18世紀末ごろに作られた藩校は、ほとんどが熊本時習館をモデルにしたものの
ようだ。入学は8歳からで、句読生→習書生→蒙養生(もうようせい) と上に行くごとに
生徒の数は減っている。義務教育じゃないんで、勉強に向いていない子はやめて
いったのだろうか。句読は漢文の白文読み下し方の勉強。昔は自分で返り点などを
打ちながら読み下していったのだ(教科書には直接打たないが)。
習書とは習字のことだが、白文をそのまま書いていったのだろう。先生が読み下した
漢文をそのまま漢文で書けなければいけなかったんだろうと思う。自分の書いたものに
句読点を打つ練習もしたかも知れない。
ともかく、習書の過程で子弟は唐流を仕込まれたということは分かる。
蒙養というのは江戸時代中期に書かれた子供向けの道徳書みたいなもの。
中井竹山という儒者が書いたもので、ベストセラーであった。
明治になっても出版されていた。よほど普及してたようでネットにも写真がたくさん出てくる。
大きな御家流の文字の本である。習字の手本でもあったようだ。
子供はこれで御家流の文字の読み書きを習ったんだろうな。
「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅(わずか)の事も一分(いちぶ、
自分の心)に任す事、必ず之有るべからず候」。
「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初(かりそめ)にも先に立つ
べからず候」。

俺が子供だったらこんな勉強をさせられたら続いたかどうか分からない。
落第制度があり、今の小学校とちがって容赦はなかった。
実際だんだんと生徒が集まらなくなり寂れた藩校が多かったようだ。
天保ぐらいから改革が図られ、軍事教練や撃剣に力が入れられるようになると息を
吹き返し、何倍もの規模で営まれるようになった。

藩校の登下校は「連」という地域グループごとにまとまってしていた。
「連」という言葉は西日本でよく使われる。阿波踊りのグループも連という。
昔の武士たちは身分・職分ごとに住む場所が決まっていたから、地域ごと
に連を作れば親たちはほとんどが同僚同士であった。
同じ階層の地域社会に属する少年たちが一つの連でまとまっていた。
初登校の日は句読師などの先生たちが迎えに来て、連の子供たちを引率して
登校したというのが微笑ましい。
今の小学校の入学式のようなもので、子供達は新調の絣の単衣に袴を着け、
腰に小さな二刀を差し、緊張した面持ちで歩いてゆく。
道端の親や祖父母たちも礼装だったろう。母親はこの日のために留袖をあつらえ
丸髷を結い、化粧をした。
少年たちの後ろを親たちが付いてゆく。藩校の門までは行ったのではないか。
一種のイベントのようになっていたと思われる。