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満州国
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0195名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/24(火) 22:51:42.40ID:LBs7dpfn0
>>102
満州国の法制は、大日本帝国憲法の悪いところを改正したところがかなりある。
輔弼責任を国務総理だけにして、各部大臣は行政事務を扱うだけで輔弼責任はなかった。
ほかにもちょこちょこ日本の法制上の不具合を手直しして立法しており、国家として自立しまともな運用ができるようになったら、もう少し歴史は違っていたかもしれない。
滅亡すらも法的手続きを経て、きちんと国家を解散しているからな。
0196名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/01(水) 20:38:10.39ID:d/s+WY6c0
満州と北朝鮮を合わせた部分が、おおよそ高句麗だった地域だ
そこは人間を食う野蛮人の地

そこと中国の境界線に万里の長城が作られている
高句麗の人食い馬賊が南下して中国人を食いに来るので阻止しているのだ

野蛮人の高句麗は、天皇や安倍や毛沢東などのルーツである
毛沢東は中国人ではなかったのだ
0199名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/08/06(土) 18:01:35.42ID:PYrmfDrS0
刀伊
0202名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/10/26(水) 22:07:26.30ID:2ehc4HCL0
「張作霖爆殺事件」謀略の直前集合写真【前編】15年戦争の契機となった歴史の真相
https://www.news-postseven.com/archives/20220812_1782480.html?DETAIL
「張作霖爆殺事件」謀略の直前集合写真【後編】15年戦争の契機となった歴史の真相
https://www.news-postseven.com/archives/20220812_1782481.html?DETAIL

https://www.ama▼zon.co.jp/gp/customer-reviews/R2ZTWZJK7RMBEX/
②(p192) この事件の真相を活字に組むことは永久に不可能であるが、一世を聳動した彼の皇姑屯の張作霖爆死事件なるもの
は、予の献策に基づいて河本大佐が画策し、在北京歩兵隊副官下永憲次大尉が列車編制の詳細を密電し、在奉独立守備隊
中隊長東宮鉄男大尉が電気点火器のキイをたたいたのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%88%B0%E4%B8%80
1928年、張作霖を除去すれば満州は革命の怒濤に巻き込まれ、それまで無関心であった日本国民も満州問題の重大性に気づく
だろうと河本大作に張作霖爆殺のアイデアを吹き込んだと述べているが、主張を裏づけるものは何もない[22]。
0203名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/11/30(水) 18:00:53.84ID:vGwJspSQ0
>>1
「満洲国」やで!(´・ω・`)
0204名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/12/15(木) 22:22:26.34ID:1x+dyjd40
月刊WiLL 2022年5月号
■渡辺惣樹×福井義高
真珠湾とウクライナの奇妙な符号
ttp://web-wac.co.jp/magazine/will/2022%e5%b9%b45%e6%9c%88%e5%8f%b7

【福井】
 まず戦争禁止に向けて実効性のある制度を構築しようとしたのが「ジュネーブ議定書」です。しかし、批准されることなく立ち消えと
なりました。それでも戦争廃絶を訴える世論の声は大きい。そこでその声に応える形で登場したのが「不戦条約」です。不戦条約後
に公刊されたケルゼン、アンチロッティ(独語版)、フェアドロスなど、欧州の国際協調派の指導的国際法学者が執筆した書物があり
ます(写真参照)。これらを読むと、武力攻撃に対する反撃という意味での自衛に限らず、国家は戦争という手段に訴えることができる
というのが、不戦条約成立後も、まだ通説的理解であったことがわかります。

【渡辺】 貴重な証言です。

【福井】 しかも、戦間期の米国国際法学界での議論をみても、不戦条約の法源性は否定されています。日本を代表する国際法学者
で京大教授だった田岡良一も、第二次大戦後に書かれた教科書で、条約の拘束力を否定しています。戦前日本の軍事外交政策の
良し悪しは論じるべきですが、違法だから悪いという議論はできないのです。
 実際に不戦条約は当初、なんら拘束力を持たず、世論向けの政治的パフォーマンスに過ぎないことは米国政府も承知のうえだった
のですが、満洲事変のとき、日本を責めるいい口実になったのです。
【渡辺】 東大の加藤陽子教授は「日本の満洲事変は不戦条約に違反したため罰せられた」という歴史観、要するに日本侵略史観に
縛られています。しかし、福井先生がおっしゃるように、不戦条約は実にいい加減なものだったのです。ところが、加藤教授をはじめ、
多くの歴史学者はその事実を取り上げません。

