松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう15
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骨董品好き、植木好き、世話好き殿好き恩師好き。
そんな木戸について引き続き語っちゃげて。
前スレ
松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう14
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1342871083/
・sage推奨。荒らし、コピペ、脱糞君、age君は華麗にスルー。
・幕末明治に関する小説、TVやドラマの話題もOK。
・木戸周辺の人たちの話題も歓迎。
・ここ見て木戸が気になった人は松菊木戸公傳・木戸孝允日記・木戸孝允文書・木戸孝允遺文集・木戸孝允関係文書などを読んでみよう。
大きな図書館には大抵あるよ!
・木戸に関する論文や小説は>>2以降参照 実際のとこ伊藤は木戸のことどう思ってたんかねぇ
飲んでる時に高杉晋作に、「来原良蔵と桂小五郎どっちが上か?」って聞かれて「来原良蔵」って答えて、
その話を噂で聞いた桂小五郎がしばらく不機嫌だったって話好きなんだがwあれほんとなんだろか 長年の付き合いからくる遠慮のなさというかある種の親しみを感じるエピソードよな >>118
『伊藤公直話』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1224551/117
「木戸孝允を語る」はコマ番号22〜33、「来原良蔵を語る」は62〜64。
「処世の術は木戸或は来原に勝るものがある。然れども学問・見識・人格に
至つては来原は遥かに木戸の上にある。」(コマ番号64、原本100ページ)
新人物文庫にも『伊藤博文直話』と改題されて収録されているよ。 乱世に必要なのは
処世術 >>>>> 学問・見識・人格
だからな。
明治新政府には無学で人格的にも問題があった政府高官が多数いたわけで。 >>121
この本の信憑性ってどこまで信じられるんかね
小松緑って人が昭和10年に「伊藤博文公からこんな話を聞いた!」って言って出した本らしいけど >>124
はしがき(コマ番号10)に「これらの直話は、末松謙澄・大岡硯海・大橋乙羽・古谷久綱・
坪谷水哉諸氏及び私どもが、親しく筆記して(伊藤博文)公の検閲を経たものである。」
と記されているので、それを信用していいと思いますよ。伊藤之雄先生をはじめ名だたる
歴史学者も引用してますし、捏造・歪曲があったら公爵伊藤家が黙ってなかったでしょう。
なお、>>121 の「来原良蔵を語る」は「来原良蔵割腹の話」の誤りでした。 ・幕末、明治維新の騒乱期ばかりでなく現代でも処世術は大変大事。
・木戸は政治家であり、学者・思想家ではない。岩倉が「木戸は才あるが、云々)と評価した
よに、政治家としての学識は十分であった思う。
・井沢元彦本は、木戸は天成の調整家であり、攘夷か、開国か真っ二つに割れていた藩内を
無血で開国(下関)でまとめた。帰国後の長州は事実上、桂政権であり、藩主のお気にいりで
あったと述べているので、処世術は大変長けていたであろう。
・一方、伊藤も、担ぐ神輿を高杉→木戸→大久保→岩倉と変えて総理まで昇りつめたのだから、
処世術は長けている。
・木戸は議論好きで、相手を不快にするまで論破することがあり、後日、相手の意見が
価値あると分かるや、自分の意見のように提起することがよくあったとのこと。
伊藤にあてはまる史実としては、伊藤の版籍奉還案は木戸らにより後退させられ、兵庫県知事の
辞職を余儀なくさせられたこと、洋行中における条約改定問題に絡んで、青木の前で木戸から
叱責されたことなど。伊藤はおもしろくなかったろう。
・以上からの想像だが、木戸と伊藤は処世術に長けた似たもの同志故、反目と融合を繰り返し、
けっして心許せることはなかった。伊藤は木戸を政治家としては評価したが、自分が処世術に
長けている故、処世術に長けている木戸を生涯の師とするような気持ちまでにはなれなかった。 伊藤は才識においては木戸がまさり、忍耐力においては大久保がまさったと述懐してる。 幕末に木戸と伊藤で黒船かなんかの見学行って会津藩士名乗って行った茶屋で長州藩士の桂だとバレた時2人で顔見合わせて笑ってたエピソードすっき 伊藤にとって木戸は師匠の親友にして義兄、17ぐらいからずっと一緒にいた家族みたいなものだし。裏切っただの言われる割には死んだ時心配されるくらい泣いてたり四賢にしたり石碑建てたり。でも人物評はやたら手厳しかったり。
木戸の理想を1番実行してたのはなんだかんだで伊藤だったり本当面白いよねあの2人。 来原さんの紹介で俊輔が木戸さんの従者になった時に
身分制度で主と従者的になってるけど、君と僕は同士だから
って身分制度感覚の無い事を木戸さんが言ったって話が好き。 うろ覚えだけど上の人に上げるための牛肉つまみ食いしたのも伊藤とだった気がする 木戸はもともと和田家のひとで和田家は藩医だった。
末期養子で桂家に入って木戸は侍の身分になった。
むかし木戸のついて調べるため萩に行った人は
あそこはもともと侍の家ではないと木戸がいた家の近所の人に聞いたという。 みなもと太郎の歴史大河ギャグ『風雲児たち』の最新の第31巻のp.50~68に桂小五郎が出ている。
口絵の裏も高杉晋作とのツーショット。舞台は文久2年(1862年)6月で、中山道の本陣で高杉、
江戸で長井雅楽と出くわすけど、残念なことにどちらもフィクション。高杉はまだ上海にいるし、
江戸には行かずに中津川宿で藩主一行と落ちあって今後の方針(翌7月の京都での会議で藩論は
攘夷に転換された)についての会議を主導したのち、京都に戻った。>>49 の落合論文に詳しく記されている。 吉田松陰が死んだ時、死体を前に桂小五郎は何度もため息をついて、伊藤博文は号泣してたっていうエピソード
出典なにか分かります? >>25 のはびきの市民大学の司馬遼太郎の講座が書籍化された模様
「司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解」
土居 豊 著 関西学院大学出版会
ttp://www.kgup.jp/book/b383192.html きどこういん、おおむらますじろう、やまだあきよしぐるーぷは
わいろとはむえんでした。 来原良蔵と長井雅楽は母親が福原家出身の姉妹なので、母方のいとこにあたる。
つまり来原の妹である木戸の妻も長井のいとこなので、
木戸から見ると長井は妻のいとこ、長井から見ると木戸はいとこの夫という親戚関係。 手話についての講義を聞きに行ったら山尾のことが出てきた
さすがに木戸さんの口利きまでは出なかったけど山尾は凄く褒められてたからちょっと嬉しかったな 明治4年6月11日木戸日記にある、岩倉に唱えた第二策については歴史家によって
解釈が異なるよね(官制改革か廃藩置県か)。徳富蘇峰の「近世日本国民史 廃藩置県篇」
では、これを恐らく官制改革としながら、6月初めごろ、木戸が岩倉に廃藩置県の断行を
説いたことが記されている「岩倉公實記」を紹介し、この記述は6月11日の木戸日記に該当
するしている。又、同日の木戸日記に伊藤と論じたことが記されており、これは廃藩置県
と察せられるとしている。
添付、岩倉公實記下巻 473コマ 913ページ をご参照あれ
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781064> ミネルヴァ書房日本評伝選 今月の新刊 一坂太郎著『久坂玄瑞 志気凡ならず、何卒大成致せかし』
http://www.minervashobo.co.jp/book/b431737.html
人名索引で「桂小五郎」のページをチェックした限りでは、木戸に関しての新知見・新見解は見当たらなかった。
著者は『久坂玄瑞史料』(2018年、マツノ書店)の編者なので、久坂が歴史に与えた最初にして最大かもしれない
インパクトの「謗詞一件」についての記述に期待していたけど、2004年に高橋秀直氏が出された「この(内勅の)
問題部分は本旨の内容と矛盾するため、玄瑞らが裏工作して中山(忠能)に追加させたもの」という推察を紹介して
それを追認しただけだったのには拍子抜けした。落合弘樹氏の『木戸孝允』も早く刊行されることを期待しよう。 4月末の知恵泉の廃藩置県回を見たけど、いつもより扱いが良かった。
山の絵のお手紙を出してくれて笑ったけどw >>145
木戸さんの命日に再放送する模様w
ttps://www4.nhk.or.jp/chieizu/
5月26日(日曜)NHKEテレ1 午前0時30分〜 午前1時58分
先人たちの底力 知恵泉・選
廃藩置県▽藩をつぶして国家をつくれ/都道府県誕生 >>145
知恵泉の木戸さん、どんな描かれかたしてんの。 どうしても、「冷静」「慎重」ってイメージに引っ張られるけど、丙辰丸の盟約結んだり、廃藩置県では最も急進派だったり、
「まずやってみる」っていう手数の人だったんじゃないかなぁ
と思ってたら自分を「狂気軽躁」と分析してたようで、やっぱりと思った
村松剛さんは「その形容は似つかわしくないけれど」と書いてるけども >>147
連レスごめん
版籍奉還の布告文「朝廷其宜に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪ふべきはこれを奪ひ」の部分、
「与えるものは与える」を差し込むことで、大名たちに「形式だけのもの」と思わせ、
いわばだまし討ちしたのは木戸の作戦じゃないか
って感じ >>148
「ダメ元でやってみる」という感じはするな。 壊す方はとりあえずやってみるってスタンスだけど作る方は慎重だった気はするけどなあ 4藩主による版籍奉還の建白文は木戸が起草したとされている。
コマ番号43
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219>
後年、木戸は薩摩藩(大久保)との妥協を得るために、用術策(朝廷に一旦封土を返上し、
再交付については朝廷に従う)を用いたと述懐している。
廃藩置県については、それを唱えて、推進した第一人者は木戸であるが、明治4年7月に断行できたのは、
西郷の功績大というのが、おおかたの歴史学者の考えみたい。
最近、幕末維新専門の若い歴史学者が増えて、司馬小説の影響がうすれてきていると感じるのは
僕だけかな。 自分から孤立しにいってた感じもあるしね
まぁ、どのタイミングで死んだか、っていう話な気がする
大久保利通ですら、岩倉使節団帰国後に箱根だかどっかに隠棲してるタイミングで病気で死んでたら
「同調者を見いだせず失意の内に死亡」てなってたろうし
一つ言えるのは、維新の功労者筆頭数名に関しては当時ですら明らかに別格視されてて、
たとえその瞬間孤立していたとしても、いつでも復元できる可能性は持ってたと思う >>153
健康問題があるから動きようがなかったということもある。 桂小五郎は暗殺が嫌いだったとされてるが、伊藤博文が功名に焦って塙保己一の息子を殺したときどう思ったんだろ
博文が小五郎にマジギレされたのは使節団ででかけてるときの一件だけらしいからこんときは許したんだろか 動機を同じくする坂下門外の変を起こした水戸の人とは盟約関係なんだよなぁ
学者を殺しても体制には関わりないし無用の事だったとは思うけど、そういう時代だったのかな・・・
山尾庸三とも深く信頼して付き合っていたようだし
伊藤は後年この暗殺を悔いていると話していたようだね 新説坂本龍馬 町田明広 インターナショナル新書
プロローグから抜粋
〜 司馬の作品には事実誤認が散見され、時には作為的な匂いすら漂う 〜
のっけから中々、刺激的な文章。
司馬によってこきおろされた木戸さんも少しはうかばれるかな。
木戸さんのことを史実に基づいて客観的に描いている。 ttps://www4.nhk.or.jp/chieizu/
10月22日火曜 NHKEテレ1 午後10時00分〜 午後10時45分
「事を成す生き方とは?逃げて勝つ!桂小五郎/木戸孝允」
幕末、激動の時代に活躍した人物から、事を成すための知恵を2週にわたって探る。
今回は、薩長同盟の密約を交わし、維新の立役者の1人となった、桂小五郎の生き方に迫る。
幕末の長州藩士、桂小五郎、後の木戸孝允。薩長同盟や廃藩置県などの功績を残した
。しかし桂は、「逃げの小五郎」と呼ばれるほど、危険を察知すると、逃げた。幕府に追われ、
物乞い、荒物屋、寺男となり各地を転々、潜伏を続けた。それは決して保身だけではなかった。
無謀な争いを避け、情報を得、自分を活かす機会を待つ。そんな姿勢が混乱の時代には必要だ。
逃げるは恥だが、桂なりの美学と信念があった。その生き方に迫る。
【出演】甲野善紀,藤本隆宏,萩博物館総括学芸員…道迫真吾,【司会】新井秀和 過激派長州のなかでも人を斬ったことはない。暗殺を命令したかもしれんが・・・。 >>159
「池田屋で屋根伝いに逃げた」っていう説採用したり、あたかも「幾松に尻を叩かれて長州帰った」としたり
まぁ取り上げてくれるだけありがたいかって感じだな 木戸孝允が一番好きだったのは山田顯義だと思うな。
長州藩の名門の生まれもあって礼儀正しいからな。
功山寺の挙兵が成功して萩の町に攻め込むときに
高杉晋作と伊藤博文は長州の町を焼き払おうとした。
焼き払うのはイギリス大使館以来、高杉と伊藤博文の
得意技だからな。
その時必死で萩の町を焼き払うのに反対したのは
山田市之允(顯義)だという。
美しい萩の町が今も健在なのは桂小五郎【木戸孝允】が大好きだった
礼儀正しい山田市之允が必死に反対したからです。 愛エメ総長 萩の町を救った山田顯義伯爵
慶応元年1月16日夜半、遊撃隊は赤村を、鴻城隊は佐々並村を
攻撃した。藩政府軍も必死に反撃したが、戦う者たちの意識の高さに
圧倒され、敗走した。(高杉)晋作は一気に萩攻撃をすべきと
主張した。しかし山県(有朋)は、藩主が滞在し、多くの知古が暮らす
萩城下を戦火で焼くことは避けるべきだと、反対した。太田や
山田(顯義)も同じ意見だった。
「俗論等の輩は滅ぼさねばのう」 伊藤博文は身分の高さで
威張り散らす武士階級を敵視していた。
「去年の夏、京都の戦で都は火の海につつまれた。
おれたちはその中を逃げてきた。
一番難儀をこうむったのは罪もない町民だった。
萩の町を焼いちゃぁいけん」
思わず(山田)市之允は、叫ぶように(高杉)晋作らの
強硬意見に反対していた。 萩の町を救った山田顯義伯爵
まぁ 山田市之允がいなかったら
萩の城下町は焼かれていた可能性が高いな。
高杉晋作は建築中のイギリス大使館を伊藤博文、井上馨らと
焼き払った「凶」の人だからな。
まぁ ヤマダ顯義が征韓論にも征台論にも反対して
軍人を辞めたのは正解だったな。
東大も法政も日大も明治も国学院も独協も関西大も中大も
日本医大も北里大も慶応医学部も京大法学部も北大も学習院も
ヤマダ伯爵が
丹念に手を掛けたおかげで立派な大学になりました。
参照 小説木戸孝允ー愛と憂国の生涯 上 中尾實信著作
鳥影社 3,500円+税
※山田顯義は軍事よりも大切なものは法律と教育だと説くんだよな。
全国の大学生にぜひ知って戴きたい人物です。 「勤皇の大義」 1
慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。
諸隊総指揮の任命を受けた山田市之允が、三田尻(港)を発足せんとするに際し、
山口の藩庁に桂小五郎(木戸孝允 )を訪ねたが、他に出張して不在、一書をしたためて
挨拶とした。市之允は使命の重要さを認識したのであろう。
「発するに臨み、再回再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。」と
筆紙の中に無量の感慨を述べている。 「勤皇の大義」 2
お訪ね申し候処、不幸御他行にて懐ひ残り少なからず存じ奉り候。
愈々只今より出足の覚悟に御座候間、差急に拝顔を得ず、
残念の余り一筆留め置き候。
今更申し上げ候迄も御座無く候得共、七百人の生死は搦手の遅速に関係仕り
候事に付き、幾應も御尽力の上、急速御手下し相成る様、
千万拝み祈り奉り候。
何分皇國の興隆は合従の二字に有之候間、御國家の為に後来この上乍ら、
御尽力偏へに願い奉り候、平常の御懇情一々、謝し難く、早々如此。
発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
匆々不一
慶応三年九月二十五日 山田市之允
木戸準一郎(孝允)様 勤皇の大義」 3
発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
慶応三年十一月二十五日早朝、出動全軍鞠府に会し、総督毛利内匠の
軍令を伝え、八咫鳥神社に参拝して武運長久を祈った。
次いで総督及び参謀等は鞠府艦に、その他の属員は丙寅艦に塔乗し、整武、振武の両隊は
葵亥艦に、鋭武隊は丙辰艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭武隊は満珠艦に、
奇兵、遊撃、膺懲の三隊は庚申艦に分乗し各艦一画三星の藩旗をひるがえし、
空砲七発をもって征途に上った。
●出兵協定を結んでいたにも拘らず、薩摩軍が約束の9月26日までに現れず、
地団駄を踏んだ長州藩でしたが漸く、10月3日に薩摩藩の初の軍船が三田尻に到着。
薩摩兵は藩重役と三田尻町民の大歓迎を受けています。
薩摩と長州が手を結ぶことで初めて勝ち目が出て来ました。大村益次郎は
長州藩の単独出兵には慎重でした。
先鋒隊の総指揮官に大村益次郎と木戸孝允の意見が一致。
ところが選ばれた今牛若丸、蚤の心臓?山田市は徳川軍の大軍を
前にとても勝てるとは思って
いなかったようです。 愛エメ総長 元治元年(1864)甲子7月19日京都蛤御門の変で敗れた長州藩は
慶応三年(1,867年)丁卵十二月十一日、諸隊総指揮官山田市之允に率いられ
再び入京。京都の地に現れる。「防長勤王史談」に記載されている当時の模様を下に掲げる。
(前日の)長州兵の入京(毛利内匠の小部隊)は夜半に相成り、格別人目には触れざりしが、
十一日奇兵隊其の他の入京は白昼のことにて、四年来初めての入洛なれば、
市民至るところに於いて、
弾薬袋の一字三星の紋を見て、長州ぢゃ長州ぢゃと人皆仰天し、涙を垂れて拝むものあり、
こわ(怖)やのこわやのといふものもあり、諸藩邸の人々は一目見て、奥に走り込む模様、
随分一時震動の勢いにつき、二条城に於いては長軍対戦の用意致し候由、
後に相聞きたり・・・・・・・云々。 山田市之允入京し、京都御所を拝して、かつて蛤御門に敗戦した往時を
思い浮かべて涙潜然、すなわち賦して曰く。
三軍來踞承明門
要表真誠訴宿冤
鳳詔方降紫宸殿
壮夫揮涙拝天恩
読み下し
三軍來踞す承明門。
要を表して真誠宿冤を訴う。
鳳詔まさに降る紫宸殿。
壮夫涙を揮(ふる)って天恩を拝す。 長州兵の入京。乳臭兒が長州軍を指揮
慶應三年、顯義、長藩の隊長となり、一隊の兵を率ゐて攝津西の宮に屯した。
當時、會桑の兵を京都より拂はんとする議があつて、長州兵の入京を急がすの
必要があつたから、西ク隆盛旨を傳へて、顯義の進軍を促さしめるために、
大山彌助(巖)を西の宮に遣つた。大山、西の宮に來り、陣門に入りて、顯義に逢はん事を求めた
。帷幕の裡に待つことやゝ乍らくあつて、顯義が出て來て、其姓名をつげ、大山の使命を聞かんといふ。
大山、顯義を熟視すると、之れ一箇の矮小漢であり、年齒も甚だ若い。
其英名はかねてより聞いてゐるが、かゝる小忰とは思はなかつたから、大山大に侮る色が生じた。
かゝる乳臭兒が何を能くするかと思ひつゝも、西クの使命は傳へねばならぬから。西クの密書を
懷より取り出して渡し、時機甚だ切迫してゐるから、急いで兵を進ませられよと陳べた。
顯義、曰く諾と。直に左右を顧みて、出兵の命を下した。其言語擧動の敏捷なる、
流石評判に恥ぢぬだけのものがある。大山亦侮り易からざるを感じつゝ、
辭して陣門を去らんとすると。早、兵隊の部署は整然として悉く定り、將に進發せんとする模樣がある。
之れを見て大山遂に顯義の穎秀なるに敬服して了うた。
時に顯義二十二歲、大山二十四歲であつた。 時に顯義二十二才、大山二十四才であつた。
鳥羽伏見の戦いで戦ったのは山縣有朋でも
板垣退助でもないのだな。山縣と板垣は
郷里でお留守番。
高杉晋作の遺言で諸隊の指揮官は大村と山田市之允で決まり!
山縣有朋は補欠?
京に上る長州軍の総指揮官は大村益次郎と木戸孝允の意見が一致。
今牛若丸山田市之允が大役を任され補欠の山縣有朋には出番なし。 愛エメ総長 靖国神社の隣に住んでいた広沢真臣を殺した犯人はいまだにわかっていないんだな。 靖国神社には御所に向けて発砲した逆賊や朝鮮人が祀られている 木戸さんは文部卿に就任したように
文人肌なんだな。ロマンチストの一面があります。
日本の軍隊は大村益次郎と山田顯義の2トップから
スタートします。軍隊のスタートが大村と山田だった証拠は
靖国神社の大村益次郎の銅像が物語っています。
山田顯義の骨折りがなければ銅像は誕生しませんでした。
大村益次郎の死後、薩摩の西郷兄弟が肩入れし、
日本軍隊を山縣有朋が横取りするんだがな。
憤慨する山田顯義を宥めて、木戸孝允は「軍隊は
山縣にくれてやれ、軍事よりも大切なものは
教育と法律!」と口を酸っぱくして山田顯義に説くんだよな。
木戸孝允が後世を託した山田顯義伯爵は日本大学と
國學院大學を創立し、再評価が進んでいます。
木戸孝允同様山田顯義も有名人にしたい筆頭の人物です。 愛エメ総長
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html ↓木戸孝允が購入したと伝えられるナポレオン号に似ている。
ttp://www.vapeuretmodelesavapeur.com/telechargements5/de-arend-complet.pdf スクーナー型帆船の勉強のために船大工と伊豆まで留学してたってことだけど
製図とか制作とかそれなりにできたのかな?
大工任せで大工の監督ってかんじだったんだろか 少し前に出た中尾實信の小説木戸孝允ってどう?面白い? >>180
木戸さんを良いように書かれる小説を読み慣れてないので、照れた >>181
d
オモロイ現象起こしてるな。
俺も読んで照れてみようかな あー、ツイッター検索したらヒットした
↓
老舗料理旅館の幾松さんが10月20日をもって閉店・・・。寂しいです。 ねこねこ日本史 139話 猫も逃げれば何かに あたる、桂小五郎! 9月30日(水)放送!
黒船がやってきた幕末(ばくまつ)、長州藩士(ちょうしゅうはんし)・桂(かつら)小五郎(こごろう)は剣術(けんじゅつ)が得意(とくい)だったが、大きな音にびっくりして逃(に)げてしまうクセがあった。
敵(てき)も味方も桂(かつら)を追いかけるが、逃(に)げ方がどんどんと上手くなっていく。
果(は)たして桂(かつら)を見つけることができるのか!?
[登場キャラクター]
桂(かつら)小五郎(こごろう)
幾松(いくまつ) 「明治」という遺産 近代日本をめぐる比較文明史
政治、経済、教育、建築、交通、メディア、歴史意識… 日本の近代化は、世界史に何を遺したのか。
著者 瀧井 一博 編著
ジャンル 日本史 政治・法律
出版年月日 2020年10月10日 ISBN 9784623088348 判型・ページ数 A5・596ページ
定価 本体8,500円+税
ttps://www.minervashobo.co.jp/book/b524615.html
>第20章 木戸孝允の明治・大正・昭和――勤王の志士から「逃げの小五郎」へ(齊藤紅葉)
1 木戸孝允への評価の変遷
2 先見の明ある「勤王の志士」
3 立憲国家の礎
4 苦悩する立憲政治家
5 「逃げの小五郎」の現在 木戸に限らず高杉伊藤とか長州藩は何で大河にならないのか不思議な人間多い
木戸は幕末大河皆勤の重要人物なのに一度も主役回ってこないのマジ謎 最近三谷○喜氏が当時NHKの人に司馬遼太郎はそんなこと書いてない、みたいに言われたとNHKのラジオで話してた
新撰組は10年以上前の大河だけど現在も司馬信仰なのだろうか >>191
高杉晋作との2人主役だと思うが。
ドラマ中盤は大村益次郎の出番より高杉晋作の出番のほうがずっと多かった。 木戸孝允の死因「胃がん」に異説…大腸がん転移説も
ttps://news.yahoo.co.jp/articles/e74b641ba01508321ba58600a22d556a18e16ae5
なかなかの新発見に見える
分かってないことってまだまだ全然あるもんなんだな >>194
どっちにしろ結核ではなくガンみたいだな。 しかし見れば見るほど具合悪い所だらけでかわいそうだ(泣
胃も肝臓も腸もって腹の中全部じゃないか やっと醒めた炎文庫版全巻揃えられた
やたら高い4巻を思いきって買ったら達成感満足感で燃え尽きた 「醒めた炎」の文庫版4巻は巻末の資料集度が高いから仕方ない。 木戸の血縁の人間はみんなとにかく短命だな
生まれつき身体が弱い家系なんだろう
木戸孫が長生きしたのは山尾か来原の血のおかげだな やり方や性格は温厚だけど、
思想は一番、先鋭的だと思う。
板垣が自由民権運動をやる以前の時代に、それよりもっと進んだ資本主義批判をしてたのは凄いと思う。 幕末明治が題材の作品に出てくる木戸は、どれもこれも木戸というより司馬作品の木戸だな
銀魂の桂が1番実像に近いまである 渋沢大河にも登場するのかな
大河板じゃとりあえずイケメンな役者で!ってばかりで解釈と扱いを良くしろなんて意見はないのなー
アハハ 扱いと言っても渋沢大河じゃチョイ役にしかならないだろうしなあ。
良いに越したことはないが期待値を低く低くしてしまう木戸ファンの性w
湯島の突撃お宅訪問を是非やってほしい
出番が少なくても印象に残るような明るい役者に演じてもらいたいな 歴史が好きなだけでは木戸は理解できないと思う。
思想や経済という視点で見ると見方が変わると思うが。
学生の頃に運動をやってたかその手の本を読んだことがあれば分かるんだが。 木戸の人生はめちゃめちゃ面白い(特に人間関係)
だけど本人の性格がかなり複雑なのが創作における難点 そもそも故人なのに個人スレがここまで伸びてる時点で、木戸が如何に複雑で考察しがいのある歴史人物なのかが分かる 跳ぶがを何十年ぶりに読んでみた。他小説であれほど木戸をこき下ろしているのに、
ここでは以外と評価しているだよね。
・版籍、廃藩は木戸が主導
・木戸は大久保より聡明
・木戸は参議たちの中ではもっとも進歩的な思想を持ち、欧州から帰ったあと、
憲政政治を主唱し建白
・征韓論争の廟議に木戸が欠席したのは、明治政権維持のための最大の政治行動 なんだかんだ司馬さんは木戸孝允評価してるよねエッセイでもしばしば出てくる
ただ、伊藤と喧嘩したのは「大久保と仲良くして嫉妬した説」を定着させたのは
罪重いぞw 来原切腹してから藩の対応に涙して来原父に胸糞悪くして醒めた炎1巻読み終わった
また外出自粛になるから全巻集めて読もうかね 木戸は女性関係が派手すぎる
マメで優しくて金持ちなイケメンだから当然といえば当然だけど
木戸大河は次から次へと出てくる愛人に現代の女性視聴者からはブーイングされそうだ笑 >>212
>>・木戸は参議たちの中ではもっとも進歩的な思想を持ち、欧州から帰ったあと、憲政政治を主唱し建白
これは違うと思う。木戸はもっと先を見ていた。
憲政政治だの民権だの聞こえはいいがブルジョアの天下だからな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています