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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/04(月) 16:07:25.28ID:414fLF8V0
幕末歴史ロマンー水戸天狗党の悲劇
−明治維新を待てなかった人々−
http://member.nifty.ne.jp/sasanuma/historio/tengu-to.html

明治維新も目前となった1865年,北陸の港町敦賀で,はるばる水戸からやってきた
武士や農民ら350人余りの大量処刑が行われた。「天狗党」とよばれた彼らは,
なぜ敦賀に来たのか。そして,なぜ処刑されなければならなかったのか

【幕末の】水戸天狗党【悲劇】2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1163300094/
0706名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 06:59:16.30ID:HwBvERXo0
徳大寺左兵衛については、その名字から堂上人であるという説もあるが、これは渾名の
ようなものだろう。徳大寺の庭者(にわもの)だったのではないか。
石庭で有名な竜安寺も、徳大寺家の別荘に建てられた寺である。
徳大寺家は先祖からの庭を幾つも所有していたため、腕利きの庭者を何人も召し抱えていた
のではないか。
徳大寺佐兵衛なる者の身分はともかく、京で有名な作庭家であり、おそらく家光の声掛がかり
で呼び寄せられたと思われる。勿論その配下の庭者も大勢連れて来ただろう。
小石川藩邸の庭造りについては家光がやたらと口を出したらしい。
家光は尻軽の傾向があり、どこにでも馬を飛ばして出かけて行った。
その時に、「我に随い来る足早の者はおるか」などと言って馬を飛ばしたりした。
徒で従う者たちは全力で走り、息も絶え絶えになったという。
とにかく軽はずみな人物だったようである。※
さらに頼房は朋友のようなものであるから、気軽に出かけては指図をした。
頼房はそれをウンウンとよく聞いた。どうでもよいと思っていたのかも知れない。
上記後楽紀事にも、
「大猷公(将軍家光のこと)いろいろ御物数寄ありて出来たる御園なれば、
威公(頼房のこと)上にも甚御心志を尽させたまひて、潤色せさせたまひ、徳大寺に
命ぜられて経営せさせたまふ。
徳大寺が尽す所、つとめて自然の事をよしとし、古木をきらず、凸凹の地形にまかせて
山水を経営す。伊豆の御石山その外の山々より奇異なる大石を御とりよせ遊ばされ、
是を以て荘厳なしたまふ。
これもとより大猷公の御心なるべし。地形に依て先大泉水を開き、いろいろ大猷公の
御指図有けるなり」と記述されている。
古木を切らず、凸凹の地形であればむしろその地形を生かし、庭園に取り込んだ。
伊豆から大きな石(岩)を取り寄せて荘厳な風景を作り出したという。
※家光は、側室のお楽の方が長男・家綱を生むと驚喜して、産褥のお楽の方が仰臥して
いる部屋に飛び込み、大声で「でかした」と叫んだ。
お楽の方は寝ているところに突然将軍が現れたので驚き、布団から跳ね起きて平服した。
これによって産後の血が逆流し、その後生涯寝たり起きたりの生活になった。
わずかに20歳で廃人となったのである。
半病人なので家光の御渡りも無く、孤独な生活を送り、32歳で亡くなった。
0707名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:00:26.82ID:HwBvERXo0
ともかく、小石川藩邸の庭には、大徳寺左兵衛が采配し家光が口を出した立派な庭が
あったわけである。これを光圀が改修した。後楽園は光圀作ということになっている。
この光圀が作庭した後楽園の姿というのは、具体的にはほとんど分からない。
現在あるもので一番古い図面は、彰考館蔵の「水戸様江戸御屋敷御庭の図 」である。
この図面の作成時期は不明だが、元禄16年の地震で崩れた瀑布が書かれているので、
それ以前に作成されたことは確かである。
この図面によっても、池の形とか築山の位置、どういった建物が建っていたのかと
いったことは分かるが、石組みの有様や植え込みの様子は全くと言っていいほど
分からない。

だが、保守的で正当なものを好むという光圀の性格からして、勝手に庭園を造り変えた
とは思えない。頼房が亡くなった後に、朱子学にガチガチに凝り固まった光圀が、父の
作った庭園をぶち壊すなどあり得るだろうか。
おそらく光圀は、庭の石組みや植栽はほとんど変えていないと思われる。
ただ、自分の趣味と朱舜水のアドバイスにより、一部中国庭園の趣きを加えた。
円月橋や西湖堤などである。
その他は、庭園周辺に建物を建てただけである。
建物の数は多く、当初は30棟ほどもあった。
庭園の池の周囲や平面部分はほぼそのままにし、その周囲の崖に連なる斜面の部分を削り
平らにして、そこに新しく建物を建てた。
元からの木はなるべく切らず、林の中に中国風の建物が並んだ。
一番大きな建物は彰考館であり、編纂所の他に大きな文庫(資料を収める文庫蔵)を
建てた。これらはさすがに中国風ではなく、編纂所は書院造り、文庫は蔵造りであったと
思われる。江戸城内に「紅葉山文庫」というのがあり、蔵造りで、資料が増えるたびに
一棟づつ建て増ししていった。多少の火事では燃えないような構造だったと思われる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Edo_l117.jpg

小石川藩邸内に彰考館を建てたのは藩主時代の寛文12年(1672)である。
その時に、従来「史館」としか呼ばれていなかった名称を彰考館に改めたのである。
「彰考」とは中国の学者杜預(どよ)の左伝の序「彰往考来」の語句に由来する。
過去をあきらかにして未来を考えるという意味である。
光圀は、それまで「後園」という一般名詞でしか呼ばれていなかった庭に「後楽園」と
いう名前を付けた。それゆえに後楽園を作った人物として記憶されることになった。
しかし、実際はわずかに変更を加えたのみである。
後楽園と名を変えても、庭はほぼ父の頼房が徳大寺左兵衛に作らせたままの姿だった。
太古の森を背景に広大な池を現出させ、巨岩怪石を配した重厚な庭である。
巨木の木陰から滝の音が響き、庭を巡る人は深山にいるかのような錯覚に陥っただろう。
0708名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:01:08.58ID:HwBvERXo0
江戸初期までの石を使った庭は、中国の道教や神仙思想、あるいはこれに仏教の教えを
交え、宗教的・哲学的な理念を潜ませた庭である。
しかし、江戸時代も進んでどこでも庭を作るようになると、庭造りは様式化し、一切の
思想性を失う。それまでの庭は、僧と、僧が使役する特別な職人たちが作っていた。
僧は室町時代には石立僧と呼ばれていた。それを手伝う労務者は山水河原者と呼ばれ、
石立僧の補助者から庭造りの主役になっていく。
江戸時代に入ると、庭は徐々に普通の植木職人たちが作るようになる。
職人たち向けの庭造りのノウハウ本が出版され、誰でも庭造りが出来るようになった。
池をひょうたんの形にして「ひょうたん池」だと言ったり、ナマズの形にして「ナマズ池」
だと言ったりするようになるのは江戸時代も後半になってからである。
石を観賞するについても、石そのものの美でなく、蝦蟇に似ているとか亀に似ているとか、
烏帽子に似ているとかを喜ぶ。実際に蟾石(ひきいし)という名を付けられて庭の名物と
なっていたりする。まことに低俗な庭が作られるようになった。
古い名作と呼ばれる庭園にはこのような趣味は取り入れられていないのが普通である。

江戸時代、大名屋敷の中に庭園が作られたが、様式はほとんど共通していた。
池泉回遊式庭園である。庭の中心に広い池を作り、その周辺にいくつか築山を設ける。
池の周囲や築山を巡る苑路を設けて、歩くに連れて次々に展開する景色を楽しむという
趣向である。
苑路に沿って用意されているのは、古来和歌などに詠まれてきた名勝の縮景である。
例を挙げれば丹後の宮津・琵琶湖の唐崎の松・吉野山・三保の松原・松島など。
名勝というのではないが、東海道の小夜の中山・中山道の木曾の山道、尾花に覆われた
武蔵野の道など、古くから風情があるとされる土地の風景を再現したものもあった。
築山の山道を登るとそこは両側に檜や杉の生えた木曽路であり、道を下ると雑木林の
中にまばらにススキの生えた一帯がある。
そこの東屋から武蔵野の月を眺めるといった趣向である。
参考に六義園を紹介したブログを見てみよう。
https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_1416/
六義園は、六義園八十八境といって、池の周囲の苑路に紀州和歌浦を中心にした88の
景色が組み込まれていた。現在はそのうち32の景色が残っているという。
たしかに見事な庭園だが、大名の庭はどこも同じようなものであった。
それは当然だろう。明治になったときに、東京市の面積の半分は庭園だったという。
大名も旗本も、さらに金のある商人も寺社も庭を作った。茶屋やそば屋も空き地が
あればちょっとした庭を作った。
さらに江戸の周囲には庭木を育てる植木畑が広がっていた。
駒込などは庭師の村であり、庭師はみな広大な植木畑を営んでいた。
農民たちが庭木を栽培するようになり、そのうちに庭師として剪定や庭造りをする
ようになったのである。こんな村は千駄ヶ谷や渋谷、目黒、中野などあちこちにあった。
東京市の半分は大袈裟でも、三分の一ぐらいは庭園だったかも知れない。
大量に庭造りをし管理しているうちに、庭師の技術は普遍化し、みな同じような庭に
なってしまった。失敗もないが突出したものもない。
様式として完成したともいえるし、通俗化して形だけのものになったとも言える。
0709名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:05:09.10ID:HwBvERXo0
大名庭園には、庭園部分の他に「お薬園」と「水田」、果樹園と茶園が作られる
のが普通であった。
お薬園とは、センブリやゲンノショウコなど、漢方薬の素材となる植物を栽培する
農園である。地方の大名庭園では朝鮮人参を作るところもあった。
本来、朝鮮人参を栽培するのがお薬園の目的である。
しかし、それは会津や島根など地方だから出来るので、江戸では難しかった。
吉宗の時代に小石川薬園で人参の栽培が試みられたが、成功しなかったという。
仕方なく、人参以外の多種多様の薬草が栽培されることになった。
寛政3年(1791)には114種の薬用植物が栽培されていたという。
幕府の広大な薬園だからこそであり、ふつうの大名庭園では栽培の容易な薬草しか
植えられていなかったのではないか。
水田は元禄ぐらいから大流行し、どこの大名屋敷でも作るようになった。
(修学院離宮などの17世紀半ばに作られた庭園にも田圃はあるが、後から作られた
ものだろう。桂離宮でも明治以降に改造された部分が多々ある)。
農民の苦労を知るためとか理由はつけられていたが、風流のためである。
米が実ると案山子を立て、刈り入れの後はハザを立てて収穫した稲を干したりもした。
水田は旗本の屋敷でも作られていた。
旗本の庭園では、水田があるかどうかで庭の格が決まったという。
その他、庭園には果樹も植えられた。柿・栗・桃・橙や金柑など。
実がなると、御台所様とか上臈衆が訪れてそれを収穫する。
今のリンゴ狩りやイチゴ狩りと変わらない、年に数回の行楽であった。
果樹とは別に、茶の木を植え、茶の栽培もなされた。
その他、お花畑が作られ、日常の生け花などに使う花を育てた。
六義園などにも、昔はお薬園や水田や果樹園、茶畑などがあったのである。
0710名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:06:27.09ID:HwBvERXo0
上記から分かるように、大名庭園というのは大名やその家族の遊覧のための施設で
あった。大名やその家族は(お付きの者たちも含めて)、窮屈な生活をしているので、
時に自然の風景の中で陽光や風にあたり気晴らしをする必要がある。
庭園は、基本的に「お殿様の御休息のための場所」なのであった。
郊外の下屋敷に自然を模した広大な庭園を営み、外を出歩くのと同じ解放感を得ようと
したのである。だから苑路の周囲には日本中の名所に擬した風景(の縮景)を配し、
何度回っても退屈しないよう、四季折々の景色を楽しめるようになっていた。
たとえば冬に雪が降れば、雪景色を楽しめる一画があった。
ただ、たくさんの風景を詰め込んだ結果、大名庭園の景観はチマチマとした込み入った
ものになった。
江戸初期までの庭が、多少なりとも禅宗の庭の影響を受けて簡素で高尚な境地を目指し
たのに対し、大名庭園は石と植え込み以外に様々な植栽を施し、その他竹垣や東屋、
さらには水車などの工作物を配してゴチャゴチャしたものになった。
庭木の剪定も、究極まで変形させた盆栽のような形のものばかりになった。
江戸初期までの庭は、樹木を変形させるということはなかった。
庭木も園芸種は植えなかった。
大名庭園はこれとは逆に、庭木も草花も園芸植物のオンパレードであった。
例えばツツジである。ツツジは元禄の頃に大流行し、その後江戸期を通じて人気は衰え
なかった。参勤交代などを通じて日本中に広まり、地方で新種が開発されてまた江戸に
戻ってきたりもしたのである。
百人町の鉄砲同心たちが霧島ツツジを改良して内職として栽培し、大久保名物になって
いたのは有名である。江戸の庶民たちは狂気したようにツツジの盆栽や地植えをした。
ツツジは花が一度に咲き、派手である。
ツツジを大量に植えることにより、日本庭園は一変した。
築山をツツジで覆い、春の開花時期には一面赤や白やピンクの築山が現出した。
他に園芸種の花樹としては桜や梅、カエデ、椿などがある。
桜は花弁が盛り上がり、色が派手な八重桜が普及した。
八重桜は自然のままの桜と対置され、里桜と呼ばれた。
江戸人にとって桜は山桜と里桜の二種しかなく、ソメイヨシノなども山桜であった。
梅は自然にはあり得ない紅梅、あるいは黄梅なども植えられた。
黄梅は元禄の頃、中国からもたらされたものである。
猩々カエデは春の新芽のときから葉が真っ赤になり、途中ふつうの緑になるが、秋の
紅葉は自然では考えられないほど濃い赤色になる。
椿は古来から親しまれてきた花樹であるが、江戸時代になるまではヤブツバキなどの
野生種ばかりだった。昔から公家が椿を好み、秀吉も椿が好きであった。
伏見城は椿だらけで、椿の城と言われたという。
もともと伏見は椿の名所で、桃山丘陵に野生種がたくさん生えていた。
温暖な伏見には公家の別業(別荘)が多く、その庭に椿が植えられたのである。
http://shigeru.kommy.com/sikioriorihusiminotubaki.htm
秀吉はさらに、茶花(茶室に生ける花)として椿を好んだ。
長く伏見にいたためか、二代将軍秀忠の椿好きは有名である。
大名に椿を献上させ、江戸城内のあちこちに椿を植え、花畑には大量に植えたという。
そのため幕臣の他、大名にも広がり、画題としても取り上げられることが多くなった。
加賀前田家や熊本細川家では、代々の殿様が椿を好んで、国許の加賀や熊本では椿の
園芸種も盛んに開発された。
石川県では今でも椿の園芸農家が多い。加賀椿はとにかく上品である。
一方、肥後つばきは椿の中の椿といわれ、熱狂的な愛好家も多い。
熊本城にも大量に植えられている。城内の竹の丸跡の隣に椿園がある。
細川家の藩邸のあった文京区目白台の肥後細川庭園は、肥後椿の名所である。
江戸時代に開発された椿の園芸種は200種を超えるという。
なお、武家は椿を嫌ったという話は嘘である。明治以降に作られた与太話だろう。
0711名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:07:54.39ID:HwBvERXo0
ついでに。現在は有名庭園にアジサイが植えられていることがあるが、江戸時代には
あまり用いられなかったようだ。
アジサイは死者にたむける花で墓場に植えられるものであった。
だから今日でもアジサイの名所は寺が多い。
アジサイは奈良時代から歌に詠まれ、江戸時代にはよく画題にもされている。
だから人々はアジサイを美しいと感じ、嫌ったりはしていなかったのだろう。
しかし、庭に植えようとまでは思わなかったようである。
アジサイが園芸種として人気を博するようになったのは戦後もだいぶ経ってからである。
ヨーロッパから色彩豊かなアジサイがもたらされ、陰気な印象がなくなったせいだろう。
(しかし、そのアジサイはもともとシーボルトが日本から持ち出したものだという。
そのアジサイが欧州で人気を博し、品種改良が盛んに行われ、日本に逆輸入されるように
なったのだという)。

園芸種を大量に植えることにより、日本庭園は派手な色彩で目を楽しませる空間になった。
目を楽しませるというより、目を驚かせる空間というべきか。
このサイトは、岡山後楽園の写真を配布するフォトギャラリーである。
https://okayama-korakuen.jp/midokoro/496.html
是非JPEGファイルを開いて写真を鑑賞していただきたい。

岡山後楽園は城をバックにしているので日本庭園らしくも見えるが、西洋公園のような
印象も受ける。広大な芝生や広くて歩きやすい苑路など、誰でも日頃自分たちが親しんで
いる普通の公園との共通点を見いだすだろう。
一番大きいのが護岸である。一部コンクリートで固めた部分が見られる。
表面は石を並べて装飾してあるが、コンクリートの壁であることは明瞭である。
水戸の偕楽園や高松の栗林公園でもそうだが、明治以降県立の公園となって、西洋庭園の
技法を学んだ県の土木技師たちの手が入っている。これはやむを得ないことだ。
大事なのは、元々の庭園は、別荘の建物や茶亭や東屋からの眺望を楽しむ観遊式庭園で
あって、庭に苑路を張り巡らせ、隅々まで歩いて見て回るような形式の庭ではなかった
ことを知ることだ。
今日の公園は、基本的に歩き回るためのものである。実際にランニングをしている人も
いるし、運動のコーナーが設けられていたりする。
しかし、日本庭園は眺望を楽しむためのものである。一定の場所・角度からの眺望を
楽しむのである。動き回らないから見えない部分もある。しかし、見えない部分は見え
ないままに楽しむのである。ある景観を後ろや横から眺めさせたりはしない。
竜安寺石庭を想起して頂きたい。あの庭は一面からしか見ることはできない。方丈の
廊下からである。しかも、立って見るのではなく座って見る。
視線の高さも決まっているのである。
さらに、廊下ならどこでもよいというわけではなく、古くからここから見るのがよいと
いうポイントがあるようだ。
(もちろん何カ所からも見てみるのがよい。最良のポイントは自分が決めることだ)。
本来、日本庭園の景色というのは決まった位置から静止して眺めるものである。
このことを知っていれば、現代の西洋公園風になった庭でもある程度は観賞が可能である。
例えば天龍寺の曹源池庭園である。もともとは方丈の座敷から眺める庭であった。
今は龍門瀑の背後の築山に登れるようになっている。築山に苑路が作られているのだ。
だから拝観者はみな築山に上り、高いところからの景観を楽しんでいる。
しかし、作庭者はそんなことは予定していないのである。
天竜寺庭園は回遊式の庭園ではない。歩き回るための庭ではないのだ。
苑路があるのは、明治以降観光のためにそうしただけなのである。
曹源池を見るポイントは大方丈の中や大書院からであるが、実は今の建物は大き過ぎる。
あまりにも大きくて、工事のときに池の手前の石をいくつかどかして、池を縮小した
ほどなのである。
だから大方丈の室内や大書院、廊下から見るのは近すぎるのであるが、仕方がない。
もともとは今よりずっと奥まったところに小さな方丈があり、その西側にまばらな林が
あった。その樹間から曹源池が見えたのである。
秋には赤く色づいた林の向こうに、錦繍の嵐山を借景として龍門瀑や紅葉した築山を
見ることができた。そういうことを想像しながら眺めるほかはない。
0712名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:08:41.88ID:HwBvERXo0
[岡山後楽園について]
岡山後楽園は、岡山藩二代藩主の池田綱政が家臣の津田永忠に命じて作らせた庭園である。
起工は貞享4年(1687)、元禄に改元される一年前である。
津田永忠というのは土木や開拓・河川工事に秀で、郡代として数々の難工事に携わった
岡山藩士である。徳川家康における伊奈忠次のような存在だったのだろう。
綱政の頃の後楽園は、「沢の池」という自然に近い沼沢を中心に、別荘である延養亭と
能舞台の他、眺望のよいところに幾つかの亭舎(茶室や農家のような建物)が置かれて
あるだけであった。
池の周囲はほとんどが林と丘陵であり、自然のままの山林に多少手をいれて、桜が
たくさん植わった桜山とか、モミジの多い紅葉山、あるいは黒松が重なる松山などを
作り出した。周囲はほぼ湿地と水田であったが、水田はその面積からして庭園の一部
などではなく、庭園の囲繞地であった。庭園と外部を区切るための柵代わりでもある。
亭舎は、園内にある景色を眺めるための建物である。
例えば高台の斜面を茶畑にして、その上に農家風の建物を建てる。
そこの囲炉裏で湯を沸かし、縁側で景色を眺めつつ茶を喫するのである。
これらの建物を結ぶ通路はあったが、決して歩きやすい道ではない。
地盤を平らに削るようなことはせず、ふつうの山村の小道やたんぼ道と変わらない。
そんな道を通って茶亭に辿り着くと、竹垣がめぐらされ、枝折戸が閉じてある。
戸を開けて入るとそこは茶室の裏庭で、苔庭の丸い敷石を踏んで表に回る。
そんな趣向の庭であった。

綱政の時の後楽園が完成した時期は不明だが、能舞台などの凝った建物も作られたので
5年はかかっただろう。おそらく元禄の4年とか5年頃の完成と思われる。
(そもそも庭園の完成がいつかを論じるのは無理がある。木を植えても、それで完成と
言えるのか、枝葉を茂らせた成木となってはじめて完成と言えるのではないか、などと
理屈をいえばきりがない。「完成」とは「一応の完成」ということにする他はない)。
光圀の小石川後楽園の完成の時期も不明確である。
とりあえずの目安として、池の畔に彰考館が建てられたのは寛文12年(1672)である。
振り袖火事の10年後から工事を始め、5年かかったと想定したのと同じである。
小石川後楽園と岡山後楽園は、その完成時期におそらく20年の差はあるが、池の周囲に
建物を巡らすという共通点がある。
0713名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:09:02.29ID:HwBvERXo0
綱政の子継政(つぐまさ)は12年の歳月をかけて園内中央に唯心山を築いた。
唯心山は園内のどこからも見え、また唯心山から園内の全てを眺めることが出来る。
唯心山には四方からの登山道が作られ、各登山道に沿って建物がある。
北側の慈眼堂、南側の御茶屋簾池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店である。
それぞれ眺望が良い場所にあり、そこで休憩しながら風景を観賞するのである。
継政は、唯心山のふもとに水路を巡らせ、廉池軒の池と沢の池の間にひょうたん池を
掘り、ひょうたん池から沢の池まで水を流すようにした。
これによって一つ繋がりの大きな池が出来、その周囲を巡る苑路が作られ、池泉回遊式
の庭園となったのである。築山(つきやま)である唯心山もきずいたので、分類上は
築山池泉回遊式庭園ということになる。
唯心山から園内のどこでも眺められ、あそこに行ってみたいと思えばどこへでも苑路が
つながっている。そうした歩き回る要素が取り込まれた。
こうなると時代を経るにつれ、苑路は広く平らかになるばかりである。
苑路の脇に大きな岩などがあると通行の邪魔になり、風景も見辛くなるということで
どんどん撤去されていった。苑路はできるだけ平坦な方がいいので、築山が削られたり
もした。見晴らしを悪くする大木も切り倒された。
浅い池の中に御船石(おふないし)が置かれ、海の景色を表していたのが取り払われる。
後は菖蒲田とされ、初夏には一面紫の花に覆われる。
苑路に沿って園芸種の花樹が植えられ、鮮やかな色彩(いろどり)を添える。
こうして現代の公園につながるような、回遊性に富んだ、平明な庭園が形作られて
いったのである。
0714名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:10:31.32ID:HwBvERXo0
[栗林公園]
栗林公園(藩政時代は栗林荘)は川床に作られた庭園である。
徳川頼房の次男頼重が高松松平家の藩祖として入国するまでは、生駒氏が治めていた。
天正15年(1587)、生駒親正が秀吉から讃岐17万3千石を拝領したのである。
生駒家は信長の生母の土田御前の実家土田家と縁戚であり、信長に仕えていたが、その後
秀吉に重用され大名にしてもらった。典型的な豊臣大名であった。
生駒氏入国以前から、高松の人々は、香東川(こうとうがわ)の氾濫に悩まされていた。
当時の香東川は今の香川町大野あたりで河川が二つに分かれ、東側の流れは石清尾山系の
山裾に沿って流れていた。
今の栗林公園から番町筋を流れ西浜に注いでいたのである。
一方、西側の流れは現在の川筋を通っていた。現在の流れそのままである。
東側の流れは、山裾を通っているということもあって川床が浅く、雨が降ると川水が溢れて
洪水を起こした。しかも、川床が浅いために、台風の時など満潮時には海水が逆流した。
高松城下は年中高潮の被害を受けた。
そこで、東側の流れについては締め切り工事を行い、香東川の川床を西側の流れに一本化
してしまおうという構想が生まれた。
工事を指揮したのは西嶋八兵衛という近江人である。
藤堂高虎の家臣であり、土木工事の専門家として世に知られていた。
二条城の設計工事を担当したのも八兵衛である。※
高虎は築城の名人として知られているが、その下には八兵衛のような家臣がいたのである。
藤堂高虎は娘がを生駒家に嫁がせており、その娘が生んだ子が幼くして生駒家の当主になった。
高虎は外戚として幼い当主(生駒高俊)を後見する立場になった。
そこで、自分の懐刀のような家臣の西嶋八兵衛を生駒家に派遣したのである。
八兵衛は生駒藩主後見の役目を見事に果たし、その人柄と能力に惚れ込んだ生駒家重臣たちは
八兵衛を生駒家に貰い受けたいと高虎に願い出た。
高虎は八兵衛を藤堂家家臣の身分のまま生駒家に仕えさせた。
こういう形の仕官を客臣という。今でいう出向である。
寛永2年(1625)のことである。
0715名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/09/03(土) 07:11:19.33ID:HwBvERXo0
※築城といっても二段階ある。まずは城郭全体の構造を決め(これを縄張り、という)、
土塁や石垣を築く基礎工事。この土木工事を「普請」と言った。
次に整地された敷地や石垣の上に天守や御殿、櫓などを作る工事がある。
これを「作事」という。
普請と作事の違いは、現在の土木と建築の違いである。
築城名人といわれる藤堂高虎、加藤清正などは「普請」の名人であった。
たとえば名古屋城天守閣の石垣は加藤清正が築いたものである。
これに対し、作事の面で築城名人といわれた小堀遠州がいる。
名古屋城天守閣や江戸城天守閣の建物部分は遠州の設計・監督による。
二条城は普請が藤堂高虎、作事が小堀遠州である。
遠州は二条城に総塗籠の五重の天守閣を築いた。
秀吉の聚楽第を凌ぐことを目指した壮麗な城であった。
しかし天守閣は落雷で焼失し、本丸も火事で焼けてしまった。
今は二の丸御殿が残るのみである。
(現在本丸御殿とされているのは桂宮家の御殿だった建物である。明治27年に本丸の
跡地に移築されたものである。当時は二条城が天皇家の離宮とされ、天皇が京都に還御
されたときの宿所とされていた)。

生駒家の客臣となった八兵衛は生駒家の普請奉行や郡奉行として活躍した。
溜め池を掘り、古い溜め池を修築した。満濃池は周囲まで泥に埋まってほとんど機能
していなかったが、泥土を掘り上げ、その土で堤防を嵩上げして復活させた。
讃岐は「旱天五日に及べば水湿の潤いなく霖雨二日に及べば洪水の恐れあり」と言わ
れる土地である。五日雨が降らねば大地はひび割れ、雨が二日続けば洪水になるという
のである。溜め池だけでなく、洪水対策も必要である。
洪水といえば、香東川の東側の流ればかりはどうにもならなかった。
八兵衛は香東川の工事はどうしても避けて通れないと判断するに至った。
工事は寛永の8年(1631)頃に始まり、寛永14年(1637)頃に完成したという。

川床の一本化により、従来氾濫を起こして農民を悩ませていた東側の流れは消滅し、
後には10キロほどの川床が残った。数年後にはこの川床が美田に変わる。
しかし寛永17年(1640)、生駒家には御家騒動が起き、出羽で一万石に改易となる。
改易は、御家騒動云々より、生駒家が豊臣大名であることが一番の原因だろう。
(八兵衛は改易の一年前に藤堂家に戻った)。
その後に入ったのが頼重で、以後明治まで高松松平家がこの地を治めることになる。
0716名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:13:03.82ID:HwBvERXo0
栗林荘(以下、県立公園になる前の庭園を栗林荘と呼ぶことにする)は、最初はこの地の
豪族であった佐藤氏が作庭した庭園であった。※
佐藤志摩介(道益)なる豪族は、はじめ香西佳清に仕え、続いて仙石久秀に仕えた。
続いて生駒氏が領主になると生駒氏に仕えた。
この佐藤志摩介が隠居して道益と号し、隠居場の裏に庭園を作ったのである。
この庭が栗林荘に発展していくことになる。
※高松松平家ではこの庭園のある地を「御林」、庭園を「御庭」と呼んでいた。
しかし栗林公園になる以前のこの庭園は、すべて栗林荘と呼ぶことにしたい。

道益が亡くなった後、庭はおそらく放置されていたのだろう。
その後、香東川の東側の流れの付け替え工事がなされ、同益の庭は大きく様子を変じた。
川の流れに沿った傾斜地に作った庭園の下に、広い川床が現れたのである。
当時の川であるから、川床には大きな石がゴロゴロしていた。
この川床の土地に、生駒氏が広い庭を作ることになる。
想像するに、栗林園のある土地はもともと川床で水が溜まりやすく、背後は紫雲山などの
山なので水も出やすい。大雨が降ったときに大量に水が溜まり、今とほとんど変わらない
ような見事な景観が現出したのではないか。
これだけ見事な景色なら、水を溜めたままにした方がよいと誰もが思ったのである。
そこで池が作られた。
生駒氏の作庭(改修)工事は、寛永8年(1631)からだという。
香東川の河川付け替え工事が始まった年と同じだが、こんなはずはない。
栗林荘は、香東川の東の流れを堰止めて現れた河床に作られた庭園であるから、河川工事と
造園の工事が一緒くたにされたと思われる。
栗林荘になった場所が、この当時どのように利用されていたかを示す資料は存在しない。
だから想像するしかないのであるが、常識的に河川工事が終わってから造園がなされたと
考えるべきだろう。作庭開始について1637年とする説があるが、それによるべきである。
では造園の工事は誰が指揮したかというと、やはり西嶋八兵衛以外に考えられない。
八兵衛の主人である藤堂高虎は築城の名人とされ、生涯20を越える城を作ったとされる。
大洲城、宇和島城、今治城、尼崎城、江戸城、伊賀上野城などである。
江戸城では「縄張り」を任された。縄張りとは城郭の基本設計のことである。
御殿や櫓などの各種建物、通路、堀などの位置や大きさを決め、実際に縄を張る。
家康は大名たちを一同に集めることのできる広大な座敷を備えた大きな本丸を望んだ。
本丸には大天守閣を築こうとしたという。
しかし高虎は、まだ豊臣家があり戦が起きぬとも限らないのだから、戦争に使える城を
築くべきだと主張し、普通の大きさの本丸と天守閣になったという。
高虎は日光東照宮の造営も行ったという(家光が建て替える前の建築である)。
これらのすべてに西嶋八兵衛がかかわっているのである。
城には前園・中園・後園の三つの庭園が必要なことは上述した。
築城のときに庭の基本的な部分は作ってしまうのである。
庭園の植栽はただの上物(うわもの)である。庭園造りの九割は土木工事である。
大石を運びこんであちこちに石を積む。池には分厚く粘土を敷く。
そこに水を導入したり排水したりするのだから大土木工事になる。
後園の周囲には深田を掘る。泥沼のような水田にすれば戦のときに堀の代わりにもなる
のである。築城時に工事して当たり前である。
さらに八兵衛は二条城の設計築城もしており、二条城二の丸庭園は名庭として知られる。※
これらを考えると、生駒氏時代の栗林荘は八兵衛が作庭したと考えるのが妥当だろう。
植え込みや石組みなどの細かなところはともかく、基本的な構造は八兵衛の設計である。
ただし、作庭を始めて数年後には御家騒動となり、八兵衛は讃岐を離れる。
庭園は未完成だったはずである。
しかし、高松松平氏の記録は、今の栗林園の地に生駒氏の庭園があったとしている。
頼重が高松に入ったのが寛永19年(1642)5月28日で、7月には庭園を視察している。
大まかな部分は出来上がっていたのだろう。
0717名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/03(土) 07:13:48.03ID:HwBvERXo0
※ 二条城は家康が関ヶ原合戦のすぐ後、慶長7年から8年(1602~03年)に築城した城で、
その目的はまずは将軍任官拝賀のためであった。だから急いで二年間で作られたのである。
しかしその時は一応の完成であり、最終的に寛永3年(1626)に完成した。
二の丸庭園は家康が築城したときからあったという。
寛永3年(1626年)に後水尾天皇を迎える際に小堀遠州を作事奉行とし、城を完成させた。
行幸の2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿などを建てた。
そのときに二の丸庭園も今のような形になったといわれる。
だから二の丸庭園は小堀遠州作といわれるのであるが、それ以前に庭は在ったのだから、
全部を小堀遠州が作ったわけではない。前島八兵衛作庭の部分も少なくないはずである。
普請(土木工事)の部分はほぼすべて八兵衛によると考えていいのではないか。
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/teien/
なお、本丸庭園も最初からあった。
これは池泉庭園ではなく、今と同じ芝と植え込み中心の庭だった。
二条城の正門は東大手門である。入ったところに二の丸御殿がある。
だから二の丸庭園は二条城の前園なのである。本丸庭園が中園である。
では後園はどこかというと、それは言うまでもない。神泉苑である。
神泉苑は古来禁裏の一部である。大内裏の裏側にある聖域だった。
二条城はそこを取り込んで建てられた。それにより神泉苑は十分の一の規模になった。
二条城の堀も二の丸庭園の池も、神泉苑の池の水を奪い取ったものであることは、
地図を見れば分かるだろう。
今は二条城と神泉苑の間は駅などが作られ離れているが、昔はくっついていた。
二の丸御殿の池は、堀を挟んで神泉苑の池の続きのようなものであった。
それが前園でありながら二の丸御殿の庭に池がある理由である。
本丸御殿の庭には池が無いのは神泉苑から遠いからである。
0718名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:41:12.23ID:iiAqLOC20
[ 栗林公園続き ]
頼重は30年の長きに亘り讃岐高松藩主の地位にあった。
藩主になったのは20歳のときである。
延宝元年(1673)に弟光圀の子頼常を養子に迎え、家督を譲って隠居した。
隠居に際して栗林荘に御殿を作り、亡くなるまでの20年以上を過ごした。
隠居場を作ったくらいだから、頼重は栗林荘を好んだのだろう。
藩主として30年、隠居として20年。頼重が50年に亘り栗林荘にかかわったのだから、
庭園はこの時代に完成したと考えて間違いない。
しかし、一般に栗林荘が完成したのは延享2年(1745)、初代頼重の藩主就任から
100年後のこととされる。五代藩主頼恭の時代である。
つまり、初代頼重が50年、その後五代藩主まで四人の藩主が50年、合計100年の間、
庭造り(改造)が続けられたということになる。
(頼重が隠居し頼常が二代藩主となった後でも、頼重の住んでいる庭園に手を入れる
ことはできなかっただろう。頼常が庭園の改造を始めたのは、頼重が死んだ後のこと
である。だから庭園の歴史としては頼重が50年としてよい)。
何故庭園作成に100年もかかったかといえば、「大名庭園」として完成したのが100年後
だからである。頼重の時代に完成した庭は、後の藩主により徐々に作り変えられ、100年
かかって典型的な大名庭園になったのである。

栗林公園を紹介したサイトとしてはここがよい。
特別名勝「栗林公園」のすべてを大公開!
https://digitalcamera-travel.info/ritsuringarden-all/
撮影技術が秀逸である。
0719名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:42:04.75ID:iiAqLOC20
[小石川後楽園の破壊]
水戸藩四代藩主の宗尭(むねたか)の実父・高松松平藩主の頼豊は、宗尭が幼弱
であることを理由に、後見と称して小石川藩邸に入り浸り、実質的に水戸藩主の
ようにふるまっていた。
このことは上述した。
さらに頼豊は政治に口を出すだけでなく、小石川後楽園の改修を始めた。
あれよあれよという間に庭園は作り変えられた。
水戸藩士たちは「ここにおいて園中の絶勝大いに変ず」と慨嘆した。

頼豊は小石川後楽園を全く別の庭園のようにしてしまったらしいのだが、これに
ついて触れる前に、桂昌院の御成りに触れなければならない。
実は、小石川後楽園は、頼豊の改修の前にも風景を変じているのである。
元禄十五年(1702)に将軍綱吉の生母桂昌院の御成り(来訪)があった。
そのときに歩行の障害となる奇岩大石を取り除いたのである。
園内の景勝は著しく損なわれた。

桂昌院はその時76歳であった。
小石川後楽園を訪れたのは亡くなる三年前のことで、当時で76歳といえばもう
ヨボヨボだっただろう。
こんなお婆さんがわざわざ来なくてもよかったのである。
だが本人は若い頃から出歩くのが好きであった。
出歩くといっても物見遊山ではない。
信仰心が篤く、寺社参りに熱心だった。
お参りするのは寛永寺・増上寺・浅草寺など。帰依する僧・隆光のために建立した
護国寺には数え切れないほど行った。そして綱吉の別邸白山御殿である。
白山御殿は綱吉が館林藩の藩主だったときの藩邸跡であり、ここに本郷元町の鎮守で
あった白山神社を遷座して傍らに御殿を建てた。(今の文京区白山の白山神社である)。
綱吉と桂昌院の個人的な神社のようなものであり、ここに参っては御殿で参籠した。
その他は、側用人牧野成貞邸と吉保邸への御成りがある。
綱吉の柳沢吉保の下屋敷(六義園)への御成りは有名であるが、牧野成貞邸を訪れた
数も半端ではない。綱吉が行った回数は32回、うち桂昌院同伴が13回である。
その他に桂昌院が単独で訪れたのが3回ある。
桂昌院は単独でも御成りをしたのである。単独といっても、大勢の女中たちを引き連れ
てのことだろう。女中たちは「代参」という形であちこちの寺社に出歩くのを好んだが、
大名屋敷への御成りの方がはるかに贅沢な思いができたはずである。
桂昌院の御成りというのは、奥の女中たちのレクリエーション的な行事という性格が
あったのかも知れない。小石川行楽園への御成りもおそらくそうであったのだろう。
※牧野成貞は綱吉が館林藩主時代からの側近であり、初代側用人である)。
0720名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:42:49.53ID:iiAqLOC20
御成りというと、自分の気に入りの大名の屋敷に行って歓待され、ご馳走を食べ、
庭などを見物して帰ってくるような遊興的な行事と想像されがちである。
実はそうではなく、将軍と家臣との学問芸能の交流の場という性格があったようである。
学問は儒学、芸能は能であった。
まず能に関してだが、綱吉は将軍就任以前から能に耽溺していた。
能を見るだけでなく、自分でも頻りに舞ったことでも知られている
江戸城では頻繁に人を集め、自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも舞を強要した。
何人もの能役者を幕臣に取り立てて身近に置き、能の相手をさせていた。
当時は大名にとっても能を舞えることは必須の素養であり、どこの大名でも能役者を抱え、
身辺に置いて能の稽古をした。
例えば四代将軍家宣・家継の側用人間部詮房は、甲府德川家の家臣の子であるが、幼くして
猿楽師・喜多七太夫の弟子となった。七太夫に付いて家宣(当時は綱豊)の傍らに侍るうち
に、利発さを認められ、小姓に抜擢された。これが出世の糸口になったのである。
綱吉は玄人(くろうと)の能役者の舞にもたびたび口を出した。
本来のしきたりにならって演じると、綱吉がそれを変えるように命ずる。
綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあった。
喜多(きた)流では、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされた
ほどである。また綱吉は、当時上演が途絶えてしまった古い能を観ることを好んだ。
この将軍の好みにあわせ、能役者たちは室町時代の曲目を復活させたりした。
綱吉が相手では誤魔化しは効かなかったはずで、その苦労はたいへんなものだっただろう。
次は儒学である。
御成りは、主として儒学の研鑽が目的であった。
綱吉は、大名や旗本などを相手に、元禄3年(1690)から6年にかけて四書を講じた。
また既述のように、上野にあった林家の家塾を湯島に移し、湯島聖堂と昌平黌を建てた。
代々林家の当主を大学頭(だいがくのかみ)に任じて昌平黌を主宰させることにより、
朱子学を国教化させた。
綱吉は儒学に傾倒し、儒学を政治指針とし、儒学の根本理念たる「仁」による政治を
推し進めた。政権後半期には生類憐れみの令を発し、社会に「仁心」を浸透させようと
した。(生類憐れみの令という法令があるわけではないのはご存知のとおり)。
綱吉は儒学に傾倒する余り、キリスト教の宣教者(福音を伝える人)のように、儒学を
世に広めて人々が仁心を持つようにしなければならないと思い定めていた。
元禄7年(1694)、綱吉は江戸城の本丸に役人たちを集め、「生類憐れみのことは専ら
慈悲の心にある」と説き、「仁心こそを持ち、人々の志が素直になるように心掛けよ」
と指示した。生類憐れみの令は実施の面で異常な形を採るようになったが、仁の理念に
よる政治という点では一貫していたのである。
綱吉にとって、御成りとは儒学を公布公宣するための重要な手段であった。
下にあるように、綱吉が御成りの屋敷で「仁徳」の書を配ったりしたのは、綱吉にとって
は真剣な布教活動だったのである。
0721名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:43:38.39ID:iiAqLOC20
ある日の安倍正武邸への御成りの様子を見てみよう。
(文中の安倍正武は綱吉の武家諸法度の改訂に加わった気に入りの大名。後に老中)。
御成りにあたっては、まず奉行を任命する。この奉行が全てを采配するのである。
安倍の屋敷では御成りのために屋敷を新築した。これを御成屋敷という。
屋敷新築にあたっての普請奉行を別に任命した。
御成りの前に、老中が護持院の隆光僧正を江戸城に呼び、他の老中四人とともに祈祷を
依頼した。天気も良好で万事うまく行くようにとの祈祷である。
この以来に基づき、御成りの前に、護持院の隆光僧正が御成屋敷に上がって祈祷した。
御成りの前に屋敷を浄めるといった意味合いがあったのかも知れない。
御成りには多数の家臣の他、隆光をはじめ、金地院(臨済宗)、護国寺、大護院、
根生院の僧たちも随行した。
九つ頃(昼12時)に来訪して、最初に贈答が行われる。
屋敷の主人に御腰物代金・馬代金・時服・酒肴・鞍置代金・茶碗・茶入・鐙が贈られた。
その後主人の家臣たちがお目見えをし、将軍から各人に時服が送られた。
その他、将軍の大文字「仁徳」200枚が贈られる。現代の色紙のようなものだろう。
九つ半(1時頃)から学問の講釈が始まる。
将軍自身による「大学八条目」の後に、儒者二人が講釈をし、最後に小姓一人が講釈を
した。子供にやらせたのである。八つ過(午後二時半頃)に終わって昼の御膳。
七つ時(午後4時頃)から能が始まった。
屋敷の主人が「上老松」・「八嶋」を舞い、息子が「上羽衣」・「西王母」を舞う。
次に能楽師による仕舞に移り、「舟弁慶切」「養老切」が舞われる。
能が終演となると家臣たちに将軍から再びものが贈られた。
その後饗宴(食事と酒)、暮六つ半過ぎ(午後5時過ぎ)に屋敷を立って江戸城に還御。
翌日、安倍正武は江戸城に登城し、御成りのお礼を申し上げる。
そのときに御台所様(正室)や奥の方々から正武にお礼の品が贈られた。

余談になるが、桂昌院は寺社に参るだけでなく、寺社への布施も盛んに行った。
有名なのは奈良や京都の古刹への寄進である。
桂昌院のもとへ寄進を依頼する僧たちが引きも切らなかったという。
桂昌院が寄進に費やした金額は、幕府財産の三分の一に達した。
幕府は生類憐れみの令でも大出費をしたから、この親子は頭痛の種であっただろう。
しかし、この女性が寄進という形で建物の修築費用などを出さなければ、奈良京都の
文化財は大いにその数を減じていただろうと言われる。
朽廃激しい堂宇を持て余していた古寺にとっては、まさに救世主であった。
たとえば法隆寺の元禄の大修復は桂昌院がいなければなされなかった。
あの時点で修復されなければ、金堂や五重塔は朽廃し崩壊していたかも知れない。
奈良の大仏殿再建にも尽力した。彼女からの寄進がなければ、大仏は明治になるまで
頭部が焼け落ちた状態で露座のまま置かれていた可能性がある。
0722名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:44:49.37ID:iiAqLOC20
小石川行楽園への桂昌院の御成りの話に戻る。
御成りがあったのは元禄15年。光圀公が亡くなった翌々年である。
(光圀の没年は元禄13年(1701)である)。
光圀公の思い出話でもしていて、ちょっと出かけてみようかという気になったのか、
それとも上記のように、女中たちが行きたがったのかも知れない。
ただし、行くにしても婆さんであるから足が弱い。
もし転びでもさせたらたいへんである。
そこで安全な苑路を作るため、邪魔になる岩や大石が撤去された。※
苑路は、お付きの女中が婆さんを左右から支えるだけの幅は必要である。
つまり、三人並んで歩ける広さでないといけない。
園内のあちこちに、撤去した岩や石を積み上げた山ができたという。
さらに、道を拡げただけでなく、平坦にしたはずである。
上り坂になっている道は削り、下り坂は埋めて平らにした。
築山や地盤まで、切り土・盛土といった工事がなされただろう。
部分的に石畳なども敷設されたと思われる。
この写真に近いような苑路が作られた可能性はある。
https://iyashi.midb.jp/detail/64712
最低限、道は砂利で固められ、その上に山砂を敷いて突き固めたと思われる。

※「後楽園紀事」は以下のように記している。
おしむべきとは元禄年中、桂昌院大夫人(常憲公の御実母)、この御園へ御入御ありける時、
大石奇石大夫人御歩行の為危うしとて、大概取りはらはる。
数月を経て、その石さくら馬場、銅蔵の辺りそのほかも、よりもよりに取りのけて、
所々の隅ずみへ積重ねたる山のごとし、この時園中の景変し侍りぬ。

桂昌院のための園内道普請は、小石川後楽園にとって破壊以外の何者でもなく、
大厄災というべきである。
唯一救いとなるのが、桂昌院が高齢で、園内を隈無く見物するようなことは出来
なかっただろうということである。
当時の後楽園の規模は現在の四倍以上あった。
その中で老婆がどこを見るかといえば、対象は限られてくるだろう。
おそらく東門から入って大泉水の周囲を見物しただけではないか。
大堰川の方も眺めはしたろうが、西側は崖側になり起伏に富むので、老婆が歩む
には適していない。転ぶのを用心して歩かせなかったのではないか。
というようなわけで、破壊は一部にとどまったと思われる。
ただし、大泉水は庭園の中核である。
その石組みが崩されて撤去され、池畔の石が取り払われてしまったのは惜しい。
おそらく金地院方丈庭園がいくつも並んだような石組みだったはずである。
小滝もいくつかあっただろう。
それらが破壊されたのは文化史上の一大損失というべきである。
0723名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:45:28.34ID:iiAqLOC20
[ 頼豊による小石川後楽園改修 ]
頼豊が行楽園を改修した時期については、具体的なことは分からない。
どの資料も「享保年間」としか言わない。
頼豊の息子である宗堯(むねたか)が水戸家の四代目藩主となったのは享保3年(1718)
である。その前から水戸家の養子に入っていたが、この年に先代の綱条が亡くなり、
家督を継いだのである。
先代も隠居したのではなく亡くなった。そして息子が藩主になった。
だからもはや誰も遠慮する者が無く、やりたい放題のことをやり始めたのである。
したがって、庭園の改修は享保3年以降であることは間違いない。
息子の宗堯は上記のごとく早世した。享保15年(1730)である。
宗堯が藩主であったのは12年間ということになる。
行楽園改修の時期は、この12年間のうちのいずれかという他はない。
頼豊は参勤交代もしなければならないから、江戸にいたのは6年。
庭の改修などは一気にやるものでもなく、あっちを直しこっちをいじり、というような
やり方だろうから、息子が死ぬまでずっとやっていたのかも知れない。

ところで、光圀による小石川後楽園の完成は、上記のように寛文12年(1672)頃と推測
される。頼豊による改修が、息子の宗堯が藩主になってすぐの享保3年(1718)から
始まったと仮定しても、その間には半世紀近い歳月が流れているわけである。
もちろん、光圀はその後隠居したとはいえ元禄13年(1701)まで生きている。
光圀が生きていた間は、たとえ水戸に隠棲していても後楽園の管理は十分になされて
いただろう。元禄15年の桂昌院の御成りによって庭園は随分と姿を変えたとはいえ、
その時に園内の整備も十分になされたはずである。
その翌年には地震があり、庭園の滝が崩れたりした。
滝は元には戻していないようだが、それでも大名の庭園が放置されるということは
考えられない。
だから頼豊が園内の木を700本も切ったというのは、鬱蒼と茂りすぎていたとか、
見晴らしが悪くなっていたとかいう理由ではない。
単に庭園を自分の好みに造り替えたかっただけのことである。
頼豊の好みは、典型的な江戸時代中葉の大名庭園であった。
大きな池泉を中心にして、その周りの苑路を巡り、さまざまな景を楽しむという池泉
回遊式庭園である。さらに、池泉の周辺に小山を築き、高いところからの展望を楽しむ
とか、築山の樹林で池泉の景観を一部遮り、進んでいくと急に視界が開けるといった
趣向の庭園※、すなわち築山池泉回遊式庭園である。
※このような作庭技法を「見え隠れの法」という。
0724名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:47:38.10ID:iiAqLOC20
このような庭園の特徴は、何といっても景観が賑やかなことである。
さまざまな園芸種の樹木や草花を植え、花を咲かせて季節ごとの風景を楽しむ。
さらに、園内の景色を日本各地の名所に見立てるのである。
(ただ見立てるだけでなく、景勝を模した景観を作り出したりもする。これを「名所写し」
という。こうした趣向の庭園を縮景庭園という)。
「後楽紀事」によれば、小石川後楽園の大泉水は、琵琶湖ということになっている。
唐門から入った先は「京都への旅」という一種のテーマパークになっているのである。
唐門を入っていくと周囲に木がたくさん生えた水路がある。それは木曽川である。
とっつきにある石は「寝覚ノ床」であり、木曽路をめぐって唐門方向に戻り、大泉水の
畔を行くと、池の中にいくつか石があり、それは「竹生島」ということになっている。
池の対岸に見える一つ松は、琵琶湖随一の名所「唐崎の松」である。
池を巡って対岸に出るとその向こうに「白糸の滝」がある。
この白糸の滝は富士山の麓にある滝ではなく、京都府西京区の白糸の滝だろう。
そこから西門の方向に下ると小さな泉水があり、そこはもう嵐山である。
大堰川があり渡月橋がある。その北側に音羽の滝があるが、音羽の滝もいくつかある。
本家本元は古来歌に詠まれた名瀑で、音羽三山(桜井市)の音羽山にある滝である。
しかし、後楽園の音羽の滝は、京都清水寺の奥の院の崖下にある滝のことである。
清水寺の寺名の由来となった滝である。
音羽の滝の奥の高台に清水観音堂(跡)があるのだから、当然そうなるはずである。
その他、竜田川があり、並んで紅葉の林がある。竜田川は生駒山系から流れ出す奈良県に
ある川で、秋の紅葉で有名である。
そこに坂があり、愛宕坂と名付けられている。京都の愛宕山に見立てたものである。
0725名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 22:59:49.03ID:iiAqLOC20
園内の景色についてはこのブログがよい。写真もうまい。
(ブログのアドレスを書くと書き込めなくなる。以下の標題をコピペして検索していただきたい)。

小石川後楽園【訪問編】  まだ知らぬ、日本を訪ねて

江戸時代も中期以降になると、庭園作成者は築山池泉回遊式庭園に加え、その近くに
田園あるいは里山の風景を作り始めた。
田園風景といえば、まずは「水田」である。田圃の周囲の湿地帯には菖蒲やアヤメが咲く。
斜面には一面に彼岸花が咲く。
里山の麓には梅林があり、柿の木や杏・桃の林がある。
そういった、日本人にとって懐かしい風景が庭園の景として作られるようになった。
小石川後楽園にも水田があり、梅林があり、菖蒲田がある。
なお、後楽園の水田については光圀の養子綱條の正室が今出川家の姫君であったので、
これに農民の苦労を教えるために、光圀が作らせたといわれる。
しかし、農民の苦労云々は庭園に水田を作る際には必ず理由とされることである。
さらに、この話の典拠は鵜飼信興「後楽紀事」である。
後楽紀事が著されたのは元文元年(1736)であり、水戸藩主は5代宗翰の時代である。
光圀が後楽園を作ってから60年以上も経っており、内容の信憑性には疑問がある。
この「後楽紀事」については後に触れる。

さて、以上が現今の小石川後楽園の姿である。
このうち、光圀が作庭した部分がどれだけ残っているかといえば、おそらく庭園の輪郭と
いくつかの構造物だけだろう。
水戸藩初代の頼房が徳大寺左兵衛に作らせた奇岩大石を用いた庭は、桂昌院の御成りの
ときに大きく姿を損じた。さらに鬱蒼とした大木や石組み・滝などによって形成されていた
深山か仙境のような雰囲気は、頼豊の改築によって一掃された。
小石川後楽園は、明るく平坦な、どこの大名庭園とも変わらない庭に一変した。
大泉水が琵琶湖であり、その傍らに生える一本松が唐崎の松だという。
大堰川に渡月橋、さらに竜田川に紅葉の林だという。
現代人は、光圀公がこういったものを作って悦に入っていたと思うのだろうか。
細長い池の横に苑路があり、ここは木曽路だよとか、手前の石は寝覚ノ床だよ、などと
光圀公がやっていたと想像するのは自由である。
だがその想像は、おそらく間違っている。
小石川後楽園の景色(「景」という)を琵琶湖や京都などに見立てるのは、頼豊がやった
ことである。頼豊は、園内の景色を名所に見立てるために随分と手を入れ、新たに景を
作り出したりもしている。
もともと池の周囲は、石組みによって仕立てられていた。
これは私が想像して言うのではない。時代的に、当時の庭園というのはそういうもので
あった。最低でも旧芝離宮庭園や清澄庭園のような、石で池の輪郭を作る庭園だった。
石の大きさや数は、おそらくこれらの庭園をはるかに凌駕していただろう。
そこはさすがに御三家の屋敷の庭であり、徳大寺左兵衛の作った庭なのである。
0726名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 23:00:55.87ID:iiAqLOC20
左兵衛は土地の形状はそのまま生かし、何百年と経た大木もあえて切らなかった。
深山幽谷のような雰囲気をまとった庭であった。
光圀も、よほどの必要がなければ一木一石も動かそうとはしなかったはずである。
光圀は、庭園際に彰考館を建てる必要から、庭園を内庭と「後楽園」とに分けた。
藩邸の一部である内庭と純粋の庭園部分とを明確に区別し、庭園部分に漢籍から名前を
付けたのである。内庭と後楽園の境として唐門を作った。
それから池の周囲、それも岸辺から離れた森の中のような場所に中国風のお堂を建てた。
光圀は庭園を改造するといっても、何かをプラスしただけである。
従来の庭園を破壊するような改造はしなかった。
光圀は庭園を改造したというよりも、完成させた人というべきかも知れない。
庭園の改造として行ったものは、中国庭園の趣きを導入したことである。
朱舜水設計によるという円月橋、西湖の堤である。
光圀の意図としては、おそらく中国の仙境のような庭園を作りたかったのではないか。

https://www.nikkei.com/article/DGXNZO62019680S3A101C1CR8000/
円月橋の書かれた絵図である。
絵の部分をクリックすると拡大される。
橋の周囲は無数の大木が生え、後ろの山には巨石が並んで中国の山水画のようである。
踏み石の並んだ苑路が岩壁を縫い、踏み石の周囲は白っぽい小砂利で固めてある。
橋は自然石を渡したもので、その下を清流が流れている。
水はかなりの勢いで流れている様子である。神田上水の水を引き、滝の上まで水車で
汲み上げていたという。
右端にある竹藪は日本の竹ではないだろう。唐竹である。
https://www.youtube.com/watch?v=7IFXsWD9ryo
先端の方はしな垂れて、ボサボサしている。

昔の絵図や明治初年の頃の写真
https://smtrc.jp/town-archives/city/bunkyo/p08.html
0727名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 23:01:46.07ID:iiAqLOC20
清水観音堂は、時代的には光圀が作ったものである。
https://kakezukuri.omiki.com/kakea1.html
崖の上に懸造り(かけづくり)で観音堂を作り、舞台がしつらえてあった。
舞台といっても芸能のための舞台ではない。崖の上にせり出した縁(えん)を言う。
下に白糸の滝があり、これは清水寺の奥の院の滝だという。
さらに、清水観音堂の本尊は清水寺と同じ千手観音である。
すると平仄が合い、この観音堂は清水寺の写しだということになる。
光圀公も名所の見立てや名所写しをしていたではないかと言われそうである。
しかし、これらは「見立て」が変わっただけである。
観音堂は、もともとは清水寺など意識されていない。
ここの景観は、中国の普陀山を写したものなのである。
普陀山は、中国浙江省舟山群島にある。
群島というが、ほとんど湾内にある島である。
広島の尾道の向島とか因島といった島々を想像すればよい。
ところで、光圀が招来した朱舜水は浙江省の人である。
上述したように、朱舜水は明の遺臣で、革命資金をつくるために貿易に従事しており、
普陀山の隣の舟山島には商船隊の基地があった。
(海戦に疎い清軍は舟山群島までは手が出せず、明の遺臣団が支配していた)。
朱舜水にとって故郷であり、青春時代を過ごした土地でもある。
この海域の普陀山は、島であるとともに山である。
有名な観音霊場であり、中国における観音信仰のメッカである。
観音は如来ではなく菩薩である。菩薩はまだ仏になる以前のものであり、人間である。
だからその浄土も娑婆(人間世界)にある。
普陀山はその浄土であるといわれていた。
浄土とは本来仏(如来)の住まいであり、国土である。
たとえば阿弥陀如来の浄土(極楽)は西方十万億の仏土の彼方にあるといわれている。
そこへは、人は死んで生まれ変わるという形でしか行けない。
しかし、観音浄土には人間のまま行くことができるのである。
普陀山は、中国の有名な五つの観音浄土の一つである。

普陀山の山頂である仏頂山山頂に至れば、西や南に舟山群島が望め、東には東シナ海が
広がる。小石川後楽園の大泉水は、大きく東シナ海と捉えることもできるし、普済禅寺の
東側の海岸と捉えることもできよう。
(下の2行を一度にコピーしてブラウザのURL欄に貼る)
https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/zhoushan/putuo-mountain-scenic-area-
93331/?rankingId=100001369048
0728名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 23:02:28.32ID:iiAqLOC20
[八卦堂]
八卦堂は、おそらく浙江省西湖の雷峰堂をイメージしたものだろうということは上述した。
光圀が将軍家光に謁見したおりに、中国の学問の神である文昌星の像を頂戴した。※
(現在この文昌星像は徳川ミュージアムにある)。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215747
この文昌星像を安置したのが八掛堂である。
光圀の時代には文昌堂という名称であった。

※ 文昌星とは文字通り星であり、周囲の星を併せて文昌宮と呼ばれる星座をなす。
(北斗七星の枡形の第一星(魁星とよばれる)も学問の神とされ、両者は重なる)。
中国の星座は、北極星を「天帝」とし、周囲の星に役所や庭園や役人の名称をあてはめ、
北極星から離れるにしたがって身分の低い庶民の世界となり、豚とか市場を現す星座も
ある。夜空を、天帝の支配する一つの国(天界)と観念していたのである。
文昌星を中心とする文昌宮は文字の形に見える星座だということである。
文昌星を魁星は古来混同されてきたので、これを魁星と同視すると、北斗七星の枡形を
形作る四つの星の第一星が文昌星である。
この四つの星を併せたものが文昌宮という星座になる。
徳川ミュージアムの文昌星像を見ると、文昌星が筆を持って書物(文書)の上に立って
いる。枡形の四つの星は、この書物なり文書をあらわしているのではないかと思われる。
北斗七星の方に伸びる升の柄杓の部分が筆のようだ。
文昌星は古来文運を司る神とされ、文昌帝君と称されて信仰された。
学問と出世に御利益があるとされるところから、昔は科挙の受験生なども信仰したという。
今は受験生に人気がある。台湾台北に有名な文昌宮がある。
0729名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 23:03:22.12ID:iiAqLOC20
光圀は許可制ではあるが、貴賤を問わず庭園への入場を許した。
庭を観賞させるというより、たくさん作ったお堂を拝観させたかったのだろう。
文昌堂には、学者や識者など多くの人が来訪して拝礼したという。
この時代には、一種の儒学ブームが起きていた証拠といえるだろう。
頼豊による庭園改造のときに、お堂の内部の文昌像は移転させられ、お堂には讃岐の
金比羅大将が祀られた。お堂の名前も八卦堂に改められた。
八卦堂は明治維新も無事で乗り越えた。
しかし関東大震災で焼失し、今は土台しか残っていない。
土台の形から八角形のお堂であったことが分かる。
なお水戸弘道館の八卦堂は、斉昭公がこの八卦堂に倣って建立した。
斉昭公は頼豊に改造されてしまった後楽園をできるだけ昔の姿に戻そうとしたが、世情
騒然とした時期である。ほとんど何もできなかった。わずかに西行堂(現在焼失)付近の
流れを「駐歩泉」と命名したり、石碑を建てたりはしている。
庭園に愛着を持っていたことは間違いない。
その愛着が、弘道館の中心に八卦堂を据えるという行動になったのである。
そこで水戸弘道館の八卦堂の話になる。
弘道館の八卦堂は正庁裏の敷地外のようなところに建っている。鹿嶋神社の裏手である。
今は弘道館の入場料が取られない場所にあるので敷地外のようだが、以前は弘道館の敷地
の中だった。それどころか、本来は敷地のど真ん中だった。
周辺の開発によって敷地が狭くなり、八卦堂は敷地外にはみ出してしまったのである。
八卦堂が動いたわけではない。
ここの一番下の絵図(地図)を見れば、敷地の中心だということが分かる。
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/facility.html
0730名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 23:04:18.53ID:iiAqLOC20
八卦堂は弘道館全体の中心に建てられ、その中に「弘道館記」(建学の精神を記した文章)
を刻んだ大理石を収めた。やや押しつけがましいというか、何事も徹底して行い、懈怠を
許さない斉昭公らしいやり方である。
何故八卦堂という名称なのかといえば、八面ある壁面の上部に、それぞれ算木を並べ、
易の「卦」が示されているからである。
八卦堂についてはここが詳しい。
https://ibamemo.com/2022/07/10/kodokan_sakonsakura_hakkedo/#i-3
易経にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」。
この言葉が図にされているので是非ご覧頂きたい。
両儀、四象、八卦は算木を使って表示される。
このページの説明にあるように、算木の真っ直ぐな横棒は「爻」(こう)と呼ばれ、中央に
切れ目が無いものと切れ目が入ったものとがある。
切れ目が無いただの一直線の棒を「陽爻」、切れ目があるものを「陰爻」と呼ぶ。
(今は一枚の板が陰陽裏表になっているものが多い)。
易は陰陽五行説に基づき、この世のすべての事象を陰と陽の組み合わせで説明する。※
この陰と陽をそれぞれ「陽爻」と「陰爻」であらわし、具象化するものが算木なのである。
爻が2本あれば陰陽四つの組み合わせが表示できる。これが四像である。
爻が3本あれば陰陽八つの組み合わせができる。これが八卦である。
八卦堂の外壁には、この八つの卦が表示されているのである。
例えば八卦堂の入口は真東を向き、その上部には「震」(しん)を示す算木がある。
その横の東北の壁面には「巽」(そん)、真北の壁には「坎」(かん)である。
このようにして八面の壁を使って八卦が示されている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/00/Acht-trigramme.svg
なお、韓国の国旗には中央に赤と青の二色で「太極」を置き、四隅に八卦のうち四つの卦が
置かれている。

※易者は筮竹(ぜいちく)と算木を使って卦を導き出す。
(易者のみならず、明治の頃までは筮竹で易占をする教養人がいた。幕末から明治にかけて
活躍した高島嘉右衛門は有名である)。
八つの卦だけでは大ざっぱすぎて占いには使えないので、八つの卦を縦横に重ね、8x8で
六十四の卦を作った。古代からの聖典である「易経」は、孔子が監修したといわれるが、
この六十四卦の意味を解説する書である。
卦を導く方法は、古来亀卜(きぼく)や太占(ふとまに)などである。
簡易なやり方もある。タロットでもサイコロでも原理は同じである。
易者がするのは筮竹占いである。
50本の竹籤の1本を太極として残し、残りの棒を二つに分け、数を数えて出た数字によって
陰陽を判断する。陰は短い2本の棒を並べ、陽は1本の棒を置く。
(今は1本の棒の表が陽爻、裏は真ん中を色違いにして陰爻を現すようになっている)。
これで目に見える形で卦が示されるということになる。
動画・易占の仕方
https://uranaitv.jp/dictionary/1631
https://www.youtube.com/watch?v=XbeI0nZQyqw
0731名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/09/23(金) 23:05:53.44ID:iiAqLOC20
調べてみたが、八卦堂という名のお堂は日本では小石川後楽園と弘道館のもの以外に見当たら
ないようである。小さな祠などがあるのかも知れないが、少なくとも有名なものはない。
そもそも日本では八角堂そのものが少ない。八角堂は中国では皇帝の廟として建てられること
が多かった。日本では法隆寺や興福寺、広隆寺など有名な寺院にあることが多い。(もちろん
近年にただの納骨堂として作られた八角堂ならいくらでもある)。
八角堂が少ないのだから、これに八卦堂という名のついたお堂などめったにあるものでは
なかろう。中国では八角の塔やお堂が多いが、中国でも、八角の堂塔に八卦の算木を飾った
建造物は珍しいのではないか。
もしかしたら中国の明の時代、上海や杭州などで流行した様式なのではなかろうか。
小石川後楽園の八卦堂は、朱舜水の発案のような気がする。
文昌像を祀るお堂を建てるときに、朱舜水が故郷にあったお堂を思い出し、そのデザインを
教えたのだろう。
そうでないと、建物の壁に算木を取り付けるといった奇抜な発想は出てこないと思う。

上記のように、八卦堂は本来は文昌堂という名称であった。
頼豊の改造のときに八卦堂に変えられたと伝えられている。
八卦堂は震災で焼け、にもかかわらず文昌星像は実物が徳川ミュージアムに残っている。
ということは、四代藩主宗尭が亡くなり、頼豊が水戸家への出入りをしなくなった後も、
文昌星像は八卦堂には戻らなかったということなのだろうか。
可能性は二つある。
頼豊により文昌像が除かれ、金比羅神が祀られ、以後そのままになったというのが一つ。
もう一つは、頼豊がいなくなった後に文昌星像は八卦堂内に戻され、明治維新で藩邸が
明治政府に収公されるときに、水戸德川家がこれを堂内から回収したという可能性である。
そのあたりはよく分からない。
とにかく、文昌星像だけでも残ったのは幸運であった。

八卦堂は惜しいことに関東大震災で焼けてしまった。
水戸弘道館の八卦堂は昭和まで残ったが、戦災で焼けた。昭和28年に再建された。
弘道館の八卦堂は、実際の八卦堂を見た斉昭公が建てたわけであるから、後楽園の八卦堂の
写しと考えてよい。わざわざ別のデザインのものを建てるはずがないのである。
それを再建した現在の八卦堂は、写真が出来て以降の再建であるから、正確な写しと考えて
よかろう。それ故、小石川後楽園の八卦堂の再建は容易である。
是非早急に再建すべきである。
小さなお堂の再建なのだから費用もさほどかかるまい。
再建したお堂の中には文昌星像のレプリカでも置いたらよかろう。
0732名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:28:19.98ID:Hjkxb0g/0
[ 小石川後楽園-総括 ]
思いがけず庭園に関する叙述が長くなってしまった。
内容が錯綜したが、ここで追求したテーマは、松平頼豊が小石川後楽園をどれだけ改変した
かということであった。逆にいうと、頼房公が作庭し光圀公が完成させた小石川後楽園は、
どれだけその姿を留めているのか、である。
結論から言えば、庭園の土台である護岸石組みや滝石組みなどの庭園の基本構造部分は
ほとんどが破壊されたと見るべきである。
この時代の庭は、京都に金地院方丈庭園などが残されているし、東京でも旧芝離宮恩賜庭園
など、池の護岸石組みをそのままにした庭園が残っている。
しかし、小石川後楽園では景観の要になる石はほぼ撤去されている。
上記のように滝や流路も残骸というべきものが残されているにすぎない。

後楽紀事という本がある。小石川後楽園の歴史を叙述した本で、後楽園に関する最も重要な
文献とされている。著者は鵜飼信興である。(著書はいくつかあり、額賀信興、或いは
源信興と名乗ることもある)。水戸藩士で、彰考館の吏員である。
後楽紀事は元文元年(1736)に出版された。五代宗翰(むねもと)の時代である。
美代姫の生んだ鶴千代が一歳で藩主となり、この当時は八歳になっていた。
後楽紀事の内容は、初代頼房に始まり、光圀、綱條、宗堯と四代に亘る小石川後楽園との
かかわりを明かにしている。
この本によると、大泉水を琵琶湖に見立て、園内の景を京都への旅として各地の名勝に
なぞらえたのは頼房ということになっている。頼房は作庭の最終責任者であるから当然
名前は出るが、作庭者は徳大寺左兵衛であり、家光も作庭者の一人と言ってよい。
この三人が、ここは木曽路だよとか寝覚めの床だよとか、ここは竹生島、ここは竜田川、
などとやったというのである。
つまり、小石川後楽園の当初の庭園は縮景庭園であったとする。
そして庭園を受け継いだ光圀は、庭園の景観をほとんどそのままにした。
光圀は多くの中国風のお堂や橋などを付け加えはしたが、石組みなどには一切手を触れ
なかった。そのことも明記してある。
その後の景観の変遷については、元禄15年(1703)、五代将軍綱吉の生母桂昌院の御成りの
際に奇岩怪石が取り除かれたことと、享保年間に四代水戸藩主宗尭の父、讃岐高松藩主
松平頼豊が見晴らしをよくするために700本の樹木を伐採したことが記されている。
頼豊は、実際は大石や奇岩も多数撤去してしまった。
また大泉水のほとりの護岸石組みを崩してただの石積みにしてしまった。
さらに、後楽園の崖地には奇石を重ね、切り立った山肌のようにしていたのだが、それらは
全て取り払ってしまった。庭園作成前から生えていた古木も全部切ってしまった。
西湖周辺、龍田川、棕櫚山、河原書院前庭等の景なども一変したといわれる。
こうしたことは書いていない。
高松の金毘羅大権現を祀り、石清尾八幡を勧請したなど、讃岐風のものを後楽園に持ち
込んだことはしっかり書いてある。
要するに、改造の結果庭園の眺めがどうなったかということは具体的には書かれていない。
景観が一変した、人々は残念がった、というようなことが書かれているだけである。
0733名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:31:05.27ID:Hjkxb0g/0
後楽紀事が出版されたのは上記のように元文元年(1736)であり、頼豊による庭園改造
から6年は過ぎている。
頼豊の息子である水戸德川家第四代藩主宗堯は享保15年(1730)に死んだ。
息子が死んだのだから、頼豊は水戸家の藩邸に出入りして藩主のような振る舞いをするなど
出来なくなったはずである。後楽園の改修は息子の宗堯が生きていた間のことだろう。
だから頼豊による改修は、どんなに遅くとも享保15年には終わったのである。
頼豊は息子の死の5年後、享保20年(1735)に死亡している。
そして、後楽紀事は頼豊が死んだ翌年に出版されているのである。
著者の鵜飼信興は彰考館の吏員だから、ほぼ毎日内庭にある彰考館に通っていた。
いつから通っていたかは分からないが、本を出版するほどの史館員なのであるから、3年や
5年ではないであろう。頼豊による改造について逐一見届けたかも知れないし、少なくとも
改造した庭はその目で見てはずである。

結局、後楽紀事によればもともとの小石川後楽園の様子というのは
1.当初、頼房の作った庭の基本構造は今の庭と変わらない。京都への道中の風景や琵琶湖、
京都各地の名所名勝を写した縮景庭園であり、今と同じ回遊式の庭園であった。
2.光圀による改修も、中国風の趣きを付け加えただけで、当初の庭の構造は変えていない。
以上を前提に、
3.桂昌院の御成りのときに多くの奇岩怪石が取り払われた。
4.さらに頼豊の改修のときに、見晴らしを悪くしていた園内の木を700本切った。
以上、1.2.3.4.によると、結局、光圀が完成した庭園から大石や奇岩を取り除き、木を
切って見晴らしをよくしたのが今の庭園であるというのである。

実に不思議な書である。
「園中の絶勝」は「大いに変」じたはずであるのに、今ある景観の説明ばかりする。
元の景観の説明はほとんど無く、だから「大いに変」じたといってもどう変わったのかは
分からない。結局、石が取り除かれ、大木が切られた以外、庭園の景は変わっていないよう
にしか読めないのである。
おそらく、この後楽紀事という本が出版されたのは頼豊が死んだ翌年であるというところ
から謎は解けるのではないかと思われる。
しかし、結論を急がず、頼房の作った後園の姿を明かにするところから始めよう。

頼房の作った後園は、池の周囲と崖地に大量の石を組み上げ、さらに本物と見まごう滝を
作り、深山幽谷の風情を持つ庭であった。
作庭に家光が参加したことではじめて出来たことも多い。
滝水に神田上水の水を使うことを許可したのは家光であった。
また、伊豆の御用山から巨岩を採取するのを許したのも家光である。
神田上水の水を無尽蔵に使えたため(流水を引き込んで園内を流した後は上水に戻すの
だから当たり前であるが)、滝の水量はたいへんなものであった。
(滝とはいわゆる音羽の滝のことである)※。
園内には轟音が響き、鮮烈な水流が園内を走った。
流れ落ちる滝水は池に流れ込み、満々と水を湛えた池は大湖のようであった。
泉水の中央付近にある中の島(蓬莱島)は、奇怪極まる形状をしていた。
ゴツゴツした巨岩怪石を積み上げ、その上に伽羅(きゃら)・柏槙(びゃくしん)などの
神木を植え、島の頂上部から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
音羽の滝の頂上部分と中島の滝の水源を木の樋で裏側で連結させ、サイフォンの原理で
島の頂上からも水が出るようになっていたのである。
だから中の島の滝の高さは音羽の滝の高さとほぼ同じであった。
音羽の滝は10メートルほどあったというから、中島の石組みもそれと同じぐらいの高さが
あり、そこからさらに天に向かって木や木の枝がニョキニョキと突き出していたのである。
0734名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:32:17.52ID:Hjkxb0g/0
島はそれだけではなかった。
蓬莱島があるなら、鶴島と亀島がなければならない。
だが、現在小石川後楽園に亀島はあるが、鶴島はどこにもない。※ 
鶴島と亀島はペアになっているものであるから、片方だけというのはあり得ない。
だから鶴島は撤去されたと考えるしかないのである。
鶴島は、天竜寺の曹源池の場合は池の左側にある。多くがそうなっているようである。
しかし金地院方丈庭園は右側であり、決まったものでもないらしい。
亀島鶴島には松を植える。亀島には重厚な枝振りの真っ直ぐな松を、鶴島には枝を広げた
松を植える。鶴島の松は地を這うように斜めに伸び、そこから大きく枝を広げる。
鶴の姿を現しているのである。
小石川後楽園の鶴島の松も、伏龍のような巨木であっただろう。
しかし、この木が枯れたあと、その後に松を植えなかったのだろうか。殺風景な島がある
だけになり、その後石組みが崩れたか何かして、残骸だけが残ったのだろう。
当てずっぽうだが、今の竹生島がその残骸の一部なのではないかという気もする。

※現在の通天橋の奥に大きな滝があった。滝から流れ落ちる水が渓流になり大泉水に流れ
込んでいた。音羽の滝という名だが、その名をつけたのは頼豊だろう。
それ以前には名前はついていなかったと思われる。大滝などと呼ばれていたのではないか。
あのような高いところに橋がかかるようになったのは、頼豊の改修による。
地震で滝が崩れ、水が流れなくなって景観が寂しくなっていた。
そこで橋をうんと上に移動させた。橋を高い場所に架けるのは上田宗箇が始めたのである。
ただし宗箇が創始したのは石組みの中に石橋を架けるというデザインである。
頼豊はこれを真似たのであるが、朱塗りの橋を石組みの上に架けるなど聞いたこともない。
高い場所の苑路は山道であるはずで、山道にあんな派手な橋が架かっているということは
ありえない。橋が赤いのも大した理由はないのかもしれない。
橋を高いところに架けた。そうしたら橋がほとんど見えず面白くない。
それで赤く塗ったというようなことではないか。実につまらない発想である。
もともとは渓流の下の方に石橋がかかっているだけだった。
0735名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:32:23.08ID:Hjkxb0g/0
亀島について触れておく。
亀島の徳大寺石を中心とする景は、京都二条城二の丸庭園の亀島に似ている。
亀がグイッと頭をもたげた姿を写したものなのである。
だからこれを亀頭石という。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=koishikawa
ここの一番下から三番目の写真が亀島を正面から撮ったものである。
亀頭石は徳大寺左兵衛にちなんで徳大寺石と呼ばれている。
二条城の亀島は、石橋を渡して人が入れるようにし、そのため松を植えていない。
馬鹿みたいな話である。
後楽園の方は、徳大寺石の両端の石が貧弱で、亀島らしいどっしりとした趣きがない。
石組みは組み直されたものだろう。
二条城二の丸庭園には亀島も鶴島もある。
この「庭園ガイド」というサイトは素晴らしい。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=nijo-castle
庭園の写真の四枚目に亀島を正面から撮ったものがある。
亀頭石は徳大寺石のようにのっぺりとしておらず、こちらの方が趣きがある。
二条城二の丸庭園には護岸石組みがきちんと残されている。
しかし、池の周囲は芝生を大きく取り、西洋庭園風に改造されている。
もともとは奥に大きなに築山があり、もっと立体的な景観であった。
サイトのページの真ん中ぐらいに、二段落としの滝石組の写真がある。
このページの解説にあるように、今の滝は明治以降の改修によるものである。
小堀遠州作庭の当時は後ろにある垂直に立てた薄い石に上から水が落ちていた。
ということは、滝の背後に高い築山があり、膨大な量の石で滝石組みが作られていた
のである。この築山は今はなく、後ろに竹垣が見える。
築山を取り払ってしまった結果、庭園は西洋の公園のような平明なものになったが、
本来は巨岩大石を並べた築山を背景とする重厚感のある庭だった。
滝石組みの周囲は松山であったはずである。
現在は松が黒松で大人しいのもつまらない。野趣のある赤松を植えるべきであった。
足立美術館には赤松が多く使われている。松の赤い肌が美しい。
https://www.kankou-shimane.com/pickup/2901.html
石の色からしても二条城庭園は赤松の方が似合う。
本来はそうでなかったかと思われる。
0736名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:35:51.92ID:Hjkxb0g/0
[中の島(蓬莱島)について]
今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。
大木の生えたただの小山のようになっているからである。
しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に
伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。
大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。
しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。
石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。
桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。
このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。
後楽紀事も、「中の地震」で崩れたと明記している。
中の地震とは元禄16年の地震のことである。
一方、原因は地震ではなく、桂昌院の御成りのときに撤去されたのかも知れない。
御成りは地震の一年前であるからほぼ同時期である。
地震でいろいろ壊れたので、中の島の崩壊も地震が原因とされているが、御成りのときの
破壊と一緒くたにされている可能性も無いではない。
桂昌院は先端恐怖症というか、尖ったものやゴツゴツしたものに恐怖を覚える症状が
あった様子である。※
御成りにあたって奇岩怪石を取り除かせたというのも、道を歩きやするためだけでなく、
奇怪な形の岩や威圧感のある巨石などを怖がったためかも知れない。
桂昌院の御成りのときに撤去されたのは石や岩だけではない。尖ったものも撤去された。
例えば文昌堂(八卦堂)の屋根飾りである。
お堂や塔の屋根のてっぺんには相輪(そうりん)という金具が付けられるのが普通である。
金属の輪が幾重にも重なり、その先は剣のように尖っている。
文昌堂の屋根にも法輪が付けられており、しかも先端の剣型の部分が中国風で長かった。
これが駄目だということになった。
それで宝珠(ほうじゅ)という金色の丸い珠に取替えさせられたのである。
(そういえば水戸の八卦堂の屋根飾りも宝珠である)。
お堂の屋根飾りなど歩行の安全に全く関係がない。にもかかわらず法輪を宝珠に取り替えた
というのは、尖ったものを怖がる神経症的な症状があったとしか考えられない。
尖ったものを怖がる以外に、岩が人の顔に見えたり怪物に見えるような症状があったのかも
知れない。通行の邪魔にならなくても、奇怪な形の岩などは取りのけられたのではないか。
蓬莱島もその姿があまりに奇怪なため、桂昌院の気分を害するかも知れないということで
撤去された・・・、そう考えたら余りにも飛躍した想像になるであろうか。
※桂昌院だけでなく綱吉も神経過敏で、雷を怖がること尋常でなかった。
また綱吉の治世中に彗星が二度現れた(元禄2年と元禄12年)。一回目は14日間、二回目は
10日間見えていたという。その間、綱吉は精神の平衡を失った。自分の政(まつりごと)の
誤りを天が怒っているのではないかと脅え、家臣に相談したりしたという。

中の島の様子は『後楽紀事』に記述されている。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。(中略)島に入りて
かたはらにて見れば、ひむろ、きゃらぼく、びゃくしんやうのもの繁茂して、石の
ひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ、何の形とも分らず。」。
「ひむろ」とはサワラの一種である。ヒバのような木である。
「きゃらぼく」はイチイの変種である。幹が直立せず、横に広がる。
「びゃくしん」は桧(ひのき)の一種である。
どれも常緑針葉樹であり、枝打ちしなければ枝葉が猛烈に繁茂する。
古来日本では松や杉などの葉が枯れない木をめでる風習があった。
中の島には、中国風の常磐木を植えたのである。
ところで、この中の島の描写は、「島に入りてかたはらにて見れば」(島に入って
近くでみれば)とあるのだから、実際に舟で島に渡っての実見談であろう。
この部分は、鵜飼信興がその目で見たことを書いているのである。
そのときの島の様子は、「石のひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ」と
あるのだから、現在のように石が片付けられ木と草の生えた小山のような状態では
なかったようである。崩れた大石の間に岩が重なり、苔むしていたという。
そこに上記の常緑針葉樹が生えていた。島になっているので他の植物の浸食がなく、
植生が保たれていたのである。
0737名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:36:37.57ID:Hjkxb0g/0
後楽紀事には他にも中の島の記述がある。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。弁財天の祠をたてり。
この島ことに絶景なり。瀧ありて高く掛かれり。みな人奇異の見物なりとて驚かざる
ものなし。(中略)是も大地震に崩れたれば、みな地中にしづめり、亀の腮の石のみ残りて、
今鼻まかり岩といふ。」。
前段は滝があるとしているのだから、鵜飼信興が想像で書いているのである。
後段が今の話である。ここで「亀の腮の石のみ残りて」というのが分からない。
腮(あぎと)とは、顎とかエラのことである。徳大寺石は亀の頭の部分である。
この顎の部分の石ということは、徳大寺石の土台になっていた石のことなのだろうか。
おそらく、鵜飼信興が徳大寺石のことを「腮の石」と言っているのである。
亀頭石は直立させるので、正面から見た場合、見えるのは喉とか顎の部分になる。
だから腮の石と言ったのである。それが斜めになっているので、人々が「鼻まかり石」
(鼻曲がり石)と呼んだのだろう。

[ 鶴亀蓬莱庭園について ]
頼房(徳大寺左兵衛、家光)作庭した当初の小石川後楽園は、鶴亀蓬莱庭園である。
鶴亀蓬莱庭園とは、池泉式であると枯山水であるとを問わず、大きな蓬莱島があり、従と
して小さな鶴島・亀島が並ぶ庭園をいう。
ただ「鶴亀庭園」と言うだけの場合もある。それでも蓬莱島(山)があるのが前提である。
上述の南禅寺金地院庭園は昔から「鶴亀の庭」と呼ばれる。
鶴島・亀島に蓬莱島はセットであり必須であるが、これに滝石組みがつく場合も多い。
池泉庭園の場合は池の端や奥に滝石組みがあり、そこから滝水が落ちて流路を通って池に
流れ込む。枯山水の庭の場合は滝をかたどった石組みを築くのである。
蓬莱島とは、古代中国で渤海の東方海上にあると信じられていた仙境の島である。
決して人が上陸することはできない。近づくことすらできない。
人が船で近づくと霧に隠れて見えなくなってしまう。
無理に近づくと船が押し戻される。あるいはどんなに船が進んでも島は遠く離れていく。
そうかと思うと前にあった島が後ろに見え、さらに水中に見えたりする。
稀に近づくことができると、そこは神仙の世界で、大きな無数の松が生えている。
仙人たちがその上に座っている。また、仙人たちは小さな雲に乗って飛行する。
仙人たちは切り立った岩山の上の方まで飛んでいく。
地上には小間使いの童子たちが遊んでいる。地上はどこも真っ白な砂である。
島には鳥や獣もいるが、それらもすべて純白である。
中国人の伝統的なイメージでは、蓬莱島とはそうしたものであった。
蓬莱島とは山でもある。池の無い庭では蓬莱山をイメージするものを置いた。
それは築山であり、石であり、石塔であり、灯籠である。刈り込んだ樹木でもよい。
0738名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:37:20.20ID:Hjkxb0g/0
大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。
https://serai.jp/tour/385616
入門用にこういう庭があってもよいだろう。
座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。
この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。
狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。
(義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、
応仁の乱のきっかけとなった将軍)。
日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、
室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。
元信は単なる絵師ではなく、妙心寺二十五世大休宗休に帰依し、禅を学んでいた。
このような関係から作庭を委ねられたらしい。
この庭は、元信が自分の山水画を実際の庭に仕立てたものだといわれる。
室町期の枯山水庭園には、水墨山水画の構図や表現手法を取り入れたものが少なくない。
例えば大徳寺・大仙院の庭などである。
山水画の名人が庭を仕立てたらどうなるか、妙心寺の僧たちは興味津々で作庭を見守った
はずである。
元信の庭ならやはりこのサイトの写真がいい。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=taizoin
庭を図解した白黒写真を見ると、一番左端に自然石の石橋がある。
橋があっても人間は仙境へは渡れないのであるが、人間世界とは違う世界だということを
示すために橋が置かれているのである。本来は橋など無い。
この橋の右手にいくつかの大石が並び、これが蓬莱連山である。
蓬莱山の手前に山々が並んでいるのである。蓬莱山は蓬莱連山の彼方に聳えている。
蓬莱山の右手は枯滝の石組みである。縦縞の岸壁を現す石が見事である。
枯滝の手前、大きな石が平たく並べられているのが亀島である。
海を挟んで亀島と向き合うように鶴首石が置かれているのが鶴島である。
まことに忠実に蓬莱神仙の世界を具体化した鶴亀蓬莱島枯山水庭園である。
ただし、鶴島はほぼ遺跡化してしまっている。
本来は最小でも亀島と同じ大きさがあったはずである。
ここでも大きな方丈を建てたために庭を削ることになり、鶴島は鶴首石と羽石が一個ある
だけである。手前のつくばい(手水)がもう一つの羽石なのではないかと言われている。
この写真で庭の構図が分かりにくいのは、写真の角度が悪いのである。
ほんとうは、写真右端中央あたりの礼拝石のあたりから撮らないといけない。
しかし、写真を撮るにも方丈の縁側から外には出てはならないらしい。
別のサイト
http://www.taizoin.com/highlights/motonobu-no-niwa.html
ここには元信の庭を正面から撮った写真が何枚かある。
改めて見て思うが、この庭は修行僧たちが座禅をするための庭であるような気がする。
座りやすそうな石が多いし、左右の石橋も実用であるように見える。
今は庭の背後に広葉常緑樹がたくさん植えられているが、実際に庭が座禅修行の場であった
ときに植えられていたのは松だと思う。
樹下に平たい大石がいくつも置かれ、樹木は少なく閑散としていたと思う。

ついでに、小石川後楽園とほぼ同時代の鶴亀蓬莱島池泉式庭園を一つあげておこう。
蓮華寺庭園である。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=rengeji
この庭が作られたのは1668年である。
一方光圀により小石川後楽園が完成されたと推定される時期は1667年。
時期は同時期といってよい。
純粋な鶴亀蓬莱島庭園であり、庭の木がかなり大きく、かつ繁茂している。
小さな庭園だが、雰囲気が当初の小石川後楽園と似ているかも知れない。
とくに内庭などはこんな感じだったのかと思う。
(ただし、内庭の池でもこの5倍はあるだろう)。
なお、小石川後楽園の内庭は書院庭園である。
書院のすぐ脇にある庭園を書院庭園という。
書院庭園で有名なものに銀閣寺(慈照寺)庭園がある。
0739名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:38:40.24ID:Hjkxb0g/0
[蓬莱島(中の島)の実体]
小石川後楽園が作られた当初の中の島(蓬莱島)の形状は、世に類のない独特のもので
あるが、あえていえば智積院の庭の築山が似ているかも知れない。
智積院の庭
https://garden-guide.jp/spot.php?i=chisyakuin
無数の石とサツキの刈り込みで出来た築山が特徴である。
池の中にある島のように見えるが、背後は地面につながっており、築山である。
中国の廬山(ろざん)を模したものという。
廬山とは江西省北部にある長江の南にある山で、諸峰が絶壁をなして聳え立つ。
多くの名士が隠棲し、李白や蘇武など有名な詩人が訪れた。
水墨画の素材になっていることが多い。これらは江南山水画という独立のジャンルになった。
霧の中に聳える岩山を墨の濃淡だけで描いた絵は誰もが見たことがあるはずである。
智積院は、もともとは秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建てた祥雲寺という寺であった。
関ヶ原役の直後、京に入った徳川勢によって接収され、後に真言宗の玄宥僧正に与えられた。
玄宥は真言宗の根来寺の僧であり、塔頭智積院の坊主(住職)であった。
根来衆は僧兵一万を雍し、雑賀衆とともに最後まで秀吉の支配に抵抗した。
そのため豊臣軍の焼き討ちにあい、僧たちは離散していた。
家康としては根来寺の僧たちに報いなければならなかった。
玄宥僧正は本山の高野山に避難したが、智積院の僧たちは京都に出て暮らしていた。
この僧たちに最初は豊国廟の神宮寺などの施設を与え、後に隣接する祥雲寺の土地建物を
全て与えた。こうして祥雲寺が智積院になったのである。
なお、智積院の名宝「長谷川等伯障壁画」は祥雲寺の壁に描かれたものである。
祥雲寺が破壊されることなく、そのままそっくり智積院になったことで残ったのである。
智積院庭園は「利休好みの庭」といわれ、祥雲寺の時代にすでにあったという。
その後改修が重ねられ、延宝2年(1674年)7代目住職・運敞(うんしょう)のときに
現在の庭園が完成したとされる。
一方、光圀が頼房の作った後園を改修し、それが完成した時期は不明だが、内庭に彰考館を
建てた時期に完成したはずである(上述)。
そうだとすると、小石川後楽園の完成時期は寛文12年(1672)頃である。
智積院庭園と小石川後楽園の完成時期はほぼ同時ということになる。

小石川後楽園の庭と智積院の庭には完成時期以外にもいろいろと共通点がある。
まず、桃山時代の庭園の特徴である、自然の地形を生かした林泉庭園であることである。
小石川後楽園は、徳大寺左兵衛が元々の地形を生かし、できるだけ木も切らないようにして
作庭した。自然の沼があったところを泉水にし、周囲の崖地に石を積んで仙境のようにした。
一方、智積院の庭は東方の自然傾斜地の下に池を穿って作られている。
池に接する築山であるが、これは傾斜地であるからこそ出来た築山である。
後ろが傾斜地であり、山の斜面のようになっているからこそ、大きな築山を作っても
自然に見えるのである。斜面の一部のように見え、どっしりとした感じを与える。
これが後ろが平らな地面になっていたら、いかにも人工的に盛り上げた感じになる。
もっと小さく緩やかな築山にするしかなかっただろう。
次に池であるが、智積院のある東山南端のあたりは京瓦の産地である。
これは粘土が採れる土地ということであり、瓦の他にも京焼の産地として有名である。
日本一といわれる砥石も採れた(今は法律や条令の改正で採取できなくなったらしい)。
東山南端の山麓は白い粘土に覆われており、地面を掘れば粘土である。
だから池を作るのも簡単なのである。
粘土ばかりの池は白く濁る。智積院の庭も濁っており、これが千年待っても水が澄まない
という揚子江を現すのに好適だったのである。
0740名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:39:06.17ID:Hjkxb0g/0
つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。
観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。
まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。
大書院の座敷から眺めるようになっている。
昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。
書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。
では小石川後楽園はどうか。
残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。
作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。
それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている
からである。この資料に基づき庭園研究家・重森三玲はその著書「後楽園史」において、
(徳大寺左兵衛は)低地を修景して園路を設け松原、馬場はじめ京都の大井川や清水など
古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、多様な植栽を工夫
したといえる。こうした基本的な地割や意匠は既に完成しており、江戸初期に作られた、
いわゆる池泉回遊式の初期の大名庭園であり、その後の大名庭園作庭の範になったと考え
られる。」としている。
しかし、時代的にそれはあり得ないと思われる。
この時代の庭というのは、書院や茶屋などの定点箇所から庭を眺める座観式に決まっていた。
風景は蓬莱島に鶴島亀島を添え、他に景観を足すにしても滝石組み程度のものであった。
分かりやすく言うと、蓬莱神仙思想にもとづく仙境を作り出し、そこを周囲から眺めると
いう発想だったのである。勿論庭の周辺に松やモミジ(楓など)・椿などを植え、景観を
楽しむということはあっただろう。しかし、苑路を作って庭の景観の中を観賞して歩くなど
といった発想はまだなかったのである。
後楽紀事はあったとするのであるが、それは著者の想像であり、創作であると考える。
後楽紀事がいかに重要な文献であろうとも、著者は創設当時の庭園を見ていない。
鵜飼信興は後楽紀事を書いたのは、作庭から100年近く経ってからのことである。
後楽紀事に絶対の信を置くことは出来ないと思うのである。
さらに、回遊式庭園と縮景庭園は深く関係する。
縮景とは、名所名勝の景色を庭園の中に写し、あるいはそのように見立てたものである。
そのような多様な景色を作り出すために、重森三玲によれば「松原、馬場はじめ京都の
大井川や清水など古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、
多様な植栽を工夫」することになるのである。
そしてそれらは苑路に沿って展開される。それらの景観は苑路に沿って用意され、苑路を
歩むごとに目の前に次々に現れてくるのである。
小石川後楽園は、作られた時にはこのような庭であったとするのが一般の理解なのである。
これに対してはもはや論評は不要であろう。十分に論じたつもりである。
0741名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:39:33.70ID:Hjkxb0g/0
後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。
茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。
ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。
茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。
とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も
あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての
議論になりかねない。
まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。
最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。
舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。
しかしその時代から最重要の観賞ポイントであったと考える。
理由は、観音堂から下の景色は観音浄土からの眺めであり、庭園中最高の眺望だからで
ある。ただ休憩所のような建物はなかった。
それは、そこが観音浄土であるから、人間が座って茶を飲むような施設を設ける余地は
無かったというだけのことである。
それなら何故光圀は舞台を作ってそこで茶を喫したかということになるが、その時代には
懸け造りで舞台を作るのが流行ったのである。
例えば家光は慶安3年(1650)に長谷寺の舞台を寄進している。
何故舞台を作るのが流行ったかというと、舞台を観音浄土と捉えるようになったからである。
長谷寺の本尊は十一面観音であり、舞台はそれが観音浄土を現しているのである。
室生寺にも舞台があるが、本尊は如意輪観音であり、舞台が浄土であることは同じである。
山道を登った頂上よりも、崖の上に懸け造りで作った舞台の方がより浄土を実感させた
のであろう。時代の風潮というしかない。
その他、観賞ポイントとしては、久八屋(くはちや)のところにも茶屋はあった。
丸屋という茶屋もあった。
涵徳亭は、その元になる硝子御茶屋(びいどろおちゃや)というのが当初からあった。
(涵徳亭という名がつけられたのは享保年間である)。
硝子御茶屋は大泉水との間に築山をきずき、あえて大泉水が見えないようにしてあった。
大泉水が見えないということは大泉水側から見えないということである。
大泉水側から建物が見えると興醒めになるというような理由もあったのかも知れない。
(硝子御茶屋が何やら秘密めいた会合に用いられた施設であった可能性もある)。
とにかく、このように茶屋がいくつかあるということは、そこの間を移動するということで
あり、回遊式と言えるではないかという意見もあるだろう。
この点、私は回遊式というためには快適な苑路が必要であり、さらに苑路に沿って各地の
縮景が容易されていなければならないと考える。そして歩くことによって次々に景観が
変わることが必要であると考える。
当初の小石川後楽園の道は苑路と呼べるようなものではなかった。ただの通路である。
自然の凹凸がそのままにされ、曲がりくねり、さらに岩や大木の間を縫って歩く道である。
道も細く、移動のための小道にすぎなかった。
このような道を移動しながら景色を観賞する余裕はなかったし、つぎつぎと展開していく
景色も用意されてはいなかった。
座観式の観賞点がいくつかある庭というに過ぎなかったのである。
0742名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:49:59.73ID:Hjkxb0g/0
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。
頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。
同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。
池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。
その道をたどって茶屋などに移動したのである。
岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて
園内中央に唯心山を築いてからのことである。
栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る
というようなことはなされていなかったと想像する。
つまり、回遊ということはなされていなかった。
一カ所だけでは厭きるので、今日はあそこに行こうとか、夏で暑いときはあそこの茶屋が
涼しくてよいとか、秋の紅葉はあそこから観賞しようとか、そうした利用の仕方だった
のではないか。
なお、座観式だからといっていっさい庭園内に入ることはできないわけではない。
その点は昔の方が融通が利いた。
座観式の典型である天竜寺の曹源池庭園などでも、滝石組みの近くまで行き、奥を
覗いたりはできたのである。今は池を挟んで講堂側からしか見ることはできないが、戦後
しばらくの間までは橋を渡ってあちら側に行くことができた。
滝石組みの中に入って鯉魚石まで間近で観賞することもできた。
近くで見なければあの滝石組みの凄さは分からないと言われていた。
しかし、かなり危険なことであった。昔は拝観者が怪我をしても寺の責任を問うような
ことはなかったので、寺も自由にさせていたのである。
智積院庭園も、築山の裏の方から池の縁を歩けるようにはなっている。
目立たないが、苑路(通路)のようなものが無いわけではない。
ただ一般客の立ち入りが禁止になっているだけである。
考えてみれば、庭園を管理する必要はあるのだから、人間が入れない庭などあるわけがない。
それなりに人が通行できるようにはなっているはずである。
座観式の庭は庭園の景を犠牲にしてまで道は作らないが、そうであっても植え込みの裏など
に小道があったとしても不思議ではない。
初期の岡山後楽園も栗林園もそのような小道がついていたし、茶屋などに行くにはそうした
道が利用されていた。木々の間を辿り、岩の隙間を縫うような道である。
小石川後楽園ももちろんそうであった。
これらの庭園は景観優先であり、人が移動することは二の次三の次だったのである。
そもそも中国の神仙思想にもとづき、人の入れない仙境に見立てて作庭されるのであるから、
それが当然である。深山幽谷の趣きのある庭に歩きやすい苑路などがついていたら、却って
そぐわないのである。
最後に、光圀は、得仁堂、文昌堂などを建て、そこを巡る苑路を作ったが、そこは庭園だと
思ってはいなかったはずである。光圀は内庭の方に彰考館の書院や書庫を建てたが、あちらも
当然ながら庭園の施設だとは思っていなかった。
どちらも庭園の隅の斜面になった土地を利用しただけのことである。
西湖の堤も作ったが、あれも人は通さなかったのではなかろうか)。
0743名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:50:52.02ID:Hjkxb0g/0
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
共通点の第三は、須弥山(しゅみせん)をかたどった築山ないし島があることである。
須弥山とは、仏教で世界の中心にあると考えられている山である。
須弥山を解説するのは困難である。ウィキの「須弥山」の箇所を読んでいただくしかない。
そこにある絵図などの写真を見ることは必須だろう。
簡単な解説ならこのサイトにもある。絵が分かりやすい。
https://yasurakaan.com/shingonshyu/shyumisen/
須弥山の中腹の四方には四天王の住む都があり、眷属たちがその周辺に住む。
山頂の?利(とうり)天には帝釈天の住む城がある。
帝釈天は天帝帝釈ともいい、四天王を配下として須弥山を守る。
帝釈天の像は、白象にまたがり、独古を持ち、鎧を身につけて中国の武将のような姿を
していることが多い。?利天にある帝釈天の城は善見城という。
以上を前提に、まず智積院庭園について検討しよう。
この庭のどこに須弥山をかたどったものがあるのか。
それは池の向こうの築山である。
今一度上記サイトを見ていただきたい。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=chisyakuin
築山の上に石塔がある。
これが帝釈天の善見城なのである。
この築山は昔はもっと高かったかも知れない。下の方にはより多くの大きな石が組み上げ
られていただろう。サツキはもっと大きく、四角く剪定して壁のようにしてあった。
それによって切り立った断崖が表現されていたのである。
今は一面の最近は丸い刈り込みしかなく、デザイン変更されたようである。
庭師がこの築山が須弥山だということを意識しなくなったのかも知れない。
ところで、池の向こうの築山は蓬莱山のはずであった。
それが何故須弥山なのか、疑問に思われる向きもあるかも知れない。
結論から言うと、鶴亀蓬莱庭園というのは一つの型であり、型というのは守られればそれで
いいのである。型を守った上で、別の趣向を持ち込むことは可能であり、自由である。
智積院庭園では、池の向こうの築山は蓬莱山であるが、しかしその姿は須弥山である。
蓬莱山と見る人は見ればよいし、須弥山に見えるのであればそのように見ればよい。
なお、智積院庭園には鶴島亀島が無いが、おそらく池が狭くなり撤去されたのだろう。
とにかく書院や講堂が大きく、ぎりぎりまで庭に寄っている。
これでは池もかなり埋め立てられているはずである。
本来は最低でもあと10メートルは奥行きがあっただろう。
その証拠に、舟入石を置く場所がなく、縁側の近くに置いて穴を穿ち、手水鉢になっている。
本来は池の左右に鶴島亀島が並び、その手前に舟入石が半分水に浸かって置かれたはずである。
0744名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:51:42.45ID:Hjkxb0g/0
では、小石川後楽園の中の島(蓬莱島)はどうか。
この点、元々の島の姿からすれば須弥山としか言いようがない。
須弥山とは、仏画などでは曼荼羅のような幾何学的な模様であらわされているが、機能を
含めて描くとあのようになるのであって、本来は笠が開かない松茸のような形をしている。
松茸よりもエリンギのような形といった方が分かりやすいかも知れない。
小石川後楽園の中の島の姿はアニメ映画のラピュタに出てくるような形状であった。
水面から五メートルほどの高さまでは大石が組み上げられ、そこからさらに尖塔のように
数メートルの高さの石が組まれていた。
その頂上付近から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
須弥山では甘露の法雨という甘い水が降ってきてそこに住む者たちの喉を潤す。そのため
誰も何も食べないでも生きていけるのである。
この様子を現すためには本当は霧のような水が噴き出すのがよいのだが、当時はそんな
ことはできない。だから滝だったのである。
しかし風の強い日など、風に吹き散らされる滝水は甘露の雨のように見えただろう。
石の間に中国風の常緑樹が植えられ、それらが枝葉を拡げていた。
遠くから見ると下半分は巨石の塊であり、上半分は茂りに茂った常緑樹の塊であった。
常緑樹は大きく枝を拡げているため、上半分の方が大きく見え、キノコのようであった。
これを見て「みな人奇異の見物なりとて驚かざるものなし。」という有様だった。
そのことは上に書いた。

中の島(蓬莱島)だけでなく、亀島も鶴島も規格外に大きなものだったと思われる。
(念のため、亀島はかめじま、鶴島はつるじま、と濁って読むのが正しい)。
亀島の大きさは、亀頭石である徳大寺石の大きさからも想像がつく。
亀島と鶴島はセットであるから、鶴島も大きなものだったろう。
さらに、鶴首石や島に植えられた松は、堂々として重厚感に溢れたものであった。
庭園全体に伊豆の御用山から運ばれた石が無数に使われていた。
中国の廬山のような、岩山と渓谷からなる仙境の雰囲気を目指した庭だったのだろう。
植栽は太古の昔からの山林を利用し、なるべく大木も切らず庭園に利用したというところ
から考えても、今日の私たちが考える庭園とはまるで違うものだった。
以上から何が言いたいかというと、築造当初の小石川後楽園の庭は、江戸中期の大名庭園
とはまるで違う庭園だったということである。
大泉水を琵琶湖に見立て、その向こうに唐崎の松がある。もしそういうものだとしたら、
その手前の蓬莱島が高さ10メートルもある奇怪な形の島であるわけがい。
頼房が作った当初の庭は、大名庭園などとは次元の違う庭だったのである。
0745名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:53:44.76ID:Hjkxb0g/0
そしてこの庭園を光圀はほとんど変えなかった。
後楽紀事にある。
「一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ。明遺臣舜水に命ぜられて、
御園の名をえらばせられし時に、(中略)後楽園と名付けられて、御屋形より御園への
唐門にも右の三字を書して扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公上の
御経営なり。すべて威公上のあそばされたる御事を、少しなりともあらためたまはず。
されどことにより改めさせたまふこともありしかど、是はまたもとのごとくに成べき
ことなり。一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて、年々御植かへは有之候得ども、
大木を伐らせらるる事は、かってこれなかりけるとそ。松は別て御当家へいはれある
ことなれば、一枝をも伐らせたまはざりけり。」。
光圀は受け継いだ庭の「一木を切ることもなければ一石を動かしたこともない」という。
「得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公(光圀)が造営したものであるが、(これらは
新たに付け加えたものであって)、威公(頼房)のなさったことは少しも変えることは
なかった。」。「とはいえ、事によっては改めることもあったが、それらはみな時間が
経てば元のとおりになるものばかりであった。」。
「一本の木であっても枯れてしまったものがあれば、威公の御本意に反するだろうと、
毎年植え替えをしていた。しかし大木を切ったことはかつて一度もない。」。
松は別けて(わけても)御当家に因縁の深い木であるから(もともと松平姓だから)、
木を切らないどころか枝一本も切らせはしなかった。」というのである。
だから、光圀が新たに加えた徳仁堂などの造営物以外は、庭園はいっさい頼房時代その
ままの状態であったことになる。

にもかかわらず、後楽紀事は最初から大名庭園であったかのように書くのである。
これが分からない。
たしかに鵜飼信興が後楽紀事を書いたのは頼豊による改造が行われた後である。
目の前にあるのは、各地の名所名勝の景を並べた縮景庭園である。
歩きやすい苑路も整備されている。まごうことなき大名庭園なのである。
鵜飼信興がそれ以外知らないのだとしたら、最初からそうだったと思っても仕方ないの
かも知れない。
例えば「後楽紀事」は琉球山(屏風岩の後ろの小山)について、「白きつつじの木余多
(あまた)植ゑたる山なり。」と記述している。
築山にツツジを一面に植え、いっせいに咲かせて花に埋もれた山にするのは、江戸中期の
大名庭園によくある様式である。
こういったものは他にいくらでもある。熊本の水前寺成趣園、高松の栗林園、岡山の後楽園
などである。上述した岡山後楽園の唯心山は色とりどりのツツジを植えて華やかである。
しかし、もちろん最初からそうであったわけではない。
そもそも唯心山自体が後から作られたものである。
小石川後楽園の琉球山は真っ白なツツジの山にしたというのだから、おそらく富士山の景
なのであろう。こうした遊び心は江戸中期以降のもので、頼房の時代には無いものである。
江戸時代初期の庭には園芸種の草木は植えられることはなかった。
さらにツツジが庭に使われるようになるのは江戸中期以降である。
こんなツツジの山を見て、鵜飼信興はこれが最初から有ったものだと思ったのだろうか。
もしそうならかなり無邪気な人物である。たしかに鵜飼信興は庭園史などは知らなかった
かも知れないが、いくら何でもそこまでものを知らない人物ではあるまい。
0746名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:55:48.55ID:Hjkxb0g/0
例えば得仁堂について、後楽紀事には「その後享保中、讃州岩清尾の八幡となる。八幡堂と
称す、額はやめらる。」とある。
頼豊が光圀の安置した伯夷・叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え、「八幡堂」と
改名、「得仁堂」と書かれた額は取り外されたというのである。
この「八幡堂」は、文政9年(1827)に八代斉脩が八幡像のために宮を新設し伯夷・叔斉の
像を戻したので、それ以降再び「得仁堂」と呼ばれるようになった。
後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである。
こういうこともしっかり書いてある。
事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある。
にもかかわらず、琉球山についてはいっさい経緯を書かない。
最初から白いツツジの山であったようにしか書いていないのである。
頼豊が琉球山を富士山の形に削り、一面に白いツツジを植えたのを知らないはずはなかろう。
頼豊が庭園を弄ったのはせいぜい後楽紀事出版の6年ほど前までで、白いツツジ山が作られ
たのも20年以上前ということはない。そんなものが作られれば当然人の話題になるはずで
あり、小石川の藩邸に住んでいた鵜飼信興がこれを知らないはずはないのである。
それなのに頼豊がやったことであるとはハッキリ書かない。
こういうところがおかしい。
(なお、栗林公園の飛来峰の頂には白い石で築かれた石組みがある。珪化木(けいかぼく)
という植物の化石なのだそうである。わざわざこのような石を使ったのは富士の高嶺の雪を
現すためという。これをやったのは勿論頼豊である)。

では何故後楽紀事には、小石川後楽園は造営当初から縮景庭園であり、回遊式の庭園で
あるかのように書かれているのか。
おそらく、造園の当初は回遊式ではなかったと書けば、頼豊による庭の改造を全面的に
認めることになるからだろう。
大泉水を琵琶湖に見立てたり、庭のあちこちを京都の風景に見立てたりするようなことは
なかったと書けば、今の庭園は威公様や義公様ご苦心の御庭ではないということになる。
言っておくが、庭の様式など変わってもよいのである。
多くの大名の庭園は、作られた当初は江戸初期の鶴亀蓬莱庭園の形式であった。
しかし、そのほとんどがいつのまにかありきたりの大名庭園になった。
岡山の後楽園も、讃岐の栗林園もそうである。これは避けられない変化であった。
だから本来からすれば、小石川後楽園の庭が大名庭園になっても何ら問題はないのである。
しかしながら、小石川後楽園では一つだけ他の大名とは違う事情があった。
その改造が徐々にではなく一挙になされ、かつ殿様でない人物によってなされたことである。
もちろん頼豊は息子の宗堯(水戸藩第四代藩主)の名で命令を出していた。
しかし、頼豊が宗堯に代わり藩主のようにふるまっていたことは誰もが知るところである。
後楽園は藩祖である頼房公が作り、二代光圀公が完成させた庭である。
これを養子としてやってきた殿様の父親が好き放題に改造してしまった。
このことは水戸藩の家臣たちにとっては屈辱であった。
屈辱として忍ぶ家臣ばかりではなく、それを容認した重臣たちに対する批判も沸き起こった
のではないか。
0747名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:57:20.22ID:Hjkxb0g/0
上述のとおり、後楽紀事の出版は享保21年(1736)である。
その前年に頼豊が亡くなっている。
頼豊の息子である宗堯は享保15年(1730)に急死したのであるから、この時から頼豊は
水戸家への出入りをしなくなったはずである。
つまり、頼豊が水戸家とのかかわりを断ってから6年、頼豊が死んでから1年経った後に
後楽紀事は出版されたのである。
本の出版と頼豊の死を関係づければ、いろいろな動きが見えてくる。
頼豊が死んで一年後に出版されたということは、頼豊が死んですぐに本の執筆が始められ
たということである。(或いは頼豊が病に倒れた時から書き始められたかも知れない。
水戸家と高松松平家は親戚であるから頼豊の病勢はすぐに分かる)。
しかも本が書かれたのは鵜飼信興の自発によるとは思われない。
藩の殿様たちが出てきて、誰がどうしたというようなことを詳しく書くのは、当時は憚られ
たのである。書くにしても家中全体の許諾ないし黙諾が必要であった。
本を書けば藩の人間だけが読むとは限らない。どうしても藩内の事情を外の人間が知る
ことになる。それがいいか悪いかを判断するのは著者ではないのである。
後楽紀事が出版された以上、許諾があったのは勿論であるが、許諾どころではなかろう。
藩首脳部の指示によるものではなかろうか。
おそらく頼豊の行為を見過ごした藩(藩邸)の重臣たちに対する批判が根強くあり、重臣らが
これを気にして鎮静をはかったのだろう。
そのためには、今の庭園をある程度は肯定しなければならない。

そこで、第一に頼豊の改造は庭園の見晴らしをよくするためのものだったとする。
庭は太古からの自然の地形を利用したもので、大木も切らずに庭園に取り込んだ。
それらが繁茂して見晴らしが悪くなったのでこれを切った。
700本も切ったので庭園の景観が一変した。
しかし、とにもかくにも木が伸び放題だったので、手入れとして始めたのが切っ掛けで
あったとしたのである。こうした事情だと重臣たちが止めなかったのはやむを得なかった
ということになる。
第二に、庭園の大木をおおかた切って見晴らしがよくなったが、そこで現れた景は
頼房公時代に作られたものだとすることである。
琵琶湖や唐崎の松、清水寺の滝や舞台、大堰川や(小倉山)の紅葉などは頼房公らが
作られたものであり、そのまま現在に伝えられているのだとするのである。
頼房公時代の景観まで変えられれば、これは庭園の破壊ということになろうが、そうでは
なく、昔の景観が大木の陰から現れたように書いたのである。
第三に、頼豊の改造の前に桂昌院の御成りに伴う改造があったことを思い出させる、
あるいは周知させることである。
老婆が安全に歩けるよう、大きな石や岩が軒並み撤去され、池の周囲に平坦な苑路が
作られた。取り除けられた石や岩が桜の馬場などの広場に山と積まれたというのである。
これは30年以上も昔のことであり、今の重臣たちには責任がないことである。
要するに、石や岩はほとんど無くなったがそれは御成りのためである。
大木は切られたが、それは園内の見晴らしをよくするためだったとしたのである。
0748名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:58:24.26ID:Hjkxb0g/0
以上、後楽紀事はいろいろな時代のエピソードが整理されずに書かれているので、ただ
事実を羅列しただけのように見えるが、整理してみると、結局は頼豊の改造によっては
さほど庭園は変わっていない、むしろ昔に戻ったかのように書かれているのである。

こんな本を書けと命ぜられて、鵜飼信興はおおいに苦しんだと思われる。
目の前の庭園の景はほぼ全て頼豊が作ったもの、あるいは見立てを決めたものである。
それを知りつつも、現在の庭園を否定することはできない。
頼房の時代にこうした縮景庭園を造ったということはあり得ないのだが、仮にそれを
知っていたとしても、おくびにも出さなかった。
結局、今の景観が頼房公や家光公の苦心でできたように書いたのである。
しかし、さすがに学者らしく集められたエピソードは嘘ではない。
事実を書きながら、根本のところで大嘘を書いた本なのである。
嘘というのは当たらないかも知れない。鵜飼信興は「神話」を作ったのである。
それは水戸藩のメンツと重臣たちの責任逃れのためであった。
頼豊に藩祖の頼房公以来の庭園を改変されたということは水戸藩士にとって屈辱である。
頼房・光圀の丹精こめた庭園が目の前で壊されていく。それを指を咥えて見ていたという
のでは単なる屈辱では済まない。
特に藩主にものを言える立場の重臣たちは何をしていたのかということになる。
そうした非難を何とかしてかわしたい。
とすれば、今の庭園を肯定するしかない。
頼豊による改変はほとんど無視し、頼房公の作られた庭園そのままと受け止めるのである。
改変はされたが、基本的には変わっていないと捉えるのである。
後楽紀事は、そうした理解普及のために書かれた本である。

ここまで書いてきて、新たな資料に出会った。
「東京都における文化財庭園の保存活用計画(小石川後楽園)」という文書によれば、
田村剛著・「後楽園史」に以下のような記述があるという。
「松平頼豊による改変により景が一変してからは、改変前の景を知る者の拝見が禁止された」
というのである。(原典等詳細は不明である)。
庭園の以前の景観を知る者は、改修後の庭園には入れないようにしたというのであるから、
江戸藩邸内で改修が大いに話題になっていたのだろう。
勿論批判も多く、それに対して高松松平系の家臣たちが敏感に反応したようである。
その結果、改修について話題にするのも憚られるようになった。
さらには改修前の庭園を見た者が改修後の庭園を見ることが禁止されたのである。
あそこがああなった、こうなったなどという話をすれば、頼豊がどれほどに庭園を破壊して
しまったか明白になってしまうからである。
このような状態とすれば、鵜飼信興が後楽紀事に改修前の庭園の様子を書けるわけがない。
しかし、小石川後楽園について書く以上、改修前の庭について書かないわけにもいかない。
とすれば、改修前改修後のも、庭はほとんど変わらないように書くしかないのである。
もちろん滝が壊れたり中の島が崩れたりはした。しかしそれは地震によるのであるから仕方の
ないことである。こうした自然の経緯についてはしっかり書いてある。
0749名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/15(土) 19:58:49.82ID:Hjkxb0g/0
また、上記「後楽園史」によれば、頼豊の改修により園内に畑が作られ、大根、蕪などが
栽培されていたという。また水車楼のそばに果樹が植えられた。
さらに、丸屋は耕作の際に休憩する御茶屋とされていたほか、亀や鯉、鴨、鶴等の生き物を
飼育していたという記述があるという。
頼豊はこういう庭が好きだったようである。

大泉水は琵琶湖であるとし、そこに行くまでの中山道の木曽路や、京都やその周辺の名所を
写した庭園にしたのは誰かといえば、それは間違いなく頼豊である。
これは上に繰り返し述べてきたところである。
だが、日本の史学は文献主義であり、もっとも権威のある文献である後楽紀事が、頼房の
庭園作成時にすでに縮景庭園であるとし、回遊式庭園であったとする以上、それに異論を
唱える学者などいない。
上述のように、日本庭園史の研究者である重森三玲という人など、小石川後楽園を
「諸大名の大庭園中、最も早く完成した大名庭園」と規定している。
後楽紀事の記述を前提にする限り、当然そうした位置づけになるだろう。
これ以外の説は成立しないのである。
とにもかくにも文献は重要であり、文献があればそちらが重視される。
文献に反するようなことを書いても無駄である。
であるから、ここに書いたことは一笑に付していただきたい。
忘れていただいて結構である。
0750名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/17(月) 08:26:16.48ID:I1eV0Zpd0
ここまで書いてきて閑話休題。
しかし、水戸藩の侍たちもだらしがない。
御成りのときに庭園を大改造するような必要があったのか。
手を加えずにおくことはできたのではないか。
幕府からは勿論事前に御成奉行が来て「ああせい、こうせい」と指図する。
はじめて御成りを迎える大名は御成御殿というものを新築する。
その御殿建設にあたっては奉行が三人派遣され逐一指図を受けることになっていた。
小石川後楽園への御成りのときは御成御殿は建てられなかったが、その分庭園の改造を
要求されたわけである。奉行たちが庭園を隅々まで見て細かく指示したのだろう。
しかし、家光公ご苦心の庭という一言で排除できたはずである。
「大猷院様(大猷院とは家光の廟書の名称である)お骨折りの御庭」と言うだけである。
それだけで奉行たちは命令を引っ込めざるを得なくなるはずである。
あちらはどうせ庭園などに興味はない。
奥仕えの女中たちの暇つぶしである。庭園などチラと覗けばそれでいいのである。
硝子御茶屋などで大ご馳走になっただけだろう。

それにしても何故奉行たちの言うがままに石を撤去し、庭園を破壊してしまったのか。
改造に応じるにしても、そこそこに済ますことは出来なかったのか。
御成奉行の指示とはいえ、ここまでやってしまうのは尋常でない。
こうなったのは、当時の水戸藩江戸屋敷の方にも原因があったと見るべきである。
結論から言えば、江戸藩邸は高松松平家に支配されてしまっていたのである。
桂昌院の御成りは元禄15年(1702)である。
その時の藩主は第三代綱條であった。光圀の兄である高松松平藩主頼重の次男である。
光圀が水戸德川家の血統を長男である兄頼重の系統に戻すため、綱條を養子にした。
将来自分の跡目を継がせることにしたのである。
光圀の養子となった綱條は、約20年後の元禄3年(1690)、光圀の隠居にともない、35歳で
水戸藩主となる。桂昌院の御成りがあったのは、その12年後で綱條47歳。
その二年前に光圀は亡くなっている。
光圀は隠居してからも水戸藩の政治には目を光らせ、決して養子の綱條や重臣たちの勝手には
させていなかった様子である。
しかし死の数年前から胃の不調に苦しみ、さらに亡くなって2年も経てばもはや忘れられた
存在であった。ここに至って藩内はようやく綱條の天下になった。
綱條の天下というより、より正確には綱條に付いてきた元高松松平家の家臣たちの天下と
なったのである。従来の水戸系の重臣たちの地位はそのままだったろうが、光圀という
バックが無いために綱條に対する影響力を失った。
一方、高松松平家から付いて来た家臣だちは綱條の側近グループを形成し、江戸藩邸の政治を
仕切り始めた。小石川藩邸における綱條の側近たちを誰それと特定することはできないが、
間違いなくこうした高松松平家系の家臣たちがいたはずである。
時あたかも側近政治が盛況の時代だった。当時を「側用人の時代」という学者もいる。
(綱吉における柳沢吉保、家宣における間部詮房を想起されたい)。
重臣でなく、殿様の側にいるお気に入りの家臣が政治を動かす時代だった。
綱條の側近たちは、水戸家の庭園などには思い入れも何もない。
庭園を守ろうなどとは考えず、幕府の奉行たちの言うことをホイホイ聞いてしまった。
御成奉行に必要以上に迎合し、庭園を大きく破壊してしまったのである。
0751名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/17(月) 08:29:01.81ID:I1eV0Zpd0
その後高松松平家から宗堯が養子に入り、成長して四代藩主の地位に就いた。
そうなってからは、さらに高松松平家系の家臣たちの力が強くなった。
この家臣たちによって水戸家は乗っ取られたようになったのである。
そうでないと、頼豊などという、自藩の家老たちにも相手にされていない政治手腕の無い
殿様が強権をふるうなど不可能であろう。
頼豊はまるで水戸藩主のようだったというのは、当時の文献が一様に伝えるところである。
ただし、頼豊がここまで堂々とやり切ったのには本質的な理由がある。
頼豊は光圀のことなど問題にもしていなかったのである。
それは何故かといえば自分たちは頼房の長男の血統だからである。
自分たちの方が由緒正しい血統であり、本来水戸家の藩主であるべき血筋なのである。
高松松平家は水戸家の支藩(分家)というが、実際はこちらが本家なのである。
光圀が水戸家を継いだのは間違いであり、朱子学的にはあってはならないことである。
それは光圀本人が認めている。
間違いを認め、反省した光圀本人の手で、水戸家は本来あるべき姿に戻ったのである。
頼豊はそのように考えていたので、水戸家の政治に自分が口を出すことを当然と思っていた。
光圀が取り立てた重臣などに自分の息子が抑えつけられ、指図されるなど到底我慢ならない
ことであった。光圀は何かの間違いで二代目藩主となっていたのだから、その影響力は早急に
取り除かねばならない。従来の重臣たちを遠ざけ、自分たちで藩政を独占した。
光圀の残した後楽園なども目障りである。
少なくとも、そのままにしておく必要はないと思ったのだろう。

上で水戸藩士もだらしがないと言ったが、実際に水戸藩士の立場だったらどうだろう。
誰も何も出来ないかも知れない。
頼豊の改造のときは、頼豊が木が多すぎるとか大きすぎると言ったのだろう。
木など後から伸びてくる。藩士たちは剪定だけと思ったのかも知れない。
工事が始まったらもはやそれまでである。やり出したら止まるものではない。
庭園改造だけでなく、一から十までこれだった。
従来の藩邸重臣などには相談もせず、いきなりやってしまう。やった後に説明もない。
宗堯の生母を高松から呼び寄せるため御殿を建てたときもそうだった。
いきなり普請が始まり立派な御殿が完成した。何だろうと思っていると、生母が移って
きて、高松から連れてきたお付きの女中たちと贅沢三昧の暮らしを始めた。
何も知らない従来の藩邸の住人たちにとっては、降って湧いたようなことであった。
実際のところ、頼豊や高松松平系の家臣の暴走を止めるには宗堯を殺すしかなかった。
しかしその時には庭園は一変していた。
後楽紀事が書かれた理由を一つ足しておく。
宗堯の死について、水戸家中だけでなく世間でもいろいろ取りざたされたのではないか。
これを払拭する必要があったのかも知れない。
頼豊公はたいした改造はしていない。水戸の藩士たちは改造のことなど気にしていないと
いうことを世に表明したかったのかも知れない。
0752名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/10/17(月) 08:33:52.82ID:I1eV0Zpd0
[ 現在の後楽園について ]
中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。
土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。
亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。
残土置き場のようである。
竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。
涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり
で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。
おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。
都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。
日本庭園が公園化され、半分西洋庭園のようになるのは仕方がないことである。
苑路が普通の道路のようになり、泉水の縁がセメントで固められてもやむを得ない。
しかし、泉水の中までは人は入らないのだから部分的には本物の景観を作らないといけない。
涵徳亭の庭なども本気でつくらなければならない部分である。
京都などの、本物の石組みを築ける造園会社を使わなければ駄目だと思う。
その他、近代的・西欧的公園との関係でいうと、田圃のようなところにアヤメを一面に
咲かせるようなことは本来日本人のしなかったことである。
ああしたものは、広大な敷地一面にチューリップやラベンダーを咲かせる感覚に近い。
昔も菖蒲田のようなものは作ったが、今のようなものではなかった。
(兼六園も曲水のところにカキツバタの群生があるが、昭和51年に有料化してからやり過ぎ
である。昭和44年に園内から離れたところに梅林を作っている。あれも不要であった。
水戸の偕楽園には梅林や竹林があるが、もともとは戦時の軍糧にするためのものだった。
そもそも偕楽園は公園であって、日本庭園とはいえない)。
ともかく、広いところを一面の花畑にするというのは、田舎の市町村でもいくらでも作れる
景観であるから田舎でやればよい。
アジサイを数百・数千本植えた寺が観光名所になっているが、ああしたものもまともな感覚の
人間ならしないはずである。
田舎の寺でやっている分にはかまわないが、それは日本庭園とは何の関係もないことである。
花を咲かせるにしても万事控えめがよい。日本庭園には抑制が必要である。
侘びや寂び、枯淡の境地に通ずるものがなければならない。
何よりも大切なものは品格である。
不要なものを削ぎ、削ぎに削いだ結果ごく単純な美が残る。それが品格を生むのである。
馬鹿げた風景を作り出してはならない。
修学院離宮の庭
https://kyotofukoh.jp/report461.html
後水尾天皇の作庭。1596年に生まれ1680年まで長命した天皇で、徳川頼房とほぼ同時代の
人である(頼房は1603年に生まれ、1661年に死亡)。
この二人の人生は、60年近く重なっている。
後水尾天皇は庭に造詣が深く、修学院離宮の他にいくつもの庭を手がけている。
小石川後楽園が出来たときは、すぐにその絵図(設計図)を取り寄せ、これは名園なりと
感嘆されたという。
0753名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/22(土) 07:30:07.22ID:RXHRGJxE0
庭園長々と書き込んですいませんでした。これで終わりです。
皆さんの書き込みを邪魔してしまったかも知れない。
どうぞ自由に書き込んで下さい。
0754名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/12/21(水) 12:23:53.19ID:U2p/KSb90
水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見

書簡が見つかった江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の史料が保管されている。
見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。
 「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。
書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに
酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に
残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の
東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさが、うかがえる印象的な書簡で、貴重な
発見だろう」と話している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/172e1d3eda022c45ee7aa54d98528a104c11ac17
0755名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/12/05(火) 20:21:28.00ID:vqkSBReB0
一橋慶喜は禁裏御守衛総督として京都にいた。武田耕雲斎の一党(天狗党)が西上して
きたと知ると、慶喜は自分を征討軍の総督に命じてほしいと朝廷に願い出た。
願書には以下のようなことが書かれてあった(意訳)。
「このたび常野浮浪の徒が多数人、中山道を罷り越して容易ならざる情勢であります。
この上帝都に迫るような事になれば、禁裏を守衛するという職掌上恐懼に堪えません。
のみならず、この集団の中には実家の家来等も交じっているようでありまして、これは
特段に相済まぬことであります。それ故、速やかに江州路まで出張して追討つかまつる
所存にございます。」。
朝廷では「そのようなことをしたら人心が動揺する」という理由で許さなかった。
許さなかったのは、実は一橋公と水戸勢がくっついて攘夷を決行するに至るのではないかと
いう憶測(噂)があったからである。
(こうした噂は薩摩藩が振りまいたものらしい。たしかに薩摩の工作もあったようである。
しかし誰でも考えるようなことであり、自然発生的な部分もあったと思われる)。
水戸といえば尊皇攘夷であり、その行動の激しさは伝説のようになっている。
今一橋公が実家の水戸の侍たちに取り込まれればどういうことになるか。
長州と手を結び、ふたたび禁門の変のようなことが起きても不思議ではない。
一橋公御謀反か、といった観測まで囁かれ、それが幕府内部や会津、薩摩でさえ半ば信じられて
いたという。
こうした徒党を慶喜が庇えばどうなるか。
天狗党西上軍は幕府の追討を受けて関東を逃れてきたのである。いわば幕府のお尋ね者である。
お尋ね者を庇えば幕府との対立は免れない。
対立の結果、慶喜は幕府内における地歩を失い、孤立するであろう。
孤立した結果、取り込んだ天狗党の影響で長州や土佐の尊攘派と結びつく可能性は確かにある。
こうした予測を立てられるだけでも慶喜には迷惑千万であった。
さらに天皇との関係でも支障が出るのは明かだった。
もちろん孝明天皇は夷人嫌いである。ヒステリー症か何かのように夷人に拒絶反応を示す。
だから天皇が攘夷主義者であることは間違いない。
けれど、攘夷攘夷と騒いで暗殺をしたり、集団で京へ上ってきて戦争をはじめるような連中は
大嫌いなのである。尊皇攘夷運動によって朝廷の地位が高くなるのは結構だが、あくまでも
幕府あっての朝廷である。
孝明天皇にとって幕府なしの皇室などは考えられなかった。
今、幕府の柱石である一橋公に本卦帰りされては困るのであった。
慶喜が幕府と対立すれば、天皇は慶喜を捨てるであろう。それは間違いのないことだった。
慶喜は、そんな結末を考えただけでゾッとするのである。
何としてもそんな展開は避けたかった。
0756名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/12/07(木) 12:52:15.52ID:kohuMx2s0
朝廷は慶喜を征討軍の大将にはさせたくなかったが、重ねて乞うものだから仕方なく許可した。
その肩書きは禁裏御守衛総督である。それまでの肩書きと何も変わらない。
天狗党西上軍が京都に迫るようなことがあっては困るから、禁裏(朝廷)を守るために出陣する
という名目なのである。
これにより12月3日、慶喜は京都から大津に出陣することになる。
その行列はまことに勇壮華麗なものであった。
徒目付・小人目付を先駆として歩兵・大砲・別手組の諸隊、中軍には講武所の兵と床机隊・大砲隊。
これに続き赤字に葵の紋をつけた旗を立て、旗本勢が持小筒組を率いて進む。
次に馬印や陣鐘、太鼓、旗、さらに騎馬隊が往く。
その後にようやく慶喜が出てくる。左右を守る旗本たちに続いて書院番士たちが手槍を棒持ちに
して進む。さらに大砲・臼砲、鉄砲隊・・・・
わずか千人に満たない天狗党西上軍、それも侍は半分もいない軍勢だというのに、それを討つ
という慶喜の行列は大仰きわまりない。
京の人々は壮麗な軍勢を見て侮蔑の薄笑いを浮かべた。
「長州様は手強いが、ご家来すじで歩き疲れた天狗さんをお打ちになるにはえろう勇ましいこと」。
長州征伐はダラダラやる気があるのか分からないが、家来筋で慶喜に抵抗できないはずの天狗勢を
討つのには積極的だと笑ったのである。
行列は朝に京都を出て、陽の高いうちに大津に着いた。
(現在の京都市役所と大津市役所の間は直線距離で10キロしか離れていない。)。
翌日には徳川昭武(慶喜の弟)が水戸藩の本圀寺勢を率いて京を出立した。
昭武は禁裏御守衛総督軍の先鋒ということで、大津で兄の慶喜本隊を追い越し、草津に進軍した。
そこから関ヶ原・大垣と進んで岐阜あたりに出てくる西上軍を待ち構えるつもりであった。
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