eK6Tc8Y70
江戸時代の「あだ名」の研究というものはあまりされていないようだが、
大切な研究だとは思う。易々と手をつけることはできないが、仁侠研究とも
結びつく分野だろう。
0268名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/04(土) 11:03:17.70ID:eK6Tc8Y70
少なくともこの記事から、

・松本捨助が相当な腕前の剣客であり、かつ子分を持つ博徒でもあった。
・捨助は甲州勝沼の戦いに参加した。
・捨助と小金井小次郎とは「兄弟分」の仲だった。
・浅草の辰五郎(新門辰五郎)と小金井一家は親しかった。
・小次郎は明治に「入船」に住んでいた。

といったことが判明しますね。
0269名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/04(土) 23:28:33.98ID:8kx7qm230
捨助を「捨吉」としていたり
饅頭屋勇次郎を「団子屋」勇次郎としていたり、
細かい違いが多少気になるものの、参考になりますね。

新選組関連の本に、捨助が「明治8年、博奕の諍いで逮捕」とあるのは
おそらくこの記事が根拠なのだろうと察しがつきました。

また、捨助が17歳の時、不行状を理由に親から勘当され、
代わりに土方錠之助(歳三の甥)が跡取りとして養子になったそうで、
「不行状」とは具体的に何かと思いましたが、
どうやら小金井小次郎のもとに出入りしたという意味らしいですね。
0270名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/07/05(日) 00:07:30.15ID:A+H3DHDG0
新撰組についてお詳しいですね。
私はほとんど知らなかったので勉強になります。
明治八年のことは既に書籍に書かれているんですね。
不躾なお願いですが、書名等、もし宜しければそのうち教えてください。
0271名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/05(日) 00:08:22.77ID:A+H3DHDG0
二本木の安太郎と滝蔵
0272名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/07/06(月) 21:55:48.29ID:jX8FSlQH0
>>270
こちらの覚え書きが不備だったので、本のタイトルが不明ですが
わかりましたらお知らせしますね。
新選組に関しては熱心に調べている方が多くおいでなので、
私などは全然詳しいうちに入りません。もっと精進したいです。

地元研究家によると、捨助はやはり天然理心流を学んでいたということです。
0273名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/07/07(火) 22:33:39.80ID:3WWs7cbt0
本市場の金七は、宮島の年蔵の子分とも兄弟分とも言われる。一説には大場久八の子分であったとも言うがよくわからない。
金七は「大根を切るように人を斬った」という。この男のどこが良くて子分になるのか、わからないほど残忍だった。
彼は気分次第で子分も斬った。斬る前には自分で富士川河原に穴を掘らせ、その前に座らせて斬った。
ある寒い日に、金七があまり手間取ったので「寒いから早く斬ってくだせえ」と叫ぶ子分がいた、との話が伝わる。

金七は明治になって横浜税関に強盗に入り打ち殺されたという。
金七が強盗に入る際には、連れて行った子分・妾は口を割らせないように一々殺して塚を建てた。
強盗に入る前には連れて行く子分に妙に優しく振る舞うという習慣があり、
そのため、子分は金七に優しくされることを一番恐れたとの話である。
0275名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/07(火) 22:46:38.44ID:3WWs7cbt0
一般に荒神山の喧嘩の手打ち写真として知られる清水一家総動員の集合写真がある。
これは清水の梅蔭禅寺の資料館にも、次郎長のウィキペディアにも載っていて、それぞれの人の名前にルビがふってある。

しかし昨年亡くなった次郎長研究の老大家が亡くなる前に私に語って下さった話では、あのルビは嘘っぱちである、とのことだ。
この方の名は伏すが、梅蔭禅寺の関係者でもあり、現在の末広亭を開き、次郎長研究に多大な貢献をなさった方である。
誤った情報が一般化されぬように、一応ここに書いておく。
0276名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/08(水) 03:18:11.23ID:1UPbh2R+0
八王子と言えば、小金井や小仏と並んで妓楼(遊郭)の男衆、妓夫だった山田喜久次郎は名前を挙げておきたい。

鉄砲を懐にのんでいたため現在も彼の住んでいた場所は鉄砲横丁という名前が残っている。近デジにも伝記はあるが茂在寅男先生の「鉄砲喜久一代」はお勧めしたい。喜久は堅気だが浅草と吉原の顔役だから大久保源之丞の前の世代という立ち位置になる。
0277名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/08(水) 03:30:39.95ID:1UPbh2R+0
>>275

静岡の方でしたらもし御存じなら今はない松尾四郎の松尾書店がどこにあったかご存知ありませんか。
0278名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/08(水) 07:36:51.29ID:r2ATTN8E0
松尾書店は、私も去年静岡へ行ってさがしたけど今はもうありませんし、元の場所も、聞いたけど忘れてしまいました…
東京の神保町には松尾さんを兄貴分にしたう人が何人かいて、いろいろ話が聞けますが、
時間が無いんでまた後日書きます。
0279名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/08(水) 07:39:22.15ID:r2ATTN8E0
>>276
お詳しいですね。八王子の仁侠関係は情報が少ないのでありがたいです。
是非探して読んでみます。
0280名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/11(土) 14:46:18.04ID:OEzMlD0d0
松尾書店は静岡市の七間通りという通り沿いにあったらしいのですが、
今では全く面影がありません。場所のことは市役所だか県庁だかの、目の前のたばこ屋のご主人にうかがいました。
著書には追手町にも住所の記載があり、行ってみましたが詳しい事は追跡できませんでした。

また神保町の、これもどこの店だか忘れてしまったのですが…『史話と伝説』を偶然扱っていた店の店主と話をした際に氏の話がでて、

・松尾氏は天照教(だったか?)の熱心な信奉者で、時に神がかった直感を示すことがあった
・上記の力もあって財をなした
・静岡から東京へ来ると、帰りに知人の本屋を静岡へ案内して御馳走した。その際全て払いは松尾氏がしてくれた
・たいへん学歴の高いしっかりした若者を何処からか探してきて、娘さんを嫁入りさせた
・国書刊行会の人(社長?)と知り合いだった

という話をききました。あまりお役にたてず済みません。
松尾氏の研究姿勢は私もたいへん尊敬しています。何か情報がありましたらお教えください。
0281名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/11(土) 17:05:51.00ID:OEzMlD0d0
渡世人は旅人・旅修業と称して親分から親分へと順達して渡り歩く。(「股旅者」とよく呼ばれるが三田村鳶魚などはこの呼び名を否定している)
ともあれ形状は「古手拭い」を一本土産代わりに差し出して、生国・俗名・親分の名を名乗り、
「草鞋銭」という名目で合力を願う。親分の方では、この古手拭いを「頂いた」ということにして、其の上に銭を載せて
旅人に渡すのが決まりだったという。

普通の旅人には一人当り二百文か三百文。少し顔の売れた者には一分か二分。更にその上の旅人には一両以上出したという。
街道宿場の場合には、こういった者が日に最低「五十人」、多い時は「百人」というから、親分の出費は半端ではない。博徒親分の宅の内実は
火の車、銭を預かる女房は泣かされっぱなしだった、と伝わっている。
0282名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/11(土) 22:54:06.47ID:bx8OM2fm0
>>281 は蕎麦職人のしきたりと少々似ているところがある

山本おさむ『そばもん』によると
働けなくなって生活に困窮した場合
現役職人を訪れ、使い古した菜箸と前掛けを見せて買い取りを願う

現役職人のほうは、面識のない相手であっても同業者と察し
長年の働きに対する慰労を込めて幾許かの金銭を渡す
菜箸と前掛けは相手に返す

現在ではこのしきたりは廃れている模様
0283名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/12(日) 00:26:56.48ID:G3jGNo7E0
>>282
これは面白い話をありがとう。
281の話自体、戸羽山瀚が「雲水の修業の様」と書いてるように、博奕打ちの
専売というものではなかったようです。当時は旅人は、その職種によって
様々な礼式を持っていたようですね。
『そばもん』是非探して読んでみます。
0284名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/12(日) 00:39:36.91ID:G3jGNo7E0
東海道で実際に気風の良さと度量の広さで知られた、長楽寺の清兵衛の逸話が
街道筋の親分の生活の大変さ(金の工面)をよく示しているのだけど、これはまた後日書きこむ。
0285名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/15(水) 23:02:31.37ID:McRYslhd0
塩山藤太郎こと平右衛門
0286名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/16(木) 00:33:27.80ID:8f2OSnrp0
変なことを言うようだが、「もらとりあむタマ子」。
あの中で前田敦子が生活する空間が、だいたい嘉永7年までの祐天仙之助の生活圏だ。
0287名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/17(金) 01:35:37.89ID:xA7PzUK20
>>275
恐縮ですが、少々お伺いしてよろしいでしょうか。

Wikipedia「清水次郎長」で、その写真を確認しました。
ただ、梅蔭禅寺の資料館にはまだ行ったことがありません。

ご指摘の趣旨は、
被写体の説明(人名)自体が事実と異なる、という意味ですか?

それとも、梅蔭禅寺の資料館では、人名に読みがな(ルビ)がふってあり、
その読みがなが間違っている(人名自体は間違っていない)、という意味ですか?

Wikipediaでは読みがなが見当たらないので、どうもよく理解できずにいます。
ご教示いただけましたら幸いです。
0288名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/18(土) 08:55:40.35ID:faLgKSUy0
清水次郎長の写真に関しまして、お詫びいたします。
まず私の下手な文章のせいでだいぶわかりにくい記述になってしまいました。
文意としましては「説明自体が事実と異なる」の方です。

また、この点に関しまして、今になって私は「否定する証拠もない」ということに気が付きました。
私に説明をして下さった方は、次郎長研究に関しては本当にすばらしい業績を残された方なのですが、
私がその時の何気ないコメントをそのまま勝手に解釈し、ここに書きこむことは、あらためて考えてみれば、分を越えた出過ぎたことでした。
今となっては其の方が、どのような理由でああおっしゃたのか、証明する手立てもありません。
いずれにせよ調子にのって書きこみすぎました。本当に申し訳ありません。
0289287
垢版 |
2015/07/18(土) 20:02:29.04ID:2c85JXo/0
>>288
つまらない質問にご回答くださってどうもありがとうございます。

「ルビ」とは、例えば難読漢字にふりがなを付けるなど
本文に補われた小さい文字の意味と理解していたので、
悩んでしまいましたが、思い切って質問させていただいてよかったです。

写真についてご説明くださったその方が、
ご高説の根拠を書き残すなり何なりしてくださっていたらよかったですね。

ただ、あの写真キャプションは事実でない可能性もある、とご教示いただいただけでも
意味はあると受け止めました。
今後もご存じのことを教えていただきたく存じます。
0290名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/19(日) 21:45:23.87ID:LtvsED9f0
新門辰五郎
0291名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/19(日) 22:56:26.40ID:LgFDVI2P0
街道筋の親分の家計が苦しいこと、また苦しくても意地を通さねばならなかったことを表す逸話として、
藤枝・長楽寺の清兵衛が、風呂に入っていた幼い倅に「坊、早く出ろ」と言って急いで風呂から出させ、そのまま湯台(浴槽)を質屋にもっていったという話がある。
出典を忘れてしまったのだが、清兵衛ではなく次郎長の話として伝わってることもある。

ちなみに清兵衛、次郎長とは五分の兄弟分で、街道筋の親分として恥じない顔役。
大正十年九十七歳で大往生するが、上記のような気風で文無しで死んだにもかかわらず、藤枝の人々の度肝を抜くような立派な葬儀だったと伝わる。
身の丈五尺八寸。背中には「小野小町」、両腕には櫻の入れ墨があった。
0292名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/19(日) 22:59:53.22ID:LgFDVI2P0
>>289
「あの写真キャプションは事実でない可能性もある」
↑まさに言いたかったのはこれです。御丁寧な返信、誠に有難うございます。
0294名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/22(水) 22:01:19.38ID:MRak6sTQ0
『下田物語』では、確かにヒュースケンが脇差を持った男に因縁を付けられる話がでており、
この無頼漢が金平ということになるようですが、確実な証拠資料が力及ばず見つけられません。

金平は姓・加藤。由五郎との別名を持ち、また旦那寺である海善寺(墓もここにある)に匿われ
「玄道」と僧籍を名乗ったこともあったようです。
『東海遊侠伝』に語られるように鎧具足に身を包んで、次郎長一家を急襲したり、
黒駒勝蔵と組んで甲府城乗っ取りを計画したり、紀州藩(長州か?)に繋がりのある商船を襲い
金を強奪して志士に流したり…と実に様々なところに顔を出す興味深い人物です。
そうそう、本職は髪結いだったともいいますね。
0295名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/22(水) 22:06:28.85ID:MRak6sTQ0
『下田物語』には「プレイボーイの久八」という人物が登場しますが、
これは実は大場久八なんじゃないかな、とも思うのですが、どなたかわかる方はいらっしゃいませんでしょうか。

ちなみに、プレイボーイの久八は臆することなく外国人に話しかけ、いくぶん下卑た笑いで
その場を楽しませた、とあります。誰かの本に、これが大場久八だったと書かれていたような気もするのですが、
ただの気のせいかもしれない…
0296名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/23(木) 18:48:37.40ID:MusdAfl10
よくご存じですね
海善寺に行ってみたくなりました

playboyを「女たらし」ととらえたら意味不明だけど
「遊び人」と考えれば「遊侠」っぽいようにも思えるから
やっぱり大場久八なのかな
0297名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/23(木) 21:21:17.00ID:kmQEyc9j0
最初に出会ったとき、金平は久八にぶん殴られ二軒(約3.6m)ほど吹っ飛んだと書いてあったような。凄すぎる。
0299名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/23(木) 22:43:27.76ID:Dx01Wqrs0
金平が海路清水を襲ったのは、万延元年9月16日夜。(『東海遊侠伝』)
黒駒勝蔵と甲府城乗っ取りを企てたのは元治元年4月。(『官武通紀』)
船舶を襲ったのは、慶応2年3月。(「江川家文書」)
以上のようです。一応付加情報として書いておきます。


>>297
その逸話は知りませんでした。貴重なお話、ありがとうございます。
0300名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/23(木) 22:58:57.66ID:Dx01Wqrs0
大場久八は身の丈6尺以上の偉丈夫で、片目が斜視。常に四尺の朱鞘の長脇差を
差し、実に堂々たる大親分の貫禄だった、と長楽寺清兵衛が伝えている。
駿府の安東文吉の元をよく訪れた。その際、久八の預けた脇差を文吉の子分たちが
力試しと称して抜いて振ってみたが、みな一様に2,3振りでヘトヘトになってしまった、という逸話が残る。

一方、久八無二の兄弟分である丹波屋伝兵衛は正反対の小男で、彼もまた朱鞘の脇差を好んだが、
腰にさせば、その脇差が地を引きずるような風采だったと伝わる。それでいて
知略抜群・細やかな心遣いができ、街道一の親分と多くの者に慕われた。
0301名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/25(土) 09:12:16.30ID:ZWaEbnWm0
御殿の伝蔵
0302名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/26(日) 06:17:15.58ID:BKiXs4Jd0
>>299
典拠を教えていただけるのは大変ありがたいです。

ところで、松本捨助逮捕の件を記載しているのは『新選組隊士録』でした。
遅くなって失礼しました。
0303名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/27(月) 22:02:45.38ID:fyH1JNiU0
『新選組隊士録』の情報誠にありがとうございます。
やはり知ってる人は知ってるのですね。しかしインターネットというのは便利なものだと
つくづく思います。誠にありがたい。
0304名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/27(月) 22:13:53.15ID:fyH1JNiU0
御殿の伝蔵は備前の落人の子と伝わる。出生が駿州・御殿場村だったため「御殿の伝蔵」。
市川雷蔵の映画では「殿さまの伝蔵」なんて言われてもいた。
伝蔵は黒駒勝蔵が甲州で敵対した親分の一人として、名をあげられている。実際のところは国分三蔵の
一番子分といった立位置だったようだ。
武州の日記史料にしばしば顔を出す、慶応二年四月二十六日八王子で召捕られた「甲州無宿伝蔵」がまさに彼のこと。
子分ともども鑓鉄砲で武装し、彦五郎日記では「近年稀に見る強賊」などと書かれている。
0305名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/27(月) 23:35:39.37ID:PS4ADPKZ0
>>298

金平が髪結い時代に往来を歩いてくる大男とぶつかり「どこ見てやがんだ」と啖呵をきったまではよかったが、そのまま二軒ほどぶっとばされた。この相手の大男が伊豆の間宮村の久五郎であり、負けたことで素直に金平は久五郎の弟分となっている。

男稼業の粋の背骨である「我慢」というのが薬にしたくともない金平が貸元、親分と呼ばれる程の男になれたのは親分の久五郎が金平の馬鹿正直さと異常なまでの負けず嫌いを見込んだことによるが

云々とノートに書いてありました。日付と出典はありませんでした。

多分、伊豆史談会の資料を写したのでしょう。もちろん、そんな偉い人の集まりなんて毛ほども関係ありません。
0306名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/28(火) 19:09:34.25ID:Xj4WbBcQ0
詳しくありがとうございます

いくら何でも理由もなく殴るとは考えにくかったから納得
大男相手にケンカを売る金平の向こうっ気の強さも相当なもん
しかし2間もふっとばされたらおつりが来るかな
0307名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/28(火) 23:31:49.94ID:YGWcNhrF0
伊豆史談会とはおみそれしました。そのような会合に一度は出てみたいものです。
貴重な逸話を有難うございました。上の方も言うとおり、金平は相当に魅力のある侠者ですね。
0308名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/31(金) 19:43:52.12ID:1Axp/jxi0
いや、皆さんと比べたら、無知で恥ずかしい限りです。凄いですよ。

私はどちらかというと、大衆文化史のヤクザの事跡に興味がありましたが、最近はどうも。

ノートにとっていたんだから好きだったんでしょうけど。

最近wikiでも清水一家の記事を載せている人はいますが大したものです。

足立巻一を出す理由は?ですが。
0309名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/31(金) 21:49:08.46ID:NLhhqlpB0
明治の中期から大正にかけて出された「近世侠客鑑」という番付がある。
この中でどうしても素情のわからない人物に「身延ノ半五郎」がいる。かならず番付の上位にいるにもかかわらずだ。
地元の山梨県身延町に足を運んでも、役場に問い合わせても、まったく判然としない。

中沢正や竹内勇太郎は「大瀬の半五郎」(又はその父親)のことだ、としている。
また、戸羽山瀚は大場久八の腹心とし、更に「安東文吉伝資料」の中だと津向文吉の一子分とされている。
どれもしっくりこない。
思うに、彼は黒須大五郎のように、明治期に世を騒がせた人物なのではないかと思う。誰か情報を持っていたら書き込んで下さい。
0310名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/07/31(金) 22:06:39.48ID:NLhhqlpB0
武州坂戸の赤尾の林蔵と、その南部に位置する高萩の伊之松との抗争は、江戸の後期から
明治にかけて講談中の人気作として何度も高座にかけられた。
もっとも林蔵の死ですら文化元年なので、よく知られた次郎長や勝蔵、忠治、吃安、祐天なんかよりだいぶ前の話になる。
残念なことは、もう今では地元の人ですら彼らのことを知らないということだ。

即ち、赤尾の山崎林蔵、高萩の清水伊之松、林蔵叔父の落合久五郎、山ヶ谷戸の矢辺源太郎、中新田の高篠源七、
岩殿の志村徳次郎(=観音の徳)、高坂の藤右衛門(姓不明)、田木の佐藤辰五郎らの無頼漢、加えて剣豪・秋山要助などが、
命をかけてしのぎを削る。そういう話が『侠客・赤尾の林蔵』なのである。
0311名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/08(土) 18:19:26.72ID:1rR5tG7V0
ウィキペディアに最近「関東綱五郎」こと大瀬半五郎の項目が出た。
これは八王子浅川の鈴木綱五郎を、次郎長子分の関東綱五郎と断定してしまっているが、たいへんな「お手つき」だろう。
半五郎は藤田五郎が言うように埼玉県八潮市の大作半五郎の方が正しい。『八潮市史』にもたしか
半五郎出奔時の正確な古文書史料が掲載されていたように思う。

鈴木綱五郎は、小林藤吉、栃木健次郎と続く「小仏一家」の人だ。

とは言え、私はウィキペディアの編集のような技術的なことはできないので、
こうしてぼやくほかない。なんとも無力。
0312名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/08(土) 20:27:09.69ID:1rR5tG7V0
飯岡はささやかな海沿いの町。ここは今でも助五郎の評判がすこぶるよい。だれも彼の悪口を言わない。
玉崎神社の境内に助五郎の碑が建っている。碑文の前に「六拾貫」の助五郎奉納の
力石が無造作に置かれている。これは助五郎が力の強い人夫を雇うために給料決めの目的で使用したものだという。
0313名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/09(日) 16:08:57.52ID:N+TzDWyi0
果たして侠客の歴史の侠客とはいつごろまでを指すのだろう。
幕末、明治初期までは入れていても大正は入れないという意識があるのか。一度、聞いてみたいものだ。
0314名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/09(日) 20:53:03.71ID:16NS4Lcz0
スカイツリーのそばまで行く時は、祐天仙之助の墓参りもしてくる。
隅田区太平の法恩寺内陽雲院墓地。
かつて日本橋の水天宮の近くに、親族を祐天に助けられたという女性がいて、彼の墓の管理をしていた、
と子母澤寛が書きものに残しているが、女性のその後は不明。暇があったら調べてみようと思う。

戒名は「本哲院宗勇智山居士」。「祐天の仙之助」とよく呼ばれるが、自筆だと「勇天」としているから、
戒名の「勇」はそこからきているのだろう。「資堂金三両」というのは高いのか安いのかよくわからぬ。
0315名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/10(月) 00:29:25.51ID:SImtoj020
>>313
私ごときが言うのもおこがましいので、一応一つの意見として。
上万一家の志村九内氏が最期の渡世人と見ていいのではないでしょうか。
理由は親分の命で、旅廻りをした時に「今の時代じゃもうやらない」と述べてることと、
半鐘兼や藤枝清兵衛の死ぬ間際に会ってることなどからです。要するに一つの時代の終わりを見とどけた人、のように思えるからです。

九内氏の没年は昭和38年。
その障害は井手英雄の傑作・『無職渡世』にたいへん詳しく記録されています。(文学者の佐藤春夫とも親しかったのではなかったかな。)
0316名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/10(月) 00:30:39.95ID:SImtoj020
その障害→生涯
本当にすみません。
0317名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/10(月) 17:57:02.94ID:lA2nC5y30
井出英雅さん。「無職渡世―志村九内の生涯」ですか。上万一家四代目格とされた人ですね。
群馬の神沢丹次郎の「懺悔履歴」なんかも渡世人の旅を描いていますが、確かに旅人=侠客というイメージでも
まとまりやすい気はします。

井出さんだと「男―武居啓三とその周辺」の中にもありましたが、「出るとこへ出たら知られた人物」という人を描いた作家ですよね。

0318名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/10(月) 19:16:40.72ID:SImtoj020
寒梅丹次までご存じとは…すごいですね。
丹次の石碑は今、小学校の裏手に建ってます。学校の教師になりたかったという彼の
述懐を鑑みるとなかなか興味深いものがあります。
0319名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/11(火) 00:14:16.37ID:D6YaKBnJ0
314だが、日本橋ではなく「京橋」、「水天宮」ではなく「水神」の間違いだった。
0320名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/11(火) 00:27:36.48ID:D6YaKBnJ0
銚子の飯沼観音・円福寺には銚子の五郎蔵事、木村勝五郎の墓と、寄進の茶釜がある。
頼めば見せてくれるが、いや、たいした存在感の逸品だ。ちなみに飯岡の助五郎と連名。

勝五郎の墓には屋号の入った子分衆の名前が多く刻まれている。三浦屋、田辺屋、大坂屋、成田屋など。
屋号記名が多いということは「岡っ引」ということだろう。よって盛名の割に世にあまり知られていない銚子の五郎蔵の実態は
岡っ引元締めといったところではなかろうか。
0321名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/14(金) 07:01:53.53ID:WpWPrKnNO
住吉会大前田一家
稲川会大前田一家(消滅)
松葉会上州国定一家
住吉会笹川一家
清水一家(山口組系になる)
稲川会清水一家(消滅)
0322名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/15(土) 10:14:09.28ID:IcaQmCOE0
近デジにある『関東侠客列伝』は明34年1月の出版で牧之原の先生のサイトでも引用部分
がありましたが、この人たちも侠客に入れていいとは個人的には思います。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777559

数十人のうち、ハナから三田貞蔵、田島要吉、安藤弥五郎、村山玉五郎、福田鉄五郎、田崎弁蔵、
井上吉五郎、鴨井亀吉、堀越喜三郎、阿久津万次郎、小林貞蔵、坂本林之助【堀越良助は子分として名前あり】
と続いています。

名前を知っている人もいれば、勉強不足で詳しく知らない人もいます。でもこうなんでしょうね。
0323名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/19(水) 14:00:59.20ID:p/T9mIKl0
>>210
虎造の三十石船では
宝位郡 雲風亀吉
御油の玉屋の源六
と続きますね
0324名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/20(木) 16:40:11.02ID:evdzX7n40
>>323
講談(浪曲)「清水次郎長」別名「石松三十石船道中」ですね
二代目広沢虎造をつべで聴いてみたらそのとおりでした

落語のほうはなぜ玉屋源六を省略したんだろう
時間の節約には関係なさそうだから
思い出せなかっただけかなと思いましたw
0325名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/20(木) 22:27:26.33ID:VztC93iC0
>>322
ご紹介有難うございます。どうも作者が下野の人のようですね。そういう意味で意外だし、人選も面白い。
特に川越勘次(内川勘次郎)の伝が結構豊富で役立ちます。この人も「侠客」というにふさわしい人だと思います。
「それを言うなよ、川越寛治、言えば寛治の名がすたる…」あんまり意味はわかりませんが、
川越では有名な文句だそうで。
ちなみに埼玉県立文書館には、この人当ての年賀状や、子分一力大五郎の相撲興行を打った時の番付けが残っています。
そういう世界の人の資料とは、学芸員さんも思ってもいなかったらしいですが。

あとは田島要吉、いわゆる二代目大前田栄五郎(兄の名を子分が相続した)。敢えて二代目要吉の伝を記すところが
たいへん勉強になりました。
0326名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/20(木) 22:43:12.71ID:VztC93iC0
御油の玉屋源六は初耳です。どういう人でしょう。興味が湧きます。
0327名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/21(金) 18:33:00.78ID:XN5i6G9N0
>>326
浪曲が全部事実だとは思えないんですが
御油の玉屋の玉吉が清水次郎長と黒駒勝蔵を仲直りさせようとするくだりがあります。
その中で玉吉の親父、玉屋の源六は次郎長の兄弟分として登場します。
0328名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/21(金) 18:42:51.88ID:XN5i6G9N0
>>324
三十石船もロングバージョンには伊勢の親分衆の名前をいうくだりがあります。
丹波屋伝兵衛
稲木文蔵
神戸傳左衛門
平親王黒田屋勇蔵
寿屋琴治
武蔵屋周太郎
安濃徳次郎
塩浜吉五郎
0329名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/22(土) 01:43:27.59ID:Kj4cHpTf0
>>325
川越寛治は埼玉県立図書館に自伝がありますが、相撲取り上がりの一力大五郎に旧赤坂区一円を与えたという
のは藤田五郎の「関東の親分衆」にもでてきますし、百瀬博教の『私の東京』でもサイデンステッカーに説明
する件がありますね。

私は個人的には三田貞蔵ですね。仮説ですが東京の親分は、地方の大親分の経済力と人脈により基盤を築いた
と考えています。というより東京の縄張り地図は彼ら無くして描けなかったのでは。
その意味で小金井と同じくらい三田貞蔵、川越寛治、それと坂本林之助はもっと詳しく知りたいものです。

>>328
ビッグネームが揃いますね。三十石船は富士郡の宮島辺は知っていましたが、
ロンクバージョンは知りませんでした。勉強になります。

神沢丹次郎の「懺悔履歴」でも伊勢にわらじを脱いでいますので何人かは登場するようです。
0331名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/25(火) 03:51:03.92ID:3/D2sOThO
映画や講談で悪い
0332名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/25(火) 03:56:12.21ID:3/D2sOThO
>>331続き(笑)
映画や講談で悪い親分とされる一家って
残ってないですね。やはり仁侠を
重んじるのがな?
0333名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/25(火) 11:27:32.99ID:SohiTBGF0
>>324
落語「ん廻し」のほうは宝位郡の「ん」と源六の「ん」をわざと省いて長々と喋ったわりには結局親分の「ん」で一本しかもらえないというオチじゃないかと思います。
0335名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/26(水) 00:11:32.72ID:sAyF0eYw0
>>332
小次郎の跡を継いだ藤屋の和十郎さんは当世一級の侠客だったけど、子分をとることを好まなかった。
山岡鉄舟が理由を聞くと「ヤクザは塵みたいなもの、少ねえに越したことはありません」
と答えたと言う。結局藤屋の直系は国分寺の伊之助さんで絶えた。

というわけで、後世に残る残らぬに、一家の良し悪しは関係無いんじゃないですかね。
0336名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/26(水) 00:21:02.25ID:sAyF0eYw0
大国魂神社の南の裏手、妙光院との間に「金毘羅」さんがある。
ここが、まあ、いわゆる六所宮の賭場だったエリアである。敷地内に古い水盤が
あって、和十郎の名が入っている。また石段にも和重朗、伊之助の名がみられる。更に妙光院には
「小金井小次郎二代目・藤屋(市村)和十郎」と書かれた大きな碑が建立されている。

一世代前なら、府中近辺の村々でこの人のことを知らぬ人はなく、「ワジュウさん」と良く呼ばれた。
近世一の博奕の名手であったことは特に有名。
0337名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/26(水) 19:15:29.20ID:MHT2jaCr0
市村和十郎は賭場をチラッと見ただけでテラの上がりが分かったという。
藤屋の万吉(「黒いカラスでも親が白いと言えば」の逸話で知られる)の実子という。
0338名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/26(水) 22:36:31.64ID:sAyF0eYw0
伊勢古市の丹波屋伝兵衛は侠客番付けでは必ず上位に附けられる。
人によっては東海道一の親分などとも言われるが、盛名のわりに逸話は残っていない。
出生は豆州多田村、幼名竹之助(武之助)だと言う。
伝兵衛に関する戸羽山瀚が収集した逸話はちょっと面白いので書いておこう。

 「御一新の折、幕軍と官軍が伊勢湾で危うく火ぶたを切って騒乱の巷と化さんとする間一髪、生来の義侠心が此処に於いて火花と散った。
 『馬鹿も休み々々なせえ!』
 幕軍の御歴を目の前にしてびくともしない面構えだ。
 『全体ここを何処とお考えです。恐れ多くも天照大神の御座所のある尊い場所にござんす。それを御わきめなく、血で汚そうなんてとんでもねえ
 考えちげえ。お互いに理屈はおわりでしょうが、兎に角この場は私にお任せ願えます』
 曲論でなきこと明白だから、双方それに異存はない。肚では多少不満があっても伝兵衛の顔に免ずると言うよりは、神領を血で汚すわけには参らなかった。
 神代ながらの国は兵火の惨禍を逃れたと伝えられる」
0339名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/26(水) 22:53:46.42ID:sAyF0eYw0
上述もしたが、丹波屋伝兵衛。外見は小男ながら、常に朱鞘の長脇差。肝は諸人にすぐれて
太かった。明治二十三年十二月、八王子で亡くなった。(文化13年の生まれだから、73か4ということか。)

ちなみに小金井小次郎とは、どういうわけかソリが合わなかったらしく、しばしば「刺客を放つ」などして対立した。
両者が和解したのは明治3年のこと。仲介の労をとったのは甲州上今井の久左衛門だと伝わる。
0340名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/08/27(木) 00:38:56.05ID:iCy6/H3k0
>>335

近デジの顔役明鑑を見ると「藤屋万吉」から「森久保伊之助」となっています。

万吉というのは屋号のようなものだったんでしょうかね。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454136
0341名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/28(金) 06:33:26.34ID:z09G+Q+gO
歴史漫画の「風雲児たち」の作者みなもと太郎が「日本侠客伝」というエッセイ漫画を描いている。
その中で、みなもと太郎自身の先祖も幕末の頃は侠客で、
みなもと太郎が子供の頃にお爺さんから家に出入りしていた博徒や侠客たちが
仁義を切ったりする様子を聞かされたそうだ
本当に時代劇みたいにやっていたらしい
0342名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/08/28(金) 16:49:02.55ID:/9lSFiTr0
>>341
「日本侠客伝」は『挑戦者たち』に収録されている一編だそうですね。
どういう内容かと思っていましたが、おかげさまで概要がわかりました。

ちなみに、みなもと先生の『日本任侠史』を入手したいと思っていたのですが、
最近在庫切れになってしまったようで残念です。
0343名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/01(火) 22:46:48.93ID:Qd/jPXsF0
返答が遅くなりすみません。しばらく出かけていたもので。
「藤屋」は屋号兼店の名です。大国魂神社の東鳥居の前にありました。一膳飯を出し、また旅籠も兼ねていたとのことで、
天保十二年の段階で「158年以前」から営業していたと記されています。

ここに文化年間、和十郎という博奕打ちが出て、その息子が万吉、また万吉の倅(甥とも言われる)が、再び和十郎です。
0344名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/01(火) 23:04:35.69ID:Qd/jPXsF0
万吉は小次郎の兄貴分。
天保14年に相州曲がり松事件に連座して遠島、三宅島に流されますが13年後帰国します。
ところが折悪く、当時の府中宿は小川の兄弟の標的にされており、(頼みの小次郎が遠島中)まず代貸常太郎(小常)が殺害され、
万吉も元治元年正月に襲撃を受けて深出を負い、半年後の6月に亡くなりました。
子母澤寛の聞き書きにあるような「嫌な親分」だったかは不明ですが、「殺された」という部分は上述のように半分本当です。
0345名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/01(火) 23:04:39.01ID:18FLn2IT0
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  `l:::::::::::::::::::::ヽ  :l li:::::::::::::/           /´   `l  |   <ヴッ!!!
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  ノ:::::::::::::::::::::::::::ノ | l `゙゙            ,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,  /ヽ
,/ ヽ::::::::::::::::::::::(  l l::::::::..         /.:''/´ ̄_ソ  /  `ヽ
     ヽ:::::::::::::::ヽ | l:::::::::::...      /::// ̄ ̄_ソ  /    \
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              l l;;;;;;:::::::::::::::.....;;;;............;;;;;;''ノ            l
              l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l |             |

http://y2u.be/z2qK2lhk9O0
0346名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/02(水) 00:28:56.40ID:/dhidwJj0
提案です

以前から気になっていたことですが
このスレでもsage進行推奨にしませんか?

sage進行の意味や詳細は
お手数ですがキーワード検索などでお調べください
0347名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/03(木) 17:13:29.68ID:uhr0So1V0
元々専ブラ使いなのでsageがデフォです。
マターリ進行のスレだし、上げないほうが無難かも。

>>258
『新選組日誌 下』には
くずし方によっては「捨」と「権」の判別は難しいものの
本宿在の人物であるから松本捨助のこととすべき、との旨がありました。

本宿に権助という人物が存在し彦五郎らと知り合いだった、
という可能性を否定してよいのか疑問を感じます。
一方、新選組に入隊したがっていたというからには
捨助とするのが順当とも思えます。
要検討課題ということで、一応お知らせまで。
0348名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/04(金) 19:14:16.72ID:QwXCyFf90
コンピューターに不慣れなもので、申し訳ありませんが複雑な対応をすぐには実行できません。
おいおいやり方を覚えていこうと思いますので、ご迷惑おかけしますがお許しください。
0349名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/04(金) 19:30:10.47ID:QwXCyFf90
後々また細かいところを後付けするとして、
穴濃徳次郎と神戸の長吉の(一応の)親分とされているのが黒田屋祐蔵。
「南で天照大神、北で神戸屋祐蔵か」と歌われるほど勢力があり、ここで呼ばれるように
神戸屋の祐蔵とも呼ばれた。また神戸屋が四日市追分にあったことから「追分の祐蔵」とも、
更には背中に平将門の入れ墨をいれていたから「平親王祐蔵」とも、まあ、色々と呼び名があった。

確実な証拠が有るわけではないが、旅籠神戸屋を経営していた時、一人娘が旅客と恋に落ちて、その末自殺した。
世の中嫌になったか、祐蔵親分は四日市を去って桑名に移り、暫くは女郎屋を営んでいたが、ほどなくして法華宗の強烈な信徒となって、
題目を唱えることに余生を費やしたという。桑名の円妙寺で裸足参りをしたというのもこの晩年の話。
0350名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/04(金) 19:39:30.52ID:QwXCyFf90
本姓は下村。円妙寺に墓があるという。(不覚にもまだ私は詣でていないのです。)
また、祐蔵は下総の出自というが、それは「平親王」のあだ名による誤りだとも言われ、伊勢の出自という話もある。

とかく祐蔵に関しては、古い本だが『考証東海遊侠伝』(S48 雄山閣、中沢正)が豊富な情報を載せている。
0351名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/04(金) 19:47:50.67ID:4qiwIxfF0
>>348
sage進行のことですか?

書き込む時メール欄に「sage」と半角英数で入力する、ただそれだけです

参考記事↓
http://pmakino.jp/channel5/misc/2chbible.html#sage
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012732170
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3218051.html

板におけるスレの順位は板一覧で確認↓
日本近代史
http://yomogi.2ch.net/history2/

こんなふうに細々説明すると
それもまた荒らしを呼び寄せてしまいそうなので
気が進まなかったのです
ご了解いただけましたでしょうか?
0352名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/04(金) 20:13:42.06ID:QwXCyFf90
三重県鈴鹿関町(現・亀山市)の郷土史家、故岩間辰次郎氏によれば、黒田屋祐蔵の前に々土地に「長野伝左衛門」という親分がいた。
長野は姓で、名はデンエモンなのかデンザエモンなのかも定かでない。この人が神戸屋伝左衛門。人の良く出来た穏健派な親分だったという。

岩間氏が若い時分に関町の博徒から聞いた話として「長野伝左衛門は黒田屋祐蔵の兄貴分だった」というのを上げており興味深い。
また神戸の長吉は黒田屋ではなく、この伝左衛門の直属の子分だったともいわれる。

つまるところ、老齢の伝左衛門が弟分の黒田屋祐蔵に任せた土地を、黒田屋が去る前に子分の穴濃徳次郎に譲った。
が、伝左衛門の直系である長吉は、叔父分の黒田屋が去った後、その場所の所有権を主張した。
これが荒神山の戦いの引き金ではないか、とする中沢氏の推測は、かなり正しいように私には思える。
0354名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/04(金) 22:51:53.39ID:4qiwIxfF0
>>353
こちらこそ途中で割り込んでしまったみたいで失礼しました

長文を分けて書き込む時は名前欄にそれぞれ
1/3、2/3、3/3などと入れると割り込まれにくいと思います
0358名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/08(火) 21:58:45.19ID:oU5bOPvD0
なるほどPCで概略を見てみたら、小栗忠順 対 博奕打ちの騒動があったようですね。
私はこの件はじめて知りました。なんとも興味深い話で、とりあえず近いうちに『相楽総蔵とその同志たち』辺りを皮切りに
調べてみたい気分になりました。

むしろ、現時点で詳しいことをご存知でしたら、是非ともご教授ください。
0359名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/08(火) 23:43:57.75ID:Iwqx6n/S0
>>358
早速のレスありがとうございます。

高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』には騒動について比較的詳しい記述がありました。
ただ、煽動したという博徒は通称だけで
氏素性やその後どうなったかという情報はなかったように思います。
書店でざっと目を通しただけなので、見落としがあるかもしれませんが…

スレ常連の方々ならもっと詳しくご存じかと思い、伺った次第です。
『相楽総三とその同志』は手元にあるので、こちらでも確認してみます。
0362名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/11(金) 23:07:48.79ID:by5GhlD/0
所沢の最西部、狭山市の藤沢との境に「林」という名の地域がある。昔は林村と呼ばれた。
一大商業都市で、市も賭場も開かれたという割に、「所沢」の有名な博奕打ちの話は伝わっていない。
ところが、この林村は閑散とした田舎であるが、利兵衛・利八という親子博徒が確かに幅をきかせていたということが、文献に記されている。
残念ながら親子の墓所は見つけることができていないが、彼らがどのような振る舞いをしていたかということが
古文書を通して目の前にうかぶ。文字の力というのものは、あらためてすごいものだ。
0363名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/11(金) 23:13:56.40ID:by5GhlD/0
利兵衛、利八の墓は見つからなかったが、土地の古老の話に興味深い内容のものがあったので、記す。
林村には松林寺という集落の菩提寺があるのだが、その南の土地(現在・駐車場)に、昔竹矢来があり、
一種の処刑場所だった。(どうやら入間郡一帯の罪人の処刑場だったらしい。)
ここで明治に「黒須大五郎」の斬首が行われた、と古老は言う。「父がテイシンショウの役人だった時分」と
か言っていた。聞き伝えとして、一応書いておく。
0364名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/13(日) 23:00:28.54ID:EoXeweOT0
現在の相模原市、当時橋本村と呼ばれた地域に平野屋政八という侠客がいた。
どうも十手持ちだったらしいことも聞くが、詳しい事はわからない。文久〜慶応にかけて
黒駒勝蔵の子分たちを匿ったりした。

『東海遊侠伝』によれば、赤鬼金平と次郎長の和解式である菊川の手打ちで、刃物の預かり人として「橋本ノ政吉」という
人が登場する。どうも、この人が平野屋政八と同一人ではないかと思う。
0365名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/16(水) 21:48:08.81ID:a79Bt0II0
丹波屋伝兵衛について、資料が入ったので一つ加える。
彼が名を上げた理由の一つには、かつて江川代官所からの牢抜けを成功させた
という事実があったことが判明した。
なかなかアクティブな面も持ち合わせていたようだ。

ちなみに339で、伝兵衛と小次郎の和解の間に立った親分を「上今井の久左衛門」と記したが、それは間違い。
本当は「井手の久右衛門」が正しかった。
0366名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/19(土) 00:31:52.13ID:Tdnl1o/90
触れれば斬れるような性格で、放蕩三昧。地域からの評判も芳しくない。短気で
闘争に及び、一度に十三人の敵を撫で斬りにした、などという逸話も伝わる。(仙台でだと言う。)

しかし、宮島俊蔵というこの侠客は、確かに当時行き場のなかった黒駒勝蔵一党を、清水の眼と鼻の先の吉原宿でかくまい、
時には大規模な襲撃に会うも撃退し、命をはって客人を守った。
終始次郎長と対立し、明治にはようやく和解もするが、けっして慣れ合う事はなかった。
正直後世伝わるところでは、あまり評判はよくないが、自分なりの筋を通した生き方をした人だ。

ちなみに世に「宮十」と伝わるのは別名が「重吉」であったため、宮島の重吉、略して宮十(重)である。
0367名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/20(日) 00:29:05.19ID:Omd/Txtd0
大場の久八の「大場」は伊豆の大場村ではなく、お台場建設の「台場」が転化したものだ、と
高橋敏は書く。これに出生地である間宮村の近村・大場村が混同したのだと続く。

しかし、古文書を読む限りでは、大場村にしばしば出没していたことがわかるし、
同時代の人の日記の中でも「大場村久八」とでてくる。
と、いう訳で、やはり久八の「大場」は、伊豆の大場村を指すとみてよいと思う。
0370名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/23(水) 23:58:02.63ID:NEGCu/pW0
町田市勝楽寺の原町田弥平親分の墓には、熱海の忠吉や五宿の米、保土ヶ谷の
半鐘兼さんといった有名どころの名前が並んでいて、相当な侠客だと思われるのだが、
伝説の類が一切残ってない。

住職のおっしゃるには、この辺りは墓石に「小松石」を使うことが多い地域だったというから、
あるいは石の運輸に携わっていたとも考えられ、それで熱海やら保土ヶ谷やらと交流があったのかもしれない。。
0371名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/24(木) 00:24:04.74ID:eG/2zA9i0
小松石ってどんな石だろうと思って調べてみたら
神奈川県足柄下郡真鶴町でだけ採れる安山岩の一種だとか
初めて知ったです

昔の石屋は川の側とか
舟が使える立地じゃないと難しかったのはわかります
0372名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/27(日) 00:30:54.79ID:dPKF82b20
次郎長研究者の大家に法月吐志樓先生がいる。正確には次郎長のみならず静岡県の歴史
の郷土史一般に詳しいのだが、何しろ明治に既に著作のある方なので、さすがの戸羽山瀚や増田智哉などの大家も
頭が上がらない。(ちなみに戸羽山氏は三田村鳶魚に師事し、増田氏は長谷川伸に師事した。)

