西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) >>466
朝鮮を開国させる交渉目的だよ
朝鮮の度重なる無礼問題で即時出兵論が出てきたがそれを抑えてたのがむしろ西郷さんだから 西郷さんが征韓論なのか遣韓論なのかの議論ほど虚しく滑稽なものは無いよな
同じなのに
西郷さん自身が板垣退助に手紙で
「必ず戦ふべき機会を引き起こし申す」
て書いてる時点で、同じもの
征韓だろうが遣韓だろうが西郷の評価や名誉は変わらないし
どうでもいい問題 征韓か遣韓かは重要、西郷の人物像が大きく変わる
征韓論は士族の不満そらしに唱えただの、外遊組が戦争を止めるために反対しただの
かなり外遊組が美化されてるからね 西郷さんの人物像が大きく変わるってことで言えば
「征韓論」を「遣韓論」に書き換えよう、みたいな運動て
西郷信者にとってやぶへびだったよな
無理ありすぎな西郷美化を押し通そうとしたことによって、
逆に当時の正確な史料をほじくり返され
西郷さんのブラックぶりがバレちゃった 鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。 だいたい従来の西郷征韓論(西郷さんの自己犠牲によって日本が出兵の大義名分を得て、征韓する)
というもの自体が美化されたものである
西郷は必死の覚悟で朝鮮に渡るつもりであったなどという説明自体が美化なのである
当時の日朝の緊張状態を考えれば誰が大使で行こうと、殺される危険はあるのである
そもそも西郷は「死んでくる」などとは一言も言ってない
「(私を)死なせたくない、などと心配していては何も叶いませんよ」と手紙に書いただけで
使者としてはふつうの表現であり、覚悟である
それまでも使者は何度も訪朝しているが、殺害された者はいない
使者を殺害すれば、報復の大義名分を与えることになるのは誰でも分かるからである 西郷さんだけがブラックというわけではないけどな
外遊組も含めて当時の普通の感覚 西郷さんだけはホワイトだった
ということにしたいのが西郷信者 これほどの著名人であっても評価というのは定まらないもんなんだな
ひさしぶりにためになるスレ いや、お笑い程度の認識でOK
本当に知りたければ他を当たれという話w >>474
それが真実なんだよな
だいたい時代を動かした人物達なんだから、理想もありゃ隠謀も駆使してるのが当然
篤姫に登場した黒西郷が一番説得力があったわ 大河が近づいてきて木戸オタが必死に西郷サゲをしております >>3
伝説 : 幕府から指名手配された親友月照を不憫に思い心中を試みる
史実 : 藩命により、死ぬ気など無かった月照を海に突き落として殺害
↑
これって本当なの?
通説ではないだろ お互いの同意があって死ぬのを“心中”というなら
月照には死ぬ気など無く、同意も無かったのだから
“殺害”だわな
通説になってる“心中”というのはでっち上げ 西郷が一方的に“無理心中”に持ち込もうとした可能性はあるけど
いろいろ不審点が多すぎる
後日、西郷が重野安繹に直接説明したところによると
西郷と月照は心中を約束していたわけではないが、
言葉に出さずとも月照も以心伝心で承知しているはずなので西郷は月照を抱いて海に飛び降りたと
海の底で発見された時、西郷と月照は抱き合っていたと
何分とは分からないが、海の底での救助までに相当の時間がかかったであろうに、
月照だけが死亡し、西郷は何の後遺症も伴わずその後回復したと
同じ条件で一方は死に、一方は長時間海の底に沈んでいたにもかかわらず後遺症も無く回復
だいたい溺れた人間同士が抱き合ったまま海の底に沈んでいる??
そんなことがあるのだろうか そりゃ人が溺れる状態を知ってりゃ沈むだろ
溺死体は沈んでからガスが溜まることで浮いてくるからな
刀とかのおもりを身につけていたらなおの事だね 溺れて意識を失った2人が抱き合って沈んでいる
という状況は無いな
よってその話は嘘 >>485
つうか西郷入水の時って、二人が荒海に飛び込んだ音を聞いた水夫が、すぐに続いて飛び込んで西郷を救出って事になってたはず。
海底に二人が沈んでたのを助けたって話じゃなかったかと。
助かった西郷にしても回復に数か月を要してるしなぁ
救助されて意識が回復した地は今でも「西郷蘇生の地」と史跡になってるくらいだから、若くて体力のある西郷にしたって当初は瀕死の状態だったろう
そもそも月照は日向送りで船に乗ってて西郷はその護送役だったわけだから、すでに月照が殺されるのは確定してたわけよ
薩摩で日向送り(東目送りとも言う)となれば国境で斬り捨てるってことを意味してるわけでね、つまりは月照は刑場へ連行されてる最中だったってこと。
そりゃ月照が意味深な辞世を残してるのも当然なわけっすよ。 >>486
どっちにしろ月照は死んでいたはず、って話じゃないんだな
通説になっている、月照と西郷が絶望し、示し合わせて心中したという美談はデタラメである、という話 > 海底に二人が沈んでたのを助けたって話じゃなかったかと。
“抱き合ったまま”沈んでいたというのは西郷が重野安繹に直接説明した話だそうです
「西郷南洲逸話」 月照殺害のことを西郷が自分で語ったとされる記録がもう一つある
コピペですがどうぞ
昭和12年鹿児島県教育会発行の「南洲翁逸話」の冒頭に、
伊集院の郷士本田元右衛門と西郷の対話として、
「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。
月照が船のトモに出て小便をしている所を後ろから抱きこんで飛び込んだら、
月照のみは死し、自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」との記述がある。
戦前の日置郡伊集院小学校の調査報告による、とあるから信頼性は高い。
ようするに心中ではなく、死ぬ気の無い月照が小便しているところを
背後から西郷が抱きついて海中に引きずり込んだのだ、
と西郷自身がポロっと漏らしているのです。
殺害したとなると世間の聞こえが悪いので、心中であったかのように偽装したのでしょうか?
事件後、月照の辞世の句とされる書き付けが出てきたと言われています。
”月照”と署名が入っていたそうなんですが、月照の生前の署名はほとんど”忍向”という雅号であり、
果たして月照本人が書いたものか非常に怪しい。
しかもこの書き付け、西郷の懐中から出てきたそうです。
自殺に見せかけるために偽の辞世句を計画的に
準備していたとしたら、なんとも後味の悪い話ですが、
この時の西郷は30歳になったばかりの若者。薩摩藩での立場も強いものではなく、
藩命には逆らえなかったのかもしれません。 それか、可能性として考えられるのは
月照は処刑される覚悟ができていて、事前に辞世の句を西郷に渡しており
西郷は月照を助けられない申し訳なさのあまり、
発作的に船の上で、小便の最中の月照を後ろから抱えて
自分も死ぬつもりで海に飛び込んだ・・・
まあ、発作が起きるタイプの人間なことは確かなんで
西南戦争で玉砕の土壇場になって発作的に投降しようとしたみたいだし、
数々の暴言も発作的に口をついて出てるんだろうなとは思う 薩摩藩は西郷を守るために、西郷の墓まで作り、それを幕府の捕吏に見せて西郷死亡を偽装している。
心中自体が偽装だったかはともかく、偽装はあたりまえにあった 明治維新から欧米崇拝を深める日本政府に見切りを付け西南戦争で決起した西郷隆盛は正しかったね
この後、大久保利通が育てた官僚組織が太平洋戦争を引き起こすんだから。 それがほんとなら
日本戦史上もっとも愚かな2つの戦はともに、薩摩人の手によるものだったわけか 西郷隆盛は2人居た、とか言うことはないの?影武者徳川家康みたく >>490
西郷は当然ながら日向送りの意味する所は知ってただろうし、日向送りを月照に伝えた使者も西郷だったわけで
月照に日向送りの意味を当然伝えただろう
それはともかく日向送りの護送役だった西郷が、なぜ心中を計ったか?
月照は西郷の殉死を止めて論したことがあるくらいなのに、心中という形で二人で死ぬ事を西郷に許すとは思えない
月照なら粛々と、日向送りの末に一人で斬殺される道を選んだだろう
西郷側にも死を選ぶ以外に道の無い状況だったと推測するしかないわな >>492
は?w
昭和時代の馬鹿政治家と軍人だろ馬鹿w 西郷捏造伝説を守りたい人は地元の鹿児島老害歴史研究会とかでやってろよ >>492
>この後、大久保利通が育てた官僚組織が太平洋戦争を引き起こすんだから。
正しくは、山県有朋が作った参謀本部を中心とする軍事官僚や警察官僚が暴走して、
太平洋戦争を引起す。 >>501
薄っぺらい知見だね
カルト軍人の暴走を支えていたのは当時のネトウヨ的な世論だよ
昭和17年に小林秀雄などの知識人が集まって話し合われた
シンポジウム「近代の超克」を読むとよく分かる
当時の相当まともな人たちでさえ日本は欧米的な価値観を“超克すべき”である
と戦争に迎合するようなことを言ってるんだよな 暴走軍人が勝手に戦争を始めて、戦争を望まない国民世論を統制し
全体主義体制を無理強いしていった
などというストーリーは戦後に創られたものである
戦争中の大本営発表ニュースなどは、今でいえば“日本すごい”系記事と
同じであり、当時のネトウヨ国民がホルホルして聞いていたのだ 西郷さんの“征韓論”も同じである
征韓論といえば西郷さんが暴走したように語られることが多いが
実際は世論(といっても当時の世論は旧武士層だが)が
征韓論を支持していたのだ
大久保らも、反対したのは“征韓論”ではなく、
ネトウヨ的な発想で戦争しようとしてる西郷さんを否定しただけ あのタイミングで朝鮮出兵なんかやってたら列強に付け込まれてとんでもない借金
せおわされてた可能性すらあったね。直後の台湾征討くらいが、最初の海外派兵として
ちょうどぐあいがいいくらいだった。清国にしてみりゃどうでもいい場所なうえ、大義は
完全に日本にあったわけで 西郷が渡韓しても向こうがそんな簡単に殺してくるとも思えないし
結局、大義名分を持たず出兵して、逆に清国や列強に、介入させる大義名分を与えてしまうんだろうな
それ以前に西郷や板垣が指揮したら、緒戦で勝てても補給で破綻しそう 軍艦2隻を派遣して砲撃を誘い、陸戦隊で砲台を破壊するってあたりがベストな
扱いだったとはいえるね。そういう意味では国内的にはグダグダにすぎたように
みえても選択された行動は、日本としてはセンスのいい外交・軍事行動だったといえる。 西郷には“制海権”という概念があったかどうかも怪しい 大久保が反対したのは征韓じゃなく、西郷の全権大使の派遣だからね
西郷は即時出兵に反対して大使派遣すると言うので征韓などそもそも言ってない
大体世論が戦争を言ったとしても世論に戦争する決定権など無い
大久保が大久保政権の危機に過ぎないのを日本の危機にすり替え有司専制を正当化したため、その後の藩閥軍閥の暴走につながったんでしょ >>504
西郷らが下野した翌年には台湾出兵したわ馬鹿w >>509
>大体世論が戦争を言ったとしても世論に戦争する決定権など無い
それがぜんぜんあるんだな
佐賀戦争、西南戦争って知ってる? 確かに西郷どんが半島に行けば殺されたかもしれんし
逆に相手の口車に乗って少し早い半島版西南戦争になったかもしれんとかw >お前がなw
>意味不明w
これが反論のつもりでいる異次元バカ 過去スレ見れば理解ると思うが、ここまで語尾に必ず「馬鹿w」というやつも珍しい・・・・・ 西郷さんて、今にいたるまで鹿児島がクソ化した全ての元凶だよね
嘘伝説をウソだと言えない風土からまともな人間が育つわけない うちは西郷のせいでえらい目にあったらしいからな
世間では英雄かも知れんが、うちでは悪魔 妄想ワロタwwww
> 嘘伝説をウソだと言えない風土からまともな人間が育つわけない 明治6年の政変で淡々と去ったのは凄い
それだけでも1000年の歴史に残る
私欲があれば軍部でクーデター起こし西郷独裁国家も作れた 西郷独裁国家って、天皇を廃して朝鮮金王朝みたいなのを作るのか??
まあ実際鹿児島で作ったけどな、西郷王朝
東京で西郷が配下の軍事力に訴えなかったのは節度があったと思うが
太政官で正式に否定されたのだから、兵を挙げたら賊軍
西郷一派は天皇を奪うことも検討したかもしれないが
天皇は岩倉を信任していたから、それは無理だったんだろう
明治天皇は西郷を最も愛していたとかの伝説もデタラメだったと分かる 明治天皇と西郷隆盛にまつわる伝説
1 西郷は少年明治天皇を鍛えるために一緒に相撲を取った
2 女官あさりをやめない明治天皇を諫めるために
西郷は御所の廊下で天皇を待ち伏せし、天皇を捕まえると投げ飛ばした
3 江戸の馬場で一緒に乗馬の稽古をしていた天皇が落馬し「痛い」と呻いた
西郷は下馬することもせず
馬上から「男が痛いなどと言ってはいけません」と叱った
4 西南戦争で西郷戦死の報を聞いた明治天皇が
「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らした
5 西南戦争の翌年、明治天皇が歌会で「西郷隆盛」というお題を出し
「西郷の功績を忘れてはならない」と言った 1 が事実なら、明治天皇が少年の頃というのは京都時代ですが
戊辰戦争も終わってないこの時期に、教育担当侍従でも無い西郷が
明治天皇とのん気に相撲を取るなどあり得ない
直接言葉を交わしたことがあるかさえ怪しい時期だ
2 は山岡鉄舟の逸話がなぜか西郷さんスゲエ伝説にすり替えられたもの
3 がおかしいのは西郷が馬に乗っていること
明治天皇の証言によると西郷は閲兵式でも馬に乗らず一人だけ歩いていたそうだ
腕に障害があったし金玉肥大で乗馬どころではなかった
したがって1〜3は明らかに否定できる
4と5は分からないが、事実だったとしても、人としてふつうの対応ですよね あの時代の天皇は、人ではなく現人神という立場ですからね。
天子が西郷の死を悼んだ、ということにはもっと重い意味があるということでしょう。
「人として当然」なんて言い方は、いかにも薄っぺらな歴史認識ですね。 >>534
明治帝が天皇(現人神)としての教育を受けているならなおのこと
特定の侍臣に対する好悪を口にすることは慎むよう厳しく教育されているはずだよ
帝王学の基本中の基本
明治帝が自分の言葉の「重み」を理解してたなら
西郷に対する発言は絶対に無いんだな
もし本当に明治帝が西郷びいきの発言を繰り返してたのなら
軽い人間だったということ スレ主は調子に乗って妄想自説を開陳し、
つっこみを受けるととっさに訳の分からない言い逃れをします。
過去レスでは「『思想信条』とは具体的方策のことを意味するのだ」と明らかな誤りを開陳していました。
「思想信条」という言葉の意味を理解していないのに、幕末維新期の歴史を語れるはずがありません。
>>536はその典型です。
>>536は、おそらく昭和天皇が「ひいき力士を明らかにしなかった」といったエピソードを、
都合よくこじつけたものでしょう。
時代背景も好悪の対象も立場(現人神か象徴か)の違いも何も考慮していない。
もっとよく分からないのは、
>>531-533、>>536は果たして、明治天皇のことを肯定的にとらえているのか、否定的なのか。
実に腹の座らないその場しのぎの書き込みですね。 >>539
意味不明
天皇や大名が好悪や感情を出さないように振る舞うのは本当だよ
力士がどうの言い出してるとこ見ると、そんなことも知らなかったんだね
帝王学って聞いたことない?
象徴とか現人神とか、地域の問題じゃない
現代だってまともな社長は人で態度を絶対に変えないようにするものだ
>>534が「重い意味がある」などと“庶民感覚”で天皇と西郷の逸話を解釈するという馬鹿げたことをやってるから、
天皇とは本当はどういうものか説明してあげただけ
“庶民感覚”に訴えてる時点でその美談も甚だ怪しんだよな 帝王学てブラックなノウハウだと考えてる人が多いけど実はホワイト
島津久光は西郷隆盛にジゴローと言われたときに、感情を出さず聞き流したというね
それが大名の正しい態度(久光は大名ではないが)
と言っても久光は西郷が帰った後に大久保になんであんなやつ連れて来たんだとキレまくったらしいですがw 第59代宇多天皇が遺した、天皇の心得「寛平御遺誡」
・賞罰を明らかにし、愛憎をふりまわすことなかれ。
・皆に公平に、好悪に偏るべきでない。
・万事について惑溺して度を過ごしてはいけない。
・天子たるもの喜怒を慎み、表情にだしてはいけない。等々
帝王学というのはここから来てます
現人神などという、人を超越した“設定”も、ようは帝王学の趣旨そのものなんだよな >>542
現人神というのは天皇支配の根拠たる架空の設定ですので帝王学とはちょっと違う
天皇が感情を出さないよう教育されていたのはほんとう
昭和天皇も能面のように表情を出さないことが多かった
今上天皇は笑いますが誰に対しても笑みを絶やさないので、あれはあれで笑ってないのと同じで、現代版の帝王学なんですよね 天皇が神格化されたのは昭和だろう
大久保、岩倉なんて天皇に嘘の報告して西郷の遣韓を握りつぶし
天皇の命令を無視して江藤を処刑 偽勅、偽錦旗、なんでもあり
でも伏見宮系の坊さんを還俗させて新規に宮家を立てた
好きなように利用してただけ >>533
3の西郷が馬に乗らなかった件に関しては、ちょいと異論あり
少なくても禁門の変までは馬に乗ってる(馬上で流れ弾に当たって負傷している)し
そもそも西郷が馬に乗るのを好まなかったのは、当時としては規格外の巨漢ゆえに馬を乗り潰してしまうからと高島も語ってる
有名な金玉肥大も結構晩年の話だから、いつから小西瓜サイズの陰嚢になったのかは不明
腕の障害に関しては剣で身を立てるには無理があったろうが、相撲好きだったりの腕っぷしに関する逸話は多いので、手綱を握るのに障害と言うほどではなかったろう
西郷が腕の障害で剣の道を諦めたと言う逸話はあっても、日常生活で難儀したと言う話はない
晩年ですら狩猟でライフルぶっ放しまくってるしね そうすると正論を通し下野した西郷さんが後世に光るな
だから人気あるんだろな >>546
高島ってあの高島鞆之助ですか?
もしかして西郷が馬上から明治天皇を叱った逸話も高島がソースなのかしら?
高島がどういう傾向の人なのかは、>>451あたりを見れば、分かります・・・ 西郷が馬に乗ってる姿を見たことがないと、当事者の明治天皇が証言してる時点で >>544
大昔、海音寺潮五郎と司馬遼太郎の対談を読んだが、二人は維新三傑あたりは天皇の絶対中心主義みたいなものを二流と捉えてると言ってたな
三傑がいなくなって以降、徐々に強くなっていったようだ 江戸時代まで(というか飛鳥奈良の昔から)国に君主がいて、君主が直接命令をばんばん出して
その命令には絶対服従、ってのが日本の国制そのものだったからな。鎌倉以降になって天皇の
権限が衰えて事実上の権威・権力の分離がおこっていた、なんて事実すら幕末の志士にはまったく
理解されてなかったろう。そういう史観はそれこそ近代の歴史学の成果であって、天皇さまが
国を治められるのなら天皇親政が「あたりまえ」というのが実感というか体感だったのではないか。 維新三傑はこれからの時代は国民主義、立憲主義という意識が天皇主義より強かったんでしょ >>541
そもそも島津久光って西郷隆盛を持ち上げるために悪役扱いされた可哀想な名君だわ
確かに西郷を見出したのは斉彬公だったが、実際に西郷が大仕事を成したのは久光の指揮下での事だしね
言わば最も西郷を上手に使い活躍させたのが久光
学者肌でありながら斉彬公以上の統率力を発揮して時代を動かしたのに、あまりにも過小評価され過ぎなのよ
>>548
>>549
明治天皇を馬上から叱りつけたってのは、西郷の性格から言っても流石にありえんだろうね
ただ禁門の変では実際に馬に乗ってたわけだからねぇ
金玉肥大が何歳くらいの頃かはっきりしないが、明治維新後も狩猟で野山駆け巡ったりしてるとこ見ると、金玉肥大は結構晩年の話だわな スレ主は>>533で、明治天皇の言動を「人としてふつう」と書いた。
しかし、明治天皇の立場を普通の人と同じに考えるのは無理がある、
と指摘したら、「帝王学」を持ち出した。
スレ主の考える「帝王学」は世界共通のものであるらしく、
その例として挙げたのが宇多天皇(9世紀の話)です。
それが西洋の王族にも明治天皇にも現代の社長にも通じる、という。
一神教の西洋と、八百万の神の国なんて違いは一切考えていません。
また世襲制の王族の「帝王学」と、現代の経営者の違いも考えていません。
もし子に継がせることを前提として子供に「帝王学」を施す経営者がいたら、
その会社は明らかな「ブラック」でしょうよ。
スレ主は単に自説の「好悪を明らかにしないのが帝王学」という前提を、
すべてに当てはまるようこじつけているにすぎません。
まあ「思想信条」の意味を知らなかった人ですからね。
なんでもその場しのぎです。
西郷が「敬天愛人」といったときに、天皇を中心に据えて、人民がまとまる国を考えていたのでしょう。
明治という時代の流れを考えると、その見通しは間違っていなかったと思います。 ↑
きみの頭の中にある「独りよがりな言葉の定義」を人に押し付けるのはやめてくれ
帝王学は>>541も書いてるけど、主君が自分を律するための
どちらかと言えばホワイトなものだよ
親が子供たちを公平に扱う
なども小さな帝王学だと思う
支配が目的だったとしてもね
言葉の定義や使い方は人によって違うし
文脈の中で変化するものでもあり、
きみの頭の中の一方的な言語観に、忖度して合わせることなど不可能だ
だいたい「天皇を中心に据えて、人民がまとまる国」などというあやふやな美辞麗句を並べ、
それで何か言った気になってるきみの言語観など一顧だにする価値も無いと思う
相容れないなら来ないほうがいいんじゃないのか てか寧ろ久光と西郷の板挟みになっていた連中が相当だったのだろうというお話かとw >一顧だにする価値も無い
それならスルーすればいいだけなのにね。 >>557
まぁ西郷も維新後は久光と新政府の板挟みになるわけで
久光の側近連中は「我々の苦労を思い知ったか、コノヤロウ」って感じだったんじゃね?
明治に入ってからは久光と西郷の関係が意外と悪くなかったのは、こういうのも関係してるのかもね〜 明治5年の時点では久光の西郷への怒りは収まるどころか激しさを増していて
天皇の鹿児島巡幸の際に、一緒に来た西郷が久光を無視して挨拶にも行かなかった
ことから怒りが沸騰し「十四か条の意見書」を政府に提出している
以下は西郷に対する詰問であると言われている
・君主という存在がありながら勝手に高位高官を引き受け、その地位にあること
・美風良俗を破壊し、階級を打破し、西洋に心酔すること
・高給をむさぼり、自分に従うものだけを登用し、苛政を放置していること
・御巡幸の際、供奉第一の高官として失態があったこと 久光の西郷への態度が柔らぐのは明治6年の政変で西郷が鹿児島へ下野してからだ
久光としては打算的に西郷を自分の陣営に取り込み、ともに政府へ圧力をかけることを狙ったようだ
西郷にとっても悪い話ではなかったはずだが、西郷はこれを断っている
久光と西郷が和解したというのは、一種の西郷伝説(西郷の懐の深さをアピールする美談?
もしくは大久保を悪者にするためか?)であり、
実際には西郷と久光の関係は最期まで冷え切ったものであった 維新後の三傑
西郷 俺流を貫く
大久保 専制を目指す
木戸 憲法制定を唱える
こんな感じじゃね 維新前の西郷は薩長や薩土の連携に奔走したが
下野後の西郷は板垣や江藤との提携を断り久光や私学校とも距離を散っている
何を考えていたか不明である >>563
江藤との連携はありえんでしょ
西郷は政府転覆を意図して下野したわけではないんだし >>560
十四か条の意見書までは確かに西郷を目の敵にしてたろうが、その後の西郷の狼狽ぶりを見て久光は十分に満足したんじゃね?
わりと茶目っ気もあるし、家臣の意見を大切にする人だったかとかと
どうも久光の明治維新後の頑固な態度を曲解されすぎてると思う
久光って権威や権力に固執するタイプじゃなく、本来は実直で学者肌の人だわ
独裁者でもなけりゃ薩摩の象徴でもなけりゃ島津家の守護者でもない
ただ本人が意図した以上に統率力を発揮してしまって、不本意ながら幕末最強レベルのリーダになってしまっただけのこと 西郷が政府転覆の野心を持っていたかですが、
西南戦争の時の西郷の言動
「自分は陸軍大将であるから全国の兵を率いる権限がある」
「政府軍の多くも自分のもとに馳せ参じる」
などを考えると、政府転覆どころか、自分は今だ政府軍のトップであると
考えていたことになり、そのへんが西郷が各地の不平士族(無職)と連携しなかった
最大の理由なのではと思ったりします
実際政府からは陸軍大将としての給金が鹿児島に送られており
(西郷は受け取らず県庁で預かる形になっていたようだが)
桐野利秋や篠原国幹にも同様に少将の給金が送られていたはず
つまり彼らは、後世の我々が思っているような“下野”という感覚で鹿児島にいたのではなく
一時的に政府の仕事をサポタージュしてるような感覚で
鹿児島で軍事教練に励んでいたのではないのか
そう考えれば、西郷らが佐賀戦争という無職の反乱に呼応しなかったのも納得いくし
西南戦争で自らの立場を異常に過大評価していたのも分かる
まあ仮説ですが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています