徳川慶喜を語ろう
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まともに語れる場が欲しかったので立てました。
徳川と皇室ともにトップクラスの血を引き、強烈父上への世間の憧れ憎悪をそのまま引き継いでしまい、
思考過程を一切口に出さないままいきなり行動にでてしまう徳川最後の将軍について語りましょう。
周辺人物の話題もOK。
ヘタレ臆病者等々の罵詈雑言には適当にお相手を。 鳥羽伏見で錦の御旗を見て敵前逃亡をしたのは
ヘタレなのか、尊皇家として潔いのか、どっちか? 1に、ヘタレである
2に、周囲の会津や桑名が悪い。勝てる戦いで負けた連中に慶喜を罵倒する権利はない。(中村彰彦よ、星亮一よ、お前らは馬鹿だ)
3に、薩長にとっては望外の幸運だった ヘタレねえ・・・
京都での奮闘振りや後半生の静かな強さを感じる生き様なんか見るとどうもしっくりこない・・
それにしても中村氏や星氏の評判はよほど悪いね。
誰かを問答無用で罵倒する姿勢は歴史に親しむものとしてどうかと自分も思う。 大政奉還のときに二条城に出向いた在京40藩の重役ってのは誰なんだ? 代表的なのは薩摩の小松帯刀と土佐の後藤象二郎ですが、他藩も京都に代表や彼らの部隊を置いていましたので、
彼らへの宣言となったというわけです。
居なかったのは、当時朝廷からの正式の赦免を得ていなかった長州と、小藩の類でしょう。 >>12
なんかネット上に出席者の一覧が見れる資料とかないですかね?
ググってもヒットしなくて… 井伊直弼らが将軍就任邪魔しなければ日本史は変わってたかもな 言っても詮無きことですが、
阿部正弘が長生きし井伊直弼を退けていたなら後の一橋派は全て幕府中枢入りですので、
後の勤皇佐幕の構図で、勤皇派がほとんど草莽しかいなくなってしまいます。 慶喜、大好きなんだが賛同者が殆どいないんだよなぁ・・・
大阪城の件さえなければ、好感度はそんなに悪くならなかったと思うんだよね 好感度を悪くしているのは戦争したがった主戦派や戦争で故郷が負けた事を悔やんでいる郷土史家だけでしょうw
大坂城の慶喜を丹念に見ていけば、夜逃げ説は覆せるんだがなぁ ↑
俺が説明しても信じずに難癖付けるのがオチなので、まずは本を紹介しておこう。
『徳川慶喜公伝』さらには『昔夢会筆記』を嫁。
さすれば、慶喜が何をしたかったのか。そして京都へ進撃やらかした大暴騰主戦派の罪が解るだろう。 鳥羽・伏見の戦いでの徳川慶喜の行為を「ヘタレ」認定から救うには、
・実は、旧幕府軍に使える予備兵など居なかった
・実は、薩長に強大な援軍が来ることが明らかだった
・実は、旧幕府には確実に巻き返せる手段があった
という証明のうち、どれかが必要です。
予備兵の問題ですが、大阪城には幕府歩兵予備を含む兵約一万が無傷で駐屯していました。
後備ということで戦力には劣っていたのかもしれませんが、新政府軍の四〜五千人は連戦中です。
しかし大阪城内の兵の大部分は動員された諸藩の軍勢で、彼等が動くかどうかは不明です。
あてになるのは幕府歩兵、あと旗本連中でしょう。
薩長側への援軍の可能性ですが、分かりません。
彦根藩は既に新政府軍の兵站を担当していましたが、一方で大阪城にも家老を含め若干の兵力がありました。
広島藩は兵を出さないと直前に通告し薩長側を激怒落胆させていましたが、彼らの軍が届くのには時間が掛かったでしょう。
その他の諸藩ですが、大体は様子見ですので動くかどうか分かりません。
巻き返せる手段ですが、これはいくらでもありました。
・榎本艦隊で海岸の新政府軍を攻撃し、背後を襲う
・江戸を火の海に変え徹底抗戦する
・・・・・・しかし、どれも実行しませんでした。実行しなければ絵に描いた餅です。
問題は、諸藩の動向を徳川慶喜はどう見ていたのかということでしょう。
尾張・越前や彦根が既に新政府側で兵站業務に就いていて、淀や津が旧幕府側に銃を向けている状態では、
大阪城内の諸藩を信じられなかったのかもしれません。 お、こちらのほうが伸びてるなw やっぱまともに語りたい人多かったんだ。
>>16
自分も慶喜大好きだよw
ただあまりに幕末史において巨大な存在過ぎてスルーされてしまう傾向があるのかもしれん。
佐幕派は司馬のせいで幕府の一警備隊に過ぎない新撰組に、会津観光史家のせいで白虎隊やらに女子の人気が集中してしまうナゾな状態が続いてるし。
ちゃんと歴史の本流を見ようよ、と言いたい。せめて本流見てから枝葉に行けと。・・・言っても効き目ゼロだろうが。
今は一言だけ言っとくが、慶喜という人は実に人間が深い。
>>19
「徳川慶喜公伝」はまだだが、「昔夢会筆記」は読んだよ。
大阪城の件もさらっと語ってるね。
大阪城に当初入ったとき松平ブラザーズに各藩領への帰藩を諭したが手を焼いてついに「いかようにとも勝手にせよ」と言い放ってしまったこと。
それを後で後悔したこと(「一期の失策」)。
東帰して善後の策を巡らすことを会津藩士神保修理が説き、永井尚志がそれに同意したこと。
慶喜自身は東帰してのちの行動は「恭順謹慎」に固く心に決めていたこと。でもそれを心に秘めたこと。
大広間に諸有司・諸隊長を集めてどうすべきか問うたら、皆戦争すべしとじつに鼻息荒かったこと。
別室に板倉・永井を招いて恭順の真意は漏らさず東帰のことのみを相談すると、両人とも同意したこと。
大広間にとって返してとりあえず兵たちを鼓舞したこと。
板倉・松平ブラザーズら4,5人のみを従えて大阪城の後門から抜け出るとき、衛兵に咎められないかとひやひやしたこと。
でも小姓なんですと言ったらうまく欺かれてくれたこと。 >>21
『徳川慶喜公伝』も読む事を強く薦める。
というのも、慶喜の回顧談しかない『昔夢会筆記』は慶喜の事のみで、慶喜の廻りの状況までは説明していないから。
公伝の方は、慶喜の回顧談も含めて慶喜を取り巻く廻りの状況や情勢を他史料の引用を用いて説明している。
そうした状況と慶喜の行動や思想を縛っていた水戸学的価値観道徳を総合して考えた場合、慶喜の思考回路内では京都で大戦をするという選択考え事態があり得ない事が解るはず。
故に、越前土佐尾張との調整の元で慶喜は”戦争せずに済む(徳川単独完全勝利は放棄したが、徳川家が政権に食い込む為の)”状況を作り出そうとし、それは事実成功していた。
つまり、”そもそも軍隊を京都へ送り込む必要が全くない”情勢だった訳で。
「上様を刺し殺してでも軍隊を上洛させる(昔夢会筆記では「非常な手段を用いてでも軍隊を送り出す積もりだった。会桑などの主戦派は」と回顧している元桑名藩士がいる)」
という主戦派の大暴走こそが慶喜の朝廷工作を失敗させた原因だった。
結果戦になった訳だが、先にも言ったとおり水戸学の価値観においては”天皇を戦争の危険に晒す行為”はあり得ない。
では、すでに戦争になっている状況をどう止めるか?
そこに慶喜の大坂脱出の真意があるよ。俺はそう考えているけどね。
水戸学的価値観道徳を理解していないと、単純に「逃げ出したんだろう」という結論になっているみたいだが、
緒戦に負けたとはいえ、兵力は幕府軍が圧倒的なのは変わらず、しかも幕府歩兵が待機状態。戦う気なら逃げ出す必要すらない状況だ。
それは「足利尊氏になるのは厭だ」という慶喜の重いにすべてが語られている。
水戸学によって成立した『日本外史』という歴史書の足利尊氏の評価(幕末期の足利尊氏の評価)を読めば良く解ると思うぞ。 ヒント
『昔夢会筆記』より引用
江間 あの時肥後守と越中守……すなわり会桑の首脳を、そっと何も言わずにお連れ出しになりましたのは誠に……。
公 あれを残しておけば始まる。
>>22
うん、読みたいと思ってる。
ええと、1・2巻には本人は登場しなくてそれまでの幕府と幕府を取り巻く諸藩・海外の情勢に筆を割いているんだよね?
そうする必要があることが、慶喜が自身の意志とは別に大きなうねりの中に巻き込まれていく運命を良く表してると思う。
史料篇も面白そう。原市之進の手紙とか所収されてるかな。
水戸学か・・・ 水戸についても勉強しないと。幕末の全てのものは水戸に発してるんじゃないかとも思う。藩抗争が悲惨極まるらしいけど・・
今は家近さんの「徳川慶喜」を読んでる。ググルと家近さんの歴史研究家としての評価は高いみたいだね。
読めばさりなん、と思う。史料の読み解き方が半端じゃない。慶喜は「独断」が政治家としての最大の欠点だな・・・
>>23
ああ、あったねそういう箇所。自分もポイントだと思った。
それにしても江間さんはよくしゃべるね。渋沢もフランス渡航のこと延々としゃべってた。
慶喜は長くて2ページぐらいかな。しゃべるときはしゃべるが聞くときは聞く、というイメージ。
けど主語省略・あれ、これ、などの代名詞多用し過ぎ。しかも何を指してるのか分からないことあるし。もちっと丁寧にしゃべってくれ慶喜公。 水戸学は非常に重要。
基本的に幕末武士階級の多くは水戸学で、吉田松陰も自分は水戸学だと言っているぐらい。
薩摩長州も基本的価値観は水戸学。
でも、実はもう一つの国学の潮流がある。「平田国学」という奴で、こっちは下級武士階級、庶民の学者などの間で広まった。
「復古思想」や「天皇親政」はこちら側から影響を受けているので、水戸学を知ったらこちらも知らないといけない。
>水戸藩内戦
あれば思想対立というか…理想と現実の対立というか……学閥争いに怨恨がくっついたらああなった的な感じだね。
水戸徳川家主導で成立した水戸学には、基本的に幕府維持の体制を指示し、かつ封権身分制を維持する事が原則だとする。
天皇がトップ、徳川将軍家はその第一の家臣にして家臣の長。その下に諸藩があり、藩士がいる。
その身分を越えてはならず、分相応に己の責務を果たし、自己の上司に忠勤を励む。それが平和平穏につながり、引いては天皇の役に立ち、国の政治にも繋がる。
基本が朱子学だから。
ところが、黒船が来た。天皇は鎖国継続を望むが幕府はそれを不可として開国した。
これは水戸学的には、天皇の家臣である徳川が悪いになる。では、天皇の命に従えば現実的にどうなるか?。
日本人の常識が、開国によって通用しなくなった。
水戸学的には、脱藩して幕政にもの申すなんて飛んでもない事で、分をわきまえない所業だけどみんなやったんだ。
そうしなければ、幕府の間違いを正せないと言って。
一方で、脱藩せずとも幕府の間違いを正そうという尊皇派もいた。武市瑞山など正にそうした人物。
開国か攘夷か、幕府か天皇かという争いの影に隠れて見えてこないのが残念だが、
「立ちゆかなくなった思想常識を一新し、精算してしまう」という面が明治維新たる所以だと思う。
江戸幕府とともに終了した人物のスレが近代史板にある不思議。
>>24
あれ、これ等の代名詞が多いのはしょうがないんじゃ?
もうこのときいい年だったわけだし。 >>20
そもそも鳥羽伏見においては薩長の主力は京都にはついてない。
大村益次郎は実際京都におらず、京都に向かう軍にいた。
また機内の諸藩の多くは既に薩長についており、
付いてないのは紀伊藩などごく少数で、そここそ日和見である。
なので援軍が来ないというのは間違いですな。
薩長の先遣隊に大敗してしまったというのが正しい史実。 イギリス維新側、フランスは幕府を支援し分断統治を手助けした
それぞれさらに、南北戦争の終了で武器があまったので困っていた軍産複合体・銀行がいたんだな
徳川のおかげで内乱の激化を避けられた >>25
良く知ってるなあ。勉強になるよ。
藩内戦について「怨恨」という表現があったけれど、それは老公斉昭が藩改革を推進する過程で反対派を徹底的に弾圧したことが発生の要因だろうか。
幕府によって隠居させられ長男が家督相続をしたあとも、自分を裏切って幕府に告発(?)した家臣への憎悪を隠さなかったようだし。
ここらへんは慶喜とだいぶ違うな、と思う。
慶喜は淡白というか、感情は人並みにあるのだと思うけれど、非常に醒めた印象がある。
>>24
そうなんだけどさ、若いときからこういう相手に伝わりにくいしゃべり方をするところがあったんじゃなかろうか。
この人物と意思疎通するのが必要だと認めた場合には(特に政治的に)丁寧にしゃべるが、それ以外は言葉が足らん、というか。
>>30
慶喜が非常に冷めた印象なのは解る気がする。
資料読んでても感情を表に出す人じゃない感じだもんね。
残っている手紙も少ないようだし、日記は付けていたけれど薩長軍が江戸に侵攻してくる際に焼いてしまった。
慶喜という人物をもっと観察したい身としては、めちゃくちゃ惜しい。
性格から想像するに、大久保利通日記のように、感情を滅多に記述せず淡々と事実のみを記すスタイルだったのかな。
その後(明治に入ってから)日記を付けるのを再開することはなかったのは考えさせられる。
確かに醒めている、けれど奥の奥のほうにじりじりと燃える炎みたいなのは感じる。幕末期も明治期も。 ありゃりゃ全然伸びてないや。
今再放送されてる慶喜大河のほうに行っちまってるのかね。 >>20の書き込みは、貴重ですね。勉強になります。
>予備兵の問題ですが、大阪城には幕府歩兵予備を含む兵約一万が無傷で駐屯していました。
鳥羽伏見の戦いの後には、幕府方には一万人の軍勢しか居ませんから、(戦い前には一万五千人)
3千人の軍勢は、かなり貴重です。この3千の兵力は慶喜の親衛隊的性格があります。
>薩長側への援軍の可能性ですが、分かりません。
長州藩は、戊辰戦争終了時までに2万人の軍勢を送り出しているそうですから、
その位の援軍は出せるでしょう。ただし数ヶ月で2万人の援軍は無理かもしれません。
意外と薩摩藩は、戊辰戦争では数千人しか軍勢を出していません。
大久保、西郷などは幕府との戦争には、乗り気ですが、地元鹿児島はそうでもありません。
薩摩藩の主流ともいえる島津一門や家老連中は、幕府との戦争には乗り気ではなく、
長州との義理立てでここまでリスクを犯す事に反対しています。
>彦根藩は既に新政府軍の兵站を担当していましたが、一方で大阪城にも家老を含め若干の兵力がありました。
彦根藩の家老に慶喜に近い岡本黄石がおり、鳥羽伏見の戦いの最中には大阪城に居ました。
また、その家老付きの彦根藩士もいましたが、ホンの数名のボディガード兼補佐官的な武士ばかりですので、
彦根藩としてはもう新政府サイドです。井伊家一門や家老や重役のほとんどが、国許で新政府サイドに寝返っています。
そもそも彦根藩は、畿内の譜代佐幕派の筆頭的な大名なのですが、桜田門の変以降は、井伊家と水戸徳川家は、
犬猿の仲ですので、既に慶喜の将軍任官の頃から彦根藩は幕府に嫌気が差し、討幕派に近づいています。
別に尊王思想とか薩長との関係はなく、単に佐幕派内の内輪モメから討幕派に寝返っただけです。
しかし、その為に近江の小藩のいくつかは、鳥羽伏見の戦い以前から討幕派に寝返っています。 (つづき)
>巻き返せる手段ですが、これはいくらでもありました。
>・榎本艦隊で海岸の新政府軍を攻撃し、背後を襲う
>・江戸を火の海に変え徹底抗戦する
一番効果的なのは、関東に居る幕府軍本体2万人が東海道を下り西進する事でしょう。
また、ストーンウォール号が手に入るまで慶喜が開戦を遅らせておけば、
徳川海軍は、更に強化されていたでしょう。
>尾張・越前や彦根が既に新政府側で兵站業務に就いていて、
>淀や津が旧幕府側に銃を向けている状態では、
>大阪城内の諸藩を信じられなかったのかもしれません。
尾張、越前などは、王政復古のクーデターでも50名から100名ほどしか参加しておらず、
彦根藩ほど新政府にのめり込んではいない、と思います。
>>28
>また畿内の諸藩の多くは既に薩長についており、
>付いてないのは紀伊藩などごく少数で、そここそ日和見である。
また、鳥羽伏見の戦い以前に(王政復古の大号令の頃くらいから)新政府寄りの
姿勢を見せていた畿内の藩は、カウントの仕方があるのだろうが、おおよそ12〜13藩程ある。
ほとんどが小藩だが、その中で彦根藩と郡山藩は、それぞれ20万石と15万石の畿内では大藩だった。
大阪城のすぐ近くにある摂津高槻藩などは、鳥羽伏見の戦いでは、洞ヶ峠を決め込み佐幕派、討幕派双方
から不信を買っている。
丹波園部藩も早期からの新政府サイドの藩で、既に大政奉還の頃には幕府から離れていた。
この時期、万が一京が戦火に飲み込まれる事態となった場合は天皇を藩主居城の園部城に
避難させるという策が立てられた。
丹波亀山藩は佐幕藩だったが、鳥羽伏見の戦いに幕府が負け、その圧力によって、
慶喜がまだ大阪城で抗戦中に討幕派に寝返る事になる。
特に鳥羽伏見の戦い以前に新政府サイドだった藩は、丹波、近江、摂津、大和に多い、これは、
京付近で公家との姻戚関係や禁裏御料(3万石)、公家領(10万石)などが多く点在していた事も関係している。 王政復古のクーデターにより将軍職も幕府も廃止になった。
その影響で1868年12月13日に京都司所代、京都守護職、京都町奉行は廃止になる。
新政府は従来の京都町奉行所にかわって「京都市中取締役」を設置し、
京都司所代や京都守護職の業務もこの職務に与えて膳所・篠山・亀山の
3藩を「京都市中取締役」に任命した。
出来たばかりの新政府に領土や人民の支配を加える事で実体を持たせようとしたのだが、
膳所・篠山・亀山の三藩のうち、鳥羽伏見の戦い直前の段階でも篠山藩と亀山藩は
佐幕派であり膳所藩だけが新政府側の藩であった。その為に取り立てて3藩による
「京都市中取締役」の成果は示せなかった。
また、新政府のお膝元である洛中程度は、新政府が支配しない事にはどうしようもなかったし、
クーデター以前には、親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王が主導する朝廷の下に
徳川宗家中心の朝廷新政府を成立させる事(関白or摂政は徳川慶喜)に皇族や公家を協力させる為に、
大政奉還直前の1867年に徳川慶喜は山城一国23万石を丸ごと禁裏御料として献上しようとしていた。
この構想は、王政復古のクーデター以降の小御所会議や三職会議でも構想として残っている、
越前・土佐・尾張などの親幕派の執拗な抵抗により、徳川宗家の辞官納地案は次第に
骨抜きにされ、慶喜の入京と議定就任が議論され始める、さらには徳川宗家中心の
朝廷新政府構想なども再び議論され始め、「慶喜の副総裁(副関白)就任」構想などを
越前・土佐・尾張の諸侯が皇族議定に根回しを始める。皇族としても山城一国
23万石を丸ごと禁裏御料として貰えるのは悪くない話しだからである。
また、これらの徳川側の畿内の統治機構再編構想も微妙に畿内の大名達に影響を与え、
鳥羽伏見の戦い以前の段階で新政府側に寝返る畿内の藩が表れる事になった。 慶喜は明治期が一番興味ある。
毎日趣味で忙しそうなところが好きだな。 条約勅許と兵庫開港の条約勅許が頭の中でごちゃごちゃになるんだけど、皆どうやって覚えてるの? 時系列的に全然違うだろ?
孝明天皇が死んでいるのに、慶喜は良く兵庫開港の条約勅許を獲得できたな、
この時期は朝廷の上層部は、親徳川派だが、中堅クラスには、尊王討幕派の公家が入り始めているからな。
時系列が違うけど、なんか似たような感じじゃないか?
どっちも徹夜で頑張ってるっぽいし。
あと、長州征伐も一次と二次とでどっちがどうだったかごっちゃになる。
慶喜が大活躍したのが一次? というより徳川慶喜は、孝明天皇が死んでいたから兵庫開港の勅許を得ることが出来た。
孝明天皇と一会桑は、横浜鎖港・兵庫開港中止・再鎖国を再三幕府に要求していたから、
徳川家茂が死に、徳川慶喜が幕府を相続できる環境が整った後も、
それまでの政治姿勢との整合性から、孝明天皇存命中は、慶喜は幕府の将軍位を継ぐことを固辞し続けた。
孝明天皇が死の床に着くと間もなく、俄かに慶喜が将軍職を継いだのは、そういう兼ね合いがある。
当時明治天皇の摂政だった二条は慶喜のいとこだった。
彼に開港勅許を出させることで、孝明天皇の攘夷政策と共に歩んできた一会桑は、一転して幕府の開港政策へ同調する。 要するに、兵庫開港問題で一会桑は、それまでの姿勢を一変させて幕府の掲げる兵庫開港へ転じたので、
幕府将軍位を手に入れたけど、それまでの朝廷内の同調者を、親戚の二条摂政らを除いて薩長側へと追いやってしまったのさ。
この時期に薩長側の公家が増えたというよりは、この時期に慶喜が変節して公家を切り捨ててしまったのさ。 確かに慶喜は孝明天皇の攘夷感情をもてあまし気味だが、
だからと言って孝明天皇の崩御は、慶喜とって政治的に良い事は何も無い。
慶喜は将軍任官は、なかなか自分からやりたがらなかっただけで
孝明天皇は、慶喜に絶対将軍職を継がせる意向。
将軍慶喜の後ろに孝明天皇が居れば、討幕派ともっと有利に戦えた。
明治天皇になり、外戚で討幕派公家の中山忠能が出て来た。
岩倉と組んで討幕の密勅をでっち上げたりしている連中。
ただし王政復古のクーデター後の小御所会議や議定会議では、
徳川の武力行使におびえてグラついているのもこいつ等。
更に孝明天皇の崩御による大赦で今まで処分されてきた過激な
尊王討幕派の公家達がごっそり朝廷に復帰してきた。
コイツラが薩摩と組んで兵庫開港の勅許反対のロビー活動をしている。
それを掻い潜っての勅許獲得だから慶喜の政治力は大した物だと思う。
>二条は慶喜のいとこだった
親族だけど、慶喜はかなり強引な交渉をして二条摂政から兵庫開港の勅許を得ている。
逃げ出そうとする二条摂政に対し、部下による武力行使をチラつかせて勅許を獲得している。
>この時期に慶喜が変節して公家を切り捨ててしまったのさ。
明治天皇の即位以来、ニ条摂政が退任の意向を漏らしている。
薩長が討幕の準備を整えているだけではなく、尊王討幕派の公家達も
朝廷に復帰し、ニ条-中川宮主導の公武合体派体制が動揺し始めているのも事実。
王政復古のクーデター前日の最後のニ条摂政主宰の朝廷会議では、
長州藩の朝敵解除と入京、長州シンパの公家や岩倉ら討幕派の公家の還俗と参内が認められた。
この様に親徳川派であるニ条摂政下の朝廷でも徳川の敵である長州藩や討幕派公家の
政界復帰が認められている事態となっていた。
長州シンパの公家や岩倉ら討幕派の公家の還俗と参内は、元々、王政復古のクーデター後に
小御所会議で決定する予定だったのが、何とニ条摂政下の朝廷会議で認められたのである。
次第に討幕派公家の復帰でニ条摂政の意向が反映され難くなっていた可能性すらある。
ニ条摂政が辞めたがったのは、こういう背景がある。
ただし二条摂政は、後任の摂政には五摂家の人物ではなく、将軍を退任したばかりの徳川慶喜を推薦しているのも事実。
慶喜は、ニ条摂政の推薦で、四百万石の天領と2.5〜3万人の幕府陸軍兵士や
幕府海軍12隻を持ったたまま、後任の摂政に就きたがっていた。
明治天皇の下で一元化された新政府の首班となり、徳川宗家の政治、軍事、経済力を維持する為にです。 言い訳は多いが、要するに徳川慶喜は、自らの将軍就任受諾直後に孝明天皇が発病崩御したので、
将軍の責務たる諸外国と老中の結んだ兵庫開港を、朝廷に認めさせることが出来たということになる。
孝明天皇存命中は、兵庫開港勅許は不可能だっただろうね。
将軍就任承諾直後の孝明天皇の体調不調表明及び崩御は、玄妙なものがある。 一会桑の、それまで孝明天皇と進めてきた兵庫開港反対論から、一転しての幕府の進める兵庫開港への方針変更は、
それまで徳川慶喜を支持してきた公家を薩長側に追いやる結果となった。
一会桑は将軍就任で幕府を手に入れた代わりに、孝明天皇の遺志の破棄という形で京都での基盤を失った。
君の言う恩赦による尊王攘夷公家の復権も、その結果の一つだろう。
結果と原因を取り違えるべきではない。 なんだか読んでて頭がごっちゃになってきたぞ・・・難しい・・・
>>44
二条摂政に対する部下による武力行使のちらつかし。
夜も更けて(深夜以上か?)会議を切り上げ退出しようとする二条さんに対して、ここで会議をやめるのなら自分は腹を切る、そうなったら自分の家臣たちが報復行動に出るが、それでもよろしいか、と迫ったんだよね。
生涯に3度死を覚悟したうちの一つ(他二つは蛤御門の変時と官軍江戸進攻時)と後に回想してる。
会議が終わったのときはもう夜明け。緊急課題があるときは徹夜はざらだよね。よくがんばってるよ。
>>38
自分も明治期の慶喜好きだよ。幕末も好きだけどね。まあ、「好き」だと言われれば、本人複雑かもしれんが・・・
趣味を仕事にせざるを得なかったからね。朝敵の烙印を押された元徳川将軍が普通に仕事に出られるわけがない。
勝の圧迫は厳しかったなあ。それに「当然だ」と従いながらも宗家に勝手に直筆の書を偽造されて大久保一翁に渡され、こらえ切れなくなって怒りを爆発させる(静かに)ところがなんとも痛々しいというか・・
でも幸せなことも多かったろうと思いたい。母孝行できたし、子供に恵まれたし、少数だけれど慶喜を理解し守ってくれる人たちはいたし。
数奇というしかない星の元に生まれたが、それ(運命)に押しつぶされはしなかったと思う。 >>47
勝の圧迫は本当に厳しかったみたいだよね。
ていうか、慶喜と勝ってお互いに快く思ってない割に、色々と接点があって面白い。 >>44
>将軍慶喜の後ろに孝明天皇が居れば、討幕派ともっと有利に戦えた。
正直疑問。
兵庫開港問題で、孝明天皇と幕府の板挟みになるのがケーキちゃんだから。
孝明天皇を奉じて幕府を押さえ込めるほどの基盤があれば、鳥羽伏見なんか起きてないだろうし。
ある意味、京都で一会桑やってた弊害か。 それでも孝明帝が死んでなきゃ薩長なんかがつけいる隙間はなくなるわな 孝明天皇の慶喜の信頼は、カナリモノだったからね。
フランス公使のロッシュにも
「ヨシノブさん、そんなにミカドに信用されているなら、開国路線で説得しちゃえば?」
って言われている。
明治天皇に代わった頃には
「ヨシノブさん、明治天皇は子供なんだから、アナタが教育して、政治は幕府に任せるように言い聞かせれば?」
って言われている。
慶応年間の幕府旗本なんかもそんな感じ。
幕府海軍を整備したり、幕府陸軍の全軍銃兵化(銃は元込式)、
横須賀に製鉄所造り始めたりして、徳川版富国強兵を始めているし。
これら慶応の幕府改革が明治維新の第一歩になっている。
孝明天皇が生きていれば、その支持で慶応の幕府改革と
幕府陸軍の全軍元込式銃兵化完成の時間が稼げた。 孝明天皇は会津公も信頼してたのに、
慶喜と容保は仲が良くない。 なにを言っているんだ?
孝明天皇から信頼されていたのは、攘夷決行だと天皇から思われていたからだ、
その方針を変えたら信頼を失うのは当たり前だろ。
民主党が国民からあきれられているのと同じ事。
天皇の信頼を得るためには、兵庫を鎖港を実行しなきゃならん。
だがこれをしたら諸外国から見捨てられる。
つまり幕府は天皇か、諸外国のどっちかを選ぶしかなかったッテ事。
外交的には行き詰っている。 ロッシュとか、エドゥアルド・スエンソンとか。あ、でもエドは公使じゃないか。
最近会津贔屓から無能将軍と叩かれてるむきがあるけど
鳥羽伏見で負けた癖にそんな事言われてもね… 軍事的な指揮を執ったのは秀忠が最後。
家光ですら初陣がない。
慶喜が軍事的に有能だったら奇跡だ。 鳥羽伏見の戦いに負けた後でも、幕府軍は挽回出来た。
大阪城に篭城すべきだった。
また、開戦を4月まで伸ばして“ストーンウォール号”が手に入るのを待つべきだった。
また4月まで開戦を延期すれば、さらに元込め式銃の配備を拡大する事ができた。 歴史にifはないよ。
もし信長が本能寺で襲われなかったら〜以上につまらない話だ。 固定観念で頭ガチガチの人ね。
はっきり言って、イマジネーションが湧かない、頭の悪い人の発言。 >>61
イマジネーションw
自分の好きな対象を贔屓の引き倒ししたいばかりに
歴史観を都合よく歪めたがる頭の悪い発言だなw >>51
そうなんだよな、孝明天皇の慶喜への信頼はたいしたものなのに、容保への信頼の方がクローズアップされがち。
会津贔屓のせいだろう。
そういや孝明天皇の孫にあたる大正天皇(皇太子時代)からもえらい好かれてたな。息子以上に年が離れてるのに普通に友達だ。
>>49
ケーキちゃんにわろた。幕府と朝廷の間にいっっっっっつも板ばさみな慶喜。
そら昔夢会で「困った」「むずかしかった」が常套句になるわけだw
>>54
メロメロにしとるわな。もうメロメロだ。あの東洋人に対しては高圧的態度で臨むパークスでさえ。
慶喜のために漢字で書を書いてあげてなかったっけ?
あの容姿で、少し微笑み「優しく快い声」で語りかければ、外国人でなくともたいていの人間は魅力に引きずり込まれると思う。
慶喜って人にあんまり会わないんだよ。で、実際に面と向かって会った人からはたいてい好感持たれてる。 >>63
実際に面と向かってあった人から好感持たれてるってのは解る気がする。
その中の一人が渋沢栄一かね。渋沢はもう、信者の域のような感じではあるが。
慶喜とは仲良いし、井上馨とは下野後もつるんでるし、渋沢も面白い人だw
>>59
慶応4年の2月頃には北関東が打ち壊し祭りになって
上野国なんか殆どの藩が一揆勢に降伏するような状態になってたらしいが、そんな状態で大丈夫か?
日本海-下関-大阪-関東への物流も止まるぞ。 慶喜は山岡荘八の徳川慶喜読んでから興味持った
小説だが、戦前の人間が水戸学の視点で語るのは結構新鮮 >>65
それって薩摩のテロ支援活動に乗じた農民一揆だろ?
武蔵、相模でも騒乱状態だぞ、八王子千人同心が治安出動したり、
伊豆の天領代官の江川家が伊豆で農民兵を徴兵して、一揆勢と戦っている状態。
だから、慶応4年の正月早々に薩長と開戦するのは反対なんだよ。
4月までは、関東の騒乱状態を鎮める為に、慶喜は関東に帰還(東帰)し
江戸周辺に駐留している幕府陸軍主力(1万7000〜20000)を
動員し関東一円に治安出動を繰り返すべき。
そうやって北関東や武蔵、相模の騒乱を鎮めながら時間を稼ぎ、
ストーンウォール号の入手と関東、東北、東海道、中部や北陸の諸藩の支持を確保する。
幕府軍が関東一円に治安出動を繰り返せば、関東諸藩は佐幕派と成るし
この時点では水戸藩は、諸生派だから、幕府軍と一緒に出動してくれる。
とにかく慶喜は、関東にもどり足場を固めるべき、家康も関が原の戦いの直前は
北関東で上杉と戦う気配だった。それが急に上方で光成の軍事行動の開始で西上
する事になる。 >>66
山岡荘八の徳川慶喜は、篤姫で慶喜を演じた平さんのスレでも話題に出てたな。
自分は小説は歴史に関しては基本的に読まない主義なので、書店でぱらぱらとめくった程度だが。
なかなか面白そうだった。うら若い貴公子慶喜が投網をやっとった。慶喜の容姿の描写を小説だから文字でやってるわけだが、よく表現できてるなと思った。
中根や平岡、原ら側近達の描写もいきいきとしてたね。
ただ、慶喜がちと能弁で開放的過ぎるかな、と(実物に比べたら、だよ)思った。史実は閉鎖的だから(人間嫌いではない)。 >>68
過去ログ見てみたいが、見つからない。
残念。
全巻読んだ感想としては、そんなに開放的なイメージはなかったかな。
いざと言う時の切れ味は鋭いが、基本は周りとの温度差が激しい孤高の存在の様に書かれていた気がする。特に後半ほどその感が強くなる。
まあ山岡は演劇畑の人間だから、小気味良い会話を武器にしている感はある。
自分は、むしろ勝との以心伝心の関係の方が何か違和感あったな。勝の事を好きではないが、と前置きはしているものの。
史実の慶喜と勝の関係も奇妙なものだ。
一応読むのをお薦めする。
ただ、自分の歴史観が邪魔して歴史ものの娯楽はパスという人も多いから、あんまり勧めにくい。
山岡荘八は皇国史観、家康信者とか言われるぐらいアクも強いし、結局は小説だから。 水戸学は朱子学と陽明学の影響があるといわれる。
朱瞬水はその姓とは裏腹に陽明学者でその影響下にある安積澹泊と
藤原惺窩の影響を受けた佐々宗淳は折り合いが悪かったらしく、
背後には朱子学と陽明学の対立があり、幕末にはこれが尾を引いて
天狗と諸生の内紛の種となった。
>>69
確かに、山岡荘八の慶喜は勝との関係に違和感はある。
山岡荘八の慶喜では平岡との会話が凄く好きだな。
何か、いつも気を張ってる慶喜が少しだけ緩む感じ。 >>69
俳優さんの名前でググったら出てくるはずだよ。平丘大さん、だったと思う。平幹二郎さんの息子さん。
まあ、山岡荘八の慶喜については一瞬だけだけど、ひたすら天ショウ院age(家茂含む)慶喜sageのドラマに皆マジギレしてたり(無理もない)、
お勧め慶喜本情報とか出ていて面白かった。
そっか、それほど開放的には書かれてなかったか。いや、ぱらぱらめくった印象だからね。
将軍後見職就任のときの演説がすごい美声(史実)ぺらりんこで、この人こんなに能弁な人だったかー??と。
歴史を本気で調べている人で歴史小説が嫌い、という人は多いね。気持ちはわかる。
読んでみよっかな、どうしようかな・・・
>>71
げええ、以心伝心な勝と慶喜なんてー! 嫌だ。
話逸れるが自分あんまり勝好きじゃないんだ。慶喜が言ってるんじゃないぞ。
才気溢れるのは認める。だがあの異常な自己顕示欲がどうも・・・
慶喜は権力欲・自己顕示欲がほとんど感じられなくてその点も好きなんだが、慶喜と勝が仮に幕末のある事柄に関して違った証言をしているとしたら、自分は慶喜の方を信用する。
平岡との会話いいのか。原がすんごく熱血漢だった気が。
原は社交的で明るい性格だったそうだから間違いではないと思うが。
しかしふたりとも暗殺されてしまう。うう・・・(涙)
>>70
水戸学について詳しくしってはるのか。とりあえず名前が難しいな。
あ〜、幕末については色々勉強せなならんことがいっぱいある。 73だが、すまん間違えた。気を悪くせんでくれ。削除。 貴人に情なし。
水戸学よりも母親(宮家出身)に影響を受けているのでは。
生野の変で味方を置き去りにして逃げた公家と同じ行動パターン >>75
とりあえず基本書籍読んできてからここに来なさいw
ドラマスレが盛り上がってるねえ。やはり昔の大河は質が高い。 >>76
大河ドラマの慶喜、面白いよね。
慶喜が京都に行ったあたりからぐんぐん面白くなっていく。 >>75
禁門の変のときも長州藩の強訴に
すぐへたれた。
本質的に公家的体質。 >禁門の変のときも長州藩の強訴に
>すぐへたれた。
銃弾が飛び交う中で陣頭指揮を執ったというが 大阪城からは結果的に夜逃げ状態だったけど、禁門の変では陣頭に立って立派に戦ってたんじゃなかったっけ >>>71
理解者が少ないんだよな。春嶽とゴチャゴチャやってると悲しくなる
平岡との会話は自分も好きだ
ただ、一方で平岡があたふたしている印象も強いな
慶喜が将軍になる気はないと発言する件とか
>>72
見つかった
なんか名前微妙に間違えてた
最後はそれこそ、理解者も減り、己を押し殺して、それでも信念を貫こうとする当たりが哀れを誘う。
それはそうと、現実の慶喜の弁舌もなかなかじゃないか?
「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」
悩むぐらいならファンの俺は薦める。
山岡荘八は惚れる様な偉人を描いてくれるから、慶喜贔屓としては楽しめると思う。
あとは、水戸学や勤皇への共感が、現代人には持てないものという意味で変わってる。
以心伝心というか何と言うか。
お互いを必要と認めてはいるものの、決して仲が良いわけではない、と見える描写をしている。
確か最初の会見は、勝が高慢ちきに論じ、慶喜がむっつり頷く、って感じだった。
勝の高慢さはそれこそ、斉昭を馬鹿にするくらいで慶喜もイラついている。
ただ、慶喜はその感情を表に出さず勝を認めるから、仲が悪くないようにも見える。
何とも微妙な関係。 原市之進って、鮮明な肖像写真見るとイチローを輪郭卵形にしてさらに知的にしたようなすっごいいい男
土方とか目じゃない >>82
お、見つけてくれたか。名前間違えてた?ごめん・・・
確かに慶喜のファンだが、某慶喜研究書の著者さんに敬意を表して「慶喜贔屓」と自称しようと思う。
尊皇心については、現代では感覚で理解できる人はなかなかいないだろう。理解できるとしたら、お年寄りかな。
でも、歴史はその時代の価値観で眺めないとダメなんだよね。
山岡氏はその感覚を持ちながら慶喜を描いてるわけだから、尊皇心を肌で感じることができるかもしれない。
その意味で読む価値があるかな、と。
勝はなあ・・・「氷川清話」は読んだことがないし、伝記もしかり。だから語る資格今のところ自分にはないのだが。
斉昭を馬鹿にするとは、何を理由に?
慶喜を調べていると斉昭は激しくうるさ過ぎるきらいもあるけれど、大量の子供達に小まめに(うるさく)愛情を注いだり、いい面も多々ある。
いい意味でも悪い意味でも人間臭い、そして幕府(日本)のことを心から思った人でもあると思うんだ。
女好きなところが過度に目立たせられてて、誤解される部分があると思う。
>>83
タッソって誰だ。
>>84
原はいい男だよな。市之進という名前も好きだ。
写真からは、知性と明るさを感じる。目元が涼しい。
慶喜とは絵になる主従だったろうな。・・・ちょいと腐女子目線か。 >>85
勝の「氷川清話」とか伝記は歴史を勉強するっていう意味で見るんじゃなくて、勝が慶喜のことをどう思っていたかで見ると割と面白く読めると思うけど・・・どうだろうか?
あと斉昭は烈公って言われるくらいだから、やっぱりそういう部分が目立っちゃうよね。
もう少し奥にあるものも見てもらいたい。 >>85
薩摩主体になってから勤皇の質が変わったとか、分かりにくい部分を描いていると思う
まあ自分で言っといてなんだが、山岡の個性はさっ引かなきゃいけないけど
斉昭批判は公武合体とか。尤もこれは山岡の天皇を前面に出すべきではない、って考え方が元になっていると思う
ちなみに、山岡は徳川斉昭を大天才と評している。自分も似た意見で、斉彬や春嶽が師事するなりの理由はあると思う。欠点はやっぱり大名育ちと女癖かな 聞きたいんだけど、江戸開城の時に勝と慶喜が段取りの件で喧嘩(?)したってのは本当なの?
確か「断腸之記」か何かに書いてあったと思ったんだが。
>>78
征長戦のとき、当初、大打込と大見得を切りながら、
各地で幕軍(官軍)が敗れると、たちまち臆病風に吹かれ始めた。 あてにしていた薩摩が今回は参加できないと正式に拒否したのに、
江戸の老中すら、あれは私戦だと断言していたのに、強引に進めておきながら、
家茂の死もお構い無しに続行しようとしていたのに、突然の停戦交渉開始命令 家茂の遺言通りだと、亀之助(後の家達)が次代征夷大将軍に就任することになっていた。
この時点では一橋慶喜は長州出兵に更に意欲をみなぎらせていた。
しかし幕府内で一橋慶喜こそ適任者という意見が多数を占めていると聞いた途端、
即座に長州出兵は中止され、終戦交渉へ持ち込まれた。
しかし慶喜が征夷大将軍就任を受け入れたのは更に後、孝明天皇が体調を崩し床に就いた頃のことであった。 自分に累が及ぶの怖れ、自分を頼りにした天狗党に
残虐な処分を行う。そのあまりの残虐さは討幕派の
口実にまで使われる。
一橋家では藩政の経験もできないし、
幕閣もたいしたやつがいなかったし、
慶喜個人の力量だけではどうにもならないさ。
家康に四天王や本多父子がおらず、
秀忠・家光に利勝や知恵伊豆がいなかったらだめだったろうよ。 東京の山手線の巣鴨駅の線路に沿ってバス停1つ分ぐらいな一辺の敷地が
慶喜の梅屋敷の跡地。
静岡藩の居候から公爵になって慶喜家を興した明治35年辺りに静岡から越してきて
山手線開通すると煩くなるからと引っ越した。
近くには一橋伯爵家の跡地が徳川の名の付いた分譲マンションになってる。 最近の賊軍を贔屓したい層のトレンドは
慶喜を無能扱いし責任転嫁する事らしい >自分に累が及ぶの怖れ、自分を頼りにした天狗党に
>残虐な処分を行う
直接手を下したのは田沼。
慶喜が非難されたのは田沼に引渡したから。
この時点では倒幕側より幕府側の方が慶喜の評判を落とすことに躍起になっていた
なんでもかんでも慶喜の所為にしたい連中は意図的に混同したがる傾向がある。
悪口のための悪口言ってる連中って会津厨?さっさと自分の巣に帰れよ。
あ、もしかして家茂厨?
>>95
三卿は将軍家の家族扱い、つまり部屋住み身分だからな。領土は各地に点在、合計10万石。
幕政への参加は、意見を求められたときに奉書をする以外許されなかったのだったっけ。
軍事力もない。経済力もない。用人たちはほとんど幕府からの任命、つまり常に幕府に監視されてる環境。
持つのは己の身に流れる天皇家と身と徳川家の血、そして名高い才覚のみ。
家近氏が慶喜のことを幕末の「根無し草」的存在、と表現してたのが印象に残ってる。
これほど幕府から虐げられながらぎりぎりまで幕藩体制維持のために死力を尽くすのは、徳川一門としての責任感と、春嶽らの唱える公儀政体制が上手く機能するかどうか、疑念と不安がどうしてもぬぐえなかったためか。
老中は、井伊なきあとほんと人材がおらんな。板倉くらいだ。
>>88
大天才か。
斉昭は追鳥狩という軍事訓練を実施してたね。世間の注目を余程集めたようだ。
長州藩はそれに刺激を受けて、村田清風主導で藩政改革に着手してる。
その他の藩への影響については調べてないのでなんとも言えないが、相当に各藩に精神的影響は与えたろう。
ちなみに幼い慶喜(七郎麿)も追鳥狩に参加してる。すごく熱心に見てる。
斉昭は面白そうだなあ、うん。 徳川慶喜は、幕府と水戸の板挟みが本当に苦しい
どちらかにによるだけで、幕府を転覆しかねない危険人物、もしくは、ただの保身家と貶される
朝廷守護の立場にあり、かつ身内の水戸の争乱をどう裁くか幕府内部から疑われている時期に、「慶喜は寛大な処罰を望んでいる」と喧伝しまくった薩摩の真意が知りたい
>>99
他に有名なところだと、牛乳とか薬学とか興味の範囲が広く、非常に精力的。海外情勢に通じ、攘夷の実現は不可能と理解していた節も強い
ただの頑迷な攘夷扇動家じゃないんで、世間はもうちょっと焦点あててもいいと思う
ただまあ、水戸学が難解なんだけど
最後の将軍に亀之助を推す声もあったわけだが、
実現してたら江戸城も江戸の街も燃えていたかも。 亀之助が15代将軍になっていた場合は、一会桑は尊王攘夷を掲げて幕府と対立しただろう。
(実際は家茂の死後慶喜が将軍になったので、幕府の政策に一会桑が擦り寄り朝廷の怒りを買い、
尊王攘夷派は薩摩を中心にまとまってしまった。)
立場が正反対のところを自陣営に取り込むと、それまでの味方が敵になる場合もある。 「家康の再来」とは買いかぶりも甚だしい。
泉下の家康も苦笑しているであろう。
慶喜が優れているのは保身術だけ。
現代の官僚やサラリーマンと同じ。 「家康の再来」と言ったのは誰でしょう?
自称したわけじゃないし、批判が的外れ。
保身術だけの男にしかみえない程度の知識しかないんだね。 将軍職を固辞し続け、大政奉還をしたあとも、敵視される
後にできたのは薩長の独裁政権
悲しいねえ 慶喜公の感慨…慶喜公はこのような事態を嘆き、こう聞かれた…
公「幕府に西クや大久保に匹敵する人材は居るか?」
板倉「誰一人もおりません!」
公「このような状態で勝てると思うか?」
板倉「思いません!」
慶喜の恭順は、人材無き幕府側にとって、まさに当を得た行為であったろう。
>>91
古色蒼然とした先鋒の井伊勢、榊原勢が半日も持たずに
敗走しただけで、色を失う。
小笠原壱岐守同様、とても武人と呼べるような代物ではない。
>>>111
慶喜は武人じゃないだろw
どちらかと言えば政治家
武人に政治をやらせるとロクな事にはならんよ
太平洋戦争時、軍人が政治を握ったが、原爆落とされるまで負けを認めなかった。
あれが武人の素晴らしい姿かねw?
負けを負けと悟り、早期に講和に持ち込む。
最悪の負け方をするのが素晴らしいとは思わんね。
慶喜は最良の負け方をした人さ。
戦わずに負けを認め降伏した人;慶喜→江戸は戦火から救われ英雄と庶民から感謝されている。
戦っても負けを認めず意地を通した人;会津藩主松平容保→会津はおろか全奥州を戦火に巻き込み、庶民は家や家財を失う。
戦後、会津藩主が江戸へ送られる際、農民や庶民達は仰ぎ見る事も無く、無視して畑仕事をしていたとイギリス人の記録にある。
会津藩の徹底抗戦の讃美が始まったのは、太平洋戦争時の「国民皆兵・国民総特攻」などと民衆を戦争へ駆り立てる為の大衆扇動の為、
陸軍など軍部の政略によって始められた。戦後は、会津観光の目玉として、つまり”金儲け”の為に讃美されている。いわゆる観光史学という奴だね。
>>112
たしかに慶喜公は良い負け方をされたのかもしれない。
あれ以上ごたごたしていたら、列強の植民地確実。
大東亜戦争の敗戦は、薩長終了という国内問題だったの
かもしれませんね。 太平洋戦争時にはもう薩長閥なんてないのに何言ってんだ >>116
薩長閥は、バーテンバーテン密約によって東北系軍人によって打倒消滅してますよw
山県有朋が作った長州陸軍閥の硬直化を打倒したまでは良かったのですが、
その後、どう陸軍を改革するのか?政治家との折り合いが上手く行かず、軍閥化して行く結果になった。
太平洋戦争時は、東北系軍人が薩長閥の後に作ったこの軍閥が実権を握っていました。
それ故に、会津武士道の讃美や美化を何の抵抗もなく国策として広める事ができたのですよ。 さらに補足すると、この陸軍軍閥という奴は複数あって、中国に駐屯する日本陸軍閥が2〜3個、
日本国内に陸軍中枢を握る軍閥がいくつかあります。
彼らの協調性が良けれまだしも、協調性がまるで無く、結果中国大陸で日本の為ではなく自己の出世と権力拡大
の為に満州事変といった事件を起こし、日本の議会や政治家を無視して戦争に持っていきます。
戦争が起これば、軍事費が増え、自分の軍隊も増強されるからです。それは軍閥のリーダー達の権威権力と戦力の増強につながりますから。
戦時という事で、政治家よりも軍人の発言力が高まり、日本の議会はこれを抑える事ができませんでした。
その結果として、日中戦争という大戦争に発展していきます。
これを目視しなかったのが米国ですね。
米国は、日本に手を引けと要求しますが、日本から離れた大陸にいる軍閥たちを、日本国内にいる政治家たちはどうする事もできません。
そして、最後には”どうせ止められないならば、むしろ進んで戦争を起こす”という方向に突き進みます。
その時の総理大臣が東条英機。陸軍閥の大ボスだったのです。政治家達は、陸軍に政治の大権を渡し、
”陸軍の起こした結果に対し、陸軍が責任を取れ”という方針で、政治を放り出したのです。
その結果はご覧の通り、日本史上最悪の負け方をしてくれたという訳です。
>>120
ねぇよ。残骸が残ってただけだろw。勉強しろ 最良の負け方でも鳥羽伏見の軍事衝突が無ければ
新政府に迎えられその中心として牛耳れただけに本人は悔しくて仕方
なかっただろうな だけど慶喜が会桑の軍事力をたのみにしてた節があるのも事実だからね・・
慶喜に固有の軍事力があったら、と考えることがある。あったとしてもあの状況下で上手く統率できたかどうか分からないけど、独自資源が水戸本国時党だけ、というのはどうあっても心細い。
渋沢たち一橋家家臣たちが憂い、朝廷に主君に領地を与えてくれるよう嘆願するも、幕府の猜疑のために×。
慶喜直属の一橋家家臣たちは、幕末の京都をどのような思いで過ごしてたんだろう。
主君慶喜へのいわれのない、憎悪に満ちた非難中傷は日常茶飯事。殺された仲間達も複数。
>>110
「昔夢会筆記」からだね。このとき風邪ひいてた。
実際には人材はいつの世でもいる。幕府は人材登用がうまくできなかった。
家柄・序列の壁がどうしょうもなく錆び付いてたんだよ。最早修復すればどうにかなる、という段階を超えて、ね。
>>100
息子に似てる・・・ いや、慶喜が父親に似てるのか。
全く似てない部分が多いが、似てる部分もやはりある。親子だなーー
軍事衝突がなければって、無理な辞官納地を迫り、暴力的な挑発を繰り返してきた相手たぞ
薩摩に国なんて視点はないね。奪権のみ。錦の旗も汚す >>125
まぁ慶喜も、そんな感じで迫られたんだろうけどw
しかしあそこで堪えていれば、新政府での中枢を占められる可能性のが大きかった訳で。
威信云々で言っても、薩摩の江戸藩邸はもう焼いてんだから、あとは使者出して詰問で十分だった。
あそこで押さえてれば、小御所会議で負け確の西郷、大久保はかなり苦しかったと思うぜ。
薩摩の視点についてはよく知らんがw
まぁ勝ってれば万事OKだったのかもしれんが、少数の兵に負けた挙句
津や淀すら裏切る有様じゃ、慶喜だって篭城なんかできん罠。 >>63
> >>51
> そうなんだよな、孝明天皇の慶喜への信頼はたいしたものなのに、容保への信頼の方がクローズアップされがち。
> 会津贔屓のせいだろう。
> そういや孝明天皇の孫にあたる大正天皇(皇太子時代)からもえらい好かれてたな。息子以上に年が離れてるのに普通に友達だ。
> >>49
> ケーキちゃんにわろた。幕府と朝廷の間にいっっっっっつも板ばさみな慶喜。
> そら昔夢会で「困った」「むずかしかった」が常套句になるわけだw
> >>54
> メロメロにしとるわな。もうメロメロだ。あの東洋人に対しては高圧的態度で臨むパークスでさえ。
> 慶喜のために漢字で書を書いてあげてなかったっけ?
> あの容姿で、少し微笑み「優しく快い声」で語りかければ、外国人でなくともたいていの人間は魅力に引きずり込まれると思う。
> 慶喜って人にあんまり会わないんだよ。で、実際に面と向かって会った人からはたいてい好感持たれてる。 >>121
馬鹿か?
薩長閥の残骸に何ができるんだよw
奴らは軍閥の下でこき使われてただけで、もはや軍閥の一員で薩長閥などと言えんだろ。
ちなみに、山県や太山といった薩長閥の子孫や子飼いの連中は、陸軍で出世できないように左遷されてるよw
会津好きの人は
容保達が鳥羽伏見で負けた事を慶喜に超怒られた件についてはスルーするよね。
負けた癖にこれ以上どないせいちゅうのよ。 大坂城に籠城すればいいやんってのもたまに見るが、古来城が落ちる一番の原因は内応だった訳で。
一応信用できると思われる幕府歩兵隊や会津桑名は鳥羽伏見で装備を失い数減らしてるし、
残してた後備の歩兵隊は、1/3だか2/3だかは役に立たないと言われた旗本隊。
大阪城は堅城とはいえだだっ広いから兵力は欲しいが、その他烏合の衆を残して淀藩や藤堂藩みたいなことを
やられちゃったらマジで逃げ場もなく終了する。
そいつら追い出したら追い出したで、下手すりゃ新政府軍が増えるだけ。
しかも籠城ってのは、確実に援軍が来る事が期待できなければただの自殺行為。
でも一番その希望が持てる幕府歩兵隊の最精鋭が鳥羽伏見で敗れてる。
ぶっちゃけ江戸に残してきた歩兵隊が大坂に到着できるかという点ですら確証は持てない。
関東から奥州諸藩を集めるなら更に時間が掛かる。しかも仙台はよく分からんし。
時とともに希望が薄れれば、城内の結束は必ず乱れる。難攻不落で鳴らした小田原城がそうだったように。
まぁあの時点で大阪に留まるなんて無謀だわな。
そして帰ってみれば関東は動員どころか一揆の嵐で、所によっては藩主が逃げ出すぐらい乱れまくり。
慶喜でもどうしようもないわな。 いや、江戸の様に絶対イチャモンつけて何かやらかして来たと思う。
上が堪えても、末端から火を点けるだけで対処は困難。
使者を出すだけで十分というが、慶喜にも幕府や会桑の不満を抑える必要があったんだろう。
俺はむしろ、慶喜は内の不満を抑えつつ、軍事力を背景に理性的に交渉したかったんじゃないかと思う。滝川とかいきなり戦やろうって雰囲気じゃない。
内乱になるって考えたら、辞官納地とか江戸の横暴とか暴走しすぎな空気も少しは冷え、薩摩からも春嶽みたいな動きはでてくるはず、と慶喜は考えたんじゃないだろうか。
慶喜が徹底恭順しても、東北の様な反乱が起きたわけで、関東一円で徹底抗戦されたらただ事ではすまない、ってぐらいの計算はすると思うんだが。 >>112
恐怖心に支配され、信義にもとる行いをして
維新後、誰からも相手にされなくなるのと
冷静に彼我の国力を分析して、自らの命の危険
を省みず日米開戦に反対するのは全くの別物。
慶喜に私の精神はあったが公の精神はなかった。
公の精神の無い者に国の舵取りを任す事はできない。 大政奉還も絶対恭順も、その後表舞台から完全に姿を消したことも、それら全てが公に基づいた行動と言える。
幕末において、幕府や藩に拘りすぎていたものが幾人いたか >>134
いやいや、確かに薩摩は色々画策するだろうが、とりあえずあの時点では他に手はなかった訳で。
あのまま話が進んでいれば、薩摩が変な動きしないよう土佐が面子にかけて目を光らせるだろうから、
京で慶喜を加えた政治的な第2ラウンドが始まったであろうことはまず間違いない。
軍事的な圧力は既に大坂城に大軍が入ってる時点で十二分なわけで、んだから薩摩も率兵上洛だけでも
何とか阻止しようと躍起になってる。
そもそもの慶喜の不幸は、幕内の不満を押さえ込むために最もリスキーな手を取らざるを得なくなってしまったこと。
徹底恭順とは言っても、辞官納地なんかは容堂や春嶽が頑張って有耶無耶になってた訳で。
それがあの進軍で全て台無しになった上に、その後の敗北で公議政体派も薩摩に抗う事が出来なくなってしまった。
その進軍にしても、この大軍で寡兵に負ける筈がない=薩長が抗う筈が無いという甘い目算が随所に見える杜撰なもので、
結局は>>110にあるように、幕府全体では兎も角、幕府中枢においては薩長の中枢に比肩できるような有事を担える人材がいなかった事と
最後まで意志の統一を図れなかったことが、政治的にも軍事的にも敗れた原因だろうと思う。
内乱自体は、特に恐れてなかった様にみえるな、薩摩の行動は。
おそらく、近代化に成功してない藩の軍がどの程度のレベルか、第2次長州征伐の時に見切ったのではないかと。
日本海側-下関-大坂-江戸の物流が止まったら、1866年のように一揆祭りになる危険もある。
野島崎廻りの航路はまだ危険な時代だから。 慶喜が徹底恭順してなかったら江戸も大坂も京都も火の海になった
世界一の大都市になった東京や優秀な企業を育てた商都大阪もなくなることになる
どの道腐り果てた幕府が新政府に滅ぼされたあとは天皇は薩長か広島にでもおかれてみすぼらしい近代日本の首都を形成しただろうな
江戸っ子が慶喜に感謝はすれど恨みはしなかったわけだ 江戸や大阪の市民なんかは戦は死活問題だろうけど、日本の殆どの市民は幕府が崩壊しようがしなかろうが知ったこっちゃなかったんじゃないか?
慶喜は損切りが早いんだよね。
長州戦争でも、鳥羽伏見でも、責任者としてはかなり早い段階で損切りしている。
ただ、損切りを独断で決めてしまうから後でいろいろ言われるんだろうけど、
少なくともその段階では慶喜の決断が正しかったのは間違いない。
間違いないんだが…
色々文句を言いたくなる気持ちは正直分からないでもないw 相談相手がいなかったんだよ。
老中の淀藩は裏切るし、御三家も当てにならない。
旗本たちも弱すぎだ。 幕府にしたって味方とは言い切れないしな。
長州戦争の小倉口軍壊滅は本当にショックだったろうなと思う。
原因の5割ぐらいは幕府指揮官の無能による自壊だしw 原・平岡・中根みたいな数少ない側近を暗殺されたからな
彼らは西郷や大久保に匹敵する頭脳を持ってたのに失ったから無能な老中やら幕臣に足を引っ張られ続けることに え〜い面倒くさい遊びをしおって〜
と兄の五郎丸が遊んでたひな人形をブチ壊した慶喜。
なんとなくこの頃から将来の片鱗があるなw まさか戦闘が勃発したり、負けるとは思わなかったのもあるだろうね。
大坂を敵に抑えられたら一発で勝負あったになるわけだから、
もし戦闘を本気で決意していたら、緒戦では用心の上にも用心を重ねて作戦を立てるはず。
もっとも上京の趣旨からして、静穏に上京するわけだから、難しいか。 慶喜はすごく慎重だからなあ。まったく鳥羽伏見というのは・・・
慶喜の後半生ががらりと変わってしまった分岐点だ、取り返しのつかない。
「新政府」で春嶽や容堂、木戸(仲良くなれそうだから)らと仕事をする慶喜の姿、見たかった気がする。
歴史にIFは無いけれども。
>>145
五郎麿というのは父斉昭に養子向きだと言われた子だね。どこに養子に行ったんだっけ。
あと、斉昭のお母さんに説教されて、しょげて反省するどころかついと立ち上がって「この坊主め!」と
頭殴った話(剃髪してた)。吹いた。おいおいって感じで。
でも斉昭のお母さん、元気の良い子だとその後ますます七郎麿を可愛がったそうだw
慶喜はなー、体育会系と頭脳系が入り混じっとるわな。
>>144
中根はどうかと思うが(昔夢会でも中根に政治向きの相談はあまりしなかった、と証言してる)、
原・平岡が西郷や大久保に比肩しうる人材ってのは納得できる。とくに原。
本格評伝が出ないものかと思ってる。知れば知るほどこの人幕末史において重要だっっと思う。
どのあたりで攘夷から開国に考えが変わったのか、とか、生い立ち人柄とか、もっと。
歴史というのはこういう眠った、一般には知られていない大物がいるから面白い。
一般には知られていない、といっても、維新後数十年は、どうやら原は「最後の将軍慶喜の謀臣」として
かなり知名度があったようだが。時代によって人の知名度は移り変わっていく。
維新後はかけらほどの知名度だった坂本龍馬が今は・・・
そういや、平岡の写真は残っていないのだろうか。どういう様子の人だったか、渋沢あたりが証言してないかな。 何日か前に覗いてみたら、日本近代史板自体が無くなってて超慌てた。
復旧してよかったよかったw しかしなんだったんだろ一体。 >「新政府」で春嶽や容堂、木戸(仲良くなれそうだから)らと仕事をする慶喜の姿、見たかった気がする。
同意
大河でのエピだが西周に三権分立とか教わって理解してるの見て
一歩間違えば木戸とかと気が合いそうじゃんwと思った 敢えて政治から無縁の生活に専念したんでしょ。
家達の邪魔にならないようすることにかなり気を遣ったらしい。 木戸はなあ・・・世話焼きだからなあ。
慶喜みたいに複雑な性格の持ち主への理解度が半端ない気がするし。
慶喜の周囲の集まる人って、平岡にしろ、原にしろ、渋沢にしろ、感情表現が豊かでお節介な
人らが多い気がする。平岡と原の手紙というのは誇張があるのがあるようだし。
主君が「無駄なことはしゃべらん」性格だと、家臣たちは主君をかばう意味もあって
しゃべり倒す面もあるのかな、と思う。 木戸は慶喜を外務大輔にすればいいんじゃね、と提案してたな。
まあ実際に打診されても断ってたろうけど実現したら活躍したろうな、
外人ウケすごく良いし。 陰謀によって自分を朝敵にしたようなやつらに協力したくないだろう。
榎本みたな下っ端とは違う、前政権のトップだ。
慶喜はそんなつまらない感情論で判断したりはしないだろうけどな
単純に自分がいたら紛争の元になるだけだと思ったのでは >>153
パークスとロッシュという経験豊富な当時の二大大国の大使から最大級の賞賛受けてるからな
外交問題にも妙手搦め手強攻策で乗り切ったし
陸軍はフランスで海軍はイギリス式というのも慶喜時代に決まってたのを採用した
慶喜が征韓論とか列強との関係をどう考えてたのか明治以降何も語らなかったからこそ気になるな 木戸と慶喜が面識ないのは惜しかったな。
木戸は、わりと知性や才能に惚れちゃうタイプだと思うんだよね。
慶喜が幕府と徳川家から身を引いたことでこだわりなくなっちゃってるし。
たしか、どっかで弟の昭武に会ったときも、有望な若者だ〜!とか誉めてんだよあの男。
もっと木戸が長生きしていれば、慶喜と何らかの形で道が交わってた気がするけど。
写真撮られるのも好きだしなw 有栖川宮家の外孫なわけだけど、なにか交流話はあるの? 元々慶喜の養父に当たる14代将軍家茂に嫁いだのが孝明天皇の妹である和宮
その和宮は元々は有栖川宮熾仁親王と婚約していた
東征大総督となり慶喜を討伐するための官軍の総大将になった熾仁に慶喜の妹である徳川貞子が嫁いだが子供はなく
有栖川宮を継いだ威仁は慶喜の明治天皇との拝謁を仲介したり渋沢や勝と共に尽力してくれたがこの人の代で有栖川宮は断絶
威仁の娘の實枝子と徳川慶喜公爵家を継いだ慶久の娘が高松宮妃喜久子で断絶した有栖川宮の祭祀を継いだのが高松宮
慶喜の子孫の高松宮妃喜久子が死去したことにより高松宮=有栖川宮の系統は完全に終了した
ちなみに後陽成天皇の息子であり初代高松宮=有栖川宮となった好仁が生まれたのが1603年
これは徳川幕府が誕生した年でもある
だから高松宮=有栖川宮はある意味で徳川幕府と共に生まれ徳川幕府と共に滅びたといえる
数奇な運命だね >>160
山内昌之がイスラム学者でただの幕末好きな素人のオッサンということは知ってるよね?
産経に相応しい知能の人ではあるけどさ 七郎麿→昭致→慶喜
諱が昭致だったのは、どこでなにをしていた時期ですか?
一橋に移ったときは慶喜だったし
水戸にいたときは松平の七郎麿だったし
いつだろう 七郎麻呂は諱じゃなく幼名では。
七郎麻呂が元服して松平昭致になり、一橋に養子にいって諱が慶喜になったんじゃね? >>159
そうか、そういう流れになってるのか。
慶喜と有栖川宮威仁親王との親密な交流のことは知っていたけど、幕府とともに生まれ
幕府とともに滅びる、か・・・
それにしても宮家というのはいまいち分からない。いっぱいあるよな。
幕末慶喜と因縁の深い中川宮朝彦親王はひとりでえらいたくさん宮家を名乗ってた。
良く改名する人だったという意味だけど。
青蓮院宮、賀陽宮、インノ宮(漢字出なかった)。他にもあるか?
「中川宮日記」が残ってるが、幕末史には重要な史料だ。
幕末の朝廷といえば、孝明天皇を別格にすれば、「勝ち組」になるため岩倉具視が
どうしても注目を浴びるけど、中川宮も負けず劣らず重要と思う。
慶喜政権を支えた朝廷の有力者。孝明天皇の信任も厚かった。
>>157
木戸と昭武って面識あったのか。
慶喜は明治天皇に謁見を果たし朝敵の汚名を完全に晴らしてから、
旧幕臣や明治政府の有力者達からの面会申し込みを完全に拒まなくなるね。来るものは拒まず。
青木周蔵、前島密、榎本武揚。山縣も訪ねていってるが会えなかったらしい。
すれ違いになったのか(当日慶喜外出中)、はたまた慶喜が山縣を嫌ったのか。
元服して斉昭の偏諱で松平昭致だから、まだ水戸家にいたころのはず。
一橋家を継いだそのときはまだ将軍から偏諱を受けてないので、徳川昭致?
数ヵ月後に慶喜になっている。
慶喜って名前自体やんごとなきところの拝領系だから刑部卿任官という時点で慶喜なんだと思う。つまり一橋家に入った時点で拝領したのでは?
水戸は兄貴が継いでるから普通は部屋住みの日陰者だけど御三家オヤジがどうにかしたんだろうとしか思えない。
七郎麻呂の幼名の通りオヤジのヨシアキラは八方の絶倫で子供世継ぎには事欠かない。
よって慶喜は水戸の悪竜のセガレといって大奥から若年より忌まれることになる。
まあ、数ヶ月後というのがキモなんですよ。
当時は発布つうか今のメディアみたいにスグ宣言してすぐなれるわけじゃねえぇ。
大阪から逃げて江戸で待機してたのも幕藩律令を十分に踏まえた慶喜特有の達観の経緯だと思います。
ちなみに「慶」も「喜」の字も侍ではなく、カシコキアタリから頂く忌み名でありますよ。 将軍家慶の正室と水戸斉昭の正室が実の姉妹。
将軍家のほうから七郎麿の一橋家相続を持ちかける。
斉昭は七郎麿にかぎるのかほかの男子でもいいか照会。
七郎麿に限るとの返答。母親の縁であろうことは明白。
一橋家相続時、当人は何才であったか。
自分の考えで諱を選べると考えるは不自然。 そらカシコキアタリは深夜までつうか朝寝して下肢さんざん考えんだろうが、多分七歳ぐらいだろうなとも。
違うかもな。
オカンも有栖宮だしな、天下の副将軍(ツウ役職はは一切ないが)のオウチならいいかなミタイナ。
福地源一郎翁の著作をあたればそこはかとなく幕府の能吏秀才体質は知れるのでコレを頼みにしようとしても間違いではないと思いますよ。
家を継ぐ、家職を継ぐ、名を継ぐ
これはセットだからな
どれかだけを継ぐ奴が現れると後継者問題が発生し政変になって幕閣も大改造。
あぁややこしいやぁ 家慶は若き慶喜を大層かってたからな
因習や血筋に縛られることがなければ日本国の歴史も大いに変わってただろう
歴史のifを語るのは詮無きことだけど13代が慶喜だったら・・・14代が慶喜だったら・・・と渋沢や勝も考えただろう 吉田松陰>勝海舟>佐久間象山>高杉晋作>桂小五郎>徳川慶喜>後藤象二郎 【リビア】地上戦、カダフィ大佐の優勢揺るがず 元英陸軍准将が指摘[03/25]
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1301052041/
1 :歩いていこうφ ★:2011/03/25(金) 20:20:41.92 ID:???
英シンクタンク、国際戦略研究所(IISS)のベンジャミン・バリー氏が産経新聞のインタビューに
応じ、多国籍軍による空爆開始から1週間が経過するリビア情勢をめぐり「反体制派の秩序は乱れている。
重火器を運搬できず、戦車や大砲、武装車両を使いこなす能力があるように見えない」と指摘し、地上戦
では最高指導者カダフィ大佐側の優勢は揺るがないとの見方を示した。
昨年10月まで英陸軍准将としてイラク戦争とその後の教訓を分析したバリー氏は、「反体制派の本拠地の
北東部ベンガジでは戦車や武装歩兵隊、砲兵隊で構成された大佐側戦闘部隊の攻撃が多国籍軍の空爆で
阻止されたが、北東部アジュダービヤには小規模部隊がとどまっている。対抗する反体制派は戦闘部隊と
しては極めて劣悪だ」と指摘する。
実際、多国籍軍の空爆が始まる前の19日朝には、ベンガジで反体制派の旧ソ連製戦闘機ミグ23が友軍
に撃墜され、反体制派の指揮系統や通信網の乱れが浮き彫りとなっている。
バリー氏によると、反体制派は兵器の輸送を軽トラックに頼り、大佐派から奪った戦車や大砲、武装車両
を展開する能力に乏しい。大佐側から寝返った軍人が戦況を変えている証拠も少ない。「反体制派に最先端兵
器を与えても、反体制派の無秩序ぶりを考慮するとどれだけ違いが出るのか読み切れない」という。
反体制派が地上戦で優勢に転ずる可能性は「大佐側が多国籍軍機を攻撃して国際社会を挑発するか、前線か
ら後退しない限り、困難だ」と語る。ただ、武力行使を容認した国連安全保障理事会決議が大佐殺害を認めて
いるか否かについては、「大佐側が一般市民への攻撃を増した場合は選択肢として残されている」という見解
を示した。
北大西洋条約機構(NATO)が指揮権を米軍から引き継ぐ飛行禁止区域の実施については、「ボスニアで
は内戦が終わるまで3年、イラクでは開戦でフセイン政権が倒れるまで12年続いた」とし、長期化する可能
性を示唆した。
ソース:MSN http://sankei.jp.msn.com/world/news/110325/mds11032519360007-n1.htm
26 :七つの海の名無しさん:2011/03/26(土) 05:10:39.58 ID:nRFuxESU
徳川慶喜も、このくらい粘ればよかったのに…
鳥羽伏見で負けたからって、逃げ出す必要は無いんだよw リビア反体制派ズルくね?
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1301235784/
1 :Ψ:2011/03/27(日) 23:23:04.08 ID:ubdxShzz0
米英仏軍の援護射撃使うとかチートだろ
インチキしてまで攻城戦勝ちたいのかよ
ネットゲーマーの風上にもおけない >>172
家慶が慶喜を気に入ってたのは、慶喜が美少年だったことが大きかったんじゃないか?
・・・あまり大きな声では言えんけどな。
初対面で可愛い、美しいと思い、やがて利発だと知り、ますます寵愛は深くなっていった。
手取り足取り弓を教えたり、慶喜に歌わせ自分は舞い、自分が歌って慶喜に舞わせたり。
家祥(のちの家定)はどんな心境だったんだろうか。 あまたいる兄弟の中で、昭武とだけは終生仲良しだった
なぜ〜 天狗党を捕縛粛清し、五代友厚とはフランス万国博で激突した人だから。
帰ってみたら既に明治でしたけどね。 いや、渋沢うんぬん言う前に、本国寺党のシンボル的存在として水戸からまだ10代前半の昭武を
連れて来てたから。
181の言うように、天狗党上洛による捕縛戦にも昭武を同行してるな。
・・・五代友厚と万国博で激突してたのか?知らなかったが。
渋沢は幕末ではまだまだ慶喜とは距離あるだろ。すでに崇拝感情は芽生えてるにせよ、
幕末の慶喜の傍にいたのは、やっぱり平岡だったり原だったり、だから。
ほんと、なんであんなに仲良いんだろうな。そもそも昭武がどういう人柄なのかあまり知らん。 昭武がどういう人柄なのか俺も知らないから、知りたいな。
やっぱり慶喜とかに比べると史料が少ないからなー >>184
パリに同行した人の感想で素直で聡明だったというような話があったかと。
主君だからいくらか太鼓叩いたとしても、まあエエとこのエエ坊っちゃんタイプであれこれ画策する人物ではなさそう。 坊ちゃんでは五代友厚・モンブラン伯爵の手玉に取られるだけだった、と
薩摩琉球国勲章は向こうのアイデア勝ちでした >>186
そうなのか。
なんかの本で慶喜に似て聡明って読んだことはあったけど、慶喜と性格が似てるって訳じゃないのな 慶喜と性格が似てるのは大久保とかそっちだな
どっちも近代日本の生みの親なのに嫌われてるのは勝西郷みたいにわかりやすい性格じゃないから 慶喜と大久保似てるかなあ、慶喜はあんな粘りというかしつこくないだろう
明治政府なら井上馨が慶喜に近そうなイメージ。
まあ、旧幕臣いわく井上は小栗に似てるそうだからちょっと違うかもしれないけど。 >>189
いやいや、勝西郷はかなーり複雑な性格だと思うよ。
反対に自分は大久保のほうが理解しやすい、と感じてる。少なくとも三傑のなかでは一番理解しやすいんじゃないかと。
>>190
うえええ、井上!? いや井上好きなんだけど。
慶喜と大久保似てない、ってのには同意。
なんつか、権力欲、権力を欲する過程で生ずる異様な執念・執着が決定的に違うかと。
あと、大久保は冷静沈着な表に、内には燃えたぎる情熱・信念が感じられるんだが、
慶喜は・・・ 良く調べてみても、「昔夢会筆記」読んで肉声(の筆記)を聞いても、
「熱」があるのかどうなのかよく分からんのだ。ほんと掴みづらい。
昭武は慶喜より喜怒哀楽を素直におもてに出すイメージがある。 >>190
渋沢栄一を重用したあたりは、井上と慶喜は近いけど、あとはあんまり近い感じしない。
井上は輔弼の能力はかなりあったと思われる。あと、世間の動きを見る能力。
本来ならば保守派に属する家柄の生まれにも関らず、志道家に養継嗣に出て、
安政年間に早くも高杉たち過激グループと交わり、その一方で長井・周布とも
仲良くしていて、長井失脚後は品川御殿場英国公使館焼き討ちにも参加。
海外留学にも率先して割り込んで、上海で早くも攘夷はやめたと公言。
帰国後は攘夷戦争やめさせるために藩主親子のまえで大激論して切腹までやろうとする。
テロにあっても考えは曲げず、絵堂太田戦争後は鴻城軍指揮官、藩政府の外交官、
幕府の勝との講和交渉役。明治後の政府の財政建て直しを具体的に計画したのは彼だし。
生まれも育ちもそこそこいいのに経済の仕組みが理解できていた不思議な人物。
まあ山岡鉄太郎から罵倒されても、江藤からコケにされても、西郷から揶揄されても、
テコでも動かないところがあったのは自分自身の考えに自信があったからだと思う。
鹿鳴館の舞踏会の主催。朝鮮国母暗殺後の騒乱鎮定のための渡鮮。
伊藤にも山縣にも言いたいことが言えた貴重な人物だし、汚職ばかり取り沙汰されて、
田中角栄なみにその能力を過小評価されてしまってる。
慶喜とは関係ないけど、後世、的確にその業績が認められてない人物の一人ではある。 >>191
政治的な手腕というか、姿勢って意味だろう。
なんか突然政治権力をぽーんと投げ出して未練も見せない辺りとか?w
つか、井上と小栗が似てるって証言が凄い気になるんだがw 似ているとしたら、金勘定が役職のはずなのに
やりたいことに散財して国の財政を空にするあたり? 井上はむしろそんな金どこにもねーよってブチ切れて
渋沢と一緒に辞職したようなw
>>188
まぁパリに行った頃はまだ若いし。 >>194
水野忠徳が大久保に、小栗忠順が井上に似てると杉浦が言ってたけど適評だ、
と福地が書いてた
幕末政治家の水野の項にて。近デジで読めるよ 井上馨は長井雅楽の切腹どう思っていたのかね。
攘夷を捨てた後に。
基本的に攘夷派は人として信用できない。 慶喜は勝と似てるような気がする。
全てが似てるっていうんじゃなくて、どことなく偏屈っぽいところとか。
勝と慶喜は同属嫌悪っぽい。 嫌悪なんてしてないでしょう。
仕事上衝突することがあったというだけで。 >>198
井上は長井のことはそんなに知らなかったんじゃね?立場的に。
桂は惜しいっつってたかな。
つかここは慶喜スレだから自重しようぜw 幕末が好きな人で慶喜が好きって人と中々出会わないなー 慶喜は小笠原長行の率兵上京に付き合えなかったのかな…
慶喜がついてたら、会津藩は止められなかったでしょ
慶喜って偏屈かね・・・?
わりと本読んできてるけど、偏屈・ひねくれてる、というイメージは無いんだよ。
偏屈とかいうとなんか小物っぽくないか?
そうじゃなくて、自分がこうと決めたことには彼なりの強い根拠(客観的に見て慶喜の行動というのは理にかなっている、
合理的なのがほとんど)があって、信念という域に達している。
自分の生きるスタイルを持っていると思う。
>>203
小笠原の率兵上京。えー、どんな状況だったっけか。幕末ってややこしいからなー。
黙認はするが積極的に支持するにはためらいがある、という姿勢じゃなかったか。
小笠原は長州を中心とする尊攘激派を武力で追放し、都・天皇を公武合体派のもとに置くのが目的か。
慶喜には尊皇攘夷の本山の水戸出身という枷もあるし・・・ 慶喜がもうちょっと柔軟だったら、公武合体で終わっていたと思う。
神戸開港、長州征伐、どうして同時にできないのか。 他者に対して情のカケラも持ち合わせていない
ただのお坊ちゃん貴族 情のカケラを持ち合わせてないような人だったら、ポケットマネーで家臣養ったりしないだろ。
>>204
慶喜は、まあ、人の捉え方次第だよな。
俺は時代が時代だから慶喜は当時変人扱いされてたんじゃないかと思う。
今の時代から見れば、慶喜の行動は理にかなってるけど、当時の人たちからすれば、「こいつ分け解らん」と思われてたに違いない。
説明無しで行動してりするし。 >>203
>小笠原の率兵上京
京都の公卿たちが尊攘激派の脅しにビビって慶喜の工作が上手くいかない時期だったけ?。
生麦事件の賠償問題で、攘夷派が譲位決行を叫び、公家衆ばビビって同意。慶喜が手詰まりになっていた。
しかも将軍家茂が上洛中で、朝廷の上位要求が直接家茂に言い渡されれば拒否できないので、
慶喜は家茂を江戸へ帰らせようと調停工作するも、そうはさせまいと尊攘派も公家工作で対抗という情勢。
江戸では、イギリスとの戦争を避けるため賠償金の支払いに応じた。
朝廷の要求を無視したことで、公家衆の非難が幕府に集中した。
慶喜は、幕府と朝廷の仲介役だったはず。それでその仲介役を「やめた!」と放り出し、江戸に帰り、
賠償金を支払った老中小笠原に「張本人である君が朝廷に報告するように」と言った。
小笠原は激怒して軍を率いて京都へw。ビビった朝廷は家茂に江戸へ帰る事を認めた。
尊攘派が反対したが、幕府軍が京都へ進撃中の報告の方が脅しとしての効果が絶大だった。
結果、慶喜が目指していた「攘夷命令を受ける前に家茂を江戸に戻す」が成功した。
完璧ジャン
新幹線で隣のおっさんが酒飲みながら唐揚げとスルメ食ってた時は凄い臭いがした。
まあ車内で売ってるから仕方ないけど。
俺は博多明太子弁当食べながらビール飲んだ。
明太子落としたけど悔しいから拭いて食べたら凄まじい顔でにらまれた。 慶喜について来れる家臣もいなかったしな。
実兄の水戸藩主は足を引っ張るし、尾張も紀伊もあてにならないし、
戦になったら旗本も弱い弱い。
家斉家慶家定のひとりでもまともな政治をやっておればなあ。
そのときは慶喜の出番そのものが無いわけだが。 //208
賠償金支払いは、朝廷の手前表立ってできないものなのだけれどしなければならない懸案。
慶喜が、支払え、とはっきりと命じたわけではないけど、密かに小笠原と連絡を取り合い
当時外国掛(だったよな?外務省幹部のひとり、という立場と解してるが)だった小笠原が
独断で賠償金を支払った形にしてようやく懸案を突破した、と記憶してる。
将軍後見職という自分の地位では支払うとまずいからね。将軍に直結する。
率兵上京についても小笠原との間で話し合いがあったものと思う。
小笠原は外交に有用な反面直情怪行的なところがあったようで、勢いで尊攘撃派完全駆逐!!
と気負いこんでた節がある。
それに対して慶喜は、完全駆逐は無理だし、またすべきでない、と思ってたんじゃないか?
長州の尊攘思想は、水戸のそれに近い。
のちの蛤御門の変の前の再三にわたる長州への説諭を見ても、慶喜が長州に親近感を持っていたのが感じられる。
長州を駆逐するのにためらいがあったのだと思う。むろん、理由は他にもあっただろうが。
>>211
原市之進がいるじゃん。あと、永井尚志。
でもこれくらいかな。原と一緒に水戸から登用された梅沢孫太郎も老中の板倉も、
大政奉還後、幕府の復権は必ずあるもの、と思っていたようだ。
原の死が、とにかく痛い。 >>212
小笠原と慶喜が密かに話し合っていたかには疑問があるなぁ。
史料的な根拠が無いし。
それよりも、当時の幕閣のほとんどが賠償金支払いをやむを得ないものと受け止めいてた。
しかし、朝廷の攘夷要求もあり公然と支払えないという現状があった。
そこで水戸藩と尾張藩だったか?ちょっと失念したがそうした当時江戸にいた幕府ご意見番的な藩の了解を得ようとしている。
結果、水戸藩らが”払うしか無いだろう”という助言を得て、外国掛だった小笠原が支払った。
ところが、朝廷がこれを否とし、水戸藩などに非難する声明を発表した為、これらの支払いを良とした藩が手のひらを返している。
幕府閣僚も一緒に手のひらを返してしまった為、結果支払いをした小笠原一人が残ったというのが現状じゃないかな。
慶喜は、逆にこうした現状を利用して”策”を仕掛けたと私は見ている。
>長州の尊攘思想は、水戸のそれに近い
禁門の変を起こした真木和泉守自身が水戸学徒を自称するほどの人物だったからね。
長州側も京都着陣後、一ヶ月もの間戦わずに交渉に終始しているところを見ると、出兵はしても戦争は避けたかった雰囲気が伺える。
水戸学的には、”天皇の住まう京都を戦場にするなどもってのほか”なので、長州も慶喜もその点で避けようとしていたと私は見ている。
天狗党の乱が起きなければ多少はその後は変わったのかな? 真木和泉は形は足利尊氏であっても、志が楠正成であるならばよいではないか。
と言ってなかったか。 >>216
言っていたな。足利尊氏(京都を攻め取ろうとした人)であって平家(天皇を連れて西国へ向かった)ではない点が注目だな。
ついでに言えば、慶喜もまた鳥羽伏見の戦いの時に「足利尊氏にはなりたくない」と言っていたな。
水戸学史観で書かれた「日本外史」を読めば、なぜ真木和泉守や慶喜が特別に足利尊氏を嫌うのか解るよ。 いやあれは肉声の「筆記録」だから。
箔付きの美声だもんな。自分も聞いてみたい。
顔の骨格を再現すれば声も再現できる科学技術が開発されたと聞いてるが。
高くもなく低くもない、丁度良いくらいの柔らかい声だったのではと想像してる。
「昔夢会日記」の口調はとても柔らかく上品だ。 俺も肉声は聞いてみたい。
慶喜の印象を語っているものではかなりの確率で「声がいい」って書かれてるからな。
そうとう良かったんだと思う。
昔夢会の口調の上品さが凄く好きだ。 その人の性格とか生き様は年老いたときの顔に現れるっていうけど
晩年の慶喜の写真を見ると、どれも気品があって美しいね〜 大老暗殺したり、天狗党だったり、
実家が幕府に迷惑をかけすぎなんだよ 異国船打ち払い令とか、横浜鎖港問題とか、兵庫開港問題とか、
徳川家茂時代は幕府叩きに慶喜本人も熱意を燃やしていましたが。
家茂が死んで幕府が手中に転がり込んだので、一転して幕府の上に座りましたけど。
大政奉還による幕府の地位否定と、鳥羽伏見の戦い敗北による旧幕府の朝敵化と西国離反で
慶喜の京都政権(一会桑)は幕府を道連れに崩壊してしまったので、幕府にとってはその後も大迷惑でした。 >>222
本人はフランス語とか外国語は喋れなかったかもしれないが
気品や振る舞いはパークスロッシュと当時の2大超大国の外交官から非常に高く評価されてる
慶喜と論争した幕閣老中や大名はやり過ごした井伊以外は全員論破されてるが
ディベートのように完全に理詰めで言いくるめたんだろうな
今も昔も理性より情が優先される日本人が慶喜を好きになるわけないか(笑) 気品とか声とか顔がかっこいいとか
ここはオバハンのファンしかいないのか 徳川慶喜が、江戸幕府にとって代わる自分の政権を京都に作ろうと試み、
最後の場面で政権の座を薩長にさらわれて、慶喜は幕府ごと潰された、という形なので、
幕府にとっては、徳川慶喜や部下の会桑あたりは敵対者・裏切り者や疫病神に映る。 >>232
君の言う幕府ってのは
「面倒事である朝廷対策や諸藩対策を慶喜や会津桑名に押しつけて京都に追いやり、江戸でずっとボケ〜としていた幕府中枢の老中&幕臣達」の事ですね。
わかりますw。 >>228
憎み合っていた両者が
結果的に幕府の寿命を縮めてしまったね
安政の大獄で謹慎中、一橋家は当主不在で隠居だけいたの?
徳川幕府は世襲ばかりだから無能が多すぎたな
薩長の連中に対抗できるくらい有能なのは慶喜原勝大久保と数人しかいない
勝だって本来なら幕府の役人になってたか怪しいもんだし潰れて当然だわ 水野・岩瀬・堀・井上・永井あたりの人材がもうちょっと活用されていれば・・・ 永井は慶喜が将軍になってから若年寄に昇格してる。慶喜自身の強い意向によるだろう。
だがここらへんが限界なんだなあ・・・ 家柄としきたりにがんじがらめになっている幕府には。
世襲が有効な時代は過ぎたのだが、それを察することのできるレベルの人物を、将軍家・御三家・御三卿・譜代大名に求めると
数えるほどしかいない。これはある意味当然ではあるのだが。
それでも、終焉を迎えようとしているひとつの王朝(と言える)のトップに慶喜のような男が最後に座ったのは、
どさくさ紛れに、惨めに、あるいは見苦しく最後を迎える古今東西の王朝を知るにつけ、
徳川幕府はなんだか華やかな終焉を迎えよった、と思うんだよ。
>>234
うんうん、あほくさいなあ。
>>227
ま、理(ことわり)を解する人が全人口の一割にも満たないから。それが人間。
大衆はどこの国も感情的かな、と思う。
ある歴史作家さんの言葉だけど、
「人は、味方の現実主義者よりも敵の理想主義者を愛する」
これ真理。
そして自分は理を解する人間が好きだ。
理を解しながら情も知り、その間で揺れ動きながら志を貫いていく人が。
慶喜の晩年の写真といえば、公爵位を与えられたときの大礼服姿の写真が好きだ。
あくまでも凛として気高い。なんという写真だろう、と感じたよ。
>>239
あほくさいなら自分が幕府って言葉使うのやめたら?
それと大衆って誰のことだよあほくさ >>242
幕府は将軍を頂点としたピラミッド組織
公儀といえばだれか、将軍なくして幕府はあるのか、
少し考えればわかりそうなものだ。
お前レベルのバカはレスするな
> 家柄としきたりにがんじがらめになっている幕府には。
慶喜は平成になってさえ、大奥改革でディスられてるからなあw 将軍といっても基本的にお飾りだからな〜w
将軍いなくても老中合議で幕府は動くんだよよねぇ
そんな中にあって、自ら動き活躍した将軍が慶喜だが、それだにお飾りの操り人形にならなかった慶喜は嫌われもしたなw 一本気な若き慶喜、鮮明に 将軍就任前、土佐藩士記す
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011052801000075.html
「御一命ヲ頂戴仕私モ身ノ覚悟」
「今日ハ茶ヲ呑ニハ参ラズ」
「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」
>>247
てか、刀佩いた酔っ払いが血相変えて乗り込んできたら、そりゃ、ふつう、ビビるだろ。
そうでなくても、京の人は、江戸なんて北斗の拳ばりに蛮族がヒャッハーしている化外の地のイメージ持ってたんだし。 横レスすみません。
慶喜の側近で明治まで暗殺されずに生き延びた家臣とは誰なんでしょうか?
調べているうちに頭がだんだん混乱してきて・・・
厨房ですみません・・・
慶喜公の息子の慶久さんは自殺だったんですか?
遠藤某の聞き書きによる、「実枝子夫人の浮気による神経衰弱」はほんと?
榊原喜佐子も松平久美子も脇腹? >慶喜の側近で明治まで暗殺されずに生き延びた家臣
香川敬三。維新後宮内省で高官となり慶喜の叙勲に尽力した。
トンズラしないで戦争続けたらどうなっていたのやら。
やっぱ外国につけ込まれ植民地コースだったのかな? 当時の欧州情勢的に、つけ込んで勢力拡大できるほど余裕のある列強は居なかったと思う
もちろんそれを機に既得権益の伸張は図ってくるだろうけど 慶喜が大政奉還して恭順したから、戊辰戦争はあの程度で済んで、日本を救ったけど
佐幕側としては腰抜けの裏切り者なんだろうな。
第二次大戦でもマリアナ沖海戦で勝負は決したのだから、慶喜のように自らを捨てて
敗戦工作をする勇気あるリーダーがいたら、随分日本の被害も少なかっただろうな。
残念ながら1944年の日本には、慶喜のように後世裏切り者の汚名を着る覚悟のある
勇気あるリーダーはいなかった。 大政奉還の頃はまだやる気満々だよ。
返されてたら自分たちじゃ何もできないからどうせ困るだろと思っていた。
幕府軍が弱いことを鳥羽伏見で思い知って恭順することにした。
まあ江戸が戦火をまぬがれて本当に良かった。 まぁ幕府陸軍の最精鋭を全部出してあの体たらくじゃ、
慶喜がそう考えるのも仕方ない。
一番悪かったのは戦略だけどw 辞官納地を突きつけられて、二条城から大阪城に引いた段階で、すでに慶喜にやる気はない。
やる気あるなら二条城にいる。京都から離れた時点で、薩摩に敗北した事を悟っている。
天皇を薩摩側に獲られる事は分りきっているんだから、京都を出た段階で
尊王の慶喜は戦えない。 京ではまだ土佐と越前が頑張ってたやん?
それに、二条城は堅固な城って訳でもないからなぁ。むしろ柔い部類。
準備不十分なうちになし崩しに開戦するよりは、堅固で交通の要衝である大阪に下って
政治的な成果を待ちつつ軍を整え仕切りなおすって選択肢も十分ありだと思うが。
むしろ、会津や桑名は兎も角、それ単体でも新政府軍に数で勝る幕府陸軍の精鋭が
負ける可能性を考えてなかったんじゃね?w
まぁ何にせよ、政治工作の成果の是非も見えないっつかむしろ有利に進んでた時に開戦したのは
慶喜の本意ではなかったと思うが。 あのとき慶喜は風邪ひいて寝込んでたらしいね
で、下々の兵隊長がさわいでてもうとめられないと家老がせっついて
鋭気のそがれている慶喜はもう勝手にしてくれ・・・みたいな流れに
まぁ幕府には西郷みたいなカリスマがいないから
兵の暴走を止めるのは難しかっただろうけど >>263
>京ではまだ土佐と越前が頑張ってたやん?
幕軍が大阪に後退しているのに、土佐と越前に何が出来るのか?
せいぜい徳川家存続の道を探るぐらい。
>それに、二条城は堅固な城って訳でもないからなぁ
それを言うなら薩摩藩邸なんて何の防御力もない。二条城なら堀も壁もあり
はるかに上回る防御力。そして二条城は御所の目の前にあるという立地が最大の武器。
幕軍が二条城にいる限り薩摩も簡単に天皇を擁して新政府を作ることはできない。
慶喜が大阪に引いた段階で負けを悟っていた >>265
徳川家の力を丸々残すことを狙ってたやん。
そして実際に納地問題は有耶無耶になった。
幕府の基盤だったそれが残ってるのに負けはない。
そしてあの時点で薩摩藩兵が背にしてたのは御所。
そこを獲らないと、薩摩藩邸なんざなんぼ焼いても何の足しにもならん。
距離的には近いが、こちらの手駒にあるのは主に会津桑名などの親藩兵。
装備的には頼りになりそうなのは大垣ぐらい?
これで兵を出して失敗すれば、まさに逆禁門の変が完成する。
しかも放っとけば、勝手におっぱじめかねない連中ばかり。
これなら、一旦大坂に引いてでも、頼るに値する幕府陸軍を呼び寄せて主力とし、
陣容整えるのが常識的な戦略だろう。
政略的には、示威効果も期待できるしね。
ちなみに当時の幕府陸軍の動向や二条城に詰めてた兵力は勉強不足にして知らんので、
教示して頂ければ幸い。 >>266
>そして実際に納地問題は有耶無耶になった。
シロウト相手に説明するのも疲れるが、辞官納地は、倒幕に変わったんだよ
>負けはない。
薩摩に天皇を獲られてしまえば、幕軍は朝敵だ。勝てる訳がない。
大久保や西郷が「玉を獲った者が勝ちだ」と話していたそうだが、もちろんその通りになった。
>しかも放っとけば、勝手におっぱじめかねない連中ばかり。
全く統制も取れていないのに、君だけ「慶喜は勝つつもりだった」と主張しても
全く説得力がないね。統制が取れない段階で、軍事力なんて意味がない。
慶喜でもそれぐらいは分っている。分ってないのは君だけ。 >>265
>幕軍が大阪に後退しているのに、土佐と越前に何が出来るのか?
>せいぜい徳川家存続の道を探るぐらい。
徳川幕府は大政奉還しているから、すでに”滅亡”している。
あとは徳川家の存続の道を探る以外に道ないだろw。
徳川家存続以上の何を望んでいるんだ??徳川幕府の復活ですか?。 >>268
265に「徳川家の存続」と書いてるだろう。読めないのか?
アホは疲れる・・
お前の頭では2ちゃん無理だよ >>269
んじゃ”せいぜい徳川家存続の道を探るぐらい”の”ぜいぜい”と何故付ける?。
せいぜいとは”その程度しか”という意味で、ニュアンス的には”意味が無い”を意味する。
つまり、土佐と越前の行動は意味が無いと君は言っている訳だろ。
徳川家の存続程度の願望には意味が無いという意味になる訳だから、それ以上の何が望みだと聞いているの。
それとも人を小馬鹿にしてばかりで、自分自身は日本語の正しい使い方も解らないので? >>267
なんか分かって貰えてないようだなぁ。
>シロウト相手に説明するのも疲れるが、辞官納地は、倒幕に変わったんだよ
倒幕=徳川家の滅亡じゃないでしょ?
徳川幕府に対する王政復古と徳川家に対する辞官納地問題は別々に協議されてるじゃん。
>薩摩に天皇を獲られてしまえば、幕軍は朝敵だ。勝てる訳がない。
旧幕府軍が鳥羽伏見で勝っていたら?
東国なんか、賊軍になるっつーのに新政府軍に反抗した奴らが幾らでもいるよね。
>全く統制も取れていないのに、君だけ「慶喜は勝つつもりだった」と主張しても
>全く説得力がないね。
だから、統制が取れてて装備も薩長より優れている幕府陸軍の到着を待ったんじゃないのっつってんの。 >>268
江戸に逃げ帰ってからも、まだ、幕府中枢部の人間が、
横滑り的に新政府の一部になる希望は捨ててなかったように思う。 >>270
>んじゃ”せいぜい徳川家存続の道を探るぐらい”の”ぜいぜい”と何故付ける?
アホには疲れる。完全に論破されて、重箱の隅つつきしか出来なくなったか?w
往生際の悪いヴァカだなあww
お前が「京ではまだ土佐と越前が頑張ってたやん?」と土佐と越前を過大評価して
いるから、土佐と越前に出来る事はせいぜい徳川家存続の道を探る事だと言ったんだよ。
おバカさんにはこのレベルでも難しいか? 人のことヴァカヴァカいわなきゃ論じられないような人はスルーしちゃえば? まぁ論じる気は失せるな。
因みに、俺が意見を書いたのは>>263=>>266=>>271。 >だから、統制が取れてて装備も薩長より優れている幕府陸軍の到着を待ったんじゃないのっつってんの
幕府陸軍って天狗党相手に腰を抜かして逃げまくっていた幕府歩兵隊のことだというなら、
いくら装備が充実していても装備が遥かに劣る天狗党相手に逃げ出す弱体軍勢だったわけだが。
下妻の戦いで夜襲受けて敗走した件?
その一事を以って論ずるのはどうよ。
第二次長州征伐では、紀州藩と一緒に広島口で一進一退の攻防してたじゃん。 その幕府歩兵が、鳥羽・伏見の戦いではあっという間に潰滅撤退して、戦況悪化の原因になったわけだが 旧幕府歩兵は、戦況に決定的でないときには頑張り、
ここ一番というときには必ず負けた不思議な軍隊だった。
対天狗党 ボロ負け
対長州(第二次長州出兵) 互角
鳥羽・伏見 ボロ負け
小山(関東の新政府側諸藩) 勝利
宇都宮 善戦するも負け
今市 負け
藤原 勝利
会津で峠を突破されたのは、背後の会津軍が逃亡したからであり、幕府歩兵のせいにするのは酷だろう。 思えば、今市の戦いの途中で大鳥と山川がやらかした、幕府歩兵+会津兵による大田原城攻略戦も、
城を破壊炎上させていながら、占領には至らず撤退している。
おかげで白河城は新政府のままだった。
旧幕府歩兵はいつも決定打をつかめなかった。 >>278
開戦初っ端の壊走は装弾してなかったからでしょ?
その後は鳥羽でも富ノ森でも千両松でも橋本でもそれなりに頑張ってたと思うが。
まぁ頑張ってたっつーか比較的粘り強く交戦してたっつーか。
負けは負けだけど 徳川家の存続と徳川家の主導権の存続で話がかみ合ってないな。
鳥羽伏見までは新政府のメンバーのうち薩長以外の芸越尾土の多数派は
親慶喜派だったのだから、慶喜の返り咲きは黙っていたら時間の問題だったんだよ。 >238
慶喜個人に対しては、いろんな確執があったから芸越尾土も色々と思うところはあったろうけど、
それまで幕府が持っていた権威や統治してきた国家体制への信頼なりがこれらの親藩にはあったから
より正確に言うと慶喜を中心とした「旧幕府政体」への親近感という方が正確だと思う。
んで、王政復古号令以後から鳥羽伏見の直前までの状態としては、その親幕府感情を抱えている藩が
薩長の横暴さに嫌気が差し始めた状態というのがミックスされた感じだったんだと思う。
慶喜に対しての強硬な「辞官・納地」要求はそうした意識を強く持たせる政策だったから。
小御所会議で土佐が強硬に反対していたのを押し切ったけど、そういう無理は周囲の関係との間に
歪みを生じさせるモノで、鳥羽伏見が始まっていなければそうした薩長への反感をテコにして
慶喜の復権が成っていた可能性はかなりあったみたい。
>>283
時間の問題というか返り咲きは決まっていたのに、
薩摩の挑発に慶喜が乗って兵を動かしてしまったからな。
それで緊急会議が開かれて徳川征討が決まってしまった。
あそこで踏みとどまっていれば、徳川も加わった新政府だったし、
戊辰戦争もなかったはず。 >>278
鳥羽伏見では、実質的な幕軍総大将の滝川播磨守が、先頭切って逃亡しちまったから
精強な幕府歩兵でも崩れるのは仕方ないだろうなあ。戦場で、臨時雇いの火消しが
命がけで頑張ってるのに、直参旗本がすぐに逃げ出したのではやってられないよ。
>>283
>芸越尾土の多数派は親慶喜派だったのだから
会桑のように、薩長と事を起こしてまで慶喜に義理立てする気はサラサラない。
宮廷工作出来る人材も後藤象二郎ぐらい。慶喜にとっては頼りにならない味方だな。 >>286
暴走して進撃して軍事的には無能な会桑より
新政府に基盤を持ってる芸越尾土の方が
当時の慶喜にとって重要だろう >>287
>新政府に基盤を持ってる芸越尾土の方が
芸は長州の同盟国だし、尾州は薩長シンパだし、
少しは頼りになるのは越と土ぐらいか。
でも土も板垣退助率いる主流派は陰では薩と同盟結んでいたし、
春獄も橋本左内刑死後は工作なんか出来なくなっている。
慶喜にしてみれば、そう言う状況を全て理解して、京から大阪城へ撤退して、
さらに江戸に逃げ帰ったんだろ。希望的観測で動くような甘ちゃんではなかった。
このスレには「慶喜は逆転可能だった」みたいな甘ちゃんが多いね。 錦の御旗と有栖川宮熾仁親王がいる限り徳川は朝敵になるから
援軍は望めんと言う議論は出来ないのか??
この国は帝の御心と権威によって動く国だったんだから >>288
春獄は慶喜が出兵しなければ、
新政府で慶喜擁護を貫徹できていたと思う。 >>290
絵に描いたような甘ちゃんだな。
何を根拠にそんな事が言い切れるんだ?
春獄に、薩摩や薩摩系過激公家を押さえられると言う根拠は? 出兵した後でも、緊急会議を二分する勢いだったから。 中川宮朝彦親王VS有栖川宮熾仁親王
↑ ↑
徳川シンパ 長州シンパ
この二人の論戦は有名
因みに関白二条も徳川シンパだったから可能性は無きにしも非ず >>288
芸州は参与に任命された辻将曹が薩長の強硬路線にたいして批判的。
尾州が薩長シンパっていつの話をしているんだ鳥羽伏見後ならともかく
王政復古から鳥羽伏見までは土越とともに慶喜復権を画策してるだろ。
橋本佐内の死刑とか安政年間と王政復古以後では状況がまったく違うだろ。
それに甘ちゃんもなにも12月28日に慶喜の上洛は新政府に決定されてるじゃないか。
激昂する会桑や幕臣を沈静できれば議定に就任してたよ。
>>294
>尾州が薩長シンパっていつの話をしているんだ鳥羽伏見後ならともかく
>王政復古から鳥羽伏見までは土越とともに慶喜復権を画策してるだろ。
それは筋が通らない。
王政復興は尾張や越前にとっては、会津桑名らを排除して自らの軍の管制下に朝廷を置くことだったのだから。
この両藩は、会津や桑名が軍事行動を起こす限り、旧幕府に軍事的に味方をすることはない。 >>295
筋が通らないも何も実際に春嶽は慶喜を議定職の「第一等のうえ」にすえれば、
「天下の平治たちどころにみるべし」と言ってるのだから。筋の立て方が悪いとしか。
軍事行動に関しては新政府の親慶喜派は軍事行動そのものに内乱と植民地化
という危機感を抱いているから趨勢がきまるまで動く事は無いよ。鳥羽伏見の直前
には幕軍と薩長軍の間に越尾軍を入れて垣根を作って衝突をとめようという案も出
ていたくらいだから。
>>296
>幕軍と薩長軍の間に越尾軍を入れて垣根を作って衝突をとめよう
越尾にそんな軍事力ないよ。
会津人にはそういう儚い希望的観測を今でも持っていて、
「慶喜がしっかりしていれば、会津が崩壊する事もなかった」と
思い込みたい人がいるみたいだけど、もう諦めたら? 空しくないか? >297
>越尾にそんな軍事力ないよ。
軍事的な抑止ではなくて、政治的な抑止を果たそうとしたってことじゃないのかな?
薩長対一会桑という対立が先鋭化した中で、そのどちらとも一定の距離を保っていた
越尾が仲裁に入って対立を和らげるという可能性が無かったわけではないだろう。
鳥羽伏見で衝突した薩長と旧幕府軍の戦闘参加人数は、双方合わせて二〜三万程度だったはず。
当時の武士階級(潜在的戦闘参加資格者)の総数は、300諸藩全体をひっくるめて数十万人いたわけで、
鳥羽伏見で実際に戦った人間は、それまでの行きがかり上もあって徹底的に政治的・軍事的に先鋭化した
ごく少数の連中だけで、大多数の諸藩の人間は成り行きを見守るか傍観するかの日和見派だったんだよ。
そのことを含んで考えれば、越尾土芸あたりが全面衝突を回避するために政治工作をする余地はあったし、
実際に薩長による朝廷操縦・朝議の壟断に関しては、諸藩からの批判の声が高かった。
朝廷内部でも、心中覚悟で薩長支持を打ち出していた公卿はそれほど多くはなかったから、
鳥羽伏見戦が始まった当初、御所にいた大久保・岩倉が腫れ物に触るような扱いを受けていた。
もし旧幕府軍相手に苦戦したり戦闘が長引くようなことがあれば、見限られていたのは
薩長の方だった可能性は決してゼロではなかったろう。 >>297
会津人がどうとかアホか?
見えない敵が見えてる人か? >>298
>越尾が仲裁に入って対立を和らげるという可能性が無かったわけではないだろう。
可能性はゼロに近いね。薩長はやる気マンマンなのにどうやって止めるのよ。
仲裁するってのは、両軍を上回る軍事力があって成り立つ訳で、希望的観測は止めようよ。
空想世界で議論しても空しい。 鳥羽伏見で会津と桑名が攻め寄せたのが、旧幕府の見る目のなさを示している。
尾張や越前、土佐に安芸は会津や桑名を追い出して朝廷を管理下に置いたのだから、
いまさらこの両藩の入京を歓迎するわけがない。
会津と桑名を先鋒にした時点で、旧幕府軍はこれらの藩を薩長側に追いやってしまっていた。 小御所会議のあと、徳川家の辞官納地問題が最終的に有耶無耶になってたじゃん。
薩摩が政治的に朝廷でやりたい放題だったなら、これ絶対譲歩しなかったよね。
あと、軍事的に云々ってのは、大坂城の幕府陸軍のこと完全に忘れてるだろ。
開戦してみたらそりゃ悲惨な有様になったが、実際に戦うまでは、いざというときの
明治帝の西下まで考えてたやん、薩長。 >>297
尾越が軍事衝突を望んでいなかった例をだしただけだよ。会津うんぬんは何を言ってるのか
わからん。
話を戻して王政復古以後の慶喜復権の可能性を語ってくれ、俺は
あと少しの待てば、復権していたと理由つきで述べたから。 >>303
> 王政復古以後の慶喜復権の可能性
おとなしく、かつ、目立たず、隠居。
場合によっては明治政府にエールを送る。
のみが正解だろう、やっぱり。
つまり、やっぱり慶喜は名君だったってこと。 家達の邪魔をしないようにかなり気を遣っていたので、
なにもしないで趣味に生きた マル 朝敵なんか勝てばなんとでもなるだろ
勝てば官軍だ
朝敵になったら負けなら長州なんかとっくに終わってるはずじゃん
なにこれすげー面白い。
慶喜のことについて語るっていうか、ディベートみたいになってる。
だがそれがいい。
しかしこのスレ本当に面白い。
>>306
王政復古の大号令まで朝敵だった長州、
その朝敵と手を結んだ薩摩、
慶喜が苦難の道を歩んでいた時代が、
いかにいい加減な時代だったかわかろうというものだ。 薩摩は会桑と縁を切るなら慶喜と手を組むつもりがあったんだがな。
会桑の領土爵位の没収も猶予与えられてたし。 慶喜=昭和天皇
明治天皇=合衆国大統領
内戦がすぐ終わり江戸が燃えなかった明治≠日本全土が焼け野原になった昭和
トップが1人で泥を飲んだので被害を最小限に食い止められたのが明治維新
輔弼だのなんだので無能な取り巻きしかいなかった軍部と幕府高官はそっくりだが
振り回されるのは頂点に生まれついたものと下々の連中ばかり
慶喜と昭和天皇の2人とも敗北から名誉の復権が生きてるうちになされたのは良かった 鳥羽伏見の戦いを起こした幕臣たちの方がもっとヘタレだ 鳥羽伏見の戦いが、始まる以前でも既に畿内の諸藩では朝廷シンパの勤王藩が次第に増えつつあった。
薩長シンパと言うよりも純然たる勤王の姿勢の藩が畿内では増えつつあった。
特に畿内の大藩である彦根藩と郡山藩が公然と勤皇姿勢を見せ始めたのは大きい。
彦根藩は、先代藩主で大老の井伊直弼が水戸浪士に討たれている為、水戸系の
慶喜が将軍職に就いた時点で幕府への離反姿勢が始まり、大政奉還で公然化した。
郡山藩は藩主正室が、公卿一条家出身だった事で大政奉還以後に勤皇姿勢を見せ始めた。
やはり1867年10月の大政奉還で、徳川家が政権を一応放棄した形になり、
制度として公然と諸藩を統制出来なくなった(その権限が無くなった)のは大きい。
彦根・郡山両藩以外の畿内小藩約10藩前後でも大政奉還以後は幕府からの
離反傾向が始まり、王政復古の大号令で決定的になった。
特に近江、丹波、河内の諸藩にその傾向が見られる。 >>317
その認識は違わなくねぇか?