この法月氏の著作に『清水次郎長年譜』というのがある。次郎長の生涯に起きた出来事を『東海遊侠伝』に照らして年表にしたものだが、
非常に正確で、一つコピーをもっていると大変重宝する。
0373名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/27(日) 00:45:32.73ID:dPKF82b20
子母澤寛も『駿河遊侠伝』や『富岳二景』を書く際には、この年表を基にした。
彼が所持していた年表には、更に赤字で安東文吉の年齢と、諸事件のあらましが細かく加筆されている。
『駿河遊侠伝』の主人公が次郎長と文吉の二人であったこと。また、さながらこの時代の東海・中部地方の遊侠の年譜を
まとめ上げるような目論見の下で著作がなされたことがわかる。

『駿河遊侠伝』、絶版であることがいまだに信じられない。いわゆる新撰組三部作や『勝海舟』よりもはるかに快作であると私は思う。
0374名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/29(火) 00:39:17.87ID:/kApFOq30
二代目田島要吉(「陽吉」であると主張する研究者もいる。)は、本名を
阿久沢祐七という。岩殿の観音菊の墓石に名を出す他、大場一家の三代目渡辺精次郎の
跡目を取りまとめるなど、大前田の名に恥じぬ活躍をしたようだ。
0375名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/29(火) 00:48:20.78ID:/kApFOq30
大前田の子分では、大胡の団兵衛が明治以降も活躍したようである。
江戸屋虎五郎は、栄五郎に一番買われていた子分だというが、団兵衛もそれに劣らぬ。
ただ惜しむらくは目に一丁字もなかった。(つまり文盲だった)と伝えられる。

一説、与太話として聞いておいてほしいが、例の次郎長と子分の写真。実は荒神山の手打ちではなく、
宮島俊蔵と増川仙右衛門の喧嘩の手打ちだ、とする資料もある。それによれば、次郎長右隣の人物が団兵衛だと言う。
0376名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/09/29(火) 23:11:29.56ID:/kApFOq30
浅田晃彦の『大前田英五郎の生涯』は、論旨もしっかりしていて、資料の出し方も信憑性がある。
実物の英五郎を描くことに成功していると思う。

ただこの中で、結局英五郎を「目明しの親分的存在だった」と結論付けていること点が、大方肯定されていないようだ。
東京都国分寺市の『市史』だったか『市史研究』だかが言ってるように、
名の知られた親分は、むしろ十手を預かることの方が多かったのが実体だと思う。
よっぽど凶状持ちの旅烏でない限り、みんな普通に二足のわらじを履いた。
明治以降の次郎長もそうだし、高萩の万次郎、大和田の友蔵、飯岡の辰五郎、安藤文吉といった評判の良い人々が
十手持ちであったことを見てもわかる。唯一頑強に突っぱねたのが大場久八。多分この久八の態度に尾ひれがついて、
遊侠は十手を持たない、という風が出来てきたのだろう。
0377名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/05(月) 00:09:07.27ID:WQbsPgAM0
国定忠治の四天王と七天狗

四天王…三ツ木文蔵、下植木浅次(割板浅次)、五目牛千代松、甲州無宿新十郎
七天狗…八寸ノ才市、山王民五郎、境川安五郎、鹿安、桐晁、秀吉、桐生町屋ノお辰
*日光円蔵は別格で「軍師」と呼ばれた。

国定忠治の身内はおよそ350人。三ツ木文蔵がその連名帳を持っていたが、惜しい事に火事で燃えた。
0378名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/05(月) 04:39:49.61ID:1NmLSAf80
菊池寛「入れ札」に登場する忠治の乾児たち↓

大間々の浅太郎(忠治の片腕)
嘉助(大力の持ち主)
松井田の喜蔵(軍師)

稲荷の九郎助(古参だが落ち目)
弥助(古顔)
並川の才助

闇雲の忍松(老齢)
釈迦の十蔵(新米)

↑これらは架空の人名みたいですね
実在のモデルがいたのかもしれないけど
何かの理由で名前をそのまま使うのは控えたってことでせうか
ちなみに「入れ札」は青空文庫にあります
0379名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/05(月) 23:26:08.53ID:WQbsPgAM0
「入れ札」読みました。とても面白い。さすがに菊池寛ですね。読ませます。

侠客とはあまり関係ないけれど…私は実は小島政二郎が大好きなのです。この時代、
とにかく意趣を凝らした文章の書き手が多く居て、皆真剣に文章に向き合っていた。隠れた名人は本当に多くいますね。
0380名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/06(火) 22:48:04.89ID:B5+jyKZs0
上州大間々に八十郎という親分がいたことが寒梅丹次の書き物に出てきますが、
同じ人の名前が、三宅島在島中の小金井小次郎の手紙の中にも出てきます。
当時の博奕打ちネットワークの広さは本当にすごいものです。
0381名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/06(火) 23:06:27.74ID:B5+jyKZs0
大場久八と竹居安五郎が兄弟分であったことはどうやら真実のようだけど、
どちらが兄貴分で弟分であったかは、それぞれのシンパによって違う。
例えば今川徳三や松尾四朗は吃安を兄と見るのに対し、戸羽山瀚は久八を兄としている。
どちらが正しいかは結局わからない。自然、年齢から言えば吃安の方が3歳上であるが、長生きしたのは
久八の方がはるかに上である。
0382名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/18(日) 00:04:01.85ID:4os3K9Ii0
次郎長内縁の妻、初代お蝶の兄として知られる「江尻の大熊」は、有名どころのわりに
正体が全く判然としない。村松梢風の話だと生まれは甲州で若いころ猿屋勘助の世話になった、という経歴を
載せているが本当かどうかはわからない。
ともあれ甲斐の塩山(円山)で、祐天に守太郎、八百留、六蔵という子分を殺されたという逸話が
『東海遊侠伝』にある。
0383名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/18(日) 22:19:30.26ID:4os3K9Ii0
武州八王子横山宿に「文左衛門」という博奕打ちの親分がいた。だいたい文政から、
嘉永・安政くらいまでの人だったようだ。兄弟分に日光屋吉五郎(吉蔵か?)がおり、
一の子分が横山宿の常八、以下40人ほどの子分がいた。この中には日野宿の岡っ引を務めた「小八」こと、
八五郎も入る。岡っ引(道案内)を博徒上が兼任していたことに良い証左だろう。
0384名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/18(日) 22:21:32.34ID:4os3K9Ii0
悪い。最後の文は「岡っ引(道案内)を博徒が兼任していたことの良い証左だろう」
と書きたかった。 いつも間違える…
0385名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/19(月) 00:51:25.26ID:mBF09sRv0
ちょうど八五郎について、どういう人か知りたいと思っていました。

・日野宿雇いの岡引で、地元の信頼が厚かった
・窃盗犯の逮捕、容疑者の護送などに携わった
・八五郎を援助するため、掛け捨て無尽の金が地域から集まった
・谷保天満の祭礼で喧嘩を止めようとして殴り倒され、八州に救出された

などと聞いていますが、他に何かご存じでしょうか?
0386名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/19(月) 04:17:37.40ID:/rHKr1/d0
八五郎に関しては、私も『公私日記』の記述ぐらいしかわかりません。
上に加えるとすれば「日野に店を開いた」ことくらいでしょうか(天保9年11月12日)
何という店かはわかりませんが、あるいは「巴屋」かもしれません。(後年横山宿へ移ったか?)

もう一人の岡っ引良助は、玉屋栄蔵の弟(多分)の、伊勢屋良助じゃないかと思います。
彼は弘化4年に亡くなってるようです。
0387名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/19(月) 16:28:40.77ID:mBF09sRv0
>>386
ありがとうございます。いろいろと参考になります。

岡引(あるいはその助手?)の「良助」が
伊勢屋良助であることはほぼ間違いないと思います。

>>383によると八五郎は「小八」と通称されたそうですが
その理由をご存じですか?
常八を「大きいほう(目上)の八」と見立てての対比からでしょうか。
0388名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/19(月) 23:33:19.93ID:/rHKr1/d0
文左衛門の子分40名には全て綽名が記してありますので、八五郎が
常八と対になってる訳でもないようです。多分体が小さかったから「小八」なんでしょう。
資料はまだ読解の途中なので、何かわかったらお知らせします。
(と言うよりこんなマニアックな内容に返信があるのが驚きなんですけど…)
0389名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/19(月) 23:48:13.75ID:/rHKr1/d0
おそらく御承知だろうから、こんな情報示すのはおこがましいのですが…
日野組合の道案内は天保から慶應まで、
1.八五郎(日野)、良助(日野)
2.粂蔵(柴崎)、次郎吉(連光寺)
3.磯八(石田?)、兼助(砂川)
と移っていったようです。磯八は「土方磯八」と書かれることもあったように思う(記憶違いか?)
なのでちょっと気になります。むしろ何かわかったら教えてください。
0390名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/20(火) 16:49:44.03ID:ZPKPphbT0
>>388-389
ありがとうございます。

会社や学校のクラスで同じ名字の人が複数いた場合に
「背が高いほうの鈴木」「低いほうの鈴木」というような感じで
「小八」なのか?と思ってしまいました。

名前を見かけるものの何者かよくわからない人物もいたので、
教えていただいて良かったです。
「兼助」は、壺伊勢屋事件で亡くなった山崎兼助ですね。
この人のことは多少聞いてますけど、他は生憎とわかりません。
0391名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/20(火) 22:04:52.72ID:cCGpvOMV0
>>390
返信・反応は驚き以上に本当に嬉しいです。
文章が下手なので、奢ったような感じになってしまい毎度本当に申し訳ありません。
0392名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/23(金) 21:32:16.70ID:tBnhYjok0
伊勢に平親王の黒田屋祐蔵という人がいるが、武州鈴木新田にも平親王平五郎という人がいる。
今の東京都小平市上水町。上鈴木不動の西隣の集会所に昔平五郎の屋敷が在ったと云う。
背中に将門の入れ墨があったのでそう呼ばれる。
0393名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/23(金) 21:45:54.83ID:tBnhYjok0
平親王は小金井小次郎の一代記『慶応水滸伝』にも敵役として登場する。
また村松梢風の『正伝清水次郎長』では高萩万次郎の元に逗留していた時分の次郎長と
事を構えた親分として登場する。村本喜代作は、この逸話は作り物くさいと言ってるが、上述のように実在の人物なので
この話は事実に依拠していると思われる。平親王平五郎、姓は粕谷。明治2年まで生きた。左官の頭領だったとも言われる。
地元に伝わる話だと「平親王が出張ってくれたおかげで、この地域には盗賊の類がでなかった」と、かなり好意的に扱われている。
0394名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/24(土) 23:06:10.86ID:cruDY21a0
祐天仙之助、
講談だと鰍沢で桑原来助を殺した後に武州へ逃げ、八王子で無頼の徒に慰み者にされそうになってた娘を助けて、
一ノ宮万平の元に寄寓するというストーリーになる。
講談だけど登場人物は実在の人だし、筋に無理がない。
0395名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/25(日) 15:30:50.50ID:ZxgK/xr00
祐天こと山本仙之助に関しては
本当に桑原来助を殺害した犯人なのかどうかが気になる

そう証言した人物(子母澤寛によると海貞次郎)が
仙之助の死後に前言撤回して別人の犯行と言い出したとか
ただ詳しくは聞いてないのでよくわからない
0396名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/25(日) 19:18:28.25ID:axHqvn7M0
実は私も桑原来助が本当に居たかどうか、怪しいと思ってるんです。もっとも祐天の
叔父、「教昌寺」が桑原と鰍沢での喧嘩の話を藤岡屋由蔵にしているので、疑う事もできないのですが、
あるいは「鰍沢の喧嘩」の話に藤岡屋由蔵が勝手に桑原を混ぜ込んだ、とも考えられる。

意外と桑原来助なんて人はいなくて、大村辰雄というのも仮名。黒駒一家か、幕府の刺客なのかもしれない。
ちなみに『藤岡屋日記』以外の当時の記録によれば、検死の際に、切り手(大村)側は、
何も言わずにいきなり祐天を背後から横に斬りつけた、と結論付けています。尋常の立ち合いではなかったことは確かでしょう。
0397名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/25(日) 23:42:56.05ID:ZxgK/xr00
>>396
それは大胆で面白い考察ですね
仙之助の命を狙う者は少なからずいただろうから有り得るかも

もしも「父の仇討ち」が虚構だとすると
海貞次郎の証言とやらも事実ではなくて
大村達尾と藤村鬼一郎に協力させられただけなのかも
0398名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/26(月) 23:21:23.65ID:XfB03BSU0
侠客の子孫、関係者のお宅を尋ねる時が、やはり一番重要だ。
なにより緊張する。調査の際にはどう切りだしていいか、何度も短い時間でリハーサルする。
経験上、正直に自分の身分と住所、名前を示して、失礼の無いように来訪の意図を告げるのが一番いいようだ。
ただ、チャイムを押すより、誰か庭に出てきてくれないかな、と目当てのお宅の周りをニ周三周するのはお決まり。

もし、当人のお墓が分かる場合は(植田先生の情報が極めて役に立つ)、先にお墓へ線香を手向ける。当人の力を借りなければ、
こういう調査は成功しない。
0399名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/27(火) 19:24:00.12ID:Vq5oepPL0
わかります。
ご迷惑にならないようお話を伺うには、ずいぶん気を遣いますよね。

子孫の自宅にいきなり電話して根掘り葉掘り聞く人もいるそうで
よくそんなことが平気でできるな〜と感心しますw
0400名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/27(火) 22:22:35.39ID:zMix31n30
幕末期の関東の治安を監視した組織は、代表的なものとしては関東取締出役が知られている。
「シュツヤク」と読んでも「デヤク」と読んでもいいらしいが、個人的には「デヤク」が好きだ。
これに劣らず資料に現れるのが「江川代官手代」。柏木荘蔵に山田頼助などが、よく眼につく。
更に加えると火附盗賊改。いわゆる「火盗改め」である。

一概にはくくれないが、出役は殺人事件などを、江川代官手代は盗難事件を、主に扱っていたという。
0401名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/27(火) 22:33:43.38ID:zMix31n30
幕末期の旅籠屋は岡引を兼務していることが多い。多くの人間が入れ換わり立ち替わり入る
場所だからだろうが。自然、荒くれ者どもと対峙することで店主の肚は練れていくらしい。

武州の内藤新宿、府中宿、八王子・横山宿に、それぞれ「東屋」がある。府中と新宿のものが同系列であることは
史料上伺える。八王子の東屋もそうだとすれば、この店は当時において繁華街に展開するチェーン店であったことになる。
残念ながら八王子東屋の資料は見つからない。位置的には、後に有名な「壺伊勢屋」となる場所である。(二十四日場)
0402名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/27(火) 23:26:30.80ID:zMix31n30
かつて「日野千両」と言う言葉があった。日野の人間は「千両」あればすぐ他所に店をひらく。
そういう開拓精神のある風土だったようだ。
0403名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/28(水) 18:32:37.67ID:nUJlsdhc0
日野宿なら1千両くらい蓄えている分限者も複数存在したでしょうね。
どこの家が日野以外のどこに何の業種で出店したのか、具体例はご存じですか?
0404名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/29(木) 23:40:59.74ID:CXC1gcB40
「日野千両」の話が載ってる資料がどうしても見つからない…多分『新立川市史研究』か、
『国立の民俗』だと思うのですが、いずれもニ十年近く前の研究です。

それらの資料には具体的に日野商人の開いた店が書かれていたような気がします。
と言う訳で、見つかったら、また、お知らせします。
0405名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/29(木) 23:47:52.67ID:CXC1gcB40
肝心な資料が見つからぬのですが、八王子横山宿の「角屋」・「扇屋」はどうも日野の
出自のようです。どちらも旅籠です。扇屋は飯盛り旅籠だったかもしれません。

おそらく角屋は、元「日野屋」(これも日野の出自でしょう。)の跡地に建ったのではないかと推測されるのですが、ここの店主の
彦兵衛は名の売れた博奕打ちでした。角屋彦兵衛の墓は日野宝泉寺にあり、今は無縁です。
0406名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/30(金) 00:34:42.79ID:+2bZvCNO0
>>404-405
ありがとうございます。
続報もお待ちしています。

彦兵衛の墓は参ったことがあります。
生家の墓所とはまったく関係なさそうなところですね。
周囲を見て、ひょっとすると玉川要蔵かその身内が世話したのかも?などと想像した次第です。

なお、松本捨助ゆかりの八王子・斎藤旅館も、昔そういう筋の旅籠だったのでしょうか?
0407名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/10/30(金) 22:44:00.65ID:gMpQWhcM0
私は不覚にも松本捨助が八王子に住んだことも、斉藤旅館という名前も知りませんでした…
なので、教えていただいて有難うございます。勉強になりました。
なお302で教えていただいた『新選組隊士録』、遅まきながら読みました。大変詳しく、内容も面白いですね。

彦兵衛親分の墓を知っているとは恐れいりました。
彼の死と周辺の博奕打のことは『八王子市史研究5』(2015 6)に載っています。参考にしてみてください。
0408名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/30(金) 23:19:59.16ID:+2bZvCNO0
>>407
たびたびご回答いただき、ありがとうございます。

ちょうど近々八王子方面に出向く予定があるので、
ご教示いただいた資料を見てみようと思います。
0409名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/10/30(金) 23:28:10.61ID:gMpQWhcM0
かなり前にこのスレッドで、甲州竹居安五郎の子分「市五郎」と「小市郎」について
言及した。当初は別人だと思っていたのだ。
ただ、調べて行くと、吃安の子分・石原市五郎の別名が「小市郎」であることがわかった。
よって両者は同一人物である。講談で「若宮の小市」と呼ばれる者が彼なのだろう。
0412名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/01(日) 15:58:51.92ID:qHQzGm6g0
>>409
>>89のことですか
同一人物ならつまりこの「市五郎=小市郎」を大場の久八と入れ替えたら四天王成立ですね


それにしてもこの手の別名はけっこう多い気がする
「小さい◯×」→「小◯」もしくは「小×」的なあだ名なのだろうか
0413名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/01(日) 22:11:48.55ID:kev0NY3i0
竹居安五郎の墓石は甲州には三つあり、一つは先祖代々が眠る竹居の浄源寺、
二つ目は石和の仏陀禅寺、三つ目は同じく石和の常在寺にある。

このうち常在寺のそれは、石原市五郎建立とあり、安五郎の没年も「嘉永7年」となっている。この年号は安五郎が新島から島抜けをした翌年であり、
つまりは追手の関東取締出役を欺くためのカムフラージュであると言われている。(この説を唱えたのは増田智哉が一番早い)
よって、「市五郎」、つまり小市郎はこの時点で安五郎の側近であったと考えられる。
0414名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/01(日) 22:22:46.18ID:kev0NY3i0
本名は出ないが綽名のみ、この世に知られる博徒は多いです。
例えば「小〜」なら「府中の小常」でしょう。彼は『小島日記』の記録によれば、元治元年(だったかな?)に小川幸蔵一派と
戦って府中で亡くなりますが、相当な親分だったようです。
また、武蔵野市秋元家文書(十巻か九巻)に、陣屋三之助が境村の若者たちを懲らしめのため、
杵築神社まで追い込んだ騒動(慶応3年)にも、陣屋側に加勢する博徒として「府中小常の倅・宗次郎」が記録されています。

いずれの資料でも、府中宿の相当な親分だったように書かれていますが、「小常」とのみで本名はわからない。
一説には「常太郎」ではないか(子母澤寛)とされますが、確証はありません。
0415名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/03(火) 04:34:33.58ID:D8jEwr3w0
なるほど考えてみれば
本名を名乗りにくい稼業ではありますよね
周囲の同業者も本名は何ていうのかなんて穿鑿しないだろうし

それに当時は階級や職業や性別を問わず
生涯のうちに何度か名前を変える人が珍しくもなかったから
あだ名が本名代わりに使われるくらい普通なのかも
0416名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/03(火) 08:10:17.55ID:oTglSaXf0
笹川繁蔵に平手造酒(平田深木)、
安東文吉に小泉勝三郎
竹居吃安に犬上郡次郎

と、侠客の物語に関与してくる浪人側にも、なかなか魅力的な人物が多い。
0417名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/04(水) 23:01:33.28ID:Nz0AElLd0
犬上郡次郎は上州館林の出身。初名は田中小源太。
有馬の猫騒動(実際は熊)で有名な扱心一流柔術家元の犬上郡兵衛永昌の跡を継いだ。

安政2年と4年(4年と6年ともいう)に、江戸の両国・吉原で若衆相手の大喧嘩をした。
この時一度も刃物を抜かず、全て躰裁きと当て身だけで翻弄したことから、大層称賛されたが、
藩では許しておけず謹慎処分に処された。後、弟子一人と共に館林の牢を抜け、甲州へ至り
博徒の群れへ身を投じることとなった。
0418名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/04(水) 23:08:23.56ID:Nz0AElLd0
当時館林には杉江鉄助(鉄次郎とも)という高名な剣客がいた。郡次郎も杉江に剣を学んだが、
師匠の杉江を以てしても、接近戦で郡次郎に組まれると勝ち目がなかった。そこで、杉江も郡次郎相手の時は、
いち早く遠間で小手等を極めて、決して近くへは寄せないようにしたという。
実際柔術に関してなら、郡次郎は当時古今無双の豪傑だった。
0419名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/05(木) 18:38:12.62ID:saJjQmNH0
レファレンス協同データベースには、こういう説明がありました。

> 犬上郡次郎は館林藩士であったが、その行状から謹慎、入牢となり、牢を破り甲州へ逃亡する。
> その後竹居安五郎の用心棒になるが、安五郎を欺き、その身柄を石和代官所に引き渡す。
> 黒駒の勝蔵がこの裏切りを知り、万福寺地内に隠れていた犬上郡次郎を惨殺した。
> なお、『勤皇侠客黒駒勝蔵』(堀内良平著 軍事界社 1943)、
> 『勤皇侠客黒駒勝 蔵』(小沢政春著 1982)、
> 『現代大衆文学全集』(松田竹の嶋人著 平凡社 1928)所収「黒駒の勝蔵」では、
> 名前が「犬上軍次」となっている。

なんだか郡次郎は「裏切り者の悪党」扱いされているようですが、
ひょっとして安五郎を捕えるために送り込まれた潜入捜査官みたいな役目だったのかも
などと想像してしまいました。
0420名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/05(木) 23:18:54.72ID:YoLJRkfI0
>>419
こんなくその役にもたたんスレに返信していただいて恐縮です。
犬上に関しては甲州勝沼で、万延元年十月十日前後に祐天の策略によって捕縛され、
件の田中屋万五郎が、八王子から館林藩の四十人の護送と共に藩の牢まで送ったとの記録が残っています。
他にも驚異的なエピソードの持ち主なので、なんとか犬上郡次郎を紙の上で近いうちにまとめたいと思います。

ちなみに北海道に在住し子母澤寛とも交流が在った「青柳聴霜」という人が郡次郎研究の第一人者です。
文章は素人とは思えぬほど巧みなのですが、何者なのか詳細は不明です。(あるいは子母澤寛本人なんじゃない?とすら私は思ってるんですがね。)
0421名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/07(土) 19:20:54.66ID:4SLfxN5Q0
小泉勝三郎は金沢の生まれだと言う。彼に関してはほとんど資料が残っていない。

それでも『安東文吉伝資料』や村本喜与作の著作によれば、嘉永2年武州田中の岩五郎が、東海地方に
襲来してきたことの真の目的は相良の富五郎を討つことであり、そのために
岩五郎は十三隻の船に、関東の無頼漢百人余りを載せ相良海岸に寄せてきたという。
これに対して、富五郎の元に厄介になっていた小泉勝三郎が機転を利かして、
田沼家に属している自分の門弟をかき集め、港の守りに付かせ、見事岩五郎側の気鋭をくじいた。
0422名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/07(土) 19:27:01.49ID:4SLfxN5Q0
後年、富五郎が江川代官の命で安東文吉に捕縛された際に、勝三郎も「富五郎一人に責めを負わせることはできない」
と自ら自首して出た。富五郎は入牢中病死し、勝三郎はそのまま、安東文吉の家に寄寓したという。

勝三郎は田沼家の剣術師範だった、などとも言われるが定かでない。いずれ腕も立ったが
教養もあり、安東文吉・辰五郎兄弟を一角の人物にしたのは、彼だと言われる。文吉没後、
彼の墓に「安文吉」の字を揮毫し、郷里金沢へ帰っていった。

また、当時の農村日記等に若干ながら足跡が残っているので、実在の人物であったことは確かである。
0424名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/08(日) 16:39:13.92ID:x/0nfhUA0
言われてみれば相州金沢という可能性もありますね。
私は加州金沢一本きりだと思ってました。本腰で調べれば色々出てくる人かもしれません。
0425名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/08(日) 17:16:14.10ID:/qngNKOF0
あ、どちらも可能性があるんですか
見当がつかなくて悩んじゃったもので
どうも失礼しました
0426名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/08(日) 18:05:18.81ID:x/0nfhUA0
いえいえいえ、こちらこそ、気づかぬことを指摘していただき有り難いです。
正直、言われてからは神奈川の金沢の気がしてきました。
0427名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/09(月) 01:34:20.19ID:XS1t1yew0
神奈川県の郷土史資料を見ていると
横浜市やその近辺の有力者として小泉姓の一族が出てきますね。
元首相もその一員で、だから神奈川11区から立候補したと聞いたような気がします。

もっとも石川県の郷土史については不勉強です。
もしそちらにも小泉一族がいたとすれば、何の参考にもならない話ですね(笑)
0428名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/11(水) 22:03:52.82ID:pss2TWuR0
講談で有名な「関東七人男」を挙げておこう。

・赤尾林蔵、・高萩伊之松、・高坂藤右衛門、・落合久五郎、・山ヶ谷戸源太郎、
・横沼虎吉、・火の玉小僧恵助
0429名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/14(土) 23:01:47.19ID:iOXPHlSE0
七人男には入っていないが、周辺の高名な侠客として、
中新田の源七、岩殿観音の徳、高萩の弥五郎、田木の辰五郎、
石井の伴内、岩殿観音の菊、三保谷の長次郎、長吉親子
などをあげておこう。
0430名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/14(土) 23:14:27.08ID:iOXPHlSE0
東京都立川市の清見潟亦市という力士がいる。自身力士としてはそれほど大成しなかったが、
名親方で「三代目清見潟」として幕末期の相撲界に重きを成した。

立川市では、出身地の割に彼の研究はまるでされていない。昭島市との境にある
常楽院には立派な墓石が在るのだが。

この清見潟亦市、雲風亀吉、常吉兄弟や安東文吉、辰五郎兄弟等と言った、後に一角の侠客になった
力士を多く世話している。
0431名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/17(火) 23:08:23.35ID:hSIRI7WG0
東京都武蔵村山市の神主が記録していた日記に『指田日記』がある。
中藤村を中心とした農村部の人々の日常を詳細に記録した、貴重な資料であるが、
この中に「田中の定右衛門」という博徒親分のことが記されている。
これによれば定右衛門は、
帳外されて無宿者になったり、逮捕されて半剃りにされたり、無頼漢にリンチされたり、喧嘩の仲裁に入ったり、
豪儀に酒を振るまったり、身寄りのない娘の世話をしたり、芝居を開いたり、生き倒れの露天商を埋葬したり…と

実に詳しくその半生が記録されている。
博徒の典型的な生きざまが見えるようで、実に興味深い。
0432名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/22(日) 00:07:08.37ID:C5Lv8VQl0
嘉永二年にあったとされる津向文吉と竹居吃安の鰍沢での大喧嘩。
仲裁に長禅寺前の音兵衛が入ったという話が伝わる。
長禅寺前には甲府代官所があった。音兵衛は多分音五郎(乙五郎)のことだろう。
詳しい履歴・墓所はわかっていないが、一時期力をもっていた。小金井小次郎の兄弟分だという。
0433名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/11/27(金) 23:12:14.36ID:zWUMqRHc0
駿州岩淵の源七親分は、別に「疵の源七」とも呼ばれた。片手は手首より先が無く、全身に
30数か所の深い傷跡があったという。次郎長が売りだした時分には既に老境に入っていて、随分性格も丸くなっていた
らしいが、それでも度胸と向こう気の強さでは街道一と言われた。

ある時、後の横綱鏡岩浪の助と、戯れから喧嘩になった。源七は5尺余りの小男だが、なんど打たれても
けっして諦めず浪の助に向かっていく。とうとう浪の助が折れて、「俺の負けだ」と笑い、兄弟分と呼び合う仲になった。
鏡岩が東海道を往来する時には、必ず源七を尋ね「日本一の度胸親分は御在宅か。」と声をかけた。
0434名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/27(金) 23:19:51.34ID:zWUMqRHc0
源七の子分に坊主勝という者がいた。勝と源七とは幼いころからの知り合いで、
共に暴れ者で相性も悪い。
あるとき、どちらからというでは無しに、決闘で白黒つけようという話になった。
ところが折悪く、源七の宅に旅人が仁義に来た。家に一銭もなかった源七は、自分の脇差を質にいれ、
その金で旅人への草鞋銭を作り、そのまま坊主音との決闘に出かけた。

二人は今生の別れに、と宿場女郎を上げて主演を催し、世のふけるのを待って海岸におもむき、戦に臨んだ。
0435名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/27(金) 23:28:23.51ID:zWUMqRHc0
脇差をぬく坊主音に対し、源七は持参の手拭いに浜辺の石を詰め、「とっこ」を作って
これに対峙した。しかし「とっこ」を振り回しても刃物には対し得ない。
たちまち源七は数十カ所を斬られその場に倒れ伏した。

源七が死んだと思った音は真っ青になってその場を去ろうとしたが、瀕死の源七は音に声を掛け「留めは刺ささねえのか?」
と尋ねた。
これに音は仰天して「源さん、恐れ入った。俺はとてもその度胸にはかなわない」
と、その場で源七の弟分になることを望んだのだという。
以降二人は無敵の兄弟として周辺の賭場を押さえ、数十年街道では源七一家の名が響いたという。
0436名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/29(日) 21:08:38.27ID:ZfauEpWR0
新門の頭・辰五郎に関しては詳しくないのであまり大層なことは書けないが、
かなり早い段階で名前が資料に現れるのは『藤岡屋日記』安政2年3月19日の条だ。
浅草奥山の興行で軽業師を見ようとの事から、若い坊主連中50人程と、近所の若者連中が喧嘩になった。
ここに割って仲裁に入る辰五郎の姿が活写されている。言い伝え通りの侠客ぶりである。
ちなみに「と組頭」新門の辰五郎とされる。記憶では「を組」だった気もするのだが…
この変よくわからん。
0437名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/29(日) 21:31:56.56ID:ZfauEpWR0
上記のように火消の頭としての一面をもちながら、辰五郎はまた「興行師」でもあった。
特に『浅草寺日記』には、興行元締めとしての彼の名前がよく記されている。
解説にもあるように、だいたい安政5年から彼は地元に大きな力を持ち始めるようだ。以降彼の名前の出る
記事は増え続けて行く。ちなみにこちらの日記では『藤岡屋』と違い喧嘩の仲裁者などの
姿が現れないことも面白い。

「生き人形興行」で大当たりをとったことが辰五郎にとっては大きかったらしく以降つづけて興行を打っていく。
この生き人形、まるで本当に生きているように見え、ある者は非常に妖しく美しい。
0438名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/29(日) 23:09:16.82ID:ZfauEpWR0
岩淵の源七の事。途中から「坊主勝」を「坊主音」にしてしまいました。
これは「坊主勝」が正しいです。出典は村松喜代作の『次郎長巷談』(増田至誠堂、S28、非売品)。
すみません。
0439408
垢版 |
2015/11/30(月) 17:18:15.00ID:kO2ltOqH0
>>407
先日、八王子のほうに出かけたので
市立図書館に立ち寄り、ご紹介の論考を見つけてコピーしてきました。
教えてくださって、どうもありがとうございました。

お墓の所在に関して私が知った情報も
元を辿ればこの論考が出所だったのではないかと思います。

ちなみに玉川要蔵が関与した可能性を考えたのは
すぐ傍にA家のお墓が存在したからです。
しかし、単なる偶然というか、無関係のA家かもしれません。
0440名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/30(月) 22:28:48.70ID:kNxM9gzu0
>>439
色々な意味で本当に感謝いたします。私は貴方様のブログも毎回楽しく拝見させていただいております。
博識も尊敬しております。
0441名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/30(月) 22:42:19.50ID:kNxM9gzu0
『指田日記』に元治元年12月3日、谷保新田(東京都国立市)の喜太郎と弟が、
賊の強賊7人と対峙し、一人を突き殺した記事がある。この喜太郎、姓を川島と言い、現立川市の
観音寺に墓がある。墓石の文によれば、「近藤勇に剣を習った」とある。

『平兵衛新田むかし』(国立駅北口光商栄会、2008)にはその際使われた鑓も写真に収められている。
在地の剣術が実戦でものをいった好例と言えるだろう。
0442名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/11/30(月) 22:49:22.77ID:kNxM9gzu0
この時、喜太郎が対決した賊は小川幸蔵の息のかかった博徒崩れであったらしく、
川島家は後々まで幸蔵に様々な嫌がらせを受けたらしいが、詳しい事はもうよくわからない。

東京の多摩地域は全体を統括するような研究機関、研究雑誌が無いので、歴史は泡沫のように消えて行く。
いわゆるプロの研究者・学芸員たちは自分の身や、学流を守ることに頭がいっぱいで、どうしようもない。
0443名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/01(火) 23:14:11.10ID:QW8KGzzc0
また酔っぱらって良い気になって書いたから…今になって大後悔だ。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさすわ。
0444名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/01(火) 23:20:39.29ID:QW8KGzzc0
岩淵の源七の跡目を継いだ者が、岩淵の庄右衛門。詳細はまったくわからない謎の人ながら、
源七跡目というからには相当な人物だ。
0445名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/01(火) 23:28:35.42ID:QW8KGzzc0
庄右衛門に関して面白い話は、だいたい『安東文吉伝資料集』による。
彼は、武州の小川幸蔵と兄弟分であり、「幸蔵の弟・梅吉はよく庄右衛門のところへ世話になっていた」
という。幸蔵の弟は確かに「梅次郎(梅五郎とも)」と言うので、梅吉と同一と思われる。
よってこの話はかなり信憑性が高い。

梅吉と庄右衛門は、たまたまでくわした次郎長と勝蔵派の喧嘩を仲裁し、一時両勢力に顔を利かせるが、
預かった黒駒勝蔵一派によって、富士川で殺害されたとされる。この間の推移は複雑で記せない。
是非原典を読んでほしい。斬られた庄右衛門も、斬る勝蔵も立派な態度だった。
0447名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/04(金) 21:43:01.04ID:uLw+RSUQ0
武芸は実戦で使えてこそナンボ。
競技にするでもなく、また形稽古に終始するでもなく、修練者同士で技をかけ合い
磨く必要がある。先人が意図したものをくみ取りながら、かつ形を崩さぬまでも
あくまで武術の「猛々しさ」(実践性)を失ってはならない。
名和弓雄先生の著作・研究は立派だが、こと技術に関しては残念ながら二流。
よって十手術が世に残ることがなかった。それが残念。
0448名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/05(土) 19:26:23.01ID:1Bms5UkE0
また、何ともとんでもない間違いを書きこんでしまった。本当に申し訳ありません。

塩田剛三先生や山北竹任先生、上原清吉先生といった達人は例外中の例外。
文章もできて技術の指導も卒なくこなしていた名和先生は、当然第一級の武術家だ。
0449名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/05(土) 22:31:35.39ID:1Bms5UkE0
甲州勝沼の戦の直前、一足早く甲府に入った官軍の下に「玉井新助」という侠客の如き者が付いた
ということが谷干城の『東征私記』に記されている。(与三郎、政吉、正作という子分を連れてきたという。)
これは多分、「永井の新助」のことだろう。新助は無宿ではなく百姓身分であるが、黒駒勝蔵をかくまったり、
伊豆の金平と連絡をとったりしていたようだ。
最期は甲州上芦川で百姓連中に逆襲にあって殺され、遺体は「三之橋」のたもとに埋められたという。
0450名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/06(日) 19:41:51.67ID:aagy9Tf40
>>449
>>98に「永井村新助(上今井庄太郎子分)」とある人物のことですね。

土佐藩の断金隊名簿には、
5月10日に入隊した「小林忠次郎」について
甲州の「山崎村玉井新助弟」と説明があります。

また、板垣退助が、甲州進軍の際の協力者7名に対して
恩賞を与えるべきという意見書を10月に上層部へ提出したそうで
7名の中に「山崎村玉井新助」が与三郎、政吉、正作とともにあります。

「永井村」と「山崎村」との違いが気になるのですが、
同一人物とみなしてよい根拠がありましたらご教示いただければ幸いです。
0451名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/06(日) 21:33:15.53ID:7Ko6+xa60
はい、これは私の完全な「お手つき」、誤りですね。
玉井が名字だったとは!
「山崎村」は現在の春日居駅のとこですね。一方永井は御坂の方、ニ之宮の付近です。
両者は全く別人です。完全にやられました。
この件に関しては悔しいので(笑)、しばらく山崎村の新助についてあたってみたいです。

ご指摘誠にありがとうございました。最近良い気になってましたわ。
0452名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/09(水) 22:46:01.25ID:Ljrj8qaD0
>>403
とりあえず「日野千両」(正確には「日野の千両店」)の典拠を書きます。
(五十嵐文次「八王子縞市と柴崎村松村店の開設」『新立川市史研究第三集』立川市教育委員会昭和62年
p13.)残念ながら具体的な店の名前は出てきません。五十嵐氏は大正生まれの在野の碩学のようなので、
この人の著作を当ってみればいろいろとわかるかもしれません。
0453名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/09(水) 23:06:38.65ID:Ljrj8qaD0
侠客とは少しはずれますが、続けて地域資料の紹介を。
『国立の生活誌・古老の語る谷保の暮らし』(国立市教育委員会、1983)の96ページ

 日野の親戚に、扇屋というのがあって、土方歳三を捕らえに来た官軍が、白鉢巻、白襷で乗り込んできて
 押し入れなんかを刀でついた話をよく聞きました。その家は、歳三の親分か子分だったらしいですよ。

また、同所181ページでは親が歳三の友達だった方の、親から聞いた少年歳三の話などが、
聞き書き史料として収録されています。

あまり、役立つものではないかもしれませんが、ご参考までに。
0454403
垢版 |
2015/12/10(木) 19:49:48.64ID:7yftAUmU0
>>452-453
ご教示どうもありがとうございます。
機会を見て、ご紹介の資料をぜひ閲覧したいと思います。
0455名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/11(金) 23:06:51.76ID:9xAu0eza0
青梅の孫八親分は、通称「六万親分」と呼ばれる。姓は内野。
若いころは江戸相撲で鳴らし、内野川の四股名を持っていた。相撲廃業後は郷里に戻り、
村落の御用を仰せつかっていたらしいが、生活は荒み天保六年には帳外の仕置きを
受けている。同時に妻にも離縁された。

弘化年間に入ってから、運命も個人の性格も一転したらしく、除帳も解け、道案内として正式に雇われ
多くの小者を使って活躍した。
0456名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/11(金) 23:13:47.54ID:9xAu0eza0
嘉永3年、正式に青梅組合の道案内に雇われているが、おそらくそれ以前から任用されていたのだろう。
その交友関係は広く、小金井小次郎から慕われ、高萩万次郎、田中屋万五郎とは盟友であり、
江戸の新門とも親しく交際していた。加えて甲州の祐天からも信頼されており、
なべて武州侠客の「橋渡し」をするような立場だったようだ。

晩年は妻との二人暮らしの中で、養女を迎え三人でほそぼそと、しかし平和に暮らしたらしいことが、
宗旨人別帳からうかがえる。岡っ引は明治2年まで務め、明治10年に亡くなった。墓は妙光院
0457名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/13(日) 23:29:00.67ID:uI1eKKCW0
いわゆる二代目・島田虎之助という剣客がいる。本名、島田孝造(孝三)。
虎之助の二代目を名乗ってはいるが、子母澤寛によれば実は高弟の一人だったという。
流派の縄張りをめぐって、日野の佐藤彦五郎と睨みあいになった、という話は有名だ。

入間の侠客・二本木の安太郎の墓石に盟友として名が刻まれているところからすれば、
そういう方面にも顔の利く人物で会ったことが推測される。
0458名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/15(火) 01:56:10.11ID:9NOwIcgc0
佐藤道場の側には
「この島田なる人物は、江戸市中の朦朧商人で、博徒仲間にも付き合いがあるとか」
と伝わっています。
島田に対する不快感からネガティブな表現が含まれているにしろ、
虚偽とも言い切れないようですね。
0459名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/15(火) 23:29:56.98ID:hP+Sd4Jm0
二代目島田虎之助で面白い話を一つ。
尾佐竹猛が編集した明治新聞全集だかの中に記されていたことですが、
振武軍を飯能に案内した剣術家として「島田某」が出てきます。
官軍に夜討をかけようとした一帯が案内に選んだ島田某ですが、隊を完全に迷走に
迷いこませ、詰問されそうになると二人の門弟と共に隊長に手槍を投げて消え去った、とのこと。

これは当時の振武軍将兵からの直接の聞き書きだからかなり、信憑性があります。
島田自体、実際に振武軍にいたことは確かなので、意外と官軍の二重スパイであった可能性もあり、
ちょっと興味が湧く記事です。詳しい出典は、また思い出したら書きますわ。
0460名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/15(火) 23:48:33.76ID:hP+Sd4Jm0
青梅宿は江戸時代の宿場の中でも「東西に細長い」宿として有名だったようだ。
その中に「芝居横町」という繁華街があり、島田の道場はそこにあったと言う。

青梅の清宝院に門弟と共に奉納した額があるが風化して、文字が極めて読みにくい。
常々記録を取っておきたいと思っているのだが、なかなか難しい。
また、どこかに墓もあるのだろうが、いまのところ見つけられない。
0461名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/17(木) 06:29:10.76ID:0/82vomn0
島田孝三は尊皇思想に傾倒した、という説があるようですね。
それが事実なら、先鋭化しすぎて反幕府主義にハマったかもしれず
新政府方について振武軍を妨害した可能性は考えられるでしょう。

反幕府主義となった原因は、尊皇思想に加えて
天然理心流と新選組に対する反感もあったのかも…などと勘ぐりたくなります。

ちなみに「振武軍に黒駒勝蔵が資金提供した」と以前何かで見かけました。
しかし、よく知られるとおり勝蔵は新政府軍に属して働いていますから、
二股をかけるようなことを本当にしたのか疑問を感じます。
何か根拠のある話なのでしょうか。
0462名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/17(木) 22:31:12.89ID:iJaWZs3M0
振武軍に勝蔵から資金が流れたというのが、確かにネット上の情報にはありますね。
ただ、慶応4年四月に勝蔵が、黒駒の武藤外記と京都で会ってるという確実な資料があり、
更に前後半年ほどは関東にいなかったので、この説は誤りと見て良いと思います。

また「多摩地域に縄張りが在った」などと書かれたものがありますが、多摩地域には
次郎長の縄張り(東久留米)はあっても、黒駒組のものはないです。むしろこの地域は祐天が岡っ引ネットワークで
押さえていたので、勝蔵が逃走する余地はないと、私は思うのですが。

ちなみに、この地域で唯一黒駒組を匿ったのは「橋本」の平野屋とその周辺だけでしょう。これは『佐藤彦五郎日記』に
あります。
0463名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/17(木) 22:37:27.24ID:iJaWZs3M0
ちなみに「黒駒組」という言葉は、当時の史料に出てくる言葉です。
何の根拠も無く江戸時代の博徒集団は皆「〜一家」と呼ぶのだ、などと言う人もいますが、
「〜組」はかなり古くからある呼び名です。
0464名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/17(木) 22:45:08.58ID:iJaWZs3M0
山県小太郎という人を御存じでしょうか?(知ってたら教えてください。)
私はあまり詳しくないのですが、この人が黒駒の武藤外記の下に逗留していたことは、
当時の隣村の御用日記などに書かれています。外記という人は原市之進の暗殺などにも
関わっており、だいぶスケールの大きい人間のようです。

もし、仮に振武軍に資金提供できた者がいるとすれば、彼なんでしょうが…
そもそも外記自体尊王派なんで…これもありえませんね。
0465名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/17(木) 23:31:27.37ID:0/82vomn0
こちらも生憎と詳しくは知りませんが、彼のことでしょうか↓

山県小太郎 やまがた-こたろう

1836−1895 幕末-明治時代の武士,官吏。
天保7年4月生まれ。豊後(大分県)岡藩士。
脱藩して尊攘運動にくわわる。戊辰戦争では会津若松城攻めで功があった。
維新後は兵部省,海軍省につとめた。
明治28年2月1日死去。60歳。本姓は河野。名は通政。通称ははじめ勝太郎。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E-1117096
0466名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/18(金) 02:03:58.12ID:hIUaR8x/0
これはただの妄想だけど

渋沢成一郎「もう天野八郎とはいっしょにやっとられんわ」

誰かの耳に入る

誰か「それなら分離独立すればいいよ」「活動資金はうちが出してあげるよ」

渋沢成一郎「ホント!?なら新しく振武軍を作って出ていこっと」

誰か(彰義隊の力を削いでやったぞしめしめ)
0467名無しさん@お腹いっぱい。
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2015/12/19(土) 00:34:37.96ID:oa9ISuz40
山県小太郎有難うございます。また、もっと情報があったら教えてください。
勝蔵の尊王思想にに関しては土佐の那須信吾が関わっていたとかいうことが、よく議論されますが、
山県であっても十分良いように思えます。
0468名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/19(土) 00:40:26.73ID:oa9ISuz40
>>466
これは中々面白い図式ですね。要するに振武軍に資金提供したのは
官軍派でも、幕府側でも辻褄が合うことになります。

もっとも資金に関しては江戸の新門親方が、旧幕府側の振武軍に流したあたりが
一番ありそう。


もし博徒筋から流れたのが確かなら、黒須大五郎か、観音菊か
あるいは二本木安太郎。小橋長吉といったところが妥当の様に思う。
0469名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/19(土) 21:33:45.81ID:oa9ISuz40
改革組合村について。今日初めて知った。
なんと、内藤新宿はあれほどの盛り場でありながら寄場ではない。
また「新宿組合」というものは存在せず、ここは「中野村組合」に含まれるのだ。
したがって寄場は中野村。

これは常識なのかもしれないが、無知な私は今まで知らなかった…
0470名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/19(土) 21:40:53.78ID:oa9ISuz40
埼玉県川島町・三保谷の字小橋の長次郎・長吉親子は
本当に史料が無い。唯一は植田先生の調査記録だけ。よって、何をしたのかもよくわからぬ。
ただし荒川の河畔に位置するので舟運業と関連しているとは思う。

川島市史に、長蔵という博奕打ちの史料があるので、あるいは彼が長吉か。
0471名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/19(土) 21:50:58.97ID:oa9ISuz40
天保14年に「相州曲り松事件」というのがあった。
この事件に連座して、武州府中宿と、八王子横山・八日市宿の旅籠屋らが大量に召捕られた。
八王子の道案内頭であった玉川屋源左衛門や、府中藤屋の次男万吉(藤屋万吉)も、
これで捕まる。

事件の詳しいいきさつは不明。史料にも唐突に「相州曲り松一件により云々」としか書かれない。
例によって研究している人もいない。
おそらくは大山講にことよせて曲り松(現・秦野市渋沢)稲荷の境内で博奕をやったのだろうが、
どれほどの規模で、どのような遊びをしたのかは定かでない。一説には草競馬。
0472名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/19(土) 21:57:50.63ID:oa9ISuz40
毎回酔って良い気になって書いてるので467で「また、もっと情報があったら教えてください。」
などと自分が書いてるのを見て死にたくなる。厚かましいにも程がある。申し訳ありません。
0473名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/20(日) 00:39:51.52ID:KIsaQNif0
山県小太郎の件、
こちらでわかるのは会津若松城の開城に立ち会ったことくらいです。

9月22日、追手先にて降伏式が行われる。
攻撃軍の代表が、軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九。
松平肥後守ら会津藩側が差し出した降伏嘆願書を受け取る。

また同日、肥後守と世子喜徳が城を出て妙国寺(謹慎所)へ移ることに。
それぞれ駕籠に乗った両人に近習たち数十人が徒歩で従い、
薩州1小隊と土州1小隊が前後に立ち、騎馬で先導したのが山県小太郎とか。

お役に立てなくてすみません。
0478名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/23(水) 10:13:16.28ID:vNeC+fsD0
甲州猿橋には、目明しに追われた「国定忠治」が橋の上から川へ飛び込んだとの話が今に伝わっているが、これは嘘。
本当は忠治ではなく「鳥沢の粂」という者が飛び込んだ。
粂は目明しの目をくらますために、川の流れとは逆に泳ぎ夜になって崖をよじ登り、その場から逃走した。
後に信州松本に居住し、そこで亡くなる。猿橋での逃走は天保11年ごろの話。

もっとも今では国定忠治の逸話は広く信じられ「忠治そば」なる名物もあるので、あまり大きな声では言えない話。
0479名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/23(水) 10:15:07.21ID:vNeC+fsD0
中里介山の『大菩薩峠』には「鳥沢ノ粂」という実名(?)で、彼が登場する。
昔は甲州郡内地方一有名な親分だったのだ。
0480名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/23(水) 10:21:44.93ID:vNeC+fsD0
与太話を続けると、この猿橋から飛び込む逸話はかなりバリエーションがあって面白い。
一説には祐天仙之助が文久年間、甲州を離れる際に同じシチュエーションで猿橋から飛び込んだ、とする。
また、一説には慶応4年、これは大場久八が飛び込んだのだ、とも言われている。

いずれも「川の流れとは逆に泳ぎ、追手の裏をかいた」という点は一致している。
しかし粂の逸話は嘉永2年の史料にあるので、やはりこれが実話だろう。
0481名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/24(木) 21:59:39.29ID:aS8ZdkB20
『東海遊侠伝』には記されていないが、『安東文吉伝史料』や戸羽山瀚の『次郎長伝』
によれば次郎長 対 勝蔵の戦いで次郎長側が大負けした喧嘩がある。
これは富士川を挟んで次郎長一党と勝蔵一党がぶつかった戦いで、勝蔵側には
宮島年蔵、本市場金七がついたという。
破れた次郎長は大政と共に、命からがら蓼原の何とかいう寺に隠れ、一命をとりとめたとのこと。
0482名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/26(土) 03:50:07.14ID:9InH2f9h0
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり
0483名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/26(土) 16:16:33.06ID:fG8CFoKW0
>>462
祐天が死んだ後そのネットワークはどうなったんですか?
たぶん誰かが後を継いだんだろうけど
もし良かったら教えてください
0484名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/26(土) 23:11:04.65ID:lPbTe9ND0
また私の書き方が悪かったようです。すみません。
祐天が「頭」になって武州・甲州の岡っ引ネットワークを牛耳ったというわけではなく、
武州のネットワークを利用したというニュアンスです。武州岡っ引枠は、例の田中屋が中心です。
で、甲州のそれは元々は祐天親分の三井宇七(=卯吉)のものなので、祐天亡き後は宇七の孫・三井健次郎が自然と継いだ
と思われます。それと祐天兄弟分の国分三蔵。

この辺はさすがに確証がないんで「およそ」ですが、甲州東郡筋は三蔵、甲府周辺は健次郎だと思います。
で、もう一人甲州西郡筋は上手村の善兵衛です。
0485名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/26(土) 23:25:06.54ID:lPbTe9ND0
それと、なんと言っても甲州は善九郎親方に率いられた被差別身分の手先がいまして、
この方たちのネットワークが強力だったようです。(鈴木家文書[後述]に詳しいです。)
正直捕り物の際に、一番危険な役割を引き受けるのはこの方々で
甲州の治安はこの人たちの苦労によって守られていたとしても過言ではないです。
甲府勤番士→同心→目明し→善九郎手先 の順です。

武州や駿州も多分同じなんだろうけど、この辺りはなかなか踏み込めない分野です。
『武蔵国横見郡和名村鈴木家文書』は、そういう意味で貴重な史料です。
0486
垢版 |
2015/12/26(土) 23:29:08.56ID:fG8CFoKW0
なるほどわかりました
ありがとうございます

祐天が急死して縄張りとかよそとの連携とかどうなったんだろと思ってました
当たり前かもしれないけどちゃんと引き継いだ人物がいたんですね
0487名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/26(土) 23:48:09.59ID:lPbTe9ND0
明治以降の武州侠客の有名処に新橋長蔵親分が居る。姓谷合。
この人は本当に「侠客」だったようで、いまでも地元では評判がすこぶる良い。
地元というのは武蔵野市(旧・境新田村)。
長蔵親分は生涯に何人か人も斬ってはいるのだが、明治には近くの大学生と因業ばばあの近所喧嘩に
わざわざ乗り出してきて仲裁をしたりもしている。小金井の花見客のための菓子屋も開いて頼りにされていた。
0488名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/12/29(火) 19:50:25.84ID:HRn3zkGR0
 大前田栄五郎が江戸屋虎五郎に語った博奕打ちの心構えというのがある。

 「これから良い博奕打ちになろうと思うなら、第一身の行いを能くしろよ。
 向こうから旦那方(堅気の衆)が来たら、頭を此方から下げるようにして、堅気の方に可愛がられねえと出精(出世)は出来ねえ。
 
 女房を早く持つな。女房を持てば子ができる。子ができれば、斬ったり張ったりする時に自ずから切っ先が鈍り、
 良い働きは出来ねえ。その為に一片こっきりの女郎屋がある。遊びに行けば、それで気は晴れて仕舞うもんだから、
 そのことを忘れるな。

 割の良い喧嘩はしても良いが、割の悪い喧嘩は我慢しろ。それから、下の者には目をかけてやり、
 上の者とは五分に付き合うようにしろ。それができないと良い男にはなれねえ。」
0489名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/02(土) 19:03:25.83ID:/iMQG/Ak0
あけおめことよろです。

「仁侠」とか「侠客」とか
特定の階層や職掌のように使われているけれども、
実は生き方を意味する言葉なのでしょう。
0490名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/04(月) 12:29:07.72ID:eyWFwo+s0
あけましておめでとうございます。
昨年は気持ちも安定しておらず、とんでもないことをしばしば書きこんでしまった。
今年はそのようなことがないように禁酒を誓います。
0491名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/04(月) 12:37:10.02ID:eyWFwo+s0
ちなみに「酒」について。
次郎長親分が生涯酒を飲まなかったという逸話は有名だが、これは
天保13年3月、巴川沿いで酩酊のところ不意を襲われ不覚をとったことによると言う。
以降禁酒の誓いを立てて、生涯破らなかった。

一方、講談だと酒に酔って次郎長一行、森の石松にからむ役周りの吃安親分は(これ自体途方もない造り話だが)
事実は下戸で酒は一滴も飲めなかったとのこと。
0492名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/04(月) 13:42:30.33ID:eyWFwo+s0
年末から甲州の話ばかりで恐縮だが…
今日1月4日は、甲府の大親分三井宇七(卯吉)が討たれた日に当たる。(安政四年)
下手人は市川大門の松坂屋喜之助の弟・亀吉以下十一名。
卯吉は「この人が出れば、どんな諍いでもすぐに解決する」と言われるほどの貫録で、甲府の裏世界を牛耳っていた存在だったようだ。

卯吉の死は秘密裏であったが、当時の甲府ではすぐその月の中に瓦版が出され、また「七草の甲斐(粥)にはずれた隠居さん」との歌が流行。
卯吉が七日より前に殺されたとの情報が町に出回った。
0493名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/08(金) 18:57:53.47ID:3QHnavwo0
小金井小次郎には「寅之助」という兄がいる。通称は「寅吉」。
二歳年長だが、我慢強さも気風も弟に及ばなかったと『慶応水滸伝』にあるが、
どうやら実際の寅之助がその通りの人物だったことが、最近見つかった小次郎直筆の手紙の中に
アリアリと書かれている。強くもないのに博奕場通いがやめられない、浪費癖のあるこの愚兄のことに遠島直前の小次郎が
なによりも頭を悩ませていたことが見てとれて、思わず笑ってしまいそうになる。
0494名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/08(金) 19:04:57.46ID:3QHnavwo0
興味深いことは、小次郎は裏から手を廻したおかげで「三宅島」を遠島先として
選ぶことができた、と書いている点である。三宅島は、あるいは八丈島や新島に比べて生活が豊かだったのかもしれない。
0495名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/08(金) 19:10:58.45ID:3QHnavwo0
三宅島からの小次郎の手紙は各所に散逸していて、なかなか集めるのが難しい。
といっても大方は皆木先生の『小金井小次郎伝』に載っているからそれを見ればいい。

本物は未見だが、この中に高萩ノ万次郎が、遠島中の小次郎の所に金を送ってくれたらしく、
小次郎がその事に随分恐縮している内容の文章がある。ほとんどの場所で小次郎が他の人間を
「親分」と呼ぶことはないのだが、万次郎にだけは「高萩親分」との呼び名を使っている。
万次郎の格が伺えるというものである。
0496名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/01/08(金) 19:27:29.83ID:3QHnavwo0
駿州沼津の和助(菊池和助)は大場久八の兄弟分で、「街道侠客中の傑出したる人」
と戸羽山瀚氏が称賛する程の人。表の顔は鮨屋だったという。
和助には初代と二代目がおり、初代は安政5年没。二代目は本名を再助と言い、初代の弟とのことである。
博奕の罪で八丈へおくられ12年過ごした。

和助不在の日々は妻・たか女が一家と鮨屋(松よし)の若者とを仕切った。
0497名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/13(水) 00:07:46.41ID:5SklYERo0
「山岡鉄舟研究会」というのがある。
鉄舟を英傑と讃えるのは勝手だが、その根拠の一つに
次郎長を「改心」させたなどと書くのは「何様のつもりだ」と思わざるをえない。
歴史上の人物には優劣などつかない。誰かを称揚するために、関わった人物をダシに使うなど
言語道断のことだろう。
0498名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/13(水) 00:20:16.41ID:5SklYERo0
中世の職掌がまだ未分化な時期にあっては「博奕打ち」もまた、人力ではどうにもならない「運」という
神の領域をつかさどる職として確立されていたのだ。博奕打ちは真摯に賽ころに打ちこむ芸民であった。

近世の博奕打ちも、その流れにある。だからこそ、彼らには仁義があり、旅人としての礼法がある。
単純に「社会悪」として「改心」させるべき者として見なす向きは、近代人の奢りというものだろう。
0499名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/01/13(水) 17:39:09.91ID:CshXffIJ0
研究本に「改心」て言葉が使われてるけど
意味を読み取らないで
「悪の道から救済してやった」的な解釈だけしてるんですかね

だとしたらそれは研究じゃなくて
贔屓とか愛好でしょw
0500名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/14(木) 19:30:41.94ID:XxafQQhA0
>>485
山梨県内のどこかの町史もしくは市史で
陣屋に長吏が詰めて警備や容疑者逮捕にあたっていた、
という記述を読んだ覚えがあります。
その長吏を支配したのも善九郎親方なのでしょうね。参考になりました。

ところで、関八州で番役などにあたる長吏は
村役人と弾左衛門との二重支配を受けた、と聞いています。
また、時代が下ると弾左衛門の支配は甲斐や駿河にも及んだ、と言われます。

善九郎親方は、弾左衛門と何らかの関わりがあったものでしょうか。
ひょっとして甲府勤番と弾左衛門との二重支配を受けていた?と想像しました。

長吏の話はスレ違いかもしれませんし、デリケートな問題ではありますが、
ご見解を伺えれば幸いです。
0501名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/01/15(金) 00:05:46.11ID:YJnrnBfd0
おそらくお読みになられたのは『市川大門町所蔵村治関係文書』か、それに類するものではないでしょうか。
駿州方面の要として、ここに市川代官所がありまして、非差別身分の方々が確かに、牢番・目明しを
務めていた、とあります。
さて、善九郎親方は甲府市伊勢の遠光寺付近に住んでいたと三田村鴛魚が書いています。(現在では誰も教えてくれません)
善九郎の一族が武田氏の時代からいたらしいことは聞きますが、有名な団左衛門の系譜に属するのか?
と言われれば、恥ずかしながらわからんのです。

ただ、上でも記した三井宇七が、一名前「猿屋勘助」と名乗り「猿引き」というやはり被差別身分の人々を甲府牢番下役として
使っていたことは、どうやら事実のようで、これはほぼ確実に団左衛門や善九郎とも独立して職務を行っていたと言えそうです。
そうであるなら、三井宇七という人は有宿・無宿の間のみならず、非差別・常民の境界線をも自由に行き来していた人物ということになり、
非常に特異な存在であったことが伺えます。
彼はまた浅草の香具師の間で「甲斐の両国屋卯吉」の名でテキヤの祖とされており、正直ますます訳がわからないのですわ。

全然解答になってませんね。すみませんです。
0502名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/15(金) 00:38:06.04ID:YJnrnBfd0
善九郎に関しては半々ってとこですかね。やっぱり後年は団左衛門に属したんでしょう。
(何の根拠もありませんが…)
0503名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/15(金) 18:34:52.13ID:UVLs7Occ0
>>501-502
ややこしい質問にもかかわらず、興味深いご回答をありがとうございます。
三井宇七とは、>>484>>492で既出の人物ですね。

博徒・侠客、香具師・テキ屋、大道芸人・乞胸等々の世界では、
利害が絡む縄張りは厳格に定められていた一方で
そのほかは意外と流動的な側面もあったような気がします。
よくご存じのとおり堅気と侠客との間にも
グレーゾーンがありましたから、それと同じような感じで。
なので、三井宇七のような人物も活躍できたのかも、と想像しました。

歴史上のある物事を知るには、対象だけでなく
関連する物事すべてを調べて、ようやく真実が見えてくるのだと思います。
歴史を学んでいると被差別階級のことも避けて通れませんが、
やはり近現代の差別問題と関わるためか文献も少なくて、難しいですね。
0506名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/16(土) 00:32:34.40ID:2oI16+ZO0
三井卯吉の話をもう少し。

卯吉の子分として有名な者が祐天仙之助。(正確な法名は「由天」)
今の甲府駅から線路を境に南一帯の繁華街(柳町)が卯吉の縄張りで、北の古府中町が祐天の出生地だったため
両者は自然と結びついたようだ。
このコンビと対立したのが、富士川沿いに駿河との交易で栄えた市川大門宿の松坂屋喜之助、通称鬼神喜之助。
松坂屋は現在でも子孫が残っているが甲州きっての大商人で、酒、菓子、魚類、紙など幅広く商いを行っていた。

当主恒右衛門には五男一女があり、長男が喜右衛門、次男菊蔵(後婿入りして定八)、三男松蔵、四男が喜之助だった。
喜之助の弟の亀吉もまた博奕打ちで、こちらも「小天狗亀吉」の異名を持っていた。
0507名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/16(土) 00:40:18.50ID:2oI16+ZO0
松坂屋の子孫の方に伺った話だが、とにかく喜之助、亀吉兄弟には実家が裕福なだけに
自由に使える金が幾らでもあったそうだ。兄弟が喧嘩出入りに出る時には、子分たちの弁当から宿泊費まで、
全部出した。

兄弟の親分は一説には津向文吉だと言う。だが、文吉が八丈に流された後では、むしろ文吉敵主の吃安と友好的な関係を
築いたようだ。また、兄弟の親分とも、逆に一番子分だとも言う駿河吉原の留吉(元浪人・石原留之進)というのがおり、これが
祐天に殺されたことから、両陣営が反目するようになった。
0508名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/16(土) 01:03:05.54ID:2oI16+ZO0
喜之助と祐天は、それぞれ「鬼神紀之助」、「祐膳朝吉」の名で豊国の絵にされている。
早稲田か都立図書館のHPで見ることができるが、なかなか良い。
いずれこのライバル二者は、実物の血なまぐさい抗争を続ける「悪党」というよりは「ピカレスクヒーロー」の趣がある。

喜之助の墓は大正5年、市川大門平塩の丘に子分「畳鉄」によって建てられている。墓碑には「松坂屋・鬼神喜之助、慶蔵之墓」とある。
(慶蔵は一説には卯吉の別名)
今日線香を立てるのは(僭越ながら)私くらいのものだろう。松坂屋(橘田家)の墓域には入れて貰えず外に建てられている。
唯一嫌なのは目の前の柵向こうに犬がいて、いつも咆えられることだ。
0509名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/16(土) 23:00:24.01ID:2oI16+ZO0
田中屋の万五郎は府中組合、大和田組合、中野組合(内藤新宿含む)、青梅組合、所沢組合に、
直接的ないしは間接的に関わっている。
加えて、今日世田谷周辺の「下北沢組合」も万五郎を道案内として雇っていることを知った。

一体この人は何者なのか?またどうして近世研究の先生方はこの人を研究対象として取り上げないのか?
府中の森博物館でも、一案内としか扱われていないのは…さすがにいらだたしい。
0510名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/01/17(日) 06:32:57.51ID:HnL9E7Ed0
都筑郡大棚村の「鵜ノ目屋傳吉」についてご存じないでしょうか?

侠客かどうかはっきりしませんが、可能性はありそうです。
表向きは何か商売を営んでいたと思われます。
雲をつかむようで申し訳ありませんが、
たとえ些細なことでもご存じの方は何卒ご教示ください。
0511名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/17(日) 09:11:57.13ID:ky9Vr8XR0
武州大棚村資料は慶応大学がたくさんもっているようですね。
差し支えなければ、いつ頃の、どのような資料にお名前が載っていたか、
教えていただけますでしょうか。
0512510
垢版 |
2016/01/17(日) 17:18:36.38ID:HnL9E7Ed0
人から質問されたことなので、こちらも詳細がわからず
要領を得ない話になってしまい、申し訳なく思います。

多摩の旧家に伝わる史料で
明治初年に作成された卸販売業の取引先一覧だそうで、
販売業自体は江戸後期から続いていたらしいです。
地名、屋号、当主の名前くらいしか書かれていないものの
判明している範囲では、それら取引先も豪農などの資産家だとか。

鵜ノ目屋傳吉については、お上の御用聞きをやっていた?
かのような伝承があるという話でした。
0513名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/17(日) 21:05:29.68ID:ky9Vr8XR0
ご回答ありがとうございます!すぐには分かりませんが、先の桶屋長兵衛共々、以降資料を見る際に
気にとめるようにしておきます。

字より都筑区大熊町辺りの方だと思いますので、もし行く機会があった時は
尋ねてみるように心がけます。
今のところ何もわからず申し訳ないデス。
0514510
垢版 |
2016/01/17(日) 22:22:41.69ID:HnL9E7Ed0
恐れ入ります。
もし何かわかった時にはよろしくご教示くださいますよう
お願い申し上げます。
0515名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/19(火) 23:02:06.62ID:0ZjCWBlh0
勢州(伊勢)で丹波屋伝兵衛とならぶ侠者、小幡周太郎(武蔵屋周太郎)は、
実は武州の生まれで、故郷は「榎戸村」と云ったという。
この榎戸村は東京都国分寺市の榎戸新田か、はたまた埼玉県吹上村の榎戸村か。
0516名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/19(火) 23:52:42.08ID:l1u3Mifd0
>>515
以前ある調査をしている時に気づいた「えのきど」は
上菅生村内の小名「榎戸」(川崎市多摩区枡形)と
王禅寺村内の通称地名「榎木戸」(川崎市麻生区百合丘)です。

でも村名に限った話で、小名や通称地名は除くなら
関係ないですね。どうぞ無視してください。
0517名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/20(水) 05:21:11.84ID:quyxRGsM0
いやいや、その可能性もかなり有るように思います。
登戸長兵衛さんを探してた時に、川崎(?)の『鈴木藤助日記』なる資料を図書館で
眺めてみたんですが、百村あたりの博奕打ち集団の記述があったはずです。
稲城から川崎辺りに一家があったらしく、また、東禅寺には香具師の惣代がいたそうなので
字に「榎木」が残っていたなら、可能性は大いにある。

いずれ、地元の調査をした方の情報は貴重です。とても有りがたいです!
0518名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/20(水) 05:33:35.90ID:quyxRGsM0
相州はまったく詳しくないのだけど、原町田の勝楽寺にある弥平親分の墓には
王禅寺の伊太郎、菅村の兼吉、榎下村(都築郡)の今次郎等の名前が刻まれてもいます。

紙記録は無いので、自分の目で確認に行くしかないのが手間ではありますが。。。
0519名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/21(木) 22:50:57.25ID:ANHLp4XM0
仁侠に関わらず山梨県の歴史ウィキペディアにはマニアがいて、博物館や地方史の文章を
ほぼそのままにアップしている。おかげで黒駒勝蔵や吃安などの情報が豊富だが、ほぼ論文のコピーのため
たいへん読みにくいことに辟易する。

加えて、いわゆるその分野の草分け的な研究者たち(藤田五郎や増田友哉、戸羽山瀚、松尾四朗)
といった人々の著作は、参考文献としてあげられていない。もっぱら最近「学術的な」研究を
発表した先生方の御本だけが挙げられる。
まあ、そういうもんだから仕方もない。
0520名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/25(月) 23:30:49.02ID:GW5VZA+E0
「両国屋卯吉」というのはウソだとばかり思ってたんだが、八州の岡引の文献中に
まんま名前が出てきてしまった。三井宇七=三井卯吉=両国屋卯吉は、どうも本当のようだ。
0521名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/31(日) 18:45:35.99ID:P7YhnSAf0
「四月八日笠殿辺荒神山にて長刀者之出入あり、穴太村徳方と長吉と出合なり、
徳方には門之介入道とて名有、長吉方には三州吉良之巳吉とて門人三百人も有りける者
味方なす、徳方凡四十人余、長吉方は漸二十人計なり(中略)徳方は鉢かね着込み、具足
にて身をかためける、長吉方は常のままなり、巳吉は手負故三州迄駕籠にてかへり直に
落命なす、徳方は即死五人、長吉方は三人都合八人之死人なり」

これが当時の史料(「豊秋雑筆」)に記された荒神山の決闘の全容のようである。
実際には40人対20人程。各地から加勢も加わったのだろうが、次郎長一味(大政)などの
記述はない。
0522名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/01/31(日) 18:54:25.95ID:P7YhnSAf0
一応(中略)の部分を。

「彼門之介鉄砲にて巳吉を討留ければ又候長吉方すすみ門之介を討留、其外徳方三四人
 討留ければ逃出しける」

『東海遊侠伝』だと、仁吉(巳吉)が鉄砲で撃たれ、浪人角井門之助(門之介入道)が
大政と一騎打ちの末討ち取られる。まずまず本当のところを描写していると言えるだろう。
0524名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/02/06(土) 23:50:16.10ID:9AVW/N1a0
八切止夫も仁侠・博奕打について数多くの著作がある。中には貴重な発見(あるいは他研究者への支持)
もあるのだが、往々として眉つばなものが…やはり多い。
0525名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/02/06(土) 23:54:11.19ID:9AVW/N1a0
ただし、黒田屋祐蔵(永田勇蔵、と表記している)の存在を重くみていた点は、さすがと思われる。
実際、近年伊勢方面では次々と「博徒親分」勇蔵に関する史料が発見されてきている。
0526名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/02/07(日) 00:31:20.16ID:VDXjgp+Q0
言わずもがな、だろうが八王子の子門の興林寺には蕎麦やの亀さんこと
伊野亀吉親分の墓がある。「一ノ宮一家」とあるので彼が万平の跡を継いだことがわかる。
一般に一ノ宮の二代目は大塚勘五郎事、井上勘五郎とされるが、勘五郎は一生旅カラスだったので、
継げなかったのではないか。

いずれ亀吉親分の墓域には「三侠の碑」と呼ばれる墓があり、万平・勘五郎、それに
丹波屋伝兵衛事、半田竹之助が供養されている。
0528名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/02/11(木) 05:26:04.45ID:lu91vr930
>>524
本能寺の変の謎を解くみたいな新刊本をちょこっと立ち読みしたら
八切止夫の説を典拠にしてました
信長を殺したのは外国人宣教師たちで
南蛮寺から本能寺を高性能の大砲で攻撃したんだって
大河ドラマの便乗本にしてもスゲーw
0529名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/02/13(土) 22:32:56.52ID:gvwNvjMH0
『官武通紀』にある黒駒勝蔵、甲府城乗っ取りの部分を一番最初に取り上げたのは
八切止夫じゃなかろうか。(まちがってたらごめんね)

少なくとも高橋敏よりずっと早いことは間違いない。
0530名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/02/14(日) 17:49:27.31ID:Zyu57BDu0
八切止夫 1914年12月22日〜1987年4月28日
高橋敏 1940年〜
世代の順番的にいってもそうなるでしょうね

「官武通紀」わりとあっちこっちで使われてると思ってたけど
博徒侠客関係では八切が先駆とは知らなかったです

しかし八切史観はよくわかんないです
「新選組意外史」をちょっと読んでみたら
除地=ひさべつブラック的なことが書いてあって絶句した
0532名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/02/17(水) 22:53:36.34ID:XpVWBETR0
中山の七五蔵は、三州平井の雲風亀吉の親分。一名四馬蔵

元治元年6月、黒駒と雲風の逗留する屋敷を次郎長一家が急襲した。
六名の死人を出させたが、肝心の勝蔵、亀吉を討ち漏らした次郎長は両名を追うに当って、
まずは雲風親分の五七蔵の元を訪れ、「二人を匿うと容赦しないぞ」という気迫を
みなぎらせて七五蔵と面会した。
しかし五尺そこそこの老人である五七蔵は一向動じることもなく、かえって不敵な笑みを浮かべ、
「雲風がお前に斬られようと知ったことじゃない」と何でもないように答え、その物言いの凄みに、次郎長思わず
ゾっとしたと後に伝わっている。
0533名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/02/19(金) 07:58:32.79ID:XvBkoEs50
荒神山の戦いの後、次郎長が丹波屋伝兵衛の許へ殴り込みをかけるが
丹波屋は「臆病風に吹かれて」これの相手をせず、つまりは逃げ出した――
と、よく嘲笑的に書かれるが、
丹波屋伝兵衛の生涯を見ると、筋があって戦わねばならぬ時は、自ら趣いて斬り合うが、
それ以外の争いは極力避けた。 身内思いで、仲間内で使う金には糸目をつけず、特に目下には優しかったという。

明治の番付で、彼が必ず「大関」に置かれたことには、こうした理由があるのだろう、
丹波屋を次郎長との対比で小物扱いするようになったのは、むしろ最近。
昔の人の方が物がわかっていた、という良い証だ。
0534名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/02/19(金) 14:07:53.84ID:XvBkoEs50
荒神山の戦いの後、次郎長が丹波屋伝兵衛の許へ殴り込みをかけるが
丹波屋は「臆病風に吹かれて」これの相手をせず、つまりは逃げ出した――
と、よく嘲笑的に書かれる。
しかし、 丹波屋伝兵衛の生涯を見ると、筋があって戦わねばならぬ時は、自ら出張って斬り合うが、
それ以外の争いは極力避けた。 身内思いで、仲間内で使う金には糸目をつけず、特に目下には優しかったという。

明治の番付で、彼が必ず「大関」に置かれたことには、こうした理由があるのだろう、
丹波屋を次郎長との対比で小物扱いするようになったのは、むしろ最近の話。
昔の人の方が物がわかっていたことの良い証だ。
0536名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/03(木) 00:00:20.89ID:OmwYp4m50
玉屋佐十郎は姓・合川(相川とも)。いわゆる二代目大場久八である。
現在の三島広小路(旧・大中島)に飯盛旅籠「玉屋」を開いていた。ここでは中国由来のチーハー賭博が
盛んであったと言われる。(ちなみに現在ではチェーン展開する居酒屋がこの跡地に建っている。)

佐十郎は元々甲州の生まれであったため、勝蔵とは親しかった。しかしそのおかげで、明治四年には伊豆の温泉場に
隠れていた勝蔵を甲府捕忘方の命により召捕らえなければならない、という辛い役どころを押し付けられることになった。
旧知の佐十郎の来訪には勝蔵も観念し、ついに縄を受け甲府に連れられて首を斬られた。
0537名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/03(木) 00:08:39.41ID:OmwYp4m50
佐十郎に政府から命が下り、勝蔵の捕縛に随行させられた文書は三島の御用日記、あるいは
江川代官所の御証文留にある。だが、この時佐十郎と勝蔵とが、それぞれどのような心境であったかは
伝わっていない。

墓石は常林寺。資料によれば三代目を継いだ渡辺精次郎の墓石も、玉屋の墓域にあるというが、
現在では別々のようだ。明治32年亡くなるが、三島を埋め尽くすほどの弔問客が訪れたとのこと。
0539名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/06(日) 03:44:59.66ID:JEMnAUp10
もし今具体的な資料が残っていたら面白いだろうと思える侠客は
江戸屋虎五郎だ。この人は「弱い」面も含めて色々な意味で本物だ。
0540名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/06(日) 03:54:57.65ID:JEMnAUp10
宝井琴凌の『大前田栄五郎』は多くの部分を江戸屋虎五郎からの取材に基づいていると
記すくらいだから、虎五郎に関しても言及箇所が多く有益である。

ただあくまで聞き書きなので、これを考証する段になると、圧倒的に史料が少ないのが
極めて残念だ。
0541名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/07(月) 00:19:58.16ID:Ho1EELhW0
講談「白子屋政談 髪結新三」

享保11年の本当にあった事件を題材にしてるそうだけど
弥太五郎源七や髪結新三は架空の人物なのかどうか
0542名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/07(月) 21:36:17.86ID:cPWwCwrA0
佐十郎の親分、大場の久八は勝蔵の子分に袋叩きにされた。
勝蔵はその場にいたが子分を止めようとはしなかった。
って話が東海遊侠伝に出てきます。
これが実話ならば、佐十郎は勝蔵捕縛に積極的だったかもしれないと
心境を推察できて面白いですが、私はこの話は信じていません。
0543名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/10(木) 00:29:10.62ID:L6oDmmK60
たしかに東海遊侠伝では、雲風と黒駒が碁の勝負をしているのを久八が見ていて、
黒駒の負けを、次郎長との負けに見立てて茶化したので、黒駒の子分が久八を殴って、
それを勝蔵が止めもせず見てた、
とこうありますね。
また、これのおかげで久八が黒駒への助力を止め、その余波で仁義に厚い遠州堀越の藤左衛門も
勝蔵側から長楽寺清兵衛の陣営へ鞍替えした、と続きます。
0544名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/10(木) 00:34:35.02ID:L6oDmmK60
しかし、おっしゃる通りこれははなはだ怪しい。
というのも明治になって久八の許へ勝蔵事、池田勝馬から「賀状」が届いているし、
また慶応4年から明治2年まで、甲府の牢に収監されていた久八のために、
当時士分で桜田門に居住していた勝蔵への助力を、久八親族が頼んだ文書が残って居るからです。
絶縁していたなら、とてもそんなことは出来ないでしょう。
0547名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/11(金) 22:27:25.50ID:H0495iyR0
高萩の万次郎事、鶴屋喜衛門は次郎長や小次郎の兄貴分に当る「任侠親分」というだけでなく、
岡っ引と宿年寄という「官」の顔も持ち、また武州一揆の際には暴徒相手に
単身掛け合い、宿を破壊から守るという離れ業もやってのけている。
書画にもすぐれ、俳人でもあったらしい。

だが何よりも尊敬に価するのは、
嫁さんが十九も年下であった、という点ではあるまいか。
0548名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/12(土) 23:50:15.22ID:xeQ6MdDO0
田中屋万五郎の腹心子分に「幸助」「定吉」がいる。それぞれ小川村(秩父郡)幸助、ないしは飯能幸助、
新宿定吉、五日市定吉などと呼ばれる。(万五郎の子分は流動性が強い)
二人のうち幸助はちょっと面白い。
幸助は有能な岡引であるが、田中楼の遊女を本気で好いていたらしく、
彼女に対する恋文が残っている。最終的に二人がどうなったかはわからぬが、
150年も昔の恋文は、しかし真摯な心が溢れていて読んでいると少し泣きそうになる。
0549名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/14(月) 22:25:08.26ID:KKeHkD+V0
>>543>>544
大場の久八と黒駒の勝蔵の貴重な関係、教えていただいてありがとうございます。

田中屋万五郎親分とは、「近世侠客有名鏡」に書かれている伊沢の万五郎と同一人物でしょうか?
>>225のように甲州博徒とも関わりがあるようなので石和出身の侠客と誤認されたのでしょうか?
 
ある書物には高萩の万次郎が伊沢の万五郎の変名で伊沢に乗り込み、
次郎長とともに竹居の安五郎捕縛に一役かったと書いてありますが、
(この場合、当然田中屋万五郎と伊沢の万五郎は別人ということになりますが)
私は、これらの説は信じていません。
0550名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/14(月) 23:01:57.64ID:KKeHkD+V0
堀越の藤左衛門

黒駒の勝蔵に「風の強い日に友蔵が住む見附の町に火をつけろ」
と言われ、「そんな非道なことはできない」と断り勝蔵と義絶した。

相手が兄弟分(兄貴分?)であろうと、許せないことは許せないという
意思を貫くカッコイイ男を想像してしまいます。

ただ、なんでも疑ってしまってはつまらないですが、
東海遊侠伝の勝蔵に関する記述はどうも……。
0551名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/15(火) 18:47:06.03ID:iSqPYa/G0
◆台湾人の顔面


淡褐色、広鼻、突顎、タラコ唇


ラオスっぽいような、ポリネシアっぽいような、

つか、ハノイですね〜

実にハノイ!

https://www.youtube.com/watch?v=5bE6lSX4yK0
http://www.gmjh.tc.edu.tw/mediafile/1040/active/288/2014-11%5C2014111413041_0.jpg
https://www.immigration.gov.tw/public/Attachment/3521157552.jpg
http://a.udn.com/focus/2015/10/02/12959/image/pic01.jpg
http://www.ksnews.com.tw/upload/2014-04-20_20b06004_.jpg
http://static.ettoday.net/images/793/d793043.jpg
http://img.chinatimes.com/newsphoto/2015-05-18/656/20150518003862.jpg
https://anntw-prod.s3.amazonaws.com/assets/images/000/001/732/big/HBL.JPG?1385383160
https://i.ytimg.com/vi/9YL_k_JZ_dI/hqdefault.jpg
http://www.on9g.com/cn/customavatars/66275.jpg
http://bibibi.info/w/wp-content/uploads/2012/01/20120108-00000521-san-000-0-view.jpg
http://news.xinhuanet.com/school/2010-03/04/xinsrc_222030704080396881592.jpg
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/95/0000035795/99/img6388079azikazj.jpeg
http://www.wsm.ks.edu.tw/images/20110407024518.jpg
0552名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/15(火) 23:47:31.31ID:R+T8XGJ10
>>549
なるほど田中屋万五郎=石和の万五郎か!いや、考えもしなかったです。これは本当面白い。
ただ結論から言えば、私ごときの知識ではわからんです。(笑)スミマセン。

近世侠客有名鏡は、やはりどうやら講談・芝居・新聞小説といった当時のメディアが土台になってるようで、
例えば赤尾林蔵に代表される「関東七人男」や天保水滸伝の国芳の絵の人物(笹川、飯尾、勢力、州之嵜、神楽獅子など)、
あと番随院の歌舞伎なんかを基にランクインしています。

ところがわからない人が二三人いて、その筆頭が「身延の半五郎」継いで(私的には)石和の万五郎、虎五郎です。
0553名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/15(火) 23:57:50.49ID:R+T8XGJ10
それでも最近、旭堂南陵の講談「甲斐の祐天」のなかに、祐天仙之助と対立する石和陣屋の御用聞きとして
「石和虎五郎」の存在を見つけることが出来たので、あるいは当時の講談本を当ってゆけば、
これらの人物を出すことができるのかもしれません。

「講談師見てきたようなウソを言い」とはよく聞かれるフレーズですが、時々よっぽど内実を知らなければ書けないような真実を
講談が暴いていることがあり、そう言う時は正直背中がぞッとしますね。
0554名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/16(水) 00:19:09.98ID:rBQ1NBes0
藤左衛門は確かに格好いい。
彼は山梨之巳之助の子分だった言いますが、正直巳之助自体「森の五郎」を斬ったとしか
知りません。森之五郎は石松の親分で、次郎長でさえ「あんな良い人が畳の上で死ねないなんて」と言ってる程の人です。

藤左衛門が黒駒とたもとを分かって、大和田友蔵の所に仲直りに来た時に、友蔵も
泣いて喜んだと言うから、彼もまた格好いい。

堀越藤左衛門、本姓塚元。詳しいかどうかはともかく「近代デジタル」の大正六年
『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』に一ページ割かれて詳細があります。
0556名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/16(水) 20:33:35.61ID:xE7swy/U0
友蔵の子分の首を斬って首実検。
それがもとで遠島。島抜けを試みるものの失敗し、処刑。
でしたっけ?

東海遊侠伝で、次郎長と都田一家の仲裁をしようとした
関東の巳之助と同一人物ととらえてよいのでしょうか?
聞いてばかりで申し訳ありません。
0557名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/16(水) 21:38:20.88ID:xE7swy/U0
侠客有名鏡をあらためて眺めてみました。
武州 田無ノ万五良という名前も挙がっているので、
こっちの方が田中屋万五郎っぽいですね。
もちろん、同一人物を別人として伊沢の万五郎としてしまった
という可能性もありますが。

>>549に挙げた書物では、伊沢の虎五郎=江戸屋虎五郎としていますが、
やはり私はこの説にはうなずけません。
0558名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/16(水) 22:28:32.59ID:rBQ1NBes0
>>556
いやいや詳しいなあ。というより文献を読む勘所を押さえているのかな。
私は巳之助なんて名前しか気になりませんでしたよ。遠島とはね。
(ちなみに袋井の山梨は「転がり月」で有名らしいですが、未だになんのことかわかりません。)
0559名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/03/16(水) 22:35:39.65ID:rBQ1NBes0
今川徳三先生も、あまり多く書くうちについ風呂敷を広げてしまったのでしょうが、
しかしそれを差し引いても、その功績はすごいものがあると思います。
「関東取締出役」だったかを主に扱った著作は、それはすごく真摯で勉強になる本です。
(題名を思い出したら、また紹介しますね。)

あと「田無の万五郎」。やっぱりこれは稲荷様事、増五郎のことじゃないかな。
田中屋万五郎は明治3年に75歳で亡くなりますが、数年して全部忘れ去られたんでしょう。
同じ府中宿には小次郎もいたし、
有能だけど、基本的に地域にとって煙たい存在だったようだから。
0560名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/16(水) 22:37:43.34ID:rBQ1NBes0
最近知った面白い情報は
かの樋口一葉が明治26年6月の日記で、次郎長の葬式を取り上げてることですね。
(もうみんな御存じかもしれないけど。)
0561名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/16(水) 23:34:31.18ID:QkHkKDrX0
>>556-557
失礼ですがなるべくageないでsageてもらえませんか?
スレが板の上のほうにあると荒らしが寄って来やすいし
レスする時mail欄に半角英数でsageと入れるだけですから
0562名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/18(金) 06:02:36.17ID:AST6BTiK0
「天保水滸伝の原作者 正岡容」の続き

阪井久良伎の宴を開催 正岡容(4)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/299368

市川真間に住む 正岡容(5)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/302324

市川の桜花を楽しむ 正岡容(6)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/305262

永井荷風が訪問 正岡容(7)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/308421

荷風との交流 正岡容(8)
http://www.chibanippo.co.jp/culture/bousou/311252
0563名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/20(日) 21:28:05.43ID:UK9bRWhT0
一流の研究者にケチをつけるようだが、高橋敏の『博徒の幕末維新』に大場久八のことについて
「このとき久八は抜身の長脇差、鑓や鉄砲で武装した子分を二二、三人引きつれ、百姓町人・無宿関係なく
襲い殺害している。久八は武闘派の博徒の親分であった。」と記述する部分がある。

しかしこの時の事件について、筆者が参照にした元史料には
「…表之方に久八罷立ち、挨拶いたし尤惣蔵之外百姓には決して差構え申まじくと再三高声に呼〇(切れて読めず)」
とあり、百姓には決して手を出さないように宣言してから攻撃を加えていることがわかる。
久八は「百姓町人関係なく」襲い殺害はしていないのである。
0564名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/20(日) 21:39:16.43ID:UK9bRWhT0
虎造の「玉屋玉吉」をyoutubeに上げてくれている人がいて聞いたのだが、
いや、面白かった。
子母澤寛『駿河遊侠伝』ではにべもなく小僧扱いされている玉吉だけども、
それなりに良い男として描かれている。もっとも老獪な次郎長には歯が立たないが。

一点興味深いのは信州の十手持ち、岡田ノ瀧蔵を情け深い好々爺としていることだ。
彼と実際に会ったこともある相ノ川又五郎は、自伝の中で瀧蔵を「蛇蠍の如く嫌な奴だ」
としている。どちらが正しいのかは知る由も無い。
0566名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/20(日) 21:47:39.70ID:UK9bRWhT0
>>541
享保11年はけっこうきついなあ。個人的には文化年間以前には、なかなか興味が
向かない。

御仕置類例集というのが国会図書館のデジタルにあります。それはもう膨大な量ですが、
ひょっとしたらその中にあるかもしれません。この史料、表題にある「事件」をそれ以前の「事件」に
照らし合わせて罪科を決めるという形式をとっており、事件に拠っては大変古い例類が記録されている可能性が
期待できるのです。 できるのは、こんな参考にもならんコメントだけです。すんません
0567名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/21(月) 00:16:44.41ID:41GOZnUs0
>>561
失礼いたしました。sage進行ですね。

>>559
田無には田中屋とは別の>>119>>200の貫録のある親分がいたのですね。
当時有名であっても、何年か後にはすっかり忘れ去られてしまった人は多いのでしょうね。

>>560 
当時、一地方の博徒の親分がどれだけの知名度があったのか?
どのようなエピソードを知っていたのか?
いろいろ考えられて面白いです。
0568名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/21(月) 19:34:17.02ID:6guv2r380
>>565
岡田の瀧蔵は相の川又五郎と敵対した博徒、預かっていた石塔料を横領した人物として
又五郎の自伝に出ていますね。
又五郎から見れば嫌な奴だったのでしょうね。
東海遊侠伝には黒駒の勝蔵捕縛のため信州から遠州まで追ってきた目明しとして出ています。
どのような人物かまでは描かれていないようです。

>>555
ちょっと戻りますが、森の五郎が間違いを起こしたため、
親分の巳之助が五郎を殺害しよとしていたところを
相の川又五郎が間に入って五郎を救った、ということもあったようです。
0569名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/21(月) 22:49:33.78ID:lO/gAMN80
またわかりづらい文章で情けない。
563で「筆者が参照にした元史料」というのは「高橋氏が参照したであろう元史料」
という意味。
ちなみに史料は江川文庫の嘉永二年「公事方御用留」だろう。

この時久八が引きいていた子分連を同史料から上げておく。
久八直参の市五郎、甚助、直蔵。
甲州無宿の鶴吉、菊次郎、幸吉、庄兵衛。
豆州無宿為吉、辰五郎、兼次郎、周助、友吉
駿州無宿万吉、源左衛門、安五郎、民吉、権次郎。
尾州無宿竹次郎、武州無宿平八、遠州無宿市五郎。
以上ニ十名。
0570
垢版 |
2016/03/28(月) 02:55:19.82ID:4TzgpirL0
>>566
講談を聴いててなんとなく疑問がわいて
ググってみたけどわかりませんでした

ヘンな質問にレスいただいて恐縮です


>>567
ご協力ありがとうございます

以前は削除とかアクセス禁止とか荒らし対策があったけど
2ちゃんの体制が変わってから機能してないので
なるべく目をつけられないようにするのが得策だと思いますです
0571名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/29(火) 22:23:58.57ID:mRrHNTMi0
いわゆる岡っ引のことだが、
正式には「道案内」と言う。正式には、と言っても改革組合村での名称という意味だ。
組合村は八州廻りの支配下に置かれた。だから体面上、八州廻りが罪人の逮捕に向かう際に、その
道案内をするという意味で、そう呼ばれる。だが、実際は道案内が主体となって悪党の捕縛にいそしんでいたのだ。
彼らは十手を携帯し、たいていはそれに木刀で、悪徒と対決した。それで刃物を持つ者を抑え込むのだから、
たいした力量だ。また一日「数十里」は駈けることができなけらばならぬ、としている。
割と誰でもなれる者ではなかった。
0572名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/29(火) 22:30:38.16ID:mRrHNTMi0
道案内の研究は割とポピュラーだが、やっぱり一番インパクトが強いのは
川田純之の「改革組合村の内部構造の検討」だろう。長いけど色々興味深い。
特に天保十五年、徳川吉宗以来忌み嫌われ続けていた岡っ引が、正式に公の制度に
組み入れられた、という点を明らかにしたことは大きい。
ちなみに同論文によれば、道案内の仕事は大まかにわければ大体次の通りだという。

・手配者の捕縛 ・事件や不審者の探索 ・紛争の内在 ・囚人の護送
・大惣代や八州廻りの出張の伴 ・役人の手紙の配達
0573名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/29(火) 22:37:35.20ID:mRrHNTMi0
組合村の道案内に対して、藩領や幕領では「目明し」の名称が使い続けられたようである。
たとえば川越藩だと「目明し」の名称は割と史料上よく目にするし、それが
「正目明し」「仮目明し」「在目明し」に三つに分けられていることがわかる。
仮目明しは、活躍に応じて正目明しになったようだ。対して在目明しというのは
地元の侠客で十手を預けられて地域の治安を守るように言いつけられた者を指すらしい。
同藩ならば江戸屋虎五郎を育てた獅子ヶ岳重五郎なんかがそれに当る。甲府なら両国屋や祐天がそれ。

ちなみに立場としては、道案内より目明しの方が少しばかり上だったようだ。
0574名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/30(水) 18:39:11.18ID:mgqGoV6r0
>>563
『博徒の幕末維新』の該当箇所を読んで、
「韮山代官と久八の間に闇に光る一筋の糸が存在していたのでは」ともあるので、
百姓町人まで殺す大悪党を咎めもしないのはおかしいと疑問を感じていました。
しかし、そのような史料の読み間違いだとすれば、いささか驚きですね。
このケースに限ったことではありませんが、
専門家の著作だからといってすべて鵜呑みにするのは禁物と、改めて感じました。
0575名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/30(水) 18:42:12.52ID:mgqGoV6r0
>>569
意味は把握できていましたからご心配なく。

「公事方御用留」は『江川担庵全集』に収録されているのでしょうか。
公共図書館の所蔵も少ないようなので、閲覧の機会が限られますね。
0576名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/31(木) 18:29:07.97ID:mF1SMVLQ0
>>571-573
『史学』第56巻掲載「改革組合村の内部構造の検討」は、修士論文の抄録のようですね。
元の論文はさらに詳しいのなら、そちらも読んでみたいと思いました。
ただ、この抄録でも充分に興味深いです。

「正目明し」はどのように定義づければよいのでしょう。
「身元の確かな地元在住者」でしょうか?
だとすると、その中に実戦向きの人物がどれだけいたのか気になります。
0577名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/31(木) 21:47:14.69ID:euWn4MIP0
>>575
国文学研究資料館の「収蔵歴史アーカイブスデータベース」から
江川家文書へ入ってみてください。マイクロフィルムがありますので、その中に
「公事方御用留」嘉永二年があります。
0578名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/03/31(木) 21:52:51.04ID:euWn4MIP0
>>576
どういう基準で仮目明しが正目明しになったかは残念ながら私にはわかりません。
ただ天保〜安政くらいまで勤めていた「鶴松」という人をモデルにしました。
天保15年には仮目明し、嘉永元年あたりで正目明しになってます。史料は…忘れてしまった…

あと鶴松は金石文で高萩万次郎より上に刻まれているので、目明し>道案内と認識したわけです。
何の金石文かは、多分あなたならわかるでしょう。
0579名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/01(金) 21:45:47.23ID:V4Ac9Ttm0
>>577
ああ〜そちらでしたか…
翻刻資料があると思った私が愚かでした(笑)

>>578
誰もがまず仮目明しからスタートして
例えば何年か問題なく勤務したなどの条件を満たすと
正目明しに昇格、というイメージでしょうか?

もしも最初から正目明しに任命された人物がいたとすれば、
仮目明しとの違いは何なのだろう?と思ったもので。
0580名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/02(土) 21:14:22.79ID:FGv1n8Kh0
川越藩領は多摩や入間、あるいは高麗などの地域に飛び地の様に点在していることが
あって、なかなか厄介だ。
川越目明しについて、詳しく書かれているのは『富士見市史』(『富士見町史』だったかもしれない。)
目明しの親子のことが例に出されている。
0581名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/02(土) 21:17:47.54ID:FGv1n8Kh0
あと面白そうなのだけれども、途中でどうしても挫折してしまう『目明し金十郎の生涯』。
これを読むと少しばかり「道案内」とは待遇が違うことがわかる。ただし金十郎は組合村より一世代くらい前の
時代の人なので、待遇に違いがあってもおかしくはないか。
0582名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/07(木) 00:16:23.97ID:R3C9BYUA0
今さらだが532の七五蔵は間違い。正しくは「七五三蔵」で(しめぞう)
私は誤字脱字は死ぬほど多い。すみません。
0583名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/07(木) 00:32:46.54ID:R3C9BYUA0
大場久八が幕末の最後に捕まったのは慶応4年四月のこと。
上吉田の広吉と共に捕縛された。広吉は過去に殺人を犯し、富士宮に逃げていたらしい。
そこで久八と知り合い、子分(または弟分)になった。彼がいわゆる「石和ノ広吉」かは不明。
0584名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/07(木) 18:03:19.91ID:WNwYW+uK0
国定忠治が呑龍大光院(太田市)の蔵から2千両を盗み出したという逸話があるようですが、
まったくのフィクションか、あるいは実際にあった出来事か、どちらでしょうか?
大光院について調べてみたのですが、忠治との関連がわからず疑問に思っています。
0585名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/08(金) 20:10:02.38ID:3KetwiD70
どうも天保7年前後のことのようですね。恥ずかしながら上州侠客に関しては
人並みの知識しか持ち合わせがないもので…しばらく時間がかかりますが、
調べてみたく思います。明確な回答ができず、すみません。
0586名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/08(金) 20:15:28.00ID:3KetwiD70
>>510
いまだ鵜ノ目屋傳吉についてはわからないのですが、大棚村での事件記事をみつけたので
一寸報告を。
『公私日記』安政4年4月24日条に、大棚村で殺人があり、下手人はその遺体の首を斬り、
質屋へ押しかけ、「首をカタに」という名目で70両を奪い取った、
という事件があったと記されています。あるいはその時期を狙って関連資料にあたれば
伝吉にたどりつけるかもしれません。
0587名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/08(金) 21:23:47.77ID:3KetwiD70
御油の玉屋の玉吉というのは、資料(といっても聞き書きだが)によれば
館林の玉吉とされる。父親の源六が館林の出なのかもしれない。

ここで興味深いのは、かの足利市寿徳寺にある江戸屋一家の碑の存在だ。
虎五郎の建立とも言われるが、多分そうではない。(理由はまた機会があれば書く。)
この碑の中には「久六、安政2年6月1日」とあって、これが穂北の久六のことであるとか、ないとか
研究者の中で話題になるやつだ。で、久六にばかり話題が行くが、次いで「玉吉 慶応3年 勢州立野町戦死」
とある。 これはあるいは玉屋の玉吉のことじゃないだろうか。
0588名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/09(土) 22:19:06.14ID:heR/RmJF0
>>585
恐れ入ります。
忠治は盗み出した金を窮民に施したことになっている様子ですね。
仮に虚構であったとしても、講談など広く流布した話だとわかれば
それはそれでありがたく存じます。
0589名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/09(土) 22:32:19.56ID:heR/RmJF0
>>586
貴重な情報をありがとうございます。
鈴木平九郎の日記ですね。

ずいぶん血腥い事件で、あまり想像したくないような…
ご教示いただいたことを、問い合わせ元に早速知らせたく存じます。
0590名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/09(土) 23:49:58.50ID:WYtl1w7X0
大棚村の一件は全く伝吉さんとは関係ないと思うので、あまり期待せんで下さい。

あと『公私日記』でちょっと面白い仁侠関係の記事として、天保12年10月5日条に
唐丸籠で八王子を送られていった碓氷峠関所破りの13人が、「銭を撒きながら」送られていった、
というのは「国定」一家のことでしょう。このことに関して言及している研究はないですが、
嘉永3年、忠次自身が刑場に引かれるに及び、銭を撒いているので、国定一家の慣習だったとみていいのでしょうか。
0592名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/10(日) 02:05:18.03ID:WGcFPczO0
火渡りで無病息災願う 鈴鹿 (読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20160407-OYTNT50324.html

> 鈴鹿市高塚町の荒神山観音寺で7日、
> 燃やした護摩の残り火の上を歩いて無病息災、
> 家内安全を祈願する火渡りが行われた。

> 同寺は、講談や浪曲などで有名な吉良の仁吉ら博徒同士の争い
> 「荒神山の喧嘩」の舞台として知られる。
0593名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/11(月) 22:05:53.38ID:Rbw0AHhn0
>>590-591
興味深い逸話をありがとうございます。
おそらくご存知と思いますが、高橋敏『国定忠治』に
「道々忠治は銭をつまみ出し、蒔銭をしながらの道中であった」
とだけ触れている箇所がありました。

これもご存知と思いますが、
忠治は近隣の親分衆やお上とうまく馴れ合う政治力を持ち合わせなかったので、
庶民を味方につけるしかなかった、という説をどこかで読んだ覚えがあります。
そういう見方をするなら、護送中の蒔銭も庶民の支持を得るため、
死んでもせめて「義人」の名を残すため、なのかもしれません。
敢えて体制に反発し庶民の味方であろうとした、と捉えたい気もしますけど。
0594名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/11(月) 22:18:59.89ID:IWqnfgih0
山ヶ谷戸、三保谷、荒井、高尾、久下、石原、田中
みんな荒川川岸の町の名前だ。往時これらの村落は舟運の船着き場で莫大な
富が動いた。
これらの地域に幕末侠客が排出されたのもむべなるかな、だ。

山ヶ谷戸源太郎、三保谷の長次郎、長吉、荒井の文七、高尾の弾七、久下の長吉、石原の幸次郎、
田中の岩五郎
0595名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/11(月) 22:28:24.14ID:IWqnfgih0
ちなみに石原村の幸次郎。武州熊谷在の博労(馬飼商人)だったと言われる。
争い事が好きで「喧嘩幸次郎」の異名をとった。隣村田中村の三村岩五郎の子分だったと言う。
幸次郎、姓は不詳。甲府で非人善九郎子分の久次郎、弥左衛門によって捕まる。
最後まで女房(一説に人妻、妾)と共にいたようで、二人づれで江戸へ送られたらしいことが資料に残る。
0596名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/12(火) 03:11:45.15ID:lOomDAu50
そもそも、なぜヤクザの存在は法律違反ではないのか?
http://jp.sputniknews.com/japan/20160411/1939689.html

> ヤクザの世界に詳しい鈴木啓之氏(シロアムキリスト教会牧師)によれば、
> それは歴史的な経緯のためだという。

> ヤクザはもともと二種類しかなかった。
> 博徒(ばくと)と呼ばれるギャンブルを生業にする人と、テキヤと呼ばれるお祭りで商売する人だ。
> 博徒とテキヤが生きる道はそれぞれ「仁侠道」「神農道」と呼ばれており、
> どちらも「道」という字がついている。
> つまり、こう生きるべきだという方向性があったのだ。

> 彼らは自分たちの「分」というものをよく理解していた。
> 日陰者という言葉の通り「自分たちはお天道様の当たるところを歩いてはいけない」という意識があったという。
> かつてのヤクザは、抗争にもつれこむと本来の商売ができなくなるため、
> できるだけ抗争をしないようにしていた。

> しかし自分たちのシマを荒らされたり、名誉を傷つけられたりすると、
> 男として生きる上で面子が立たなくなるため、抗争に臨んだ。

> しかし今では取り締まりが厳しくなり、博徒やテキヤという生き方はできなくなった。
0597名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/12(火) 23:27:34.62ID:dHniF7zJ0
前に露天商の主人にお話しを伺ったことがあるのだが、自分たちはヤクザではないと
言っていたし、私も聞いていてそう思った。この方は父親の代から近隣の香具師の頭的
存在だったが、自らのことは決して「親分」とは呼ばせず「帳元」と呼ばせた。

まず博徒の世界が現代ヤクザ化し「みかじめ料」をとるようになって、テキヤの内で
それを払ってしまったものもヤクザとなる、簡単に言えばそんな話を聞いた。

ただ、どの辺りから「現代やくざ化」は難しい、あるいは次郎長や小次郎の晩年の頃からなのかもしれないし、
あるいは熱海一家から稲川会が出てきた時かもしれない。
0598名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/12(火) 23:45:55.03ID:dHniF7zJ0
上萬さんは生涯一度も他所と事を構えたことがない。ここは旅人の間でも「江戸の極楽」
なんて言われたと聞くが、
実際、志村九内氏の伝を読む限りでは、そんな甘いものではなかったようだ。

また文芸評論家の秋山俊は著述の中で、確かに戦後は、ヤクザの方が警官よりずっと便りになった、
と記している。行程否定はともかく、秋山氏にそう思わせるだけの事実は確かにあったのだろう。
0600名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/15(金) 05:19:27.89ID:IISVEvHm0
リンク先の全文を読んでみて、
こちらの常連の方ならご異論がありそうに思いましたが、
説明していただき参考になりました。

昨今こうした話題を取り上げること自体が憚られるような風潮ですし、
かつての仁侠と現代の反社会勢力とを区別できない人が非常に多いので
この記事が公表されたこと自体はポジティブに捉えたいと思います。
0601名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/15(金) 05:23:43.89ID:IISVEvHm0
昨日BSプレミアムで
菅原文太が会津の小鉄を演じた「炎のごとく」を放送したそうですが、
生憎と視聴できませんでした。

Wikipedia「炎のごとく」の項目ページによると、
愛する女を殺された仙吉(小鉄)が名張屋へ乗り込んだら
名張屋新蔵、新門辰五郎、薬師の梅吉、小金井小次郎がいて
彼らの説諭によって復讐をやめたようです。

この4人の親分衆が一堂に会するような可能性は、考えられるでしょうか。
娯楽映画にリアリティを求めても仕方ないとは思いますが、
なんとなく実際はどうだったのか知りたい気持ちになりました。
0602名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/15(金) 23:06:14.01ID:ihyWD/ix0
わからんことは、わからんと書くのが昔作家志望の友人と決めたルールなんで、
恥もなく名古屋新蔵、薬師の梅吉については、恥ずかしながら何もわかりません。

会津小鉄に関してもあまり詳しくないですが、子母澤寛先生の聞き書きのなかに、新場の子安と小鉄が諍いになって、
子安が子分を配備して準備してる所に、小鉄が一人、傘一本でやって来て、
それを見た子安が「偉いもんだ」と感心して(この子安の態度がまたすごい)、事を解いてお互い五分の兄弟分になった、
との話がでてきます。

最近刊行された国書刊行会の『侠客の世界』では前田晁の書き物の次に、興味深く読んだ部分に、
小次郎が安政3年3月21日、三宅に遠島になるに及んで、江戸の親分衆の船が総出で小次郎の別れを
見送ったという逸話が、どうやら事実だと記した部分があったことです。

一件「これはウソだろ」と言う部分も真実を伝えてることがあるかもしれず、
こういった点に敏感であると言う事は大事だと…
全く答えになってませんが…そう思う次第であります。
0603名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/15(金) 23:31:54.41ID:ihyWD/ix0
国定忠治は嘉永三年には死んでしまうのですが、上記の薬師の梅吉の話にも、
小金井小次郎の話にも祐天仙之助の話にも、それから四文安の話にも出てくるので
侠客世界のレジェンドと言ってよいでしょう。大前田栄五郎は、その忠次の更に上なんで
大天窓なわけです。

さて最近見つかった小次郎の手紙では、小次郎は自分のことを「万歳村の勢力や国定村の忠次」より
悪い奴という風聞がたっていて困ると言ってます。また田中屋万五郎に(この人は岡っ引頭なのに)
名前を変えて出帆の日に会いに来て、面談してほしいと恥も外聞もなく言っています。

こういう事実は歴史学の先生方には、むしろ扱いが難しいのではないでしょうか。
*ちなみに「四文安」の名前が調布の御用留の中に現れますので、暇な人は探してみてください。
0605名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/16(土) 23:27:41.57ID:X6+BAKZR0
>>590
「侠客 原田常吉」にも唐丸籠で運ばれている道中、天保銭をまいた
という話がでてきます。
どのような意味を持っていたのかはわかりませんが、唐丸籠で運ばれる罪人、
あるいは博徒の中にはそのようなことをする人が多かったのかもしれませんね。

ただ、沿道の人は罪人がまく銭だから、恐くて容易には拾えなかったようです。
0606名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/16(土) 23:44:48.87ID:X6+BAKZR0
>>596
蒸し返すようで申し訳ありませんが、

むしろ「こう生きるべき」というものを持たない、
好きなように生きたい人達が博徒になったのではないでしょうか。
あるいは、「好きなように生きる」ことが「道」だったのかもしれません。

シマを守るのも博徒ですし、シマを荒らすのも博徒です。
シマを守る側としては仕方なく抗争に挑むということになりますが、、
荒らす側としては好んで抗争を起こすということになります。

「仁侠道」というものはあっても、関連付けられる博徒は少ない気がします。
ただ、一家の親分や、特に地元の有力者となった親分は
何人もの人を束ねる上で何かしらの「道」を持ってはいたのでしょう。
0607名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/17(日) 13:41:35.15ID:tPsKGUYj0
>>605
誠に失礼いたします。実は私その『侠客・原田常吉』を探していたことがあるのですが、
どこに所蔵されているのでしょうか。長谷川先生の御本の中では度々引用があるのですが、
(本当に恥ずかしながら)所蔵場所がわからない。
0608sage
垢版 |
2016/04/17(日) 14:04:25.67ID:ZRGktxiM0
>>605
残念ながら、私もその本を持っているわけではありません。
今、出先なので今夜にでも入手方法の詳細をお伝えできると思います。
0609名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/17(日) 17:34:43.46ID:WrUIg3YG0
返信できる状況になったら返信すればいいだけで
出先云々などと余計なことを書く必要はありませんでした。申し訳ありません。
そして、スマホではsageは無効なようで、申し訳ありません。

本としての「侠客 原田常吉」は長谷川昇先生がお持ちのようでしたが、
残念ながらその長谷川先生も故人のようです。

入手方法と言うほど大袈裟でもないですが、
愛知県立図書館で過去の新聞のマイクロフィルムで閲覧が可能です。
1枚10円だか20円でコピーもできます(10年以上前のことなので記憶が定かではありません)。
新聞名は名古屋新聞。大正2年4月16日の「予告」から始まり、
本編は4月17日から6月29日まで48話あります。
連日のこともあれば、数日間あいて次の話、ということもあります。

解読不可な個所も随所にありますが、話の流れを阻害する程ではないかと思います。
不鮮明な個所を確認に再度訪れたことがありますが、解読が無理な個所はやはり無理でした。

あと、いつか行かれた時に落胆しないようあらかじめお伝えいたしますが、
残念ながら5月15日は欠号で、その中に24話目があったようです。
それでもかなり読み応えのあるものです。
0611名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/17(日) 18:58:14.04ID:tPsKGUYj0
>>609
>>610
御二方のご厚意誠に感謝いたします。特に前者の方、並々ならぬ御情熱に似たような興味を持つ者として
本当に嬉しく思います。

おそらくもって史料は、足で稼ぎ、またそれの価値を十分に享受できる者の前に現れるものだと
以前より感じておりますが、このスレッドを訪れる方々が、まさにそのような方々で
あることがわかり、感激しております。
0612名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/04/17(日) 19:17:55.21ID:WrUIg3YG0
>>611
私もお伝えできる方、わかっていただける方がいて本当にうれしいです。

ご存知、あるいはお持ちでしたら余計なお世話ですが、
「東海近代史研究」に水谷藤博氏の博徒に関する研究が掲載されおり
愛知県立図書館で閲覧できます。

そもそも、このマイクロフィルムとは

何かの参考文献で「東海近代史研究 第4号 高神山騒動余聞」の存在を知る。
4号だけあればいいのに1号〜4号の抱き合わせでしか売っておらず仕方なくセットで古本で購入。
1号〜3号にも博徒に関する興味深い論文が掲載されており興奮。
5号以降も欲しくなるが、古本でヒットしない(のちに無事に入手)。
愛知県立図書館で閲覧できることを知る。
現地へ赴き閲覧中、第8号で「侠客 原田常吉」が連載されていた新聞を知る。
図書館内で検索すると、館内で閲覧できることを知り大興奮。

という、自分としては奇跡の出会いでした。
0613名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/18(月) 00:13:14.33ID:c3zp4fDa0
>>602-603
拙レスにおつきあいいただいて恐れ入ります。
小金井小次郎は関西へ行っていた時期があるのか
寡聞にして存じませんので、何故この顔ぶれ?と思ったのみです。

聞くところによると、映画は禁門の変の場面で
土方歳三がすでに洋服のコートを着込みマフラーを巻いていたとか。
そういう映画についてこういう疑問を抱くのも間抜けでした(笑)
0614名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/20(水) 00:39:37.98ID:Os5m3YS70
博奕打ちのことを調べていると、自然岡引(道案内・目明し)のことにも詳しくなる。
かの三田村鷰魚翁は、幕末の岡引は十手を携帯しなかった、と言ってるが、
さすがの鷰魚氏も、これは間違い。
組合村の道案内に任じられた時点で、組合から金が出て「十手」を作ってもらうことが、
最近の文献であきらかになった。
0615名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/20(水) 00:41:50.88ID:Os5m3YS70
そうか「エン魚」の「エン」の字は出ないのだな。

ちなみに道案内は違うが、「目明し」はあるいは名字の名乗りを許されたのかもしれない。
そう思わせる史料が時々目につく。
0617名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/21(木) 00:40:04.02ID:jeH6EAvN0
「鳶魚」の件、有難うございました。前に書いた時は出たので、今回私がまちがえたのでしょう。
0618名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/21(木) 00:47:16.59ID:jeH6EAvN0
さて今さらだが275で、いわゆる荒神山手打ち式とされる写真。信じる信じないはともかく、
私が諸々聞いた限りで正しいと思われる情報を書こう。

・まずこれは明治14年、宮島俊蔵と増川仙右衛門の喧嘩の和会式の写真である。
・場所は東海道原宿の香貫屋旅館裏。撮影は三島の行方写真館だという。(出張)
0619名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/21(木) 01:09:08.88ID:jeH6EAvN0
前列左から三番目が次郎長である点は従来通り。
その左隣(杖あり)の人が見附の友蔵。対して次郎長右隣は大胡の団平(大前田一家、この和解の仲裁役だった。)
友蔵の左隣(前列最左側)が長楽寺の清兵衛。
大胡の団平の右隣が三島の玉屋佐十郎。佐十郎の右隣(前列最右側)が日坂の栄次郎。

さて後列からは不明な人の方が多い。
まず日坂栄次郎と玉屋佐十郎の間に立って、こっちをまっすぐ見ている紋付を着ている人が、
かの宮島俊蔵。俊蔵の右隣は中島の由蔵。そしてその右隣(二列目最右側)が、江尻の房五郎。
ちなみに俊蔵の左隣(やや左上を見ている)のは団平の子分で名は伝わっていない。この男の左隣で
前列次郎長と団平の間に立っているのが増川仙右衛門。仙右衛門の左隣。次郎長の真後ろにいるのが、
今泉の佐太郎。佐太郎の左隣が賀茂の半三郎(大前田一家)。半三郎の左隣が阿幸地の定四郎である。
最後に宮島俊蔵と名無しの団平子分の間に最後列で立っているのが渡辺精次郎。(大場一家の四代目)

後の人は残念ながら不明。
0620名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/24(日) 00:09:05.68ID:gFoPoU8I0
桃李の小説では小金井小次郎の腹心として、まず陣屋の三之助、ついで稲荷の増五郎、それから
竹山の金五郎という人が出てくる。陣屋と稲荷はそれぞれ上でも記した。共に実在の人で関三之助と大谷増五郎(竹四郎)。
こうなると竹山の金五郎と言う人も多分実在の人ということになり、恐らくは「渡辺」姓の人だと思われる。「竹山」というのは近隣の字なのだろうが、
今のところ不明。
この渡辺は(これも推測だが、)小次郎の母「なお」の実家の名字のようである。
0622名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/27(水) 20:16:59.94ID:Bko6nf3p0
青梅、大柳の荒井家は代々侠客。一説には安土桃山時代からつづく一家という。
七代目が平六(一応この人が一家初代となっているようだ。)
おそらく九代目が権左衛門、その息子が権四郎。

権四郎からは棚沢の権八(清川の権八)に一家を譲り、権八から倅の国太郎(気性の激しい人だったという)
明治にはいって国太郎から丹波山の喜作へと代が譲られた。

丹波山の喜作は、侠者として名をはせ、七ツ石の賭場の開帳時には周囲の警察署に挨拶を怠らず
集まる客人たちに迷惑をかけないように配慮した。また制材所を経営して地場産業にも貢献し、
村民のために自腹を切って吊り橋を造るなど、困ってる者への面倒見がよかったと言われる。

「スソオリに喜作があれば不足なし」とは里に伝わった唄である。
0623名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/29(金) 00:19:41.22ID:7CozeqNq0
たまたま拾ったレスが面白かったのでコピペ↓

41 :日曜8時の名無しさん:2015/11/07(土) 15:11:53.22 ID:uhNcw4iC
>>40
ちなみに前橋では大前田英五郎は偉人だよ。
どうしてかというと「藩主の松平家が百年間放棄した前橋をヤクザ者が護ってくれたから」

幕府からも見捨てられて廃藩処置になった前橋では、しょっちゅう酷い飢餓が訪れたん。
なのに責任者の藩主(実際は前橋に居たのは代官)も知らんぷりだし、年貢は実情も見ずに厳しくとりたてる。

その惨状を助けてくれたのが大前田組。
たびたび蔵を解放して私財でおまんまを振る舞ったそうだ。
名主も無責任な幕府じゃなくヤクザ者を信頼して、百年間のあいだ一種の自治区みたいだったらしい。
ちなみに俺の家は粕川でその名主の末裔の一人。
家伝にきちんと大前田英五郎の偉業が伝わってる。

あと、大前田英五郎が後を託したのが元博徒で初代前橋市長の下村善太郎。
潔癖の楫取にひどく嫌われたみたいだけど、下村善太郎も前橋人にとっては偉大な人だよ。
ちな、家伝には楫取のことは一切乗ってない笑

【2015年大河ドラマ】花燃ゆ Part89c2ch.net(過去ログ倉庫に格納)より
http://nhk.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1446807640/41
0624名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/29(金) 00:23:20.31ID:7CozeqNq0
下村善太郎と楫取素彦の関係を美談ふうに書いたもの↓

【至誠の人 楫取素彦物語】
中村紀雄(63) 博徒上がりの大商人
http://www.sankei.com/region/news/150723/rgn1507230045-n1.html

中村紀雄(64) 「県庁はぜひ前橋に」
http://www.sankei.com/region/news/150728/rgn1507280069-n1.html

中村紀雄(65) 県令、強引果敢に動く
http://www.sankei.com/region/news/150729/rgn1507290015-n1.html
0625名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/29(金) 12:22:20.40ID:m0r2FJfJ0
津向の文吉
明治以前の史料はほとんどのこっていないが、地元では唄が残っているのであげてみよう。
「ツムギの文さん、火事より怖い、火事じゃ着物は焼けのこる」

文吉(文七?)の賭場を訪れれば、着物から何まで身ぐるみすべて剥がされる。
悪くすれば家財一式、更には女房まで失うはめになる、そういう意味らしい。

文吉はインテリで温厚な親分と言われる。八丈島遠島中は寺子屋を開いて学問を教授したり、医術を用いて病人を助けた、
そんな話が伝わる。
が、やはりそこは博奕打。真実は文吉の賭場で人生を狂わせた者も少なからず居たにちがいない。
0626名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/29(金) 12:28:24.68ID:m0r2FJfJ0
>>623
やはり地元の人の印象は大事ですね。郷里の博奕打ちのことは、郷里の人にしかわからないことが
多数あるでしょう。
それができない立場であるのなら、少なくともその地へ実際におもむいて、彼らの足跡を無駄にでも歩いてみる
ことが絶対に必要でしょうね。この分野は一寸民俗学に似ているかもしれません。
0627名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/04/30(土) 19:21:31.82ID:PQkdDvvM0
文政11年のものだが町奉行の役人が東海道を公用で旅した資料を見つけた。
当時の東海道沿いの「目明し」の名が出てくるので、書き付けてみる。

小田原宿:肴屋六兵衛、小松屋亀次郎
沼津宿 :糀屋次郎八、菊池屋和助
府中宿 :海老屋新兵衛、舛屋藤兵衛、八幡小路久安、文次郎、常蔵、彦次郎
掛川宿 :笠屋平次郎
見附宿 :七五郎
熱田宿 :鶴屋勇吉、菱田屋万兵衛、岡本屋新次、肴屋平七
浜松宿 :吉五郎

菊池屋和助は、おそらく沼津の和助(初代)のことだろう。大場久八の兄弟分と
伝承されているが、実態はどうやら十手持ちの親分だったようだ。
0628名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/01(日) 00:28:38.24ID:JD4ex2Dw0
「近世侠客有名鑑」は明治20年から昭和10年までのバージョンがいまのところ
確認できる。このうち昭和10年のそれはかなり荒が削れて、
その道に詳しい人ならだいぶ納得できる番付けになっている。
0629名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/02(月) 23:58:53.48ID:vKFOeH3g0
嘉永6年は祐天仙之助が駿州吉原宿で遊女を奪って、番太と斬り合いになる時期だが、
この年の冬、今度は武州入間郡島田村へ居住していたらしいことが林信海家文書に記される。
この近辺は、赤尾林蔵(やや古い)や石井伴内、観音菊、山ヶ谷戸源太、三保谷長次、久保忠らが
乱立していたところなんでありえんことではない。
0630名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/12(木) 22:16:12.35ID:3BH7MWpG0
関東の岩五郎こと田中ノ岩五郎は剣術の達者だったらしい。
そういえば墓石にも「門人」として長在家の仙五郎の名が上がっている。
誰に習った、流派は何流かは不明だが、本格的なものだったのだろう。

地元深谷市田中でも今では誰も知らない。もっとも植田先生が記さなかったら墓の場所すら不明だったろう。
旧田中村に現在90を越える御老人で、岩五郎が博奕を打った家の隣にすむ方がいる。
現在では全く違う人が住んでいるが、この家屋は西を向いて立てられており、いつでも
手入れ(raid)の際に逃げられるように、そういう造りになっているのだとのこと。
これはこの方が父親から聞いた話とのこと。
0631名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/12(木) 22:54:04.07ID:3BH7MWpG0
さて岩五郎一派が、嘉永2年九月一三日、由比宿から船で相良へ来襲し、相良の富五郎を
殺そうとしたのだが、この時相良藩が一早く海防を固めて上陸を阻止したと伝わる。
この時藩では三〇〇人の人員を動員したと言われてきたが、これは史料に拠れば事実の様である。

言い伝えではこの時、浪人小泉勝三郎が知恵を絞ったとも言うが、あるいはこれも本当の公算が強い。
0632名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/19(木) 04:57:28.62ID:qlKAHteQ0
牧太郎の大きな声では言えないが…大前田栄五郎が居れば?
(毎日新聞2016年5月16日 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20160516/dde/012/070/009000c

>  栄五郎は名主の家柄だったが、父が大前田村を縄張りにする博徒。
> 草相撲で「滝登(たきのぼり)」のしこ名を持つ父に似てケンカは強かったが、
> 父親とはちょっと違った“技”を持っていた。

>  難しいケンカの仲裁。ケンカした双方から支持される和解案を提示する。
> 丸く収めた“お礼”に贈られた「縄張り(ばくち場)」が関東から関西まで二百二十数カ所。
> 栄五郎の子分3人が一年中、テラ銭(手数料)の集金に駆け回った。

>  ケンカをするのは簡単だが、和解するのは難しい。
> 栄五郎は「和合人」と言われ、昭和の初期「股旅もの」のヒーローだった。
> (子母沢(しもざわ)寛(かん)の小説「男の肚(はら)」などに詳しい)
0634名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/22(日) 23:14:03.88ID:Jg5Y/qS10
「唐丸籠が三丁立つ
韮崎吉野屋親子三人」

甲州韮崎で伝えられる民謡。吉野屋は博奕宿で、ここで投宿した旅人を殺して
金を奪ったが、露見して親子三人裁きの場に送られ斬られたという。
0635名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/22(日) 23:19:48.95ID:Jg5Y/qS10
事実はちょっとちがって、親の七五郎が博徒頭で旅人を殺し、
息子の豊吉が、(肉親ではあるが)それを訴えた。七五郎は文化5年、死罪。
しかし、豊吉もまた無宿・客人を何人も留めておくような親分であったため
一応「手鎖」の刑を受ける。彼が後の韮崎宿の侠客・吉野屋豊吉。
これを「三好屋」とする伝聞資料もあるが「吉野屋」が正しい。
現在も韮崎の若宮八幡前には、豊吉が奉納した大貫禄の灯籠(2m)が残っている。
0636名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/22(日) 23:24:48.24ID:Jg5Y/qS10
山本周五郎が「夜霧の半太郎」の中で故郷韮崎の博奕打ちたちのイザコザを書いているが、
登場人物がみな屋号持ちである所はいかにも「韮崎」という感じで興味深い。
韮崎は富士川舟運の拠点の一つであり、船着き場としてにぎわいを見せた。
この点が仁侠の徒の呼び名一つとっても、東部山岳地帯の吃安や勝蔵らとは違うところである。
0637名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/28(土) 07:12:24.78ID:1+9YR0WK0
>>357
だいぶ遅くなりましたが、慶応四年(辰)の上州一揆について。
この時の頭取りの博奕打ちの調べ方として有効なのは「国立公文書館」のデジタル
アーカイブス。「刑・明治・群馬県」で調べると、明治に刑罰を受けた者たちの情報が出ますので
その中に「辰年三月の一揆を先導した者」も何人か見つけることができます。
0638名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/28(土) 07:21:11.32ID:1+9YR0WK0
このうち、個人的に興味深い人物は「甲州黒駒村弥三郎」で、辰年の「民騒の時節、自分頭取ト唱エ扇動云々」とあります。
弥三郎はこの時「玉五郎」と名を改めており、いずれにせよ勝蔵一派にかつては組していた
人物と考えられます。彼はこの後捕縛されますが、破牢して、再び召捕られ死罪となります。

一揆に関しては他の人物の事も多く上げられていましたが、不覚にも弥三郎が「慶応4年の上州一揆」と関連していたことに
気づいたのがつい先ほどだったもので…他の人物に関しては資料をとってこなかったんですわ。
0639名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/30(月) 06:54:19.08ID:7E6GaL2x0
>>637-638
どうもありがとうございます。
検索したら複数の文書が上がってきて、中にはページ数が多いものもあったので
ご指摘の箇所を探し出すのに手間取ってしまいました。

どこで見かけた情報か忘れてしまったのですが、
小栗忠順が大金を運んでいると思い込み江戸から尾行していった博徒がいたとか。
この弥三郎なる人物がそれか、あるいは別人なのか、興味深く思います。

いずれまた何かわかりましたら、教えていただければ幸甚です。
0640名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/30(月) 21:21:11.15ID:Av8DVwXu0
御丁寧な返信痛み入ります。
私はPCが古いため、自宅で閲覧できず、わざわざ公文書館まで行きました。
これらの文書がPCさえ新しくすれば自宅で見ることができるのなら、すごい事ですね。

ちなみに「刑・明治・山梨」で検索すれば、黒駒勝蔵の口供書も見れる(はず)です。
すごい時代が来たものだ。
0641名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/05/30(月) 21:23:17.33ID:Av8DVwXu0
偉大な仁侠研究家の藤田五郎氏が最期に来訪したのは、武州飯能在の「小久保の林蔵」
の元だったと言う。
0642639
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2016/05/31(火) 17:55:51.93ID:ekVG2jhI0
星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』を立ち読みしたら、
小栗騒動について以下の説明がありました。

暴徒の総大将は長州浪人で金井壮助といい、
その下に本郷村出の博徒鬼金、鬼定、下駄金などがいて、
三ノ倉の全透院に本拠を構え、
「村々人数一軒に付き、一人ずつ借用仕り候。
鉄砲これあり候者は、鉄砲持参なさるべく候」
と回状を三ノ倉、水沼、岩氷、川浦の村々に廻し、世直しに加わるよう求めた。

金井は、薩摩による関東騒擾の一味と思われ、
いったん捕えられたものの、政情混乱によって出獄していたと、何かで読みました。
江戸出発時から小栗に目をつけていた博徒として、以前どこかで名前を見かけたのが
鬼金、鬼定だったと思います。下駄金は初見。
いずれにしろ黒駒村弥三郎とは別人のようですね。
0643名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/01(水) 22:16:18.66ID:icYEbMdr0
群馬県立文書館の所蔵資料に
「世直廻状(鬼定・鬼金一揆廻状)」なるものがあるようです。

差出しは「高崎領本郷村頭取諱名鬼定・鬼金」
宛先は「最寄村々」
0644名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/03(金) 00:11:04.45ID:TNtFMwn+0
二年前の夏くらいにヤフオクで、黒駒一党残党の人相書きが出品されていた。
気づいたのが出店が終わって一月ほどのことだったので、今ではあれがどこへ行ったか
わからない。多分永久にわからないだろう。「東花輪の乙吉」ともう一人が載っていた。
0645名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/05(日) 22:43:07.52ID:eKu2kALy0
埼玉県坂戸市赤尾地区の「聞き書き」の中には、さすがに林蔵の出身地だけあって
バクチウチの話が多い。

・カシモトと言ってかつて博打の代貸をしていたときに若い者を何人か置いていた。
・勝五郎という者が旅に出た留守を、後見人でサゾウという者が残って、家を守っていた。
・ある時旅人が二人来たのでそれを接待して御馳走してやった。
・ところが旅人たちはサゾウを殺しに来た者で、便所で仕度を取り変えてサゾウを斬り、土手を駈けて逃げて行った。
・家のおばあさんは、「サゾウここで死んでちゃしょうがねえ」と言って遺体を庭へ引きずっていった。(博打打ちの女房は気丈だった。)
・「畳の上で死ねねえ、それが博打打ちの死に方なんだ」とよく聞かされた。

淡々と記録されたノートなだけに中々印象深い。
0646名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/05(日) 22:50:30.04ID:eKu2kALy0
>>643
情報を有難うございます。
「諱名鬼定・鬼金」というところがなんとも期待通りといいましょうか…良いですね。
また、文書を残す位だから、それなりの教養があったんでしょう。
群馬文書館は少し遠いですが、確かに良い資料も多く、対応も親切なので機会があったら
閲覧・撮影に行ってみようと思います。
0647名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/15(水) 21:35:01.94ID:sMYK109b0
比留間一郎氏の「府中宿の893」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
は何度読んでも面白い。これはなぜなのか。
思うに学術的論文であること、仁侠研究のルポタージュであること、の両方に合格した書き物だから
だと思う。どちらか一方だけの書き物は多い。

それと、何よりも取り上げる人物を単なる対象物ではなく、丁重に敬い扱っているからだと思われる。
まさにこの分野のお手本のような作品である。
0648名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/19(日) 22:07:29.65ID:aIZnB8ke0
上州の寒梅の丹治が明治の始めになってから、旅修業の途中世話になった武州の親分として
八王子の蕎麦屋の亀吉親分、峠の健次郎親分、それと日光屋の吉蔵という三名の親分をあげている。
このうち亀吉親分は興林寺に、健次郎親分は福伝寺にそれぞれ墓石がある。
日光屋吉蔵親分は、「日光屋吉五郎」とも呼ばれたらしい。墓所は特定できないが、往時市森神社の向かい辺りに
居宅を構えていたようだ。
0649名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/06/21(火) 19:03:26.99ID:fr4bWBB00
>>241
その「小さな石」とは別のものかもしれませんが、
小野神社の近くには馬頭観音碑があるそうですね。
「馬頭観□」「安政三年丙辰四月吉日」「杉本萬平 ■■(欠損)」
ひょっとして欠損の部分が「藤三郎」だったとか?

また「短い鉈」とは
メカイ(目籠)包丁のことでしょうか。
0650名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/21(火) 23:44:55.39ID:GMgsuOtF0
清水の次郎長親分が「英語教育」に早くから目を付け、東京から英語講師を呼び
若者に習わせたという話は「末広亭」へ行った事がある人なら周知の事実だろう。

これに加えて次郎長は「女学校」設立のために大衆の面前で「演説」をしている、
という大変面白い逸話を知ることができた。
参照は昭和14年の加藤末吉氏による『教壇四十年の体験』。
0651名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/06/21(火) 23:55:13.67ID:GMgsuOtF0
たいへん味のある文章なので、そのまま抜粋する

「おめえっちゃよく来て下すった。お礼を申します。これから俺の話を聞いてくんな。
それは向横町に三毛猫があった。こっちの横町には黒猫がいた。三毛猫の飼い主は一生懸命に育てて、
ネズミの取りようを仕込んだから、近所から貰い手がたくさんあった。けんど一方の黒猫の奴は
何も構わぬものだから、ネズミをとるより、もっと手軽な魚を盗み取って皆さんから「泥棒猫」だと言われた。
人間だってそうだ。学問をさせなきゃだめだ。この清水の町にや、えい小学校は出来たが、まだ女学校が無い。
欲しいヽヽと言ったって、建てなきゃ出来ねいだ。これからの女にゃ英語でも何でも教へるがよい。
おめいっちゃどふ思う。俺の演説はこれだけだ。どなたさんも賛成でごあんしょ。」

場所は寶相寺。演説の終わりは割れんばかりの拍手喝采。実際、リベラルで先見性があって素晴らしい演説だ。
0652名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/06/21(火) 23:58:40.51ID:GMgsuOtF0
>>649
その馬頭さんが「小石」です。「藤三郎」は今ではもう読めませんね。私も
比留間一郎氏の論文によって知ったのみです。

万平の装束に関しては「講談・祐天仙之助」に拠りました。
猶、今月十日は万平親分の丁度命日でしたね。
0653649
垢版 |
2016/06/22(水) 17:53:39.48ID:7DBbyDHl0
>>652
ありがとうございます。
比留間一郎氏が論文を著した当時は、まだ判読可能だったのでしょうね。
万平地蔵などと併せて、いずれ実物を拝みに行きたいと思います。

目籠包丁は、目籠を作るための刃物で、見たところは短い鉈、
農間に目籠生産をしたこの辺りではよく使われたそうです。
講談では「めかいぼうちょう」と言ってもわかりにくいので
鉈と言い換えたのかも?と想像しました。

>>229でもお薦めの「府中宿の八九三」「古文書よりのぞいた文政年間の世相」
所蔵図書館へ行ったら閲覧するつもりです。
なお「府中宿の旅籠屋ノート」は、調べてみたところ
タイトル「府中宿の飯盛旅籠ノート」、掲載誌『府中市立郷土館紀要 第2号』、
と登録されていました。
0655名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/06/22(水) 22:27:31.84ID:MK2FM3mR0
荒生の留吉は「小川戸の留五郎」が正しい。
「近世侠義伝」によれば長差権次の子分で、胆力に優れ船幽霊を素手で叩き倒したという。
同じ長差権次の子分「風窓半次」とは犬猿の仲で会うとすぐに刃物を抜いてやりあった。
飯岡助五郎がこれを見兼ねて、間に入って和解させたが、留吉はこれを不服とし、
後年笹川繁蔵と助五郎とが闘う時、留吉は繁蔵側について、助五郎方の来襲を知らせて、
笹川側の勝利の要因を作った。
一方の半次は、終始助五郎方に付き、勢力、清瀧の襲撃の際も助五郎方として散々に戦った。
0656名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/06/22(水) 22:35:29.50ID:MK2FM3mR0
神楽獅子の大八
も、また『天保水滸伝』に登場する侠客で、
飯岡助五郎の子分の一人。相撲取りで助五郎の贔屓。元気者で人気があった。
繁蔵子分「名垂の岩松」が飯岡側の力士四人を投げ倒したが、大八はその岩松を
一突きで土俵の外へ押し出し、そこから七人を続けて投げ倒した。その後現れた勢力富五郎に土を
付けられるが、例の笹川の戦いの際には、飯田兄弟を翻弄し、繁蔵とも一騎打ちを演じた。

なんとなくキャラクターが立つのだろう。長谷川伸の『関の弥太っぺ』でも憎まれ役として登場させられてた記憶がある。
0657名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/26(日) 00:25:25.83ID:cyReymPy0
侠客展示もやった府中博物館が、話題になっているので一言。
ここの一番の問題は博物館の広さに比べて、雇っている人間が少なすぎることにあるのだ。
箱に金は懸けるが人件費はケチる。それで施設の隅々まで人の目を張り巡らすなんて出来る訳が無いだろう。

同館では、文書史料は多数あるのに、まだ目録化されていないものが夥しく存在する。
首長は、この馬鹿げた状況が当たり前だ、と思っているのだから仕方ない。
0659名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/28(火) 23:27:40.61ID:6hIjoyxa0
657は言いすぎました。
でもそういう反応をもらうと有り難いです。
私もまさにそう思っていた。国文学研究資料館は保存も良いし、原資料の閲覧もかなり
太っ腹で自由が利く、ちょっと夢の様な空間ですな。
0661名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/30(木) 00:18:30.30ID:YY6MRMTR0
大前田栄五郎には優れた子分が巨万といて、それぞれ甲乙つけがたいそうだが、
栄五郎と身近であったり、知りあう時期が速かったりといった点で計ると、
だいたい一之子分と呼ばれる人は江戸屋虎五郎、大胡の団平、それから岩崎幸松だったという。
幸松の「岩崎」は姓。出自は大前田村だから、無理に呼ぶとすれば大前田幸松となる。
始終栄五郎にくっついて旅をして、腕っぷしも気風も大したものだった。
0662名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/30(木) 00:23:15.87ID:YY6MRMTR0
ところが幸松、少しばかり気が短く、喧嘩早い。
栄五郎は42歳から、脇差の代わりに木刀を腰に差して、以降時分から「人を切れない」
ようにした。江戸屋虎五郎などはこれを聞いて、大いに得心するところがあったというが、
幸松はこれに反発し、「ヤクザは酔狂で刃物を差してるわけじゃございやせん」と言って
栄五郎の元を去った。
0663名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/30(木) 00:34:05.36ID:YY6MRMTR0
幸松は後に岡引きを切り、新島へ流罪となるが、島抜けをしようとして見つかり、
首をくくられて生涯をとじた。

さて大前田栄五郎の兄揚吉の跡目を継いで、二代目大前田揚吉(大前田一家親分)になった人物を、
本名「阿久沢祐七」と言う。
実はこの人、島抜けを失敗して死んだ幸松の一之子分だった人で、栄五郎たっての願いで、
親分の座に付いた。たとえ袂をわかっても、やはり栄五郎にとって「幸松」は
終生変わらず「可愛い子分」だったのだろう。
0664名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/06/30(木) 22:22:46.07ID:YY6MRMTR0
>>612
いまさらですが、持ってません。「水谷氏」という御方の名も初めて知りました。
時間がある時に是非必ず手にして読んでみます。
知らない情報というものは誠にありがたいものです。
0665名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/07/02(土) 09:14:18.61ID:1byHoW570
・遠州相良無宿富吉(相良ノ富五郎)人相書…嘉永5年7月14日より

 一丈ひくき方 一色白く  一まみ毛こく 
 一顔長く方  一鼻筋通り 一言舌静か
0667名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/07/03(日) 23:06:07.88ID:tLZZqDea0
相良ノ富五郎(富吉)については
村本,喜代作『遠州侠客伝』(遠州新聞社、1956)に記録があるようだ。
富吉には武州五日市出身の安五郎という子分がいた。その伝手で武州の資料に
人相書が残っている。
0668名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/07/04(月) 22:52:54.90ID:rxFwbPI30
高井戸「饅頭屋の勇次郎」は小金井小次郎の直参子分で、新聞や聞き書きに多くエピソードの残る人。
姓は鈴木で、気性は荒いがさっぱりとした好漢だったらしい。地元では不死身の男などとも呼ばれた。
ただし勇次郎は墓すら不明である。

現在新宿の追分で、銘菓として売られている「追分饅頭」は高井戸の商人が持って来た者であるという。
それが誰であるかは、本舗にも資料がないため不明とされるが、あるいは勇次郎の饅頭屋と関係があるのかもしれない。
0669名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/07/04(月) 22:59:46.93ID:rxFwbPI30
東京都三鷹市新川に「矢端一之橋、ニ之橋、三之橋」がある。よって小字は「矢端」。
小次郎一家一の知恵者「矢端の藤蔵」は、まずここの出と見てよい。
姓は高橋。残念ながらこの人も墓石不明。
近村の金石文や古文書には、少しばかり登場する。名はあるいは藤次郎が正しいかもしれない。
0671名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/07/08(金) 21:24:15.42ID:dbQOfyDv0
若松屋権次郎は十手持ちの親分。藤沢の権次郎とも呼ばれる。
小田原出生の博奕打ち「久蔵の親分」とある。

同時代(嘉永6年頃)の岡引親分らしい人々に、
海老屋次郎吉、大坂屋伝一郎、平ノ屋政八、砂川村佐一郎、らの名前があがる。
0672名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/07/13(水) 23:16:34.10ID:IWNrQOAZ0
藤沢宿の若松屋善太郎は有名な人だったようで、
藤沢市史研究36号の平野雅道氏の研究論文「幕末明治初期の藤沢宿における治安維持」(2003年)
に善太郎のことが載っている。氏が参考資料にした昭和の郷土史『現在の藤沢』によれば、
善太郎は「鬼の権次」と恐れられた南相州の大親分だったとされる。姓は三橋。

ところで平野氏は善太郎を「権次郎」とするのは誤りで、善太郎倅が権次郎であるとするが、こちらが誤り。
実際に三橋善太郎は若松屋権次郎と呼ばれたことが史料上確認できる。
0673名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/07/15(金) 03:26:34.32ID:AACXlDVD0
35 名前: 専守防衛さん(奈良県) 本日のレス 投稿日:2007/12/23(日) 11:02:54.74 ld80Uwlf0
昔 甥っ子に年賀状で マジレンジャーの写真を印刷して
「マジレンジャー オレンジ募集っ!!!!
 君のところに 迎えに行くよっ!」って 全部 平仮名でかいて送ったら


押入れから出てこないって その親から電話があった。
0675名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/07/15(金) 23:34:52.66ID:TwhN2fEY0
高橋敏は歴史学者(つまり識者)として初めて任侠の徒を扱ったとしているが、
それ以前にも十分実証的に任侠の徒を扱った人たちはいた。一応名を上げれば

・三田村鳶魚
・戸羽山瀚
・白柳秀湖
・尾佐竹猛(おさたけたけき)
・長谷川伸
・増田智哉
・子母澤寛
・村松梢風
・竹内勇太郎
・中沢正
・藤田五郎
・松尾四朗
・今川徳三
・植田憲詞
・村本喜与作
・相川春吉

といったところじゃないだろうか。(何人か漏れていると思うが、他にいたら書きこんで下さい。)
06771/3
垢版 |
2016/07/17(日) 19:30:02.79ID:cUR54smB0
日野の八五郎と良助が、天保10年8月26日、御用で呼び出され出向く途中、
谷保天満宮祭礼に寄り道して、村の若者たちと喧嘩騒ぎを起こした事件は
このスレでも既出だが、ふたりを診察した医者の診断書控えが残っている。

良助は、頭頂と右鬢に打撲裂傷1箇所ずつ、左上腕に擦過傷1箇所、
右肘前後に打撲による腫れ3箇所、左膝下に擦過傷1箇所。
意識はしっかりしており、脈拍・食欲の異常はみられない。
清下湯(煎じ薬らしいが効能不明)を処方し、傷には金瘡膏をつけ、
擦過傷・打撲傷は湿布薬で手当てした。
06782/3
垢版 |
2016/07/17(日) 19:30:51.54ID:cUR54smB0
もう一人の負傷者(明記がないが八五郎と思われ)は、
頭頂に打撲裂傷が3箇所、左肩に打撲による腫れが1箇所、右腕に擦過傷4箇所。
失神しており、やがて意識を回復したが、
負傷箇所はもちろんあちこちが痛み、身動きもつらいと本人が言う。
食欲や排泄には問題ないので、口支伏令丸(桂枝茯苓丸か)を処方し、
金瘡膏と湿布薬で手当をした。

2日後、4日後にも、医師による経過報告がなされている。
06793/3
垢版 |
2016/07/17(日) 19:32:53.34ID:cUR54smB0
なお、この騒動は傷害事件として
谷保天満宮の別当安楽寺から寛永寺へ検使願いが出され、
上谷保村から山本大膳代官所へ
日野宿から江川太郎左衛門代官所へ
関東取締出役から勘定奉行へ、それぞれ報告書や伺書が提出されるなど、
よくある喧嘩沙汰が発端にしてはずいぶんな大事になってしまった。

喧嘩相手約30人のうち、主な4名が逮捕されて村預けとなったが、
その程度ですんだのは八五郎と良助の怪我が全快し、
後遺症もなかったためと思われる。
0680名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/07/18(月) 22:34:13.65ID:q/vbnUcD0
私は多摩地域の警吏・博奕打ちの史料を、かなり細かいところまで押さえているつもりだった
のだけど…677、678、679は未知の話だった…
0683名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/07/22(金) 16:44:38.73ID:rt5/JOQE0
俺はなんてばかなんだろう…
増田智哉氏ではなく、
増田知哉氏がただしい。

本当に失礼しました。
0684名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/03(水) 01:19:12.84ID:IwvOB2A40
>>664
水谷藤博氏 長谷川昇教授と関わりが強かった方のようです。
長谷川教授が主宰していた「東海近代史研究」という雑誌で博徒に関する論文をいくつか発表されています。
高神山や黒田屋祐造について、明治十七年の博徒大刈り込みや小政の判決文、
久六や亀吉などの相撲取りあがりの博徒についてや原田常吉についてなどを書かれています。

長谷川教授も水谷氏の研究にかなり期待をしていたようですが、
残念ながら比較的はやくお亡くなりになってしまったようです。
0685名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/03(水) 01:46:13.01ID:IwvOB2A40
>>382
江尻の大熊
実は「大熊」ではなく清水魚町の熊五郎で「魚熊」らしいことを以前何かで読みました。
10年以上前、時間がない中でさっと目を通しただけの記憶で本の題名も覚えていませが、
公刊はされていない本で「魚熊」の戒名ものっていたような記憶があります。

次郎長が「うおくま」と言っていたのが、訛りが強くて愚庵には「おおくま」と
聞こえてそれを「東海遊侠伝」に書いたのかな?なんと思いましたが、
「安東文吉基本史料」にも「大熊」となっているようなので、
「大熊」で間違いないのかもしれません。

いずれにしても「東海遊侠伝」で中盤までは主要な人物の一人なのに
その後が全く伝わっていない不思議な人物ですね。
0686名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/03(水) 02:10:08.47ID:IwvOB2A40
>>675
中沢正氏の「考証 東海遊侠伝」。
他の本にはない興味深い内容がいくつも載っています。
ただ、驚くほど誤字・脱字が多い。
他の本の引用のはずが、著者の言葉になってしまっていたりもする。

いったいどんな人間が編集に携わればこんな本が出来上がってしまうのか?
著者が気の毒でなりません。
引用に関しては、後日、中沢氏は「清水次郎長伝 博徒の虚像と実像」
の著者、佐橋法龍氏に謝罪に行ったというエピソードがあります。
0687名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/03(水) 06:05:30.92ID:cmTHXxzy0
>>684-686
極めて貴重なお話、御教示ありがとうございます。
とくに「魚熊」の話は興味深く読ませていただきました。

「東海近代史研究」のような素晴らしい研究雑誌はもっと世に知られていいはずのものですね。
0688名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/03(水) 07:10:09.27ID:cmTHXxzy0
任侠の史料探求をしている際に、資料館や博物館でこれを言う人だけは信用できないという言葉に
「ああいう方たちの活動はなかなか史料に残らないですから」というのがある。

それはうそだ。村落や市居の人々より、はるかに彼らの活動は資料に残っている。見つからないのは
探していないからだ。
0689名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/03(水) 22:26:59.97ID:p3NThsW10
旦那方のように見る目を持った御仁でなけりゃ
せっかく史料を見ても気づかなかったりするんでさ
0690名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/03(水) 22:35:17.64ID:cmTHXxzy0
>>684
「東海近代史研究」の水谷藤博氏の論文を読みました。
どれも「素晴らしい」としか言いようがない。
特に最後の原田常吉の論文に至っては、常吉氏の人間性を
余すことなく伝えており、それをもって真の遊侠の姿を堂々と示している。
原田常吉。侠客としてはこの人が最上位なんじゃないだろうか、そう思わせる程の
名論文です。

今まで水谷氏の御論文を読まずに来たことが恥ずかしいです。
0691名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/10(水) 01:00:46.61ID:+/vSwBBr0
>>687
土地に詳しくないので詳細は分かりませんが、
清水魚町ではなく、正しくは江尻魚町なのかもしれません。

清水次郎長の最初の旅に同行したもう一人、庵原の広吉も東海遊侠伝では
その後名前は出てきませんが、駿州秋葉権現の高市を取り仕切った人物として
「清水一家 庵原広吉」との記述が戸羽山瀚 調べとして「やくざ考」にあります。

>>688
言われるまで、そんなものかと思ってしまっていましたが、確かにそうですね。
自分達で残した記録は少なくても、記録を残されることは多かったはずですね。
0692名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/10(水) 01:18:04.75ID:+/vSwBBr0
>>690
まさに「侠客 原田常吉」ですね。
後年作られた人物像ではなく、投獄されている監獄の看守が
減刑嘆願をしたくなるほどの博徒。
「東海近代史研究」とともにもっと世に知られているべき侠客だと思います。
06931/2
垢版 |
2016/08/18(木) 17:14:29.87ID:ePO2RJHI0
>>194
すでにこのスレをご覧になっていないかもしれませんが、
ひとまずわかったことを報告いたします。

40年ほど前に地元の人が書いた話
・小金井小次郎の身内で、名高い博徒
・義人と伝わっている
・近藤勇と剣術を通じて親しかった
・近藤が新政府軍に追われて江戸を去る時、彼に記念の品物を渡した
・その記念品は子孫宅に今も伝わっている

近年墓所を調査した人の話
・墓誌に「昭和24年2月27日 俗名長兵衛 行年96歳」とあるのが本人らしい
06942/2
垢版 |
2016/08/18(木) 17:16:16.54ID:ePO2RJHI0
墓所を調査した人が現在の子孫から聞き取った話
・屋号が「桶屋」だった
・長兵衛は96歳で亡くなった
・剣が強く、侠客のようだった
・近藤勇の記念品については、実物も情報もまったく伝わっていない

こちらでも調べてみましたが、
近藤勇の周辺には長兵衛の存在を確認できずにおります。
没年から逆算すると生年は嘉永5〜6年と考えられ、
慶応4年当時は15歳くらい、ということになるでしょう。
近藤勇や小金井小次郎と親しく交流するにはいささか若すぎる気もしますが、
可能性ゼロとは言い切れません。

以上、お粗末ながら報告とさせていただきます。
0695名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/18(木) 22:05:58.33ID:q3E+3NdM0
結句、ここで質問されたにもかかわらず、
私も桶屋長兵衛のことが皆目わからなかったので、大変興味深い報告です。
有難うございます。

「地元の人が書いた話」とありますが、是非著書名を教えていただけないでしょうか。
無理なお願い申し訳ありません。
0696名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/18(木) 22:47:04.70ID:q3E+3NdM0
ところで上で「堀越の藤左衛門」について、大正時代の『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』という本を参照に
「姓・塚元」と書きこんだが、今回現地へ行ってお参りしてきたところ、墓石には「山口藤三郎」とある。
袋井市北公民館活動文化部作成の『ふるさと物語』には、この山口藤三郎の名で、戸籍まで載っているので
信用していいだろう。
といって『侠客の戸籍調べ ・花も実もある』が間違っているとも言いきれない。何しろ藤左衛門の出自について、地元でも知らぬ情報を
詳しく載せてもいる。塚元と山口、何れが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、現時点で私には判断がつかない。
0697名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/18(木) 22:59:58.34ID:q3E+3NdM0
同様に山梨ノ巳之助についても、生半可な知識で上に記したことが悔やまれる。
彼は紛れもなく一時は遠州一の親分だったようだ。子分には上記の堀越藤左衛門をはじめ、
森ノ五郎、四角山周吉、それに大和田の友蔵もそうだった。
人足の頭を務めていたとも、興行師の帳元だったとも言うが、いずれにせよ、悪くない親分だったという。
ただし侠客としての目立った逸話はこの人には無い。この点、小金井小次郎の親分(兄貴分とも)の藤屋万吉と似ているともいえるだろう。
「首実検」をした、というのはどうやら事実だったらしく、といってもやむにやまれずやったようだが、
いずれ安東文吉に目を付けられ、一家を解散させられたらしい。
0698名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/18(木) 23:09:01.69ID:q3E+3NdM0
捕まって八丈島へ島流しとなるに及び、船から逃げて捕らえられ、鈴が森で首を切られた
とのことだ。万延元年九月十一日が命日で、現在袋井市山梨の用福寺(三筆の一人、橘逸勢の墓所)
に無縁の墓石がある。姓は松井。

神谷昌志の『遠州の史話』(静岡新聞社、H2年)
また雑誌「東海展望」にある「遠州侠客伝」(1982、9月)などが参考になる文献である。

ものによっては大前田栄五郎の兄弟分だったとも言うが真偽のほどはわからない。
0699名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/19(金) 18:51:19.91ID:5SThZR+f0
>>695
実は私も該当部分のコピーを見ただけなのですが、
出版物というより、内部で回覧もしくは配布された資料のように見受けられます。
曖昧な答えで申し訳ありません。
0700名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/19(金) 21:48:41.10ID:Ixaglaik0
>>699
なるほどそういう資料ってありますよね。それだけに普通目につかない人の話が
話題にあがっただけでもありがたいです。
御返信誠に有難うございました!
0702名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/22(月) 19:47:45.37ID:/DcWA7Ft0
初めから山口組に行きつくように書こうという意図が見え見えの文章ですが、
猪野健治さんの名前を出しているから、素直に一読する価値がありますね。
身体張って取材している姿勢は、やっぱり物凄いものがあります。
0703名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/22(月) 20:06:43.96ID:/DcWA7Ft0
大和田の友蔵は上にも書いたように、遠州一の親分山梨ノ巳之助の下について御機嫌伺いをしていたらしく、巳之助も友蔵のことを可愛がっていた。
ところが巳之助の用心棒格に「竹」という暴れ者がいて、これと友蔵の子分の藤五郎とが揉めた。
藤五郎は温厚な人だったらしいが、竹が執拗に絡んできたため、ある日とうとう賭場から追いだすという仕打ちに打って出た。

これを恨んだ竹は藤五郎の家に行き、「藤五郎を出せ」と女房のやすに凄んだ。藤五郎は二階で寝ていたが、やすは事を察し、
「亭主は留守にしている」とウソをついた。ところが竹はそのまま土足で階段を上がり始め、これに狼狽したやすは夫の長脇差で、思わず下から
竹を突き刺し殺してしまう。
0704名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/22(月) 20:15:18.15ID:/DcWA7Ft0
友蔵は、自分の子分が巳之助の身内を殺してしまったことに慌て、何はともあれ藤五郎を逃がし、
其の上で巳之助に事を詫びに行った。ところが好々爺の巳之助と世間話をしている内に、ついに言葉がでず、
長時間を費やしてしまったところで、巳之助の居候・相撲上がりの四角山周吉が突然巳之助に事の真実を告げた。
巳之助は火の様に怒り、友蔵を攻め、すぐに藤五郎の探索に子分を向かわせるが、既に逃げた後。
友蔵は平謝りに謝ると共に、藤五郎が上手く逃げたことに胸をなでおろした。

ところが、常々友蔵を嫌っていた四角山周吉は執念深く藤五郎を追いかけ、二三日の後、とうとう隠れ家を突き止め、
藤五郎の首を取ってしまった。
0705名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/22(月) 20:27:40.78ID:/DcWA7Ft0
四角山は藤五郎の首を持ち帰り、親分巳之助に「首実検」するように願い出た。
さすがにこの申し出に、堀越藤左衛門や、森之五郎は大反対するが、巳之助も年をとり耄碌していたのか、
とうとう一家で場を立て、これを行う事に決めた。

ここに至って友蔵は巳之助と全面から闘う腹を決める。友蔵は藤五郎の妻やすを安東文吉の所へ遣り、事の次第を話し、助力を要請した。
「首実検」の話を聞いた文吉は即座に柳新田の政蔵、安西の吉五郎に一団を率いさせ、掛川へと向かわせ、巳之助の用意していた一団を打ち破り、
とうとう巳之助をお縄にする。(後は上述の通り)
ちなみにこの時、巳之助勢の中に四角山は既におらず、一早く逃げた後だった。(四角山は後に堀越藤左衛門に斬られる。)
0706名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/28(日) 16:54:39.44ID:Bvt88FhE0
田中啓文の上方行ったり来たり
「八百八橋」のはっけんや?
http://mainichi.jp/articles/20160827/ddf/012/070/008000c

> 三十石船は京の伏見と大坂を結ぶ客船で、鉄道のない当時は大いに利用され、夜中も運行されていた。
> 八軒家、そして三十石船といえば、なんといっても広沢虎造の「石松三十石舟道中」だ。

> 「飲みねえ、すしを食いねえ。江戸っ子だってねえ」
> 「神田の生まれよ」

> というやつだ。あの浪曲のなかで石松と客はすしを食べるが、
> 映画などではなぜか巻きずしになっていることが多い。
> でも、実は「押しずし」なのである。レコードを聴くと、

> 「大坂の八軒家から船に乗る。(中略)
> よけいなお宝払って、胴の間のところ畳一畳ばかり買い切って(中略)
> 大坂本町橋の名物押しずしを脇へ置いて……」

> と、ちゃんと言っている。
0707名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/30(火) 22:09:13.08ID:7t6z9mKh0
こないだ末広亭へいったら神田鯉栄さんが黒駒勝蔵と清水次郎長関連の
講談をやってて、嬉しかったなあ
0708名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/30(火) 22:41:55.42ID:7t6z9mKh0
静岡県立図書館へ行ったら、『安東文吉伝史料集』と共に
『実説次郎長物語』(S14 河原井喜久雄)を見てくるべきだった。
今さら気づいても、もう遅い。
0709名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/31(水) 22:21:02.10ID:BZOmoIXv0
先般から同じような話題で恐縮だが、山梨ノ巳之助親分。ものの本に「万延元年九月十一日」
が命日だとされている。しかしこのことは墓石にも過去帳にも記されていない。

ここで、興味深いのは近藤富蔵の『八丈実記』。万延元年の流人の項に
「無宿 巳之助」「万延元年庚申年四月流罪 万延元年庚申年十月十一日島抜露顕 同月廿三日病死」
とあることだ。
種々符合する点があるので、この人が、まず巳之助本人と見て間違いなかろう。
おそらく伝承に言う「九月」は誤りで、「十月」が正しく、それは島抜けが露見した日にちのことなのだろう。
そして二十三日に「病死」とあるが、これはあるいは処刑をはばかってのことなのかもしれない。
0710名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/08/31(水) 22:44:41.92ID:BZOmoIXv0
八丈島流人となった高名な仁侠には
甲州、津向の文吉
武州、小川の幸八
江戸、小堀茂三郎
らがいる。黒須の大五郎も八丈出自というが、どうも実態は父黒須の庄吉が八丈流罪中に
武州黒須村(または八丈)で生まれたことに由来するようだ。ちなみに幼名は「島之助」。
0711名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/31(水) 23:42:16.15ID:BZOmoIXv0
博奕打ちが「刺青」をしていたか、が最近話題になっているようだ。
そんなことは完全に個人の主義に拠るんだろうが、一応参考になるものを上げてみよう。

草加宿無宿入墨 長吉
一、年三十一才 一、顔丸く色浅黒し 一、眉毛薄く眼ほそし 一、言葉少々ともり、鼻ひくき候方
一、背中に将軍太郎之彫者之彫懸ケ有之

長吉は嘉永6年6月8日、竹居の吃安と共に新島を逃走した面子の一人。
人相書にあるとおり「将軍太郎」の彫り物(それも彫りかけ)があったことがこれでわかる。
0712名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/03(土) 01:08:23.09ID:fS2MZa1G0
関東大震災の起きた時、各地で「自警団」が朝鮮出自の人々をリンチした際に、
佃政一家が、命がけで迫害に会う朝鮮の人々を匿ったという事実が一日の東京新聞に出ていた。
「お前は日本人なのか」と暴徒に揶揄されるも一向動じず、弱い立場の人々を、
頑として守りぬいた。
こういう事実はもっと知られていいものだろう。
0713名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/09/04(日) 13:17:42.28ID:6AS8b0Aa0
>>780
平岡正明氏が安東文吉伝史料集について著書の中で
「公刊したいと思っている」というようなことを書いていたのでかなり期待していたのですが、
残念ながらすでに故人のようです。
もっとも、ご存命であっても図書館が許可したかはわかりませんが。
それに、現地に行かなければ閲覧できない価値、というものも大事かもしれませんね。
0714名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/04(日) 14:14:44.51ID:6AS8b0Aa0
713は、>>708の間違いでした。失礼しました。

>>710
「東海遊侠伝」には津向の文吉が八丈島から連れ帰って次郎長に託した子供として
島小僧の喜代造という子分が出てきますが、初登場は石松が殺害された直後、
次郎長一行が本沢の為五郎宅に行った時。
何かの著書でも指摘されていましたが、石松殺害が万延元年、文吉の赦免が明治ですから
年代がまったく合いません。
その時の一行に喜代造がいたのが間違いなのか、文吉の子供というのが間違なのか。
愚庵さんならつじつまが合わないことは分かっていたように思えますが…。

喜代造は次郎長の伊勢の兄弟分、小俣の周太郎の跡目を継いだそうですね。
0715名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/04(日) 14:47:00.89ID:6AS8b0Aa0
>>709
山梨の巳之助が死亡したのが万延元年ということは、>>556
清水一家に都田一家との和解をすすめようとした関東の巳之助が
山梨の巳之助と同一人物ということはないですね。

関東の巳之助という親分が実在したのか、
次郎長を大きく見せるために、巳之助という大親分の和解勧告を一蹴したという話を作ったが、
ちょっと気が引けて関東の巳之助という人物を創作したか、などなど
事実は分かりませんが、いろいろ想像できて面白いですね。
0716名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/05(月) 00:11:05.92ID:0vQC2SH/0
次郎長の敵役を三人あげるとすれば、まず穂北の久六、次いで都田吉兵衛、最後に黒駒勝蔵ということになるでしょう。
この都田吉兵衛も『東海遊侠伝』では森の石松の香典を横取りしたことをきっかけに、
次郎長に倒されるという散々な役どころを与えられているけども、
事実はどうも違って、国を売って長旅に出た相良の富五郎の跡地をめぐって、次郎長と吉兵衛とが争い、
その際に吉兵衛が倒されたという説の方が本当のような気がします。

ここで興味深いのは戸羽山瀚先生が紹介している、江戸屋虎五郎から大場の久八へ送った手紙の存在です。
手紙では三州鳳来寺で「都田一家」と「誰か」の手打ちを久八が務めた、としており、それに虎五郎が随分感謝している
という内容なのです。
0717名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/05(月) 00:21:42.02ID:0vQC2SH/0
御手紙啓上仕候、甚寒之砌ニ御座候得ども、各様方御身内衆御一統様御機嫌克御座被遊
珍重之御儀ニ奉存候、随而下拙儀無事ニ罷在候間御安意思召被下候、然者都田一條之儀ニ付
御心配御厚情ニ相成、尚又当十月中鳳来寺ニおいて和談内済御取結被下、親元右衛門並ニ
下拙身内一統之者難有仕合ニ奉存候、何卒御身内様方江、宜敷御伝言可被下候如々偏ニ、
奉願上候、先者拝顔之節万端御礼旁々可申述候、以上
                         江戸屋虎五郎
卯十二月十六日 大場久八様
0718名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/05(月) 00:28:14.10ID:0vQC2SH/0
戸羽山先生は「元右衛門」を次郎長の親の「雲不見三右衛門」のこととしている。
更に「卯」を安政二年と見ている。
そうなると安政二年から次郎長と都田一家が抗争していたことになるけれど、
これは本当か?とも思えてくる。更に江戸屋はこのスレの上にも上げたように吉兵衛の父
都田源八を斬ったとされる人物でもあるので、ますます訳がわからなくなる。
ただし、「大場久八」とあるので、手紙の作成年が「嘉永六年」以降であることは
間違いない。
0719名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/05(月) 21:18:48.84ID:0vQC2SH/0
ちょっと落ち着いて、あらためて考えてみると、やはり717の手紙は、
故・都田源八一家と江戸屋虎五郎の間を大場久八が取り持ったとのものかもしれない。
「親元右衛門」が誰を指すのかが分からなくなるが、安政二年まで両者の怨恨が持ちこされた
とは考えられる。

715で「関東の巳之助」なる人物を架空の人物と見るのは、意外に慧眼かもしれぬ。
あるいは「大前田」あたりの可能性もあるのではないだろうか。
0720名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/06(火) 01:07:28.28ID:fHwLok5w0
>>717
貴重な史料、大変興味深く読ませていただきました。
私も次郎長はからめずに、江戸屋虎五郎と都田一家の間を大場久八が取り持った、
という印象をこの手紙から受けました。

その頃の卯年だと天保14年(1843年)、安政2年(1855年)、慶応3年(1867年)ですね。
都田の源八が殺害されたのが天保10年(「遠州侠客伝」この説では殺害したのは信州の南和田の伊之助という博徒)
だとすると、手打ちが天保14年ということも十分に考えられると思います。

次郎長が関わっているとすれば、安政の初期頃に原田常吉と賭場荒らしなどをして暴れまわっていたようなので
そのうちに都田一家の賭場も荒らして、その後安政2年に大場の久八の仲裁で都田一家と和解、
ということも考えられなくはないと思います。
ただ、やはりそうだとしてもなぜ江戸屋虎五郎が出てくるのかがわかりませんね。
0721名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/10(土) 16:46:41.09ID:9+jcoYt60
アウトロー 近世遊侠列伝

著者:高橋敏(編著)
発売日:2016/09/30
出版社: 敬文舎
ISBN:978-4-906822-73-7

歴史学が博徒たちに殴りこみ!! いま、ふたたびよみがえる侠客たち。
かれらの実像に、新史料をもとに迫る!!

登場人物
国定忠治、竹居安五郎、勢力富五郎、小金井小次郎、黒駒勝蔵、
吉良仁吉、西保周太郎、佐原喜三郎、西原村幸次郎、小川幸蔵、原田常吉

・各博徒の生い立ちや死没理由、仲間や抗争相手など、調べ書を掲載。
・博徒の勢力範囲を地図で示す。
・幕末・明治年表付き。
0723名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/15(木) 22:22:37.00ID:XNOrRhoR0
なるほど
昭和・平成まで生き抜いた、とある仁侠の徒が
サマセット・モームの『月と6ペンス』を好きだったというのは無性に納得する。

ストリックランドにしてもアシェンデン(=モーム)にしても生粋のアウトローであるのだから。
0724名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/15(木) 22:53:29.20ID:XNOrRhoR0
小川幸蔵(武州小川村=現・東京都小平市)の父は小川幸八と言い、武闘派の博徒である。
宗旨人別帳のよれば文化八年に「八歳」とあるから、享和3年(1803)の生まれとなる。
小金井小次郎よりも15歳年長ということになる。
ちなみに小次郎は文政元年(1818)、小川幸蔵は天保2年(1831)の生まれ。
0725名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/15(木) 23:02:12.01ID:XNOrRhoR0
幸八は小次郎の敵役として「小次郎伝」では描かれ、天保11年の二つ塚の喧嘩で
小次郎と争ってお上に召捕られたという話になっているが、実際は天保15年、所沢無宿鉄五郎、
田無無宿岩五郎、久米川無宿増五郎らと出入りを起こし、その科で捕まり、八丈に流された。
万延元年十月十一日、流刑人70人余りを率いて暴動を起こし、名主平吉を殺すが、翌日鎮圧され
幸八は自ら喉を突き自殺した。
0726名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/15(木) 23:07:41.56ID:XNOrRhoR0
見逃せない点は「万延元年十月十一日」に暴動を起こし、翌日死んでいるという事実である。
これは上に出た山梨の巳之助の死亡日と一致している。
つまるところ、この日、八丈島において、博奕打ちと島役人との闘争が起き、一揆勢は全滅した
ということなのだろう。この事件の詳細はわからぬが、おそらく巳之助と幸八とは何らかの面識があったろう。
そして、この同じ八丈島流人の津向文吉は、この騒動を目の当たりにしたにちがいない。

文吉が帰国後、「あまり島での生活を人に語りたくない」と言ったことの理由も、
何となくわかるような気がする。
0727名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/16(金) 23:48:29.44ID:LVJFtviu0
講談の祐天吉松と祐天仙之助とは、全く関係が無い。前者は徳川家光時代に強力な法力を使い、
魔物を封じた祐天上人の刺青を彫っていたという設定の講談上の人物。
一方後者は甲府古府中生まれの実在人物、山本仙之助のこと。
仙之助の正確な法名は「由天」だが、元俗後は自分で「勇天」と名乗った。
0728名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/24(土) 21:04:43.51ID:knTBS9wP0
>>726
万延元年10月の暴動は、凶作による食糧難が原因らしいですね。
ある博徒の死亡年月日と、交わりがなさそうな博徒の死亡年月
そしてその時に起きた事件を結びつける推察力、すごいですね。

ご存知かもしれませんが、暴動について触れています。
http://d-wise.org/b9905/hatijyou.pdf

確かにこの時、津向の文吉がどうしていたかが気になります。
血なまぐさい事件を起こす博徒とは一線を画する親分、
なんて勝手なイメージを持っていますが
実際は博徒になるような人物。
率先して暴動を起こしたり、島抜けを画策してもおかしくありません。
しかし、全ての流人が暴動に加わっていたわけではなく、
上記リンクにも、急を島民に告げていた流人がいたことが書かれています。
文吉は島で嫁さんをもらうことを許されていたようですから、島民側の人間
あるいは、買い被った見方をすると暴動をいさめたり鎮圧する側の人間だったことも考えられます。
0729名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/28(水) 17:52:13.84ID:87e2iy7F0
>>728
ただの酒飲みが放言しているだけの書きこみです。慣れないお誉めの言葉をもらうとは恐縮の至りです。
リンク先の情報ははじめて知りました。有難うございます。
0730名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/28(水) 18:07:12.16ID:87e2iy7F0
この時、「名主の親の口の中に出刃庖丁を突き刺した」というのが小川幸八だという。
幸八の事は古文書類にしか残っていないが、小平市小川の小川寺には、幸八が建立した親の墓石が在る。
そこに施主で刻まれた「幸八」(姓は伏す。すぐわかるだろうが)の字は、古い割にはなんだかとてもくっきり見えるのだ。

ちなみに倅・幸蔵の墓は、弟の梅五郎と二人の戒名が刻まれてる。男ばかり二人の墓というのもめずらしい。
梅五郎は富士川で黒駒に加勢して、次郎長と戦ったというが、本当かどうかは定かでない。
0731名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/29(木) 01:55:34.78ID:fSbfA2Bk0
>>517
今更ながらのお尋ねで申し訳ないのですが、
『鈴木藤助日記』にて「百村あたりの博奕打ち集団」「東禅寺には香具師の惣代」の
情報をご覧になったのでしょうか?
探してみたのですが、どうしても見つかりませんでした。
また、鈴木藤助日記研究会の方と会う機会があったので
質問してみたところ、心当たりがないという返答でした。

お差し支えなかったら、何年何月もしくは何巻何頁かご教示願えませんでしょうか?
0732名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/29(木) 17:44:29.25ID:4S4Yl96b0
喜んでお答えします!

と言おうと思ったんですが…自分の持ってる資料郡の中に「百村の博徒云々」の記録が容易に見つかんない。
でも慥に見た覚えがあるので、ちょっと探します。必ず見つけてご報告します。
ごめんなさい。
東禅寺の方から先に。(しかもこれも「東禅寺」ではなく「王禅寺」ですね…)

昭和45年の『稲毛郷土史』(稲毛郷土史刊行会、伊藤葦天)の213頁
「王禅寺の清吉と香具師の古文書」の項が参考資料です。

とにかく、もう一つの方早いうちに探します。
0733名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/30(金) 00:34:03.60ID:tKKkSX9K0
>>732
レスありがとうございます。

「王禅寺の香具師」は
『鈴木藤助日記』ではなくて『稲毛郷土史』が典拠だったのですね。
それなら鈴木藤助日記研究会の方に心当たりがないといわれたのも
当然かと納得がいきました。

「百村の博徒」のほうもお待ちしております。
お手数をかけて恐れ入ります。
0734名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/03(月) 00:17:40.97ID:BNG0MoUW0
おそまきながら『玉村日記』(「三右衛門日記」)を初めて読んだ。
角万の佐十郎、福田屋栄次郎、高瀬仙右衛門をはじめ、博奕打ちでは大前田栄五郎、
国定忠治、大前田幸松など多くの史実がわかって興奮した。
若干翻刻に誤りががあるが、全体として素晴らしい記録。
0736名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/04(火) 11:05:06.03ID:zokfeeW+0
216 関東の吉五郎の墓所を教えて下さい
  一度 墓参したいです
0737名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/06(木) 18:14:49.03ID:ODwaCzB80
『自由民権運動 <デモクラシー>の夢と挫折』=松沢裕作・著
http://mainichi.jp/articles/20160911/ddm/015/070/008000c

> 明治の自由民権運動も戊辰(ぼしん)戦争という
> 「二百数十年ぶりの全国的軍事動員」により、
> 江戸時代の身分制秩序が揺るがされて起きた
> 「戊辰戦後デモクラシー」だった。

> ただし自由民権運動は、今の「デモクラシー」イメージでは捉えにくい。
> 出発点には、戊辰戦争の勝者として「しかるべき処遇を求め」、
> 得られない不満から運動を起こした人々が存在した。
> 中にはかつての武士もいれば都市下層民も博徒もいた。
0738名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/06(木) 18:22:32.88ID:ODwaCzB80
【著者に訊け】土橋章宏氏 『駄犬道中おかげ参り』
https://news.nifty.com/article/item/neta/12180-451215/

> 60年に1度のおかげ年にあたる天保元年、
> 一匹狼の博徒〈辰五郎〉の長屋でもなけなしの金を積み立て、
> 参拝者を籤引きで決めようとしていた。
> 賭場の借金が元で香具師の親分〈赤布の甚右衛門〉に追われる彼は
> それどころではなかったが、なぜかこういう時に限って残り籤が当たりを引くのだ。

> 辰五郎の弱点は、博徒の職業病〈痔〉だ。


↑「博徒の職業病」ってマジか!?
0739名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/12(水) 22:39:10.57ID:+LdCjjhd0
小金井小次郎の兄貴は宗旨人別帳によれば寅之助。最近では寅吉の名でも確認される。
酒飲みの博奕好きということは諸史料で明らかだ。
この寅之助、別名に「勘治」とも呼ばれたのではないかと思う。ないしは勘左衛門。
これは父と同じ名だ。
0740名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/15(土) 23:32:01.94ID:ZSbIaFsl0
>>731
ようやく百村博徒の記録を再確認しましたが、だいぶ謝らなければなりません。
まず『藤助日記』ではありませんでした。これは私の完全な記憶違いです。
本当の史料は『小島日記』文久四年の三月八日条「百村・関・砂川辺之博徒を火方ヨリ手を入岡引共帳切張候由也」
の部分でした。
本当申し訳ありません。
0741名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/16(日) 00:47:18.39ID:Xt4VYguA0
>>740
ご回答どうもありがとうございます。
『鈴木藤助日記』全6巻のページをあちこち繰ってもそれらしい記述がなく、
鈴木藤助日記研究会の方に尋ねても心当たりがないと言われて、
悩んだあげく質問させていただきましたが、おかげさまで疑問が氷解しました。
当該の記述は『小島日記』で確認できました。

私が知るかぎり『鈴木藤助日記』には、具体的な地名や
博徒らしき人物の名を挙げて博奕に触れた記述はなかったと思います。
藤助が自分の息子に「博奕には手を出すな」と
釘を刺しているらしい話は見受けられましたが。
0742名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/16(日) 07:21:50.24ID:zVogia2m0
早朝失礼
史料はコピー派なので、再確認の意味もあって御質問は大変有り難かったです。
どこに撮ったかわからなくなるもんで。

『鈴木藤助日記』の中にバクチ打の記事が一カ所だけあるので、書き付けの意味も込めて一応上げておきます。
慶応2年の6月4日「大谷増ト申者バクチ打両三人ニて郡次郎内二ててうちやく致し候由二御座候」
の部分です。大谷増がバクチ打なのか、それとも打擲された住民なのか、読みづらいところです。郡次郎内というのも
自分にはわからんです。
何かわかるところがあれば是非教えてください。いずれにせよ誤った記憶を得意げに書きこんで
私は恥ずかしいかぎりです。
0743名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/16(日) 18:56:20.37ID:Xt4VYguA0
>>742
「郡次郎」は、近村(おそらく平村)の住民です。

「大谷増」は「大谷」が地名、「増」が人名(略称)かと推測します。
「大谷」は長尾村内の地名で、頻繁に行き来がある地域なので、
藤助は地域の事情を熟知しているはずですが、
その彼に心当たりがないらしいのは何故か、不可解です。
その情報をもたらしたのは「大谷」に近い「台」の住民・おす賀の様子なので、
藤助が「大谷増とは何者?」と思ったならおす賀に尋ねればよさそうなものですが、
聞きそびれたのか、おす賀もよく知らなかったのか……。
そのほか単なる誤伝、当該人物が変名を使ったなどの可能性も考えられ、
材料が乏しくなんとも判断しかねます。
0744名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/18(火) 23:35:03.33ID:PjUAQKtR0
御丁寧な解説痛み入ります。
ついでと言っては何ですが同日記慶応4年5月6日に彰義隊の隊士で
身の丈6尺の豪傑が一人で海軍18人と戦い、目覚ましい働きをした、
という部分があります。
侠客とはちとずれますが、この豪傑の姓名等は判明しているのでしょうか。
御存じでしたら何卒ご教示ください。
0745名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/18(火) 23:41:49.52ID:PjUAQKtR0
竹居の吃安事安五郎親分が
捕縛された日は、文久2年の2月17日。

これを文久元年の冬とする説が多いが、こちらは誤り。
なお亡くなった日は文久2年10月6日。子分の初鹿野の美勇が遺体を受け取って
接慶院に埋葬した。
0746名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/20(木) 13:53:26.01ID:N7oQQVa/0
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl
0747名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/21(金) 01:01:04.22ID:sRCjh0Zu0
>>744
生憎と寡聞にして存じません。
何か情報が得られましたらご教示いただきたいほどです。

なお細かいことながら、ご指摘の記述は
5月11日の条目であり、事件発生日は同7日とありますね。
0748名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/22(土) 10:45:54.13ID:YDw7bz8t0
ちょうど話題が多摩川から神奈川方面に向いたので。

府中藤屋の和十郎さん(二代目小次郎)が、若いころの話として、
川崎の養護寺(現・影向寺)で貸元として賭場を開帳した際に、幸山の栄五郎(神山栄五郎)
がやって来て賭場荒しをやったが、まだ若い和十郎がびくともせずにあしらった、と子母澤寛先生が
『続・ふところ手帳』に記しておられる。
この時、両者の間に「久地の仲蔵」という人が入って収めたという。久地の仲蔵という人は
相当の親分なのだろうが、今のところ何ら足跡が見つからない。
0749名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/23(日) 19:14:30.30ID:I+xjRtiK0
739は勘治ではなく、勘吉だった。勘吉=寅之助=寅吉はどうも確実で、あるいは勘吉=勘次。
文久二年の人別帳では既に後家が世帯主になっているから、死去しているようだ。(あるいは帳外)

ちなみに近代になると、よく史料に名の出る「百太郎」は勘吉の倅。
一方小次郎の倅は「宗吉」、「小太郎」。宗吉=小太郎なのかは、ちょっとわからない。
0750名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/23(日) 22:52:30.21ID:I+xjRtiK0
年不明文書である点が惜しいが、小金井市の史料の中に、
下小金井勘吉弟小次郎が、隣村貫井村名主宅前で、組頭の弟忠蔵を五・六人で「打擲」したが、
当時は酒に酔っていて誤ってやってしまった云々という文書がある。
まぎれもなく、後の侠客小次郎が、まだ若かった時分に徒党を組んで喧嘩していたことを
示すものだ。
下書であるという点、年月が記されていないという点は残念だが、有名な二つ塚喧嘩の年(天保11年)
前後のものだろう。
0751名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/23(日) 23:03:09.83ID:I+xjRtiK0
ちなみに父勘左衛門は「天保6年」まで史料に名前が出てくる。つまり生存している。(農間渡世として居酒屋を
していた)。よって天保6年までならば、確たることは言えないが「下小金井勘左衛門倅小次郎」と表記されるのではないかと思う。
なので「勘吉弟小次郎」で出てくるのならば、勘左衛門死去後と推測したい。
天保15年には木更津で捕まってるので、上の史料は天保7年〜13年くらいのものじゃないかと思う。
0752名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/24(月) 22:59:02.23ID:Vxb6XfK10
ちょっと系統が違うかもしれないが、『三国志』について。
劉備や関羽、張飛が侠客出身であったことは有名だが、100%男の物語とされるこの『三国志』
にあって、余人を寄せ付けぬスペシャリストが井波律子という女性研究者であるということは
もっと注目されるべきことのように思う。

この井波氏が明らかに贔屓にしている人物に、任侠の徒・悪来こと典韋という人がいる。腕力・技量のすごさもさることながら、
その「固い節義と男気の持ち主」という点で、後代続く「侠客」の模範とするべき人物であると思う。
0753名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/26(水) 00:03:26.88ID:t0d8QNJ00
今さら後悔しても遅すぎるが、「岡引」には以下の4種類の違いがある。
一、関東取締出役の「道案内」←組合村から選出される。
二、火附盗賊改の「道案内」←火盗が内々任命する。
三、各旗本領奉行所の「手先」←奉行所が内々に任命する。
四、各藩領・天領の「目明し」←ほとんどが博徒、または香具師。中には名字・帯刀が許される者もいる。
だいたい以上。
0754名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/26(水) 23:29:19.99ID:t0d8QNJ00
遠州見附宿の金剛寺には大和田友蔵(磯部友蔵)の墓がある。
この金剛寺をまっすぐ北に行った旧・学校跡には友蔵が寄進した太鼓があるそうな。
自分、入館料をケチったことを今になって後悔する。
0755名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/28(金) 19:25:32.56ID:py5ivhBw0
ご本人のツイート

高尾善希 @yoshiki_takao 9月17日

> わたしも書いている高橋敏編『アウトロー近世遊侠伝』(敬文舎)、
> 冨永行男氏(郷土史家、元吉良町副町長)の原稿には
> 「高尾善兵衛」という名の博徒が登場します。
> 私と名前が3文字同じですが、実は先祖です(本では特に説明しておりませんが)。

https://twitter.com/yoshiki_takao/status/777123983829241856
0756名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/28(金) 22:46:15.08ID:n6udRQ7E0
『アウトロー近世遊侠伝』
面白かった。黒駒勝蔵と西部周太を書いた高橋修氏が頑張ってたイメージ。
敏氏の石原幸次郎は『多摩の歩み』に載せたほぼそのままだったのだ少し残念だ。
水谷氏の著作の中で、原田常吉をピックアップしたのは英断だ。
花木氏の小次郎の論文も新情報が書かれていて興奮した。なお、花木氏の論文のすごいところは
他の論文においても誤字脱字が無いということ。よっぽど校正の段階で気をつけて見ているのだろう。
0757名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/10/28(金) 23:05:36.64ID:n6udRQ7E0
高尾善希氏は自身がアウトロー的な気質のある方のように思える(善兵衛の血が成せる業か)。
それだけにこの分野の研究は向いているのだろう。
個人的には氏の研究論文は、小川幸蔵物より、狭山丘陵の博徒や、南永井の村上兄弟を書いたものの方が面白い。

「幕末関東村落における博徒集団と地域社会――武蔵国多摩郡・入間郡域の事例を中心に」
『遊戯史研究』(遊戯史学会事務局、2009)
0758名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/02(水) 23:38:41.10ID:XAHUnA7O0
川越って言うと完全に内陸部、水やまして「船」とは関わりがないように思うが
「新川岸」というように荒川水運を利用して貿易を行っていた。よって船がものをいう水上文化の地域だった。
当然、船持ちたちの争いを裁く侠客が必要となり、例えば三角の倉親分(源次郎)や
浦親分(浦之助)などが生まれる。

一応、系譜では 獅子ヶ岳重五郎→三角の倉親分→浦親分→饅頭屋親分となるようだ。
この一家は現在でも土地の古老からは評判が結構良い。
0759名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/03(木) 09:26:18.85ID:1y/RcgVP0
甲州街道吉野宿は現在の相模湖の辺りにある。
山合いの小さな宿場だったが遊郭があって賭場もたった。
話によると「峰山」「倉子峠」の二カ所では定期的に大きな博奕が行われていたという。
この付近の地蔵さんで、頭のないものは、博奕打ちがゲンを担ぐために
持って行ってしまった。 との話だ。
0760名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/03(木) 09:29:06.08ID:1y/RcgVP0
長谷川伸先生の「関の弥太っぺ」の舞台になったのも、確かここだ。
明治20年だったか、大火でみんな焼けてしまい、宿の様子は一変したという。

当地には峠の健治親分が遊郭を開いていたが、火事以降八王子(甲府とも)に移ったとのこと。
0761名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/08(火) 23:17:54.68ID:Fk2gg+ML0
黒駒勝蔵はご存知のように明治四年に処刑されて亡くなる。
その後、子分らはどうなったのか。
片腕の「塩田の玉五郎」は一説に拠れば大場久八の子分になって「甲府の玉五郎」
とよばれる親分になったと言うが、本当かどうかはわからない。

「万力村森太郎」だけは、その後明治12年で亡くなるまで栗原宿の親分として
地盤を押さえていたことが判明している。
0762名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/14(月) 20:15:26.43ID:zunG5d2x0
津向の文吉は上にも記されている通り、八丈島へ遠島中のことをあまり人に語らなかった、
ということになっている。医術の心得があったため、島で医者をやってたとか、
寺子屋のようなことをしていた、とか云う話が里伝として伝わる。そんなこんなで、
「何でも一通り覚えておくものだ」とよく近隣の若者に話していたという。
0763名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/11/14(月) 20:23:00.35ID:zunG5d2x0
これも松尾四郎氏が書いていることだが、
一度だけ文吉が島での「つらかったこと」を話したことがあったという。

本土から文吉の子分たちが島まで渡って来て、親分を連れて帰ろうと画策したことがあった。
ところが浜まで上陸したところで露顕し、皆島役人衆に捕まってしまう。
島役人は文吉に、文吉の家族(すでに島に新たな妻と子がいた)が首を括られるか、子分を文吉の手で斬るか。
どちらか選べと迫った。
子分たちはみんな文吉に斬られる方を望み、文吉、泣きながら彼ら全員を斬った。生きてきて「こんなにつらかったことはない」
と人に話す時にも大泣きに泣いたとの話。
0764名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/14(月) 22:26:40.27ID:zunG5d2x0
ところで上の話、
先般話題に上げた八丈島の流人博徒らの暴動から処刑という
一連の流れを踏まえて考えると、単なる伝承だけでは済まない話に
なってくる気もする。
0765名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/11/19(土) 00:54:03.86ID:O/s8zZZl0
安東の文吉は伝聞資料こそあるが、なかなか実史料に名を現さない。辰五郎の方は
日記資料に出てくる。

と、思っていたのだが、安政四年駿河国紺屋町の牢を破牢した「梅吉」と甲州の「広八」の
探索に「安東村の文吉」の名が現れる。実際に彼は岡引親分として「伝史料集」のような活動をしていたのだ。
0766名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/27(日) 23:26:23.32ID:qbdRyYKK0
明治は言うに及ばず、大正、昭和初期くらいまでの遊侠を扱った小説の書き手は
すばらしいものを残してくれた、と心から有り難く思う。
中でも凄いのは、読み物としての完成度も高い子母澤寛先生だと私は思う。
多産な作家だから、仲には全くのフィクションといったものもあるが、随筆に記された
侠客の聞き書きは、例え二三行でも極めて貴重な情報を含んでいる。

ただし、よく言われるように、史実に小説的面白味を加えて脚色している部分も
多いので、そこをよく分別して読み込む必要もある。(万人には必要ない、誰かがやればいい)
それがもし明確になれば、これはもう立派な歴史資料となるだろう。
0767名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/27(日) 23:34:55.52ID:qbdRyYKK0
例えば傑作『駿河遊侠伝』、遠州山梨の巳之助を初手から「山梨八代郡角打の巳之助」
としている。これでは甲州の生まれになってしまう。おそらく遠州「山梨」という集落を
この時点では御存じなかったのだろう。よってここは嘘。

かと思えば、この巳之助と対立した森の五郎の倅・太市が巳之助に斬られた、という
地元でも伝わらぬ逸話を「河原井淡翁」なる人からの聞き書きとして載せているから恐れ入る。
子母澤先生の手にかかると、史実は逸話に、逸話は史実に不思議と溶け込んでしまう。
0768名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/27(日) 23:53:33.36ID:qbdRyYKK0
武州入間郡石井村、(現坂戸市)に石井伴内という変わった名前の侠客が居る。
隣村赤尾村には泣く子も黙る赤尾林蔵が生まれた。伴内は林蔵より大分後代の人で、
だいたい安政くらいに活躍のピークを迎える親分だ。
この人、川越藩から十手をもらい、目明しとして幅を利かせても居た。実際腕も立ったようで、
無宿博徒を木刀で叩きのめし、捕縛したとの記録が残っている。
また隣接する岩殿観音の観音の菊、こと志村菊次郎とも対立した。

伴内の墓は大智寺、姓は森田。菊次郎の墓は岩殿観音正法寺、姓は志村。
観音徳こと、徳次郎は菊の親というがイマイチ確証がない。
0769名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/29(火) 00:42:00.66ID:eNPNDBxR0
>>311
八王子にある鈴木綱五郎の墓に「関東綱五郎或いは大瀬の伴五郎とも云う」の記載
寺の立て看板にも「清水次郎長一家の客分」、「関東綱五郎」の記載があります。
この件につきまして、詳細をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?

また、他所の「関東綱五郎墓之跡」の碑が無くなっていますが
この件につきましても、詳細をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
0770名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/30(水) 23:04:53.39ID:vpwDUKci0
八王子落合の鈴木綱五郎を関東の綱五郎のことだ、とするのはどうもこの周辺では
だいぶ昔から伝えられてきた話の様なのですが、
正直なところ私はこれは誤りだと思っています。
大百科にある次郎長の香典帳などの記載からも「大作半五郎」の方が関東綱五郎により近いでしょう。

八王子の綱五郎の話は、小島政二郎が監修した(著者は失念しました)『関東綱五郎の生涯』を
元にしているようです。この中で人生の前半を次郎長の下で過ごしたという
風にまとめてある。おおかた、この著作→伝承→墓碑という流れになったのではないでしょうか。
0771名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/30(水) 23:08:59.94ID:vpwDUKci0
もっとも鈴木綱五郎が、並ではない天晴な侠客であったことは事実のようで、
確実な証拠史料としては『金子日記』の明治以降の記録に、しばしば登場し、
地域の運営などに大きな影響力を持っていたらしいことが伺えます。
ちなみに同日記は峠の健治(「小仏の健治」との表記)のこともしばしば現れるので興味深いのですが、
本当に名前とちょっとした事実くらいしか記されていないので、むずかゆい程度で
終わってしまいます。
0772名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/11/30(水) 23:19:50.80ID:vpwDUKci0
ちなみに小島政二郎が抜群のエッセイ『なつかしい顔』の中で子母澤寛について
書いている部分が面白い。小島氏の愛娘・美籠さんも小島氏も小母澤の来る日は
とても楽しみにしていて「親分」と呼んだそうである。
そして大柄なこの親分は、二人の期待に背かず、聞き知った遊侠・仁侠の話を
晩餐の卓で惜しげなく披露した。全くうらやましい話だ。
もし、この時のテープレコーダーがあるのなら、何万単位で取引されても惜しくない。
0773769
垢版 |
2016/12/01(木) 13:25:18.72ID:SFiSbeJH0
vpwDUKci0様、ご回答ありがとうございます。

八潮市の大瀬の半五郎(大作半五郎)の墓には関東綱五郎の記載は無かったのですが
一般的には、関東綱五郎=大瀬の半五郎なのでしょうか?

大瀬の半五郎が大作半五郎だとは思うのですが、
関東綱五郎が鈴木綱五郎は別として、他の人物の可能性は少ないのでしょうか?
0774名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/01(木) 21:44:18.58ID:lmyiE2iz0
「関東の〜」という綽名は博徒には結構いますから、大作半五郎や鈴木綱五郎の
他にも候補はいるんじゃないでしょうか。残念ながらこれ以上の詳しいことは
存じませんです。
0775名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/01(木) 22:32:09.43ID:lmyiE2iz0
仁侠研究(「博徒研究」と最近言う人が多いが、出来れば「仁侠研究」を使いたい!)
に関して、危惧したいのは、文献的にようやく最近すぐれた書き手が出てきたという点と、
真反対に幕末期の遊侠の墓石が、ちょうど廃棄・荒廃する時期が重なっているということだ。
加えて、既に明治生まれの人間が絶えてしまい、この後、同頑張っても聞き書きが手に入らないという、
パラドックスである。
要するに、研究課題として認知された時には、既にその情報元が危機的な状況に貧しているということなのである。
0776名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/03(土) 19:19:01.63ID:3uCOaF+Q0
新刊情報
『幕末ハードボイルド 明治維新を支えた志士たちとアウトロー』

伊藤春奈 (著)
単行本: 300ページ
出版社: 原書房 (2016/12/19)

> 歌舞伎や講談など庶民風俗で人気を集めた幕末の侠客たち。
> 清水次郎長や飯岡助五郎、幕末の志士たち、そして新撰組……。
> 彼らの実像を幾多の資料から浮かび上がらせ、その底辺に流れる「奉仕」の心境を描く。

AmazonのURL貼ろうとしたら長過ぎるって怒られたからやめた
この著者がどういう人かよく知らないけど
ちゃんと「史料」を押さえて書いてるんだったら面白いかも
0777名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/06(火) 21:47:20.41ID:OsuB/zUd0
『「勘太郎」とは誰なのか?』という書籍を書かれた方のようですね。
少し前に評判になりました。あいにく未読ですが民俗学的な視点から、実証的に遊侠の研究に
入ってゆく手法のようです。
今回の書籍ともども是非読んでみたいですね。
0778名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/06(火) 22:11:33.29ID:OsuB/zUd0
ところで小金井小次郎は、天保15年木更津で捕まり、佃島へ送られ、
ここで新門辰五郎と兄弟分となり、翌年の火事の鎮火に功があったことから
弘化2年帰村が許される。この直後彼が隠れ住んでいた場所は、現・小平市廻田新田である。

二つ塚喧嘩の前後に知己となっていた「廻田の栄太郎」の屋敷を借りて起居していた。
やがて家屋を賭場として利用しようと改築していたことを役人に密告され、
やむなく府中宿へと居を移した、というのが真相である。
栄太郎は、子孫の方によれば「栄五郎」と伝わっているそうである。奥の家屋に出入りの際の
刀疵が、つい先ごろまで残っていたとのこと。
0779名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/08(木) 21:53:43.23ID:itE1iC/x0
>>577
今さらながら、川越の正目明しについて。
どうも正目明しになると、名字を名乗ることができるようになったらしい。
鶴松は天保15年には仮目明し、嘉永2年に正目明しとなり、
嘉永6年だと「小川鶴松」と姓名で表記される。
0780名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/08(木) 21:58:11.59ID:itE1iC/x0
ちなみに今頃気づいて、遅きに失した感があるが、
青梅師岡の孫八親分。
この人も「道案内」ではなく、「川越目明し」だ。
下師岡村(現東青梅駅周辺)は幕末期に松平大和守領だった。
つまり川越藩飛び地。孫八は川越藩の火方に属した。
0782名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/10(土) 17:05:53.10ID:/d7k1CCa0
岩殿観音の菊次郎は比企郡一帯に勢力を伸ばした大親分で、比企郡の「取締役」を
公から仰せつかっても居た。
これほどの人でありながら、明治3年に過去の殺人を詰問されて、70を越える高齢でありながら、
「斬刑」に処せられる。
力を持ちすぎた地方の侠客は、新政府にとって政治上の危険分子と映ったのだろうか。
0783名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/10(土) 23:34:20.24ID:/d7k1CCa0
菊次郎の墓は岩殿観音から北へ、門前町を越えた弁天沼公園の中にある。
一基だけひっそりと建っている。近くに巨大な板碑があるからすぐわかるだろう。
博奕渡世の仲間の名前が刻まれていて、
大前田二代目、田島要吉の名前も入っていることから、その格の高さがうかがえる。
0784名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/11(日) 23:25:08.55ID:X/Gdr2io0
>>685
江尻の大熊について出自を伝えるものを目にしたので、書き付けておきます。

 当時江尻を中心に大熊と綽名のついた男が四人いた。江尻の大熊、蒲原の大熊、和田島の大熊、
 駿府の大熊。この中では江尻の大熊が一番貫禄は低かったが、大きな体をゆさぶって、
 掛合事などをする時の態度は、見るからにぴちぴちしていて鯉市さんも無論そうだったが、清水の
 大公儀御用達本町の松本屋平右衛門という大金持が、この男を可愛がっていた。(中略)
 大熊は遠州金谷の在五和村の生まれだと伝えられる。本名熊太郎。しかし誰もそうは云わない。二十四貫といい
 五貫という。次郎長よりまた一まわり大きい男だ。
  (子母澤寛『駿河遊侠伝』「二人口」の章)

 江尻の大熊というのは次郎長の女房初代お蝶の兄として知られる大男、遠州金谷在の五和村の生まれである。
  (中沢正『考証東海遊侠伝』)

二人が元にしたものは、あるいは佐橋法竜氏の『清水次郎長伝』かもしれない。私は未読。
0785名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 19:05:50.52ID:HdiZBWBl0
>>773
信憑性に関しては、裏付けがとれず頼りないけれども、上述の中沢正『考証東海遊侠伝』(雄山閣s48)
の「津向の文吉」の項に「…身延の半五郎(後年次郎長の子分になった大瀬の半五郎の親父・
大瀬の半五郎も身延の半五郎といった)。…」という箇所があります。
これだと関東綱五郎が身延の半五郎とも呼ばれた、ということになりますが、一寸信じられないような気もします。

あと上で書きこまれた方がいましたが、次郎長と都田兄弟の喧嘩の際に「関東の巳之助」
という人が出てきますね。(東海遊侠伝)
0786名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 22:01:08.77ID:ltDgrZih0
半五郎のことを書いた「関東綱五郎」という作品があります。
半五郎の姉だか妹からの聞き書きだったと思います。
冒頭に関東綱五郎、大瀬の半五郎、大作(大咲だったかも)半五郎の3つの名前について書かれていましたが、
いまひとつ理解しにくい内容でした。

内容は地元で人を殺して捕縛されたが脱獄。横浜の遊郭で騒動お起こして清水へ。
清水では関東綱五郎と名乗り、のちに故郷へ帰郷、というものでした。
清水時代についてはほんの少し触れているのみです。

聞き書きがもとであって、どこまでが事実かはわかりませんが、
興味深い内容だったと記憶しています。
ただ、内容通りだと年齢的に何人かを率いて勝沼の三蔵の助っ人にでかけた
というのには若干無理があるのと、「駿河遊侠伝」の老後の半五郎とは一致しない
ということがあります。

疑問なのは、「東海遊侠伝」には半五郎、綱五郎としか書いていないのに、
なぜ大瀬あるいは大作や関東が付くようになったか?
上記の著書も「東海遊侠伝」の半五郎が大瀬の半五郎でなければ成り立ちません。
0787名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 22:18:22.53ID:ltDgrZih0
「桶屋の鬼吉」「遠州森の石松」なども。
どちらも「鬼吉」「石松」としてしか登場しません。
桶屋は、棺桶を担いででいりに駆けつける、という話を作るために
講釈師が名づけたものだと思っています。
森の石松は、次郎長が遠州の森町と関わりがあったことからヒントを得て
語呂がいいから「遠州森の石松」という名前が出来上がったのではないかと思っています。

「東海遊侠伝」が必ずしも正しいというわけではありませんが、こちらには三州の産
と書かれています。
三州の産の説をとっている書物でも、森の五郎に預けられたとか、森町に住んでいた期間が長いとか
森町と結びつける記述がありますが、実際はどうだったのか疑問です。

八尾ヶ嶽久六も穂北とか保下田とか帆桁などが付いていますが、
こちらもはやりのちに付けられたものではないでしょうか。


とは言っても、全て私の知識不足による憶測かもしれませんが。
0788名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 22:39:53.17ID:ltDgrZih0
真偽は不明ですが、いくつかの書物に大熊は妹のお蝶とともに
一時期猿屋の勘助に世話になっていた、という話も書かれています。

大熊の子分数人が祐天達に甲州円山前の賭場で殺された、という事件。
「塩山」→「えんざん」→「円山」で、「円山」でも「まるやま」でもなく
「塩山」が正しいと思われます。
「円山」という土地が実在したのならばごめんなさい。

「大豪 清水の次郎長」で著者の小笠原長生は「おちょう」さんは
漢字で書くと「お長」さんだから、ひらがただと「おてふ」ではなく「おちやう」が正しい
と書かれていますが、こちらも真偽不明、というか、間違いだと思います。
0789名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 22:48:47.97ID:ltDgrZih0
>>767
何で読んだかは記憶にありませんが、巳之助について書いた個所で
「『山梨』と書いて『やまな』と読む」と書いてありました。
そのあたりの土地に関しては全く知識がないのでわかりませんが、
袋井市の山名公民館の所在地は袋井市上山梨とあり、ちょっと興味深いです。
0790名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 23:18:53.31ID:HdiZBWBl0
>>786--789
久々に面白い情報を書きこんでくれる人がいたので嬉しいですな。
しかも自分にとって未知の情報だったので得るところが多い。

786の円山は塩山でいいと思います。安政3年4月12日、確かにここで駿河の博徒ともう一人が殺害された
という史料が、実はあるのです。つまり伝説通り、甲斐の祐天によって
大熊の子分、または鬼神喜之助の子分が塩山で殺されたという事実があったということになります。

ちなみに4月12日は武田信玄の没日で信玄忌といい、祭礼が開かれました。
0791名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 23:27:12.55ID:ltDgrZih0
>>716
黒駒勝蔵。
「東海遊侠伝」に何度も敵役として名前が登場しますが、
実際には多くがが無関係ではないかと思います。
原田常吉側の史料から、雲風亀吉宅にいた勝蔵に襲撃をかけたのは事実。
でもその後、形原斧八宅に復讐したのは黒駒一家ではなく亀吉の弟達。
証拠がない、他に史料がないから事実ではないというのはおかしいですが、
掛川で暴れて小政達に斬殺されたのが黒駒の残党だというもの怪しいし
書いた時点で違うとわかっていながら斬られた二代目お蝶さんに
「きっと黒駒のしわざだよ」としゃべらせたり。
官軍のいち隊長でありながら、清水一家を恐れてコソコソ駿府を通し過ぎた、
大場の久八を袋叩きにする子分たちを止めずに黙って見ていた、
素行が悪いために主人に追い出され、強盗の咎で処刑された、などなど。
勝蔵を悪く書きすぎているように思います。

なぜ愚庵はここまで勝蔵を悪しざまに書くのか。
「東海遊侠伝」を発刊するにいたった背景から、勧善懲悪的に書く必要もあったのでしょうが
官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。
偉そうにしている官軍でも、所詮はこんな奴らだ、という思いも秘められているように思います。
ただ、愚庵は明治になってから元官軍側の人達とも親しくしていたようなので
ちょっと考えすぎかもしれませんが。
0792名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 23:37:56.90ID:ltDgrZih0
「東海遊侠伝」にはない、安東文吉側の史料にあるという
黒駒一家が清水一家に襲撃をかけた事件。
勝蔵が襲撃されて仕返しをしないのはおかしい、
「東海遊侠伝」は次郎長が敗走したことは書きたくない、
という点を考えると、事実なのではないかと思います。
残念ながら、年代がはっきりしないようです。

もう一点、
以前梅蔭寺の史料館に行った時、勝蔵が次郎長におくった水晶というものが
展示されていた記憶があります。
数年前に行った時はだいぶ改装されており、その水晶は見当たりませんでした。
そのあたりの事情は分かりませんが、勝蔵がおくったというのが事実であれば、
争いばかりではなく、どこかの時点で次郎長と勝蔵は交流があったと思われます。

連投、大変、大変失礼いたしました。
0793名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 23:51:02.76ID:ltDgrZih0
書き忘れました。
「関東綱五郎」は長谷川伸著。
私の記憶が正しければ「長谷川伸全集 十三巻」に載っています。、
0794名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/12(月) 23:57:37.69ID:ltDgrZih0
>>790
非常に貴重な情報、ありがとうございます。
まさにその高市で起きた事件だったのですね。

以前の巳之助の島抜けに関してもそうですが、
一つの事件に関する事実が、他の史料で立証されるって
感動的ですね。
そして、それを見つけ出す力、他の史料と関連付けて読む力。
とてもうらやましいです。
0795名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/13(火) 21:45:46.36ID:5bYxH1750
>>791
「官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。」

↑は極めて慧眼、重要な視点ではないかと思います。

また勝蔵の送った水晶の話は興味深いですね。1873年のウィーン博覧会の際にも甲州では
水晶が出典されたのでそういう機運が出来ていたのかもしれません。非常に貴重な情報ありがとうございました。
是非気軽にまたお書き込みください。
0796名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/13(火) 21:59:46.45ID:5bYxH1750
小金井小次郎の話では、
新門と義兄弟になり、武州一帯に勢力を伸ばした小次郎に
伊勢の丹波屋伝兵衛から刺客が送られてきた、という部分がある。
伊勢の大侠を相手に回して生き延びた小次郎天晴れ、という話に仕立てたかったのか、と当初思ったが、
小次郎に刺客が送られてきたことを明確に示す史料が出てきたので、これは事実であることが判明する。

これは確定ではないが、史実は丹波屋の後ろ盾を得た吃安流罪後の竹居一家が小次郎と対立したというのが本当であると思う。
この時竹居一家の頭に立っていたのは、竹居の小市こと市五郎。
0798名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/14(水) 21:57:16.44ID:qOJQOmjY0
子母澤寛の『駿河遊侠伝』には福知山の銀兵衛という親分のことが出てくる。
ここに暫く次郎長一行が世話になっていて、その間に甚太郎という旅人が
福知山一家に入ったり、次郎長が近くの寺の若後家と恋に落ちたりと、色々ある。
が、どうも本書を読む限りでは聞き書きに依拠した実話のように思える。

甚太郎は、実は女性で生来男として育てられ、なんと妻も持った。明治の博徒刈り込みで捕まり
その時「女」と初めて知られた。その後江戸の本所で飯屋をしていたという。

また福知山の銀兵衛という親分も、ネットで調べると「松本屋銀兵衛」の名で実在していたことが伺える。
0799名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/14(水) 22:00:28.02ID:qOJQOmjY0
福知山だったか、京丹波だったか、昔旅した時に
一日中「機織り」の音が絶えない場所があった。こんな地域が日本にはあったのだと
思ったものだ。北陸と言うのか近畿と言うのか。
いずれ関東人にしてみれば不思議な場所だった。
0800名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/15(木) 22:08:26.99ID:yYD0U4v40
遠州相良の富吉と争った親分に堂山の龍蔵という猛者がいる。
だいぶ早い時期の話で天保も前半くらいの頃ではなかったか。詳しい抗争の様子は
今ちょっと思い出せない。竜蔵は明治も二ケタになって死んだように記憶しているから
だいぶ長生きしたことになる。

菊川から相良へ入る途中に「堂山新田」という地域があり、平野でよく稲の実った地勢だったように
記憶している。ここが龍蔵のいたところか、と思うとそれとなく趣が感ぜられる。
近くに黒田家世襲の代官所がある。思いがけず立ち寄ったが、素晴らしい品々が惜しげなく陳列されている。
穴場と呼ぶにふさわしい史跡だった。(後半全く侠客に関係ないな)
0801名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/15(木) 22:16:45.80ID:yYD0U4v40
これは全く関係ないが、この代官所の管理人さんが80を越えた方で、
「遠州大地震」なるものを体験したとふと漏らしたことが、非常に興味を覚えた。
聞くと、小学校の校舎が壊れ、本人は夢中で外へ逃げたが友達は亡くなったとのこと。
そんな地震の存在を私は聞いたことがなかった。

後で調べると戦中に隠蔽された「幻の地震」であるとのこと。(戦意高揚のため事実を封じられた)

侠客とは関係ないが、貴重な話だったのでつい書いてしまった。すみません
0803名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 12:43:10.02ID:9SwS0Ptb0
>>802
熊五郎、熊次郎、熊蔵とか虎五郎とかは多くいますので、誰が江尻の大熊か
わかりかねますね。問屋場の大熊…もちょっとわかりませんです。
墓石でも見つかって、更にそこに縁故ある人の名前でも刻まれていれば
確定できるのでしょうけども。今のところ一寸聞かない。すみません。
0804名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 12:52:08.36ID:9SwS0Ptb0
>>793
ご紹介頂いたおかげで長谷川伸の「関東綱五郎」を読みました。
後半は尻つぼみですが、前半部分は傑作ですね。特におてるという娘の
心情を描く部分、川辺の土手から半五郎の元へ飛び込むところの、女性の心情の描き方
なんかは、真に迫っていてなんとも胸が痛くなります。また半五郎が親父の心情を察して
堅気の仕事が手に付かなくなる場面、祖父の伊之平が夢に現れる場面など、「上手い」と思わせる。
さすがに一世を風靡した大衆作家という感じです。

…これじゃ読書感想文ですね…そうそう、やっぱりこれを読む限りだと大作半五郎が関東綱五郎でいいんじゃないか
と思いますね。『八潮市史』には、たしかこの時の事件の記録も残っていた気がします。
0805名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 12:59:14.01ID:9SwS0Ptb0
>>791
やっぱり黒駒勝蔵親分の博奕打ちとしての人生のメインは、次郎長と東海道沿いで
戦うことではなく、甲州で兄貴分の吃安親分を召捕った仇の祐天、三蔵、犬上郡次郎を
討つことにあったのだと思います。平井で大岩・小岩を失っても屈することなく、
甲州に潜入し、犬上の首をあげたということはその証でしょうな。
ちなみに祐天は文久3年、郡次郎は元治元年、三蔵は明治2年に他界しているので、
勝蔵生存時に、仇は全て没したことになります。とすれば、勝蔵親分も心中「まあ、役目は果たせた」
という気持ちで旅立てたのかもしれません。
0806名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 22:29:27.78ID:uTwfXSxA0
>>795
ありがとうございます。

水晶に関して、戸田書店刊の「人間 清水次郎長」に
写真付きでちょこっとだけ解説が載っているのを見つけました。

それには「のちに仇敵となった黒駒の勝蔵から贈られたもの」
となっています。
この記述通りであれば、両者の間に抗争が起こる前、
元々は何かしらかの交流があったと想像できます。
0807名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 23:15:17.96ID:uTwfXSxA0
>>805
次郎長側の史料で勝蔵を敵役としているほど
勝蔵は次郎長を敵として意識していなかったのでしょうね。
口供書からは、兄貴分の敵討ちのために半生をささげた
という印象をうけます。

自分の手で敵を討てなかった悔しさはあったでしょうが
おっしゃっているように処刑される前に敵の死を知ることができた
という点ではきっと悔いは少なかったですね。

悪役にされる前に勝蔵にスポットライトが当たっていれば、
次郎長の石松の敵討ちよりも、勝蔵の吃安の敵討ちの方が
大衆を惹きつける力があったかもしれません。

生き証人が存命のうちに勝蔵の研究が十分にされなかったのが残念です。
0808名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 23:29:38.92ID:uTwfXSxA0
>>804
>>786の聞き書きというのは、姉ではなく妹でした。
本文には書いてないようですが、このことは同じく長谷川伸著の
「素材素話」内の『荒神山喧嘩考』に載っています。

参考までに同書に故松居松翁という人が戯曲「大瀬の半五郎」を書いた、とあり
その材料は自分の「関東綱五郎」とはまるで違う、とあります。
あるいは、それが八王子の関東綱五郎のことなのかもしれません。

「素材素話」は「長谷川伸全集 第十一巻」の収録されています。
読み応えのある内容ですので、ご存じでなければぜひ御一読ください。
0809名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 23:39:41.62ID:uTwfXSxA0
同じく長谷川伸著に「殴られた石松」という作品があります。
原田常吉が兄の敵の浪人を討つという話の流れです。
史実は弟の敵討ちですが、物語でありながら敵の名前は史実通りであったり、
長谷川伸はこのあたりの事情を知っていたようで、ちょっと興味深いです。
0810名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/17(土) 23:49:28.27ID:uTwfXSxA0
以前、江尻の大熊の「魚熊」説を書いた者ですが
大熊の戒名が載っている冊子がありました。

こちらには「魚熊」という文字はなく
「江尻の大熊 (俗称不詳) 悟心禅定門 (臨・法雲寺)」とあります。
「魚熊」説については、いずれまた調べてみようと思っています。
0811802
垢版 |
2016/12/18(日) 00:49:07.22ID:QkjSTGF60
>>803
ご回答、ありがとうございます。

二十八人衆自体が創作なのは分かるのですが、
どういういきさつによってこの人選になったのか不思議でなりません。
追分の三五郎を除いて、当時、有名だったのでしょうか?
それとも、東海遊侠伝から選んだだけにすぎないのでしょうか?
0812名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/19(月) 22:01:19.22ID:uQDe3FLr0
>>790
大熊が猿屋に世話になっていたという説、
円山=塩山
ともに>>382で既出でしたね。大変失礼いたしました。
全てに目は通しているつもりだったのですが…。

>>811
>>803の方とは別の者ですが、
やはり、清水の次郎長のように地名が付いていればそれが手掛かりとなりますが、
問屋場となると、どこの問屋場かが確定しないと捜索は困難ではないかと思います。

当時は有名であっても調べる人がいなかったり何かの記録に残っていなければ、
関係者の死とともに完全に忘れ去られてしまう、というのはとても残念です。
0813名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/19(月) 22:18:23.50ID:nIw5DsEY0
>>811
「近世侠客有名鏡」はだいたい明治・大正版が有名なんですが、
確認できる限りだと「昭和10年」というのがあります。これには
「増川村仙右衛門」・「清水湊の大政」・「清水湊の小政」がランクインされてますな。
後の人はどういう基準で選んだのか。案外、天田五郎の親しい人順だったりするかも
しれませんね。
0814名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/19(月) 22:19:45.92ID:uQDe3FLr0
清水の28人衆については、
おっしゃっているように、追分三五郎のように架空の人物も含まれていますが、
基本は有名無名関係なく、東海遊侠伝に出てくる名前を当てはめたのではないでしょうか?
東海遊侠伝に問屋場の大熊という名前は出てきませんが、
江尻の大熊がモデルってことも考えられますね。
0815名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/19(月) 22:54:21.17ID:nIw5DsEY0
・大熊の子分が塩山で祐天に斬られた。(大熊と祐天は元々兄弟分)
・大熊は妹ともども猿屋勘助(三井卯吉)の世話になっていた。
・三井卯吉を斬ったのは甲州市川大門村の小天狗亀吉(鬼神喜之助弟)

↑『東海遊侠伝』・松村梢風の聞き書きを参照にするなら、大熊は案外甲州の者かもしれない。
市川大門隣村に「大塚村」があり、ここに「大塚ノ熊五郎」と言う人がいた。
この人って可能性も有るか知れない。
0816名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/19(月) 23:58:53.39ID:uQDe3FLr0
>>815
すごいですね!
松村梢風は次郎長関連の人物を詳しく調べていますよね。
高萩の万次郎についても創作と思いきやかなり詳しく事実を調べられている、
というようなことが「清水次郎長とその周辺」でも述べられています。
江尻の大熊に関しても事実を調べて書いていると十分考えられますね。
(石松の調査結果に関しては違うような気がしますが…。)

甲州の人だから清水界隈に詳細が伝わっていない。
そして「大塚村の熊五郎」→「大塚の熊」→「大熊」といったところでしょうか?

お調べになったことを簡単に教えてほしい、なんて大変失礼なのは承知ですが、
大塚村の熊五郎について、ほかに情報があればぜひお聞かせ願えないでしょうか。
0817名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/12/20(火) 17:14:16.94ID:P465FOM90
実は何にも知らん部て居ないのですが、2013年の山梨博物館の勝蔵展で、
大正まで伝わっていた侠客の伝をまとめた書籍があり、そのなかに、津向文吉や
鬼神喜之助と一緒に「大塚の熊五郎」という人の名前が挙がっていたにすぎないのです。
たしか、その書籍にも名前だけで「事績詳らかならず」とただ一行だけあったとのことです。
実地に行ってみて調べてみようとは思うのですが、多分何にもでないでしょうね。
0818名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/20(火) 17:18:07.06ID:P465FOM90
ただ、村松梢風の次郎長伝の中で、大熊が「俺は甲州の者なんだが…」と言ってること。
これに815の情報を足して、
その上で、三井を討った下手人が確実に市川大門松坂屋亀吉であることを鑑みると、
大熊と松坂屋喜之助・亀吉兄弟の間には交流が「なければならない」ことになります。

と、すれば(大暴投であったとしても)大塚ノ熊五郎は候補に挙げてもいいんじゃないかと。
0819名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/20(火) 17:37:53.28ID:P465FOM90
>>808
「素材素話」は十一巻ですね。必ず読んでみます。十三巻では「親分病」というのも
面白かったですね。
全集にも入っていないし、そんな良い作品でもないのかもしれないけど、
黒須大五郎を扱った『八丈つむじ風』が、どっかで手に入らないもんかと思ってます。
0820名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/20(火) 17:39:46.52ID:P465FOM90
810で書かれた大熊の戒名がかかれた冊子は、どこかで入手可能なものでしょうか。
お手数ですが、お時間ある時に御返信いただけると幸いです。
0821811
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2016/12/21(水) 15:22:25.48ID:TPG+55T30
>>812->>814
ご回答、ありがとうございます。

天田五郎の親しい人順は、おもしろいですね。

問屋場の大熊が江尻の大熊かとは思いましたが、
本当だとすると兄貴分の大熊を下に見る創作は残念ですね
0822名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/21(水) 23:21:31.10ID:Z3pIkZmU0
静岡の富士市は増川佐次郎、仙右衛門親子を始め、宮島俊蔵、本市場の金七など
有名な人物を輩出している。しかし公に彼らの事実が調べられたことが、残念ながら無い。
加えて、この地域では墓石を新しくすることが流行っているようで
古い墓石が容赦なく廃棄されている。
0823名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 10:55:30.50ID:jveobObR0
>>817ー819
ありがとうございます。
私も当時の史料を引っ張り出してみてみましたが、
全く気にも留めたことのない名前でした。

「日本の古本屋」で検索すると2件ヒットしました。
長谷川伸の作品は小説にしても随筆にしても、読み手を惹きつける力がありますね。

大熊と鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟の関係など全く考えたことはなく、目からうろこです。
卯吉殺害時には、亀吉とともに次郎長や大熊の身内もいたかもしれませんね。
0824名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 11:21:55.89ID:jveobObR0
大熊の戒名について
清水地方で刊行されている「季刊 清水」というものがあります。
その1993年に刊行された第30号で確認することができます。
自分の周辺の区の図書館にはなく(当然かもしれませんが)、
清水市中央図書館が間違いなくで閲覧可能なところだと思います。

以前書いた「魚熊」説のもととなった本もこの図書館で閲覧したものですが
そこに書かれていた戒名と「季刊 清水」に書かれている戒名が
同じかどうかは確認できていません。

現在私が確認できるものは他に
10号で次郎長の手紙について
18号で和田島の太左衛門を中心に山田房五郎や
次郎長の叔父の太右衛門について
24号で愚庵の手紙や愚庵の清水での交友関係について
があります。

ほかにも何度か次郎長について書かれた回があり
この図書館のホームページから確認できます。
0825名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 12:14:39.88ID:jveobObR0
「季刊 清水 第30号」には「東海遊侠伝」に名前が出ている
興津の清之助の戒名も載っています。
しかし、明治39年に48歳で没となっていることから
病気で寝ているところを勝蔵一家に襲われたという
盛之助とは別人のようです。
0826名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 19:45:19.94ID:jveobObR0
法印大五郎の没年月日、戒名も載っています。
「東海遊侠伝」では荒神山の喧嘩で死亡したことになっていますが、
実は生存していて故郷の甲州に帰って亡くなっているという話もあります。
「季刊 清水」はこの生存説を採用しているようですが、
生存説が書いてある本を読んでも、今ひとつその根拠が理解できずにいます。

生存説と言えば、尾張の鬼吉にも。
「東海遊侠伝」では宮島の重吉という者の一家に鳴海で斬り殺されたことになっていますが、
次郎長が後見役として東京のとある一家に送り込んだ人が、
「自分が桶屋の鬼吉と言われた人間だ」と語り残したという話もあります。
0827名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 21:22:37.31ID:jveobObR0
清水中央図書館には3代目お蝶さんからの聞き書き
「侠客寡婦物語」があります。
そもそもが、これが目的で以前清水まで足を運んだのですが、
ゆっくり閲覧する時間をもてないまま帰ってきてしまいました。

>>821
神田伯山は
次郎長を匿ったのにもかかわらず本沢の為五郎を敵役にし、
清水一家に斬り殺された話を作りその息子に訴訟を起こされそうになったり、
悪く描き過ぎだと、吃安の子孫に訴訟を起こされそうになったり、
ってことがあったそうです。
それに比べたら問屋場の大熊=江尻の大熊であったとしても
名前を変えられた上で格下にされた程度ならばまだいい方かもしれませんね。
0828名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 22:05:30.52ID:7y5aQpE/0
まったく、たくさんの貴重な情報をもらえて感激しております。
826の人は上萬一家の仁三郎さんのことですね。真の侠客と呼ばれる人だとか。
私も堀田の親分が「桶屋鬼吉」と呼ばれたという説は聞いたことがありましたが、
ようやくsourceがわかりました。本当にありがとうございます。
0829名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 22:14:22.33ID:7y5aQpE/0
ちなみに小天狗亀吉が宇七さんを討つために率いて行った人数は10人(本人入れれば11人)で
7人までは名前と出身地が判明しています。(飯の種なので詳細はすみません。伏します。)
6人は甲州、1人が武州です。もし大熊の党が含まれるとすれば、残る4人の内に入るか。
あるいは既出の七人のいずれかが、子分と言う事になるでしょう。

宇七さんが殺されたことを受けて、甲府から26人の博徒が甲府勤番から許可を得て「捕方」となり、
東海道を遠州まで練り歩きました。次郎長さんが国を売ったのはこれに拠るのですが、
一方で江川太郎左衛門(英敏)は、勤番のこの処置を怒り、「無宿と間違えて皆殺しにするぞ」と脅し、26人を甲斐に返しました。
まるで小説見たいですが、全部実話です。
0830名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/22(木) 22:25:17.89ID:7y5aQpE/0
富士宮に阿幸地の定四郎と言う親分がいるそうで、
新撰組に入った(とされる)結城無二三は、「大宮」(=富士宮)の親分の元に
世話になっていたという話を幕末に残しています。
加川英一氏はこの親分を宮島俊蔵(重吉)と見ていますが、私は阿幸地の定四郎だと思う。
0832名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/12/28(水) 20:49:27.34ID:zRtoSX2R0
前にも挙げたが、野州佐野宿の十手持ち、京屋元蔵に伝わる流行り唄。
侠客中の里謡では、これが一番良いと私は思う。

野州佐野宿、真っすぐ通れ
曲り嫌いの男が怖い
京屋の元蔵の目が怖い

真っすぐ通る、というのは色々な意味で含蓄のある言葉だ。
0834名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/07(土) 18:26:21.99ID:uKWI/iIL0
老朽化した次郎長の生家、寄付金で賄い修復へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170106-OYT1T50107.html

> 幕末から明治時代にかけての侠客きょうかくで、
> 晩年には清水港の発展にも貢献したとされる清水次郎長の生家
> (静岡市清水区美濃輪町)が修復されることになった。

> 老朽化で倒壊の危険が指摘されていたが、修復費用を寄付金などで賄えるめどが立った。
> 工事は10日に始まり、6月頃の完成を目指す。
> 修復後、多くの観光客が訪れ、地域活性化につながることを地元は期待している。
0835名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/07(土) 21:11:44.05ID:QsSUEgWf0
さて正月明け最初は、武州田無稲荷の増五郎親分の逸話から始めさせていただきます。

慶応2年の武州一揆の際、暴徒が各地の宿を襲うという報に接して、田無宿の大物名主下田半兵衛も
事態を重く見て念の為、家中の銭を集め、千両箱と小かますに詰めて安全なところへと隠そうと決めた。
小かますは庭の池の中に沈め、千両箱は宿内一の侠客・稲荷様こと増五郎に預けたのである。

幸いにも一揆勢は手前の小川宿北はずれで鎮圧され、田無までには至らなかった。
この報を聞くと、早速増五郎は祝言と共に預かっていた金をそっくり名主の元へ返した。
その際、半兵衛がお礼にと与えようとした金には手をつけず、ただ
「以後、私の取り仕切る博奕場を無礼講としていただきたい」との一言を残して帰って行き、人々その無欲と
正直さを称賛したと言う。
0836名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/07(土) 21:16:10.50ID:QsSUEgWf0
ちなみに、現代に入って今から数十年前、下田家の庭の池からかますに入った小銭が
見つかった。これはまさしく一揆の際に、下田半兵衛が隠した金であろう、
と、前述の楢崎氏は注に書いておられる。
出典は、前にも出したが、「かさもり稲荷雑考―博徒増五郎の背景―」(『田無地方史研究4』、田無地方史研究会、S59年)
0837名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/07(土) 21:26:44.43ID:QsSUEgWf0
ちなみに本論の「談話」には、増五郎のひ孫の語り残しが記録されていて面白い。

父正升が若い頃、奉公に出ていた時分、たまたま八王子で「小金井小次郎」の芝居を見る機会があった。
その芝居には、登場人物として「稲荷の増五郎」も出ていたが、増五郎役の役者があんまり痩せて貧層だったので、父は
「うちのじいちゃんはお相撲みたいにでかかったぞ!」とヤジを飛ばした。
すると「小僧、生意気言うな!」と周囲の客が怒鳴ったが、
「ほんとうさ、俺は増五郎の孫だ!」と返したら、皆黙ってしまった。

この話、私はかなり好きである。
書き忘れたが、上の御論文、著者名は楢崎成直氏。
0838名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/07(土) 21:46:12.20ID:QsSUEgWf0
俗に「上州系三親分」という言葉がある。戸羽山瀚先生によれば下の様な規定に拠る。

 上州系は大前田栄五郎を主体として大場の久八、伊勢古市の丹波屋伝兵衛の三親分を以て構成し、
 関東関西の親分貸元はいずれもこの三親分の内の系統に属す。但し清水の次郎長は半可師より進出したが
 為に右の系統に入らず、専ら独自の途を開拓したので、これを振興渡世人という。

戸羽山氏が根拠にした史料は不明であるが、幕末から明治の初め頃に、このような取り決めがされたのかもしれない。
0839名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/07(土) 22:47:12.62ID:QsSUEgWf0
>>808
ご紹介頂いたご書籍の「荒神山喧嘩考」読みました。
正直、このスレッドに書きこまれる方々の知識が広く、何も知らなかったことが恥ずかしいかぎりです。
この本は本当に興味深い内容ばかりですね。特に神戸の長吉が極めて天晴な侠客であることがよくわかりました。
一行長吉が「日柳燕石」と知己である、という部分、もうちょっと知りたかったのですが
長谷川先生、もう故人なので知りようがなく、残念無念です。

それにしても「ご座れ参ろうの喧嘩」のような事実を知るには、長谷川先生のような聞き書きを
持ってしなければ絶対無理なことですね。こうして文章になって残っただけでも
有り難いことです。

勉強になりました。これからもご教示ください。
0840名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/01/10(火) 21:25:03.80ID:jCe/PmyW0
大瀬の半五郎について
・八王子の鈴木綱五郎
・八潮市の大作半五郎
とこのスレでも出してきたが、大事なことを忘れていた。
伯山の「大瀬の半五郎」である。

これだと半五郎は草加の生まれとされる。(八潮とも近い)兄・又五郎ともども
侠名を知られていたが、兄が計略に落ちて殺され、その恨みで兄の許嫁だった義姉と
目明しの五蔵を殺す。

その後、凶状旅の果てに清水湊へやって来て、次郎長の世話になる。そんな話だった。
0841名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/10(火) 21:31:48.85ID:jCe/PmyW0
以前虎造の「大瀬の半五郎」を面白く聞いていたのだが、不覚にもそんなこと全く忘れていた。

近デジの『世界の救世主日本』(遠藤友四郎著、錦旗会本部、S6)というとんでもないタイトルの本の中に
「侠客賛仰・次郎長の子分」というコラムがあり、思いの他くわしく、ここに半五郎のことが載っていた。
おまけとして、伯山がこれを高座で演ったら、「半五郎の子分だった」という老人が現れ、五蔵殺しの際の
誤ったところを指摘した、という逸話が書かれていたので、
この「草加生まれの半五郎説」無碍にはできない。というより、これが巷で一番説得力のある半五郎=関東綱五郎なのかもしれぬ。
0842名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/17(火) 11:09:33.81ID:xDtjVBoj0
>>839
恥ずかしいなんてことはないのではないでしょうか?

私もここで多くの知らなかった意外な事実を知りましたし、
自分が書き込んだことを「知らなかった」なんて言われると
微力ながら他の方の趣味や研究のお手伝いができたのではないかと、
嬉しく思えます。
0843名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/17(火) 11:34:41.28ID:xDtjVBoj0
黒駒の勝蔵もですが、やはり悪者や卑怯者というイメージが定着してしまった
人物についての調査は相当タイミングを逸してしまっていますね。
日柳燕石と神戸の長吉との関係、長吉をもっと早い段階で詳しく調べたら、
びっくりするような事実が出てきたかもしれません。

でも「荒神山喧嘩考」というものを残してくれただけでも相当ありがたいですから
贅沢を言ってはいけませんね。

ちなみに「荒神山喧嘩考」は平岡正明著「清水次郎長の明治維新」の
参考文献で知りました。
広沢虎造の浪曲を基にとしていますが、次郎長関連の様々な考証がされていて
なかなか面白い内容でした。
0844名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/17(火) 12:10:13.66ID:xDtjVBoj0
だいぶ前の話題になりますが>>275>>375の集合写真。
清水の壮士の墓に隣り合って小さな建物があります。
中をのぞくと同じ集合写真が飾られていますが、一般的に各人物に付けられている名前とは
全く違う名前がふられていました。
この人物名、間違ってるんじゃないか?とは思わず、
世間に出回っている人物名って実は適当なんだな、って思った記憶があります。

また、各人物名が正しくないという記述はされていませんでしたが、
一般的に「大政」と言われている後列の人物を「○○の半三郎」と
書いている書物を読んだ覚えがあります。

著書で、人物名を信じて没年等を参考に、いつ頃撮影されたものかを考証している
方がいますが、お気の毒です。
この写真についても、適当な人物名がふられていなければ
正しい調査がされて、新たな事実が発見されていたかもしれませんね。
0845名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/17(火) 12:47:09.91ID:xDtjVBoj0
増川の仙右衛門と宮島の俊蔵の手打ち式の写真、との説ですが、

「東海遊侠伝」では鬼吉は宮島の重吉(俊蔵)一家に殺され、
鬼吉の子分はすぐにその仇を討った、となっており
「やくざ学入門」では次郎長が上万一家に送り込んだ堀田仁三郎親分の前身は鬼吉で、
もとは仙右衛門の弟分だった、となっています。

鬼吉は仙右衛門の弟分だったのか、
仙右衛門の弟分であっても、次郎長の子分であれば次郎長と俊蔵が手打ちをするはず、
鬼吉は堀田仁三郎親分と同一人物か、
等、疑問は多いですが、
鬼吉に関する両者の手打ち式の写真、ってことだったら面白いですね。
0846名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/01/17(火) 13:13:48.54ID:xDtjVBoj0
5〜6年前、勝蔵の碑を探している時に道を尋ねたおばあさんが、
「雪の中を逃げるのに、役人の目をくらますために
草鞋を左右逆にはいて逃げたと聞いていますよ」と教えてくれました。

内容よりも、語り継がれているという事実がうれしいですね。
0847名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/17(火) 14:06:08.96ID:xDtjVBoj0
勝蔵の碑の近くには、勝蔵の生家とその敷地内に立派なお墓、
ほかにまたお墓と言われているお地蔵さんが置かれている神社があります。
お地蔵さんの周りにはいくつかの墓石があり、その一つには「小池嘉兵衛」の文字が見えました。
嘉永の文字も見えたので、勝蔵の父ではなく祖父かもしれません。
父親のものと思われる年を記したお墓も並んでいるかもしれません。
いずれもお墓を建てたというよりも、悪く言えば置きっぱなし、
という状態です。

なぜこのような置かれ方をされたままなのか、とても気になります。
0848名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/31(火) 23:39:51.36ID:1keuLruZ0
>>844
619で書いた話はかなり高名な研究者が書き残した史料によるので、私自身は信頼しているのですが、
調べてみれば仲裁役に立ったとされる大胡の団平は、慶応年間に島流しのまま亡くなっているので、
この点は辻褄があいません。
しかし、団平の役を二代目大前田の「田島要吉」であるとすれば、無理がない説にも思われます。何故と言うに
要吉清水一家などとも交流が深く、東海道沿いとはよく交流し、写真等も残っているからです。

とは言え、真実は、おっしゃる通りすでに例証できない時期に来てしまっているのでしょう。
0849名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/31(火) 23:49:14.69ID:1keuLruZ0
>>847
私ごとで恐縮ですが、本家は八ヶ岳山麓の小村にあります。四代ほど前に「上黒駒」から
嫁に来た女性がおり、勝蔵親分の親類筋に当る人で、女性ながらに馬に載って嫁いできて、
それはみごとな短刀を携えて来たとのこと。親族間では「さすが黒駒の親類よ」と内々で話題にしたと言います。
(真偽のほどはわかりませんが)

明治維新はてっとり速く国民の「価値観」を変える手段として、善悪の区別を短時間で極端に定義したのだと思います。
それまで博奕は庶民が嗜む必要悪でした。(中世ではれっきとした職業・あるいは行事でした)
明治3年に、それは完全な「悪」にされたのでしょう。
山梨西部に住む勝蔵の子孫の方の話にも「あんな悪党のモノはみんな捨てちまった」と答えられた経験があります。明治期には
そういう転換があからさまに成されたのだと、私は思います。
0850名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/01/31(火) 23:54:39.10ID:1keuLruZ0
709で山梨ノ巳之助親分を、八丈実記の「無宿巳之助」と同一人物だと得意に書きこんだが、
このことは既に藤田五郎氏が『仁侠大百科』書かれておられた。恥ずかしいかぎりだ。
0851名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/01(水) 23:31:21.71ID:hM9m546s0
安東文吉の「十哲」

仏の勇蔵(長谷村の勇吉)・柳新田の政蔵・安西五丁目吉五郎(悪吉)・瀬名村権次郎
沼上の石音・信州屋源次郎(長谷の源次)・池谷の松・長谷村安五郎・長谷村徳次郎
足袋屋伊之助(片羽町の伊之助)
0852名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/01(水) 23:35:00.54ID:hM9m546s0
同じく安部七騎

鍋屋の宇吉(菖蒲谷)・安部の由・牛妻の茂助・水口の岩下初五郎・新田の梅五郎(梅ヶ島)
足久保宗十・船沢の武右衛門(足久保)
0853名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/06(月) 21:58:54.63ID:hAqz/4rN0
上でも名を出した上州館林藩浪人・犬上郡次郎。
確かに武術・扱心流柔術の達人で、数々の武勇伝を持ち、更には竹居吃安を捕縛した立役者だが、
最期は悲惨なものだった。
すなわち、元治元年10月17日に黒駒勝蔵率いる40人の集団に、潜伏していた勝沼万福寺に襲われ、
まずは柔術家の命である「腕」を斬り落とされ、その後首を持ち去られた。
一緒にいた女房もまた、綱で撒かれて連れさられた。

今日、万福寺の鐘楼の下に大岩があり、ここに郡次郎の首が置かれ、黒駒組によって
実験されたとの話が伝わっている。
0854名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/06(月) 22:22:38.64ID:hAqz/4rN0
長の潜伏。それゆえの皮膚病。公との闘争。あらゆる苦悩を抱えながらも
旅を続けながら、同時にに子分に飯を食わせていた勝蔵が、おそらく唯一
歓喜の声を挙げたのが、この郡次郎殺害の一時だったのだろう。

史料に拠ればこの時、勝蔵一団は「上意!」と叫びながら万福寺の山門を越えた。
「上意」とは普通、殿様の意を果たすことを示すが、この時の勝蔵の「上意」とは、故親分安五郎(吃安)
の妄執に対する一礼・供養に他なるまい。
0855名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/07(火) 22:57:27.39ID:PQDQt4iR0
ヤフオクはつくづく馬鹿にならない。
一点は甲州黒駒一家の乙吉らの人相を記した文書が売りに出てた。
次いで、鬼神喜之助の一族、喜右衛門、定八家で明治元年に殺人が起きた、という史料も売りに出ていた。
どちらも気づいたときには既に落札されており、今後絶対に手に入ることもないだろう。
忘れる他ない。
0856名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/07(火) 23:13:33.76ID:PQDQt4iR0
昔は(明治以前のことか)は自分の居住する村落から一歩も外に出ることなく
一生を追える人生というのもあった。
そうでありながら、同時代に渡世人は、旅をして日本中を廻った。定住民に対する遊行民ということか。
ただ彼らの来訪が、時に村落に刺激を生みだし、変化を起こして行ったことは確かだ。
0857名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/07(火) 23:17:57.64ID:PQDQt4iR0
中世以来の遊行民の末裔たる博奕打ち・侠客・渡世人は、それだけに、剣術や博奕道よりも
歩行法を大事にした。一日50キロは平気で歩いた。
これは大前田栄五郎にも国定忠治にも、黒駒勝蔵や清水次郎長にも伝わる、馬鹿げた逸話だが
彼ら遊侠の徒が歩く時、胸の位置に置いた菅傘が歩行の速さでひっついて下に落ちなかったという。
それくらい健脚・足速だったのだ。
0858名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/10(金) 23:01:45.81ID:6Ra9TC2f0
山岳研究科(登山家?)の岩科小一郎先生の著書は渡世人研究の側から読んでも面白い。
なにしろ伝聞をそのまま脚色無く記しておられるので、価値が高い。更に博学、なにしろ柳田國男の
弟子を称する志の高さもすばらしい。

『大菩薩連嶺』では峠を中心に、一度は侠客を志した老人の姿を(勝沼の親分に杯をもらった)、
また『山麓滞在』では郷原で草鞋屋を営んでいた「忠次郎」という親分の話を
何気なく載せている。
なにより歯切れの良い文章の上手さは、この人の魅力の最たるものだ。
0859名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/10(金) 23:10:28.64ID:6Ra9TC2f0
これはまた侠客とちょっと関係ないだろうが…
上述の岩科氏の『山麓滞在』。
「山とお母さん」(近デジなら112コマ目)は是非とも読むことをお勧めする。
名著、名文だ。
0861名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/14(火) 23:15:24.11ID:vGhQ7/vY0
下田の兼五郎は屋号・小松屋と言ったらしい。
武州の港北区(現川崎)を中心に勢力を張った。最大の火場所は川崎の影向寺で、
この影向寺は関東屈指の古刹であることから、多くの博奕打ちが訪れ、彼らと盟を結んだ。
ある時、三宅島帰りの小金井小次郎が、ここで兼五郎に会い、大歓迎を受けた。しかも、今までもらったことの
無いほどの草鞋銭に、さすがの小次郎も度肝を抜かれ、兼五郎と兄弟分の盃をかわしたという。

兼五郎は跡目を子分に譲り、自らは引退して悠々自適な晩年を過ごす。人々からは老若を問わず愛され、
為に今日墓石は小学校裏手にあると言う。
0862名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/02/14(火) 23:28:03.78ID:vGhQ7/vY0
芥川龍之介の短編に「お富の貞操」というのがある。知ってる人は知ってる作品だが、
この中に「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな」という名文句がある。
この「村上新三郎」、昔は武州入間郡所沢在・南永井の博徒親分・村上新三郎がモデルではないか、とも思ったのだが、
どうやら関係ないようだ。

新三郎以下、三兄弟については高尾善希氏が論文を書いている。
0863名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/15(水) 19:41:22.85ID:J0xOR6Z40
博徒ゆかりの地めぐりと講演会(山梨県立図書館)
「幕末甲州の博徒たち」日帰りバスツアー ※予約受付中
https://www.yamanashi-kankou.jp/y-tabi/learn/bosyuchu/bakutoyukarinochimeguri1day.html

講演会概要
『幕末甲州の博徒たち』
講師:高橋 敏(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
    「幕末の世相と博徒たち」
    高橋 修(東京女子大学 准教授)
    「甲州遊侠の世界」 
日時:平成29年2月26日(日) 午後2時〜4時30分
会場:山梨県立図書館 多目的ホール
聴講料(資料代):1,000円(舎人倶楽部会員:800円)※ツアー代金には含まれます。
定員:150名(申し込み順)
0864名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/15(水) 21:56:29.80ID:bfUhCgez0
「幕末甲州の博徒たち」と銘打つからには
正徳寺の多八や塩山藤太郎、上手の八百蔵に井手久や油屋の兄弟なんかも出すんだろうな…

とかイジワル言っちゃダメだな。
0865名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/16(木) 22:52:32.22ID:C8l9BcMN0
先日偶然目にする事が出来ましたが、
「桶屋長兵衛」さんの情報元は稲田郷土史家の「あゆたか」(16号)ですね。

これは知らなかったけど、素晴らしい研究誌です。
ちなみに33号掲載の、近藤勇の姪の話も興味深いです。
0867名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/16(木) 23:10:26.45ID:C8l9BcMN0
しつれいしました。

埼玉県新座市に
平成2年まで活動していた機関紙「にいくらごおり」というのがある。
この21号に「慶応4年、監察見聴誌」というのが非常に面白い。

白子宿の亀屋清吉方に探索方の役人が逗留していた際、土地の親分である「新倉の由五郎」
から「心付け」が届いたと記されている。由五郎なる親分は知らぬが、きっと和光市周辺で幕末に
勢力をもった博徒だったのだろう。
0868名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/17(金) 23:41:43.72ID:IUI3nn7T0
「日本史」に関して、自分の概観を挙げると、
大事なのは1192と1600だけで、
1192、すなわち鎌倉時代より前は「古代」
1192から1600(関ヶ原)までが「中世」
以降が「近世」で良いのではないかと思う。色々異論はあろうが、二つの年号を覚えるだけで
日本史の一番重要な文化変容を窺い知ることができよう。

で、博奕打ちはだいたい1800〜1900の間に置くことができるだろう。

異論は幾らでも受け付ける。
0869名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/17(金) 23:52:25.11ID:IUI3nn7T0
「鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、
此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、
最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。
此が侠客の最初である。」

上は柳田國男と双璧を成す民俗学の重鎮、あるいは親・折口信夫(しのぶ)の言であるが、
若干上から目線はあるが、本質的には結構興味深い推論ではないだろうか。
0870名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/18(土) 08:14:02.53ID:F0mbO/cv0
…毎回ながら週末の夜になると、なんて馬鹿なことを書きこむのだろう。本当にすみません。
0871名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/20(月) 22:09:50.97ID:nCk9a+XK0
高萩の万次郎の居宅である鶴屋は「上宿」ではなく「下宿」にある。
よって宿内では「下宿の万次郎」で通っていた。
この点はいつか誰かが間違いを指摘しないといけないのだが…
0872名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/20(月) 22:14:21.71ID:nCk9a+XK0
同じく武州の侠客で
小川幸八から小川幸蔵に代替わりするに際しては、間に恋ヶ窪彦太郎という人が入る。
彦太郎は幸八の妹を内縁の妻に持った。

彦太郎、もともとは幸八兄弟分の「上鈴木の平親王」の子分に当る。明治6年捕縛され
斬首か病死か、いずれ落命した。平親王の家の墓域に、彦太郎の墓が建っている。
本当に真四角の形をしている。
0873名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/20(月) 22:15:56.67ID:nCk9a+XK0
間違い。明治6年ではなく、安政6年。
ちなみに平親王(名は平五郎と伝わる)は明治2年死亡。倅は軍次郎。
0874名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/20(月) 22:36:41.73ID:nCk9a+XK0
三鷹の上連雀に「上連雀の嘉助」という親分がいた。
実在の人で、小金井一家の陣屋三之助の喧嘩には、この人が仲裁に入って事無きを得ている。
それ程の貫禄であり、若い頃は小次郎とも幾度か事を構えた。
生業は博労であったと伝わる。残念ながら家が特定できないが、私はこの地域の旧家に居た
「安太郎」という人だと思う。(姓は伏す、が調べればわかるだろう)
0875名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/20(月) 22:43:04.01ID:nCk9a+XK0
安太郎は幕末期の人で土木をしていたと言う。
この人、台場の工事に駆り出され、手下を連れて参加した所、工事後に
千両箱を褒美としていただいた。しかし、そっくりそのまま何かの間違いだと言って
お上に返したとの逸話が伝わっている。

この逸話、かの大場久八の逸話とそっくりである。そのような訳で、安太郎を伝説の連雀嘉助である、と見たい。
確証はないが、これは当ってると思う。
0876名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/20(月) 22:58:58.21ID:nCk9a+XK0
小金井小次郎は一般的に、出自の小金井から南に勢力を伸ばしたとのイメージが強い。
すなわち、神奈川にかけて縄張りを広げた。戸羽山翰は「神奈川」の博徒として
小次郎を挙げてるくらいだ。
しかし三宅島に流される頃の小次郎が、手紙をせっせと送った先は青梅や飯能など、北に多い。
これは多分、高萩万次郎の勢力圏に関係するのだろう。

これは確証はないが、やはり最初に小次郎が親分と頼んだのは、府中藤屋の和十郎(初代、別名平蔵)だろう。
万吉は兄貴分に当る。次いで、一ノ宮万平を叔父貴分にして親しく交際し、
長じては高萩万次郎に世話になったのではないか。

今川徳三は何かの著作で「侠客を地で行く男」と小次郎を評していたが、これはその通りで、
彼自身も手紙の中で言っているが、「周囲の人の歓びが自分の利益と繋がることを重視」していた。
実に明晰な人物であると思う。
0877名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/21(火) 23:19:39.59ID:QxNuIb+v0
武州入間郡の「黒須大五郎」に関しては、彼を有名にした
高谷為之の新聞小説すら幕末期の大五郎の実情を誤って伝えているので、
今さら修正の仕様がない。
大五郎は明治20年代の「侠客有名鏡」では小結に挙げられるほどの大物だが、
明治元年〜5年までの履歴以外正しくは伝えられていないのだ。元年〜5年までは
雲霧仁左衛門顔負けの怪盗ぶりを確かに示した。
0878名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/21(火) 23:26:12.24ID:QxNuIb+v0
実は幕末期に於いて大五郎は甲州博徒(黒駒一家、若神子一家)と盟を結び、
関東を荒らして廻った。
一般に言われているように「八丈島に籠って生業を営んでいた」のではない。
武州の遊女屋から気に入った遊女を盗み出し、ハーレムを拵え、抜き身・鉄砲で武装して
名主や豪商の財産を狙った。
文久元年、甲府で役人に囲まれ、アクロバティックに逃げ回ったが、御用弁になり、
以降御一新まで8年近く、牢内に収監されていた、というのが実情である。
0879名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/21(火) 23:31:56.01ID:QxNuIb+v0
上でも聞き書きで記したが、最期には狭山丘陵にあった御仕置き場で斬首されたようである。

狭山丘陵というところも、特記すべき場所で、多くの貸元・博奕打ちの巨魁が
存在していたようだ。暗く、神聖な山間部で、商業都市とも近いという点が
関係していたのだろう。
0880名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/21(火) 23:50:17.16ID:QxNuIb+v0
明治元年辰年、幕府瓦解の混乱期に狭山丘陵では博奕打ちたちが集まり、
ちょっとしたデモを起こした。彼らは周辺の農家に炊き出しを要求し、人足までそろえた。
その目的が停滞した経済を循環させてほしい(つまり質店の営業を円滑にしてほしい)という
ことだったというのは恐れ入る。ソースは「里正日誌」。

このことは高尾善希氏や、多摩地域を中心にしてたいへん面白い論考を重ねている漫画描きの
ブログで取り上げられている。

さて、この時中心に立った人物は「北野村の金五郎」という「博徒巨魁」であった。
金五郎はなかなかの人物だったのだろうが、このすぐ後、博徒同士の喧嘩で命を落とす。
資料も逸話も多くは残っていないが、かすかな資料を便りに調べを続けていけば、あるいは意外なことが見えてくるかもしれない。
0882名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/23(木) 23:44:49.00ID:mS15JqDf0
五代目・神田伯山に「御家人桜」という講談がある。と、こう書く由来はインターネットに
神田松山という方が貴重な五代目の講談を挙げてくれているからなのだが、
この「御家人桜」、非常に興味深い話が要所に盛り込まれている。

例えば藤屋万吉を大前田栄五郎と並べて、「関八州の日月」とまで持ちあげている。
更には
「この藤屋の萬吉という人は、常陸の栄助という侍くずれの旅人に、四十二歳の厄年に、六社明神の、けやきの、並木道で、
殺されたのでございます。もう十年も長く生きてえればこの人は、大前田に負けないようなりっぱな貫禄になれたものでございましょう。」
とも言っている。

小母澤などは、万吉をひどく量見の狭い人として捉えているが、随分違う。
さらには、万吉が人手にかかって惜しくも殺害されたことを明確に物語っている。(上でも記したがこれはほぼ事実である。)

実際、この講談で鐘を鳴らす藤屋万吉の姿は、実に渋く心の行き届いた良い役どころである。
また彼に娘が一人いたことも、これも事実。そして彼女は随分つらい憂き目にあったらしいこと、
史料からは追えぬが、これも事実に基づいているようだ。
0884名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/27(月) 22:55:43.66ID:4i5ll/H90
新門の頭・辰五郎について
「弱者には強く、強者には従う卑劣漢が、彼の本質である」のような書き方をする
ものをよく目にするが、
この見方自体、田村栄太郎の一見解にすぎない。その後翻刻が刊行された『藤岡屋日記』
や『浅草寺日記』を調べれば、田村の見解も的を得ていないことは一目瞭然である。

それならば子母澤寛や、その後の優れた物書きによって、好意的に解釈された侠客・辰五郎の
姿を受け入れておく方が態度としては望ましいと、私などは思う。
0885名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/02/27(月) 22:59:48.51ID:4i5ll/H90
かつて老人介護施設で、
浅草生まれのおばあさん、今生きておれば110歳くらいの方とよくお話したが、
「新門の辰五郎さん、は偉い人よ」とよく言っておられた。あと鼠小僧次郎吉も、
少し、呆けておられたが、私はあの人との会話は非常に楽しかった。

そう言う彼女の語る逸話の中の辰五郎頭は、やはり「侠客」として、話を聴く者の心の中にも残っていく。
0886名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/01(水) 17:38:23.20ID:IL1KDSjp0
豆州下田・本郷の金平は、本名由五郎(由蔵とも)と言う。
文政3年に下田の百姓藤右衛門の次男に生まれた。何の理由か、9歳の時に那賀郡江奈村
の百姓甚右衛門の家に養子に入ったが、20歳の時にぐれて家を飛び出し、実家に戻って来た。
当時既に父は亡くなっていたが、一家を継いだ兄藤右衛門(幼名・竹次郎)が出来人で
由蔵を匿った。「弟が真人間になったら人別帳に加えてやろうと思っていたためで」
と答えたことが、当時の役人の調べにも書かれている。

その後、菩提寺である海善寺の住職に助けられ、僧籍を名乗ったりしたこともあったが、
生来の元気さは押さえられることもなく、
大場久八に見込まれて、遂には東海道筋有数の遊侠の徒となった。
0887名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/05(日) 21:57:26.90ID:3OZ9p14p0
『藤岡屋日記』の文久二年の項に「コレラ獣」の話というのがある。
武州多摩の諸地域(中藤、三ツ木、谷保)などでコレラから回復した人の家から
イタチのような獣が逃げて行くのが度々目撃された。
実は、この獣こそコレラの源であるとされ、三ツ木村では一匹が棒で打ち殺され、
しかも三ツ木村平十郎なる者が、これを「喰った」とされる。
平十郎の感想では肉は意外に美味であったとのこと。

問題はこの百姓・「三ツ木村平十郎」だが、多分実在の人物で、しかも名の知られた侠客のようである。
確かに、そういう肚の座った人でもなければ、未知の獣の肉は食わぬだろう。
0888名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/05(日) 22:17:18.41ID:3OZ9p14p0
この三ツ木という地域は文政期には既に三ツ木丹次郎と言う親分がいたらしく、
天保の中期には、丹次郎宅は「中国地方出自の博奕打」らに鉄砲で襲撃され、
近村が甚だしく動揺した、との記録だ現れる。
明治になると、また相撲取り上がりの三ツ木の某という悪党が跳梁した。
0889名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/09(木) 22:35:42.39ID:OFUrxSnl0
江戸時代後期から使われていた言葉に「内会師」(内会仕とも書く)がある。
これは「表向きは博徒ではないが、素人たちと密かに博奕に携わる者」のことを
示す。
要するに親分を持たぬ、半可な博奕打ちのことである。
ただ、八州回りや組合惣代の旦那方からは、本物の博徒よりも始末に困る者として
マークされていたようだ。 其の手の史料にはしばしば唐突に登場する。
また芝居などでもよく使われる。 反対に辞書ではなかなか出てこない言葉だ。
0890名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/09(木) 22:41:34.36ID:OFUrxSnl0
同じく「市切」という言葉もよく使われる。
これは大都市を中心に「市」が開かれた日に会わせて行われた大賭博のことで
この日は近隣・遠方から多くの博奕打ちたちが集まった。

大都市ではだいたい「六歳市」という月に6日の市が立ち、大変なにぎわいを見せた。
それに合せて賭場が立つのである。
0891名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/09(木) 22:59:05.81ID:OFUrxSnl0
土支田の新鍛冶事、榎本新左衛門は名主の次男である。兄が土地の名士榎本常三郎で、
常三郎もまた、古今無双の人物。背丈は高くニ十貫を越える体躯で、腕っぷしは無論、
頭脳も明晰だった。新左衛門が出入りの際には、この町の名士である常三郎も、むしろ
後を押して、共に武器を揃えて、怒声を発したという。

新左衛門は神山の栄五郎の賭場に出入りし、そこで認められ、
栄五郎の親分である大侠客・清水次郎長の目に叶い、そこでみっちり修業を付けられた。

後年博徒狩りで捕縛され、法廷に立った際、顔色も変えず
「富士の山頂から見通しの利く場所は、みな私の縄張りだ」と語り、裁判官一同を
押し黙らせたという逸話は有名である。
0892名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/09(木) 23:33:06.51ID:OFUrxSnl0
現・東京都町田市に含まれる場所に、昔で言う「木曽村」があった。
この木曽村の名主の長男に生まれた博徒に木曽の嘉十郎がいる。
赤鬼金平と清水次郎長との喧嘩の手打ちの際に「刀預かり役」を務めた
「橋本の政八」の子分になって売り出した。

この嘉十郎、今までそれ程大した顔役と思っていなかったが、なかなかどうして、
旅の長脇差などは高名を聞き付けて逗留し、嘉十郎もかれらを持て成した後で、助力を要請し、
近隣の博徒達を斬り従えた。その勢力は相当なもので、小金井小次郎遠島中の留守を守った
陣屋三之助とも兄弟分になっている。
0893名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/09(木) 23:35:57.48ID:OFUrxSnl0
ただ、あまりに勢力の拡張が露骨で、腕づくのため「侠客」と呼べるかどうかは疑問が
残る。

隣村の原町田の弥兵衛親分は、彼がいなければ「市」が開けない、とまで
言われるほどの、地元にとっての良い顔の親分だったらしい。
0894名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/11(土) 22:16:49.56ID:O10xnTnt0
隣国に「甲州博徒」と呼ばれる集団がいることで、武州の博奕打の活動は
地味に見られがちだが、実際そんなことはない。安政から慶応にかけて、
それこそ毎月のように事件が起き、集団の出入りが行われ、親分同士が殺害された。
むしろ甲州や上州よりも規模は大きいのかもしれぬ。
小川の博徒や府中、青梅、八王子の博徒、小野路の集団、入間・比企のそれなど。
詳しく見てゆくとどれもウンザリするような殺伐としたものだ。
0895名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/11(土) 22:26:30.96ID:O10xnTnt0
そんな中、慶応四年に小金井小次郎が帰って来ると、事態が緩やかに変化する。
彼のもとに統一化が図られてゆくのである。
別に小次郎を英雄視するわけではないが、殺伐とした状況が、鎮静化する。
これはやはり彼の器量と経験がものを行ったのだろう。
三宅島に流されてから、刃物をとっての闘争よりも、「人を喜ばせ」自分も喜ぶことに、
彼の思考が変化して行った。その賜物としか思えない。
面白い事に彼が帰って来ると、半ば無頼の殺伐としていた子分たちすら、「侠客」になってゆく。
新橋長蔵や五宿米吉などは、その良い例だろう。
小金井小次郎は、(変に肩を持つわけではないが)やっぱりすごい男だ。
0896名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/11(土) 22:41:34.59ID:O10xnTnt0
『小金井小次郎伝』に記されているが、実際に小次郎(と、その妻ノエ)に会った
講釈師の話だと、小次郎はとにかく上背はあった。押し出しの利く風貌で、
しかし顔は「間の抜けたような」人の良い顔だったと言う。この点
今日残る次郎長の写真のような「圧迫感」や、高萩万次郎のような「鋭さ」とは違っている。

まさにこの点こそ、小次郎の最たる長所だったのではないか。
0897名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/12(日) 22:00:22.98ID:7TyQXIXy0
府中の藤屋万吉が斬られたのは元治元年の正月二十二日。夜五つ時(九時ごろ)
場所は伝承の通り六所宮(現・大国多摩神社)の並木道だろう。
下手人は三人で、頭・肩・胴の6カ所をやられた。娘が脇を抱えて医者に連れて行き
一応の処置がされた。

以降、府中宿にいては危ないということで、四軒寺(吉祥寺)の藤蔵の下で介抱されたが、
回復せず、同年六月二十八日、遂に鬼籍に入った。
戒名の「勇道帰本居士」が示すように、島から帰って、一度は返り咲き、その後亡くなったようである。
色々説はあるが、やはりすぐれた親分であったと思われる。
0898名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/12(日) 22:31:19.70ID:7TyQXIXy0
祐天の仙之助は、講談等で言われる元紺屋町の行蔵院(こうぞういん)の生まれではなく、
そこより、西へ一本道をずらした元柳町の清長院に生まれた。
法名は「由天」(「宥天」とも)と書くのが正しい。安政6年還俗して、僧籍を捨てる。

その後「清長院仙明」という人物が修験としての跡を継ぐが、あるいはこれは
仙之助の倅である可能性がある。
0899名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/03/13(月) 18:31:39.61ID:CFnaJoj/0
牧太郎の大きな声では言えないが… 「義〓心」という教育
(毎日新聞 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20170313/dde/012/070/004000c

> 「利根の川風、袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)さす高瀬舟」の名文句で始まる「天保水滸伝」。

> 主人公の繁蔵は子供の頃から漢学や数学を著名な師について学んだ秀才だが、
> 体が大きく、巡業に来た江戸相撲の千賀ノ浦にスカウトされる。
> しこ名は「岩瀬川」。
> 力士を廃業してからは、故郷の下総・笹川(千葉県東庄町)に戻り、博徒の親分になった。

> もう一人の主人公・助五郎も力士上がり。
> 飯岡(千葉県旭市)を縄張りにする博徒でありながら、
> 関東取締出役の案内人として「十手を預かる二足のわらじ」だった。
> 当時、弱体化した幕府の治安警察の役割をやくざが代行するケースもあった。
> 浪曲では「権力」を振りかざす助五郎は嫌われ者だった。
> 天保15(1844)年、両者は衝突する。
> この「大利根河原の決闘」は繁蔵の圧勝に終わるのだが、
> その数年後、繁蔵は助五郎の闇討ちにあい殺害される。

> 実は、主役以上に人気を博した男がいる。
> 繁蔵の“一の子分”の勢力(せいりき)富五郎である。
> 「二足のわらじ」の助五郎と「関東取締出役」という警察権力に徹底的に抵抗する。


それはそれとして「?」が環境依存文字で使えないなら「侠」に置き換えればいいのに
0901名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/13(月) 23:17:09.42ID:rjRY+sHu0
私は、その旧字こそが「侠」の本質を示していると思います。
この字は、全てが「人」から出来ており、しかも二人の人を小脇に抱える一人の人間の姿を現している。

人は社会の中に生きる動物ですが、
その中でも侠者は自らの不利を顧みず、他人を懐に匿い、守る者であることを示しているのでしょう。
その生き方は今の時代に反し、また全く得るところの無い損な役周りばかりかもしれないけど…
庶民が理想とする人間の在り方の一つなんじゃないかな、と思います。
0902名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/03/18(土) 23:34:48.23ID:o7ePAlgi0
一ノ宮万平事、杉本万平親分の墓は、一ノ宮の真明寺無縁仏墓石群の中央に建つ。
墓石には大塚勘五郎、東中野才次郎(小才次)といった万平腹心の大親分と
関戸長兵衛以下の直参クラスの名が刻まれて、一緒に供養されている。
施主の名は無いが、まず間違いなく万平子息の藤三郎と八王子の亀吉(伊野亀吉)の連名だとされている。

以前は気づかなかったが、墓群の中に万平だけの墓と、藤三郎の墓があることがわかった。
前者は残念ながら墓石の位置から、施主がわからないが、後者は施主がはっきりとわかる。
「伊野亀吉」と「永井忠吉」の名が刻まれている。

亀吉は有名なそば亀の事。忠吉は不明。
0903名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/03/20(月) 20:57:11.42ID:VXF8yA8f0
極めておおざっぱな分け方であるが、文久年間から先の東海道筋の仁侠史は
次郎長派と勝蔵派とに二分される。

次郎長派は、小俣周太郎、大和田友蔵、寺津馬之助、長楽寺清兵衛、和田島太右衛門、国分三蔵、小金井小次郎、高萩万次郎など
勝蔵派は、大場久八、丹波屋伝兵衛、雲風亀吉、宮島俊蔵、堀越藤左衛門と言ったところである。
0904名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/03/20(月) 21:12:38.87ID:VXF8yA8f0
ここで注目したいのは武州の動向である。
駿州にも宮島俊蔵(吉原宿)という異端の勝蔵派がいたが、
小金井一家や高萩一家に代表されるように一見完全に「親・次郎長派」とも見える武州にも強力な勝蔵派がいた。
慶応年間、甲州藤之木村で警吏を殺した黒駒党の逃亡者十数人を匿ったのは、橋本村(相模原)、木曽村(町田市)の
「平野屋」一派である。
頭の平野屋政八は丹波屋伝兵衛の腹心。更に政八の子分・木曽の嘉十郎は、
当時八王子の道案内頭になったばかりの岡引親分・永戸屋和三郎(元、所沢道案内)に急接近する。

この働きかけにより、甲武州間の大動脈である甲州街道の、要衝「八王子」に親・勝蔵派の一拠点が生まれたと考えられる。
よって、この地で親次郎長派の小金井小次郎や、国分三蔵弟分の御殿伝蔵が捕まったこと。
また後年丹波屋伝兵衛が居住することになること等、この時の動向に無関係ではないだろう。
0905名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/21(火) 22:50:53.75ID:Ure4hPkb0
川越藩には「松平大和守日記」という史料がある。これは藩内の人事、事件、褒章など雑多な
情報を記したものだが、川越藩自体、武州川越、江戸藩邸、前橋陣屋と複数の要所があるため
年代・時期によって記録地が異なる。
興味深いのは、褒章や事件記録の際に、川越藩の目明しの表記がまま記されることである。
「関口栄次郎」すなわち大前田栄五郎義弟の福田屋栄次郎は、伝承の通り、
前橋の目明し頭をしていたことが、これで判明する。
0906名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/21(火) 23:23:10.04ID:Ure4hPkb0
「赤城録」の中で、栄五郎を「前橋の頴五」とも「川越の頴五」とも書くのは、ここに依拠してるのではないか。
浅田晃彦の『上州任侠大前田英五郎の生涯』では大前田栄五郎自身が「武州川越」に居住していたことを
上の記述に拠って推測しているが、事実は多分違っていて、
おそらく上州で勢力を構え、川越・前橋藩の十手を受け持っていたのだろう。
そして、後年になって十手業を栄次郎に譲った。
そう考えると辻褄が合う。
0907名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/27(月) 22:07:45.81ID:m5durtBg0
「伊藤好一」という学者の名は、関東近世の文献を当っているとよく目にする。
すでに98年に亡くなられているが、この方が掴んでいた近世後期、幕末期の農村部の状況や
社会制度の知識は追随する者がいない。
特に関東取締出役や改革組合村についての理解は、今日の誰も及ばないのではないか。

農村の日記や、各地方史の編纂など、この人が関わっていないものを探す方が大変なくらいだ。
岡引や無宿博徒の者についても、多大な知識をもっていたことが、そこここの書き物から
散見される。しかし一冊にまとめることなく亡くなってしまわれたことが実に残念だ。
0909名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/03/28(火) 00:47:43.31ID:NBK0DdCr0
人模様 幕末・明治、熱い男に魅せられ 伊藤春奈さん
http://mainichi.jp/articles/20170327/dde/012/070/012000c

> 幕末期のノンフィクションものを中心に執筆を続けているライターの伊藤春奈さん(39)が
> 新著「幕末ハードボイルド」(原書房)を出版した。

> 立命館大在学中からライター活動を始め、歴史ものを中心に書籍・雑誌の企画や執筆を続けている。
> 前作は出身地の長野県伊那市ゆかりの博徒「伊那の勘太郎」の実態に迫った。

> 今作は対象を広げ、幕末動乱から明治初期に生きた熱い男たちを取り上げた。
> 新選組や高杉晋作の奇兵隊などは有名だが、それを陰で支えた博徒や〓客(きょうかく)、無名戦士がいた。
> 彼らこそが法外で面白い。

> 例えば後年、大阪で「老〓(ろうきょう)」と呼ばれた小林佐兵衛は、
> 私財を投じて町の火消し活動に燃えた「親分」だった。
0910名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/04(火) 22:59:07.72ID:hNi0U6qb0
上でもいくつか触れた「田中屋万五郎」について
『くにたち郷土文化館研究紀要 No.8』(2017、3)
に、短いけども、数々載っています。

こういうのは…良いのかわからないけど…
何より親分のことが周知されることが第一なんで。
一寸お許し願います。
0912名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/11(火) 23:56:49.91ID:Ae3fz3S40
『古老の語る田無町近世史』(町史を聞く会 編)という本がある。1957の物で、手書きである。
しかし内容は豊富ですばらしい。

・「稲荷の増五郎が当町の幹部であった。」
・「小次郎の兄弟分が増五郎であり、増五郎の子分が徳蔵である。」
・「小金井小次郎が徳蔵親分の所へ年老いてから、”ツエ”をついて遊びに来た、という事は
  よく聞いた。徳蔵親分が、神奈川へ出かける時は、何度も送り迎えが大変であった。
  これを小次郎が聞いて驚いたそうである。
  亦境界に浅五郎がいて、その人が長生きしたのでその家に遊びに行った。その後
  ”孫さん”というのがいて、博打を渡世に過ごしたという。(中略)
  通称孫小僧は前科13犯であった。
0913名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/15(土) 11:15:11.44ID:OWVQbIOC0
増川仙右衛門

『東海遊侠伝』だと巻之四、第十回。いわゆる「菊川の手打ち」(次郎長と金平の和議の式)
が初出だろう。

登場と同時に次のような小文字の解説が入る。

「駿州増川ノ産、佐二郎の子ナリ。佐二郎遊侠ヲ以テ聞フ。後チ数年、金平ノ党、竹之助、民五郎、力松、
 亀吉等、十六人、襲テ之ヲ殺ス。仙右乃チ走テ長五ニ依リ、以テ声援トナシ、竹之助等数人ヲ殺シ、
 遂ニ長五ノ家人トナル」

おおよそ、彼の前歴を知るには十分な記録である。
 
0914名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/18(火) 23:31:42.11ID:syqMS+tm0
今の時代は長谷川伸や子母澤寛の頃よりも、遊侠の文書史料が手に入れやすい時代であると思う。
そのことは、90年代よりも更に簡易になっていると思う。
情報ネットワークの発達に拠るものだ。

しかし、それに奢って「足」を使う研究を止めたら、途端に、史料の中の遊侠たちは
姿をかくしてしまうだろう。
0915名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/18(火) 23:39:15.99ID:syqMS+tm0
慶応2年 黒駒勝蔵、平井の雲風、駿州宮島俊蔵人相書き

一、中丈ニ而色白し    甲州東郡黒駒無宿 勝蔵 年三十四歳

一、大男ニ而色黒く惣髪ニ而前歯壱本なし  三州平井無宿 雲風 年四十余り

一、中丈ニ而色白く髪毛少し        駿州宮嶋無宿 本名市蔵 歳蔵 年四十余り
0917名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/22(土) 15:45:13.28ID:zVSG8Psv0
往時の間取り再現へ 改修中の清水次郎長生家
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/351563.html

> 幕末・明治の侠客(きょうかく)清水次郎長(1820〜93年)の生家
> =静岡市清水区美濃輪町=の保存に向けた改修工事で、
> 天井裏に残されたすすや柱の痕跡から、次郎長が生まれたころの間取りが明らかになってきた。
> 改修に当たっているNPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」は、
> 地域の観光資源として往時の姿の再現を目指す。

> 同会会員で工事責任者の伊藤貴広さん(40)=焼津市=によると、
> このほど、柱の痕跡から現在の土間に部屋があったことが分かった。
> 天井撤去後に現れたすすで黒くなった壁から、もともと天井はなく、かまどがあった場所と推測できるという。
> 「町屋は改修を重ねることが多いが、履歴の資料が残っていることはほとんどない。
> 次郎長生家もかなりの頻度で手が加えられていたことが分かった」と伊藤さん。

> 改修は、次郎長が生まれた当時の間取りをもとに、
> 生活やリフォームの痕跡をできるだけ残しながら、
> バリアフリーや耐震性などにも配慮して6月末の完成を目指す。
> 同会の牧田充哉会長(静岡市清水区)は
> 「次郎長の人物像やまちの歴史を多くの人に発信する拠点にし、
> 清水港周辺をにぎやかにしていきたい」と改修を待ち望む。

> 生家は雨漏りやシロアリの被害、建物の傾きなど老朽化が激しく、
> 1月に修復、改修工事を始めた。
> 工事費用は募金を中心にまかなわれているが約300万円不足しているため、
> 同会は今後も募金活動を続けていく。
0918名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/22(土) 21:32:52.83ID:pxn3ZYGO0
俗に言うところの「平井の事件」について。
雲風の所に逗留していた黒駒勝蔵を、次郎長一派が急襲したのは
「元治元年」という事が定説になりつつあるようだが、これは「文久3年」が正しい。

またここで「大岩・小岩」が死んだことになっているが、
実はどちらも死んでない。(ただし黒駒側が敗北し、子分五名が殺害されたのは事実である。)
0919名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/22(土) 22:29:42.85ID:pxn3ZYGO0
随分前の書き込みで(587)で足利市寿徳寺にある江戸屋一家の碑の、
「玉吉」の部分を「慶応3年 勢州立野町戦死」と迂闊にも訳したが、よくよく見れば
「慶応2年 勢州立野町戦死」が正しい。

そしてこのことは荒神山の戦い(慶応2年4月8日で確定)の後、
安濃徳が「罪ヲ玉吉ニ帰シ、遂ニ之ヲ斬リ、其首ヲ以テ謝」した事と無理なく繋がる。
依って江戸屋一家碑にある玉吉は、「館林の玉吉」その人で間違いなく、
同時に、この碑文に記された人物の没年は、かなり正確であることが窺いしられる。
0920名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/04/22(土) 22:33:57.04ID:pxn3ZYGO0
とすれば穂北の久六も
「安政2年6月1日 尾州葛郷大川村(知多郡乙川村)戦死」が正しいように私は思う。
0921名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/05/05(金) 17:43:49.76ID:yR3TX7JY0
こんなスレあったんだね
俺はここでチラホラ書かれている吃安こと中村安五郎の子孫だから気になってしまうw
曽祖父が三代目の久義で祖父が吃安の妹の玄孫に当たるらしい
0922名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/08/06(日) 01:00:46.07ID:yYy+NKLg0
「石松三十石船」は、本当に良いよね
滑稽で笑える作りなんだけど、「これから石松が死ななきゃならない」
っていうことを、それとなく暗示させていて、聞き終わった最後が
なんとなくさびしい。
石松っていう無類の好男児を、わずかの間に余すところなく伝えている。
まさに話芸中の快作だと思う。
0923名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/08/08(火) 17:07:22.16ID:J0Xq/xSR0
花山薫の話をしようじゃないか
0924名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/08/18(金) 15:17:11.26ID:0KsXB8HB0
明治40年、当時街道一厳格な親分と言われた、神奈川の半鐘兼さん(堀井兼吉)が、
全国の大親分の霊牌を並べて大法要をした際の順位は、次の様であったという。

1.大前田栄五郎
2.大場の久八
3.丹波屋伝兵衛
4.丸屋の忠吉
5.相模屋政五郎
6.新門辰五郎

(7位以下は不明。次郎長、勝蔵、小金井小次郎などの名はずっと下にあった。)
(*子母澤寛『男の肚』より)
0925名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/08/19(土) 08:49:47.08ID:iPh/NoDq0
強きを挫き弱きを助けるような任侠道って本当にあったのかね・・・。

はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。
0926名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/08/21(月) 19:39:57.36ID:Y7/Rjc1x0
侠は見返りを求めてはいけない。
見返りを求めたら、それは侠ではない。
0929名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 13:40:08.80ID:I/Y5AjPQ0
近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

ICSP8
0932名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/05/18(金) 17:41:51.29ID:qjr9q9vs0
次郎長生家、子孫から静岡市に寄贈 20日、贈呈式
(2018/5/18 08:00)
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/491380.html

> 幕末・明治の侠客(きょうかく)で清水港発展の礎を築いた>清水次郎長の生家(静岡市清水区)が、
> 次郎長の子孫から静岡市に寄贈されることになり、20日に贈呈式が行われる。
> 生家は3月に国登録有形文化財に指定されたばかり。
> 市の担当者は「市が目指す海洋文化の都市づくりに生かせるよう活用を進めたい」と話している。

> 生家は次郎長の子孫が受け継いできたが、高齢になったことなどから管理が難しくなった。
> 管理に協力するNPO法人地域づくりサポートネットによると、
> 寄贈を決めた所有者の女性は、市に生家を託すことで
> 清水の貴重な歴史財産を次世代に残したいと願っているという。

> 市は今後、NPO法人と連携して活用を進める。
> 具体的な取り組みとしては、多言語化による外国人観光客の誘致
> ▽子どもたちが港の歴史を学べる教育の場づくり―などを検討している。
0933名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/05/21(月) 05:27:20.23ID:ONYRGj0h0
次郎長生家を市に寄付 静岡所有者「地域のお役に」

中日新聞 2018年5月21日
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20180521/CK2018052102000041.html 

> 三月に国の登録有形文化財に登録された、幕末、明治の侠客
> 清水次郎長(一八二〇〜九三)の生家(静岡市清水区美濃輪町)を、
> 所有者が静岡市に寄付し、六月から市の施設になる。
> 今後は市が主体となって観光客の呼び込みや、まちづくりに生かす。

> 二十日、静岡市清水区島崎町の清水テルサで寄付の贈呈式があった。
> 次郎長生家の現在の所有者服部千恵子さん(74)や静岡市、市財界の関係者らが出席。
> 服部さんが目録などを田辺信宏静岡市長に手渡した。
> 服部さんは「協力してくれたみなさんのおかげで文化財になった。
> 地域のために役立ててもらえるとうれしい」と話した。
0934名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/05/25(金) 14:21:51.36ID:Wop9QL++0
盗賊、侠客から妖術使いまで 江戸の悪人が集結する『江戸の悪』展が再び

展覧会『江戸の悪 PART II』が6月2日から東京・原宿の太田記念美術館で開催される。

会期中は都内の様々な会場で「悪」をテーマにした展覧会が開催。
歴史資料や創作物の中の「悪人」および「ヒーロー」の虚像と実像に迫る『悪人か、ヒーローか Villain or Hero』が
6月6日から東京・駒込の東洋文庫ミュージアムで開催されるほか、
東京・渋谷の國學院大學博物館では6月1日から『惡―まつろわぬ者たち―』、
東京・銀座のヴァニラ画廊では5月30日から『HN【悪・魔的】コレクション〜evil devil〜』、
東京・半蔵門の国立劇場伝統芸能情報館では6月2日から『悪を演る ―舞台における悪の創造―(仮)』が行なわれる。

https://spice.eplus.jp/articles/188002
0935名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/06/06(水) 17:43:04.47ID:3LXaxzTj0
博徒の幕末維新
高橋敏著 ちくま学芸文庫

文庫判 256頁
発売予定日 2018/06/07
ISBN 9784480098740
JANコード 9784480098740
本体価格 1,000 円+税

2004年に出版され、その後長く品切れとなっていた
ちくま新書版を文庫化。
0936名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/06/11(月) 05:13:01.86ID:gBSe9alV0
「戊辰物語」(岩波文庫)と題する本を手にした…
=2018/05/28付 西日本新聞朝刊=

▼維新の年の旧暦5月、上野戦争が起きる。
旧幕府方は上野の山に陣を構えたものの、わずか1日で撃破された。
辺りは戦死者で覆われたが新政府は反逆者として埋葬を禁じたという

▼「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」。
処罰も恐れずに地元の侠客が寺に手厚く葬った、と本書は伝える。
新しい国づくりを夢見た者たちだけではない。
徳川家への忠義に殉じた人たちの戊辰の物語もある。

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syunzyu/article/419957/
0937名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/06/22(金) 18:04:24.12ID:wmeTQdj00
https://mainichi.jp/articles/20180622/ddl/k12/040/097000c
浮世絵展 房総ゆかりのヒーロー描く 東金で30日まで /千葉

> 江戸時代の房総ゆかりの人物や事件を題材にした浮世絵など36点を展示した
> 「浮世絵でつづる房総人物伝アウトローたち」が
> 東金市求名の城西国際大水田美術館で開かれている。
> 30日まで。

> 浮世絵「天保水滸伝」は、幕末に利根川下流域を根城にした博徒らによる抗争を
> 中国の小説「水滸伝」にたとえて脚色した物語を、三代歌川豊国らが描いた。
> 歌舞伎の人気役者が演じる入れ墨を背負った博徒の親分や、
> 大立ち回りの場面などが色鮮やかに迫力ある版画で表現されている。
> 後に歌舞伎の演目や読み物にもなり、庶民の間で広く親しまれた。
> 山口真理子学芸員は「数千人の岡っ引きに囲まれて戦い、自決する博徒が、
> お上に抵抗するヒーローとして当時の人気を集めたようです」という。
0938名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/07/13(金) 02:14:53.64ID:1U7MWZBG0
「博徒の幕末維新」高橋敏著
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/233145

> 博徒や侠客の足跡からたどる異色幕末維新史。

> 嘉永6(1853)年6月8日深夜、甲州竹居村の安五郎ら流人7人が流刑地・新島から島抜け。
> これまで多くの流人が島抜けを試みたが、ほとんどは捕らえられ、
> 再び世間にその名をとどろかせたのは安五郎ただ一人だという。
> 彼の島抜けが成功したのには訳があった。新島を所轄する韮山代官が、
> 数日前に下田沖に突如現れた黒船への対応に追われていたためだ。

> 博徒の安五郎を故郷のヒーローに押し上げた当時の甲州の時代背景を解説。
> さらに安五郎の遺志を継いだ黒駒勝蔵や下総天保水滸伝の張本人・勢力富五郎、武州石原村無宿幸次郎など、
> アウトローたちの人生を文献史学の手法で明らかにしながら歴史に位置づける。

> (筑摩書房 1000円+税)
0939名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/07/13(金) 03:33:10.50ID:pegqJS3X0
いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

UP4
0940名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/10/07(日) 18:47:30.60ID:d4OaIxtS0
『幕末アウトロー 維新の陰の立役者「侠客」たちの生き様』
マイウェイ出版 (2018/10/29)

こんなムックが出版されるらしい
よほど詳しい人物が執筆・編集に携わっているならともかく
既成の出版物をテキトーに継ぎ接ぎしたような内容なんじゃなかろーか
今のところ期待はまったくしていない
0942名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/02/24(日) 18:43:57.87ID:NprBVkDm0
【第51回江戸時代サロン】
〜間違いだらけの時代劇を斬る〜江戸時代の侠客とは?
https://settsu.goguynet.jp/2019/02/15/edojidaisalon-4/

とき:2月25日(月)10:00〜11:30
ところ:摂津市立コミュニティプラザ第5会議室
参加費:500円(資料代・飲み物代含む)
申し込み:直接会場へお越しください。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:b2de917b728ab9e5558312d80b0923fb)
0943名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/02/24(日) 18:49:06.47ID:NprBVkDm0
ただ忌み嫌うだけでなく、タトゥについてもっと知ろう
https://getnews.jp/archives/2125900

> 江戸時代中期には、和彫が大流行
> 鳶や大工、火消し、飛脚といった肌を露出することが多い職業の人たちや
> 侠客が、カッコよさを求めてタトゥを愛好。

> タトゥ=タブーとなった明治時代
> 明治政府は古い日本の風習を取り締まったもの。
> タトゥもその一つとなり禁止令が出たのが1872年、1948年まで非合法の存在となりました。
> 思うに、タトゥ=アウトローというイメージが強まったのはこの時期。
0944名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/24(日) 19:19:06.48ID:cPB1Bz/C0
門口を借り名前を申し上げ
失礼にございますが
お貸元東雲一家
下河原重蔵さんと仰せられる
親分さんのお宅はこちらでございますか

御意にござります

修行中の者です
0945名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/27(水) 07:37:26.62ID:obu3+SZn0
中日新聞 静岡
https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20190325/CK2019032502000039.html

「森の石松」町の誇り 仮装行列にぎわう

幕末の侠客(きょうかく)で映画や浪曲などでおなじみの
森の石松のふるさととされる森町で二十四日、
「森の石松まつり」(町観光協会主催、中日新聞東海本社後援)が開かれた。
0946名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/04/08(月) 17:38:44.02ID:BoWeYR450
こりゃあ何と 驚いたもんだ
秀次郎じゃないか 懐かしいじゃないか

これは兄弟

まあいいから 上がれよ
0947名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/04/28(日) 02:32:23.26ID:/7xEIU170
【元号の風景】(17)明治(1868〜1912年)
静岡市・清水港 「敵も味方も同じ仏」次郎長の男気
https://www.sankei.com/life/news/190427/lif1904270017-n1.html

咸臨丸が係留しているとの情報を得た新政府軍の軍艦「富士山丸」など3隻が入港し、いきなり砲撃をはじめた。
副長らは白旗をあげて無抵抗の姿勢をしめしたが、新政府軍の兵士らは甲板上に乗りこむと、
抜刀して斬りかかり、旧幕府軍の兵士をつぎつぎと殺害した。
遺体は海に投げすてられた。静岡藩をはじめ、漁民らは仕返しをおそれ、収容しようとはしなかった。
このとき、周囲の反対を押しきり、乗りだしたのが一代の侠客(きょうかく)・清水次郎長(本名・山本長五郎)であった。
0948名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 01:05:14.62ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke 2019年5月11日
明日SF乱学講座で「幕末ヤクザをどう描くか」という講師をするので、
集めた資料を読み直しているが、
上州では博徒が古墳(玄室や横穴墓など)を利用した賭場を開帳することがけっこうあったらしい。
「古墳ヤクザ」という相当にパンチのある言葉を思いつく。
古墳ヤクザ、何か心惹かれる。
0949名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 01:13:04.77ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
これは以前もツィートしたが、
昔のヤクザが賭場をどう開いたかの手がかりとして、
「民家スケッチ紀行」という本に群馬の四万温泉にあった
「博奕打の家」の間取りが載っている。
0950名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 01:16:17.88ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
この家は廊下のない全7部屋の家で、
中央の6畳で博打をし、周辺の部屋には見張りがいて、
一方からお上が踏み込んで来てみて、
反対方向に逃げられるように入口や窓が四方にあったらしい
0951名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 01:25:22.16ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
「群馬県遊民史」という本で紹介されている賭場に使用されていた民家は、
二階が賭場で脱出口が設けられていたとのこと。

白土晴一 @manetoke
賭場の建築を研究している人はいないんだろうか?
0952名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 01:34:48.70ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
ちなみに賭場ではないが、以前取材した甲州博徒の国分三蔵屋敷跡。
今は石垣しかないけど、この石垣が立派だった。
大親分の吃安や黒駒勝蔵を相手にした親分で、
幕末甲州ヤクザ抗争の中心人物だけに
財力や地位を感じさせるのに十分な感じさせる作りだった。
0953名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 01:47:19.36ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
ちなみに割と調べると、ここに賭場があったという記録は結構あるけど、
今もあるお寺や神社の境内なので名前を出しにくい。
賭場の場所代を「寺銭」というくらいだからねぇ。
明治になっても「○○寺の祭礼に賭場が立って、
混雑するから警官が整理に派遣された」なんて記述を見ると、なんとも・・・。
0954名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 02:09:28.99ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
天保水滸伝で有名な笹川繁蔵親分が地元の笹川の諏訪神社で奉納相撲を催し、
花会(博徒仲間に回状で呼んで行う臨時の賭場)を開いて
関東一円から親分が集まったという話もあるが、
こうなるともう観光資源なので問題もないんだろうけど。
0955名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 13:54:48.87ID:mlShJi+70
<奥羽の義>番外編・列藩同盟群像(1)多くの伝説 型破りな生涯

> ◎仙台藩「からす組」隊長 細谷十太夫

> ゲリラ部隊「からす組」を率いて30余戦無敗。
> 新政府軍に恐れられた仙台藩士細谷十太夫の生涯は、多くの伝説に彩られている。

> 戊辰戦争勃発後、探索方(諜報活動)に従事し、侠客や博徒と人脈を築いたことが転機となる。
> 白河で大敗した仙台藩のふがいなさを嘆いた細谷は、彼らを集めて「衝撃隊」を結成。
> 夜襲を仕掛けて新政府軍に勝利を重ねた。
> 隊員が黒装束だったため、からす組の異名が付いた。

https://www.kahoku.co.jp/special/spe1195/20190407_02.html
0956名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/13(月) 19:32:40.34ID:HlfUu1Fj0
甲州侠客傳 竹居の吃安 純米吟醸 【山梨県】
https://www.47news.jp/2848916.html

日本酒研究会月例会 全6回の2

瓶の裏のラベルは吃安について、以下のように紹介している。

竹居の吃安(1811〈文化8〉〜1862〈文久2〉)
本名を中村安五郎という。
八代郡竹居村(八代町)の名主中村甚兵衛の四男に生まれた。
しゃべる時どもるので『吃安』と呼ばれた。
子供の頃、家を勘当されて吉田の人斬り長兵衛に預けられたのがきっかけで博徒の世界に入った。
賭博によって捕らえられ、伊豆の新島に流されたものの七年後、島を破って甲州に戻り、黒駒の勝蔵一家を引き立てた。
男伊達を看板に義理と人情の世界に生き、村人からも慕われた甲州の侠客の大親分の一人である。
0957名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/20(月) 01:14:21.20ID:UqlBpPuI0
親分、てぇーへんだ! 悪党はあっしらだとバレやした 『江戸の目明し』 | J-CAST BOOKウォッチ
https://www.j-cast.com/bookwatch/2018/10/20008106.html

> 目明かしの実態は改心したとみえる元犯罪者であり
> 「一般の町人が目明しになるのはおかしい」と著者は指摘する。
> その前歴から江戸の裏社会に通じており、役人にとって情報収集にはうってつけ。
> 「蛇の道は蛇」。犯罪の手口に詳しければ捜査にだって役に立つ。

> 著者は、将棋史や盤上遊戯史、賭博などについての研究者。
> 遊戯史学会会長を務めている。賭博についての著作を準備中に、
> 江戸の博徒を調べている間に目明しに行きあたり、さらに資料に当たるなどして本書を著した。
0961名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/11/19(火) 22:43:51.22ID:NXWSvzsH0
新潟市歴史博物館(みなとぴあ)@minatopia

みなとぴあファンクラブに入りませんか?
観覧料割引や史跡ツアーなどの特典があります。12月には会員向け館長講演会を開催!
テーマ:「博徒と抗争」
講 師:伊東祐之(当館館長)
日 時:12月8日(日)午後1時30分〜3時
※12月4日(水)申込み〆切
講演会申込みで新規入会できます!

https://twitter.com/minatopia/status/1194865559449374720
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0962名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/11/23(土) 19:01:02.47ID:cW2ruZ7f0
「姐御」の文化史 伊藤春奈著
https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2019112200087.html
>上州(群馬県)は江戸期から養蚕が盛んな地域だったが、
>農家の副業である養蚕はその担い手である女に一定の現金収入と発言権をもたらしたという。
>なかには養蚕の技術と経営権を手にして一家の主導権を握る女性までいたそうだ。
>幕末の博徒・国定忠治を逃走中にかくまった菊池徳もそんな女性で、
>映画で拳銃をぶっ放したりする姐御・お品のモデルも徳だった。
0963名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/12(日) 14:41:25.13ID:eOJMPoGM0
新潟市歴史博物館(みなとぴあ)

講座「幕末蒲原地域の無宿・博徒と民衆世界」(全4回シリーズ)

日時:3月1・8・15・22日(いずれも日曜)13:30〜15:00
講師:伊東祐之(同館館長)
申込:2月21日(金)必着

第1回 3/1  無宿と幕藩制社会
第2回 3/8  博奕と民衆
第3回 3/15 無宿・博徒と町村
第4回 3/22 村のあぶれ者と騒動

http://www.nchm.jp/
0965名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/04/18(土) 10:07:58.87ID:o2kQSg/C0
新選組で暗躍した隊士・山崎烝の人的・情報ネットワーク?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191219-00010989-besttimes-life

近江国八日市宿の四郎左衛門は、侠客であったという。
この人物は慶応3年(1867)3月、田村佐弥太の仲介で会津藩に頼みごとをした。
田村は現在の近江八幡市出身で、新選組に入隊後、江田小太郎と名乗ったといわれる。

なぜ山崎は、このような手荒なことまでして、侠客の願いを叶えたのであろうか。
ひとつには、この時期には京都町奉行といった従来からの行政機関が、
機能しなくなってきていたということがあるかもしれない。

しかし、それよりも侠客が持っていた「ネットワーク」が注目される。
京都に非合法的に潜入してくる長州系の志士たちを把握するためには、
社会の「裏」のネットワークを握っているアウトローを把握するのが、最も合理的な方法だからだ。
0967名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/04/23(木) 03:23:33.94ID:YeT2zSAM0
清水二十八人衆

清水次郎長
大政
小政
森の石松
増川の仙右衛門
大瀬の半五郎
法印の大五郎
小松村の七五郎
桶屋の鬼吉
大野の鶴吉
相撲の常吉
関東の綱五郎
寺津の勘三郎
追分の三五郎
国定の金五郎
舞坂の冨五郎
田中の敬次郎
三保の松五郎
四日市の敬太郎
問屋場の大熊
清水の岡吉
鳥羽の熊
辻の勝五郎
伊達の五郎
由比の松五郎
吉良の勘蔵
興津の清之助
吉良の仁吉
0970名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/05/03(日) 16:06:13.94ID:elJ/HjCa0
朝日新聞デジタル みちのものがたり
国定忠治の道 群馬県、長野県 侠客がヒーローだった時代

テキスト https://www.asahi.com/articles/DA3S14460709.html
画像 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200430001366.html

> 侠客(きょうかく)や博徒がヒーローではなくなったのはいつからだろう。
> 海道一の大親分といわれた清水の次郎長や、
> 勝海舟と交流があった新門辰五郎らが活躍する映画や時代劇も近年見かけなくなった。
> 彼らと並ぶ著名な侠客の一人が国定忠治(1810〜51)だ。
> 劇や歌謡曲「赤城の子守唄」などで知られる生涯はどんなも…
0972名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/12/10(木) 06:42:24.66ID:73/vDQdi0
初めに「仁侠」という言葉の定義から。
辞書的な意味は「弱きを助け、強きをくじく気性に富むこと。」
そうした生き方を建て前とする人を「侠客」と呼ぶ。
仁侠映画の第一人者、マキノ雅弘監督は、
侠客を「やくざな稼業をしていても、やくざな生活はしない人」と定義している。
たとえば、賭博を生業にした渡世人でも、普段は貧乏長屋で暮らし、
近所の人から頼まれた仕事は何でもやってやり、
周りから粋な男と思われるために、角帯をピシッと結んだり
刺青を入れたりしている――
そうしたストイックな生き方をしているのが、本物の侠客。
ところが今の暴力団は、運送業とか土建業とか稼業の方がまともで
生活がやくざだから困ったものだ、とマキノは嘆く。

※運送業、土建業のほとんどが暴力団とは関係ありません。
0973名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/04/27(火) 14:15:25.94ID:Uvu+CjRo0
誰か身延半五郎について詳しい人いますか?
いたら、教えてほしいです。
0974名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/04/29(木) 23:17:00.61ID:5YOP9JvG0
子孫や身内に関係なしにインターネットに墓写真をあげ、
文献資料も、出典を上げず、他人のそれを無断で使用するようなことが
まかり通る様になった。
このスレッドでの私の書き込みも
そんな手合いに利用されるに至ったようなので、猛省の意味もあって、
これでおしまいにする。
0975名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/06/29(火) 01:53:10.25ID:/jVsxlS50
清水次郎長の生誕200年記念 ゆかりの地を歩く
https://www.asahi.com/articles/ASNDL72X5NDDUTPB003.html

> 幕末の侠客として知られ、清水港の発展や
> 富士山麓の開墾などに力を尽くした清水次郎長(1820〜93)。
> 生誕200年を迎えた今年、改めて
> その人となりに触れてもらうための町歩きイベントがあった。
> 参加者らは、次郎長ゆかりの地を歩き、逸話が残る「名物」も堪能した。
0976名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/06/29(火) 01:55:58.07ID:/jVsxlS50
清水次郎長 生誕200年 虎造節は今…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/72712

> 今年は侠客、清水次郎長の生誕200年。
> 一家を率いたヒーローが大衆の心をつかんだのは浪曲、
> とりわけ二代目広沢虎造(1899〜1964年)の「次郎長伝」の力が大きい。
> 老いも若きもまねした「旅ゆけば駿河の道に茶の香り〜」のだみ声の名調子。
> しかし、浪曲ファンは減り、義理人情に厚い次郎長を知らない世代も増えている。
> 希代の名人が魂を吹き込んだ「海道一の親分」に未来は―
0977名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/06/29(火) 02:01:26.20ID:/jVsxlS50
紙芝居や講談 愛着育む
https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO044595/20210621-OYTAT50082/

> 竜王町立竜王西小で絵本の読み聞かせを行うボランティア団体「ぽえむ」。
> 2010年に紙芝居「近江牛を愛し育てる人たち」を作った。

> 講談では、牛を連れた久次が箱根で山賊に襲われた際、
> 「海道一の大親分」と称された清水次郎長に助けられた故事なども盛り込んだ。
0978名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/06/29(火) 02:08:30.42ID:/jVsxlS50
青年はいかにして侠客となったか…池波正太郎の小説をコミカライズ「侠客」1巻
https://news.mynavi.jp/article/20210628-1911670/

> 池波正太郎原作による落合裕介「侠客」の1巻が、本日6月28日に発売された。

> 主人公・塚本伊太郎は、主人の使いの途中に父・伊織が斬り殺される場面に遭遇する。
0979名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/06/29(火) 05:47:34.23ID:1+LxvbcH0
ある日突然、浪曲に惚れたB
https://www.jiji.com/jc/v4?id=21yk3rokyoku0001

> 浪曲を聴いていると、この人かっこいいと憧れたり、
> いやぁ面白い人だわと記憶に強く残ったりする登場人物がいます。
> 私にとっての一人は、清水次郎長伝の中の一話、
> 『お民の度胸』に登場する小松村七五郎の女房、お民です。

> 私自身が日本酒ファンということもあり、
> 飲みっぷりの良さにひかれるのは『天保水滸伝』の剣豪、
> 平手酒造です。
0981名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/06/29(火) 06:05:04.79ID:1+LxvbcH0
鶏食文化は福岡にルーツ 竹川克幸氏
https://www.sankei.com/article/20170901-G3ZYI4UAZFLH5DJYK7DUG6CJYU/

> 四国に亡命した高杉晋作を庇護したことでも知られる
> 讃岐国(香川)の勤王の志士、日柳燕石が弘化元(1844)年の
> 九州遊覧の際に記した紀行文「旅の恥のかきすて」

マスゴミは燕石を「漢詩人」とか「志士」としか言わねーな
「侠客」はダークサイドで都合の悪い事実だから無視ですかそーですかw
0982名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/07/06(火) 07:05:01.45ID:3n356Xz90
『灸まん』の由来

手前どもは昔 代々 麻田屋久八という旅宿でございました。
その頃のこんぴら(琴平)の宿屋は石段上の並びにあったもので、他人さまには麻田屋ですが、
私どもは石段屋のおじいさんとこと斯様に申し慣れていたのでございます。
天領地のこんぴらには他国から学者、画家、やくざと
それは、それは、いろいろな人種が出入りしたものでございます。

天保何年のことでしたか、江戸から小金井小次郎という親分が、私どもへ泊りまして、
これが、また苦味走った鄙には稀れな好い男ッ振りでございまして、
『おい、女中さんよ。ここには、こんぴら灸てえのがあるそうぢゃねえか。』
あ、申し遅れましたが旅の疲れを癒す脚灸で、私ども婆ァがお客さまへのサービスで
一点灸をすえて差上げていたのが、ひどく、よく効くので、方々評判になっていたのでござります。
0983名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/07/06(火) 07:05:18.69ID:3n356Xz90
何しろ、相手がいい男なもので、
女中共が奪い合いで果ては、ぢゃんけんで決めたということでございますから、
男前には生まれたいものでござります。女中が特別柔いのをすえたのでしょうか、
『こいつは甘めえお灸だわぁー。』
と親分が申したそうで、小金井小次郎が甘いお灸だといったのが始まりで、
よく効く甘いお灸の麻田屋の金比羅灸というので名物になり、
家運益々繁盛致したということでございます。

私で丁度七代目、時勢でございますな。
もうお灸ではあるまいと、折角祖先の創めた甘い灸というのをとりまして、『灸まん』。
これで旅の疲れを癒して貰おうと存じ創めたのが、石段屋の灸まん、卵解きの饅頭でござります。
どうぞ、よろしゅうお引立てのほど御願いいたします。
0984名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/07/08(木) 17:27:35.90ID:3hIDhKG20
幕末のアウトロー:激動の時代に散った裏社会のあだ花
(高橋敏 国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学名誉教授)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01117/

> 江戸時代末期、博徒は親分と子分からなる「一家」を各地に形成し、
> ばくちの胴元として地域社会に深く根を張っていた。
> 黒船来航で生じた混乱に乗じ、彼らは公的な場に躍り出て一躍民衆のヒーローとなった。
> その後、幕末のアウトローがたどった運命やいかに──。

> 武装した反社会的集団が誕生
> アウトローが取り仕切る裏社会が成立
> 仁政を行った武闘派博徒・国定忠治
> 天保水滸伝の英雄・勢力富五郎
> 黒船来航に乗じて島抜けした甲州博徒・竹居安五郎
> 明暗が分かれた黒駒勝蔵と清水次郎長
> 秩父困民党を率いた博徒・田代栄助
0985名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/10(火) 23:53:28.32ID:2hH/1XCK0
もう書かぬ、と言ったが、
事情が違う。
一つだけ書き込ませてください。

甲州の大親分・三井宇七郎さんの墓石が何の前触れもなく撤去されたことを
本日ただいま知った。
ほぼ破砕済みと考えられる。現在できうる限り最大限、追跡してはいるけれど。

一つにはSNS等でもっと広く知らせられなかった自分の責任だ。悔やんでも悔やみきれない。
だが、事情・状況を十分に知りながら断行した寺側、
現状の問題から、その貴重性を訴えたのに、一切耳をかさなかった市教委の面々など
心から私は絶対に許さない。
0986名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/08/12(木) 01:49:47.44ID:5LUzSIjr0
> 山梨郷土研究会会員で『甲斐』第150号掲載「博徒三井宇吉とその周辺について」を執筆した
> 博徒研究の雄・原祥氏が先年ある寺院の無縁墓石群中に三井宇吉の墓石を発見。
> しかし昨日墓参へ訪れると全ての無縁墓石がなくなっていたとのこと。
> 原氏が各方面へ発見報告と保存依頼を行っていた矢先の出来事…。

https://twitter.com/jack1972frost/status/1425306634478243842
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0987名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/12(木) 01:58:09.96ID:LGfzzHwV0
三井卯吉事、三井宇七郎の墓に関してもう一つ言うと
この墓石は「宇七郎妻」によって建立されており、このことだけでも
注目に値する。

安政四年正月四日、山田町二丁目で宇七郎が殺害された際には、
傍らに妾の「しも」の遺体があり、彼女もまた惨殺されていた。
このことから、当時の検視では「夫婦殺害」とされてきたが、
少なくとも、宇七郎には「しも」とは別に「妻」を任じる女性がおり、
彼女が「夫」の墓石を建立したのだ。
そして墓石には宇七郎と共に「彼女自身」の戒名も合わせて記載されていることから、
その結びつきを永久に残そうとした、
その様に解釈できるのだ。
0988名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/13(金) 00:05:36.95ID:RuCMlwMM0
撤去された墓石群は、甲府の中心街にあった寺院のもので、
およそ70基。
その中に、三井宇七郎の他に私が確認できたのは、宇七郎弟(孫とも)とされる三井健次郎、
宇七郎の父とされる三井庄蔵の三名の甲府牢番の墓。
他に甲府勤番士、香具師の帳元。商人などなど。

これらが全部消えてしまったのだ。
再三市の調査要請をしたが、遂にされなかったのだ。

特に、甲州では非差別身分の皮作りの人々や、猿引、ささらすりといった芸能民、などが
甲府牢番支配に入り、その勢力圏は厳格で、浅草の団左衛門も介入できない。
三井氏とはそういう家系であり、それだからこそ
三井宇七郎(三井卯吉)は甲州一の顔役になれたのだ。この点を考察する上で一番大事な
証拠史料がなくなってしまった。
0989名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/13(金) 21:44:55.33ID:RuCMlwMM0
ブログとかtwitterとかの上手い人は、本当に物事が紛糾したり、正念場を迎えてるときは
上手に静観している。
決して助け船なんか出してくれない。
そして一連の厄介ごとが終わったあたりで、無難な記事を出して(たいてい「本」や「墓石」を写真にあげて)
一席ぶつ。それに追従者がでてもてはやされる。
そういうバランス感覚が良い人間がうまくやってるようだ。
最近は侠客を取り上げる人間もそんな輩が多い。

一方、泥臭く、けったいで、目立たず地道な活動をする人々、加えるに、損を平気で引き受ける人々
はもてはやされない。だいたい昔から何か(任侠研究も含め)一途にやってる人なのだが。

でも困ったり、困難を覚えているときに、こういう人たちに限って、ささやかにアシストしてくれたり
助言をくれる。
そういうのこそ、万金にも代えがたい、心からありがたく心強いものなのだ。
0990名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/08/15(日) 22:56:30.87ID:uYJvh3UJ0
そりゃ一般人だし、年収も多くないから
公機関や、企業相手に突っぱねたり主張するのは勇気がいるさ。
でも、やらないと後悔が残るからね。
それに、できるとこまでやったなら、結果的に申し訳なくてもせめて言い訳になるから、
墓石の返還は続けるよ。

そして、ここに書き込めば、自分で火のついてる時の気持ちを忘れないからね。
それが大事。
それが有用だ。
0992名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/16(月) 04:20:27.42ID:iDm/5SRD0
日野の「河野日記」、明治12年には玉川要蔵(の身内)と砂川の平蔵が喧嘩をした
という個所が、本当に一行だけ書かれている。

正確に言えば、要蔵の子分筋にあたる立川(柴崎村)の者が平蔵の賭場で辱めを受けたため、
帰ってから仕返しをしようとしたところに、いち早く平蔵側が奇襲をかけたというのが
そのあらましである。喧嘩は平蔵側の一方的な勝ちとなったが、要蔵は全く参加していない。
上のどこかに書いたかもしれないが、武器類をみんな畑に埋けて管理の目をくらませたのは
この時の話の様だ。

興味深いのは、この喧嘩に平蔵の助っ人として、田無の徳蔵とその身内が加わっていることだ。
平蔵、徳蔵は共に小金井小次郎の子分で、小次郎の墓石でも上位のところに書かれているから
多摩地域の相当な顔役だったと考えられる。あるいは両者は兄弟分だったか。
一方で要蔵は小次郎の子分だった、という話がたまに聞かれるが、どうも違うらしく思える。
むしろ柴崎から日野、八王子に入るところまで独立して勢力を持ち続けた親分のようである。
0993名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/16(月) 04:34:13.37ID:iDm/5SRD0
武州多摩地域周辺は、幕末から完全に小金井小次郎一家の縄張り一色かというと、そうは言えないらしく、
砂川、田無の間にある小川(大沼田、鈴木新田等も)は当然小川の幸蔵の持ち分だし、
新座郡に入って片山から先もどうも本来は違うらしい。
八王子へ入ると、一ノ宮の蕎麦亀、日光屋の吉五郎(兵吉の子)、小仏の健次郎、橋本一家の常吉
がそれぞれ独立して持っていた。このうち日光屋は兵吉(”ひょうきち”と読むらしい、正確にはちょっと字も違う)
が小次郎の兄弟分だったといい、また中心地の天王森には、天王森の民(または寺町の民)
という小次郎の子分がいたらしい。
さらに「絹の道」である浜街道沿いには町田へ向かって、藪柑子幸次郎、橋本宿の歴代親分たち(複数いる)、
大戸の万次郎(下川尻"かわしり”の万次郎)、木曽の嘉十郎、淵野辺の喜六、原町田の弥兵衛なんかがいて
それぞれ独立の一家を成している。
0994名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/20(金) 18:09:53.63ID:wdGlldhA0
墓石の回収は、残念ながら成りませんでした。
40ミリまですでに細かく砕かれてしまったとのことでした。

前に自分はここに、「故人は自分が出ることを望んだ時に、史料や遺跡として姿を現してくれる」
みたいなことを書き込みましたが、同じように、
「用事が済んだので、帰って行かれた」と考えるのは、
自分に都合の良すぎる勝手な解釈でしょうけど、
今はそこに気持ちを落とすしか方法が無い。
わずか3年の間だったけど、確かに墓石が確認できていた間に
左右・正面の文字は全て記録できたので(お写真も一枚だけ)、それだけでも
(こっち側としては)よかったと、勝手に思っておくことにします。
0995名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/20(金) 18:32:47.76ID:wdGlldhA0
とにかく最大限、対象に好意的な視点で、
史料に基づいた調べを、これからも続けてゆく。今回のことをした奴らには
三井宇七郎がいかに大物で、その時代の歴史を語るのに必要不可欠な人であったかを証明してゆくことで、
後々、必ずやったことを後悔させる。
0996名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/20(金) 19:01:07.19ID:wdGlldhA0
黒駒勝蔵と信濃で抗争した行栗(七久里)の初五郎事黒田初五郎さんの墓石は、
前に訪れた際、天竜二俣のお寺にしかと残っていた。
やはり今回と同じように、無縁を含むお寺のお墓を整理した際に、
わざわざそれだけ、住職が山門の前に残してくれていたのだ。ほとんど名の知られていないこの人を
それでもしっかり地元で残してくれていたと言うのは、今思うとほんとうに素晴らしい判断だったのだ。
0997名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/20(金) 23:00:21.63ID:wdGlldhA0
結局のところ、墓石の保護を早く行えなかった自分の責任が大きいのだろう。
無縁の墓同士が隙間なく並んでいて、なきに等しいわずかな墓石正面の空きスペースに、
行くときは線香を立てていたのだけど、寺側にも存在を伝え、喜んでもらえて、市教委は鈍いけどいずれ理解して
そのうち広いところに移すはずだから…と高をくくっていた。信じて油断しすぎてた。世間の道理も危機の意識も働かない世間知らずとはこのことだ。
その結果、お花を供えたことが一回もないままに終わってしまったのだ。このことは悔やんでも悔やみきれない。
0998名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/09/07(火) 20:59:52.98ID:mgMZnzI40
侠客の墓石の情報は、開示すると、アホがやってきて、写真にして
twitterに上げたり、下手なブログで陳列したりする(線香立てて手を合わせるだけでいいだろうに)

と言って全くの秘密にすると、今度は世間に周知されないで、結果的に市町村文化財課が動かず、
墓石自体が無くなることにもつながる。

兼ね合いが非常に難しいが、最悪は「無くなってしまう」ことなので
やはりなるべく機会あるごとに、情報を出していった方がいいのだろう。
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