【福井】 第二次世界大戦後、戦勝国が東京裁判やニュルンベルク裁判で、捕虜の虐待など通常の戦争犯罪ではない国家の政策遂行
を戦争犯罪として断罪いようとした際、事後法による処罰ではないかと、戦勝国でも批判の声がありました。そこで利用さ れたのが、
侵略戦争を禁止したとされる不戦条約なのです。要するに加藤さんのような歴史学者は、当時の国際法理解を無視した東京裁判史観
から何も脱してしていないのです。

【渡辺】 もう一つ押さえておきたいのは、不戦条約が生れた背景には、英仏が米国を国際連盟の一員に引き込みたいという意思が強く
働いていたことが大きかった。米国は議会で共和党が欧州問題非干渉の原則(モンロードクトリン)を主張したため、 ヴェルサイユ条約
を批准できず、 連盟に参加できませんでした。そのため、オブザーバーとしての参加を続けていたのです。現実には米国の意向が強く
働く形にはしていましたが、国際紛争が起きたときに、連盟のメンバーとして参加できない。その一方、英仏は米国を事実上のメンバー
のように機能させようと、不戦条約を利用したのです。

【福井】 当時はフーパー政権でしたが、 日本に対して必ずしも強硬姿勢で一致していたわけではありません。連盟を舞台にした満洲
事変をめぐる交渉では、前副大統領で駐英大使のドーズが中心になって、日本の顔も立てながら、丸く収めようようと動いています。
米国政府内は対日対策においてまだら模様だったのです。

【渡辺】 ところが、フーバーはスティムソンを国務長官に据えていた。スティムソンは「善と悪が存在する(善悪二元論)」と考えている男
で、最初から日本嫌いの外交を展開しました。典型的な「長老派的」政治家でした。
【福井】 「スティムソンドクトリン (一九三二年年一月の声明)は、不戦条約に抵触する手段でもたらされた状況、条約あるいは協定は
一切認めないという、米国政府の不承認政策を押し出しています。

(続く)
0205名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/12/15(木) 22:24:25.36ID:1x+dyjd40
>>204 (続き)

【渡辺】 また、満洲事変の際、連盟はリットン調査団を派遣しましたが、その調査員に米国の日本嫌いのフランク・ロス・マッコイ将軍も
参加させたのです。マッコイは反日主義者であるだけでなく、白人至上主義者でした。スティムソンの忠実な部下でもあった。スティム
ソンを国務長官にしたことは、フーバーの失策であり、日本にとって不幸でした。
 ただ、スティムソンの反日的な外交方針に対して、フーバーは抑制的に振る舞うよう指導しています。リットン調査団の報告書を読むと、
満洲は名目上は中国の一部であるものの、事実上は中国本土から切り離された、日本の保護国と類似の地域であると認められていま
す。さらに、「ソ連の工作がしく、それに対抗するために満洲に進出した」と。つまり、日本をそれほど悪者視していません。…(中略)…
 スティムソンはFDR政権ともかかわっています。FDR政権の発足前、スティムソンはFDRの自宅に行き、「私の外交方針(スティムソン
ドクトリン)は維持してくれ」と訴えています。スティムソンの要求を呑んだFDRは、日米戦争直前の一九四〇年に彼を陸軍長官に登用し
ました。スティムソンは共和党員であるにもかかわらずです。

【福井】 FDRに関して言えば、政治家らしい政治家であり、当初から強烈な反日感情を抱いていたようにも思えません。FDR政権が
対日強硬外交を始めるのは、一九三七年ごろから。この頃、ニューディール政策の失敗が明らかになり、景気が再度悪化し始めます。
現在と違い、民主党には保守派議員も多かったため、与党といえども大統領と一枚岩とはいえず、FDRは政治的危機に立たされていま
した。そこで起死回生の策として対日独強硬外交にシフトしたと考えることもできます。

    …(中略)…

【福井】 ただし、日本にも問題がありました。九カ国条約で、日本は満洲における中国の主権を認めていました。ところが、満洲国を
独立国家として承認したことで、満洲に対する中国の主権を否認してしまった。それにより、国民政府の対日協力を困難にする一方、
日本と連携しようとする蒋介石を非難する絶好の口実を中国共産党に与えてしまったのです。満洲が日本の勢力圏内の一地域のまま
であれば、こういった波風が立たずに済んだわけです。
 その点、ソ連は老獪でした。帝政ロシア以来影響下にあった北(外)モンゴルには、一九二四年、モンゴル人民共和国が誕生します。
日本では欧米がソ連のモンゴル支配を容認しながら、日本の満洲支配を批判するのはダブルスタンダードだという主張がありましたが、
両者には大きな違いが二つありました。
 一つは住民のほとんどが中国本土からの移民とその子孫だった満洲と違い、モンゴルに住んでいたのは、ほとんどがモンゴル人で
あったこと。もう一つは、モンゴルが法的には独立国ではなく、ソ連が表向き中国の主権を認めていたことです。もちろんソ連はモンゴル
の中国からの完全分離を狙っていました。一九四五年、ヤルタ会談で、ソ連は対日参戦の見返りの一つとして、モンゴル人民共和国の
中国からの正式の独立、つまり、ソ連による完全衛星国化を英米首脳に認めさせたのです。その結果 一九四五年に締結された
中ソ友好同盟条約で、国民政府はモンゴルの独立を承認せざるを得ませんでした。日本もソ連と同じように、満洲での中国の
形式的主権を認めていれば、連盟からの脱退もなく、日本の行く末は大きく異なっていたでしょう。

【渡辺】 ただ、現実的には張作霖らクセ者の軍閥が実権を握っていました。

【福井】 米国は今も昔も、その独善的正義感から他国の国民感情を土足で踏みにじるような発言を平気で行います。だから、そういう
国だと割り切って、柳に風と受け流し、満洲における中国の主権を表向き承認し、連盟にとどまったまま、責任ある地城大国として振舞っ
ていればよかったのかもしれません。
0206名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/01/15(日) 18:44:07.34ID:4RsnThkl0
「満洲国建国」は正当である 米国人ジャーナリストが見た、歴史の真実 単行本 - 2016/7/22
ジョージ・ブロンソン・レー (著), 竹田 恒泰 (監修), 吉重 丈夫 (翻訳)
https://www.ama▼zon.co.jp/dp/4569830919
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0350824

日本人必読の超良書。
0209名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/03/27(月) 21:54:53.78ID:ZBj3W30X0
侵攻1年の大国関係=坂東賢治
https://mainichi.jp/articles/20230225/ddm/005/070/016000c
 ソ連のスターリン書記長は当初、南進への支持を求める北朝鮮の金日成首相の要請に応じなかったが、積極姿勢に転じた。
沈氏は条約と同時に締結された旅順港に関する協定との関連を指摘する。
 戦後、ソ連が支配していた旅順港の中国への返還が決まったが、戦争の場合は利用を継続できる条項が盛り込まれた。
貴重な不凍港。北朝鮮が勝てば朝鮮半島の港を利用できるし、戦争が継続すれば、旅順港をそのまま使えるという思惑が
あったという。
0210満州国政務院総理
垢版 |
2023/04/02(日) 22:36:24.09ID:+RUsrfRt0
満州国政務院総理
0212名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/24(水) 23:38:12.50ID:JKuiuANB0
【独占直撃】中国で生まれ北朝鮮のラジオで育ち文革を経て共産党員に…朝鮮半島の解説でおなじみ李相哲教授の知られざる凄絶半生①
https://www.ytv.co.jp/miyaneya/article/page_o1e13zltnz834yt9.html
―李教授のご出身はどちらですか?
(李教授)
「1959年、中国で生まれて、中国の大学を卒業。そのまま新聞社に5年間勤めた後、日本に来ました。詳しい出身地は、
中国のシベリアに近い、黒竜江省の北の方です。中ソ紛争が起きたときには、大砲の音も聞こえました。

―黒竜江省での幼少期の暮らしは、どのようなものでしたか?
(李教授)
「当時、テレビはありませんでした。北朝鮮のラジオ放送が、私が住んでいる町まで届いていたので、朝から晩まで12時間以上
ずっと北朝鮮のラジオを聞いていました。音楽、ニュース、連続ドラマやラジオドラマなどです。だから今でも、北朝鮮の古い歌や
金日成氏の言葉などは、頭にたくさん残っています。中国は当時、貧富の差はなく、社会主義なので平等な社会でした。
私が生まれた場所は、日本時代に開拓された肥沃な大地が広がっていて、稲を植えたら豊作というような地域でした。
だから食べ物がとても豊富。一時、中国でも飢え死にする住民がいましたが、私が生まれた地域では『おなかを空かせた』という
記憶はありません」
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