これですか

戊辰戦争後、明治新政府は二度にわたり鍋島藩武雄領主鍋島茂昌に兵部省の顕職“兵
部大輔(少将)”への就任を促しているが、茂昌は最後まで辞退し武雄にて余生を送っ
た。其の理由は大将に西郷隆盛が就任しており、その下に就くことを潔よしとしなか
ったようである。戊辰戦争において近代軍事用兵の才覚に欠ける西郷隆盛を見抜いて
いたようである。
一般的には、西郷隆盛は豪放な性格と思われがちであるが、功績のあったのは謀略
のみであり、近代戦ではほとんど成果等を上げていない。上野では、彰義隊攻撃を優
先すべきとの大村益次郎の作戦判断に押し切られており、西郷隆盛は近代戦争に疎か
ったようである。また、官軍の実質的な最高指揮官であったにもかかわらず、戊辰戦
争終結の前に戦線を離れており、武雄指揮官鍋島茂昌が後始末をしたようなものであ
る。恐らくは、茂昌は最高指揮官の戦場離脱も許せなかったのではないかと思われる。
其の後の西南戦争においても、同様に西郷の適切な作戦判断は見られず、多数の薩摩
兵を犠牲とし落命しており、鍋島茂昌の西郷隆盛評は一定の説得力を持つ。大村益次
郎の銅像が靖國神社にあるのは当然として、 郎 西郷隆盛は国賊となったため靖國神社に
は不適当としても、彰義隊との戦闘が行われた上野に銅像があることも不思議である。
新政府には、鍋島藩の優秀な人材も活躍しているが、鍋島茂昌は佐賀の乱にも加担
せず、また、西南戦争でも武雄から動かなかった。
農村改革・藩財政改革を通じて鍋島藩の中核にあり、また、世界情勢や最先端の科
学技術を理解し、世界に対抗できる日本最強の軍事力を保有した鍋島茂義・茂昌親子
が求めたものは、一体何だったのか興味津々である。先に述べたとおり、世界最先端
の科学技術に触れたことにより、世界的な視野のもと、尊皇攘夷や佐幕開国等の国内
紛争に振り回されることなく、冷静に時代の推移が見えていたのではないかと思われ
る。