慶喜が将軍職を継がなくてはいけなくなったのは家茂が死んだからだ。
その時期は長州征伐で敗戦しまくり、家茂が死んだ事で幕府は戦争所ではなくなった。
これが直接の原因となって幕府は撤兵する。結果、幕府軍の敗北が確定し、権威は失墜、幕府単独での政権維持は不可能となった。
幕府に諸藩を強制させる力が無い事が実証された訳で、その結果として尊王側に傾く藩が多く出た。
そもそも、第二次長州征伐自体に大義名分が欠けている。
もともと戦争など出費が多く出るから諸藩は嫌がっていたはず。
第一次長州征伐で長州が恭順したので、それで戦争が終わったと考えていた。
ところが、幕府が諸藩の反対を押し切る形で無理矢理第二次征伐を実施した上での敗北だ。
そもそも井伊の時に開国してるのに、
同時に鎖国も模索している時点で出鱈目。
慶喜的立場で歴史を巻き戻すなら、
家茂飛ばして慶喜を将軍のところからだろうな。
上手くいったかどうかはわからんが。 黒船来航と条約批准は、阿部の段階で幕府の専決事項ではなく朝廷・諸藩との協議対象となっており、市井の思想家も発言を行っていた。
それを井伊直弼が専決処分に戻したので、朝廷や諸藩、その中でも幕府に発言権のなかった御三家や雄藩が騒いだ。
しかも、阿部の死と井伊直弼の大老就任・徳川家茂の将軍就任と続けざまに起こったので、
朝廷や諸藩・草莽には、井伊直弼が幕府の意思を個人で捻じ曲げたと映った。
諸藩は江戸城に登城抗議を行い、井伊直弼は却って態度を硬化させ彼ら諸藩藩主を隠居蟄居謹慎させた上で、
庶民も含めた全国規模の不穏言動者への処罰処刑に踏み切った。
井伊が開国と将軍継承を絡めて、自らの独裁権確立に使おうとしたために政局がねじれた。
井伊は開国のためには独裁権が必要だと言い、その独裁権は次期将軍に一橋慶喜を推薦していた一橋派への弾圧に用いた。
おまけに全国で市井の思想家まで逮捕処刑して回った。
そのため、反開国=尊王攘夷が一橋派の全国諸藩だけでなく、草莽の人々までの共通目標へ変貌した。
井伊直弼が将軍就任問題と条約批准問題を絡めなければ、朝廷も諸藩も草莽も尊王攘夷主義を先鋭化させなかったのではないかと思う。
開国を名目に将軍就任問題での反対派を処罰したことが、一橋派を尊王攘夷運動に加担させてしまった。
水戸藩も薩摩藩も、西洋軍備や生産技術の導入はこの頃から積極的なので、両藩の排外主義への加担は井伊の圧迫さえなければ避けられたはず。
将軍継承運動が開明的だった徳川慶喜を尊王攘夷の頭目に押しやってしまった。 徳川家は家康と慶喜以外は人材皆無だったからなー
おまけに部下も無能揃いでは凡才の集まりの新政府に勝てるわけない
吉宗は例外的に優れた資質を持っていたと思うぞ。
そもそも幕府は将軍が無能でもなんとかなっていく体制を取っていたから
あれだけ長く続いたという側面もあるから、一概に悪くも言えない。 >>320
外交は幕府の専決事項じゃなかったんですか?幕府だけで決められず、いろいろ
なところに意見を聞いてしまった阿部正弘が維新のA級戦犯と思っていたんですが。 鎖国したときには、勅許はあったのかということだな
A級戦犯は、水戸斉昭とその子分どもだ
大老暗殺で幕府の威信は地に落ちた >328
「幕府中枢でない諸藩や朝廷の意見も聞く」というのと、「諸藩や朝廷に決定権を分け与える」というのとは
ぜんぜん別の問題です。
「外国人の意見を聞く」というのと、「外国人に参政権を与える」のとは別のこと、みたいなもん。
阿部正弘が行った改革は、「意見を聞く」という回路を開いただけで、決定権は依然として幕府が握っていた。
井伊直弼が行ったのは、その開いた回路を閉じただけ。
それに憤慨した徳川斉昭達が「俺たちの意見も聞け」と無理押ししていく過程で、
幕府の持つ「決定権」まで揺さぶってしまい、大老暗殺という行為を通じて
幕府の統治機構そのものを破壊してしまう道筋を開いた、ということ。 そもそも守旧派は、慶喜なんて傍流が将軍するのが我慢ならず、
おまけに慶喜は開明的で幕府改革をしようとしている、
なんとか阻止せねばならんって人たち。
阿部正弘の幕政改革にアレルギー反応を起こした幕臣たちが
南紀派を支持し、保守派の大きな巻き返しがあった。
同じ事は土佐藩でも起きた。
オコゼ組の改革に上士保守派が反対し、
藩の主導権を握りたい下士の土佐勤王党と組んで、
土佐勤王党に吉田東洋の暗殺を行わせた。
そして芸家の廃止など改革を反故にした。
どこでも保守派と改革派の対立は必然的に起こってる。
また井伊はどうしても排除しなければならなかった。
将軍継嗣問題で一橋派が負けたのが
幕府を失墜させる最後の決定打で、
家慶が死ななきゃこんな事にはならなかったはず。
というか家斉の子孫たち身体弱すぎ。
>>320
井伊は守旧派の徳川主流派万歳なんで、
慶喜なんて認めないし、
朝廷の意見を聞くなんてとんでもない、
外交は幕府が勝手にやっていいって考え方の人。
幕政改革より伝統が大切、
外交とか世界情勢もよくわからん、そんな人。
本人もガチガチの守旧派徳川万歳だし、
周りの支持者もみんなそう。
>家慶が死ななきゃこんな事にはならなかったはず。
>というか家斉の子孫たち身体弱すぎ。
こんなことを書く意味あるの?
家茂も家達も家斉の子孫なわけだし そもそも徳川は戦国乱世に、諸侯に押し立てられた同盟の盟主に過ぎない。
諸大名は元同僚で、徳川は主でもなんでもない。
幕藩体制も戦国乱世を終わらせる為の制度。
国内発展に伴う矛盾も生まれてた上、外圧まで来て幕府では対応無理となった。
阿部は幕府体制の衰えを把握し、幕府だけで外国に対応できないと見たんで正確な判断。 御三家・外様も徳川将軍家と共に"天下""国家"を考えよう、
阿部にはそんな意図があったと思う。
まぁ、阿部をどう評価するかってのも慶喜の話につながってるからね。
安倍政権下では一応をまとまっていた「幕府」内部の側にいた、水戸と彦根が
なぜ対立していったのかってのは、慶喜の人生に大きな影響を与えた要因だけに
考察をしておく必要はあるでしょ。 もし南紀派が敗北して阿部の体制が継承されていたら、
いずれ諸侯会議に軟着陸できたかもしれないと思わないでもない。
その場合、最大の抵抗勢力が幕府内に生まれることになるけど。 大政奉還したのに王政復古で激怒し台無しになった
恭順してれば慶喜は新政権に入れたろう
薩長さえ慶喜を疑いながら大政奉還をそこそこ評価してた
薩長の目的は幕府将軍の廃絶と徳川の領地削除
幕府派だけが大政奉還しても形式だけで朝廷から再任されると思ってたから激怒
幕府寄りの大名さえ幕府存続は望んでなく公議政体目指してた >>338
家慶が死んだから抗争が始まってしまった。
将軍継嗣は、いい意味での政治的実力のない人間が、
悪い意味での政治の力で大逆転するいいチャンス。 >>341
恭順してたよ。会桑を抑えられなかっただけで。
領地召し上げも、会桑が暴走しなければ、
ウヤムヤのまま新政府に突入しそうなチャンスはあった。 まぁ会桑もだが、幕府内の幕権主義者の果たした役割も大きい。
主に、江戸薩摩藩邸焼討ちで討薩の大義名分ゲットだぜ!と思っちゃった人たち。 生母吉子さんは、
有栖川宮家の女王として、
幕末になにか影響を与えたのですか?
>>159氏の書き込みは勉強になりました。 慶喜はもっと世間的にも評価されてもいいと思うだけどな・・・ >346
まぁ、大阪城を逃げ出した時のみっともなさの印象があまりにも凄まじくって、
政治的力量によってそれまでに積み上げていたプラスのポイントを全て帳消しにしてしまったから・・・ 新政府側から見たら、割と評価高くなるんじゃないか?江戸城無血開城だし。
慶喜を外務卿にしようぜって話もあったようなかったような。 慶喜は、日本の内戦を早く切り上げたのは、大変評価出来るでしょ(狙ってやったのかは、わからんがw)
ただ、戦争無しで、新政府に徳川が加わる事が出来たら、かなりよかった。 日本史上で、権力を持っていながら平和的な委譲を行ったのは彼が初。 慶喜は身内(味方)から評価悪くて、敵からは評価高いよな。
敬老の日は、「敬=徳川家康」の日
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/37/251.html
日本政府は、どうしても徳川家康の記念日が欲しかった。
だが、露骨な記念日は国民の反発が必至だった。
それで、高齢で関ヶ原の戦いを演じた家康を記念して、
9月15日を「敬老の日」に設定した。
こんな記念日で、老人を敬えるか。動機が汚らわしい。 禁裏守衛時代の慶喜は幕閣から長州と通じているのではと疑われていた。 >>356
ほんと味方から疑われてんのな。
幕閣連中がもう少し慶喜のこと信頼してたらまた違ったかもしれんのに。
と思えてならない。 >357
>ほんと味方から疑われてんのな。
これに関しては、本人の問題と環境の問題のどっちが大きいのか解らんからなぁ。
オヤジの斉昭が幕閣や大奥から嫌われていたし、水戸の天狗党の連中も「慶喜様なら
俺たちの気持ちを解ってくれるはずだ」っつって、あちこちで争乱を巻き起こしながら
慶喜のところに向かってくるなんつーことをしでかしてくれたから。 >>358
本人の問題と環境の問題、両方良い具合に交じり合ってそうなったんだろうと思う。 実家も水戸藩は内粉ばかりなだけでなく、どこよりも幕府の足を引っ張りまくりだし、
家臣にも恵まれず、個人の力だけではどうしょうもない。 水戸藩は慶喜の考えと正反対の方向に突き進んでるもんなぁ・・・
城を明け渡す時って、城の中の人や、一般人はどんな気持ちだったのかね?? 篤姫あたりは、「何で薩摩如きの田舎者に渡す必要があるのだ、徳川が永久不変の天下人なのだ」と
憤懣やるせなかった。それで輪王寺宮の側近や仙台藩に、反薩摩で武力蜂起するように呼びかけている。
でもその篤姫が、薩摩なんだけどね。 返事ありがとうございます。
あと明治維新後は、西郷隆盛とか大久保利通とかって、元将軍にタメ口だったのかね?? じゃその他の幕府側の偉い人たちとは?
タメ口だったの? >>366
勝や大久保一翁みたいな歳上の元幕閣にはかなり丁寧な物腰だったみたいだ。
まあ、偉くなったからってそれをカサに着て威張る2人とは思えないから同年代や年下にもそれなり以上の接し方しただろうな。
大隈、井上何かは色んな人に尊大な態度だったみたいだが、ひょうげ者だったので広く人気があったようだ。 武田耕雲斎は実際の所は言われているほどガチガチの攘夷派だとは思えない。
斉昭には英語教育の必要性を何度も上申したり
小四郎等の挙兵には軽挙は慎めと再三にわたって戒めたというし。
慶喜に推薦した原市之進も最初は攘夷派ではあっても後に開国派に変節した。
そうだったんですか。
てっきり、いままで、身分が下だったから、維新後に下克上的な感じになって、威張ってたのかと思った! >>363
高祖父に天皇と摂政関白藤氏長者、10代前に源氏長者家康の血が入ってる慶喜と比べたら篤姫なんてはるかに卑しい出自だからなあ
こいつとか幕臣みたいな何の能力もない連中が幕府に縋ったのも分かるわ まったく同じ血をひく水戸藩主の慶篤兄ちゃんが無能で無能で
困っちゃいました そこまで無能扱いしてやるなよ。彼なりに頑張ってたよ。たぶん。
つーかここでも何度か話題になってるけど、慶喜は本当に水戸に足引っ張られてる感じだな。
近代史という視点から見ると、
自転車に乗って、写真を撮っていたら、
公爵になっちゃったひと >>374
静岡から上京して明治天皇と皇后に拝謁し、受爵するまではけっこう長かった。 討幕ってのは、そもそも、西郷やら下級武士の下心が生んだもんだからね。
幕府のままだと、いっかいの藩の有力者。明治維新などといって討幕をすれば
新政府で、重要な地位につけると下級武士たちが下心を抱き、孝明天皇を暗殺して
幼少の明治天皇を操って、討幕が行われた。島津久光と衝突したのがまずかったな。
上手く懐柔して、取り込んでおけば長州の下級武士の野望も打ち砕かれていたであろうに・
尊王攘夷派はただの野心家のあつまり 徳川慶喜の生母は徳川斉昭の正室、有栖川宮家の登美宮吉子女王。
斉昭は吉子と結婚した時、けっこう年をとっていた。吉子も同様。
しかし吉子が産んだ慶篤が長男ってどういうこと?姫はそれまでいるけど。
思うに正室を迎える前に生まれた男子は系譜に入れず家臣のもとに実子として
やったか、僧侶になったとか。
幕末から明治にかけて有栖川宮家の皇室に対する働きは目覚ましいものがある。
慶喜の復権に生母が有栖川宮家というのは非常に有利に働いただろう。 せめて大阪城で「俺の首と引き換えに部下の罪は問わないでくれ」
ってやればよかったんだけどねえ・・・。 それならやってるよ。
単に、慶喜降伏後に幕府復興や東北独立を掲げて、新たな反乱を起こした人間がいただけ。
そちらは慶喜の救った助命の枠には入らない。 そもそもこいつ結構かわいそうな奴だぞ
役職保証してやるから大政奉還してね
↓
お前にやる職なんてねえよ
↓
ふざけんな戦争だ
って流れだからね >>376 革命・クーデタというものはすべてそうだ。
特に一党独裁をもくろむ勢力がそうだが薩長藩閥政治は20年しか続かなかった。
>>384 明治維新は20年で民主化(国会開設)したが、ロシアは80年かかり、シナは62年たってもまだ民主化をやらない。
上で身内から嫌われていたと書かれているけど、
慶喜は、鳥羽伏見の戦いの前に新政府から排除されることが決まらなければ、
新政府において幕府方をバンバン切り捨てたんじゃないだろうか。
そのくらいドライな人だったと思う。
明治維新が軟着陸した理由の一つだったと思う。 慶喜は水戸や薩摩らいわゆる旧一橋派の傀儡としてのみ利用価値があったんだけど、
なまじ頭が切れるだけに主導権を握ろうとして、最大の庇護者であるはずの薩摩の造反に合い失敗した。
それにしても、この時期の薩摩の政治力は圧巻だな。
慶喜有利に傾いていた政局を巻き返し、大政奉還も抱き込んで結局は志を貫徹させている。 鳥羽伏見の戦いに関しては、本来徳川慶喜の新政府首班就任は当然としていた尾張・越前を
「会津・桑名は排除されるべき」という主張で納得させて勅を出させ、
勅によって排除される対象に、会津や桑名を差し向けた徳川慶喜まで含めてしまった。
王政復古の時点で会津・桑名を朝廷から排除したのが小御所の面々(攘夷派公家・尾張・越前・薩摩・安芸・土佐)であり、
彼らにとって会津や桑名は復帰されては困る存在であったために実現したことではあったが、試合巧者ぶりが際立つ。 >>320
結局、イミフ
> 反開国=尊王攘夷
は明らかに間違い。そういう人たちもいたではあろうが。
長州の吉田松陰とか桂小五郎とかは当初から留学希望者。
その他、攘夷のために開国が必要不可欠と考えていた人物は多い。
佐幕停脳学者どもはまるで清朝のようになっていきかねなかった幕府の屈服開国を
あたかも日本人全体(全諸藩)にとって好ましい「開国」であったかのように妄想を垂れ続けているが、
実際は諸藩に対しては開国ではなく鎖国が続いていたので、
そのため薩長はわざわざ危険を冒してまで秘密留学生を出しているぐらいなので、
江戸幕府による「開国」は
「江戸幕府にとってのみの極めて限定的で極めて独断的な屈服開国」
でしかない。。
何が諸藩や朝廷や志士たちの反感を買ったかと言えば、
「極めて限定的」」「極めて独断的」「屈服」という似而非「開国」の極めて醜悪な性格。 いえいえ。
当時の社会不安の一つとして、生糸・米などの海外からの買い付けによる物不足、価格上昇が反政府感情という形で
尊王攘夷派を勢いづかせたのは事実で、その意味で 反開国=尊王攘夷 という図式も成立していたのですよ。
現に長州藩では、下関を通行する薩摩船を拿捕し船長を問答無用で処刑したりしています。
制限貿易による国内物価安定化が尊王攘夷派の謳い文句として存在し、
長州は海外船への砲撃を続けた挙句、下関戦争を海外艦隊と行うことになります。 反開国=尊王攘夷の図式もあるし
そうでない場合もあった、でいいんじゃね
一人の人間の思想でもあの激動の時代にかなり揺れ動いてるし
日本進出を狙う欧米列強の思惑も感じとってただろうし
幕臣も含めてあの頃の日本人ってバカじゃないわ
ちょこちょこ書物みたぐらいでは
俺なんかのアホでは当時の人達が何を考えて
何を表し、何を隠し、どう行動し、読まれる事を前提に
何を意図的に認めていたのか
腹の底までわからない 結局慶喜以外の幕府高官は時勢を読めない馬鹿揃いだったんだけどね
特にトウホグ人は幕末と昭和に日本を破壊しようとした国賊の集まり そうとばかりも言い切れない。
会津の勤皇日本神道は、異常なまでに地域を上意下達に変えていましたし
秋田の尊王攘夷は、東北各地に影響を与えていたのは事実。
但し、徳川幕府への依頼心・心的依存が極めて強かった。
江戸よりも西のことなど思考の範疇外だった。 慶喜が錦の御旗を気にするのはわかるが、
鳥羽伏見の最前線の兵たちが、そんなものを気にしたのだろうか?
鳥羽・伏見の戦いでは徳川慶喜は前線に立つことはなかったので、
徳川慶喜の江戸への逃亡までは、旧幕府側の連戦連敗を前線の将兵(竹中・瀧川・大喜多・松平容保・松平定敬など)に求めるしかない。
初日は薩摩藩が朝廷から会津桑名の通行を認めない勅許を得ているのに、軍の主力として両藩を入れた。
大阪の薩摩藩邸を血祭りにしているにもかかわらず、行軍隊形のみで弾も込めず、歩いて通れると思って砲火を浴びた。
二日目は無駄な突撃で歩兵隊の隊長が次々に狙撃死し、相変わらず竹中と瀧川の所在は旧幕府側にもわからないまま撤退となった。
そして初日の敗戦が朝廷側を薩長礼賛に切り替えさせ、昼には錦旗が薩長側に翻り、旧幕府は賊軍と認定された。
三日目は淀藩が賊軍となった旧幕府軍の入城を拒否し、旧幕府軍は淀城下を焼き払って撤退した。
四日目は八幡と大山崎に陣を張ったら、大山崎の津藩が官軍として参戦し旧幕府軍は混乱のうちに撤退した。
そしてその日の夜、敗残の松平容保などを引き連れた上で徳川慶喜は大阪城を離れ、江戸へ帰ってしまった。
連戦連敗が徳川慶喜に自軍への信頼を喪失させてしまっていた。4回戦って4連敗したのが信頼喪失の原因。
何故そんなに負けたのかとなると、前線の兵士が錦旗に怯えたからということにでもしないと、
薩長の司令官が優秀だった、薩長の兵士が優秀だった、旧幕府軍の将兵はカスだった、となってしまう。 >>396
>徳川慶喜の江戸への逃亡までは、旧幕府側の連戦連敗を前線の将兵(竹中・瀧川・大喜多・松平容保・松平定敬など)に求めるしかない。
松平容保たちが戦下手なんて、当たり前の話じゃん。
江戸時代、本格的な戦争なんか無かったんだから。
禁門の変は、本格的な戦争というには規模が小さい戦いだと思うし、鳥羽伏見の時に
禁門の変での経験は役に立たないだろうし。
容保たちも、戦争を知らない世代ですよ。
>連戦連敗が徳川慶喜に自軍への信頼を喪失させてしまっていた。4回戦って4連敗したのが信頼喪失の原因。
容保たちでダメだと思ったなら、次は慶喜自身が出てくるべきだろうって話。
「家康の再来」とまで言われてるくらいなんだから。
部下の容保達が出来なかった事をトップの慶喜自身が華麗に達成すれば、今まで慶喜に
不信感を持っていた幕府兵たちの信望も、一気にガッチリ?めただろうに。 >>397
× 一気にガッチリ?めただろうに。
○ 一気にガッチリつかめただろうに。
>>397
>松平容保たちが戦下手なんて、当たり前の話じゃん。
>江戸時代、本格的な戦争なんか無かったんだから。
薩長も、言われるほどは実践は積んでいないのさ。
薩摩の場合
・禁門の変
・薩英戦争(艦隊戦)、但しアームストロング砲の威力は確認
長州の場合
・禁門の変
・下関戦争
・第二次長州征伐
会津桑名の場合
・禁門の変
幕府歩兵の場合
・禁門の変
・第二次長州征伐
決定的なものが第二次長州征伐だったとしたら、これを経ていない薩摩が強かった理由が不明になる。
また、第二次長州征伐に参加した幕府歩兵が敗北を重ねた理由が説明できない。
要するに、錦旗のせいにしないなら、将が悪かったか兵が悪かったか知らぬが旧幕府軍が惰弱であったとするしかない。
また、徳川慶喜は何故大阪城で迎え撃たなかったのかについては、4回戦って4回負けた軍を誰が引き受けるか考えてご覧なさい。
自分でもできないことを他人に求めた上で、引き受けなかった非をなじるのは、よほどの卑怯者のすることです。 というわけで、鳥羽・伏見の戦いに関しては、
錦旗のせいにするか、送り出した旧幕府軍将兵が馬鹿だったので負けたか、その両方か、どれかを選ばなければならない。
将兵は錦旗など怖れなかったとするなら、旧幕府軍が救いようもなく弱かったとなる。
錦旗がどれだけ効果があったかは、具体例は淀藩と津藩の二例が挙げられるが、
他にも近畿諸藩に薩長を官軍とし旧幕府軍と敵対する旨の勅使が派遣されたと史書は伝える。
旧幕府軍は、朝廷が薩長と一体化したことで、勅による諸藩の離反を警戒する必要が生じていたことになる。
あと、旧幕府軍の惰弱ぶりに関しては色々挙げたが、圧倒的に優勢な戦力を持っているはずなのによい所が探せない。
これで全てを徳川慶喜のせいにする説は、全く筋が通らないということ。 秀忠を最後に、初陣のあった将軍がいないのに、
慶喜にだけ戦の指示を取れと言っても無理というもの。
立ち撃ちは不味いんだけどな。どうしてもぶれるし。人間の筋肉やバランス感覚は信用しては駄目。
射撃競技で立って撃たないでしょ >>400
>徳川慶喜は何故大阪城で迎え撃たなかったのかについては、4回戦って4回負けた軍を誰が引き受けるか考えてご覧なさい。
>自分でもできないことを他人に求めた上で、引き受けなかった非をなじるのは、よほどの卑怯者のすることです。
何、言ってる。
そもそも、大規模な軍制改革で幕府軍を編成したのは慶喜自身なんだから、最終的に慶喜が指揮を取る
のは当たり前の話じゃん。
>>402
>秀忠を最後に、初陣のあった将軍がいないのに、
>慶喜にだけ戦の指示を取れと言っても無理というもの。
初陣の経験が無いのは、容保や他の幕府の要人も同じじゃん。
「過去に戦の経験がないから、指揮が取れない」とか言ってたら、幕末時、指揮官なんか誰も
勤める事が出来ないじゃん。
大体、慶喜は、「慶喜以前の飾り物の将軍達とは違う、決断力・判断力に優れた英明な人物」
として一橋派たちが将軍候補に推してきたんだから。
その”以前の飾り物の将軍達とは違う”所を見せてもらわんとな〜 ああ、長州兵をあぶりだす為に京都を火の海にした奴か。 あの時の放火は松平容保の指揮なので、ますます鳥羽伏見の弱さが分からない。 >>407
うわぁ〜〜〜。長州オタって、マジ汚い。
禁門の変の時に会津・桑名・大垣兵を指揮して公家屋敷に放火する命令を出したのは、慶喜なのに。
指揮者は松平容保ですが。
その当事者が鳥羽・伏見の戦いにいるのに、何故負けたのかが問題。
松平容保も自らの指揮で勝利できると考えたから、強硬に進軍を主張し、自ら軍勢を率いたわけで、
それが戦えば必ず負けるだなんて、大口を叩いた割には弱すぎるにも程がある。 慶喜って足利義政みたいな芸術家タイプだったんじゃないかと思う。 >>409
>指揮者は松平容保ですが。
>その当事者が鳥羽・伏見の戦いにいるのに、何故負けたのかが問題。
容保が指揮できるのは会津軍だけでしょ。
幕府陸軍について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C%E9%99%B8%E8%BB%8D
このページに鳥羽伏見時の幕府陸軍の指揮者達がリストになって載ってるけど、
容保は幕府陸軍の指揮者じゃないよ。
>>412
容保は会津軍を指揮できる。
慶喜は幕府陸軍も指揮できるし、必要なら容保・定敬・大垣藩主に代わって
会津・桑名・大垣軍も指揮できる。
いい加減にしろよな、基地外長州オタ。 その説明なら、京都を灰燼に帰しせしめた放火の指揮者は、やっぱり松平容保なのですが。
容保を放火犯人から外したいと思うのは自由ですが、指揮を取ったのは容保ですよ。 お前の考えで正解でいいから、
ここじゃなくて容保スレで熱弁をふるえよ
慶喜の指揮で松平容保が京都を火の海にして10万人くらい殺したでいいんだよね? 10万人なんて知りませんが、
会津オタが「容保サマだけは放火に加わってませーん」と主張するのには根拠はありません。
松平容保は禁門の変の指揮官だったわけです。これで了解できましたね。
そのような指揮者の松平容保がいながら、鳥羽・伏見の戦いでは
1日目:自陣営の伏見奉行所全焼。伏見市街地も焼けて、新政府軍の狙撃対象として旧幕府軍は照明を背後に逃げ回る
2日目:昼には薩長新政府軍に朝廷が官軍認定、旧幕府軍は賊軍認定が下る。焼けた伏見市街地から旧幕府軍撤退
3日目:賊軍に城を貸せないと淀藩は旧幕府軍へ入城拒否、旧幕府軍は淀市街地を放火全焼させて撤退
4日目:大山崎・八幡で迎え撃つも、勅使の訪問を受けた津藩が旧幕府軍に砲撃開始、更に市街地を焼いて撤退
旧幕府軍は放火撤退ばっかりですね。禁門の変で松平容保は何を見ていたというのでしょう。
それとも、松平容保は放火の専門家であっても戦闘には良いところがなく、他の人々が戦闘は担当したと考えるべきなのでしょうか。 >>408
公家屋敷に火を放つように命令したのは確かに実際に指揮してた慶喜だろうけど、
戦の後にやたらと街に火を放って長州兵をいぶりだそうとしたのも慶喜の命令なの? >>418
別に慶喜も京都の街を火の海にするつもりなんか無かったんだけど、
公家屋敷に放った火があっという間に街中に飛び火しちゃったんだよね。
京都の町は、木造建築が密集してるからね。
一言で言うと、慶喜の壮絶なポカ。 今週号の銀魂、将軍茂茂がギザカッコヨス。
慶喜もこれぐらいの覚悟を見せれば最高の将軍として称えられたのに。 >>419
京都の宿や民家などに潜伏しているとされる長州兵を炙り出す為の策略だよ。
長州兵を匿っているのだから当然彼等京都の町民も同罪。
慶喜も容保も悪くないよ。悪いのは匿った京都市民。 >>421
久々に見た、すげー暴論w
近藤勇あたりが言いそうな台詞だw
佐幕派の町民の家も巻き込まれているのは間違いない 当時世界最強の大英帝国とガチでやりあった薩摩が最強って事でFAだろ よしのぶ〜、ご飯よ〜wwwwwwwwwwwwwww 俺は生きていても何の役にも立たない屑人間(しかもロリコン) 大正まで生きていたんだよな。平民なのか?特別待遇だった
のかはわからないが。 明治維新に関しては、旧幕府軍関係者が明治新政府の定める犯罪人となろうが、
判決後の身分で全て判定されましたので、華族と認定された人達も居ます。
小笠原長行の場合は、藩主にはなり損ねましたが釈放された後は士族となりました。
従五位ですから、華族の跡継ぎや戦勝諸藩の殊勲兵士程度には認定されています。 徳川宗家を嗣いだ後、将軍になるまでタイムラグがある。最初は固辞した。 鳥羽伏見より第二次長州征伐で大勢が決した。弟が藩主である濱田、因幡は石州口で敗走。小倉口でも負け。小笠原は逃亡。鳥羽伏見でフラッシュバック起こして逃亡。神保が恭順を勧めたとされる。士気が低く軍制改革でも遅れを取った。 越前が京都守護職につくべきだった。物理的近接であるから京都の治安維持には最適。越前に会津藩カキンで押し切られ、会津がドブ板営業部長だよ。軍事総裁職と兼務でもなんでもいいので越前に守護職させておけば。越前の立ち回りの上手さが際立つ。 慶喜さんだけじゃないけど、
もうちょっと慶勝さんの話に耳を傾けるべきだったね、幕府の皆さんは。 越前なら京都守護職を引き受けたけど短期間で放り出して帰国しちゃいましたけど 慶喜が閔妃のように己のことしか考えず身を引かなかったら植民地になっていた。
その意味で慶喜は日本の救世主といえる。
それにたいして薩長は権力のためには日本が内戦になって植民地にされても
平気だったわけで、ある意味売国奴であったといえる。 むしろ叩き潰して日本を一つに纏める好機でもあったんだが
なぜああなったのか・・・・・・ もともとの同士だった尾張・越前・薩摩・土佐と、その後で自らの部下に迎えた会津・桑名とが対立した。
会津が引き際を知らなかったので、他の人々の会津への敵意と一緒くたにされて没落してしまった。 >440
治安維持という汚れ仕事をやらせて、自分の対外的立場を確立するのに貢献した部下だぜ。
情勢が変わって「お前が捕まえようとしてたテロリスト共は今日から俺らの仲間って事にするから」とか
言われたようなもんだから、やりたくもない汚れ仕事をやらされてた会津が反発するのも無理も無いって気がする。 >>441
元々慶喜と尊王攘夷の連中は仲間だったんだが。
そいつ等を蹴落として、京都で会桑で権威を確立しようとしたのだから、嫌われるのが当然。
「やりたくもない汚れ仕事」ではなく、会津は彼等を追い出すために自ら血で汚れたのさ。
権力欲もあったと解するほかない。 >443
尊皇攘夷という考え方は一会桑側も薩長側も同じだよ。
攘夷のやり方について各論があっただけ。
長州が追放されたのはルール破りをいとわない過激派が中心になっているのを嫌悪した孝明天皇と
それを支持した薩会をはじめとした勢力が一致結束したからで、尊皇攘夷という題目を支持するかどうかではなく、
あくまで長州の行動が目に余るモノだったからってのが原因。
その後、禁門の変などを経て孝明天皇から信頼されて京都の治安を任されたのが一会桑だったし、
会津は財政難や藩主の病気などを理由に何度も辞退しようとしてたよ。
会津の側に権力欲はあったろうが、権力欲の有無ならば薩長の方が遙かに上だろう。
>>444
どちらが上?
大義名分論を振りかざすのなら、明治天皇に弾劾された一会桑に勝ち目など元々ありませんが。
どうも会津可愛さに目が曇っている議論に持ち込みたいだけなんじゃないですか。 >>444
孝明天皇の信頼を踏みにじったのも一会桑でした。
兵庫開港に際し、孝明天皇の遺志を尊重しなかったのですから。
それと、松平容保の病気辞任持ち出しは甚だ眉唾、都合の悪い時だけ病気になり、後に攻勢に出るときは元気そのものでした。 >445
先に朝敵扱いされたのは長州の方ですよ。
後になって許されただけの話し。
だから「勝てば官軍」という言葉が出来たのであって、負けていたら賊軍。
つまりは軍事的に勝利を得た方が最終的に大義名分を獲得したってだけのことで、
長州の側に正義があったって訳じゃない。
>446
兵庫開港に関しては孝明天皇もやむを得ないこととして納得したけど?
何でもかんでも天皇の意志のみを尊重してたら国政なんてやっていけません。
>松平容保の病気辞任持ち出しは甚だ眉唾
あなたは医者ですか?
仮病かそうでないかをどうやって判別するというのやら。
都合が良い悪いなんてのはあなたの主観の話しでしょ。
会津憎さに目が曇っているだけなんじゃないですか? とうか、幕末の政局でイニシアティブをとって真に時代を動かす原動力になったのは長州よりも薩摩でしょ。
長州はじめとした尊攘派があれだけ突っ走ったのだって、薩摩勢の率兵上京がきっかけになってるし、
一会桑に見切りをつけて長州を巻き込んで討幕したのだって薩摩っしょ。
同じ尊攘派でも、計画性なく暴走して自滅する水戸や長州では時代は動かせなかった。
ちなみに勝てば官軍、敗ければ戝の語源は西南戦争における西郷隆盛の事かと… 幕末における争いが現代でも尾を引いている要因も簡単に説明できる…
薩長厨…明治維新やったのは薩長ばい。誰が日本をここまでにしたと思うとんのや、認めんかいボケ。
佐幕厨…汚いやり方されて負けただけでしょ。そんくらい誰でもできるわ、調子のんじゃねえボケ。
深層心理的にはこの程度ですよ。 ちなみに俺はどちらの言い分も結果論に過ぎないと思っている。 薩長、一会桑を一旦忘れて、もっと大きな歴史の流れから明治維新が起きた原因を考えると、
大塩平八郎の乱あたりにそのヒントが隠されているかと思う。
『天皇の世紀』も秀作なので、長いが是非読んでみると良いでしょう。
当時の世相を見ると、薩長ではなくとも幕府が倒されるのは自明の理だった事がわかると思う。 井伊直弼があまりにも糞だったから幕府の評価は低いが、徳川政治のままの
ほうが結果としてはよかったのではないだろうか。
明治政府のせいで何百万もの戦死者をだし千島樺太を乗っ取られ
尖閣竹島で馬鹿にされ在日に政治マスコミを牛耳られてしまった。 >>452
あまり歴史を知らない人にこんなことを言うのは酷かもしれないが、
知ってる人は知ってるが太平洋戦争に突き進む時の軍の中枢はほとんど東北人だぞ
有名なコピペがあるが、バーデン=バーデンの密約によりほとんどの薩長人は排除された
むしろ薩長閥が大半だった日露戦争なんかはむしろ停戦を模索するなど慎重だったといえる。 >>452
>明治政府のせいで何百万もの戦死者をだし千島樺太を乗っ取られ
>尖閣竹島で馬鹿にされ在日に政治マスコミを牛耳られてしまった。
戦死者を出したのは東北主導の旧幕府系軍部です。
千島樺太を取られたのは、松平定信以降の幕府が放棄している間にロシアの殖民が進んだからです。
尖閣も在日も、関東東北主義者の犯行です。
あなたの言うことは全て筋が通らない。会津が好きな人は嘘つき。 >>447
ほら、根拠のないことを勝手に主張し、反論をされるとまた根拠もないことを言い放つ。
会津を愛する人は嘘しか書かない。
松平容保の仮病癖は慢性で、都合の良い時しか現れない卑怯者として扱われていましたよ。
明治以降重病に一度も罹患しない健康体が、幕末だけ数ヶ月に1月は重病人なのですから。 >452
>井伊直弼があまりにも糞だった
この部分には同意。
>徳川政治のままのほうが結果としてはよかったのではないだろうか。
この部分には不同意。
明治政府の業績を軽視しすぎ。
江戸幕府があのまま延命していたら行政や外交が機能不全に陥って、
まともな国家運営は望み得なかったと思うよ。 >453
>知ってる人は知ってるが太平洋戦争に突き進む時の軍の中枢はほとんど東北人だぞ
大東亜戦争開戦時の首相兼陸軍大臣の東條英機は東京生まれの東京育ち。
参謀総長だった杉山元は福岡出身。
海軍大臣の嶋田繁太郎は東京出身だし、軍令部総長だった永野修身は土佐モノだ。
陸軍の軍務局長だった武藤章は熊本だし、海軍の軍務局長だった岡敬純は大阪だ。
海軍で太平洋戦争突入の原因となった三国同盟に反対していたことで有名な
米内(岩手)・山本(新潟)・井上(宮城)のトリオは全員が賊藩の出身。
もうちょっと歴史を勉強した方が良いよ。 >455
>松平容保の仮病癖は慢性で、都合の良い時しか現れない卑怯者として扱われていましたよ。
史料の提示をどうぞ。
>明治以降重病に一度も罹患しない健康体が、幕末だけ数ヶ月に1月は重病人なのですから。
あの大激動の時期の困難な政局に立ち会わされたんじゃまともな人間だって病気にもなるよ。
多大なストレスから解放されたから病気にもかからなくなったってだけのこと。
家近良樹の近著に『西郷隆盛と幕末維新の政局 体調不良問題から見る薩長同盟と征韓論政変』というのがあるが、
西郷にしても大久保にしても激甚なストレスに晒され続けて体調を崩すことがしょっちゅうあったことが
史料の中で立証されている。 >>453-454
日清戦争は朝鮮中国に明治維新を押し付けたからおこった。
日露戦争は朝鮮中国をロシアの盾にすればよかったものを反対に日本が
最前線に出て盾になりおこった。
第一次大戦を含めここまでは過激派松下村塾を中心とする長州人が
引き起こしたもの。
これらの戦争がなければ当然太平洋戦争はなく現在の領土紛争在日問題は
なかったと言いたかったのでありちょっと誤解がある。 >>456
慶喜が改革を進めていたし、明治維新が産業振興したとされるが産業革命時
と重なるだけで幕府がやっても同じだったと思うよ。
幕府は大規模な製鉄所なんかも作ってたようだし。 >460
>慶喜が改革を進めていた
江戸の幕臣はその大多数が慶喜のことを嫌っていて、陰に陽にと改革に反対したりサボタージしたりしてた。
また、そもそも慶喜の改革が曲がりなりにも進んでいたのは薩長という敵対勢力が存在していたからこそのこと。
あのまま薩長との直接対決を避けて物事が進んでいたとしたら、明治政府のように権力の一元化か進んで統一した
政体を日本という国が持ち得ていたかどうかはかなり疑問が残る。
>幕府は大規模な製鉄所なんかも作ってたようだし。
製鉄所を作ったからと云って、全てがそれで上手くいくってもんでもない。
門閥主義が色濃く生き残っていた幕府官僚にそれをまともに運用できる才覚の持ち主が
どれだけ居たかと考えるといささか心許ないな。
明治政府があれだけの業績を残し得たのも、戊辰戦争という大規模な内乱を通じて
大した能力もなしに家柄や家格といったものに依拠して意志決定権を握っていた連中が
身分は低くとも能力と強い意志を持った連中に駆逐されたからこそという側面がある。
「明治維新が無くとも幕府官僚によって同じ事が行われたはず」というのは希望的観測に過ぎない。
たしかにトップクラスの幕府官僚が思い描いていた国家構想や政治体制像は、
明治政府のそれに近いモノではあったけれども、その実現可能性を考えると
まともに改革が進んだかどうかはあやしいものだ。
負けることが許されなかった鳥羽伏見の戦いで、鉄砲を持ち近代的武装を施された
幕府歩兵隊を持ちながら、伝統的な刀槍を武器とした部隊の方を家格が上という理由で
指揮系統の上位に据えたような頭の硬い軍事組織しか持ち得なかった幕府に、
明治政府のような積極果敢な改革がなしえたとは思いにくい。 >>459
え?
義和団事件終結後も国際公約堂々とぶっちぎって満州から撤退しないロシアに何一つ手出しできなかった中国や
自国の農民反乱すら鎮圧できず中国に泣き付いた朝鮮が
対ロシアの盾になれたとマジで思ってんの? >>461
徳川の幕臣には維新後も活躍した人が多し、才能重視で抜擢された人も少数だがいることはいる
ただ、鳥羽伏見の司令官に家格は高いが軍事的才能はどーしようもないの就けちゃってるのは事実だが
あと徳川政権が継続した場合で一番重大な問題は、自由民主化運動の荒波を無事乗り切れたかどうかってとこだな
鳥羽伏見開戦の経緯見れば分かる通り、幕権強化主義派はかなりの勢力を持ってたから
彼らによる勝利の後では、諸侯会議体制すらどうなってたか分からん >>462
安物の盾でもないよりはまし。
それをわざわざ日本が前に出て中国朝鮮のために盾になることはないがね。 >>461
確率的に日本が植民地にされるかどうかという一点に絞れば新政府より
幕府のままのほうがよかったのではないだろうか。
慶喜はなによりも内戦で植民地になることを嫌っていた。鳥羽伏見の戦いで
幕府軍が負けた主原因はここにあると思う。その後慶喜はあらゆる方法を使い
内戦を回避する方法を選択した。慶喜が将軍でなかったら内戦が長引き
植民地になっていた可能性もあった。
明治政府による日清日露戦争では勝ったからよかったものの負けていたなら
植民地となっていた可能性が高い。特に日露戦は紙一重だったから負けて
いたらいまごろロシアの属国であったろう。
とにかく薩長には植民地にされることを回避するという視点がまったく
感じられない。 実力もないのにいやだいやだって言ってれば戦争も植民地化も回避できるんなら楽だな >>466
日本は幕末に数十万発の銃を保有しており、植民地にするには百万人以上の
大軍が必要でありコストパフォーマンス的にほぼ不可能。
しかも幕府は各地に多くの砲台を作っている。
日本を植民地にするには内戦を利用するかしかないのである。 幕府が続いてたらロシアの南下にどう対処するかって話(だよな?)で、なんで幕末の銃の数とかが出てくる? >>458
ほら、会津に有利な根拠のないことは押し通し、反論が出ると嘘つき呼ばわりする。
会津人ほど嘘をつく人に、私は会ったことがない。 >>465
それにしては、徳川慶喜の停戦の想いを松平容保は踏みにじり続け、
戦争を拡大しました。
日本を危機に晒した松平容保、売国奴の松平容保を私は許せない。 >>468
銃を大量に保有している国を植民地にしようとしたら多くの犠牲者がでる。
多くの犠牲者をだしてまでちっぽけな日本を植民地にしようとは思わないよ。
現にロシアの公文書には当時中国を侵略しようとはしたが日本を侵略しようとは
考えなかったと書いてある。 慶喜が一度できた合意を壊して内戦を激化させた征長では
ロッシュの介入を思いっきり許していたし
これは慶喜も反省していたはずだが、
王政復古辺りで外国公使を集め自分の正統性をアピールしていたのも
外国の介入を招きうる行為だった。 >>470
松平容保が普通の武士です。徳川慶喜もただの普通の武士なら日本が割れて
内戦になりそれに乗じて植民地にされていました。しかし慶喜が普通以上の
武士だったから日本のために恥を忍んで恭順したんです。
日本を危機に晒した最大の売国奴は松下村塾系長州藩と薩摩藩と坂本竜馬です。 だからタクシー運転手を蹴っ飛ばしたりするんだよwwwwwwwwwwwwwww >>457
東条英機は先祖代々岩手なのに東京で育ったから東京出身扱いなのか?
お前随分とご都合主義だな。しかも挙げてきたのが、軍務局長とか軍令部総長の永野修身とか
何の権力もなかった飾りばかり。だからバーデンバーデンで中枢から外されてると言ってるだろうが。
日本語も分からない白痴なんだな。現実から逃げようとするな。軍の中枢はどう考えても東北人だろうが。
【政権中枢】
東条英機陸軍大将、首相→岩手(東京)
山本五十六海軍大将ーー→新潟
米内光政海軍大臣、首相→岩手
井上成美海軍大将ーーー→仙台
板垣征四郎陸軍大将ーー→岩手
木村兵太郎陸軍大将ーー→東京
近衛文麿首相ーーーーー→東京
石原莞爾関東軍参謀副長→山形
【陸軍】
岩手・盛岡藩 板垣征四郎陸軍大将(陸軍大臣)
岩手・盛岡藩 東条英機陸軍大将(総理大臣・陸軍大臣)
山形・新庄藩 小磯國昭 陸軍大将(総理大臣)
山形・庄内藩 石原莞爾陸軍中将(関東軍作戦参謀)
福島・会津藩 畑俊六陸軍元帥(陸軍大臣)
【海軍】
新潟・長岡藩 山本五十六海軍大将(連合艦隊司令長官)
岩手・盛岡藩 及川古志郎海軍大将(海軍大臣)
岩手・盛岡藩 米内光政 海軍大将(総理大臣・海軍大臣・連合艦隊司令長官)
山形・米沢藩 南雲忠一海軍大将
※福島・二本松藩 児玉誉士夫(児玉機関・政財界の黒幕)
【軍閥別軍人出身地の比率】
・明治以降日清、日露戦争勝利までの陸軍大将の薩長出身者占有率=70%以上
・満州事変から太平洋戦争敗戦までの陸軍大将の薩長出身者占有率=4%以下 >>1 慶喜は大奥にいた女性たちのマン拓を集めるのが趣味だったのが有名だな。
>476
>東条英機は先祖代々岩手なのに東京で育ったから東京出身扱いなのか?
他にも東京出身として勘定されている軍人は居るけど、そいつらの親が何処の県の出身なのかを
あなたは逐一正確に把握しているの?
>軍務局長とか軍令部総長の永野修身とか何の権力もなかった飾りばかり。
軍令部総長が「何の権力もないお飾り」とか、何の冗談?
終戦間際に徹底抗戦か講和かを決めるための「最高戦争指導会議」のメンバーを調べてみるといいよ。
太平洋戦争を始める前に開かれた「大本営政府連絡会議」でもいいけどね。
>だからバーデンバーデンで中枢から外されてると言ってるだろうが。
バーデンバーデンってまだ少佐だか中佐だかのころの永田と小畑と岡村が集まって密談したってヤツのこと?
そのころのその3人なんて下っ端も良いところで何の権限もなかったけど?
>軍の中枢はどう考えても東北人だろうが。
あなたが主張する「軍の中枢」ってのは何を指すんだ?
階級? 役職?
あと、あとそれぞれが陸相や海相や首相になってた時期もかなりごちゃ混ぜだけど
いったい何時から何時までが<457>が言うところの「太平洋戦争に突き進む時の軍の中枢」なの?
三国同盟に反対した米内光政と太平洋戦争に突入した東條英機とじゃ位置付けから何から真逆だと思うけど。 >466
>実力もないのにいやだいやだって言ってれば戦争も植民地化も回避できるんなら楽だな
日本には充分に実力もあったし、正面切って「日本」と戦争をして植民地にしようなんて
バカな考えを持った国なんて居なかったよ?
幕末に起こった対外戦争は「薩英戦争」と「馬関戦争(長州対英米仏蘭の4ヵ国)」のみ。
つまり日本の中の一地方領主とは戦争はしても、日本全土を対象とした戦争なんてしようとは
しなかった。
徳川幕府がきちんと政権を掌握している限りは「日本」と戦争をしようとする国も植民地化
しようとする国も居なかった。
跳ねっ返りのバカな攘夷主義者が変なことさえしなければね。
欧米が本当に狙っていたのは、大規模な内乱が起こって日本の国力が消耗し、高価な武器や
艦船を高い金で売りつけることが出来る「市場」が出来ることの方だったろう。
その意味で戊辰戦争があの程度の期間・あの程度の流血の規模で収束したのは、
日本にとっては本当に奇跡と云っても良い僥倖だったと言える。 順序が違うんだよ。
植民地化の危機があると日本の先鋭的な層が思ったからこそ
西洋の砲術や海軍の導入が進んである程度実力がついたんだ。
それをさせたのが慶喜の父親じゃないか。
そういう危機感がなければわざわざ家康まで遡らないと系譜が繋がらない
水戸の慶喜が将軍についたりしないよ。
それらか本国の方針がどうといってもロシアに対馬を取られかけていながら
実力で追いかえせずイギリスに頼るしかなかったというのが実際の歴史だ。
まさかロシアの公文書にこうあるあら安心だと、当時の人間を説得できるとでもいうのかい?
それにプロイセン公使ブラントは北海道を軍事的に制圧する計画を本国に具申している。
普仏戦争を控えてロシアと対立したくないというあちらの都合で
ビスマルクが却下したがね。
慶喜の父斉昭は西洋砲術の導入や大艦建造の禁解除を求めたわけだが
本来そんな立場にない御三家の人間がああやって介入していた時点で
幕府がきちんと政権を掌握していたとはいいがたかった。
もちろんそうさせた阿部政権に可能性があったのは確かだけど、
結局慶喜を担ぐ一橋派と南紀派との対立に発展してしまう。
そうしておきた混乱を収集するため井伊直弼が強権政治を行って、
一時的に幕府がきちんと政権を掌握するが、軍事改革は停滞した。
その後文久の改革で軍事改革が大きく進むがこれは井伊直弼の暗殺後の混乱のなかで
島津久光が卒兵上京をし勅使を引き出し江戸に向かうという、
幕府がきちんと政権を掌握していたらありえない事態を背景にした改革だった。
それでもそこには有力諸侯の連携による政治という可能性があったが
それを横浜鎖港論でぶち壊したのが慶喜。
そしてこれが慶喜の支持基盤の水戸尊攘派決起を誘発し、
慶喜が相談役としていた武田耕雲斎を首領とした天狗党の乱がおきた。 >>480
豊臣秀吉のバテレン追放令や徳川時代のキリスト教禁教策強化と鎖国政策は
植民地にされる恐怖からきている。幕末に初めて危機感を持ったわけじゃ
ないよ。
幕末に数十万丁の銃があったがこれは国内で製造され蓄積されたもので
これだけで通常植民地にはならない。 幕末にあった国内生産の数十万丁の銃ってどんな銃?火縄銃も含めて?
ちなみに兵器だけあっても、それを活かせる大部隊がいないと話にならないぜ。
諸藩は財政難に汲々としているのに、「銃の保有数」をそのままいかせる軍事活動が可能であったとでも?
諸藩の協力が得られない場合はどうするの?幕府以外の諸藩の力も総動員する方法は?
となると、まずは国内統一が最優先の課題だろう。 >>483
薩英戦争では薩摩一藩がイギリス一国と対等の戦いができた。
仮に国内統一ができなくても部分連合だけで十分外国勢と戦える。
元寇に対しては鎌倉幕府が全国一丸となって戦えたことを考えると
徳川幕府においても諸藩を総動員することは可能と考えるのが妥当だろう。 >>484
そうやって全国から動員して、長州に勝てなかったわけだが。 やっぱ幕府主導でペリーと一戦やって負けといた方が良かったんじゃないか
したら孝明帝も絶対攘夷とか流石に言い出さないだろうし >>485
第一次長州征伐では旧式の長州は負け、第二次長州征伐では新式の長州は
勝った。
薩英戦争ではやや旧式の薩摩は英国と互角の勝負をした。薩摩が新式で
あれば圧勝していた。つまりどの弱小藩でも新式の武器を使えば一藩だけで
外国勢力を追い払える。徳川幕府がどんなにだめでもなんの問題もない。
問題なのは大きな内戦になってそのすきに植民地にされること。
第二次長州征伐で長州が勝って裏で糸を引いていたグラバー、さらに
その後ろで糸を引いていた英国はほくそ笑んでいたことだろう。 ありゃ英国艦が薩摩を舐めくさってノコノコと射程内に接近してきたからな >>489
その前に宣戦布告もしてないうちに英国は薩摩艦船3隻を拿捕してるよな 薩英戦争は英国軍艦の大砲が不調だったのと、錦江湾の悪天候が味方して運良く引き分けただけだろ。
しかも鹿児島城下の大半を焼き払われるという甚大な被害も出ている。
新式であれば圧勝していたなんて、新式の本場相手に夢見すぎだろ。 >>491
英国軍艦の大砲が不調だったというか暴発したわけだが、そんなもの実戦
配備する前に訓練で確認しろよという話でそれも能力のうち。
錦江湾の悪天候が味方したことは事実だが一方的に味方したわけではない。
英国側は卑怯にも焼夷弾を使って城下の一般民家を焼こうとし、これが
悪天候の強風で延焼してしまったのである。
焼き払われたのは鹿児島城下の大半ではなく五分の一。
英国が使った新式大砲は飛距離4km、これに対して薩摩側の旧式のは
1kmだからかなりの違いはある。
暴発が起きたり、薩摩を舐めくさってノコノコと射程内に接近して大砲
ぶちかまされて一度退却したが、それとは別にその後再び接近して薩摩軍の
砲撃で旗艦の艦長、副長、英東インド艦隊提督が殺されたことは事実である。 武器の優劣より結局人物、組織、統率だね。
清がアヘン戦争で敗れたのも、軍事敗北というより。体制上の欠陥による外交で屈服した。
長州征伐や鳥羽伏見も軍事的有利だったけど、倒幕派に比べ人物無く組織旧態で統率がなく負けた。
攘夷進めても結局は挙国一致の体制なるって事だから、幕府や藩や身分制はなくなる。 薩英戦争後に薩摩は英国に擦り寄ってる。
ボコボコに砲台や軍事工場が壊されて、次にこられたら殺られるのを悟ったから賠償金を払って手打ちに。
英国艦隊側の損害が大きかったといっても、大英帝国のひと握りの艦隊が負傷しただけだからな。
逆に薩摩藩の施設は満身創痍。
初戦で英国艦隊が去ったのに調子づいて、あくまで攘夷を貫こうとしていたら、薩摩は確実にやられてるよ。
その辺りの現実的な計算が薩摩藩上層部はしっかりできていたというわけだ。
要するに、攘夷なんて無理ということ。薩摩藩の方向転換がその証拠だろ。 薩摩藩は元々公武合体開国方針。生麦事件は難癖つけられたから、突発的に戦っただけ。
結果的に政治軍事改革する為、英国と結んだだけ。
急進攘夷派さえ和親条約まで戻せといってるんで、開国に反対してたわけでない。
攘夷が不可能だったのは、薩摩や長州の様に単発でしか戦争できない体制の方が要因。
それつくりの為に倒幕、内戦、廃藩置県、徴兵制に移行するんで。 難癖つけられたというより、生麦で英国人を殺害したのは紛れもない事実だがなw
誰もがわかる嘘を強硬に押し切って、結果的に攻撃されたという方が正しいであろう。 江戸幕府の衰退滅亡の一番の原因は士族の存在だな
その後の秩禄廃止をみても士族の給料が財政を圧迫してた
4人産まれれば4人分の米俵が増えるからね
身分制度はやはりいつか限界が来る
その限界を超えた武器を持ったか旧士族が暴れだしてついに滅亡
>>498
そうだな、第一次はそもそも戦ってなくて
第二次の紀州の武器は長州と同じくらい新式、
幕府海軍は数も性能も圧倒的に長州より上
>>488
なので武器の性能だけが勝因じゃないよ 慶喜は生涯、大久保利通をトラウマに思っていただろうな。
明治になり静岡に住みついても、大久保のいる東の方角へは足を向けて寝ていたとか… 嘘を書くんじゃない
松平容保ならともかく、徳川慶喜は御門を足げに寝る習慣はない人です >>499
家や仕事に対して報酬があるんで武士の数が増えても全体の給料は換わらんぞ。
一つの家庭で養う人間の数が変わるだけ。だから中期以降の武士は困窮した。
幕府の参勤交代と江戸滞在も莫大な出費だし。
>>500
戦術の違いが大きいな、武器や兵力ではない。
>>500
紀州藩の主力は旧式で石見口で粉砕されてる
芸州口の部隊は支隊 >>495
英国有利の海戦でも大破1隻・中破2隻で人的損害は薩摩より上。
まして英国も陸戦避けてるし勝ちは取れない。
薩摩に有利な陸戦したらさらに英国は被害甚大。
戊辰や西南戦争の薩摩見ても、英国の力で薩摩を屈服させるのは不可能だろうし。
まして本格的な長期戦なったら、日本中の攘夷派が群がりたって援助来るだろうし。
>>497
籠に突進してきたんだから斬られるよそりゃ。大体幕府と薩摩二重要求じゃね? 本格的に準備してこられたら英国に勝てるわけがないっしょ。
どう考えても当時の世界帝国に薩摩が勝てる道理が見当たらないのだが…
ちなみに西南戦争では薩摩士族は壊滅してるじゃねえかw
初期日本軍の百姓兵にも負けたのに、英国の精鋭部隊が来たら蜂の巣じゃね?
>籠に突進してきたんだから斬られるよそりゃ。大体幕府と薩摩二重要求じゃね?
薩摩の道理では無礼討ちして当然なのでしょう。ただの通行人なのにトドメまで刺されて可哀想に。
二重請求されたのは、あまり俺も詳しくないが幕府にも原因があるらしいね。
まず薩摩が請求されるのは当然。島津久光も現場で黙認していたのだから薩摩藩が下手人と言っていい。
幕府については、沿道に勅使が通る場合、外国人に前もって知らせて通行を控えるように達していたのだが、
大名行列については知らせる習慣がなかった。
島津家としても前々からそのことを苦々しく思っており、幕府に大名行列が来るときは外国人の通行を控えるよう申請していた。
これについて幕府は問題意識をもたず、もともと久光による幕政改革にたいして反発の下地もあったため、とりあげることはなかった。
これが生麦事件後、大きな問題となり幕府は弱腰とならざるを得なくなる。
つまり、勅使よりもはるかにトラブルが起きやすい大諸侯の大名行列について、何の前触れも出さないのは外国人の安全を軽視していないか?
ということで、幕府は強くイギリスから責任を追及されたというわけ。 そうそう、結局薩摩は賠償金を幕府から借り受けて支払ったから、全額幕府もちということになる。
これもやはり島津家が申請していたのに、問題を放置していた弱みがあったからだろうね。 西南戦争なんて廃藩置県で薩摩が武装解除されてた上に、政府が日本中の兵、兵器、物量消耗しまくってなんとか破ったのに。
英国にそんな力あるはずない。どれだけ極東に軍事力展開と消耗できるのやら。 英艦隊がアウトレンジに徹していれば薩摩もかなり苦しかったと思うが
でも上陸部隊との戦闘が起きればなんか勝ちそうw 幕藩体制は戦国を治める為に作られた体制だからな
鎖国でなんとか完結できたが、他要素が来ると対応できなくなった
特に通商条約で、勅許を得ず挙国一致無視、物価高騰で庶民は苦しみ、貿易利益は幕府独占、安政の大獄で志士殺しまくり、ついでに大老は暗殺されると
倒幕は必然的流れだった >>512
薩長体制が本当によかったのだろうか。薩長と言っても松下村塾独裁なんだが
彼らが明治維新を中朝に押し付けたから日清戦争が起き、その結果として日露、
日中、太平洋戦争が起きて、現在、日中、日韓の関係がよくないのも少なからず
彼らの責任ではないのか?
>>513
公儀政体の当初の構想なら、おそらく徴士貢士でなく諸侯レベルに実権が残った合議制で発足するので、
対内融和を優先して、植民地支配のような摩擦を嫌がり、東洋でそれなりの独立国として残ったかもしれない。
徳川家は朝鮮王家、清朝とも交流があったので、朝鮮王家が日本との交流を切ることもなく、
江華島事件のような衝突は起きてなかった可能性が高い。
で、第1次大戦、第2次大戦とも主戦場は欧州なので、日本は漁夫の利を得つつ内政改革を進めて次第に権限を下におろしていく
と言う漸進的な改革が可能になってた可能性はある。
ただその場合、新幹線はなかったし、何と言っても戦時総動員体制が保険制度や所得税を整備する土台になったので、
その後の近代化のスピードと言う面からすると、何とも言えないね。 まず公民権運動にどう対処できたかが問題だな
あとはロシアの南下か >>514
朝鮮蔑視観は江戸時代につくられたもので、幕末に幕府でも朝鮮攻撃論はでてる。
朝鮮が日本側を嫌悪したのは近代化そのものだから衝突が起きる可能性の方が高いよ。 >>516
江戸時代の朝鮮蔑視観が直接、明治初年のトラブルに結びついたわけではない。
李王朝が明治新政府との外交樹立を跳ねつけたのは従来の慣例を無視したから。
慶喜は幕末にもシャーマン号事件でも外国行使に将軍家として仲介役を期待されている
この点では明らかに江戸幕府のほうが現実的感覚を持っていた。
たとえるなら明治政府は近代国家の原理原則論の左翼タカ派の民主党で、江戸幕府は東アジア秩序を重んじた自民党的な人脈外交の柔軟さがあった。
だから、明治政府は何をやっても朝鮮に信用されなかったんだよ。 また対清関係においても、とくに勝・榎本などに代表される幕臣系は穏健論。
とくに勝の意見は対清戦争によって列強が清の弱体を悟り、東アジア秩序が一気に破壊されることを最も恐れたものだった。
これは対朝鮮政策に関しても言えるんだが、明治政府は戦争の結果が何を齎すかあんまり考えないんだよな。
氷川清話より
日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。
支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。
ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。
それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。
おれなどは維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。
今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところになるくらゐなものサ。 >>515
自由民権運動に対しては江戸幕府のほうがおそらく柔軟。天領の豪農層と幕臣の関係なんだから
また対ロシア関係は幕臣と、討幕派要人の違いが最も出る所で、
旧幕臣系は外交交渉の経験からロシアにさして恐怖心を持っていなかったのに対して、
西南雄藩の志士は西郷・副島に代表されるように強烈な対ロ強硬論者が少なくなかった。
結果的には、日露国境問題は黒田−榎本ラインの交換条約によって円滑に落着を見たわけだけど。
諸候会議的な公儀政体と、それ以下の徴士クラスの公儀政体の違いは、近代化のスピード。
安定性から言えば前者のほうが勝る。ただ後者は結果的に外征が可能な大陸海軍や、
満州と言う広大な実験地を獲得し、新幹線など戦後のインフラに繋がる技術を獲得した。 なんだかこの佐幕派おじさんは、都合の良い部分だけを拾い読みしている。
まず、徳川慶喜が大政奉還後に望んだ「公儀体制」とは、
天皇を名義上の皇帝とし、その下に宰相としての徳川慶喜、
その下に各藩藩主らによる諸侯会議があり、官僚は幕府から横滑りするというものだ。
つまり、天皇が国家元首であり、日本国天皇が朕と自称する国書を出さざるを得ないんだよ。
この称号が朝鮮王にとっては問題だったのだから、公儀政権が国書を書いても実在の明治新政府への対応と全く同じなのさ。
次に、竹島の問題を取り上げてみよう。
この島を日本領として宣言することを望んだのは、幕末の板倉勝静や永井尚志が先駆とされている。
どこが穏健なのか?
更に自由民権運動を見よう。これは史実では、征韓論政変で下野した西郷隆盛らが士族反乱を起こし破れた結果、
残党が銃を取るのを止めて社会運動に転じたものだ。
公儀政権なら内乱は起きない? もしそうなら自由民権どころではない、幕末によくいた不逞不穏の浪士徘徊が以後もずっと続くことになる。
治安は最低となる。 >>520
べつに佐幕派ではないけど、、、だから近代化のスピードでは明治政府が上回ると言ってるじゃない
ただ、外交の継続性から言えば幕府に分が上がるのはしょうがないでしょ。江戸300年間「政権与党」だったのだから
・明治初年の日朝交渉は単に国書の体裁のトラブルだったということではなく、
前例を完全に無視した交渉だったので朝鮮側が態度を硬化させた−と言うか警戒したのが実情。
朝鮮王家と独自に交渉のあった徳川将軍家の私的交流の延長線に位置付ければそれで済んだ話。
・竹島は当時の朝鮮にとっては単なる無人島。対馬や琉球のように両属もしくは緩衝地帯の存在が当たり前なのが東アジアの伝統的なシステム
・自由民権運動が西郷下野の結果起きるのなら、なおさら慶喜ら諸侯政府政権には関係ないですね。
ちなみに天領では不逞浪士の跋扈に対して幕命を受けた民衆武装が行われていたし、スポンサーが政府に組み込まれたら不逞浪士の鎮圧側に回るに決まってる。 竹島に韓国がこだわるのは植民地支配の象徴と見なされるからであって、江戸時代に重要な島だったわけじゃないのは一目瞭然だろう。
何を言うちょるの。 >>519
いや、自由民権運動ってそういうもんじゃないと思うが
おらが村の舵取りじゃなく、国の行く末を決めさせろって話ですよ?
諸侯会議どころか将軍の帰趨にも話は及ぶんだが 勝は朝鮮中国にも西郷みたいのが出てくるはずだからそれと手を組めば良いみたいな言って結局出てこなかったしね
自由民権運動は御誓文で広く会議を興し万機公論に決すべしと公約してるから、有司専制やめ早く議会開けって運動でしょ
そもそも薩長閥いっても完全薩長閥が濃くなったのは明治6年の政変からで
元は薩長土肥一人ずつ参議が出てそれなりバランス取れてた
政変前は佐賀や土佐が薩長より参議数多かったくらい 佐賀は頭になり得る主要人物が結構バラバラだからなあ
もうちょっと協調ry 征韓論にしろ日清戦争にしろ日露戦争にしろ全て朝鮮が原因
征韓論は朝鮮を開国させるで国内が割れ内戦に至った、日清は朝鮮を清から独立させるで戦争、日露戦争も最終防衛線の朝鮮がロシアに侵食されたのが原因
戦後しょうがないから併合したってだけ 幕末にすでに板倉勝静とその臣山田方谷、
対馬藩の大島友之允、勝海舟、桂小五郎で
朝鮮の違約の罪を鳴らして征服するという考えになってるよ。
勝と板倉が失脚したのでその段階では無しになったけどね。 勝は3国提携して、列強の侵略防ごうという考えだろ。
現王朝相手にしても無駄、向こうも革命が起き西郷の様人物が出てくると。
勝すら向こうの国の見方外れ、福沢も脱亜論になった。
征韓論も朝鮮征服するでなく、話し合いが通用しないから武力を用い開国させるに過ぎない。
反対した大久保さえ、結局は江華島事件で開国させるわけだから。
朝鮮併合にしても、伊藤博文も反対だったが、日露戦争の際に朝鮮がロシア側になびき危険になったからもう仕方ないという感じ。 >>523
まず自由民権運動の発端が有司専制、とくに地租改正などの施策に対する反発と、
西南戦争での不換紙幣の濫発じゃないか。
明治政府の「純化路線」が自由民権運動の激化を引き起こしてるの。
>>527
朝鮮の違約?しかし慶喜は同時にシャーマン号事件の仲介役も期待されてるんだけど。
幕末段階では国策になり得ない。少なくとも明治8年の森山茂のようなトリガーは引く可能性がないもの。
>>528
朝鮮が頑固なのはかの国の旧弊だから救いようがないけど、諸侯会議なら朝鮮政策は慎重になるよ。
だって英国以下と利権の調整が必要になるので。日本が最初に貧乏くじを引いて列強のためにドアを開く必要はない
あと福沢諭吉の脱亜論は甲申政変の失敗に失望して、朝鮮に過大な期待を持つなと言ったものであって、
べつに対朝強硬外交を意味しない。 勝が言ってるように、朝鮮にせよ清にせよ日本が戦争して得た果実を持ってくのは列強なんだな。
骨折り損の何とやらで
あと、明治政府の外交は対英依存度が高くなりすぎてる。
幕府は英国の強硬外交を、例えば蘭・米・普などを使嗾して抑止するという緩衝地帯的外交をやってるから、
その路線が継続されたことに間違いはない。実務者はほぼ旧幕臣系が占めるわけなので あと山田方谷は外交政策では完全に反主流派なので、大島への進言が政策に採用される可能性はない。
山田方谷みたいな2ちゃんレベルの献策はこの時期腐るほど出てるからまともに取り合う必要なし 元々民権の板垣は軍人で会津攻め経験してる
庶民士族が一致して抵抗されたら兵力寡少な為死ぬしかないと覚悟してた
所が会津で戦ったのは士族だけ、庶民はそんなの関係ねーと、むしろ政府に協力した
外国と戦いに陥ったら同じ事になると、下野きっかけに自由民権するわけで
まあ自由民権は国民国家を作る過程運動で、有司専制はまだそれは早いという考え
外交に関しては幕末でも露に対馬占領された時、英国の力を借り追っ払ってるし
大久保も英国介入防ぐ場合、米・仏・普で抑止してる
明治政府はむしろ法制度から医療陸軍とむしろドイツ模範、ロシアが南下する際に日英同盟結ぶ 幕府の対英政策はむしろフランスが一番の頼みやったやろ
まぁ欧米の大国っつったら限られるから仕方ないと思うが
>>529
庶民の不満と自由民権運動が結びついて拡大したのはその通りだと思うが、
庶民の不満って点は開国してから加速してるし、開国した以上民権運動の思想も遅かれ早かれ入ってくるから大して変わらんで
生活が劇的に改善するなら別だろうけど 水戸藩が慶喜の足引っ張った形だけど
水戸藩の内紛って当時革新的な事を遣り合ってて
対立の構図を見ると当時の日本の縮図だった
やってる事は討幕派と佐幕派の争いみたいなもんだし
水戸藩内紛は慶喜が徹底抗戦の道を選んた日本の未来
日本内乱状態 そして、誰も居なくなり歴史から消えた
他の藩はそんな事遣り合う知識すらなかったし
水戸藩は日本の為に犠牲になった
っと考えると水戸藩の内紛は面白い
少なくとも慶喜には水戸藩内紛に感じることはあったと思う 「あれは攘夷とか言っているけど実のところは党派の争いなんだ」by慶喜 足を引っ張ったということでは幕府も水戸藩に引けは取らない。
横浜鎖港を慶喜に幕府が圧力をかけて言わせて
その事情の見えない水戸の尊攘派が本気にしたなど悪循環。 >>533
いや、幕府の役人が一番好感を持ってたのはロシアだよ。ロシアは意図的に対日融和的な外交をしたので。
嫌 英>>>仏>蘭・米・普・伊・露 好 と言う感じ。フランスはロッシュの着任当初まではそんなに幕府と親しくない。
慶喜はパークス受けは良いよ、ロッシュと親しかったのは幕権派官僚であって >>532
どこの国を模範とするかと、どこの国との外交的比重を高めるかはイコールではない
日清戦争でも艦隊建設は当初フランスに投げたが途中から英国式に修正した。
ドイツは「模範」にはされたが、外交的比重としてはそんなに… >>537
ロシアとは当初友好的だったが、対馬の一件辺りからは微妙じゃない?
まぁでも確かに、フランスとの密接な関係というよりはロッシュとの蜜月関係だな、あれ
慶喜は色んな外国公使から高評価受けてるね パークスが最も評価してたのは慶喜。とくに大政奉還は非常に歓迎してる
外国が一番困ったのは誰と交渉すればいいのかと言う点だから、英断だと思ってるんだよな
地震も徳川宗家を祝うのか
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0204/46/302.html
日本の貴族はインターナショナルで、
平民には「大和民族」、「大和魂」を強制する。
とんでもないな。
(仮説を含む) 慶喜は自己中のバカだと思う
江戸城開城の勝海舟と西郷隆盛の会見で、慶喜の処遇の話もでた。
つまり、徳川慶喜は朝廷から内大臣、征夷大将軍の官位を授けられており、維新後も高い位につけるとか、
慶喜は明治維新後に従一位勲一等公爵についているのも事実です。 潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送っていた。
幕臣の供養も何もしていない。頭は良かったが、心が無い。将軍とは何かもわかって無い。
天皇にすり寄り、自己保身の限りを尽くした。歴代の将軍が仏式葬儀なのに、彼は天皇にならい神式葬儀を遺言として残し、
徳川家菩提寺の増上寺にも参拝していない。自ら徳川慶喜家を起こしている。自分と親族さえよければいいと言う大馬鹿。 勝海舟も幕臣供養はしたことが無い。
武家官位従五位下安房守から維新後、正二位勲一等伯爵となるが。 明治二十二年五月、瑞龍山の先塋参拝の事あり、公は追慕の至情止め難く、
御落涙の様子など、左右の人々も御供に堪へざるさまなりき。
此時藤田健にも謁を賜はりて「東湖の子か」と仰せられ、其昔東湖に御逢ひ遊ばされし時の事ども、
種々御物語ありて、懐旧の情に堪へ給はず、やがて東湖の墓前に至り、
懇に御焼香ありて一拝し給へるさまは、児等が亡父の墓前にて拝跪するよりも鄭重なりしには、
健を始めとして見奉る人々思はず感涙に咽びたり。
此時水戸家の家令長谷川清作十郎の後の名お側にありたるが、東湖の外にも、
戸田忠太夫等御信用ありし者の墓ある旨を言上せしに「東湖の外はよろし」とのみにて、
一向に御構なくして済ませ給ひきと健の語りき。
渡井量蔵筆記 身内の墓参りとして有名です。将軍の器で無かったと思います。
将軍になった以上、全ての武士が家臣であり、死んでいった足軽のことなどへっちゃらです。 足軽というか旗本は幕府とか慶喜よりも自分の食い扶持を守るために戦ったりした。
幕府の財政を立て直そうと旗本リストラをやろうとした原市之進を斬殺したし。 農兵などは村に割り当てられ徴集されたんですけど・・・・ 旗本は明治維新に際し徳川慶喜の軍としては働かず、官僚になれないなら役立たずと判断され
まともな禄も与えられず静岡の荒地を開墾することとなった。
その結果、一万石以上の大名は華族として厚遇されたが、一万石にぎりぎり足りなかった旗本は
大身でもその後の行方が分からなかったりする。 本来維新以降主権が天皇に移ったので武士の世は終わったはずなのですが、多くの武家は家来を見捨て生き延びたのです。
それは官位にあると考えます。錦の御旗は「尊王攘夷」「王政復古」です。慶喜は朝廷から内大臣、征夷大将軍の官位を授けられておりました。
朝廷(天皇)から賜った官位は格式をあらわし、主権が天皇であるから、天皇が授けた官位は維新以降、幕軍といえ無視するわけにいかなかった。
武士の世になり、朝廷は権威だけは残るが財力は低下して行きます。(特に戦国、江戸期)
朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その武家の家格以上の官位を発給することもありました。
たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもありました。 >>549
旗本知行地こみで七百万石あった領地を七十万に減封する条件で
講和したんだから、大身のお旗本であっても意味ないじゃん。 当時あからさまに慰霊なんかやったら政治的な活動になる
維新政府が落ち着いた後は平岡や原の墓参りしていたというし
旧臣の勝海舟は慶喜の隠居生活を支援したし
香川敬三や渋沢栄一は慶喜の名誉回復に奔走して
叙勲や幕末当時の慶喜の回顧録を出版した 歴史で行くと、慶喜は将軍1年だけど激動の1年にスッコンパッコンいっぱいしてます。
本当に、道楽者でいいのでは。 フランスではドゴールに次ぐ人気を誇る国父ミッテランだって愛人がいたよ
小松帯刀の持ってた豚肉ぜんぶ取り上げるような人だから、健康状態も精神状態もきわめて壮健だったはずなんだよな。
さすがに王政復古のクーデタ後に会桑両藩を宥めて大坂に引き上げてきた時は憔悴していたようだが
慶喜は、原を殺された時点で側近がいなくて、各部との調整を自分でやらなきゃいけなかったんだよな
しかも能力があるから、お任せ将軍どころか他の賢侯を一蹴するくらいの政治的迫力があったし >>557
あらゆる点で日本史上最高の政治家だったのが慶喜
慶喜がいたのが明治維新・日清戦争・日露戦争
慶喜がいなかったのが第二次世界大戦
結果はw >>556
スッコンパッコンしながらも色々考えてるのが慶喜
何も考えてないのが家斉 明治維新の大功労者なのは誰もが認める所なのに、死刑になるわけがない
西郷が慶喜に腹を切らせるとか言ってたのは、穏健派から強硬派が主導権を奪うための口実だな
だから江戸の手前であっさり勝の仲介を受け入れた
パークスが圧力をかけたと言われてるが、実際は慶喜の助命を希望した程度だったから西郷の自主的な判断 質問ですが
小御所会議後、慶喜擁護派の反撃に会い岩倉西郷が納地の代りに議定任命の妥協案を出したらしいけど
それを呑んでいれば戊辰戦争は避けられたでしょうか >>563
強硬派を説得出来れば。
徳川は1大名の位置に
転落するわけだからな。
慶喜が薩長のテロに
遭って死ぬ危険も有るし。 >>563
飲んでいればと言うか、その線でいいよといって越前さんの周旋に任せてたわけだから。
辞官納地と言っても徳川家へのイジメと言えるかどうかだよね
内大臣のうえに天領400万石、さらに譜代大名入れたらそこらの諸侯が束になっても敵わないずば抜けた大領主なわけで、
他の大名をぶっちぎって実力があった徳川家に対して自覚を促すとか、新政府の体裁を整えるための出資をさせるとか、
まあそんな意味合いだから土佐あたりも含めて基本賛成したのだよね。
慶喜を完全に排除することなんてできっこないのだし。 原発反対派は原発村の事
なんて考えているわけない同じ様に倒幕派が徳川家臣の事なんて考えるわけない 結局、爵位最上位の公爵(薩摩島津家や長州毛利家、徳川宗家と同格)に列せられ、大正時代まで生きた徳川慶喜は勝ち組 400万石が70万石になって、国家元首としての潜在的な立場まで天皇のものになって
一大名の位置まで降ろされたわけですが。 趣味に生きることを忘れなかった。
現代人も見習うべき。 第二次長州征伐敗退で徳川の独裁体制の維持は不可能になり
諸大名との協力関係が必要になったが
依然として徳川400万石の立て看板を過信してできもしない
独裁体制を目指した。 >>570
落ちぶれた徳川の家臣たちは、趣味に生きる慶喜を見たら腹立つだろうな >>573
趣味に生きる慶喜になる前から腹たててただろ幕臣たちは。
幕末の京都でがんばってた慶喜に横槍いれて、妨害ばっかりしてたよ江戸の老中どもw。 苦しんでる家臣がたくさいるのに、静岡で海釣りしたり猟をしたりの日々
通常の神経じゃ考えられないよな
腹を立てるをとおりこして殺意すら感じただろな >>575
ま、会津藩の藩主さまも同じように最終的に華族入りして悠々自適な毎日だったけどなw
それで会津藩士は会津藩主さまを恨んだんですかい? 主従・主君と家臣といった絆は結局最初から最後まで慶喜と幕臣旗本の間に築かれることは無く、
慶喜を無慈悲だと罵倒する旧譜代・旗本だって幕府の健在な時期は慶喜を目の仇にしていた。 安政の大獄で幕府から無理矢理政治生命を絶たれていた慶喜。
後に幕府の仇敵、薩摩藩島津久光の率兵上京と天皇の勅で、慶喜は将軍後見職になって政界に復帰。
譜代大名や幕臣は気に入るまいよ。 >>576
会津藩主も慶喜も腑抜けだろ
宿敵の作った世の中で華族入りして誇れるのかね?本来なら辞退すべきだろ 慶喜は叙勲に際してかなりゴネて明治天皇に謁見する際には着ていく服が無いなどと子供じみた言い訳までして拒否していた >>576
容保は生涯無爵だよ
息子の容大は子爵を賜ったけど でも明治天皇のほうは慶喜に恨みはないわけですし。
お上が叙勲するというのに慶喜があからさまに断ったら失礼ですし。。。 慶喜にとって譜代や旗本に対し公家や外様よりも親近感を抱いていたとは考えにくい。
寧ろ何事をやるにしても横槍を入れてくる難物に近い。 >>571
慶喜は独裁体制なんか目指してない。軍制改革と幕政改革をやっただけ。
独裁体制を目指してたら大政奉還なんてしない。 >>584
いざと言う時は春嶽や勝を頼ってるよな
二人とも慶喜のことボロクソに言い残してるけど 慶喜が頼っていたのは原だろ。原が殺られてから慶喜には精彩が無くなった 別に上手ではありません。
自らの立ち位置と損得で言動が即座に変わる人間は、結局信用されませんから。 その上、自らの言動の変貌への責任を自分以外の人間に背負わせて、自らは責任を取ろうとしないあたりもよくありません。
友達のできないタイプです。 組織のトップとして、判断を変えずに、損害を拡大させるよりはいい
確かに、周りは大変だけど 慶応の軍制改革や、兵庫開港の勅許獲得などにおける慶喜の能力が過大評価された結果、
雄藩の武力討幕派の結集を促してしまったと言う皮肉な面はあるかも知れないな。 勝や春嶽の慶喜評は、「(俺には)もうちょっと本音をしゃべってくれてもいいんじゃない?」という不満が根底にありそうだけど
トップは孤独だなあ 家持死後に原に「高く売りつけなさい」と促され
将軍職継承にかなりゴネて譜代連中に頭を下げさせお願いされたという形に持っていった。
春嶽は見抜いたのか「ねじ上げの酒飲み」だとこのことを評した。 駆け引きを「必要な手段」と捉えるか、「武士らしくない」と捉えるか
春嶽としては、二重の意味だったのかな〈ねじあげの酒飲み 慶喜が、久光ではなく、その後ろの西郷大久保を警戒しはじめたきっかけって、
何だったんだろう
もしこの二人+岩倉の暗躍が無ければ、四候との関係も維持できたのかな
当の四候である春嶽は、大して警戒していなかったみたいだけど 西郷隆盛と大久保利通が表に出てきたのは、第二次長州征伐への出征反対世論形成の時でしょう。
尾張徳川慶勝を全面に押し立てて、第一次出兵で全て決着が付いているのに何故出兵の必要が有るのかと主張を重ねた。
越前松平春嶽も同調した。徳川慶喜に対抗する雄藩連合という姿が浮かんできたのがこの時期のこと。
それから王政復古までの間に、徳川慶喜の親戚たちである岡山や鳥取の池田家、蜂須賀家に反感をつのらせていた淡路の稲田家、
大政奉還時には天皇の大阪拉致まで主張し幕府恩顧を打ち出していた彦根の井伊家や淀の稲葉家にまで、
勤皇が反慶喜として機能する形で薩摩との提携が起こっていた。
中国四国九州諸藩にも手が伸びていた。
関東甲信越に東北にも、京都駐在の代表者には話は回っていたようで、
一藩の起こした多数派工作としてはあまりに見事。 原と岩倉の密談に立ち会ったという香川の話だと
岩倉は慶喜にそれほど敵愾心は持っていなかったというが 四候会議で島津久光を完全に凹ませたことが、徳川慶喜の敗因でしょう。
あれで島津久光を完全に慶喜排除に走らせたのに、
慶喜本人は、島津久光を安政の大獄からの復権以来の味方と単純に思い込んでいた。 いや当初から薩摩とは寧ろ距離を置いていただろ。
禁門の変の時なんか長州に対しては説諭で行こうとする慶喜に対し
薩摩は断固討伐を唱えたりして薩長同盟のさの字も無い状態だった。 島津斉彬が、慶喜に会った後、鋭すぎて、おとなしく神輿に載ってくれる人じゃなさそうだ、という印象を受けたことを春嶽に伝えていたよね うちの御先祖の一人は慶喜が卑劣な裏切りで、大阪から逃げた時に、
何も知らなかったそうです。大将が部下を見捨てて逃げるなんて、ありえないことですよね?
その後、御先祖は、会津様に殉じて亡くなったそうです。
理想に殉じた御先祖はまだいいのですが、巻き込まれた会津様です。
慶喜の下衆野郎は結局、会津様に一言でも詫びとかしたのでしょうか? ご先祖様は鳥羽伏見で圧倒的劣勢の新政府軍相手にボロ負けしたことを慶喜に一言でも詫び入れたの? 会津は、自分達で、慶喜の命令(恭順)に従わないことを選択して、最悪の結果(地元を戦場にして完敗)を招いた
慶喜に騙されていた方が被害は少ない
会津内部でも、分かってた(でも意見が通らなかった)人はいたんじゃない? >>602みたいな無能のゴミの先祖も無能のゴミだったということだ
会津観光史学乙 春嶽だって、役職から逃げ出したことあったのはずなのに、それはスルーして、慶喜の文句言ってるの?
単に、その時思ったことを、よく考えずそのまま書き残しちゃうタイプだったとか?<春嶽 慶喜の周囲にいて慶喜の悪口を一度も言わなかった人は
きっと新門辰五郎ぐらいだと思う >>607
松平春嶽は、鳥羽伏見の戦い以後は完全に、「新政府こそが居場所、旧幕府はさっさと潰れろ」、の人です。
箱館での榎本艦隊降伏を聞いた時に岩倉具視に送った手紙が出て来ましたが、文面は
板倉勝静と榎本武揚が死んだって? それはとても目出度いねwww
でした。 死ぬどころか、榎本は新政府で頭角現していくわけで
(やっぱり優秀なんだな)
新政府辞めても情報は入ってくるだろうし、春嶽はどんな思いで見てたのかねえ
案外ケロっとしてた? 慶喜の悪口をあからさまには言わなかったが含むものはあったらしい 慶喜が公爵になるなんて、予想できなかっただろうね<春嶽 勝海舟は西郷隆盛との会談で江戸攻撃を回避した時、
幕府軍の迎撃プランを示し、江戸が戦場になったら官軍もただじゃ済まないとアピールしたため
江戸攻撃を回避できたというのは本当? >>615
江戸攻撃を回避できたのは薩長のバックだったイギリスが反対したから
篤姫の手紙とかいうのは大嘘
海舟は江戸を火の海にして薩長軍を焼き尽くすつもりだったのは事実 迎撃プランなんて何もない
もし江戸が戦場になったら自ら火の海にするつもりで準備していた 強硬論は西郷大久保だけで岩倉も木戸も慶喜の謹慎で十分だとしていた 西郷大久保の強硬論も、主導権握るためのものだったって見方もあるね
慶喜の決断の大きさを理解していたのは、むしろ敵方ってことか
伊藤博文も大政奉還に感激してたそうだし 200万石を朝廷に差し出せれば完璧だったんだがな
やはり二心様、踏み絵に引っかかってしまった >621
それやったら幕臣連中が激昂して収拾が付かなくなったろう。
鳥羽伏見の開戦が早まるだけになるんじゃないか?
大政奉還から鳥羽伏見までの間の政治日程は、ギリギリのところでの綱渡りをし続けていたようなモノだったから、
あれ以上に上手くやるプランってのは難しかったように思う。 王政復古から鳥羽伏見まで一ヶ月もないから開戦が早まるも何もないのだが
戦争に負けて400万石から70万石まで減らされるよりは、
はじめから200万石減らされたほうがはるかにマシだった ん?ガタガタ言ってきたら300万あげちゃえ
いずれ全部とられるんだから どうせ後世で言われただろう「戦えば勝ってた。慶喜はヘタレ」と >623
>王政復古から鳥羽伏見まで一ヶ月もないから開戦が早まるも何もないのだが
この期間に新政府の主導権争いが行われていたのを知らないの?
松平春嶽や尾張の徳川慶勝などが上手く立ち回って、慶喜が新政権の中枢に参画する
可能性がかなり高まっていたんだよ。
小御所会議で慶喜を露骨に排除しようとした薩摩と長州に対する諸藩からの反発はけっこう強かったし、
幕府の持つ軍事力に怯える公卿衆を繋ぎ止めるのにだって限界が生じてきていた。
鳥羽伏見の開戦があと一ヶ月後にでもずれ込んでいたら、王政復古を行った新政府に
慶喜が雄藩の代表として雄藩会議の議長職にでも付いていた可能性はかなり強い。
それら一切合切が吹っ飛んじゃったのが鳥羽伏見の戦いなんだよ。 会津は新政府を
潰したかった。
慶喜は新政府を
乗っ取りたかった。
そのズレが仇になったな。 会津は新政府の設立という政治構想それ自体を理解し切れていなかったんだろう。
第二次長州征伐の失敗によって幕府の軍事力に対する諸藩からの畏怖心が薄れてしまったことと、
孝明天皇の死去によって宮中における後ろ盾を失ったことによる一会桑勢力の政治力の後退という
二つの要因の重さが分かっていなかったんじゃないか? >>629
ちゃんと文脈を読んで答えようね
開戦までもっと早まるだろ?という意見に対しての回答だから
後ろにずれこんだらなんて話はしてないしwww >松平春嶽や尾張の徳川慶勝などが上手く立ち回って、慶喜が新政権の中枢に参画する
>可能性がかなり高まっていたんだよ。
ねーよw
そいつらはただたんにこのままだと薩長が明治新政府で軍事力にものを言わせて主導権を握りそうだったから、
もうゴミに等しい徳川宗家を担いで操ろうとしただけ。
実際鳥羽伏見が始まったら、速攻で徳川宗家なんて切り捨てた。
慶喜が主導権を発揮して首班になるのも反対、自分とこの藩が主導権を握ろうとしただけ。 容堂が一応岩倉に議定に慶喜の参加が無いことに異議を唱えている ちなみに松平春嶽や徳川慶勝などは慶喜によって政治から追い出された連中だぞ。
もともと慶喜を政権につけたのに、慶喜は実権を握ったら排除しだした。
それが長州征伐の失敗で幕府そのものが崩壊して、薩長の影響が強くなったので担ぎ出しただけ。 >632
>開戦までもっと早まるだろ?という意見に対しての回答だから
こちらもそのつもりで答えているんだけど?
開戦までの間の政治調整が上手くいって、慶喜に新政府内での地位が保証された後に
薩長との武力衝突が起こったのであれば、事態が変わった可能性があると言っているの。
>後ろにずれこんだらなんて話はしてないしwww
君がそう言う想定をしていないのはかまわないけど、現実には鳥羽伏見で戦端が開かれたのは
江戸での薩摩藩邸焼き討ちというイレギュラー因子によって起こった出来事であって、
開戦しないか、もしくは開戦がもう少し後にずれ込むことは充分に想定しうる話なの。 >633
>>慶喜が新政権の中枢に参画する可能性がかなり高まっていたんだよ。
>ねーよw
>そいつらはただたんにこのままだと薩長が明治新政府で軍事力にものを言わせて主導権を握りそうだったから、
>もうゴミに等しい徳川宗家を担いで操ろうとしただけ。
もう少し勉強したら?
新政府内での薩長の主導権なんて、鳥羽伏見で勝つまではそんな大したシロモンじゃなかったよ。
むしろ慶喜に対する辞官納地を要求しているのを見ていて、「やり過ぎだ」という反発が諸藩の間に広まりつつあった。
春嶽や慶勝はその辺の空気を読んで、同じ徳川一門の慶喜の復権を目論んでいた。
薩長が好き勝手やるよりかは徳川の発言力が大きくなった方が自分たちだって優位に立てるんだから。
>実際鳥羽伏見が始まったら、速攻で徳川宗家なんて切り捨てた。
だからこそ、鳥羽伏見が徳川方の負け戦になったのがいかに大きな意味を持つ買って事を理解した方が良い。
鳥羽伏見で負けてさえいなけりゃ福井・尾張をはじめとした、親藩・譜代は基本的には徳川方について
いたんだから、薩長が新政府内でどう立ち回ろうと徳川の発言力は大きく残っていたの。
その可能性を無くしたのが鳥羽伏見の敗戦。
その後の一年間かけて行われた戊申の内乱(上野・北越・会津・函館などでの戦争)は、
その殆どは軍事的な意味での残務処理みたいなモノだったんだよ。
鳥羽伏見で負けた時点で、政治的な意味での結着はついてしまった。
それくらい鳥羽伏見ってのは重要な意味合いを持つモノなの。
>慶喜が主導権を発揮して首班になるのも反対、自分とこの藩が主導権を握ろうとしただけ。
慶喜抜きで福井や尾張が主導権取れるなんて思ってるんだったら、この2人はもっと大物扱いされてるよw
自分たちの仲間のウチで薩長に対抗して主導権を取れる器量を持っているのが慶喜しか居ないって事くらい
この2人は百も承知している。 >>637
>薩長が好き勝手やるよりかは徳川の発言力が大きくなった方が自分たちだって優位に立てるんだから。
間違いですな。その二人が危険視したのは落ち目の幕府ではなくて、
薩長であっただけ、宗家なんてもうなんの力もないが、
薩長はもう既に朝廷を牛耳っていたから影響力を上げるために徳川宗家を使っただけ。
>鳥羽伏見で負けてさえいなけりゃ福井・尾張をはじめとした、親藩・譜代は基本的には徳川方について
ないない、新政府の総裁は長州シンパの熾仁親王である時点で、
新政府の実権は既に薩長に写っているわけ。旧幕府の人間は誰もいないから。
で、今の慶喜幕府に反発していたことで参加を許された、徳川少数派の一門がいただけ。
彼らとしては完全にアウェーなのでもう何の価値もない旧幕府の人間も呼び込んでバランス取ろうとしただけ。
彼らは幕府を立てようとしたわけじゃなくて、自分達の派閥の下っ端として必要としただけ。
彼らに幕府に対する忠誠心とかあるわけがない。ましてや慶喜にはな。
>その可能性を無くしたのが鳥羽伏見の敗戦。
長州征伐の失敗と孝明天皇が死んで有栖川家が朝廷の実権を握った時点でもう幕府は終わってます。
>自分たちの仲間のウチで薩長に対抗して主導権を取れる器量を持っているのが慶喜しか居ないって事くらい
いやもともと主導権を彼らが握るためにやったこと、幕府には何の期待もしていないし、
影響力もなかったからな。 鳥羽伏見の戦い直前の松平春嶽と徳川慶勝の立場が非常に微妙なわけで、
これと岡山の池田、彦根の井伊、淀の稲葉(これは国許のみ)と、
本来、徳川慶喜連合の中核にいるはずの連中が薩摩を支持してしまったことに、鳥羽伏見の敗因がある。 >639
>その二人が危険視したのは落ち目の幕府ではなくて、
>薩長であっただけ、宗家なんてもうなんの力もない
アホか。
越前は32万石、尾張は62万石。
長州は37万石、薩摩で77万石。
これら全部をひっくるめても、徳川宗家の800万石には及びも付かん。
幕府権力は崩壊したといっても、実際に国家を運営するための権力に必要なのは
その支配地からあがる勢によって生じる経済力と、それによって維持される軍事力だ。
新政府が束になって掛かったって、徳川宗家を打倒出来るかどうかは
怪しいもんだったよ。
>新政府の総裁は長州シンパの熾仁親王である時点で、 新政府の実権は既に薩長に写っているわけ。
国家統治の実績も能力も無い新政府に何が出来たんだってのw
徳川宗家が叛旗を翻し、それに同調する親藩・譜代が揺さぶりをかけりゃ、
新政府なんてあっという間に瓦解しかねない脆い政権だったんだよ。
>長州征伐の失敗と孝明天皇が死んで有栖川家が朝廷の実権を握った時点でもう幕府は終わってます。
幕府はもう終わっていたよw
大政奉還をしているんだから。
ただ、その後に出来た新政府に慶喜が重要な役職で入る可能性はあったし、それを阻止しきるだけの
政治力も諸藩からの支持も薩長には無かったっていってんの。
お飾りの公卿や何を言ったって、諸藩の動向を無視して薩長が好き勝手やれるような状況じゃない。
当時の日本の総石高は三千万石と言われていた。
薩長を合わせて実収を考えに入れても二百万石いくかどうか。
徳川宗家と親藩を合わせりゃ余裕で一千万石を超える。
残りの一千数百万石を領する諸大名をどちらが味方に付けるかどうかと言う政争を
大政奉還〜王政復古〜鳥羽伏見までのあいだに薩長方と徳川方で行っていて、
鳥羽伏見までは徐々に慶喜の方が薩長の横暴ぶりを印象づけることで失地の回復を行い
逆に薩長側を追い詰めていたってのが近年の研究で明らかにされている。
家近良樹『幕末政治と倒幕運動』
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』
とりあえずこの辺を読め。
あなたの幕末史の理解は粗雑すぎて、最新の研究を踏まえていないから話にならん。 >これら全部をひっくるめても、徳川宗家の800万石には及びも付かん。
しかし長州征伐で「及びも付かん」はずの幕府および諸藩を総動員して
たった長州一藩相手にボコボコに返り討ちされているし。 >642
>長州一藩相手にボコボコに返り討ち
相手の地元に攻め込んだからでしょ。
逆に言えば、長州や薩摩が単独で江戸に攻め込めるだけの軍事力を持ってたの?
って話でもあるわな。
そもそも長州征伐で実際に戦火を交わしたのは諸藩の軍勢がメインで、徳川宗家自体は温存されてる。
幕府歩兵も戦闘に参加していたけど、こいつらはそこそこ長州勢をまともに渡り合ってるしね。
その後、この敗戦をきっかけに幕府の近代兵器の装備と編制は一新されていた。
フランスの軍事顧問を付けて戦闘力も強化されていたと見られていたから、
鳥羽伏見でその化けの皮が剥がれるまで、薩長をはじめとした諸藩には
相当の脅威として受け止められていたよ。 陣頭の滝川播磨守は銃声を聞くと一目散に逃げだすなど
強がっても張子の虎にしか見えん。 長州征伐でも強硬派の小笠原が小倉を捨てて身一つで逃走したり
徳川800万石とか旗本8万騎とか強がっても実は中身ボロボロじゃね?
という観測が薩長だけでなく諸藩にも広がっていた。 当の慶喜自身が幕府の見かけの大きさと実際の実力がかなり開きがあると思ったのだろう 徳川宗家の力は確かに強大だが慶喜の政策に幕臣が反発するし
将軍継嗣問題の影響で幕臣の忠誠が薄いこともあって
その力をうまく使えないからな。慶喜は。 というか徳川に使える人材が無いから慶喜が将軍になれたわけだし 長州の表高は40万石に満たないが、実際は100万石以上の生産力があるのだが
近代化の進んだ藩に対して単純な米の生産力で軍事力を比較するのはナンセンス
正直いって薩長が幕軍で多少は戦闘力として脅威となりうると認識していたのは幕府歩兵だけだよ
西郷などは長州征伐の幕府兵力をみて幕軍10に対して自軍1で対抗できると計算していたし、
その見積もりを元に鳥羽伏見における在京兵力を準備していた >>641
>これら全部をひっくるめても、徳川宗家の800万石には及びも付かん。
>新政府が束になって掛かったって、徳川宗家を打倒出来るかどうかは
幕府とそのシンパが束になってかかってきて、
長州一藩にボロ負けしている時点でお話にならない。
>国家統治の実績も能力も無い新政府に何が出来たんだってのw
薩長が実質統治するんだから問題ない。無能な幕府と違うからな。
>徳川宗家が叛旗を翻し、それに同調する親藩・譜代が揺さぶりをかけりゃ、
現実には朝廷が立ち上がったら、西日本の諸藩が雪崩をうって新政府に恭順しただけです。
親藩譜代すら新政府に下ってますな。
>ただ、その後に出来た新政府に慶喜が重要な役職で入る可能性はあったし、
薩長がうんと言わない限りありえない。よってありえん。こ御所会議は薩長が完全に握っていたからな。
薩長の専横に反発する一部の連中がいただけ。メンツ見てみろよ。
>逆に薩長側を追い詰めていたってのが近年の研究で明らかにされている。
そんな事実は存在しません。長州シンパの有栖川が総裁になった時点で徳川家は相手にされていません。 >>643
実際は当初切り捨てる予定の大島以外長州には攻め込めなかった。
長州から逆激をくらって大敗した。
芸州口だけは浅野家との関係上進軍をやめただけ。
尾張藩は親幕府の人間を処刑して忠誠を誓い、東海道の諸藩にも圧力をかけて素通りである。
薩長は幕府がどんなに抵抗しようとあっさり倒しただろうね。
彰義隊と同じで一日で倒される。 小御所会議は強硬論が押してたけど、徐々に妥協した
新政府内で強硬論への反発が増えてきて、孤立しかねなかったから
大久保もいったんは、慶喜の議定任命に同意した
鳥羽伏見まではね
慶喜自身、幕府軍の限界は知っていたでしょう
それでも牽制には使える、って考えだったんじゃないか
戦闘に積極的だったのは会津桑名
この2藩が暴走したら、収まるものも収まらなくなるので、抑えようとしてたけど、駄目だったと 鳥羽伏見開戦までは、武装解除に応じなくても、交渉は続けていられた
抜いちゃいけない刀だと、分かってたのは慶喜だけだった
何より勤皇の人だしね ちょっと訂正
辞官納地は、慶喜は応じてたけど周りが反発したからね
その周りを静めるために、新政府との交渉が続いた
落とし所を探ると言うか >>656
だな
結局幕府に人材がいなかったのが全て
江戸退去後も慶喜と三舟他数人だけで戦後処理したわけだし 幕府に入った将軍はしばらく慣らし運転したあとで、人事を入れ替えて自分の体制を作っていく
しかし慶喜が江戸に戻れないんだから
おまけに慶喜の腹心の原まで幕臣に殺されてるんだからどうしようもないわ。
>>652
幕長戦争の失敗は長州要因以上に幕府要因のほうがでかい失敗。長州要因は関門海峡封鎖くらい。
緒戦から本荘宗秀の勝手な和平工作で茂承が辞任騒動起こしたり、
小倉口で幕府海軍が艦船の損傷を惜しんで動かなかったりぜんぜん統制が取れず慶喜が出馬しようとしたときにはもう解兵
鳥羽伏見も慶喜の上洛工作を楽観視すぎて、部下がろくな包囲戦略も立てず両街道から押し出してしまったんだろ
この段階で慶喜ブレーンが形成されて幕軍を抑えてたら上意を徹底できたのに 水戸藩士に殺されたのは旗本の平岡で
水戸藩士の原は幕臣に殺された 慶喜の評伝いくつか読んだけど、臨機応変って評価されにくいのかね >>662
白虎隊()や特攻隊()が評価される国なので
この国に君子豹変すという言葉はない 日本人の好む美学からはもっともかけ離れた人物だろうな
だからといって中国人や朝鮮人たちから評価されたとしてもそれがなんだって気もするが 知り合いのおじいちゃんが慶喜は護身の為に懐に手裏剣を忍ばせてたって聞いたけど、本当かなぁ? 背負う物が大きいほど、また増えるほど悩むわな
後世の人間としては、簡単に慶喜を優柔不断だのと言えないなあ 遠い先祖さんが慶喜に近い人だったんだけど、「慶喜さんは可哀想だった」って代々言われ続けてる
優しい人だったんだと 幕末当時を生きた人間が、慶喜を理解できないor立場上認めたくないってのは、まあ仕方ないけど
没後100年経っても、まだまだ冷静に見られないんだね
後世の人間のメリットは、多面的に歴史を振り返ることができる点だと思うけど 後世の人間がやったことは会津観光史学を捏造したことだけ >>666
それは言える
結構好きだよ慶喜さん
保身に走ろうがどちらかが引いてくれないと日本の夜明けは来なかった
徳川が引いてくれて良かったよ 別に難しいことはない。
インテリのエリートは、普段は勇ましいが、いざとなると暴力に弱い。
それだけのこと。 蛤御門のときは勇ましかったんだがな
鳥羽伏見のときは頼みの薩摩まで敵に回して、もう潮時だと思ったんだろう 慶喜が薩摩をうらむ気持ちがわからんでもないが、それも自業自得な面がある この人については、有力なスポンサーと対峙して最後に見放された英雄と位置づけるのが適当だな
薩摩さんは先代から目をかけてやったのに慶喜に裏切られたから、じゃあ俺たち主体で幕府ごと倒してやるぜって流れだろう 徳川埋蔵金・・・
ないとしか言えない=誰もが見つける事が出来ない=誰もがゴール出来ない
頭のおかしそうな奴や、デブ等の社会で虐げられている奴らが、自分こそは一番なんて気持ちになれる埋蔵金。 最初の孫徳川(溝口)須美子
最後の孫徳川(井手)久美子
その差34歳 家康が15代将軍だったらどうやって薩長を押さえ込んだであろうか?
どうやって幕威をもりかえしたであろうか? 終わりかけの組織だし、家康であろうが信長であろうが盛り返すのは無理でしょ
圧倒的な大軍で長州へ攻めるが、家来の旗本が戦が恐く隠居しまくり大敗
アウェーでは負けたが、今度は京大阪のホームで3倍もの軍勢で攻めるがまた敗退
江戸で巻き返そうとして数人で江戸へ逃げたら、家来まで後で逃げ帰ってきた
江戸初期の家来なら、関ヶ原伏見城攻防の際の鳥居みたいに、討ち死に覚悟で篭城していたのに
こんな家来どもでは誰が将軍でも勝てん
家康が幕末にいたら、将軍などにはならず密かに薩長と手を組み
自分だけ明治維新では有力どころになった気がする
慶喜という人物は石田三成に似た立場に思え、共に優秀なのだが秀才タイプで
勢いに乗ってる組織、また平穏な時代においては優秀さを発揮できるが
乱世の逆風の組織において色々最善の手を打つが、打つ手打つ手が敵側の勢いにひっくり返されてしまう
では慶喜や三成がいなかった方が良かったかというと
相手側からすると、もっと楽に天下取れてたと思う。例えば平家に対する源氏みたいに 信長だったら、早い段階で御所焼き討ち、薩長派公家皆殺しの上、明治天皇を拉致監禁くらいやりそうな気がするが。
そうすると薩長側に寝返ろうとしていた藩もビビって、戦局はなお流動的になるよね。 家康と本多正信がいれば薩長を分断し各個撃破することなど朝飯前。
でもその前に、古い幕府の官僚組織を破壊していたであろう。 慶喜は言うことがコロコロ変わるため、味方のはずの
一橋派の大名たちに、徐々に信用されなくなっていった。
これは慶喜にとって大きな痛手となった。
まあ、現代の20代の若者に比べたら数段ましかもしれないが。 >>683
実際には長年の支配で幕府側にはそういう人物が出なくなっていたのだろう
戦国三傑に相当する人物は薩長から出てきたということであろう >>681
なんか可哀相だな、溢れるような優秀さを持ってたのに
時代によって負け組になってしまうなんてさ、自分がその才気を持ってたらと思うと憤死しそうだ
酷い目にあった人が大量にいるとは分かってるけど。
慶喜さんのその後の人生が趣味三昧で楽しかったなら良かったねと思うわ .>>686
>自分がその才気を持ってたらと思うと憤死しそうだ
そういう自分を過大評価する人は
どんな時代でもうまくいくことはないと思われw 才子だったがそれだけだった。幕臣の家にでも産まれていれば、
明治政府初期の官僚として活躍したかもしれない。 鳥羽伏見の戦いに先頭に立って戦うと言って部下を騙し、自分たちだけ大阪城を抜け出して逃げていったのは命が惜しかったからとしか思えないな。
敵前逃亡罪で斬首されてもおかしくない行動だ。 保身に走ったことは確かだがその保身が内乱の泥沼化防いだ気もする >>690 内乱の泥沼化を防いだのは謹慎して何もしなかった慶喜でなくて、官軍との交渉を任された勝海舟だろ。 でもしゃしゃり出なかったのは、大きいだろ
慶喜がバカだったら、アホに担がれて出てたと思う、勝に任せたのは賢い
自分の保身を優先したけれど、大局を見切る力はあったんじゃね 【会社の即戦力の定義とは】
「社会の一員として人々の役に立つ価値を提供すること」
会社にとって喉から手が出る程欲しい人材とは、
この求められる価値を提供するために、解決すべき
課題を正しく共有し、一緒になって価値を生み出す
ことが出来る人材なのです。
ところがJALグランドサービスの即戦力って言っている奴らは自分の気の合う人には仲良くするけど
気に入らない人間には粘着してとことんまで罵倒したりパワハラしたり自分にはとことん甘いくせに人の揚げ足ばかり探して
仕事中も喋ってばかりで口元緩んでばかりじゃないか
瑞謔ノ暴言を吐けbホ自分が強いと試vわせることがbナきるなんて考bヲているみたいbセけどそれは違b、
それは弱い動物がキャンキャン吼えているのと同じことだよ
JALグランドサービスは仲良しクラブ会社 仕事中 趣味の話で盛り上がって手が止まってんだよw
たまには仕事まじめにやったらどうだね? JALグランドサービスは貧乏性でテーブル拭いて汚れたタオルを次の清掃場所
さらに次の清掃場所にもっていって汚れたタオルを使えっていってきた
タオルからはなんともいえない臭いが漂い色もケチャップやなんやらがこびりついていて汚かった
お客さまのためにを毎日言っている会社なのになにこれ? 矛盾してるよね?
青タオルはウンコがこびりついていて汚い それをキレイなタオルといいラバーのほかギャレー
床のゲロ掃除などさまざまなところで活用している
バケツにそのタオルを濡らすとき気持ちが悪い バケツもすごく汚いよね
バケツ洗っているところみたことがないし
JALはこんな会社です
白タオルは生乾きで蒸れた悪臭がしている それでお客様がつかうテーブルを拭いているんだから
あのテーブルは菌をひろげているようなもんだ 俺がJALグランドサービスで働いて10ヶ月ぐらいバイトで経った頃
課長が代わって千代っていう馬鹿課長になったんさ
前の課長はまだ部下 したの人間の言い分も聞いて器のでかさがあったけど
その後きた千代って言うのがとんでもなくアホ
俺が周りの係長とかに苛められているという事実も今まで周りから不愉快な言いがかりや
暴言などを耐えていたという状態も知らず俺を悪い奴と決め付け絶対俺をやめさせると
いい 毎日のように粘着し ついには俺を会社から追い出すという暴挙にでた
「お前みたいな使えない奴を長くいさせるよりかは訴えられて賠償金を払ったほうが安くすむ」という暴言も吐かれた
それから「俺は今まで自分が使えないと思った奴を辞めさせてきた」と俺に豪語したこともあった 車の中で機内のお菓子を食べたりしていたよ
あと係長が機内においてあった古新聞を一人で別の仕事をするとき車の中に持ちこんでいた
これ二つともやってはいけないこと
飛行機の中の物は外に勝手に持ち出したらいけないのにもしかして係長になったら許されるとおもってんのかな?
フィロソフィとかつくってもなにも役に立たないね
こんなことばかりやってるからJALグランドサービスは屑会社とか馬鹿会社とか言われるんだよなw 中国系列の飛行機を掃除していたとき 班長 その他数名が仕事中喋ったりふざけて遊んでいました
私はラバー(トイレ)を夢中で掃除をしていていました
そのときトントン トンと私の肩を叩く人がいたので振り向いてみるとその飛行機のクルーの一人が
目を吊り上げて私の前に立っていました
そして私に「あの人たち 口を動かしてばかりで仕事しない 注意してきてくれ」と私にいいました
私は急いで係長にそのことを報告しにいきました 班長はその横で口を緩ませてヘラヘラしているだけでした
他社からあいつら喋ってばかりで仕事をしないといわれても恥じもなく 適当な仕事を他社に見られても平気な
JALグランドサービス
このことでその飛行機会社からは信用を失い二度とJAL系列に仕事を任せないと
決断してくれることを切に願うばかりである JALグランドサービスはパートやアルバイト、契約社員に対し若い正社員ですら横柄かつ高圧的な言動(恫喝行為など)を取ることが常態化されていて
それを正せる上司が一人もいないというのが特徴の会社 JAL客室ではゆすりたかりが毎日普通に行われている!缶コーヒーをある一般職に班長係長課長までが当たり前のようにたかっている!全く腐りきった会社だよ!!何がコンプライアンス教育だ(笑)先ずたかっているおまえらが襟を正せよ。 人が見えにくい場所で係長がとある気弱な社員のわき腹を殴ったり
蹴っ飛ばしたり頭を殴ったりしていた
あれをパワハラといわずになんていうのか?
こんな屑なことばかりやっている悪質な会社JALの傘のなかでふんぞり返っているのだから
JALそのものがたいしたことがないといえるだろう
班長 係長 課長とも人間としての品格を疑うことがおおい
常軌を逸した行動を認知していながらそれを容認しているJALグランドサービス
フィロソフィなどただ毎日口にだして読んでればそれで満たされる
ただそれだけのもの どんなりっぱな言葉を並べたとこでそれを毎日読んでる人間が
バカじゃ意味がない 陵辱 ひとの足をひっぱったり人を不幸にしている
JALグランドサービスが物心両面の幸せだと? 笑わせるなw クズ会社がw 慶喜の妾が産んだ子は商人に里子に出されて初めて親父に会った時には「チャン!」と呼んだそうだな。 天皇が江戸城に入ったまま居座っちゃたじゃん。
あれなんでだろうね?
江戸城には幕府の金があった。つまり国家予算。
空っぽだったと言ってるけど信じられないな。
小栗が持ち出したとか言ったりもするけど、普通は国家予算を空にはしない。
江戸城にそれがあったから天皇は居座ったんじゃないの?
そしてそれを一部の者たちの既得権益にしたんちゃうの?
金儲けのため財閥の資金にしたり、一介の浪士が貴族として振舞うためにも金はいるもんな。 幕末になるともう水戸、尾張、紀州の徳川家といっても他人みたいなことになっているな。
そりゃ250年前の先祖が同じなどといっても親近感はないだろう。 お互いにあそこはイトコのイトコのイトコという間柄だ、という関係だろう。 徳川慶喜は徳川将軍の中で唯一、皇族直系の血縁者なんだよね。
新田の血を引く徳川家というのはフィクションらしいし。 慶喜は凡庸にはとても理解され難いくらい開明すぎたのが分かった
これは負けると分かっていて戦わざるを得なかった日米戦争と対比して分かることで
負けると分かっていても、敵の要求がそもそも理不尽であるから強行派や世論を
黙らせて負けることは到底できない
ならば戦って誰の目にも勝てないことを知らしめなければならない
で、大阪城夜逃げである 将軍があれじゃあと誰もが思わせ綺麗に負けてみせた
慶喜の開明な評判と腰抜け振りのギャップがこれで理解できる
日米戦争では最後の最後まで負けを認めえなかった軍上層部は最悪だった
早めに負けて次の手を考える狡猾さが皆無で義を命より優先し誉れに酔う
幕末の白虎隊彰義隊をやってしまった 軍部が東北出身てのは巡り合わせかw
聖断を仰がれて敗戦受諾を決めた昭和天皇が英明であったのは言うまでもない
幕末に勝海舟や小栗上野介など能力重視での重用など極めて柔軟だったことを考えると
幕府ダメ伝説は新政府プロパガンダとしか思えない
薩英戦争下関戦争で攘夷なんか無理なのを最もよく知っている薩長が尊王攘夷を掲げての
進軍で維新政府樹立、一転しての開国富国強兵は
要するに慶喜幕府のやっていたことと方向性はまったく同じだったwww >>712
幕府という組織では明治維新はむりだよ。あそこまで追い込まれたから日本は変われたから 西郷が安政期から胃腸病に苦しみ、大久保も明治期に入って体調壊してたり、
久光も慶応2年くらいでダウンし始めたのを考えたら
慶応年間に少量のアヘン処方くらいで済んで、晩年まで矍鑠としてた慶喜はまず健康面から最有力候補なんだよな
条約の勅許獲得と開港のつつがない履行までやったのは慶喜の信頼度と剛腕あってこそだから認めないわけにいかない
大政奉還と鳥羽伏見の損切りが注目されてるけど、条約の勅許と履行を予定通りやらなかったら日本はやばかった
ただし、正直、部下にはなりたくない… 慶喜が学んでいた水戸学というのが
明の遺臣を受け入れて発展した学問だというのが大きい
明がなぜ滅んだのかを徹底的に研究している
李自成の乱によって内戦になった隙を突かれて
結局異民族の後金に滅亡させられた明
李自成が薩長、後金が欧米列強 大河ドラマのオープニングと最終回みたらスルメ感有りまくりだったなぁ。
オープニングでトリビアで取り上げられたエジプトの写真があったのは驚いた。 慶喜って素直に薩摩と手を携えてやっていく選択肢はなかったのかな >>721
薩長が討幕オンリーだったから選択の余地なし >>722
会津も討薩オンリーだったから選択の余地なし >>722
薩長が幕府方に付くIFは、慶喜が14代になっているか、
島津斉彬が死なないで東征に成功して井伊直弼を失脚させているか
どっちかの所まで遡らないと無理じゃないの >>722
薩摩は倒幕オンリーじゃないだろ
むしろ慶喜が久光を罵倒したり露骨に敵意を示してんのに
なぜ離反されたのか理解してないのが不思議 実際には維新後も無事だったから問題なかったが、
もし本当にヤバくなっていたら、ナポレオン三世を頼ってフランスに亡命、パリのマドモワゼル(複数)に
沢山子供を産ませていた可能性も否定できない。
グラン・デューシュ・ヨッシー・ドゥ・トクガーヴァ なんちゃって・・・ 明治維新は慶喜と有栖川宮熾仁の共同作業という見方も出来る。
東北戦争は想定外であったが、鳥羽伏見戦〜江戸開城は最小限度の死傷者で済んだ「無血革命」だった。
これは稀有な出来事である。 薩摩の実際は討幕に舵切ったのでなく討慶喜なんだよな
斉彬の志継いで慶喜推して国政運営することが日本のためと信じてたのに
いざ権力手にしたら薩摩や外様雄藩、仕舞には春嶽までをパージすることだけに必死になって政局ふりまわして停滞さした
それでも我慢して慶喜推し続けてきたが結局慶喜の意志が前時代的な幕権強化にあるがために見限る
このときほぼひとりで政局ふりまわしてその噂通りの有り余る才能と政治力を見せつけ辛酸なめさせられたことが
慶喜を排除しないともうダメだにつながり討幕へと転換させる
大政奉還〜小御所会議であれだけかたくなに徳川排除&権力の完全剥奪主張してそこからブレることなかったのはすべてこのときからのおもい >>729
外様をパージというこの主張は別のスレでも見たような…
十三代将軍では早すぎるし、十四代では遅いとかそんな内容の…
>このときほぼひとりで政局ふりまわしてその噂通りの有り余る才能と政治力を見せつけ辛酸なめさせられた
慶喜に否定的な人は才能や政治力も否定的に見る傾向があるけど
この辺りについて詳しく語ってもらえると勉強になりそう >>730
ごくごく単純な話だよ
ひとりで政局ふりまわして外様雄藩には決して主導権握らせずコントロールしたのはその高い政治力によるところだ
ただそれによって政治停滞させたのは政治手腕という面で評価されてしまうだろう
つまり要約すると、高い政治力持ちながらそれをまっとうな使い方しなかった
何故なのか?
もともと慶喜は性格がイイ方ではない
ものすごい皮肉屋で、毒舌で素直さというものがまったくといっていいほど足りない
物事をまっすぐ捉えずいつも斜めから受け止めそれを見て判断しているような感じ
単純にいうなら性格がねじ曲がっていると言えよう
相当周りからはとっつきにくい人だと思われてたと思うよ
リアルでもこういう人いるじゃん
とっつきにくく、扱いにくく、ちょっと距離詰めたくない腫物的な存在の人
たぶん慶喜はそんな人だったんじゃないかと俺は慶喜を詰めて調べていくとそう思うのだ
昔はこういう人リアルでみると「しょーもない人」と一概に思っていたが
ただ最近思うのが、実はこういう人って天才肌なんじゃないか?って
他人に見えない独特で独自のヴィジョンがあり、そしてそれをうまく判りやすく伝える能力に乏しい人
後見職のときの慶喜のやり方はまさに薩摩のやり方でも朝廷のやり方でも、まして幕府のやり方でも当てはまらない独善的なものだったからこそあのようなやり口になったのではないかと
だから幕府の権力が京都と江戸で何故二分してしまったのかもこうすると合点もいく
薩摩にも朝廷にも幕府にも他の雄藩にもみえてない独自のヴィジョンが慶喜には見えていて
自分のヴィジョンに全体を包括していこうという過程がこれだったのではとは考えられないだろうか?と最近は考えるようになった
なのでそれを単に愚将として処理してしまうのはこの人の場合あまりにも早計ではないかなと個人的に思う
俺の理論でいくと慶喜は天才
もしくはアスペルガー
天才(アスペ)ゆえに孤独で理解者がいない
伝えても理解できるものがいない
慶喜は周りがきっとみんなアホにみえたに違いない
周囲全員が慶喜だったらきっと理想とするものを築きあげれたとおもうぞ >>731
早速返信してくれてありがとう
慶喜関連の書物を読んでもなかなか掴みがたいところがあったので
レスを読んでスッと腹に落ちるものがあった
とかく「敵前逃亡のヘタレ」みたいに単純化かつ無能に論じられる傾向の強い人物なだけに
こういう視点で語ってもらえるのは人物把握の参考になって助かるし、とても勉強になる >>732
慶喜の性格と水戸の出自を知れば絶対に天皇には逆らわないし逆らえないのだよ
だからあのような敵前逃亡からの謹慎となる
慶喜という人間性を加味してはじめてその行動原理が判ること
ただこれを客観的な目と一般的な見地で判断すればただのヘタレであるという評価にはなってしまうのが当たり前 バックボーンを考慮せずに行動だけを見たら、言ってることが二転三転して
信用が置けない人物に写るものね
慶喜の性格を参預会議での暴論や第二次長州征伐の処理、鳥羽伏見後の東帰から想像すると
目的達成のためには他人からどう思われても構わないという考えなのかもしれんね 朝廷の命令無視して軍事行動起こせば戦争になるのは分かってたろうし
勝てる自信があったが負けたんで見切りしたんだろうね
まだ関東で戦えたと言っても最終的に敗北すると思ったんだろな
徳川宗家は滅亡だろうからな
結局徹底抗戦した会津や榎本艦隊も負けたからね 平時であれば優秀な人だったんだと思う。
しかし、戦になれば人がついてこないと指揮官としては戦えない。
自分を慕い頼ってきた水戸天狗党を、見殺しような形で切り捨てたのがすべてを象徴していると思います。
幕閣として治安を預かる立場にあったから仕方なかったのかもしれないが、
所詮は育ちのいい殿様、と部下からは見放されてしまうでしょう。
「この人は命を預けるに値しない」と。 天狗党の場合は自分たちで蒔いた種としか…
滅茶苦茶やってきた連中に情けをかけようものなら
情実の処分、身内に甘いと揶揄されるのが目に見えてる
いくら慶喜が心情的に助けてあげたくても、あなたが書いてる通り立場上無理でしょう
これをもって慶喜を恨むのは少々理不尽に思える 自分は天狗党の一件は慶喜のコミュニケーション下手が悪い方に転んだなと思う
個人のスキルというより慶喜の意を下々に伝えて制止できる側近チームを作れなかったから
慶喜が本気で攘夷をやりたがってると思い込んだ連中が暴走したんだろうなと
水戸や一橋だと参勤交代が無くて遠隔地との意思疎通ノウハウが蓄積されてないってのもある >慶喜が本気で攘夷をやりたがってると思い込んだ連中が暴走した
平岡円四郎の死もそういう面があるよね 側近が次々殺されちゃったのはつらいよな
まあちゃんと伝えてない以上、勝手に誤解したから自業自得だとも言えない悲劇だけど
慶喜が鳥羽伏見のちょっと前に、こっちには西郷や大久保がいないから勝てんと言い放った話は
それ言っちゃ終わりだろとは思うが、側近にカリスマと火消し役が欲しかった気持ちは分かる 側近を殺害したのが水戸藩士や幕臣なのも物悲しいね
父親が幕府首脳部や大奥から煙たがられ、
自身は一橋家当主という股肱の臣を持てない立場のスタートライン
色々と制限されながらの活動だったしね 慶喜が好きな人はどこが好きなの?
身分が高いから?
大河ドラマでモックンが演ったから?
写真がそこそこイケてるから?
恋愛ゲームで人気だったから?
敗軍の将を好きと言うとインテリっぽく見えるから?
禁門の変で最前線で戦ったのが格好いいから?
頭よくてオタクだから? >>742
あがく所ではしっかりあがき、負ける所では綺麗さっぱり負けるところかな
現代でも自分の思い通りにならずに悩み苦しむ事もあろうかと思うけど
そんなときに想いを馳せる
>>743
静岡に生まれ、晩年に茨城在住なのは先祖を偲ばせます
合掌 ガキん頃のエピソードが全て
子供が寝ている両脇に刃物なんて於いてもこんなの「長続きしないよねw」という思考がね 実際、兵隊からしてみれば、負けるとわかっても最後まで戦う指導者より、
勝ち目がないと判断したらサッサと降伏する方がいい指導者だもんね >>746
その意味では、慶喜が最後の将軍に就いていて恭順謹慎を貫いてくれたのは有難い 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
FH8IM 慶喜=東帰の印象が強すぎるが、ここを敵前逃亡のヘタレと断じるか否か
まるでリトマス試験紙のように相手の価値観を測れる 天狗党の件は慶喜が横浜鎖港を言い出したから水戸の連中がそのまま本気にした面がある。 気持ちはわからなくもないが、庶民に狼藉をはたらいていい訳じゃないしなあ その判断を慶喜にしてもらおうということで上洛したわけだし。 慶喜自身、当時は幕府に天狗党の黒幕ではないか、と睨まれており、
助けたら幕府の睨み通りになり失脚は免れない。
天狗党を田沼に引き渡すことで見捨てた、という非難は受けても失脚は免れることができた。 「見捨てた」「豹変した」「逃げた」という当時および後世の評価を甘んじて受ける覚悟で動いてるイメージがある 幕府からすれば天狗を慶喜が助ければ失脚させられるし、
見捨てれば慶喜の評判は落ちるし、どう転んでも幕府には好都合な案件だった。 斉昭からの流れで、幕閣にも大奥にも慶喜に否定的な流れのようなものを感じるが
その中でも15代将軍に推した時点で、幕府の末期感が凄まじいと思う 慶応4年、2月11日、将軍徳川慶喜の使者が輪王寺宮を訪ね、東征大総督熾仁(たるひと)親王に慶喜の助命嘆願を
してくれるよう依頼した。宮は国事に疎く、人との交渉の経験もないことから一度は断った。
しかし、翌日、慶喜は輪王寺宮を訪ね、正式に上洛を依頼した。輪王寺執当覚王院義観は宮に代わって次のように答えた
輪王寺宮の父禅楽親王(邦家親王)は今や年老いている。もし、いったん宮が上洛すれば、江戸へ帰ることは容易ではないかも
しれない。そうなれば江戸の人心は動揺する。やはり、名代を立てたほうがよろしかろう。と。
輪王寺宮が江戸に帰ってこなければ江戸の人心が「動揺」するとは、すなはち輪王寺宮の江戸での人気があったということ、
少なくともよく知られた存在であったことを示している。 慶喜はなおも13日に義観に輪王寺宮の上洛を繰り返し要請し、翌14日には同じ趣旨の書簡を宮に送った。
15日には山岡鉄舟他の幕閣たちも連署で義観に書簡を送った。
ここまで執拗に依頼するのは徳川幕府にとって輪王寺宮が最後の切り札だったということだろう。
いまや徳川慶喜が頼れるのは上野の宮様しかいなかったのである。 今三国志に夢中なんだけど、徳川家と三国志好きな人いない?
https://goo.gl/pDyo12 禁裏御守衛総督も務めたバリバリの尊皇家ですよ。
この方は。
たとえ鳥羽伏見の戦いが起こらなかったとしても、朝廷を掌握できなった
以上、以後の徳川家は朝廷の命を拒むことはできなかったでしょう。 攘夷期限問題や兵庫開港勅許問題を見ると、尊皇でありつつ上手に渡っていける気がしないでもない 無理でしょ
身分をかさに口先で言いくるめればいいと思ってる時点でいずれは崩壊する >>765
>身分をかさに口先で言いくるめればいいと思ってる
こんな事あったっけ >>764
「慶喜」なら上手くやれるだろうけど、「徳川」は無理ぽ 慶喜はちょんしゅうを操っている英国や米国と戦っていたんだろ 知らんけど荒らしが暴れまくって規制でも入ってるんじゃないの
慶喜スレでは暴れてくれるなよ いや暴れるよ
慶喜公の英断がなければ函館戦争で済まずに幕府側はフランスの代理戦争みたいな事して日本はあろか有色人種全体が白人配下になったのは明白だからな いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
JAR 正月に司馬遼太郎の最後の将軍徳川慶喜の朗読をやっていたのが興味深かった
ほぼ生まれながらの君主ゆえに家臣の身を思いやることがほとんどないサイコパスとして描かれていた 部屋住みの身分を産まれながらの君主とするのはどうかと 今北産業。 んで、ロングパス。
>>731>>729
上手いこと言うねえ。 俺もストンと腑に落ちたよ。 納得。
俺はアンチ薩長史観ではないが、維新史は良くも悪くも慶喜がプリマドンナではないかと考えている。
「もしも明治維新が無かったら」と想像することがあるのも慶喜が英明であったことに関係する。
そして薩摩が倒幕に舵を切ったのも慶喜の性格・行動に起因する。 維新史が慶喜のマッチポンプであることが
良く解るレスである。
また、薩摩藩の態度が討幕ではなく討慶喜という視点は
昨晩の「にっぽん歴史鑑定」を観て良く理解できた。
従来 慶喜はなんだかんだ言っても、徳川宗家をソフトランディングさせた人物と俺は考えていたんだが、
最近は逆ではないかと思うようになってきた。家茂の代わりに慶喜が死んでくれていたら、
グダグダの幕府と西南諸藩の連合政府が出来たのかもしれない。
まあ、その場合は日本の近代化は恐ろしく遅れていたことだけは確かなので日本にとっていいか悪いかは別だけどね。
そういう意味で慶喜の英明さとワンマン主義が西郷らの討慶喜を決意させ、明治維新を早めたことは間違いないね。 >>778
久々にスレが上がってるとおもってのぞいたら
1年前に俺が書き込んだものに今頃レスがついて上がってたとはw
>>729と
>>731を書き込んだ者だが
幕末の混乱はふたりの人物にすべて集約されるといっても過言ではないとおもうぞ
孝明天皇と徳川慶喜だ
まがりなりにもこの同時代にこのふたりが存在してしまったというのがそもそもの不幸
天皇でありながら佐幕攘夷という特異な思想をもってることで政局は奇妙なねじれが生じ混乱
そこに輪をかけて徳川方なのに大の尊王家の慶喜が有り余るその才能で政局を振り回す
慶喜を頭に据えて日本を変えるならもっと時期が早いときに将軍なならなきゃならない
たとえ家定の代わりに13代になれてたとしても13代の時期では遅すぎる
13代以降はもう誰が将軍になっても結果は同じ
せめて12代目の家慶のときになれてたらな
それがギリだわ
一番いいタイミングは家斉の代わりに慶喜がなってたらもうそれば幕府として最高の成果が出たとおもう
元禄以来の再びの中興を幕府は迎えれたかもしれない
ま、とにかく慶喜は生まれてくるときが遅すぎたってことだわ 慶喜が早い時期に将軍になれたとしても、父斉昭が何かしら悪影響を引き起こして幕閣と悶着ありそう 家斉の中身が慶喜だったとしても、やっぱろ幕府は史実と変わらん終末を迎えただろう。
ペリーが来てもいないのに開国するわけはないし、西洋式の幕府陸海軍を作ることもない。
慶喜は幕末に生まれたからこそ「慶喜」をやりきったと思うね。 終生政治家として活躍する慶喜の姿を見たかった
でも趣味人として生きた姿も、あれはあれで良かったのかもしれない >>781
開国はせんでも武装中立が保てた
徳川泰平の眠りとは治世250年のことを指すのでなく
家斉時代の50年を指すことをお忘れなく
家斉以前は鎖国体制ながらも海外事情はきっちり研究されてきた
幕府が完全に鎖国で寝たのは家斉時代の50年である
運が悪かったのがこの50年の間にヨーロッパが大きく変革し
産業革命と帝国主義による植民地獲得競争が激化し
イギリスがヴィクトリア王朝最盛期をむかえ海洋覇権国家として絶対的地位を得て
おまけに列強国家まきこんでロシアとのグレートゲームおっぱじめたときでもある
こんなときに日本は海外のインフォメーションすら閉ざしたうえに情報の精査すらしなくなった
慶喜ならまずこんなことはなり得ない
徳川体制のまま外国への対抗措置がとれたボーダーラインがここである 慶喜をスーパーマン化しすぎだと指摘している。 慶応の軍制改革のような様式軍隊を持たずして
武装中立という状況が俺の頭ではさっぱり想像できないので、783には答えず持論の補足をする。
オランダ風説書(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8
1837年に将軍職を譲り41年に死去した家斉(中身は慶喜)がいくら好奇心旺盛と言っても、
オランダ商館長の訊き語りであるオランダ風説書でどこまで驚異的なmv revoilutionを成し得たかははなはだ疑問である。
アヘン戦争(1840年) 適塾開塾(1838)などの危機的事件 洋学研究の環境整備がないもとで
情報を得ようとする動機が沸かない時代(あるいは環境)に将軍を」やったところで
慶喜が「慶喜」を演じることはない。
このことがよくわかったのが>>729>>731である。慶喜はあの日あの時に存在したから維新史のプリマドンナになれたのだ。
生まれが早かったり遅かったりしたわけではない。 これは織田信長と平賀源内にも言える。 幕末史を知れば知るほど興味深い人物なのに、世間での評価が低すぎて泣ける >>784
開国しないと近代兵器やドクトリンが国内にはいってこないとでもおもいこんでるだろw
つか本気でオランダと中国としか交易できないとでもおもいこんでる?
あと水戸学は海外研究に一番長けていた学問であるということ
攘夷思想の根幹とかいわれるがむしろ逆
水戸学下にいたら海外と戦って勝てないの誰よりも知ってる
家斉以前より日本は地政学も理解した学者がいた
ロシアの向こう、バルカン情勢が日本に影響することをすでに日本は理解していたのよ ぼくがかんがえたIFれきしをしんじないひとはバカ
と言いたいのだな。 >>787
それは君の誇大&被害妄想
外様の政治介入なによりも嫌って政局振り回し続けた慶喜だ
その高い政治力をそんなことに費やさずまっとうな使い方できた時代がここだといっとるのだよ
外様の介入もまだなく
幕府権威もまだそれなり保たれてた時期だからこそ慶喜が慶喜としてのヴィジョンを具現化するに一番適してる時期だと述べただけ >>788
>外様の政治介入なによりも嫌って政局振り回し続けた
ここを妥協できていたらどうなっていただろうか >>788
>それは君の誇大&被害妄想
これは君の慶喜評のことだな。なぜ俺に向けるられるのかさっぱりわからんのだが、
慶喜が家斉時代に生まれていても、慶喜に「慶喜ウィジョン」とやらが生まれ出る
時代環境がそもそも存在しない、
という指摘をしただけ。
慶喜に「慶喜ウィジョン」を発送できたのは1837年に生まれたからであって
1772年に生まれて1841年に亡くなっていたら、そういう発想は生まれ出なかっただろうよ、
というお話。
>>729>>731を読んで確信が持てた。 >>790
横浜鎖港、兵庫開港にてなにごとも問題なく処理解決
朝廷も信頼おいてる慶喜の意向に耳傾け、それをよくきいたとおもう
ただ政体は雄藩連合の合議による国政運営になるために廃藩置県は必然と遅れる
遅れればロシアにのみこまれて終わる >>791
時代環境が存在しないとは具体的になんのことなのか?
前のレスのアヘン戦争と適塾のことなのか?
それに対しては答えてるが理解はできないかな?
洋学の研究は水戸学にて常にされてる事実
家斉時代以前は海外からのインフォメーションはちゃんと精査され研究されてた事実
前後の露土戦争もちゃんと国内で研究されて文献のこってるじゃないか
当時から日本の最大の脅威はロシアなのだわ
しかもこの時期に頻繁にロシアが日本にきてる
水戸に生まれ、水戸学たたきこまれた慶喜がこのへんのことアヘン戦争と適塾がなきゃ環境が整ってないなどまったくもってナンセンスだとおもうが
露土戦争と水戸学で環境は整ってますよ その程度の返ししかもはやないということは
この件に関して議論終了でよろしいということだな 「もしも慶喜が60年早く生まれてたら」という君の歴史IFのお題の答えが
「(幕末の日本は武装中立が保てた 」はず、
ちゅう推測が君の見立てであるわな。
まあ、いろいろとその見立てがいかに正しいかということを縷々力説しているが、
ようするに「慶喜はすごーくすごーく賢いんだもん」をその理由の第一としている。
ふむふむ。ゆっくり考えておきます。
) >>792
開港鎖港問題や条約問題を問題なく処理できるのであれば
ロシアとのその後も外交手腕を駆使して穏便に済ませられないかね >>797
条約問題もとは俺は言ってないけどね
少なくとも横浜鎖港、兵庫開港に関しては国内の方針は統一でき解決できた
条約問題はどうやっても日本が近代憲法もたなきゃ抜本的な改善は無理
ロシアがバルカンに問題かかえてるときならそれなりの強気な対応もして通る可能性もあるがそれも限度があるし、バルカン問題が落ち着けば極東に必ず切っ先が向くのは明白
強気な態度にでればロシアにとってバルカンの次の案件事案であるということにでもされたら困るのは日本
ロシアが隣国で南下政策を国是としてる以上帝国憲法もっても不戦同盟条約など夢物語かと 平岡円四郎とか原市之進が生きてたらまた歴史違ってたんだろか >>799
まずは慶喜を取り巻く環境を、彼らが逆恨みされないようなものにしないと厳しいんだよなあ 慶喜は大逆事件に大きな関心を寄せていた。
天皇制が将来危殆に瀕する時が来るのではないかと考えたらしい
まあ、自分が体制崩壊時の当事者だったからね 家茂病没後に薩摩藩は家達を次期将軍に推す動きもあったようだが、
もし実現していたらいろいろ面白かった 可能性はあまりないけど 幕府方にだって、山岡鉄舟みたいな人望厚い偉丈夫がいたのに、
結局負けてから、それも使いッ走りとしてやっと出てくるわけでしょ。
明らかな持ち腐れ。
慶喜自身は優秀な人物だったかもしれないが、
人材を引き上げる能力、あるいはシステムがないんだから、
そりゃ幕府は滅びますよ。 最初の慶喜側近暗殺事件の後に有効な再発防止策が打ててないのは痛いな
山岡は虎尾の会なんて過激グループに加わってたから抜擢されなくても当然だが でも最後はその「過激グループ山岡」に命乞いしてもらって助かったわけだから。
そうするなら、もっと早くからちゃんと処遇しておけばよかったでしょう。 虎尾の会の連中が全員いないかヒュースケン暗殺前に死んでたら
そもそも幕末はもっと平和で鳥羽伏見の戦いもなかったかもしれないからな
こいつらただのマッチポンプw 過激派がいなければ、国際情勢とは関係なく日本は平和だっと考えるわけか。
やんぬるかな。 基本的に幕末維新期が好きで詳しいとか言ってる奴
国内の流れ把握してるだけでああだこうだ言ってる奴がホント大杉
世界史までちゃんとわかってる奴少ない
幕末維新語るなら最低でもヨーロッパ近代史はおさえてる奴じゃないと話にならん なるほど。 まず、お前が率先してヨーロッパ史を学んでから書き込むべきだな なんか図星つかれちゃった奴がおかしなこと言い出してますがw うむ。今後のID:sG85aK2u0のヨーロッパ史の知識に皆が期待 まあ慶喜スレだけに関わらず、幕末スレ全体に言える事ではあるか
慶喜関連ではヨーロッパ近代史をどのように把握していないとならないのか
具体例が欲しいなあ 将軍継嗣問題、攘夷実行における朝廷との交渉、横浜鎖港問題、兵庫開港問題、ふたつの長州征伐、フランスとの蜜月と幕府の近代化、大政奉還後の海外交渉と新国家構想…
そんなもの挙げればきりがなく出てくる
ほぼ何事においても関係してるといって過言ではない
そもそも慶喜関連でと括ってしまうことがナンセンス
幕末維新の混乱は外圧がおしよせてきたことに端を発するのに人によってどうかなんて意味はない
今まで世界とほぼつながりをもたなかった日本が外国がやってきたことで世界に組み込まれる
近代日本の始まりはここにあり
何故このときにグローバル化がこんなにも盛んになったのか知るには当時の世界を形成してたヨーロッパ5大国を知らずして判るわけがない
5大国の理論だけで世界が形成されてた時代に国内だけみてたところでなんにもならん
何故日本が世界にふりまわされたのか
ふりまわされねばならなかったのか
ヨーロッパ近代史知らずして判るわけがない >>814
たとえば将軍継嗣問題は近代ヨーロッパ史押さえてたら解釈変わってくもんなの? >>815
解釈が変わるのかとかいう発想がそもそもアレだよな
君が >>815
ミスって途中で書き込んでしまったわ
ヨーロッパ近代史おさえてたら解釈変わるのか云々いうとこが君が日本近代史が世界史の連動の外にいると思い込んでる証拠だよな
この当時の国内のことを切り離してなきゃそういう発想はないもの
教科書の文字程度の認識と知識で将軍継嗣問題を知ってるにすぎないということでしょ
ヨーロッパ近代史を知って今までの解釈が劇的に覆ると勘違いしてる時点でアレですわ
さっきのレスにそのある程度具体的な内容は書いたんだけど理解できないかな?
じゃあ逆にこっちから訊くけど
なんでそれなら将軍継嗣問題が起きたとおもってんの? >>817
>ヨーロッパ近代史を知って今までの解釈が劇的に覆ると勘違いしてる時点でアレですわ
覆らないってこと? >>818
将軍継嗣問題がヨーロッパ近代史おさえてたらどう覆るとでもおもってんの?
知ってたら覆る覆らないでなく連動性の重要性を俺は言ってんだよ
連動性の中に深くヨーロッパ近代史が関係してると言ってるのだ
お判りか?
こういうので覆るとかいう発想すること自体が歴史を理解してないし、関連性も把握してない奴
もはやオカルトレベルの発想だからなこれで覆るとかw
陰謀論やら都市伝説じゃないんだぜw
ふたつ君訊きたいわ
さっきの質問
君は将軍継嗣問題は何故起きたとおもってるのか?
これと
そしてもうひとつ
ヨーロッパ近代史知ってたらこの将軍継嗣問題がどのように覆るのかとどう予想してたのか知りたいわww >>819
いや俺も連動性の重要性は大事だなと思ってたからなんならあんたと同意見だよw
でも覆りはしないんならまぁ優先順位としては後回しでいいかなって思った >>820
>でも覆りはしないんならまぁ優先順位としては後回しでいいかなって思った
意味判らんけどなw
歴史かじるより月刊ムーとか読んでるほうが性に合ってるんじゃないのかい?w
君がチョイスしたこの将軍継嗣問題については解釈が大幅にかわるとかでなく、内容の細かい部分までヨーロッパ近代史知ってれば判るということ
外圧がなきゃ慶喜待望論なんてなかったわけだからな
じゃあなんでこの時に大国がやってこなきゃいけなかったのか?
そういうことを俺はいってるのだわ
そこの部分知らずして将軍継嗣問題語ったとこで義務教育レベルということ >>821
>じゃあなんでこの時に大国がやってこなきゃいけなかったのか?
これ教えてくれよそれで覆るかもしれないじゃん? >>821
>外圧がなきゃ慶喜待望論なんてなかったわけだからな
この一言で済む話なら、ヨーロッパ近代史がと大げさに言わなくても大丈夫だな
全然具体的な話題に切り込まないし、そもそも慶喜の話をしたいんじゃなくて
スレをかき回したいだけでしょ >>823
「歴史の本質を理解しているのは自分だけ。他はバカ。」とピンポンダッシュしたかっただけでしょ。
ヨーロッパ君のレスは長い割に中身ないし、欧州近代史の知識もそれほど無さそうだし。
だから、具体的な書き込みは無理。 項目挙げるのが限界なんですわ。 >>822
覆るとか恥ずかしいからもう言うのやめなってw
俺はそういうトンデモ本が言ってるようなこと言おうとしてるんじゃないからなw
この時期、日本近海にやってきたのは捕鯨
鯨油の確保が発端
産業革命と国民国家の形成によって大衆文化が発展
日が落ちたら止まってた経済活動がこれによってそうはいかなくなったから大量の鯨油を必要とした
そしてインドまで進出したヨーロッパ人にとって東アジアが地球最後の未開の地となることに
貿易で儲けるために新品目求めてやってくる
イギリスの進出が早かったのは主に絹と銀の確保があったから
ロシアとグレートゲームの真最中であるためシルクロードがロシアにより寸断されていた
それにロシアの封じ込めのためにロシア南周りを囲む必要があり
そのためにアジアの4大帝国がことごとく食い物にされたといってもいい
その東の最大の拠点が清であり
国家安全保障上最東の防衛ラインが日本となる
これにフランスがイギリスに出し抜かれまいと追随
イギリス、ロシア、フランスの三つ巴となり
東アジアをおさえてたオランダはすでに4回の英蘭戦争で小国に叩き落とされ秩序を保つ力はすでになし
それで東アジア情勢が混迷しますます不安定になる >>823
慶喜括りにしたのは813の彼
そして君はその呪縛にとらわれてるだけ
俺は807のレスにただそのとおりだと808で答えたまで
慶喜括りでの話をしたわけでない
慶喜も含めて幕末維新語るなら同時代の世界史も同じ深さ理解しとけよと
そういうこと
おわかりかな? >>824
そんなに悔しがるならお勉強しましょうねw 【ヒトラーも、ユダヤ】 トランプ大統領、ペンス副大統領「キリスト再臨の為にイスラエルは造られた」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534902628/l50
ほら、やっぱり陰謀論の言う通りだ ヨーロッパ近代史云々と仰々しい事を言い出したから
どんなものを繰り広げてくれるのかと期待したが、ごくごく普通のことしか無くて却って驚いた
このスレに来る人なら誰でも知ってる知識だったので、期待していただけに残念
で、結局慶喜を語る気はゼロなわけね >>830
>>822のオカルト君が大国がきた経緯を教えてくれと言うから誰もが知ってて当たり前の情報を言ったまでですがなにか?
上から流れみてれば判るはずなんだけどなこんなこと
君が読解力ない人で更に世界史知識指摘されて悔しがってることはそのレスでよく判りますハイ
そうやって後出しジャンケンして知ってましたよ体裁保つくらいならオカルト君に君が教えてやってもよかったわけじゃない?
物理的にこれだけ時間空いたわけだし
ならこれからこの手の質問は全部君ふってあげるから答えなよ
答えられるものならなw
君の出した答えを俺があってるかどうか答え合わせしてやるからさw
後出しジャンケン恥ずかしいっしょw
挽回の場与えてやるよw ハイ今度は逃げww
哀れ無知無学読解力もない君ww ヨーロッパ近代史で捕鯨がどうちゃらって…捕鯨の最大手はアメリカなのに
ペリーってヨーロッパ人かよ >>835
イギリスの捕鯨船もかなり多く来てるの知らんのかよそれくらいのこと
1824年のイギリスの捕鯨船が薩摩や水戸などに相次いで上陸したことで異国船打ち払い令発令につながってることも知らんのか?
ちなみにペリーも米捕鯨船もヨーロッパ〜インド周りで日本にきてんだよ
そんなことも知らんのか?
アメリカこそヨーロッパ近代史が産み落とした産物なのにナニ言ってんだか
ホントこんなんばっかだからな…笑うしかないだろこんなのw >何故日本が世界にふりまわされたのか
>ふりまわされねばならなかったのか
>ヨーロッパ近代史知らずして判るわけがない
異国船打ち払い令程度で「日本がふりまわされた」と言っちゃうなら
幕末史知らんとしか言いようがないねw >ちなみにペリーも米捕鯨船もヨーロッパ〜インド周りで日本にきてんだよ
あとこれも間違いwww
ペリーはともかくアメリカの捕鯨船のメインルートは違うし
そもそもこんなんヨーロッパ近代史と関係ねえやw >>837
読解力ほんとないんだねキミ〜w
ヨーロッパ近代史の前に義務教育の国語からやらんとダメだろこんなのw
このレベルで今まで他人とコミュニケーション取れてきたの???ww
この内容で異国国船打ち払い令がそのすべてだとどうして思うかねw
一例言ったまでなのにそれが理解できないとかもうw
メインルート違うとかwww
もう揚げ足取りたいだけの必死さ滲み出て可愛そうなくらいだなキミw
じゃあこっちが西回りだとでも書いてやればよかったのかい?w
じゃあそのメインルートやらってどんなのよ?
答えてみろよw
俺が答え合わせしてやるからw
ホレホレw
もうね
キミが世界近代史知識がないこと図星突かれて悔しくて悔しくて仕方ないのが判るよww
それで悔しくて俺の揚げ足取ろうとしてるのもねw
稚拙すぎてわらうw
揚げ足取れてないからw
取るどころか逆に論破されて撃沈しとるやんww
哀れだから素直に自分が知識なかったですすいません勉強してきますと言って認めなよw
楽になるからさw 結局>>824が言ってるとおりなんだよなあ
慶喜スレでヨーロッパ近代史をちゃんと絡めれば面白い話も色々できるだろうに
やってることは住人を小馬鹿にする事だけで全くつまらん >>806でアホなこと平気で言うから指摘した話が
それを悔しがって揚げ足取りくるからこうなるんじゃないか?ん?
素直に知らないのならじゃあ今度確認してみるよ、勉強してみるよでいい話なわけだ
それで済んだ話だわ
それなのにクソのやくにも立たないバカ高いプライドだけは持ってて全力かけて必死に揚げ足取りにくるからこうなるんだろw
ちなみに>>807は俺じゃないしな じゃあ、>>807はアクリル板蹴破ってバイク盗んで逃走したままなのか? ああ、>>808が今暴れてる奴か。 間違えた>807 そっかー
ヨーロッパ史君はヒュースケン暗殺の話がヨーロッパ史の話だと思ったんだw
アメリカの捕鯨船がどっちから来るかなんて常識じゃん
https://youtu.be/Tn7fQ5mYHPA つまりヨーロッパ近代史君は山岡鉄舟推しの人で
虎尾の会の連中はマッチポンプと言われた意味がわかんなくて
幕末の動乱は外圧のせいだ!という中学日本史レベルの話を
大げさな言葉を使って語りだしたわけだ 読解力ない無知無学君はマジで読解力ないんだねw
悔しくて揚げ足とりたくてやってるんじゃなく天然のマジものなんだこの読解力のなさww
で、このどれがメインルートなの?
説明してよホレホレw その不毛なやり取り、もうよくないか?
スレタイ的にはオールコックやパークス、ロッシュに着目したいところ
欧州王室との写真交換はカメラ大好きな慶喜にはまさにうってつけと思った 触ってはいけないヒトの勝利宣言wも出たので双方打ち方止め、いう所やな。 >>847
駐日公使たちの動きもだけど英仏の本国が慶喜のことをどう見てたかにも興味ある
ヨーロッパ内での慶喜評って横浜鎖港なんか唱えて変な人だな、でも写真見るとハンサムだなくらいしか知らないけど >>848
何が高みの見物気取って双方だよw
お前もだよお前も
おもいっきり当事者のひとりのくせに
こんなのしかいないのかここ? イラストレーテッド・ロンドン・ニュースで報じられていた頃の海外の評判は気になるね
ところで河合重子の謎とき徳川慶喜ってどう? 図星突かれて悔しくて必死になっちゃった読解力ない君のアメリカ捕鯨船のメインルートの説明まだー? >>849
>ヨーロッパ内での慶喜評って横浜鎖港なんか唱えて変な人だな、でも写真見るとハンサムだなくらいしか知らないけど
その評判ってどの資料にある? 読解力のない必死の揚げ足取り君は説明できなくて逃走かよw
また論破されるの目に見えて判るものなw
悔しがってひとにつっかかる前に勉強しましょうね当時の世界史、ヨーロッパ近代史くらいはw >>804
原が暗殺されなかったらどうなっていたかは興味ある 煽りコメの直後に必ず話題すり替えて引き戻そうとして必死に火消ししてる書き込みがあるのがウケるw
わかりやすいw 本当すぎてワロタw
このスレは監視されてます(キリッ 普段ほとんどスレスト状態なのに煽りコメあると何故だかすぐだものなw
煽りコメントの直後にレスがのびる法則w 徳川慶喜の孫娘、井手久美子さん死去
https://www.sankei.com/life/news/180702/lif1807020019-n1.html
井手久美子さん(いで・くみこ=江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の孫、作家)は1日、老衰のため死去、95歳。
葬儀は近親者で行い、後日「お別れの会」を千葉県君津市山本1535の圓明院で開く予定。喪主は長男、純(じゅん)さん。
故高松宮妃喜久子殿下の妹。今年6月、戦前の華族の暮らしぶりなどをつづった自叙伝「徳川おてんば姫」を刊行した。 慶喜ってフランス革命のラファイエットとかフィリップエガリテに似てる 結局ひとりがID使い分けて別人装って悔しさはらそうと必死だったってことだろw
以降のスレストと今までいた奴が一気に消えたのはおかしすぎるものなw
ひとりが自演してつっかかってきたから今のこの状態なんだろw
それ以外説明つかんぞこの状態w
IP調べればすぐ判ることだがそこまで名誉のためにもせんよw
とにかく悔しがるなら勉強しなさいよw 普通に戦ったら普通に勝てたのに
全力で負けにいくスタイル。
水戸徳川家はあくまで副将軍止まりで将軍にはならない血筋のはずなのに
何故か一ツ橋に養子になるという小細工をしてから将軍に就任。
薩摩のパワープッシュで将軍になったときから徳川幕府を終わらせるつもり
だったのかな? そんなことあるわけないだろw
それに副将軍なんてのちの創作だからそれ
当初そんなものなんの定義もシステムも存在してないからな
一橋に入ったのも一橋の名跡が途絶えるタイミングと斉昭の思惑が合致しただけにすぎないしな >>866
水戸の出で文字通りの勤王家の慶喜に、禁裏に弓を引く選択肢は初めから無いからな 水戸黄門はおなじみだけど、光圀伝はそのうち読もうと思いつつ積読本状態。
ただ生類憐みの令のときに抗議に犬の皮を送りつけたという苛烈さと
若気のいたりで人を斬り殺しているあたり、光圀の気性は恐ろしいほど
武人寄りだった。
その子孫のわりに徳川慶喜、武人っぽさどこいった?
戦うべき局面でトンズラするの、ものすごく早かった。
頭の良い優秀な人だったらしいけど、優秀の方向性が将軍という役職とは
別方向だったとしか思えない。
錦の御旗なんかちょっと見たらピカピカの新品で、壇ノ浦に沈んでから
作られたレプリカの三種の神器よりも嘘くさい代物。
岩倉らがこっそり密造させたモノだってわかりそうなものなのに。 そりゃ鳥羽伏見で戦った会津桑名軍に言ってやれよ
慶喜が戦場に出てきて「あっ本物の錦旗だ!撤退!」と判断したとでも言うのか
造られた経緯がどうであれ、朝廷によってこれは錦旗であると認められてるんだから、そういう前提で対処するしかない
そもそも幕府の支配力が万全なら旗ひとつで親藩までもが裏切るような事態にはならなかっただろ
会津桑名は緒戦のボロ負けの言い訳にできるし、日和見諸藩は落ち目の幕府を見限る理由にできる
錦の御旗を利用してるのはどっちだよ、と言いたい >>869
慶喜の判断では、錦の御旗を掲げた軍と戦ってはいけない局面だった
そのことは各種資料からも選択肢として無いのが分かる >>869
禁門の変じゃ陣頭指揮とってるし前線での乱戦で敵を斬り倒してもいるんだがな
家康以来の実戦経験した将軍なんだけどな >>870
そもそも錦旗なんて戦ってる最中は見えないよ
徳川が負けた後付け理由 徳川慶喜が日本の領土を売り渡そうとしていたなんて作り話だよな? 慶喜はもっと冷静で国内外の情勢判断できていた、だからこそ懊悩したわけで、そこに悲哀を感じさせるんだ。
売国奴は小栗上野介らよ。
今ドラマの慶喜はいきり立っているだけで論外の描かれ方。 でも結局慶喜が討薩を認めちゃったから戊辰戦争が始まったんだけどね
本来なら戦犯になるんだけど
徹底恭順して戦には関係なかったような印象を与える 絶対に戦端を開くなと厳命されてはいたようだが、大阪城のあの様子じゃ無理か
>>874
大政奉還で議政院政治への移行を認めて公議政体派に歩み寄ってるので、ない >>874
ドラマだからね
史実とおもったら大火傷する 討薩の表ってどういう位置づけなんだろう
元より鳥羽伏見で積極的に戦端を開くつもりだったの?
それともすんなり入京して朝廷に討薩の表を提出してから戦争を始めるつもりだったのか? >>878
いくらドラマとはいえ慶喜が売国は酷いな
割譲はびっくりしたわ >>871
慶喜の判断では、錦の御旗を掲げた軍と戦ってはいけない局面だった
戦って勝っておくべき局面だった、の間違いだと思う。 >>881
だったらそもそも王政復古のクーデターを事前に知りながら動かなかったことが悪いわ
つまりそのときも動けない
錦旗のときも動けない
それだけで慶喜の人となりがわかるだろ
足利尊氏と並び語られるのは嫌じゃー!と言う人だぞ >>879
幕府軍が押しとおろうとして押し問答から鳥羽でドンパチ始まったのが最初だからな
そう考えると京にのぼって天皇に拝謁
勅許得てからの薩摩討伐という流れだろうな 京都を押さえてる軍勢から錦旗が上がることぐらい想定しとけや >>883
そうすると数で圧倒的に優越する徳川側がすんなりと入京できるという認識だったのかな
結果論で見ればその認識は甘い見通しだったわけだけど
当事者にとってはそれなりの説得力があったということなんだろう >>885
すんなりかどうかは別として
やろうとしたことはきっと島津斉彬、久光がやった率兵上京と同じで
日和見の公家と朝廷に実力を見せつけることで流れをもう一度こっちに引き寄せることにあるとおもう
んでそれ以後の流れは長州征伐のときの手順と同じ
勅をもらっての討伐 >>886
同様の先行事例に長州藩の禁門の変もあるけど
入京を阻止される形の戦闘の可能性は考慮しなかったのだろうか。
数で圧倒しているから戦闘にはならない、
むしろ薩摩側から先端を開けば必ず勝てるのだから
討薩の勅令を得るまでもなく
かえって大義が明らかになって好都合くらいのスタンスだったのかな >>887
実際はこのときの政局はまだまだ幕府有利だったことをお忘れなく
そこが完全にパージされてしまった禁門の変のときの長州とは違うところ
内部にて親幕派が大勢まだ残っていたという事実
またはじかれた中川宮、二条などが三条のように飛ばされたのでなく近くにいれたということ
薩摩が朝廷を完全掌握してないことはゆうに理解できたわけで
長州と違ってワンチャンどころかツーチャンもスリチャンもあったこと
ま、ここまで追い込まれて動くくらいならだったら王政復古のクーデターのときになんで動かんかったのかと俺は言いたいわけ >>888
当時徳川氏擁護派が巻き返していたのは確かだろうけれど
京都進発の時点で小御所会議の決定を正式に覆しているわけではないよね。
つまり慶喜の罪はそのままだし
三職も設置されて摂政関白も廃止されたままだ。
ただ辞官納地の内容が妥協的なものになっただけ。
そういう罪を着せられている弱い立場にもかかわらず
大軍で入京すればどういうことになるか分かりそうなものだけども。
ここまで政略で巻き返していたのに肝心要のところで一貫性を失い戦略を誤った印象。 誰もやりたがらない将軍職を引き受けて、内戦を最小限にとどめて幕府に幕を引いたのは評価できる >>889
そもそもこのとき慶喜に罪などないんだがw
小御所会議は岩倉などが徳川の即刻すべての辞官納地を主張したが通ってないからね
結局越前などの親幕派の主導で徳川は領地半分の納地として決着
その通達にもすぐには応じられないとして返答
それをまた新政府側も承認
これを受けて討幕派が暗躍巻き返しはかるもまとまりかけてた話がまたかき回され事態依然と進まなくなり
そのため細川、黒田、蜂須賀あたりの大藩が軍を引き上げるぞと恫喝はじめ
それで討幕派も議場妥協に入る
辞官に半石の納地で前内大臣というポストを用意し、筆頭議定就任を確約
この展開を見定めてから王政復古撤回の要求
22日には朝廷が徳川の大政委任を改めて認め幕藩体制存続を承認するにいたる
完全に慶喜の思惑通りに事はなった
むしろ劣勢だったのは討幕派
だからなりふりかまわない江戸撹乱工作をはじめる 【オウムとは、無関係】 ホーリーネームは匿名 <世界教師マ@トレーヤ> 完全マルチ・リンガル
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1536715603/l50
マ1トレーヤは全言語が話せる、放射能で大勢が死んでいる、異常気象は行き過ぎた競争の結果。
UFOは火星から来ている、日本から世界経済が破綻する、憲法九条は新しい時代の土台になる。 慶喜が大政奉還して降参の態度を示しているのに
薩長は戦して江戸を火の海にしようとした。
戦う理由なくね?
薩長って頭おかしくね? >>894
政治の主導権を自分たちの手に収めたいがための政争だから、手段は選ばずでね
慶喜が朝敵にされるくらいなので、いかに強引な理屈を通したかが見て取れるでしょ 今北産業
>>892
いいねえ。>>731に並ぶクリーンヒットである。 昭和時代に学校で習った幕末史を一度取り除いて、
良い意味での脳内洗浄を行わないといけない。
「大政奉還で徳川家は政権を失った」 (以前の歴史観) → 「慶喜は新型徳川体制への移行を目指した」
と、大政奉還Aついてはもう大分前に歴史解釈が修正され、それは一般化してきたが、王政復古Aつては、
「薩長・岩倉が巻き返しに成功し、徳川が完全失脚した」という理解が依然として残っている気がする。
実は既述のように、王政復古のクーデターは「失敗」し、政局は完全に慶喜ペースに逆転していた。
これが鳥羽伏見合戦直前の政治状況である、 という認識が最近になってポツポツ広がってきたんだろうね。
もちろん、権力闘争のセオリーからいけば、王政復古前に京都退去したのは「悪手」であるし、
京都へ向かった討薩軍(旧幕府軍)のあの「ノンビリ度」も歯痒いものがある。
従来の「王政復古クーデター、成功!!」という眼鏡は外さないといけない。 ついでに書く。 先週、磯田がテレビで面白いこと言って、成程と思った。観た人も多いと思うが、
薩長は大坂城に籠る慶喜を討伐して、そこで倒幕戦を決着したかったと。だから、慶喜が東下したことは
薩長にとって大失敗だったと。 これは東征軍の戦費の問題ね。 実際の戦費はもちろんこと、
3万5千人の軍勢が関東へ行軍するだけで数百万両かかるので、何とか大阪でケリ付けたかったと。
まあ、磯田はこう解説していた。 薩長軍は非武士層が多かったんで人件費が通常よりかさむんだと。
従来の歴史観を変えると人物評も変わるのは珍しくないが、昨今の「徳川綱吉名君説」と共に
徳川慶喜評を一度棚卸して、一から組み立てる時期が来たのかもしれんね。
皆さん承知のように、ケーキさんは家柄の故ではなく維新の勲功によっ公爵になってる。(勲功華族)
没後叙勲と生前叙勲の違いは有れど、維新の三傑(侯爵)より上であることも留意するべきか?
(国父さまも公爵だから、あんまり関係ないかw どーでもいい話だったな。すまん) お金が全然足りなかった新政府軍の錬金術は新しく刷った紙幣。
よくそんなオモチャのお金みたいなものが使えたものだ。
江戸城を無血開城させてからは、奪ったものをすごい勢いで
散財している。強奪犯にしか見えない。
幕府が堅実に運用していたときの方が財政は健全だったんじゃないかな。
大久保の死後、残された借金を返して貰えなかった貸し主がこうむった
理不尽な苦労は明治維新を語る際にはスルーされている。
借金踏み倒しって災害復興のやむをえない時以外はちゃんと
罰せられるべきだと思う。 >>892
この時点じゃ薩摩本国はやる気なしで、同盟相手の長州も勝てるわけ無いと思っていたからなー
二進も三進も行かなくなって強硬手段に出たら、会津を始めとする相手の強硬派が想像以上にヘタレで
仕掛けた側の西郷や大久保もビックリするほど大成功しちゃったのが鳥羽伏見 ママが良いかはともかく、慶喜が議長の議会政治がどんなものかは興味が尽きないな
>>899
旗本たちが軒並み役立たずじゃ、いくら会津や桑名が頑張ってもそりゃ負ける >>898
借金の踏み倒しは別に違法ではない
本人に債務返済能力ないのに貸したほうがわるいといのが一般的
3代目ですでに破綻してる幕府財政が健全かどうかは捉え方だなあ
逆をいえば私利私欲で政治をしてなかったという裏返しの結果でもあるわけよねそれ 特殊な炭素素材で水を水素と酸素に分解 ゼビオHDのグループ企業、クロステクノロジーラボが開発 >>900
まあ、幕府のままだったらロシアに飲み込まれて終わったか
インドのように列国に藩が各個撃破され征服されていったかのどっちかだが >>901
軒並み隠居願い出て幼少に家督つがせて戦争への出兵をかわしたような奴ばっかだものな旗本ってw 慶喜評については>>731で書いたとおりいわずもがななんだが
最近は岩倉にも注目しだした
岩倉も慶喜に匹敵する高い政治力もってるなと
またこの一筋縄でいかない感じ、性格もどことなく似てる気がする
高い政治力で周りを振り回すやり方やその方法もなんだか似てる
何かしらの共通点見つけられそうで最近は岩倉研究に余念がない
慶喜も岩倉も言い方悪いけど金正日、正恩と似てるのよなw
慶喜ファンには聞こえ悪いかもしれんけど
これは俺なりの慶喜への最大の敬意として言ってる
あの経済制裁くらってどうにもならん弱小国が外交ひとつで大国振り回し続けて今日まで存続し軍隊の近代化をあれだけ成功させ核まで保有するまでになった
その手腕はまさに慶喜や岩倉を見てるようである >>904
タイみたいに欧米に割譲しまくって、小さい領土で残ってたかも
北海道はロシアに占領されさらに東北へも進出
九州はイギリス取られてただろう、薩摩とによる九州統治
関東はフランスに徳川が借金返せず奪われる
天皇の畿内だけ残ると言いたいが、誰からもいらんと言われた四国に亡命させられ
四国だけが日本
うどんとミカンと鰹のたたきと阿波踊りを産業にガンバル >>897
豊臣秀吉は10万以上の兵を九州や関東に
明治以降は日露戦争で10万以上を海外へ
しかし幕末だけは数万の兵を移動するのも困難で
この時期の日本は、組織に色々欠陥があったんやなと思う
参勤交代などでどの藩もギリギリの状態まで追い込まれ
それで徳川に歯向かう事もできず、200年以上の泰平の世が続いたんだろうが >>892
確かに途中まで慶喜の思惑通りになったが、家臣らが暴走し鳥羽伏見になり崩壊してしまった
崩壊した理由は他力本願だからだったと思う
慶喜は大阪城に籠もり、春嶽や容堂らによる他人が奔走した
しかし西郷は自力でこの事態を動かした
春嶽らが奔走し結果が出始めた理由に、畿内では徳川の方が巨大な軍事力であった事が大きい
しかしこの巨大軍事力の会津幕臣ら家来達の多くは、大政奉還前の体制に戻す考えで
慶喜の公儀政体論とは相容れず
巨大な軍事力を持ちながら家来を掌握できておらず
たかが関東で薩摩が暴れただけで暴発し崩壊してしまった、すぐ鎮圧され畿内での戦局では何も影響与えないのに
こんな挑発で崩壊してしまうような脆い体制
例えこの時期暴発を抑えても、薩長が大阪城に出向き鉄砲を撃ったりするなど
何らかの挑発で暴発しただろう
慶喜の思惑は途中までうまくいっても、西郷による自力にひっくり返される事となったろう >>883
攻め上った会津や幕臣らは、その思惑だったんだろう
しかし鳥羽伏見で勝ち御所に行くと天皇はいない、薩長は天皇を園部藩に移す予定だった
長州が山陽山陰の譜代を倒しながら東進しており
福山藩と少しだけ戦闘したり、広島岡山鳥取などの援軍もありちょっとした大軍になったろう
土佐では板垣が兵を連れて上京予定
一度京を明渡し再び攻める楠木正成戦略を予定していた
こんな歴史だったら会津らは、天皇を御所から移すなんて反則!
と言っただろうが、日本歴史上最大の勤王の忠臣楠木正成はやっただろうと突っ込みたい
予定ではもっと大きな戦闘が行われる予定だったが
旧幕府軍があまりにも弱く、小さな規模の戦闘に
関ヶ原で西軍が伏見城攻撃で撃退され終わってしまったみたいに >>910
大きな戦闘が行われなかったのは、日本のその後を考えると結果的に良かったな
>日本歴史上最大の勤王の忠臣楠木正成はやっただろうと突っ込みたい
動座を拒絶されて最期を迎えたのは暗示的だな >>909
中央指導部が軍部や官僚を制御できず、ズルズルと引きずられて戦争に突入していく様は
昭和の政権ソックリなんだよねえ >>907
タイは王政による中央集権が確立してたからあの程度で済んだ
領邦の連邦国家である日本はそうはいかない
インドのように藩王が各個撃破されたようになるのがオチ >>909
大阪城まで出向いて薩長が発砲したらそれこそ大義名分は旧幕府にあることになるが >>910
会津それやられたマジでそう言いそうでワロタw
ただ幕府軍は鳥羽伏見で戦闘せずに入京するのがそもそもだとおもうが >>912
太平洋戦争の悲惨さを考えると、慶喜の東帰&徹底恭順の姿勢は間違っていなかったと思う
戦後の隠遁姿勢も好感が持てる >旧幕府軍があまりにも弱く、小さな規模の戦闘に
>関ヶ原で西軍が伏見城攻撃で撃退され終わってしまったみたい
上手い喩だな。 俺も同感。 世界史上屈指の長期安定政権である徳川幕府の滅亡を決めた「大会戦」である
鳥羽伏見の戦いのそのショボさは日本史上の謎の一つででもあろう。
大坂城進発までは慶喜優位で進んでいた政局が、いらんことしたおかげで全部パーになっちまった。
無論、誰かも書いているようにここで討薩戦を回避したところで西郷らは次の手を打ってくるだろうし、
過去さんざん言われているように、王政復古後の京都退去が完全な悪手であったし、
そもそも復古クーデターを2日前に察知してたんだから阻止できるだろうが!と。
この議論が延々ループしていくw
慶喜は幕末政治家で最も怜悧で政治手腕に長けた人物で大久保利通や西郷などでは到底敵わない人物だったとみる。
しかし、慶喜には「錦旗に弱い」『命を賭けない」という致命的な人間的弱点を抱えており、
ここは西郷 大久保 岩倉らに遠く及ばなかった。 西郷らは徳川処分に厳しかっただけで
戦争にならなければ結局諸藩と妥協して徳川排除まで考えてなかったろうな 薩長の徳川憎しが異常。
そこまでやるか? そこまで奪うか? 頭オカシイ。 >>918
それは逆なんじゃないか
徳川を徹底排除しようとしたが諸藩の反対に遭い、最後の手段で戦争に臨んだという 仮に慶喜が水戸じゃなくて紀伊や尾張出身だった場合... 水戸徳川家の血筋は将軍には向いてなかった。
学問が秀でた人間イコール政治バランスを取るのがうまいってわけじゃない。
突出しすぎて誰もついてこれなかったら終わる。
暗愚は問題外にしても、極端な天才も過ぎたるは及ばざるがごとし。
一人で何でもできる何考えてるんだか分からない天才よりも、
能力は普通の人が頑張ったぐらいの優秀さのトップの方が家臣と
良好な関係を築けて、裾野まで行き届いた治世ができる。 >>917
江戸から新政府に送った書簡で自分の命を預けて他者の助命を嘆願してなかったっけ
禁門の変でも陣頭指揮していたし、命を賭けないというのは若干ニュアンスが違う気がする
>>922
現代でもトップが切れ者すぎるより、俺たちが盛り立ててあげないとと思わせるくらいが丁度良いしね
斉昭の烈公ぶりに幕閣と大奥がアレルギーを起こしていたのが、初手から厳しい環境なのには同情する 日本史3大ヘタレ
栗田ターンをレイテ沖で華麗に決めた栗田健男、大坂夏の陣で出陣しない豊臣秀頼、鳥羽伏見に出撃しない徳川慶喜、の筆頭ヘタレの人ですね
ヘタレを極めることで健康不安も金銭不安もなく趣味に没頭するという最高の老後を得た >>920
西郷らの目的は王政復古を機に可能な限り徳川の権力をはぎ取ろうという事で
徳川の徹底排除は本心では現実的に不可能と思ってたんではないかな
西郷らの元々の倒幕の考えは幕府と将軍を廃位して徳川を一諸侯に落とすのが目的だったし
それは達せられた分けで
戦争にしても薩長は京を防衛するのが精一杯で大坂に仕掛けられる状態でないし幕府が仕掛けて来たのを防戦しただけ
しかも戦争になれば負ける可能性の方が高かった為戦争オプションを持ってたとは思えない この辺の違いは丁度プロイセンの小ドイツ主義とオーストリアの大ドイツ主義の違いに似てるな
徳川を排除した新秩序形成したい薩摩がオーストリアを排除して統一ドイツをつくりたかったプロイセンに近く
徳川含めて新秩序づくりをしたかった公儀政体派の連中やら徳川自体が自分中心に統一ドイツをつくりたかったオーストリアに近い >>921
慶喜が水戸じゃなくて紀伊や尾張出身なら大老にお井伊直弼も
慶喜の14代将軍になるのを反対しなかったかな。 >>929
尾張出身なら反対する
紀伊出身なら直弼も万々歳で賛成する
もっというなら一橋家に養子でない純血として生まれてれば反対されない
ただ一橋は昌丸の時点で尾張の血が入るからほぼこれで将軍継承権が失われたことと同然になる
それ以前に慶喜が一橋の血統のもと生まれてれば反対されないだろな
または田安家に生まれるか清水斉彊の子として生まれるかのどっちかだな
清水家も水戸の血が入ったので将軍継承権を失ったのと同然
結局御三卿家で機能してるのは田安だけということになる しかし水戸に生まれずして慶喜足らしめる個性を獲得出来たのか疑問 それはそのとおりで水戸に生まれてこその慶喜なのだわなw
仮に水戸以外で生まれてあのままの慶喜だとしよう
そうすると直弼も跡継ぎは慶喜以外にないとなったとおもうぞw なんか皆孝明天皇に振り回された感が半端ないよね。ケーキさんも被害者だよ。 そんなことはない
慶喜も孝明天皇と変わらぬほど振り回してるからw
幕末の混乱はこのふたりの存在で起きてるといっても過言ではない 幕末の混乱は元をたどるとだいたい将軍継嗣問題に行き着くという 討幕は脚気という病気のせいで将軍が短命だったせい。
後の世では脚気の原因の白米信仰、こじれにこじれて森鴎外の
不手際がすごかった。
ビタミンの概念があれば将軍は健康なまま後継者リレーは途切れることなく
スムーズだったはず。
徳川慶喜は一橋の大名で終わっとけば良かった。 >慶喜も孝明天皇と変わらぬほど振り回してるからw
この2人が幕末の混乱の元凶だと言い切って良かろうと俺も思う。
じゃあ、この2人が居なかったらどうなっていたんだろうか?
慶喜は(不本意だったが)幕府を上手に「終了」させた人物、いわばソフトランディングに成功した人であったし、
孝明天皇が長命であったなら戊辰戦争はおそらく無かったかもしれない。
そういう評価も踏まえつつも やはり、この2人が存在していなかったら(IF歴史)、
尊王攘夷運動はあそこまで過激化しなかったろうし、薩摩の徳川排斥決意も無かったろう。
>>927氏の言う日本版「小ドイツ主義」に向かうことは無かったかもしれない。
西郷や岩倉が討幕を決意したのは、まさしく一会桑を敵視したからであって、慶喜の優秀さがその理由であった。
そういう意味では慶喜が世に生まれたために徳川幕府は寿命を縮めたのかな、と思うね。 特定人物の存在に関わらず諸外国の船舶はやってくるわけだから
終わらせるなら上手に手早くするのが一番と思う
それにしても敵方から優秀さを危険視されつつ、味方である幕閣諸々からは煙たがられ
現代では敵前逃亡の臆病者の烙印を押されるのは何とも不憫と言うか 今ウィキで、慶喜時代の幕閣の顔ぶれ(老中と若年寄)を個別チェックしたんだが、
20代後半から30チョイの人が結構多いね。半数以上がそれ。
家格や年功序列人事が相当崩れていたとはいえ、若年寄は大半が旗本上がりだ。
慶喜政権にちょっとワクテカしてしまった。(残念) 言いがかりになるのは承知の上で。
西郷も大久保も木戸も、明治初期に死んだ。
慶喜も早くに死んでいれば、後世の評価はもっと上だったかもしれない。
側室が何人もいて、趣味三昧で生きながらえたことが、日本人の無常観にはそぐわない。
明治政府が慶喜の裕福な暮らしを認めたのは、
案外評価を落とす狙いがあったんじゃないかと、勘繰ってしまう。 >>941
そう聞くと慶喜がどこか今川氏真に重なって見えてきた そりゃ物語的には若いうちに死んだ方がドラマチックだが
俺的には汚名を甘んじて受け、一切言い訳をせずに生きていく方が格好良いと思うけどな 明治の印象でも慶喜は狡猾な政治家って印象だからな
西郷と大久保もそんな印象抱いてたろうな 慶喜を明治維新の功労者と見る動きが発生してきたのって明治30年代だっけ >>904
江戸体制の終焉、日英同盟、富国強兵、政党議会政治に走るとしても要は人材が長州偏重で国の形を決めて行くのか。
あるいは明治22年の憲法制定の以前から国のあり方を廃藩置県後の優秀な人材を各地から
集め薩長に偏重しないように効率的に頭脳を集約させ取り決めて行くのかという問題。
やはり薩長が決めた国体のあり方がたかだか数十年でシステムを崩壊させ日本を壊滅的に
させた要因があるのは間違いない。
幕末からの天狗党等過激派によるテロの正当化、水戸テロリストを靖国に祀ったことに始まる
国体のあり方、その根元が昭和に再発横行し統帥権干犯と狂信的行動に出たテロの風潮。
昭和から全てが狂って来たのは、その問題の根源が必ずあったということ。 >>946
歴史をまったく理解してないし無知であるのはよくわかった
己の個人的私怨で感情的になってるだけでそれ以上でもそれ以下でもないな
世界近代史と吉宗以降の日本史をちゃんと勉強してから書き込んでみよう 【天文台閉鎖、FBI】 アポロ捏造のキューブリックも真っ青、太陽に映ったのはマ@トレーヤのUFO
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1537840672/l50
バカウヨはそろそろサヨクに降伏しないと、あとあと土下座じゃ済まないぞ、命乞いのほうが得意かな?笑 >>946
結局は明治初期から始まった有司専制体制が敗戦まで続いたんだよな
藩閥や軍閥が少数の意向で国を動かしてたってだけで 尊王攘夷も明治維新も結局は政治の主導権争いの延長線上だった、それだけのことだな
いつの世も勝ち取った利権は仲間内で留めておきたいものだろう 孝明天皇が生きていたら、明治維新でなくどんな将来になっていただろうね 幕府が生きながらえ集中した財源も確保できず統一した軍隊もなく
緩くは近代化していくものの列強の動き進みのほうが数段はやく
よって近い将来にロシアに飲み込まれたか列強によって各藩が各個撃破され食い荒らされたかのどっちか 元々、徳川家康は西郷氏の分家出身で西郷どんとは遠い親戚だろカス
あと会津藩家老の西郷頼母も西郷どんと親戚
こっちも西田敏行が演じてたな 松平氏の源流は西郷氏だし
秀忠を生んだ奴の名前も西郷
慶喜はその事知ってたのか? >>952
たぶん暗殺された孝明天皇の守りたかった日本の在り様は
明治政府に完膚なきまでに叩か潰されたからな。 今週の英雄たちの選択、見ごたえあったな
鳥羽伏見の開戦までは薩長劣勢で、慶喜の政治力の高さが改めて浮き彫りになった >>958
孝明天皇が暗殺されたとかこれだけ史料出てるのに言い続ける人ってどうなん? >>960
麻原の罪をどれだけ暴かれようが、今だに信じてるアレフ信者のように
会津観光史学信者の信心は永遠に不滅であり、洗脳を解く方法はありません >>959
結果論で述べるが
二条城にいた慶喜は暴発寸前の会津らを、一旦大阪城に連れていき
結局暴発抑えられず進軍してしまい京の南部で戦闘(鳥羽伏見)
しかし結局暴発するんなら二条城で戦っていたら、勝つ可能性はかなり高かったと思う
大阪城に兵を集中する事で、瀬戸内海から淀川を通り京に進む薩長と本土との関係を分断できるメリットはあったが
天皇を手放す事も意味し、これが鳥羽伏見の勝敗に大きく関与した
慶喜の政治力について、どこか抜けてる危うい優秀さを感じてしまう
自分が今週の英雄たちを見て感じた事は
進軍してきた旧幕軍と戦うか or 時期を待つか?を西郷大久保の決断をパネラーに問い
革命家が取るべき道はこれだと前者を支持した意見と、総合的な判断で後者の意見
それぞれなるほどと思うが、高杉晋作の決起、本能寺を聞いたばかりの秀吉、京進出を決めた信長
多数決の裁を取れば自重がほとんどであろう状況で
英雄たちだけが見える扉がある、この時西郷にも見えたのでは? >>962
竹中は二条城に兵を置くことを進言していた。 >>955
何で西郷が徳川の源流になるんだ
徳川の家臣団からして中心は安祥譜代
西郷は岡崎譜代 >>963
竹中の進言は、大阪城へ赴く際に二条城にも兵をいくらか残す意味か
大阪城へ行く事を反対した意味か
どちらなのか?ちょっと分かり難いけど
慶喜が去った二条城は当初新選組が入る予定だったが、水戸藩士に追い出され
新選組は伏見奉行所に赴く事となり、鳥羽伏見の戦いの伏見方面最前線になった
二条城を占拠した水戸藩士は勤王の志で、二条城は労せず官軍のものに
西郷らが当初考えた倒幕計画は、江戸京大阪の三都同時倒幕で
情勢の変化で作戦は変わる事となったけど
江戸は徳川の本拠地を撹乱させる事が目的で、京大阪は薩摩3000の兵で
二条城か大阪城占拠ぐらいは考えていただろう
大政奉還の頃の情勢での三都同時倒幕は、薩摩にとってアウェイの戦いであり難しい戦であったはず
しかし慶喜の大阪退去によって、労せず二条城と御所が手に入った事になる
薩摩領土が最南に位置しており、京大阪へ派兵するのも面倒で
徳川にとって京大阪は領土があり城があり常備する兵もあり
地元薩摩で戦争するなら勝てるが、アウェイの戦いの厳しさを克服し勝利した
慶喜の打つ手をひっくり返すが如くしてきた西郷と大久保は、お坊ちゃん慶喜とは役者が違う強かを感じる 戦闘の勝利よりも禁裏を騒乱に巻き込まない方が優先順位高いのかもしれんね
番組でも語られていたが禁門の変の事がまだ記憶に新しいし BSの鑑定団で慶喜の子ども時代の書が出ていたが、達者だな
日本橋の揮毫を依頼されるだけのことはある >>968
鳥羽伏見で暴発開戦してしまったのと、そこで旧幕軍が敗走してしまったのを除くと
実に上手くいなしていると思うが あの時点では、薩長を政治的に追いつめて軍事的に暴発させた時点で慶喜は勝ち確だからな
なんであれだけ戦力差あって戦争で負けるねん >>971
会桑以外が丸っきり日和見の役立たずだったから
対して薩長側は負ければ即破滅だから必死さが違った
慶喜の足を最後まで引っ張り続けたのは、結局身内だったという悲劇 第二次長州征伐で勝ちきれなかった。
幕府を守るために幕府でなくなるという悪手 二条城に兵を残しておくべきだった。挟撃も可能になる。
二条城、伏見奉行所、淀城などのうち、最初に二条城を明け渡したのはな。 宸襟を安んじ奉るのを第一義としたのだろう
禁門の変時の京の大火に思うところがあったのかもしれない >>973
鳥羽伏見の敗戦後、大勢の旗本が隠居を願い出たという
しかも家督を嗣がせたのは10歳にも満たないものばかり
すべては官軍と戦いたくないというとこから軍役を回避するためにそうした 大局を決めるところで全部負ける。
楽勝できるところで逃げる。
頭良すぎて何考えてるか分からないから人望が失墜。
徳川の身内にさえ見限られる。
徳川慶喜は将軍には向いてなかったね。 誰がやっても無理な状況からよく頑張った
はっきり言って身内や仲間が足を引っ張りすぎ
新政府で慶喜を外務大臣に据えようという話もあったらしいが
実現して類稀な政治力と外交力を駆使した姿を是非見てみたかった 徳川慶喜は身内や仲間の信頼を得られなかったから
足を引っ張られたんだ。
報・連・相(ほう・れん・そう)のできない主君。
手足となって働く臣下のいない最後の将軍。
字がきれいでも、絵がうまくても、計算が早くても、頭の回転が早くても、
先見の明があったとしても、それらの能力を活かすのに必須のコミュ力が
圧倒的に足りなかった。
類稀な政治力と外交力なんてあるものか。 鎖港問題みたいに自分の本音とは真逆の主張をして主導権を握ってから自分の本音をやり出すようなことを平気でするからすぐに支持失うよ 時代背景と政治状況をしっかり把握した上でないと適切に分析するのは難しい この人ってうまく言えないけど
なんかスゴく現代人ぽいんだよな
ものの考え方とか利害に対する対応とか
世の中のオヤジ連中がなんか言ったとこで「マジ卍」で返してくる感じに似てる
マジ卍の多様性を感覚で理解できない連中にはその行動原理など判るわけもなく
現代ですらこの隔たりあるのに
江戸の終わりごろにこの感覚持たれてたらそら理解はされんわなw >>969
京都の霊山歴史館で慶喜(7歳)の掛け軸を見たことがあるが、あまりの達筆ぶりに舌を巻いた記憶がある。 >>983
一方で渋沢栄一みたいな熱烈信者を生み出しているのも興味深い >報・連・相(ほう・れん・そう)のできない主君
んじゃ〜「できた」主君はどれだけ居たのか?という話だわ 次スレどうしますか?
このスレの2でいくか、鳥羽伏見や政局中心の新スレでいくか、
ここで終了するか、取締役会で決めて頂きたい。 公方様御大病により、明日をも知れぬ御身でござりますれば、尾張、水戸、一橋、越前の処罰は、公方様御回復ののちか、新将軍家がお立ちになられたあとでも、遅くはないと、存じまする 徳川慶喜って家康の再来と言われてたらしいけど信長の野望的なステータスはどの位なのだろうか?
知略、政治は80くらいは行くだろうか 全般的に高いがイベント「錦の御旗登場」で逃亡が自然発動してしまう条件付き。
そして、その後全軍の士気が壊滅的に下がる。 信長の野望で考えるより、既に登場している維新の嵐のステータスを見るのがオススメ 幕末とやらはなにか?長岡藩が隣国の高田藩や新発田藩に攻め込むとか、そういうことも可能なのか? 徳川慶喜を将軍に推したのは何者かというと後の討幕勢力。
明治政府に国を明け渡したのは予定通りだった?
将軍のくせに内側から幕府という組織を解体していったあたりで
なんでこうなったと困惑するばかり。
水戸徳川家からは将軍を出さないって伝統は守っとくべきだったのかもね。 慶喜は水戸藩主の道に進んでいたらとか...それはそれで予測不能なんだけどね いいから!その錦旗を先頭に立てて進め!徳川慶喜は朝敵で御座る! このスレッドは1000を超えました。
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