さらにこう続く・・・  ( )の中は引用者の注釈

西郷はそういう人物であるから、度量が大きいとはいわれない。

またその後も大島から赦免になって帰って来た時は、久光公の君側の某々が小人で、
これ等がほしいままにするというのが不平で、それを敵と見て排斥するということになって、
(しかし反撃を食らった西郷は)再びの遠島となった。

とにかく世の中の小人などをば、自分の度量内に入れてやるということは乏しい。

明治の以後になってもそうである。大敵と思う幕府は倒れてしまった。
せっかく御一新の政府になったところで、もう政府の間に悪い空気がはいったという積りで、
参議連中が姑息じゃとか、富貴を貪っているとか言って政府の人をば憎む。

政府の人を憎むところから、征韓論が起こって、
また党派争いで、自分につく者とつかない者と二つに岐れて、
征韓論が通らないで、また自分の敵が起こって来た。

そうして大臣をはじめ皆富貴に慣れて、御一新後わずかばかりの間にわがままをするということが(西郷の)腹に在って、
遂に西南の乱となった。

どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしくてたまらないようであった。