【戦前】 旧制の学制について2 【教育】
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>>329
天野郁夫、秦郁彦や竹内洋などの本は読んだ?
秦郁彦『旧制高校物語』(文春新書)
入試日は全国上級学校大観に載っているかもしれない
>>331
申し訳ない
戦前の教授の話だったんだね
昭和10年前後生まれの人の話と勘違いしてしまった
戦前なら官立や帝大と頭の中に刷り込まれていたよ 教員志望者はほぼ全員高師から文理科大学に進学したの?
あと戦前の立正大や高野山大の評価はどのくらい? http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318188.htm
昭和19年の図を参照してくれ
普通は高師出たら先生になるだろう
東京高師出て東京文理科大進学てルートは
大学専門部から学部に移るようなものじゃない?
師範学校卒で高等教育者になりたい者が文理大受験
高師からも多少は文理大に進んだみたいなこと書いてあるね
文理大開学後も高師附属小学校みたいだから文理大と高師は並立していた
私大高等師範部の他大戦末期金沢、岡崎に高等師範があった
旧制立正大、高野山大が大学案内本で詳しく紹介されているのは
見たことがなく早慶が2ページ、明治が1ページ、日大中央が1ページ弱だとしたら
立正大はだいたい住所と概要くらいの数行
その筋では超エリートなんだろうけど坊さん以外に就職口あるの?
てか坊さんの子息がいく学校なんじゃないの? >>335
旧制立正大学にも専門部高等師範科がありますが…。 明治時代にできた日大早稲田高等師範と
昭和4年にできた立正高等師範では影響力が違う
考えてもみよ、昭和10年前に卒業し教諭になったとして
終戦時点ではまだ30歳前後の若手教諭だ >>338
なるほど。
影響力として日教組が台頭したのですね。 >>339
私大高等師範は全国的な影響力はなかった
東京、広島高師、旧二文理大が東西に大きな影響力をもっていた(広大は今も)
レポートの為なのかいつも質問ばかりなので検索して欲しい
山口の旧制中学教諭の出身校や俸給の推移などの論文が
ネットで読めたはずだから探してみてよ
日大高等師範や早稲田高等師範を題材とした論文も検索すれば出てくる
昭和に入り高師卒は即教職に就く率が6割くらいまでに下がっている
日教組に関して詳しく知らない
GHQも関係しているし昭和30年代くらいまでほぼ全ての職業に
赤化分子がおり何も日教組だけではなかった(国鉄の各労組や炭鉱、自治労とか)
下士官みたいと揶揄された都道府県師範卒の所謂師範タイプが転向しアカになったんじゃないかね?
ミスター日教組も高師、二文理卒ではなく青年師範学校卒 >>340
師範卒は一年兵として徴兵される
辻政信は軍人育成には少年教育が大切と考え特に師範卒の
短期兵には懇切丁寧に教え訓練をさせた
結果三千里の逃亡から舞い戻った辻は地元の先生が手弁当で
辻の国政選挙活動を支援した
辻は下士官にも優しかったので旧第7師団の連中は積極的に手伝った
兵より足腰が強く重いものを運べる陸士出なんてそうそういない 【捏造中】東洋大学ウリナラファンタジー【歴史をコリエイト中】
__ 「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」!
/ ../) 戦前はそう呼ばれたニダ! 出典? そんなものは後から考えるニダ!
三三)/) 嘘も100回言い続ければ真実になるニダ !
__ 三三)/ __
/ ../). こうだったハズニダ♪ / ../) 東洋大学の昇格が遅れたのは
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/) 哲学館事件のせいニダ!
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> .三三)/ . かんしゃく起こるニダ!
∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ __
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/) ←偽書
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__.`ー‐' .`ー‐' 東洋は六大学野球に誘われたニダ! でも断ったニダ!
/ ../) __. 歴史は自由に書き換えることができるニダ!
三三)/) / ../) 〃∩ ∧_∧
三三)/) 三三)/) ⊂⌒< `∀´>ウェーハハハ♪
三三)/ 三三)/ `ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ .⌒ いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
95M 戦前は名門だった高千穂高商
戦後の高千穂商大はなぜ没落したのか?
答え:後継者争いが起きたから。
高千穂学園八十年史(昭和58年)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073927769-00
対立の過程
一、前兆
川田鉄弥は、独断専行の欠点を補う積極的実行力が老境により欠如して
各方面に亘り進歩の点が見られなかった。殊に私情が強くなったことは遺憾であった。
二、川田鉄弥の発病
昭和二十八年四月六日川田鉄弥卒中後痴呆となり精神能力を失った。
三、川田正斉の学長及び理事長就任
川田鉄弥の疾病により川田正斉はその筋の関係省庁に「手続きを完了して、
学長と理事長となった。
四、川田正清の不承認
川田正清は、川田正斉の学長及び理事長就任は正規の手続によらざるものであるとして、
就任を認めず、正斉の行為に対して悉く反対の態度を示した。
茲に於て兄弟の不和を生じ、学校教育並に学校運営は日増に不運の道に入って行った。 学園の荒廃
こうした対立の中でも、ともかくも学園の運営はつづけられてはいた。
だがそれは、およそ正常な学園とはほど遠いものであったことは想像にかたくない。
学園の経営を形ばかりにぎって、学園とは関係ない問題に借金をかさね、
学園の土地を売却して狂奔する正斉氏と、これに裁判で対立した正清氏は、
学校運営でも対立し、正斉氏が主として大学を地盤に、
正清氏が高校等を地盤に学園内でことごとに対立をくりかえした。
指導者なき学園、その下で創立者子息の権力争い、このあおりで学園は荒れに荒れた。
戦争で多くの校舎を失って再建がまだ十分でなかった学園の建物は、
その多くが老朽化した木造建築が多かったが、その木造建築も管理の不行届から、
窓は破れ、床は落ち、天井もしずむ、廊下は穴だらけでろくに歩けない、
まるで廃屋に近かったとの証言もある。しかも経営の対立から、
教員、学生への指示が二重に行われ、教員への任命書、給与支払書が対立する双方から出されたり、
卒業証書が二枚出されたりといった、今日では想像も出来ない混乱が続いたという。
当然そこで行われる教育は、およそ教育の名に値しないものであったことも想像にかたくない。
授業よりの生徒の逃亡、試験時のカンニング、教員・学生の授業時の飲酒など、
これまた常識では考えられない数々の話が伝えられているのもこのころである。
その結果として後の学校編であげた高校生の非行もこの時期に激増し、
修学旅行などでの暴力事件なども相ついだ。伝統ある高千穂が、悪名高い暴力学校として
名を広めたのもこのころのことであった。(『高千穂学園八十年史』 256-257ページ) 昭和三十七年、東京地方裁判所は、川田正清氏から出された、
川田正斉氏の理事および理事長の職務執行停止の仮処分を認め、
木村善太郎氏を理事および理事長の代行者に選任した。
だが昭和三十九年三月二十三日にその申立人であった川田正清氏が突然死去され、
同年四月二十七日にこの仮処分が取消された。したがって木村氏は一時、
学園の事務を川田正斉氏にかえす動きがあったが、この時期からようやく
同窓会の再建への動きが出てきた。(『高千穂学園八十年史』 271ページ)
高千穂学園が落ち着きを取り戻したのは昭和40年代以降のこと。 >>347
最初、この大学名を目にしたとき、てっきり宮崎県にあるものと思った。
お家騒動でたいへんだった時期もあったかもしれないけど、その後はなんとか持ち直したみたいですね。
しかし、知名度が低いせいか、今ではかなり苦戦してるみたいでたいへんそうです。やっぱり私立の単科大学は厳しいですね 時期にもよるけど、6歳就学で小6中5高3大3のコースをたどって卒業時23歳はあり得るっていうかオーソドックスだと思う ていうか、中学4年終了時点で高校へ飛び級入学可能で(阿川弘之など)
22歳で帝大卒業した人間すら、少なからずいる。
まして、23歳で帝大卒業なんて普通でしょ。 さらに言えば、制度上だけでの話なら、
小5終了時点で中学に飛び級入学可能であったが、
流石にこの制度を使う人間は少なく、理論上では21歳で帝大卒業も可能だが、
実際にそうなった人間はいないか、いてもごく少数だろう。 当然だろ。法律上、一高も他の高校と同格なんだから。
なぜ一高と他の高校で差が出る可能性があると考えるのが、訳がわからんぞ。 もしWW2後の占領がなければ今日も旧制続いてたんだろうかね まあその代わり
北陸帝国大学
中国帝国大学
四国帝国大学
くらいは出来てたろうよ。 現代でザックリ例えると
旧制大学→大学院
旧制高校→大学
だな >>365
うーん、陸軍から独立した空軍を作ろうと思ったら、
大日本帝国憲法を変える必要があるからなあ。
憲法の条文は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」であって、空軍のことはどこにも書いてないからね。 >>364
感覚的にはそうなんだけど、
学歴的には、旧制でも大卒は現代でもあくまでも大卒に、
旧制高校は、短大卒に相当するのね。
こないだの国勢調査の学歴欄でもそうなってたから、
国としては今でもそうなんだと思うよ。
あと、旧制高等専門学校卒はともかく、
旧制高校を卒業した人間が、そのままどこかに就職するなんて事はあり得ないからね。
ほぼ全員が、必ずと言っていいほど帝大に進学する。
その進学の容易さは、今の大学院入試以上に簡単。
例外は医学系と東京帝大法学部くらい。
なので、現代に強引に例えるなら、
旧制高校は、必ず院に進学することが前提の専用大学、といったところ。
ちなみに、戦後しばらくの間の国立大学が、入学後一年半から二年はまず教養学部に所属し、
その後に各学部に進級していたのは、この旧制高校卒が自動的に帝大に進学していた名残。
この制度を今でも残しているのは、東大くらいじゃないかな。
文Tとか理Vとかの言い回しも旧制高校から。 >>366
陸軍航空士官学校ならあったけどね
ただ多分日本のことだし畏れ多いとか保守派が反発して結局明治の憲法を21世紀になっても改正できてなさそう… 婦人参政権もなしで民法も戦前そのまんまな社会を想像したけど案外悪くなかったのかもな 旧字体も使われ続けたんだろうか。
スレタイも【學大國帝京東】 旧制と比べてレベルも格も上がったのは、何と言っても薬学部 この人はやっぱり凄いの?
早坂暁
旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を経て、海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃している。旧制松山高等学校(現在の愛媛大学文理学部の構成母体)卒業後、東京大学医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず[2][3]、日本大学芸術学部演劇学科に進学し同校卒業。 何を持って凄いと言うべきか判断に迷うが、
現代に例えるなら、京大卒以上の学歴を持っていると言っていいのではないかと。 ただし、東大医学部合格が本当ならば、
というのが前提ではあるが、
これの確認は、現代となっては困難なのかも。 >>375
一応ソースは本人談なので…
流石に詐称するような人では無いと思う >>376
いやまあ、多分本当なんでしょう。
ただ、367でちょっとそれっぽいこと書きましたが、
当時はとにかく旧制高校に入ることがエリートコースの前提で、
入ってしまえば、その後のことは例え医学部だろうが東大法学部だろうが、
現代ほどの大差はないので、東大医学部だろうが、日大芸術学部だろうが、
現代ほどの意味はないでしょうよ。
当時でも、東大医学部を捨てて日芸なんて、アフォかと言われたでしょうが、
現代のアフォか、よりは意味が狭いでしょうよ。 >>373
さらっと書いてあるけど海軍兵学校在学が地味に凄い うーん、確かに凄いのは凄いのだが、
兵学校在学中に原爆を見たと言うことは、75期以降だろう。
この頃の兵学校はなあ。大量入学させてた時期だからなあ。
それでも相当難しかったのは確かだと思うが、
一高陸士海兵と言われてた頃よりは下がると思うな。 師範学校に入るのって別に難しくなかったよね
学費がかからないにもかかわらず、おおむね旧制中学より下でしょ?
昔の先生は尊敬されていたとか教師は聖職だった、というのが疑わしい
普通に今と同じく戦前からバカにされてたんじゃないの? >>380
組織図の話で言えば、師範学校も旧制中学も同格な訳だが、
現代の偏差値輪切り的な話となると、まあ大体は
旧制中学>師範学校
だったろうね。
ただ、師範学校はあくまでも小学校教員養成学校であって、
旧制中学クラスの学校教員養成機関は、高等師範学校となるので、
単純に聖職であったというのが間違だったというのはその通りだが、
権威主義が今よりもキツかった当時の学校では、
影でならともかく、堂々と先生を馬鹿にするのは、今よりも難しかったんじゃないかなあ。
現代の学歴的に例えると、
小学校教員=高卒
中学高校教員=大卒(厳密に役所的分類をすると短大卒だが)
となる。 全くの独断と偏見で、
当時の学歴を、役所的分類でなく、
当時の社会人的評価で、縦に並べてみた。
ちとややこしいので、院卒や軍内学校(陸大や海大)以上はパス。
帝大(旧制高校卒は全員ここに含まれる)
↓
陸士海兵
↓
官立大
↓
官立旧制専門学校
↓
著名な旧制中学
(大抵は進学するが、当時は経済的に東京府立一中や神戸一中でも就職組が結構居たので)
↓
私立大
↓
私立旧制専門学校
↓
一般旧制中学
↓
実業学校
↓
高等小学校
↓
尋常小学校
こんな感じかなあ。 >>381
もちろん、今と同じく表立ってはバカにしないと思いますよ
しかし、陰では特に中学・高校に進学するつもりの人からは、所詮師範学校と
バカにされていたんじゃないか
そういえば、大正時代の親向けの「先生はえらいということにしておけ」みたいな文章を
読んだ記憶がある
ということは、大いにそういう傾向があったんだろう
一方で、旧制高校の教員は大学をでてるだろうし、こちらは生徒からも評価されていただろう
選民のサロンですね
>>382
この中でいちばん幅が広いのは官立大ですかねえ
医大と文理科大では社会的評価は全く違うだろうからねえ 旧制高校の場合、そもそも先生の呼称が、教諭じゃなくて教授だからね。
現代の中等教育機関としての高校ではなく、戦前は文字通りの高等教育機関だったので、
まあ、当時でもアフォ教授は居ただろうけど、今とは意味合いがチト違うのかもね。
医学はこれまた話がややこしくなるので、俺はスルーするが、
文理大は、それこそ当時流行った高等専門学校の大学昇格化運動の教育学版だからねえ。
東工大や東京商大、神戸商大辺りよりはやはり一枚落ちるかなあ 師範学校は学費が無料でも結局はたかが小学校の教員にしかなれないから
全然入るの難しくなかったんだろうね
高文も受けられた逓信官吏練習所とは全然違うね >>385
吉川弘文館の「事典昭和戦前期の日本」。宮尾登美子の「春燈」。いずれも、能力はあるものの経済的に貧しい農村の少年少女が志願してたようだ。僅かな金で将来を縛り、それが許された時代だ。
同様のことが海軍でも行われたが。 >>385
逓信官吏練習所は、高等教育機関。
師範学校は、中等教育機関。
全然違うのは、当たり前。
あえて比較するなら、高等師範学校の方だろうね。
まあ、現代の偏差値的比較をするなら、
高等師範学校でも相当の開きがあると思うけど。 今だって公務員である小中学校の教員に簡単になれるから
教育学部が大人気かといったら全くそんなことはない
だいたいどの大学でも教育学部は一番下だ >今だって公務員である小中学校の教員に簡単になれるから
教員資格を取ることと国公立の正規教員になることは別だし、何と比較して簡単なのかも分からない。
そもそも教師に簡単になれるなどと甘い考えをもっているバカなガキは教育実習中に落とされるから資格すらもらえない。
>教育学部が大人気かといったら全くそんなことはない
>だいたいどの大学でも教育学部は一番下だ
私立の教育学部卒なんかコネがなければ教師になれないし、就職の面接では必ず聞かれる質問で「大学に入れれば学部はどこでも良かった」なんていう本音も言えないのだから避けられて当たり前。
教育大学卒でなければ国立の教育学部ですらハードルはかなり高い。
ま、ネット上だけなら高難易度の資格をとることなんか簡単だなんて誰でも言えるけどなw
それと、何も知らない分からないオコチャマの言葉が他人に受けいられるのかは、全く別なはなし。 >>388
今でこそ倍率は落ちたが、30年前は高倍率だった。しかも小学校の教員は薄給で激務、誰が好き好んでやるか?教員は薄給に甘んずべしという儒学の考え方は今も昔も変わらないな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています