明治維新当時、 276藩のうち 215藩が藩校を開設していた。
幕末の争乱の中で制度改革に着手したところもあり、教育内容を変える藩校も
多かったあった。国学(皇学とも言った)を教えるとか、あるいは洋学を教える
ところも出てきた。

藩校は当初8歳ぐらいから15歳ぐらいの子弟を対象にした漢学塾のようなもので
あったが、幕末に近くなると剣術を中心とする教練所の性格を帯びるようになった。
長州藩の藩校明倫館の槍術・剣術道場である有備館は現在も残っている。
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剣は文久2年から江戸の斉藤弥九郎の神道無念流を藩の公式流派とした。
斉藤道場の高弟たちが萩まで指導に来ていたのである。
他に水戸の弘道館が北辰一刀流であるのは有名である。
年齢も22歳ぐらいまでの者を対象にするようになり、漢学を終えた者に洋学や
西洋兵学などの教育を施した。
例えば山口藩(萩)は藩校明倫館に洋学を取り入れた。下関戦争(1863−64年)で
列強の強さを知ったためである。その後も藩としては尊皇攘夷を唱えながら、
海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化しようとしていた。
福井藩では安政四年(1857)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、
洋学と西洋兵学を教えていた。松平春嶽が開明的であったためである。

土佐藩などは、もともと教授館(こうじゅかん)という藩校があったが、時代に対応
した子弟教育をするため、文久2年(1862)、到道館という藩校を設立している。
教育内容は剣術の他、砲術や練兵や貝太鼓といった軍事関係のものが多かった。
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明治元年、新政府が今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、藩校の中に
西洋医学校を設立する藩が相次いだ。

藩校は廃藩置県でその存立の基礎を失い、ほとんどは消滅したが、医学校等で
県に引き継がれたものもあった。しかし明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来
府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。
これによって藩校由来の学校のほぼすべてが消滅した。
鹿児島では鹿児島医学校として存続させたが西南戦争で廃校となる。
佐賀の好生館病院など、病院という形で残ったものがいくつかあった。
熊本では時習館設立の翌年、再春館という医学校が設立された。
これは時代的に漢方医を養成するための学校で、幕末に各藩で作られた西洋
医学校とは性格を異にする。